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2004.05.08

ご苦労様、福田康夫さん

 福田康夫(参照)が官房長官を退いた。感慨深い。嫌なやつだなと思っていたがやっていることは政治家として、真っ当だったと思う。もともと政治家なんて毀誉褒貶があってしかるべきだが、問題はなにをやったかということだ。よく仕事をしたと思う。ふとオヤジ福田赳夫の年表(参照)を見ると、さらに感慨深いものがある。今回の辞任も考えてみれば、オヤジの気性と似ているのではないか。上州人気質と言いたいところだが、それではくくれない醜悪な老害もいる。
 社説では、朝日新聞社説「重し失う小泉政権」がよかった。朝日的な部分が強調されているが、こうしてみると、福田には信念というより原則があったのだろう。


 イラク問題では、日米関係を重視する首相や与党に表立って反対はしなかった。しかし、自衛隊の派遣には慎重な姿勢をにじませることもあった。米軍を支援するために自衛隊の活動範囲や内容を広げることにも批判的だった。
 ふんばりを見せたこともある。昨年末の予算編成で、石破防衛庁長官がミサイル防衛システム導入のため防衛庁の予算の増額を求めたときだ。福田氏が石破長官を厳しく批判し、逆に戦車や護衛艦などの正面装備を削減する結果になった。

 確かにそうだと思う。もう一点引きたい。

 首相の靖国神社参拝のあと首脳外交が途絶えた中国へ、自ら出かけて行った。異例のことである。国立の追悼施設建設に意欲を見せていたのも福田氏だが、実現の見通しは立っていない。

 これも無念な感じがする。先の防衛システムについても、この国立追悼施設建設についても、批判は多いだろう。朝日は好意的だが、それでも制度化した左翼陣営は福田の信念を理解しているわけでもない。そういえば、2chでも、福田はある意味、ヒーローだったが、印象で言うだけなのだが、福田は大人だったからだろう。社会は大人を必要としている。
 福田の辞任の理由については、メディアでは表向きの説明で終始しているように思う。なにか裏があるようにも思うが、とりわけ裏を真相として強調することでもないのだろう。週刊文春の記事も読んだが、福田の言葉の含みのほうが重く、記事自体はトンチンカンなものに思えた。ちょっと勇み足でいうなら、福田は仕掛けられたというところだろう。防戦もできただろうが、嫌になったのではないか。率直にいうとニヒリズムも感じる。
 福田康夫の履歴を見ながら、ちょっとうかつだったなと思ったのは、この人は東大卒ではないのだな。いわゆる、古き時代のおぼちゃん育ちのようだが、ある意味、若いころは挫折と実務の人だったのではないだろうか。20代での米国暮らしも強い影響を与えているだろう。実務をきちんとこなすという感覚というか実力のある人というのが経歴から伺える。
 これで自民党の屋台骨が崩れるのかと思うが、代わりの民主党が情けないこと限りない。私は政策をもって政党を評価するので、依然、民主党を支持するのだが、あまりに阿呆臭いどたばたをよくやってくれる。もちろん、そのどたばたが重要なのかもしれない。さっさと菅のようなぬるい首をすげ替える機運を盛り上げるのは正しい手順なのかもしない。
 余談のように世相に触れたい。福田康夫官房長官辞任に表向き関わる年金問題だが、唖然とする展開を見せていて、正直唖然としている。極東ブログでは匙を投げて5五年後に蒸し返せとしたが、それが2年前倒しになるのだろうか。年金問題は基本的に一元化しか解決はない。その障害の理由が自営者の所得把握というのだから、なにか根幹が間違っている。筋道がまるで違う。サラリーマンも申告制にするべきなのだ。つまり、所得把握全体を個人ベースの一元化にすべきだ。そのためにITがあるのだが、まるでそういう議論の展開はない。ま、ないのだ。
 以上の話と関係ないが、米軍のイラク捕虜虐待もさらにトホホな展開まっしぐらである。このまま趨勢に押されてラムズフェルドの首を切るということになるのだろうか。そんなことが可能なのだろうか。
 三菱ふそうの件でもそうだが、議論以前のこのトホホな状態はなんなのだろう。言葉に詰まるというか、言葉が不要にすら思える。
 ただ、陰謀論めきたいわけではないが、閣僚の年金暴露や米軍捕虜虐待暴露も問題の浮上の仕方がきな臭い感じはする。

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2004.05.07

鉄人28号

 リメークの鉄人28号(参照)を毎週見ている。5回が終わった。前回あたりから話がちとたるくなってきたかなというのと、今回に顕著なのだが、見え見えのオチをひっぱるひっぱるの脚本はなんだろと思う。だが、ふと考えてみると、このプロットのノリも、作画と同じでレトロのパロディなんだろう。アレだ、黄金バットを思い出してもらいたい、って、思い出せるやつなんか、いねーって。かく言う私もその世代ではない、が、その雰囲気はわかるぞ、ローンブロゾー!
 そういえば、ショタコンという言葉の元になった正太郎だが、今回の作画はかなり正太郎にリキが入っている感じだ。基本的にオリジナルを踏襲しているわけだが、この作画の美観っていうのは、アレだ^2、赤胴鈴之助を思い出してもらいたい、って、思い出せるやつなんか、いねーって。かく言う私もその世代ではない、が、その雰囲気はわかるぞ、剣を取ったらニッポンイチ…そういえば、トリビアの泉の日本刀とピストル勝負ネタは不覚にも感動してしまった。物理屋的に考えればわかりきった結果ではあるが、技術屋的に言えば、個別の日本刀の構造が理論どうりであるとは限らない。タモリも不覚にも熱くなっていたあたりが、笑えた。日本刀の精度について、も一度考え直してみたくはなった。と、余談ついでに言えば、日本刀っていうのは、魚包丁が原型で、あれは和冦の武器なのではないかと思うが…と話、それまくり。
 今回の鉄人28号を見ていると、なーんでもないシーンで、自分が熱くなり、そして泣けてしまうことがある。なんつうか、戦前の科学っていうあたりだろうか。死んだ父の兄、私の叔父伯父は、二十二、三歳くらいでインパールで殺されたのだが、彼は無線技士だった。私の父もエンジニア志向の青年だった。そうしたせいか、なにか、ああいう戦前の科学を想起させるものは無意識にズンとくる。
 このリメークの鉄人28号がどういうふうに今の日本社会に受け止められているか気になる。そうだ、はてなダイアリーには言及が多いだろうと思って、みると、うーむ、多いといえば多い(参照)んだけど、なんつうか、アニメ世界にヲタ過ぎ。かく言う私だって、元版の鉄人28号を見ていた口で、つい、グリコグリコグリコーとか口をつくくらいだから、ヲタ話もできねーわけじゃないけど、モンスターを緑色にすんなよとか、っていうか、なんというのか、この系譜学的な考察とか、映画評論ばりに監督がどうのだかいう説明言説って、なんなのだろう。なにも単純に批判しているわけじゃないんだけど(だからウンコ飛ばしはナシ)、橋本治とか昔、少女漫画対象に評論をやっていたころは学問的なパロディだったけど、現在では…、うーむ、よくわからん。ただ、今回の鉄人28号を見ていて、歴史感覚というのはかなり大きなポイントだなとは思う。というわけで、なんことはない、私も勝手に私なりのヲタ話になる。
 今回の鉄人28号では早々に不乱拳博士を殺してしまうのだが、不乱拳博士の懊悩は、多分に731部隊(参照)のパロディでもあるのだろう。ただ、この731部隊は遠藤周作の「海と毒薬」的な文学的な反照であり、現実の731部隊は、内藤良一がミドリ十字創立し、そして…という展開を辿る。そのほうが、戦争という不気味なものが現代まで覆っている姿なのだが、今回の鉄人28号はそこまでの物語あるいは脱物語的な射程を持った象徴でもないだろう。ただ、731部隊の多数は、その後の日本の医学界の中心を担っていくという意味で、広義に今回の不乱拳博士的な部分はあるのかもしれない。
 不乱拳博士が金田博士とライバルだったということや、敷島博士という名称にも特に過剰な読みは必要ないのだろうとは思う。不乱拳博士は漫画らしいネーミングというわけだ。が、それでも、金田姓ときいてなにもピンとこないわけにはいかない。まして、その弟子が「敷島」というのも暗示的過ぎる。あまりこの話はツッコミたくはないが、金田、新井、井川といった姓にピンとこない日本社会というのは、まさに戦後ではあるのだろう、が…と少し口ごもる。うまく言えない。そのうまく言えない暗さの部分は、今回の鉄人28号とかなり基本的なところで、重なる。敷島博士が「しかたがないとしか言えない」というのだが、そのあたりの屈曲した感じだ。
 物語はこれから冷戦の世界の枠を重ねていくのか、単に漫画的な世界を洗練していくのかわからない。奇妙なノスタルジーだし、意外に、ノスタルジーというのは、昭和32年生まれの私など、こういうふうに暗く想起すべきなのかもしれない。今でも思い出せるが、幼稚園児の私は帰りのバスを待ちながら、地面に鉄人28号の絵を描いていた。あの幼稚園は、たぶん、兵舎の払い下げだったのだろうと思う。

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2004.05.06

キプロス問題雑感

 キプロス問題について詳しいことはわからないので、上っ面を滑るような話になるかとは思うが、簡単に触れておきたい。
 まず、ベースとなるキプロス問題だが、知らない方がいるなら、これは、Wikipediaに簡素によくまとまっているので参照しておくといいだろう(参照)。
 今回の事態については、朝日系「キプロス国民投票、統合を否決 分断固定化へ」(参照)がわかりすくまとまっている。


 24日に行われたキプロス統合の賛否を問う国民投票の開票結果は、ギリシャ系のキプロス共和国(南キプロス)が賛成24%、反対76%、トルコだけが承認するトルコ系の北キプロス・トルコ共和国は賛成65%、反対35%だった。双方で賛成が上回った場合に限って可決となるため、統合案は否決された。改めて統合案が示される可能性は低く、30年続く分断状況がほぼ固定化されることになった。
 国民投票は、連邦制による統合を打ち出した国連案への賛否を問う形で行われた。賛成が過半数に達した北キプロスは今後、国際社会の承認を求めていくとみられる。北キプロスの後ろ盾のトルコは、この結果をテコに、欧州連合(EU)加盟への動きを強めそうだ。一方、南キプロスは5月1日、単独でEUに加盟する。

 今回の国民投票は、あとでもう一度触れるが、やる前から結果は分かり切っていたので、実際にはまるで意味がなかった。むしろ、事後の確認のほうが重要になる。それは、これで分断は固定化したということと、逆に国際世論に憐れみを買った北キプロスを対EUの関係でトルコが利用するということだ。国際政治というのは実に香ばしい。
 トルコ側はこの機に、北キプロス・トルコ共和国が同案を可決したことを盾に、外交勝利を宣言した。ロイター「キプロス再統合案否決、EU加盟目指すトルコに有利な展開か
」(参照)をひく。

 キプロス共和国が国際的に批判されるなか、トルコは25日、欧州連合(EU)加盟に向けて外交的勝利を収めたとの認識を示した。
 住民投票の結果に基づき、キプロス共和国のみが来週EUに加盟し、北キプロス・トルコ共和国は孤立を余儀なくされることになったが、国際社会の信用を得たのはむしろ北キプロス側とされる。

 EUもすぐに対応せざるを得なくなった。産経系「キプロス再統合 否決にEU「遺憾」 2億5900万ユーロ支援勧告」(参照)をひく。

欧州連合(EU)は二十六日、二日間の日程でルクセンブルクで開幕した外相理事会で共同声明を発表、キプロス再統合が住民投票で否決された結果、「北キプロス・トルコ共和国」(トルコ系)がEU加盟から取り残されることに対し「遺憾」を表明すると同時に、二億五千九百万ユーロの支援を勧告した。

 EU、ざまー見ろ、自業自得だと言いたいところだ。もともと、今回の投票をおじゃんにしてくれた戦犯はEUである。南キプロスがEUに単独加盟を申請した時点で、その加盟の前提として、統合を提示しておけば、キプロス問題は大枠で解決していたのだ。なのに、早々に南キプロスの単独EU加盟を是認している。もとから南北で貧富の差が4倍もある。民族的にも宥和する下地はない。これじゃ統合するメリットなどなにもない。
 EU、汚ねーな。だから支援金は自業自得だと言いたいところだが、これでEUがトルコ除けできるなら、高くもないかというのがEUの腹づもりだろう。ますます、黒いなEUという感じだ。EUがそこまでトルコを嫌う理由については、クルド問題とかもあるが、端的に言えば、「イヤなものはイヤ」ということではないのか。
 今回の件でロシアも香ばしかった。共同・日経系「国連安保理、キプロス決議案否決」(参照)のように、ロシアが早々にキプロス再統合を後押しするための決議案を拒否権行使でつぶしてくれた。表向きの理由は、「再統合が決まった段階で採択すべきで、住民投票直前の駆け込み的な決議は結果に影響を与える」というわけで、EUを制しているようにも理解できるが、私は、これは、ギリシア側へのエールではないかと思う。ちょっとやばい発言になるかもしれないが、私は現代ギリシア人というのはスラブ人なのではないかという印象を持っている。もちろん、学問的にそう言えないのでヤバイ発言の域内なのだが、それでも、正教の親和感は強いとは言えるだろう。
 キプロス問題を、EUとトルコを巡る駆け引きのなかで解消するのではなく、実際にキプロスの問題としてみると、アナンの悲願でもあると思うのだが、北キプロスの関税緩和、通商制裁解除、民間航路再開など事実上の国際社会への復帰を促すべきだろう。だが、そう行かないのだろう。ギリシアが障害になってくるからだ。
 ここは、なんとかアテネ・オリンピックを成功させ、ギリシアの大国欲を適当に満たして、ずるっと実質上北キプロスを緩和させることができればと思うが、それを采配する気のある大国はない。日本ならできるのだが、やる気もないだろうし、国益からすると、こっそりトルコと通じていたほうがいいのだろう。日本もまた黒く立ち回るしかないわけだ。

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2004.05.05

子供の日雑感

 子供の日だからどうという思いもないが、吉例で、総務省が15歳未満の子供の推計人口を発表するので見る。といって、それにはどうという意味もない。昨年までの22年連続の減少が今年もということで、23年連続の減少になるだけのことだ。そのうち、こうしたカウントも意味がなくなるだろう。
 今年の統計値では、昨年より20万人少ない1781万人。総人口に占める子供の割合も同0.2ポイント減の13.9%。年齢別でみると、統計上限の12-14歳が367万人と最多。年齢が低いほど少なくなり、0-2歳は344万人。じり貧、尻つぼみということだ。
 男女比は男子は913万人で、女子は868万人、と、一般的な人口統計の男女比に近いのだが、私はちょっとこの数値に違和感がある。統計値には見えてこないのだが、比較的所得の安定した地域の小学校低学年では女子のほうが多いように思えるからだ。たぶん、これは、地域差なのだろうと思うが、気にはなる。
 昨年の統計値だが、都道府県別で見ると、子どもの人口比が最も高いのは沖縄の19.0%。これに滋賀15.7%、佐賀15.5%と続く。低い順から見ると、東京12.0%、秋田12.7%、高知13.1%。だが、東京や神奈川は前年と変わらない。都市部への人口シフトが関係しているのだろう。滋賀県についてもベッドタウン化による同様の現象だろうと思うがどうだろう。なお、国際的な比率で見ると、アメリカが21.0%、フランスやイギリス18%台ということで日本より子供が多いが、この三国は先進国では特例なのかもしれない。
 国内の地域別の統計を見ると、沖縄は子だくさんであるかのような印象を受ける。たしかに、沖縄の19%と東京の12%では社会的にも違いが見えてくる。つまり、ああ、沖縄って子供が多いなという感じである。が、実際に沖縄で暮らした印象でいえば、子供が目につくのは、基本的に南国のせいか、子供が家にいつかないということがあるようだ。沖縄県民用語でいうところの深夜徘徊も多い。また、沖縄は自然が多いかのようだが、子供の居住している地域は、伝統社会的な地域ではない。適当に都市化された地域になっている。なにが言いたいかというと、こうした子供の人口統計を見て、沖縄っていいなと安易に思わないように、ということ。
 それでも、子供の多い社会として沖縄でいいなと思うことは、主観もあるが少女たちがやさしいことだ。古くさいフェミニズムの人は怒るだろうが、少女たちは日常小さい子供の面倒を見せられているせいか、子供の扱いに手慣れている。特に、コンビニや食堂などの店員に顕著だ。もちろん、そうでない子もいる。なにも少女と限らないのだが、子供のいる社会は、それだけで、伝統社会的な人間らしさは生まれてくる。
 逆に東京では子供やティーンエージャーのもつ印象がだいぶ違う。東京に暮らしている人間にはわかりづらいかもしれないが、沖縄などからたまに来てみると、けっこう違和感がある。単純に言うと、子供が子供らしくない。私の実感からいうと、叱られ慣れていない。私はあちこちで、子供を叱る。基本は子供の安全と、子供が引き起こす他の安全、それからごく基本的なマナーが気になるからだ。しかし、東京暮らしが長くなるにつれ、私もこうしたことに無関心になってくる。子供の少ない社会については、いろいろ騒がれるが、どうなるものでもない。どうにもならない。
 今の日本の子供は6ポケッツと言われるように、一人の子が親と祖父母の6人から援助してもらえる。これは市場的にはおいしい、というわけで、子供のために金を使わせる社会になってくる。当然ながら、この体制はさらに子供の経済環境の差を拡大するのだから、子供にしてみると、やってらんねーなというくらい階級的な世界に見えることだろう。子供の感性はそういう社会を息苦しく感じるのではないか。
 人質事件のせいか、海外ボランティアにメディアの関心が向いたようだが、なんとか子供を直接世界に開かせ、息をつかせるということはできないものかと思う。三十半ばの独身女性が自分が出向いて外国のストリートチルドレンを援助するのもいいのかもしれない。が、むしろ、そういう子供たちと日本の子供たちをどう交流させるかということのほうが、重要なようにも思える。端的に言えば、移民の子供たちを日本の社会にどう開かせるかということが、むしろ当面の課題のように私は思う。

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2004.05.04

UNO・ページワン・エイト

 連休中だし社会も大きな話題もない。ネットのトラフィックも減っているのかもしれない。退屈といえば退屈だし、いつもとは違う行動を強いられる時期でもある。というわけで、たるい話。
 昨日私は子供にまじってウノをやった。トランプみたいなカードゲームのあれである。トレーディングカード全盛のご時世、今の子供にはうけないかと思ったが、そうでもなかった。ちょっとほっとした。子供にまじめくさった話などしたくないではないか。たまたま、玩具屋で見かけて買ったものだ。遊べるかな、と懸念もした。ついでに、ウノ専用のカードディスペンサー(ウノアタック)も買おうかと思ったが、それはやめた(子供に危ないかもしれない)。が、結果として、それもあったらもっとうけたかもしれないな。山札からカードを引く代わりに、しゅっしゅっとカードが出てくるしかけだ。
 子供とウノでも、と思ったのはちょっとわけがある。沖縄にいた頃、なにかとよく人の集まりがあるが、大人の会合なのに、なぜか子供も一緒についてくる。10年近くも前になるが、そうして子供たちが集まると、ウノをやっているのをよく見かけた。へぇー、ウノかと思ったものだ。その後、ゲームマシンの普及につれ、沖縄でもウノをする機会はあまり見かけなくなった。が、うちなーんちゅにきくと、子供の頃、台風のときはよくトランプをしたそうだ。沖縄の台風は速度が遅く、下手すると1週間近く停滞する。しかも、停電になる。なるほどトランプかと思った。
 そういえば、中国近代史に関連する資料や小説を読んでいると、なぜか中国人がよくトランプをやっているシーンが多い。なぜなのだろう? 共産党とかも、ダンスパーティだのトランプだのよくやっていた。そういえば、鄧小平の最後の肩書きは中国ブリッジ協会の名誉会長かなんかだった。彼はいかにもブリッジに強そうだ。というか、ブリッジが彼の人生を救い、その精神を陶冶したのかもしれない…ってことはないな。
 ウノを外人とやったことはない。UNOは英語だと「ユーノー」だから、You know?の洒落だと思うが、確認したこともない。あるいは、ラテン語風に「ウーノウ」とか言うのだろうか。私がウノをやったのは、もう20年近くも前になるがネットの会合だった。面子も日本人だ。モノポリーとかもよくやった。なんでそんなのしていたのかよくわからないが。
 15年ぶりくらいのウノで、こんなものは誰でもできると思いつつ、ルールを忘れたので、ちょっと説明書を読む。いまいちわかりづらい。こんなカード昔はあったかなと疑問すら出てくる。が、所詮単純なゲームなので、なんとかできた。子供たちもすぐにルールを覚えた。
 私にとっては、たるいゲームではある。ぼんやり他のことを考えていたのだが、その一つは、なぜ子供たちはウノというゲームのルールを守ろうとするのだろう、という疑問だ。もし、私が、嘘をついて、他者をごまかしても、この面子なら見破られることはない。そして、そのメリットは短期にはある。しかし、長期にはあるだろうか? また、子供でなければ、というか、数学的には、嘘は見破られる可能性を持つ。その場合のリスクはどのくらい大きいのだろうか。というか、そのリスクとはなんだろう? そういえば、総じて、トランプ・ゲームというのは、ルールについてこういう問題を抱えていることがある。なぜなのだろう。考えたがよくわからなかった。
 もう一つは、ウノってトランプのページワンなのだが、さて、元のページワンはどうだっただろう? というのは、ウノをやりながら、あれ?と思ったのは、逆順というカードがある。トランプ・ゲームはトランプ用語でいうところの、一巡を意味する「トリック・テイキング」という基本概念があるのだが、それがウノでは破られている。なぜだ?というあたりで、書庫のような自室に戻ってから、書架の一角のトランプの本を読み直したり、ネットを引くと、いろいろわかったような謎が深まるような思いがした。
 まず気になったのは、「ページワン」である。これは英語ではないはずだ。松田道弘の本には原型は「ゴー・ブーム」とある。"Alphabetical Index of Card Games"(参照)にはない。Go Fishのミスか? しかし、松田がこの手のことでミスをするわけがないと確信して調べていくと、あった。"Children's Card Games"(参照)。


Go Boom
This game is of the same family as Crazy Eights (see p. 281). Both games are favorites for children as well as grownups.

 というわけで、原型は、Crazy Eights、つまり、「エイト」なのだが、それにしても、Go Boomはどういうふうに日本に入ったのだろうか。疑問がいろいろ浮かぶ。なぜ「ページワン」なのだろうか。占領下との関係があるのだろうか。松田はなぜ、エイトの派生としなかったのだろうか、というか、たまたま手にした松田の本がそうだったからか。あるいは、松田の考えがあってことか。Go Boomの解説を読むと、「エイト」系というわりには、8のカードの特徴はない。それにしても、トリック・テイキングであることは確かだ。
 さらにネットを引くと、Wikipediaの日本語に、なぜかウノの解説がある。「ウノ」(参照)。

 ウノ (UNO) は、トランプゲーム「エイト」を遊びやすく改良したカードゲーム。手札を早く 0 枚にした者が勝者となるゲームで、対戦相手を妨害する役札が存在することと、残り手札が 1 枚となった時に“Uno”と宣言しなければならないことが特徴。イタリア語で数字の 1 を意味する「ウーノ (uno)」が名前の由来である。
 1971年にアメリカのオハイオ州で理髪店を営むマール・ロビンス (Merle Robbins) により考案され、1979年に広く発売されて人気となった。世界 80 ヶ国でこれまでに 1 億 5000 万個が販売されており、年間 800 万個(日本では年間 70 万個)販売されている。日本では、バンダイから発売されている。

 英語の説明と比較すると、かなり違う。誰が書いたのだろうか? バンダイの説明のコピペっぽい感じもする。「日本では、バンダイから発売されている。」も正確な情報だろうか?
 Wikipediaの日本語版には「エイト」の解説はない。代わりに、「ページワン」(参照)がある。

ページワンはトランプで遊ぶカードゲームのひとつ。ほぼ同一な内容のものとして芋掘りが存在する。アメリカンページワンを指している場合もあるが、こちらは全く別のゲームである。

 「芋掘り」について少し調べたがわからない。日本のゲームなのだろうか。それにしても、トランプゲームは名称や派生がわかりづらい。研究書を買うか、とも思うが、さてさて。
 説明中の「アメリカンページワン」は、次のように説明されている。

アメリカンページワンはトランプで遊ぶカードゲームのひとつ。ルールはウノに近い。

 内容を読むと、Crazy Eightのようだが、その関連説明はない。なんだか、もう、どうでもいいやという感じがしてくる。が、とりあえず、まとめると、Crazy Eightからウノができてくるということなのだろう。
 松田の「トランプの楽しみ」(絶版)のエイト(Eight)の説明を読んでみると、どうやら、EightからCrazy Eightへの変化は、パーティゲーム化に関係しているようだ。人数が多いので2デッキ(2組)を使うというわけだ。なるほど、それで、トリック・テイキングの原則も消えてしまうわけだ。
 トランプについては、私はまだ書きたいことがあるのだが、またの機会にしよう。それにしても、松田道弘の本をアマゾンで検索したら、トリック(奇術)ものしか売れてないようだ。なってこった。
 余談だが、今のうちに"Iraqi 'Most-Wanted' Deck of Playing Cards"(参照)を洒落として買っておくかな。

追記(同日)
 Unoの発音は、英語でも「ウノゥ」でいいようだ。Merrian-Webster Online Dictionary(参照)。

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2004.05.03

[書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)

 筑摩ライブラリーのごく一般向けの平和学の本ということもあり、読みやすい。私はこれを偶然買ったのだが、おもしろかった。

cover
戦争を知るための
平和入門
 それでもやや批判的な言い方をすると、平和学が新しい世界を課題にする矢先の一歩のところで終わっているのが惜しまれる。しかも、著者はこの書籍を言わば遺書のように残していったことも悔やまれる。存命であれば、現在世界の状況について、この著者に是非見解を伺いたいものだと思う。
 平和学というと、平和主義のような理念が先行するようなイメージがある。学派の主導者によって主張の相違もあるのだろうが、概ね、一種マクロ経済学のようにクールな学問領域のようだ。が、著者は、わかりやすく、自身の立場をあえてこう言っている。

 ぼくは平和研究者であって平和主義者ではありませんから、人間というものは戦うものだと思っています。いかに戦わせないようにシステムを作っていくかということが大切なのであって、戦いそのものをなくすことはできないと思っています。

 平和学とは、この「戦わせないようなシステム」のための冷徹な学問だと言っていいようだ。平和の希求だけでは平和が実現できないというのは、ごく当たり前のことだが、日本ではなかなかその当たり前をきちんと認識しづらい空気がある。
 この当たり前から導かれることは、さらに、日本人には当たり前ではないのではないのかもしれない。コソボの戦略爆撃を念頭において、著者はこう言っている。

人間の尊厳のために戦わざるを得ない場合があります。平和の問題、国際社会の問題を考える場合に大切なことは、そういう羽目におちいった人間と、おとしいれた側が同じ地平で、同じ痛みを記憶することです。ところが、戦略爆撃というのは非対称的です。

 少し抽象的なの言い方なので、別の文脈を補足する。

リアリストの国際政治学者、ハンス・J・モーゲンソーが原爆(核兵器)を非常に厳しく批判しているのは、人間は戦争によって死ぬかもしれないけど、自分はなぜ死ぬのか、なぜ殺されるのか意識できる、そういう戦争はいい、しかし、戦略爆撃(その頂点に核攻撃があるわけですが)では、自分が何のために死ぬのかわからない。死んだという意識すらないうちに死んでしまう。戦略爆撃というのは、人間の尊厳を一瞬にして奪ってしまうのです。

 解説しないほうが大人らしい態度かもしれないけど、解説すると、戦争をするなら、武器を持って向き合って、ドンパチやれ、ということだ。双方に死者を出す戦いはよいのだ、ということだ。それが人間の尊厳でもあるのだ、というのだ。
 著者は今日のテロとの戦いの時代にまで生きていないのだが、生きていたら、今日のテロリストとの戦いにも同じように言うだろうと信じる。非戦闘員を政治的な主張のために殺すことは、人間の尊厳に対する冒涜である、と。双方に死者がでる戦争のほうがよいのだ、と。
 これが、ある意味で、平和学の原理なのだと知ることは、私には少し驚きだったし、世界というものがすっきり見えるように思えた。
 先の、よくない戦争の原理性である「非対称性」については、さらに、こう主張が続く。

そして、地球上の一方でたらふく食っている人間が、チャリティでお金を出すというのも、非対称的すぎるわけです。そのような非対称的な世界を、「人道的」とか「地球市民」とか、きれいごとの言葉で覆い隠していることが多いのです。そういう非対照的な世界を覆い隠すような、きれい事の学問を作ってはだめなのです。

 現代日本の状況で言うなら、安全な日本の場で「平和を希求する」というだけの主張も、そうした非対称性に含まれるだろう。おそらく、その平和の貢献に対する対称的な痛みというものが必要になるのだろう。私たちはそこを事実上逃げているのだが。
 さらに私に決定的だったのは、次の主張だった。

 人道とか人権をふりまわすと、そのうち手垢がつく。そうすると政治の道具でしかなくなり、人道の名のもと、無告(ママ)の民が犠牲になるということがおこってくる。第三者が大義名分を振りかざして犠牲者を増やすよりも、当事者同士を消耗するまで戦わせる、というリアリズムが必要です。

 基本的に民族紛争というのは、非対称的な世界の枠をはめなければ、当事者同士が死ぬまで戦ってもいいし、それが彼らの尊厳でもある、というわけだ。なるほど、そうとしか言えないと私は考えるようになった。
 問題は、現在世界のそうした戦争をどうとらえ直すかでもある。端的に言えば、非対称的世界の大枠として米国の強大な力が問題だとも言えるだろう。
 残念ながら、本書でいう平和学は、基本的には、冷戦までの世界構造しか対象にしていない(内戦への考察はあるのだが)。別の言い方をすれば、それは、核の脅威との対応と言ってもいいだろう。その限界については、著者が率直に述べている。

 平和学は、核時代の紛争をいかに回避するかということについては蓄積があります。しかし、核時代ではない時代の戦争について平和学はそれほど知識を蓄積してきたわけではありません。平和学に限らず内戦に関する研究は、国家間の戦争に関する研究ほど多くなされてきているわけではありません。しかも、今日のように国境を越えてさまざまなアクター(行為主体)が交錯するグローバリゼーションのような、世界を一体化してしまうような構造ができつつある中での内戦というものは、新しい問題を生みだしています。そういう意味で、これは平和学にとって非常に大きな課題です。

 そして世界はその後、9.11を契機に、グローバルなテロとの戦いというまったく新しい危機に直面するようになった。こうした状況に、現代の平和学がどのように取り組んでいるのかは、この本からはわからない。
 具体的にイラク戦争という状況で見ると、「アラブ政治の今を読む」などからは、テロとの戦いを新しい戦争とみる視点なども紹介されているものの、まとまった学説とはなっていないようすがうかがえる。
 軍事の側も、実は、まだグローバルなテロとの戦いにシフトしていない。特に米国での不備が今回のイラクの惨事を招いているようにも見える。大量の余剰の兵力を駐屯させつつ、実際の治安に使えない。しかも、実際の治安には傭兵を使っているという最悪の状況だ。
 本書は、こうした限界がありながらも、平和学というものを考えさせる素晴らしい契機になると思う。特に、先の非対称性の指摘や内戦の原則などの延長として、戦争を生み出す構造として、貧困といった古くさいマルクス主義的な説明を越える枠組みも暗示している。日本の左派の「平和勢力」とやらがこの十年理論的に沈滞している状況のなかで、もっとプラクティカルな平和学が若い世代に根付くといいとも思う。
 いずれにせよ、広く読まれるべき本だ。

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2004.05.02

映像ニュースは苦手だ

 このところ、イラク情勢を知るのに、VOAがわかりやすいなと思うことが多い。VOAは、いわば、アメリカの大本営だから、戦時の情報として偏向しまくりだろうから意味ないや、と思っていたのだが、なかなかそうでもないと思うことが最近多い。
 以前にも書いたが、私は国外の大災害のニュースはまずVOAにあたる。それが阪神大震災のときは、国外どころではない国内のニュースとしてもVOAが優れていて驚いた。あのおり、香港の記者が早々に神戸入りして状況を伝えていたが、日本は報道規制されていた。
 今回イラク人捕虜虐待映像についても、最初、VOAで知った。VOAはある意味、古くさい良識なので、衝撃的な写真は掲載しない。そのせいか、私は、一瞥してこれってギャグ(英語でhoaxという)ではないかと思った。アメリカ人はこの手の、しょーもないギャグをよくやる。が、VOAのニュースではブッシュのコメントも掲載しているので、ギャグではないなと理解した。他にも映像があるようだが、おぞましいので見る気もなかった。
 その後、コメントで通知していただいたのを機に、スチルを何枚か見た。おぞましくて見たいもんじゃないが、率直なところ、なんだかよくわからないという印象を持った。出所を洗うべく米ソースを調べていくと、昨年の"TIDES Iraq Reconstruction Report"(参照)らしい。それほど最近のニュースでもない。


Subjec:t Iraq: 'Saddam Husayn's Defense Committee' Issues Statement Calling for Saddam's Release
Date: 23 Jan 2004
Sender: FBIS
Iraq: FBIS Report in Arabic 23 Jan 04
On 18 January, the pro-Saddam Al-Basrah website at www.albasrah.net posted an item entitled "A Statement from Saddam Husayn's Defense Committee in Tunis." The statement was originally posted on the committee's website at ctdsaddam.i8.com.

 この段階では真偽はよくわかっていなかったのではないだろうか。しかし、洒落にしては面が割れているし、具体的な建物も特定できる。と、その先を調べると、米軍内ではすでに処罰も終わっているようだ。そのあたりの報道は日本はどうなのだろうと思っていたら、共同系で、米報道をひく形で出てきた(参照)。米軍もよく調べているなと思うと同時に、うまくいけば穏便に済まそうとしたかったのだろう。
 事件の問題は、ブッシュが早々に出てくるように、アラブ諸国にこの映像が流れたことへの苦慮でもあるのだろう。
 ところで、当初この映像が発覚したctdsaddam.i8.com関連を追っていくと、さらにおぞましいレイプ写真などが出てくるのだが、どうも、これも洒落臭い。まいったなと思いつつ、もうちょっと掘ると、これはただのポルノ映像であることがわかった。こちらは食わせ物(hoax)である。
 その後、英国側からも虐待映像が出てくる。よく出てくるなと思いつつ、こちらも早々にブレアが声明を出したところを見ると、食わせ物ではないようだ。裏については、Independence"Are these pictures a hoax or proof that we tortured Iraqis?"(参照)が詳しい。追記だが、こちらの映像の信憑性への疑いはより強まってきている。参考:VOA"Britain Investigates Iraqi Prisoner Abuse Claims"(参照
 私としては、率直なところ、映像を見ただけでは、なにが食わせ物で、なにがそうではないか、は、わからない。種明かしをすれば、なるほどとは思うのだが、そうでなければ、よくわからないままだ。
 こうした経験は別に今回に限ったことでもない。私は基本的に映像を判定する能力はないのだから、むしろ、映像をできるだけ避けたほうがバイアスを受けないだろうと思うようになった。もう少し言うと、意図のある映像はできるだけ避けたいと思う。自分の実経験とメディアを媒介した映像との違いの峻別が難しいということもある。

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