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2004.03.20

スペインによるイラク派兵撤退の余波

 イラク派兵を巡るスペインの政策変更の影響は一見多様だが、ある志向性をもった奇妙な軋みのようになりつつあるようだ。それに対応して、米国の世論のトーンが、大統領選挙にも関連して少しずつ揺れているようにも見える。やや意外な印象も受けるのだが、ブッシュにしても、またジャーナリズムの言論でも、いずれにせ米国側から、「スペインの変化はテロに屈したものだ」という非難は少ないようだ。むしろ、米国の立場を理解してもらい、派兵の政策に戻して欲しい、という呼びかけに聞こえる。私はここに至って親米化せよという意図はないが、日本を取り巻くマイルドな左翼的な言説には短絡した反米の虚像があるかなという警戒感を持つ。
 こうした弱い変化のなかで、面白いと言ってはなんだが、ポーランドが米国に騙されたと言っているらしい。朝日系のニュース「ポーランド大統領、『大量破壊兵器ではだまされた』」(参照)を引く。


 ワルシャワからの報道によると、大統領は仏記者団との会見で「大量破壊兵器に関する情報でだまされたことに、不愉快さを感じている」と述べ、別の記者会見で「これは米英と、他の多くの国々の問題だ」と指摘した。

 朝日臭いニュースだなということを差し引いても、ほほぉとも思う。が、これで早期撤退したとしても来年のことになる。スペインに並んだ変化があると見るよりは、ポーランドという小国が生き延びるための賢さと見るべきだろう。ポーランド国内ではイラク派兵反対の世論は高いが、仏独帝国化するEUに飲み込まれたいわけがない。
 このあたり、逆にスペインが今後どうEUと対峙していくのかちょっとした見ものだ。今回イラク派兵撤退に転んだスペインだが、このままEUに調和していくとも思えない。ちょっと気になるのは、世論の流れとしては今回のテロはアルカイダ説ということになっているみたいだが、バスク説はただのガセなのか。スペインとフランスはバスク問題で協調する部分もあるので、いずれ変なストーリーが出てくるかもなとも、ちらとだが思う。
 スペインの変化では、玉突きのように韓国側にも影響が出ている。これも朝日系のニュース「韓国軍、イラク追加派遣延期へ 治安悪化で派遣先再検討」(参照)を引く。話の流れは、標題どおり、韓国軍のイラク追加派兵が頓挫しつつあることだ。表向きの理由は、予定されていた北部キルクークの治安悪化だ。

 韓国軍は新たな派遣先選定へ向け米側と調整中だが、4月7日に予定された先発隊第1陣の出発は事実上、白紙に戻った。韓国メディアによると、先の総選挙を機に軍撤退を表明しているスペインの部隊が駐屯する中部が有力候補に挙がっているという。

 このあたりの朝日の報道はちょっとバイアス入っているんじゃないかと思える。韓国側のメディア朝鮮日報社説「やって良かったと言える派兵に」(参照)では、こうある。

 韓国政府はキルクークの代わりにスペイン軍が撤収した地域に向かうこともできるというが、そこはポーランド師団の管轄地域だ。米国との共同作戦さえ断った韓国軍が、ポーランドの指揮を受けるはずがない。
 よって、極端に言ってしまえば、結局行くと言っておきながら行けないか、もしくは行かない状況まで想定しないわけにはいかなくなった。

 なるほど、スペインやポーランドは小軍ながら、危険地域にいることがよくわかる。そして、韓国はポーランドの指揮は受けないというのだ。日本人の感覚からすると、その印象は、30へぇくらいだろうか。
 同社説はこう結んでいる。

 このような流動的な状況で韓国政府の判断と決定はいつも以上に増幅され、同盟国米国に伝わるほかないだろう。韓国政府の出方次第では、いっそのこと派兵しない方がましだったという事態も招きかねない。政府の高度な総合的判断が要求される時だ。

 ある程度国内世論を踏まえているらしく、韓国軍派兵の決断せよ、とまでは露骨には書いていない。が、そういう意図だろう。それは韓国の一部の主張に過ぎないのだろうが、そこまでして米国との連帯を重視しているわけだ。その点、裏返しになるとはいえポーランドも同じだ。こういう事態を見ると、日本は安閑としているなと思う。陰謀論めくが、日本の円の威力はすごいな、国防だな、とやけっぱちで思う。
 韓国側の名目的な世論としては、「平和と復興」の派兵だ。おっと、それってどっかの国と似ているじゃないか。というか、安閑とした日本が恨めしく見える部分もあるだろう。EUの小国からもそう見られているだろうし、また、はっきりとは聞かないが、他のアジア諸国やオーストラリア・ニュージーランド(この二国を分離する理由が最近わからなくなってきたぞ)からも、そういう視線があるのではないか。
 とま、だから日本もしっかりせよ、なんてことを言いたいわけではない。1000人規模の、比較的安全な地帯で「何かやっている」自衛隊以上の軍事的な貢献は難しいだろう。それでも、日本の世論は、米、仏、懐かしの左翼といった視点で大入り状態に見えなくもない。
 しかし、イラク復興で重要なのは、本当に軍という視点なのか? 冗談を含めて言うのだが、日本は経済力で米国から防衛しているだけじゃなくて、もっとイラクの経済復興に遠隔的に働く施策はないだろうか? ちょっと暴論めくが、イラクの国政は石油の利益をサービス産業として再配分していたのだろうから、どかんと一発禿げ頭じゃないが、外貨をじゃぶじゃぶ送って、輸入を促進すればいいのではないか。暴論すぎるかなとは思うが、視点の変更はありえるように思うのだが。

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福井俊彦総裁、満一歳

 今朝の朝日新聞社説「福井日銀――難題を抱えて2年目に」は、こんなテーマを朝日が書くのか、ふーんという感じだった。きっかけは、標題通り、福井俊彦総裁が今日で就任1年目になることだ。
 朝日の社説は何を言いたいのかはっきりとはしていない。むしろ、経済解説コラムといった雰囲気でもある。極東ブログで一時期執拗に扱った円介入はリフレじゃないかということについても、ようやく、今頃、こう言っている。


 財政政策も金融政策も手詰まりのなかで、政府と日銀の「暗黙の合意」のもとに、政府の為替介入と日銀の量的緩和の拡大をセットにした経済政策が進められているようにも見える。
 財務省は円高を防ぐために、昨年1年で20兆円、今年もすでに10兆円を超すドル買い円売り介入を行った。量的緩和の拡大は、これと軌を一にしている。介入の結果、市場に出回る円の一部を日銀が回収しないことが金融緩和につながり、それが景気回復に役立っているとの見方がある。

 いまさら言うなよ、極東ブログより先に言えよとも思うが、社説のレベルでこういう認識が定着したということなのだろう。朝日はどうせよというのかというと、そこがはっきりしない。

 消費者物価は下落幅が縮まり、企業物価指数は下げ止まるなど変化の兆しはあるが、まだデフレ脱却に道筋がついたとはいえない。景気が回復しているといっても、日銀は当面、量的緩和を続けていくしかないだろう。

 こんにゃくのさしみを味噌ダレを付けずに食っているような感じだが、こう続く。

 問題は、いよいよデフレ脱却となれば、長期金利が一気に上昇する可能性があることだ。経済の実態以上に急騰すれば、景気回復の足かせになりかねない。
 金融緩和のなかで、金融機関は膨大な国債を抱え込んでいる。株価が同時に上昇するのならいいが、金利上昇が先行して国債相場が急落すれば、金融機関によっては経営の重荷になる心配もある。

 長期金利上昇の話は、ゴーちゃんが暴走する前の「デフレの終わりは始まったか? 」(参照)に関連記事がある。私は木村剛と意見が異なることはすでに極東ブログ「木村剛『デフレの終わりは始まったか?』に」(参照)で触れた。半可通な話だが、現状それ以上の考察もない。
 銀行が抱える国債については、すでにリフレ派が口酸っぱく言うように、日銀の買い切りということがこの執筆者の念頭にも浮かんでいるのだろうが、そこは示唆するだけで触れていない。話はペイオフに流れ込んで終わるが、UFJ問題の示唆のつもりでもあるのだろう。
 話を国債の買い切りについて言えば、私はよくわからないなというのが本音だ。国債が暴落するという懸念もよくわからないが、私は単純に、それってタコが足を食うことになるのだから、そういう市場調整はいやだなという感じがする。このあたり、きちんとした説明を読んでみたいものだが、見あたらない。それと、陰謀論めくが、人的に円の価値を下げるという措置は米国が禁じているようにも思う。普通の感覚で言えば、米国側としては、国債よりも日本の内需を大きく変化してほしいところだろう。
 私は庶民の感覚として、「需要」なんていうものはない。が、しいて言えば、住宅状況の改善だろう。そしてこれも庶民感覚でいうのだが、住宅状況の問題は、手短な娯楽消費に結びついた住居、つまり都市の快楽ではないかと思う。日本には大人のナイトライフもない。
 関連して、昨日の毎日新聞社説「福井総裁1年 量的緩和の出口探る時だ」はしきりに量的緩和をやめろと言っていた。悲痛感と滑稽感がないまぜになっている。

 政府、日銀ともに相変わらずデフレの恐怖を強調している。しかし、物価は前年比横ばい水準まで戻している。素材市況は活況を呈している。こうした状況下で、大量の資金を銀行に滞留させておけば、何らかの要因で物価が急騰する場面がないとは言い切れない。

 それでいいんじゃないのか。「急騰」っていうから変な話になるだけではないのか。っていうか、「何らかの要因」って何だ?

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2004.03.19

陳水扁が勝つと信じる

 陳水扁が撃たれた。ニュースでは命に別条はないとのことだ。この事態が選挙にどう影響するのか、私にはわからない。冷静に見る限り、民進党が優勢とは言えない。前回民進党が躍進したのは国民党が分裂したというのが最大の理由だ。
 が、陳水扁は命ある限りくじけるわけもなく、また、彼を支持する台湾人もくじけるわけがない。台湾が民主国家たらんとする精神は鬼神のように歴史を貫いて生きたのだし、生き続けるのだから、万一、国民党が政権に返り咲いたとしても、何も台湾は変わらない。と、我ながら、少し常軌を逸した肩入れだが、彼と呉淑珍の人生を少しでも知って心を動かされない者があるか。
 呉淑珍について言わずもがなだが、少しだけ触れておく(あまり正確ではないかもしれないので間違っていたらご指摘を)。彼女は1953年台南県の医師の家に生まれ、台北の中興大学に進学。大学卒業後の翌年1975年に陳水扁と結婚。なお、陳は大学三年で司法試験にトップ合格し、弁護士となる。1979年の「美麗島事件」(国民党による民主化運動の大弾圧)で陳は弁護団に加わるが、この決断を促したのが呉であるらしい。この弁護経験から、陳は政界に入り、81年に台北市議となるも、85年には台南県長で落選。このおり、台南で遊説中に軽トラックが同伴の呉にめがけて突っ込んだ。政治テロである。以降、呉は車イスの人生となる。台湾人なら、陳の横にいる彼女の姿を誰も知っている。
 総統選挙については、このブログでは結果を待ってから書こうと思っていた。率直に言って落胆した結果になるだろうなと予測していたからだ。また、いわゆる国際問題とやらの識者たちは、今回の総統選挙の陰の主役は米中だとさも訳知りに言うのだが、これが実にムカつく。民進党が敗退して、では、陰の主役中国が高笑いするのか。馬鹿な。香港を見よ。香港ですら、中共に飲まれていない。
 ここでしばし瞑目し、陳水扁の勝利を信じる。

追記
 翌日3月20日の新聞社説でこの問題を扱ったのは読売のみ。その「台湾総統銃撃 これは民主的選挙へのテロだ」では、こう主張している。


 台湾の将来について、中台関係の未来について、決めるのは、一発の銃弾であってはならない。

 なにを考えているのか読売は。これが日本国で首相や天皇が銃撃されても同じことを言うのか?


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イラク戦争一年

 朝日、読売、日経が、イラク戦争1年というネタで社説を書いていた。特にどうという内容でもない。私もこのブログでイラク戦争についてはいろいろ書いてきたので、新しい話もない。ので、繰り言になる。
 私の場合は、このブログを始める前に米国の開戦を支持していた。大量破壊兵器があるとも信じていた。だが、さすがにもう実際は大量破壊兵器はなかったと言うしかない。すると開戦の理由はない、ということになる。それもそうだ。では私は判断を間違えていたのか。
 そうすんなりともいかない。私はイラク戦争のミスは、戦後処理のミスであり、フセインなきフセイン体制を維持しなかったことにあると思う。しかし、そう主張することは醜いなとも思う。また、仏独露の死の商人たちや、こいつらのフセインとの裏取引を潰せとも思っていた、が、それも十分な自己主張の理由にはならない。
 では私は十分に反省したのか。そうでもない。同様な事態になったとき、私は、態度を変えるかというと、そうでもないように思う。実に歯切れが悪い。
 テロは世界に拡散し、イラク統治は泥沼化しているようにも見える(そうでなくも見えるのだがそれは今日は触れない)。だが、この戦争で世界の構成は確実に変わった。リビアは完全に屈した。イラン、パキスタンもだいぶ折れた。北朝鮮もほぼコントロール下に入った。冷戦後のならず者国家は軒並みもぐらたたきの状況になった。イスラエルを挑発する国も事実上なくなった。そして、おそらく表層的な国際テロの背景で、中露とEU(独仏)と米国の関係が、冷戦のような、それでいて経済的にはもつれ合うような事態が進んでいる。この事態に、旧来の反戦だの平和だの悲戦というような懐メロで対応できるわけもない。

cover
マクナマラ回顧録
 話をイラク戦当初に戻す。戦争自体は予想以上に首尾よく終わったのではないか、と私は思っていた。が、それは、明確に間違いだった。もちろん、短期に終わるという点では首尾良しとも言えるだろうが、戦略の内実をNHK「クローズアップ現代」イラク戦争3回シリーズの初回で知ったときは、ベトナム戦争についてのマクナラマラ回顧録より落胆した。というか、ベトナム戦争の非を認めるのはそれほど難しい問題ではない。
 NHKによれば、今回のイラク戦では、当初、要人空爆を50回も行ったものの、すべて失敗していたという。「言うよなアメリカぁ!」と思う。歴史の段階に移ったことについて米国という国は政治的な配慮はしない。この点は、糞転がしのように糞文書を抱え込む日本の外務省の歴史文書隠蔽主義と雲泥の差がある、と言えば、米国だって重要文書は同じ、ということにもなるだろうが、それでも、このあっけらかんとした戦略への取り組みは、そら恐ろしいものがある。生成文法史に置けるチョムスキーみたいじゃないか、と言って爆笑される方はいかほどか。
 この馬鹿みたいにあっけらかんと、全て失敗でした、とぬけぬけと、おばあちゃんのクッキーのレシピのように語る米国というのは、本気で怖い。そして追い打ちをかけるように、その際の民間人殺害がどの範囲なら国際法に触れないか、マクロ経済のように計算していたともいう。背筋が凍るな。しかし、これは米国戦史の反省でもあるのだろう。そうでもなければ、東京大空襲をまたやりかねないのだ。
 いずれにせよ、要人をピンポイントで殺害し、国家体制を転覆するという戦略はとんでもない失敗だったことは確かだ。ふと常識に立ち返るならそんなことはあり得ないと思うのだが、そういう常識は機能しづらい。
 「クローズアップ現代」には、「ヴァ-チャル・ウォ-」の作者マイケル・イグナティエフが出てきて、間抜け面を晒していた。コイツ、こんな馬鹿だったのか。とはいえ、イラク戦争はヴァ-チャル・ウォ-ではないと言うだけまともなのか、それとも米国世論を配慮していたのか、判然としない。だが、戦争はゲームのようだみたいな議論は、なんとも薄っぺらなものだ。が、そう私もその間抜け面の一人だよ、とされて、さしたる反論もないか。
 日本のマスメディアでは、未だ中道左翼みたいな論者がインテリめいて生き残ったようにも思う。幸いイラク状勢もそれに追い風のようになった。が、私は秋以降、そんなことはどうでもいいと思うようになった。反面、急に気になりだしたのは、有志連合と韓国、沖縄の動向だった。
 有志連合が成功すれば、日本は人的な面で米国の属国になるぞと思った。その兆候は韓国に見られた。韓国の内政は現状紛糾を窮めているところに、ブラックな皮肉を投げるようだが、あのどたばたに米国が呆れている事態は、韓国に益なのだ。米国の本音は「こーんな馬鹿、使えねー」だろう。同じく、日本についてもそう思っているに違いない。が、米国債の買い入れという身銭を切る同盟国には随分米国は配慮していた。
 現状、有志連合という悪夢が完全に消えたわけでもない。が、イラク戦争がすんなりシナリオ通りに進んでいたら、米国州兵の代わりに、韓国人・日本人・オーストラリア人が狩り出される世界になっていただろうと思う。

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スペインテロ雑感

 スペインテロの関連で、もわもわと心に浮かんでくることを書く。たぶん、自分のために書く。書けば、なにかわかってくることがあるかもしれないし。
 嘘みたいな話だが、私はあまりニュースを追っていない。すでになんども書いたことだが、映像はできるだけ見ない。目が悪いせいもあるが、映像というのはなにを描いているのか、考えるのに疲れる。そんなことはないだろうと普通、人は思うのかもしれない。が、映像にはかならず意図があり、その意図と自分の思いがどうしても齟齬を起こす。映像に向かって「ちょっと待ったぁ」とは言えない。
 スペインテロについても、ニューズウィークの日本語版に掲載されている写真で初めて惨状の一端を見た。実は、それだけ多数の人をどうやったら殺せるものだろうか、と疑問に思っていた。単なる爆破だけではなく列車事故を巻き込むからだろうとは、もちろん思っていた。当然、日本でもそのような惨事が起こりうるか、とも考える。
 ニューズウィーク掲載の写真を見るに、救助のために列車を解体したのかもしれないが、その爆破力は並大抵のものではない。これにはどれほどの爆薬が必要なのだろうか。
 少し古い話になるのだが、70年代に日本では東アジア反日武装戦線、狼、さそり、大地の牙といったグループが企業連続爆破を行っていた。あの時の爆破規模はどのくらいだっただろうか。あれでも100人規模で殺傷することはなかった。彼らは、それなりに無差別な殺戮をしたわけではなかったから、ということでもないだろう。また、オウム事件もひどいもので多数の被害者を出したが、殺傷という面ではやはり100人を越えるわけではかった。
 じゃ、大丈夫とか阿呆なことが言いたいのではない。私は、100人レベルの人間を文明都市で一度に殺傷するというイメージに納得してみたいと思うのだ。なぜだろう? たぶん、私なりの無意識的なテロへの戦いなのだろうな、という感じがする。恐怖に立ち向かうには、目をつぶってはだめだ。
 スペインのテロでは起爆に携帯電話が利用された。それは日本でもできそうな気がする。だが、具体的に山手線なり新幹線なりでそれがどのように可能だろうか。イスラエルでのテロを例とすると、恐らく、自爆テロがもっともあり得るだろう。日本のこの社会にあって、アルカイダなり対外的なテロ組織の道具となった自爆者が出るのだろうか? 私の大衆的な感性からすると、それはなさそうな気がするし、その恐怖心からますます日本人は非白人を差別視していくように思う。
 話の方向を変える。先のブログで私は、「スペイン国民はテロに屈したように見える」と書いた。私の大衆的な意識では、そう見える。私は、自分の内部の大衆性的な感性に嘘をつくのが大嫌いだ。もちろん、そう見えるということと、そう主張することは違う。だが、私はブログという場でありながら、それをやや主張の側に回した。もちろん、先のブログを丁寧に読んでいただければ、私の考えは、いわゆる米英流のそれではないことは理解していただけるだろうとは思う。
 と、うだっとしたことを書いたのは、同記事にトックバックしていただいた余丁町散人先生の「ルモンド社説『スペイン国民をバカにする珍説が流布されている』(2004.3.18) 」(参照)をどう受け止めるべきか、悩んでいたからだ。
 政治思想の面では、私は率直に言うと、それほどル・モンドは評価していない。私は欧米のインテリなんかに糞負けるかよと東洋的に知性を陶冶してきたからだ、というのは冗談で、ただ、きゃつらの考えてに慣れてきただけだ。
 個別に言うなら、ル・モンドは対外的には、EUとの絡みで、フランスの国益を代表しており、特にスペインとの関係では、EU憲法草案をめぐって昨年末、烈しい争いがあったことがこの言論の背景にある。この背景を抜くと、ル・モンドのトーンは随分変わってしまう。それと、ごく蛇足程度だが、"Une these meprisante"は、きつく訳すなら「唾棄すべき主張」となるかなとは思う。
 ル・モンドのその主張自体には、私は率直なところ、奇妙な倒錯感があると考えている。それは、スペイン派兵は今や、事実上国連と連携したイラクに欠かせない治安部隊になっているのであって、開戦時のそれとは違う、ということだ。
 おそらくフランス人を含んだNATO軍ですら、米国が少しお利口なら、もうすぐイラク派兵に踏み切るだろう。とはいえ、NATOやカナダなどの動向を見てから、スペインも仕切り直しという国政判断もありうるかもしれない。しかし、すでに本質的にはイラク統治では米国先導ということではない。
 どう受け止めるべきか、と逡巡するのは、端的に、自分より年長の散人先生への礼のようなものである。それは池澤夏樹にも思う。ちょっこし言うと、池澤さんは覚えていないだろうが、狭い沖縄社会で暮らしていたこともありお会いしたこともある。となると、いくらイデオロギーは違っても、言いづらい線はあるなと思う。それは、礼というより、もっとシンプルに言って、自分より経験ある人間には、自分は引くべきだなよな、というような感じだ。じゃ、小泉総理は?と言われると、深く自分に問いつめると、やはり例外ではない。小泉も小泉なりに今の小泉ではあるのだろう。
 話を、スペインテロの受け止め方に戻す。原文は読んでいないのでちと恥ずかしいのだが、ワシントンポスト紙の訳で「スペイン国民の答え」(参照)を読み、興味深かった。もちろん、大筋で、テロ犯人をバスクETAとして非難したアスナール政権のミスと見る、というあたりは、すでに政治を見る人間の共通理解になっているので凡庸だ。そして、単純に「屈したように見える」なんてナイーブなことは言わない。私が共感するのはただ次の点だけだ。


「テロを撲滅するのは武力ではないのは明らかだ。」と欧州委員会のプロディ委員長が昨日答えた。もしこのような感傷的な考えが大勢を占めるようになれば、次の大統領が誰になろうとアメリカは単独行動主義を続けざるをえないかもしれない。

 日本のポチ保守系以外のインテリたちは、米国の単独主義をよく批判する。だが、現在世界の市場の均衡を守っているのはその米国であり、それをさらに米国に強いるような向き合い方をするのは、いずれにせよ、賢いあり方とは言えないだろうと私は思う。
 さて、結語もなく、最後にまた話が飛ぶのだが、心にひっかかるという点で、素朴な疑問を書いておきたい。イラクの復興に関連したことだ。イラク復興というと、日本人はどうしても日本の戦後復興やその他の焦土となるイメージを持つと思う。だが、現実のイラクの復興というのは、雇用が重点らしい。当たり前過ぎるのだろうが、実は、私は昨年の開戦前から、え?という感じだったのだが、イラクという国の主要な雇用はサービス産業なのではないか?ということだ。
 なにか復興というイメージが全然違うのではないだろうか?ともわっとしている。もちろん、そんなこと現地の人はみんな知っている?、のだろうか? もし、サービス雇用が問題なら、全く異なった援助策を考えるべきなのではないか?

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2004.03.18

週刊文春差し止めの是非は今後の問題だ

 新聞各紙社説はこぞって昨日の週刊文春差し止めを扱っていた。へぇそんなのが話題になるのかと思った。考えてみれば、憲法でうたわれている出版の自由が侵害されるとも取れるので大騒ぎしても不思議ではないか。昨日、このブログのリファラでも、「週刊文春」というキーワードが少し目に付いた。と、たらっとした感じなのは、私自身の関心がすでに抜けているからだ。理由は簡単。それを読んでみて、あまりにつまらなかった。結論だけ言うと、週刊文春も大人げないことしたな、これじゃ、差し止めくらって当然だ、である。
 昨日、朝、ラジオのニュースでこの一報を聞いた。差し止めの記事は気にはなるものの、近所のコンビニは優等生なセブンイレブンだからもう撤去済みだろうと思った。むしろ、私は毎週、週刊文春と週刊新潮を読んでいるので、連載エッセイなどが欠けるのがやだなと思った。昼飯買いついでにコンビニに寄ると、撤去済みだったが、ウィンドウディスプレイ側に残っていた。バイトさん、間抜けで良かったというくらいなもので、よっこいしょと手を伸ばして引き抜き、週刊新潮と共に買う。なんかお宝ゲットのような気分になったが、午後夕飯かねてスーパーマーケットに寄ったら、週刊文春は山積みで売れ残っていた。なーんだである。
 記事を一読した。なーんだという感じだった。まず、つまらない。そして不快だ。田中真紀子の娘はただの私人である。こんな私人のネタはどう調理しても面白くはなるまい。面白くしてはいけない。この記事は愚劣というか、これはルール違反だ、東京地裁の判断は常識的だなと思った。
 それにしても、文藝春秋っていうのは、田中一族に対するオブセッション(強迫)がすごいものだ。そして、そのオブセッションというのは、まさに岸田秀的な精神分析学の対象だろう。短絡して話すとまた、歴史も知らねぇ厨房に電波だの言われるのかもしれないが、文藝春秋という組織の無意識にあるのは田中角栄を誤って屠ったことに対する呵責なのだ。その過ちを認めたくないから、娘まで罰し、孫まで罰したいのだ。環境ホルモン騒ぎですでにとち狂ってる論壇の蛭子能収、もとい、立花隆も、それで評価できなくなった。とまで言うのはさすがにこっち側の勇み足か。それでも、立花にせめて柳田邦男のような花道を敷いてあげるのが編集ってものだろう。が、そういう編集がないのだ。文藝春秋で福田和也や日垣隆が看板を張る時代なのだ。
 私はジャーナリズムというのは間違ってもいいと思う。間違う勇気を持つべきだとも思う。もうちょっというと、今回の差し止めは常識があれば足りるが、以前の国内狂牛病騒ぎの記事こそ差し止めるべきだった。週刊文春は国立神経精神センターにすでに患者がいるような記事を書き腐った。きちんと裏も調べないで書き飛ばし、謝罪もない。まぁ、深く私人のプライバシーに関わったわけでもないので差し止めろという私が常識を欠いているか。
 疑惑の三浦事件についての文春の扱いは、今でも私はわからない。O.J.Simpsonケースと同じで、市民としてはここで口を閉じるのが礼儀だろう。最近のジャニーズ関連ではよくやっていると思う。創価学会関連では、新潮よりはるかに腰が引けている。北朝鮮関連はガセが多い。が、それでも、こうして見ると、総じて、日本のマスのジャーナリズムは週刊文春と週刊新潮で成り立っていると見てもいい。この二誌がなければ、日本はほとんどファシズム下のようだ。だから、今回のポカも、まぁ、反省せいよで、次行ってみよう!でいいのではないか。田中ファミリーバッシングネタはもうよせよとも思うが。っていうか、あの事件の米側を今からでも遅くない、掘れよと思う。
 以下、社説をざっと巡る。朝日「出版禁止――警鐘はわかるけれど」では、標題どおり、文春側を非としながらも出版禁止はやりすぎだというわけだ。お利口ちゃんだね。読売「出版禁止命令 プライバシーの侵害は明らかだ」は「やむを得ない」だそうだ。ナベツネが書いたか? 毎日「週刊文春記事 販売差し止め命令に驚いた」は朝日と似ているが「また、政治家の家族は私人だと言っても、田中前外相ほど影響力の大きな政治家の場合、家族の私生活まで社会の関心事になるのは無理からぬところだ」だとさ、違うよ。産経「週刊文春差し止め 出版の自由に抵触の恐れ」は差し止め自体に法学的な疑義を提出している。日経は当事者っぽいのでパス。
 こうしてみると産経が一番まともであり、他は極東ブログ同レベルの床屋談義に過ぎない。


 出版物の出版・販売の差し止めをめぐっては、昭和六十一年六月の最高裁大法廷の判例がある。
 これは北海道知事選の立候補予定者が、自分の中傷記事をのせた月刊「北方ジャーナル」誌の差し止めを求めた訴訟で、最高裁は、「憲法は原則的に言論の事前抑制を禁じているが、(1)表現内容が真実でなく(2)記事が公益を図る目的でないことが明白(3)被害者が著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合、例外的に差し止めを認めることができる」との一般論を示した上で問題の記事は真実ではなかった、として差し止めを認めた。

 東京地裁も差し止めについては、裁判官三人の合議体で審理することを決めているようなので、床屋談義は切り上げて、その結論を見ていくほうがいいだろう。
 余談だが、憲法でいう「出版の自由」は誤訳に近い。プレス(報道)の自由だ。私は、どっちかというと憲法改正反対だが、修正や追加はあってしかるべきだと思う。憲法に規定しない軍を持つ近代国家はジョークであるし。ただ、それとは別に、憲法はきちんと改訳すべきだ。ただ、いくら芥川賞を取る前にヴォネガットなどの翻訳をしていた池澤夏樹とはいえ、あれはいただけないが。

追記
リソースに以下の文書を追加した。
文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容

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2004.03.17

ココログプロへアップデート

 昨日、ココログプロの公開に合わせて、極東ブログのアップデートをした。ココログもようやくMT並に使えるようになってきたなという感じだ。むしろ、パチなサーバーのPerlを頼るMTよりはいいのかもしれない。パチ・サーバー(「あっパチ」、じゃないよ)のMTがTypePadサービスに移動してくるか?
 アップデートとはいえ、極東ブログのなるべく見た目は変わらないように配慮した。というか、なーんだなんも変わってねぇか。もうちょっといじりたかったが、ブログシステムに対する自分の知識が足りず、まだ、十分に変更できない。特に、固定リンクページのカスタマイズがよくわからん。
 今回のアップデートで一番嬉しかったのは、容量が150MBに増えたことだ。ちょっと前まで、ココログは上限容量がキツイので、このままいくと秋までは持つまいと懸念していた。熱死したらインフォシークでMTを動かすのが無難かとも思って、再度移転サイトの構築もできてはいたのだが、問題はMTっつうより、サーバーとPerlの能力なのでためらっていた。現状、極東ブログはそれほどトラフィックがあるわけでもないのだが、なんかあってトラフィック面でぽちゃんというのもなんだしな。が、これで、当分の間は大丈夫か。毎度の弱音をちらと吐くと、自分がいつまでブログを続けられるものかいなのほうが問題か。
 トラフィックといえいば、ココログプロでようやくアクセス解析機能がついた。といっても、お笑いレベルだ。細かいIPデータははない。Analogに食わせるわけにもいかん。が、そこまで情報があっても当方重要ではない。せめて「はてなダイアリー」やtDiary程度にリファラをディコードして整理してくれるといいのだが、現状の機能ではあまり役に立たない。というわけで、自前のリファラログがまだ撤去できない。ただ、総アクセス数みたいのがわかるようになって、あれ?とか思った。リファラで取る三倍くらいある。え゛っみたいな感じだ。誰が読んでいるのでしょうか?
 ココログのアップデートはどのくらい日本のブログの世界に影響を与えたのだろうか。ちらと見回してもよくわからない。ココログルで検索してココログの中をざっとみたけど、特に際だった変化はない。お値段が高いぜ、という意見がやや多いか。しかし、6月まで無料ということでその間に画像とかで30MBを越えさせるように仕向けるあたり、@niftyさん、ようやく商売の勘を戻しましたね。それにしても、この5年くらいの@niftyの経営の阿呆さにはイライラしたものな。
 日本も、これで本格的にブログのインフラをサービスできる状態になった。むしろ、米国の場合は、iBlogみたいな、なんだそれみたいなものも多いし、日本でもこの手のオフライン型が流行るかとも思ったのだが、その目は低いのではないか。と、iBlogにケチを付けると、ウンコ飛んできそうなので、やめとこ。iBlogはトラバだってできるぞぉ。
 いずれにせよ、これで日本のブログ文化も構造的にはかなり強化されることになる。あとは書き手だ、と言いたいところだが、この面で先行している「はてな」を見るに、そんな心配は無用なようだ。いい書き手はごろごろしているように思う。極東ブログなども、このペースで進みながらも、よい書き手の群れに埋もれて、もっとマイナーな爺ぃ臭いものになっていくだろう。いいことだよ。
 今回のアップデートでは、ブログ運営で複数ライターも可能になった。スラッシュドットみたいなことが可能になるっていうか、同人誌なども可能になるわけだ。そういう兆候がいつ頃でてくるだろうか。かく言う極東ブログも、ジャーナリズム的に見るなら、私が一人で書いてないで、得意分野を分散したほうがいいし、実際経済分野など、私より有能なコメントで支えられている状態だ。が、私がえっへんというわけではないが、どうも極東ブログは個人的な思いが強くなっていて、私がネックです。実際的な点でいうと、私はあまり編集には向かない。このあたり、あまり語らないことにしているのだが、編集の能力というのは書き手とは別だ。きちんと編集が存在しているなら、ブログ間の寄稿でいいジャーナリズムができそうな感じもする。

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ネットは新聞を殺すのか
 かくして、ようやく「ネットは新聞を殺すのか」の話が日本でも法螺っぽくなくなってきた。この本の内容は、米国の現状っていう点では、もうちょっと情報が古いのだが、実際に自分自身こうしてブログってみて、しかもアフィリエイトも貼ってみると、なるほどと同書にルポされている部分が実感される。読みづらい本だし、書き手の感性がちょっとなと思う面があるのだが、この本のリアリティはもう少し読まれてもいいかもしれない。読んでない人でこうしたことに関心ある人はお薦めときますよ。
 「ネットは新聞を殺すのか」という本についでだが、タイトルはとりあえず、「新聞」がキーワードになっているが、日本の巨大新聞に対応するものでもあるまい。むしろ、広義にジャーナリズムと関連するだろう。話が前後するが、日本の場合、どうしても、日本人の国民性にあった「2ちゃんねる」的な情報をどう扱うが問題だ。2ちゃんねる的な情報の世界とブログの情報の世界をどう連結させるか。連結というからには文章になっていないといけない。すると、その書き手と編集の問題かなと思う。そういう点でみると、「はてな」にごろっとしているグッド・ライターズは、個的な興味の連帯に閉じる傾向がありそうなので、ジャーナリズムという点では細いかなという印象もある。
 また、同書では新聞というよりアフィリエイトというか、P2P的な広告が重視されるという示唆が重要だ。現状それが、うざったいアフィリエイトかというとよくわからない。同書はこんな未来を描いている。

書籍販売大手のアマゾン・ドット・コムや、日本の価格比較サイトの価格・ドットコムのように、消費者の書評や感想などの情報を掲載するサイトが増えてきている。IDC社は、今後こうした消費者の意見が社会全体の消費行動を大きく左右するようになり、2008年には900億ドル相当の個人消費が、ほかの消費者の発信する情報をもとに行われるようになると予測している。買い物に出かけて電子手帳や携帯電話で商品のバーコードを読み取ると、その商品に関するほかの消費者の意見を読むことができる。そんな時代がもうすぐくるというわけだ。ただそのためには、質の高い意見を集めたり、コンパクトに情報をまとめる仕組みが必要になる。

 余談めくが、極東ブログでも貼り付けているGoogle AdSenseだが、クリックされないと、儲けという点ではあまり意味はない。が、そのユーザビリティ悪すぎ。だらっとした文章の多い極東ブログなのにトップに貼れば無視されること必定。ま、無視してもいいです。

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軽水炉プルサーマル再開

 プルサーマル問題を扱うのはちょっと気が重い。理由は単純で、原発問題はイデオロギーに絡んでヒステリックな状況にもなりうる。しかも、率直に言うのだが、科学的な説明と称するものがどうも疑わしい。
 これは、インターネットの言論(んなものがあるか?)全体にも言えるのだが、「おめー、非科学的だからDQN(お馬鹿の類語)」というバッシングゲームがけっこう盛んだ。が、私の見る限り、どうもこの10年くらいの傾向に思うだが、その「科学」というもののイメージが変わってきている。教科書どおりの解説が正しいと思っている人が多いように見える。これは経済学などについても言えそうだ。
 だが、私は時代背景もあり、どっちかというと技術屋・実験型の人間でもあるせいか、推論や知識なんかより事実が全てだ。説明より現象を重視する。ちょっと言い過ぎに踏み出すが、科学というのは愚直な馬鹿がやったほうがいい。いわゆる理系というのと実際の科学というのは、かなり違う。
 原発についても、安全だ、安全ではないといった議論がある。安全という見解のほうが科学的に見える。しかし、世相に浮かび上がってくるのは、頓馬な失態ばかり。科学の応用というのは理論の科学とは違う。「はず」の誤差を埋めていく工学と、実際の会社経営のようなプロジェクト管理が必要になる。どうも、後者のほうに日本はガタが来ているのに、理論だけ「私はお利口さん」ゲームが進んでいるように見える。だから、DQNと言われようが、市民として見れば、原発は安全とはとうてい見えないと言おう。
 前置きみたいな話が長くなったが、さらに関連の話を加える。お利口さんゲームのもう一つの欠点は、総合的な視野がない。つまり、そもそもゲーム臭い知識なので、市民常識といった根っこや、他分野の知見がない。別のリングに上がると「負けそう」なので口をつぐむというか、奇妙な沈黙があるなと思う。こういう状況はやだなと思う。その意味で、極東ブログはお馬鹿の切り込みでもいいかとも思うわけだ。
 で、プルサーマルなのだが、いくらMOX燃料は核兵器転用の恐れは少ないと言っても、単純に考えれば、日本の潜在的な核装備にしか対外的には見えない。そして、それが可能なのは、米国がそれを是認しているからだ(飛行機産業などは事実上禁止されたまま)。それって電波か? いや、私はごく国際的な常識だと思う。
 新聞社説のレベルで言うと、今朝の産経に「プルサーマル 東電も信頼回復に努めよ」があった。時事としては西川一誠福井県知事が高浜町の軽水炉で実施するプルサーマル計画を認可したことがある。この背景も今ひとつわからないのだが、産経は当然プルサーマル推進派だが、核装備と見られることへの懸念を何も語らないことで、バレバレのポチ保守になっている。その点、昨日の読売新聞社説「プルサーマル 信頼回復こそ推進への本筋だ」も似たような話だが、この点が多少考慮されていた。普通そうだろう。
 エネルギーという表向きの議論では、日本ではウランが少ないとかいう理由でプルトニウム推進になっていた。しかし、この手の議論は阿呆臭いと私は考える。手頃な同意見というところで、毎日新聞系の解説「プルサーマルが本格始動 核燃料サイクル再検討を」(参照)を引く。


 核燃料サイクルの完成には多大な費用がかかる。MOX燃料もウラン燃料より割高だ。核燃料サイクル計画はメリットに乏しく、抜本的に再検討する時期に来ている。

 イデオロギーを抜きにエネルギー政策としてみても、軽水炉によるプルサーマルは無駄だとしか思えない。プルサーマルの場合、再処理が不可欠だが、これを対外的に依存せざるを得ない。なんでこんなことを日本はやっているのだろう。
 原発はおそらく今後世界的にある程度広まるだろうし、日本は安全な原発推進を世界に広めるべきとすら思うのだが、いずれにせよ、そういう傾向が進めば、ウランも石油と同じで市場で扱えるようになる。というか、そうするように世界を整備したほうがいい。また、日本のエネルギー政策は原発を優先にするというものでもあるまい。まずは天然ガスだろう。
 軽水炉という存在自体についても気になる。先の毎日の解説を引く。

日本の電力各社は英仏に使用済み燃料の再処理を委託しており、回収されたプルトニウムは昨年末で約24トンにのぼる。2010年には30トンに達する見込みだ。こうしたプルトニウムは高速増殖炉での使用が想定されていた。しかし、1995年の原型炉「もんじゅ」の事故で研究開発は中断された。このため、高速増殖炉実用化までのつなぎとして計画されたプルサーマルがプルトニウム消費の中心に格上げされた。

 単純に気になるのは、軽水炉ってプルサーマル用に開発されたものではなく、流用なのではないかという点だ。それってアリかよ、と。このあたりの解説は自分でもよくわからないので孫引きはしない。
 ついでなので、備忘の意味もかねてちょっと蛇足。大前研一がSAPIO(vol.62)"緊急特集・東海村臨界事故「ひた隠しにされた重大疑惑」"が以前から気になっている。それこそ電波臭い話になるのでここでは書かないのだが。

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2004.03.16

九州新幹線開業を巡る雑談

 九州新幹線開業について少し雑談のような話を書く。社説としては今朝の毎日新聞「九州新幹線開業 ブレーキなき整備新幹線」がよく書けている。ようは、このまま採算を度外視して新幹線を作っていっていいのかということだ。理詰めで問われれば、いいわけもなかろう。だが、先にも少し触れたが私はこの問題はまるでピントが外れている。日本全土に新幹線が走るのが嬉しくてしかたない。阿呆だなと思う。
 「おめめの超特急」こと新幹線が東京大阪間を走ったのは1964年。あの時の興奮は人生何物にも換えられない。私が小学校一年生の時だ。記憶では、幼稚園児の私はブリキでできた新幹線の玩具で遊んでいたのだから、実際の運行開始以前に玩具は出ていたのだろう。後に0系と呼ばれるあれだ。今でもあれが好きだ。100系はちょっと性格が悪そうじゃないか。最近のは、アヒルだか靴だかわからないようなデザインで嫌いだ。工学的には意味があるのだろうし、それなりに美しいと思う人もいるのだろうが、私には関心ない。かくして私も歴史の彼方に追いやられ、消えていくのだ。
 新幹線は広軌である。満鉄だ。私の父は朝鮮で満鉄の学校を出て、引き上げ、逓信省に勤めた。国鉄に勤めたかったのだろうが、そうもいかなかった。彼のハイティーン時代のエンジニアリングは満鉄のブレーキ技術だった。そう語った父には、今思うと、今の私より若いのかと泣けるものがあるが、そこには夢があった。新幹線は満鉄の夢だった。プロジェクトXでももちろんテーマになっていたが、偏った話だなとも思った。
 新幹線が、自強号となって台湾を横断するのもいいなと夢見る。中国人が理解できるなら、華南の地を行くのもいいだろう。彼らに新幹線の夢が理解できるかな。と、政治だか思想に傾きすぎる歴史語りからすれば、こんな夢は批判の対象だろう。なにかとごちゃごちゃしたこともあるのだろう。
 話は少し飛ぶ。私は人生ひょんなことで長く沖縄で暮らすことになり、うちなーんちゅの鉄道の夢のような一端を知ることがあった。沖縄には鉄道はない。戦前は小さい規模だがあった。それを老人たちは懐かしく語る。島が焦土になったこともあるが、米軍統治が長すぎて、もう鉄道に戻ることはなくなった。ある意味、復帰の成功が鉄道の夢を終わりにした。余談の余談のようなものだが、大東島にも鉄道はあったのである。
 不況下の今となっては、国鉄債務問題も昔話のようだが、なぜこの債務が関係ない沖縄県民にも課せられているか疑問に思い、過去の本土側の新聞を調べたことがある。意外なことに、当時の国鉄上層部は、この負債を沖縄県民に課すわけにもいかないと認識していたようだ。が、いつのまにかそんな話は消えた。ある種の責任感というのも歴史の産物であり、それを担える人々はそれを担う前に死んでいくのだ。
 昨年那覇にモノレールが開通した。沖縄県民の多くは単純に嬉しく思ったものだ。が、ちょっと理性的に考えれば、とんでもないシロモノであることはわかる。本土の人間なら呆気にとられるだろうが、こいつは二両編成なのだ。江ノ電以下と言ってもいいだろう。また、その経路と他の交通網を見たら、どこの馬鹿がこんな路線を考えたのかと呪いたくなるようなものだ。維持するだけでも赤字になる。
 が、それでも、鉄道は夢なのだ。国家とは鉄道だと誰か言っていたな。国家は鉄道を敷かなくてはならない、ということはない。それは過ぎ去った歴史の夢だ。
 だが、私のような人間はその歴史の微睡みの中に生きている。あまりごりごりと経営的な観点で論じるのではなく、歴史の夢を活かすように、鉄道を活かすことはできないものかと思う。

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スペイン国民はテロに屈したように見える

 スペイン総選挙でテロ前の大方の予想に反して、アスナール政権が敗北した。新聞各紙は、テロをきっかけに米国追従だったアスナール政権への批判が高まったとし、しかしテロに屈してはならないという主張が多いように思えた。しかし、端的に考えれば、スペインはテロに屈したのだと私は思う。日本でも同じようなテロがあれば、日本国民は早々にテロに屈するだろうと思う。
 ヤケな言い方に聞こえるかもしれないが、自分の内面の大衆性に問いかけると、そうとしか思えない。「悪魔の詩」翻訳で暗殺された筑波大学五十嵐一助教授のことだって日本人・日本政府は真相を解明しようとしていない。する気もないみたいだ。「あんな読まれもしない物騒な文学など翻訳したり奇矯なことを言わなければいいのに、自業自得だね」というのが日本人の本音だろう。そういうものだ。「日本に関係ないテロ騒ぎに巻き込まれるのはいやだし、アラブの人と仲良くやっていけばいいじゃないか」と。
 そういう日本の大衆性に、保守勢力は威勢のいいだけの喝を食らわすのだろうか。空しいことだ。さて、私はどうかねと問われると、正直なところ、それほど強い意見もない。極東ブログもきっぱりとした主張を出せば、シカトはいいとして、ウンコどころか礫が飛ぶようになってきた。おまえさんは、ここでの言論に意地を通すのかねと言われると、それほどでもないなという気もする。
 スペインの内政については、私はそれほど詳しくはない。が、アスナール政権が当初勝利と見られていたように、内政面での失点はそれほど大きくはなかった。経済成長といい失業率の面でも、十分な内政だったと評価できそうだ。ちょっと気になるのは、日本ではベタ扱いの報道くらいしかないが、この間、ギリシアのパパンドレウ政権が選挙で敗れたことだ。
 直接スペインには関係ないし、社会主義政権として見ればギリシアの例は向きが逆だが、安定政権の転換という点で類似の空気も感じはする。いずれにせよ、スペインの政権の変化だが、詳しい統計を見ているわけではないが、各社説が主張しているのとは違い、私は、デモによって若い人の投票率が一時的に上がった反映ではないかと思う。日本でも、若い人の投票率が上がれば、意外にあっけなく自民党+公明党政権は倒れる。だから、若者よ投票せよというわけではない。が、社会の空気が変われば、日本も変わるだろう。そういう変わり方は、隣国を鏡として見ても、ろくでもないものになる。
 各社説ともに、スペインとEUの関係については言及がなかった。なぜだろうという気がする。スペイン、イタリア、ポーランドは現在のEUを考える重要な視点であるはずなのに。と、言うも白々しいか。日本は、これも本音で言えば、反米なのだ。空威張りのフランスの真似をしてみたいのだろう。
 最後にちょっと朝日新聞社説「スペイン政変――テロと戦う国民の選択」の結語を引く。


重ねて強調したい。スペインの選択が突きつけた問いは、テロと戦うべきか否かではない。ブッシュ政権主導のいまの戦い方が正しいかどうかである。

 なんか、脱力っていうより、面白いこと書くよ、朝日新聞。日本のユーモアだね。

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2004.03.15

浅田農産事件で隠蔽されている日に何があったのか?

 新聞休刊日でもあるので、社説関連のネタはない。このところなんとなく気になっていた鳥インフルエンザ関連の話を書く。
 極東ブログでの扱いでもご覧の通り。私は浅田農産を巡る鳥インフルエンザの話題にあまり関心を持ってこなかった。先行した韓国の例から考えて、日本がこの問題でヒステリックになるだろうなとは、なんとなく思っていたが、先んじて国家対応を取っていたシンガポールの状況について知っていながら、なんと大げさなという印象を持っていた。「現段階では人に感染する危険性はかなり低いから、それより、鳥インフルエンザとは関係ないが生卵を食う習慣を日本人はやめたらどうか」などと呑気なことなども思っていた。今現在でも、そうした感覚は変わらない。
 だが、この事件をまさに事件として見たとき、何が起こっていたのだろうと気になって、ネットでわかる範囲で調べてみようと思った。少し調べてみると、少し変だ。そのあたりを簡単に書いてみたい。
 ある事件が勃発したとき、私は最初の報道がとても気になる。最初の報道は間違いも多いのだが、後から消されない奇妙な情報が残ることも多いからだ。その点で、浅田農産関連の事件を追ってみる。
 この件については、地元の京都新聞にわかりやすく報道がまとめられていて興味深い。時系列に書いたほうがいいのかもしれないが、あれ?と思ったあたりから書く。
 まず、浅田肇会長(67)とその妻でもある知佐子監査役(64)の自殺についてだ。確か、切込隊長こと山本一郎のブログでは、他殺じゃねーのみたいな一言があった。彼はその件でその後のフォローはないようだ。私はといえば、あまりそういう線は考えていなかったので、ふーんと思ったくらいだ。血なまぐさい場所にいることの多い彼の感覚ではそう思うものなのだろうかと呑気な私は思ったくらいだ。が、どうもそうとばかりでもなさそうだ。いや、今でも、他殺だと疑っているわけでもないのだが、初報を読むと意外な印象を受ける。「浅田農産の会長夫婦が自殺  兵庫 迷惑かけたと遺書」(参照)から。


 調べによると、2人は鶏舎の外の空き地で、高さ約8メートルの木にロープをかけ背中合わせで首をつっていた。死因は窒息死だった。浅田会長は作業着に白い長靴姿、知佐子さんはグレーのジャケットにズボン、黒い靴をはいていた。
 浅田会長の長男で浅田農産の浅田秀明社長(41)が7日午後10時から11時ごろにかけ、浅田会長が本社にいるのを確認しており、その後、自殺したらしい。死後数時間経過していたとみられる。
 現場近くの自宅1階のダイニングキッチンにあるテーブルの上にボールペンで「大変御めいわくをおかけしました。申しわけございません。弁護士と従業員によろしく」と書かれた縦横約10センチの白い紙1枚が置かれていた。あて名は書かれておらず、末尾には「浅田」とだけ記され、浅田会長と妻のいずれが書いたのかは不明という。

 変だなと思ったのは、特に最後の文のところだ。それが遺書かぁ?である。また、「浅田会長と妻のいずれが書いたのかは不明という」なんていうことがありうるのだろうか。
 他殺、つまり、誰かが吊したという可能性くらいは警察の調査でわかるはずだ(わからない可能性も高いのだが)。直接的な他殺という線は低いのではないか。が、それにしても、この状況は、私などがそれまでニュースを通してイメージしていた状況とはかなり違う。自殺現場やその関連についての続報なども聞かない。全体の印象としては、「これでヤバイこと言いそうな口を封じたな」である。もしそうなら、そのヤバイことは何だろうか? とりあえず、これはわからないし、仮定に仮定を重ねているので推理は注意深くしたほうがいい。
 浅田農産事件の最初の報道に移ろう。京都新聞での最初の報道を見る。2月27日のものだ。これがなかなか面白い。「『どうすればいいのか』 丹波で鳥インフルエンザ」(参照)である。なお、匿名電話があったのは26日である。

 「1000羽以上の鶏が毎日死んでいる」。京都府丹波町で27日、匿名の電話をきっかけに鳥インフルエンザの陽性反応が判明した。現場の養鶏場周辺は物々しい雰囲気に包まれ、関係者も慌ただしく対応に追われた。
 「飼育している20万羽すべてを処分しなければいけないのだろうか。どうすればいいのか」。養鶏場を経営する男性(41)は、同日早朝から詰め掛けた大勢の報道陣を前に、戸惑いをみせた。
 民家もまばらな山間部。鶏舎から元気な鶏の鳴き声が響く。

 なにが面白いかというと、「養鶏場を経営する男性(41)」という表現や養鶏場の場所を特定しないことだ。この時点で、京都新聞の記者はなにを考えていたのだろうか?
 私の印象は、というと、この記者はそんな大それた問題になるとは思ってなかったのではないか。このあたり、浅田農産側も、それほど社会的な事件という印象は持ってなかったのではないだろうか。というか、いったいこの事件の社会的な意味は何なのだろう。もちろん、日本社会の集団ヒステリーに近い。
 同日の次報も面白い。「『通報遅れは残念』と批判  丹波の鳥インフルエンザで農水相 」(参照)より。

 また、鶏の大量死亡について養鶏業者からの連絡が遅れたことについては、「19日にも立入検査をしたと聞いている。都道府県には防疫マニュアルに従い、再三、周知を徹底している。通報が遅れたのは残念」と、対応の遅れを批判した。

 発言部分は亀井善之農水相だが、この言い分を単純に理解すると、19日の時点では問題なかったということになる。が、そうでもない。「丹波の農場、鶏1万羽死ぬ  鳥インフルエンザ、5羽から陽性」(参照)にはこうある。

 府は2月17日に、全国2例目の鳥インフルエンザ感染が大分県で確認されたのを受け、府内の養鶏場を立ち入り検査。府畜産課によると、2月19日、同農場の聞き取り調査では「異状は認められなかった」という。鶏舎への立ち入り検査はしていなかった。

 つまり、19日には立ち入り検査はしていない。亀井善之農水相は実態を知らなかったのだろうか。私の印象では、常識的な判断だと思うが、「バックレていやがるなコイツ」だ。亀井善之農水相及びその配下は何かを知っているなと疑う。19日に立ち入り検査をしなかったポカの言い訳とは考えづらい。それは墓穴になるからだ。何をコイツらは知っているのだろう。これも、仮定に仮定を重ねるの感があるので、ひとまず置く。が、17日には立ち入り検査があったのだろうか。いずれにせよ、その時点では、鶏は死んでなかったと考えてもいいだろう。
 先の報道でもう一点、重要な事実がある。

 府によると、26日夜、府南丹家畜保健衛生所などに「丹波町の養鶏場で1000羽以上のニワトリが毎日死んでいる」との匿名の電話があった。同所員が浅田社長らに聞き取り調査を行ったところ、飼育している約20万羽のうち、「20日ごろから毎日1000羽、計1万羽が死んだ」と話したという。

 浅田社長の言葉をそのまま信じるなら、20日から鶏は死に始めたことになる。
 ところで、鳥インフルエンザの潜伏期間はどのくらいだろうか? 京都新聞の記事に答えがあった。「鶏肉や卵、毎日でも心配ない  京都市立病院感染症科部長に聞く」(参照)では、清水恒広・京都市立病院感染症科部長の説明が掲載されている。

 鳥インフルエンザはH5型もH7型も、人のインフルエンザA型と同じタイプだ。病気の鳥と濃厚な接触歴があり、迅速診断キットでA型と分かれば、疑ってみる必要がある。ただし、人のインフルエンザの潜伏期間は1-3日間に対して、鳥インフルエンザは3-4日間といわれる。少し長く経過を見なければならない。

 つまり、鳥インフルエンザの潜伏期間は3、4日ということだ。
 とりあえず辻褄は合う。つまり、17日時点では異常がないが、その日から3、4日で鳥が死に始めたということだ。
 とすれば、浅田農産に鳥インフルエンザが潜入したのは、少しスパンを取ったとして2月15日から17日ではないのか。この疑問の意味が理解してもらえるだろうか? そう、私は鳥インフルエンザは人的に持ち込まれたのではないかと疑っている。とはいえ、まったくの陰謀論を考えたいわけではない。わざわざ悪人が鳥インフルエンザに感染した鶏を浅田農産に混入させた、などとは考えない。ただ、人的に鳥インフルエンザが浅田農産に持ち込まれたのだろうと思うのだ。そう思う理由は、先にも引いた「丹波の農場、鶏1万羽死ぬ  鳥インフルエンザ、5羽から陽性」の記事にある。

  伊藤寿啓鳥取大教授の話 京都のケースが鳥インフルエンザだとすると、状況からみて山口、大分両県で鶏に感染したウイルスが来たとは考えにくい。地理的に朝鮮半島に近い両県と比べ、野鳥が運んだ可能性も低いかもしれない。海外から散発的に来たウイルスが感染を引き起こしているのだろう。さまざまな仮説を立て、考え得る感染ルートを遮断すべきだ。

 記者が伝言をたらっと書いているのだが、ここで伊藤寿啓鳥取大教授は、浅田農産での鳥インフルエンザ感染について、こう指摘している。

  • 山口、大分両県で鶏に感染したウイルスが感染したものではない
  • 野鳥が運んだ可能性も低い
  • 何らかの経路で海外からウイルスが持ち込まれた

 この指摘は、人的な介入を示唆していると考えていいのではないか。
 ここで、ごく基本に戻るために、「週刊こどもニュース」の「鳥インフルエンザってなに? (04/1/17放送)」(参照)を引く。 なお、この説明事態は、山口県での鳥インフルエンザを想定していたが参考になる。

韓国でインフルエンザにかかったニワトリの近くにいたカモにウイルスが入り、このカモが日本に飛んできて、山口県の養鶏場の近くに来て、ウイルスが、この養鶏場のニワトリに感染したのではないか、という可能性が考えられるというわけです。
 また、養鶏場に出入りしている人やトラックに付いていたり、ニワトリのエサについていたりした可能性がある、という専門家もいます。

 まどろこしいようだが、浅田農産のケースでは野鳥説が消えているので、次の2つが残る。

  • 養鶏場に出入りしている人やトラックに付いていた
  • ニワトリのエサについていた

 つまり、今回の事件で、もっとも真相を解明しなければいけないのは、2月15日から17日の浅田農産養鶏場の人とトラックの出入りと餌の状況だ。
 だが、それが報道されているだろうか?
 いないと思う。なぜなのだろう。
 そう考えると、先に仮定の仮定として残した部分がすべてここに集約するようにも見える。この先は言うまでもないが、あえて言うなら、「殺害と決めつけるわけではないが、浅田農産の老夫妻の口を封じ、カラスに社会ヒステリーを向けさせているやつは誰か? 2月15日から17日に浅田農産に何があったのか?」となるだろう。
 極東ブログとして、浅田農産事件について指摘したいことは以上。
 が、最近騒がれているカラスについても一言。
 同じく京都新聞の記事だが、「死んだ野生カラス2羽からウイルス  船井農場と園部町」(参照)をひく。

 国内の鳥インフルエンザをめぐっては、大陸から渡り鳥がウイルスを持ち込んだ“野鳥犯人説”もささやかれているが、専門家は「船井農場には大量のウイルスが蓄積しており、今回は(養鶏場に出入りした)カラスが被害者となった可能性が高い」とみている。
 環境省と共同で各地の発生地周辺の野鳥調査を続けている大槻公一鳥取大教授(獣医微生物学)は「船井農場で鶏の大量死がピークだったのは1週間以上前。もしカラスがウイルスを持ち込んだとしたら、もっと早くに死んでいるのが見つかったはず」と指摘。
 約5キロ離れた丹波町内の高田養鶏場でも2次感染とみられる鶏の被害が起きたが、鶏舎は野鳥が侵入できない構造で、カラスがウイルスを媒介したとは考えにくいという。

 現在となっては、カラスが感染を広める危険性は十分ある。だが、浅田農産へウイルスを持ち込んだのはカラスじゃない。

追記3.23
 新しい事実から、大量死発生の時期は20日ではなく、17日より数日遡ることがわかった。それに合わせて、疑惑の日々をマイナス3日補正する必要がある。

残るなぞ、真実どこに 連載「何が起きた(6)」


 鶏の大量死が始まったのは2月20日とされる。その3日前の17日、浅田農産の幹部から愛知県の飼料会社の研究所に電話があったと研究所の獣医は証言した。「ちょっとようけ鶏が死んでるんや」との電話。「鶏を解剖したら、腸がソーセージのように腫れている」。症状を聞いた獣医は「腸炎かもしれない。しばらく様子をみてほしい」と伝えた。
 獣医は、のちに鳥インフルエンザで鶏が大量死したことを知り、悔やんだ。「どうしてもう1度連絡してくれなかったのか。1000羽も腸炎で死ぬなんてありえない」

 なお、この間の関連ニュースを見ていても、私の考えでは、依然、人的な感染が最も疑わしい。

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2004.03.14

盧武鉉はなぜRoh Moo Hyun

 識者にとっては愚問かもしれないが、韓国関係のニュースを英語を通して読んでいて、さしていつもは気にしてないのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろう?と疑問になった。
 盧武鉉がノムヒョンと呼ばれることには、私もわずかに韓国語を勉強したこともあり、とりあえず、それほど違和感はない。「盧」をノと読む件についてもだ。もっとも、「柳美里」は、個人的には「やなぎ・みさと」と読むが、別に公的にそう読みたいわけでもない。「金明観」はキムミョンガンと読む。ファーストインプレッションが原因か。盧泰愚はロタイグと読む。盧武鉉をどう日本読みするかは、ちょとわからない。
 問題は、Roh Moo Hyunの表記だ。アメリカのジャーナリズムはどういう見解に基づいているのか。というのと、ついでだが、韓国はこれについてどういう見解を持っているのだろうかということだ。
 ちょっと背景として、日本での韓国人名読みについてだが、これは一応相互主義とか呼ばれている。理解しづらいものでもない。歴史的な背景としては、しかし、そう割り切れるものでもない。1988年最高裁判決「NHK日本語読み訴訟」(判例時報1266号)が原因だ。在日韓国人崔昌華(チォエチャンホァ)牧師がNHKに対して、その氏名を日本語読みしたことで、人格権侵害による損害賠償請求を求めるというものだった。判決は常識通り(当時はそういう慣例がなかった)なのだが、この裁判の影響で、NHKは韓国や北朝鮮の人名地名をその母国語読みにするように改め、他マスメディアも事なかれ主義で現在に至った。
 実際問題、現代の韓国人の若い世代は漢字がほとんど読めないので、漢字を介した日韓の文化交流というのはむずかしい。その現状を踏まえれば、漢字を無視して、母語の発音を尊重してもいいだろうとは思う。そのわりに、韓国では東京をトンギョンと呼ぶが、まあ、苦笑して済ますことにしてもいい。
 で、これが相互主義というなら、中国に適用されるかというと、ご存じのとおり、そうではない。とはいえ、理屈はなんとでも付くのであり、中国人も日本人名を漢字でそのまま読むからいいのだと。ついでにひらがなも否定されるので、「小林善紀」となるわけだ。
 実際のところ、韓国人名については、相互主義だの国際化だのといった理屈は要らないローカルルールというふうに理解したほうがいいだろう。
 だが、そうすると、冒頭の問題に戻るのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろうか。ざっと、ぐぐってみても回答はない。というか、なぜでしょう?みたいな意見ばかりだ。「はてな」で訊いてみるかな?(S/N比悪そう)。
 ぐぐっていると、ひょんなものが見つかった。中央日報コラム「【噴水台】ミスターノー」(参照)である。


 盧次期大統領の直説話法について、ソウルの外国人友達は、当惑している様子が歴然である。あるアメリカ人の友人は、「盧次期大統領の名字、盧は英語でロ(Roh)だが、韓国語発音はノ(No)」という事実をあえて強調する有力コラムニストの文が、米国の有力日刊紙に掲載される雰囲気を伝える。
 もちろんそれほど敏感に反応する必要はない。だが一度形成されたイメージとあだ名を変えるのは、作るのに比べて数倍の努力が必要だ。
 ホームページのアドレスを「knowhow」と書く盧次期大統領が語法のために自分を「Mr.Roh」でなく「Mr.No」と刻印させる必要はない。ましてこれは国益にも役に立たない。

 63へぇ、くらいか。韓国でもその差はよく理解されているわけだ。ただ、当の問題はこれで解決されたわけではない。
 もうちょっと言語学的な解説はないかとぐぐっていくと、「東アジア諸言語のローマ字表記: 3.韓国語」(参照)というページがヒットした。面白いには面白い。が、よくわからん。これで、私の愚問の答えになるだろうか。

 前述した朴を Park と書く方式は何というのか知らない。 李承晩を Rhee Syngman, 朴正熙を Park Chunghee, 全斗煥を Chun Doowhan, 盧泰愚を Roh Taewoo, 金泳三を Kim Youngsam, 白南準を Nam June Paik, 現代を Hyundai, 大宇を Daewoo, etc. というのは何に由来するのだろうか。

 というわけで、疑問としては残るのだろうか。
 ちなみに、このページの関連の中国語の説明も、簡便でよかった。「東アジア諸言語のローマ字表記: 1.中国語」(参照)である。歴史好きの場合、近代化の文献に出てくる表記はWade-Giles式が多い。特に、中国茶の歴史(これがたまらなく面白い)などを読む場合は必要になる。が、え?と思ったこともある。ちょっと脇道に逸れるのだが。

 なお, 北京を Peking, 広東を Canton と書いたりするのを「Wade-Giles式」と書いてある文献が非常に多いが, まったくのでたらめなので信用しないように。

 「でたらめ」なのか。と非難しているわけではなく、単純に知らなかった。そして、その判定も現状、私はできない。ただ、ちょっと気になるのは、この時代の代表的な中国語は広東語である。北京語ではない。
 国民党が北京語を普通話にする経緯は、歴史的にみると、けっこう偶然っぽい。さらに余談だが、あれはいつだったか、私が高校生くらいだったか、英語の勉強がてらにJapan Timesとか読んでいたころ、PekingをBeijingに変更があった。もっとも、今でも国際線ではPeking/Beijingだが。そういえば、日本ではいまだに「ペキン(北京)」と発音している。これは、いったい何故?
 というわけで、当の問題は答えがわからない。どさくさで想像を言うと、Roh Moo Hyunは中国表記じゃないのか?

追記(同日)
 Ririkaさんから、有益なコメントをいただいた(参照)。ありがとう。
 それと、2ちゃんねるで参考になる発言を見つけたので追記。

韓国◆「Samsung」の「u」に違和感を持つ人、集合!(参照


25 :tiki :02/03/14 21:37
 道路標識は政府標準案に従って表記しています。地下鉄の英名とかもそうですね。
 個人名の綴りに関しては政府は干渉しません。同じ李さんでも「Lee」「Rhee」「Yi」など人それぞれです。
 李王朝の英語表記は「Yi Dynasty」ですが、韓国初代大統領の李承晩は「Syngman Rhee」です。今の政府標準表記だと「Seungman Ri」です。
 「李」の実際の発音が「イ」なのに「リ」に綴るのは、韓国の漢字辞典に載っている発音が「リ」だからです。しかし韓国語には「頭音法則」があって語頭に「r」の音は置けないので(外来語を除く)「イ」に変わるのです。
 「Mr.李」と書く場合はちゃんと「ミスターリ」って発音します。語頭じゃないので。北朝鮮は頭音法則がないので語頭でも「リ」と発音します。
 韓国でも「柳」という苗字を例外に「リュウ」と読ませる場合もあります。

 韓国語のローマ字表記は日本語より複雑で、学校で正式に教えたりしません。
 多くの人はローマ字=英語と勘違いしているのも事実です。
 だから大人になっても政府標準の表記法を覚えてない人がほとんどです。
 パソコンでハングル打つ時もローマ時入力ではないので覚える必要性を感じる人は少ないですね。僕はちゃんと教えるべきだと思いますが。


 李承晩がSyngman Rheeなのは、もうこれは慣例のようだ。とすると、日本人が歴史の人物である李承晩を「りしょうばん」と読んでも、なんら問題なさそうに思える。


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ジェンダーフリーとかの雑談

 ジェンダーフリー云々の話は私はあまり関心がない。産経新聞社説「ジェンダーフリー 是正の動きを加速したい」をざらっと読みながら、特に関心もわかない。「おまえも保守オヤジじゃねーか」というのを棚に上げて思うのだが、この話題は何が焦点なのかもわからない。男女別名簿を一元化するべし? すれば、である。些末。そんなことが問題なら、相原さん、和田さん、といった順序も問題か。
 私は、日本では女性の社会進出がまだまだ遅れているのだから、教育にもっとアファーマティブ(affirmative)な圧力をかけていいのではないかとも思う。誤解されて非難くらいそうだが、現状、公務員の女性はかなり優遇されているが、その優遇幅をもっと広げていいのではないか。短期的には、他の女性との間に落差が広まり社会怨嗟の元にもなるだろうが、公務員の半数が女性くらいになってしまえば、その問題も異質なものになるだろう。公務員の大半はサービス業のようなものなので、まさにジェンダーフリーに向いているし、先進国ではその傾向にある。
 ジェンダーフリーってなことが大してわかりもしないで言うのだが、私の感覚からいうと、現代の少女のジェンダーフリーの意識は46歳オヤジが少年のころに比べてかなり劣っている。どうしたこったという感じだ。というか、そのあたりが、むしろジェンダーフリーの議論に登ってこないように見えるのだが、なぜだろう。象徴的な例でいうなら、女子中高校生のふざけたミニスカートの制服だ。私はこういうところ実は米人的なのか、あれはお下劣に見える。軍服である詰め襟など男子に着せておいて、何がジェンダーフリーなのだ。もっとも、そんな議論はジェンダーフリーとは関係ないか。
 個人的な回顧だが、高校の文化祭のとき、企画で議論した。私はその過程で議論がきつくて女子を泣かせたことがある。私は別になんとも思ってなかった。泣くなよ、議論しようぜってなものである。あとで、私の友だちが、こっそり忠告した、「女の子を泣かすのはだめだよ」と。ついでに、「赤頭巾ちゃん気をつけて 」をも一度読みな、と。なるほどな。ところで、この小説シリーズは今でも読まれているか。思い返すと、けっこう影響受けたか。
 未だによくわからない。「女の子を泣かすのはだめだよ」っていうのは、男たるものの倫理なのか? こういうところに私のごっそりとした感性の欠落がある。ついでに言うのだが、女子供に暴力をふるうっていうもの理解を超えている。吉本翁も同じことを言っていたので、私だけの感覚でもないのか。別に、私はDVとやらからフリーです、ってなことではない。もっと、単純な何かだ。
 話がたらけたついでなのだが、"Blog for Japan"というブログで「女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違い?」(参照)という記事を読んで、ちょっと変な感じがした(どうでもいいけど、アフィリエイトの入れ方も、もうちょっと工夫したら)。


女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違いって、なんとなく分かる気がするけど明確に説明しろって言われると難しい。誰か教えてください。

 これが私は皆目わからない。暴論になるのだろうなと前置きする。女性のニーズっていうのが不明だ。私はこう考える。「俺の女」のニーズか、「世の中の女性」か。
 「俺の女」ってなことを言うと礫が飛ぶか。しかし、その対(つい)は「わたしの男」である。対幻想領域だ。この領域の問題はまさに対性のなかに閉じている。そこに性的な心性の一般性は働くが、栗本慎一郎がポランニをひいていうように、「女性のトランザクションは個別的である」だ。対幻想的な領域で女は、一般性を内包しているようだが、その機能は個別的だ。男というのは、「女は俺を理解しねー」と思いがちだが、女の個別性の可能性(韜晦ですまねーな)は、それを本質的に凌駕する(理解している)。女というのは存在論的に不思議な存在だ。と、そのあたりに気が付くかどうかで、男の人生は変わるようにも思う。
 で、「世の中の女性」のニーズというなら、そのもそも理解する必要があるのか。そんなものは、古くさい英語だが"common courtesy"で足りる。社会的な礼儀で足りるはずだ。そして、議論など性を捨象した次元では、女性のニーズといった視点は消える。
 このあたり、そう単純に吉本的な対幻想論で割り切れるものではないだろうが、それでも、男のもてたい論や女のいい男論は、くだらねーと思う。
 くどいが言う。男などもてる必要などない。てめーの存在を深め、あとはそれを理解しえる女に命をかけるだけだ。「いい男」っていうのも、無意味だ。誰にもいい男などそもそも無意味だ。と、さらに言う。この議論は、女の床屋談義のテーマだ(床屋じゃなねーな)。上野千鶴子あたりもこの手のことを言い出すのは、対性という存在のあり方に腹をくくってないからだろう。
 フェミニズムという韜晦の森に迷い込むのはご免被りたいが、フェミニズムは、当たり前のこととして、「女性、わたし達は」という「達」の議論だ。それはそれでいい。それを「一人の女のてめー」の問題に混ぜなければ。
 「一人の女のてめー」という実存論的な可能性は別の次元にある。そのあたり、ポーリーヌ・レアージュことドミニック・オーリーなど、婆になりくさってまで見事に「女」そのものだった。この話は、これ以上書かない。
 男そのものみたいな男は? そりゃ、当世でいうなら、鴨志田穣、カモちゃん、だな。あっぱれだ。サイバラが最初の子供の生むとき、障害児だったらと悩んだとき、カモはこう答えたという、もっと産め! 兄弟が助ける、と。そう言うのが「男」だ。

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2004年3月世相メモ

 今朝の各支社説はまばらな印象を受けたが、どれも読み応えがあった。逆に、そういうときは、私はとくに口を挟むまでもない。が、散漫ではあるが、世相のメモとして簡単に書いておく。
 読売が今朝になって日墨FTAを扱っていた。よく書けていた。昨日の私のブログの記事は少し「陰謀」に傾きすぎたなと反省する。ただ、大筋で見解を変えるものでもない。同じく読売が全国人民代表大会(全人代)閉幕に言及していたが、全人代というのはわかりづらい。言葉と実際が乖離しているからだ。
 中国の動向という点では、朝日が香港の民主化に肩入れするような発言をしていた。え?サヨサヨの朝日がなぜ?という感じだ。台湾絡みもあるのだろうか。ちょっと違和感を残した。
 日経と産経が九州新幹線について触れていた。どちらも、無駄じゃないかとの議論だ。それはそうだなと思う。言っている理屈はどちらも正しい。が、私は理性度外視で九州新幹線だ、わー嬉しいと思う。阿呆だな俺、と思う。この阿呆にもそれなりに歴史から生まれたものでもある。
 毎日が年金施設売却の責任はどうすると問うていた。そう問うてみたいものだ、と苦笑するしかない。合わせて、現在の資産を二束三文で売却するんじゃねえと加えていた。それもそうだ。ごもっとも。と皮肉るのも。それにはかなりの人材を必要する。誰がやるのか。そごうの再建をぼんやり見ながら、私は誰がやるのか、ということが気になる。カネボウの再生についても、誰がやるのか?(もちろん、これはわかる) 組織やシステムが正しければ経営ができるというものではない。余談だが、週刊新潮に掲載されていた新生銀行の裏話は高橋の法螺なのか。これってほんとなら、ハゲタカファンドどころの話でもないのだが。
 朝日の他方の社説で、天下りを論じていた。これもな、である。言うはやすし。そういえば、道路公団民営化はどう総括されるのだろうか。猪瀬も功罪相半ばだなという感じがする。責めるもやすし、好意的に見るにも…。週刊文春掲載の裏話が、猪瀬は真面目なのだろうが、ギャグにしか読めない。私が単純に猪瀬を批判するとすれば、すでにブログでも書いたように、民主党の敵に回ったなテメーである。ま、それも稚拙ではあるのだが、上から圧力をかけないとどうしても小手先になる。と同時に、あまり上から圧力をかけると日本は壊れる。
 三菱ふそうの問題は…なんか言及するに疲労感が漂うので放言めくが、米国の訴訟社会っていうのも悪くないか。木村の剛ちゃんがCSRと企業不祥事という関係ねーテーマを結合して楽しいブログを書いていたが(「CSRを語る前に、内部管理体制を整備せよ 」)、って、こういう言い方がクサシっぽいな、すまない、ま、金子勝ばりに企業不祥事を叩いていた。確かにご説はごもっとも。しいて言うなら、CSRはシステム的な問題でもあるのだから、切り離して考えてもいいだろう。私の視点でいうなら、CSRなんかより、企業は奨学金制度を創設して、若い貧しい人材を育ててほしいと思う。どうやっていいかわかんない? 簡単だ、大学を出るだけの金をどかんと出す。卒論チェックを企業がするのだ。卒論が阿呆なら金を低金利ローンで返却してね、とする。それだけ。貧しい家庭出身のよい人材を20人育ててみぃ。20年後に日本はよくなるぜ、と思う。

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