« 2004年3月14日 - 2004年3月20日 | トップページ | 2004年3月28日 - 2004年4月3日 »

2004.03.27

領有権=財産権、施政権=信託

 昨日書いた「尖閣諸島、領土と施政権」の続きのような話。識者がどこかにいるのだろうと思うが、わからない。しかたない、自分の頭で考えよう。愚考である。
 尖閣諸島問題について、国内には外務省の公式見解を含め、各種の議論がある。が、それはほとんど領土問題を扱っている。つまり、領有権がどこにあるかを議論している。また、中国や台湾もつねに領土問題として扱っている。だが、米国はこの問題を一度として領土問題としては扱っていない。あくまで施政権の問題だとしている。
 米国の立場は、この点では、日本を叩きつぶした連合国、つまり、国連の立場と同じだと見ていい。だから、国際世界としては、暗黙裡にこの問題を施政権の問題だとしているわけだ。なのに、日本で、この問題をきちんと施政権の問題として議論しているのを私は知らない。なぜなのだろうか。私が無知というだけなら、それでもいい。だが、日本人は、施政権という考えをまるで理解していない、できない、ということなのではないだろうか。
 「施政権」という言葉の歴史をざっと探ってみたのだが、はっきりとしない。基本的に西洋世界の概念だとは言えそうだ。中世の用例がよくわからない。近世になると、植民地との関係でよく出てくる。現代的な意味での「施政権」の考えは植民地などと関連していると言ってもいいのだろう。
 現代では「施政権」は「信託統治」との関連で使われている。言語学的な考えでもあるのだが、この現代の用法から、逆に「施政権」を炙り出してみたい。
 「施政権」は英語では、昨日触れたように、"administrative right"、あるいは"administrative power"となるのだろうか。英語でこのあたりの法学を読んでいないので、私はよくわからないと言えばよくわからない。少し先回りするが、この用語は法学というより、経済学に近いのかもしれない。ので、そちらである程度規定されているのかもしれない。
 いずれにせよ、「施政」とヘンテコな訳語が付いている言葉の原義は、administrationではあるのだろう。
 OEDの系統を色濃く残す、私の愛用のPOD6thでは、administratorが項目となり、一義をmanageとしているのだが、おおっ!POD6thはすげーなと感動したのだが、その対象は、こうある。"affairs, person's estate etc"。うわ、いきなりファイナル・アンサーだな。それ以外にも、"formally give out (sacrament, Justice)"ともある。administrationでは、administering (esp. of public affairs)だ。OEDって神!だな。
 が、話の都合でちょっと語源を覗くと、F,f,L (MINISTER)だ。で、話を端折ると、つまり、原義はservantだとはいうが、管財人の語感があるようだ。
 っていうか、あ、わかったぞ、それで、Prime Ministerが出てくるわけか。OEDの歴史原則ってものすごいな。もうちょっと近世よりにすると、ministerは非国教会派と長老派聖職者を指すわけだが、おそらくこちらのほうが聖公会より古い雰囲気を持っているだろうから、教区の管財のニュアンスがあるのだろう。そして、米語のsecretaryはministerの言い換えなわけか。なるほど、今頃納得したぞ。って、読んでるみなさんにはわからなかいかも、ごめんな。
 いずれにせよ、昨日、administrationに「行政」の意味があるとし、追記で、やべ、三権分立が原則化した現代だと信託統治における「行政」だけではねーぞと補足したが、「行政」の概念は、より現代的なものだ。
 話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめると、現代語の「施政権」は主に信託統治に対応する言葉だが、その際の「施政」="administration"には、すでに、manage estate、つまり、「管財」の原義が含まれているのだ。そして、「信託統治」="trusteeship"であるように、これは、Trust(信託)の概念でもあるのだ。識者にはなんと当たり前のこと言っていると聞こえるだろうか。
 つまりだ、施政権というのは信託の概念であり、それに対応する領土はestateつまり、「財」なのだ。だから、施政権=信託、領有権=財、という関係なのだ。
 そんな当たり前と言われるかもしれないし、当たり前なのだが、これは、「富」と「資本」の関係にもなっているのだよ。「富」は古い英語で言えば、wealthの概念だが、現代の英語では、financial resourcesに近いだろう。そして、これは、財産権によって「所有」の権利でもある。このあたり、当たり前のようだが、日本では財産権が実質的に確立しているのだろうか?
 で、「富」が「資本」に転換されるのは、広義の信託=trustによって、運用(経営)が任されるからだ。昨今、ネットで「資本主義というのは気持ち悪いものだ」みたいな議論があるが、若造、こういう関係を理解しておるのかぁ?
 現代日本の場合、国富はあるし、それを金額的に換算することもできるが、資本としては転換されていない。そうできないシステムになっている。そこが、日本が資本主義国か疑問な点でもある。が、その話は別として話を戻す。
 領土は財であるから、領有権は財産権に相当する。そして施政権は信託に当たる。で、なんでこんな、日本人や中国人、韓国人なんかに理解できそうにもないヘンテコな発想が西洋に生まれたのか?
 日本の史学者が誤解しまくっている封建制度に根がありそうだが、というのは、この概念は日本史学にはユニバーサリズムとしてのマルクス主義から入ったため、日本史にも適用させようとして元の概念が壊れてしまっている。無視しよう、日本史学なぞ。
 が、推測するに、この考え方の原則は、西洋における封土と領土に関係がありそうだ。もしかすると、領土とは王に関連する概念で、封土は信託(トラスト)に近いのではないか。
 西洋の封建時代と言っていいのかわからないが、この時代は、領民と領有域が基本的にキング的な王の財になっていた。だから、結婚とかで財産分与すると、これが、まるでピースの欠けたジグソーパズルのような状態になる。西洋の地図を見て、変なパッチワークになるのはそうことだ。
 当然ながら、これを国家として見ると、国家に所属する領土のような、まるで鉄柵や壁で囲むような領土の概念ができない。
 話は逆で、むしろ、領土概念ができるのは、このようなキング的な王の財の制度が崩壊してからのことだ。それは、ある意味で、王を倒して、王の代替としての国民の主権を確立し、王から没収した財をその主権に帰属させたからだ。だから、米国など、西洋の発想では、領土が主権との関係で議論されるのだ。
 昨日、こうした関係を考えていて、はっと気が付いたのだが、極東ブログ「試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)で、日本国憲法を直訳したとき、奇妙なひっかかりがあったのだが、これもこのスキーマに関係したのだ!


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。
the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。
the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、
and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

 考えながら、この文章を睨んで、うぁと私はうめき声を出してしまったよ。これは、まさに今日のめんどくさいスキーマ通りなのだ。
 つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。authorityというのは財産権なのだな。
 くどいが、日本国において、政府とは日本人=主権が信託したものなのだ。
 でだ、先に富と資本の関係に触れたが、領土と領民という資本を任された政府はその活動による利潤を、オーナーである主権者日本人に返せ、というのわけだ。
 この文章は、そーゆーことを言っていたのだ。そんな解釈は電波か? いや、これが正当な解釈ではないのか。そんなこと当たり前? 
 つまり、そのように信託された政府の「管財代表」だから、Prime Ministerなんだよ。
 小泉、テメーはわれわれの番頭さんなんだよ。きちんと経営して国民に利潤を返せよ! っていうか、おそらく封建制度における「税」という概念は、この財と管財の分離から派生したものだろう。
 書いていて、溜息が出る。西洋ってすげーなである。日本国憲法って偉大だなと思う。そして、私はまた断固憲法改定反対論者になろう。もちろん、米国憲法のように、修正項はあってもいいし、追加もされるべきだが。
 同じ論理が憲法前文末にも徹底されている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける
to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、
with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

 これって、ヘンテコな英語で書いてあるが、ようするに、日本国という財(all our resources)を資本として政府に運営する際の、経営方針なのだ。日本というのは、高い理想のために運営されるNPOみたいなものなのだ。で、それは、ちょうど資本主義における資本の投資(馬から落馬した見たいな表現だが)によって、「しまった、すってんてんになっちまったぜ」というのを日本人は覚悟しているということなのだ。
 また、言う。日本国憲法って偉大だなと思う。本気で泣けてくるぞ。
 それにしても、どうしてこんな奇っ怪な考えが西洋に出てきたのか。先に触れたように、「税」(=利潤)が関連しているとは思うのだが、この考えのスキーマは、聖書にもある。タレントの語源タラントが、神の信託であり人はその才能(タレント)を運営して神が喜ぶことをなせ、というスキーマだ。が、聖書のこの発想は、当時のヘレニズム世界の世界観でもあったのだろう。おそらく、ヘレニズム=アレキサンダーによる世界統治、がこの考えを人類に産み出し、ローマに引き継がれ、西洋に渡り、より洗練されて、日本人が引き継いだのだろう。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2004.03.26

尖閣諸島、領土と施政権

 尖閣諸島・魚釣島に24日、中国人活動家7人が上陸し、入管難民法違反の疑いで逮捕された。率直なところ、よくわからないニュースだと思う。中国人がなんか派手にやらかすときは、たいていの場合、中国社会でなにかその必要性があるのだ。犬を指して豚の罵るの類だ。時期的に見れば、台湾総統選挙との関連だろうか。こうした問題も基本的に、中国内で、誰が困惑し誰が利するか。と見ればいい。中共としては現政権が困る。台湾としては、民進党側が困る、ということか。いずれにせよ、こうした線がはっきりしてこない。日本国内のメディアの大半の言及はほとんどが失当だろう。
 今回の動向を見ていて、日本の空気が変わったなという感じもする。まるでこの活動家たちは北朝鮮の工作員のように扱われている。もちろん、違法行為という点では同じではあるだろう。左翼の朝日新聞がこうした空気を嗅いでなにを言うのかと思ったら、社説「尖閣――火種の管理をぬかるな」では、海上保安庁を責めていた。そう来たか。左翼とかインテリ、ジャーナリズムもなんか、言論をゲームにしているな。ということは、もう知性の限界ということなのだろうか。
 確かに海上保安庁の怠慢はあるのかもしれないが、それが本質的な問題であるわけもない。日本国としては上陸を見逃すわけにもいかないし、そうなれば逮捕する以外の道もない。そして、中共側とて、言葉で引くわけにもいかない。しょうもない外交問題起こしやがってと思うがそれが、活動家の狙いだ。
 が、今回、ちょっと違った風景かなと思ったのは、米国が早々に助け船を出していることだ。やっぱ、日本の外交戦略は金で頬をひっぱたけ、だよなである。産経系「『尖閣は日本の施政下』米副報道官」(参照)を引く。


 エレリ副報道官は「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本の施政管理下にある。日米安保条約第五条は、日本の施政のもとにある領土に適用される。したがって、安保条約第五条は尖閣諸島に適用される」と述べた。その一方で、日本と中国、台湾が領有を主張していることにも言及、「米国は最終的な主権に関する問題については、いかなる立場をもとらない」と述べ、主権問題にかかわることは慎重に避け、当事者に対して平和的解決を図ることを強く呼びかけた。

 結局、これまで尖閣諸島については微妙に言及を避けてきた米国だが、この事件をきっかけに軍事的な意味合いについて尖閣に関連して明言せざるを得なくなった。これは、日本の空気も読んでのことだろう。
 こうなると、胡錦涛も苦虫を噛むしかない。活動家たちは、先日の台湾民進党への米の冷ややかな態度を読んでいたのだろうが、日本を甘く見て、結局のところ地雷を踏んでしまった。というわけで、この問題は日中という枠組みではそれほど問題にはならない。
 ところで、今回の事件で、国内報道を見ながら、やたらと尖閣諸島を「日本の領土」だとする表現が目に付いた。私は最初は、最近のジャーナリストも馬鹿になったものだなと思ったが、この横並びはなんなのだろうか疑問に思えてきた。
 ネットをぐぐると当然、雨後の筍のごとく、尖閣諸島は日本の領土論が出てくるが、率直なところ、歴史好きって政治音痴みたいなのが多くて閉口する。端的な話、清朝時代の話などはどうでもいいのだ。
 米国は依然、明確に、尖閣諸島の領土は未決と断言しているのだ。そして、それが国連、つまり日本を叩きつぶした連合国の公式見解であり、国際評価なのだ。重要なのはそれだけ。その意味で、尖閣諸島は日本の領土ではないのである。日本人ならその事実に目をふさいで、わっしょい言ってちゃだめなのだ。
 だが、「尖閣諸島が日本の領土ではない」ということはどういう意味かというと、これは沖縄に及ぶ。沖縄は依然日本の領土ではないのだ。まさかとか電波とか、うんこ飛んで来そうだが、米国は言わなきゃならなくなれば、そう言うわけだ。というか、今回のエレリ副報道官の言及には、それが暗黙に含まれている。
 とんでもねー話で、せめて沖縄県の範囲くらいは領土的に落ち着けなくてはいけない。そこで、最大の秘策としてできたのが沖縄サミットだったのだ。沖縄に先進諸国の雁首を並ばせておけば、もう日本の領土ではないとは口が裂けても言えやしない。小渕よ、野中よ、そこだけは感謝するぜ。反面、このとき、沖縄サミットに産経新聞が田久保忠衛を使って陰湿に反対しているのを俺は絶対に忘れないぜ。
 というわけで、沖縄はもう事実上日本の領土になった。加えて、李登輝が援軍を出して、尖閣諸島は日本の領土だと言明してくれた。彼はようやく事実上民進党になったので、あとは民進党が憲法を改定すれば、尖閣諸島と沖縄は日本の領土として中共の手が及ばなくなる。台湾独立、自主憲法制定というのはそのくらい日本の国策に大きな意味があるのだが、と、罵倒してもわからんやつが多い。
 話を少し戻すと、正名台湾となっていない中華民国、つまり国民党も未だに、沖縄県を含めて尖閣諸島の領有権を主張している。台北から那覇に飛んでみると面白いものだが、その逸話はすでに書いたので、ここでは書かない。
 問題は、糞な「中華民国」というお題目にある。そこで、奇っ怪なのだが、国連は、現在の中共、中国共産党、もとい、中華人民共和国を中国の政党政府としているのに、国連内の文書は改定されていないようだということ。未だ、中華民国のままのだ。え?みたいな話だが、中共側がこれを突いた形跡もない。ただ、この問題がそれほど大きな問題にならないことは、香港の帰還で片づいている。日本では報道されなかったようだが、香港割譲というのは契約に基づいたものだが、その相手は中華民国であり、契約書は台北にあるのだ。なのに、この契約書事体は事実上反故にされたので、その意味で、「中華民国」の名前の威力も、要約事実上無効になった。
 どうも長ったらしい話なったが、この最近の歴史経緯を歴史好きの人たちが見逃しているように思えるので、ふれておいた。
 で、問題は、エレリ副報道官が、「日本の施政管理下にある」として「主権」を避けたのだが、この「施政管理」とはなにかだ。話を切り上げるために端的に言えば、施政権である。1972年に沖縄本土復帰というが、ここで復帰したのは、施政権だけである。領土ではない。
 領土と施政権の関係について、もう少し突っ込むべきなのだが、話が長くなってのでまたの機会としたいが、今回の阿呆な事件で、施政権について日本がどう考えているのか気になった。法学ではどう扱われているのだろうか。というのも、英語では、administrative right、あるいはadministrative powerとなるはずで、日本語でいうなら、行政権である。で、法学の行政権の考えに、沖縄の帰属に関する施政権の問題が含まれているのか、というと、それがまるでわからない。だれか、きちんと整理して欲しいというか、そういう文書があれば読んでみたい。
 つまらない話のオチのようだが、administrativeというのは、Windows XPとか使っている人なら知っているはずの、administratorと同じ英語だし、つまり、施政権や行政権というのは、Windows XPマシンという領土に対するadministratorログインの感覚なのだ。なんとなくわかるだろうか。あれ?っていう語感の齟齬があるとすれば、われわれがいかに、領土と施政権をきちんとイメージしていなかったか、ということになる。

追記(同日)
 託統治の場合は、施政権に立法・司法・行政の三権が含まれる。

| | コメント (14) | トラックバック (3)

2004.03.25

私は週刊文春の反論は間違っていると思う

 今週の週刊文春を買って、ざっと見た。目次を見て、識者の雁首を見て、ここまでするか、これじゃマッチポンプの特集だよ、と思った。それだけでひどすぎはしないか。もっとも、立花隆の名前を見て爆笑はしたが。
 私は率直に言うのだが、この識者の一覧を見て、そして、その大半に、文春が悪いよと言うものがいないよコレクションを前に、ちょっと、びびる、な。極東ブログは今のところ匿名とはいえ、いちいおうそれなりのネットのポジションを持っているのだから、私の言論の質が問われるわけだ。が、こういう言論の状況のとき、私の原則は、危ない橋を渡れ、だ。私は私が間違うことを恐れてはいけない。私は利口そうに自分を守るな、ということだ。満身創痍にでもなりますか。
 その前に、文春に掲載されていて、文春を批判した人の名前を名誉で列記しておこう。住信基礎研究所主席研究員伊藤洋一と作家藤本義一。藤本は喧嘩両成敗なので、結局、反論を乗せたのは一人だけ、なーんだ。
 私の考えは前回と変わらない。最大の問題は、直接言論の自由とプライバシーという構図で見るのではなく、まず、裁判所の動向を見ようということだ。私の関心は、国家という一般意志がどう私と関係するかだ。私の権利と私のプライバシーを原則的にどう守りうるかだ。その意味で、極論すれば、ジャーナリズムなんかどうでもいい。そして、私は、田中真紀子の娘は私と同じ、純然たる私人だと考える。
 文春の問題提起は、意図的なのか、未整理のまま、やけくそ的にぶちまけているのだが、問題の一点に、「田中真紀子の娘は私人か?」という問題がある。文春は、厳密には私人じゃないと言いたいらしい。そして、その補強として、普通の庶民がこんな訴訟できるわけないじゃないか、とか、田中真紀子の秘書を使うお嬢様だった、とか、ある。が、その手の話は阿呆臭い。庶民と私人は別の概念。立花隆は「純粋私人などではありえない」と言うが、「純粋私人」って日本語じゃないよ。この手の線で見るなら、田中真紀子の娘はグレーゾーンかということだろう。つまり、将来政治家になりうるからというのだが、この言い分は詐術だ。現状のステータスがグレーかという議論ではないからだ。私人ではない潜在性ということだ。だったら、それが顕在化したとき、過去に遡ってほじって書けばいいだけのことだ。で、この私人か?論は終わっているのではないか。この手の議論に参加したヤツは墓穴を掘ってご愁傷様なのではないか。おめーら、ほとんどファシズムだよ。
 錯綜したもう一つの問題は、この一記事をもって、他の記事を含む週刊誌全体の発売を禁止してもいいのかという問題だ。これはSPAの巻頭コラム勝谷誠彦も書いていた。私は、なんか、阿呆臭くて涙が出そうだ。なぜ、阿呆? それは物書きにとって基本のキ印が抜けているからだ。基本は、まず資料に当たれ、である。すでに20日は地裁の決定が出ているのだから、それを読めよ。その上でこの議論が成り立つかを検討しろよ。というわけで、私はこの件について原文ではないが、リソース「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」(参照)を用意してある。これは極東ブログでは例外的に無断転載だ、というのはこれは転載されるべきだと判断した。この判断が責められるなら、削除したい。
 で、「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」では、この問題が十分に考慮された跡ある。


 以上によれば、本件仮処分命令の申し立ては、被保全権利と保全の必要性の疎明に欠けるところはない。仮処分により差し止められたのは、本件記事が含まれた雑誌の販売であり、本件記事以外の部分は、本件記事を削除するならば、販売を何ら妨げられていない。
 そのためには、債務者において相当の費用をかけて削除ないし本件記事を含まない雑誌の印刷を行う必要があるが、それは経済的損失に過ぎず、債務者のその他の記事の表現の自由自体を制限するものではない。多くの発行部数を有する雑誌では、その経済的損失も軽視し得ないが、プライバシーの侵害行為が伴っていた場合にこれを被ることは、多くの部数を販売することにより経済的利益を得ていることの半面として甘受すべき結果と言わざるを得ない。

 つまり、この下らない記事を削除して販売しなさいよ。ということだ。それをするかしないかは、文藝春秋側の経営の問題に過ぎない。ケチらず刷ればいいのだと思うが、今週号を見るに、そうしないシラを切るために刷らないわけだ。連載執筆者の不利益の責は、明白に文藝春秋側にある。と、なんだか文章が裁判所風に感染ってくるが、そういうことだ。だから、この線も、実は問題じゃない。
 で、本丸、そもそも出版の自由を弾圧したか?だが、これも「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」に対応する配慮がある。それを読まないで一般論的に言論の自由弾圧は許せんとかいうのは、クルクルパー。

 原決定の法律上の効力としては、取次業者や小売店などの占有下にある本件雑誌が一般購読者に販売されることを直接に阻止しているわけではないというべきである。

 別に今回の件では、出版の自由がというほどの問題ではないのだ。こういう些事で、出版の自由という大切な問題をごった煮にしないでほしい。
 さて、ではこの問題はどうすればよかったのか。
 まず、私ははっきりとしていると思うのだが、この記事は差し止めされるべきものだった、と考える。問題は差し止めの手順が明確になっていないことだ。この現時点で言うと日垣隆の受け売りになるのだが、彼の原則論の示唆が正しい。つまり、この手の問題は次のように整理される(私の言葉で)。

  1. 記事差し止めにはそれが可能な締め切り時間がある。
  2. 一度出版されたものの回収はできない。
  3. だから、出てしまったものは民事で被害を争う。

 日本には、日本の出版界というかジャーナリズムには1の原則が存在していなかった。この先、日垣の考えは私と同じではないので、これにてバイバイ。
 私は、この原則をジャーナリズムの業界が前もって検討しておくべきことだったと考える。それをしなかったのは、甘えがあったのだろう。
 この点から、地裁の今回の判断はどうかというと、意外なほど、欧米流の出版の原則に擬似的に従っているように見える。
 1では、日本では、締め切り時間がないのだから、ずれ込むのは仕方がないが、裁判所が判定できる。そしてその時点で、止められる。
 2では、出ちゃったものの回収を命じてはいない。
 本来なら、締め切り日の原則があるべきだが、それが存在しないし、そうした議論を出さないで変なお祭りをやっている文藝春秋はどうかしているよ、と思う。いずれにせよ、そういう原則ができないなら、地裁の今回の判断は、近似値としてかなり良い線を行っていると私は評価する。
 ところで、福田和也が週刊新潮でこう言っている。

公権力によって、事前に雑誌の出版が止められたということ。それが異常な事態であり、許容することはできないことを再確認する必要があります。

 福田和也も学者なんだから、ジャーナリズムから言うのではなく、学の手順で物を言えよ。つまり、事実と裁判所の見解と世界の原則を学の手順にかけろよ。
 さて、と、以上で終わり。これにコメントはしないでと言う気はさらさらないが、ウンコ投げはやめ下さいね。まとまった反論があったらご自身のブログに書いて、トラックバック下さると当方は助かります。

| | コメント (14) | トラックバック (3)

郵政事業民営化について最近思う3つのこと

 毎日新聞社説「郵政事業改革 民営化後の姿見えてこない」を借りて、郵政事業民営化について最近思うことを少し書いてみたい。この問題の全貌を扱うことは難しいし、これまでの経緯をざっと眺めてみてもなんだかよくわからなくなってきている。ので、話題を3つ絞る。
 気になることは3点ある。1つは、小泉純一郎首相が郵政事業民営化について「道路公団を1とすれば100」というのだが、道路公団問題のおかげで、国民の関心自体に疲弊感はないだろうか、ということ。
 結局、道路公団って何?というのがわからない。猪瀬直樹などが奮闘したことはプラス面もあり、マイナス面もある。なかなか割り切れないのだが、いずれ猪瀬は問題のディテールをわからせようしたいのか結果として煙幕なのか、大衆には理解できない。が、この問題は大衆が理解できなくてはいけない問題なのだ。ジャーナリズムも機能しているようにも見えない。また、極東ブログでは阿呆臭いなというだけで、ある意味大規模な問題をはらんでいる石油公団には、あまり突っ込んでいない。率直のところ、こっちはゼロから仕切り直していいはずのだが、ジャーナリズムではあまり問題にもならない。当然、大衆は問題視すらしていない。ウンザリしているのだろう。こういうある種のウンザリ感が郵政事業民営化をきれいに覆っている。それ事体がやりきれない感じがする。
 2点目は、これが一番大きな問題だが、郵貯は残高233兆円って何よ?、ということだ。国債としては、郵貯・簡保が昨年末時点で合計135兆円の国債を保有している。これは国債の四分の一。毎日新聞も指摘しているが、財務省は民営化後も郵貯・簡保を安定的引受先と決め込んでいる。日本って資本主義国なのか。事実上の見えない国家予算を発生させてはいけないのではないか。というか、そこに歯止めをかけることと、それを可視にすることが、郵政事業民営化にとって一番の問題点ではないのか。そもそも、民間の財が巧妙に国家に吸い取られるような仕組みを変えるということが、郵政事業民営化の最大の目的ではないか。ということは、すでに各所でも言われているといえば言われている。でも、そこがはっきりして来なくなった。なんだよと叫びたい感じだ。
 3点目は、もっと孤立した関心かもしれない。私は気になってときおり調べるのだが、信書というもののの問題だ。用語しては特定信書便(参照)になる。この問題は宅配事業の規制緩和としてよく問題になるのだが、私の関心は、それほど、そこにはない。個別の問題意識で言えば、宅配事業が特定信書便に参入した際、それは本当に信書になるのか、ということだ。
 これは以前も書いて誤解されたのだが、憲法21条2項の通信の秘密についてだ。以前は、メールは信書かということで考察した。「電子メールは憲法で保護されているか」(参照)、「再考・電子メールは憲法で保護されているか、は変な議論か」(参照)、「さらに再び電子メールは憲法で保護されているか」(参照)。
 極東ブログなど辺境のブログは読者のリアクションをそれほど期待するものでもないが、この問題は、あまり関心を引かなかった。法の専門家と思われるかたが、ごく基本的な教条的な考察をしただけに見えた。いずれにせよ、メール内容は法的に秘匿対象にはなりそうにない、ということに私は結論づけた。この関連で、宅配事業が特定信書便に参入した際、どうなるのかも少し触れた。
 確か、今日から、ヤマト運輸がメール便サービスを個人向けに開始する。これは、特定信書便ではない。だが、実際の運用はそうもいかないだろう。
 ヤマト運輸がメール便は、それが個人で使えると非常に便利なので、以前検討したことがある。だが、事実上ダメだった。今回ようやく、個人向けに開放される。「ヤマトVS郵政公社…個人向けメール便参入」(参照)から。たぶん、ブログ購読者のかたにも有益なインフォだと思うので引用を多めにする。


 ヤマト運輸は24日にも、これまで主に企業向けに展開していた「メール便」サービスを個人向けに拡大することが分かった。低料金を武器に、日本郵政公社との全面対決に乗り出す。
 メール便は、A4サイズ程度の封筒で、パンフレットやカタログ、書籍などを家庭の郵便受けに投函(とうかん)するサービスで、個人を特定した書状など「信書」は扱えない。
 ヤマトの「クロネコメール便」は、重量1キログラムまでしか扱えないが、料金は50グラムまでが80円、300グラムまでが160円など、郵政公社の冊子小包(150グラムまでが180円)や定形外郵便物(50グラムまで120円)に比べて割安となっている。
 23日付の日本経済新聞によると、ヤマトは個人向けのメール便を全国約2600カ所の営業所で受け付ける方針で、将来的にはコンビニなどでの扱いも検討する。

 サービスとして便利だ。これでアマゾンの古本市場で文庫が買いやすくなるぞ、わーい、ということだが、問題は「信書」だ。記事に特記してあるように、メール便では信書は扱えない。で、もっとはっきりとその問題点を言えば、大衆はそんなことは理解しない。もちろん、ヤマトの店員は注意の説明をするし、大衆でも言われたことは理解する。しかし、絶対に私信をまぜる。まぜないわけがない。その分離は、あまりに不自然だからだ。
 そして、そうしてまぜた私信は信書の扱いを受けない。
 私は、メールのプライバシーについては、仕方がなければPGPでも使うしかないと思うし、メール便に忍ばせるメモ書きはプライバシー対象にはならないなと腹をくくる。が、それでいいのだろうか。常識的にこんなのおかしいよと思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.03.24

ユニクロ野菜の失敗

 通称ユニクロ野菜こと、ファーストリテイリング全額出資子会社「エフアール・フーズ」(ブランド名「SKIP(スキップ)」)が解散することになった。私の率直な印象は、かなりのショック、だった。そのあたりを少し書いておきたい。
 ビジネスとしての失敗要因を表層的に指摘することはそれほど難しくはない。イトイ(糸井重里)の絡んだ企画はポシャルもんだよな、みたいな皮肉は要らないほどだ。が、ニュースを見ると、失敗の説明は、ややまばらな印象は受ける。共同系「ユニクロ、野菜事業を断念 割高で客足伸びず」(参照)では、プライスに着目していた。


 しかし、品質を売り物にしたためスーパーの店頭価格に比べると2割程度値段が高くなって利用者が伸び悩み、03年6月決算では、9億3000万円の経常赤字に陥っていた。

 朝日系「ユニクロ、野菜販売から撤退 会員確保できず子会社解散」(参照)ではより抽象的に会員不足としていた。もちろん、会員不足の理由はプライスかもしれないのだが。

 カジュアル衣料専門店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは22日、02年秋に参入した野菜・果物の販売事業から撤退する、と発表した。事業に対する見通しが甘く、会員制の宅配で目標の会員数を確保できなかった。店舗販売でも集客が伸び悩んで、黒字転換のめどが立たないと判断した。

 同記事には会長のコメントもある。

柳井正会長は、「衣料品と異なり計画生産できなかった。これ以上赤字が膨らむと取引先や株主に迷惑を広げる恐れがあり、撤退を決断した」と話した。

 これは意外に含蓄深い。が、もう一点、先に進めて、産経系「会員数伸びず… ユニクロ「農産物」撤退 復調アパレルに専念」(参照)を引く。

このため、初年度十二億円前後と見込んだ年商も六億五千万円と半分程度にとどまり、十億円近い経常損失の計上を余儀なくされた。需給をうまく合致させることも難しく、現状の社内ノウハウでは収益化は困難という。

 ユニクロ野菜の事業失敗に、どういうイメージが湧くだろうか?
 私はスキップの会員だったので、その点から言うと、個々の野菜の価格はさして問題ではない。へたな有機野菜よりはるかに安い。が、送料のコストはどうしても割高になるので、ある程度のグロスが必要になる。それがオーダーのめんどくささにつながる。
 オーダー自体はネットから簡単にできる(が、当初はクレジット決済のみ)。難しいのは、どういう野菜の組み合わせで買うかだ。スキップ野菜はあまり保存の利かない生鮮食料だし、ある程度はグロスで買うので、買ってからの献立を考えておかなくてはいけないのだが、配送日が不明。
 献立が難しくなる、というかめんどくさい。結局、私の場合、ジャガイモやサツマイモ、カボチャなど保存の利くものをメインに買って、他に配達時に即食えるサラダやお浸し用の葉野菜や果物ということになる。
 ある程度共同購入のサークルか店舗があればいいなとは思った。その後、店舗はできたが、私の生活圏にはない。店舗はある程度富裕な地域を狙ったのだろうが、マーケティングのミスだ。そういう地域ではニーズはないのだ。むしろ、そこから2段階くらい落ちたところを狙うべきだった。単純な指標で言えば、低温殺菌牛乳の販売状況を参照すればよかったのだ。低温殺菌牛乳の味の違いがわかる地域なら、2割高くらいでも売れる。
 こうした通販の問題は、生鮮食品だからというわけではなく、スキップより前に失敗していた千趣会の食品部門e-shopでも同じような問題があった。こちらは、生鮮ではないが、ざっとした印象で言えば、在庫管理がいわゆる千趣会とは違うマネッジができなかったのだろう。
 高級野菜の需要という点では、産経系に暗黙にあるように、総じてワンランク上の食材へのニーズとしてあるだろう、というか、実際スキップでも、これはという商品はよく品切れになっていた。
 話を戻して、私がショックというのは、あの永田農法の野菜を簡単に食うのがこれから面倒臭くなるのかということだ。私は永田農法の野菜をうまいと思うからだ。特に残念なのは、カボチャとサツマイモだ。
cover
永田農法
おいしさの育て方
 と、「永田農法」というキーワードを出したが、これが非常に面白い。すでに各所で語られているので、同じような解説をここで書く必要はないし、それに書いてもうまく通じはしない。有機農法でもそうなのだが、どうしても、「頭でっかち」とでも言うべき、一群の雑音のような、味覚もない支持者が出てくる。だが、永田農法の野菜は、極めるところ、その野菜の味になるので、それに直面した驚愕感と知識がどうしてもうまく結びつかない。関連書籍もいろいろ読んだが、かろうじてお薦めできるのは、「永田農法 おいしさの育て方」だけだ。あるいは、類書の「食は土にあり―永田農法の原点」もいいかもしれない。
 永田農法の創始者永田照喜治はまぎれもない天才だ。これがどのくらいすごいかというと、糸井のエッセイにあった逸話だが、永田は野菜はセラミック包丁で切ったほうがいい、とさらっと言う、ことだ。私は、おおっと思う。言われてみれば当たり前なのだが、少なくともその味覚の違いがわからないと永田農法の野菜の真価がわかりづらい。ただ、しいていうとスキップの野菜はそれほどには永田農法に徹したわけでもなかったが。
 永田農法は非常に不思議な意味で、有機農法の否定でもある。また、これほど管理化を必要する農法もない。うまい野菜を作るというのだが、これが植物にとってよいことなのかすらわからない。が、できた野菜は奇跡に近い、と言うだけ、まどろっこしいことになる。
 頭でわかりやすい範囲でいうなら、野菜の硝酸塩の問題がある。なぜ識者が指摘しないのか不思議なのだが、日本の野菜の硝酸塩の濃度はヨーロッパの基準なら、市場に出せないはずだ。そんなものがまかり通っているのだが、批判はあまり見かけない、と、私もあまりこんなところで雑駁に言うのもよくないので切り上げる。が、永田はそれより進めて、野菜のエグ味や青々しい色まで、良くないのだとまで語る。特に、緑のお茶は不自然だと断言した。私はお茶が好きで、蘊蓄の領域になりつつあるのだが、今まで疑問に思っていたことが永田の指摘で得心した思いがした。

 ところが、あのお茶の緑色こそ、硝酸態窒素の色なのです。昔の茶畑を知っている人ならば覚えているでしょうが、本来のお茶の葉は山吹色なのです。この原因は、油粕などの有機肥料、窒素肥料の多用にあります。(中略)
 緑の茶畑は悪夢なのです。安全意識を高めて、本物を見分ける目を養ってください。

 「茶色」という表現がなぜ、茶色なのか。各種の説があり、実際の茶色を見るに茶染めかとも思う。が、それでも茶は、茶色に近いものだったのだろう。
 永田の言葉は表現が拙い点や常識を外れた点も多いので、人によっては「電波」扱いするかもしれない。くどいが、永田の真価はその野菜なのだ。あの奇跡の野菜を食ったら、「電波」だみたいな阿呆な評は口を出ない。
 世の中には本当にうまい野菜がある。しかも、その基本的な「農」の原理がたった一人の天才で確立された。しかし、その野菜を日本に流通させることは難しい。ユニクロは失敗した。
 どうにかならないものなのか。日本の社会にとっても大きな問題だとも思うのだが。
 極東ブログもどうやら社会派ブログの仲間入り臭いが、社会派とはなんだろうと思う。政治にぼやくことやエコを声高に語ることだろうか。私は、社会は生活と切り離されてはならないと思う。そして、生活は、われわれが生命体であるその官能性に拠っているのだ。理論的には味覚のない人間にだって理想社会を論じることはできるだろう(ネットにもいるじゃないか)。だが、味覚のある人間は理想社会を味覚でしか納得しない。
 栄養士どもは、健康のために野菜を食えだのとぬかすが、日本の野菜の惨状を知らないのだろうか。なぜ、大根がみんな同じ長さなのだ? ニンジンをなぜ子供が嫌わなくなったのか? キュウリがつるっとして、触って指に刺さらないのか? ホウレンソウの葉のギザギザはいつ消えたか? それを看過して、何が野菜を食え、だ。

| | コメント (13) | トラックバック (5)

2004.03.23

大久保・グリーンスパン・彦左衛門

 少し前の話になるが、1月27日連邦公開市場委員会(FOMC)で、現状の金利を継続するか意見が分かれたらしい。日経系「(3/18)1月の米FOMC、超低金利の継続巡り意見分かれる」(参照)にはこうある。もっとも、意見の違いといっても古典芸能のごとくだ。金利自体が問題になったわけでもない。


 FRBが18日公表した1月のFOMC議事録によると、「かなりの期間」を削除することに異論は出なかった。問題になったのは「忍耐強く」という表現。委員の多数はこの表現を盛り込むことで、超低金利政策の修正を急がない考えをにじませ、市場に安心感を与えるべきだと主張した。これに対して少数の委員は新しい表現が市場に別の思惑を与え、金融政策の運営を複雑にしかねないとの懸念を表明。超低金利政策の継続期間を示唆するような表現をすべて削除するよう求めた。

 フェデラルファンド(FF)金利の誘導目標を年1%に据え置くこと自体が問題にならなかったのは、その最大要因は雇用問題にあるからだ。あられもなく言えば、雇用で攻め出した対民主党の選挙対策といったところか。FOMCではこうだ。

失業数は減速しているが、新たな雇用は遅れている。

 これがほんとに遅れているかについては、極東ブログでも少し扱ったが、議論で決するというより、年内中には様子が見えてくるだろうからそれを待とう。問題は、それが見える前に大統領選挙があるということだ。選挙がらみで言えば、11日グリーンスパンの米下院教育労働委員会証言も同じようなものだ。「(3/11)米FRB議長『保護主義、雇用創出につながらず』」(参照)より。

 米議会では中国やインドなど国外への雇用流出を抑えるため、生産の国外移転や業務の外部委託などを制限する法案を提出する動きが広がっている。これに対して同議長は「疑わしい処方せんは事態をより悪化させる」と強調。「保護主義的な措置をとれば海外から報復を受け、かえって雇用を失うことになりかねない」と語った。

 「報復」ってなんだ? WTOと鉄問題? まさか。しかし、日欧が念頭にあるのか。いずれにせよ、教科書通りの経済学的にはグリーンスパンが正しいので、あまり政治的な意図を読むべきではないのかもしれない。それでも、共和党側は保護政策は出さないだろう。
 話をFOMCの金利の決定に戻す。関係者は、「ま、低金利でしょ」で決まりだが、それで済む話でもない。17日のNew York Times"The Cost of Cheap Money"(参照・要登録)では、このあたりをわかりやすく説明している。

The Federal Reserve Board announced yesterday that it would keep its overnight interest rate where it has been for nine months - at 1 percent, its lowest level since 1958. Factor in inflation, and Alan Greenspan is essentially lending money at a loss. This cannot go on indefinitely, and it should not go on much longer.

 "at a los"は高校生の英語じゃないんだから、「途方に暮れて」ではない。赤字を出して、ということだ。マイナス金利ってやつだ。New York Timesとしては、FOMCの作文問題ではなく、実際の金利を問題視している。
 実際このマイナス金利が効果的に効いているのは、住宅バブル、おっと、住宅市場の好調さだ。これもざっくばらんに言えば、住宅市場が好調なので住宅の資産価値が上がり、その上昇分の皮算用のローンが消費に回っている。New York Timesの言葉を借りたほうが上品か。

There is no question that the Fed's loose monetary policy helped jolt the economy back to life last year. It increased corporate profits and prompted consumers to refinance their mortgages and to spend their way into plenty of other debt.
(中略)
Many homeowners, and consumers in general, are borrowing recklessly, betting that rising housing prices and easy credit are here to stay.

 なんつううか、国を挙げてのマッチポンプ感がある。住宅投資は投機的ではないとはいえ、その市場がポシャれば一巻の終わりだ。残るは負債の山ってやつだ。なんか日本人には懐かしいメロディが聞こえてきそうだ。
 グリーンスパンもわかってはいるようだ。「(2/24)FRB議長『米住宅公社、金融システムの脅威に』」(参照)より。

【ワシントン=吉田透】米連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパン議長は24日、上院公聴会で証言し、米政府が事実上の信用保証を与えている米住宅金融公社について「このまま負債が増え続けると米金融システムを脅かしかねない」と警告した。

 彼が問題視しているのは、住宅市場に資金供給する上で重要な役割を持つ米連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)と米連邦住宅貸付抵抗公社(フレディマック)の負債だ。この問題にはここではこれ以上突っ込まない。
 いずれにせよ、New York Timesは前回のFOMCに反対してこう提言している。

The Fed should gradually wean the country off such extraordinarily easy money before it is forced to do so abruptly, and painfully. It cannot wait until after the election, nor until it sees inflation pick up. Rates are so low that the Fed has plenty of room to move before being accused of adopting a restrictive monetary policy. It needs to get started.

 "painfully"っていうのは、当然「痛み」だ。New York Timesはすでに住宅バブルの懸念を重視しているのだ。考えてみえれば、それが問題視されていたのは、一年くらい前のことだ。IMFも注意を出していた。たとえば、「米住宅バブル『崩壊、打撃は株の2倍』--IMFが警戒」(参照)。しかし、この間、なんとなく、イラク戦争だの選挙戦だのに気を取られて、「も、大丈夫!」ってことになっている。
 確かに、神様(グリーンスパン)がついているなら、大丈夫かもしれない。が、彼の任期は2004年6月20日。ブッシュはさらなる再任の意向をすでに示している。ブッシュ父殿にお仕えした大久保・グリーンスパン・彦左衛門は、まだ、がんばらなければならないのだ。若い奥さんとクラリネットを吹いてる老後はまだ先だ。と茶化してもなんだが、この雰囲気だと辞任はできなかろうな。
 私は現状の雰囲気だと米国大統領選はブッシュが再選されるように思う。グリーンスパンも後継に知恵を授けているのではないか(って、誰が後継だ?)。
 私は経済がよくわからない。このまま米国が低金利でやっいけるものか、考えたが、なんもわからない。バブルがあって、またつぶれても、やり直せる、っていう前向きな考えが米国的なのかもなとも思う。無責任だが、日本人にできることは円介入くらいなもの。輸入を促進する気はない。ただ、こうした背後の動向が米国を決めていくのだろうなとは思う。

追記2004.3.23
svnseedsさんのコメント(参照)は、私のブログより面白いかもしれない。ので、そちらも読まれることをお薦めする。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

アハマド・ヤシン殺害

 今朝の各紙社説は公示地価よりアハマド・ヤシン殺害の話題を優先するかとも思ったが、そうしたのは朝日だけだった。が、この問題で朝日新聞の社説を読む意味はゼロ。社説作成プログラムで書いているような内容になるだけだ。喧嘩両成敗、ヤシン老にも良い面はあったみたいな文章は大学入試向きなのか。
 アハマド・ヤシン殺害を事件として見た場合、それはなんなのだろうか。私も日本人で、ぼんやりしていると日本のメディアのぬるい空気にまどろんでしまい、和平プロセスはどうなるだとか、報復合戦みたいなことはもうよせ、とか自動的に思いがちになる。だが、極東ブログで見てきたように、アッバスを退けたあたりで、和平プロセスなんてものはチャラになっていたのだ。そして、和平プロセスと見られていたイスラエル軍のガザ撤退の意味は、こういうことだったのだ。つまり、ガザ撤退は和平のプロセスではないとイスラエルは考えているわけだ。ここでむかついてもしかたあるまい。
 事件として見た場合、欧米の報道では「暗殺(assassination)」としているように、厳格にアハマド・ヤシン個人を狙ったようだ。ロイターによれば、22日未明、ガザのモスクを出た車椅子のアハマド・ヤシンを武装ヘリコプターで銃撃した。死者は数人出たとのことだ。どう殺したって殺害だという粗暴な見解はさておき、爆弾を使っているわけではない。ピンポイント称するふざけた誤爆ミサイルを使ったわけでもない。念入りに計算された殺害計画であることは確かだ。
 ネットが普及したおかげで、あっという間にイスラエル国内の報道が読める。いくつかザップしてみると、暗殺計画は日曜日に実施されるはずだったが、市民を巻き込むことを避けるために慎重に延期されていたようだ。つまり、これは、イスラエルにしてみれば、法的な処刑の延長のようなものだろう。実際、シャロンはそんなふうにほざいていた。
 ここで私的な感慨にふけってもなんだが、隔世の感がある。昔のイスラエルなら、南米に逃れたナチス犯を拉致して無期懲役にしたものだ。イスラエルには死刑はない。が、それが今回の事件で建前になってしまったのかと思う。この殺害をもっと明白な政治的な主張にしたかったのだろうか。それでも屠るってやつだなと思う。私が気になるのは、この屠殺がイスラエルの国内向けになされたものか、海外を意識していたのかということだ。海外の反応や今後のテロの活性をまったく意識しないでやれるわけもないが、それを重視できないほどシャロンは追いつめられていたのか。シャロンを追いつめないことが和平の可能性かもしれないとも思う。
 アハマド・ヤシン屠殺は念入りな計画であったわけだから、別に陰謀論的に考えなくても、当然、米国は黙認していたということになる。時事ニュースでは、ライス米大統領補佐官はNBCのインタビューで「事前の警告はなかった」として、米国政府が暗殺計画を承認していたとの見方を否定したというのだが、ライスだけ「あたし、聞いてねー」っていうわけもない。問題は米国の黙認は同意ということなのかだ。"Jerusalem Post"(参照)では微妙な書き方をしている。


 Although American officials were not told about the assassination in advance, Sharon told the MKs that American officials were aware that significant steps against terror would be taken before Israel withdraws from Gaza Strip settlements.
 "In all meetings with American and other international officials, it was made clear that specifically because we intend to take far-reaching [diplomatic] steps, our actions against terror would become more severe," he said.

 くどいようだが、米国政府は黙認していたと見ていい。この黙認は、当然、つまり、陰謀論とかでなくても、イスラエルロビーの影響があると見ていいだろう。そしてこれも当然のことだが、この殺害はブッシュ陣営に不利にはならないというわけだ。この先は陰謀論になるので立ち入らない。
 敬老国日本では車椅子の爺さんなんか殺すなよということだが、イスラエルにしてみれば、このテロリストの親分によって国民が何人も殺されたのだから、その責務で処刑するという論理だ。ちょっと物騒な言い方だが、その論理は、オウム事件で麻原を処刑するのとたいして変わらないようにも思う。
 和平や平和というのを、自己や自己の国家幻想に外化して語ることは、私には偽善感がつきまとう。今回のアハマド・ヤシン殺害はどこをどう見ても、是認されるものではないが、外野から正義を語る問題でもないだろうとは思う。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2004.03.22

世界市場の穀物価格は急騰するか?

 社説ネタはないので、先日来気になっていたテーマとして中国の穀物生産の話を書く。ニュースとしては、共同系で流れた11日の「中国の穀物生産が減少 輸入増で世界価格高騰も」(参照)がある。


【ワシントン11日共同】中国の穀物生産量が、急速に進む砂漠化や水不足の影響で1998年をピークに減少を続けており、今後は中国の輸入量の拡大によって世界の穀物価格が急騰する可能性が高いとの報告書を、米国のシンクタンク、アースポリシー研究所(レスター・ブラウン代表)が10日、発表した。

 ニュースとしては、この先、レスター・ブラウン説を垂れ流して、世界市場の穀物価格急騰が発展途上国での政情不安や国際紛争を招く危険があるとしている。
 そのあたりの詳細が気になっていた。ざっと国内での情報を当たってみたのだが、やはりというべきか皆目わからない。石油についてもそうなのだが、こうした問題は専門家がわかりやすい言葉で現状を説明してくれるといいものだと思う。私もこの問題について特に知見はないのだが、気になる話題でもある。が、レスター・ブラウンはただのエコなので、なんか法螺臭いなとも思い、それ以上は考えていなかった。
 さて、考えみるか、それには、どっかに原文があるはずだと思って探すと、ある。"CHINA'S SHRINKING GRAIN HARVEST.How Its Growing Grain Imports Will Affect World Food Prices"(参照)。こった言い回しのない英文なのだが、主張に修辞が多すぎてわかりづらい。読みながら、アホちゃうかこのおっさんとか思ったが、エコ(環境問題)の人はエコノミー(経済)に詳しくないことが多いので、そんなものかもしれない。それでも、指摘されているファクツは興味深いものだった。
 なかでも、共同ニュースでも指摘されていたことだが、中国での穀物減産の比喩は面白い。

After a remarkable expansion of grain output from 90 million tons in 1950 to 392 million tons in 1998, China's grain harvest has fallen in four of the last five years - dropping to 322 million tons in 2003. For perspective, this drop of 70 million tons exceeds the entire grain harvest of Canada.

 この5年間の中国の穀物減産量は7000万トンで、これはカナダの穀物収穫量を越えるというのだ。よくわかんないが、比較されるカナダのほうは年間だろう。カナダは農業国なので、修辞的には、「おや、ま、びっくり」という意図なわけなのだろうが、実際のところ、5年にわたり進行していて、その間というか、近年にドラスティックな変化もないし、また、当面はそうした変化もなさそうなので、何が問題だよ?という気にもなる。後段読み続けても、今年あたりになんらかのカタストロフが来るという意味でもなさそうだ。
 が、当然ながら、この状況は現状の世界構造の変動の大きな原因であることは間違いなく、それらは、ある時点でカタストロフを起こす可能性があるのかもしれない。レスター・ブラウン的に言えば、それが途上国問題として噴出するだろうというわけだ。
 レスター・ブラウンはこの減産は、中国の農地の水不足や都市化による環境破壊だと言いたいわけなのだが、爆笑していいのか苦笑していいか迷って苦笑する。そんなものは、経済学の基本である比較優位の問題だ。あまりも単純な経済学を無視してエコの倫理を主張しても無意味なことになる。
 となると、問題は、端的に、穀物価格を巡る国際間の経済ということになる。もっと単純に言えば、中国には外貨がじゃぶじゃぶとしているからそれで米国から穀物を買えばいい。で、何が問題?ということになる。レスター・ブラウンもそれはわかってはいて、ホラーめいた修辞を使う。

When China turns to the world market, it will necessarily turn to the United States, which controls nearly half of world grain exports. This presents an unprecedented geopolitical situation in which 1.3 billion Chinese consumers who have a $120-billion trade surplus with the United States - enough to buy the entire U.S. grain harvest twice over - will compete with Americans for U.S. food, likely driving up food prices for the United States and the world.

 これで米国の食料が枯渇するがごとき表現だが、阿呆くさい。ついでなので、もう少しつきあう。

Moving grain from the United States to China on the scale that is needed will likely involve loading two or three ships every day. The long line of grain-laden ships that may soon stretch across the Pacific will bring these two countries closer together economically, but managing the flow of grain to optimize the benefits for people in both countries will not be easy. It could become one of the major U.S. foreign policy challenges of this new century.

 というわけで、頻繁に巨大タンカーが太平洋を行き交うという光景を困ったことのように描くのだが、これも、で?、みたいな問題だ。エコ的には、ポストハーベストとか遺伝子組み換えとか楽しい話題もあるのだろうが、当方はこの文脈では触れない。
 「問題は」という以前に、これは、ただの現状のファクツでしかない。そして、これは端的に比較優位の問題だ。つまり、中国の経済状況が変化していることだ。で、それは何かというと、1つには、農政問題に手がつけられないということだ。もちろん、レスター・ブラウンの記事も冒頭で中国の対処について言及しているが、そこは中国、政治家の面子さえたてばいいのである。からして、実際の対処になんかなっていない。つまり、これは中国国内の農政、あるいは農民の問題でもあるし、ようは中国国内の貧富の問題でもある。むしろ、こちらのほうが大きな問題だろう。
 もう1は、いずれにせよ穀物価格はじわじわと高騰する、か、あるいはどっかでカタストロフ的に高騰するかだ。これも避けられない。そのあたりの反射が、どう国際経済を襲うのだろうか。単純に考えれば、以前極東ブログでも触れたように一次産品の価格上昇という問題かもしれないし、石油を含めて、中国発デフレが中国発インフレになるか、ということだが、どうもそこまで話を進めると実感はない。
 日本はどうなるかも気になる。これだけ大きなシフトがあるのに日本が無傷なわけもない。どうなるのだろう? 考えてみてよくわからない。まず、直接、穀物問題として衝撃が来るのか、「中国発インフレ」で来るのか。後者で来ると、けっこう、僥倖ってことになるかもしれない。前者の場合は、まず家畜肥料の高騰として反映するのだろうか。
 そのあたりは農水省のまた陰謀臭い臭いがしないでもないが、当面、陰謀ストリーを練り上げる気力もない。まぁ、ぼちぼち、畜産と穀物に対する農水省の動きを警戒しながら見ていく必要はあるだろう。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2004.03.21

イラク世論調査結果を読むと戦争は概ね肯定できる

 英BBC、米ABC、独ARD、日本のNHK、4社テレビ報道機関が共同でイギリス民間調査会社に委託したイラク世論調査結果を見ると、イラク戦争自体は概ね成功したのかと思えてきた。
 と、言うと、「あの戦争を是認するのか」とか、「おまえの意見はコロコロ変わる」とか言われるだろうか。少し整理しておくと、現在時点での私の考えでは、開戦の是非はよくわからない。つまり、こんな戦争やらなくてもよかったんじゃないかとも思う。戦争のやり方については、それほど成功だったとは評価しづらい。が、失敗とも言い切れない(これはこの世論調査を見て得心した)。戦後統治については、最低だ。フセイン体制を温存すべきだった。もともと、この戦争の有志連合側の大義は独裁者フセインの打倒だったのだから、体制にまで手を入れるのは間違いだった。このミスがなければここまでイラク社会の治安悪化もなかっただろう。
 この戦争の副作用もあるなと思う。独裁者の政権下や内乱でその国の民衆が非人道的に苦しんでいるとき、国際社会はどうすべきか? これは、概ね、ほっとけ、ということになったわけだ。北朝鮮内でいくら民衆が非人道的な立場に置かれていても、国際社会は関知しない、と。戦争反対が第一義で、人道主義は二義的になった。
 この調査を結果論として見ると、人道的な面では正当化されると見ていい戦争だったようだ。この調査を引いた18日の読売新聞社説「イラク戦争1年 国際社会の連携を強化せよ」は当初読んだときは、うさんくさいなと思ったが、調査の概要を知ってから見ると、この判断は概ね正しいことがわかる。


 米英軍のイラク進攻が「正しかった」とした回答は48・2%で、「間違いだった」とする39・1%を上回った。
 「今の暮らしは良い」「一年後はさらに良くなる」と思っている回答者はそれぞれ七割に達する。戦争前に比べ「悪くなった」と答えたのは18・6%だ。

 もっと、こうした強調はあまり公平ではない。日本語版CNN「57%が生活改善と評価 イラク世論調査」(参照)のほうがましだ。

米英軍によるイラク侵攻を正しかったと評価したのは49%で、間違っていたと批判したのは39%。戦争によってイラクが辱められたと感じる人は41.2%で、イラクが解放されたと感じる人は41.8%だった。民族別にみると、イラクが解放されたと感じたアラブ人は約30%に過ぎないが、クルド人は約80%がイラク戦争を「解放」と評価している。

 CNNニュースにはもう少し詳しい情報があるのだが、それでもわかりやすいという印象は受けない。
 そんなところかと思っていたが、探すと、BBC"Survey finds hope in occupied Iraq"(参照)に元ネタがあった。ここで、グラフや調査結果のPDF文書がダウンロードできる。つらつらと見るに、なかなか味わい深い。あえて、私の印象を書いてみたい。
 意外な印象を受けたのだが、イラクに民主主義を求める声が大きい。イスラム宗教に反対はしていないようなのだが、イスラム神政は求められていない。確かに考えてみれば、イランでも若い世代や大衆の本音としては、神政ではないようだ。宗教指導者はかなり信頼はされているが、公正という他律的な規範概念が信仰に結びついているように見える。総じて言えば、政教分離意識があるようだ。
 連想するのはフセインのバース党は元来近代化政党だったことだ(社会主義的でもあるのだが)。反面、矛盾するようだが、強権のリーダーを求める声も大きい。強権と民主主義が矛盾するわけでもないのだが、浮かんでくるイメージは、民主主義も強権リーダーも、どうやら、部族間の調停という社会機能なのではないか、ということだ。民主主義の運用面で重要なはずの政党意識は低いようだ。もっとも、政党なんてものがなかったのだからしかたない面もある。
 こう考えていくと、調査全体に貫かれている反米意識の基調も理解しやすい。日本人からすると、反米=イスラム社会なのだから、同じくイスラム圏の国家に対してイラク国民は親和性を持っているのだろうと考えやすいが、今回の調査でも、私にしてみると、やっぱりなというか、エジプトやサウジは嫌われているなという感触を得た。ある意味で当たり前でもある。反面、好まれているのは、アラブ首長国連邦(United Arab Emirates)だ。ある程度、調査からイメージがまとまると、これもやっぱりな感が出てくる。
 好悪の中間くらいなのが、アメリカ、日本、クエートだ。他データを見ても、一群アメリカ贔屓はいそうだ。クエートについてはよくわからない。というか、イラクをこうした部族の緩い統合国家として見た場合、クエートという王族支配の国がどう見えるのだろうか。これは少し考え続けてみたいテーマでもある。
 日本の評価は高い。復興に期待をかけている国としては、アメリカと日本が同じくらいのポイントで並び、他はこの二国に匹敵しない。しかも、逆に復興に参加しないでくれという調査項目でみると、アメリカを嫌うポイントが高く、日本はほぼゼロだ。日本っていうのはけっこういいイメージで見られているのだなと痛感する。もちろん、異国情緒の遠隔性や黄色人種への差別感もあるだろう。現実には、彼らは日本人、韓国人、中国人は区別できるわけはない。もっとも、私も区別できないけどね。この項目でよく嫌われてるなと思うのがイギリスだ。歴史的な背景もあるだろう。総じて、イラクはヨーロッパを評価していない。なんか、わかる気がする。
 自分のイラクのイメージがやや違っていたかなと思うのは、職の問題だ。職はそれほど優先課題ではないかに見える。むしろ、学校のニーズが高い。これは、部族内の互助システムはまだ生きていることと、対外的には、商業活動が主軸になっているということではないかと思う。
 もひとつあれ?と思ったことがある。メディアを通してみると、ひどい戦争だなと思うし、実際ひどい戦争なのだが、実際戦時に有志連合軍兵士と遭遇したかという問いに、大半がそうではないと答えている。なるほどなと思う。太平洋戦争でもそうだが、日本は戦争でひどい目にあったという歴史が語られているが、実際は本土は、長崎、広島、東京を除けば、概ね、戦時は呑気なものだった。イラク戦でも似たようなことは言えるのだろう。つまり、大半のイラク国民は、兵士と向かい合ったわけではない。もちろん、空軍戦という意味もあるのはわかるが、それでも戦地は砂漠を除けば、バグダットなどに極小化されていた。
 以上、私の印象だ。資料はBBCのページで簡単に入手できるので(参照PDF)、私の読み違えがあるかは、各人が資料に当たってもらえばいいのではないか。英文も簡単だし、これは意外に面白い資料だ。一読を勧めたいくらいだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

命一つ、娘一人、骨壷一つ

 陳水扁が勝った。一昨日「陳水扁が勝つと信じる」(参照)を書いたとき、理性的な判断ではなく、「精神」として、そう確信した。昨晩は欧米のメディアが陳の勝利を伝えるのが異様なほど遅かった。今朝の新聞各紙の社説は産経ですら、腰砕けの内容だった。日本人は政治を遠いものと見るようになった気がする。政治とは人間が作り出すものだ。李登輝がまざまざと見せてくれたのに、見えなくなっていくのだろう。
 陳の勝利を聞いたとき、私の心に浮かんだのは「命一つ、娘一人、骨壷一つ」という言葉だった。葉菊蘭(ようきくらん)本人の言葉だと言われているが、本当にそうなのか調べたことはない。彼女はそういうパセッティックな言葉を使うのか少し疑問もある。Googleを引くと民主党大出彰のHPが出てきたが、それだけだった。
 葉菊蘭は台湾の活動家鄭南榕(ていなんよう)の妻だ。鄭南榕は宜蘭生まれの外省人二世と紹介されるが、その父は国民党とともにやってきたのではない。日本統治下のことなので、「日本人」だった。鄭は、1980年代当時の国民党政権を批判する言論誌「自由時代」を主宰していた。それは当然毎号、発禁になっていった。出版ということが直接政治活動に結びつく時代でもあった。日本国憲法に明記される「出版の自由」はそういう歴史の臭いを残すものとしてプレス(報道)の訳語として選ばれた。作家池澤夏樹は、芥川賞作品を初めてワープロで書いた作家だが、彼が翻訳業として初めてワープロを持ったとき、これで出版が可能になると喜んだと聞く。

cover
台湾
 戒厳令が続く1987年4月18日、鄭は台北の集会で台湾独立を主張した。台湾独立(台独)運動は、邱永漢などを先鋒とし、台湾国外が拠点となっていた。そうしたなか、公然と台湾内で台湾独立を主張したのは鄭が初めての人だとされる。この主張は文字通り決死の覚悟だった。
 1989年1月、許世楷津田塾大学政治学教授が起こした「台湾共和国憲法草案」を「自由時代」に掲載したことを理由に、台湾高等検察庁は鄭を反乱罪容疑で、多数の警官を動員して、強行連行しようとしたが、鄭はこれを拒否。自宅の椅子に座ったまま静かに焼身自殺を遂げた。関連する民主化の話は伊藤潔「台湾」に詳しい。
 鄭の妻、葉菊蘭は夫の意志を継ぐかたちで、政治運動に関わるようになる。葉は苗栗県郊外の農家に客家人として生まれた。自宅では当然客家語を使うものの、学校では北京語(国語)を流暢に使いこなした。秀才でもあった。政治家になる前は広告やメディアの仕事に就いたこともあり、その経験を活かして客家テレビ創設にも関わった。
 葉は1989年、台湾史上初の野党が加わった国政選挙となる立法委員選挙で民進党から立候補し、当選した。選挙の際、彼女は民衆の前に当時8歳の娘とともに現れ、母親としての政治を訴え、夫の鄭のことは持ち出さなかったという。
 私は、率直なところ、鄭のような激烈な運動家を理解できない。そして、葉や陳水扁や李登輝のような忍耐強さも自分の遙かに及ばないところだと思う。
 私は1998年、台南師範出の沖縄のかたと台南旅行をしたおり、2.28が残す傷跡を当時を経験するかたから聞いた。想像に絶する歴史だった。本来なら教育界の重鎮にあってもおかしくない人たちが生涯冷や飯を食わされた。その一人は「日本人には日本精神がない」と熱弁された。恥ずかしく思った。が、こうして台湾が本当に自立する姿を見ると、それは日本精神ではない、台湾精神なのだと思う。われわれ日本人が静かにその姿を学ぶ時代になったのだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2004年3月14日 - 2004年3月20日 | トップページ | 2004年3月28日 - 2004年4月3日 »