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2004.07.10

韓国がブログを敵視し始めたようだ

 韓国がブログを敵視し始めたようだ。話はNorth Korea Zone"Big Brother in South Korea"(参照)から。まだ別ソースからの裏は取れてないので、ここにネタをひくのは、若干フライングなのだが、逆に極東ブログがわずかに日本側の印象を集めることに寄与できればと思う。
 話は、北朝鮮問題を扱うブログNorth Korea Zoneへのインターネット・アクセス遮断が韓国で起きているというのだ。以前、それは中国だったが、まさか韓国までそれをやるのかというのが、率直なところ、私には衝撃的だった。ひどい言い方かもしれないが、香港・台湾には若い世代に民主化が根を伸ばしているのに、大陸と韓国はこの点で、後退しているようにも思われる。あるいは、日本のようなアパシーという点で先行しているのかもしれない。
 North Korea Zoneはついにホスト移転を余儀なくされてきている。


NKzone is going to move the server hosting soon, which should (hopefully) solve the problem. Nonetheless, while NKzone has always expected to have problems with Big Brother in China and North Korea, we never expected to face censorship problems in South Korea. If you know people in South Korea and China who are unable to access the NKzone site, please have them email nkoreazone@yahoo.com to sign up for the daily e-mail updates.

 North Korea Zoneの事実認識が確かなら、韓国でネット検閲問題が起きるとは私も思っていなかった。韓国・台湾が戒厳下に置かれていた歴史感覚を持つ世代としては、このうかつさを恥じる思いだ。
 North Korea Zoneに報告されているサポーターの見解がまたぞっとする内容だった。

This censorship, coming at a time when the GNP is reported to want to promote a law allowing South Koreans to view legally North Korean internet sites, coincides with the government's continuing blocking of access to any individual blog on all the main bloging sites worldwide, such as blogs.com, blogspot.com &typepad.com, leaving millions of sites worldwide inaccessible to Koreans, including bloggers themselves resident here.

 当初の遮断の目的は、例のイラクにおける韓国人殺害映像だったかもしれない。しかし、この状況は、そうした単発的なものではなさそうだ。これが本当なら、ブログへの挑戦が始まるのだろう。そんな大げさな物言いはちょっと恥ずかしいが、これが現実なのではないか。ブロガーを相手にした戦いに、韓国レベルの国家が勝てるわけはないとも思うのだが、しかし、その勝利の確信たるべき、我々自由主義国家の市民の気力のほうが問題だ。杜撰な言い方だが、これだけインターネットが普及し、ブログも勢力を持ち始めているのに、いまだメディアの大衆誘導が優勢に見えるのはなぜだろうか。麻木久仁子バッシングなども洒落で済むことではないのかもしれない。
 以下、連想される気になることを散漫に書く。
 まず、北朝鮮がらみではないのだが、韓国大統領府、青瓦台(チョンワデ)が、朝鮮(チョソン)日報・東亜(トンア)日報を敵視始めたことだ。この動向は以前の反日法にも関連しているようだが、当面の問題は大統領府問題についての「青瓦台『朝鮮・東亜の報道に4大矛盾』」(参照)が興味深い。

青瓦台は、両紙の記事を分析したところ、否定的・批判的な内容が価値中立的な内容の4倍だったと指摘した。与党「開かれたウリ党」(ウリ党=「わが党」との意)も加勢した。同党の金賢美(キム・ヒョンミ)スポークスマンは9日「韓国政治の地形は『ハンナラ党対ウリ党』ではなく『一部新聞対ウリ党』」とし「ハンナラ党は、一部新聞の思考と主張を実践する『胴体』であり、『脳髄』ではない」と話した。

 両紙の日本版を読み続けた私に偏見があるのかもしれないが、この動向は異常だし、いったいなにが起きているのか、韓国と思う。およそ自由国家で、政府がメディア批判に乗り出すのは異常としか思えない。もっとも、表層的には、日本政府対朝日新聞に似ていないでもない。が、読売・産経が腰抜けしてしまった現在、憎まれ役というだけでも朝日新聞は日本に存在価値があるかもしれないと思えるほどだ。
 北朝鮮の関連の文脈に戻れば、産経ではあるが、最近の黒田勝弘のエッセイ「金日成主席、没後10年 “独裁継続”許した中韓 今後10年…日本の役割重要に」(参照)があまりに秀逸だった。この10年間北朝鮮の独裁体制が維持されたのは、中国の責任もだが、韓国にもその責を問うている。

 韓国の責任も大きい。いや、同じ民族(!)としてこちらの責任の方が大きいかもしれない。しかも国内問題であれだけ「民主化」や「人権」を言ってきた人びとが政権の座についたとたん、北朝鮮の独裁体制批判や民主化、人権問題には口をつぐんでいるのだ。
 体制批判など「北を刺激するようなことはしてはいけない」という。その代わり食糧や肥料など物資はもちろん、経済交流のためといって巨額の外貨まで提供してきた。そして何よりも大きいのは「北は同胞」として、対立、敵対感情を後退させたことだ。

 私は、韓国(日本もだが)北朝鮮に対して敵対感情を後退させることは有意義だと思う。しかし、問題はそのことと北朝鮮の体制批判は同じではない。が、そこが事実上弾圧されているのだ。

 北朝鮮にとってさらにうれしいことは、韓国社会では北の独裁打倒や体制批判をやっている亡命者は疎んじられ、金総書記に対する個人批判がタブーになっていることだ。ソウルでは最近、金総書記のソウル初訪問の条件として「雰囲気づくり」を注文しているという話も出ている(七日付、中央日報)。金総書記に対して批判どころか“称賛”の動きまで公然化しかねない。
 結局、左翼や親・北朝鮮勢力を解禁し「北の脅威」を否定した韓国の民主化が「北の独裁」を維持させたことになる。したがって「失われた十年」は韓国が演出したということになるが、次の十年はどうか。

 つまり、そういうことなのだ。しかも、その動きが、ネットの遮断ということで加速しているのだ。
 日本国内でこの問題を深刻に捕らえている人の思いをもうしばらく見つめてみたい。

【追記 同日10:45am】
 ためしに韓国サーバーのプロキシをかましてNorth Korea Zoneをアクセスしたら、見事、遮断されていました。まじかよ。

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2004.07.09

今後エイズは日本の大問題になるかもね

 エイズの問題を扱うのはちょっと気が重い。重要な問題なのに、必ずと言っていいほど政治の思惑が絡むからだ。しかし、潜在的ではあるが、すでに事態は洒落にならない状態に移行しているように思われる。だから、少し書いておこう。
 最初にたるいニュースだが朝日新聞系「エイズ死者、累計2千万人超える 国連最新推計」(参照)をひく。


 国連合同エイズ計画(UNAIDS)は6日、世界のエイズウイルス(HIV)感染者が03年末に3780万人にのぼり、同年の新たな感染者が480万人、エイズによる死者は年間290万人とする最新推計を発表した。

 幸い、これは推定値より伸びが鈍い。UNAIDSの主眼はアジアに向いてきている。

 一方、アジア地区では伸びが目立ち、感染者数が740万人、うち03年の新規感染者数が過去最高の110万人に達した。中国では、感染者が01年末の66万人から03年末には84万人に増加。UNAIDSは、同国で効果的な措置が取られなければ10年に感染者数が1000万人に達する可能性があると警告している。

 わかりやすいようでわかりづらい。印象としては中国が本丸のようにも思える。ここはジャーナリズムも書きづらいのだろう。
 さて、エイズの問題は、日本人には、ピンとこないのが実際ではないだろうか。メディアも騒ぎ疲れた感じがあるが、統計的にも日本の危機には見えない。というのも、HIV感染者は米国で95万人、ロシアで96万人、ベトナムで22万人というが、日本は1.2万人と桁違いに少ないからだ。単純に言えば、日本人にとって、エイズは、外人の病気であり、薬害エイズのような国政側の人災といったところだろう。
 私もどちらかといえばそう思っているのだが、今朝のロイターでちょっと気になるエッセイがあった。配信の関係からちょっと変わったサイトからになるが"Oblivious Japan may be on brink of AIDS explosion"(参照)からひく。標題を試訳すれば「健忘症の日本でエイズ爆発の可能性あり」となるだろう。そう、日本人はすっかりエイズのことを忘れているのだ。なお、記事中の"Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University"は木原正博・京大教授、また、引用部分ではないが、ボランティア活動をしている"Akaeda, a doctor"は赤枝恒雄医師である。

Some experts warn cumulative numbers could jump to 50,000 by 2010 due to increased youth sexual activity, less condom use, and official indifference, symbolised by falling budgets.

Worse though, may be general public apathy.

“It’s impossible for people to think AIDS has anything to do with them,” said Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University. “AIDS is Africa. It’s America It’s gay.

“The ignorance is huge... so this is a very dangerous situation,” he added. “I think the estimate of 50,000 by 2010 might be an under-prediction.”


 現状では、統計的に見れば、たしかに日本でのエイズは問題でないかに見える。しかし、問題は2点ある。1つめは、先進諸国ではエイズは衰退の傾向にあるが日本は逆であること、2つめは、"The ignorance is huge"、つまり、無関心さだ。記事では、2010年に5万人を想定している。6年先は遠いのようにも思えるが、6年前はついこないだのことだったな。いずれにせよ、6年後、そのとき、日本のエイズ患者が5万人の水準になっているかが一つの目安になるだろう。が、そのときは、この不吉な予言の的中であり、事態はさらに難しくなっているだろう。
 この問題は、日本のメディアでは、若い人の性活動や避妊具流用の推進というお定まりの文脈で語られやすい。が、問題の大きな軸は、日本の性産業にもあるように思える。ロイターでは簡素にしか触れていないが。

But while in the past many cases involved foreign women in the sex trade or men who picked up the virus overseas, the sources of infection now are almost all domestic -- and spreading from major centres like Tokyo to cities around Japan.

 もうちょっとあからさまに言ったほうがいいのかもしれないが、控えておく。あと、以下についても引用だけはしておくが、コメントは控えたい。

Some 20 to 30 percent of 16-year-olds have sex, and nearly a quarter of these have four or more partners, said Masako Kihara.

“Only 20 percent use condoms every time,” she added. “They think they have a set partner, so it’s safe.”

Not surprisingly, both AIDS and other sexual diseases - such as chlamydia, which can cause infertility - are on the rise.


 ロイターの記事ではこの先、日本のエイズ検査の状況を問題にしているが、あまり踏み込んでない。ので、関連して、読売新聞に連載中の「エイズ・20年目の現実」の第四回(7.7)をひいておく。誰もが知っているが献血検査の問題を指摘している。

 こんな検査キットが、一年半ほど前から大手薬局の店頭などに並び始めた。一セット5000円弱と安くないが、販売元は「ほとんど宣伝していないのに、売れ行きは確実に伸びている。潜在需要は大きい」と話す。
 エイズ患者・感染者が増える中、感染の不安を抱える人の多さを物語る現象だが、こうした人たちを受け止めるはずの公的検査態勢が不十分であることの裏返しでもある。この現実は医療を支える献血の安全性をも脅かしている。検査目的とみられる献血が後を絶たないからだ。
 日本赤十字社は高精度検査を実施しているが、感染から二か月近くはウイルスが少なく検出が難しい。昨年末には、その「空白期間」に献血された血液が検査をすり抜け、輸血された患者の感染が報告された。
 厚生労働省は、再発防止策の一環として、検査目的の人には、献血窓口での正直な申告と日赤の提携病院で無料検査の受診を求める仕組みを整備する方針を打ち出した。
 しかし、日赤には反発の声がくすぶる。ある幹部は「保健所だけで不十分なら、全国の国公立医療機関で無料検査する枠組みを作ればいい。国は自らの努力を怠り、日赤に責任を押しつけている」と批判する。英仏などでは一般の医療機関で検査を受けるのが普通で、検査目的の献血は基本的にないという。

 端的に言えば、そういうこと言っている場合じゃないだろ、だが、日赤の問題の根は深い。というか、ブラジル沖までつながっていそうな井戸を覗き込むような感じだ。
 どうも喉にものが詰まったような言い方になってしまったが、どうもずばっと書くには危険なことが多いかなとつい思うようになった。ごめんな。

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2004.07.08

新暦七夕のこと

 昨日は七夕ということで、その手の話題をネットでもよく見かけた。が、そのうち、なんだか変な気がしてきた。七夕というのは本来は旧暦でやらないと意味がないのだが、そのあたり知識がまるでわかってないんじゃないか、というか、ネットって、百科事典的な知識がコピペで伝搬しているだけなんじゃないか。なんだ、これは、という感じだ。なので、ちょっと書いておくのもいいのかもしれないと思うのだが、顧みて、自分の考えが正しいと強弁するものでもない。
 まず、「七夕」と書いてどうして「たなばた」と読むかについてだが、このあたりの解説はけっこう多い。字引にも載っている。広辞苑にあるように、読みの元は「棚機」であり、「すなわち横板のついた織機の意」ということ。
 これは、「棚機つ女(たなばたつめ)」の略だ。ところで、この「つ」の意味についてはあまりネットでは見かけなかった。わかってないのかも。これは「国つ神」の「つ」であり、現代語の「の」つまり、「棚機つ女」は「機織りの女」ということだ。「まつげ」の「つ」もこれと同じだから「目つ毛」なのである。高校の古文とかでこういうのちゃんと教えているだろうか。ま、いいか。
 「棚機つ女」については、万葉集にこんな歌がある。


我がためと棚機つ女のその宿に織る白たへは織りてけむかも(2027)
天の川梶の音聞こゆ彦星と棚機つ女と今夜逢ふらしも(2029)

 表記は適当。意味もよくわからない。偉そうな解釈は明治以降いろいろついているが、2027は民謡臭いし、性遊戯が連想される。2029は、文字通りの意味ではなく、なにかの当てこすりなのか、いずれ歌の機能がありそうだ。というわけで、文学としてはなんだかわからない。わかるのは、万葉集の時代にすでに七夕の伝説はあったということだ。
 この「棚機つ女」を、近代の歌の表記によっては「織女」とすることもあるように、一般的には、これが理由で、中国の織女伝説と、日本の棚機姫の神が習合した、とかいう説明が多い。例えば、大辞林にはこうある。

奈良時代に中国から乞巧奠の習俗が伝来し、古来の「たなばたつめ」の伝説と結びついて宮中で行われたのに始まる。近世には民間にも普及。また、盆の習俗との関連も深い。七夕祭り。星祭。[季]秋。

 たしか古事記や日本書紀にも記録にあるのだが、私はこれは変だと思っている。というのは、日本の古来というのは幻想に過ぎない。日本列島の住民は、二、三世紀あたりで、すでに、北方系のツングース(かな)と南方系の海洋民の混血が進んでいたようだが、文化的に見れば、というか、権力的な家族システム的に見れば、早々に中華圏の影響を受けた辺境であり、端的に言えば、日本人はすべて中国人の子孫である。とだけ言うと、とんでも説になるのだろうが、原日本人なる実体を想定するよりはまともだろう。
 つまり、日本古代の氏族的なファミリー組織は基本的に中華圏の移民(華僑)のように構成されていたと考えるわけだ。とすれば、こうした七夕伝説なおは、日本と中国の習合ではなく、古中国(おそらく越人であろう)の文化と、万葉集時代の中国である唐(これは実はユーラシア民の王朝)の文化の混合からできたのものであり、基底には、古いか新しいかの違いはあるにせよ、道教があるはずだ。
 もう一点。七夕が今日の民間の風習になったのは、大辞林がいうように近世のことだ。どうも、潮干狩りだの七夕だのの年中行事は江戸時代にその時代の社会的な要請からできたようだ。ついでにいうと、ねぶた祭りだが、これの解説は概ね変だ。マイペディアではこうある。

青森,弘前など東北地方の七夕行事。弘前では「ねぷた」という。青森では8月3~7日に行なわれ,竹,木,針金,紙などで作った大きな人形(ねぶた)に灯をともして町を練り歩く。7日には船に乗せて海上運行が行なわれる。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の故事によるともいうが,元来は睡魔を払い流そうとしたもの。

 「睡魔」があきれるが、これは柳田国男だったか、「ねぶた」を「ねぶたし」の洒落にしてしまったためだ。しかし、「ねぶた」が「たなばた」行事であり、古代にその名称で確立していたのだから、「たなばた」→「たねぶた」→「ねぶた」といった音変化であることは間違いない。
 さて、とうの七夕の行事だが、これは、広辞苑にあるように実際の天体の状態が欠かせない。

五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。

 そこで、新暦で天の川の両岸に牽牛星と織女星が見えるのか?
 見えると言えば見える。だが、それでいいのか、というのが、冒頭、私の変な気がしたということだ。ちょっと説明したい。
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新暦7月7日21時<東>
 牽牛星は、鷲座 α Aquilae Altair、つまり、アルタイルなのだが、Altairと聞いてピンとこないコンピュータ技術者もいるご時世になってしまった。そして、織女星は、琴座 α Lyrae Vega、つまりヴェガだ。これに白鳥座座のデネブを加えると夏の大三角形ができる、のだが、都心だと見づらい。新暦の7月7日だと東の空のやや低い位置に大三角形が見える。ヴェガは高いのこれでも夏の大三角形らしさはある。深夜過ぎると月齢19日の月が東の下方向から登り始め、星は見づらくなる。あまり、七夕に適した夜ではない。まして、梅雨時である。
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新暦8月22日21時<西>
 これに対して、旧暦の7月7日、今年の場合は8月22日になると、やや西空ではあるが、21時頃には天空の中央に夏の大三角形が現れる。ちょうどステージに現れたという感じだ。そしてこの晩は月のじゃまがない。あたりまえの事だが、旧暦というのはムーンカレンダーなので、15日で満月になる。7日だとその半分というくらいだ。
 その他、ちょっと気になる天体シミュレーションをStella Thater Pro(参照)で行ってみた。天文ソフトだが、古代史と限らず歴史に関心のある人間には必携のソフトなのだが、そのあたりの話はまたなにかの機会にでも。

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2004.07.07

国松孝次元警察庁長官狙撃事件の裏にあるもの

 この話は書こうかどうかためらった。私が書かなくても、誰かが書くだろうというのと、私でないと書けない部分がありそうな点だ。後者については、書いても誤解されるだけで、うまく書けないだろうが…。
 話の切り出しは、朝日新聞系「オウム元幹部ら4人を殺人未遂容疑などで逮捕 長官銃撃」(参照)あたりがいいだろうか。意外に、若いネットの世代はすでにこの事件を知らないか、あるいは、この事件の持つ歴史的な感覚を持っていないだろう(批判しているのではないよ)。


 国松孝次・警察庁長官(当時)が95年3月、東京都荒川区の自宅マンション前で銃撃された事件で、警視庁は7日、オウム真理教(アーレフに改称)の信徒だった警視庁の元巡査長と教団元幹部2人の計3人が事件に関与した疑いが強まったとして、殺人未遂容疑で逮捕した。もう1人の教団元幹部も別の容疑で逮捕し、銃撃事件について事情を知っているとみて調べる。警察トップが銃撃されるという日本の犯罪史上例を見ない事件の捜査は、発生から9年ぶりに解明に向けて重大な局面を迎えた。

 ということなのだが、率直なところ、こんな話は、今さら、といった問題でもある。そのあたりは、「勝谷誠彦の××な日々」(参照)の今日7日のエントリがよく表現している。

ご存じのようにこの事件は今回逮捕された小杉敏行元巡査長が一度メディアに対して告白したもののそれを警察庁は認めなかったという「一度は終わった事件」である。

 そして、勝谷は、当然ながらというか、北朝鮮との関連に思いをはせている。勝谷の表層的なレトリックの部分については捨象して読むといいだろう。つまり、一度は終わった事件がなぜ、今蒸し返されたのか。

それがどうしてここへきて寝た子を起こすようなことになったのか。当時と今とで変化したことは二つある。一つは小泉首相がブッシュに続いて金豚の狗にも成り下がったことであり参院選に向けてのなりふりかまわぬサプライズのために次々と国を売り渡していることである。明らかに北朝鮮が関わっていると思われるこの事件がここで急に解決に向かうこととそれとを結びつけない方が不自然ではないのか。もうひとつはあの事件当時の国家公安委員長が野中広務だったことだ。闇同和の帝王が警察のトップを務めていたということ自体笑うほかはないが北とのパイプ役でもあった彼が権力のラインから退いたことがどういう影響を与えているのかどうか。ことは単純に金豚に恩を売るということではなくもっと複雑な「ラインの付け替え」が行われているのではないか。

 ジャーナリズムに関わった人間なら、勝谷のレトリックを除けば、特に驚くような話ではない。幾人かのジャーナリストはある程度まで食い込んだが、たぶん、ある鉄壁を前にしているはずだ。ちょっと下品な言い方だが、今朝の朝日新聞社説「北朝鮮――金総書記の小泉頼み」はこの観点から深読み出来そうなのだが、省略する。
 問題は、しかし、そこではない。勝谷は北朝鮮との疑惑以前にもっと重要なことを、ちょっととぼけながら、想起している。

また今回逮捕された中に含まれている石川公一は法王官房長官という麻原の側近中の側近でありながら処罰らしい処罰を受けずにそのことから公安のスパイではないかという見方まで出ていた。彼は小松島の医者の息子で灘の後輩です。すみません。それがここへ来ての驚きの逆転逮捕劇である。

 勝谷はこれ以上はここでは触れていない。朝日系の先のニュースではこうある。

 殺人未遂容疑で逮捕されたのは、教団元信徒で警視庁本富士署の元巡査長小杉敏行(39)▽教団元「防衛庁」トップの岐部哲也(49)▽教団元「建設省」幹部の砂押光朗(36)の3容疑者。
 教団「法皇官房」の事実上のトップだった石川公一容疑者(35)も、別の爆発物取締罰則違反容疑で逮捕した。

 ここで、少し私も逡巡するのだが、小杉敏行元巡査長と言えば、苫米地英人(英斗)を外すわけにもいかず、実は、彼は、かなり明確にすでにこの問題を多方面で語っている。というか、語っても空を切っているため、しだいに脇が甘くなっているかのような印象すら受ける。ネットのソースとしてこれをリファーしていいのか悩むが、重要な証言なので、利用させてもらう。「実話ナックルズ5月号」での彼のインタビューだ。これはたまたま阿修羅サイトに転載されている。阿修羅サイトには私は率直に言うとできるだけ距離を置きたいのだが、そういう気取った状況でもあるまい(参照)。

オウムの洗脳をふくめ一大体系を作り上げたのは、法皇官房の石川公一元幹部その人です。石川元幹部は地下鉄サリン事件の謀議をしたリムジン謀議の場にもいました。これは証言されています。また、そのリムジン謀議がサリン謀議として今回の麻原の第一審で初めて認定されたことは記憶に新しい所です。その認定されたサリン謀議に参加したにも拘わらず何故か罪に問われず、いまも社会で生活をしています。灘高から東大医学部を出た彼こそ、オウムの洗脳を作りあげた張本人です。ナルコとニューナルコ。ニューナルコは記憶を消すやつでナルコは自白させる。これを発明したのは、林郁夫みたいに言われてますが、違います。これを発明したのは、石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近は、石川公一元幹部なのです。またオウムの教義を作り上げたのも石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近であり、麻原のブレインは石川公一元幹部その人なのです。現在、石川公一の面倒を見ているのは、オウムや被害者の救済をする立場にある阿部三郎管財人です。被害者を今の立場に追いやった中心人物の一人である石川公一元幹部を、被害者を救済しなければならない阿部三郎管財人が面倒を見ているというのは日本特有の現象といえるでしょう(阿部氏は何も知らずに石川公一に同情したようです。石川公一は、『爺殺し』はうまいですからね)。

 取りあえず、この件の考察はちょっと中断する。私が書く必要もない。苫米地英人はこれ以上のことを知っているのであり、いずれ明るみに出るだろう。
 少し話の向きが変わるように思われるかもしれないが、苫米地英人はこの先、こう語っている。

苫米地  オウムの教義は中沢新一氏の唱えた物そのものです。中沢氏の書いた『虹の階梯』です。実際に麻原は獄中からも取り寄せています。氏がどう思っているかに関わらずオウムにとっては中沢新一氏こそオウムの教義そのものといっても過言ではないでしょう。オウムの教義編纂の中心人物でもあった石川公一元幹部が中沢新一氏のいる中央大学へ再入学したのも記憶に新しいところです。ほかにもタネ本はあります。これは私がある脱退した最高幹部から、催眠によってごく一部の人間しか入れない麻原の部屋を再現させ、彼の本棚にあった本をいくつも探し出しました。その中で、麻原がもっとも影響を受けた書物がこれです。

苫米地氏は青色の本を差し出した。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(ダンテス・ダイジ著/森北出版)

苫米地  この本は、オウムの一番のタネ本です。佐保田鶴治氏の『ヨーガ根本経典』も麻原が獄中から取り寄せた本として知られていますが、コアのヨガ的な洗脳の一番のエッセンスがちゃんと入っているのがこの本なのです。この書がオウムのタネ本であることはここで初めて紹介するわけですが、ここであかすことはきわめてリスクがあります。なぜなら、これを読むとカルトをつくれるから。
これだけでつくれてしまうのです。ですからずいぶん悩みました。しかし、オウムの洗脳を暴くためにも、あえて決断しました。このタネ本はオウムの高弟たちのごく一部しか知り得ません。


 このあたりの様相は、あの時代の空気を吸った人間ならそれほど秘密のことではない。中沢新一「虹の階梯」はよく知られている。また、佐保田鶴治訳「ヨーガ根本経典」は恐らくヨガに関わったことのある人間は誰でも持ち、読んでいる。ヨーガ・スートラについてはさておき、この本は、ヨーガ・スートラ以降のインド・タントラの古典を合本にしているので、きちんと知的訓練を受けていない人は、その流れで読んでしまいそうになる。つまり、タントラ側からヨーガ・スートラを理解するということだ。これは、もっとも合理的なアイアンガー・ヨガ、およびその源流のクリシュナマチャルヤ(Sri T. Krishnamacharya)との関連するのだが…ちなみ、昨今日本でも流行のパワーヨガはこの系統のもっとも合理的なもので、アイアンガー・ヨガに近いが、アシュタンガ・ヨガの亜流だ。アイアンガー・ヨガの公式教師も実際面では混同しているのだが、アイアンガー・ヨガにはもっと重要なセラピュイックな側面があり、これは米国でもあまり注目されずまして日本ではの状況だ…その話もここまで。
 タントラとヨガの関係、さらにそれがオウム真理教のようにチベッタン・システムと融合してしまうのは、成瀬雅春(例えば、「空中浮揚」)などでも同じ傾向がみられる。ちなみに彼と麻原の直接的な関係はなさそうで、むしろ、麻原の稚拙なインディアン・システムのヨガは桐山靖雄の初期の修業(例えば「人間改造の原理と方法」、なお本書は歴史文献である)に近い。桐山と麻原の関係については、よくわからない。さらに、桐山のヨガ的な源流は、本山博(例えば「密教ヨーガ」)と天風(例えば、「成功の実現」。廉価版もあるかもしれない)だろう。生長の家をこれらと密教とで味付けしなおしたという印象はある。なお、成瀬雅春や阿含宗を非難しているわけではないので、誤解無きよう。
 インディアン・システムのタントラとチベッタン・システムの融合は、Theos Casimir Bernard(参照)の"Hatha Yoga: The Report of a Personal Experience"にも見られるので、20世紀初頭のインディアン・オカルトの嫡流であるかもしれない。当然ながら、これに神智学が関与してくるのだが、この話もここまで。同様に、この神秘主義への探求は、バナードと同様、エリアーデにも見られるし、彼もまさに実践を通じてあの大著「ヨガ」を書き上げる。この傾向は、その後の立川武蔵にも影響している(「マンダラ瞑想法」など)のだが、くどいが、この話もここまで。
 いずれにせよ、オウム真理教における、インディアン・システムとチベッタン・システムの融合(またそれゆえに仏教が絡む)は、この分野をある程度系統的に見た人間ならそれほど違和感のないものなので、麻原の神秘体験記述は吉本隆明が驚嘆するものではなく、すぐに出典が連想されるようなものだった。と、私はなにを書こうとしているのか? オウム真理教における教義の、こうした宗教学的な側面の欠落についてなのだ。キリスト教と聖書学の分離のように、オウム真理教はなぜこの背景の流れを学的に相対化できなかったのか? また、その後も、日本ではこの研究がなされていない。宗教学者たち自身、神智学の基本もわかっていないようだし、まして、そこからの派生である人智学もこの流れを十分に了解していない。
 話を少し戻す。オウム真理教では、パーリー語訳などを行っていたわりには、教義は十分に史的に対象的に考察されてはいなかったのは、端的に、文献を読み下すことができなかったからではないだろうか。あの時代の、インディアン系の神秘学は、カリフォルニア・ムーブメントとしての文献は入っていても、大きな流れは見逃していたように思える。当然、そこからは、教義と神秘体験の融合がおこり、さらに、奇妙な亜流の解説書が溢れ、オウム真理教も一義的にはそうした解説書教義のパッチワーク化していった。このあたりは、麻原自身のケチャリー・ムドラの挫折体験なども興味深い。いずれにせよ、十分な文献に当たっていれば、佐保田訳だけを読むわけもないのだ。
 そして、だから、ここで、ようやく、これが出てくる。ダンテス・ダイジだ。彼は日本人であり、ネットを引いて驚いたのだが、情報がある。「ダンテス・ダイジについて」(参照)によくまとまっている。同サイトには他にもダンテス・ダイジについて触れているが、これを読めば、あえて私が書くまでもなく、いろいろ得心できることがあるはずだ。
 と、ここでこの文章を終わる。これ以上は、うまく書けそうにないからだ。文章が拙く、特定の宗教を批判しているかのように聞こえる部分もあるかと思うが、私の関心は世界史の潮流における宗教学の意味づけなのだ。そして、オウム真理教事件の一部もそのなかで位置づけられる部分があるとは思う。

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2004.07.06

日本でも携帯電話投げ競技とかやったらいいのに

 ホットドッグ早食い大会はMr.尊・Tsunami・小林が12分53個半を喰って、自身の世界記録50半を更新。4連覇。おめでとう! 半分のを残すところがスゴイ。普通、無理して喰っちゃうものね。セレブは違います。
 って、この手のネタを続けるわけではないけど、似たような面白い大会のニュースがあった。フィンランドで5日、毎年恒例「妻担ぎ競争」大会が行われ、エストニアのカップルが優勝した。エストニア勢の優勝は、1998年以来7年連続とのこと。日本語で読めるニュースではCNN Japan「妻担ぎ競争、エストニア勢が7年連続優勝」(参照)がある。


この競争は、カップルの男性が女性を担ぎ、約252メートルの障害コースを走るというもの。この大会の由来は、19世紀末に近隣の村から女性を盗み出す習慣があったという言い伝えや、盗賊が男の価値を証明するために、ライ麦袋を担いで競争したという逸話を元にしているという。正式な夫婦でなくとも出場でき、今年は約7000人の観客が見守る中、カナダや英国などから18組のカップルが参加した。

 英語では、BBC"Estonian carries 'wife' to glory"(参照)など。これには写真もついておもしろい。
 私はこの風習は欧米に根強いのではないだろうかと思った。映画「ある愛の唄」でも新居に新妻を運び入れていたが、ああいう風習がベースなのではないだろうか、とね。
 妻担ぎ関連のたるいニュースをぱらっと見ていくと、他にもこの手のお笑い大会がフィンランドには多いようだ。"Estonian couple take home Wife-Carrying title"(参照)にはこうある。

Another "typical" Finnish event is the mobile-phone throwing competition at the end of August, which incidentally takes place on the same weekend as the infamous air guitar contest. Both are hugely popular with foreigners.

 携帯電話投げ競技や、ギターを弾く振り競技だ。いかにもネット的な話題なので、ちょっと探すと日本語で読める記事も多い。例えば、「FINLAND CAFE 80」(参照)など。
 それにしても、携帯電話投げ競技というのはいいなと思った(ノキア以外にソニーを投げてもいいらしい)。日本でもやったらどうだろうか、と思う。参院選前だからなのか、世の中、嘘くさい偽善ムードが漂っていて、うっとおしくてたまらない。2chが又吉イエスに騒ぐのもわからないではない(沖縄という背景を知らないとただのギャグにしか見えないのだろうし)。トリビアの泉でも、壊すネタがなんか最近減ってきた。番組に偽善ないちゃもんが多いのだろうが、お子様番組の本道を貫いてほしい。
 とま、話はそれだけなのだが、なんかこう痛快なおバカが足りないような気がするし、その欠如はどうもイカンのではないかと思う。という文脈で、小林よしのりの話題に振るわけでもないし、それに単純に批判するというわけでもないが、この人の考えにはついていけないなと思った分岐点を考えると、れいのAIDS問題の抗議活動で、当時の厚生省の食堂でバカ喰い計画を大々的に実施しなかったことじゃないか。あそこで、一端サヨクに取り込まれて、お手々つなぎとかでお茶を濁したのだが、元に戻ってバカを貫いて欲しかったな。その後はなんか、おバカが欠乏しているように思う。本当の批判力はものを恐れない自由なバカであることじゃないのか。
 話がたらっとするが、私は頭のなかにバカが足りないと不快になる。ので、Mr.Beanのコンプリート版だのサウスパークだのに没頭するのだが、そういえば、Beanのネタで、壁に貼った皇太子チャールズの写真の首を切るというギャグがあった。私は爆笑した。が、文藝春秋で井上章一は、このギャグには笑えなかったと書いていてちょっと驚いた。猪瀬直樹も似たようなことを言っていたように思う。
 そうか? 日本でもこれができるくらいでなくちゃ、天皇家はもたないよと私は思ったのだ。逆にいえば、ニューカッスル大学を首席卒業後、オックスフォード大学修士に進んだローワン・アトキンソン(Rowan Atkinson)のようなのがいないと、知性っていのはバックボーンが無くなるよ。東大出のタレントなんかどうでもいいから東大出の本格的なお笑いはいるのだろうか?
 マイケル・ムーアの「華氏911」は見ていないのだが、話を聞くに、マッドアマノみたいなとほほなセンスのような気がする。違っているといいのだけどね。

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2004.07.05

ユコス国有化が暗示するロシアの大望

 そこまでやるか屋敷しもべ。っていうか、さすがだ。というわけで、読みを外してしまったので、追記話を書くしかあるまいな。事件は、産経系「プーチン政権 露ユコス国有化へ 本社ビル差し押さえ “独裁化”に懸念も」(参照)に詳しい。標題通り、ユコスは国有化されてしまった。


【モスクワ=内藤泰朗】ロシア治安当局は三日、巨額の追徴税支払い命令を受けた同国石油大手のユコス本社ビルを封鎖、差し押さえた。近い将来、同社の一時国有化は避けられない事態となった。ユコス側との妥協を一切拒否し、警察権力によって同社を国家管理下に置いたプーチン政権の独裁的手法は今後、同国の民主主義の発展に大きな傷となっていくものとみられる。

 記事を読んでいただければわかるが、ナニワ金融かガサ入れかなんてもんじゃない。ちょっと昔のサヨク用語で形容したくなるような話だ。ロシア国内問題で済む話じゃないのに、そこまでやるのか。まったく、読みが甘いね、甘っちょろいね、極東ブログさんである。と、までは言い切れないのは、国際市場っていうものがあるからだが…。

 政権側は「金の卵を産むニワトリを殺しはしない」(プーチン大統領)方針だ。同社の一時的な国有化の後、政権側に有利な株式売却などを行い、現幹部を一掃して従順な新会社として再出発させる戦略との見方が広がっている。

 が、ある程度まで産経の読みでいいのだろう。

 しかし、同社に追徴税を支払う機会を与えずに優良民間企業の資産を「石油は国民共有財産」として国家管理下に置いた手法や、政権が、同社と同じように国家資産を「横領した」ほかの企業には目をつむり、特定企業を弾圧した事実はぬぐえず、政権への信頼低下は避けられない。

 しかし、ここまでやるのに、政権への信頼低下なんていうもんじゃないでしょう。だから、次の期待も甘い。

 だが、その論理と手法は、ロシア革命を主導した「ボリシェビキ(後のソ連共産党)」流にも通じかねない。国民が「こうした公約は幻想に過ぎない」と認識したとき、大きな反発に発展する可能性は否定できない。

 甘いな。そんなことはないな。というあたりで、先日極東ブログ「宣戦布告なき石油戦争の当事者は日本と中国」(参照)を描いたとき、わざとシカトを決め込んでいたが、Newsweek"The Yukos Endgame"(参照。なお、同記事は日本版7.7「石油を制した大統領」に訳文あり)の筋書きが概ね正しいようだ。といって、さすがにここまでの事態を読み切っていたわけでもない。

Yukos will, in essence, pay its tax bill with stock, or end up in the hands of a company friendly to the Kremlin, effectively renationalizing the firm and giving Putin better control of a strategic resource. "Putin wants to be Sheik Yamani in 1973," says a longtime American observer of the Russian market.

 しかし、事態がどう転んでも、プーチン大統領が1973年時点のヤマニ(サウジ石油相)になろうとしている話は、シカトもできないし、笑えもしなくなった。
 さーて、問題はやり直しだ。問題は、日本であり中国なのだ。

Putin is making it clear that energy decisions with foreign-policy consequences are not for businessmen to make. In the Kremlin's view, one of Khodorkovsky's great sins was to push for an oil pipeline from Siberia to China - Russia's top security threat in Asia. Putin has scrapped that idea in favor of a more expensive and less commercially viable pipeline to Japan.

 ということだ。つまり、例のシベリア石油パイプラインを中国に向けることは、経済的な理由を度外視して国策として許さないということだ。もうちょっと露骨に言ったほうがいいかもしれない。ロシアは近未来に中国と対立することになるので、日本を巻き込んだ形で対中国の布石を取るということだ。
 嬉しいか、日本?
 別に嬉しかないよ、とつい言いそうになる。それより北方領土を早く返せとか言いたくなる。言えよ、である。屋敷しもべのほうが格段に力が上だ。

No question, President Putin may have a score to settle in the Yukos affair, but Sheik Putin has bigger aims in mind.

 溜息がでる。"Sheik Putin"…シーク・プーチン、いや、違う、「シャイフ・プーチン」と読まなくてはこの文章は通じない。
 プーチン首長のより大きな目標?、それを阻止できるのは、世界市場だけだが、その世界市場は、端的に言って、米軍の新しいシフトの下でしか機能しないんじゃないか。

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2004.07.04

警察の不正は問題だが、もっと身近に変な警察をどうにかしろよ

 以前の話「身近な警察の問題」(参照)とかぶるが、このところ新聞各紙の社説で昨今の警察の不正を扱うネタが目に付く。でも、なんだか抽象的な話が多いなと思う。偉そうなお説教するより、具体的に警察を変えていかなくてはダメだと思う。ということで、まず、ここを変えろと思うのは、ネズミ取りだ。法治国家の日本でなんであんなことが実施されているのか、呆れて物が言えない。
 と言ったものの、最近、自動車に乗ることが少ないので、現状はどうだろうと、ネットをふらっと見回してみると、どうやら、ネズミ取りは少ないようでもある。そうなのか?
 kunisawa.netの「知っておくと便利です」(参照)にある「ネズミ取りは教え会うのがルール?」の話が面白かった。近年、一般道でのネズミ取りは少なくなったというのだが、どうやら最近復活の兆しもあるとのこと。そこで、あれ?と私も思ったのだが、ネズミ取りのマナーを知らないドライバーが増えているようなのだ。


 で、何が行いたのかと言えば、どうやら最近の若いドライバーは、ムカシから引き継がれてきた美しい行為を知らないらしい。「ヒジョウに安全だと思われている場所」でネズミ取りが行われてのを見たワタシは、突如ヘッドライトが壊れてしまい、なぜか対向車にパッシングしてしまう。困ったことであるけれど、ベテランドライバーは皆そうやってきた。突如ヘッドライトが壊れるワケね。
 普通なら対向車のドライバーも、これまたなぜかスピードを落とす。別に落とせと言ってるんじゃないのに、不思議にアクセルを戻したくなっちゃうらしい。ところが、である。元気よく走ってきて信号で止まった若い兄ちゃん風のシルビアにパッシングしてやったら、怒ってるじゃないの! 窓を開けて「何かモンクあるのか!」と凄み始めた。この時、全てを納得してしまったのだ。

 私も、え?と思った。そうなのか。

 そいつは美しい日本の風習を知らなかったのだろう。最初に書いた通り、確かに最近は高速道路でしかネズミ取りをやらなくなっている。となると免許取り立てのドライバーとしちゃ、パッシングの意味が解らない。きっとその兄ちゃんもネズミ取りやってるのを見たら(もしかしたら捕まったかも)、ああそうだったのね、と納得したろうけど……。後日、若いドライバーに聞いてみたら、皆さん案外と知らない。

 確かに、交通法規には書いてないけど、そうやって日本人庶民は、無法な警察に対処してきたのであって、考えようによっては、昨今警察が不正にまみれているのは、日本の庶民の知恵による睨みが利かなくなったからではないか。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、警察のなかでちょとくらい裏金作りがあってもいいけど、それだって、地域社会のなかでのお目こぼしの範囲であっただろうと思うのだ。
 引用が多くなっていけないが、もう一点。

 それより大切なことは「キチンとした取り締まりを行う」ことだと思う。20㎞制限となっている狭い学童の通学路などで取り締まりをやってくれるなら、警官に差し入れしたくなることはあっても、誰だって対向車にパッシングなどしない。交通の流れを滞らせるホントにジャマな場所の駐車違反などは、即刻レッカー移動したっていいのだ。警察当局(特に交通関係)は、多くの国民から嫌われていることを認識すべきであろう。

 これは、本当にそう思う。特に、学童やお年寄りがスーパーに通う道でこういう困った駐車が多い。っていうか、小さなスーパーに車で来るんじゃねーと思う。
 ついでに言うのだが、最近、歩道をちんたら自転車で走る警官をよく見かける。警官をどやしつけてやることもあるのだが、叱られて、のほのほんとしているんじゃねーよ。道交法を知らないのだろうか、警官は。歩道というのは、特別に標識で自転車の通行が認可されているところ以外は、走ってはいけないのだよ。警官が道交法を破ってどうする。
 また、自転車の通行が認可されている歩道でも、歩行者が優先なのだ。だから、歩道を走る自転車は、歩行者の通行を妨げてはいけないのだ。後ろから、ちりんとベルを鳴らすばかものが多くて困る。おまえさんにだって口はあるだろう。「すみません」の一言を言えと思う。
 とま、ボヤキ漫才のようになったが、マナーというほどでもないのだろうが、当たり前の社会自治の知恵みたいのが薄まった分、警察もおばかになってきたのだと思う。

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