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2004.07.03

日本の高齢者介護問題は外国人看護師・介護士から検討しよう

 朝日新聞社説「介護保険――行きづまりをどうする」を読みながら、高齢者介護問題のことをぼんやり考えた。「ぼんやり」というのは自分が考えがまとまらないこともあるのだが、社説が的を得ていない。端的に、解決策の提言がない。問題は、まず、金(かね)ということだろうか。


 00年度に始まった介護保険はこの4年間で、利用者が300万人に倍増した。なかでも訪問介護や通所介護などの在宅サービスは2・3倍も伸びた。老後の支えの一つとして頼りにされているのだ。
 だが、金は天から降ってこない。当初3・6兆円だった費用は今年度、6・1兆円にふくらむ。3年ごとに決められる65歳以上の高齢者の保険料は、平均月2911円から3293円に上がった。

 当然と言っていいが、保険料の対象は若い世代に向かうのだろう。朝日新聞はこうした問題をなぜ参議院選挙で議論しないのかと責めるのだが、ちょっとタメくさい。年金がボロボロなんだから、ダメに決まっているという現実がある。
 厚労省はどうしようとしているのか。朝日新聞はこう見ている。

 本当に高齢者の自立に役立つサービスに切り替える。介護を必要としないよう介護予防に力を入れる。そうして、できるだけ利用者が増えないようにする。
 特別養護老人ホームなどの施設は、介護だけでなく食事や住居の費用まで保険でみているが、この部分は在宅サービスと同じように高齢者に負担してもらう。
 介護保険の対象を高齢者だけでなく障害者も加え、介護が必要な人は国民全体で支え合う仕組みにする。保険料は高齢者と40~64歳の人だけでなく、新たに20~39歳の若い世代にも払ってもらう。

 よくわからん。
 朝日新聞は介護予防は当然だとしてそれ以上言及していない。私はこの問題にはなにか大きな錯誤が隠されていると思う。そう思うのは、メディアはさも日本人は米国人より健康だみたいな法螺を吹くが、100歳以上の老人の人口や、高齢者の自立という点で、たしか日本は米国にはるかに劣っていたと記憶している。誰かがグルでなんか隠蔽しているなという感じがする。ついでにいうと、アルツハイマー病の統計も日米間でなにか違う。
 次に、食事や住居の費用まで保険でみるのを止めるというのだが、実際上、日本の場合、高齢者介護は子どもが主体になっているはずだ。朝日新聞はわざとなのかそこを最初から無視している。子どもが親の面倒をみろ、と単純に言うのではないが、まず、その支援策から検討されてしかるべきではないのか。
 介護保険と障害者福祉の統合については、金の問題はさておくとすれば、なにが問題なのかよくわからない。
 朝日新聞社説で、なにかまた隠蔽しているなと思ったら、外国人看護師・介護士についてなにも言及していないことだ。関係ない話題でもないだろうに。
 読売新聞系「外国人の看護師や介護士、「受け入れ」申請次々」(参照)をひく。

 政府が地域を限定して規制を緩和する「構造改革特区」の第5次の申請で、全国12の病院や介護施設などが、外国人の看護師や介護士の受け入れを認めるよう求めていることが、30日明らかになった。
 高齢化の進展で、地方を中心に看護師や介護士の不足が深刻化していることが背景にある。政府は外国人労働者の受け入れに高いハードルを設けているが、フィリピンとの自由貿易協定(FTA)の交渉では、フィリピンが看護師と介護士の就労を求めていることもあり、今後、外国人受け入れを巡る議論が活発化しそうだ。

 私の率直な考えを言えば、改革特区なんてまどろこしいことしてないで、さっさと全国レベルで外国人の看護師や介護士の受け入れを推進すればいいと思う。FTAの考えからしてもそうだ。
 この問題は、「ナース・スタイル」というサイトの「"外国人看護師さんの受け入れ"って」(参照)が詳しく諸点を上げていて参考になる。ただ、問題点の指摘は変だ。

 これら賃金面以外でも、看護師1人に対する患者数の多さなど深刻な問題が多数あり、フィリピンでは、海外へ職場を求める看護師があとを絶ちません。
 しかし、この“海外出稼ぎ”は、自国に対する経済貢献である一方で、ある大きな問題を生み出しています。というのは、このままのペースで看護師の海外流出が続くと、近い将来、フィリピン国内の看護師の人材不足という問題が起こってくる危険性があるのです。

 なんだかサヨクの言いそうな話だし、くだらない。まずこの視点はフィリピン政府をばかにしているし、なにより看護師のニーズがフィリピンで高まれば裾野が広がる。
 むしろ提言内に潜む問題が気になる。つまり、「日本語」だ。おそらく、外国人看護師・介護士というとき、日本人は日本語が気になるのではないか。あるいは、またこれを非関税障壁にするのではないか。
 しかし、それこそくだらないと私は思う。フィリピンの看護師を例にすれば、英語は十分できる。とすれば、日本側で通訳の草の根ボランティアが補助すればいいのではないか。こんなものは簡単に解決する。
 いや、と私は逡巡する。本丸の障壁がどこにあるかを私は知っているからだ。ちょっと恐くて書けないけど、自分が入院したり親族が入院した経験者なら、わかるよね。

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2004.07.02

英語の動詞には未来形はない

 英語についての話。「はてな」にちょっと面白い質問が上がっていた(参照)。


英語について、どうして過去は、過去形とかで表現するのに(wentとか、cameとか。)、どうして未来形は助動詞で表現するのか、歴史的背景や文化的背景から何か理由があったら教えて下さい。

 回答期限を早々に打ち切ったのか、掲載されている回答は一件のみ。しかも、その回答はちょっと検討違いのようだ。

 ヘブライ語の説明に、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。とあります。
 英語もその影響をうけて、すべてはすでに完了したこととして考えて、文法としての未来形というものをもっていないのではないでしょうか。

 え?みたいな感じだが、もとネタ「ヘブライ語の超論理性について」(参照)自体、愉快な説明だ。

ヘブライ語は、伝言ゲームをしても変わらない言語だと言われている。それは、あいまいな言葉が無く、すべて具体的だからである。そのため、聖書が書かれた時代の古代ヘブライ語は、現代ヘブライ語とほとんど変わっていない。

 それは、現代ヘブライ語が古代を模した人工言語だからだ。このあたりは先日のNHK特集の「エルサレム」でも触れていた。現代に合わせるためにけっこう造語したらしい。余談だが、インドネシア語も人工言語だ。マレー語を元に英文法で整えている。国ができると自国の言語を作ってしまうものなのだ。古くはラテン語もそう。地方の語彙にギリシア語文法をぶちこんだ。日本語については主要な論にはなっていないが、7世紀の国家成立に合わせて作った人工言語だろう。倭人の語彙に朝鮮語の文法をぶちこんでしまった。さらに余談だが、フランス語もけっこう人工言語くさい。どこの国の愛国者も自国の言語に陶酔しちゃうし、私もその傾向が強いのだが、起源を冷静に考えると、そんなものだ。そして、これには宗教が絡みやすい。聖典が言語の規範となりやすいからだ。ドイツ語とルター訳聖書、英語と欽定訳聖書。そして、コーラン(クルアーン)も原資料はアラム語っぽいのに、アラビア語となっている。
 話をちょっと戻す。先の説明からひく。

 聖書のヘブライ語の最大の特徴は、時制が無く、完了形か未完了形か(**)の区別しかない事である。すなわち、超論理的なものを表現し、信仰が最もfitする言語である。これは、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。

 信仰の表明みたいなので真偽を問うものでもないが、時制のないという特徴はたしか、セミティックに見られるので、ヘブライ語だけでもない。ので、信仰がフィットするというものでもないわけだ。
 それに、キリスト教とヘブライ語はそれほど関係はない。というのも、キリスト教に至る歴史のなかでは、日本でもようやく翻訳が出てきた70人訳聖書からできているので、直にヘブライ語(一部マラキなどアラムのはずだったと記憶しているが)の聖書を読むという態度は、実はユダヤ教か近代のキリスト教(ルター以降)でしかない。が、このページではこうメモしている。

プロテスタントの旧約聖書は、ヘブライ語 → 日本語

 パウロ書簡やルカが引用している旧約聖書は70人訳なので、結局、70人訳がキリスト教徒にとっての旧約聖書にならざるをえない。
cover
Essentials of
English Grammar
 ってな、話は、ご信仰をくさしたい意図はまるでない。誤解なきよう。が、こうしたお話は英語の時制とはまるで関係ない。ので、もとの「はてな」の質問に戻る。
 実は、問いが間違っている。「どうして未来形は助動詞で表現するのか」ではない。時制と時間の表現の違いが混乱しているのだ。未来形というのは時制の問題であり、助動詞を使うのは未来という時間の表現の問題だ。その意味で、一つの回答は、英語には未来時制がない、となる。
 こんなうざったい話をネタのしたのは、こういうことを今の学校ではきちんと教えているのだろうか、と疑問に思ったからだ。つまり、英語には未来時制はないよ、と。
 私が以前も薦めた文法書、イェスペルセンの""Essentials of English Grammar"には、こう明記されている。Preteritは、過去時制の形態のことだ。

The English Verb has only two tenses proper, the Present and the Preterit.

 つまり2つだけ。時制と時間表現については、イェスペルセンはまず基本を簡素に解き明かしている。

It is important to keep the two concepts time and tense strictly apart. The former is common to all mankind and independent of language; the latter varies from language to language and is the linguistic expression of time-relations, so far as these are indicated in verb forms. In English, however, as well as in many other languages, such forms serve not only for time-relations, but also for other purpose; they are also often inextricably confused with marks for person and mood.

 彼は、さらに、英語において未来時間がどのように表現されているかについて、shallとwillの議論をかなり厳密に進めているが、英語自体が元来未来時制をもたないために、明確な議論ができるわけでもない。

We have come to the end of this survey of the various functions of the two verbs will and shall, in which we have seen that they still to some extent preserve the old meanings of volition and obligation, but often combine these with the idea of futurity, and finally very often denote futurity pure and simple without any visible trace of the original meanings. Matters are thus far from simple, chiefly because the English language to express the three distinct ideas of volition, obligation and futurity possesses only two auxiliaries; but also because there is always some inherent difficulty in speaking with certainty of what is yet to come, more particularly so if it is to be viewed as independent of human will. .....

 現代言語学は嫌う説明だが、英語には言語システム上未来時制がないために、その表現のなかに話者の意識のありようが反映してしまうというのだ。逆に言えば、英語という言語はそれだけ、話者の意識を問うとも言えるだろう。
 このことは次のような含みがある。

But the tendency to use will everywhere is to some extent counteracted by the desire for clearness, which requires the notions of volition and of future time to be kept distinct in all those cases in which actual misunderstandings of importance might arise. This leads, on the on hand, to a frequent use of stronger expressions like want, intend, mean, choose instead of will, and on the other hand, to the preference for shall in combinations where one particularly often has occasion to speak of someone's will, namely in the first person, in questions in the second person, and finally in conditional and relative clauses: in these cases it is desirable to have neutral auxiliary which does not imply volition. .....

 イェスペルセンがすばらしいと驚嘆するのは、このあたりの言語に対する直感だ。つまり、言語システムとしては(これをラングと言っていいのだろうけど)、未来形に準じるかたちで、willを形式的に使いたいという話者の制度的な無意識を想定しているのだ。が、これが実際の発話(パロールと言っていいだろう)によって、つねに揺り返される。だから、英語には、want, intend, mean, chooseと言った表現が、むしろ言語の運用(パロール)側から言語の組織(ラング)を変動させる要因になりうる…ま、言語学的にはそういう要因はありえないことになっているのだが。
 なお、現代英語で見るなら、shallは固定的な表現を除けば、古めかしく、また、be going toの用例も広まりつつある。
 関連して、英語に未来形が存在しないことから、現在形を使った「仮定法現在」が英語には生じうるのだが、このあたりは、あまり英語の学習書などで見かけない。あるいは、仮定法現在というとらえ方が違っているのかもしれない。イェスペルセンもこのあたりは、現在形を使った未来の表現としているようだ。
 この話はすでに絶版のようだが、一般書の「学校英語のウソ」(有川清八郎)が詳しい。

 また、英語の動詞には「未来形」がないという事実を意識している人は、あまりいないようです。
☆英語の動詞:「現在形」 He does …有り
       「過去形」 He did …有り
       「未来形」 --- 無し
 仏語の動詞:「現在形」 Il fait …有り
       「過去形」 Il fit …有り
       「未来形」 Il fera …有り
 そして、英語では、助動詞のWILL・SHALLなどの「現在形」により[現在における未来]を表現し、また、こらの助動詞の「過去形」により[過去における未来]を表現するという事実も、あまり認識されていないようです。
 したがって、「あとで、あの子が宿題をする時、…」と言うのに、この[する]は仏語では未来形が使われますが、英語では「現在形」が使われることになります。
☆英語:When he does his homework later,…
 仏語:Quand il fera son devoir plus tard, …
 そして、この英語の「現在形」は、まだ宿題をし始めてはいませんので、[事実を述べる]のに使う「直接法現在」ではなく、あとで宿題をするかも知れないという[仮定を述べる]のに使う「仮定法現在」であることになります。
 また、この「現在形」が「仮定法現在」であることは、「仮定法」が現実の[過去]・[現在]・[未来]という時制には関係なく、過去にも使われることからもわかります。
☆あとで、あの子が宿題をする時、手伝ってやろうと思います。
=I think I will help him when he does his homework later.
 あとで、あの子が宿題をする時、手伝ってやろうと思いました。
=I thought I would help him when he does his homework later.

 この問題は、口語の状況や、米国と英国とでも違う傾向もあるようだが、いずれにせよ、英語の動詞に時制としての未来形がないということから派生してきている問題のようだ。

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2004.07.01

子どもがキレて何が悪い

 こういう馬鹿には知の鉄槌を下してやらなくてはいけない、と思った。読売新聞系「キレる子供の脳には特徴?1万人追跡調査へ」(参照)を読んで、そう思ったのだ。
 この法螺話を真に受けるとこうだ。近年、ささいなことですぐにキレる子供が増えたのは、ゲームやインターネットの普及などと関連がありそうだが、因果関係はわからない。そこで、科学的に研究しようというのだ。


 少年犯罪の増加や学級崩壊、不登校のまん延などの原因を、最先端の脳科学で探ろうと、文部科学省所管の独立行政法人科学技術振興機構は29日、零歳児と5歳児計1万人について、行動の特徴と脳の働きの関係を5年間にわたって追跡調査すると発表した。
 同機構は、体を傷つけずに磁気や光で脳内の活動を調べる「機能的MRI(磁気共鳴画像)」や「光トポグラフィー」といった最先端技術を活用。子供の生活状況や心身の発達、言語の習得具合などを調べながら、脳との関係を長期間にわたって観察する。
 そのうえで、家庭環境の違いや地域差、男女差なども詳しく分析。問題行動を起こす子供の脳の特徴や、その原因などを突き止めるのが目標だ。

 私は一読して馬鹿かと思った。ふざけてんのか新聞と思った。が、そうでもない。この愚劣な研究はマジである。「科学技術振興機構報」(参照)を読んで、私の脳はキレた。いや、キレたらいいのだが、率直に言えば、落胆した。ものすごい疲労感を感じた(暑いしな)。というわけで、私は、たらっと書く。誰か、ネットの天才たち、きちんとこの汚らわしきものを踏みつぶせ、と期待するよ。
 あのなぁ、とまず言いたい。子どもがキレる。というのは、心の働きだ。でだ、その心の働きは脳と因果的に関係なんかない。脳の働きは心の働きと共時的な変化の相を示す。しかし、それは因果関係ではない。あれほどいそいそと脳をこじ開けて奇妙なコビトの絵を描きだしたペンフィールドも、だからこそ、脳と心の関係はつながっていないと得心した。近年では、脳の病変と心理を追及したファインバーグは「自我が揺らぐとき」で、こう結論づけるしかなかった。文章は難しいし、訳者たちはフッサールの現象学をまるで知らないので哲学的にトンチキな訳語を付けているが、そんなこたぁ、目をつぶれ。

 意味の存在論が個別的であるように、個々の目的も存在論的に一人称であって、自己の「内なる視点」でのみ存在する。観察者は相手の脳のなかに目的の在処をつきとめることはできない。「意志」は触ったり指摘したりできるものではない。意志的行動を創出する脳の神経細胞の発火パターンを明かにすることができても、その発火パターンが目的をもった行動の一部であることを示すものは何もない。

 ファインバーグは哲学的に偉そうなことが言いたいわけではない。本書を読めば、彼がきちんと患者に向き合っている態度がわかるだろう。そうした日々の積み重ねとまっとうな思考から、脳は意志とは関係ないと主張しているのだ。
 どだい、子どもがキレるというとき、今の日本人は、それは脳が壊れたとでも思っているのか?
 もちろん、子どもだから感情が制御できないことはある。しかし、そうした感情が制御できない訴えかけもまた、純粋に人間の行為であり、人間の意志の現れではないか。自分が子どもだったとき、つらくキレたときのことを思い出せないのか。そうしてキレることがどれほど人間的であることもわからないのか、馬鹿ども、と私は思う。
 私は先日の参議院の年金議論のとき、一人国会に行って、石でも投げ込んでやろうと思った。キレたからだ。もちろん、というか、残念なことに、実行はしなかった。ふがいないと思った。普通の国民なら、キレる。なぜ日本人はキレないのかいぶかしかった。そして、今度はキレない子どもをつくるというのだ。
 ちょっと話が前後するが、このニュースを読んだとき、私はテクニカルにはMRIの危険性を思った。MRIは必ずしも十分に安全ではないし、生育期の子どもに適用すべきではないと考えるからだ。しかし、この点は、実はこっそり、日立製作所フェロー小泉英明の研究について当たってみた。安全性はそれほど問題はなさそうだ。逆にいうと、だから、こんな馬鹿げた発想を得たのだろう。
 この記事は、読売新聞以外に、私の知るところでは、朝日新聞にも掲載された。ネット上では「TVゲーム、パソコンどう影響 子どもの脳、1万人調査」(参照)がある。

 インターネットやテレビゲームなどの仮想空間と現実との混同は起こっているのか――。子どもの脳のメカニズムについて科学的に解明する研究を、文部科学省が今年度から始める。医学や脳科学、教育の専門家らが、乳幼児1万人を10年かけて追跡調査する。育児や教育の現場で役立ててもらう狙いだ。

 なにが育児や教育現場に役立てるだ。おめーらきちんと取材しろよと思う。取材というのは、言われたことを垂れ流しするんじゃなくて、こういう問題の背後に潜む、およそまっとうな人間の常識に反する危険な臭いを嗅ぐことだ。
 ここで利用されている技術「光トポグラフィ」は、近赤外線を光ファイバーで脳の外部から当て、それが頭骨を抜けて脳表面でどのように反射するかをもって血流を測定する技術だ。動き回る子供でも簡単に検査できる。かなり安全だとは言えそうだ。が、ジャーナリストなら想像してみなさい。頭に多数の光ファイバーを付けたその光景を。なにか思い当たるだろう。同じだよ。それに気が付くっていうことがジャーナリストだ。
 いや、普通の常識だと言っていい。1959年、文芸評論家小林秀雄は当時の最先端技術としての嘘発見機の愚かさをきちんと見抜いていた。「考えるヒント(文春文庫 107-1)」より。

 機械が、望み通りに、驚くべき性能を発揮するとする。裁判官は言う、「嘘をつくと、嘘発見機にかけるぞ」。被告は主張する、「嘘だと思うなら、嘘発見機を使用されたい」。たったそれだけの事を考えてみても、既に良心の住処が怪しくなって来るだろう。だが、嘘をつくつかぬという事は、良心の複雑な働きの中のほんの一つの働きに過ぎない。嘘はつかなくても、悪いことはできる。もし、嘘発見機に止まらず、これが人間観測装置として、例えば、閻魔の持っている照魔鏡のような性質を備えるに至ったならどうなるだろうか。この威力に屈しない人間はいなくなるだろう。誰にも悪いことは出来なくなるだろうが、その理由はただ為ようにも出来ないからに過ぎず、良心を持つことは、誰にも無意味な事になるだろう。人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械なららば、その性質は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威圧する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。そうすれば彼らが、もはや人間ではない事だけは、はっきりわかるだろう。
 私は、徒らな空想をしているのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。…

 キレない子どもをつくるために、人間観測装置を作り出す愚かさは半世紀近くも前に一人の常識人が喝破していた。こんなものを真に受けるやつらは、おかしいぜ、と。

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2004.06.30

スーダン虐殺は人道優先で。石油利権の話はやめとけ

 スーダン西部ダルフール地方の民族浄化問題は、ようやく日本でも報道されるようになった。26日の朝日新聞社説「スーダン危機――見過ごしは許されない」が可笑しい。


 イラクに世界の目が奪われている間に、アフリカ大陸でとんでもないことが起きていた。

 違うよ。目を奪われていたのは、朝日新聞を含め、日本の報道メディアだよ。インターネットをかすめ見ている私ですら、イラク日本人人質事件の最中にこの問題を知っていた。こういう朝日新聞の修辞は国民がインターネットが使えないと思っている、ということかもしれない。そんな程度でこの社説は笑い飛ばしていたのだが、ふと気になって読み返すと、非常に奇っ怪なシロモノだということがわかった。というのも、中国にも米国にもまるで言及していないのである。なんだ、これ? というか、ずばりと書くにはためらうが、朝日新聞のハラがなんとなく読めてきた。

 アフリカには国際社会の目が向きにくい。50万人以上が虐殺された94年のルワンダ紛争では、国際的な対処の遅れが大問題となった。スーダンの人道危機を食い止めるために、先進国やアフリカ諸国は一刻も早く動き出す必要がある。
 政治や社会の混迷はテロリストの温床ともなる。スーダンがビンラディン一派をはじめとするイスラム過激派組織の拠点となってきたことを思い起こそう。

 人道危機を食い止めうるアフリカ諸国っていうのはただの修辞だろうが、じゃ、先進国ってどこを指しているのか? 米国が抜けるわけもない。じゃ、米国が動けってことかというと、朝日新聞はそう言いたくないのだろう。

 バシル現政権は、反テロの姿勢を打ち出すとともに、豊かな石油資源を生かして外国から投資を呼び込み、国づくりを進めようとしてきた。そのためにも、国内の融和は欠かせないはずだ。肌の色の違う人たちに暴力を振るう民兵らへの支援をやめさせ、秩序の回復に全力をあげるべきだ。

 これも奇っ怪な文章だ。バシル現政権を北朝鮮の金正日のようについ援護したくなる朝日新聞の心情はさておき、「豊かな石油資源を生かして外国から投資を呼び込み」っていう外国はどこ? これは、どう考えても、外務省の資料を見ても、筆頭は中国でしょ。極東ブログで薦めている「世界を動かす石油戦略」の4章「大きな攪乱要因、中国」にもこう記されている。

 これらのケース以外にも、最近における国有中国石油会社の海外進出はものすごく、カスピ海地域や中東地域などで石油権益を次々に獲得している。それらの国で石油の採掘権を獲得して、自ら投資、生産操業をおこなって、生産された石油をごく一部を除いて国際市場で販売することなく、せっせと中国国内に搬入している。
 中でも、米国が「テロ支援国家」として神経を尖らせているイラク・イラン・スーダンとも油田開発を締結しており、すでに進出を果たしている。
 特に、内戦が続き、欧米企業が忌避しているスーダンでの石油生産はかなり大規模なものであり、海外事業収入の柱となっている。中国国有石油会社による油田権益獲得の特徴は、その背景として中国政府首脳の「資源外交」が活発に行われていることである。

 こうした、誰でもわかる事実があるのに、朝日新聞は、なぜ、中国って書かないのか?
 米国と中国という言葉に事実上墨を塗った言論を振りまく朝日新聞なんと奇っ怪なのだろう、と、取り合えず言っておく。というのも、その心情がまるでわからないわけでもないからだ。
 少し、泥沼に入る。例えば、こういう話がある。weekly business SAPIO 2000/9/21号に掲載されたクライン孝子「中国『オイル戦略』の背景にある アフリカ諸国との緊密な関係」(参照)が面白い。サピオだしな、2000年の話だしな、ではあるが、こうある。

  目下、中国はスーダンにおける石油利権で、アメリカを制し、一人勝ちといわれている。
 そもそもスーダンに豊富な油田があると想定し、最初にその発掘に乗り出したのは1973年のことである。その後1983年に、スーダンにはイランとサウジアラビアを足した分よりも大きな油田が横たわっていることが確認された。以後この国では油田利権を巡って、熾烈な利権獲得紛争が繰り返され、海外からもアメリカやフランスの石油メジャーが触手をのばしていた。
 ところが、その後アメリカはスーダンをテロ国家として名指しし、国交を断絶してしまった。中国はそのスキを狙ってスーダン政府に食い込み、まんまと石油利権獲得に成功したのである。
 一方、“してやられた”アメリカはどうしているかというと、あの誇り高いアメリカが積極的に中国にとり入り、スーダンの石油利権獲得にありつこうと懸命になっているのだ。

 この話はそれほど飛んでいるわけでもないのだが、そこから、米国がスーダンに関与するのは、こういう真意があるのだ、ってな話にすると、今回の虐殺問題も実に書き飛ばしやすくなる。日本人人質事件で注目されたJANJANの6/25に「アフリカのスーダン 米国が制裁!?」(参照)という面白い記事がある。

 スーダンは98年、ビン・ラディン氏との関与を疑われ、巡航ミサイルを撃ちこまれた経験がある。当時のクリントン大統領よりもはるかに好戦的なブッシュ政権の発言だけに、効き目のある脅しだ。石油が出るスーダンを米国が手をこまねいて見過ごすはずはない。「イスラム教徒による民族浄化」は介入のりっぱな口実となる。

 この記事も中国についてまったく伏せてあり(無知なだけかも)、なんだかな的トーンが漂うのだが、いずれにせよ、スーダン民族浄化に米国が介入する真意は石油だ論があるわけだ。が、さすがに朝日新聞ですら、それをまともに受け止めるわけにもいかないという「苦汁」があの社説だったのかもしれない。
 先のサピオの話はこう続く。

 なぜかといえば、2010年には既存の中東油田における埋蔵量は枯渇の運命にあるからで、この状況下では、アメリカもこのスーダン油田には無関心ではいられないのだ。
 最近では、中国のスーダン石油利権に食い込むために、民間サイド、例えば石油会社AmocoやBankof Americaなど有数の米国系企業が、次々にスーダン油田の窓口である「国営中国石油公社」へ投資競争を行なっている。

 ちょっと溜息が出てしまう。が、問題は、石油に対する国家戦略なんてものではなく、問題があるとすれば、「中国さん、世界市場のルールを守ってよ」というだけのことだ。この点については、衆知のようにウォーレン・バフェットが中国石油天然気(ペトロチャイナ)の株をがばっと買い占めたが、株主がきちんと国際ルールで経営に口を出していけばいいことだ。別に中国が採掘権を持とうがどうっていうことでもない(こっそり言えば、東シナ海の天然ガスも同様)。
 とすれば、こうした前時代な議論をしているより、さっさと目先の問題の解決をすべきだし、実際ところ、それを担えるのは国連からも要請されているように、米国しかないじゃないか。嘘くさい自叙伝で一儲けをこいているエロ・オヤジ・クリントンはルワンダの虐殺を見殺しにしたのである。それを繰り返すのは愚かしい。ワシントンポスト"As Genocide Unfolds"(参照)も指摘しているが、そのとおりだ。

The administration's foreign-policy plate is piled high already. But Darfur's crisis appears worse than anything the world has seen since the genocide in Rwanda. During that tragedy 10 years ago, the Clinton administration declined to act, refusing even to recognize that genocide was occurring lest such recognition compel action. The Bush administration must not let its own record be disfigured the same way.

 もちろん、そうするためには中国の協調があってしかるべきだろうと思う。が、事実は違う。むしろ、米国は弱腰だし、中国・フランスにいたっては虐殺側の政府に事実上ついている。

It is outrageous that other members of the Security Council are dragging their feet on a resolution that could relieve the crisis. China and France both have oil investments in Sudan and do not wish to alienate the government; Russia and some non-permanent members of the Security Council such as Pakistan view a resolution as an infringement of sovereignty. In ordinary times, the United States might be able to prod these countries in the right direction. But the Bush administration is devoting its very limited diplomatic capital to Iraq, and there is little left for Darfur. That is why the U.N. resolution may take weeks.

 というわけで、スーダン虐殺について、国際世界の動きは、すでに遅きに失しているのだから、とにかく人道優先で、うさんくさい石油利権の話はやめとけと思う。

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2004.06.29

宣戦布告なき石油戦争の当事者は日本と中国

 28日のワシントンポストにちょっと気になるコラム"The Undeclared Oil War"(参照)があった。標題は「宣戦布告なき石油戦争」とでも訳せるだろうか。出だしがふるっている。


While some debate whether the war in Iraq was or was not "about oil," another war, this one involving little but oil, has broken out between two of the world's most powerful nations.

For months China and Japan have been locked in a diplomatic battle over access to the big oil fields in Siberia.


 イラク戦争が石油のためだったか議論が割れるとしても、今、現代世界では宣戦布告なき石油戦争を始めた2つの大国があるというのだ。どこか、そう、日本と中国だというのだ。争われる石油は…東シナ海か、いや、あれは天然ガス。そうじゃないのだ、問題はロシア。シベリアの石油だ。
 そう言われて、日本人はどう思うだろうか? あまりピンと来ない、大げさな、というのが本音ではないだろうか。しかし、私もそう思った。しかし、コラムを読み進めてぎょっとしたのは、日本の対露ロビー活動なのだ。

Japan, which depends entirely on imported oil, is desperately lobbying Moscow for a 2,300-mile pipeline from Siberia to coastal Japan. But fast-growing China, now the world's second-largest oil user, after the United States, sees Russian oil as vital for its own "energy security" and is pushing for a 1,400-mile pipeline south to Daqing.

 確かにエネルギー政策における日本の石油依存度は高いし、石油消費を拡大している中国にしてみればシベリア石油がエネルギー政策上重要な課題ではあるのだろう。が、そんなことより、日本の対露ロビー活動のほうが気になる。全く隠蔽されているわけではないが、日本としてはけっこう熾烈にロビー活動をやっているようなのだ。この実弾(金銭)をドンパチと飛ばすあたりが、「戦争」という皮肉なのだろう。この結果が何をもたらすかといえば、さらなる日中の関係悪化というのは頷くしかない。

The petro-rivalry has become so intense that Japan has offered to finance the $5 billion pipeline, invest $7 billion in development of Siberian oil fields and throw in an additional $2 billion for Russian "social projects" -- this despite the certainty that if Japan does win Russia's oil, relations between Tokyo and Beijing may sink to their lowest, potentially most dangerous, levels since World War II.

 大げさといえば大げさだが、その可能性は否定できないと思う。というか、左翼マスコミがこんなところに首を突っ込む前に、国としては予防線だのをばしばし張っているに違いない。
 まいったなと私は思う。この記事では触れていないが、先日、プーチンは親中的なユコスの頭をふん縛ったものの、ユコスは潰さないと堂々と宣言した。これまでのユコスの姿勢がそのまま維持されはしないだろうが、この問題は一重にプーチンの意向にかかっていることが明らかになっている。
 そこで、プーチンがどう世界経済を見るかだが、彼は馬鹿ではないから日本の潜在力は理解できるだろう。しかし、これから縮退化する日本に永続的に上昇するエネルギー需要があるわけもないとも思うだろう。理性的に考えて、プーチンが石油の流し先を中国に選んでもおかしいことはなにもない。私もそちらに賭けるほうが勝ちそうだ。
 それにしても、中国側もけっこう露骨なロビーを展開しているのだが、サウジの件にまで深く首を突っ込んでいたのには、まったく知らないわけではないが、呆れた。

In recent years, Beijing has been lobbying Riyadh for access to Saudi reserves, the largest in the world. In return, the Chinese have offered the Saudis a foothold in what will be the world's biggest energy market -- and, as a bonus, have thrown in offers of sophisticated Chinese weaponry, including ballistic missiles and other hardware, that the United States and Europe have refused to sell to the Saudis.

 すごいぜ、中国人。サウジの石油欲しさに、ミサイルだの兵器の献納をやっていやがるのだ。これは端的に「死の商人」ってやつだ。しかも、イランやイラクにもちょっかい出しているらしい。

In the run-up to the Iraq war, Russia and France clashed noisily with the United States over whose companies would have access to the oil in post-Saddam Hussein Iraq. Less well known is the way China has sought to build up its own oil alliances in the Middle East -- often over Washington's objections. In 2000 Chinese oil officials visited Iran, a country U.S. companies are forbidden to deal with; China also has a major interest in Iraqi oil.

 記事には触れていないが、日本のとち狂ったアザデガン油田開発なんかにもからんできているのではないだろうか。中国の愚かしさに泣けてきそうだが、日本の同じ程度に愚かなのだろう。
 石油は国際ルールさえ維持されれば、もっとも当たり前の商品として流通可能だ。日本のエネルギー政策が石油に偏り過ぎているのは問題ではあるが、これが是正されないのも、こうした流通の良さに高をくくっているからに他ならない。
 しかし、イラク戦争を見ていると、こうしたまともな世界市場が機能するにはあまりに大きな代償が必要な時代になってきたとも思える。

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2004.06.28

FOMAはまだまだ高いなとかブログの話とか

 ネット関連の散漫な話になるが、そういえばFOMAのパケ代が固定になったというので、そろそろN505iからFOMAに変えようかと思って近所のDOCOMO店に行って話を聞いた。機種変更に3万円くらいかかり、しかも固定パケ代で月額7千円くらいになるらしい。それはちょっと高いなと思ってひとまずやめにした。10年前に月額基本料金1万5千円で携帯電話を使っていたときに比べれば安いもんじゃん、とも思うが、あのころは小型の携帯電話を持っていることはまだ珍しい時代で、それだけでビジネスのハッタリ効果もあった(のかもしれない)。今だとそういう金を払おうという気持ちも全然起きない。すぐに高いなぁとか思ってしまう。
 FOMAもいいかなと思ったのは、コンテンツへの魅力とかではなく、このところ別件でモブログのチェックをしていて、iモードのデータ転送があまりに遅くて、死ぬかと思った、みたいな感じになったからだ。また、ちょっとした画像データの受信もこの速度だとまともにできない。画像を使うなら、もうちょっと速くないとね、というのがFOMAかもの理由だった。
 というわけで、N505iでこそっとモブログをやっているのだが、それなりにできる。モブログはブログとは違って、なかなかこれはこれで面白い。というか可能性が別にありそうだ。現状、モブログについて、携帯からの画像を含めて投稿を受け付けるシステムは、ココログを含めていろいろとあるが、携帯での読み出しに対応しているのはlivedoorだけのようだ。これから増えるのだろうか。現状のlivedoorのモブログサービスは、これはこれで悪くはないのだが、一般的に面白いかと、いうと、そうでもないかもしれない。
 普通のブログのほうも、同じような行き詰まり感はある。ブログサービスがあちこち出てきて、しかも大半は無料なのでいいのだが、その分システムやネットのインフラ部分に金が使えないせいか、夜になるとまともに動かない。どうやらココログもそれ臭いのだが、イラクの主権委譲に併せて、プロ版も本格有料化になるので、少しシステム負荷が減るかもしれない。
 ブログが面白いというのは、今後、一般的には、多分に、コミュニティ的な機能というか、出会い的な機能というか、ソーシャルネットワーキングですか、みたいな要素をシステム側で上手に提供するかにかかっているだろう。
 今のところ、キラーアプリみたいなサービスはなさそうだが、兆候はある。こうさぎが突然流行っているのもそんな動向に関係しているのだろうし、Harbotみたいのがもうちょっとお子様から脱してもいいのかもしれない。「はてな」はなんとなくそうしたコミュニティ機能を満たしているようだが、正面からWikiライクに構想されたグループ機能は、あまり表だって利用されているふうもない。
 ブログが今後どこに行くのか、よくわからないなとは思うし、モブログを含めてもうちょっと楽しくてもいいのだろうとは思う。なんとなくだが、こうさぎのようなペットでなくてもいいから、RSSを自動的に読み込み、人工知能的にお節介にトラバを付けるといったシステムも出てくるかもしれない。ってなところで、れいのオントロジー的な技術も必要になるのだろう。
 モブログといえば、このところ、N505iを使って、意図的に青空文庫(携帯文庫)とかも読んでみるのだが、意外に悪くない。極東ブログも携帯対応にしたいなと少し思うし、それなら、RSSかATOMに全文をフィードしてやれば、あとは別システム(CGI)で対応できそうに思う。が、ちょっと自分でそのサービスまで作るのはちょっとめんどくさい。すでに、どっかにそういうサービスはあるのかもしれないが。
 ブログ自体の内容面での動向はどうか。自分のブログのレベルを棚に上げてお粗末とか言いたくなりそうでもある。例えば、極東ブログも含まれているが、エキサイトのブログニュースなども人気記事は、けっこうトホホっぽい。他にもこの手のリストを作っても似たような傾向が出る。が、トホホとか言うのではなく、それはそれで、そーゆーものだというしかないのだろう。
 ふとメールマガジンの動向も気になる。なんとなく落ち目なのではないかとも思うが、よくわからない。日垣隆のガッキーファイターは有料化で成功している珍しいケースかもしれないし、彼に言わせれば、コンテンツ次第でできるはずだ、となるのかもしれない。が、なんとなくとしか言えないのだが、それは違うようにも思うし、まして、有料ブログというのも想定しづらい。収益のモデルはアフィリエイトというわけでもないのだろう。さーて。
 ある程度クオリティの高いブログがもっと現れるようなれば、半分娯楽的な読み物としての雑誌のニーズはなくなるだろう。単純に、新聞がなくなる日といったものではないだろうが、新聞も実際には広告メディアなので(紙面の大半は広告)、同じように広告メディアとしてのブログが優勢になる可能性もある。
 それでも、ブログを巡る動向はよくわからないなとは思う。当面はこうしたわけのわからない状況のできるだけ前線に出ていたいのだが。

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2004.06.27

[書評]「築地市場のさかなかな?」平野文

 梅雨だというが暑くてもう本格的に夏だなと思う。ああ夏だ。夏だからアレが喰いたいと思う。アレ? そのアレがどうも無意識にひっかかっていたのだが、ふとわかった。イサキである。イサキの刺身が喰いたいのである。

cover
築地市場のさかなかな
 イサキは塩焼きがいいと言う人も多いようだが、それもわからないではない。スズキほどではないにせよ、大振りならね、と思う。いや、大振りなら刺身がいいと言うのがツウなのかもしれない。平野文がさかなについて書いたエッセー「築地市場のさかなかな?」では、イサキについてこう書いてある。

 塩焼きばかり称賛してしまったが、大振り(二五センチ以上)のものは、刺身も素晴らしい。やはりそれも、気品のある脂ののりが、うまさを上げているからにほかならない。
 ほんのり紅をさしたような気品のある身の色。脂が、縦にきれいなすじ状に入っている。血合いも色鮮やかだ。
 身の方にわさびをのせてから、醤油をつける。たいより、滋味豊かだと思った。

 そうかな。そうかもしれないなとも思う。でも、それならイナダのほうがいいなと私は思う。ま、自分のさかなの趣向にはそれほど自信はない。それでも、私は、背に黄色いスジがきれいに残る小降りめのイサキの刺身がうまいな、ああ喰いたいな、と思う。
 イナダにこだわるのは三十代の半ばに住んだ近所にいい魚屋があって、そこでイナダが好きになったからだ。その魚屋は毎日築地から仕入れるので、2時ごろ店が開く。当たり前といえば当たり前。店のようすもいかにも魚屋という魚屋。だが、ああいう魚屋はもう少ないようにも思う。
 その魚屋に通うようになって顔を覚えられるようになると、この魚を食べな、と薦めてもらうようになる。そしてわかったのだが、この魚屋はけっこういいものを仕入れているということだ。値段は割高に思えるので、その値で売れるのかとも思ったが、金を出しそうな客にいい魚を食わせて中毒にする、いや教育するというわけだ。いやそういうものでもあるまい。東京の街は奇妙に戦禍を免れた地域があり、戦前からの生活の志向が残っている地域があるが、そういう地域の人と料亭がその魚屋を支えているようだった。
 平野文とはイナダの趣向が違うかのように書いたが、いやいや、すごく共感している。

 河岸に嫁いでから、生まれて初めて食べた魚がいくつかある。
 いさきも、そのひとつだった。
 塩焼き、あるいは刺身。かなり、うまい。通年食べられるさかなだが、食べ頃は五月から七月。初夏を感じる魚である。


 いさきのうまさを知ってから思った。あくまでも個人的な感覚だが、いさきは、あじやいわしなどのような庶民的な惣菜魚に比べると、通寄りのさかなであると思う。ちょいとばかりさかなの味を知っていれば、目ざとく反応する。そういった類のさかなであると思った。
 同時に、いままで知らなかったとは、なにやらすいぶん損をしていたような気にもなった。が、一方で、三十路になってから出会えたからこそ、この味を分別できるようになったのかもしれない。

 そうそう。こういうところは、うんうんと頷いて読む。そして、ラムちゃんの声優平野文がそう言うんだよなというところに、さらに、うんうんと頷く。熱烈ファンだったしな。
 この本では、日本のめだった魚について、河岸での出会いというのもあるのだろうが、けっこういいところをついて書いているなと思う。いわゆる魚ツウの説明より、とても納得することが多い。
 きんめだいについて、彼女はこう書いている。

 名前の由来は、大きなその、目の色からきている。
 真上からのぞくと、黄みがかった、まさに黄金色。見事である。深く、暗い海のなかでは、発光しているかのようだという。


 きんめは、きんきとは相反する。関東以南で漁れる。南のさかなである。沖縄あたりでも揚がるのだ。きんきより、魚体も大きい。

 そうそう。私は沖縄で、しかも、漁場近くで暮らしていたから、水揚げされたキンメをなんども見た。目の黄金色は、たしかに見事なものだったが、ある日、ある漁師がほら見てごらんとキンメを陽射しに置いた。沖縄の強い陽射しのなかで、キンメの目は神聖なほど黄金に輝きだした。それは本当に美しかった。
 なんだか、さかなのうんちく話みたいになってきたので切り上げよう。でも、魚が食えるのは日本人の幸せである。もちろん、そういう幸せを知るのは日本人には限らないが、国際線の昼食で、「フィッシュ? チキン?」と訊かれて違和感を感じない国民もある。もちろん、そういう国民にも別の幸せがあるのだろうなとは思うけど。

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