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2004.09.11

健康のためのエントリー休刊日

 実はこのエントリーは昨日のうちに用意し、ココログ(TypePad)の時刻指定機能で投稿したものだ。そうしたのは、一週間に一日はブログ休日を作ろうかなと思ったからだ。苦笑されるむきも多いだろうが、ご覧のとおり、私はブログ中毒だ。重症なんじゃないか。
 もっとも、だったら、単純に一日書かなければいいじゃないかと言われそうだ。さらに、つまらんエントリーも多いしなとか、言われそうだ。(すでに言われている?)ま、それもそうなのだが。
 ことは健康志向である。日本もいつのまにか米国に近い健康ノイローゼの国になってきた。健康のためなら死んでもいいとまでいかなくても、モデレートに健康を考えたほうがいい。健康というと、つい食い物だのエキササイズ(運動)などが思い浮かぶが、情報というのもあまり健康にいいものではない。代替医療の専門家アンドルー・ワイル博士も、健康指導の八週間プログラム「癒す心、治る力 (実践編)」の二週目で次の指事を出している。なお、文庫版は「心身自在」と標題が違う。


一日だけ、「ニュース断ち」をやってみる。その日は新聞・雑誌を読まず、テレビを見ず、ラジオを聞かないこと。

 うぁ、なんか俺には禁煙よりつらそうだな、って、私はタバコを吸わないし、酒も飲まない(飲めない)。でもま、たしかに、ブログ中毒というか情報中毒には重要な健康指針のような気もする。
 細かい指示はこうある。

 今週はもうひとつ、一日だけ「ニュース断ち」をしてみるようにアドバイスした。世界がいまどうなっているかを知らなくてもいいというわけではない。だが、ニュースを気にするという習慣は不安や怒りなど、治癒系を妨げるこころの状態の原因になりがちだということを知っていただきたいのだ。わたしはこれまで、からだに栄養をあたえるための数かずの方法についてアドバイスしてきた。ここで「栄養」という概念をさらにひろげて、意識にあたえる栄養についてもよく考えていただきたい。意識の栄養補給に不慣れな人は、気づかないうちに膨大なこころの「ジャンクフード」(高カロリーだが栄養にならないスナック食品)を摂取してしまっている。「八週間プログラム」でわたしが「ニュース断ち」をすすめるのは、あなたが力をもっていることに気づいてほしいからだ。その力とは、なにをどのぐらい、自分の心身に摂取するかを自分で決める力である。

 なるほどねと思う。ついでに、そう思ったのは、実は私は、こっそりと、ここやあそことはさらに別に小さなくだらないブログをやっているのだが、そこではくだらないニュースだけを取り上げている。当初はどっかのブログみたいにお笑いネタ志向だったけど、本当にくだらないニュースが少ないことに気が付いた。ニュースって深刻だったり悲惨だったりするのだ。あたりまえだな。
 さて、金曜日の日没も近い。ではこのエントリーをセットして、24時間のサバトの始まりである。

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2004.09.10

モーリタニアの奴隷制

 モーリタニアの奴隷制と題したものの、のっけから長い脇道に逸れる。
 今朝の朝日新聞社説「9・11から3年の米国――蛇の賢さと鳩の素直さを」(参照)を読んで、無教養ってのは困ったもんだな、としばし苦笑した。もっとも、無教養がいつも他人事というわけにもいかないだろうから、自戒の意を込めてちょっと解説してみよう。


 みずからを敬虔(けいけん)なキリスト教徒とし、宗教右派を支持母体とするブッシュ大統領は好んで聖書の言葉を使い、主張を正当化する。だが、新約聖書にはキリストのこんな言葉も記されている。「蛇のように賢く、鳩(はと)のように素直であれ」
 ここで言う蛇の賢さとは、自分の置かれた現実を知り尽くした、したたかな知恵を意味する。鳩の素直さとは、自分が厳しい環境に置かれても他者に心を開くことを忘れるなということであろう。

 これはまいったな。しかし、日本人の多くは、必要もないせいもあり、あまりきちんと聖書を勉強していないものだ。朝日新聞だけを責めるものでもない。聖書を論語のような立派な格言集のように思っている日本人もいる。それにしても、聖書の句を取り出して「…ということであろう」と言うのはあまりに恥ずかしいことだ。聖書の句の意味を知るには、まず、その句の文脈を読み、使われている用語をコンコーダンス(一種の索引)で引き、そして、ギリシア語・ヘブライ語の辞書を引き、旧約聖書の参照を調べるといった手順を踏む。米人の実業家でもよく「バイブルスタディ」を日課にしている人がいるが、バイブルスタディとはこういう手順をきちんと踏んで聖書を読むことだ。
 この句の文脈を見よう。朝日新聞が参照している聖書がどのバージョンがよくわからないが、共同訳ではなく、表記は違うものの戦後の口語訳のようなのでそれを使う。マタイの10章にある。少し長いが引用する。

イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
(中略)
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。

 話はイエスが弟子に宣教を命じるくだりだ。ここで、イエスは、福音を伝える弟子たちが、その訪問先で歓迎されないことを見越して諭しているのである。まず、受け入れてもらえる人と話なさい、通じない人には怒らないでユーモアを込めて足のちりでも落としておけ。これから出会う人々は狼のように危険だから、ちょっと人を騙すくらいの蛇の狡猾さを持ちなさいというわけだ。そして、ただ、狡猾なだけではなく、自身を貧しいながらも神に捧げられる鳩のように純真に使命感を持ちなさい。
 と、ここで私は蛇と鳩に解釈を加えた。聖書の世界を知る人間なら、蛇の狡猾さはアダムとエバの物語を連想させるし、鳩といえば当時の貧しい人々が神殿に捧げるための生け贄だったことを知っている。鳩については、貧しい者から利鞘を取ろうとする鳩商人にイエスが怒り暴れた話も印象的だ。
 しかし、そんな説教めいた話はどうでもいいといえば、どうでもいい。問題は朝日新聞社説のこれに続く文脈だ。

 米国は古代ローマに例えられるほどの超大国だ。しかし、一人では安全も繁栄も維持できない。欧州や他の大陸の国々や、異なる宗教や文化との共存なしに、それは不可能なのだ。アラブの民主化を唱えても、相手を理解する心がなければ進まない。それが現実である。

 朝日新聞が聖書の句を理解していないのはしかたない。が、これは無教養というより、なに馬鹿なことを言っているのだと思う。相手を理解すればアラブが民主化できるというのか。そんなことを思ったのは、VOAニュースでモーリタニアでイスラム教徒たちが行っている奴隷制のニュースを見たからでもある。
 "Anti-Slavery Groups Denounce Ongoing Practice of Human Bondage in Mauritania"(参照)によれば、モーリタニアではまだ奴隷制が存続しているのだ。

The northwest African country of Mauritania outlawed slavery in 1981, but, despite government denials it still exists, anti-slavery groups say the practice remains widespread.

 一応1981年には奴隷制は廃止ということになっているが、実際はまだ存続しているらしい。より詳細な情報は"Mauritanian Abolitionists Reveal Flawed State Department Rights Report"(参照)にある。英文なので読みづらいかもしれない。
 日本語の情報はないものかとサーチしてみると、「モーリタニア:『奴隷』状態の男性が警察によって拘禁されました。」(参照)があった。

 メタージャさんは、母親、3人の姉妹と7人の兄弟、計11人家族の元を去りました。家族は全員が依然「奴隷」の状態にあったと考えられます。子どもは誰も父親を知らず、強制労働および搾取されており、教育も受けていません。メタージャさんは彼の「主人たち」へ給仕していました。彼は脅迫を受けた後、逃亡しました。

 SOSトーチャー国際事務局は、メタージャさんの所在が依然分からず、逃れたら殺害すべきだと脅迫している彼の「主人」のところへ戻る危険性が極めて高いため、彼の心身の安全に対して深く憂慮します。


 もちろん、モーリタニアの政府はこうした奴隷制度に対する国際的な非難を認めているわけでもない。ちょうどスーダン政府がダルフールの虐殺を認めていなのと似ているようにも思う。
 関連してたまたま「サイードのモーリタニア日記」(参照)というページを見たが、興味深かった。

 田舎でも都市でも、アラブ系が黒人系を使う、という構図は変わらない。大体どこのアラブ系の家にも黒人系の使用人がおり、家畜の面倒や洗濯などの雑用を任せられる。肉体労働は彼らの仕事で、一方アラブ系はもっぱら商売や学問などに従事する。アラブ系が黒人系の下で肉体労働をする、というのは少なくとも国内においてはないに等しいそうだ(外国に出稼ぎに出ればそのような機会もあり得る)。これは以前の階級制度がそのまま受け継がれてきた結果である。実はこの辺りには何十年か前まで公然と奴隷が存在していたのだが、今でも公の「売買」が出来なくなったのと賃金を与えるようになっただけで、この階級社会自体に余り変化はないのかもしれない。こう聞くと「差別」とか「搾取」とかいったマイナスイメージが思い浮かぶが、僕が今まで観察したところ、そのような悲壮な雰囲気や黒人系の現状に対する反発心、などといったものは見て取れなかった。長い間の慣習がそうさせてしまったのか、或いは生得的なものなのか、ここの黒人系は何か受動的・消極的で、肉体的に秀でそしてちょっと野性的、よく言えばとても陽気で気さくで人の良い人が多く、その地位に安々と甘んじているように見える。アラブ系と黒人系の関係にも特に摩擦はないようで、どちらかが卑屈になったり高慢になったりすることもなく、普通に挨拶し合うし、対等に話し合う。ただ互いに今の構図が当然のものと植え付けられてしまっているのだろう。ここでは一般教育の機会、情報の流入などが内因的かつ外因的理由からまだまだ極端に少ないのだ。このような機会不平等に基づく階級社会~第3世界の中の第3世界問題~を解決しない限り、そして、各々がこのような事象の具現化を許した人間の心の病を正していかない限り、世界中にはびこる大小多数の精神的・物質的「第3世界問題」はいつまでもたっても消えないだろう。

 こうしたアラブ系の社会に朝日新聞は「アラブの民主化を唱えても、相手を理解する心がなければ進まない。それが現実である」というのだろうか。
 大きな間違いだ。相手が理解しようがしまいが、断固として民主化を推進しなくてはいけないことがある。その行為が、ときにはどれほどか暴力的に見え、非難されるとしても。

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2004.09.09

アフガニスタン大統領選挙雑感

 米国大統領選挙より早い10月9日にアフガニスタンの大統領選が実施される。選挙活動は9月7日から開始され、現在のカルザイ暫定政府大統領が引き続き立候補するのは当然として、各種民族を代表する軍閥指導者も多数立候補している。大方の予想では、カルザイ優位は動かないとしていることもあり、その対抗勢力が結集する可能性もあるといえばある。
 基本的な構図は、アフガニスタンの多数派パシュトゥン人をカルザイが代表し、対抗勢力は、タリバン政権下の反対組織北部同盟ということになる。北部同盟はタジク人の支持と見ていいだろう。自分たちが現在のアフガニスタンを築いたとの思いもある。
 余談めくが、軍事活動以前のタリバンの日本人シンパは、池澤夏樹などが代表的でもあるが、アフガニスタン=パシュトゥン人とも見ていたように、確かにアフガニスタンという国の文化はアレキサンドロスの伝説を嗣ぐパシュトゥン人の文化のようにも見える。彼らは一応に自分たちの古代の誇りを踏みにじったチンギスハーンを忌み嫌い、その系統を引くと見られるハザラ人を嫌う。日本人は現地ではハザラ人に見えるので、パシュトゥン人からは「やだなこいつ」という印象があるだろう。ついでにこのアレキサンドロスの伝説だが、パシュトゥン人のいうアレキサンドロスは、中近東全体に言えることだが、ギリシア・マセドニア王というよりは、ペルシャ王のイメージのようだ。このあたりの古代史の常識は欧米の偏向がかかると分かりづらくなる。
 今回の大統領選挙の重要点は、当初、当選が有力視されるカルザイの副大統領候補の動向と見られていた。カルザイは、7月26日の時点で、北部同盟の最高司令官でもあったタジク人のファヒム副大統領兼国防相(現職)を副大統領候補から外した。このため、NATOを含め、世界がファヒムの暴走を懸念した。この時点のニューヨークタイムズ"Declaring Independence in Afghanistan"(参照)がよくその状況を表している。


Marshal Fahim is currently first vice president and defense minister as well as the commander of Afghanistan's largest private army. Continued partnership with him would have destroyed the credibility of Mr. Karzai's campaign to disarm all the warlords, who protect drug trafficking, undermine Afghanistan's new Constitution and thwart peaceful economic development.

By standing up to Marshal Fahim, Mr. Karzai runs the real risk of an armed challenge. Yet unless he moved now, his authority might have become meaningless in many areas. Nearly 20,000 American troops are now in Afghanistan, and the smaller NATO force is being reinforced for the election. If necessary, these forces should support Mr. Karzai.


 ファヒムは、政争や民族間対立として見れば、パシュトゥン人のカルザイ政権の統一性を阻むことが問題だとも言える。だが、ニューヨークタイムズが指摘しているように、ファヒムは、麻薬取引や軍閥全体の武装解除というアフガニスタンの未来を閉ざす悪因でもあり、欧米社会は圧倒的にこのカルザイの決断を支持した。
 ファヒムを切るというカルザイの決断は、当時の「国境なき医師団」の撤退なども合わせて、状況が悪化すれば、カルザイ支援のためにNATOなどが軍事支援をすべきかもしれないという展開にもなった。
 が、ファヒムはこの国際世論の圧力を受け、表立った対立を避け、タジク人のカヌニ前教育相を支援することにした。賢明といえば賢明な態度だろう。
 大統領選挙で私が気になるのは女性票の動向だ。現在、一千万人を越える有権者登録のうち、その四割を当たり前だが女性が占めている。女性票が大きく中近東の世界で影響力を持つことは、端的に好ましいことだと思う。
 大統領選挙の最終結果判明までは、五、六週間かかると予想されている。正式なアフガニスタン政権大統領誕生は11月になるだろう。

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2004.09.08

Who are the people in your neighborhood?

 永住外国人の参政権は、どうも物騒な話題になってきているようだ。この件について私には、まるで強い意見はない。というか、書くべき意見はないに等しい。ただ、この問題はそんなホットな話題なのかなという違和感もあり、多少自分の思うことと関連のことを、こんなふうに思う人もいるよ程度の参考例がてらに、ちょっと書いておく。
 私は、地方参政権に限定すれば賛成だ。国政へは反対。そんなの常識じゃないの、というくらいこの問題に疎い。なぜ地方参政権授与に賛成なのかというと、国と地域は厳格に違うし、永住外国人は地方税を払っているのだから、その住民サービスの一環により主体的な関わりをもっていいいだろう、というくらいの考えだ。もちろん、この件だけに絞っても各種反対があるのは、ネットを眺めて知った。というか、反対・賛成は、どちらもなるほどなというくらいには思う。
 私はこの問題をあまり理詰めに考えていない。心情的なものだ。口をついて出るあの歌の心情である。


Oh, who are the people in your neighborhood?
In your neighborhood?
In your neighborhood?
Say, who are the people in your neighborhood?
The people that you meet each day

 訳す必要もないほど簡単な英語。セサミストリートの十八番である。これに続いて、消防士だの歯医者だの、社会を構成するいろいろな人々が出てくるのだが、全部正確に覚えているわけでもないので、歌詞をネットでひいたら、これがなかなかよい(参照)。

Bob: Oh, hi there, little fella.
Anything Muppet #1: Hello.
Bob: Hey, listen, know who you could be if I gave you this little hat and this bag to go over your shoulder?
Anything Muppet #1: I could be a laundry man.
Bob: No, not a laundry man.

 ここで、いの一番にランドリーマン、洗濯屋をもってくるあたり、セサミというのはしみじみいい番組だなと思う。私の誤解もしれないが、ランドリーマンは言葉が通じない移民の仕事の代表だ。日系や沖縄系の一世がよく洗濯屋をやったものだ。
 そういう洗濯屋をする永住外国人こそ私のネイバーフッド、隣人であるのだ。隣人と地域で顔をつきあわせていきていくのが人情ってものじゃないかと私は思う。
 私の思いはその程度のものだ。地域の隣人は等しい、と。
 それでも、日本での永住外国人問題は現状では、実際のところ在日朝鮮人の問題だというくらいのことは、わからないでもない。つまり、この問題は、実質、在日朝鮮人と我々の日本人社会はどう取り組むかという問題なのだろう。
 と、話をその方向に絞ったものの、私の考えはまたしても単純だ。この問題は日本社会が健全なら、在日朝鮮人の一世が死ぬ時代には自然に終わるだろう、ということだ。悪意に聞こえてはいけないがそれまで待てばいいのではないか。
 現状、すでに在日四世の時代であり、そしてそこには在日一世とは違った感性が生まれつつある。単純に言えば、朝鮮系日本人というだけで、つまりは、日本人なのだ。自然に帰化が進むだろう。あるいはそれを促進する施策を進めるべきだろう。
 そうして帰化が進めば、やや語弊があるかもしれないが、琉球系日本人と似たようなものになるだろう。後者のほうが朝鮮系より少ないので対立した形でエスニシティは露出しないし、また、本土歴史とも長い関係があるのでより融合しやすい。それでも、それはより広義には私のように信州系日本人みたいな些細な差異の感覚として、結局は日本に統合されるだろう。
 もちろん、在日一世の問題意識が思想として純化して嗣がれている側面もある。この嗣がれ、リニューアルされた部分の扱いは難しいなと率直に思う。が、取り敢えず、その祖形である一世の感覚はわからないでもないし、そしてこれは歴史のなかに埋没し、消えるしか解決もないように思う。極論すれば、その対立は、どの国民も他国民に害を与えうるものだという一般的な歴史の問題に解消するしかないだろう。日本人にはあまり知られていないようだが、隣国ということでいっても、ギリシアとトルコの歴史など日本と朝鮮の歴史の比ではない。それでも和解の道が開きうる。
 在日一世の問題意識については、「国境を越えるもの 在日の文学と政治」(金石範)が面白かった。

 日本が戦後の責任をもつということは、たんなる戦争責任ではなくて、これは人間の問題なんです。自分たちが支配し、相手の自分というものを否定し、他者たらしめたころからね、人間的に責任をもたなければならない。日本の政府は責任をもたないから、われわれ在日朝鮮人は他者的な存在から自分の存在になるためにやってきている。それを常に意識させるものが、日本の差別とかいろんなことなんです。何十年も日本に生きて、日本の国籍を取らないなんて、そんな馬鹿がどこにいますか。日本人はやっぱり分からないんだ、これが。冗談ですが、日本から天皇制がなくなれば私も帰化いたしますよ。その時私は世の中にいませんけれども。

 彼が私にじかにこれを話すなら私はじっと聞くだろう。ブログのコメントだと、さてご本人は本当に在日一世なのか確認しづらいので困惑する。それとは別にその見解をどう思いますかと問われれば、私の意見はまったく賛成しない。その理由を述べる前に、金石範の冗談が気になる。
cover
国境を
越えるもの
 冗談は、「天皇制がなくなれば」という仮定なのか、彼自身が歴史の流れに比してそれほど余命がないというユーモアなのか、そのどちらかなのかわかりずらい。ただ、心情的には前者だろう。そして、それはこの前半と合わせれば、天皇制こそが日本の他者差別を生み出しているものだと言いたいのだろうと推測できる。たぶん、そうなのだろう。
 天皇制とは社会制度というより、まず日本国憲法の規定だ。憲法という社会契約が結べなければその国民ではない。この規定をいつの日か日本人の総意が改変するかもしれないが、それは他国の人の問題ではない(外側から問われる課題ではない)。しかも、単純に制度としてみるなら、天皇が直接社会差別を生み出しているわけではない。それらは思想なり社会学的な分析の産出であって、日本の法はその差別を否定する。
 それでも、日本社会には根深い差別があるのを私も感じる。そしてその意識が在日に強く表れるのもわかる。だが、私はその差別への感受の意識は当の日本人にも同質だろうと思う。阪神大震災では政府(村山政権)の対処のまずさの責任も問われず多数が殺されてしまった。そこにも無責任がある。
 セサミの先の歌は最後にこう締める。

The trash collector works each day
He'll always take your trash away
He drives the biggest truck you've seen
To keep the city streets all clean

 ゴミ収集人は私たちの隣人、彼らの仕事で街がきれいになっていくというのだ。
 日本人である私たちは、そう思っているだろうか。ゴミ収集人を内心差別しているのではないかと糾弾するのではない。社会のすべての仕事を等しく隣人と見ているのだろうかと思うのだ。これは金石範のいう「人間の問題」に広義に開いて問うべきだろう、彼の意図とは矛盾するかもしれないが。

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2004.09.07

白露に彼岸花

 今日は二十四節気の白露(はくろ)。早朝には草の葉に白い露が宿るという。七十二候では初候「鴻雁来」(こうがん きたる)として雁が飛来し始めるというが、それはない。それは中国の話。日本の鴻雁来は寒露。
 今年は残暑も厳しいので、秋の気配が感じられるのはまだ先かと思っていたら、川縁に彼岸花が咲いていた。なるほどもうしばらくすると彼岸には違いない。暑さ寒さも彼岸までということになるのだろう。

cover
アマバルの
自然誌
 東京に戻って約二年になる。その前の八年間の沖縄暮らしでは、海が臨めるところに居を求め転々とした。池澤夏樹の言うところの「アマバル」にも暮らしたが、そのころの借家の一つに、彼岸花が美しく、強く印象に残っている。沖縄で彼岸花かと感慨深かった。借家には老婆が十年以上も一人住んでいたらしく、彼女が植えたものに違いない。他にも季節ごとに各種の植物が現れ、まるでそれが彼女の遺言のようにも思えた。彼岸花は、死人花、幽霊花の異名もあるので、彼女の人生と合わせて、なにか小説のネタにでもなりそうだなとも少し思ったが、当方文才はない。
 彼岸花は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属。ラテン名は、Lycoris radiata。あれ?リコリス?と思うかもしれないが、紫色のジェリービーンはlicorice。別物だ。赤はジンジャーだね。
 彼岸花は曼珠沙華(まんじゅさげ、まんじゅしゃげ)ともいう。いかにも仏教めいた字面のとおり、法華経の摩訶曼陀羅華曼珠沙華による。摩訶はメガと同源の語でデカイということ。曼陀羅華は中野の古本屋。残りがこの曼珠沙華というわけだが、説明にもなっていないか。法華経は経典といってもなかなかドラマ仕立てなので現代語訳で読んでも面白いもので、読むとわかるが、法華経とは、いわゆるあのお経ではなく、SFXのように宇宙に出現する真理のメモリアルのようでもある。「銀河鉄道の夜」の最後の十字架のようでもある。その出現の前触れに、ヨハネの黙示録の光景のように、吉兆として法華六瑞という六つの印が天に現れる。その一つが四華という四つの花。曼珠沙華はその一つの花にたとえられている。ってな、壮大な趣味はいかにも江戸時代らしい。英語ではRed Spider Lily、赤蜘蛛百合、とも言われる。そんな感じもする。植物としてはアマリリスの一種だ。らりらりらりらーである。
 彼岸花の由来は中国大陸からだと言われているが、大陸には現存しているのだろうか。彼岸花は史前帰化植物の一種とも言われ、縄文時代から延々と日本に住み続けていた。しかも彼岸花は縄文時代のままであるに違いない。というのも、彼岸花には種はできない。親の球根に付随して子球根ができて増殖する。が、子球根といっても交配はないので、遺伝子は同じ。彼岸花こそが日本人の来歴を知っているに違いない。
 彼岸花は有毒植物でもある。毒成分はアルカロイドのリコリン(lycorine)やガランタミン(galanthamine)だ。毒性が強いわけでもないが、一応気をつけるにこしたことはないだろう。古代人はこの毒性に目をつけて墓場の守りに植えたり、田畑の動物除けに植えたのかもしれない。
 毒は球根が強い、この球根(鱗茎)は、漢方では石蒜(せきさん)と呼ばれ、適量を去痰剤に処方することもある。しかし、アルカロイドは水溶性なので水に晒して毒抜きもできる。毒を抜いて残りの澱粉を食用にする地方もあるようだ。沖縄のソテツのようなものなのだろう。とすれば、多分、うまいに違いない。毒キノコと言われるベニテングダケも私は喰ったことあるが、うまかった。なにか、こう、毒とわかっていてもうまいんじゃないかというものに、人間は惹かれるような気がする。


【追記2004.09.20】

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毒草を食べてみた
 「毒草を食べてみた」に彼岸花の毒性について興味深い記載があるのを書くのを忘れていた。追記したい。

 毒性は、煮たり炒めたりして熱を加えても変わらない。それなのに、昔の人は飢饉とはいえ何だってこんな毒草を食べたのだろう。
 その答えを出してくれたのは、球根を粉にして蒸したものをヘソビ餅だと教えてくれた能登のおばあさんだった。明治三二年生まれの彼女は、十六歳で伊勢から嫁ぎ、かつては旧家だったであろう、海にのぞむ大きながらんとした家にひとりで住んでいた。
(中略)
 日本海の荒涼たる風景をひとりぼっちで眺めながら、彼女はときおり故郷を思い出してヘソビ餅を作るのだという。
(中略)
 ヘソビ餅は、この粉と同量の水を鍋に入れ、とろ火でねっとりとした糊のようになるまで煮詰めていく。熱いうちに皿にあけ、冷やして固める。ほとんどくずもちの要領である。しかし、味つけは黄粉やアンではなく、きざみネギと、なめ味噌のような醤だった。

 余談だが、また本書には触れられてないが、デザートによく使うタピオカにも毒性があり、彼岸花球根と同様に水にさらして毒抜きしている。この例のように、毒抜きした澱粉はそれほど珍しい食品ではない。

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2004.09.06

新羅・しらぎ・しんら・シルラ

 このところ「新羅の神々と古代日本 ― 新羅神社の語る世界」(出羽弘明)をぱらぱらと読んでいた。内容は標題どおり日本各地の新羅神社について書かれた本だ。新羅神社なんてあまり多くの人には関心ないだろうから、お勧めしたい本ということではない。このエントリも、だから、ちとたるい。
 著者はこの分野の専門家ではない。話は足で稼いでいるといった趣。足で稼いだ話というのは、金達寿の、例えば「日本古代史と朝鮮」のように紀行文的な味わいもあり面白い面もある。本書は奇妙に文学的な嗜好がないのもいい。谷川健一の、例えば「日本の神々」(岩波新書)なんかだと、気分は伝わってきても、結局なに言ってんだか皆目わからん。
 「新羅の神々と古代日本 ― 新羅神社の語る世界」の冒頭を読みながら、ふとこういう話を今の日本人はどう受け止めるのだろうかと気になった。


 韓国では今でも三国時代の地域間の対立が残っていると言われる。『三国史記』などによれば高句麗、百済は扶餘族であるが新羅は元々辰国あるいは馬韓の一部であり、秦国の亡命者や、倭人と接していた韓族である。馬韓は扶餘族より滅亡し百済国となったことが遠因であろうか。日本古代においても、百済系の大王と新羅系の大王(天皇)は異なった扱いである。

 扶余と言えば、現代では忠清南道南西部の都市名だと思う人が多いだろう。元来は百済の都だった。百済王家も扶余系を自称していたからで、史記もそれを記している。だから、この本のように百済は扶余族であると言われる。私も特に否定するものでもないが、それほど肯定もしていない。
 扶余はツングース系の民族で、現在の中国東北地区紀元前一世紀から紀元後五世紀に国を興していた。この扶余系民族には高句麗が含まれる。
 百済は660年に日本の援軍も虚しく滅亡したので、半島にはその後、高句麗と新羅が残る。現在の朝鮮は、そうして見ると、大雑把に言うのだが、扶余族と韓族という二つの別種の民族から成ると理解してよさそうだ。が、このあたりの話はナショナリズムが興隆しつつある現代の朝鮮には通じにくくなっているような気がする。
 また、先の引用部分では、倭国の大王についても、百済系と新羅系とを分けていた。私の誤読もあるかもしれないが、単純なところでは、百済系が天智天皇、新羅系が天武天皇と理解していいだろう。
 ちょっと話が常識から逸脱するが、書紀の記すところでは、この二人は兄弟となっているが、天武天皇の出目の記載もないことや、書紀の編纂ミスからか天智天皇の即位前の中大兄皇子を韓子(百済人)と参照したと受け取れるテキストもあり、二人は別の血統なのではないか。ただし、このあたりは現状ではトンデモ古代史になりそうなのでこれ以上は控える。
 それでも、新羅人の倭国への流入はかなり古い時代になるのだろう。統一新羅以前になるはずだ。その痕跡が新羅神社にあると考えても、そう不思議ではない。

「新羅神社」は新羅の人々がその居住地に祖先を祀った祠(祖神廟)であり、新羅人が居住した地域の氏神である。したがって新羅神社の由緒を調べることは、古代に渡来した新羅の人々の居住地や痕跡を辿ることである。新羅神社は、ほぼ全国にわたって存在しているが、本書では全国の新羅神社を便宜的に「渡来系」と「源氏系」に分けた。「渡来系」とは文字通り新羅から移住した人々が氏神の祖神を祭った神社であり、「源氏系」とは、三井寺の新羅神社の神前で元服し、「新羅三郎」を名乗った源氏の無精源義光に端を発するものである。

 新羅神社跡=新羅人の居住区というのは、民俗学にありがちな荒っぽい措定だが、それでも現状の分布を調べる意義はあるだろうし、その際、「源氏系」をマークアウトするのは方法論的には正しいはずだ。
 「新羅神社」の名称にも史的なバリエーションがある。

 新羅神社の呼称は「しんら」と「しらぎ」が混在しており、表記や発音も「白城」、「白木」、「白鬼」、「信露貴」、「志木」、「白井」、「白石」、「白髭」、「白子」、「白浜」、「白磯」などと変化している。中には渡来系の神社であることを社号からまったく消して「気多」、「気比」、「出石」などと呼ばれている神社もある。祭神についても同じことが言える。当初の神を抹消したり加神したりしている。また『記紀』の神話の神を同座させる操作も行われてきた。

 これらのバリエーションの派生にどの程度信頼が置けるのかは個々に議論しなくてはいけないが、それでも派生が起きているということは前提になる。重要なのは、ここでさらっと触れているように、『記紀』の神話からの意味づけに注意することだ。記紀はこれらの神社の成立より時代が新しい。日本の神社は実は記紀によっては意味づけできないのがその本質だ。
 こうした日本の新羅神社の系譜もだが、気になるのはこれらの新羅人は半島ではいつの時代の新羅だったかだ。繰り返すが、百済滅亡以前であり、さらに統一新羅がでできる以前だろう。
 新羅の建国については日本同様神話が起源になる。新羅王の始祖は卵から産まれるので卵生神話の一種だ。四世脱解も卵生である。歴史的には、四世紀に辰韓が斯盧国によって統一されて成立し、北の高句麗、西の百済と並んで三国時代を形成した。統一新羅ができるのは、676年、七世紀であり、日本の本来の成立と時期を同じにする。なお、日本が七世紀に成立したとの見解は昭和天皇も言明しているが、日本国内では定説化はしていない。
 新羅については、誰が書いたのかWikipedeiaが重要な記載を加えている(参照)。

4世紀後半から6世紀にかけての慶州新羅古墳からは金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化より北方遊牧民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。このため奈忽王以後の金氏は鮮卑系ではないかとの説もある。

 奈忽王は17代で在位は356-401である。まさに四世紀後半から六世紀にかけての新羅には、文化的にみて謎が多い。中国との交流も少なく、文化的に閉ざされている印象もある。
 この時代について、先の副葬品から美術史家由水常雄が「ローマ文化王国‐新羅」でとてつもない仮説を出している。標題のようにこの時代の新羅はローマ文化が興隆していたのとしているのだ。それだけ聞けば、「またトンデモ本かよ」だが、同書には、これは否定できないのではないかと思わせる出土品が数多く掲載されている。あおりを引いておく。

従来の史家は"北方系の異質な文化"として、解明できなかった四~六世紀の新羅とはどんな国だったのか? 天馬塚、味鄒王陵、皇南洞九八号墳等、韓国考古学の成果である大発掘による出土品の数々と世界の博物館の品々とを対比させ、深い関係を検証して、正に新羅文化がローマ文化の所産である一大展観を書中に試みた画期的著作。

 はっきり言って「ローマ文化王国‐新羅」を読んで私は人生観が変わった。先日国立博物館の東洋館で黄金の樹木冠やトンボ玉を見ながら、これはローマ文化と言うほかはないように思えた。
 同書は今アマゾンを見たら絶版で、古書にはお宝の値段が付いていた。嘆かわしい。一部からはトンデモ本扱いされても、この再版を出す責任があるのではないか、新潮社。

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2004.09.05

北オセチア共和国学校占拠事件

 北オセチア共和国学校占拠事件は陰惨な結果に終わった。全貌が明らかになるにつれ、喉が詰まるように苦しい思いがする。なにより子供たちの被害を知ることはつらい。死者数の公開は今後さらに増えるとも予想されている。
 この事件をどう見るべきか。すでにいくつか典型的な視点がある。いわく、テログループたちとのねばり強い対話が必要だった、背景にあるチェチェン問題を解決することがこうしたテロを防ぐことになる、ロシアの強権的な秘密主義は許せない、治安部隊の突入は失敗だった…といったものだ。しかし、実態を知るにつれ、そうしたいかにも正義じみた主張は虚しくなってくる。
 テログループたちとは対話の余地はなかったと思う。高い気温にも関わらず子供たちに水すら飲ませなかったのだ。食物がなくても人間はかなり大丈夫なものだが、水がなければ三日でアウトだ。前回の劇場テロとは違う。最初から莫大な被害を起こしてテログループはトンズラするつもりでいたようだ。
 チェチェン問題を抜本的に解決せよというのは、この問題の識者からの指摘に多いが、識者は知に溺れるの図ではないかと思う。現状のチェチェン大衆はテログループを支援していない。独立への思いはあるにせよ、現状を受け入れつつあることは、今回の選挙の支持率を見てもわかる。問題は複雑だが、現実的には大衆の生活を徐々に改善していけばよいだろう。スターリンの弾圧を受けた民族はチェチェンだけではない。
 ロシアの強権的な秘密主義はたしかに問題だが、秘密主義をやめることが今回の事件をよりよく改善する方向に寄与したかは疑問だ。むしろ、今回プーチン大統領は国連にきちんと支援を求めている。こうした事態にどのように情報を制御するかは、指導者に任される問題だろう。
 治安部隊の突入が失敗だったとも言いづらい。大半の犠牲は爆破によるもであり、この爆破は治安部隊の活動に誘発された可能性があるとしても、当初から仕組まれていたものだからだ。ひどい言い方だが、プーチン大統領にしてみれば、人質の生存も大切だが、今回のテログループを確実に殲滅することも等しい課題であったに違いない。その配慮との強行のバランスから見れば、治安部隊の行動の成否はほとんど運に任されていたように見える。
 と、いうように私は自分の頭のなかで詰め将棋をしてみる。チェックメイト…いや、そうだろうか。どこかに忘れていた退路はないのか。
 もしあるとすれば、チェチェン共和国に隣接する北オセチア共和国の治安強化だろう。今回の事件でもどうやらテログループは周到にテロを準備していた。周到であれば周到であるほどそれを阻止するチャンスもあるに違いない。いずれにせよ、テロ対策が強化されるだろうし、当然、生きにくい生活の雰囲気も漂うだろう。それこそ、実は日本人が未だ経験していないものだ。
 北オセチア共和国は、ロシア連邦を構成する共和国の一つだ。すでに述べたように東にチェチェン共和国に隣接する。共和国としの民族自治は、国名の由来でもあるオセット人によるとされている。が、人口構成を見ると、オセット人53%、ロシア人30%、イングーシ人5%(参照)。日本人から見れば、オセット人とロシア人の区別は付かないが、それはアメリカ人が日本人と韓国人、中国人の区別がつかないのと同じで、彼ら自身は、違いはっきりわかっている。同じロシア正教徒であると言っても、言語も文化も違う。古代スキタイを嗣いでいるとも言われる。北オセチア共和国のロシア人は多分にかつての支配者であろう。今回のテロもロシア人の捲き沿いを喰らったと思っているに違いない。マイノリティのイングーシ人はチェチェン人と民族的には同じ。ロシアに抵抗しなかったグループを便宜的にそう呼んだといってもいいようだ。
 ロシア連邦を構成する非ロシア系民族の多い各共和国では、表立つことはないにせよ、プーチンへの批判は出てくるだろう。ロシア人はさらにプーチンを支持するのではないか。プーチンを批判することはたやすい。しかし、このカリスマティックな大統領が折れれば、ロシア連邦にアノミーが起こるだろう。
 英国紙テレグラフは、「プーチンはこの悲劇に動じない」"Mr Putin will not be moved by this tragedy"(参照)と語ったが、彼は自国への愛からこの悲劇を嘆くことが許されていない。

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