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2004.08.14

DNAから日本人の起源がわかるものなのか

 宝来聰総合研究大学院大教授が10日に亡くなった。58歳。直接的な死因は肺化膿症とのことだが、別の病気から誘発したのではないのかとも思った。わからない。今後の活躍が期待される学者だったのに残念だ。

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DNA人類進化学
 書棚を探すと、宝来聰教授の本が一冊残っている。「DNA人類進化学」だ。アマゾンで見たら、在庫切れになっている。絶版だろうか。他の著書はどうかと思って、検索したがまずもって見あたらなかった。1997年の「DNA人類進化学」の知見はその後、本人が否定したともどこかで聞いたことがあるが簡単には確かめようがない。ネットをサーチしてみると、同書についてのコメントはちらほらとあるが、率直に言って、あまり要領を得ない。私の理解が足りないのかもしれない。
 「DNA人類進化学」で私が印象に残っていることは三つある。一つは人類をその起源から考えるとき、アフリカ人の多様性こそ重視しなければいけないのではないかということ。日本人は白人、黄色人種、黒人くらいにしか分類しないが、どうもこの分類自体が近代の偏見のようだ。二点目は、琉球人の祖先がいわゆる縄文人から遠いとしている点だ。この点については、率直なところそれ以上はよく読み取れない。それでも、私はアイヌと琉球が日本人の原型だとするのは間違っているように思うので印象に残った。三点目は、二点目に関係するのだが、日本人起源論ではおそらく定説と思われる埴原和郎説を否定しているように見えることだ。
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分子人類学と
日本人の起源
 ところが、読みやすい入門書である「分子人類学と日本人の起源」を見ると、宝来説が埴原説をサポートしているかのように書いてある。そう読めないこともないのだろう。
 宝来聰の研究は、「DNA人類進化学」でまとめられた時点では、母性遺伝のミトコンドリアDNAによる人類・民族起源を対象としていた。ミトコンドリアDNAは母系だけに遺伝する。このからくりから彼はこう説明している。

例えば、われわれ一人一人の一〇世代前の祖先は2^10、すなわち一〇二四人存在するから、われわれのもつ核のDNAは祖先の染色体の全部で四万七一〇四本(四六本×一〇二四人)のうちの四六本に由来するものを持っている。したがって、各染色体が一〇世代前のどの先祖に由来するのかを特定することはほぼ不可能である。一方、ミトコンドリアDNAでは、確実に一〇世代前の一人の母系の祖先が持っていたミトコンドリアDNAに行き着くことができる。

 それが本当なら、かなり確実性をもって祖先の推定ができそうにも思うが、この限定性には両面があり、端的な話父系にはかかわらない。むしろ、遺伝子学を使った祖先の特定はできないというふうに読んでもいいのかもしれない。
 東アジアや東南アジアのように、紀元前から華僑的な交易の盛んな地域では、男は単身で遠隔地に行って、そこで現地妻を作る特性がある。なので、文化的な特性及び父系の遺伝的要素がまるでわからないと、実際には無意味な結論になりかねない。
 率直なところ、こうした民族起源説は、私は話半分といったところかとも思う。
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日本人の
骨とルーツ
 しかし、古代史全般に言えることだが、こうした「科学的」な手法が古代の真実を表すと考える人は多い。しかたがないのかもしれない。以前、松本秀雄のGm遺伝子論(「日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く」)に固執する人と話をしたことがあるだが、それだけが科学的な日本人起源だとして譲らずに閉口した。
 同類の科学的な議論は、日沼頼夫「新ウイルス物語―日本人の起源を探る」にも見られる。栗本慎一郎はこれに偏って評価していた。しかし、科学というものは多面的だ。なのに、常識的な科学観が、古代史といった分野では欠落しやすいのだろう。
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母型論
 その点、吉本隆明はこうした問題を扱った母型論では、埴原説、松本説、日沼説を並べながらも一定の距離を取っている。だが、この本はあまりに独自すぎてどのように評価していいかわからない。また、言語をもって民族起源に迫ろうとしているようにも見える点は稚拙すぎる。言語の起源は民族の起源とはまったく独立である。
 文化様式も民族の起源とは異なる。だから、民族学や民俗学的な知見から日本人起源を探ることは無意味だ。縄文人も弥生人も本来は、洒落に過ぎない。縄文土器と弥生土器という文化様式があるだけなのだ。
 結局、日本人のルーツは何か、どう探るのかという問題になる。だが、この問いかけが倒錯しているのだろうと私は思う。宝来聰らのような研究が無意味だとは思わないが、それらの研究成果がもし我々日本人の起源幻想に答えようとしているならやはり倒錯だろう。
 問題は、「われわれ」というときの民族の幻想的な同一性である。これがどことなく血をや骨格を連想させることが科学の装いを持ってDNAだのという話になりやすい。だが、民族とは共同的な幻想による集団の行動特性でしかない。韓国でも、高句麗・渤海の起源を巡って中国と争い始めたが、この議論に潜む朝鮮族という幻想から抜け出ようとはしない。近代が民族国家を志向するなら、統一朝鮮ができても同じことになるのだろう。中国は中国で諸民族の統合を名目としつつ実際には巨大な民族国家的な志向をする。
 特に話の結論はない。
 余談だが、今日で極東ブログが一年経った。一年よく続いたものだなと思う。感慨はある。思うこともいろいろある。人生のある一年、よく書き続けたものだと自分をいつか思うのだろう。

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2004.08.13

北朝鮮残留日本人

 「流れる星は生きている(藤原てい)」を読み返しつつ、史料として見ると、ソ連と朝鮮を配慮してあえて書かれていないせいもあるのだろうが、反省するに、私も背景についてよく理解できないことが多い。満州の崩壊については、もっと組織的に勉強しなおしたほうがいいのだろう。単純な話、藤原ていが引き揚げのときに持っていた紙幣はどのように流通していたかさえわからない。紙幣など一夜にして紙くずになってもよさそうだが、そうでもない。
 引き揚げのルートがなぜ、あのようなものであったのかもわからない。38度線というと私などは朝鮮戦争後のイメージが強いが、満州崩壊後はソ連軍と米軍の管轄の線引きだったのだろう。宣川の状況についてもよく読み込めていない。ソ連の暫定的な管轄下だったのではないかと思う。そこで1年滞在後に彼らが移動を開始するのは、その管轄にも関係があるのだろう。別の言葉で言えば、ソ連軍には、難民を保護して日本本土に帰還させる義務があったと思うがそれが実質放棄されたのではないか。いずれにせよ、藤原ていなど日本人は、38度線越えてから米軍に保護された。
 当然ながら、こうした逃避行を実施し得ない人々も存在する。満州といっても、北の延吉や南の安東などすでに現在の北朝鮮域に近い。北朝鮮に残留した日本人も少なくないことは想像にかたくない。彼らはどうなったのか。
 私がこの問題に気になったのはそう昔のことではない。その存在は以前から知ってはいたが、日本国政府が動く気配はないようだった。中国残留の日本人とは違い、国政上顕在化したのはようやく、1997年12月5日にもなってのことのようだ。同日の読売新聞「北朝鮮残留日本人 一時帰国目指し親族調査へ 1442人中、67人/厚生省」にはその実態についてこう記している。


厚生省によると、北朝鮮からの未帰還者として現在、親族から届け出がある残留日本人は千四百四十二人。このうち、千三百七十五人は、死亡が確認されないまま、親族が裁判所へ申請して戦時死亡宣告を受けている。それ以外の六十七人については、同省は九一年まで随時、親族の所在確認を行ってきたが、住所が変更されて居住地がわからないままの親族もいる。

 私はこのニュースに驚いた。厚生省が関わるのは67人のみ。1375人については、死んだことになって終わりなのである。
 藤原ていは生死の境を越えて生き延び、当時の記憶もないほどの幼児だった藤原正彦はすでに初老といっていい歳になる。この同じ年代の日本人が、北朝鮮の地にあって、すべて死に絶えたのだろうか。そんなわけはないだろう。
 ふと気になって、過去の新聞を見ていると、奇妙な話があった。奇妙で済まされることではないのだが、樺太(サハリン)残留の日本人が北朝鮮に連れられたケースがあるというのだ。1991年読売新聞「 不明のサハリン残留邦人女性 北朝鮮へ移住させられた ソ連当局が認める」の記事だ。

 同州ユジノサハリンスク市(豊原)に住む秀子さんの妹、ザツェピナ・徳子さん(49)と大阪府内の兄、梅村時男さん(56)の二人が昨年十月にKGBサハリン州総局に対して行方を明らかにするよう求めたところ、徳子さんあてに十一月、U・N・ビスコフ総局長の名で回答書が郵送された。
 回答書は「あなたの親族の運命については、ソ連内務省の決定で北朝鮮との合意により、市民権のない人物として一九七七年十一月十九日、北朝鮮に引き渡された」などとしている。生死や現在どこにいるかなどには触れられていない。
 徳子さんは「秀子さんが日本移住を強く望んでいたので(日ソ冷戦で)好ましくない人物として強制移住させられたのではないか」と話している。

 これは特殊なケースだろうとは思う。しかし、それを言うなら現在焦点を当てられている拉致被害者についても特殊なケースのようにも思われる。もっとも、戦後処理と国家犯罪は別だとも言える。
 北朝鮮残留の他に、樺太残留の日本人にも複雑な問題がある。ぞんざいに書いてはいけないことだが、戦前の日本は朝鮮人を多数樺太に強制連行したが、この地で日本人女性と結婚した人も少なくない。日本人社会がそこにあったからだ。彼女たちも長く日本に戻ることができなかった。朝鮮人の樺太連行については、別途書きたいとも思う。
 樺太残留日本人の引き揚げは戦後ある程度組織的に行われたが、その後は個別の問題とされた。1993年に国際状況の変化からか社会の話題になり(参照)、永住帰国のニュースも聞いた。あらかたは解決したのか、最近はあまりこの話を聞くこともない。

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2004.08.12

[書評]祖国とは国語(藤原正彦)・父への恋文(藤原咲子)

 流れる星は生きている(藤原てい)で、当時26歳の藤原ていは、6歳の長男正宏、3歳の次男正彦、1か月の長女咲子を連れて壮絶な満州から引き揚げた。「祖国とは国語」(藤原正彦)はその次男、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」(藤原咲子)はその長女が、それぞれ、それから半世紀の時を経て書いた作品である。

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祖国とは国語
 「祖国とは国語」は、数学者藤原正彦が雑誌などに書いたの軽妙なエッセイをまとめたものだが、なかでも雑誌「考える人」に掲載された「満州再訪記」が満州引き揚げに関連して興味深い。彼は、半世紀の年月を経て、彼は自分が生まれた満州の地を母と訪れたかったというのだ。帯の引用がよく伝えている。

混乱の中で脱出した満州の地を訪れることは、長い間、私の夢であった。母の衰えが目立つようになったここ数年は、早く母と一緒に訪れなくては、と年に何度も思った。母が歩けなくなったり、記憶がさらにおぼろになったら、二度と私は、自分の生まれた場所を見ることはできない、と思うようになっていた。他方では、八十歳を超え、体力低下とわがまま増大の著しい母を、連れて旅することの憂鬱も感じていた。

 「わがまま増大の著しい母」というユーモラスな表現が今も気丈な藤原ていをよく表している。感傷的な物語ではない。また、この新京(長春)への旅行には、妹の藤原咲子も同伴していて、家族の会話も面白い。
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流れる星は
生きている
 旅の話には当然、「流れる星は生きている」が出てくる。現在の文庫版には、昭和51年(1976年)文庫版のあとがきが付いているが、そこで、この本が藤原ていにとって遺書として意識されていたことが書かれている。

引き揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、歯を食いしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた。

 「流れる星は生きている」の最後が死を暗示する暗いトーンで描かれているのは、まさに彼女が死に直面している現実があった。
 遺書を企図されていたという話は「祖国とは国語」の「満州再訪記」に続く。次男、藤原正彦は新京でこう思い出す。

 自宅にある『流れる星は生きている』の初版本を思い出した。引揚げの三年後に日々や出版から上梓された時、父と母は、三人の子供たちが大きくなったら読むようにと、三冊を大封筒に入れて大事にしまっておいたのである。
 引揚げの苦労がたたり病床に臥ていた母の、遺書がわりとして著されたこの本は、半世紀を経て、ぺらぺらの表紙も粗い手触りのページも、すべて茶色に変色している。それぞれの扉には、父と母からのおくる言葉が万年筆で書かれている。私あてのものにはこう書いてあった。

 これに手短に新田次郎と藤原ていの、父母としての言葉が手短だが続く。引用はしない。
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父への恋文
 藤原ていの引き揚げ後の病床のようすは、藤原咲子の「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にも描かれている。
 彼女は、戦後の大ベストセラー「流れる星は生きている」の咲ちゃんとして周囲から見られて育った。誰もが、「咲ちゃん、よく生きていたわね」と驚愕の眼でその少女を見つめたのだろう。しかし、本人にしてみれば当然わかるものではない。
 大人である私からすれば、その咲ちゃんは、母の強い愛情を受けて強く育ったに違いないと思う。もちろん、そうでないわけもない。だが、この咲子本人の本には、少なくとも私にはぞっとするエピソードが描かれている。藤原咲子は「流れる星は生きている」を読んだことで自殺をもくろんだという。その小学校六年生の時の咲子の文章が、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にそのまま掲載されている。

 大好きなお父さん、咲子は死にます。
 これ以上生きていると本当に悪い子になってしまいます。「チャキはいい子だね」とお父さんがいつも私の頭を撫でるでしょう。嬉しいけれど、そのたびに、お父さんの咲子でなくなりそうな気がします。どんどん良い子から離れていくからです。

 自殺を決意した遺書だ。そのきっかけは、母ていの「流れる星は生きている」を読んでのことだった。まさかと思うだが、咲子はこの物語を読んで、自分など生きていなければよかったのだというように了解してしまったようだ。兄二人と一歳の乳児の生命の重要性に順序をつけようと苦悩する描写なども、咲子の心情を傷つけたようだ。
 そんな受け止めかたがあるものだろうか。なぜ、そんな「誤読」になってしまうのか。と、私はここで、ある種呆然とした思いで立ち竦む。
 小学六年生の女の子の心情とは、そのようなものである。幼いと言えば幼いのだが、死をそこまで思い詰める心の動きにうたれる。私が、少女の父親なら、感受性のするどい小学六年生の少女に立ち向かえるものだろうか。
 小学六年生の咲子は長い遺書を書いたのち、風邪薬を大量に飲んだ。市販薬の風邪薬だから、結果は傍から見れば笑い話にもなろう。これが、親が睡眠薬を常用していたのなら、ぞっとする結果になりかねない。
 もちろん、成人し、この話を書きつづる大人の藤原咲子はこう見つめ直している。

『流れる星は生きている』を読んだあとの絶望感は、日常のすべてにわたり、私を虚しくさせ、それをふり払うことができないまま、ついには母への不信感へと移行していった。風邪薬を飲むという行為そのものは、滑稽、幼稚であり、喜劇的な結末をもたらしたが、十二歳の、感性の豊かな少女の心をギリギリまで追いつめた数行の表現は、切なく、悲劇的なこと以外に、いったい何をもたらしたというのだろうか。しかし、戦時下でやむなを得なかったという重要な事実を、誰からも説明されなかったことは、それ以上に悲劇的であったといえるかもしれない。

 もちろん、そうだ。だが、と、私はここでも立ち止まる。では、誰かが戦争とはかくかくであったと説明すればよかったのだろうか? 曰く、戦争の悲惨さを語り継げ、命の尊さを子供に理解させよう、と。
 私にはわからないという感じがする。
 傍の者がここまで言ってはいけないのかもしれないが、彼女の心を死にまで追いつめたのは、まさに一歳のときの生死を分ける惨事の無意識そのものではなかったか。
 そして、その無意識は、母藤原ていとシンビオティック(symbiotic)な、死に直面する凶暴な何かだったのではないか、と思う。歴史とは、そのように、恐ろしい爪痕を心の奥深くに残すことで、継承されるものだろう。むしろ、歴史とは、我々の無意識の、個人の意識だけに還元されない集合的な無意識の、凄惨な残滓であるかもしれない。そして、母性と女性性とは、その恐ろしい何かに耐えるように人類の意識の基盤としてあるのかもしれない。
 だからこそ、「父」がそこに立ち向かわなければいけない。彼女の父、新田次郎はそれを本能的に、あるいは、歴史心情的に理解していたのだろうと、この本を読んで察せられる。
 咲子の心の傷は、父新田次郎の物語によって癒されることになる。不思議な奇跡の物語である。新田次郎という「父」の存在が、歴史がもたらした凄惨な無意識をきちんと受け止めるように援助し、そのことで、「生」への回帰を親和的にもたらしている。
 と、言辞を弄しているきらいはあるが…。
 私は藤原咲子という人の存在がとても気になる。昭和51年(1976年)文庫版「流れる星はいきている」の後書きで、母藤原ていは娘の咲子について、こう軽く触れている。

 当時生まれて間もなかった娘も、三十歳になった。大学で文学を勉強していたので、小説でも書き出すのかと思っていたら、自分で結婚の道を選んだ。すでに二児の母になっている。

 母から見ても、この娘は小説を書き出すように見えたのだろう。父新田次郎も、自分の死後自分のことを書いてくれと彼女に残している。親から見れば、この子は作家になるとの確信を持っていたのではないだろうか。
 変な言い方だが、戦後史に藤原咲子という小説家が不在であることのほうが不思議であるようにも思えてくる。
 小説家というのは、若くして書き出せばいいものでもあるまい。八つ当たりのようだが、ここで、私はよしもとばななのことを連想する。彼女もその作品のあちこちに父吉本隆明のイメージを描きながら、いまだに父と母の物語の核心を描いていないのはなぜか。私は、彼女がそれを書くまで、どれほど素晴らしい作品を書いても、運命が彼女に書かせるべき小説を書き上げていないのではないかと思っている。

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2004.08.11

李下に龍を顕す

 この14年間シンガポール首相を務めてきたゴー・チョクトン(63歳、Goh Chok Tong)が辞任し、明日12日、これまで副首相兼財務相を勤めてきたリー・シェンロン(52歳、Lee Hsien Loong)が首相となる。シンガポール建国の初代首相にして善き独裁者リー・クアンユー(80歳、Lee Kuan Yew)の長男である。単純に言えば、王位継承ということだ。世界が沈滞化してきたのか、自由主義国ですら、世襲が珍しくないが、直接的な国民投票によらないという点ではどこかの寒い国に似ている。もちろん、どこかの寒い国と同様に、表層的にはその国民に不満があるわけでもない。リー・シェンロンはシンガポール国民に強く支持されている。もっとも、盤石と言えないのは、かつてリー・クアンユーがその位置にいた上級相にゴー・チョクトンがつき、さらに心太よろしくリー・クアンユーは新設の顧問相に突き上げれたことからでもわかる。没問題、大丈夫。52歳のシェンロンには、パパがついている。かくして三首相体制となった。東南アジアの龍に首が三つもある。なんだかキングギドラみたいだな。
 今回の世襲は古い筋書き通りだった。もともとゴー・チョクトンは父クアンユーが長男シェンロンに国を嗣がせるための中継ぎに過ぎなかった。シェンロンが父に並ぶ生え抜きの経歴を持つのに対して、ゴー・チョクトンは見劣りがする。シンガポール大学を卒業し、政府系海運会社の役員を務めて、1976に政界入った。その後、国防相・副首相を歴任して、1990年リー・クァンユーから首相職を移譲された。リー・クァンユーにしてみると、英国自治領時代から通算31年後のこと。すでに、1984年に政界入りした世継ぎの嫡子シェンロンも、この時すでに副首相兼商工大臣となっていた。いい滑り出しじゃん、とパパは思ったか。
 人生というのは広く眺めてみると意外に公平なものである。あるいは、どこかに神の采配があるような気もしてくる。「天の将に大任を是の人に降ろさんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いには其の為す所を払乱す。 心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を曽益する所以なり」である。1992年、シェンロンは癌(リンパ腫)にかかっていた。妻は1983年に病気で亡くしていた。世の辛酸舐めた。
 シェンロンは、「そのことは今でも人生に影響していますか」と訊かれたとき(参照)、こう答えた。「それは誰の人生でもありうることです。人生の荒波に揉まれず自動操縦の飛行機に乗るようにはいきません。人はそうした不幸とともに生きていくものなのです。」
 彼は先妻との間の子を引き取り、再婚もした。どこかの国の首相と、とても、違う。人生いろいろではないのだ。庶民の普遍的な生き様には変わりえぬ根幹というものがある。それを見つめることができない人が首相となってはいけない。国民が不幸になる。
 シェンロン個人への表立った批判は少ないだろうが、リー王朝への批判は少ないわけではない。現在の妻ホー・チンはテマセク・ホールディングスの執行取締だ。この企業はシンガポール航空など国内の主要企業を傘下にしている。弟のリー・シェンヤンはシンガポール・テレコムの最高経営責任者。ま、もっとも、自由主義というのはそんなものか。米国大領選挙候補ケリーの最終的な金づるはかみさんだしな。ブッシュ? もう言うまでもないでしょ。
 世襲で、しかも、大企業をファミリーにしていて、それでいいのか?
 いいに決まっている。それ以外になにがあるというのだ。歴史は苛酷だ。それを思えば独裁制と言われようが屁のごときだ。
 シンガポールの歴史は1819年に始まる。今ではホテルにその名前を残すサー・スタンフォード・ラッフルズがシンガポール島に着いたとき、そこに中国人はいなかった。マレー人が150人ほどだけ。なのに、4年後には、住人は1万人を越え、中国人はその1/3を占めるまでになった。中国人といっても、出身はばらばらでお互いに言葉は通じない。この華僑たちは、今でもそうであるように、その地に現地夫人を作るから、混血の子供がたくさん生まれる。日本の古代もそんなものだっただろう。
 マレー人の女と華僑の間に生まれた子供たちはババ・チャイニーズと呼ばれる。母語とはよく言ったもので、母の言葉を指すが、マレー人の母を持つ華僑の子孫たちは、マレー語を母語とする。中国語なんか話せない。リー・クァンユーもそんな一人だ。頭が良かったのは確かだから、宗主国イギリスで教育を受けることができた。
 1957年、ようやくこの地にマレー人の民族意識の高まりから、マラヤ連邦ができたが、できてみると、華僑の子孫ははたして自分たちが何者かわからなくなった。彼らは1963年マラヤ連邦に入ったものの、2年後に追い出された。この理由をマハティールがこっそり書いているが物騒で再録できない。
 こうして1965年8月9日、シンガポールは華僑の国として独立することにした。華僑なんだから中国を話さなくてはということで、リー・クァンユーも普通語(北京語)を覚えた。もっとも、ババ・チャイニーズたちがすべて彼のように普通語が話せるわけもない。そもそも華僑が北京語を話すというのも変な話だ。ということで、英語を普及させることにした。We can speak English, laである。語尾になんか付いているがいいじゃないか。日本人はかくしてシンガポールの公用語は英語だと思っている。間違いではない。が、公用語は英語、中国語(北京語)、マレー語、タミル語。で、この国の言語はと言えば、歴史が示すとおりマレー語だ。法螺話ではない。JETROの「シンガポール;概況 」(参照)にも正直にそう書いてある。
 そうそう、リー・クァンユーは漢字で李光耀だった。この光輝くイメージは息子のシェンロンのあだ名、Rising Sunに受け継がれているようだ。Rising Sunとかいうと、つまらぬ歌でも歌いそうになるな。

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2004.08.10

消費上向きで100円ショップがなくなる?

 6日のフィナンシャルタイムズに日本の100円ショップの話が載っていた。そんな話も載るのかと思って読んだ。"100-yen shops fall victim to Japan's recovery"(参照・有料)である。記者はMariko Sanchanta。標題は「100円ショップは日本の経済回復の犠牲となる」とあるように、日本の消費経済が回復するにつれ、日本人は安物買いをしなくなったというのだ。


With economic recovery increasingly well-established and deflationary pressures continuing to abate, Can Do, an operator of Y100 shops, is set to close 34 of them by November. Meanwhile, Daiso, the leading owner of Y100 shops, has diversified its product range by introducing items that cost between Y200 and Y300. Y100 shops first appeared during Japan's economic “lost decade”,

 話にさして裏付けがあるわけでもない。昨年11月にキャンドゥで34店舗が閉鎖。ダイソーでは最初のウリだった100円以外に、高額が200円、300円が出てきた、というのだ。が、日本の「失われた10年」と結びつけるような話でもあるまい。
 山本夏彦はよくエッセイで300円は金の内に入らない時代となったと言っていた。先日亡くなったマクドナルドの藤田田は、ハンバーグの価格はタバコ一箱にしろと言っていた。タバコは300円くらい。300円が高額化というものでもあるまい。
 余談だが、タバコの価格の正体は税金なので鰻登りとまではいかないものの、ちょっとした一服の庶民感覚より上昇してきた。それでも、欧米の半額以下なのは、タバコは日本人の福祉的な意味があるからだろう。この話は極東ブログ「たばこという社会福祉(もちろん皮肉)」(参照)に書いた。週刊文春・週刊新潮もいよいよ300円を超えようとしている。恐らく日本の経済は、この300円ベースからワンコイン500円の間を結局のところを税金などが埋めていくという仕組みになるだろうと思う。隠された重税社会だ。
 記事に戻る。日本庶民の財布が緩みつつあるとして高額のモスバーガーが売れているというエピソードがある。

But there is anecdotal evidence that certain companies are taking advantage of the fact that consumers are beginning to open their purses, albeit cautiously. Mos Food Services, a company that operates Mos Burger, the fast food chain, last year introduced a Y610 limited edition hamburger that has contributed to a 2-3 per cent increase in the average spent by each customer.

 610円のハンバーガがよく売れて、総売上に寄与しているというのだ。記事にはないが、モスバーガーもこれに気をよくして今度は880円を出す。「モスが880円バーガー 高級路線をアピール」(参照)だ。

新商品は、昨年8月から販売している高級バーガー「ニッポンのバーガー 匠味(たくみ)」シリーズの新メニュー「アボカド山葵(わさび)」。静岡県の安倍川水系で栽培され、すし店などで使われる本わさびのすりおろしを付け、牛肉やアボカドのうま味が際立つようにした。当初は100店限定、一店当たり1日10食とし、改装の進ちょくに応じて取り扱う店を増やす。

 しかし、当面、これは恐る恐る話題作りということに過ぎないだろう。
 私は、庶民の財布が緩んでいるという実感はあまりない。モスバーガーの事例もフィナンシャルタイムズのエッセーの読みとは違うと思う。簡単でヘルシーな個食(参照)志向だろう。オヤジとタバコを避けて個食したいというニーズではないかな。現状、マクドナルドのほうも経営が持ち直してきているが、こちらは高級化というより基本サービスを向上させているからだと思える。
 財布が固いという実感はある。自分の趣味ではないのだが、夏休みということもあり郊外のファミリー対象の回転寿司に行く機会が増えたのだが、絵皿による値段差がなくなっていた。300円ネタがない。300円でネタを喰うという感覚は戻っていない。300円の寿司ネタは別の、それほど消費に寄与しないセクターに移行しているのだろう。
 100円ショップについても、このセクターが他の小売りに事実上吸収されているからではないかと思う。
 私も先日、ダイソーとキャンドゥで買い物をした。付箋やプラスチックケースなど簡単な文具がそこにしかないためで、特に買いたい商品が100円ショップにあるわけではないし、安いからというのも理由ではない。
 目的のものを買うと、あとはぶらっと面白いものはないかなと見て回る。そういうショップなのだ。ちなみに、なにを買ったか? アクリル絵の具、FMラジオ、韓国製の激辛ラーメン、書道の半紙…あまり意味のないショッピングだった。消費というより、ショボイ娯楽である。

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2004.08.09

アテネの思い出

 アテネに行ったのはもう10年も前なので、これからアテネに行く人に、私の話はさして参考にはならないかもしれない。世の中でアテネ、アテネと騒ぎ出すのでこのところ思い出すことが多いので、なにげなくそんな思いを書いてみたい。

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遠い太鼓
 アテネを一言で言うなら、村上春樹が言っていたのだが、「三日で飽きる」である。正確には、紀行記「遠い太鼓」のアテネに「三日もあれば目ぼしいものはだいたい全部見て回ることができる」とある。まったく、そうだな。
 アテネという街は、初日は、驚く。あれま、ほんとにアクロポリスがある、ってなものである。
 たいていの観光客はシンタグマ広場あたりのホテルに泊まる。アクロポリスまではちょいと歩いていけるし、その途中に、原宿みたいなプラカという下町のお土産店街がある。つまんない観光土産しか売ってないのだが、最初はなんか珍しい気がするものだ。
 今の季節だと夏場でサマータイムもあり、8時過ぎまで陽が照りつける。0時を回っても深夜の雰囲気はなく、世界各国のお上りさんがうろうろしているし、カフェもタベルナもあちこち開いている。ワインでも飲みながら、実に観光気分である。タコのサラダがうまいよ。
 二日目は国立考古学博物館でも見るといい。シンタグマ広場からそれほど遠いものでもない。けっこう見応えもあるし、高校の世界史の副読本の写真の現物みたいのがあれこれあって奇妙な既視感に襲われる。たしか、地下で軽いランチができたかと記憶しているが、街にはあちこちサンドイッチ店がある。ギロ(くず肉のでかい塊を焼いたもの、トルコではケバブとか言うが…)の肉を挟んでほおばる。ギリシアコーヒーはやめとけ。不味い。ホテルでもコーヒーはインスタントしかでない。インスタントがギリシアコーヒーより上等らしい。なにかソフトドリンクでギロのサンドイッチでも喰えばいいかな。
 いや、ギリシアコーヒーはやめとけというのは本意ではない。本当はお勧めしたい。エスプレッソみたいな煮だしコーヒーなのだが、フィルターしてないから、口ぺっぺになる。そして無性に甘い。村上春樹がアトス山でのデザートがなんでこんな甘いのかと言っていたが、総じてギリシア・トルコのスイーツは苦いほど甘い。ギリシアコーヒーを頼むと、サーブの人は観光客を見るや「ミドル・スイート?」と聞く。ほどほどの甘さがいいでしょというわけだ。ここでこう答えるのがいいのだ、「ノーノー、ベリーベリースイート」彼らはにやっと笑う。旅の楽しみである。
 博物館からの帰りはオモニア広場からマーケットのある通りを通っていくといい。外国旅行でなにが楽しいって、マーケットを覗き見ることだ。エスカルゴが樽いっぱい売っている。ほおっと思って覗き込むと、生きていやがんの。
 三日目はアクロポリスとの向かいリカベストの丘でも登るか。アテネの雑多な街が見渡せる。今の季節なら、ブーゲンビリアが美しい。
 さて、このあたりから、退屈してくる。国会議事堂前で玩具みたいな近衛兵を見ながら、随分とアテネって小便臭いところだなと思うようになる。あちこちで犬が死んでいる…いや寝ているのだ。街路のカフェでぼんやりしていると猫が寄ってくるので、猫と遊ぶ。他になにかすることはないのか?
 ある。アクロポリスのヘロデス・アティコス音楽堂で毎日なんか出し物やっているからチケットを買ってきて夜見に行くといい。手軽なナイトライフだ。場所はアレである。古代ギリシアの屋外劇場。ほぉっという感じだ。そこでクラシックをとか合唱を聴くのだが、盛り上がってくると蝉がビックリしてコーラスをしてくれる。音楽は台無し。だが、文句は言うな、観光じゃないか。
 というわけで、アテネは三日で飽きる。どうする?
 通りのツーリストの貼り紙を見よである。デルフィへの一泊ハトバスではないが、バスツアーがある。50ドルくらいだったか。ちょいとデルホイ神殿とか見に行くのもいい。これもけこう感動もんだ。おお、これがソクラテスのあれかというわけだ。渓谷も美しい。私は深夜アポロン神殿あたりを満月の下うろうろしたが、ほんと神秘的だった。
 エギナ島あたりの日帰りクルージングもいろいろある。ニコス・カザンザキスの「その男ゾルバ」にも出てくるピレウスの港から船に乗る。エーゲ海クルージングである。とか言っても、それほどたいしたものではない。だいたいが乗っているのは、だらっとした観光客ばかり。そして海上は暇。私はぼうっとしていたのだが、なんかのついでで、マレーシア人とおしゃべりした。高官のようだ。マハティールの東京お忍び旅行の話なども聞いた。ユダヤ人の中年女性は、日本は素晴らしいとか言って話しかけてきた。なんのことはない、日本人はチップを求めないというのだ。あほくさ。
 エギナ島は江ノ島と同じである。醜悪ってほどでもないか。でも、そんな感じ。小さな島だが、ちょっと奥まったところに、こぎれいなホテルがあるので、泊まった。クルージングのとき、泊まってもいいよというアナウンスがあった。明日も来るから同じだよ、というのだ。ほぉである。
 エギナ島のホテルはよかった。なんだか、ヨーロッパの映画のようだな。などなど。ここで私はクルージングの切符を無くすのだが、次の船長に話をすると、彼はメモ帳に「これが切符だ」みたいに書いて、署名した。すること、これが本当に切符になった。へぇ、船長って偉いのだと思った。後に、この手を知っていろいろ便利だった。今はどうか知らないけど、飛行機でも、機長が、これが切符だいう署名付のメモを書くとそれが切符になった。
 あー、なんかすでに長い話だな。ギリシア料理話はなどはまたいずれ。

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2004.08.08

[書評]流れる星は生きている(藤原てい)

 「流れる星は生きている」(藤原てい)は満州にいた日本人家族の引き上げの物語である。家族といっても、この物語に夫の藤原寛人(新田次郎)はなく、26歳の妻、藤原ていが、6歳の正宏、3歳の正彦(藤原正彦)、1か月の咲子(藤原咲子)のみだ。この幼い子どもを連れて、若い女性が死線をさまよいつつ壮絶な脱出劇を展開する。

cover
流れる星は
生きている
 この物語は、戦後の大ベストセラーとなり、ある一定の年代以上の日本人なら必ず読んでいるものだ。あるいは、書籍で読んでいなくても、テレビでもドラマ化されたので、知らない人はない。
 しかし戦後60年近い年月が去り、この物語を読んでいない日本人も増えてきたようにも思われる。日本人ならこの本を読まなくてはいけない、とまで言うつもりはない。率直に言って、現代の日本人がこの本を直接読んでも、かつての日本人が読んだときとはまったく異なることになるのではないだろうか。
 この本が当初、出版され、読まれた時代、世間のあちこちに、満州・朝鮮の引き揚げ者はいた。かく言う私の父も朝鮮引き揚げ者である。そうした共有すべき経験を持つ世間があったからこそ、この本が読めたという部分は大きい。
 その意味で、この本の背景解説が必要な時代になったのだが、日本人がなぜ満州にいたかという説明はさすがに省略する。なぜこんなにまで悲惨な引き上げをしなくてはいけなかったについては、少し補足したい。ソ連軍が突然満州に攻め込んできたからだ。戦争だから攻めてくるのは当然だろうと考える人もいるかもしれないが、それは違う。当時、ソ連と日本の間には不可侵条約が成立しており、その期間はまだ1年を残していていた。ソ連が日本に宣戦布告するとは誰も予期し得なかった。
 1945年8月8日5時ソ連のクレムリンで、佐藤尚武駐ソ連大使は、ソ連のモロトフ外相から、日本に対する宣戦布告を聞かされた。佐藤ソ連大使は驚愕した。彼の任務は昭和天皇から東郷茂徳外相を通して終戦手続きを進めるものだった。ソ連にイギリスとアメリカへ終戦手続きの仲介を依頼することだった。まったくの逆の展開になってしまった。
 1時間後、極東時間8月9日未明、ソビエトの極東軍は、満州国境を越えて日本軍への攻撃を開始した。その10時間後、長崎にプルトニウム原爆が投下された。
 日本の敗戦は決定していたのに、ソ連もアメリカも無益な日本人民間人を殺戮を開始したのである。いや、無益ではなかったのかもしれない。1945年8月8日、戦後の極東と日本を奪い合うための争いが始まったのだ。冷戦がこの日始まったのだと言っていいだろう。
 「流れる星は生きている」の物語は満州新京(長春)から始まる。夫の藤原寛人がそこの観象台に勤務していたからだ。

 昭和二十年八月九日の夜十時半頃、はげしく私の官舎の入口をたたく音が聞こえた。子どもたちは寝ていた。私たちは昨夜遅かったから今夜は早く寝ようかといっているところであった。
「藤原さん、藤原さん、観象台の者です」
 若い人の声であった。夫と二人でドアーを開けると木銃を持った二人の男が立っていた。
「あ、藤原さんですか、すぐ役所へ来て下さい」

 物語はその夜、突然始まる。

 夫が帰って来た。蒼白な顔を極度に緊張させて私の前に立った夫は別人のようにいった。
「一時半までに新京駅へ集合するのだ」
「えッ、新京駅ですって!」
「新京から逃げるのだ」
「どうして?」
 夫はそれに対して言葉短に説明した。関東軍の家族がすでに移動を始めている。政府の家族もこれについで同じ行動を取るように上部からの命令である。新京が戦禍の巷になった場合を考慮して急いで立ち急ぐのだとのことだった。

 この時点の集団移動もすでにあまり組織化されていたとは思えない描写が続く。この集団は数日かけて内海に近い宣川に移動した。宣川は現代の北朝鮮の領域で先日爆破事件があった龍川(Ryongchon)より少し南下した地点にある。当然、38度線は越えていない。
 宣川は「流れる星は生きている」でも教会のある町として描かれているが、戦前からキリスト教がさかんな地域だ。この宣川で、主人公藤原ていと子ども三人は到着の数日後一旦夫との再開を果たすが、夫寛人は満州に戻り、その後非戦闘員であるにもかかわらずその後シベリア送りとなる。
 宣川到着の時点では、まだ日本国は存在しており、移動の日本人集団も完全に無規範(アノミー)の状態にはなっていない。宣川停留中に15日を迎え、その後1年近い滞在となる。現代人の私から見ると、ここから海路が取れないものかとも思うが、無理だったのだろう。
 「流れる星は生きている」の物語は、この宣川での、日本国が存在しない日本人の悲惨な集団生活の物語が1年ほど続く。
 こういう言い方は私自身が完全に戦後の人間だからだろうが、この物語は、満州引き上げの物語というより、アノマリーな状況におかれた日本人がどのように行動するのかというある種の実験報告を読んでいるような印象を受ける。宣川生活での話は、経時的ではあるがエピソードの積み上げになっているので、わかりやすい。そこで小さな悲惨な事件が多数発生するのだが、私にはその実態がよくわかる。
 少し脱線する。私は結果的に愛国的な人間である。が、日本人同胞を心情的に愛しているかといえば正直に言ってそうではない。私は幼稚園から小学校高学年になるまで、地域の友だちから排除され、いじめられた経験を持つ。いじめられた最大の理由は、おそらく私の居住区に関連しており、私の家の近くには隣町の小学校があるにもかかわらず、遠い小学校に通わなくてはならかったことだ。いずれにせよ、その子どもの剥きだしな陰湿な日本人の民族性は、しかし、その後私が社会人になっても同質に経験されるものだった。
 私は日本人というのは陰湿な国民性があると思う。もっとも、だからこそ私はそのなかで生き延びるために日本人の陰湿さを人間というものの陰湿さの一般性で理解できるように思索した。こんな話をするのは、私のこの感性は、恐らく戦後を生き延びた日本人にかなり普遍的に存在しているのではないかと思われるからだ。そして、端的に言って、現代日本でも、その深層としては同じなのではないかと思う。
 「流れる星は生きている」に描かれている日本人の本質的とも言える陰湿さは現代でも同じだというふうに今の若い日本人は読んでもいいだろう。むしろ、「満州引き上げは苦労でしたね」というより、日本人の本性はこんなものだと読むほうがいいように思う。
 物語では、1年ほどの宣川生活に区切りをつけ、藤原ていたちも、南下を開始する。はっきりとは描かれていない点が多いのだが、後の描写を見るに米軍保護を求めての38度線越えだったのだろう。
 宣川から南下する時点ですでに日本人の集団は事実上解体し、藤原ていと子どもだけの壮絶な脱出劇となる。壮絶とはこういうものを指すのかというほどの物語である。母性についての考えさせられる。
 私は、率直に言って、「母性」というものは信じない。それは「母性」なんていうのが幻想だというような甘っちょろい否定でなく、母性というのは恐ろしいものだと考えるからだ。だが、「流れる星は生きている」を読むと、その恐ろしい母性がなぜ人類に存在しているのかわかるように思う。子を生かすというのはここまで物凄い心性とエネルギーを必要とするのだ。こういう読み方もいかにも戦後的だが、そう読んでよいだろう。というのも、「流れる星は生きている」の素晴らしさは、戦後民主主義の嘘くさい虚偽を完全に超越しているからであり、そこにはだからこそ普遍的な意味が読み取れる。今、この時、同じ悲惨がダルフールで起きているのかとも思う。
 「流れる星は生きている」の物語では、最後、無事母子は日本に帰還する。その意味でハッピーエンドであるはずだ。だが、エンディングの描写は暗い。信州の親の家に帰還した藤原ていはこうつぶやいて物語は終わる。

「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」
 私の頭の中はすべてが整理された後のようにきれいに澄みきっていた。深い深い霧の底へ歩いていけば、どこかで夫に逢えるかもしれない。
「もうこれ以上は生きられない」
 私は霧の湖の中にがっくり頭を突っ込んで、深い所へ沈んでいった。

 現代ならPTSDということにされるのかもしれない。しかし、このエンディングはさらに深い意味を持つ。それは私たちが歴史のなかに生きているということでもある。この話はもう少し続けたい。

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