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2004.01.17

山形浩生の書評から雑感

 どう切り出していい話なのか自分でもよくわからないし、自分に定見があるわけでもない。書けば誤解されるような気もしてためらうのだが、まぁ、ブログだから書いてみようかなと思う。
 ことの出だしは11日の朝日新聞の書評欄だ。なんとなく見ていたら、チョムスキーの「生成文法の企て」(岩波書店・福井直樹・辻子美保子訳)が載っていて、あれ?という気がした。この話は後で触れる。どんな書評かと気になったので読もうと思ったのだが、その前に書評者名がでかでかと山形浩生とあった。ふーん、山形浩生ですか、と思った。
 で、山形のことだ軽快な口調で書き進めている、かのようだが、数行読み進めるうちに、私にはさっぱりわからないという事態になった。ちょっと困惑してしまった。なんだコレ。
 そういえば、朝日新聞の書評はネットにも掲載されていたようにも思ったので調べるとあった(参照)。出だしを引用する。


 子供は「パパでちゅよー」等のろくでもない単純な文章を聞いているだけで、すぐにややこしい文章を理解し、自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する。その入力の分析だけでそれが可能だとは考えにくい。

 切り出しは悪くないというか、生成文法の説明の定番どおりなので、またこれかである。「自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する」というのも、取って付けたような定番のクリシェだ。山形という人は自分で生成文法を理解しようとしているのかなと疑問になる。でもそれはいい。この先から暗雲立ちこめる。

人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。

 「人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは?」と言われると、自分の記憶が曖昧になる。チョムスキーは言語器官と呼ぶことがあったか? linguistic organ? 私の記憶ではmental organ(心的器官)だ。試しにぐぐってみると、Emmon Bachが"human linguistic organ (UG?) "と言う用例があった。Emmon Bachは胡麻臭いなとも思うが、通じないほど変な言い回しでもない。いいか。
 で、この先。頭痛が走るのだ。「その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。」と山形。
 まるで意味がわからない。「その器官の能力」というのは、competence of linguistic organでいいとして、それに「変形処理が加わる」というのはなんのこっちゃ? transformation process?  純粋に意味がとれない。transformationはこの時代(80年代)のチョムスキーのことだから、D構造からS構造を導く過程のはずだ。
 そして、その結果が「普通の言語能力」というのもわからない。common linguistic performance? しかし、linguisitc competenceからliguisitic perfomanceに至る過程はない。というか、liguisitic perfomanceについては、端からチョムスキーは文法から捨象している。
 さらに、まるで、わからない。「器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになる」と山形。
 用語の問題はなんだかわからないので、全体としてなにが言いたいのかと考えてみるのだが、話が逆だとしか思えない。チョムスキーは「世界の中の言語を見通しよく説明する」なんてことはまるで視野に入れていない。The Generative Enterpriseというのは、UG(Universal Grammar)を解明する目論見である。世界の言語の記述とその運用はUGの資料であり、その資料からUGの条件を導くためものだ。というか、そういう科学的方法が成立するのかね?というのが、1970年代は科学哲学的に疑問符ばっかだったので、チョムスキーはデカルト主義のようなことを言い出したのだった。
 それと、話が前後するが、今は無き「変形」であるが当時はUGの一部ではなかったか。
 と、なんだか、山形浩生をあげつらっているようなことになってしまったのだが、率直なところ、単に、書評の役として間違っているように思う。つまり、山形浩生にこの本、振るなよと思うが、山形浩生もなんでこんな書評を受けてしまったのだろうか。というと、非難のだようだが、気持ちとしてはなにも非難しているわけではない。
 細かい話はこのくらいにして、書評の基本である書物としての紹介も、なんとも変なのだ。例えば、これ。

訳者解説も詳しいし、注も丁寧だけれど、特に生成文法理論自体(とその進展)に関する議論はかなり専門的で、業界の内輪話的な部分も多い(逆に専門家にとっては大きな魅力だろう)。

 そりゃ、福井直樹が訳者なのだから当然なのだが、「生成文法理論自体(とその進展)」と言われると、どうにもわからない。The Generative Enterprise (Foris Publications)は1982の本である。20年以上も昔だ。この分野と関連分野の人ならあの時代に必ず読んでいる(読まされている)。なのに、なぜ、それが専門家にとって魅力なのだろう。訳本に併せて行われた最新インタビュー部分を指す、というふうにも思えない。
 推測しても詮無きかもしれないが、福井直樹の帰国と関連して学部生に読ませる教科書にしようとしたのだろうか。それに岩波としては昨今の、日本のチョムスキーブームも当て込んだのだろうか。それにしても、極小プログラムの時代にこの本を読む意味があるのだろうか。ま、その筋ではあるのだろうけど。
 話がだらっと福井にシフトしてしまうのだが、山形のヘンテコな書評を読みながら、「生物として持つ言語器官」というあたりで、大修館書店から福井が出した「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」(2001)を思い出す。この本でも、脳内の独立した言語機能の実在を取り上げているのだが、その福井の取り上げかたが、ちと恐れ多いのだが、チョムスキーの理解と違っているように思える。福井は澤口俊之「脳と心の進化論」あたりを援用してしまっているあたり、え?澤口俊之かよ、というのはさておき、どうも脇が甘い、のか、チョムスキーのmental organの理解と違っているようにも思える。が、生成文法的には、脳の構造ではなく、機能モデルを構造的に扱うだけなので、さして問題もない、のだろう。いや、チョムスキー自身すら昔はエリック・レネバーグあたりにすり寄ってもいるのだから、この手の学際のフライングというのは昔と同じなのか。
 それでも、「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」で福井は、極小プログラムとの関連で、言語の特性のエレガンスに驚いているのだが、そうなのだろうか。どうも居心地悪い気持ちになる。福井自身、生命学の他分野では複雑性が前提になっていると言及しているのだから、言語の脳機能の実態モデルも、複雑性が基幹にあり、チョムスキーの言うエレガンスはある種数学的に捨象されたモデルに過ぎないのではないか、と思うのだが。
 うまく言い得ていないので、別の例を引くと、免疫システムというとき、医学ではこれを「免疫システム」として個々の免疫の器官の総体を呼ぶが、チョムスキー的にはこれは免疫器官になるだろう。そのあたりは、ただの言葉の遊びのような気がするのだが、で、免疫システムの内実となるサイカインの動きは、広義にシステムのセマンティックのなかで評価される。しかし、サイトカイン自体を見れば非常に複雑で多義的な行動をする。つまり、言語と言語認識の下部の機構と、意味論的に了解される言語の行動と対応しているのではないか。
 というと、チョムスキーの学に意味論はない、言語構造だけというのだろうが、すでに極小プログラムでは言語は、いわば論理演算対象としての項目のように扱われているのだから、意味論でいいのはないか。モンタギュー文法が意味論であるのと、そうたいした違いがあるとは思えない。
 私の言っていることは、門外漢の的はずれなのだろうか。そうなのだろうなとも思うし、なにも新しい理論を打ち立てたいといった気はさらなさない。だが、チョムスキーの学は、人間の生得能力の解明として、人間の自然学として構想されているわりに、他の生命学分野の成果とまるで違った方向に見えるのは確かだ。
 話は逆にして、生命諸学のような複雑性に謙虚に向き合いながら、それと数学的な論理性との対応を模索できないものだろうか。
 免疫システムとの比喩が過ぎるかもしれないが、免疫システムには誤動作やカタスロフとも言える状態がある。言語を支える認知の機能にも同等のなにかがあり、そうした崩壊や病理の実態がむしろ、言語能力の複雑性を炙り出すのではないだろうか、と思うのだが…。

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阪神大震災から9年

 1月17日である。今夜の月は曇るのである、という話もさすがに聞かれなくなった。私たちの世代のアイドル山口百恵の誕生日である。先日国立の増田書店に入ったら、入り口にミニコミ誌の広告なのか旦那の写真が貼ってあった。現代は17日といえば阪神大震災だ。新聞各紙もこの話題を取り上げている。予定原稿だったわりに、読ませるのは日経の「切迫する地震へ備え急げ」だけだ。文章を練りすぎたのかちと趣味が悪いのが残念だが、ネタは、昨年3月、ドイツのミュンヘン再保険が発表した大都市の災害危険度指数だ。それによると、地震の切迫という点では東京がダントツで、防災関係者や企業経営者に大きな衝撃を与えたというのだが、どうだろうか。


 東京・横浜地区は、710と2位のサンフランシスコ(167)を大きく引き離し1位となった。首都直撃の地震が切迫していると指摘されているのに、何もせずに活火山の火口で暮らしているような無防備ぶりに警告を発したものといえよう。

 そう書いて間違いでもない。この問題は極東ブログでもいろいろ考え続けた。特に昨年9月の串田予言はいい機会だった。ご関心があれば、「地震が来るのか?」(9.12と「地震予告とその後のこと」(9.25を読んでいたたきたい。阪神大震災については、「どこに日本の州兵はいるのか!」(11.17)で書いた以上の思いはない。
 私の結論から言えば、前回の関東大震災レベルは来ない。要点はこうだ。

M8レベルの、関東南部の周期は200年。ということは、プレート移動の隣接で起きるタイプの関東大震災はまず私の目の黒い内には来ない。ただ、M7レベルの直下型は断層で発生する可能性はある。阪神大震災がこれだ。この直下型地震の周期は活動期に入ったと見ることもできる。

 阪神大震災レベルの地震は東京でも起きうる。日経の社説は恐怖を駆り立てるタイプのレトリックに堕している部分があるが、都の被害推定である、死者7100人、建物全壊は4万3000棟、とするは、まさに阪神大震災レベルを意味している。被害規模の推定が少ないようにも思えるが、妥当な線ではないか。そして、この妥当な線には、阪神大震災の時の政府の無策が含まれているとすれば、都行政の尽力でその半分くらいまでに被害が縮小できるのではないかと思う。
 その意味で日経の社説ではなく毎日新聞社説だが、「巨大地震対策 住民、地域の防災力高めよう」の結語は良いことを言っているようでいて、実は大間違いである。

こういった対策が十分に機能するには、住民や地域が「安全」と「安心」のために、みずから知恵を出し、汗を流す心構えが、なにより肝要である。

 くどいが、そういうふうに考えていくことは無駄だ。合理的な行政の課題なのだ。
 関連した話題を追っておく。朝日新聞社説「震災対策――住宅支援制度に賛成だ」は標題のように震災時の支援制度を扱っている。朝日にしては冷静に、そうした制度が運営できるのか懸念しているが、その点は私も朝日に同意見だ。また、朝日は結語近くで補強費用についてちらと肯定的に言及したものの、論述は逃げているが、私は耐震補強の有効性に疑いを持っている。産経はもう少し耐震補強を肯定しているが、裏が書いてないので、くだらない。
 「耐震補強」というのは意味があるのだろうか? ブログなので言うのが、正確な情報のトラックバックが欲しいなと思う。

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2004.01.16

若葉して御目の雫ぬぐはばや

 今日は鑑真和上が来朝した日だそうである。1日違うような気もするがあまり細かいことはどうでもいいだろう。また、ネタ元を書くとご負担をかけそうなので、あえて書かない。
 私は鑑真和上が好きで、これまで何度も唐招提寺に行った。天平の甍にはあまり関心はない。エンタシスとされる柱にもあまり関心はない。私が好むのは、廟の静けさと凛とした孝謙天皇宸筆だ。私はこの二人に問いかけて時を過ごす。そういえば、夏になれば、前の売店でよく冷やし飴を飲んだ。
 鑑真について、いつも気になることがある。和上は失明するほどの辛苦をしてまで、なぜ日本に来たのか。もちろん、仏教にかける宗教的な情熱であることは間違いない。日本の衆生を救おうとしたことも間違いない。だが、あの時代も、そして今も、日本人は和上の思いをまるで理解していないじゃないかと、私は思う。
 和上は戒を授けに来たのだ。戒なくして仏教はない。日本の歴史家は仏教を根本的に理解していないのではないかとすら思うのだが、仏教の根幹は、戒である。あの時代、戒なき東方の島国日本では仏教のような呪術宗教が広まっていただけだ。和上は、それを仏教だと思ってはいなかった。
 仏教は出家者の宗教である。仏陀につながる師匠から戒を受け(受戒)、僧となるものの宗教である。戒とは具足戒ことである。諸説があるが、常識的に広辞苑の解説を取るに、比丘(男)に250戒、比丘尼(女)に348戒ある。受戒には、戒を授ける戒師、作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師の三師と、受戒を証明する七人の尊証師の十師が必要になる。三師七証だ。和上はその中心の戒師たるべく日本に来たのだ。来訪年については、広辞苑にある天平勝宝5年つまり753年を取る。旧暦で12月26日。この日に太宰府に到着。ちなみに今日は旧暦の25日。
 和上は日本に来て、受戒のために戒壇を作った。日本国の根幹となる戒壇であるから、国分寺の元締めである東大寺に作った。そして、聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇にまず菩薩戒(三聚浄戒)を受けた。が、菩薩戒とは、不殺、不盗、不淫、不妄語、不酒といった道徳に過ぎない(余談だがヨガの第一段階も同じ)。戒といえば戒であるが、僧たる戒ではまったくない。
 当時の日本人は和上を心待ちにしていたわけではない。和上がいらっしゃるのに、現在の自民党のような醜悪な闘争を繰り広げていた。旧来のインチキ僧速成法である自誓作法や三師七証不要論など、僧の名を借りる仏敵が続出した。和上は嘆かれたはずだ。
 その後も酷い。758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が即位にあたり、前天皇である孝謙天皇は、鑑真に大和上の称号を与えるも、実際の権限を伴う大僧都の任を解いた。つまり、左遷である。ポイ捨てである。その蟄居先とも言えるのが唐律招提寺であり、後の唐招提寺である。
 和上は763年(天平宝字7年)、76歳で死んだ。非業の死であると思う。日本人の酷い仕打ちもだが、もっと惨いのは、その後の日本仏教史だ。
 和上死後数年の後、767年、後の最澄が生まれる。最澄は戒を徹底的に破壊した。具足戒を菩薩戒で良しとした(十重戒と四十八軽戒になった)。三師七証を廃した。つまり、鑑真以前の自誓受戒に戻した。
 話を現代に戻して終わりたい。8年前、世間はオウム真理教を偽仏教のごとくあざ笑ったが、日本の仏教自体、戒もないのだ。戒を捨てた仏教は仏教とすら呼べない。日本仏教史こそ、ちゃんちゃらお笑いなのである。
 そして、現在、世間は仏教ブームだそうである。肉食女犯の輩が恥もなく墨衣を着て仏の教えをたれているのである。
 地獄は一定住処なりというならまだいい。多くの人が誤解しているが親鸞は僧ではない。自身そう宣言している。弟子も教えもないのである。そこまで徹するならいい。だが、そこまで徹するなら仏教はいらない。

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朝鮮日報さん、ご同情します

 韓国ネタはちとなんだなと思うのだが、朝鮮日報社説「米国が韓国の主敵だとは」(参照)はすさまじかった。日本人の私ですら、情けなくて涙が出そうだ。事態はこうだ。


 韓国の安保における最大の脅威国を聞くアンケート調査の結果、北朝鮮(33%)と答えた人より米国(39%)と答えた人が多いことが分かった。
 特に20代の場合、回答者の58%が米国と答えた反面、北朝鮮と答えた人は20%にとどまった。この調査の結果だと、大韓民国の主敵をもう北朝鮮でなく、米国に変えなければならないだろう。

 え?である。そう、読み間違いではないのである。悲憤するしかないではないか。

 それだけでない。学校の授業でも、北朝鮮に対しては主に和解と協力の対象として強調される反面、米国は好戦的な国として取り上げられている。多くの国民が納得できないとみている今回の世論調査の結果は、有職者のこのような一方的な発言と行動の必然的な結果と言える。
 若い世代の誤った認識の背景には、過去の権威主義政権下で弾圧を受けた人々の反発的な歴史観が働いた面もあるはずだ。さらに、このような認識をもつ代表的な人物のほとんどが、現政権の友軍か元老として待遇されており、このような世論の混迷は簡単にまとまりそうもない。

 ここで韓国の現代両班を茶化すのはあまりに非礼なので、しない。しかし、問題の根源は歴史教育にあると思う。私のような日本人が韓国の歴史教育に言及するのは韓国人には不快だろうと思うが、古代や中世史、さらにいえば日本と関わりが深い近世史はあえてどうでもいい。第二次世界大戦後からベトナム戦争、それから民主化のごたごたをきちんと韓国の青年は知る機会がないのでないかと思うだけだ。それはまだ生きた歴史なのだから、60代以上の大人が懇々と若者を諭せばいいではないか。若者をトルコに連れていき、朝鮮戦争に加わったトルコの人の声を聞くというのもいい体験になるだろう。私の言及はここまでにしよう。言い過ぎたかもしれない。
 この問題は他山の石でもある。小林よりのりが西部にかこつけて言う「礼儀としての反米」の、礼儀を失すれば日本も同じことになるのだ。
 私は日本人だから、もっと内向けにはお下品なこと言うが、日本人の女性の多くは非アジア人羨望の行動をいまだにしている。それが悪いと言ってもしかたないし、道徳がどうのいう問題でもない。問題は実態であり、社会科学的な理解だけだ。いずれにせよ、日本人は反米と叫んでも、ちまたにはパンパンの娘や孫がまだまだ絶えることはない。それは、あえて親米と言ってもいいとすら思う。繰り返す、現実だ。属国日本が反米に気炎をあげることは恥の上塗りでもあるのだ。
 と、いいつつ、私こそここで恥の上塗りをしているのかもしれないとは思う。が、いてもたってもいられねーなという思いは強いから、書く。日本も、小熊英二のように歴史経験のない世代に戦後史の文献的な総括をまかせていないで、飢えも貧困も関係ない福田和也みたいなぽっちゃり坊やに満州なんか語らせていないで、団塊の世代より上の世代こそ、きちんと若者にわかる生きた歴史を語らなくてはいけないのではないか。だが、無理なのだろうか。戦争経験の世代と団塊の世代の間の言論が、なにかぽっかり抜け落ちているように思うのだが。

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自衛隊報道規制、むしろ好機

 今朝の新聞各紙社説を見て、あれ、昨日の新聞を見ているのかなと錯覚に陥った。参院格差の問題と武器輸出三原則については、改めて触れる必要もないだろう。読売の「武器禁輸原則 見直し発言は検討に値する」は純粋に愚劣。毎日新聞社説「議員定数判決 “違憲”の参院なら要らない」が標題通り「参院不要」にちと触れていたが、ほぉ、新聞でも言うかねと思った。他、朝日新聞社説「師団長訓示――これはいただけない」が読んでいて恥ずかしかった。自衛官は国の責務より先に雪まつりにせいをだせ、だとよ。
 余談ついでだが、産経新聞社説「機内迷惑防止法」はどってことない。機内で不埒な客は安全上の問題もある。だ、が、ちょこっと言うのだが、最近の国内線のスチュワーデスって劣化してないか。常識が欠けている馬鹿が多い。特に困るのが白人客とくっちゃべって業務をおろそかにしている様子をなんども見かける。「美人で英語ができるワタシってすてき」とか思っているんだろうか。さっさと仕事しろよ。橋爪大三郎だったか途上国の飛行機には美人が多いというが、これじゃ日本もまだまだ途上国だなと思う。スチュワーデスは看護士と同じく誇りある仕事なんだから誇りをもてよと思う。
 今朝の社説ネタで気になるのは自衛隊の取材規制だ。毎日新聞と日経新聞が扱っていた。事態は日経新聞社説「窓を閉ざす防衛庁は困る」がわかりやすい。


 これとは別に防衛庁は9日、事務次官名で報道各社に対し、イラク派遣部隊や隊員の安全にかかわる情報の報道を控えるよう要請し「報道により安全確保を含めた防衛庁の円滑な業務遂行を阻害すると認められる場合は事後の取材を断る」と通告した。防衛記者会加盟社の政治・社会部長会は「情勢と安全に常に細心の注意をし、報道が自衛隊員などの支援活動阻害や危険につながらぬよう配慮するのはメディアにとって当然」と回答し、現地取材に関する実務的な協議を申し入れた。

 毎日と日経はこうした状態を危惧し、毎日に至っては社説「自衛隊と報道 政府の取材規制は論外だ」の結語でこう言う。

 「戦時報道」のような規制は論外である。国民が「大本営発表」など信じる時代ではない。

 あのですね、そういう発想が出てきてしまうというのはセンスが悪いという以前に、ちと執筆の態度を考え直したほうがいいと思う。「大本営発表」といったこの手のクリシェは恥ずかしい。
 さて、この事態だが、私はあまり危機感を感じない。率直に言えば、「それって、サラリーマン記者さんたちの問題でしょ」である。むしろ、世論操作の情報を流す政府側の情報が止まれば、今こそ、ジャーナリストの真価が問われる絶好のチャンスではないか。どうせ、週刊現代とか週刊ポストなど、ライターを日銭で使うアホメディアがゴミを撒き散らすのだから、今こそちゃんとしたジャーナリストが光るぜと、というか期待したい。ちょっとまじこいて極東ブログも挑戦してみたい気がするが、まずは、代替ソースと背景的な知識だろう。うーむである。
 記者クラブ問題も曖昧にしてすごそうとしている新聞だからこの内向きのボヤキを外に向けて吐いてしまったのだろう。新聞さん、棺桶に両足つっこでいるよ。

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2004.01.15

名前に「申」はないのか

 週刊文春を買って、私が楽しみに読むのは、土屋賢二のエッセイでもなく、まして椎名誠のエッセイでもない。高島俊男の「お言葉ですが」である。私もまた言葉にうるさい爺ぃのような人間なのである。で、先週の、つまり新年号の「サルと猿とはどう違う」がどうも心に引っかかった。高島先生にあるまじく、間違っているんじゃないかな、とちらと思った。先生のミスをめっけたらもう鬼の首を取ったも同じである、が、ま、間違いというわけでもない。先日紹介した増田小夜「芸者」の別バージョンの古書をめっけて読んでいるうちに、あれ?と気が付いたことがあったので、この手の話が好きな人もいるだろうと思うので、ブログに記しておく。と、でもねぇ、ま、あまり関心ある人は少ないでしょう。ネタもとの高島先生の話はこうだ。


 十二支の字のうちでも、丑や寅などはむかしから人の名によく使われるからどなたもなじみである。『破壊』の丑松とか、フーテンの寅さんこと車寅次郎とか。
 しかし、申松とかフーテンの申こと申次郎とかいう人はいないようですね。いはこれも小生調査の手をつくしたわけじゃないから断言ははばかるが、そうめったにいらっしゃらぬであろうと思います。
 ウシやトラよりサルのほうがかしこいし、陽気で愛嬌もいいのに、何ゆえに日本の親は子の名前にサルとつけないのであるか。小生サルの名誉のために、抗議するものである。

 と書き写してみると、あまり先生の文章もうまくはないかな…おっと失言。で、この洒脱な文章を読みながら、私はあれれとなにかひっかかっていた。まずは豊臣秀吉だ。秀吉はサルと呼ばれていたが、これは信長が付けた蔑称であり、ひいては大衆受けする秀吉の愛称のように思われているが、そうだろうか。以前、近江の国を旅しながら、秀吉の古伝説を思いながら、実はサルは比延の神から来ているのではないか。つまり、縁起をかついでのことではないかと考えたことがある。その先まで考えたことはないが、どうもサルというのは縁起がよく、人名にもありそうだ。
 話は前段に戻るのだが、増田小夜「芸者」に出てくる弟の名前が「甲」で「まさる」と訓じていた。なぜ「甲」が「まさる」かといえば、恐らく、甲乙丙丁、つまり、Aアベレージで「優」というわけだ。優良可である。
 だが、ふと「甲」という名は、「申」に由来し、だからして「さる」ではないかと思えてきた。「さる」をいみて「まさる」という線があるのではないか、と。と、思い起こすに、今年は申年であるが、干支の甲申ではないか。「きのえさる」である。そうだそうだ。猿の縁起物にして、甲申のサルは「魔去る(まさる)」ではないか。厄除け・魔除けのサルである。そして、前回の甲申(きのえさる)は1944年かぁ。と、ふと、増田小夜「芸者」に出てくる弟の「甲」は甲申年ではないかと暗算してみるが、数が合わない。残念。
 ちなみに、その前の甲申は1884年(明治17年)。この年、福沢諭吉とも懇意だった朝鮮独立党の金玉均(キムオッキュン)は事大党の政権を倒すべく王宮を占領。だが、三日後事大党を推す清軍に敗れ、クーデタは失敗した。甲申の変である。日本の援護という彼の期待は失望に終わった…という話は今日は書かない。あまりに、難しい余談であるから。

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日経さん、中東問題、なんか変

 日経新聞社説「イランの変化を中東安定に」を読みながら、軽い船酔いのような気分になる。なんだろうと思う。話は端的にイランが軟化して、中東が安定化しているよ、ということらしい。それもそうかなとは思う。日経は朝日のような駄文は少ないので冒頭によくまとまっている。


 中東諸国の中でも反米の強硬姿勢を続けてきたイランが軌道修正を図り始めている。昨年末の大地震で米国からの救援を受け入れ、対米関係の改善姿勢を明確化したのに続き、親米路線のエジプトとの国交正常化に踏み出した。フセイン元大統領の拘束でイラク国内の治安回復への期待が高まる中での隣国イランの変化を中東地域全体の安定化につなげたい。

 ふーんというか、あんた高校生?どこの高校?って訊きたい感じがする。確かに大筋でそうだとは言えるが、子供じゃないんだからね。もっとも日本のマスコミは米国嫌いだから、その世界戦略をミクロにしか見ないし、もっともマクロに見るとナンセンスだが、その中間くらいで見ると、印パ問題やリビア問題にも型を付け、イランもという状況にある。客観的に見たら、すごいんじゃないのという感じだ。そのあたりを評価してみたらと思うが。
 で、船酔いのような変な感じというのは、サウジの扱いだ。

 中東に覆いかぶさるイラク、パレスチナの不安を同時に軽減することでサウジアラビア、クウェートなど湾岸産油国を含めた中東の安定感は高まる。

 うーん、あんた高校生?どこの高校?って訊きたい感じがする。あ、それはさっき書いたか。この言い方はないよなと思う。諸悪の根元はサウジだ。そしてサウジとの関係に置かれたアメリカだ。そして、この構図はつい石油問題ということになるが、マクロにはそうだが、ミクロにはアメリカがサウジの石油に依存していないことからも単純ではない。
 だが、単純なことは言える。サウジがイスラムの近代化を押さえ込んでいるのであり、アルカイダを育てているのは結果としてサウジだ。イラク復興が成立すれば、サウジは頓死だろうと思うが、そのあたり、サウジだって馬鹿じゃない。
 っていう話にならないのかと思う。テメーが書けよだよね。うんうん、じゃ、僕、ダージリンって、話をそらすなよ、である。でも、チャオ!

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参院の存在自体無意味

 朝日新聞社説「1票の格差――参院はすぐ是正せよ」は朝のお笑いのひとときを提供してくれる。もちろん、正論は正論だ。だが、この期に及んでなにもできないのを承知で言っているからお笑いなのである。どうせ、お笑いなら、参議院をなくしてしまえと言え。
 参院選がないと娯楽が減るという意見もあるだろうが、そうか。参加者も少ないぞ。機構的に見ても、参議院自体存在している意味など、日本国になんにもない。むしろ、無くしたほうが、正常に議会(衆議院)を運営させる梃子になる。
 と言ったものの、朝日新聞社説としてして読むからつまらないのであって、これがブログなら、なかなかいいぞぉである。どうも社説っていうのはブログ化してきてねーか。


 さすがに、このままでは国民に見放されると、憲法の番人たちも危機感を感じたのだろう。とりわけ、反対意見を書いた6人の裁判官の指摘は厳しい。
 例えば、外交官出身の福田博裁判官は欧州型の「憲法裁判所」を創設すべきだという改憲論議に触れて、「違憲判断を回避し続ければ、今の司法制度から違憲審査を奪う結果につながる」と述べた。
 弁護士出身の深沢武久裁判官は「国会での格差解消に期待するのは、百年河清を待つに等しい」と指摘し、前回の選挙を無効にせよ、と言い切った。

 ブログとして読むなら、けこうふむふむものである。私も日本に欧州型の「憲法裁判所」があればいいなと思っているからだ。
 しかし、小室直樹が言うように、日本の憲法は死んでいる。あるいは私が言うように日本の憲法は成文法ではない。成文法に見えるアレは、歴史文書に過ぎない。
 参院選挙など基本的にどうでもいい。だが、国民の意思表示にはいいのかもしれないとは思う。気になっているのだが、前回の衆院選はひどいものだったなと思うが、今考え直してみると、都市民はすでに民主党に移っているのだ。自民党というのは、非都市部の日本の呪いなのだ。
 ちょっと悪玉面して言うのだが、日本は戦争の無惨さを経験したとかいうが、日本の非都市部はそれほどのことはない。先日増田小夜の「芸者」についてこのブログで触れたが、彼女など今日的な意味で戦争の意識すらない(恋人の出兵という経験はある)。国土が焦土となる経験など、日本にはないのだ。そうして、日本は千年近くすごしてきて、今、ようやく解体されようとしている。馬鹿なことを言うようだが、日本とはなんだろうと思う。

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石破茂を狙っても無意味

 朝日新聞社説が甲高い声を上げているときは、中国政府と同じで、書かれている内容とは別の政治的な意図がある。なんだろうと気になった。表面的な話は、標題「武器輸出――困った防衛庁長官だ」からでもわかるだろう。朝日臭い冒頭ではあるが、啓蒙臭が弱い分、文章はわかりやすい。


 石破防衛庁長官から何とも物騒な見解が飛び出した。ミサイル防衛の共同研究を進めている米国とだけではなく、欧州やロシアとも兵器の開発や生産をしたい。古い自衛艦を東南アジアに輸出したい。そのために武器輸出三原則を見直すという。

 え? そういう話なのか。というのは、私の理解では武器輸出三原則の見直しというのは、防衛庁の方針であり、怖いぞ福笑い石破茂個人の見解ではないはず。というわけで、ちと過去をぐぐる。と、だよねぇ、である。11月24日の共同のニュースの一部を引いておく。

 自民党の久間章生幹事長代理は21日午前、都内で講演し「現在は、日米間ですら技術供与はできても部品の供与はできない。武器輸出三原則は一部見直していい。ぜひ議論していきたい」と述べ、政府の武器輸出三原則を見直すべきだとの考えを示した。

 同じく共同で同日に以下。

 日米両国の防衛技術協力の進展に伴い、武器輸出三原則の見直し論が、与党や防衛庁内で出ている。

 というわけで、やはり、何を見てるんだ石破茂個人の見解というわけではない。とすると、朝日新聞は何を考えているのか?
 単純な読みでいうと、サヨクさんたち北の友人の力を温存するためにも、なんとしても、武器輸出三原則を日本に厳守させたい、だからぁ、サヨクにありがちな個人攻撃を開始!ということか。またぞろ言論テロなのか、福笑いの目の位置を変えようとしたのか。あるいは、中国政府がよくやるように真の敵が別にいる…ま、福田かな。そのわりには同記事にはこうある。

 石破氏の表明に、福田官房長官は「武器輸出を野放図にするわけにはいかない」と批判的な反応を示した。

 なんだか中国共産党が情報戦で国民党を締め上げていった歴史みたいだなと思う。しかし、こういうサヨクのやり口はもう無効じゃないのか。
 当の問題である武器輸出三原則を見直しについて、私の見解はというと、私も薄皮サヨクなので、とんでもねぇである。日本は武器輸出なんかしちゃいけねーよ、である。が、今回の事態は、まずMDことミサイル防衛の米国の戦略にのってしまったから後から口実というやつだ。それと、基本的に武器といっても防衛に限定されている。朝日がわめく実態とはやや違う。
 ではそれでいいのか。というと、まずミサイル防衛は止めろである。理由は「ミサイル防衛システム自体は無駄」(参照)で触れたとおり。先制攻撃ができないというなら、明日のジョー方式で肉を切らせて骨を断つ、である。死ぬ気で切り込んで来る人間に無血で済ませるわけにもいかない。武士の礼儀だ。
 防衛用の武器ならいかというと、このあたりは、ビミョーだ、っていう流行言葉が嫌いなのだが、私の認識では防衛用の武器など存在しない。およそ、IT全体が軍事と結びついている。このあたりは、呑気にパソコンを買える世代の人はわからんだろうなと爺ぃをふかしたい。
 ではどうなの? ことはフランスやドイツみたいに明白な武器輸出は止めろよ、と、国際的に言えればいいというだけだ。ある程度の国力が付けば、武器はできる。日本には大陸弾道弾もなければ核兵器もないとおおっぴらに言うが、H2技術もプルサーマルも、馬鹿でなければ、日本の潜在力の固持として存在している。そういうことだ。毎度言うが、東京という首都を米軍が包囲しているのを見るから、アジア諸国は安心していられる。そういうものなのだ。
 でも、どうしても白黒つけろというなら、しかたない、朝日新聞に同調するが、石破茂を降ろしてなんのメリットもない。福田なんか大嫌いだが、今の日本の国政を支えているのは福田である。現状では、武器輸出三原則は維持されるべきだし、ミサイル防衛システムは罵倒しつづけるべきだ。

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2004.01.14

額田王

 「余丁町散人の隠居小屋」(参照)の「きょうは何の日 (Today)」の14日に、額田王の話があった。


1/14 Today 額田王「熟田津に......」と詠む(661)(参照

 その結語にこうある。

額田王といえば次の歌も有名:

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この説明をすると長くなる。要は不倫ぽい歌だ。壬申の乱の原因がここに潜んでいるとする説もある。額田王は中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の両方を夫とした女性なのだ。この歌の野守とは天智天皇(中大兄皇子)、君とは天武天皇(大海人皇子)。まことに大胆な女性であった。
彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。


 私はこの歌とその背景についてまったく違った考えを持っている。中西進だったか歌姫を「オコ」として捕らえていたが、私もそうした芸能の視点に立つ。つまり、これらの歌は、茅野弟上娘子の歌なども含め、劇なり余興のような芸能であっただろうと考えている。そして、壬申内乱についても明治浪漫主義的な解釈は取らない。気になるのは、先日の朝日新聞の文化欄かにあったが「袖振る」の意味だ。これもあまり呪術には取らない。しかし、こうした問題には今日は立ち入らない。問題は、散人先生の疑問「彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。」である。
 まず、先生の勘違いか誤記であろうと思うので軽く流すが、「天智と天武の戦いである壬申の乱」ではない。天智はすでにこの世にはない。
 さて、額田王がどうなってしまったか、だが、それはその後を考えれば推測が付くだろう。そして、額田王の歌を好む者なら、万葉集二巻111の「吉野の宮にいでます時、弓削皇子の額田王に贈る歌」を思い起こす。

 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく

 白痴のごときイノセンスな解釈や屁理屈のような解釈を取らなくても、弓削皇子にいにしえと言えば壬申内乱に纏わる死者への思いがあると見ていいだろう。が、この歌についてもここではあまり立ち入らない。
 問題はこの吉野行幸の時期である。確定はされない。が、皇子は693(持統7)年浄広弐に叙せられ、699(文武7)年に死去している。弓削皇子と限らず天武自身の生年すら、おそらくワケありで書紀にも記されていないのだが、官位などからも推定して、20代、そして693年あたりのことだろう。そこから逆算するに、額田王は60歳過ぎまで生存していることになる。いずにせよ、額田王は50歳を越えて天武の皇子たちとも交流があったことは間違いない。
 このことから当然わかることではあるのだが、彼女の娘十市皇女が死んでなお、その時代を生きていたことになる。十市皇女の死は書記にあるように奇っ怪極まる。678(天武7)年、斎宮に選ばれ、伊勢に向かうときに急死している。いずれ自殺か他殺だろう。謎は多い。そもそも既婚であり葛野王までなしていながら、なぜ斎宮になったのか。また、この時期の斎宮である大伯皇女との関連もわからない。これについて、若干推測できることがあるのだが、それも今日は触れない。
 いずれにせよ、額田王は娘の非業の死を見ていたのであり、その孫を抱えてもいただろう。そして先の弓削皇子との歌のやり取りからも人生の陰影は感じ取れる。
 それにしても額田王は生没年未詳とはいうものの、60歳近くまで生存していたと見ていい。後半生は歴史のなかで語ることを禁じられたに等しい不思議な人物である。
 この話にはなお続きがある。奈良国立博物館の国宝、粟原寺の伏鉢に、「比売朝臣額田」が715(和銅8)に粟原寺を建立したとある。普通の歴史家ならあまり妄想を逞しくはしないものだが、高松塚に弓削皇子を鎮魂した梅原猛のことである「塔」(集英社)で、この「比売朝臣額田」を額田王と比定した。梅原には手の込んだ冗談を言う才はない。かくして額田王は80歳近くまで生きていたことになった。慶賀の至りである。
 粟原寺は中臣大嶋(藤原鎌足の従兄弟)の発願によるとされている。書記を見るかぎり、神道を天武時代にでっちあげたのは、この大嶋くさい感じが漂うのだがそれもさておく。「比売朝臣額田」が額田王なら、彼女は大嶋と再婚したということになる。梅原はそう考えている、というわけだ。

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鳥インフルエンザの何が問題なのか

 朝日新聞社説を除いて、各紙、鳥インフルエンザのネタを取り上げていたのだが、これがよくわからない。結局何がいいたいのだろうか。自分でもこの問題になにか見解があるわけでもないが、どうも落ち着かない。
 読売新聞社説「鶏の感染症 封じ込め徹底で被害拡大止めよ」は標題どおり。


 この感染症は、人間にうつるものの、感染力は弱く、養鶏業者や獣医師ら鶏と密接な関係のある人にほぼ限られる。一般人が感染する可能性は極めて低い。もちろん、関係者の感染予防に力を入れるのは当然だ。
 一方、鶏卵や鳥肉を食べて感染した例は、これまでないという。
 農水省や厚生労働省は連携して、こうした情報を素早く的確に提供する必要がある。消費者も、いたずらにおびえる必要のないことを冷静に認識すべきだ。

 で? とここで言葉につまる。毎日新聞社説「鳥インフルエンザ 過剰反応も油断もせずに」ではこう。

 人間への感染を過剰に恐れる必要はないが、注意をしておいた方がいいこともある。
 ニワトリを処分する際には、体液や排せつ物に触れたり、吸い込んだりしないよう、防御しなくてはならない。養鶏場や付近でインフルエンザ様の症状が出た人がいたら、ウイルスの検査をしたり、抗インフルエンザ薬を早めに投与することも必要だろう。ほかの養鶏場での感染にも目を光らせ、早期発見することが大事だ。

 読売より少しマシ? 抗インフルエンザ薬が開発されているのだから、そのあたりの在庫をきちんとせーよという話にはならないのだろうか。ちと、言い過ぎだが、抗インフルエンザ薬は近年になってITの成果としてできたもので、昔のお医者さんは使い方がわかっていないようなのだが、そのあたりが社会問題になったことはない。以前、ちとこの問題で役人と話したが、まるで通じなかった。
 産経新聞社説「鳥インフルエンザ 今回も農水省は甘すぎる」は標題のとおり、八つ当たり。

 人に感染した鳥インフルエンザは、死亡率三割程度でかなり高いが、これまでに感染したのは養鶏関係者がほとんどで人から人へ感染した例はない。卵や肉を通じて感染した例もなく、むしろ消費者が過剰に反応する風評被害が懸念される。

 じゃ、騒ぐなよとも思うのだが、根路銘国昭の本など読むと、一度ブレークすると目も当てられないことになりそうではある。
 日経社説はもういいや。
 というわけで、正直なところ、極東ブログも腰砕けである。じゃ、こんなの書くなよということになるのでおしまい…と、余談ではあるが、このところ、風邪っぽいかなという体調のとき、チキンラーメンを食うとリカバーすることが多い。百福さんの自伝を読んでいると、どうもキチンラーメンって健康いいのかもしれないと思い、それまでインスタントラーメンなど食わなくなっていたのだが、数ヶ月前から食うようになった。
 いろいろ工夫してみると、どうも効くのにはコツがありそうだ。ま、民間療法の類なので、適当なネタとして欲しいのだが、コツを伝授する。卵と粉末の高麗人参茶が必要。粉末の高麗人参茶はそこいらの薬屋とかで売っている。100円ショップにもある。できれば、韓国政府お墨付きの3gがいい。
 湯を沸騰させる。どんぶりを温める。高麗人参茶粉末を入れる。チキンらメーンを入れる。へこみ(うりゃ、へこみがあるだろ!)に生卵を落とす。上から黄身めがけて熱湯をちょろちょろとかける。黄身に熱を入れ、白身にあまり熱が行かないようにする。湯が満ちたら待つこと1分。半熟の黄身ともうちょい半熟の白身を溶かしつつほぐす。このあたりの解け具合は卵酒と同じである。高麗人参茶も当然解けているはずだ。これでけっこうビタミンB群、リゾチウム、カルノシンが摂れているのではないだろうか。

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民主党の国連待機部隊案は正しい

 民主党の国連待機部隊案に各紙社説の反応が面白い。初っ端からこう言うのも下品だが、私の率直な印象では、てめーら新聞より小沢のほうが256倍優れているぜ、である。つまり、私は、この件については、民主党支持である。ただ、その構想の実現性はどうかというと、これも率直な印象だが、望み薄だろうとは思う。
 読売社説があっぱれ外道である。


 なぜ自衛隊を派遣してはいけないのか。
 民主党の菅代表は党大会で、国連による平和協力活動に参加するため、自衛隊とは別組織の「国連待機部隊」を創設することを提唱した。
 この構想は、全く話にならない。

 この極東ブログを続けながら、それがどのように社会に影響を与えるのかよくわからない。影響などというのが幻想ではないかとも思うし、書くことには必然的な自己慰撫もあり、しかも商用の文章ではないことのバーター部分がある。余談にそれがちだが、ヒット数が高まることで実は読んでもらってもしかたない人も増えそうな気配も出てくる。そのあたりがやはりの言葉でいうビミョーなところだ。で、この読売社説に向けて、私がなにを言いたいかというと、極東ブログを続け、それなりに思索を継続してきたおかげで、それが明白に愚論であることがわかるようになった。
 自衛隊とは国民の認識、および国の現状から考えて、国防より州兵である。この話は極東ブログ「どこに日本の州兵はいるのか!」(参照)で触れた。
 次に、国防だが、憲法前文を正確に読めば、国防は国家間の信義を第一としなくてはならない。そして、この含みは国家の上位の存在を想定している。国連にはいろいろ問題はあるし、国連(つまり連合国)からその上位の機関が可能かという本質的な問題はある。しかし、日本国憲法はそういう超国家の可能性の上に成立しているし、国民の半世紀の歴史もそこを志向している。サヨクの雑音を除けば、小沢の国連主義以外に明白な政治的な見解はありえない。
 そしてこの構想が非現実ではないのは、マスコミはどうかしていると思うのだが、今回の日本のイラク派兵の規模を例にしても、たかだか1000人である。そして、英米軍を除けば、みな規模の小さい寄り合い所帯だ。この話は極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」(参照)で触れた。そのとき気づいたことはこれだ。

小沢のいうような国連常接軍の設置というのは、このおみそクラブをかき集めることになるので、そう考えると非現実的かも……いやいや、かき集めればせいぜい5万人くらいにはなりそうだ。それだけ束ねれば、米国からも10万は引き出せるから、国連常接軍というのは夢ではないかもしれない。

 米軍から10万が引き出せるかは今時点の私の考えでは無理かもしれないと思う。だが、独仏露中を説得すれば、総勢10万にはなるし、近代戦は兵士の質が問題だ。傭兵は数ではなくプロフェッショナルだからニーズが高い。あえて酷い話をする。日本が五千人単位で強力な傭兵軍に匹敵する質の軍備を調達できれば、それは強い勢力になりうる。
 問題は、有志連合の存在だ。この問題は「新聞社説という不快」(参照)で少し触れたが、米軍は今、国連軍やNATO的な連合から離れ、完全に米国を頂点とするピラミッドの国際的な軍事組織を作ろうとしている。これに対して、独仏は表向き反対しつつ、ずる賢いヤツラのことだ反対しているわけでもない。むしろ、米国が懐柔しようとしているポーランドなどの牽制もあるのだろう。EUもやっかいなシロモノだ。
 しかし、この有志連合が現実のパワーになってしまえば、国連はお陀仏なのだ。それでいいのか日本? 外務省はすでに独仏のケツに遅れまいとして、名目的に有志連合に自衛隊を融合させている。読売は「なぜ自衛隊を派遣してはいけないのか。」と修辞的に派兵しろと言う。だが、その派兵とは有志連合なのだ。それでいいのか。ちょっと冗談を込めていうのだが、英霊に恥じないか。国土を守り、世界に平和をもたらそういうのが真の英霊の鎮魂ではないか。それが現在の米軍の犬になることなのか。ま、感情論はこのくらい。
 非常に難しいのだが、読売の考えは間違いだと私は主張する。

 「国連待機部隊」という国連の要請がなければ動けない部隊では、アフガンやイラクの現実に対応できない。

 自分の意見の一貫性に矛盾を含むかもしれないし、現実性に乏しいかもしれないのだが、ここはあえて踏み込んで言うべきだ。日本は国連の要請がなければ動いてはいけないのだ。
 関連してこの問題について他紙もザップしておく。
 朝日新聞社説「民主党――外交でも選択肢を磨け」はまるで文章の体をなしていない。単純にボツ原稿である。サヨクならサヨクで筋を通してみろよと思う。滑稽なことに、産経新聞社説「民主党大会 改憲への姿勢は買いたい」が朝日新聞とまったく同じなのだ。こいつもまるで文章の体をなしていない。ウヨならウヨ、ポチならポチで筋を通してみせい、と思うだが、なんたる体たらくだろう。朝日も産経も政党内のテクニカルな問題に持ち込みたいようだが、君たちは言ったい誰に言葉を発しているのか?仲間内じゃないのか。
 日経社説「民主党の国連待機部隊構想への疑問」は標題からわかるように、国連待機部隊構想に疑問を投げかけている。私が乱暴にまとめるとこうだ。

  1. 別部隊には金がかかりすぎ
  2. 別部隊を外務省下に置くことになるがそれでは軍に指揮が落ちる
  3. 日本の自主的な判断の放棄になる

 愚問である。そもそも日本に州兵がないのが問題だし、普通の国ならそれに加えて国防費はかかるものだ。また、外務省下というのはただ組織の問題に過ぎない。むしろ、文民統制でよい。また、国際的な軍など日本の自主的な判断で動くほうがよっぽど危険だ。
 かくして、日経の結語も卑怯なものだ。

小沢一郎氏は、安保理決議に基づく派遣であれば日本の実力組織が外国の領域で武力行使をしても憲法違反にならないと考える。憲法9条が放棄した「国権の発動たる戦争」に当たらないとの議論であり、一理あるが、国民的合意を得るには至っていない。集団的自衛権の解釈を改めたうえで自衛隊による後方支援を可能にする恒久法の制定こそ、日本が憲法の平和主義と国際社会での責任を両立させるための王道だろう。

 「一理あるが」じゃないだろ。米軍下に組み入れられる日本軍に理なんか全然ない。読売もそうだが、「国際社会」に「あめりかしはい」とルビを振らなければ意味が通じない文章を書くなよ、と思う。

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2004.01.13

キムチ、たくあん、野沢菜漬け、違うぞ!

 読んで悲鳴を上げる文章というのは多くはない。私は感情が不安定な人間なので、少なくもないのだが、今朝絶叫した。中央日報の「日、キムチがたくあんを抜いて『代表的なおかず』へ」(参照)である。最初に断っておくが、なにも中央日報の記事が悪いわけではない。


日本で、キムチがたくわんを抜いて「代表的なおかず」になった。
日経新聞が10日、全国の1476人を対象に、漬物の人気順位を調べたところ、韓国のキムチが日本固有のおかず、たくあんを抜いて、第1位になった。

 日経の記事は見落としていて韓国紙で知るのもなんだかなであるが、その事実、そーなのか。と、絶叫した。理由は、「日本に韓国のキムチは、ほぼ、ない」からだ。日本人ご同胞、あれはキムチじゃねーよ、あんなもの食うなよ!、で、二位のたくあんもだ。あんなのたくあんじゃねーよ、である。そして、「おまえはもう死んでいる」の一撃はこれだ。

長野県野沢の温泉で生産される野菜を塩漬けした「野沢菜塩漬け」が第3位だった。

 ぎゃ~がぁ~ぎゃ~がぁ~、バカヤロバカヤロ日本人である。信州人ディアスポラの一員としてオルフェノクになって日本人ををを……である。あんなの「野沢菜塩漬け」じゃあなーい!
 と書いてみて、しばし沈静化してみて、あああ、立ち上がれません。俺がうまいものを知っているとかうんちく話に誤解されるのだろうなと思うので、あああ、立ち上がれません。
 こうなれば韓国にやつあたりである(つまんねー断り書きだが、冗談ですよ)。あんな偽物のキムチを輸出するなよ。わかってんだろ、こんなの日本人が食うのかと嘲笑してんだろぉ。日本人はあの浅漬け(いかん、名前を忘れた)もキムチだと思っているのだよ。
 唯一たくあんはまだ救いがある。その気になれば、ほんまものが手に入る。キムチもなんとかなる。野沢菜はダメだな。信州ですらもう作ってないんじゃないかぁ!!!!
 正月を越える。春が来る。野沢菜だが高菜だかわからない酸味が出る。まずいと思っていたよ、子供のときはね。今じゃ、あれが本物だよな、と思う。泣ける。

追記
ネットにも元情報があった。「何でもランキング 通が好きな漬物」(参照)。これを見て、私は、また吠えた。なにが柴漬けだよぉ~(きゅうりもねーのに)。

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RFIDはマトリックスの社会を作るか

 このところ、文化系ブログっていう感じの極東ブログだが、で、それで別にいいのだが、ちと、RFIDの話を書いて、墓穴でも掘ってみよう。RFIDなど、ネットではすでに話題でもなんでもなくなっているのではないか。
 RFIDとはなにかついて簡単な説明をするのがめんどくさい。定訳語すらないのはなぜなのだろうかとも思う。RFID技術が世間に出回るときは、ICカード、ICタグ、IDタグ、などいろいろなものになる。が、ようは、非接触型の認識装置だ。海外旅行の際、現状では、バッグに紙のタグを付けるが、これにICタグにすれば、いちいち紙を取って読み取る必要はなくなる。手荷物検査のトンネル通過中に、誰の持ち物でどこ行きなのか自動的に識別ができる。他に、本に埋め込んでおけば、万引きされそうになっとき、出入り口で未購入品の所持者がわかる。本の流通でいえば、誰がグロスで中古市場に流しているかといった物流の闇が可視になるといったさまざまの「メリット」がある。
 反面、そんなのプライバシー侵害だという問題提起がある。この手の問題提起にありがちなのだが、とても「危険視」される。そうした類型として話題になった例には「固定IDは"デジタル化された顔"――プライバシー問題の勘所」(参照)がある。まあ、読んでミソっていう感じだ。それにつられて湧いてきた話題の一連リンクもすでにある。「RFID反応リンク集」(参考)だ。けっこうある。おなかいっぱいです。ご苦労様です。どの意見が重要かとグレーディングしていないところがいいのかもしれない。
 ざっと各意見をザップすると、「RFID技術が危険だとかいうのは技術がわかってないんじゃないのぉ」というのが目立つ、ような気がする。この手の問題すべてに言えることだが、そう言われると素人は黙る。あるいは、いや技術的にこう問題だという展開になって、どっちも、見上げてごらん夜の星をといったことになる。すでにそうなっているみたいだ。
 極東ブログがこれに加えることはあるのか。巻き込まれたいのか。うーむ、といった感じだ。白黒つけろっていうなら、私は、RFIDは潜在的に危険だ、である。で、どうしたらいいかだが、どうしようもない、である。問題になってから騒ぐしかないんじゃないか。技術っていうのはそういうものだ。やってミソ、である。
 と、のんきなトーンが漂うのは、RFIDタグ(と仮に呼ぶ)は、検知器が電波を出して、それに反射した電波の情報を読み取るというしかけなので、いずれ電波に晒さられる。しかも、1m以内の至近でだ。最初に言っておくが、電波が危険だとかいう「と」はここでは論外にする。それだけ至近で、周波数が限定された電波など、ちょっとした、アクセサリで検出できる。できなきゃRFIDなんか実用にならない。というわけで、社会でRFIDが少し問題が健在化されたら、「プライバシー守護神」といったダサイ名前の携帯電話のストラップとか根付けとかが出回るようになる。面白いぞぉ。あっちこっちでぴぴぴとなる。おや、こんなところでなんの情報を検出しているのでしょう、ちびっ子のみんな、探してみよう、っていうことになる。プライバシー問題以前に笑うっきゃない世界になるだろう。
 と笑いつつ、先のリンク集を舐めながら、もう一点、気になったことがある。RFIDとか非接触とか言いつつ、私の読みがザップすぎるのか、書き込み系と読み出し専用のRFIDを分けて考えていないのでは?ということだ。RFIDとしてみれば、書き込みもできるが、プライバシー問題で典型的に「見えないところで情報が漏れる!」と話題になるμチップのようなヤツは読み出しだけだ。読み出しても128ビットくらいしか情報が書かれていないというか、基本的にバーコードのタグとたいして変わらない。産業レベルでみるなら、バーコードのほうがまだまだ重要だ。そう、バーコードのほうが重要です。そのあたりの産業の現場の感覚がRFID議論に抜けているなぁ、みなさん、雲上人やなである。
 でだ、SUICAやEDYのようなソニーFelica系の書き込み可能なICカードってどうよ、なのだが、当然、じゃ、ハックしよう、と思うじゃないですかぁ。パソリとか使うと、ばっちし中が読めるのだから、書き込みしてみたいな、と。電子マネーにも使えるなら、自分で金銭書き込めば、日銀がなくても大衆ベースでリフレ政策ができるという万々歳なシロモノです、か。
 だけど、どうも誰もトライしていないというかうまくいっていない。理由は簡単で、末端のカードの情報はただ参照しているだけのもので、実際の情報はセンター側で蓄積管理されているからだ。ICカードは無くしても安心とか言われているのはそのせいだが、なーにが安心だよと思う。というあたりで、それなら、別にカードに記録できなくても情報はセンター側で一元管理すればいいじゃないかと思うのだが、なぜなのだろう。
 というあたりで、RFIDのプライバシー問題というのは、非接触型で、知らないうちに情報が盗まれるというのなら、まぁ、お好きなかたはがんがん議論してくださいなのだが、極東ブログとしては、問題はそういう情報管理化社会のあり方だろう。そういう一般論に逃げ込むのはひどいよと言われそうだが、問題の本質はそっちだ。
 国民背番号制についてもあれこれ議論され、私にも、「どう思いますか」と訊かれたことがあるのだが、問題はあれがリレーションのキーになることですよ、と答えても通じない。誰も通じねーのかと思ったら、宮台真司が同じようなことを言っていた。誰が仕込んだのだろう。私の意見が回っていたった?まさか。そんなの誰でもわかると思う。
 情報がかくして完全にリレーション化されるとどうなるか。まさにマトリックス的な世界の恐怖とか、そう話を展開したいかたはどうぞ。
 私はといえば、もちろん、恐怖もある。いずれ「生活習慣病」として、「病気なのはおまえの生活習慣だから国は知ったことか」という政策が行き詰まり、やっぱ遺伝でしょ、デブは、ハゲは、チビは、ブスは、高血圧は、糖尿病は、ということになる。もちろん、遺伝的傾向なのだが、その傾向は数値化される。ぞっとするしかないのだが、その問題はさておく。
 私は、当面、先のリレーションからできあがる世界は、やはりお笑いだと思う。すでにその兆候が見えている。アマゾンのお薦め本だ。どうしてこんなくだらない本ばかり薦めるのだろうかと思って、少し私の好みの情報を入れてトレーニングしてみたら、らだ、ますます阿呆になった。技術的には、お薦めプログラムのアルゴリズムが阿呆だな、あるいは書籍の属性が足りないな、というお笑いなのだが、いや、そうじゃねーぞと思うに至った。
 あのですね。私たち社会に生きている人間っていうのは他人と向き合っているわけで、で、それほど向き合っても他人というものはわからない。わかるかのようにやっていけるのは、同じ世間に暮らすのだから、そのくら妥協するとか幻想持っているからだ。
 私はなにが言いたいのか。アマゾンのお薦めアルゴリズムさんは、私を理解できないのだ。それは誰だって私を理解しないというのと本質的に同じ。それだけのことなのだ。
 話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめる。RFIDなどでどれだけ情報が収集されても、そのシステムの他者である私をシステムは理解しないだろう。いや、理解するということ自体が妥協と幻想のアルゴリズムを含まざるを得ないのに、そのレベルが低すぎるということでもある。
 もちろん、人間個人というのは類型化できる。情報からある類型が描けるし、それらをマーケット動向に活かすことはできるだ。問題は、その度合いなのだとも言える。これを他者理解の妥当性の度合いとしよう。
 だが、私が言いたいのは、それを認めるとしても、システムが理解した他者としての私の象に私が不満なのだ。欲情しないのだと言っていい。私は、本当は、システムに理解されたいのだ。アマゾンさん、私の読みたい本を出して!なのだ。だが、システムは理解してくれない。という、幻想の度合いなのだ。
 技術的にはその幻想の度合いもアルゴリズム化できるようにも思う。だが、私は本質的にできないと思う。というのは、私たち社会の構成員が他者を本当は理解していないし、理解はつねに必要に迫られての近似でしかない。どんなシステムでもその近似性を真似るしかない。なのに「私」が求めているのは私の欲情の鏡象なのだ。私が理解されたい欲望はシステムからするっと抜けるか、本質的に抜けていくしかないものなのだ。
 って、書くから文系ブログなんでしょうかね。

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1月13日のザッピング

 社説のレベルでは目立った話題がないのだろう。昨日と似たように各紙散漫な内容だった。気になる点だけ、またザップしておこう。
 朝日新聞社説「経団連献金――10年で元の木阿弥ですか」は標題からもわかるように、反動的なイヤミに終始していた。引用して嘲笑する意味すらないくだらない話だ。サヨクもここまでお笑いか、というシロモノ。
 朝日のもう一点「ちょっと元気に――重病でも口をきれいに」は、老人の口内衛生の問題だが、朝日のお話はつまらぬ美談。この問題自体は重要なのだが、どう切り出していいのか私も今わからない。
 なぜなのか機序はわからないが、口内の健康状態は心臓病やその他の感染症に関連が深いことが最近米国でわかってきている。とすれば、くだらない健康番組よりこの問題をなんとかせいと思うのだが。と、卑近な連想で気になるのは、練り歯磨き。これは虫歯予防という点では効果がない。じゃあなんだというような話である。このあたりの情報も整理して書いたほうがいいのだが、めんどくさい。恐らく口内のpH管理だと思う。口内のpH管理と健康について、どなたかブログで書いてトラックバックください、とか言ってみたりして。
 毎日新聞社説「グルジア CIS民主化の弾みに」は独立国家共同体(CIS)の基本的な問題を取り上げたという点でよく書けているともいえるのだが、結局のところ、なんだ?というのがよくわからない。形式上の結語はこうだ。


「テロとの戦い」支持によって米国から支持されている政権であっても民主化を怠れば国民の不満は蓄積され、いずれ国内矛盾が深まることを指導者たちは自覚すべきである。

 そう言われれてもふーん、でしかない。もしろ、国内矛盾、文化背景の全体象を描き出すべきではなかったか、といって自分が描けるわけでもないが、鍵になるのはイスラム教だろうと思う。
 産経新聞社説「議員年金 改革の突破口として削れ」は標題どおりの内容。なにかと数字を上げて説得しているあたりが、くだらない。それより議員を減らせばいいのだ。参議院をなくしてしまうのもいい。
 産経のもう一つ社説「日本の技術 的をしぼった国家戦略を」は液晶パネルのような産業を育成して頑張れというのだが、情けなくて泣けてくる。日経もときおり新三種の神器だ、といったことを言う。確かに日本はハイテク部門に力を入れたほうがいいし、デジカメといった日本の強みの分野は評価すべきだろうが、こうした産物は日本の底力の表出であって、いずれ国外に移る。重要なのは根のほうだ。表面的には未だ米国輸出依存だったり、ナニワの経営だったりする。全体の日本の技術とそれを支える構造を整理して考えたほうがいい。
 と、ザップして、気になるのはCISとイスラム教の動向だろうか。あまり情報が見えてこないのも気になる。

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2004.01.12

世の中の仕事ということ

 朝日新聞社説「20歳の君に――世界に一つだけの花」を読みながら、だるい感じがした。ああ、だるいなぁという感じだ。いつもなら次のような朝日の言い分にむかっ腹を立てるのだが、だるい。


 アフリカの西の端にある、シエラレオネという国を知っているだろうか。平均寿命34歳。世界で最も短命な国だ。
 「国境なき医師団」の一員として遠いこの国で活動した医師、山本敏晴さんが昨夏、出版した「シエラレオネ 5歳まで生きられない子どもたち」(アートン)のページを改めて開いた。

 よく言うよ。こんな時に手前勝手に「国境なき医師団」の活動を持ち出すなよ、恥ずかしいな、と思う。国際情勢といえば、アフガンだイラクだと騒いでいたころから、「国境なき医師団」のレターではシエラレオネが取り上げられていた。でも、ま、いい。というのは、先日マリのコレラの話を極東ブログに書いたが、この問題はもはや人道の問題を越えているように思うからだ。
 話を戻す。朝日新聞は成人の日だからということで仕事の話題に振ったあたりが、呑気な学生さんあがりの爺ぃの感覚だなと思うが、枕はこうだ。

 作家の村上龍さんが出した「13歳のハローワーク」(幻冬舎)という本が、発売から1カ月あまりで15万部も売れた。
 自分自身の生きる道を探し当てたい。
 そんな若い人の真剣な気持ちの表れなのだろう。
 514もの職業をやさしく解説したこの本は、収入の多さや社会的な地位の高さなどには重きを置かない。あくまで「なにが好きか」がものさしだ。

cover
シアーズ博士夫妻の
ベビーブック
 そうなのか。あれがよくわからないのだ。本屋に行けば山積みになっているから、私もこの本を手にしたが、率直言う、なんだコレは、である。もっと率直に言う、仕事を馬鹿にすんじゃねーよ、である。そういう私の感覚はおかしいのだろうか。幻冬舎もこんな本を作るのか。売れたから結果的に当たりというわけか。同じくらい分厚い本だったら、「シアーズ博士夫妻のベビーブック」を買えと思う。翻訳がところどころご都合で端折られているのだが、子供のない家庭にだって一冊あっていいと思う。
 くさしだけも良くないか。朝日新聞がいうように、仕事というのは「なにが好きか」が重要なものだ。だが、この本を読んでいないので、的はずれなことを言うのだが、なにが好きかは、27歳になるまでわからないものだ。確かに、人間の基本的な性癖や才能は三歳くらいで決まっているようには思う。だが、そのエンジンは、社会的な人格との統合を必要とするのであって、それには本格的な性の熟成が不可欠だ、と思う。話を端折り過ぎて「と」になってきているが、労働というのもは性の成熟と深い関係を持っている。端的な話、最古の職業は売春(歴史的にそうという意味では当然ない)と言われるように、売春は労働に対価されるのはどの社会の基本構造だ。なぜか考えてみるといい。そこを逃げてはいけない、とすら思う。
 27歳というスペシフィックな年齢を取り上げたのは、邱永漢がそう言う話をしていたことに、自分なりの経験を加え、そうだろうなと思うからだ。それだけだが、27歳というのは、普通、人間が挫折する時期であるように思う。それまでの人生の構成が立ち行かなくなり、自力で構成を変えていく。そのなかで、性のふんぎりも付き、仕事も見つかっていくものだ。もうちょっとお節介に、27歳になったら、いっぺん自殺してみぃ、と言ってみたい気もするが、もちろん、死ぬのはいけないし、私のように死を人一倍恐れる人間が言うのも噴飯なものだ。それでも、それまでの自分というのはもう死んでもしかたねぇな、と空を仰いでゼロから生き始めるといいと思う。赤手空拳で社会にたてついて、ぼこぼこにされながら、生きるという「礼」を知る、というか、そこではじめて「礼」が意味を持つと知るものだ。礼を知れば、五体満足ならいつの時代でも仕事はあるものだ(五体満足でなくても仕事はあるべきだが限定される)。所詮人間の社会などもたれ合って成り立っているのだ。
 残念ながら、日本の社会はまだまだそういう27歳を受け止めるように変化していない。邱永漢が親だったらいいのだがそうもいかない(のわりに彼は今でも親代わりをしている、この大人に頭が下がる)。多分に人生の敗残者になるだろう。
 もちろん、そう書きながら、人生の失敗者である自分を慰撫しているのだろうとは思う。が、そうでない人生の成功者たちが、40代で、50代で、ぼろぼろっと醜悪に崩れていく様を横目で見る。いずれ人生は苛酷なものだ。
 が、しかし、そうはいっても、安穏に27歳の腹のくくりもなく後年崩れることもない人間はいるな。傍からそう見えるだけかもしれないが、そういう人生もあるようだ。ま、いいじゃないか。関係ねぇよと思う。

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凡庸な日の新聞社説

 今朝は大きなニュースもなく休日だからなのだろうか、新聞各紙社説のネタがつまらない。それぞれの話題に少しずつ思うことはあるのだが、まとまらない。いくつか気になる話だけ、ザップする。
 朝日新聞社説「米国産牛肉――全頭検査は当然の要求」では、食の安全を大義に掲げていて裏の掘り下げがない。せめて「緊急輸入制限(セーフガード)」にもう少し踏み込めばよかったのだが、このあたりの動向については私もまだよくわからない。いずれ書くかもしれない。
 読売新聞社説「京都議定書 早期発効への突破口を」についてはすでに極東ブログで言及してきた以上のことはない。大国を攪乱させる戦法以外に議定書は使い道がないのだから、国内向けには黙っていてもいいと思う。どうせ、失敗するのだ。
 産経新聞社説「イスラエル情勢 和平交渉の機会を逃すな」は「イスラエル、アラブ双方とも、この機会を逃すべきではない。」と書くあたり、朝日新聞みたいだ。つまらない。イスラエルの問題は錯綜しているが、とにかく即刻あの壁を壊せと思う。私はかなり心情的にユダヤ人に同情的だが、今回の壁には激怒した。自分でゲットーを作ってどうするのだ。
 日経新聞社説「5年半ぶり原子力白書の空白」はまさに「空白の5年半についての分析も空白なのだ。」というわけで、日経の社説まで空白。現実の問題として原子力発電は日本ではもう無理かもしれないと私は思う。であれば、どうするのか、と問えば、天然ガスだろうと思う。そういう問題にプラクティカルに取り組むべきだ。ついで言えば、無駄になった原発の補償金を国庫に戻せよと思う。
 さて、社説というのは大衆に通じる話を書かなくていけないから、あまりテクニカル踏み込むべきものではない。しかし、今日のようにまばらな帆待ちの社説を並べて読むのも変なものだ。もう少しリスクをおかして書いていいのではないか。朝日の牛肉問題は国内保護、読売の議定書問題は無理、産経のパレスチナ問題はイスラエルを非難せよ(米国が怖くて言えないのだ)、日経の原子力問題は天然ガス…といったちょっと危うい主張に出ていいのではないか。
 「どうしたらいいかみんなで考えよう」と言う時代は終わったのであり、もう少しコントラバーシャル(論争的)な言論にすべきだろう。

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2004.01.11

語源の話:「ぐすく」と「あすか」

 ためらうのだが、日本語の語源の話を書こう。ためらう最大の理由は日本語の語源は日本語学および日本史学で事実上タブーだからだ。あるいは「と」の巣窟なのである。そんなところに首をつっこまないほうがいいには決まっている。それになにもブログのネタがないというわけでもない。
 が、日本語の語源については、時たま気になって、考え考えしている。このままだと私の人生の黄昏とも消えていくだろう。それでもいいのだが、書くとすれば、このブログしかない。では書いてみようかと思う気になった。なんとなくシリーズになるかもしれない。わからない。
 もう一つためらうのは、この手の話は、人によっては魂を魅了してしまうものなのだ。そういう輩をブログに集めたいとさらさら思わないのだが、結果そうなるのかもしれない。と、鬱っぽい書き出しで申し訳ない。
 話がいきなり飛ぶ。私は沖縄で数年暮らしていた。やまとうちなーぐちは身に付いたので、ちょっとしたうちなーんちゅにとぼけることはできるが、うちなーんちゅが言うところの方言、つまり琉球語は身につかなかった。それでも、琉球語は私の語感では室町時代の言葉に思える、裏付けもないのだが。
 琉球語は言語学的には日本語の姉妹語とされ、その分化は千年単位で見られているようだが、私は違うと考えている。伝搬は平安末から室町時代以降の和冦ではないだろうか。沖縄の民俗信仰も、日本の民俗学者たちは起源の古いものだと考えたがるが、私の印象では南紀に残る熊野の信仰や一遍上人など、あの時代の信仰に近いものがベースになっているように思われる。
 沖縄の言葉で起源がわからないとされるわりに、しばしば問題なるのが「ぐすく」という言葉だ。琉球語に近づけるなら「ぐしく」である。「城」という字を宛てる。「豊見城」は高校名では「とみしろ」だが、地名では「とみぐすく」である。私は「ぐすく」の語源は「御宿」だろうと考える。最大の理由は、琉球語で「皆さん」を意味する「ぐすー」が「御衆」だろうからだ。「御衆」にすでに南紀風な宗教の気配があるが、いずれ「ぐすく」の「ぐ」は「御」だろう。もっとも、これには反論も多く、「ぐす・く」と切って発音するから、違うというのだ。私はそう思わない。
 「御宿」は沖縄で見てもわかるが、朝鮮式山城のように見える。門中制度といい、祭りの綱引きといい、中華的に見える沖縄の文化の表層を除くと、そこには朝鮮文化があると私は思う。「宿」つまり「すく」は朝鮮起源かもしれないと思うのだ。
 連想するのは、飛鳥、「あすか」である。これにはこじつけでなく「安宿」の表記があり、朝鮮語の「アンスク」に一致する。諸説あるが、表記の残存から考えて、単純に「安宿」でいいのではないか。もっとも、このあたりの語源説はすでに「と」臭が漂う。どさくさで言うのだが、「奈良」の語源が朝鮮語の「国」を意味する「なら」のようにも思う。関連して、「百済」の「くだら」については、「大国」を意味する朝鮮語「くんなら」でいいのではないか。
 百済は滅亡して後、日本は百済遺民を多く受け入れている。彼らにとって親国はまさに「くんなら」だろう。もちろん、異論があることは知っているし、強弁する気などさらさらない。ただ、こうした語源の問題は、どうすれば解答になるかという条件も存在しえないのである。
 関連の話をもう一つつけて終わりたい。「飛鳥・明日香」の枕言葉は「飛ぶ鳥の」である。これが「飛鳥」という表記の語源になっているのは「と」ではない。なぜ、「とぶとり」がアスカなのか、これも定説はない。私は「安宿」(あんすく)と考えたいのだが、「とぶとりのあんすく」とはなんだろうか?
 枕言葉それ自体、定説がないが、一応文学の範疇されているせいか、修辞または詩法として考えられがちだ。だが、私はもっと素朴に、社会言語学的な弁別性だろうと考えたい。つまり、「とぶとりのあんすく」ではない「あんすく」との区別だ。あるいは、「TOKYO、T」といったふうに、弁別性の発音の便宜かもしれない。
 飛鳥時代は、皇室や寺院回りには百済・新羅・高句麗民がかなりいたのだから、ある種のマルチリンガルな状況だったことは間違いない。そういう上層民はそれでもいいが、下層民は単一言語だろうから、そのインタフェース的な言語の便宜が必要になる。枕言葉はそうした残存だろうと思う。
 「とぶとりの」の語源は皆目わからないのだが、田井信之著「日本語の語源」という、奇書としか言えないのだが、この本によると、「富み足る」の音変化だという。こじつけのようだが、古事記には「とだる」という語があり(「天つ神の御子の天つ日継知らしめすとだる天の御巣みすなして」と広辞苑にもある)、富むの意味を持つ。この語の場合は、古形に「とみたる」があっても不思議ではない。
 推測に推測を重ねるのが「と」の本領だが、「富み足る安宿」としてみると、「安宿」という地名なりその居住地に対する国褒め歌の一部のようにも聞こえる。その背景には、貧しく逃れる人々の思いのようなものが感じられる。

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初等教育が変だ

 日経新聞社説「気がかりな止めどない労働組合の衰退」で指摘されている労組衰退の事実が面白かった。論旨は別にどってことはない。日経としては労組頑張れとしたいのだろうが、無意味だろう。私としては、労組の衰退に心からどす黒い喝采の声を上げたい。おまえらこそ、派遣労働者や非日本籍の労働者の敵だ、つまり、本当の労働者の敵だと呪いたいのである。そう呪わせる経験が私はある。でも、それはあまりに複雑な私怨かもしれないので、話は膨らまさない。
 読売新聞社説「決断の年 教育のグランドデザイン描け 基本法改正の時だ」のネタをなんとなく取り上げる。読売の社説はつまらないし倒錯している。が、読売新聞に批判を投げても無意味だろう。教育について、こうした読売的な考えの人たちに私は違和感を持つ、というくらいだ。彼らは教育を良くするにはこうしろという。


 そのためには、基本法を改正し、家族や国など、自分を超え、自分を支える共同体の価値について、子供たちに学ばせる必要がある。

 罵倒したい気もするが、どうも萎える。自分も爺臭くなったなと思うのは、気力のある人間には馬鹿野郎と言いたいが、この読売社説のような意見の持ち主には気力なんかないのだ。共同体の価値を知る者やものを学ぶということはどういうことかわかっている人間なら、けしてこんな戯けたことは言わない。共同体の価値を子供に学ばせたいなら、電車のなかで中年の男が老人や妊婦、障害者に席を譲ることから始めるべきだ。くどい徳目のリストを書くまでもない、大人が共同体の価値を信じているなら、子供に伝わる。この手の教育議論が無意味なのは、大人が問われているからだ。
 話はずっこける。NHKクローズアップ現代で学力低下のテーマをやっていた。なんでも、小学校の学力調査をしたら、子供の学習が思ったように達成していなかったというのだ。番組自体の作りは悪くない。小学校教諭の情熱と、「なんでこんなの覚えてないのか」という悔し涙の映像も悪くなかった。しかし、率直に思ったのだが、こういう情熱的な先生がいる学校なんか嫌なものだ。無気力なロボットのような先生よりはましかもしれないのだが。
 番組中、こんなふうな問題が出てきた。

    46×7+54×7

 これの解き方は、(46+54)×7としてから数値を出せということらしい。ぼんやり見ていて、はっと目が覚めてしまった。おい、冗談はよせ。そんなもの教育でもなんでもないぞ。
 実はその前に、いやな予感はあった。たとえば、この手の問題だ。

    40-16÷4

 この手の問題で割り算を先にすることができないという生徒が多いと、教員は嘆いていたのだ。ちょっとまいった。今の算数教育の馬鹿さかげんだな、とちらと思っていたのだ。確かに割り算という演算規則ではそうなる。
 だが、割り算という演算は掛け算の逆算だし、引き算という演算もマイナス値の加算なのだから、さっさと合理的な演算体系を習得させたほうがいい。関連して思うのだが、分数の小数だの数の集合の違うものをごちゃごちゃにするのをやめたほうがいい。
 それにしても、数学者はこの惨状になにも言及しないのだろうか。この話は以前も書いたな。
 言っても無駄なのだろうか。同じようなことは他の学科にも多い。国語の漢字はただの丸暗記だ。康煕字典など知らなくていいのだろうか。英語にはいまだにフォーニックス(Phonics)が導入されていない。理科教育もひどい。社会科も意味が抜けている。
 と、言葉につまる。

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朝鮮日報、それは考え過ぎ

 朝鮮日報社説「日本という国の偏狭さ」を読んで笑った。と書くと誤解されるかもしれない。嘲笑でも苦笑でもない。おもろいこと書くなと思ったという単純なことである。もっとも、ことが笑い事では済まれないのだろうとは思う。ちと長いが雰囲気を伝えるために引用する。


 韓国政府が独(トク)島の自然をテーマにした切手を当初の計画通り、今月中旬に発行するとの方針を示したことに対し、日本の麻生太郎総務庁長官が「日本側も対抗措置として独島をテーマとした切手の発行を検討しよう」と提案したという。
 今年1月1日に小泉純一郎首相が日本の伝統服飾姿で、第2次世界大戦のA級戦犯らが祭られている靖国神社を突然参拝、韓国および中国国民を激怒させたのに続き、今度は日本政府の高位関係者らの常識外れの言動が相次いでいる。
 このような日本の妄言は今日に始まったことではないが、最近の動きをみていると、日本内の空気が尋常でない方向に流れているのではないか、という懸念を抱かざるを得ない。

 「あのぉ、そんなことはないんです」と、おじゃる丸の貧乏神様の声で言う。日本人の大半は竹島のことなんか念頭にない(それも問題)。小泉総理の靖国神社参拝もきな臭いなと思っている。それが日本の大衆の意識だ。ちと、こう言いたい「朝鮮日報様、日本にいらっしゃって、養老の滝とかで飲みつつ、日本人と対話されてはどうでしょうか。料理がうまくないのは申し訳ないと思いますが、いや、沖縄料理屋がいいかも、豚料理はうまいですよ(うまい店なら)。沖縄人も改名させられましたよ、日本は単純ではありません」と。
 引用が多いがもう一つ。

 予定通り独島切手を発行するとした郵政事業本部の決定は、いかにも当然のことだ。日本のこのような動きに、「高句麗史は中国史の一部」と主張する中国の露骨な意図を重ね合わせると、北東アジア情勢に重大な地殻変動が迫っているような印象を受ける。
 結局、このような一連の問題の根本的に解決するためには、国力を強化するほか道はないようだ。「放心しているうちに、一世紀前のあの事態を繰り返すことになるのでは」と考えると、今の国内情勢にため息が出るばかりだ。

 韓国が切手を出すのはけっこうなことだし、あの島を領土だと思うのもかまわないと思う。だが、日本もあの島が領土だと思っていることを配慮して、妥協してはどうだろうか。あんな島自体はなんの価値もない(とあえて言う)のであって、ようは海域の利権の問題。つまり、金の問題じゃないか。金でかたがつくことは金でかたを付けるのがいい。他の方法をとってもこじれるだけ。と、書いても、たぶん通じもしないだろう。それが隣国問題というものだ。どの国も隣国とは仲が悪いものなのだ。せめて、熱くならないようにすることだ、日本もね。
 こんな冷やかしの話を書いたものの、中国にまでタメをはろうとするなら国力を強化するより、日本と連携したらいい。そんなことわからないわけもないと思う。東亜日報によれば、李滄東(イ・チャンドン)文化観光部長官は、新年記者懇談会で「中国の高句麗史歪曲問題について、政府レベルで対応するのは問題解決に何の役に立たない」と述べたらしい。そりゃ、そうだよ。
 しかし、小中学生を1万に近く米留させてしまう韓国社会には、やはり通じないのかと思うと、このあたり、日本の大衆としては、大きく構えるだけの余裕を持てということになりそうだ。日本はどう隣国にメッセージを送るべきなのか、困惑する。
 ふと思ったのだが、韓国が日本の文化を解禁したといってもまだまだアニメは先のことになる。残念だなと思う、ぜひ例外でいいから、「おじゃる丸」を放映してもらいたいと思う。日本の大衆というはああいうものなのだから。

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