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2004.01.24

理系・文系

 お茶を濁す程度の呑気な話だが、朝日新聞社説「学力テスト――理数教育の底上げを」で、ほぉと思った。毎度の朝日新聞罵倒はしない。


 全国の高校3年生を対象にした学力テストの結果が文部科学省から公表された。
 おおむね予想通りの水準だった国語や英語に比べ、数学と理科の正答率は文科省が期待した成績をかなり下回った。しかも、基本的な知識や原理、法則が十分理解されていなかった。
 さらに数学では、できる生徒とできない生徒に分かれ、二極化がうかがえる。理科では平均点より低い生徒たちの層が最もふくらんでいた。かねて専門家が指摘してきたように、理数系の教育が深刻な状態なのは間違いない。

 ふーんという感じがする。高校三年生なのに「理科」なのかというのも変な感じだが、些細なことはどうでもよかろう。で、この問題は深刻なのか? 朝日はごにょごにょと作文を書いているが、端的な話、二極化というのは、受験の時の文系・理系を反映しているだけではないのか。
 私は共通一次試験前の最後の世代だが、高校のときは明確に文系・理系が分かれていた。私は小中学校と科学小僧だったのだが、高校のときなにを思ったか民族学を学びたいと思って、結果文系にした。一浪して数学ばかり一生懸命勉強したが、その後、ひょんなことになった。二十代半ばでやさぐれて流しのプログラマーをちとやっていた。8ビットCPUくらいの設計はできるぞと思うが、さすがに今は無理か。ま、自分のことなどどうでもいい。
 いつごろだったか、15年くらい前だったかな、知り合いの子の中学生の勉強をちと見ているうちに、あれ?と思った。一円玉は何グラムか知っているかと訊くと知らないという。磁石で吸い付くコインはどれか知っているかというと、そんなこと考えたこともないらしい(たぶん、今の若い子も知らないのではないか)。おいと思って、そこいら本だの花瓶だの持たせて、何グラムぐらいかと訊いたらまるでわからない。一リットルの牛乳パックは何グラムかと訊いたがまるでわからないと言う。おまえ、それで学校の勉強できているのか、というと、それほどひどくはないらしい。なんだ、この世界は!、と思った。この時ある種ショックを受けたので、その後の世代の子供たちの理解には役だった。最近、小学生に、一円玉は水に浮くかと訊いたら、関心なさそうだった。やってごらんと水のはいったコップに一円玉を入れさせる。沈む。終わり、といった顔をしている。おい、そーじゃねーんだよ。ほれと浮かせ見せる。関心ない。なんだ、おめーである。
 環境問題の裏にサヨがいて、恐怖のデマをまき散らすという世相も一段落したが、あの時も変な世界になったものだと思った。「買ってはいけない」がお笑い本で面白いと思ったが、けっこう世の中マジで受け取っていたのを知って驚いた。結局、日垣隆が笑いのめしたが、どうやら、理系のオヤジたちは、言っても無駄だしと思っていたようだ。ま、そうなんだけどね。
 朝日新聞はこう言うのだけど、違うだろう。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。
 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 学校でする勉強なんてどうでもいいんだよ、と思う。学校に行くのは友だちがいるからであり、50人教師がいたら一人くらい優秀なやつがいるかもしれないという博打だ。それより気になるのは、女の子に多いのだが、世の中すれっからしているというか、世の中割り切ってしまいすぎ。たしかに、大人の世の中なんてたいてい、金で割切れる。それに相貌だの知力だの普通の人間には欠落するからそれを金で補おうとするゲームが始まる。このゲームはアイテムさえ獲得できれば参加できるし、勝つかもしれない。それだけのことだ。
 なぜ、世界を感じようとしないのだろうと思う。世界を知ることは、他の誰かでもできる。世界を感じ取ることができるのは生きている間の「私」だけのことだ。自分が世界から感じ取ることが理科や社会、文学の基礎になる、と思う。
 学力なんか問題ではない。感覚が麻痺していることが問題なんじゃないかと思うが、そう言ったところでつまらない結論か、である。

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医師名義貸し、ま、そりゃね

 今朝の新聞各紙の主要な話題は医師名義貸しだったが、毎日と産経の社説を読んでいるうちにうんざりした。意外にも読売新聞社説「医師名義貸し 地方の医師不足の解消が基本だ」がまともだった。この問題については旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)に加えることはあまりない。問題は深刻だが、うわっつらの正義を振りまいてもどうしようもない。
 余談でお茶を濁す。
 最近ちと別件で日本の健康という漠たるお題で調べて驚いたのだが、前から知ってはいたことではあるがが、米国人の100歳以上の人口比は日本の3倍くらいになりそうだ。
 また、詳しい統計がわからなかったが、90歳以上の自立者の数も米国は群を抜いているようだ。
 ほぉと思った。昔親しんだガルブレイス、ドラッカー、トフラー、みんなまだ知の世界に生きているのである。70歳まで生きることができたらいいやと思っている私などからすると、すごい世界だ。
 米国の健康統計はあのごちゃごちゃした社会を伸してしまうので、めちゃくちゃな結論が出がちだ。が、ある程度の層にフィルタをかけると、なにかとえ?みたいな世界が出てくる。ぼんやりと米国を見ていると、デブ、アホ、マッチョしか見えないのだが、利口なヤツは馬鹿みたいに利口だし、文学も深い。
 とはいえ、飯もろくに食わない米国人が長生き・自立というのはどういうことなのだろう。生存競争の勝ち組というだけだろうか。医療の根幹で日本が学ぶ点は多いような気がする。
 100歳以上で思い出したが、長寿沖縄というは嘘、で男性の平均寿命は国内平均以下。女性は長寿であるが、このイメージは100歳以上の人口比に依存したものだ。香港なども統計上は長寿なので、近代化と温暖な気候は長寿に良いのではないか。
 米国ではカロリー制限で長寿みたいなブームも若干あるが、人間などもともと飢餓に適用する生物なのであまり食わなくてもいいのかもしれない。

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なぜ極東ブログはイラク分割案を取らないか

 現在のイラクを同認識するか、どうあるべきかという問題について、極東ブログ「イラクはシーア派主導の民主国家にはなりえないか」(参照)は、Doc-show-logの「イラク主権移譲メモ」(参照)へのトラックバックとして書いた。これに対して、再度Doc-show-logより「イラクの民主主義に関して」(参照)のトラックバックをいただいた。Doc-show-logのこの展開は非常に明晰であり、逆に失礼な言い方になってしまうのだが、ありがちなタメの議論にならなかったことを第一に感謝したい。
 Doc-show-log「イラクの民主主義に関して」の見解について、概ね異論はない。細部の認識の違いはあり、それは後段である程度言及したいが、その認識の違いが、大元の問題をどれだけ支持しえているのかということが、Doc-show-logと極東ブログの双方の課題であろし、これらのブログを関心を持って読まれている方の思索の資となればよいだろう。
 大元の問題は、イラクの今後のモデルであると思う。これに現状のイラクおよびそれを取り巻く世界情勢と歴史の問題が関連しているからだ。この問題について、やや粗雑だが、次のような命題になるだろう。

極東ブログ
国民投票を実施し、シーア派メインの体制を作れ
Doc-show-log
連邦制で各地域にイラクを分割し、バグダードは独立行政区にする

 極東ブログ説の補足の前に、両説の基本に米国への距離がある点に注意を促したい。加えて、おそらく、現実的には米国はDoc-show-logの案を取るのではないかと思われるという当方の認識も表明しておきたい。
 分割案の説得性はスンニ派とシーア派の対立の緩和や石油の問題というより、現状すでにクルド人たちは、事実上の独立を進めておりこの現状を含み込まざるをえないという点が重要だろう。
 その意味で、極東ブログの案のほうが遙かに暴論であると理解している。この点はDoc-show-logの認識が正しい。


共同の記事でもCIAが米軍撤退後の混乱を予測しているという報道がなされているが、国軍も官僚制も機能していない現段階のイラクで民主選挙を行なっても全くの形骸でしかない。

 では、極東ブログ説はここで引くのかというと、そうではない。悪い冗談を書くのかと苦笑されるだろうが、少し補足したい。
 危険な意見だが、シーア派を立てると極東ブログが言う背景にはクルドを内戦的に押さえ込め、そして、イラクとアメリカを疲弊させよ、という考えがある。
 この案を採れば、現状ではすまされないほど被害が出ることは間違いないが、国民国家を志向させるための苦しみであり、民族意識を低レベルの状態から国家維持に向けるためのプロセスとして歴史を見れば不思議ではない。問題は被害のレベルだ。それをある程度の悲惨さの地点で国連をダシにし、独仏を巻き込むかたちで国際圧力をかけるようにすればよいだろう。
 メリットは、まず、米国の有志連合構想をくじくのに都合がよいことだ。日本はおたおたしていても、事態はある程度進む。イラクはどうするかといえば、その後はイラク軍部の台頭を許せばいい。第二のサダムを作るのである。さすがにそう言うのは憚るものがあるが、問題はサダムの作り方だったのではないか。発端のブログでトルコモデルに言及したのは空論ではない。パキスタンの軟化を見ても、こうした国家を自立させるためには国家内に圧力をかけるための軍事的な統一が不可欠になる。
 田中宇ばりの空論というか悪いジョークに聞こえるかもしれないし、非難はあるだろう。
 以下、Doc-show-logからの指摘の個別の問題に簡単に触れておきたい。基本的に、これらの問題にはそれほど重要性はないと思われる。
 シスタニの非政教分離的発言について。大筋でDoc-show-logがシスタニを政教分離を支持しないと見るのは正しい。私も彼の本音は政教分離ではないと思う。しかし、国際政治のレベルでシスタニを押さえ込めばよいということと、現状のイランの軟化と同じように仕向けていくことは可能だろう。シスタニが国政に宗教を関与させないとのそぶりを見せているのはただのフェイクというより、イラクという国家に生きてきた人間の生活者の認識であると、肯定的に評価したい。
 イスラムの他宗教に対する姿勢。この問題の近代国家との関連について、Doc-show-logには極東ブログの「なぜフランスはスカーフを禁止するのか」(参照)を参照していただけたらと思う。次に、私はイスラムはその人口分布から多分にアジアの宗教であると考えている。マハティールを想起していただきたい。アジアの多数のイスラムは近代世界との大きな軋轢を好まない。むしろ、イスラム問題をアラブに偏らせているのはサウジなのである。Doc-show-logが「イスラミストの中では戦闘姿勢になっている」と見る認識は間違っているとは思わないが、この問題はイスラムのサウジ問題の派生だと極東ブログは考えている。サウジの問題とはアメリカの問題でもある。
 イラクのシーア派について。Doc-show-logの認識は正しい。極東ブログとしては、現状、また、しばらくの間、イラク・シーア派が吹きまくるイラクの民族主義がどうスンニ派やクルドを巻き込んでいくかのほうに関心を持つ。つまり、問題の前面はイラク・シーア派ではなく、幻想にすぎないのだがイラク国民という意識の展開であり、イラク・シーア派はその背後の問題になると考える。
 民主国家イラクの可能性について、以上の議論中に含まれているので、繰り返しの言及は避けたい。

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2004.01.23

氷砂糖など

 雑談である。健康だけが理由というわけでもない。うまくないな、という理由もある。たばこを止め、酒を止め、コーヒーまで止めた。たばこはもともと体にあっているわけでもないし、吸っていたのも二十代の終わりの二、三年程度。しかもパイプタバコかシガリロ。酒は止めて三年近くなる。酒を止めたときに2ケース残った年代ものワインも、ワインのわかりそうな人に譲って残りわずかになった。1980年代ものはもうない。シングルモルトも幾本があったが、これも味のわかりそうな人に譲った。どうせいつか死ぬのである。死ぬっていうのは、酒を飲まなくなることだ。
 コーヒーも昨年後半からほとんど止めた。飲むと僅かだが脈が変わるのだなと気が付いた。
 二十代の頃から中国茶はよく飲む。三十代になってからは、高い中国茶に金に糸目をつけず飲んでみた。高いといったって、それほどたいした額でもない。飲んで飽きた。六十年以前の茶も中国人茶商に譲ってもらって飲んだ。
 数年前から台湾烏龍茶や岩茶が日本でもブームだが香りがきつくて好きではない。中国茶で今飲むのは龍井くらい。作法だのは気にしない。ガラスコップに熱湯を注ぐという中国人式であるが、今の中国人はそんなことするだろうか。
 紅茶も飲む。以前はキャッスルトンだの昔から名の通った農園のものを飲んでいたが、最近はプッタボンやマカイバリのオーガニックのほうがうまいと思う。気取った国内の紅茶販売店が嫌いなのでネットで海外から取り寄せる。最近のダージリンは香りがいい。烏龍茶の香りは苦手だが、このダージーリンの香りはまだ飽きない。紅茶の作法など気にしないが、茶碗はけっこうなものを使う。
 朝は英国風のミルクティを飲む。アッサムのブレンドだ。日本人はなぜミルクティを飲まないのだろう。美味しいのに。セイロンティはあまり飲まないが、しいて言えばヌワラエリアが好きだ。トルコ紅茶も好きだが、あの茶器はめんどくさい。捨てた。
 お抹茶も飲む。利休の極意どおり、点てて飲むばかりだ。お薄だ。茶碗は朝鮮茶碗。楽は嫌い。当然、干菓子・和菓子を好む。幸い、近所に腕のいい職人の和菓子の店がある。この正月に別の店のはなびら餅ももらったので食ったが、不味かった。はなびら餅はゴボウの香りと味噌餡をうまく調和させなくてはいけない、と思う。
 普段のお茶は煎茶とほうじ茶だ。我ながら、ほうじ茶にもうるさい。外食の日本料理でいつもがっかりするのがほうじ茶だ。まともな日本食の店は高額すぎるのだろうか。余談だが、うるさい鮨屋がでーっ嫌ぇだ。ネタの目利きができて、仕込みがきちんとできる鮨屋が近所にある。ピカ一ではないが、これも幸いである。鰺のつらを見て食べ頃かきめるうるさいオヤジだが、客にうるさいやつじゃない。
 歳で味覚が変わる。特に甘みにうるさくなった。以前、仕事の関係から飯田橋の紀の善によく行ったものだ。今でも紀の善が好きだが、それでも甘味屋の甘みは苦手になった。きつすぎる。いわゆるコンビニのデザートはもう食えない。基本的に香料の入ったものが食えない。洋菓子なんか食わんでもよろし、と思っていたら、近所にかなり腕のいい洋菓子屋があった。フルーツを多用するので軽くてうまい。紅茶にも合う。
 とか言って、キャラメルコーンとかある種の駄菓子も好きだ。追憶的な心理をかき立てるからだろう。煎餅も好きだ。煎餅職人が一枚焼いたのがいい。
 飴が好きで佐久間式を選ぶ。が、これもちょっと苦手になってきた。口さみしさに、昨年あたりから氷砂糖を舐めるようになった。まるで爺だなと自分を思うが、甘さにトゲがないので助かる。自前で八宝茶を作るので、それに入れるように買っておいたものだった。
 甘みにうるさくなってから、どうも気になることがある。缶入りの飲み物はほとんど飲まないし、ジュースもホテルウェルチが好きという我ながら憂鬱になるのだが、たまに缶入りの飲料を飲むと、甘みが変だと思う。異性化糖のせいだろうか。
 日本の消費者運動は砂糖を目の敵にしてきたが、なぜだろうか。異性化糖を叩くべきではないのか。と言って異性化糖には害はない。が、本当にそうかなと思う。長期にこんな甘味ばかり摂取していいわけがないだろうと思う。
 日本人の甘味の感覚はどうなるのかと思っていたら、最近はとんでもねぇ甘味料が増えてきた。あえて書かない。健康がどうこういう問題ではない。不味い。
 あ、キシリトールは好きだな。というわけで、一貫性はない。雑談終わり。

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国立劇場おきなわ、で、トホホ

 朝日新聞社説「南の劇場――チャンプルーの新風を」をよんでトホホとかつぶやいてしまった。知らない人もいるかもしれないで冒頭を引用する。


 沖縄県浦添市に政府の沖縄振興策としてつくられた「国立劇場おきなわ」で、きょうから開場記念公演が始まる。
 国立の劇場はこれまで東京と大阪にしかなかった。琉球王国以来の芸能を伝える劇場を。そんな地元の誘致が実現した。

 そりゃよかったと言いたい。トホホなんて言いたくない。というわけで、あまり詳細に触れる気はない。でっかい箱ができて終わりにしないでくれとも思うが、沖縄県民に関係ないこの箱を沖縄県民が利用できるような宴会場にしたほうがいいと思う。
 朝日新聞社は沖縄の地元新聞社沖縄タイムスと記者交換をやっている。交換された記者たちはそれぞれよく相手を理解しているから、朝日新聞は沖縄の現状をよく知っている。沖縄タイムスのほうも本土のサヨっていうかよく知るようになる。筑紫哲也も復帰時のそういう青年であった。娘の名、ゆうな、も洒落ではない。沖縄は記者によっては深い経験を残す。
 この社説も裏もよく理解して書いてある。トホホなんて言うべきじゃないなと思うが、トホホと口をつく。

 こけら落としを前に「国立劇場にふさわしい出し物にできるのか」といった不安の声も聞かれた。組踊の役者たちは長く生計を立てることに追われ、発声や演技を十分磨いてきたとは言い難いからだ。

 そーゆーことなのだが、が、沖縄のものすごい結婚式に参加した経験者なら、吉例余興で沖縄人の尻もジークル(自黒)とも限らないなと知るともに、演芸が消えることもないことを知っている。二十代半ばの女性だって、「あんたももうおばんさんなんだらカジャデフー(かぎやで風)練習しなさい」である。組踊りとは違うが、組踊りに派生するものもが消えることはないだろう。そして、戦後の状況を見れば、沖縄の芸能を民衆が支えていたのである。国立劇場もいいのかもしれないが、玉城村にある「うどい」を支援したほうがいい。ご関心があれば琉球新報ニュース 公演5000回達成/玉城村の琉球舞踊館「うどい」を参照して欲しい。近くにチャーリーという戦後沖縄料理の代表のレストランもある。
 些細なことだが、朝日新聞もわかっていて言うのだろうがこれは、ちといただけない

 沖縄にはチャンプルーという名物料理がある。外来のものを地元の食材と混ぜて調理し、独特の風味を生み出す。新しい劇場もそんな精神で沖縄の外にも目を向け、知恵や活力を取り込んで幅を広げたい。

 うちなーんちゅうもそう考えている人が多いが、ちゃんぷるーは、島豆腐を必ず使うのである。アジクーター味と泡盛も欠かせない。残念ながら沖縄で普通の島豆腐を探すことは簡単ではない。アジクーター味はMSGとポークになっている。これもトホホである。
 トホホついでの余談だが、古賀潤一郎は高卒で確定した。週刊文春に調査の原コピーがあるが学位がないと記載されていた。B.A.が問題だったようだ。それにしても、他の米大学も学歴が嘘らしい。胡麻臭いやっちゃなと思うが、この男、私より1つ歳下。ある意味似たような境遇で似たような時代を生きてきたのだろうなと思う。私はきちんとB.A.はあるが、人生の面では敗残者である。我ながら胡麻臭い人生でもある。日々之トホホである。が、古賀潤一郎みたいに生きてこなくて良かったなとは思う。人生のなかに嘘を組み込んで生きるほど自分は強くない。アメリカの大学の卒業式は、映画などで見るように、あのヘンテコなガウンと大隈重信のような帽子をかぶる。あの帽子に変なちっこいハタキみたいなぶら下がっているが、あれは実は伊達でも洒落でもない。それを知った経験は忘れられないものだ。学資を出してくれた親の恩でもあるし、教師への恩でもあるし、自分の青春でもある。忘れることはない。
 古賀潤一郎さん、今からでも欠落した単位を取れ。Undergraduateなら再入学は難しくはないよ。

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それってリフレと違うのか

 日経新聞社説「『先手打つ日銀』演出した金融緩和」が奇妙だった。日銀の金融緩和の説明として間違っているわけでもない。ただ、それって、リフレとどう違うのかというのと、日経さん、おまえさんはどういうスタンスなのかね、ということだ。非難しているのではなく、日経ってなんなのだろうと単純に疑問に思うのである。
 話題はこういうことだ。


 日銀が予想外の金融緩和に踏みきった。金融調整の操作目標である日銀当座預金残高をこれまでの「27兆―32兆円」から「30兆―35兆円」に引き上げる内容だ。また、買いオペの効果を高めるなどの狙いから、資産担保証券の買い入れ基準を緩和することも決めた。
 景気回復が鮮明になる中での金融緩和は異例なことだ。日銀は、企業の過剰債務などの構造問題を背景に景気回復テンポが緩やかにとどまる公算が大きいことや、円高傾向が続く為替相場などを勘案すれば、もう一段の後押しが必要と判断したようだ。先手を打つ措置により、日銀がデフレ脱却に本気であることを印象づけようとしたものともいえる。

 予想外なのか? G7前でスケジュール通りとしか思えないのだが。それと、「景気回復が鮮明になる中での金融緩和は異例ことだ」はジョーク?
 自分がこういう問題に疎いこともあるのだが、これってリフレ? 部分的にはそうだろうとは思う。ただ、リフレとは言えないのだろうという裏がよくわからない。
 さらに、よくわかんないなと思うのは、日銀が先手を打つと日経は言っておきながら、本音の評価は以下だろう。

 今回の日銀の緩和措置がもたらす直接的な効果は限定的だろう。企業が引き続き借金返済を優先する姿勢を続ける中で、銀行貸し出しの伸びが回復するメドは立っていないからだ。

 効果は薄いよということだ。当然、銀行貸し出しが鈍って結局フローにならない、のだろう。
 率直なところ、今回の日経さんを驚かした金融緩和はそれほど問題ではないのだが、なぜこんな記事が出るのだろう。そして、どうも日銀を巡る動きがわかりづらい。
 話が別件かもしれないが、今週の日本語版ニューズウィーク「ドル安容認は恐慌の序曲」にこの数ヶ月間、日銀は米国債の購入を控えて通常ドル預金を増やしているという話がある。米国債暴落のリスクをかけているのだろうと見ればわかりやすいが、え?という感じは拭えない。
 よくわかんなでこんな話書くなよと言われそうだが、日経の話でわかった、ってことになるのか。まして、他紙はなんでこの問題に触れないのだろう。
 いや、触れている。毎日新聞社説「追加金融緩和 中央銀行の愚直さ取り戻せ」だ。こっちは、わかりやすい。というか、この数ヶ月間毎日新聞の経済関連の社説には明確なトーンがあることがわかったからだ(ようやくね)。つまり、反リフレである。

 もはや、量的緩和の拡大は市場にとってほとんど意味がないということだ。「着実に回復している」以上、景気下振れへの突っかい棒である金融緩和からの出口を探るべきである。
 ゼロ金利政策や、必要な資金はいくらでも供給するという量的緩和政策は、あくまでも緊急避難措置であった。実体経済をみると、成長率は実質で2%程度、名目でもプラスに転じている。これは経済の正常化以外の何物でもない。それにもかかわらず、追加緩和の道を歩むとすれば、国債の円滑な消化のため、低金利政策に手を貸しているなど、あらぬうわさを呼びかねない。

 「経済の正常化以外の何物でもない」ということろで、ぶふっと噴飯しまうのだが、失礼、ようは量的緩和策を是が非でも否定したいのだ。ただ、毎日のこのヒール役もそう悪くない。先のニューズウィークの指摘とも関連する。

日銀はすでに、外国為替資金特別会計が保有する米国債を売り戻し条件付きで買い取っている。介入資金を提供しているのだ。当座預金残高の目標引き上げも、介入資金調達のため発行する外国為替証券消化を円滑に進める助けになる。しかも、それを早手回しに行う。中央銀行の独立性はどこに行ったのだろうか。

 これは率直にふーんと思う。ただ、ここはリフレ派の正念場なんだろうなと思う。と、いうわけで、極東ブログはこの問題にぶれる。どうしても、これって経済の問題ではなく、政治の問題のような気がするからだ。

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イラクはシーア派主導の民主国家にはなりえないか

 極東ブログ「イラクがシーア派になるのはしかたないこと」(参照)に対して、ブログDoc-show-logより「イラク主権移譲メモ」(参照)のトラックバックをいただいた。意見に関心を持って頂いた点に感謝したい。トラックバックの趣旨は、私が、イラクはシーア派主導の民主国家を志向すべきだろうという意見に反対の意見を述べられていることだ。
 Doc-show-logの認識のセンスはよく、非難は感じない。議論の是非は各人が考えればいいだろう。ただ、今回は本格的なトラックバックによる意見交換が可能なので、私も応答したい。
 結論から言うのだが、極東ブログの意見に強みがあるわけでもなく、Doc-show-logに解決を志向した見解が提示されているわけではない、と見る。Doc-show-logの思索の戦略について言えば、極東ブログもそうだが歴史志向ではあるものの、あまりに迂回過ぎるだろう。
 まず重要なことだがDoc-show-logからは意見評価に関わるファクツの提示があった。それは、BBCのニュースからシーア派指導者シスタニの発言を引いて、彼は本音では政教分離主義者ではないというのである。


"There is no guarantee that such a convention will draft a constitution upholding the Iraqi people's interests and expressing their national identity, founded on Islam and lofty social values."
発言の主はアヤトラ・アリー・シスターニー。世界で5人しかいない十二イマーム派最高位のアーヤトッラー・オズマーである。
普段、アヤトラ・シスターニーは政教分離主義者といわれているが、本音が上の発言で暴露されている。

 非難するわけではないし、極東ブログも粗雑な議論を展開することが多いことは承知だが、当の問題の評価を与えるファクツの提示としては、これでは粗雑過ぎる。
理由はこうだ。

  1. このBBC発言は政教分離の否定を述べたものではない。いわば、イスラム指導者のクリシェに過ぎない。
  2. このBBC発言はオフィシャルな発言ではない。
  3. 極東ブログはシスタニが政教分離主義者であるとは述べているわけではない。

 諸点について補足するまでもないことだが、3については若干補足が必要かもしれない。というのは、Doc-show-logの指摘は極東ブログの以下の言及中の「悪玉視されているシーア派シスタニ」に折り込み済みでだからである。

幸い、悪玉視されているシーア派シスタニは、イラン革命のホメイニとは違い、政治に聖職者が関わるべきではないと認識している。

 米国的な民主化の点からは「悪玉視されているシーア派シスタニ」をうまく使いこなせということがポイントだ。また、基本的には歴史主義的な視点に立つ極東ブログから言えば、Doc-show-logが「30万人以上いるキリスト教徒や、世俗主義者をものの見事に抹殺している」とイスラムを見るのは歴史認識からも正確ではない。イスラム政治は本質的に宗教に寛容な性質を持っている。というのは、歴史的にイスラムとは経済支配の機能が優先されるからだ。広義の交易システムかもしれないと思う(実は中国の皇帝性も同じ)。諸宗教が経済秩序をおびやさかさない限り、イスラムでは異教徒は税の問題に還元される。このことは広義に現代のサウジですらあてはまる。
 迂回はこのくらにしよう。ではどう考えたらいいのかという結論を再考したい。結論は、極東ブログの先の認識に変更が必要なのか?という点だ。現状ではノーである。
 最大の理由は、日本のような自由主義国家はイラクにプラクティカルな民主政治を期待するしかないという前提から、現状のイランの軟化のようにシーア派国家を国際世界に組み入れていくべきだからだ。ただ、トルコを志向すればいいかということについては、Doc-show-logの認識のほう冷酷で、その分、正しいだろう(ただしクルド認識は甘いかなとは思う)。
 さて、私からのDoc-show-logへの関心は、破邪ではなく正見である。どうすればいいのか。
 私が読む限り、Doc-show-logは、アメリカが提案していた連邦制を是としているように見える。あるいは、油田の権益を確保しつつ国家を分断させろということなのか。
 後者であれば、イラクのシーアを国際ルールに引きずり込むという点で、大筋で極東ブログの認識に立つのだと思われる。
 前者、つまり、アメリカの旧シナリオを是とするのだろうか。だとすると、ニューズウィーク編集長ザカリア(日本版1.28「視点 超大国アメリカが頭を下げるとき」)より滑稽な現状認識ではないだろうか。
 タメの批判がしたいわけではない。当方もこの問題の筋が見づらいと感じるのは率直なところだ。国連委譲を計るべきか、国家分断か、あるいはシーア派を立てるかというチョイスから、極東ブログは3点目を選んだのであるが、これが優れたソリューションではないことは明白なので、その欠点だけ展開されてもなという思いはある。

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2004.01.22

良い正月である

 正月である。中国では春節の祝い。韓国も旧暦で正月を祝う。ふと気が付いたのだが、正月に韓国ではトックという餅に似たものを雑煮のように食べるのだが、これってまさに雑煮なのではないか。まさか日本の風習?とも思うが出だしからこの話題ではつらいのでパス。
 沖縄も地域によっては旧正月を祝う。ヰーショーガチデービル! 沖縄テレビは今日午後二時から正月吉例東西民謡歌合戦の再放送を流す。古い町並みを歩けば民謡がやけに聞こえる日である。
 「沖縄も地域によっては」といったものの、その地域は主に漁撈民(海人)の地域だ。今日を正月休日とするせいか糸満が例によく挙げられるし、港の大漁旗は確かに絵になる、が、糸満市自体は西崎を中心に新興住宅地になっているので、糸満とひと言でくくれるわけでもない。むしろ、玉城村の奥武島のほうが面白い。短い橋一本の先に実は沖縄から独立した島があるのだ(半分冗談)。
 沖縄の正月行事はいろいろ言われているが、総領家(嫡子の家、とーとーめーのある家)でないとあまり見られない。が、今、そんな家はどのくらいあるのだろうか。100軒に1軒くらいじゃないか、と、うちなーんちゅ訊いてみると、いや10軒に1軒はある、と答える。話にならん(ちなみにこの話はジョークである)。
 若水の風習は表だって見られない。が、この話は民俗学的に収録されているので、ネットなどにも散見する。困ったことだな、ともちと思う。沖縄のこうした風習は、つい、日本民俗学のバイアスがかかるのだ。そして、文章化されたものが伝聞ゲームで広まる。オリジナルな情報は少ない。と、愚痴るのだが、うちなーんちゅですら、その伝言ゲーム的情報を沖縄の伝統だと思いこむ例は少なくない。ま、いいか。なんくるないさ
 総領家に限らない正月の風習としては、キッチンに潜んでいる火ヌ神(ひぬかん)へのお供えがある。あれは、香港などで見られる「火土君」である。「ひぬかん」の語源は「火土君」かなとも思うが、香港あたりのお札の表記では火土が一文字なので違うだろう。いずれにせよ、起源は同じでも沖縄のは香港のほど派手ではない。かまど神ということでは本土にもあるが、この話には今日は立ち入らない。
 沖縄の線香と礼拝も香港とほぼ同じだが、「恭禧發財」とは言わない。那覇あたりでは、「ウワカク ナミソーチ」と言うらしい。が、那覇近在で正月を何度も過ごしたが、聞いたことはない。南部のうちなーんちゅに聞いてみる。「ウワカク ナミソーチ」って言うのか? 答え「知らん」。話にならん。意味は「若くなりましたね」と言うのである。年取りなのだから、「老」を祝っているのだろうが不思議だ。この風習は鹿児島あたりでもあるらしい。いみくじわからん
 沖縄の旧正月が表面上撲滅したのは、新正運動の成果である。と、書いてものの、「新正運動」でよかったのか。ネットを検索したら極東ブログしかヒットしない。やべぇ。もちろん、正確に言えば、「新正月一本化運動」である。これを略して「新正運動」だと記憶しているが、どうだろう。
 それにしても、旧正月を撲滅すべく「新正月一本化運動」ってなことが沖縄で行われていたのである。呆れたものだが、こうした問題を歴史学なり社会学で扱った例を知らない。あるのだろうか。小熊英二は知らないんじゃないか。
 「新正月一本化運動」を推進したのは、新生活運動推進協議会である。これは、広義に「新生活運動」と呼ばれている。1947年片山哲の内閣が推進したものだ。新生活運動として「新日本建設国民運動要領」とやらを作り、県単位に新生活運動推進協議会を作った。もしかすると歴史に疎い世代も増えてきたようなので老婆心ながら補足すると、片山内閣は社会党の内閣である。おタカさんだの福島瑞穂だののご先輩である。戦後社会党政権が日本の伝統である旧正月の撲滅に邁進したのである。社会主義政策だね。
 1951年から52年にかけて、主婦連、総評、全国地婦連(「ちふれ」である)も参加。新生活推進主婦大会なども活発に開かれた。おいおいである。こいつら戦後も千人針みてーなことをやっていたのである。で、本土の場合は、旧正月撲滅というより、お盆の撲滅にかかった。みなさん、変だとは思わないか、日本のお盆。休日が工場労働シフトになっているのはこのウラがあるのだ。歴史とはこういうことを知るために学べである。
 ちなみに、この覆面社会主義運動のその後はどうなったのか、実はまだ二階に暮らしているのである、みたいなオチになる。1974年第1次石油危機が一息つくや、(財)新生活運動協会は生息地を省エネに定めて、「資源を大切にする運動関係団体推進会議」から「資源とエネルギーを大切にする国民運動中央連絡会議」へと進化! 地方組織は「省資源・省エネルギー国民運動地方推進会議」とした。そして、1982年、(財)新生活運動協会は「(財)あしたの日本を創る協会」に名称を変更し、何をするかというと、環境問題に取り組むようになったのである。ポケモン進化!のようではあるが、サヨ丸出しである。が、よくわかんないが、地方によっては、いまだに新生活運動協会が存在しているようだ。なんだそれ?である。
 話を沖縄の旧正に戻す。沖縄でも、本土に遅れること5年、1956年、米軍下の琉球政府に新生活運動推進協議会ができて、新正月一本化運動のエンジンになった。に、してもだ、1956年、私が生まれる前年、沖縄はまだ日本に復帰していなかった。ちなみに、奄美は1953年12月25日米軍の本土へのクリスマスプレゼントとしてか日本に復帰を果たしていた。この時の話は干刈あがたのエッセイが興味深い。1956年といえば沖縄には焦りもあったのだろうし、新正運動もそうした文脈にあったのだろう、と言って間違いでもないのだが、実際のうちなーんちゅうの女性にしてみれば、ショーガチが二度ある、はぁ、デージナンギやっさである。ギョージはすべてオードブル5000円で終わりにしたいものである、と書いても本土人には通じないかもしれないが、解説は省略する。
 旧正月の話はこれでおしまいとしたいのが、も一つ余談。こうしてみると、沖縄は旧正月を大切にしてアジアっぽくていいじゃんと思う馬鹿者もいるかもしれない。違うぞ。2001年、中国と沖縄で旧暦が一日ずれたことがある。同じ旧暦といっても、暦の基準となる地点が違うので旧暦でも時差が起きるのだ。え?その基準ってどこ?と思って調べてみたことがある。たしか、中国は西安だった。つまり、長安である。燕の都にして北方の駐屯地北京ではなかった。ほほぉである。旧暦の季節感覚は確かに長安であるなと思う。で、日本は?というと標準時を流用しているので源氏物語ゆかりというわけではないのだが、明石なのである。ほいじゃ、バンクーバーの春節はどうなるべぇと思って調べたら、長安基準の暦を使っていた。というわけで、実は、沖縄の旧正月も極めて近代日本的なのである。

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もちろんブッシュの一般教書演説はつまらない

 今朝は久しぶりに新聞各紙社説横並び。こぞってブッシュの一般教書演説を扱っていた。不思議でもないが、あんなスカ話をネタに何を書くのか。スカにはスカ。さあ、踊ろうぜ。
 各紙をザップするに、各紙ともにスカ。マジこいて言うと、社説執筆者の皆さん、テロとの戦いという意味がわかってないんじゃないか。なんかねぇ、国連、つまり仏独だね、それにロシアと中国を入れたら、万全の体制だぁ、と思ってないか。その体制があればテロと戦えると思っていないか。そりゃ、阿呆だよ。テロとの戦いというのは、本当に戦いなのだ。バトルなのだ。ピカチュー10万ボルトだ!、じゃない、のだ。
 戦うためには兵力が必要だし、兵力の構成が問題なのだ。昔話で記憶違いかもしれないが、カトリックの教皇についてスターリンが意見を求められたとき、彼は「そいつは何個師団に相当するのか?」と答えたという。これがセンスっていうものだ(ジョークでもあるが)。
 回りくどい言い方をしたが、米国は本気でテロとの戦いを始め、それ向きに軍を組織している。その認識とあり方がいいのかは議論の対象になるが、まず、現実として、米国はどのようにテロと戦っているかということを認識してから、教書も考えなくてはいけない。ブッシュの一般教書演説なんてつまらないと言えばつまらないが、彼はこの軍の最高指令者なのである。
 テロとの戦いというと日本ではアフガンやイラクといった面にばかり目を向けるが、それはある意味現象というか、変遷しつつある機能の顕現の部分であって、根にある軍の状態のほうが問題なのだ。今日は有志連合には触れない。
 テロとの戦いという目的の軍について、一つには州兵の投入といった問題がある(州兵を投入すべきではない)。が、その州兵と同じレベルで、米国の都合で韓国人が投入されることに注目しなくてはいけない。3000人の派兵要請で妥協したが、米軍の本音は1万人以上の韓国人をイラクに投入することだった。その意味を日本人も自覚せーよである。
 もう一つは、すでに韓国軍が米軍化のツールになってしまったことからわかるように、韓国自体が米軍のハブにされてしまった。今回のソウル基地の撤退により、38度線はすべて韓国軍になるが、それだけ見れば、自国のことは自国で、でもあるし、北朝鮮の暴発は限定的になるとも見ていい。だが、問題は、前線ではない。米軍の関心はすでに前線に向いていないのに駐留しているという点が問題なのだ。この機に韓国が巨大な沖縄化したということだ。もちろん、本家沖縄もだ。沖縄の場合、台湾問題関連で前方展開のニュアンスもあるが、テロとの戦いは本質的に前方展開のフォーメーションを必要としない。ハブとロジスティックスの問題だ。くどいが韓国という国と、沖縄という日本の人身御供が、テロとの戦いのためのフォーメーションに組み入れられた。
 もちろん、一般教書演説ではこうしたことは触れない。だが、こうした現実の様相に絡めて議論しなくてはいけない。新聞各紙の社説がスカだなと思うのは、そういうことだ。
 とはいえ、読み物としては、日経の「再び勝利宣言した米大統領」が面白かった。


「イラク解放戦争を支持しなかった議員もいる」と述べた時、CNNの映像は民主党のケネディ上院議員がわずかに首を横に振るのをとらえた。「サダム・フセイン体制のない世界は安全になった」と続け、ヒラリー・クリントン上院議員が立ち上がって拍手する映像が流れた。
 イラク支援に兵力を派遣している諸国のうち17カ国の国名に具体的に言及し、日本の名は英国、豪州に次いで3番目にあげた。自衛隊のイラク派遣に対するブッシュ政権の謝辞だったのだろう。

 皮肉が効いている。日本への謝辞は派兵というフラッグのシンボリックな意味もだが、日経なのだから、謝辞の対象は経常赤字を日本が吸い取ることなのだろう、くらいの皮肉を効かせて欲しい。財務省の代弁してんじゃねーよである。

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2004.01.21

イラクがシーア派になるのはしかたないこと

 自慢するわけでもないし、自慢にもならないのだが、極東ブログのイラク問題を扱う際の基本は、当初から一貫してスンニ派とシーア派の軋轢である。これにクルド人の勢力が加わるが、日本のメディアが言うようなトルコを含めたクルド人という風呂敷は広げない。多くの人は長い亡命史を持つことになったクルド人の情報に傾きすぎて実態を勘違いしていると思う。
 もともとイラクという多民族他宗教国家を維持するというのは無理があった。辛うじて近代的な強権で抑えられていたのだから、それが無くなれば崩壊するのが自然だ。日本のメディアは「イラクの国民」とかいうけど、そういう抽象は不可能ではない(例えば亡命者の視点)が、実体はない。むしろイイ戦争をしていたらから、シーア派がくっつかない、というか、くっつけなくなったというかいずれ分離しているのが、幸い?といえば幸いだ。
 そういう極東ブログにしてみれば、今朝の朝日新聞「イラク再建――米国は譲歩をいとうな」は苦笑というか、ホント、苦い感じがする。罵倒してお笑いで終わりにもいかない。前提がとち狂い過ぎているのだ。冒頭がこう。


イラクの復興支援を掲げた陸上自衛隊の派遣が始まった。そのイラクを再建し、復興を本格化させるための根幹は、イラク人自身による安定した統治体制をいかに早く作り上げることができるかである。

 その「イラク人自身」がフィクションなのだ。むしろ、所詮政治と割り切ったほうがいい。政治なんだから。だ、から、これを反米サヨクの歌で朝日がこうつなげるのは、全然違う。

 ところが、現地の政情はいま大揺れだ。ブッシュ米大統領は6月に暫定政府を樹立し、主権をイラク側に移譲する日程を描いている。そうして占領を終わらせ、秋の大統領選挙を有利に運ぼうという狙いだ。

 全然違う文脈で朝日は反米の歌を歌っている。社説ではいろいろ米国をくさすのだが、実は、社説執筆者、なーんにも考えていない。

 主権移譲に向けた米国の軸足の揺れを見て、北部のクルド人勢力が分離独立に傾き、かつてフセイン政権を支えたスンニ派勢力は、他の勢力の台頭を阻もうと無差別テロに走る。そんな悪夢が現実となっては、復興どころではない。

 そういうからには、米軍を強化せよなのかというと、そういうまともな発想ができない。

米国が描いた主権移譲の手法や日程に拘泥していても、安定的なイラクの再建は難しい。各宗派や民族にとって、国の統一を維持することの利益もあるはずだ。コソボやアフガニスタンのように、国づくりの主体をイラク人と国連に移し、新たな統治を立ち上げる。それを米国が助ける。ブッシュ政権にそうした転換を望みたい。

 間抜けここに極まる。主体となるイラク人がだね、それが分裂してそれぞれおれっちが主体、と争っているのだよ。これに国連を加えるということは、国連がイラク人に向けてマシンガンを構えて秩序付けるということになるのだよ。で、マシンガンを向けられたら、イラク人だってマシンガンを向け返す。そして、結局それを助けるっていうことは、ガンの引き金を握らせのは米国っていうこと、ではないか。阿呆臭。ついでに言うとこの文章だと、朝日新聞、コソボのことも全然わかってない。
 イラクを国民国家に志向させるなら、シーア派が前面に出るのはしかたがないことだ。当然、スンニ派はしょっぱい目にあう。しかたがないから、それを内乱に向けないような懐柔策の具体策を取るべきだ。幸い、悪玉視されているシーア派シスタニは、イラン革命のホメイニとは違い、政治に聖職者が関わるべきではないと認識している。イランの近代化と併せて、この部分から合理的な民主化を促進させ、トルコをモデルとしたような体制を作っていくしかないだろうと思う。でなければ、国家分断しかないのだから。

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市町村議員を減らすだけでは危険なことになる

 産経新聞の尻馬に乗るみたいで痔が痛むのだが(嘘)、社説「地方議会 合併特例の肥大化許すな」はよかった。これは誰かきちんと言わなくていけないと思う。問題は、こうだ。


「平成の大合併」が進む中で、合併する市町村の全議員が合併後もそのまま議員として残ることのできる合併特例法の特典で、各地にマンモス議会が誕生している。報酬も高いところに合わせるケースが多く、合併の焼け太りともいえる肥大議会が、財政圧迫の新たな要因となっている。議員の定数や報酬は、各自治体ごとに条例で定めるのが決まりで、特例法への安易な「右へならえ」は許されることではない。

 都市民には関心ないけど、これって、もう喜劇じゃなくて悲劇。なんて言ってないでなんとかしなくてはいけいない。だが、産経がこの後続けるように、議員に任せず住民がなんとかせい、ではダメなのだ。全然地域のことがわかっていない。
 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。
 もっともだからといって、こんな阿呆な状況を温存させておくわけにもいかない。なんとか代替的なNPOでもぶったてて名誉職を組織化したほうがいい。そして、はっきりいうけど、金はある程度ばらまく必要がある。餅を買うのだ、餅を。
 これに関連して、非常にやっかないなのが、地域社会に介在してくる市民団体だ。端的に言えば覆面サヨクか創価学会なのである。特にサヨクは、貧乏に耐えるから組織経験ありすぎ。
 関連して毎日新聞社説「公共事業改革 住民参加で意識転換図れ」で標題どおり、住民参加、よーし!とかヌカしているが、これもそう単純な話ではない。まず、地方行政の規模が問題になる。ある程度規模があれば、中産階級の沈黙の市民が圧力となってそう阿呆な事態にはなりづらいが、規模が小さければ、馬鹿丸出し暴走するは必死。
 結論は先に述べたとおり、代替の権威のシステムということだが、ついでに言うと、都市民のこの、地方への鈍感さはなんだろうと思う。もちろん、メディアの問題も大きい。大手新聞なんて基本的に都市部のものだし、日本の地域には宅配もされないのだ! もっとも宅配されればいいっていうものでもないが、すくなくとも市民社会構成のための情報伝達としてのメディアは事実上存在していない(NHKがあるか)。あるのは、大衆文化だけであり、大衆文化は、なんだかんだ言ってもこれも都市集中なのである。

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朝日新聞だって「改革と展望」を論じたーい

 今朝の朝日新聞社説「改革と展望――気を引き締めるときだ」を見て、あれ?っという感じがした。「構造改革と経済財政の中期展望」について、おまえさんも、今さらなんか言いたいわけ? ほぉ、である。じゃ、読んでやろうじゃないか、と読んで、野狐禅師玄侑宗久のごとく魔境とも知らず無の境地に入る。はっ! 朝日新聞、無内容でかつ馬鹿丸出しではないか。


 もちろん、金融に不安を抱えたまま金利を引き上げることはできない。構造改革や財政再建に前向きの推進力を生むためにも、一刻も早いデフレ脱却が必要だ。
 そのためには、金融緩和を続けながら、金融不安の火種を消すことが大事だ。来年4月にはペイオフの全面解禁が予定されている。不良債権処理のペースを早め、問題視されている地域金融機関の経営の健全化を急がなければならない。
 それだけではない。規制緩和を進めたり、「官」の分野を思い切って「民」に開放したりして民間の需要を盛り上げる。年金制度を持続可能なものにする抜本改革を行い、将来が見通せない今の状態を改善することもデフレ対策になるだろう。

 これって、朝日新聞的社説(自動生成) (参照)を使ったのでしょうね。手抜きはダメですよ、である。それにしてもどのくらい低脳にならないと「金融緩和を続けながら、金融不安の火種を消すことが大事だ」なんて言えるのか。
 かく罵倒しまくるのであるが、極東ブログのこの問題の見識も、目くそ鼻くそである。我ながら、恥ずかしいのだが、少しずつ要諦がわかってきた、ぞ、っと。
 と、この「わかってきたがくせもの」というか田中宇への一段階臭いのだが、現状、迂回的に米債購入するために円高にがんがん介入して、米国貢ぐ君の日本なのだ。が、ここまでくると属国というよりパートナーだなと誇りも感じられる(冗談です)。そして迂回期間の間に、円がじゃぶつくという副作用のメリットもあるだろう。その間、只管打坐して輸出あるべしである。それって、全然、産業の構造改革になってないじゃん、と言うなかれである。結局、これって、リフレ?
 なんだかお笑いを書いているようだが、かくして極東ブログもエコノミストの仲間入りである。いや、冗談。それにしても、新聞各紙社説のこのレベルの低さは、内部の縦割りによるのだろうか。もう、2月のG7のお笑いが待ち遠しいくらいだ。
 話がずこっけるがルモンドの「景気回復の期待と雇用」(参照)に欧州的な根性曲がりのエスプリがあった。

 株式市場の投資家は仏大企業に巡ってきた幸運を先取りした。三年連続して下降する一方だったCAC40(パリ証券取引所四十銘柄)指数は、二〇〇三年を通じ16%回復している。
 もっとも大企業グループの結果だけでフランスの全体を判断しようとするなら、この株式市場は相対化されなければならない。
 決して忘れてならないのは、これらの巨大企業が今は世界企業であり、欧州、まして仏国内のその基盤がとりわけ切り詰められていることだ。そのため、経営者たちに投資、雇用の方針を聞いてみると、回答は慎重である。

 なるほど、当たり前のことだが、EUの内部で雇用を作るのは地場の中小産業でしかない。つい日本のように閉鎖された輸出だけよ~んの国家経済に慣れると、こうした状況がわかりづらくなる。EUといっても実際の国家経済に反映するのは大企業であり、それって、別にEUである必要などない。っていうか、ユーロである必要すらない。米国が2つ世界に並ぼうとするなら、本家ニューヨークのギャング達が黙っているわけもないか…うーん、金融っていうのは愛国主義でもないから、このあたり米国策の内部で保護されている背徳的要素は無視できないほど大きいのだろう。資本主義ってすごいなと思う。マルクスが生きていたら、マルベラス!とか言うんじゃないだろうか。

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2004.01.20

日本軍装甲車、イラクを行く

 変な気分だ。朝鮮日報社説「イラク砂漠の中の日本軍装甲車を見て」の読後感だ。話はまず、こう切り出す。


19日、装甲車や無反動砲、機関銃で武装した日本の自衛隊がイラク入りした。自衛隊が終戦の消極的な平和維持軍活動からさらに一歩前進したのだ。

 これは、ふーんである。この先がなんとも変な気分になる。

 日本の布石はこれにとどまらない。経済力を基にした軍事力の建設に続き、それに相応しい国際政治的役割を追求するはずだ。その中期的目標が国連安保理の常任理事国として進出することだ。その時、われわれはこれまでの日本という国に対するイメージをかなぐり捨て、われわれの運命に介入する実力を携えた新たな日本を目の当たりにすることになるだろう。
 この新たな日本は21世紀の潜在的な超強大国の中国と、東シナ海や南シナ海全域で競争することだろう。先日繰り広げられた釣魚島の領有権をめぐる中日の海上摩擦は、われわれにその未来の絵まで想像させている。

 おまえさん、考えすぎだよ、とは言えない。そう見えるのだろうなと理解できないでもない。よくわかんないなと思うのは、「国連安保理の常任理事国として進出」がなんで問題なのか。日本が出れば、アジア諸国の希望になるぜ、と日本人として言いたいが、それは韓国からは危険というより、嫉妬なのではないか。むしろ、こけそうな国連を維持するために日本が地歩を固めたほうがいいと思うが、韓国には通じないだろう。それを、「運命に介入する実力」というが、だって、実力ってそういうものじゃないか、と言えば、むかっ腹を立てるのだろう。ゼロゼロセブン、変な気分である。
 日中の海上摩擦というが、あれは、中国がおかしいよ、とは見えないのだろうか、いや、この文章を見ていると本音ではそう思っているのだろうなと思う。そして本音では中国怖いなと思っているのだろう。そして、日本も怖いのだろう。なにも韓国を貶めて言うのではない。そういうイメージをどうしたら日本は払拭できるのだろうか。
 朝鮮日報の結語はこうだ。

 もどかしいのは、「自主」という眼帯で視野を塞いでいる韓国の首脳部だ。彼らの目には、新たに展開されるこの地政学的パノラマが、他人事のようにしか映っていないのだ。

 これが端的に間違っているのは、米軍を抜いているからで、そういうなんというか、意図的な知的な空白で言説が成り立つ韓国の、民衆から浮いたジャーナリズムが伺える。皮肉みたいだが、皮肉の意図はない。まず、米軍を考えなさいよ、と思う。
 話を戻す。韓国は本音では日本が侵略するという意味での軍事的脅威は感じていないだろう。中国との軋轢で迷惑被りたくないというのは、クリシェだ。じゃ、日本はこれでいいのか。
 日本人の一人として、途方に暮れる。じゃ、どうしたらいい? 韓国を本音のところで支援するしかないだろうなと思う。この半世紀の間、もっと日本は、日本を支援する韓国人を援護すべきだったとも思う。ここは、やっぱし人情だよ、日本はと思う。通じなくても、さ、である。

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日経さん、財政再建でなにが言いたいのか、その2

 今朝の新聞各紙社説を読みながら、昨日の極東ブログ「日経さん、財政再建でなにが言いたいのか」の続きを思った。不思議といえば失礼だが、「構造改革と経済財政の中期展望―2003年度改定」について、今朝の産経新聞の社説「中期展望 デフレの脱却へ一押しを」がなんぼかマシである。日経はどうしたんだ? 産経のほうがマシだぞ。なんでそういうことになるのかよくわからないし、産経のこの社説にも創見といったものもないのだが、自分の常識の確認にはなる。


 先に政府が開いた「経済政策コンファレンス」でも、内外の有識者からは一連の構造改革にスピード感が乏しいとの指摘に加え、金融政策で一段の工夫を促す意見が多かった。
 お金の流れが滞っている。市中に出回る資金量を示す昨年のマネーサプライ(通貨供給量)は、十年ぶりの低い伸びにとどまった。企業の資金需要の低迷や不良債権処理を迫られる銀行の慎重な貸し出し姿勢を映しているものの、デフレ克服には日銀の金融緩和策の質的改善が欠かせない。
 資産担保証券の買い入れ基準を緩和し企業の資金繰りを支援するほか、外債の購入やインフレ参照値の導入など新たな手立てを急ぐことだ。

 そういうことなんじゃないか。というか、この話をもう一歩掘り下げてもらいたい。
 よくわからないのは、なぜ日本はこの政策が取れないのか? 馬鹿でもわかるじゃないか、とまでは言わない。私も今ひとつわからない面があるからだ。しかし、難しく考えるほどのことではない(金の滞り)という線がなぜねじくれているのだろう。率直に思うのは、旧来の官僚・天下り主導の構造維持なのだろうか。もっと端的に、このデフレのシステムを支持しているのは誰だ? ……いや、そういう発想は違うかもしれない。
 よくわからないもう一つは昨日の日経の社説だ。なぜ日経からあんなスカが出るのだろう。ただの馬鹿というわけもないだろう。
 天王山は日銀ということなのか。とこの言い回し古過ぎてほとんどギャグ。
 読売新聞社説「月例経済報告 回復宣言に安心せず手を緩めず」は漠としている。日経ほど酷くはないが、日銀には触れていないので、読む意味はない。が、若干気になることはある。いや、どうっていう話でもないのだが。

 今回の回復が外需主導であることは明白だ。米国の本格回復や中国の高成長を受けて、輸出が増大し、それによって企業の設備投資も拡大してきた。

 馬鹿でもわかるが、景気回復というのは見せかけで、日本の米国依存が深まっている。これは、円介入から米国債買い入れというサイクルで見れば、米国の日本依存が深まっているともいえる。いずれせよ、マクロ的に見れば、日米のおふざけ劇である。
 2月のテーマになるのだが、この構造はどこへ行くのか。つまりドル安問題である。

 急激な円高・ドル安の進行は、外需主導の回復を狂わせる恐れもある。ドル安は日本ばかりでなく世界経済にとっても、悪影響を及ぼす。
 円高阻止は、日本の単独介入では限界がある。二月初めに開かれる先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で、政府はドル安阻止に向けた協調体制を、米欧の通貨当局と確立すべきだ。

 なぜEUを名指ししていないのだろう。それと、G7はどうなるのだろうか。読売のような、こんな甘っちょろいストーリーになるのだろうか。
 ならないのではないか。端的に言って、ドル安は米国策だし日本も円介入で実は賛同している。加えて、現状の構図は、EU対ドルの戦争なのではないか。
 どうにも見渡しが悪い。すぱっと切れる視座はないのだろうか。いつも道化回しにして申し訳ないのだが、田中宇から陰謀ロジックを除いて、少しマシな視点は出てこないものだろうか。

追記
関連リンク
「日銀、資産担保証券買い入れ」(参照
「日銀、資産担保証券の買い入れ基準を緩和へ(2003年12月17日)」(参照
「資産担保証券の仕組みQ&A」(参照
「外債かETFか(2003年02月06日)」(参照)より。


日銀による外債購入の可能性が上昇しているとみられる背景には2つある。1つは、当局が1月中に行った、不可解な為替市場への覆面介入である。同介入は、通常の平衡操作というよりも、為替介入を利用したベースマネー供給の色彩を帯びている。2つめは、米国財政赤字の拡大が見込まれることである。03年度、04年度と3000億ドルを超える財政赤字の発生が予想される中で、米国当局は長期金利の上昇を抑制するという観点から、従来に比べて、日銀による外債購入に前向きになる可能性がある。

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2004.01.19

教養について

 「教養」について、自分はあまり関心がない。いや、「教養」についての話題に自分がいつも頓珍漢な思いがする。ある意味、私にとって教養は非常に明確である。ちょっとメモがてらに書いてみたい。
 まず、ヘンテコな結論から先に書く。これは誰か言っているのかどうか知らないが、どんな教養であれ、その基礎がなければなんの意味ないということ。教養の基礎とはなにか。人格か? 正義か? 美的センスか? 私はまるで違うと思う。私は単に独断なのか、私の教養の実は成果なのか、こう思う。教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」というのは、すべての層の人を含む。
 私は教育について、奇妙な理想を持っている。学力なんかどうでもいい。まず大道芸を一つ身につけろと。まったく異文化の町に一人放りださせたとき、誰かの気を引かせ、その人と快活な関係が持てるようにせよ。難しく言えば、「おまえはユニバーサルな人間であれ」ということだ。大道芸で金が得られるならなお良し。ちょっとしたことでもいい。私と楽しみをわかちあってくださいと、無言で伝えることができるか、である。
 話はいきなり余談だが、先日NHKのドラマで「麻婆豆腐の妻」を見ていた。ドラマとしては多々難点もあるのだが、その背景にある陳建民というユニバーサルな人間の不思議さを思った。彼は天才である、で終わりにしてもいいのだが、このユニバーサルな人間はどこから教養を得たのか。四書五経を読んだとは思えない。まして、彼を取り巻く中国人民に教養の素地があったとも思えない。だが、はっきりとわかることは、彼こそが教養人である。そして、そう考えるなら、教養というのはどうも奇妙なものであるとしか言えないことになる。息子健一は建民がトイレに「吾日三省」「低賞感微」に貼り紙をしたというエピソードを語る。すまんが私には「教養」があるので、三省堂の語源である「吾日三省」と聞けば、こう暗誦できる。


曾子曰わく、われ日にわが身を三省す。人のためにはかりて忠ならざるか、朋友とまじわりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。
(曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。 與朋友交而不信乎。傳不習乎)

 私には本当の教養はないから、曾子先生は丘先生に比べて堅物やのぉと思い、歩道自転車に怒鳴り散らし、友人を避け、ブログに知らざるを散らす。臨済録普化のごとくである。低賞感微と聞いても中国人には必要だよね、と思う程度。余談はさておき、そうした訓戒を百万遍唱えても建民はできない。ではやはり天才なのかというと、よくわからない。が、書を読めば教養が付くものでもないなと思う。
 話は飛ぶ。たまたま知ったニュースだが、衆院福岡2区・古賀潤一郎議員の学歴詐称が問題になっているらしい。それだけなら別にどうってことないのだが、このおっさん、米国の大学卒業と言っていたわけか。カリフォルニア州、米ペパーダイン大卒業としていたらしい。気になって、少しニュースを調べたのだが、よくわからない。古賀潤一郎議員の場合、B.A.かどうかが問われているのだろうか。
 マスコミは彼のディプロマを問題にしているのか、B.A.を問題にしているのか。というあたり、あれ、日本でいう大学卒業ってなんだと思い返すと、「学士」なのか。わからない。いかんなぁと思う。学士とB.A.というのはどういう関係になっているのか、長年考えて、よくわからないでいた。このあたり、個人的な事を書くのもなんだか、私はB.A.と学士両方持っている。だが、普通、日本の学卒は国際的にB.A.扱いされているのだろうか(だとすると、それはおかしい。B.A.は後に述べるように自由七学芸の基礎習熟を意味する)。このあたりも、よくわからないのだ。B.A.程度、さして問題でもないということなだろうとは思うが。
 で、なんでこれが「教養」の話題と関係するかというと、B.A.とは、Bachelor of Arts.だ。BachelorはArtsの世界の前に立つ入門の候補者ということだ(だが、中世では神学の前提)。で、Artsとはなにか? で、なんでなのか、日本ではfine artsがアートと呼ばれている。このあたりの日本語の感覚もよくわからないところだ。
 B.A.と対になるのがB.S.つまり、Bachelor of Scienceであるように、ArtsはScienceとの対になる言葉だ。Scienceは「科学」と訳されているのだが、これも日本では「自然科学」ということになる。なんとも変なのだが、いずれ、Artsが教養なのである。知識=Scienceでなく、人間の技芸=Artsとして習得されているものだ。
 Artsが教養であるということはどういうことかというと、Artsはthe seven liberal artsの省略形である。つまり、教養とは「自由七学芸」である。七学芸を簡単に言うと有名なラテン語の詩がある。

Gram. loquitur, Dia. vera docet, Rhet. verba colorat.
Mus. cadit, Ar. numerat, Geo. ponderat, Ast. colit astra
(文法は語り、弁証は真理を教え、修辞は言葉を飾る 音楽は歌い、算術は数え、幾何は測り、天文は星を学ぶ)

 ただ、これも米国などでも誤解されているみたいだが、字義通り、ということでもない。文法というのはラテン語のことでヴァルガーな言葉(フランス語とか)を使わない、弁証については弁証法というより論理学だ。修辞は今日の作文技術と言っていいだろう。
 余談だが、日本の英文法といいうのは米国の文法と修辞がプラクティカルに混在したものを直輸入したのでごちゃごちゃになっている。現在の初等教育でどう教えているかわからないが、too~to~をso~that~cannot~に書き換えるとかまだ文法で教えているのだろうか。疑問も持たずに学ぶやつも馬鹿だが、教えるほうは無教養だ。これは文法ではない。修辞なのである。キャロルキングが、It's too lateと歌うのは、「もう私たちの愛の関係はダメなのね」という修辞だからである。さらに余談だが竹中平蔵はこう言った。

Big banks have their merits, but we do not hold the idea that they are too big to fail.

 これは修辞であるから、「銀行が大きすぎるからといってつぶせない、とは考えない」ということになる。が、そのあとの竹中の弁解のお笑いぐさは、修辞の無教養丸出しなので、やはり初等教育で学んでおくといいのだろう。
 話を戻す。算術の含みはよくわからないが、数えるというあたりでカントールを連想する。Geoが幾何学であることはプラトン以来の伝統つまり「原論」である。天文は占星術なのだが、これについては触れない。私はB.A.なので当然、七学芸は門前小僧程度の知識はある。グランセイザを見なくても占星術の基礎も知っている。そして、7芸の上の神学も少し学んだ。
 問題はもう一点ある「自由七学芸」の「自由」ということだ。つまり、リベラルとはなにか。これも日本では珍妙な議論が多いのは、明治時代に出来たこの言葉の字面に別の伝統を読むためだろう。武芸書などにも「自由」ということが基本になるのだが、これはリベラルとは違う。じゃ、リベラルとはなにかというと、これは、奴隷など専門労働から解放された自由人の知性である。学校schoolのギリシャ語スコレーが「閑暇」を意味するにように、時間を従事させられない者のものであり、逆転して、時間を従事する(だからOccupationが「仕事」なのだよ)強制力に対立する知性としての自由を意味するのである。
 このあたり労働が神聖とされるエートスを持つ日本人にはわかりづらいのだが、このギリシアの労働観は、キリスト教世界では、労働=罰、と結びついていく。日本人と限らず米人なども、アダムとイブの話を、神との約束を破って悪いやっちゃと読むが、あれは、罰としての労働の起源の物語でもある。
 とま、「日本人は知らねーだろう」のいやったらしいオンパレードになるのだが、こういう世界が西欧の「教養」の下に潜んでいるのであり、それをまじこいてハリポッターみたいな世界で青春期に受けると、ひどい目にあう。というか、これって、そういう世界観に生きるためのものであり、ひいては神を自然の秩序として受け入れるための素地でもあったのだろう。西洋の文脈では、かくして神を知ることで自由となる、ということなのだろう。ま、日本人にとって知ったことかである。
 こうした自由七学芸に相当するのは東洋では四書五経である。四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経とは「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」。大学生になったら、いちおうイントロダクトリーな部分くらいは読んでおけよなとも思うが。そういうと、日本の文脈では「論語」「孟子」がメインになる。だが、重要なのは、「易経」「詩経」なのだ。と言っても空しいが、が、それより重要なのは、「三字経」や「千字文」なのである。
 世間では、声に出して読む日本語とか寺子屋教育の復権のようなことが言うが、「千字文」を無視しているあたり、東洋の教養も廃れているのである。

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日経さん、財政再建でなにが言いたいのか

 日経新聞社説「財政再建、何ともはるかな道」がわかりづらい。単に、ぼやきかよ、で済む内容なのかもしれないのだが、ちと考えてみたい。まず、冒頭はこうだ。


 財政再建を金科玉条とするのは誤りだ。だが今のように極端な財政赤字を続けると金利上昇を招き経済が大きな打撃を受ける。だから赤字圧縮は必要だが、それがいかに大変かを物語る試算を内閣府がまとめた。

 財政赤字から金利上昇というのは、ごくごく経済学の「いろは」というのはわかる。が、率直に自分の無知をさらけだすのが、いずれリフレ政策を進めるとすれば、まず金利上昇の現象は起きるのでないか。と、その事態になって、「財政赤字が問題だぁ」と橋本内閣のような馬鹿な議論をどっかが起こすのではないか。どうもこのあたりの前提が腑に落ちない。もうちょっというと、「赤字圧縮」の議論はどうも財務省の世論コントロール臭い。総じて、この社説も財務省ノート?という感じがする。
 同じ話の変奏なのだが、私にはよくわからない。

財政改革では、基礎年金国庫負担比率の引き上げに伴う3兆円の増税以外は増税を考えない。国内総生産(GDP)に対する政府部門の比率を現状維持するよう歳出を削る。その内容は一部を除き厳しいものだ。例えば投資的経費は年々3%ずつ減らし続けるという前提だ。
 どの程度、増税するかにもよるが基礎的収支均衡は2013年度より後になる公算が大きい。だが貯蓄率低下も考えると、金利上昇を防ぐため赤字圧縮を進める必要がある。

 増税せい、と言っているのか? 政府を縮小せい、なのか。基本の筋としては増税は避けられないし、政府というおは小さいほうがいい。だが、状況はそういうことなのか。どうも文脈が取れないし、背景となる考えが理解しづらい。
 ただ、日経の社説がそれほどまじめに書かれていないことは以下のおちゃらけでわかる。

そのためには、まず経済を本気で活性化させることだ。規制改革や自由貿易協定(FTA)、科学技術開発などの政策は過去の発想にとらわれず思い切って進めるべきだ。

 この発言は誰が読んでも馬鹿まるだしである。
 話を戻して、「構造改革と経済財政の中期展望―2003年度改定」について、すっきりとした解説というのはないのだろうか。それは端っから無理ということかもしれないが、日経の社説がこの体たらくではどうしようもない。
 いや、この日経の社説は反動だぜ、と切ってくれるだけもいい。私にはそれをすぱっと切るだけの力はない。

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ソウルが軍事的空白になる

 日本国内で話題になっていないのは当然のことなのだろうか、極東ブログではしつこく扱ってきたが、ソウルの龍山(ヨンサン)に駐留する在韓米軍の漢江以南移転が決定した。移転には、米韓連合軍司令部と国連軍司令部も含まれる。韓国国民の大半はこれを歓迎している、とまで言えるのかわからないのだが、韓国主要紙は曖昧なトーンを含みながら、懸念を表している。問題は端的に、それで韓国の安全は大丈夫なのか、ということだ。併せて、日本を含め東アジア全体の米軍のシフトも問題になる。日本がこの話題に鈍感に見えるのもよくわからないといえばわからないが、基本的に日本は沖縄を犠牲にしてこの問題に蓋をしているからだろう。
 東亜日報の社説を読むと、米軍の南下はしかたがないが韓米連合司令部と国連司令部はソウルに残せという主張がある。虫のいいことだと米軍からはせせら笑うことだろう。日本では北朝鮮の長射ミサイルの射程に入ったかという呑気な議論だが、ソウルはそんな議論でお茶を濁すわけにもいかない。米軍の撤退は米人の保護の意味あるというのはブラックジョークではない。いずれ首都の信頼度は低下するので、海外投資にも問題がでるだろう。傍から見ていると盧武鉉をめぐるどたばたは韓国国内の問題のようだが、いずれ対外要因でカタストロフになる潜在性が強い。
 話が余談になるが、こうした差し迫った課題になると、韓国が実は日本をなんら危惧していないという本音が出ていて面白い。韓国は本音のところでは日本が軍事的な脅威になるとは微塵も思っていないのである。日本を舐めているというほど呑気な問題でもない。そういう韓国の本音を日本は汲まなくてはいけない。もちろん、根にあるのは日本が米国の属国だからではあるのだが。
 この先は日本の問題でもあるのだが、まず当面の視野としては在沖米軍も縮小に向かうだろう。普天間飛行場問題は頓挫したままだが、あの市民都市の真ん中に置かれた異常な軍事基地は潜在的に米軍の戦略の変更を迫るほどの危険性をはらんでいることは米国も熟知している。野中は引退してもこの問題だけは気になっている。もっとも野中には嘉手納統合案はない。現在の小泉政権はただの政治ゲームの馬鹿たれなのでこうした問題の重要性がわかっていない。残念なことに福田に頼むしかないというのはなんたることだ。
 以上の話にそれほど新味もないし、詳細を除けばなにも新しいことを追加するほどのこともないのだが、今回のイラク派兵での米国と韓国の状況を見ていると、韓国軍は完全に米軍の先端にこづき回されている状況がある。端的に言えば、米軍の撤退分は韓国人で贖えというわけだ。もちろん、国防というのはその国の問題ではあるのだが、米軍のためにイラクに派兵することが韓国のためになるとは韓国人も思えないだろう。その不快感は日本人の呑気な議論からは見えない。こうした状況にあると、日本も表向きはイラク派兵反対!とヌカしているほうが対米な間合いを取るには都合がいいのかもしれないのだが、そんなことができるのも日本の経済力があってこそだ。

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2004.01.18

[書評]負け犬の遠吠え(酒井順子)

cover 国立の増田書店に寄ったら三刷りがようやく出ていたので買って読んだ。酒井順子の本は私はけっこう読んでいる。理由は、この人、やなヤツじゃないですか。いやぁ、こいつってやなヤツだねぇっていうヤツの本は、けっこういいことがある。
 ただし、そういうやなヤツには条件があって、馬鹿は論外、ということ。例えば、「10年後の『結婚しないかもしれない症候群』」の谷村志穂とか、小犬を拾って結婚してVeryの勝ち犬になったつもりって、すげえです。同じすげえなら、高木美保のほうが勘違い跳びまくりでよろしい。ああ、美人の人生って怖いのかもぉってよくわかる。で、谷村志穂のこの面白くもなんともない、金返せ、買うやつが阿呆だ、という本、本、という以前に、これってほとんど詐欺じゃないか。というのは、この本では実際には「10年後の『結婚しないかもしれない症候群』」は扱ってないのだ。昔のお友達に電話して、連絡の取れた数名のだべりに尾ひれがついるだけ。あのなぁ、この標題を付けるからには、10年前の彼女たちを真剣に捜せよ。そしてその人生を見てこいよ。それを見れば、ちったぁ利口になるぜと思う。っつうかおい、この編集者、標題だけで売ろうって根性は腐っているぞ。
 あ、話がそれまくり。で、酒井の本。うーん、面白かったのだけど、「少子」のときのような悪汁がいまいち。なんだか、男の俺が読んでいても、その、35歳以降の老齢化のあたりがちくちく痛いじゃないですか。なんだこの本。文章はうまい。酒井、ますます文章はうまいと言ってもいい。冗長だけど、もとから読ませてなんぼの漫談だからそれもかまわない。表紙の絵はきれいだけど、カラーリングが「ミス・マナーズのほんとうのマナー」みたいだが、ふと思うのけど、ミス・マナーズってミス、つまり、負け犬だったのだろうか。あ、この本、いい本です。上品なユーモアが学べます。学んだ結果が私です。効果は人によるわけです。
 あ、話がそれまくり。で、酒井の今度の本、なんとも奇妙な読後感だった。読んだ既婚女性に感想を聞いてみた。答えない。なんなんでしょ。ま、いいか。で、数日後、ふとぱらっと読み返してみて、ようやくそうかと思った。
 この本って、30過ぎ未婚女性が「負け」というあたりで、なんとかせーよと世間の気を引くわけだけど、この現実というのは、かなり多分、どうにもならない。どころか、30代40代の未婚女性が増えるということがすでに日本文化なのだ。中で酒井がイヤ汁とうまいこと言っているけど、こうした女性が日本文化に熱を入れるという話があるけど、お茶だの芸能だの京文化だの、彼女たちのおかげで維持されている。それに、その彼女たちのテイストはけして悪くない。私も、朝鮮茶碗でお抹茶など飲み、正月には花びら餅など和菓子を食べるしばわんこ組なんだが、この和の世界は美しい。美味しい。この世界を彼女たちが大半は維持しているのだ、と思う。典奴、森下典子の「日日是好日―『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」もなかなか良い本だったが、彼女も確か未婚ですね。いいじゃないですか。
 酒井も負け犬の存在理由ってな変なこと言うけど、いやいや、変でもない。10年前、いや20年前、私がラム(平野文)ファンだった時代に、これが将来国際的に日本を支える文化になるぞ思ったものだが、今度は「負け犬の和」の番だろう。それでいいんじゃないか。
 と、書いていてふと思ったのだが、現代の育児など実は、子供の手が離れるというなら、8年間くらいで終わり。その先、お子ちゃまのおかあさまとかVeryとかやらなければ、結婚・出産というのは8年間の転勤のようなもの。26歳くらいに結婚を済ませておけば、35歳には、どっぷり自分の世界がある。別に既婚・未婚の差もない。え? 旦那? 子供は一人じゃない? ま、そういうケースもあるのでしょうけどね。

追記(2004.2.29)
 この記事に直接関係しないが、関連した「東アジア諸国の未婚率」のコメントが多くなったことと、特にいなばらさんによるリンク情報が重要であるので、別サイトにコメントを移した。
 「東アジア諸国の未婚率」に関心のあるかたは、参照し、活用していただきたい。

極東ブログ: 東アジア諸国の未婚率

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仮面ライダー555、面白かったです

 平成仮面ライダーとも言われるのだが、平成ウルトラマンの誤用ではないか。ミレニアム仮面ライダー、ま、どうでもいいけど。クウガはなんとかストーリー的に持ちこたえたが、アギトと龍騎のストーリーは破綻したので今回も怖々見ていた。が、最終回までとりあえず破綻はしなかった。表面的に見ている限り、あまり瑕疵のない作品だったかなと思う。めでたしめでたし。と、変な前振りだが、ま、面白かった。アギトと龍騎では怪人がひたすら負けキャラだったが、今回はそれなりに怪人にキャも立っていたし、クウガ以降の作り手側のオブセッションである「仮面ライダーは正義か?」も、もうこのくらいでいいだろう。
 若い役者さんたちも魅力的だった。園田真理役の娘さんが途中小太りするんじゃないかと気がかりだったが、若いですねぇ。長田結花役の娘さんはハワイ二世なのだろうか。ま、みなさんよくやってました。というと学芸会ノリだが。
cover 音楽的にはやはりクウガからアギトのほうがよかった。佐橋俊彦、やるぜ。私もロバート・フリップのファンだったのでね。ただ、初期キングクリムゾンを現代の音響でやると逆につまんない面があるのだなとは思った。初期キングクリムゾンのほうがむしろジャズ的に生の良さがあった。ファイズの音楽については、私には、率直に言って素通り。
 文学的に見ると、園田真理と草加雅人にはディープなストーリーが設定されていたのだろうなとは思う。ノベライズしたら面白いのかもしれない。SF的に見ると、というか、やっぱ触れないわけにはいかないか、オルフェノク、つまり、オルフェウス+エノクという神秘思想の裏は気になった。アギトの時もけっこう凝った裏を作っていたようで、オープニング画像に奇妙な曼陀羅を描いておきながら、作品では未消化に終わった。死者の蘇りとしてのオルフェウスの裏はそれほどでもないが、エノクのほうは、すまん、ここではちと触れたくもない。不快なものを思い出させやがってと個人的に思う。幸い作品にエノクの問題はあまり反映していない。エノクの問題はしかし、いつか自分の課題にしなくてはいけないのだろうか。鬱。
 神学的にというか、ま、何的でもいいのだが、人間の進化としてのオルフェノクという設定だけではそれほど面白くない。が、悲しみや人間への憎しみから進化してくるというのは、良い。これは考えるとけっこうやばい問題で、現在の人間種自体もどうもそうやって進化してきた臭い。最近の人類学の成果だと、どうも人間につながるとされてきた原人たちはみんな滅んだようだ。一部は人間種による絶滅もあるのかもしれない。人間種というのはそもそも一体なんなのかますます不可解ではある。
 ファイズの世界では、オルフェノクの進化に身体が耐えられないとしているのだが、このあたり人間種はやや奇っ怪で、身体が耐えられそうにもないのに異常なほど長寿になっている。抗酸化システムの勝利かもしれない。身体でアスコルビン酸が生成できないという病気が恐らくモグラレベルの時代に起きたのだろう。が、それを人間種は逆にメリットにしている。あと、人間種の進化については白人や黄色人種の出現になにか意味があるのだろうと思うのだが、この手の話もちとやばい。意外と白人と黄色人種には人類のサバイバルをかけた問題がありそうだ。黒人とされているアフリカ人の多様なバリエーションに人間種を解く鍵があるかもしれないが、この問題もやばすぎ。
 ファイズではオルフェノクを人間に対置していたが、それほど洒落として楽しめない面もある。すでに人間種も行き詰まりに来ているだろうし、生物的に見れば、新種の発芽のような現象はあるのだろう。それらは人間種と敵対する本質を持つのだろう。ふと、昔だったが、吉本隆明が人間とって本質的な問題、特に身体性は身体が進化的に変わることで解決するとぞっとするようなことを言ってたが、そういう面もある。
 造形的には「王」がけっこうよかった。あれに文学的なキャラを持たせたいところだし、そもそもなぜベルトが作られたかというストーリーもあってもよかったか…よくないな。アギトのように作品が破綻するだろう。
 フィリップ・K・ディックあたりだと、けっこううるさいことを言う輩は多いのだが、ヴァリスなんかより「ティモシーアーチャーの転生」あたりはあまり言及されていない。ヴァリス神学あたりで沈没してしまうのかもしれない。転生といえば、サリンジャーの「ハプワース16日」もすでに文学の破綻かもしれない。だが、こういう奇っ怪な形式を思考に強いるなにかは存在するのであり、どうもそのあたりを切り込む思索者を最近見かけない。ニーチェも実はマジで研究はされていない。この領域はオカルトに堕してしまうのだろうなと思うし、グルジェフあたりで充足してしまうのかもしれない。ちょと「と」がけて言うのだが、この界隈のSFや神秘思想の慰撫で充足してしまう程度の悲劇意識は甘ちょっろいんじゃないかとも思う。もっと痛切に、人間種の限界と超越を問うことはできなものだろうか、というか、そういう作品や作家を私が知らないだけか。
 と、いう意味で、ファイズのハッピーなエピローグは愚劣なシロモノだったが、あれを持って作品の欠点とするわけにもいないだろう。王の覚醒の時点で、ストーリーは終わっていたと見るべきだ。そして、王の覚醒が意味するものは、文学や神学的に人間種自体がうまく解決していないオープンな問題なのだろう。

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北朝鮮の変化は対中国策か

 北朝鮮関連の朝日新聞社説「北朝鮮――対応は慎重かつ機敏に」がいつもと違う。いつもなら、北朝鮮には困ったものだがと引っ張って同情を買うようにして結局は北朝鮮に有利に誘導する形式になる。今回も同じと言えば同じなのだが、トーンが違う。なんというか、北朝鮮の泣きが朋友朝日を通して聞こえる感じがするのだ。もちろん、そういう受け取りかたはごく主観的なものであるのだろうが。
 まず、朝日を引用する。


 核をもてあそびながら、ことを有利に運ぼうとするやり方は許されない。
 たとえば、核開発を中断するとか、拉致被害者の家族を親元に送りかえすなど、具体的な行動で示し、国際社会を納得させる必要がある。そうでなければ圧力を強めるしかなくなる。

 「核をもてあそびながら」と朝日は表面的に非難するがそれはむしろかつてのことで、今回の核関連施設公開はむしろ逆の事態だ。朝日の認識はおかしい。また、北朝鮮の問題を「核開発を中断するとか、拉致被害者の家族を親元に送りかえすなど、具体的な行動で示し」というのも、「とか」の言い回しに顕著なのだが、文章が変だ。問題を「とか」って言うなよなのだが、その程度で抑えて欲しいという北朝鮮側の代弁でしかない。
 あるいは、中国側から朝日がせっつかれたか。そう見たほうがいいかもしれない。

 北朝鮮を問題解決への道筋に乗せるためにも、6者協議の早期再開は大事だ。核をあきらめてこそ経済の再建が展望できることを、わからせなければならない。

 このあたりは、大筋で中国の困惑の代弁だとも言える。中国としても、まんまと北朝鮮というコマを米日に渡すわけにもいかない。
 冒頭、「北朝鮮の動きがこのところ活発だ。これが何を意味するのか、目をこらして見ていきたい。 」というのだが、やはり、週刊文春ネタのように、金正日は重病なのだろうか。面白いことに、この話は文春経由で中央日報のニュースになっている。ガセなのか、ある種の箝口令なのか。総じて見ると、金正日重病説というのはそう外れた線でもないように思える。
 この問題については、毎日新聞社説「6カ国協議 北は誤った選択に固執するな」は標題の脱力感に反して内容は意外に優れている。といっても米国レベルの論調をなぞっているだけともいえるのだが、妥当であるだろう。

 6カ国協議の調整が難航している理由は、日米韓が「検証可能で不可逆的な核計画の全面廃棄」を求めるのに対して、北朝鮮が実験炉などの「凍結」でかわそうとしていることだ。「大胆な譲歩」なる案も、実態はそこから一歩も踏み出していない。

 滑稽なのは、そんな姑息な手は日本人には通じても、米国には通じない。日本のサヨクマスコミは北朝鮮をかばうが、北朝鮮は嘘つき前科者である。
 むしろ気になるのは、毎日も言及してるが、対中国の関係だ。

そうした公式の場で正々堂々と提起せずに、小出しの策をろうするのは誠意ある態度とは到底言えない。日米韓や中国、ロシアの協調体制を分断する狙いと勘繰る見方すらある。

 問題はすでに中国と北朝鮮の問題に移行しているのだろう。日米にしてみれば、国内を押さえ込むためにヒール(悪役)が必要だが、これがつぶれても困る。韓国に至っては本音は統合を恐れている。
 中国ワッチがむしろ重要になるのだが、そのあたりは、見づらいなと思う。

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