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2004.01.10

乙支文徳

 中国が高句麗史を中国史に位置づけようとしていることに対する韓国の反発が激しい。日本人にしてみると、当面は関係のない騒ぎではある。韓国の民族主義は怖いものだなというのが私などの率直な感想だ。そうした中、韓国で象徴的に取り上げられるのが乙支文徳(ウルチ・ムンドク)である。
 中央日報「高句麗歴史歪曲糾弾集会」のニュース(参照)では民族史観高校の生徒と中国歴史歪曲対策民族連帯会員らが、ソウル孝子洞の中国大使観前で、乙支文徳に扮して、中国の高句麗歴史歪曲を糾弾する集会を開いている。
 現代日本人にはちょっとなぁではあるが、確かに、乙支文徳を英雄と評価したい気持ちはわからないでもない。それにしても、なぁという思いが私のような歴史家(毎度ながら嘘です)にはあるので、ちと書いてみたい。あまり偉そうなことを言うつもりはないが、日本人は乙支文徳のことを知らないのではないか。テコンドーの型名として知っている人もいるだろうか。少しGoogleを引いてみたが、韓国政府発表の垂れ流し情報ばっかりで、がっくりしたので、少し書いておきたいのだ。
 背景となる話は隋と高句麗の対立がある。一応日本人なら、遣隋使ということで隋については知っていることだろう。だが、日本人の中国史の知識は正史に阻まれて中国のバイアスが入りがちだ。煬帝を「ようだい」と訓じるのも呆れたものだ。
 隋を起こした文帝は同時に、その前の時代の南北朝対立に終止符をうち中国を統一した、というのは史実なのだが、ちと裏がある。文帝こと楊堅はその名が中国名なのだが、この楊氏初代は燕に仕えていた。燕は鮮卑慕容部族が打ち立てた国で、中原からの亡命民なども受容していたったので楊氏もそうした部類かもかもしれないのだが、彼が太平太守(軍事司令官)となっていたことを考えに入れると、軍才に長けた鮮卑であったと考えるほうが妥当だろう。岡田英弘の「世界史の誕生」を参照すると、楊堅の父楊忠は普六茹という鮮卑名があるとのことだ。隋は北魏同様、鮮卑の王朝と見ていい。ちなみに、唐も鮮卑である。
 この文帝は、中国統一の勢いをかって、598年に第一次の高句麗侵攻を開始した。もののだ、準備も整わず天候や疾病なのでほぼ戦わずして敗退。当時の高句麗平原王も、侵攻が現実となるや、びびって表向き謝罪でことを収めた。隋の侵攻の理由はもともと拡大の意図もあったのだが、高句麗側も防戦準備から隋を刺激し続けたこともある。
 ここで重要なのだが、現在の韓国の歴史は、しゃーしゃーと韓国対中国の図を描いているのだが、この時代の朝鮮半島は全然統一されていない。どころか、百済は元から北魏重視政策から高句麗を攻勢することが国是でもあり、この第一次侵攻でも高句麗攻めの先頭を隋に申し出ている。これが高句麗の怒りを買うことにもなるという香ばしい関係が半島内にあった。日本の古代史もこの香ばしさに包まれているのだが、その話は避けよう。
 煬帝の時代になると、親父の意図を継いで、高句麗侵攻の夢がもたげてくる。それに併せて、半島内でも高句麗に対立する百済や新羅が隋にすり寄りといった事態にもなる。詳細な話は省くが、隋は、前回の反省からロジステックスとしての運河ができるのを待って、612年に第二次高句麗侵攻を開始した。200万という大軍なのだが、高句麗に近づくやロジステックスに不備。隋内部でも山東半島などで反乱勃発。
 かくして、第二次の高句麗侵攻の軍も疫病で大軍が自滅していくことになる。もっとも、韓国の歴史ではこの大軍を小勢で打ち破ったのが乙支文徳であるということになっているのだ。そういう見方が成立しないでもない。
 乙支文徳に着目すると、戦時当初は、さっさと隋軍に降伏しているのである。が、隋軍の惨状を見るや降伏を自主撤回。逃げる逃げる。高句麗軍に戻り、「がんばれるかもぉ!」ということになった。不屈と評価するか、私のように下品な評価を我慢するかは意見が分かれる。そして、隋軍が平壌近くまで侵攻してくると、乙支文徳はまた停戦を申し出て、平原王とともに隋に謝罪しようと提案。ごめんねで済むなら謝っちまえ主義である。
 が、これもまた嘘。乙支文徳、あっぱれにも、引き上げる隋軍を後ろから打つ打つ。よって隋軍壊滅。いやぁ、これこそ武術ってやつです。乙支文徳、さすが。こうした歴史は韓国で知られているのだろうか。
 煬帝は怒る。613年第三次高句麗侵略開始。でも、隋だってもうぼろぼろ。内乱が起きて、途中で引き返す。くそぉである。が、煬帝不屈の精神である。プロジェクトX(ばつ)こと、翌年第四次侵略開始。
 しかし、隋軍の兵士だって逃げる逃げる。それでも平壌近くに攻め込むや、またしても高句麗はやってくれるぜ。当時の嬰陽王は降伏を願い出る。以後、きちんと朝貢しますと泣き落とし。なんぼ頭を下げても減るもんじゃない! この時、乙支文徳が何をしていたのかわからない。
 かくして、煬帝も怒りを静めて兵を引いたものの、高句麗嬰陽王は隋軍が帰還すれば、ばっくれ。朝貢なんて知らんぷり。煬帝、怒る。が、理性を失ううちに、突厥が反乱。さらに反乱はつづき、618年煬帝は家臣に暗殺。かくして隋一巻の終わりとなる。
 歴史は鏡である。乙支文徳に模して中国に楯突く現代の韓国が、もし本当に中国の怒りを買えばどうなるか。私はだいたい予想が付くのである。

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[書評]「結婚の条件」小倉千加子

cover 酒井順子の「負け犬の遠吠え」を買うつもりで買いそびれた。どこにも在庫がない。すごい事態だと思う。「バカの壁」がいくら売れてもあんなの本じゃないんでどうでもいいことだが、こっちの在庫切れには呆れる。余談だが、岸本葉子のがんの本も売れている。出版は不況だ、いい本が売れないというのは本当なのかと思う。いずれにせよ、代わりに小倉千加子の「結婚の条件」(朝日新聞社)を読んだ。AERA臭そうで期待していなかったのだが、面白かった。痛快でもある。
 けして難しい本ではないのだが、この本がつまるところ何を言いたいのかは、わかりづらい、と思った。表層的なメッセージは帯にもあるように「青年よ、大志を捨てて、結婚しよう」だが、ようは「30過ぎのお嬢さんたち、自分のカオを値踏みして、相応の稼ぎの男と結婚しなさい」ということだ。まぁ、そう帯には書けない。表紙もしょーもないデザインになっている。だが、本書のメッセージは私には多層的で難しいといえば難しいものだった。著者のスタンス自体にある種の錯乱があるのかもしれない。
 小倉千加子という人は、私は知らなかったのだが、痛快なおばはんである。数年引きこもっていたとあるが、そうなのだろうと思う。もちろん明晰な人だが、それ以上によく人を愛する人なのだろうと思う。まさにおばはんである。彼女自身、未婚の人生のようだが、それを補うだけ慕われて生きてきた人ではないか。奇妙な話をするようだが、本書の深層からにじむ、小倉千加子ってええ人やな、のじんわり力が本書の本質かもしれない。
 日本のフェミニズムというのは、あえていうが意図的に戦略的に迷路になっている。そこに知性が舞い込めないようにして、フェミニスト商売屋が安定するようなシカケだ。誰も読めもしねーようなデリダ論を書いて、青二才に本を売っているといった日本らしい光景にも似ているが、デリダ論など日本社会に無意味である(もちろん無意味であってよい)のに対して、本来ならフェミニズムは社会が要請するものだ。私は端的な例で言えば、中絶問題にきちんと社会性のある議論を提示せよと思うだが、フェミニストからはなにも出てこない。日本のフェミニストは、緩和な内ゲバなのか、結果的なセクトなのか、社会へは声が出てこない。低容量ピルやOTC化されるモーニングアフターなど、どういうふうに社会的に考えるべきなのか、何か言えよと思う。と言いつつ、それもこの本のテーマでもない。
 「結婚の条件」の内容には、取り立てて衝撃なことはない。ほぉ、素面でそこまで言えるかというか、おばはんだから言えるかぁといった程度の内容ではある。ただ、一点だけ、気になるのは、少子化は日独伊の問題とするあたりはジョークにしてはすまされないような気もする。が、米国などでも白人の統計だけ見れば、日本と同様なので、ようは敗戦国の男の問題ではなく、国家を多民族多文化に開くのに日独伊がびびってしまったということだけだろう。これと限らず、社会学的な問題分析の視点は小倉には弱いのだが、それはこの本の欠点でもない。
 毎度極東ブログの書評は役にもたたないのだが、なぜ、女たちが結婚しないか、は、冗談のようだが、マクロ経済学の応用でかなり解けるのではないか。女自身の自分のカオの評価点、男による女のカオの評価点、男の収入、親の収入といったせいぜい4パラメータの式でまとまるような気がする。そして結婚とはその式のカタストロフとして表現できそうな気がするのだが、あるいは、カタストロフはそのパラメーター外の要因なのだろうか。いずれにせよ、そういう学が成立しそうな気はする。それほど、なんというか、結婚とはレギュラーな問題に思えるのだが。くどいが、世の中の人は少子化は複雑な問題だと言っているが、実は、単純に経済学的な問題ではないのか。
 小倉と限らず、他の社会学者からも指摘されつつあるが、日本はすでに階級社会になりつつある。小倉は、結婚といっても階級ごとに意味が違うぞ、というのだが、それ自体はそれほど特記するほどのことでもない。そして、その階級は、学歴に比例しているとも言うのだが、それもたいしたことではない。私は、むしろ、高卒、短大、四大といったわかりやすい学歴はすでに崩壊して、四大間の差異になっていることが問題だと思う。
 極東ブログのまたぞろの話になるのだが、共通一次試験以降の世代では、学歴が数値で一元化されている。もともと日本の大学など入試の難易度しか事実上差異はないからしかたがないのだが、そうすることで、ようはどこの大学を出たかというだけの擬似的な階級ができつつある。ただ、それでも実社会というのは小利口じゃつとまらないから、そうした共通一次試験的な序列は的確に収入及び収入見込みに反映しない。というあたりのズレで、若い男の死ぬほど勘違い内面タカビーも無視できない程度には存在している。と言ったものの、そうしたズレは誤差だろうか。書きながら逡巡してもしかたがないが、誤差とも言えないだろう。優秀な官僚ほど辞めていくという傾向はあるし、会社社会は大学のように序列化できていない。どうも、話がずれたが、ようは男の側でも勘違いが結婚を遠ざけているだろうということだ。
 話は散漫だが、本書で喝采を送りたいのは、男が育児参加などできるのは、公務員や教師など非生産部門に限定される、それは事実だ、としたあたりだ。そうだと思う。公務員つまり官僚や教師つまり大学のセンセーみたいのが、こうした件に口を挟むのは、雑音だからやめてくれと思う。おめーさんたち、うぜーんだよである。
 じゃ、どうしたらいいのか。身近な女性にこの話をしてみた。私は「別に今の女性たちは結婚なんかしなくてもいいんじゃないのか?」と訊く。答えは「でも彼女たちは結婚したいよ」である。そうか。でも、なぜ結婚したいかというと、女の勝ち組になりたいからというだけじゃないのか、と思う。そう訊くことは、男の私にはできないので沈黙する。
 VeryだのStoryだの、貧乏くさい雑誌である。知性というのはフラワーアレンジングでも紅茶コーディネータでもない。消費の欲望とは知性の恥だ。もちろん、そんなこと言っても通じない。知性のないものに知性は通じない。むこうもそんなものである。バカの壁である。ああ、バカな女が多いな、あんなもの勝ち組でもなんでもないよ、と言うことが可能なら、こうした問題は瓦解する。そうさせる社会要因が発生することもありうる。
 だが、そうはならない。そういうものなのだ。それは社会の安定性に従属するのだ。他人の生き方なんか私には関係ない、関係ありえようもないという境遇は悲惨でもあるが、それが自分の生き様かと腹をくくることは、万人に迫れるものではない。結婚とは選択ではなくて、人生そのものなのだがと呟きたいが、やめる。爺臭いし、各人ご勝手にである。
 追記である。ふと考え直したが、ようは大衆とは弱者である。結婚とは弱者の互助でもある。結婚せーよ、というのは、だから小倉は100%正しいのではないか。いいおばはんであると、あらためて思う。

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イラク派兵と日本の勘違い

 今朝の新聞各紙社説は陸上自衛隊の先遣隊及び航空自衛隊の本隊の派遣を扱っていたが、どれもなにを言いたいのか私は理解しづらかった。特に意味がありそうで意味不明な代表は朝日の社説だ。


独裁政権の打倒は民衆が歓迎したし、戦後の復興の重要性も論を待たないが、戦争の法的正当性の問題を忘れて復興を語れないのも当然のことだ。

 それとこれとは別の話だ。それを混ぜ返してもタメの議論にしかならない。総じて、日本人はイラクを一つのものと見過ぎていると思う。フセインがいたからイラクが国のように見えたのであって、それがなくなれば、あの国は本質的に解体してしまってなんの不思議もない。内発的に統合されたのではないあの国家は民衆のために存在したのでもないから、民衆は新しい国家の模索を伴うのはしかたがないだろう。
 朝日をさらに引くが、朝日と限らず自衛隊の意義を社説執筆者たちは勘違いしていると私は思う。

陸自は給水や医療活動にあたる。確かに感謝されるに違いない。だが、それが復興という大仕事のなかでどれほどの意味を持つ活動かも考えないわけにいかない。

 復興というのは、イラクがどういう形態であれ、政治経済的に自立を始めてからのことだ。それには、幸か不幸か、石油が鍵となる。そこまでの道筋に自衛隊は微々たる支援をするだけだ。本当の復興支援はその後のことだ。
 日本のマスコミはどうかしているが、日本の派兵はたかだか1000人である。韓国は日本の国家規模の1/3なのにその4倍の負担を強いられている。そういう隣国のことを忘れることを呑気というのだ。
 最近、読売新聞社説を読むのが苦痛だが、それでも「自衛隊派遣 イラク支援を政争の具にするな」という標題の主張は正しい。この問題がそれが参院選をにらんでの日本の国内事情になってしまっているのは醜悪なことだ。
 私は参院選に向けて、なお、民主党を支持する。自民党政権をリセットするために少しでも力を尽くしたいからだ。なのに、民主党も派遣団断固反対といった、トホホな主張ばかりするのはやめてほしいものだ。政権を取ってからの仕切直しのビジョンを掲げるべきだ。そうでなければ、万年野党にぬくぬくしていた社会党になってしまう。なにより、政治の争点はそんなところじゃないだろ。

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2004.01.09

ドル安のゆくえ

 気になるので素直にそのまま書いてみようと思う。現状のドル安問題だ。極東ブログの定形とすれば、日経新聞社説「ドル安、米国に赤字放置の転換を促せ」を枕のボヤキ。だが、それほどでもない。ちと関心の向きは違う。
 とはいえ、その社説だが、主張自体は、先日の毎日新聞社説と基本的は同じ。つまり、G7経由で米国に赤字拡大放置をを止めさせよ、だ。なので、空しい。ただ、日経は一応こう加えている。


 政策協調では当然、日本や欧州諸国も規制緩和で内需を喚起するとか、市場開放を進め外国製品をもっと受け入れる必要がある。

 これはただのクリシェ。気になるのは、神クルーグマンを引いているあたり(当然、「神」なんて冗談)。

 国際通貨基金(IMF)は7日発表した報告で、双子の赤字が膨らみ続けるとドル相場が急落するリスクが高まると警告した。またプリンストン大のP・クルーグマン教授は最近、米紙に寄稿し「我々は(放漫財政などで経済が行き詰まった)アルゼンチンと同じ道をたどっているかもしれない」と警鐘を鳴らした。

 原文を読んでいないので曲解かどうかよくわからない。ただ、現状のドル安は警笛に値するのかといえば、私は先日の極東ブログのままの意見で、確信犯だろうと考える。
 ちょっと「と」がかるが、米国は基本的にEUと日本なんか適当につぶれてしまえばいいと考えているので、そのあたりの戦略としてそれほど間違っているわけでもない。
 話は散漫だが気になることを連ねる。読んでみてはと薦められたFirst Boston日本経済ウィークリーの「『円高の足枷』は克服可能か?」(参照PDFファイル)は面白かった。キモは、日本経済の非独立性だ。

円ドルレートは両国の金融政策のスタンスの格差で決まるという一般的な認識よりも、米国の金融政策と米国が許容できる円ドルレート水準を前提として日本の金融政策スタンスが決定されると考えた方が為替レートの動きを理解しやすい側面がある。

 政治的な背景で見るなら、ある意味、どってことないし、そのメカニズムとはまさに政治の機能なのだが、当面の問題はその非独立性の許容だ。続けるが、こうだ。

購買力平価の天井から大きく乖離するように円ドルレートが推移するような状況が来れば、日本経済は「円高の足枷」から解放され、デフレ解消に向かうための必要条件をクリアーしたといえる

 現状のドル安がその乖離の状態なのか?とまず問いを出してみたい。少しフライング気味だが、このレポート(安達誠司メイン)のように、円高自体はリフレ政策でどうにでもなるという意味で、意外に単純な問題っぽい。気になるのは、そういう経済要因が許容を越えさせるのか?ということだ。
 端的な印象を書いておきたいのだが、私は現状、米国は日本に依存しているのだ、というふうに認識している。逆ではない。独立した2つの国家間の経済といった視点は無効だと思う。事実上、属国日本貢ぐ君は、どこまで女王様のケツ叩きに耐えるか、ということだ。
 薄っぺらな陰謀論臭い話がしたいわけではないし、当方それほど近年の国際金融に詳しいわけでもない。だが、こう展開するのはタメ議論のつもりはない。為券は円買い戻しにならず、米国債に化けるということを思うからだ。円高介入はやればやるだけ、日本の米国債が増える。結局、アメリカを買いつづけているわけだ。米国債の利回りはいいが、どすんとドル安にすればそんな利は消える。つまり、日本の国富は消える。
 ちなみに、円売り資金の調達枠97兆円は、残り1兆円近くまで減った(参考)。とはいえ、そのこと自体もさして問題ではない。つまり、お金がないわけでもない。まだまだ貢ぐことはできる。
 国際的な視野でドル安が問題だというなら、ユーロが動かないのはおかしい。まだまだ米国に見栄を張っているか、あるいは内部問題のこじれを抑える見栄か、あるいは単に、米国が弱いと見ているか。
 だが、日本の介入は動揺のように見えて、国内産業(特に輸出産業)向けの円高阻止というより、米国の世界戦略(最終的なドル優位)に向けて日本が参戦しているという図ではないのか。
 「通貨戦争」と言った言葉を使う気はないが、これが戦争なら、日米対ユーロ戦であり、波及的に対中国戦なのだろう。こうした構図なら、しかし、日本の目などない。負け犬に決定! とすれば、現状より先の敗戦を見越したほうがいいのかもしれない。
 と、書いたものの、「と」ですかねぇ? 誰かに喧嘩売っている気はまるでない。日本人の労働がこういうカラクリで米国に吸われているような気がするだけだ。

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印パ対話で解決なのか?

 朝日新聞社説「印パ対話――和解の果実を語り合え」は、7日の印パ公式協議再開合意をネタに昨今のインド・パキスタン問題の雪解けのように見える状況を、サヨクさんたちが内心「これで複雑な核問題触れなくてすむぞ」とに喜び舞い上がり、まいどのお笑いを演じたということ。あまりに滑稽なので引用しておこう。


 両国の間には領土紛争だけではなく、根深い宗教対立がある。それを解きほぐすには、双方が建前にとらわれず、雪解けがもたらす果実を語り合うことだ。

 馬鹿みたい。
 そんなことはさておき、私はというと、この印パ問題の動向がよくわからない。率直な印象をいうと、インドが国力をつけてきたのに対して、パキスタンは米国の締めで音を上げてきたかな、というくらいである(ちなみに、先日のムシャラフ大統領暗殺事件はどうもタイミング良すぎ)。
 少し、フライングすると、インドは民族主義が可能だが、イスラム圏の国家の民族主義は本質的な困難があり、それはこの世界の趨勢だと極めて不安定になるしかない。よく言われるカシミール問題だが、これは私の認識はかなり間違っているかもしれないが、ま、思うところを書くと、テロリストの温床と言われているがそんなのはスリランカと似たようなもので南アジア全域の潜在的な問題であり、顕在的な問題の構造的な背景は、あの地域の地主をどう懐柔するかというだけ、ではないのか。だからあまり騒がず、観光の利をうまく配分する知恵があれば、問題は事実上解決する、のでは。
 併せて、現状では、大国ヅラを始めたインドと同じく大国ヅラの中国との問題も緩和しているように見える。近代化とは金持ち喧嘩せずではある。
 総じて見れば、日本では米国は狂っているとかいうけど、数年前世界最大の問題とされていた印パ問題を安定させたのは米国の世界戦略ではないのか。このあたりの米国の国際戦略の全貌が目先の問題に振り回されてよくわからない。もともと米国には一貫した国際戦略などないし、ロビーが強すぎて一部の利権で国政が振り回されるのが常態なのに、国民の大半は貧乏、かっぺ、デブときているから、そいつらが国政にときたまときたま、ずどーんと出現する。「ま、子ブッシュはないだろ、子ブッシュは」と思いつつ、おとっつあんからみやらロビーの思惑も妥協して今の米国になる。なんとも茫洋としているからいろんな妄想を投げて「日本の国際ジャーナリスト」も仕事になる。
 印パ問題に関連してもう一点気になるのは、南アジアの民族問題の象徴としてのスリランカだ。スリランカは今どうなっているのだろう。テロが盛んな時期でも観光客に被害など出そうにないという話は現地の経験者から聞いたことがある。曖昧な印象でいうのだが、スリランカとインドとは違うとはいえ、類似の民族抗争の潜在性は高い。つまり、インドの民族問題は潜在的に非常に危険ではないかと思う。
 とはいえ、あれだけ懸念されていたインド人民党(BJP)だが、なんとか国民会議派の政権から移行しても、さして問題はないように見える。政治の状況からすれば、二大政党だし、スリランカのような問題を秘めているわけでもない…だが、あの国は大き過ぎる。構成上はヒンズー教徒が多数を占めるとはいっても、地域の差は大きい。なにしろ言葉が通じない。
 ついでに不用意に触れると当方の無知丸出しになるが、いいか。気になるのだ。インド洋における米軍のプレザンスを支援しているのは当然インドなのだが、そのあたりの国益やインド政権内での決定はどうなっているのだろうか、ということ。
 問題の一つの極はディエゴ・ガルシア島だ。歴史的な背景については英語でちと読みづらいががーディアンの"US blocks return home for exiled islanders "(参照)は基礎知識。物騒な言い方だが、対米戦略の火遊びを日本がするなら、このあたりの問題でインドと裏を通じておくこともかもしれない。ただ、火遊びが過ぎると危険きわまりないので、この話も終わり。
 締まりのない話になったが、世界を底流で変えているものは、私の認識では、マクロな人口動態である。中国とインドに注目しなければいけない。中国については喧しいわりに、インドが手薄になるとひどいことになるよ、と。

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2004.01.08

朝日新聞の「外国人」意識

 どうでもいい話ではあるが、朝日新聞「ちょっと元気に――町の小さな『大使館』」に苦笑した。日本人と結婚し気仙沼で暮らしている42歳のクェート人が、地元の「外国人」をサポートしているという、ありがちな美談だ。私など、そのクェート人の出目自体に下品な関心を持つのだが、そういうインフォはないし、それはとりあえずどうでもいい。苦笑したのは、結語だ。


 外国人抜きには産業や生活が成り立たない時代が来つつある。日本の将来を先取りする知恵と工夫を広げよう。

 私には、これは、未来永劫「外国人」として差別しようというかけ声にしか聞こえない。朝日新聞は、所詮「外国人」など日本を出稼ぎ先と見て安心しているのかもしれない(朝日新聞なんか購読できる金銭的な余裕もないしね)。
 私の感覚からすれば、そういう外国人に日本籍を与えて日本人にするか、居住の保護を強めて実質上の国籍の保護をすべきだと思う。そういう発想は朝日新聞にはないのだ。サヨクってのは、反米だからじゃないけど、結局民族主義者なのだ。民族仲良くとか表向きほざいているけど、日本国家を開こうとはしない。
 やけっぱちのようだが、それはサヨクの戦争反省の意識にも現れている。つねに、アジア対日本という構図で、アジアに謝罪するのだ。なにも謝罪ばかりがのうでもあるまいというのは私にはどうでもいい。私が気になるのは、そういうアジアに向き合う実体としての日本だ。そんな日本を固持することで、沖縄がますます理解できなくなる。端的に言う、沖縄は日本か? そうだということになる。だから、沖縄人もアジア人に謝罪せよというのだ。おい、おまえさん、沖縄戦知っているか? なに吉田司が、沖縄人だって戦争に荷担したと言っている? あのな、誰が誰に殺されたのかと考えて欲しいよ。それが戦争っていうものだよ。アジア人っていつ国家に閉じこめられたのか。靖国神社には台湾人も韓国人も祀られているが、彼らはどっち? 日本に荷担した悪いやつだから、日本人の側に入って、アジアに謝罪せよか。もう、そういうゲーム自体、やめろよと私は思う。国家としての国策のけじめが必要だし、そのラベルが「謝罪」であってもいい。でも、問題はそういう日本の国策の問題というゲームに閉じるべきだ。日本文化は大切にすべきだし、日本という国が確固としてあってもいいと思うが、それは日本国民の政治表明であって、無前提な民族主義は右翼も左翼もやめてもらいたいものだと思う。
 朝日新聞は正義面してこうも言う。

 日本にはいま超過滞在者を含めて200万を超す外国人がいる。少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに、政府の態勢は省庁の枠を超えて総合的に考える機関すらできていない。

 絶句する。アメリカは少子化ではない。理由はなぜか。ヒスパニック系が子供を産むから。国というものはそういうものなのだ。「少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに」というふうな発想は、米国の文脈でいえば、白人主義と同じだ。朝日新聞って、実は、そういうことを言っているのだ。
 この話はこのくらいで止めよう。日本人の庶民がなんだかんだと「外国人」と摩擦を起こしつつ、それを終局的に日本に包括するという方向で考えるほうがいいと思う。ちょっとうんこ投げられるかもしれないけど、在日が減って、朝鮮系日本人が増えるほうが、日本社会にはいいことだ。ああ、抑えられない。キョポ(僑胞)と呼ばれるより日本人になれよ、と。そうすることで、日本を開いて欲しい。

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円高、防戦あるのみ

 毎日新聞社説「ドル安円高 介入は愚策 米に注文付けよ」を取り上げる。問題の背景はドル安円高だ。問題は、この原因をどう認識し、どう対処するかだ。単純であることが悪いわけではない。毎日新聞社説の結論は単純だ。つまり、原因はドルの威信が低下していることであり、対処としては日銀の介入は誤りだから日本国政府は米国の財政に文句を付けるべきだ、というのだ。
 私は毎日新聞の認識は間違っていると思う。私の認識がそれほど正しいという感じもしないのだが、最初にそれを書いておく。まず、原因はドル安は米国の財政戦略そのものである。そして対処なのだが、原則論ではなく、臨戦体制を維持せよ、つまり介入せよである。円高、防戦あるのみ。
 奇妙な言い方になり、失笑を買うかもしれないのだが、マクロな経済問題というのは原因が的確に認識されれば対処が的確になるものではなく、皮肉にも原因の推量が違っていても対処が的確になることがありうる。本質的な複合性を持っているからだろう。と、逃げのようだが、そうとしか思えない。余談ついでに少し暴言を吐くと、マクロ経済というのは学問の方法論上本質的な倒錯なのではないか。というのは、最大のパラメーターである人間の欲望を常に疑似化する(方法論上当然でもあるが)。
 以下、さらに失笑を買いそうなことをあえて書いていきたい。まず、毎日の次の筆法が私には理解できない。


 しかし、このドル安は手放しで喜べるものではない。景気回復の裏側で財政収支、貿易収支が5000億ドルもの大赤字となっているからだ。

 私は単純に思うのだが、米国はその赤字解消に政策的にドル安としている、でいいのではないか。毎日新聞にはなにが不満なのか、よくわからない。日本経済への杞憂のつもりなのか。
 関連して、誰もが気になるのだが、ドルの威信が揺らぎ暴落するのだろうか。私は、そのストーリーはなさそうな気がする。こうした私ようなぼんやした安心感自体がドルの魔力かもしれないのだが、私はドルの存在自体が、対アジアと対EUの経済兵器になっていると思う。というのは米国の国民の実体経済はNTFTAで保護されているし、あの国はもともと貧富の差といような国民の統合意識に乏しい。逆に言えば、その愛国心から国民の平等な統合意識に、この大統領選に関連してぶれるかどうかという点が、米国の大きな揺らぎをもたらすという意味で、潜在的な地雷なのではないか。またカーターが出ては目もあてられない。もともとゴアじゃなくてブッシュというあたりに米国のとんでもない田舎っぺ性がある。
 対処側として、毎日新聞のいうように、米国財政に口出しせよといっても、そもそも無意味じゃないのか。小林よしのりがいきまくようなお笑い漫画を繰り広げてもまさにその場しのぎの慰撫にしかならない。米国に注文を付けるならそれなりの脅しを使わないといけないのだが、日本は腹をすえているわけでもない。ちょっと気持ちの悪い言い方だが、田中角栄くらいの玉がいたら、中国を操ってできるかもしれない。が、それは夢想だ。
 私が是とする介入の臨戦態勢維持だが、正直言うとこれは、けっこう日本にきつい選択になるのか、よくわからない。無知をさらけ出すことになるかもしれないが、あえて言うのだが、日銀の大規模介入というのはマクロ的にインタゲと同様のエフェクトをもたらすのではないのか? 単純に言えば、無駄なペーパーマネーをじゃぶじゃぶと垂れ流せ、と。ただ、このあたり、デフレの根幹自体が円高かも、というのと多いに矛盾して大笑いかもしれない。
 冗談はさておき、現状、円高でびびる日本を狙って、投機筋から大規模な戦闘が起きるのから、それにはまいどまいど本気で水をかけたほうがいい、と思う。先日の「毎日新聞曰わく、溝口財務官は狂気の沙汰」(参照)では、私もそーかなとも思った。年末だったか年始だったか、塩爺も出てきて2003年の為替を議論する番組を見ながら若干考えを変えた。
 番組を見ながら気になっていたのは、溝口財務官の大規模介入の評価だ。番組は、どうも私のような素人では、エコノミストのヒドンコードによるメッセージが読み取れないのだが、概ね、「しかたないか、しかし、効かなかったな」ということのようだ。つまり、「効かせるようんするしかねーだろ」だ。という背景に塩爺がうまく説得を持たせる風でもあったが、あれっと思ったのだが、塩爺たちは円安ドスンの状態を誰が起こしたか犯人捜しをけっこうやっていたようだ。なにも私もその線で話に載るわけではないのだが、ようは、日銀自体も覆面介入なのだが、為替に意図をもって介入するタマは誰かが決定的な要因になりそうであり、そういうタマのアタマがなければ、小タマは国家的な介入でけちらすべし、でしかなさそうだ。
 この点はちょうど毎日新聞の視点と逆になる。毎日は日銀介入を批判する理由の筆頭を次のように言う。

第一に、介入で相場の転換を図ることは、プラザ合意などの例外を除けば不可能だからだ。大規模であるとはいえ一国で達成できると考えているのか。この先も巨額の介入を続けることは、むしろ、投機筋にドル売り安心感を与え、ドル安を加速しかねない。その結果として、同特会の含み損が増えることになる。

 違うだろうと思う。当面の問題は安定的な相場ではないからだ。ただ、問題は投機筋の規模にどこまで日銀が対抗できるかということだし、この日銀のボロボロな姿がどこまで各国にどのようにアピールされるかということでもある。そして、必然的な円安はそもそも阻止できないのだし、それに乗じた投機というのは、正当なものだ。
 気になるのは、そうした投機筋の規模なのだが、それらが小国を越えるのは当然だが、どのレベルになるのだろう。さらに変なことを言うのだが、その規模が日本を越えて、日本が撃沈されるということになるとすれば、それはそれで正しい帝国主義の進展なのではないか。それは、私は、100%ブラックジョークではないなと考えている。EUというのもそういう意味では通貨戦争の保護だし、オーストラリアやニュージーランドなどいずれ雌雄を付けなくてはならないし、なによりアジア諸国だ。と思うと、中国に下るわけにもいかないのだから、ニッポンは期待の星であるべきなのだろうな。

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2004.01.07

冬の沖縄 その2

 なるほど「東京ウォーカー」に綴じ込みの沖縄観光の広告が載っていた。紙質がいいので豪華な作りのようだが、いただけないな。広告主は内閣府。総費用は3600万円。それだけお金をかけるなら、沖縄の若い編集スタッフをごっそり東京に呼べよ、すげー面白いのができるから、と思う。
 「東京ウォーカー」には東京の沖縄料理屋の情報もある。めくりつつ、銀座にこんなに出来ていたのかと、少し驚く。料理はどれもたいしたことなさそうだなと思うが、ZENは、けなせない、すりの王様だしね。他、高円寺の抱瓶は写真で見ると、昔と変わってないみたいだ。あまりうちなーんちゅは集まっていないのではないか。総じて、「東京ウォーカー」に出ている店には、うちなーんちゅは客に来てなさそうな気がする。吉祥寺近鉄裏の「琉球」はどうだろうか。
 今、東京に出ているうちなーんちゅはどんな層になっているのだろうか。明治の一世から数えれば、四世、五世か。そうなればもう沖縄の文化から、とぎれているだろう。といって、島のほうでも復帰っ子の世代は、それ以前と文化的にとぎれている。それで沖縄の文化が失われてきているかというと、そうでもない。
 本土には沖縄好きが多い。沖縄通も多い。少し皮肉に聞こえるかもしれないが、現在、観光的なイメージで見せられている沖縄というのは、80年代以降、観光のイメージと共鳴しつつできたものなのだ。端的な話、それ以前のうちなーんちゅは泡盛すら飲んでいなかった。いや、泡盛は飲まれていたが今みたいな上品なものじゃなかった、と言えば、批判されるだろうが、戦後から復帰まではあめりかーの文化であり、戦前の沖縄はまた違ったものだった。
 「東京ウォーカー」のような「沖縄」は本土側のイメージなのだ。そういえば、本土では反戦ソングとして定着している「さとうきび畑」という歌があるが、あんな歌を知っている50代以上のうちなーんちゅはいないと思う。歌の意味も通じないだろう。あの歌に描かれた光景は、沖縄戦からはほど遠い。逃げまどう民衆は「夏の日差しのなかで」はガマに潜んでいた。そのガマで爆殺されたり、病で死んでいった。「鉄の雨にうたれ」というフレーズは沖縄タイムス社が1950年に出した沖縄戦記「鉄の暴風」の連想だろう。「さとうきび畑」という歌はメディアのイメージが出来ている。戦前にもさとうきび畑はあったものの、それが島の「基幹産業」となり、沖縄の風景になるのは米軍の施策の結果なのである。と、くさしたいわけではない。沖縄戦の実態とかけ離れた詩に酔うことは私は不愉快なだけだ。
 復帰っ子たちはある意味、不思議な新しい沖縄を作り出していく。その象徴は、「ちゅらさん」でお墨付きを得た、あの「やまとうちなぐち」だろう。あれならとりあえず、日本の方言にも聞こえるし、現地でも使われている。飲み屋のオヤジ役でも出ていた藤木勇人の指導によるものだが、あれだけでも日本文化史の偉業だ。そういえば、藤木勇人は映画「パイナップルツアー」で爆弾掘っていた彼である。
 話がそれた。「東京ウォーカー」の写真をぱらぱらめくる。「ごーやーちゃんぷるー」は正統。ちゃんとポークが入っている。チューリップ吉。SPAMじょーとー。スクガラスの豆腐は島かな? 「みぬだる」はちと違う。「なーべーらちゃんぷるー」とあるが「んぶしー」だろ、と思うが、豆腐が入っているのが「ちゃんぷるー」の定義であったか。ちなみに「そーめんちゃんぷるー」は「そーみんたしやー」だが、うちなーんちゅにも通じない。いか墨汁(さぎぐすい)はニラ入りかぁ。折り込みのほうのぐるくん唐揚げはじょーとー。この形でじっくり揚げてないと骨は食えない。「ニンジンしりしり」も今やメジャー料理かと思う。これは本土でも定番になっていい、と思うが、本土には、うちなーんちゅの家庭ならどこにでもあるしりしり器がない。
 うんちく臭いのでこの話はやめようと思うが、一つだけ泡盛のお薦めはしておきたい。いろいろ好みがあるだろうが、私のお薦めは八重泉の黒真珠である。泡盛は43度はないと味は出ない。迷うならコレを買え。飲むときは、うちなーんちゅのように水で割らないこと。「からから」を使ってちびちびと飲む。肴はなんでもいいが、「豆腐よう」吉。似ているからといって腐乳はだめ。「六十(るくじゅう)」なお吉、といって、うちなーんちゅでも知る人は少ない。
 冬の沖縄と言えば…雨期である。「東京ウォーカー」などを見て、行こう!と思った人は、天気予報にご注意。これから3月までは1か月以上、陽の目を見ないこともある。そして、意外に寒いこともある。12月22日は、正月。中華圏の春節に同じだが、沖縄では旧正月を祝う地域と、新正運動が行き届いた地域が分かれている。糸満も港のあたりは、しょーがちらしくてよい。この季節美しいものは、きび(さとうきび)の穂だ。これが夕日に映える光景は極楽のようである。ほかに冬の沖縄でなにか忘れたかと、うちなーんちゅうに訊いてみる。
 「あのさ、ふん、これからおきなわに行って、でーじ面白いもの、何?」「桜」……。そうだ、緋寒桜があった。が…あ、すみません。これって本土の人が見ても、美しいものじゃありません。それでも、うちなんちゅーに連れられて北部に行くときは、路脇でタンカンを買うといい。個人的にはクガニ(黄金)のほうを薦めたいが、種が多い。

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お馬鹿な日本版ニューズウィーク編集長コラム

 たぶん、ジョークじゃないんだよなと思うので、標題を「お馬鹿な日本版ニューズウィーク編集長コラム」とした。こんな人を貶めるような標題付けるなよであるが、意図的にそうする。日本版ニューズウィーク編集長がこれじゃ困るからだ。米版のザカリアも最近はすっとぼけてきたが、お馬鹿ではない。いや、極東ブログさん、おめーさんのほうがお馬鹿だよ、というのがわかれば、撤回したいのだ。むしろ、早々に撤回したいくらいだ。それが理解でないで、自分の馬鹿を晒しているなら私の知性の限界はここまでである。
 で、なにか。日本版ニューズウィーク編集長藤田正美のコラム「おかしな日本の安全保障感覚」の次のくだりをまず読んでもらいたい(参照)。


 自衛隊が派遣されるのは、簡単に言ってしまうと「石油」のためである。日本にとっては最も重要な二国間関係である日米関係のためでもあるが、それでも日本がこれほど中東の油に依存していなければ、わざわざ国内の反対論を押し切って自衛隊を派遣したかどうかは疑問だ。

 おい、そーなのかよ、である。そして、これを読んで私は、おめーさん、馬鹿?と思ったのだ。
 少し回り道で引用する。

 かつて湾岸戦争のとき、日本の中東原油依存度は約70%だった。それだけにアメリカから「日本のために戦ってやっている」などと言われて、当時1兆7000億円もの資金を拠出した、というより事実上拠出させられたのである(それでも「カネは出すが血は流さない」と陰口をたたかれもした)。

 なんだそれ。つまり、藤田の頭のなかは、「日本のエネルギーを支えるのは石油。そして、中東原油依存度は約70%と大きい、だから中東の石油のためには、米軍の尻にのって中東の石油を抑えておかなくてはならない」ということだ。もしかすると、藤田ってインリンの着ぐるみか?
 思考が間違っているのではないか。日本の中東原油依存度というのは、日本が購入している石油の内訳を見たら、「あれま、中東が70%なんですね」というだけの話で、直に中東から買っているのではなく、単なる石油マーケットから買っているだけ。もっとも、石油マーケットの大半は中東でしょやっぱ、となるかもしれないが、それにしたって、マーケットが維持されればマーケットはマーケット原理で動くのだから、石油は日本に調達される。つまり、石油のために米国が戦っているのでもなければ、日本の自衛隊も石油のために中東に行くではなく、石油のマーケットの維持でしょう。そして、石油のマーケットというのは、他の商品と同様の世界マーケットの副産物であり、むしろ優等生的な商品の一つに過ぎないではないか。なにより、この国際マーケットが維持されることが世界平和っていうことじゃないんですかい。
cover
世界を動かす石油戦略
 なんだか、「世界を動かす石油戦略」(ちくま新書)を読めよ、というだけの話になりそうだが、ふとアマゾンの評にこの本のくさしが載っているかと思ったら、なんにもなかった。誰かとんちきなくさしがいたほうが、少しはメンタルトレーニングにいいくらいなのに。
 ついでなんで、もうちょっと極東ブログらしい、悪態をついておこう。イラクの石油が正常な国際マーケットに載れば、サウジは頓死だよ。難しい話は抜きにして、さっさと近代化が前進する(俺ってネオコン?)。

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社会の男女差別は問題だが…

 朝日新聞社説「男女差別――和解は大きな前進だ」を読んで複雑な気持ちになった。極東ブログ毎度のくさしをするつもりはない。この手の問題は無視するほうがいいのかもしれないとも思う。ただ、自分の心のなかのもやっとした気持ちに向き合ってみたい。またしても私的な話かよと、言われるかもしれない。そうなのだ。ごめんな。
 社会問題としては表面的にはそれほど難しくはない。朝日社説のきっかけも単純といえば単純だ。


 「女性であることを理由に、昇進や昇給で不当な差別を受けた」。住友電気工業の女性社員2人がこう訴えて、同社と国を相手に損害賠償を求めていた8年越しの裁判が、大阪高裁で和解した。
 会社は50代の原告2人をそれぞれ課長級と係長級に昇格させ、500万円ずつの解決金を支払う。国は実質的な性別による雇用管理をなくす施策を進める。そんな内容だ。一審判決を覆す事実上の勝訴である。働く女性たちは、大いに励まされるだろう。画期的な裁判所の判断を評価したい。

 裁判としては当然の結末ではないかと思う。朝日は後続段で昇級に踏み込んだ点を評価しているが、今回の裁判のポイントはそこだろう。国への施策にも踏み込んでいるように、会社内での女性差別の問題は金銭の問題ではなく組織の問題とせよということだ。当たり前のことだ。
 この判決の影響で住友電気工業は他に4人の女性を昇級させたという。それも当たり前といえば当たり前のことだ。だが、と口ごもるのだが、庶民の感覚としては、朝日のように威勢のいい正義のラッパを吹いて済むことでもない、と苦笑話になるのではないか。些細なことだが長年の差別に500万円の解決金が見合うのかわからないし、そうして昇級した人がやっていける人事を持てる大会社っていいな、呑気だな、と大衆の標準は思うのではないか。私のようなスネ者でも、娑婆ってそうじゃないよということくらい知っている。
 娑婆の会社は女性にさらに厳しいかというと、そうとばかりも言えない。というのは会社の競争生存の原理がキツイから、有能な女性をタメておくことなどできない。大会社を呑気だと思うのはそんなところだ。社会学的に補強できるかわからないが、私の世間知からすれば、能力のある女性はその能力に腹をくくれば30半ばで社会にきっちり生きる。日本にはそういう能力主義がある。馬鹿なと非難するやつがいたら、少しばかり中年男のドスを効かせて「そういうもんだよ」と言ってみたい。
 もちろん、そんなことが本質的な解決になるわけでもない。なにより、女性の一生でそんな腹のくくらせを迫るというのはどういう意味なのか、実はよくわらかない。男はといえば、ある意味もっと苛酷な状況に10代くらいから腹をくくっているものだ(ああ、俺の人生なんてこんなものだなぁ、いい天気だな今日も、という感じである)が、問題は、そういう内側の腹のくくりではなく、イヴァン・イリーチのいうシャドーワーク的なもの、なんて気取ることもあるまい。端的に、中年に至る時期の家事育児の問題だ。
 中年までフェアに男が生きてみれば、社会の仕事のきつさというのは家事育児のきつさと同じくらいものだ。若いころの「恋愛」のなかで密かに誓った思いというのは、端的に家事育児のきつさにも耐えようという決意であるものだ。昨今、恋愛難民だの恋愛なんかいらないと吹聴するヤカラがいるが、ふざけんなよ、男の純情なくして家事育児の修羅場は耐えねーよ、と思う。
 だが、それに耐えようとしても、男は無力なものだし、また、その無力を覆うように日本の会社社会ができていた。と、甘えんじゃねーと言われるかもしれないが、率直言うのだが、男はたいていそんなに強かぁねーよ。
 日本は絶対的には貧しい社会ではなかったが、相対的に貧しい社会だったので、家庭の収入が家庭の運営の一義的なモチベーションになっていた。だが、それはあくまで相対的な貧困であって、絶対的な貧困ではない。その分、家庭はフィクションにならざるを得ない。稼ぐ旦那と主婦というフィクションで、それにがんばる子供を加えてもいいかもしれないし、少しエコや市民運動的なフレーバーを付けてもいいかもしれない。消費を増すことで相対的貧困のスレショルドを高めてもいいかもしれない。いずれ、フィクションだから意味がないのではなく、フィクションだからフィクシャスにその姿は変わるというだけだ。現代の離婚などもそういう普通のフィクションの変奏でしかない。今その相対的な貧困をパラメーターとするフィクションは、多様ではあっても、すでに男を守らない形態になっている、と思う。
 話が曖昧になってきたが、現在大手の呑気な会社や公務員はさておき、女性の社会評価を根本で狂わしている、男のその無力感の回避メカニズムはもう機能しなくなった。以前も十分に機能していたわけではないが、隠蔽するだけの相対的な貧困があった。今は男の無力はうまくサポートされない。もっとも、それでも、女のように腹をくくるかという切羽詰まったものもないから、甘チャンであるとは言える。
 と書きながら、そんな濃い世界自体、若い人間なら、男も女もパスしてしまいたくなるだろうなと思う。私としては、パスするなよと言いたいが言えるほどでもない。ついでにに、今朝の朝日新聞社説「ちょっと元気に――京の町家に住む新鮮さ」では若い世代が古い町に生きるみたいなことを美談仕立てにしているが、30代前半の子供のない夫婦二人だけの生き様など、あえて言うが、どうでもいいことだ。
 話が重くなったので、先の朝日の社説の結語でも笑い飛ばして締めよう。

 どの企業も労組も今回の和解の意味をかみしめてほしい。日本では、まもなく労働力が不足する。年齢や男女を問わず、一人ひとりの意欲と力を生かす。そういう職場にしなければ、会社は生き残れない。

 けっ、朝日の労組さんたち、ご勝手に。

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2004.01.06

景観が問題ならまず標語の立て看をはずせ

 本題前にちと横道。朝日新聞社説「ちょっと元気に――跳んでみよう団塊世代」がすごい話だった。高齢化を向かえる団塊の世代に頑張れというのだ。もちろん、それ自体はどうっていうことではない。


 「ぬれ落ち葉」なんて言葉がはやったのは、バブル景気のさなかだった。定年後の亭主は、ほうきで掃き出そうにも、女房にへばりついて離れない、と。
 バブルがしぼんで、気がつけばサラリーマン受難の時代。定年後どころか、まずは会社にへばりつくことが先決、といった気分が世の中を覆う。

 え? 団塊の世代って男を指すのかとまずツッコんでおこう。そして、「挑んでみよう」として新たに事業を起こしたい人たちはどうすればいいかについて、杉本さんというかたのアドバイスを4点挙げているのだがこれがすごい脱力もの。

  1. 1、2年分の生活費を準備
  2. 生活費と事業資金を分ける
  3. 家族の理解を得る
  4. 何事も楽天的に考える

 杉本さんというかたはそれでいい。がこれを社説の記事として書いた執筆者を早期定年させて娑婆の空気を吸わせろよと思う。この話題はこれで終わり。
 今日社説であれ?っと思ったのは、日経新聞社説「にっぽん再起動(最終回)子孫に誇れる美しい国土をつくろう」だった。といっても、この社説の内容自体は標題から連想される以上のことはなにもない。私が変な感じを受けたのは例えば次のようなくだりだ。

議事堂の景観問題は日本の都市計画の貧困を象徴している。日本人は欧米の街の美しさに驚く。古城や教会などはもとより普通の商店街や住宅までが美しいのは、都市計画に基づいて質の高い景観を維持しようと地元が努力を続けてきたからだ。

 私は欧米の街に深く馴染んだことがないので、嘲笑されてもかまわないのだが、端的に問う、「日本人は欧米の街の美しさに驚く」か? 普通の商店街や住宅までが美しいか? なにか勘違いしていないか。もちろん、感性の問題かもしれないのだが。
 関連してこれも私は変だと思う。

日本もかつては美しい風景を誇る国だった。家々の落ち着いたたたずまい。緑あふれる街並み。日本の情緒を映す風景は戦後、次々と姿を消した。街はコンクリートで固められ野山を公共事業が蹂躙(じゅうりん)した。無計画な東京一極集中と、地方の過疎化に拍車がかかった。

 本当か? この文章を読むと戦前の風景は美しいというのだから、執筆者は何歳だ。戦時の国土を美しいというわけもないとすれば、昭和15年以前か。すること執筆者は70歳。老いのたわごと? もし、経験者でないなら、その風景とやらはどこから来たか? メディア? すでに現実と幻影の区別が付かないのか。
 と、皮肉るわけでもない。こうした日本の景観論はおかしいのではないか。つまり、欧米は美しい、日本の戦前は美しい…。
 私としては、率直に言うと、そんなこともどうでもいい。新潮「考える人」連載中島義道を真似るわけではないが(参照)、日本の景観が美しくないのは、まず、街に溢れる標語の立て看などはないのか。ドイツ人の若いお姉さんだったが、「目の侮辱」と書いていた。
 美観というのは、多様なものだ。比較的最近のニューズウィークの日本語版だったが(と探す手間を省くが)、日本の都市の夜景の美しさを賛美している外人がいた。他になんだったか、日本の文字に埋め尽くされた繁華街に奇妙な美観を感じている外人もいた。なるほどと思うかよけいなお世話と思うか。
 個人的な思いを少し書いて、今日は終わりにしたい。中央線で荻窪あたりから新宿までの高架で街を見ていると、私は東京というのはスラムに見える。だが、あの赤さびのような家々とその路地には、舞い降りて見れば、奇妙な秩序が存在していて不思議な宇宙を形成している。次の震災で一掃されるのだろうが、火災と流言飛語がなければ、このスラムのほうがはるかに安全なのかもしれないとも思う。美しい光景とは思わないが醜いとも思わない。ある生物のある最適な生息の形態かなと思うし、それには関心を持っている。いつもあそこを電車で通るときは、昔の子供のように、私は電車のガラスに額を押し付けて飽きもせず見ている。

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2004.01.05

[書評]芸者(増田小夜・平凡社ライブラリー)

cover 私はよい書評家ではない。駄文を書く。よい読書家でもない。私は若い頃は自分を読書家だと思っていた(渡辺一夫全集とか読んでいたし)が、歳を取るにつれ、そう思わなくなった。実際、たいして本は読んでいない。恥じる。それでも、本を読むことは生きる上でなんとも、のっぴきならぬことにはなった。このあたりの思いは、人それぞれ多様だろうが、それでも本に取り憑かれた人生というものがあり、私もその一人のはしくれではあるのだろう。
 くだらない話だが、本に憑かれた人間は人口の1%くらいだろうか。日本人1億2千万人だから、1%でも100万人を越える。そんなにいるわけはない。まともな本の出版部数は3千程度である。資本主義の天国と地獄のアマルガムで出版人の魂を塩梅よく苦悶させる数値だ。山本夏彦が言うように本というものには困ったことにいくばくか魂が籠もる。魂が強く籠もれば読まれて千人。その千人が数分野生息して、日本の読書人の多層的なコアになっている。このコアは強い。李登輝が日本には読書人がいることに羨望していたが、わかる。このコアの層の支持に図書館と大学の買い上げが底上げして、なんとか日本の出版界のまともな部分が支えられている。底上げには副作用がある。岩波と朝日新聞だ。緩和な副作用が三省堂や紀伊国屋か。ここで苦笑するあなたも、本に人生が狂った人かもしれない。
 そうした魂を持つ本なかでも、さらに磨きがかった本がマレにある。古典と言うには偽善臭いのだが読み継がれる本だ。本書「芸者」はそうした珍しい一冊だ。
 本の説明としては芸がないが、アマゾンの説明を引くとこうだ。もっともこれを引くにはわけがある。この評はつまらないのである。本書の面白さはそこにはない。


「芸者」増田小夜
幼くして芸者に売られ、戦中戦後の混乱期を生きた女性の数奇な半生。一見華やかな芸者という職業の陰に隠された近代民衆の苛酷な生と、そこに息づく力強い魂の姿を描く。1957年刊の増補改訂。

 これで間違いはないし、そう読まれてもきた。「数奇な」という表現に逃げがあるが、従来は悲惨な女性の自伝として読まれていたようだ。
 初版は1957年、平凡社。その後の詳しい出版の歴史はわからないが、2版は1973年らしい。その後、1980年にほるぷ自伝選集/女性の自画像18で出ている。1995年に現在の平凡社ライブラリー版がでる。
 この事実自体が私の人生に符丁するところが多い。作者増田小夜は1926年、つまり大正14年生まれだ。私の死んだ父は大正15年生まれなので、増田の人生の時代風景は、私にしてれみば、父を回想するに等しい。そして私は本書が出た1957年に生まれた。本書の自体、私の人生の想起に等しい面がある。
 1957年、つまり昭和32年に本書が出ると、ベストセラーと言えるのかわからないが、強く社会に受容されたようで、昭和34年には増田の半生の自伝である本書をネタに映画「からたち日記」ができる。この映画の詳細情報はgooでわかる(参考)。あらすじもgooに掲載されているのだが、話は物語風に脚色されている。漫画の「ブラックジャックによろしく」とテレビ版ほどの違いではない、と言えないのかもしれないが、芸者は悲惨、恋いに生きるは良し、でも女は自立する、というわかりやすい仕立てになっているようだ。私はこの映画は見ていない。他にもテレビドラマ化されているようだ。
 私がこの本「芸者」を知ったのは、中学生時代だったか、たまたまテレビの高校通信講座現代国語でこれを扱っているのを見たためだ(私は教養番組を片っ端から見ていた)。テレビでは、直接「芸者」を取り上げていたのではなく、臼井吉見が薦める三冊の本というようなエッセイだった。後の二冊は忘れたが、「芸者」だけはなぜか心に残った。
 テレビで紹介されていたのは、「芸者」の子守の部分だ。主人公の増田は物心ついたとき、長野県塩尻に近い村の地主の家で子守をしていたのだが、その陰惨な描写だった。子守をしながら素足が凍えるので片足ずつ交代している様子から彼女は「つる」と呼ばれるという話だ。描写力もすごいものがあった。
 臼井吉見の話では増田が文盲であったことが強調されていた。言葉が書き下せなくても、強い心を持てば真実の文章が書ける、といったような内容である。中学生の私のことである。それを鵜呑みにした。
 高校生時代の私は「芸者」という本が読んでみたかった。もともと臼井が高校生に薦めた本でもある。探したが無かった。臼井としては1973年の2版の出版状況を見てエッセイにしたという面もあったのだろうが、私が知ったのはちと遅かった。確か、浪人のときだったと思うが、私は国会図書館に行き、自分と同じだけの年数を重ねたその初版本を手にして、読んだ。といっても読んだのは始めの部分だけだったので、なるほどこれは悲惨な、しかし感動的な物語だと思った。また、いつか国会図書館で読もうと思ったものの、時を経て私は30代も過ぎた。
 少し脱線する。私は「おしん」は「芸者」のパクリではないかと思う。もちろん、昨今はやりの剽窃といったものではまるでない。「芸者」の大衆受けの部分をその時代にアレンジしたのだという意味だ。おしんの放映は1983年である。ほるぷ自伝選集の「芸者」1980年と妙に合う。話のうち、貧家に生まれ、親から離され、金持ちの家の守りとなり、盗みの疑いを着せされる、という点はまったく同じだ。もちろん、パクリでもないのかもしれない。それはそれでたいしたことではないのだが、おしんと「芸者」では決定的な違いがある。おしんでは親がおしんを愛しつつも奉公に出すのだが、「芸者」ではただ売られただけでその親には親心のかけらもないのだ。虐待も「芸者」では極めて性的もので、これでPTSDにならないとすれば、現代のPTSD問題の解決のヒントはこの本にあるかもしれないという悪い冗談を言いたくなるほどだ。
 おしんの話は、生長の家の信者にしてヤオハンの和田一夫の母カツ(ちなみに生長の家の信者はこの母ゆずり、つまりおしんは生長の家信仰なのである)がモデルなので、時代的には増田より一世代上になる。私の考えからすれば、親子の情なんてものがその時代にあったのか疑わしく、「芸者」のほうにに歴史を感じる。さらに余談だが、海外で「おしん」が受けるのは少女編だけ放送しているからだ。あの物語が受けるアジアと開発途上の状況には一定の条件があるのだろう。
 話を戻す。私は1995年版で始めて「芸者」を読み通した。すばらしい人間の書であると思った。そして、この正月読み直した。まったく感想が変わるというわけではないが、印象はだいぶ変わった。むちゃくちゃ面白く、痛快だった。
 この本の愛読者に石を投げられるかもしれないが、私はこの本は、ピカレスクであり、エロッティックな書物だ思う。なにも本のタイトルが芸者だからエロティックというのではない。内容が、とても、よいのだ。カウパー腺液にじみ系ではないし、もともとその手の直裁なエロ話は私は好みではないのだが、よいのである。これに比べれば、団鬼六なんかふざけたレトリックである、というくらい、ぐっとくる。もっとも、そっち系の人だとねっちり感が足りないだろうが、私はそんなのいらんわい。
 こう言っては人非人だが、とにかく痛快なのだ。この面白さはなんだろうと思う。主人公は、身請けの老人に向かい、自身を「底意地の悪い人間」だと認識するのだが、そうなのだ。この人はいい意味で本当に底意地が悪い。そして、46歳の男として思うのだが、そういう19歳の女とはなんと魅力的なことだろう。
 本書の増田の大活劇は、ハイティーンから20代の話なのだ。若い女とはこういう存在だったのかと驚く。かつて自分が若く、同年代と思っていた女たちにも、この本性がひそんでいたのかと思うと、打ちのめされて立ち上がれない。
 極め付きのシーンは、木登りの上からの放尿だ。おっと、これは増田ではないのだが、そのあたりは読むかたの楽しみに。それにしても、こんな爽快な映像はないんじゃないか。なぜ、この本から爽快なピカレスクな映画ができないのか、と思う。崔洋一なら出来るか。ちっと重たいか。
 「芸者」では、歴史の微細な話も、めっぽう面白い。彼女と戦争の関わりの薄さということ自体も面白い。同時代書だけが告げる面白さでもある。そして戦後の朝鮮人コミュニティの生き生きした様もいい。初の女性参政権の選挙の「やまむらしんじろう」も胸につまる。男、山村新治郎、は、1992年に娘に刺殺されてしまったな。
 「芸者」を読みながら、最後に追加のようについている彼女の童話が、彼女の半生と日本の女の歴史の無意識を奇妙につないでいる。なんとも不思議なものだ。
 芸者世界についても、本書だけでもいろいろ重要なことがわかる。これを丹念に読めば、小谷野敦のような恥はかかずにすむだろうなどいう軽口はいけない。彼もこの本は読んでいるのだし。
 本書の舞台諏訪は、芸者の世界では本流ではないのだろうが、もともと芸者の歴史は江戸吉原が中心というわけではない。むしろ、續近世畸人傳に描かれている三國の哥川のような像のほうが重要ではないかとも思うが、本書「芸者」の世界も芸者についての一つ重要な歴史モデルにはなる。それにしても、「玉(ぎょく)」「お茶を引挽く」「左褄」といった言葉がこの本「芸者」ではなんの注もなく書かれているが、現代では多少注を付けたほうがいいのかもしれないと思う。
 正月にこれを読みながら、以前にも増して、増田が信州人であることがわかった。私には、会話のなかの信州方言がまるでナマのトーンで耳に迫る。なんてこったと思う。が、ふと、ああそうか、臼井がこの本に惚れた理由もわかった。臼井もまた信州人であったのだった。

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いやそれなら、信濃国

 共同のニュースを引用する。「『信州』への改称検討 田中康夫長野知事」というニュースだ(参照)。


長野県の田中康夫知事は5日の仕事始め式で、長野県から「信州」への改称を検討していることを明らかにした。理由として「『信州』は既に認知され、評価されている」などと語った。

 ひぇ~である。やるなぁである。そんなの他府県人にはまるで関心なかろうが、それこそ信州人の悲願でもある。信州ナショナリズムの泣かせ所を突いている。それをやったら、私ですら、ヤッシー贔屓になってしまうかもしれない、と、理性が飛ぶ。いやそれなら、信濃国のほうが…とか。ああ、海こそなけれ物さわに、よろず足らわぬことぞなき、である。かくいう私はディアスポラの信州人でもある。この関連は「トラジ、トラジ」(11.20)や「仁科五郎盛信を巡る雑談」(11.02)など。
 長野県人は他府県人には「長野県人」というが、内心では「信州人」だと思っている。沖縄県人と「うちなーんちゅ」みたいなものだ。もっとも、若い世代はそうもいかないのだが、それを言えば、キムチを食わない韓国人だっている…てな話になる。
 しかし、そういう信州というのは、実は近代の産物でもある。信州は、もともとは、中世イタリアみたいに、小国家的な14藩が盆地を中心に寄り添っていただけだ。信濃の国はじっしゅう(10州)にぃ、である。
 大政奉還、明治になってもまだ当初は長野県と筑摩県に分かれていた。このほうがまだ自然だ。だが、明治政府は長野を県庁所在としたことで、勝手に長野県にまとめてしまった。信州人が合点したわけでもない。ヤッシーの今回の方針は象山佐久間先生の信州人の遺恨でもあるのだ。
 「長野」県がなんとか持ちこたえていたのは、県庁所在地にある善光寺がけっこうキーになっている。あれは、信州をイタリアに例えればローマのようなものだ。あれを県庁に抑えられているのでしかたがない、というのは冗談だが、善光寺は信州の象徴でもある。ディアスポラの信州人でも一生に一度は善光寺参りをしなくてはならないし、一日五回の聖地礼拝は欠かせない。冗談です。
 長野県が信州になるなら、ついでに、あの「野沢菜」という醜い名称も止めて貰いたい(製法も昔のように塩漬けだけにせよ)。「野沢菜漬け」など論外である。「な」でいい。「お菜」というほうが信州人らしい。「お葉漬け」もいいだろう。正しい食べ方は、お茶を飲みながら食べるのである。お茶といっても、普通の茶ではない。茶にも信州人の作法があるのだ。伝授しよう。急須に一度番茶を入れる。この先が難しい。そのまま十煎を越えようが茶葉を変えてはいけない。これが極意だ。それではお湯ではないか!と批判してはいけない。そして、相手の茶碗に湯、もとい、茶がなくなったら、さっと継ぎ足す。これが信州人の礼儀でもある。
 信州人は政治的な民族でもある。こたつに足をつっこみながら、そして若者は政談を交わし、老人は「たくらねごと」と呟く。いいぞ、そうではなくては信州人とは言えない。
 長野県が信州に改名したら、今度は「ずくなし追放運動」を推進してもらいたい(ディープなジョークですみません)。

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新聞社説という不快

 今日は新聞各紙社説の話題を散漫に取り上げるので、テーマは薄いのだが、共通したモチーフはある。不快ということだ。新聞社説が実に不快だ。私的なことかもしれない。そのあたりの感覚がぶれているのか書いてみたい。
 毎日新聞社説「『夢見る力』を取り戻そう 世代超える価値を求めて」はいきなり終戦時の河井酔茗の詩で始まる。あえて散文ふうに冒頭を引用する。「子供たちよ、お前たちは何も欲しがらないでも凡てのものがお前たちに譲られるのです」終戦の気の迷いをさっ引かなくてはいけないが、それでもこの詩は愚劣だ。この詩を枕にして、毎日は「いったいその私たちは子供らに何を引き継ぐことができるのだろうか」と問う。そんなスタイリッシュな悩みを見せつけられれば、「ふざけんな全共闘世代氏ね」と言いたくなる若い世代の気持ちもわかる。かく言う私も同じムジナで同じ唄を歌っていたのだろうか。次のような毎日の言い分は私には傲慢に聞こえる。


民主主義とは、今生きている人の投票による子孫への独裁である。子孫の将来は、現在の有権者の想像力のなかにある。それはなにも経済の成長力の見通しや、国民負担率の推計といった数字で表される指標のことだけをいっているのではない。今現在のわたしたちの暮らしが、どのような未来への夢や理想によって支えられているか。それが子供らの運命を決めていくことをいいたいのだ。

 「逝ってよし」としか言えないな。この毎日のボケかげんはなんだろう。むしろそこのあるのは絶望なのだが、と思い起こす。柴田翔の「おまえ文学やめていいよ」を決定づけた迷作「ノンちゃんの冒険」に哲学さんとかいう登場人物がいて、次世代に絶望するとはなんとは傲慢なことか、と諭す。それだけは正しい。毎日新聞社説のように剥きだしの傲慢さより絶望のほうがましなようだが、絶望というものは私や私の世代が自らの鏡として抱きしめてこの世界から消えていけばいよい。毎日新社説の了見とは違い、私たちの夢が子供たちの運命を決めることなどできない。だが、新しく生まれてきたものの新しい希望を否定することもできない。もっともそんな一般論など要らない。古い世代がかろうじて出来たことが絶望に至ったにせよ、それが歴史のなかにどのような勇気を刻んだかが重要だろう。「プロジェクトX」のような美しい「物語」が慰撫でしかないのは、悲劇に向かうという真の勇気を暗示しないからだ。なにも悲劇に向かえというのではないのだが。
 読売新聞社説「決断の年 テロ撲滅なしに平和はない 正念場のイラク再建」は標題を見るだけで、儀礼的無視より、疲労を最小限減らすために無視すべきかもしれない。テロなど撲滅できないよ、それが新しい世界の基礎なのだから。しかし、私は責務のようにこの社説を読んだ。不快ではあるが、ふーんという感じもした。ナベツグラッパは執筆者の上で雑音に鳴っているのかもしれない。というのは、「テロ撲滅なしに平和はない」とはこの社説は言ってないのだ。小見出しをまたいで変な引用になるが、文章がもともと変なのだ。

 日本は、米英への支持を表明し、軍隊を派遣した他の約四十か国とともに、フセイン政権の崩壊後、イラクの復興支援の一翼を積極的に担っている。
 【急務は民生の安定化】
 この有志国家連合にとって、イラクの再建は、共通の最優先課題である。テロの温床化を防ぐことが、テロ撲滅にもつながる。

 引用が変になったのは、高校現代国語的に「この有志国家連合」の「この」が何を指すかがよくわからないからだ。現代国語的には、小見出し前の一文が答えなのだろうが、もちろん、答えになっていない。この奇っ怪な文章は、ようするに、「有志連合がイラクを再建することでテロを撲滅する」とは言えないので、いくらラッパが鳴ってもねじれたわけだ。記者の最後の良心か。それでも不快で愚劣なしろものなのだが、問題はむしろ、「有志連合」だ。イラク派兵問題は喧しく議論されるのに、有志連合についてきちんと議論されているのを私は見たことがない。私の見識が低いだけかもしれないが、Foreign Affairsの解説でも十分ではないと思う(参照)。この問題も極東ブログで十分に扱ってはこなかったなと思う。
 余談めくが読売の次の見解はどうかしているんじゃないか。

北朝鮮が、核兵器の量産と小型化に成功すれば、日本は、核搭載の弾道ミサイルの脅威にさらされることになる。

 これも私の見識が低いのかもしれないが、その脅威こそもっとも現実性のないものだと思う。あるいはそういう読みがすでにこの一文に含まれているのかもしれない。つまり、現状のテポドンは弾道ミサイルの脅威ではない、ということだ。そして、あの国力と中国依存の状況で「核兵器の量産と小型化に成功」するわけはないと私は考える。
 不快な朝日新聞社説も笑って終わりにすべきかもしれないが、よく読むと「京都議定書――発効を待たず前に進もう」は見過ごすにはあまりに変だ。

 「まず先進国が削減の義務を負い、将来、途上国が続く」という形は、長い交渉の結果たどりついた基本的な合意だ。先進国が約束を守らないまま、途上国に義務を強いることは現実的でない。議論を振り出しに戻すのではなく、まず議定書の枠組みを始動させる。途上国の参加をめぐる本格的な議論はそれからだ。
 途上国が削減を達成するための手助けを待っていることも、忘れてはなるまい。
 途上国の温室効果ガスの排出は2010年代に先進国を抜くともいわれる。とりわけ中国では過去20年間に二酸化炭素排出量が2倍になり、いまでは世界の14%近くを占める。2020年には車の数が現在の8倍に増えるという予測もある。先進国は中国をはじめ途上国と燃料電池など最新技術の協力を早く進めるべきだ。

 不快という点を除いて、この文章はなんなのだろう。中国寄りの朝日新聞という修辞なのはわかる。だが、背景に京都議定書はダメかもというトーンがあるのではないか。つまり、本音ではダメだけど、それをなんとか政治的に使えと。実は私はそういう発想は悪くないと思う。私もあの議定書はもうしばらくアメリカをこづき回す道具にだけ使えばいいと思う、が、あれでマジで中国による地球環境の悪化を防ごうと考えるなら、それは全然違うのじゃないか。このあたり、外交上の政治のツラと、本当に地球環境をプラクティカルに分ける冷静さが必要だ。朝日に食い込んでいる山形浩生は力を持ちつつあるだろうか。ただ、ちょっと気になるのは、山形に世界というものの認識があるだろうかということだ。浅田彰のように世界認識があっても向きが違うというのも困るのだが。
 朝日の社説のもう一点「ちょっと元気に――変わらなきゃ老人クラブ」にも触れておく。問題は、高度成長時代にマイホームの夢として施策された当時の大型新興住宅(兎小屋)の高齢化問題だ。この社説は、統計も示さず、「変わらなくていけない」と放り出している。不人情極まるし、もともと朝日にそんな見識もない。そんなものだろうが、気になるのは、この手の問題が社会的に取り上げられるとき、その解決とされるような例がすべて頓珍漢に見えることだ。私は正攻法を見たことがない。
 繰り返すが、昭和30年代から40年代にできた大型新興住宅の高齢化問題について、社会学的な施策として取り組んだ論説はないのだろうか。というか、社会学を応用してみせてほしいと思うのだ。
 私の個人的な勘で言うのだが、この問題はその住宅の一部や近隣に大型マンションを造ることではないか。そうすれば二世代の小型の内部化された村ができる。この点は、もう少しくだいて説明すべきかもしれないが、今日はここまでにしたい。

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2004.01.04

なぜフランスはスカーフを禁止するのか

 昨年、フランスのライシテ(非宗教性)について書き忘れていた。フランスでは日本同様信教は自由であるが、同時に憲法で「非宗教性」が明記されている。端的に言えば、フランス国家はまったく諸宗教から独立していなくてはならない、ということであり、そのことから公共病院や公教育において、宗教性が厳格に排除される。そこで、昨今の問題となっているのが、イスラム教徒の女子学生のヘッドスカーフだ。単純な話では、学校ではスカーフをしてはいけないということで、それに反対する生徒が退学処分にされたりした。この問題はイスラム教徒から猛反発を受け、社会問題になったのだが、年末シラク大統領は法制化を決断した。
 ニュースは、仏国家功労章を受章した山口昌子を抱える産経のニュース「公立校のスカーフを禁止 宗教色排除で仏大統領」が、国家寄りではあるものの、適切だろう(参照)。


 フランスのシラク大統領は17日、大統領府で国民向けに演説し、公立校でイスラム教徒の女子生徒がスカーフを着用することを法律で禁止するよう求めると発表した。
 11日の諮問委員会の答申などに沿った決定で、宗教色を排除し「共和国の価値」を再び強調して国民に結束を訴えるのが狙い。17日付のフランス紙パリジャンが掲載した世論調査結果では、スカーフ禁止の法制化に国民の69%が賛成、反対の29%を大きく上回った。イスラム団体をはじめ、宗教団体や与野党の反応もおおむね肯定的だ。

 記事からはイスラム団体が肯定的だとしているが、それは一面事実なのだが、別の側面では国際的な反発も強い。そのあたりは、ロイターの「フランス、スカーフ着用禁止に数千人が抗議デモ」(参照)などのニュースから伺えるが、この件でイラクなどもフランスに激怒していたと聞く。
 この問題について、日本のおフランスな哲学者はどう考えているのか意見を聞いてみたいものだが、実はこの問題はすでに湾岸戦争の時にある程度色分けはできている。ちなみに今回はジュリア・クリステヴァは断固非宗教性支持に回った。また、おフランスではないが、エドワード・サイードを担いでいた日本の知識人はなんというだろうか。サイードの世俗性とフランス国家の非宗教性を混乱するという珍妙な絵が期待できたら愉快だ。それでも、なんとなくだが、日本の知識人は宗教の自由の観点からイスラム女性学生のスカーフを認可しろとでも言うのではないだろうか。フェミニストはスカーフは性差別だとか言うのだろうか。イラクに行って言ってきな、であるのだが。冗談はこのくらい。
 シラク大統領の発言のニュースでは、ロイターなども含めて、目立たない程度の宗教的な象徴の着用はよしという点が強調された。先の産経のニュースでもそうだ。

 大統領は「イスラム教のスカーフやユダヤ教の帽子ヤムルカ、キリスト教の大きな十字架は公立校では受け入れられない」としたが「目立たない小さな十字架やバッジ、(ユダヤ民族の象徴)ダビデの星などは認められる」と述べた。

 じゃ、イスラム教徒女子学生だってミニコーラン(というものがある)をアクセサリーに付ければいいじゃないか、という頓珍漢な議論が出てきそうだ。似たような誤解は、現地で暮らしている日本人にもあるようだ。なにも非難しているわけではなく、よくまとまった記事で情報を提供してくれているのは評価するのだが、メールマガジン「フランスの片隅から」2003.8の「イスラムのスカーフ」(参照)を例にしよう。やや引用は長くする。

 フランスに来たばかりの頃(1997年)、私の頭にあったのは政教分離=公の場ではいかなる宗教的シンボルも着用してはいけない、でした。だから、大学図書館の窓口業務をしていたお姉さんが、タートルネックのセーターからわざわざ十字架を出して身に付けているのを見たときは、本当に驚いたものです。
 語学クラスで一度この話題になった時、ライシテ(非宗教性)がすべての宗教を否定するのでなく、すべての宗教を尊重する考え方なのだとしたら、宗教的シンボルを隠してしまうフランスのやり方は変じゃないか、という意見が多数を占めていました。私もそう思いました。それに、キリスト教の十字架がOKで、イスラムのスカーフがNGなのは変だとも思いました。
 でも、その後、学校に皆がそれぞれの宗教性を身につけて登校した場合の不都合を考えてみて、特に自分の意見がまだ定まっていない小学生などの場合、親が「あの子は**教だから一緒に遊んではいけない」などと介入したら、相手の宗教の尊重どころではなくなるだろうというところあたりまで話が進んできて、感情では割り切れない部分が残る問題だからこそ、理屈で線を引いておいた方がいいのだな、と思うようになりました。

 日本人はそう発想するのだなということと、別にこうした発想は日本人にも限らないのだとも取れる。だが、問題の本質はまるで違うのである。それはなぜイスラムがここまで女子学生のスカーフにこだわり、フランスの非宗教性に反発するかを考えてみるとある程度理解しやすいかもしれない。と、もったいを付けた書き方をしたが、ヘッドスカーフ着用はイスラムの法なのである。日本やキリスト教圏では、信仰とは個人の内面の問題に還元されているが、イスラムにおいて信仰とは法の遵守であり、スカーフの着用は法で決められているのだ。そしてこの法は、本質的に国家を凌駕する。イスラム教であるということは、イスラムの法が国家を支配することになる。これはフランスと限らず、近代国家には許し難いことになる。だから、スカーフが問題なのだ。
 と、書いたものの、反論はあるだろう。トルコはどうか。ドイツはどうか。マレーシアはどうか。この問題について、それぞれの国の状況は説明できるが、今日は省略する。だが、それでも端的に言えるのは、そうした折衷的な解決法が真の解決になるのかということ自体問われなくてはならないし、フランスの非宗教性がこの問題の本質を描いていることは間違いないということだ。
 フランスの非宗教性の直接的な典拠は、1958年フランス第5共和制憲法第2条「フランスは不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である」なのだが、フランスと非宗教性の関わりはさらに1946年第四共和国憲法以前に遡る。重要なのは、「教会と国家の分離に関する法律 (1905)」だ。こうした問題の詳細は、フランス大使館の社会の項目の非宗教(参照)に詳しい。この文書は非常に面白い。読んでいてはっとさせらたのは、特に次の点だ。

以上のように非宗教性とは、単なる法的システムではなく、文化であり、エトス(倫理的規範)であり、また、論議を拒否する既成の言説によって精神を支配するような「聖職者至上主義」からの開放の動きなのである。クロード・ニコレ教授は、非宗教性のこの本質的な(そして体系化できない)側面を次のような言葉でみごとに明らかにしてみせた。聖職者至上主義による支配の試みに対して非宗教性が歴史的に成し遂げた勝利を、今度は、人間一人一人、市民一人一人が『自らの心において、絶えず実践していかなければならないのだ。人は誰しも、他人や自分自身に対して強制的態度を取りたがる小さな「帝王」や小さな「聖職者」、小さな「重要人物」、小さな「専門家」に、いつでもなりうるのだ。それは強制されてかもしれないし、誤った理論からかもしれないし、単に怠惰や愚かさによってかもしれないが』。しかるに、非宗教性は『そのことから身を防ごうとする、困難ではあるが日常的な努力なのである。(中略)非宗教性とは、知性と倫理の厳密さを最大限に高めることで最大限の自由をめざすことであり(中略)、非宗教性には、自由な思想が必要である。

 つまり、非宗教性の本質は法によって体系化できるものではなく、自由を求める市民の義務とせよするエートスなのだ。フランス革命は続くよ、どこまでもである。
 なお、この正月、靖国問題をうざったく語ったついでの文脈で言えば、そうはいっても、フランスはパンテオンや凱旋門を舞台に国家儀礼を行うし、戦死者を国家の儀礼で弔う(この点は日本でも先日の外交官の死で目にした儀礼に似ている)。その意味で、国民国家であることは不可分に宗教的な共同性を発生させてしまうのだが、そこがまさに理性の限界でもある。ただ、ではそこから靖国の理論が生まれるかというと、私は違うと思う。その背景にはフラタニティ(現代フランスでいうならソリダリテ)が問われるからだ。フラタニティはソサエティでもあり、資本論的なアソシエーションでもあるのだが、この問題を系統的に議論したものを私は読んだことがない。

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そして、中国リスク

 三が日が開けたのだが、読売新聞社説などはまだ屠蘇酔いが残っていて醜い。産経も似たようもの。案外、日経も同じようなものかもしれない。金融再生について、日経新聞社説「にっぽん再起動(3) 金融再生、気を緩めるのは早い」はこうだ。


 第二に、地方経済の再建という視点が大事だ。農業や公共事業などに頼っていてはじり貧になる。株式会社による病院や学校、農業経営の解禁や自由度拡大などの規制改革や、構造改革特区を活用した外資を含む企業誘致などを進めるのが、地域金融再生の観点からも肝心である。

 それは正論である。が、現場を知らないなと思う。昨年と同じ唄を歌うのもつまらないが、なんとくこの文章からは共通一次試験世代の臭いのようなものも感じる。地方と概略せず、具体的に島根県、沖縄県、青森県といった個別のケースとして議論してみせてほしいものだ。それと、「地方」とは東京を含む。地方を強くするということは、東アジアに1千万人の新国家が誕生するに等しい。ちなみに、ニュージーランドの人口は400万人である。オーストラリアは2千万人だ。しかも移民で膨れている面も多い。なのに東京が事実上新国家化すれば、その周辺県を巻き込むからオーストラリアより巨大になる。この問題は、今年からの課題になると思うが、今日はあまり触れない。
 私は酒も飲まないがもう少し日経に絡む。

 また予防的な資本注入が、弱った金融機関の安易な救済につながらないよう、資産を厳格に査定するほか、経営の規律づけが大切だ。利害関係のない民間有識者による経営改善計画の審査なども欠かせない。足利銀のように過去二回も公的資金を投入しながら一時国有化に至った行政の失敗を繰り返してはならない。

 これは初笑なのでないか。わっはっはと笑い飛ばすための話に見える。弱った金融機関とは「みずほ」じゃないのか。また、足利銀の問題は足利銀で終わったのか。しかし、この問題もあまり今日は触れない。ただ、日経も今年も日経らしくピントがずれていくような予感にワクワクする。
 朝日新聞の社説は無視したいところだが、縁起物なので触れておこう。標題「靖国参拝――独りよがりに国益なし」が痛快だ。結語はこうだ。

 「日本の平和や繁栄」を祈ったと、参拝後の首相は語った。だが、靖国にまつられている人々の多くが亡くなったのは、アジアで日本が始めた戦争ゆえだった。日本だけでなく「アジアの平和や繁栄」を大事に、というのも戦没者の思いではないのか。そういう視点が首相にも欲しい。

 なるほどである。「靖国にまつられている人々」には韓国人や台湾人も含まれているのだ。彼らも巻き込んで日本は戦争をした。ところで相手は誰? アジアって韓国や台湾を含まないのか。コロニアルな状況に置かれた沖縄とはアジアではなく日本なのか。のわりに、沖縄を構造的に未だに差別している日本とはなにか。そもそもあの戦争は、日本対アジアの戦争だったのか。また、戦没者の思いというのは、確かに、日本だけでなく「アジアの平和や繁栄」を大事に、ということであった。これを大東亜共栄圏と呼ぶ。とま、もちろんそこまで言えば悪い冗談である。歴史の事実は朝日新聞のように短絡化できない。またその鏡像のような短絡化も許さない。
 前フリが長くなったが、今朝気になった社説は毎日新聞の「貿易構造が変わった 中国を日本の再生に生かせ」だけだ。どうも毎日新聞社説はクセ玉が多いなと思う。ブログに近いいい加減さもある。それが端的に悪いわけではないが、朝日や読売のように読まないでもわかるほど明快ではない込み入ったジョークもある。
 で、そのテーマなのだが、とりあえず標題どおりに、「中国を日本の再生に生かせ」かというとそうでもない。ようは、中国リスクだ。そう先日のアメリカリスクという発想と同じ。結語はこうだ。

 とはいえ、政治的にも感情的にも、日本と中国は複雑な関係を抱えている。簡単ではない。
 また、中国はリスクに富んでいる。貧富の格差、沿海と内陸の発展の不均衡、国有企業がらみの不良債権、不動産バブル崩壊の可能性、電力などインフラの未整備、地方政府の赤字、農業部門の潜在失業者、行政腐敗、法治社会への移行。中国を日本の通商戦略の基礎に位置付けることは、そうした中国リスクに備えることでもある。

 この結語には特に意味はない。中国リスクという言い方は訴求力があるものの、この結語はナンセンスなクリシェに過ぎない。またしても言うが、この発想にも共通一次試験世代の臭いはする。
 だが、気になるのはそういうことではない。明瞭なファクツがあるからだ。それはこの冒頭にうまく描かれている。後段は予想を含む。

 日中貿易の拡大が続いている。米国がカナダ、メキシコと北米自由貿易協定を結んだ後、日本は米国にとって第3位の貿易相手国に落ちた。他方で日中貿易は、日本にとって中国は米国に次ぐ第2の貿易相手国に、中国にとって日本は最大の貿易相手国になった。
 02年に日中貿易は往復で1015億ドルに達し、日米貿易の1761億ドルに迫った。中国は01年12月に世界貿易機関(WTO)に加盟し、国際基準を踏まえたルール作りを急いでいる。08年の北京オリンピックに向けてインフラの整備も続く。中国研究者の間には、日中貿易は05年に1300億ドル、10年には現在の米国並みの1800億ドルに達するという予測もある。

 直接関係ないが、NTFTAは日本を牽制している。米国はいざとなれば、貿易面で日本を必要としない。そのあたりをメキシコですら読んでいるのでFTAに強気で出る。ただ、金融面では日本と米国は一心同体なので、そこは米国の癪の種であり日本に無益な浪費策のようなものを講じている(MDとかね)。
 このファクツが示す問題は、いずれにせよ、中国にとって日本が第二貿易相手国となっているということだ。日本は当面は市場なのだ。が、ここには少し奇妙な構造がある。毎日も触れているが、当然のごとく、日本側は210億ドル赤字になる。だが、対香港貿易を含めると日本は21億ドルの黒字になる。これを指して毎日はトントンというのだが、そういう話じゃないだろとツッコミたくもなる。この構造は変だし、この変が巨大化するような気もする。
 それでも、メガトレンドとしては12億人が紙で尻を拭く時代になることは間違いない。それを阻止するにはイスラム教を広めるしかないというねじれたジョークはさておき(イスラム教では肛門を水洗いする)、長期的には中国の黒字が基調になるようにも思えるのだ…と、少しトーンが下がるのは、理屈ではそうだが、歴史の流れを見ているとそうなのか合点がいかない。
 毎日の社説はごちゃごちゃとしている。途中で「今はだいぶ沈静化したが、中国脅威論というのがある。逆に中国崩壊論もある」というくだりもある。この悲観論に対して、「そんなことはない」という文脈で語られているし、日本でも概ねそうなのだろう。が、私は、どちらかといえば、中国崩壊論に組している。エコノミスト的にそれを説明できないが、私の歴史感覚がそうさせていると言ったものの、勘と独断でしかない。
 毎日に引きずられて話がねじくれてしまった。なにも中国崩壊論をメインに言いたいわけではないのだが、毎日さんも結局「中国リスク」という言葉の裏で中国崩壊論の予感を持っているのではないか。日本は長期に崩壊するが、中国はどこかで短期に瓦解するのではないか。ただ、ソ連型ではないだろうし、すでに中国は社会主義国ではなくなりつつある。
 もちろん、そんな極東ブログの懸念を初笑としてくださって、多いにけっこうである。むしろ、そうされるほうが日本の健全さを示すかもしれないとすら思う。

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