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2004.05.29

年金改革関連法案審議、これは詐欺だ

 国会議員の年金未納問題にも呆れたが、世相は、任意加入時代の未納問題を騒ぐに至って、社会ヒステリーとなった。すでに指摘されていることだが、もともと国会議員の国民年金加入は、1980年3月までは議員互助年金との重複加入を避けるために禁止されていたものだった。同年4月以降、国会議員の国民年金加入は任意となったものの、前時代の機運から、それでも二重取りはまずいでしょうということで、国会議員は国民年加入を控えていた。だから、1980年代からやっている国会議員はほとんどすべてに未加入時代が出てくる。坂口厚生労働相も27日参院厚生労働委員会で、1987年1月から1986年3月は加入していなかったことを明らかにしたが、それ自体は確かにどうという問題でもない。
 むしろ問題は、そもそも重複とされる議員互助年金のほうで、これは、国会法36条「議員は、別に定めるところにより、退職金を受けることができる」という一時金が、議員立法による国会議員互助年金法によって「互助の精神に則り、国会議員の退職により受ける年金等に関して定める」というように年金に化けた。その意味で、このインチキをただして、国会議員が国民年金に徹するというのがスジだと思われるのだが、そうした議論はまるで出てこない。官僚の共済年金と同じで議員互助年金もそもそも聖域になっている。
 いずれにせよ、こうした些末な問題はどけておかないと、年金改革など議論できない。というか、すでに、馬鹿馬鹿しくて匙を投げたというのが極東ブログであったのだが、法案が参院に提出されると、ちょっと奇妙な光景が出てきた。分かり切ったこととはいえ、「おい、これは詐欺じゃないのか」と言いたい。
 何が詐欺か? そもそも今回の公明党法案、もとい、与党案のポイントは、徴収額の上限を固定化し、受給額の下限を固定化することで、国民の年金不安を除くというものだった。ところが、その鉄板が抜けているのである。だから、これは、詐欺じゃないか、と言うのだ。
 事態は参院の場で、共産党小池晃参院議員が明らかにした。共産党は大いに評価されるべきだ。詳細を朝日新聞系「独身男性、現役世代の29%に 受給開始20年後の年金」(参照)からひく。年金額が連動する長期的な物価上昇率を年1%、賃金上昇率2.1とした厚生年金のケースだ。


 共働き世帯の現行制度での給付水準は現役の46.4%だが、23年度以降に受給が始まる場合、65歳の開始時が39.3%、10年後で35.3%、20年後で31.7%となる。最も給付水準が低い独身男性では、受給開始時点ですでに36%で、20年後には29%になる。厚生年金は所得水準が低いほど給付が手厚いため、男性に比べ平均所得の低い独身女性は、開始時44.7%、20年後で36%となる。

 使えねぇ、である。もっとも、これは厚生年金なので、現在の20代が厚生年金をモデルされてもどうよ、の部類ですらある。
 同ニュースでは報じられていないが、こうした危機的な状況(といって想定される普通のケースなのだが)の場合、行政は新措置を取ることができる。つまり、いかようにも変更してくださるというのだ。こんなの法案じゃないよ。
 さらに同ニュースでは報じられていないが、というか、ネットを見渡してもわからないのだが、先の設定で国民年金を見ると、30年後に月額31,610円になる。端数を除いていうと、月額3万円払えよ、オメーラである(ちなみに20年後は20,860円)。
 額にもびっくりだが、三面怪人ダダ、じゃない、坂口厚生労働相は、国民年金の上限は2017年に16,900円で固定とか言っていたのだよ。どうして、これが参院では、3万円になるのか? って端的に詐欺じゃないか。
 参院厚生労働委員会ではさらに爆笑ポイントが出てくる。毎日新聞系「<国民年金>免除者加えた未納率47% 02年度」をひく。

 社会保険庁は27日の参院厚生労働委員会で、02年度の国民年金全加入者に対して実際に保険料を払っている割合は52.2%で、47.8%は保険料を払っていない実態を明らかにした。
(中略)
 実際の納付率は、納付対象者が保険料を支払うべき月数のうち、実際に支払われた月数の割合で算出している。02年度の場合、保険料全額免除者と納付猶予を受けている学生分の月数まで加えると「納付率」は52.2%になる。

 すでに国民年金が制度として機能してないじゃん、っていうか、破綻してんじゃん。しかも、これが今回の法案で是正される見込みもない。
 こんな年金法案はさっさと廃案にする以外、どうしろというのだ?
 それにしても、参院でこういう展開になるとは思わなかった。私は参院なんて要らないと言ってきたが、先日、インドの下院選挙のおり、二院制についてちょっと日本国憲法を読み直して思ったのだが、現行の参院でいいのかわからないのが、日本にも上院はあってしかるべきだと考えなおした。日本の国会議員にはまともな政策スタッフがないのだから、参院にばかばか面白いのを貴族代わりに送ってもいいのかもしれない。
 余談だが、私が子供の頃、小学生くらいだから40年近くも前だが、大人や老人に、参議院って何と訊いたら、「貴族院が戦後民主義で庶民が入った」というようなことを言って、ちんぷんかんぷんだったが、「貴族院」という言葉は記憶した。あの時代まだ貴族院という言葉が生きていたなと思う。貴族なんかは要らないが、ある種の良識が機能する上院が日本には必要だなと思う。

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2004.05.28

幼保一元化は必要だが

 日経新聞社説「縄張り排し幼保一元化目指せ」を読み、しばし考え込んだ。批判があるわけではない、短いスペースながら、基本的な部分はよくまとまっている。だが、私が実社会を見て思うこととはかなりずれがある。
 同社説にはスペースの都合からか、時事的な背景への言及はないが、これは、21日、文部科学省と厚生労働省が共同して開催された、幼稚園と保育所の一元化を目指した新総合施設の検討会議の初会合をうけたものだ。参考として、共同系「幼保一元化で初の合同会議 総合施設検討で文科、厚労」(参照)をひく。


 小泉純一郎首相は「2006年度を待たず実施する」としているが、これまでは幼稚園を所管する文科省と保育所を所管する厚労省が、それぞれの審議会で別々に議論を進めてきた。
 検討会議では、これまでの両部会での議論の概要を報告。今後、月に1回程度会合を開き、7月中に意見を取りまとめる考えだ。両省で意見の隔たりがある保育料の設定などの費用負担の仕組みや、設置主体をどうするかなどが焦点となりそうだ。
 両省は、検討会議で取りまとめた意見を基に、来年の通常国会での「総合施設法案」(仮称)提出を目指す。

 二省がようやく顔を付き合わせ、しかも早急に法案策定に向かうというのだ。問題の背景は、日経社説が詳しい。

 背景にあるのは、三位一体改革の一環で保育所への補助金(運営費)を地方で自由に使える一般財源に振り替える動きだ。すでに今年度は前年度分運営費の4割に当たる1700億円が削減された。縦割り行政による非効率を排し、税源移譲で地域に見合った制度創設を図ることは、深刻化する幼稚園の定員割れや保育所の待機児問題解消のためにも急務といえよう。

 政府側の意識としては、幼保一元化はまず補助金の問題であり、省間の金銭や人事の権限の問題になる。その大義として「幼稚園の定員割れや保育所の待機児問題」がある。表面的な社会問題としては早急の課題ではあるのだが、なにか違うようにも思える。
 私事になるが、私は一昨年秋、8年間の沖縄生活に終止符を打ち、東京に戻った。この間、たまに東京に来ていたとはいえ、生活となると、この激変に慣れるのは1年以上かかった。今でもこの都市には十分に慣れていない。大江戸線には乗ることもできない。様々なものが奇異に見える。その一つが、街中を走る奇妙なデザインの中型バスだ。なんだろうときくと、幼稚園の送り迎えバスである。幼稚園児獲得競争の一環のようだ。呆れたが、呆れる自分がおかしいようだ。あれに乗りたいと児童に思わせることも幼稚園経営なのだ。
 他方、保育所の待機児問題が深刻化していることも知った。就学前児童を抱える親(実際には母親)が職を続けるなり、新規に職を得るには、子供を保育所に預けるしかないのだが、難しい。経済原理として見れば、園児を欲しがっている幼稚園に子供を預ければよさそうだが、そうはいかない。理由は、幼稚園は子供を預けるところではないからだ。下手すれば、自宅におくよりも子供に手がかかる。もっともそんなことでは幼稚園経営もうまくいくわけもないので、延長保育が進められ、実質子供を一日預けられるようにはなってきている。だが、それでも対象は三歳からなので、妊娠・出産を機に職場を離れていた女性にとっては、そこまで待つことは実際にはできない。
 と、いうことはどういうことなのか?これは、もしかすると、勝ち犬の二極化ではないのか。世間では、いまだ負け犬の側に関心が向いているが、負け犬論争などしょせん個人の生き方に捨象される問題に過ぎない。好きな人生を生きればいいでしょう、でケリのつくことだ。これが可能なのはシングルだからであって、子供を持てば人生の選択は単純ではなくなる。
 社会問題はむしろ勝ち犬側にあるのかもしれない。彼女らは、保育所児童の母親か、幼稚園児の母親か、に分かれることになる。これを勝ち負けで言えば、前者が負けで、後者が勝ち、という印象もある。この違いは単純に選択の問題ではなく、その家庭の経済格差が反映しているように見えるからだ。
 幼稚園も経営的に生き延びるためには、この経済的な階層化に対応しなくてはならない。上昇志向の幼稚園にとっては、幼保一元化なんてどこ吹く風になる。むしろ、そこからこぼれた幼稚園が保育所化することが、幼保一元化ということになるのだろう。
 こうした事情をマーケットニーズとして見るなら、まず、富裕階級には幼保一元化は無用だということになる。とすると、政府が、幼保一元化を打ち出すのは、基本的に今後増えつつある貧困層のセイフティネットの意味合いがあるだろう。女性をよりいっそう働かせる基盤の整備とも言えるが、実際に高所得の女性はこうした幼保一元化となった保育所を使うだろうか。
 地方では問題は少し違う側面があるかもしれない。日経の社説では、先行して幼保一元化に取り組んだ構造改革特区37例に言及しているが、この問題は地方においては、低所得層のセイフティネットというより、既存の体制の保護があるように思える。自分が比較的詳しい沖縄の事例で言うなら、沖縄では、基本的に、保育所に対立する幼稚園はなく、保育所を卒業してプレ小学校として同一組織の延長としての幼稚園に入る。組織的には小学校と変わらない。公務員の保護制度というか、行政による雇用創出になっている。これは、あまりに馬鹿馬鹿しいので、「なにか本土人として行政への提言はないか」と問われた機会に、「幼稚園を廃止にして、その運営資金を無認可保育に当てろ」と発言したことがあるが、いきなり危険視された。
 以上は、私の観察に過ぎないが、国政側としては幼保一元化に向かわざるをえないとしても、それでも富裕層側への幼稚園へのニーズは変わるわけもない。繰り返すが、幼保一元化は、低所得層向けの、幼稚園の保育所化を意味するのようになるだろう。それでいいのだろうか。
 もっとも、富裕層など少数なのだから、社会問題としては捨象できるという考えもあるだろうし、幼保一元化は、働きたい女性にとってはメリットになるからいいじゃないかという考えもあるだろう。
 未婚女性が負け犬論争を楽しんでいるうちはいいが、実際に結婚して子供を産むということになれば、幼保一元化の恩恵が、目に見える「負け」を意味するという世界になるのではないか。

追記(同日)
 幼保一元化について、自分の問題感覚と実態がよくわからないので、経験者の女性の意見をきいてみた。そこから得た私の印象なのだが、まず、幼保一元化だが、形態としては、三歳以降では、幼稚園が保育所化するという点ではすでにそうなっているとのこと。やはり、三歳児までの扱いが重要になる。もう一点、待機児童のせいか、保育所が選べないというのも問題のようだ。保育所が現在の幼稚園のように、育児方針などから選択できるといいらしい。なるほど。すると、幼保一元化がどうというより、どういう幼保一元化になるか、ということ(三歳児までの扱いと、選択できるか)が問題なのだろう。

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2004.05.27

インド下院選挙とソニア・ガンジー(Sonia Gandhi)

 インド下院選挙についてなにか書こうと思っているうちに状況が変わり、書きそびれていた。それに、率直のところ、私にたいした話があるわけでもない。むしろ、以前BJP(インド人民党)が台頭してきたとき、当然とはいえ、危機感を抱いていたくらいだ。それが杞憂に終わったのだから、失礼な言い方だが、インド人は想像以上に賢いものだと思った。
 インド下院選挙(定数545)開票が13日に始まったものの、私はそれほど関心はなかった。寄り合い所帯(国民民主連合)とはいえ、経済政策をうまくこなしているBJPの優位に変化はないだろうと思っていたからだ。もっとも、コングレス(国民会議派)が押してくれば、日本の公明党のように小さい政党の動きで大きく政治勢力が変わることになる。が、蓋を開けてみると、意外にコングレスがリードして、むしろ、そうした不安定要因をコングレスが抱え込むことになった。
 ここで私はあれ?と思った。ソニアが首相になるわけはない、と私も思っていたのだ。彼女はイタリア人だし…というわけだ。もちろん、それは間違った言い方で、国籍はインド人である。だが、あの顔を見たら、ヒデとロザンナじゃん、と思っていた。つまり、私は最近のソニアの顔を見ていなかったわけだ。が、この機にネットなどで見るに、おお、ちゃんとインド人らしい体型だし、義母みたいな雰囲気ばっちしじゃん。これならいけるかも、と思い直した。が、やはりダメだったな。だめだよなと思うあたりが、どこかで自分の感性がインド人になっている。
 老婆心ながら、 ソニア・ガンジー(Sonia Gandhi)は、1946年イタリア生まれ。ラジブ・ガンジー首相の夫人。結婚は1968年。その当時、ラジブはパイロットであり、ソニアもインド国籍を取っていない。ラジブは、首相だった母インディラの暗殺を契機に政界に入り、1984年に首相となる。この機に妻ソニアもインド国籍を取得した。ラジブは1991年に暗殺された。夫の意志を継いでソニアが正式に政治活動を始めるのは、1997年にコングレスに入党してからのことだ。すぐに同党総裁となる。渡る世間は鬼ばかりどころではない陰惨な歴史だ。
 ところで、今回の選挙のニュースでは、日本と限らず、「ガンジー王朝」とかいう洒落をよく見かける。反面、日本のニュースなどでは、ガンジー家は、建国の父マハトマ・ガンジー(マハトマという言い方には私はちょっと抵抗があるが)の一族とは関係がないよ、と注釈が付く。この関係は今の若い人たちに理解されているのだろうか。

cover
父が子に語る世界歴史
 ん? それ以前にネールのことを知っているかすら、気になってきたぞ。今の高校生って「父が子に語る世界歴史」とか読んでないかもしれないな。絶版かと思って調べるとまだ大丈夫だ。出だしが泣かせる。

お誕生日がくると、おまえは贈りものをもらったり、お祝いのことばを受けたりするのがならわしだった。けれども、このナイニー刑務所から、わたしはなにを贈りものにしたものだろうか?

 かくして、14歳の一人娘のインディラちゃんは獄中のパパから200通の手紙を貰った。こってり世界史を教えてくれる手紙だった。パパっていうのはこうでなくちゃな。
 ジャワハルラール・ネール(Jawaharlal Nehru,1889-1964)はインド独立運動の指導者の一人で、イギリス支配に抵抗し9回も投獄された。その娘がインディラ・ガンジー(Indira Gandhi,1917-1984)。彼女もインド首相となった。が、先にも触れたように1984年にシーク教徒に暗殺された。
 彼女がガンジー姓なのは、だんなのフェローズ・ガンジー(Feroze Gandhi)によるもの、なのだが、フェローズがガンジー姓を持つのは、インディラとの結婚を機にしたものだ。それまでは、カーン(Khan)姓だった。なぜフェローズがガンジー姓になったかというと、よくわからないのだが、マハトマ・ガンジーの養子となったとも言われている。が、別説もある。細かいことを忘れたのでぐぐってみると、あった。"Nehru-Khan-Gandhi dynasty"(参照)によると、フェローズは"GHANDI"という姓(正確には姓とは言えない)を持っていたが、マハトマが洒落で現在の"GANDHI"としたとも言われている。この説は案外信憑性がありそうで、どうやら、フェローズの母はGHANDI姓のイスラム教徒だったとのこと。"GHANDI"は宗教名だったのかもしれない。なんだかトリビアの泉ネタだが、日本では受けないだろう。
 話を今回のインド下院選挙に少し戻すと、結局、ソニアが首相を辞退し、マンモハン・シン元財務相が指名された。おっと、シンかよ、って、プロレスじゃないのだが、シンとくればシーク教徒である。つまり、ソニアの義母を暗殺したシーク教徒を立てるあたり、お見事。初のシーク教徒の首相だ。というか、そもそもソニアが辞任したのは暗殺を避けるという含みもあったのではないだろうか。
 ここで、唐沢なをきの好きなチャヒルをダシにシーク教徒の話を書きたい気もするがやめとく。が、一言だけ、あのターバンを巻いているインド人はシーク教徒で、ヒンドゥー教徒はターバンを巻かない。ちなみにあのターバンの中身は…おっとこの話はまた。
 インド国民としては、シーク教徒の首相を選んだんじゃないよという感じもあるかもしれないが、むしろこれがうまく行けば、さらにインドは近代化を進める契機にはなるだろう。
 問題は、各種ニュースでも言われているように貧困問題だ。ニュースではあまり報道されていないようだが、厚生行政の課題も多い。コングレスの復権はこうした社会問題への対応を背景としている。こうした取り組みに積極的な共産党も62議席と少なくない。
 シン首相率いるインドはどうなるのだろうか? この問題を扱った20日のフィナンシャル・タイムズ"Incredible India and its reformers"はインドの近代化(世俗化)を評価していた。

If Mr Singh becomes India's first Sikh prime minister, there is no reason why politicians who back the Congress party's secular vision of India would want to weaken the government or allow the return of the Hindu fundamentalist BJP. Nor will they necessarily feel the urge to reverse reforms begun by Congress and built on by the BJP. On the economic front it may be business as usual.

 もっとも、フィナンシャル・タイムズは、大衆はソニアを求めているのだが、というふうな指摘もしていた。
 私はといえば、率直なところよくわからない。BJP台頭のときの懸念も一応杞憂に終わったので、なんとも言えない。だが、感覚的には、シン首相の行政はかなり困難なことになるのではないか。というのは、インドの大衆はどこかでインディラ時代のモデレートな社会主義的な期待を抱いているのではないかと思うのだが、それを許す世界ではないからだ。

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2004.05.26

同性婚の動向

 米国時間で17日の話になるが、マサチューセッツ州で同性同士の結婚が正式に認められるようになった。日本でもニュースとして報道されたが、新聞社説でテーマとして取り上げるといった社会的な関心にはならなかったようだ。もっとも、「同性愛☆関連ニュース」(参照)を見ると同性愛者たちの間ではホットな話題のようではある。
 私自身は、米国の同性婚の動向にはそれほど関心はなかった。この問題が、毎度ながら、中絶問題などと一緒に、大統領選挙に関係することは知っている。むしろ社会問題としてはそちらの意味合いがあるのではとも思っていた。
 この問題に自分が関心が薄いのは、基本的に、同性愛をどう社会的に受け止めるかということで、「差別をしてはいけない」が正しいという単純なソリューションで自分のなかで終わっているからだ。このブログでは私はしばしば保守と言われることがあるし、どう言われてもいいのだが、自分では政治的な面ではウルトラ・リベラルではないかとも思う。そういうリベラルであることに価値を置く自分としては、同性愛の結婚というのも広く認められればいいのではないかと、まず考える。
 が、この数日この問題が、ぼんやりとこの問題を考えては、奇妙なひっかかりがある。うまくまとまらないが、書いておきたい気がする。
 奇妙なひっかかりは、社会が同性愛を差別しないということと、結婚という社会制度を同性婚に直結する関連性が判然としない、というあたりだ。
 北欧などでは、前世紀に世界大戦がないこともあり、近代社会が深化し、結婚というのは基本的にプライベートな領域の問題に移りつつある。あるいは、こう言い換えてもいいかもしれない。結婚や宗教的なり信条の問題なので、国家が関与すべきではない、と。このあたり、日本の別姓論者がどう考えているのかはわからないが、社会原理的にはそう考えていくのが正しいだろう。
 そう考えると、問題の根幹は、社会的な差別「意識」の問題ではなく、法的な問題であり、社会制度の問題なのだということになる。マサチューセッツ州での同性婚に関連して、朝日新聞系ニュース「米マサチューセッツ州が『合法的』同性結婚受付」(参照)では、制度面をこう報道している。


 同州最高裁は昨秋、同性の結婚を禁じるのは州憲法に違反するとの判断を下し、同性婚を認めるよう州当局と議会に命令した。結婚を認められたカップルは、社会保険や税制度、遺産相続、養子縁組などで男女の夫婦と全く同じ権利と利便を与えられる。

 だとすると、私は同性愛結婚に反対するというわけではないが、そうした結婚を契機とした利益・不利益を社会的に存在させなければ、とりわけ結婚という制度を同性愛者が必要するものでもないようには思う。と同時に、それは、異性間の結婚でも同じ問題ではあるのだろう。
 もう一歩踏み込む。問題は、相続と養子がポイントになるではないか。
 同衾者について社会制度がどう扱うかということになるのだろうが、結婚が暗黙のうちに前提としている二人の結びつきということだけではなく、三人以上の同棲者でも同じことが言えるのではないだろうか。もっと単純に言うなら、主に遺産相続についての共同生活者の権利を拡大し、その中に、自然に同性愛者のカップルを含めるということでもいいのではないか。
 今後日本でも、多分に、未婚の男女がそのまま老齢化し、共同生活を送らざるえなくなるだろう。彼らが互助のコミュニティを形成する場合、財産共有の制度は必要になる、と思うのだが、現状の日本の制度でも問題はないだろうか。
 制度面でもうひとつ気がかりなのは、養子だ。これも原理的には三人以上のコミュニティの子供としてもいいのではないかという点もだが、それはさておき、同性愛カップルが養子を持つ場合、親はいいとしても、子供はどうなのだろうか。
 当然こうした問題は心理学者なども議論していると思われるのだが、私は知らない。この問題にどういうアウトラインがひけるのかすら、まるでわからない。社会制度上ジェンダー差別を撤廃するということと、子供の心性における母性・父性の象徴の重要性はまた別だろうと思う。というか、人間の権利以前に、人間の心性というものに政治的な中立性がありうるのか、よくわからない。
 同性婚の制度面については、現在、主に欧米諸国では課題になっているのだが、日本の状況は、さらにわからない。この問題関連でぐぐってみると、「『同性婚』を取り巻く現状」(参照)また「同性婚はいま-世界の動向-」(参照)というページが参考になるが、原則なり原理面がわからない。それでも、北欧では同性婚の場合、養子については認められないという傾向があるようにも見受けられる。やはりなんらか、社会的な抵抗感の根拠性はあるように思える。

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2004.05.25

ロシア正教の現代の動き

 たまたまニュースを見ていたら産経系「海外のロシア正教会、本国総主教と初会談 80年ぶりの和解へ一歩」(参照)が面白かった。海外に分散するロシア正教会がロシア内の正教会組織と和解を始めたというのだ。と、書いてみて面白いと感じる人はもしかすると少ないのかもしれないなとも思った。
 私の感じでは、ロシアとは正教と分けて考えることができないものだ(もう少しいうと米国のロシア文化はユダヤ文化の側面も強いのだが)。ロシアがソ連となっても、世界に散らばったロシア人は正教をもとにロシア人であることを捨てることはなかったし、むしろ、19世紀的な骨格を持つその知識人たちは欧米化する現代文化に戸惑いも隠せなかった、と思う。
 先日、NHKでたしか「ラフマニノフ・メモリーズ」という番組を見て面白かったのだが、ラフマニノフのロシアへの思いが切々と綴られていた。あの感じは、もしかするとわかる人にしかわからないのかもしれないのだが、私は勝手に思い極まってなんども泣いた。どうもパセティックな話になるが、私の魂の根幹にはアリョーシャ・カラマーゾフがいるようだ。私の人生とはゾシマ長老が彼に命じたこの実践でもあった…てな思いがある。私の心は、今でもイワンのようにシニカルになり、ミーチャのように俗世に狂い、スメルジャコフのように悪の衝動に駆られる…が、酒も飲めなくなったのでフョードルや、話は違うがマルメラードフのようにはならないだろう…ま、そんな感じだ。1957年生まれの私がなぜ1950年代の左翼崩れのロシア好きになっていたのか、今となってはよくわからない。サブカル的には、「サイボーグ009」「宇宙戦艦ヤマト」などにもあの雰囲気はある。「アンパンマン」ですらある…なんだかな、というところで、身近に10歳年下の女性がいるので「ステンカラージン、知ってる?」と訊く。「襟の色?」 話になりませんな。
 ロシアには行きたいと思いつつ、行ったことがない。トランジットでモスクワ空港で夕日を見ながら、そんなタイトルの歌があったよなとか思い出したくらいだ。そんな話をアテネのギリシア人に言ったら、是非ロシアに行きなさいと熱弁していた。その熱気がなんか面白かった。ギリシア人の庶民にしてみると、ギリシア正教とロシア正教はあまり違いがないのかもしれない。
 正教について語ることは難しい。「多様性の中の同一性」というギリシア語のイオタ一個に延々たる神学的議論がある…というくらいだ。だが、困ったことにきちんと語ることが、必ずしも正しくない、と言うと、詳しいかたに当然教義的に批判されるだろう。このあたりは、エバンジェリックの人たちと似ていて、通じねーところだ。ちなみに、ぐぐってみると、「東方正教会とアトス」(参照)というページがあり、よくできているのだが、基本的にギリシア正教とロシア正教の関連や歴史が、神学的な教義面で書かれていて、かえって実態がわかりづらいように思う。
 いきなり厳しい話に飛ぶが、コプト教会や、イラクなどにもいるネストリアンたちについて、現在の正教はどう考えるかというと、ほとんど何も考えていない。異端というくらいだろう。ただ、西洋世界のような気違いじみた異端の概念ではなく、むしろ、普通のイスラム教徒が異教徒を見るような感じだろう、と書きながら、日本も結果的に含まれる西洋世界は、イスラムと言えば、アラブ・イスラムばかりでちょっと辟易とする。少し話を戻すと、米国のネストリアンは以前調べたとき、正教に吸収されている面もあるとのことなので、今後は消えてしまうのだろうか。いずれにせよ、キリスト教史という総合のなかで正教をどう位置づけるかという関心が正教側にはない、というか、そういう疑問が彼らにはない。もっとも、カトリックにもプロテスタントにもないので言うにナンセンスなのだが、キリスト教史において正教がもっとも本流なのだから、そういう脱宗教化があるといいとは思う。
 私は正教について語るほどの知識もないのだが、そういうわけで、だから逆に、資料もなくざらっと書いてみたい。まず、冒頭のニュースをひくのがよいのかもしれない。


【モスクワ=佐藤貴生】「無神論に迎合した」として、旧ソ連時代から約八十年にわたり本国組織と関係を断絶してきた海外のロシア正教会が、ロシア国内の正教会組織と初のトップ会談を行い、和解に一歩を踏み出した。具体的な取り組みの第一歩として、内外の両組織はスターリン時代に大粛清の舞台となった処刑場跡地での教会建設に着手したが、社会主義政権が残したしこりを取り去るまでには時間を要するようだ。

 ニュースとしてはそういうことだ。具体的には、こう。

 「海外ロシア正教会」のトップを務めるラブル・ニューヨーク府主教は、ロシア正教会総主教のアレクシー二世と今月十八日にモスクワで初の公式会談を行った。この会談で、アレクシー二世は「政府は現在、教会に介入せず、教会は自由な存在だ」と述べ、信仰の自由がロシア国内で保障されたことを強調した。
 両トップは、スターリン時代に大粛清の現場となったモスクワ南郊のブトボ射撃場の跡地を訪れ、三万人ともいう犠牲者に祈りをささげた。ここに建設される「ロシア受難教会」の起工式で、アレクシー二世は「テロの犠牲者に対するわれわれの義務は、同じことを繰り返さぬよう信仰の下に国民が結集することだ」と話した。

 同記事にもあるように、政治的にはプーチンの思惑といった読みも当然でて来るのだが、まぁ、それほど政治的な話でもないだろう。むしろ、こうしたニュースを西洋社会は、ついカトリック(the Holy See)との比喩で考えがちなのではないか。つまり、ロシア正教が教皇といったふうな理解である。が、これがまったく違う。正教というのは、そういう頂点を持たない。ある意味、原始キリスト教というかヘレニズム結社というかある種の長老制(これがプロテスタントにも組み入れられている面はある)というか、恭順の組織性というか、そういうものだ。
 ついでに言うと、教皇というのは、元来ローマ皇帝のことで、西洋史ではビザンツとして奇妙な扱いをしているが、通称ビザンチン帝国とはローマ帝国のことであり、ギリシア人というのはローマ人のことなのだが、というとほとんど混乱してしまうだろう。というか、それほど西洋史は近代以降錯誤を繰り返している。この点、ロシアの皇帝は、モンゴルの系統を引いているので、話はさらに難しい。
 さらについでが、カトリック(the Holy See)の組織は命令の関係でできているが、正教の組織性は、そうとばかりも言えず、その最たるものは隠者が多いことだ。歴史的見るとこの隠者たちはスーフィズムと関連がありそうなのだが、オカルト系以外では研究を見たことがない。というか、西洋ではオカルトは日本でいうオカルトではないのでそれでいいのかよくわからないが、それでも教義面や神秘学への偏りが多すぎる。さらに余談に暴走するのだが、スーフィーズムが現代イスラムのなかでどのように位置づけられているのかも、よくわからなくなった。
 話が散漫を窮めることになったが、ロシアなら正教かというと、そのあたりはそう簡単でもない面もある。すでにウクライナは独立しているが、ここでは、ウクライナ正教はあるものの、むしろ宗教的にはカトリックが特徴的だ。困ったことかそうでもないのか、ウクライナ正教はモスクワ主教の系列に入るが、ウクライナ独立でキエフ主教ができている。むしろ、今回の和解は、こうした面での影響も出てくるのではないかなと思う。
 フランシス・フクヤマなどはヘーゲルを借りて原理的には現代は歴史が終焉したというし、確かにそういう面はある。さらにそれがITと結合し、すでに日米のマスカルチャーには歴史が見えない。ただの洒落だが、日本の若い娘のファッションを見ていると究極のニヒリズムとしての永劫回帰のようでもある。また、アラブ・イスラムの台頭で文明が衝突するというな洒落もある。だが、実際は、歴史終焉の前で、西洋史の大きなぶり返し時期ということなのではないか。あるいは、ロシアというのは、むしろ19-20世紀の遺物の挑戦かもしれない。あー、古くせーと笑えるならいいのだが。魂を失った我々にはきつい相手かもしれない。

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2004.05.24

最近のネットメディア雑感

 先日実家の書架を見ていたら、1971年9月のGuts(ガッツ)が出てきた。号が間違っているかもしれない。二十代の吉田拓郎がフォークギターを抱きながら座っている表紙のだ。めくるとよく覚えている。若い頃の記憶力はまるで写真のようなもので、けっこうページのディテールとかも覚えていた。あるある大事典に出てくる初老の堺正章がマチャアキとかでひょろっとした三枚目の若者の写真で載っている。レモンちゃんも今の子のメイクで、出直しできそうな笑顔だ。
 他にもこの時代の雑誌が書架にないかと思ったが、自由国民社の岡林信康とかの特集やフォークギター奏法関連ばかりだ。実用的なものだけ残っているということか。ああ、オレに収拾癖というものがあればなと思うが、ない。ないものはない。
 ネットの興隆のおかげで昔の雑誌とか買えるようになって嬉しいのだが、さて、Gutsはと見ると、たまたま「オヨヨ書林」(参照)というのが出てきた。Gutsは一冊2000円くらいだ。表紙を見ていると思い出が湧く。このくらいで思春期の思い出が買えればいいかという気もする。が、取りあえず欲しいのはない。ヤングセンスのほうが欲しいなとかは思う。そういえば、ASCIIの創刊も今はない。GOROや日本版プレーボーイなんかも持っていたのにな(石井めぐみの激写文庫は欲しいが…)。ま、自分で持っていなくてもいいから、こういうのを閲覧できる図書館でもあればいいというか、きっとあるのだろうけど、すでに貴重な歴史資料なのだろう。
 このところネットラジオで70年代のオールディーズをよく聞くようになった。最初、抵抗があった。以前から街中で70年代の曲が流れるといらつくし、リメークとか聞くと気分が悪くなる。のだが、なんか、最近やけくそで聞いていると、しばらくして、意外なのだがアンビュエントよりリラックスできることがわかった。どういう現象なのかわからないが。

cover
Between the Lines
 というわけで、マイベストセレクトCDでも作ろうかという気になるのだが、さて、どうする? 初期キャロルキングは全部CDでリニューしてある。ジョニミッチェルは途中からCDか。ジョーンバエズはまだ。カーペンターズはまばら。いずれも紙ジャケへの思い入れだけが残る。そうだそうだ、カーリー・サイモンとかジャニス・イアンはどうよ…というわけで、こんなとき、ネットから落とせるといいというわけか。

At seventeen by Janis Ian

I learned the truth at seventeen
That love was meant for beauty queens
And high school girls with clear skinned smiles
Who married young and then retired.

世の中のことがわかったのは17歳のとき
恋愛っていうのは、きれいな娘だけのもの
笑顔が似合う女性高校生とかのもの
彼女たちは若いうちに結婚して仕事なんかやめていく


 泣ける。
 音質さえいとわなければ、ちょっとしたコツで合法的に落とせる手法がある(もったいぶるわけではないが詳細はあえて書かない)。そういえばと思って、AOLにアクセスしたのが、最近使ってなかったのでチューンしているうちに、もともと私は米会員なので、ちょっとインストールにバグがあるが、AOL9が設定できた。で、これすごいじゃん。15年くらい前、Macintosh SE/30にカラーボードを付けてAOLをアクセスしていたときの、なんつうか、あの優越感が蘇るじゃないですか、って洒落なので、本気にしないでほしいのだが、ま、スゲと思った。ワーナーとのどたばただのスティーブ・ケースの凋落などニュース面でしか見てないし、今じゃAOLも落ち目とかいうニュースを鵜呑みにしていたのが、うひゃ、メディア後進国日本にいると全然そうではないな。
 オンデマンドってこういうことかと実感でわかったのは、いつでも好きなときに好きなコンテンツがエンジョイできるってこと、っていう理屈じゃなくて、「おい、これを聴け、これを見ろ、これがわかんねーセンスじゃダメピョン」の横にボタンが付いているということなのだ。
 オンディマンドはむしろインフラで、重要なのは、欲望を駆り立てるコンシェルジュなのだ。もちろん、日本でもないわけではないが、そういうコンシェルジュがスタティックなHPとかになっていて、コンテンツはそこに直結していないわけだ。このワンテンポのズレが、欲望を加速させない。
 っていうのと、冒頭の爺臭い話でもないが、歴史の終焉が日米とかは1970年代ごろにきたから、そのあとの時間が、ただ、各時代のセンスとしてDB化しているのだ、と意味不明なことをいうけど、今の若い人のセンスだけが問題じゃなくて、このフラットではあるけど、DB量の多い歴史みたいな世界からコンシェルジュのセンスで見極めてくれないといけない、わけだ。と、話として書くと、割烹屋のオヤジみたいだが、実感としてはちょっと驚いた。
 日本の場合、これが実現できないのは、オンディマンドや感性のDBに対応できる実際のコンテンツがDB化できないというかそういうインフラができないからだろう。で、できないのは料金の問題でもある。というか、それで既得権にしがみついてそこから日本の現代的な意味での著作権が出てくるということか。妥協的にはSONYのコクーンみたいなやりかたもある。iPodもそうか。つまり、ローカル側に小さなDBを作るわけだ。しょぼいが。
 なんとなく思うのだが、米国のメディアを見ていると、ベースのところでパワーが全然違うという気がする。特にダンスシーンとか見ていても、その「生」の欲望の喚起がものすごい。洋物ポルノみたいに、ちょっと脂と臭みが気になるくらいだが、それでもベースの力が全然違うと思う。その力が社会の根底のところで、爺の利権を押しつぶしているのだろう。
 なんだか間違った話を書いているようだが、糞な著作権問題が出てくるのは日本人のメディアのパワーがないからなんじゃないか。

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2004.05.23

北朝鮮拉致被害者の子どもの帰国に思う

 北朝鮮拉致被害者の子ども五人が帰国した。人質に取られていた子どもたちが奪還できたという点ではよかったのだが、私は率直なところ、なぜ小泉が訪朝したのか、よくわからない。また、今回の成果もそれほど評価できない。拉致被害者家族のかたが批判の声を上げていたが、もっともなことだと思う。
 今回の帰還によって、取りあえず可視になっている部分の問題は終了したのであり、しかも、そのために、膨大な貢ぎ物(食糧25万トンと1000万ドルの医薬品支援)を出した。これも困ったことだが、しかたがない面はある。しかし、「制裁法は発動しない」との馬鹿げた約束は将来に禍根を残すことなるだろう。
 拉致被害者にしてみれば、もっとも有効な北朝鮮への圧力の手段がこれで奪われたに等しい。もう少し露骨に、「小泉を打ち倒して、まともな外交圧力ができる政権にすげかえ、相手と同じレベルでバックレてしまえ」と言いたいくらいだ。
 禍根といえば、ベタ扱いのニュースのようだが朝日新聞系「今後の日朝正常化交渉、総連幹部参加へ 北朝鮮が決定」(参照)は呆れた。


北朝鮮が今後の日朝国交正常化交渉の北朝鮮代表団に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の副議長以上の幹部を参加させることを4月下旬に決め、朝鮮総連側に伝えていたことが分かった。日朝関係筋が明らかにした。

 こんなことでいいのだろうかと思うが、この問題については私が言及することでもないだろう。
 昨日、この件で、ぼんやりと考えていて思ったことがある。
 二家族子ども五人たちは、今回の事態や歴史を理解していないだろう。もちろん、すでにハイティーンから二十代の年頃でもあるので、物事を自分で考えることはできるはずだ。そして、一年くらいかければ、自分たちの置かれた状況も見えるだろう。それはどんなものなのだろうか?
 彼らは北朝鮮ではエリートだったし、エリートとしての未来も約束されていたはずだ。こう言っていいのかわからないが、日本に帰還できた家族も北朝鮮ではエリートだったし、金正日は彼らが当然北朝鮮に戻ると確信していただろう。むしろ、そのアテが外れたことが彼には不思議に思えていたに違いない。拉致問題の可視の部分だけでいうのだが、金正日にすれば、拉致問題はあったかもしれないが、丁重に扱ってきたのだ、と。そして、恐らく子どもたちも、そうした北朝鮮の常識のなかで物事を考えているのだろう。
 その世界をそれなりに私も理解する必要もあるようには思う。余談で、かつくだらない妄想のようだが、私は、ふと彼らの恋愛意識のようなことも思った。日本人ならこの歳なら、いくつか人生に残る恋心みたいなものを抱く。北朝鮮育ちの彼らの場合はどうなのだろうか。
 話はぼけるが、思ったことをもう少しメモ書きしておきたい。今回の日本の騒ぎは対外的にはまるで関心を呼ばなかった。当たり前と言えば当たり前だが、不思議なほどだった。ジェンキンズさん問題も、結局米国は糾弾の構えを変えないのだが、変えれば彼も米人の拉致被害者になり、米国としても扱いに困るからだろう。韓国もこの問題に関心をもっているふうでもない。韓国での北朝鮮拉致被害者問題が噴出しては困るからだろう。
 サヨクは今回を機に正常化を望んでいるようだが、それもよくわからない。北朝鮮の暴走を温存させることに、左翼的になんのメリットがあるのだろうか。まあ、どうでもいいといえばどうもいいことだ。
 北朝鮮の核兵器開発の進展は脅威だが、中国と米国が見過ごすわけもない。日本が北朝鮮の下僕となってもこの問題は金正日の思うままにはならない。ミサイルについても脅威といえば脅威だが、核弾頭にはならないし、精度も上げられない。大陸弾道弾ができても、中国ですら固定式なので、実質の脅威にはならない。
 米軍が韓国から撤退することが示唆するように、今後大きな衝突は半島では起きない。というか、米軍人に被害を出すような戦闘は起きない。仮にソウルが火だるまになっても北朝鮮に勝ち目はないし、米国はその後から日本から出動することになる。ブラックジョークを言っているつもりはない。
 たぶん、来年くらいには、在韓米軍撤退と軍事増強の機運から、韓国は思いがけないほど凋落しているのではないだろうかと思う。けして、そう願うものではないのだが。

追記24日
 nobokさんより、コメント欄でNYT"North Korea and Japan Sign a Deal on Abductions"(参照)が紹介していただいた。極めて面白い。


Although visits by heads of government to North Korea are rarities, Mr. Kim spared only 90 minutes to meet with Mr. Koizumi, and then canceled a planned afternoon session. At the end of the meeting, Mr. Kim, who runs a largely bankrupt state, was filmed by television cameras, waggling a forefinger in a jocular, but condescending fashion, in the nose of the Japanese leader, who stood stoically. Mr. Koizumi, who faces upper house elections in July, had hoped to win a diplomatic success in North Korea to divert attention from a serious scandal in Japan over nonpayment of social security taxes by the prime minister and many governing party politicians.

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