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2004.04.03

男の幸せ

 ちとわけあって、「男の幸せ」というのを問われた。ついでなんでブログのネタにする。なお、この話、これ以上のフォローはなしです。ま、そういうこと。

 酒井順子「負け犬の遠吠え」を巡って、女性の幸せについて話題になっていますが、それでは男としての幸せとは、いったいなにが決め手になるとお考えですか?

 結婚っていうことだと、男の場合、その意味は世代で随分違うと思うんですよ。私は昭和32年生まれですが、上の団塊の世代で大学とか行けた中産階級予備軍はフリーセックスとか不埒なことを言っていたし、下の世代になると大学をレジャーランドにして不埒なことをしていたこともあって、って冗談ですが、私の世代くらいまでは、結婚というのはまだ性欲とかに結びついていました。富島健夫の青春小説とかまだ読まれていた時代です、って、そんな作家知らないですよね。女性は性的な憧れであり、それは20代中頃くらいまでは、けっこう幸せというのに大きな比重を持っていたと思います。もっとも、結婚すれば、サザエさんの旦那みたいに性的に滅菌したようなツラして会社に通って、裏で日活ポルノロマンを見るとか奇譚倶楽部で団鬼六を読む…ま、そんなふうに性とは退屈なものになります。ただ、性が退屈なものになるっていうのは、普通の日本人の男の人生においてごく普通なことじゃないかなとは思います。
 それと引き替えに、30代くらいから、社会的な成功っていうのが大きな意味を持つ……かのようですが、そうでもないでしょう。普通の男の大半は少年時代にすでに「僕は負け組」っていうのをしっかり納得しているものです。「どうせ俺なんかさ」っていう感じですね。でも、今の30代とか見ていると、あまりそういう負け意識がないみたいなので、のびのびと育っているのでしょうかね。あるいは、男の負け意識って静かなものですから、現代だけでも見えづらいのかもしれません。少数だけど世の中には「僕は勝ち組」っていうヤツとか勝ち組と勘違いしたヤツもいるし、そういうのが、えてしてメディアとかにも出てくるので声高に見えますが、どうでもいいことです。勝手に勝ってな、っていう感じですね。
 大半の負け組の男は、密かな幸せを追及するようになります。っていうか、たいてい男の人生なんて、そういう密かな些細な幸せを大切にして生きていくものです。それが、ちょといびつになって勝ち組ダンスを踊るのが、いわゆるオタクじゃないかな。メディアとか出しゃばるオタクってなんか、勝とう!ってしているじゃないですか。本当のオタクは俺だぁ!、みたいな。でも、オタクの大半は負け組だし、オタクっていう自意識なんかどうでもいいものです。なんかさ、適当に楽しいな、コレ、みたいな感じですね。それほど、こだわりというほどでもないけど、ちょっとこだわることがあるくらいなものです。たいていの男はそういうのを、それなりに大切にして幸せの種にしていますよ。
 でも、そういう趣味だけで十分ということはなく、男の幸せっていうので大きな意味を持つのは、情けないことかもしれないけど、とても保守的に、家族的な愛情だろうと思います。「うまく通じなけど、奥さんを大切にしてる」とか、「煙たがられるけど子供を大切にする」っていうごく普通の感じですね。もっと言うと、俺みたいな負け男と運命を共にするこの人たちが一番大切だよ、っていう感じです。これがあれば、他はもっと負けてもいいっかぁっていう感じですよ。トイレで座って小便してもいいかぁ、と。でも、そのあたりが、女性の感覚とはずれるのでしょうけど。
 こういう普通の男の幸せの感性っていうのは、案外、昔も今も変わらないかなと思います。江戸末期の国学者でもあり歌人でもある橘曙覧(たちばなのあけみ:1812-1868)に「独楽吟」という一連の歌がありますが、これなんか、そういう男の幸せというものをよく表現しています。どういういきさつか知れないけど、不埒男の元米大統領クリントンも1994年天皇皇后両陛下の訪米のスピーチで、「独楽吟」から一つ引用しています。


たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時

 ここで朝の一服マイルドセブンをぷふぁとする感じでしょうか。でも、私が一番好きなのは、こっちほうです。

たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

 橘曙覧は赤貧洗うがごとしという生活だったようです。福井の生まれだから、魚のうまいのを知っていてもそうそう子供に食わせることができなかったのでしょう。でも、たまには魚を買って、煮て、子供に食わせると、子供たちが「うめぇ」とか言って骨までしゃぶっていたのでしょうね。このとき、橘曙覧は幸せだったでしょう。男の幸せなんてこんなものです。
 もう一つ、さっきの負けオタクじゃないけど、こういうのもあります。

たのしみはそゞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

 マルクス・アウレリウスとかヒルティとかアランとか、エミ-ル・シオランとか、そぞろ読みつつ、にこりともせず奇妙な至福を感じるっていうのも、男の人生です。
 現代なら、そぞろ読み行くブログの中に、自分と似た思いの人のいることを知る時でもありますね。もちろん、男とは限らないのでしょうけど。

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日米地位協定は改定すべきなのだが

 朝日新聞社説「日米合意――協定改定への一歩に」を読みながら、日米地位協定(安全保障条約第六条に基づく施設および区域ならびに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定)は改定すべきなのだがとつぶやいて、しばし考えこみ、桜並木でも見るかと散歩に出て、戻る。
 当面の問題としては、米兵の犯罪だともいえる。朝日を引く。


 日本で殺人などの重大な罪を犯した米兵の身柄引き渡しを含む捜査手続きについて、日米両政府が地位協定の運用を改めることでようやく合意した。
 日本側は、容疑者の米兵の取り調べに米軍警察などが派遣する捜査官を同席させることを認めた。一方、米側は、起訴前の容疑者の日本側への引き渡しについて「いかなる犯罪も排除しない」という表現を受け入れた。これまでの殺人と強姦(ごうかん)に加え、強盗や放火などの容疑者の身柄の引き渡しが実現することになる。

 その解釈でいいのか、とも疑問に思うのだが、いずれにせよ、今回の合意は95年の少女レイプ事件の一つの結末でもあった。
 朝日新聞は沖縄の地元紙沖縄タイムスと長年記者交換などをしているせいか、社内に沖縄通の人脈の層が厚い。それだけ沖縄の視点を外さないとも言える。今回でも、沖縄タイムスや琉球新報の社説などを読み、そこから、沖縄の世論がこの合意に満足していないことも把握できている。
 本土はもう忘れてしまったのだろうが、沖縄が行った住民投票(referendum)では、地位協定改定が高く掲げられていた。それが、今、無惨にも踏みにじられたのである。そのことを朝日は書かない。そして、そればかりではないとして、こう言う。

基地から流れ出した燃料や化学物質による汚染。低空飛行による騒音。巨大な基地をかかえていることによる被害や損失をいつまで我慢すればいいのか。

 それも確かに問題だが、まず、問題を絞ってくれ。問題の所在を曖昧にしないで欲しい。まず、地位協定を改定するという世論を本土に盛り上げて欲しい。
 もちろん、朝日も沖縄の現状がわからないわけではない。

 沖縄県は政府に対して、11項目にわたる地位協定の見直しを要請している。米軍の日本駐留に関する基本取り決めである協定そのものを改めない限り、米兵犯罪をめぐる日米の不平等も基地被害も解決しえないという判断からだ。全国の30近い都道府県議会も、協定の抜本的な見直しを求める決議を採択している。
 それに対して、基地問題の改善は協定の改定ではなく運用の改善で、というのが小泉政権の立場だ。確かに、米政府が協定の見直し交渉に応じることは現時点では考えにくい。
 しかし、だからといって日本政府は改定問題からいつまで逃げていられるだろうか。米軍の再編の余波で普天間移設も大揺れである。ブッシュ米政権は、自衛隊のイラク派遣を日米同盟の証しとして称賛する。だが、沖縄の協力がなければこの同盟が十分機能しないことを、日米両政府は忘れていないか。

 引用が煩瑣だが、もう一点引く。微妙な問題が隠されている。

 だが、これで沖縄のかかえる問題が解決に向けて本当に前進したわけではない。事実、沖縄の人々は、この合意に納得していない。

 問題は、正論に見えながら、沖縄を日本から切り離している点だ。「沖縄の協力」と言い、「沖縄の人々」と言う。が、それは違う。それは、「日本の協力」であり「日本の人々」なのだ。
 朝日新聞よ、沖縄を日本から切り離さないで欲しい。沖縄の問題だからとして、この問題に蓋をするなら、小泉政権と何が違うのか。
 そして、もう一つ踏み込んで言えば、沖縄を反米のダシにしないで欲しい。ブッシュ政権など特定の政権など関係ないのだ。まず、日本と米国という国家間の地位協定の改定に言論の全力を傾けて欲しいのだ。
 もちろん、冒頭書いたように、私も逡巡した問題ではある。だが、繰り返すが、「確かに、米政府が協定の見直し交渉に応じることは現時点では考えにくい」という話で終わりにしないで欲しい。
 なぜ、米国が応じないのか、むしろそこに踏み込んでもらいたい。
 残念なことに、米国が応じないのには、それなりの理由がある。日本の制度に欠陥があると彼らは見ているのだ。
 日本では、警察の取り調べに際して、弁護士など第三者の同席を認めていない。これこのとは、米国と限らず、欧米では非人道的なあり方として非難の対象になっている。筋弛緩剤事件でもそうだったが、取り調べは密室で行われ、そこで自白が産出されるのだ。日本のこの非人道的なあり方に、国際人権規約委員会は、被疑者取調べについて、「電気的な方法」により記録されることを強く勧告している。いずれにせよ、米国側としては、非人道的な日本の警察に米国市民を渡すことは不可能だ。そして、その点で米国の言い分は正しい。
 そこで、今回の合意では、実際上、米兵取り調べに際して、第三者の立ち会いを認めることになった。おかしいではないか。日本人の人権は米国様のご意向より低いのか。
 日本がするべきことは、刑事手続き全般の改正であり、それをもとにした日米地位協定の改定であるはずだ。
 その希求は理想論だろうか。

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2004.04.02

[書評]博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話(サイモン・ウィンチェスター)

 「博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話(The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary)」(サイモン・ウィンチェスター:Simon Winchester)を今頃読んだ。手にしたとたん、魔力のように吸い込まれて、あっという間に読み終えた。読書トリップっていうやつだ。この感じは久しぶりだった。この手の読書の後は、なんだか通常の意識と変わってしまう。

cover
博士と狂人
 話は、世界最高の辞書OED(the Oxford English Dictionary:オックスフォード英語大辞典)編纂を巡り、その中心人物であるジェームズ・マレー博士と、その編纂の最大の貢献者となったウィリアム・マイナー元アメリカ陸軍軍医(博士号も持つようだ)の物語だ。この物語がある種奇譚の趣を持つのは、マイナーが現代の言葉で言えばおそらく統合失調症の患者であり、その後半生の大半を監禁して過ごしたことだ。統合失調症の患者がなぜそこまで知的な作業に貢献できたのか、あるいは、そのような貢献なくしては、OEDが現在の形で完成しなかったかもしれない歴史の不思議さというものが、この物語の背景にある。
 私はこの話をなんとなく知っていたものの、この本はうかつにも知らなかった。うかつにもという感じがする。まさに私こそこの本を読むべき読者なのだからと内心思うからだ。若い頃、OEDに取り憑かれていたこともあるし、この本の英文評で気が付いた言葉だが、私もlexicophiliaである。
 lexicophilia? そんな言葉はない? あるいは本書の言葉なのか。今となっては手元にOEDがないので、この言葉がOEDに掲載されているかわからないが、意味は端的にわかる。辞書愛好家だ(あるいは言葉愛好家)。ailurophiliaからすぐ連想できる。世の中には、lexicophiliaとしか呼べない一群の知性がある。そして、それはある意味、時代の知性かもしれない。ミシェル・フーコーだったが、古典主義時代の知、エピステーメーを分類学(タクシノミア)と数学(マテシス)として捕らえていた。この物語はそういう時代でもある。
 lexicophiliaはこの言葉の語感にあるように、辞書愛好家というだけには留まらず、ある種偏執的な愛情がある。その面で、狂気に通じるものがある。本書の「博士と狂人」という標題を見たとき、その狂人には、lexicophiliaのある精神的な側面を描いているのかと期待した。が、あまりそういう側面の話はない。狂気はあくまで狂気であって、マイナーのlexicophilia的な側面はどちらかといえば知識人の属性として描かれている。
 私にとって面白かったのは、やはり歴史のディテールである。マレーの貧しい生い立ちから立身する過程も面白いが、さらに面白いのは、マイナーの境遇だった。スリランカに生まれ、南北戦争を経験する。この過程のディテールがたまらなく面白い。本書ではスリランカのエキゾチシズムと南北戦争のPTSDの経験が彼の狂気を導いたのだろうと、ごく常識的に指摘し、さらに家系的な素因の示唆も含めている。確かに、その扱いは妥当なものではあるのだろう。が、マイナーの後年の事件を思うに、ここには、フロイトのシュレイバー症例に似たなにかを連想する。そのあたりにある種の時代精神も関係しているのだろう。
 本書のエポックは1896年の晩秋である。マイナーが収容されている施設をマレーが訪ねていくシーンだ。そのシーン自体には小説に描けるような資料はないのだろう。が、よく推察されている。その後のマレーとマイナーの精神の交流はさらに美しい物語になっている。なにより、博士マレーにとって、狂人マイナーとはどんな人物だったのだろうか、その人間理解にとても関心が引き寄せられる。滑稽とも言えるのだろうが、二人の老人はまるでユダヤ教のラビのごときであったようだ。それもなんとなくわかる。私も老いたらそうなるような気がする。
 二人を巡る交流にはもっと深いなにかがあると思い、ふっと、R.D.レインのことを私は思い出した。彼のおそらく予期しない晩年の思想でもあるのだが、統合失調症の患者にごく普通に接触するという話があった。この普通という感覚をレインはなんとか伝えようとしていた。
 書評に相応しい言い方ではないが、私は47年生きてみて、私の精神にはなにかしらある種の狂気のようなものが潜んでいると思う。が、それが本当に狂気であるかどうかはわからない。私はおそらく社会的にはなんら奇矯なところはないようだ。実生活やビジネスでの私を知る人はごく普通のオヤジだと思うようだ。しかし、内心のこの狂気のようななにかは、レインが最晩年にほのめかしたように、そこに暗示された超越的な何かなのだろう。こうした話に関心あるかたには、「レインわが半生―精神医学への道(岩波現代文庫学術)」も勧めたい。ただし、翻訳は中村保男のわりにこなれていない。
 神秘と呼ぶには粗忽すぎる何かがある。著者サイモン・ウィンチェスターは、マイナーの症例を見ながら、辞書編纂の知的作業が精神を維持するのに貢献していただろうと推測する。そして、現代なら、普通の生活ができたのだろうとも推測しつつ、しかし、そうであるなら、我々人類がこのOEDを受け取れないという歴史の皮肉に、ある種不思議の感に打たれている。
 本書はどちらかというと、OEDの外側のエピソードに触れた書籍であり、少し知的な高校生なら読んでおくべきかとも思う。が、シェークスピアはいいとして、スペンサー(Edmund Spenser)って誰?みたいに、まだ歴史の感覚ができていないと、本書の醍醐味は十分には味わえないかもしれない。ある程度英文学を学んだ人間には別の面白みがあるはずだ。
 本書には未翻訳の続編ともいうべき"The Meaning of Everything: The Story of the Oxford English Dictionary"があるようだ。英語で読むのはしんどいし、訳が出そうなので待とうかなと私は思う。
 最後に、やまざるさん、ありがとう。極東ブログをやっていて幸せと感じるのはこういことがあるからなのだ。

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実感薄き景気回復

 昨日エープリールフールということもないのだが、日本銀行が発表した企業短期経済観測調査では、大企業製造業の業況判断指数は、製造業・非製造業の両者ともに、昨年末より改善した。景気は回復している。もちろん、「景気」というのは産業部門のことなので、家計の視点で見て、景気がいいということに直接つながるわけでもない。生活者の実感としては、どうだろうか? そのあたりは、なんとも漠としているのではないかとも思う。
 産業部門の景気向上は、端的な話、中国への輸出効果と見ていいだろう。昔の人の言葉だと特需、神風(じんぷう)だろうか、運のいいことだ。しかし、同じ運の分け前を受けていい韓国の景気動向は暗い。韓国ももちろん中国への輸出は増え、その恩恵も受けているのだが、国内経済には反映していない。この問題はこれ以上ここで突っ込まないが、それでも、日本の景気回復には日本ならではの努力があったと見ていいには違いないのだろう。
 と、くぐもった言い方をすれば、それは結局、「構造改革じゃなかったじゃん」ということだ。むしろ、為替の安定というか、ぎりぎりまで財務・日銀が円高を抑え、間接的なリフレ政策を講じてきたことの成果だ。が、なかなかそこが見えづらい。というわけで、構造改革の偽ラッパはまだ鳴っている。毎日新聞社説「3月短観 新段階の経済政策が必要だ」ではこうだ。


 景気配慮を第一にした政策や論議の時代は終わったということだ。そこで、本当の経済構造改革をやらなければならない。
(中略)
 企業は経済全体を健康体に持っていくため、これまで先送りされてきた経営体質の強化などの手立てを打たなければならない。株価が回復し、業績も増益となれば、現状でいいとなりかねないが、過ちを繰り返してはならない。

 この手のラッパは、最近ブログの宣撫班からも聞こえるので、変な感じだ。ま、うんこが飛んで来ないようにこの話も突っ込まない、と。
 いずれにせよ、構造改革という空しい看板の裏で構造は依然改革されず、しかも、その冗長な構造のおかげで、他の国なら、すでに深刻な問題なりつつある石油高騰の話も、なんとかその冗長さのなかで日本は吸収しそうな気配だ。そ、それでいいのかぁ。ま、構造の話はやめよう。問題は、金融政策であり、為替だった。
 陰謀論的に見られるかもしれないけど、これまでの極東ブログの視点が大筋で当たっているようなのでその路線を延長すると、この景気回復の四月馬鹿みたいな話の裏で、円は急騰した。が、日本はこれに介入していないようだ。米側の「よーし、ここまで」という制御が効いているわけだ。もっとも、そこまで露骨でもないのだが、政治の視点から見れば、そう受け取る以外ないだろう。経済論理だけで見るには不自然過ぎる。本来なら、グリーンスパンの曖昧な発言も控えさせるくらいにすれば上出来だったのだが、スノーの発言まで出させた。これが限界だったかと。
 で、米側の停止信号の意味はといえば、これは、もう大統領選っていうことでしょ。なんか、陰謀論ですねと突っ込まれるだろうけど、ここで、ぐっとドルを下げるしか、ブッシュは弾除けできないんじゃないか。ま、この話を続けると本気で陰謀論になってしまうから、これもこのくらい。ただ、私の感じとしては、ケリーよりブッシュのほうが国際経済的にはマシ臭いので、これでもいいっかぁ、である。
 国内経済的には、どうでもいいけど参院選に向けて、一般家計への景気回復感がもう一声欲しい。幸い内税化もうまくいったし、じわっとインフレ誘導もしやすい。一次産品の値上げもうまくこの雰囲気に忍ばせて、さらに製造業側にエールを送るか、おっと、また製造業かよ。
 景気がよくなったとはいえ、産業別、地域別には分化も進んでいる。ま、それが「構造」っていうかだが、これは私には大きな問題だと思う。日経社説「企業景況感に春、問題は持続性と広がり」は簡単に指摘している。

 また、企業規模や業種、地域によって回復の度合いに差が大きいのも気になる。中小企業非製造業の業況判断指数はマイナス20と景気が悪い企業のほうがずっと多い。大企業でも窯業・土石(同10)、建設(同20)、飲食店・宿泊(同25)などは景気回復までになお遠い。
 長期的に需要回復が見込めないような業種には再編や事業転換などを促すような政策をとる必要がある。それを含め景気が持ち直した今こそ持続的回復に向け、企業、政府とも構造面の改革に力を注ぐ時だろう。

 日経なんで呑気なことが言えるのだが、産業の再編はいいとして、この指摘の背後には、ようするに地方を再編せーよ、ということが含まれている。地方は待ったなし状態だが、参院選がらみあり、しばらく、まだ問題は大きく露出しないかもしれない。
 地域をどうするか。わからないのだが、先日、NHKの討論会とかぼけっと見ていて、東京の一人勝ちっていうのは、国内で見ると一人勝ちだけど、国際間の大都市の競争として見ろよという指摘が気になった。国際間の大都市の競争というのはたしかにありそうだ。そしてその競争は流民をモデルにした、一種の比較優位のような状況にもあるのだろう。日本国内で見るとなんで東京が一人勝ちということになるが、東京が勝たないと国際間では負けになる。
 で、負けって何? 俺に訊くなよってオチにしておく。よくわかんないから。

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2004.04.01

文春出版禁止、高裁で反転

 週刊文春差し止めという地裁の判断を昨日高裁が覆した。私の印象はそれほど意外でもない。世論に配慮したか、高裁だと世情や歴史に対する経験判断が強くなるのかなと多少ゲスの勘ぐりはした程度だ。ただ、この反転をメディアがどう受け止めるのかと考えると、ちょっと暗澹たる気持ちにはなって、そして、苦笑した。
 出版側が先導する世論としては、これで「出版の自由」が守られたというお祭りになるのだろう。そ、それでいいのかぁ?と思う。ま、それでもいっかぁという投げやりな気持ちも私はある。が、この問題に過去2回扱った手前、現状の思いを書いておくべきなかとも思う。ちなみに、「週刊文春差し止めの是非は今後の問題だ」(参照)と「私は週刊文春の反論は間違っていると思う」(参照)だ。
 まず、今回の高裁の決定だが、「私は週刊文春の反論は間違っていると思う」として展開した私の考えとぶつかる点は、この記事内容が差し止めに値すると評価するかということだ。それだけなのではないかと思う。この含みは、依然、差し止めが可能であることは保持されているのであり、また、困ったことにその差し止めの原則性の確立には向いてないことだ。
 くどいが、今回の決定で、田中真紀子の娘が私人でなくなったわけでもなく、またその記事に公益があるというわけでもないことはむしろ再確認された。また、この記事のために他の記事が差し止めらるということは問題にすらならなかった。なにより、大筋で「出版の自由」という大看板の問題ではない。ほんとにくどいが、事前差し止めはイカンという話では全然ない。私としても事前差し止めがいいとは思わない。問題は差し止めの原則性だけにある。
 朝日新聞社説「出版禁止――取り消しは当然だ」は間違った世論誘導をやっているなと思う。北方ジャーナル事件で最高裁が差し止めは検閲に当たらないとしていることをほっかむっている。


 たとえ裁判所であっても、出版される前に記事の内容を審査することが一般化すれば、それは事実上の検閲になる。民主主義の社会を支えるために欠かせない自由な情報の流れが止まってしまう。

 今回の高裁の判断については、産経新聞社説「『文春』逆転決定 『出版の自由』保護は妥当」がわかりやすいのでひく。

 その上で、記事は長女側のプライバシー権を侵害するが、プライバシーの内容、程度にかんがみると事前差し止めを認めなければならないほど「重大な著しく回復困難な損害を被らせるおそれがあるとまではいえないと考えるのが相当」との結論を導いている。

 もう一点、読売新聞社説「文春・高裁判断『プライバシーの侵害』は動かない」をひく。なにも右寄り意見だけを引用したいわけではなく、わかりやすいからだ。

 だが、長女に対するプライバシー侵害については東京高裁も認め、「守られるべき私事を、ことさら暴露したもの」とした。記事自体についても「公共の利害に関するものではなく、公益を図るものではないことは明らか」と断言した。
 判断が分かれたのは、出版の差し止めを認めなければならないほどの「重大な著しく回復困難な損害を被る恐れ」があるかどうか、をめぐってだ。
 出版禁止を認めた東京地裁は、「回復困難だ」と明確に認めた。だが、東京高裁は、禁止するまでの「程度」ではないと判断した。

 手続き上気になるのだが、私が法律に詳しくないせいもあるのだが、田中真紀子の長女が最高裁に特別抗告すると、今回の高裁の決定は保留、つまり、依然、出版禁止の状態となるのではないか。そのあたりがあまり明確に解説されていないように思う。余談めくが、田中真紀子の長女がどうでるのかなというのは、私もゲスな関心はある。
 余談だが、今回の件で、文春ヤキが回っているなと思ってそうしたABCの資料をみていたのだが、週刊誌の売上げが、週刊新潮を除いて99年あたりをピークに急落している(ネットの影響はあるのだろう)。週刊新潮がマイペースだが、現ポスはイエローペーパー化した結果という感じだ。文春は、93年に76万部くらいなのが03年には56万部くらいに落ちて現ポスからも水を開けられている。ここは一発昔の歌(田中ファミリー叩き)で祭りをしたくなったのかもしれない。確かに、興行としては大当たりだが、この影響はむしろ社会に逆効果を生んだと思う。若い世代の大半は今回の事件で、文春オヤジってバカ?とか思っているのが実態だろうから。

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2004.03.31

筋弛緩剤事件は冤罪ではないのか

 本当は、東電OL事件のように冤罪であると主張したい。が、筋弛緩剤事件は冤罪であると主張するだけ自分のなかで考えが詰められていない。どうしても市民からは見えづらい事件なのでそれを精力的に探るジャーナリズムの援用が欲しい。
 しかし、にも関わらず、冤罪であるとの疑いは消えない、ということははっきり書いておきたい。
 理由は3点ある。


  1. 状況証拠しかない
  2. 動機がまったく理解できない
  3. 自白への不信感

 詳しく知らないで無知を晒すのだが、このような裁判で、自白が重視されるのは先進国において通常のことなのだろうか。
 今回の判決はある程度予想されていたもので、恐らく法学的には間違いない、のではないかと思う。しかし、違和感は強くある。この感覚は、松川事件とそれを文学の視点から追及した広津和郎のありかたから得たものだ。こう言うと不正確だが、松川事件裁判の検察は法学的には正しいのではないか。このような裁判を考えるとき、自分の感覚と法学のズレを補正するのにいつもこのことを想起する。
 今回の裁判について、朝日新聞社説「筋弛緩剤判決――裁判員が裁くなら」は搦め手に出た。ちょっとずるいなという感じもするが、この手は私なども思ったことなので、評価はしたい。つまり、この事件は、裁判員制度なら異なる判決がでるのではないかということだ。私が裁判員なら、無期懲役を下すことはできないと思うからだ。
 読売新聞社説「筋弛緩剤事件 これを裁判員制度で裁けるか」は朝日と逆の論を張った。

 スピード審理とはいっても、これほど時間がかかるようでは「裁判員制度」など、本当に機能するのだろうか。そんな疑念を抱かせる判決である。

 ひどいこと言うよなというか、日本人を舐め腐ったことを言うよなと思う。しかし、現実の日本社会にとって、読売の示唆はあながち外していないことになるだろうということは、ちょっと理性的に考えればわかることである。
 ただ、意図的かどうか、読売は美しい墓穴を掘っていてくれた。

 今回の判決は、筋弛緩剤の混入の事実を示す「科学鑑定」などを足掛かりに、多数の状況証拠を積み上げた「合理的推認」の結果である。「合理的推認」を重視して、裁判の核心である犯罪事実の認定を行ったのは、新制度を視野にいれた変化の表れだろう。
 この場合、事件全体の詳細な立証がないと、被告が、例えば、量刑などで不利になる可能性がある。だが、こうした問題点は、これまでの政府の司法制度改革推進本部の制度作りの過程でも、国会でも審議されていない。

 話は逆に読める。今回のケースでは、裁判員制度の場合は、より緩和な量刑となったのだろう。
 この事件と裁判については、私としてはまだ考え続けたい。被告は「そんなことってあるのでしょうかね」と言ったらしい。多くの人が人生のなかで、これほどのことでもなくても、そう呟きたくなる経験をする。私は、ことの是非以前に、被告の心情の一端がわかる気がする。そうした思い入れが判断を誤らせているのかもしれないとも思う。しかし、そうした心情を大切にしておきたい。
 参考:「識者はこう見る 筋弛緩剤事件判決」(参照

追記(同日)
 自白について、「【日弁連】 被疑者取調べ全過程の録画・録音による取調べ可視化を求める決議」(参照)が参考になる。

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2004.03.30

The high ideals controlling human relationship

 どうせそう簡単に答えはでないだろうと思いつつ、日本国憲法前文の"the high ideals controlling human relationship"という表現が気になってしかたない(「試訳憲法前文、ただし直訳風」参照)。少し愚考したので書いておく。
 一番の疑問は、なぜ"control"という妙ちくりんな言葉が使われているのかだ。
 それと、the high idealsという表現も少し気になる。こちらは、ちょっと考えると、theの語感から、単に文脈を受けているだけなのだろうが、複数形になっているidealsは列挙するなら、なんなのだろうか? "a universal principle of mankind"は単数形なので、これを直接受けているわけではない。そして、これが相当しないとなると、それ以前の部分がidealsに含まれるわけにもいかない。端的に言えば、"a universal principle of mankind"は「主権在民("sovereign power resides with the people")」ということだろう。
 このidealsは、"human relationship"をcontrolする機能を持つのだから、その側面の意味の反映を受けるわけだ。すると、"human relationship"とはということに、少し話を持ち越す。
 "human relationship"は難しいと言えば難しいが、人間というのは利害が対立するから司法があると考えれば、それほど難しい概念でもない。刑事的な場合は正義だが、民事的には利害と言っていい。どちらかといえば、ここでは、「利害」の意味を帯びているはずだ。
 が、文脈上は、"the Japanese people desire peace for all time"に関連するから、基本的に、人間の関係というのは、日本人と他民族との争いという意味合いがあるのだろう。
 つまり、各種の理想というツールで、日本人と他の民族間の利害をコントロールする、ということだが、このコントロールは、制御、というより、「抑制」だろう。
 というのは、ふとCDC(米国疾病対策センター)の略語を思い出した。これは、"Centers for Disease Control and Prevention"である。歴史的には別の略語だったようだが、いずれにせよ、日本国憲法のcontrolの含みは、マラリアなどのdisease controlのcontrolに近そうだ。birth controlもこれに近いだろう。時代の語感も近そうだ。
 こうした考えで当時の状況はなにかとぼんやり考えていて、もしかしたら、ウィーナー(Norbert Wiener,1894~1964)じゃないのかと思い至った。サイバネティックスだよな、これって。
 しかし、その主著"Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine"が出版されたのは1948年。概念的には1947年と考えてもいいが、完成したサイバネティックス理論が直接日本国憲法に影響したとは考えにくい。
 それでも、ウィーナーは、第二次大戦のために、自動照準器を研究し、そこから、計算機理論・情報理論を開拓して、さらに、動物制御と通信技術を統合していたたので、この時代の知的ヒーローでもあったし、ポリティカルにフリーだったとは到底思えない。
 関連するcivilian controlという言葉のの歴史状況はどうかと言えば、"Civilian Control Agencies"は朝鮮戦争時の"Federal Defense History Program"の一環のようなので、やはりGHQ的な雰囲気のなかにはありそうだ。
 ぼんやりとだが、やはり、ウィーナー的な世界観から、controlling human relationshipという考えができてのであり、それは、ざっくばらんに言えば、人間という動物の制御として国家間平和を考えていたのだろう。
 なんか屁理屈をこいているようだが、Controlの語感としては、そんな時代を反映しているのではないかと思われる。
 問題は、これが我々日本人の憲法であるというとき、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."というのは、どういう意味合いを持つのだろう?
 ちょっとやけっぱちな言い方だが、これは、「オメーら危険なジャプは理想というのを心得て他民族へのちょっかいは自制せいよ」っていうことじゃないだろうか。というのは、高い各種の理想っていうのを他民族に持ち出しても、へぇ、みたいなものだ。朝日新聞がいくら平和と理想を説いても金正日は聞く耳を持たない。
 日本国憲法のスキームでは、太平洋戦争(大東亜戦争だがね)をおっぱじめたのは、政府であって、日本国国民ではない。だが、米国様がこの悪い政府を転覆して、国民が政府を立てられるようにした。だから、今度の政府を使ってまた隣国に悪さをしちゃだめよーん、というのが、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."の含みとしていいように思う。
 これって、正直屈辱感あるよね。っていうか、先日、イラクの民衆意識調査でイラクの人が少なからずアメリカに屈辱感を持っていることが表現されていたが、これは日本とも同じ面があるな。
 日本人は、この屈辱感をどうしても、忌避するから、排除したり、そんなことはないのだぁみたいなオブセッションとしての平和主義になるのだろう。
 ま、でも、それって、やっぱ、屈辱だよね。でも、日本民衆はあの戦争阻止できもしなったんだしねと考えると、しかたないっか、っていう気にはなる。英語の日本国憲法のこの部分は、要するに諸外国には、「ごめんねぇ」というニュアンスに聞こえるのだろう。しかたなよね。

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対幻想と正義

 自動回転ドア事件の関連でちょっと暴言を吐いた。無意識に対幻想を基軸とした自分の考えが露出した。暴言だからなというのはある。通じると思っていたわけでもないが、それがほぼ無内容に響く世代があることは知らず、自分が不覚に思えた。俺はヤキが回っているぜと本気で思った。そして、対幻想についてぼんやりと考えた。そして考えるほどに、対幻想のありかたがまるで変わっているのだとしか思えないことに、気が付く。
 対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉本隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。
 駄本だなと思った橋爪太三郎「永遠の吉本隆明」を昨日ぱらっとめくりながら、いろいろ思った。駄本は駄本なのだが、こういうことを言う状況の必要性というものはあるのだろう。ただ、この本は、イントロダクションとしてはあまりいい本ではない。そして、率直に言えば、吉本本人の「共同幻想論」はお世辞にもいい本ではない。編集者的な視点や欧米的な視点で見るなら、電波としかいいようがない。これを丹念に読み解くことは簡単なことではないし、もしかすると、それは未だになされたことはないのかもしれない、とぐぐると、「書評1 吉本隆明『共同幻想論』」(参照)が出てきた。読みという点では、きれいに読んでいる。へぇと関心した。だが、これで読解されているかというと、そうでもないようにも思うというのは正直な印象だ。


今回、私はじっくりとこの本を読み込んでみたが、論理の展開にやや錯綜している印象を抱いたものの、何度も考え直してみたくなるような深いテーマに知的興奮を感じないわけにはいかなかった。

 非難をしているのではないが、共同幻想論は「知的興奮」として読まれたものではなかった。全共闘世代の大半が読んで大半は理解しえなかったのだが、それでも、ある核心的なメッセージだけは伝わっていた。やさぐれた言い方をすれば、「おまえは正義の前に、その女の身体を抱け」ということだ。女性なら「男根くわえてみな」っていうことだ(もちろん、そうしたマスキュリニズムが対幻想ではない)。
 共同性が正義なり倫理として人を支配しようとするとき、吉本は、それを原理的に無化して見せた。もちろん、そういう総括や理解は違うよ、という批判もあるだろう。というのは、吉本は「国家」の否定原理として対幻想を挙げたのであって「正義」や「理想」ではないのだと。しかし、私は、正義・倫理・理想とは、吉本のいう国家幻想に含めてよいのだと考えている。
 そして、吉本が国家の幻想領域を無化したとき、ある意味、市民社会の正義の可能性というものの芽も断たれた。社会学的に見ればニヒリズムにも転化したと評価してもいいだろう。吉本自身は80年代半ばまで実は「革命」の可能性を模索していたのだが、それも原理的に解消された。そこから先は、超資本主義という新しい国家の相貌をどう解体するかという積極的な理念が出現したのだが、ここで吉本主義者の大半は脱落した。
 アポリアも多かった。おそらくその新しい闘争の次元の地平となるのは、吉本原理でいうなら、対幻想であったはずだがそこがまさにアポリアだった。対幻想=家族が、どう超資本主義に向き合うのか、また、超資本主義が個人の欲望を疎外したように見える点についても、対幻想は確固たる橋頭堡たりえるか、そこは十分に問われていなかったように思う。いや、家族の解体として、問われていたのかもしれないが、思想を課題に生きる人間にとって十分なエール(声援)にはなりえなかった。
 くどいようだが、恋愛と家族の問題にくたくたになるまで擦り切れて生きる。それだけが真の人間存在であり、人生っていうものなのだが、そこからどう超資本主義に向き合うのか。そのアポリアの脇に、くだらねぇニューアカのあだ花が咲きまくり知性を誘惑した。それはある意味、必然だっただろう。知性を抱えた自己幻想が、対幻想のなかから十分に意味を汲み出すことができなければ、知性そのものが危険な外化を遂げてもおかしくはないのだ。そして、それが今やある種の大衆化を遂げているのが、たぶん、ブログの風景の一端なのだろう。
 こう書きながら、おめえさんはどうなのかと言えば、知性に与しないと言いながら、そして対幻想だけが原理だと抜かしながら、なぜ、極東ブログなんてものを書くのか? 答えられやしない。自己満足なんて揶揄は承知の上。矛盾はそんなところにあるわけでもない。
 話を少し戻す。正義がそのように原理的に無化されたとき、人は本当に生きることが可能か。ちょっと問いの出し方が正しくないのだが、私がこの20年間考え続け、ある意味、吉本から離れているのは、自己幻想・対幻想と共同幻想=国家幻想のその中間に、「市民存在」というものをある種確信するしかないのではないかと思えることだ。
 端的な命題からいえば、今や自己幻想・対幻想に敵対するものは国家としての共同幻想ではなく、ある種の疑似国家のような正義の幻想ではないか。そこから、どう自己幻想・対幻想を内包した市民存在を救い出すのか。
 わかりづらいので例を挙げるが、社会の正義幻想が田中真紀子の娘を追撃するとき、彼女を救い出すには権力が必要になる。その意味での、あたかもルソーの一般意志のような国家幻想が必要になるのではないか。
 複雑な状況にあると思う。吉本隆明ももう老いてしまって、思想というもの根幹を支えるエールとしては存在しえない。そして、多分に対幻想というもが崩壊してしまった。対幻想というのは難しいといえば難しいが、ごく単純に言えば、「私はこの女とこの女の子供の視野の中で死のう」ということだ。正義のためにも国家のためにも死ぬことなんかできやしない、ということだ。だが、そうした対幻想はすでにある本質的なところで崩壊した。もしかすると、歴史の運動のなかでそれが再現されることもないのかもしれない。
 すると、個人とそれを抑圧する社会と、個人を社会から保護する国家という三極になるのだろうか。私にはわからないし、私の考えの道筋が間違っているのかもしれない。
 それでも、個人を抑圧する社会は正義の相貌をしていることは、このブログを書きながら確かだと思えてきた。私は正義に誅せられる状況にあれば、ぎりぎりまで対幻想の立場から防戦して、アッパレ戦死を遂げてみせようかという欲望にも駆られる。ある種のニヒリズムでもある。また、そう言いながら、どこかで対幻想から別の防戦の正義(それは本質的に倒錯したものだ)をひねり出すかもしれない。いや、そうしているのだろうとも思う。
 こうしたスキームのなかで、自分が対幻想と、一般意志としての国家への依拠という矛盾したスタンスが出てくるように思う。そして自分が矛盾しているのは、まさにその二極をどう扱っていいのかまるでわからないことだ。(一般意志としての国家は今や超国家にもなりつつある。)
 くどいが、それでも私は現在の状況のなかで、言説的には正義たりえないし、私がひねり出した正義は一般意志としての国家として奇っ怪な相貌を見せることになるのだろう。
 結語はない。ふと吉本の顔が思い浮かぶ。麻原事件の件で、社会正義で血祭りに挙げられたことを、「俺の勝利だよ」と呟いたのではないのか。いや、気にも留めなかったのだろうな。

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Froogleの潜在的な破壊力

 昨日Googleに編成替えがあり、デザインが変わるとともに、価格比較検索のFroogleが正式追加になった。私は通常、英語版のGoogleを使っているので、気になって日本語版を見ると、日本語側のほうではまだサポートされていない。英語版のほうのFroogleで試しに日本語表示で検索サイトも日本語に設定にしてみると、結果を日本語で表示したが、商品はドル表示に限定されいることと、検索精度がまだまだ実用的ではないことがわかる。なーんだという感じだ。
 と、そこで、そういえば、自分が使っているサプリメントをいつもとは違うサイトで購入してみるか、安いところはないかと、Natures'WayブランドのTru-OPCsで検索して、結果にぎょっとした。こ、これは使える。同じ製品が安い順にきれいに整列されているのだ。Froogleをこれまで試しに使ったことがあるが、自分が購入しようというインセンティブを持って使ったのは、実は初めてだった。そしてそうした状況で使うと、これはものすごいものだと得心した次第だ。
 幸いというのか、Tru-OPCsにはポテンシーと数量にいくつかバリエーションがあるので、ポテンシーの点からどれが本当に安いのかなかなか判別しづらいのだが、ざっと見た感じ、Froogleの評価は正しい。ポテンシーと数量の比較をやっているのか、あるいはディスカウント・パーセントをアルゴリズムに組み込んでいるのか。あるいは、PageRankかそれに類する仕組みで結果的にこうした表示が出てくるのか。まだ、はっきりとはわからない。
 Googleはサイトの評価をすでに初期のPageRankとは別の仕組みで行っているようだ。もちろん、PageRankがまだまだ重要であることは未だに稚拙なGoogle Bombが効くことでもわかる。が、少なくとも、Fresh crawlを決定するアルゴリズムはPageRankとはかなり独立しているようだ。極東ブログがその面で、どうもGoogleの覚えめでたい印象を受けるのは、アレだなと思うことがある。当たり前のことだが、SEOのかたもまだ明白に指摘してないので、ちょっと秘密にしておこう。
 いずれにせよ、Froogleの上位には価格が反映されるようなのだが、これが独自アルゴリズムによるのか、PageRankのような要素で決定しているのか、気にはなる。米人の場合、「破壊的イノベーション」理論ではないが、かなり生活に根ざしたコストパフォーマンスの消費行動を取る。売る側もそれに最適化された情報を露骨ともいえるほど提供する。つまり、そうした米人の消費行動自体がFroogleを最適化しているのだろうかという疑問だ。
 もちろん、アウトラインの説明などには、人工知能的な要素が加味されているだろうし、内部的にもセマンティックWeb的な再統合がされているには違いない。そのあたりの技術というのは、ちょっと溜息が出る。セマンティックWebなんてものは、ティムが考えるように公開の仕様にする必要はないんじゃかと思ったが、逆かもしれない。こうした技術を公開に引き出すために標準化があってもいいのかもしれない。
 話を、私の、びっくりしたぜ、に戻すと。これが日本で実現したら、とんでもないことになるなという感じだ。もちろん、私の生活人としての感性はかなり古いので、米人のような消費行動は取らない。また、ネックとなるのは、恐らく日本の場合、流通だ。つまり、流通という過程で介入してくる隠蔽された国家だ。ここをどう突破できるかが日本での問題になるだろう。簡単な話で言えば、送料と納期の問題である。
 Tru-OPCsの例で上位サイトの日本へのIntenernational shippingについて少しサーベイしてみると、どうも状況がかなり変わった。DrugStore.comあたりでも昨年の時点で日本が解禁されていたので、こうした流れはあるなと思っただが、この傾向はいわゆる大手ショップだけではないようだ。
 また、決済がどうもショップと分離されている面もありそうだ。このあたりは、まさに、IT化っていうものだろう。もう一点、Shippingのための配送作業などがどう標準化されているのか、そのあたりの労働力はどのように分散されているのかも気になる。自分の実感としては、顧客対応に女性が多いことと、アジア系の名前が多いので、もしかすると、こうした対応センターはすでに「雇用流出」なのかもしれない。大げさに書いたようだが、なにかが確実に変わっている実感はある。
 先に日本では、ということを書いたが、問題が流通ということになれば、単純に、個人輸入の敷居を下げればいいのではないかとも思える。下げる最大のポイントは、やはりコストだろう。と、Shipping Cost面の情報を見ていくと、これも意外なほど米国の対外的な対応がシステム化されていることがわかった。以前なら、Shipping Costは、お任せコースみたいなものだったのだが、そうでもない。世界の国がわかりやすくランク分けされている。このランク分けは以前から知っていたつもりだったのだが、ざっと見て、驚いた。韓国と日本に隣国とは思えないランク差がある。また、オーストラリア・ニュージーランドも日本より差がある。当たり前と言えばそうなのかもしれないが、日本は、かなり米国に近いようだ。メキシコの沖といった雰囲気であろう。
 もちろん、以上のShippingはAir(空輸)を想定していて、Surface(船便)ではない。米国から物を買うとき、大きなメリットが出るのはSurfaceなのだが、このあたりの手順は、ネットから見るに、まだまだ従来通りだ。個人輸入代行というと、ゴマ臭い商売ばかりだが、Surfaceをメインに在庫調整するビジネスがあれば面白いのではないかと思う。が、当方、邱永漢老ほど腰が軽くない。

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2004.03.29

英語の辞書

 身近な本屋に行ったら、辞書が山積みだった。そういえば、最近、英語辞書っていうのを買わなくなったなというのと、学習用の英語辞書にはどれがお薦めだろうかとちょっと見た。わからなかった。

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リーダーズ
英和辞書
 実務翻訳に使えるのはリーダーズ英和辞書くらいなものだろう。なにしろ語数がないといけないから。そして実務だったら、ちょっと高いが、EPWINGのEPWING版 リーダーズ + プラス V2のほうが便利だ。私が使っているのはこのバージョンではないが、EPWINGなので、DDWin(参照)が使えるはずだ。データを全部HDに移して他の辞書と串刺し検索するといい。MacならJamming(参照)だろう。
しかし、最近では、英辞郎(参照)でけっこう足りる。っていうか、これでも知りたい言葉が出て来なかったり、あまり正確ではないなと思うこともあるのだが、特定の例を忘れた。ま、医学用語とかだと思うので、それほど普通に使うには問題はない。
 私が普通に英文読んでいて、ちょこっと使うことが多いのは、プログレッシブ英和中辞典だ。特にこれがいいというわけでもないが、見やすいし、なんとなくだが、便利だ。丁寧にできた辞書だとうい印象がある。高校生など学習者に向いていると思う。
 個人的には高校生の学習向けには新クラウン英和辞典を勧めたいのだが、現代という時代を考えるとちょっと引いてしまう。この辞書は、河村重治郎の魂がこもっている。
 現在の高校の現場では、今でも、新英和中辞典 [第7版] 並装が推薦されているのだろうか。ちょっと古い文型なんで、使い勝手はどうなのだろう。英作文に向くと言えるのだろうか。7版になって挿絵が減ったようだが、つまんねー授業を聞いているとき、この辞書の挿絵はかなりおかしいので助かった。だから、この絵だけ増やしてほしいものなのだ。
 言語学的には川本茂雄の英和辞典(講談社学術文庫365)が面白いのだが、絶版のようだ。ちょっと高いが講談社英和中辞典のほうがボロボロにならないか。古いし癖があるので、高校生向きではないような気はする。
 絶版だし、学習者向けではないが、英語に関わる人なら、古書なでめっけたら購入を勧めたいのが田中菊雄ほかの「岩波英和辞典」だ。中島文雄の「岩波新英和辞典」ではない(これは糞)。田中菊雄もすごい人だ。なにしろ、この辞書は、OEDのサマリーなのである。英文学学生垂涎であろうな(ではないのか)。あと、この手の世界が好きな人には、現代読書法(講談社学術文庫)も勧める。昔の人は偉かった。
 OEDのサマリーと言えば、COD。そして、PODとなるのが私が英語を勉強した時代のことであった。今ではOEDはCD-ROMにもなる時代だが、それでも、なにかと私が使うのは、POD (Pocket Oxford Dictionary) sixth Editionだ。これは、なんつうか、今となっては奇書だろう。6版が最後のPODだろう。ちゃんとOEDの風格を残しているのだ。
 7版移行は、英語学習者志向になってしまった。だが、6版がすごいというもう一点は、事実上、発音記号を廃した点だ。英語の辞書には発音記号は要らないのだと事実上主張したのだ。英単語にちょっとフォーニックス的な工夫を加えれば、英単語はそのまま発音できるはずなのだ。が、この試みは挫折してしまった。嗚呼。
 よく英語学習者に英英辞典を薦める人が多いのだが、私は勧めない。というか、英英辞典のメリットというのがまるでわからない。OEDは英英辞典と言えばそうだが、これは、一種の歴史書でしょう。
 ちょっとどっかに出かけるときに便利なのが、ちっこい「ビジネスコンサイス英和辞典」なのだが、絶版のようだ。この用途は電子辞書になったのだろう。
cover
Roget's
College Thesaurus
  最近の学生は、Roget(ロジェ)を使っているのだろうか。私が学生のころから使って、これって便利なと思うのは、"The New American Roget's College Thesaurus in Dictionary Form"だ。正式なRogetの形式ではないが、実用向けだ。英単語のコノテーションを知るのにも便利だ。安いし、こいつは一冊お薦めしたい。

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自動ドアを敵視するセンス

 コメントとトラックバックへのレスも兼ねてもう一文起こしたい。が、それがこの記事の一番の目的でもない。もう一度、極東ブログ「回転ドア事故雑感」(参照)を書いたときの自分の心情に戻ってみたい。私はこう書いた。


社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。

 もやっとたした点については、明確には書かなかったが、子供を事故で亡くされた親の気持ちが自分にはとてもつらかった。Nakajimaさんからコメントもいただいたが、私もPL法に少し関わったことがあるので、その観点と他の状況から見て、過失は六本木ヒルズ側にあり、親御さんにはないと判断した。裁判でもそうなるだろう。現在の世相から判断して、まさか自動回転ドアにあれほど恐ろしい罠が潜んでいるとは普通考えづらい。そこは親御さんを責められるわけもない。また、自動回転ドアの危険性は技術的には緩和できるはずだ。問題は、あくまで欠陥した自動回転ドアの問題であり、どちらかといえば特殊なケースだと考えた。
 そのことと、同様の状況における子供の安全について、ただ六本木ヒルズを責める世論の流れに違和感を感じた。それじゃ子供が守り切れない。親たちしっかりしてくれよ、と。
 もちろん、六本木ヒルズみたいな糞を弁護する気なぞさらさらない。余談だが、私が極東ブログの筆者であることを知るわずかな人の一人に、なぜ、俺は批判されているのだろう?と訊いたら、「六本木ヒルズの弁護側に見えるからじゃないの」と言われた。そうなのだろうか。私は六本木ヒルズや三菱ふそうの事件には確かにあまり関心ない。もはやバックレも効かない古典的な悪としてお陀仏しているからだ。
 私は47歳にもなる。子供たちを守りたいと思う。親たちしっかりしてくれ、国家も企業も「正義」すらも、あてになんかならないんだぞと言いたい。「事故というものには本質的に責任は取りきれるものではない」なんて言う頭でっかちさんでは、なにがなんでも子供を守るという気概は持てやしないよ。みなさん、都市内で就学前の子供を引率してごらんなさいな、と思う。人の命を守るっていう場に立ってご覧なさい。理論も糞ない。必死だよ。子供を都市から守る経験をしてみなさい、っていうか、それを親たる年齢の人は学びなさいと思う。そんなことは当たり前だろうと言われるなら、それでもいいのだが。
 しかし、そう言ってしまえば、結局、回り回って、事故の親御さんを傷つけることになるなと思った。どう言ったらいいだろうか。黙るのもなんだしな。ああ、これはセンスの問題として考えてもらえたらいいのかな、と。それであの記事を書いた。
 実は、私も同年代の子供を引率して、大きな自動回転ドアを通した経験がある。その時のことを思い出した。私のセンスはこう働いていた。
 まず、そいつ(自動回転ドア)を見て糞っと思った(この時の俺の眼はたぶん野獣と同じだろう)。私は自動ドアが大嫌いだ。自動ドアというもの自体を敵視している。そして、ある意味、無視している。私のセンスからすれば、自動ドアというのは本質的に糞なシロモノだ。イマージェンシー(緊急時)に開閉困難になる可能性がある。自分のセンスではいつでもコイツは叩き割る気でいる。が、次に、だから、必ずバイパスがあるはずだと瞬間に見回す。私のセンスでは、ドアというのものは自力でこじ開けるものだ。そして、私のセンスでは、ドアというのは本質的に危険なものだ。だから、後続の人の安全を配慮せねばならない。
 しかし、この時、私は、敢えて、子供を引率しつつ、自動回転ドアを通させた。慣れさせるためだ。ここだけでこっそり言うが、私は子供を引率しつつ、安全を配慮しつつ、立ち入り禁止の柵を越えさせることもある。それも慣れさせるためだ。私は柵を壊し、自動ドアをたたき割る意志というものも、それとなく子供たちに伝えたいのだ。暴言だが、盗むことも教えたいくらいだ。
 私のセンスがあれば、おそらく六本木ヒルズでも安全だろう、と思った。今こう書いていて白々しいのだが、そう書くのはためらわれた。だから、センスだけの部分を書いた。通じなかったな。通じるもんじゃないのかもしれないなと思う。通じない責は俺にあるだろうなとも思う。
 前回の暴言部分についてだが、これも通じづらいことだったかなと思う。甘かったなと思うのは、吉本隆明の共同幻想論自体、もはや読まれていない時代なのかもしれない。あるいは、国家幻想と対幻想の違いが「国家」に「家」という字面やその幻想性を漂わせることから、国家との連続性を考えてしまいがちなのだろう。しかし、吉本はこの機序には配慮して説明してはいる。しかし、吉本読めよ、という時代でもない。この点は、俺が時代錯誤だったかな、と思う。
 話が少し逸れる。私は、この事件の詳細が気になる。今朝になって、位置センサーの設定が子供を排除したようになっていたことを知った。それを知って、少し納得する。私の技術屋的な感じでは、この事件は、ちょっとありえないという感じもあり、そのありえないはずがあるのは、かなり特殊なケースのように思えるからだ。くどいが、東海村事故じゃないが、たいていの場合、「ありえない」ことが起きるのは、技術的な非常識が背後にあることが多い。なにがあったのかが知りたい。この点でいうと、敢えて書かなかったし、ここで言っても矛盾になるのだが、自動回転ドアの死角をゼロにするにはかなりの技術が必要で、その技術は飽和していないかなとも思う。
 詳細に関連して、私は子供の行動パターンに関心を持つほうなので、今回の状況にその点からも疑問点がある。なぜ、頭が事故部位なのか。もちろん、子供は頭から突っ込むことはあるのだが、それでも、子供も動物的な勘として、頭だけが通れる動的な隙間に身体まで突っ込むとは私には考えにくい。身長と事故位置が10センチ違うので、転んだでもないのだろうが、率直なところ状況にはもう一つ因子があるように疑っている。
 話がおちゃらけるが、蛇足で私流の子供のしかり方を書く。原則は2つ。1、できるだけ叱らない。叱ることで自己充足してない。できるだけ、子供に危険のフィードバックが効くように学習させるためには、ぎりぎりまで叱らない。もう1つは、叱るときは、本気で叱る。理性的に叱らない。本気が通じれば、子供は安心感を持つ。
 もう一つ蛇足。世の中子供と関わらない人が増えてきた。それも生き方だということで是認するのが前提だみたいな表向きの言説だけがふらふらしている。確かに、子供を持つ、育てるというのは、運命もあり、なしたくともなしえない人すらいる。だが、子供の関わることはできる。子供と関わることは、そこに危ねー命があるのだから、こんな難儀なことはない。しかし、それを大人はもっとすべきだと思う。やってみなくちゃわからんことがいろいろあることの重要な一つだ。っていうか、それをすることで、大人になる。もっと、大人語なんか読んでないで、動物的な大人が増えろよと思う。

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2004.03.28

子供はまず親が守る

 「回転ドア事故雑感」(参照)について、わずかなコメントとトラックバックを見た範囲だが、不思議な違和感を感じた。私の考えを整理しておこう。
 まず、今回の六本木ヒルズで起きた事件の責任は、六本木ヒルズと警察にある。疑いのないことだ(警察にも責任はある)。(この判断は妥当ではなかった。「回転ドア事故雑感」3.30追記参照)
 では、親の責任はないのか。今回の事故という範囲でいうなら、まったくない。親御さんに手落ちがあったとは思えない。責められる理由はまったくない。
 この以上の点については、先の記事から変心したわけでもない。
 私が、ここに記事を書こうと思ったのは、しかし、一般論として、子供を守るという責任は第一義に親にある、という点について、明確にしておきたいからだ。
 そう考えたのは、典型例であると思うのだが、トラックバックでいただいた「反資本主義活動等非常取締委員会」の主張に、錯誤を感じるからだ。


 しかし、子供とはそもそも馬鹿だから子供なのだ。大人なら行わないようなとんでもないことをしでかすし、ほんの数秒前まで親が手を繋いでいた子供が、突然駆け出すなんてことはよくある。子供は親に叱られたり、自ら痛い目に遭うことでやってはいけないことや、やったら危険なことを自ら学習するのであり、学習する前に死ぬこともある

 喧嘩を売る気はないが、で?、という感じがする。
 この文章には、「だから、親が、第一義的に子供の安全を守らなくてはならない」と導くことができるはずだ。
 しかし、「反資本主義活動等非常取締委員会」では

まさか、極東ブログでこういった気味の悪い文章を見ることになろうとは思いもしなかった

 というのだから、私の意見とは反対なのだろう?
 推測するに、子供は馬鹿なのだから、その馬鹿さかげんをシステム的なり制度的なりに保護せよ、ということなのだろう。そうか?
 もしそうなら、それはあまりに非現実的な考えではないか。
 例を挙げよう。「ゆりかもめ」をご存じないかたもあるかもしれないが、この鉄道(モノレールか)の駅には、安全のためにプラットフォームを囲い、電車に乗り入れるときのために専用の自動ドアが付いている。これなら、フォームに人が落ちる危険性はなく、優れたシステムだ。
 では、このようなシステムを、全ての駅に応用すべきなのだろうか?
 考えてもみて欲しい。大半の駅のフォームは非常に危険な場所だ。私が引率した馬鹿な子供は危うくフォームから落ちそうになった。
 この危険性から守るのは誰か?
 技術か? より安全なフォームの構造か?
 現状の危険な駅のフォームでも、規則を守れば安全だ。
 では、その規則を子供に告げ、あるいは、身体を張ってその子供を守るのは誰か?
 親ではないか。あるいは、親の代わりの大人ではないのか。
 よりよき未来を想定するなら、全ての駅は「ゆりかもめ」のようであるべきだろう。だが、そうではない駅を欠陥と呼ぶような議論は、あまりに常識を逸しているのではないか。
 エレベーターエスカレーターでもそうだ。あれは非常に子供に危険だ。子供の手を引くのは大人の勤めである。それを、子供は馬鹿だから手を離す可能性があるのを見越したシステムにせよ、と言うのだろうか。
 言うか。本気か?
 話を少し変える。自動回転ドアについてだ。六本木ヒルズの自動回転ドアは欠陥品であることは明かになった。だが、すべての自動回転ドアに、同様の本質的な危険性があるとは私は考えていない。私は、自動回転ドアについて、好悪の考えを持たない。一般的な技術論で言うなら、技術的には可能な限り安全性が確保できるだろうと考える。別の言い方をすれば、自動回転ドアの一般論の問題ではなく、あの六本木ヒルズの欠陥回転ドアが問題なのだ。
 さて、最近、暴論をなんとなく手控えている極東ブログなので、少し暴論に走ろうと思う。
 親子の関係とは、対幻想の延長にある。そして、対幻想は、国家幻想と対峙した独立領域であり、そこには本質的には、国家の法は及ばない。俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。子供を守るのは親だ。あるいは、子供は守られる必要があるから、親が要るのだ。

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回転ドア事故雑感

 大手では毎日新聞だけが社説「回転ドア事故 弱者の目線で安全を見直そう」で六本木ヒルズで起きた6歳児の事故を扱っていた。社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。
 どちらかというと速報のようにこの事件を聞いたとき、安全基準があるだろうから、事件の背景にはなにかディテールがありそうだなと思った。一番気になったのは、子供の行動だった。
 先日、私もひょんなことで、その年代の子供を引率して都心に出かけることがあったのだが、なんどもその子を叱った。その子は、親でもない人に叱られるというのが了解できないような顔をしているのだが、やがて私が本気だということがわかった。それでも、叱る回数は減らない。エスカレーターの乗り方もなっていないわ、地下鉄で電車を待つにもラインを出る。歩道はさっさと歩かない。親はどういうしつけをしているのかと思った。ある意味で、都市部で住んでいても、都市を生きるという生活習慣ができていないのだろう。そんなこともあって、この事件でも子供の行動の問題が背景にあるのでは、と思ったわけだ。
 しかし、後続の情報を知るに、回転ドアに安全基準はないどころか、センサーや動作について安全性の面で欠陥商品であることがわかった。六本木ヒルズなんてリッチかましているが、貧乏臭いシロモノだった。さらに、警察ではこの回転ドアの危険性を知っていたとしか思えないこともわかってきた(この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。目も当てられないふざけた話だ。さらに、またまた社会ヒステリーのように、回転ドアへの危険視が始まってきているようだ。
 人づての話だが、アメリカの大都市のビルは回転ドアが多いと聞いている。とすれば、それに潜在的な危険があれば、なんらかのトピックになっているに違いない。そう思って、少しサーチしてみたが、重要な安全情報は見つからない。足こぎのスクーターやローラ付きの靴などの危険性などきちんと指摘されているのに、この回転ドアの問題は見あたらなかった。事故は少ないのだろうか。あるいは、自動式ではないのかもしれないのだが。
 自分の経験を思い起こしながらぼんやり考えてみる。なんとなく思うことが3点ほどある。1点目は、日本はなぜこんなに自動ドアが多いのだろうか、ということだ。
 といっても、あまり先進国での経験はないのだが、自動ドアの多さというのは日本特有の文化ではないだろうか。例外は大半のセブンイレブンだが。
 自分の感性はこのあたりもずれているのだが、ドアがあるのに、アクセス権を問わないのは変だという感じがする。日本でも「アクセス」という言葉が定着してきたが、この基本的な意味には、認可ということが含まれている。単純なイメージでいえば、ノックだ。あるいは、May I come in? とかWho's it!という言葉に相当する日本語を聞いたことはないように思う。
 ついでに言えば、私という人間の独自行動かもしれないが、私は開いているドアと閉まっているドアを同じに扱う。多くの人が開いている入り口から入るときでも、私は私の基準で閉じているドアを押すなり引っ張るなりする。ロックされている確率は半分くらいだ。開いているドアということ自体にもやや違和感もある。余談だが、自動改札で切符やカードにエラーがあると、自動的に扉が閉まるが、私はこれは踏み越えていこうかなといつも思う。
 2点目は、なぜ日本人は閉まるドアに駆け込むのだろうか?ということ。これは、正直なところ、私もそれに近いことはするので、あまり違和感ないといえば違和感ない。しかし、他人を見ているに、電車の乗り降りが典型だが、明らかに閉まり出したドアに突進していくケースをよく見る。あの神経はわからない。アジアなどで、よく車に乗りきれない人がなんとかへばりついているのを見かけるが、ああいう感じなのだろうか。
 3点目は、若いころ米国的なカルチャーにいたせいか、ドアで後ろから人が来るときは、私はかならず、その人が来るまで手でドアを押さえる。これは米人なら誰でもすることだ。ほとんど無意識にしている。私も無意識にしている。が、日本人でこれをしている人をあまり見かけない。ただの習慣の違いなのかもしれないので、自分が偉いとも思わない。
 と、つらつら文章を書きながら、ドアというものが元来西洋の文化そのものであるのに、その文化性は日本に定着していないのだな、と思う。良い悪いの問題ではないのだが、日本社会は一見西洋化したように見えて、根幹において西洋化していない。その奇妙なひずみがあちこちで出てくるように思う。今回事故に巻き込まれた子供は痛ましいが、どうやら頭から突っ込んだようだ。英語でいうと、Head firstだ。これには別の意味もあるが、あえて書かない。子供を非難したいわけではないからだ。

追記(同日)
 死んだ子供のことを思うともう一つ強く書けなかったのだが、どうもこの記事は誤読されることになりそうだ。なので、あえてもう少し踏み出した点を追記しておこう。
 この事件は、安全基準がない面を考慮しても、明らかに安全面で施工側や警察に非がある(警察については、この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。しかし、こうした事件の再発を防ぐという問題で見るなら、こうした企業側・警察側の安全対策では解決されはしない。もし、そう考えるならそれは間違った安全神話を信仰していることになる。一義的には、子供の安全は、親や付き添いの大人が考えなくてはならない。(そしてそれにはセンスが必要になるのだ。)

追記(2003.3.30)
 その後のニュースを点検してみるに、警察がこのドアの危険性を理解していたとまでは断言するのは妥当ではないようだ。ただ、過去に10回も救急車が出動している。また、ビル側も警察が知っているはずだとしている。現状の判断としては、警察がまったく知らないことだったと断定するのもあまり常識的ではないように思える。

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