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2004.03.13

ジーザズ・クライスト・ムービー・スター

 先日、極東ブログ「時代で変わるイエス・キリスト」(参照)を書いたのは、この映画とニューズウィークの評について、新約聖書学と日本人の視点を含めてコメントしておいたほうがいいだろうと思ったからだ。単純な話、ニューズウィークの評が歴史ベースにギブソンの映画を論じている割には、共観福音書もQにも言及していないヘンテコなシロモノ。困ったものだ、ということだった。ニューズウィークとしては特集並の扱いでもあり、また、翻訳にもちと疑問も残るなど、あまりたいした記事ではないなとも思った。
 が、その後、端的に映画として見た評がニューズウィークに掲載された。日本版だと「加熱する『パッション』大論争」(3.10)である。原文もネットで参照できる。オリジナルタイトルは、"Jesus Christ Movie Star"(参照)と洒落ているのに日本版では捨てられたので、私がブログ記事のタイトルとして拾うことにした。洒落の解説は、全回の私の記事を当たってほしい。
 デービット・ゲーツ(David Gates)が書いたこちらの記事はよく出来ていた。記事としては満点というところか。なので、特に口を挟むこともないのだが、いくつか自分なりのメモを書いてもみたい。
 映画「パッション」ではイエスがアラム語を話し、その部分は英語字幕になっているらしい。この点は、アラム語を若い日に研究しようかとも思ったことのある私などはうらやましいと思う。脚本が新約聖書との関係でどのようにアラム語を再構成しているかは気になるところだ。イェレミアスの研究なども参考にされているとしたら、すごいと思う。そこまでいかなくても、この映画で、イエス自身の母語がアラム語であることが英米圏に広まってよかったとは思う。CNNのニュースだったが、アラム語研究の補助金みたいな話もあったかと記憶している。
 R指定の問題は、暴力にナーバスな米社会にはやはり重要な意味をもったようだ。イエスの受難と苦しみについては、神学的にややこしい問題もあるのだが、いずれにせよ受難とは、ブルトマンをひくまでもなく、象徴として見るべきものだ。が、映画では、というか、映像化すれば、残虐シーンになる。まさに、そのことが現在的でもあるわけだ。
 同様に、この映画の存在が、「キリスト教徒である」ということの主張になっているというゲーツの指摘はなかなか鋭い(なお指摘自体はJonathan Bockのコメントから)。
 近代キリスト教徒にとって、キリスト教とは、他宗教との対比で置かれる宗教ではなかった。基本的に他宗教とはエスニックな異教に過ぎない。彼らにとって宗教的な問題とは、デノミネーションズ(denominations)や、国民(国家)宗教としてのキリスト教、あるいは昔ながらの異端との対立ということにすぎなかった。が、9.11によって、世界のキリスト教は結果的にイスラム教との対比に自己相対化を起こしたと言っていいのだろう。ただ、この点については、西洋のキリスト教というのは、近代の始まりにすでにそういうものでもあった。パスカルの「パンセ」など、日本では気の利いた箴言集のように見られているが、あれは、本来は、イスラム神学への対抗を期した組織的な思索となるはずのものだった。
 ゲーツの評のなかで、特にこれはいいなと思ったのは、ジョン・ウェスト神父(Father John West)のコメントを掲載した点だ。


 「神学者の立場で評価するなら、あの映画はあくまで『メル・ギブソン版の受難劇』だ。見るなとは言わないが、注意深く冷静な見方をしてほしい」と、デトロイト大司教の顧問を務めるジョン・ウェスト神父は語る。

 "Speaking as a theologian, well ... what Mel Gibson does is give us the Passion according to Mel Gibson," says Father John West, an adviser to the Archbishop of Detroit and a pastor in suburban Farmington. "I would never tell anybody not to see the movie. But I would caution anyone to watch it carefully and critically."


 日本語では「冷静な」としているが、原語の"critically"に重点を置いてほしい。これは、まさに、そのとおりなのだ。神学を多少なりとも勉強した人間にとっては(余談だが私はキリスト教神学を少し学んだ)、それがカトリックの神学であれ、プロテスタントのそれであれ、ギブソンの映画は「見るなとは言わないが」程度のものだ。奇妙な信仰の地点から、先の私のブログ記事などに反感を持たれても困惑してしまう。と言いつつ、視野の狭い福音派から攻撃も予想されるので、もう少しこの記事から補足しておきたい。誤訳とは言えないが、この翻訳はちとまいった感はあるのだが。

 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」
 もちろん、リベラルなプロテスタント主流派や、第2バチカン公会議の結論を受け入れるカトリック教徒の多くは、必ずしもギブソンの映画を「自分たちの」信仰の望ましい表現とはみていない。ボックも認めるように、「保守派のキリスト教徒以外の人々にとっては、(『パッション』は)ただの血なまぐさい映画」だ。

Bock, of course, is talking about a certain group of Christians - not liberal mainline Protestants and post-Vatican II Catholics, many of whom may have their doubts about whether "The Passion" is an ideal, or even a desirable, expression of their Christian faith. And, as Bock admits, "if you don't have a relationship with Jesus, I think you just look at it as a gore-fest."


 概ねそのとおりだ。端的に言えば、この映画は、現代キリスト教の信仰などはまるで関係がない。という意味で、こんな映画に信仰の意味づけなどしないでほしいと言いたいくらいなのだ。
 ところで、読み落としていたのだが、以下の和文と英文を比較して欲しい。特に説明しないが、この編集の意図はなんだ?

 だが、キリスト教徒向けの広告会社グレースヒル・メディアのジョナサン・ボックは、ギブソンが先鞭をつけた『パッション』現象はこの先「何度も繰り返される」可能性があると指摘する。
 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」

But Jonathan Bock, head of Grace Hill Media, a PR firm that markets to Christians, thinks the "Passion" phenomenon can repeat "again and again" now that Gibson's opened the door. Bock calls "The Passion" an "Ellen moment" - Ellen DeGeneres, he means - in which a group of outsiders is embraced by Hollywood. "Christian is the new gay," he says, laughing. "Maybe for the first time since Billy Graham started his Crusades, Christians are involved in something significant in pop culture."


 さて、ゲーツの記事の締めはふるっている。私のブログと同じセンスじゃないか。共感者ここにあり、といったところだ。

 「私は平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために(地上へ)来たのだ」と、イエス・キリストは言った。その点に関するかぎり、メル・ギブソンは主の言葉に忠実だった。

 Jesus said he came to bring not peace, but a sword; in this if in nothing else, Mel Gibson has proved his disciple.


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盧武鉉大統領の弾劾

 韓国ネタはしばし書くのを控えようと思ったが、少し書く。韓国の国会が盧武鉉大統領の弾劾訴追案を可決したことに関連した話だ。日本語で読める主要韓国紙は日々ざらっと追っているのだが、率直な感想をいうと、このどたばたはうんざり感がある。韓国人はなぜいつも大統領を屠るのだろうという感じもする。つまり、またかという感じだ。だが、そう思いつつも、私は韓国人の心情までわかるわけでもないとも思う。そこには距離を置くのが隣国民としての礼儀のように思う。
 が、礼儀を欠くやつもいる。朝日新聞社説「大統領弾劾――韓国の迷走を憂える」と標題に「憂える」としながら、ふざけたお笑いを書いていた。与野党をクサシてこう言う。


 どっちもどっち。双方が意地を張り合い、妥協の可能性を閉ざして、行くところまで行ってしまった。北朝鮮の独裁者、金正日総書記もびっくりの展開に違いない。何ともはやである。

 下品なお笑いだと思う。少し頭を冷やせば対岸の火事とばかりも言えなかろうに。産経社説は朝日のようにお笑いを取ってはいなかった。一番まともなのは毎日新聞社説「韓国大統領弾劾 対北外交への影響最小に」に思えた。

 大統領弾劾は、異例の事態である。だが非常事態になったわけではない。総選挙と弾劾審判という枠組みの中で、粛々と結論が出ることである。北朝鮮を含めた周辺国が韓国の混乱を過大に理解すべきではないだろう。

 またしても読売はネタを揃えてないのだが、各紙の社説を読みながら気になったのは、韓国大統領の任期が一期五年に限られるという補足がなかったことだ。
 韓国の大統領制にはシステム的な弊害もあると思う。一期しかないために、任期の後半には支援者が次期大統領への思惑に走ってしまうのだ。補足がてらに言うと、この限定は1987年に長期政権による独裁化を防ぐためにできたものだ。全斗煥7年さらには朴正熙18年の弊害の反省でもあった。
 社会システム的には、もう一点、韓国社会の世代間の分裂のようなことが気になる。先日、このブログでも反日法について扱ったが、実際に生の若い韓国世代に触れている人から見れば、反日といった社会トーンは若い世代にはそれほど及んでないとの指摘を受けた。たしかにそうだろう。日本でも2ちゃんねるの投稿を若い世代の意見と言われても、そりゃーねというものだ。
 関連して先日、ネタにするのはボツったのだが、中央日報に大前研一の韓国講演の要旨が掲載されていたのが興味深かった。「『韓国、このままでは所得2万ドルは夢』大前研一」(参照)だ。話の骨格は隊長こと山本一郎が大前を評して経営者がかかるおたふく風邪といったように、毎度毎度といった趣なのだが、個別の指摘は興味深かった。気になる指摘はこうだ。

 彼は「韓国は日本植民地時代の世代、韓国戦争(1950~1952)世代、1万ドル経済世代など、各世代間の認識があまりにも大きい」とし、世代間の葛藤克服が韓国の優先すべき課題だと指摘した。

 大前に言われるまでもないといえばそうだ。しかし、この問題の根は深い。また、もう一点だけ引く。

 彼は「大統領の権限が強く、官僚の認許可で企業の運命が左右される限り、韓国の慢性的な『政・官・財の三角癒着』は解消されない」と述べた。

 こう言うと批判される向きもあるだろうが、韓国は国の発展に日本モデルを採用している。日本と同型でもあるという意味で、こうした社会問題は日本の鏡でもあるだろう。
 ただ、「政・官・財」というとき、「政」が日本においては、自民党と地方を意味するのに対して、韓国ではそこに大統領が出てくる。日本の社会構造も今となってはろくでもないことになったが、大統領を持たないことのメリットもあるだろう。
 世代間のギャップについては、韓国の場合、第二次世界大戦後の戦史の影響も大きい。このあたりの話は、ベトナム戦争従軍の経験のない日本の本土人にはどうしてもわかりづらいものがあるのだろう。

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スペインテロ雑感

 朝日新聞社説は「3・11テロ――民主主義は屈しない」としてスペインでのテロ事件を3.11テロと呼んでいたが、私にはしっくりこない。9.11の洒落のつもりなのだろう。自分の心のなかで、9.11を許容し3.11を許容しずらいのか理由を探ってみるがよくわからない。今回のスペイン・テロ事件というものを心の奥でどう受け止めるかということに関わっているようだ。
 各紙社説は当然ながら、犯人は誰かという推測を語らざるをえない。私もそれは気になる。インドネシアのテロとは異なり、米国政府側からのインフォはないようだ。
 スペイン政府はETA「バスク祖国と自由」と見ている。過去のETAのテロによる死者は800人に上ると聞かされると、それもありだろうかとも思う。
 アルカイダ説もある。犯行声明があったというのだが、場所はロンドンだ。アルカイダ説の信憑性を高めるのは、大量殺人であることと、スペインがイラク戦に早々に米国に従ったことだ。
 私はどう考えるかというと、もちろん、情報がないのでわからない。いつも思うのは、ある悲惨な事件で利益を得ているヤツは誰かということ。刑事コロンボから教わった思考法である。スペイン国民と自由主義諸国を威嚇して益するのは誰か。アルカイダか。米軍、あるいはうがってEUとも思うが、そこまでいくとさすがに「と」の領域だ。
 今回の事件で、日本人は、テロにより怯えるようになるだろうか。普通に考えるとそうなってもしかたない。が、一庶民として社会の空気を嗅いでもその気配は少ない。オウム事件の後遺症のようなものかもしれない。
 このずれ感じは読売新聞社説「列車爆破テロ 脆弱な部分への攻撃に備えたい」は社会問題をしてきたあとのおまけの結語に顕著だ。


 無論、当局にすべてを頼るべきではない。おびえる必要はないが、国民の一人一人が、日ごろから心構えを怠らないことも重要だ。

 呑気な感じでもあるが、これは日本社会には外人廃絶の空気と反映するのだろう。
 日本の行政としては、この機に一層国の安全のための情報に敏感になる必要があるのだろうが、そのあたりは難しい問題があるなとは思う。以前のように米国側の情報がそれほどはアテにならない。日本独自の情報能力はない。

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2004.03.12

食用の鶏の話

 たいして意味もない雑談になるが、浅田農産船井農場の鶏処分のニュースをぼんやりと聞きながら、ずっとそこに飼われてた大量の鶏というのが気になってしかたがない。写真などを見るに、農場というより、工場に見える。もちろん、現代の鶏があのように飼われていることを知らないわけではないのだが、日ごろ意識しているわけでもないので、こう頻繁にニュースで取り上げられると、どうしても気になる。ニュースはできるだけ映像で見ないようにしている私だが、だからなのか、あの工場とそこに飼われて死んだ鶏のイメージがつきまとう。
 素朴な話、あんなふうに生き物をいじめるように育てて食うのか、という嘆息でもある。かわいそうに思うなら食わなきゃいいだろと言われそうだし、実際、私は一時期厳格に菜食に徹したこともあった。そのまま菜食でもよかったのだが、人生、乗り切らなければならない難事があって、食のことなどかまっていられなくなってしまい、そのまま菜食はやめた。逆に沖縄で暮らすにあたり、豚の内臓だの足だのをごちそうとして食うことにした。そして、今はそれほどは肉は食べないのだが、菜食に戻ろうとも思わない。
 そういえばと気になって、日本の鶏の抗生物質の投与の状況をざっとネットで眺めてみた。よくわからないが、日本では現状でも建前では、投与した抗生物質が鶏肉には残らないようにするという規制があるようだ。信じるしかないだろう。が、家禽や家畜には現状どれほど抗生物質や成長ホルモンなどが投与されているのだろうか。ま、ナーバスになるくらいなら、食べる量を減らすほうがましかもしれないのだが。
 鶏といえば、バリ島のウブドに十日ほどコテージを借りてぶらぶらしていたことを思い出す。夜にデンパサールに到着した。ウブドで水田の小道を借りたコテージまで行くと、蛍が舞ってきれいなものだった。星空は澄んでいた。コテージには小さなプールがあり、籐のベッドで寝る前に、夜空を見上げて少し泳いだ。朝、なんというのだろう、地の呻き渡るような怒号で目覚めた。なにが起きたのかと思った。ガラスのない窓を押し開け、南国風の森の向こうからその音は響き渡るのきいた。鶏の声なのだろう。何万羽という鶏が朝の声を上げているのだ。
 ウブドではよく鶏を見た。籠で蓋をされている。逃げないようにしているのかとヴァラニーに聞くと、もうすぐ食うから肉が固くならないように、運動させないようにするのだと言う。なるほどね。食ってみるか。

cover
Really Rosie
 旅の仲間の数名は米人ヴェジテリアンだったこともあり、ヴェジテリアンの食が多かったが、ときたま、ウブドの通りのロータスカフェとかで鶏肉の料理を食った。身が絞まってうまかった。いつも思う。日本を出ると鶏がうまい。鶏肉というのは、ほんとうにごちそうなのだ。仲間の一人に英国人がいて、風邪をひき、チキンスープが飲みたいとか言っていた。薬飲まないなら、勝手にしろよと思ったが、彼女にとってみれば、チキンスープこそ風邪薬でもあるのだろう。そういえば、モーリス・センダック(Maurice Sendak)の絵本に"Chicken Soup With Rice"があったっけな。Really Rosieの歌も歌ってしまいそうだ。キャル・キングの話にずっこけそうなので話を戻そう。
 米国でもチキンはホールで売っているものだし、中華圏に行けばホールで吊してある。首を切り、羽をむしるなど、カボチャを切るがごときだ。情け容赦もないようだが、あれでも、人と鶏の関わりかたなのだろう。と、ここで、日本の養鶏場がひどいものだと言う気はない。むしろ、ああいうアジア的な鶏の関わりかたので、ベトナム人に鶏インフルエンザの死者が出たのだ。
 こういう鳥インフルエンザはけして現代の病気とも言えないのだろう。歴史のなかでなんども繰り返していたには違いない。ただ、これほど大量の鶏を食う文明でもなかっただろうなとは思う。
 文明に罪があるとも思わないし、鳥インフルエンザが罰だとも思わない。ただ、ある種、恐怖と生命への畏敬感のようなものがどう心のなかで落ち着くのだろうという奇妙な感じがする。楳図かずお「14歳」に出てきたチキン・ジョージをふと思い出す。彼に会えるなら、人類とはなんだろうねと、もう一度訊いてみたい気がする。

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祝、日墨FTAなのかよ

 昨日書こうかと思ったのだが、どうせ今朝は各紙べた並びで日墨FTAの社説になるだろうと思ったが、概ねそのとおり。そして内容も予想どおり。こうした既視感漂うのが社説っていうものだろう。読売がシカトこいているのは、たぶん、アジアとの問題を論じたくないからだろうな。
 まず、ことの次第の重要点を簡単に日経社説「メキシコFTAの教訓、アジアに生かせ」から引く。


 国内の農業改革の遅れもあって、最後まで対立が続いた豚肉では関税の完全撤廃に至らず、2.2%の関税が残った。その分、日本が要求していた政府調達の開放などでメキシコ側の譲歩は限定的になった。

 というわけで、最後まで豚だった。メキシコの強気というのもあるが、それはメキシコだけの外交ということでもない。このどたばたは要するに日本の国内問題というわけだ。
 どの社説も触れていないし、私の知る限り他に語っている人を知らないのだが、私は「と」覚悟で言うのだが、今回のFTA交渉は、農水省と外務省の陰謀である。米国の狂牛病発症を大騒ぎに仕立て、国内の牛肉価格を統制し、それが他の肉の価格に影響するタイミングを見計らっていたのだ。こういうのを陰謀と言わずに、何を陰謀というのだ。
 この点、知っていてあえて毎日社説「日墨FTA合意 アジアとは人の移動も焦点」は書かないのかもしれないが、以下の指摘は、だから、重要だ。

 農業については、メキシコとの実質合意で一つの見本が示されたが、国内的にはなお監視が必要だ。01年のコメ輸入の関税化に向けて6兆円の不透明な農業対策予算が組まれた苦い記憶がある。アジア諸国とのFTA交渉では、農業面で譲歩する代償に、不透明な対策費が組まれるようなことがあってはならない。

 だが、実際には、このFTAは見本にもならない。このあたりは、日経社説がフォローしていて、大変によろしい。

 メキシコの農業団体は豚肉やオレンジ果汁などの市場開放を求めて交渉担当者に背後から圧力をかけ、日本への譲歩を許さなかった。だが同国の農業がGDPに占める比率は4.4%にすぎない。これがタイでは11.2%、フィリピンは17.4%と高く、メキシコ以上に手ごわい交渉相手となるのは間違いない。
 マレーシアの主な関心分野は合板などの林産物。フィリピンは看護師、介護士の受け入れやバナナとパイナップルの関税撤廃を求めてくると予想される。タイとの交渉では人材受け入れのほか鶏肉、でんぷん、砂糖、そして日本農業の本丸であるコメが焦点になりそうだ。いずれも国内から激しい抵抗が予想される。

 というが、タイの件では、鶏肉はまた陰謀的手法でごまかせる。澱粉についてはわからないが、砂糖なんか異性化糖をがんがん使って国民の健康をへこませればいいのだから問題ない。コメが問題というのも手慣れた陰謀的手法でごまかせるだろう。というわけで、やる気になれば、弥縫策に次ぐ弥縫策でなんとかしのげる、というどたばたが見られるだろう。
 で、そんなことでいいのか。
 いいわけはない。が、あと5年から10年で日本社会の構成ががたがたになり、労働者や看護師を外部から入れるしかなくなる。しかたないよになって、なんとかすりゃいいじゃないか、知ったことか、というのが行政というものだ。
 と、ちょっとヤケになりそうだ。が、それでも、日墨FTAができてよかったことはよかった。

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2004.03.11

天皇制について

 天皇制について、少し書く。おまえは天皇制をどう考えているのかと問われているような気もするので。
 この答えは、非常に簡単だ。天皇制は、制度としては、日本国憲法で規定されている。それ以上でも、それ以下でもない。九条のように解釈改憲はされていないのだから。
 なので、天皇制反対とかは、まったく無意味だと考える。天皇制反対とは、ようするに現行憲法反対ということだし、それなら、改憲するしかないだろう。この問題は解釈改憲でどうなるというものでもあるまい。
 話はこれで尽きている。
 なのに、なぜ天皇制が未だに憲法を超越してイデオロギー的な問題になるのか私には理解不能。憲法を愚弄するんじゃねーという思いがするばかりだ。
 日本国民が憲法を改正し、現行のような立憲君主制の国家ではない、共和制の国家にするというなら、同胞国民の多数の意見に私は従いたいと思う。おまえは共和制移行に賛成するのかと問われるなら、私は弱い反対意見を持つ、というだけだ。それはイデオロギーではない。むしろ、皇室への敬意からだ。
 皇室に敬意を持つかと言われれば、持つ。これは歳を取るにつれてそう思うようになった。端的な話、日本人の象徴としての人間像を考えるに、それなりの品性というものをもっていてもらいたい。あの情味の薄い小泉なんか大嫌いだ。下品だすらと思う。日本人たるもの、対外的には品性をもってもらいたい。マックス・ヴェーバーも品性というのを大切にしたが、日本人は1200年からの歴史を持つのだから、その国民国家の歴史・伝統の品性というものを体現した人間が必要だ。それこそ皇室である。その点で、今の天皇家は十分に評価できると思う。なお、日本の歴史はせいぜい1200年である。この点については、昭和天皇も言及していたことだ。歴史学的に見ても推古朝以前に天皇家の歴史を遡及することは無理だ。日本列島に存在した古代人いたが、国家以前の列島居住民は「日本人」ではない。
 国家神道についてはどう思うかと言えば、これは、明治時代にでっちあげた国家宗教でもあり、国家とは分離すべきだと思う。日本は弱いライシテの原則を持つべきだ(それは移民に国を開くためにも)。靖国の問題は複雑だが、原則として国家が介入すべきではない。対外的にも別途の慰霊の施設があってほしいと思う。もっとも、私が見る限り、現行の靖国神社自体になにが問題があるのか皆目わからない。さっさと、慰霊施設を造れ、内閣と思う。
 天皇の戦争責任問題については、すでに歴史上既決だと考える。歴史のIFとしてあれでよかったのかと問われれば、天皇は戦犯以外の何者でもありえないと思う。先日書いた洪思翊の処刑の論理で行けば、戦犯を免れるものではない。昭和天皇ご自身もそう考えておられたと思う。今上天皇も若いころそう考えていたふしがある。
 日本国家の戦争責任については、それは話は別。むしろ、天皇だの一部の軍人にその罪を着せて、国民が無罪というGHQ史観は間違っていると思う。日本国民はあの戦争の責任を持つと思う。しかし、もう半世紀たったのだから、それなりの対応があってもいいだろう。
 以上。
 ついでに言う、さっさと女帝に皇室典範を変えるべきだ。女性の天皇は日本の歴史から見ても違和感はない。なにが女帝を妨げているのか、私は理解できない。

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冗談じゃない、「昭和の日」法案を潰せ!

 むかつく。産経新聞社説「『昭和の日』法案 『三度目の正直』成立急げ」についてだ。「昭和の日」法案を通せというのだ。


 自民、公明の両与党が、四月二十九日を「昭和の日」とすることを柱とした祝日法改正案を今国会に提出する方針を決めた。法案は過去に二回、参院と衆院でそれぞれ可決しながら、もう一方の院で政局の波をかぶり廃案となっている。「三度目の正直」の今度こそ、政治のかけひき材料とすることなく成立をはかってほしい。

 冗談じゃねーよと思う。「昭和の日」法案は潰せ!、恥知らずめ。臥薪嘗胆の心を持て。せめて沖縄から米軍が撤退されるのを待つのが愛国の心ではないか。
 ポチ保守のくせに臭い説教たれくさって。

 今、日本が米国と戦争をしたことも、東京でオリンピックが開かれたことも知らない若者がいると言われる。自らの国や祖先たちの歴史がいかに軽んじられているかを示している。最近指摘される国家意識の希薄さや、若者のデラシネ(根なし草)現象ともつながっているといえる。
 そんな時代だけに「昭和の日」は必要だといえる。年に一度だけでも親子で「昭和ってどんな時代?」「日本はどんな国?」といったことを話し合えば、自らの国への思いは変わってくるだろう。その意味で、この法案は単に祝日の名称変更だけにとどまらない重要なものである。

 全然違うね。歴史の知らねー恥知らずはオメーら産経だよ。
 極東ブログ「夢路いとしの死に思う」(参照)で、別話題と混ぜてしまったが、繰り返す。

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓に入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 昭和天皇を記念するというなら、まずその臥薪嘗胆の思いを察するべきではないか。国の長(おさ)でありながら、国土を刻まれた。沖縄を米軍に手放した。なにより、沖縄を本土のために焦土としてしまった。その昭和天皇の痛恨が思い至らない脳天気な馬鹿者が、この日を祝祭するというのか。彼がその後半生、沖縄の地を踏み入れることができないことがどれほどの悲しみであったか。その悲しみをぬぐい去るのは、米軍を沖縄から追い出す時ではないか。もちろん、それが現実的ではないことぐらいはわかる。だが、今の沖縄の状況のままでいいわけがない。
 誰だったか、老婦人だったが、私が沖縄に暮らしているという話で涙されていた。追悼でなく沖縄に行くことは恥ずかしいとも語った。それが歴史の感覚というものだ。
 以上のようなことを書くと、私はウヨ扱いされるのだろうと思う。小林よしのりみたいに、産経より右寄りからウヨ批判をしているのだろうとも。ああ、そんな小賢しいことなど、知ったことか。
 昭和天皇は至誠の人であったと私は信じる。そう信じることには、もちろん虚構も入る。まして宗教的な信ではない。歴史を負った日本国民ということの同義でもある。三島も現実の天皇と本来の天皇像に悩んだ、馬鹿じゃないからだ。その本来の天皇像は2.26事件を含め、日本の病理ともなった。そんなことは、ちょっとばかり西洋風の理性があればわかる。だが、そんな小賢しいことで、問題が解決するわけもない。天皇が日本人の象徴であるのは、そこに日本人の至誠のありかたの象徴を見るためだ。その点で、昭和天皇も今上天皇も、我が国民の誇りであると言っていいと信じる。
 昭和天皇の心中に思いを致せ。日本人は悲劇の歴史を負った国民であることを忘れてないけない(てなことを書くと、侵略の歴史のなにが悲劇だよとか、まだなるのか。それもなんだかなである)。

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「酒鬼薔薇聖斗」事件に思う

 今朝の社説は産経を除いて神戸連続児童殺傷事件を扱っていた。どれもまるで読み応えはない。それを書くことになっていたスペースを無難に埋めた程度だ。執筆者も別に書きたいという思いなどないのだろう。私もこの事件について書きたいかというと、もうなんとなく避けておきたい気もする。そして、心のなかにある種のどんよりとした感じが漂う。やはり少し書いておく。
 社説はどれも、「酒鬼薔薇聖斗」が罪の意識を忘れず甦生されることを願うという展開である。それ以上、新聞の社説に望めるものはないだろう。庶民感覚からすれば、率直に言うのだが、キモイ、じゃすまされねーだろう、といったところか。ただ、日本人大衆の知的レベルは上がっているので、「腫れ物に触らず」「私の身近にいないといいな」くらいものだろう。もっと知的レベルが下がったときに見られるある種の宗教的な大衆の包容力が彼を受け入れるということはないのだろう。もう少し言えば、今の日本の現状では、彼にRFIDでも付けておけみたいなのが社会の本音というところだろう。そこで、この本音と社説的なきれい事の乖離をわれわれはどう抱えていくのかも、気にはなる。
 私は以前、極東ブログ「世界のデジタル・バイドなど:少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ」(参照)でこの事件についてこう書いた。


少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ
 少年事件と呼ばれる少年の問題は、この10年間さまざまに議論された。私は全然その議論は的を得ていないと思う。そう思うのは、酒鬼薔薇事件が十分に問われていないと思うからだ。私は彼の書いた神曲を引用する脅迫宣言は天才の筆になると読んだ。その文学的な闇がなぜ問われないのかと思う。大人は左右陣営とも、はなから彼を子供として見ているが、君たちより優れた文学者がそこにいたのだ。文学とはそこまで狂気と暴力を内包していることを社会は忘れていると、というか、現代に悪霊が書けるほど強い文学者がいないのだ。

 今でもこの意識は変わらない。そこにネチャーエフがいるのにドストエフスキーがいないのだ。もちろん、酒鬼薔薇聖斗はネチャーエフのような「理想」が悪霊化したものではない。だが、「悪霊」に変わりはない。われわれの時代は、悪霊に渾身の力を込めて向かい合う文学、そう、本来の意味でのヒューマニティーズの力を失っている。
 もちろん、精神医学的はいろいろ言いうる。統合失調症はほぼ確かではあるだろう。そして、われわれの社会は、「医療」への信頼を介してそれに依存することは正しい。だが、精神医学と称するもののアウトプットは、ひどい言い方をすれば、三流の文学なのだ。
 と、くだを巻いたようなことを言っても、私自身の文学的な力量がなければこれ以上は進めない。
 その後の日本の歴史を見るに、ある意味、酒鬼薔薇聖斗のシミラクルは出現したようでもあり、そうでもないようでもある。「オタク」への非難のようなものも、いつの間にか消費社会のなかに融合された。
 オタクたちは変だとは思わないのだろうか、自分らが知を模倣してその感性を失っていることに。そう私などはいぶかしく思う。だが、今や知がオタクを論じるのである。それは、酒鬼薔薇聖斗の持つ文学的なインパクトを消費社会のなかに緩和し、また、論じるものの知性とやらの階級を作り出している。ああ、醜悪だぜ、と思う。
 私は酒鬼薔薇聖斗の行ったことを擁護する気はない。それを社会に還元したくもない。異常を野放しにした社会をシステム的になんとかしろと小賢しいことをいう気もない。
 私は、本当は、ちょっと言いたいことがある。だが、あえて書かない。もったいぶるわけではない。信仰の領域に入るような気がするからだ。私は私で、彼が甦生してくれと祈るというのではなく、信仰なき私が言うのも変な話だが、神のなされる業を見ていきたいと思う。私は自身の悲痛の叫びに変えて、静かに神に問いかけてもみたいと思う。

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2004.03.10

雇用って何だということから雑談

 雑談めく。雇用って何だという話だ。米国大統領選については私はそれほど関心ない。というか、これまで日本人ってそれほど米国大統領選なんかに関心もってなかったようにも思う。ま、いいか。で、大統領選で雇用が問題になっている。そりゃね、であると言ったのもののなんか変だなという感じがする、という話だ。
 先日ニューズウィークに掲載されていたロバート・サミュエルソンのコラム「見えてきた絶好調の波(Revenge of the Old Economy)」(日本版03.12.24)だと米経済の立て直しは要するにオールドエコノミーだ、と。ま、それはいい。コラムネタだし。で、彼は確か、雇用はあとから来るのだがとお茶を濁していたような。


 生き残った企業でさえ、コストを削るために人減らしをしたり余分な工場を閉鎖する。そうなれば収益は上向き、企業は雇用と投資を再開する。今のアメリカ経済は、まさにその局面にある。
 ただし、5%台という現在の労働生産性は持続不可能な水準だ。労働生産性は通常、景気が拡大局面入りした直後に急上昇する。その理由は、企業が景気の回復を確信するまで雇用を増やそうとしないことにある。
 今回の場合、国内でも国外でも競争が激しいため、景気が緩やかに回復しはじめた2001年後半以降もアメリカ企業は人員を減らし続けた。景気が拡大するなかで人員を削減したため、おのずと労働生産性が上昇しているのだ。企業が雇用を増やしはじめれば、生産性の伸びは下降に転じるだろう。

 というのだが、さて、それから三ヶ月。どうか? どうやら、そーゆーストーリーではないような感じなのだが。
 この先、サミュエルソンはこういう話を付け足す。

 ヨーロッパや日本に比べて、アメリカの景気回復は驚くほど力強い。だが、この流れが長続きするかどうかはわからない。
 減税や住宅ローン借り換えの効果が薄れれば、個人消費は衰える可能性がある。中国製品をはじめとする安価な輸入品がアメリカの雇用を奪い取ることもありうる。

 減税についてはよくわからないし、住宅ローン借り換え効果もいまいちわからないのだが、いまだ「住宅バブル?」のせいか、不動産の資産価値は上がっているらしく、それで家計の借金は棒引き状態のようだ(大井幸子説)。ということは、個人消費はまだいい、と。
 で、雇用はどうよ?なのだが、これってなんなのか、私は以前からよくわからない。ちょっとわけあって沖縄にいた頃、最悪と言われる沖縄の失業率について調べたことがあるのだが、これがなんだかわからない。失業の定義が一応日本は国際基準だとか言われるのだが、どうも各国比較にそのまま使えないようだし、沖縄の実体もよくわからない。と、いう記憶がある。
 米国の場合は、景気動向は雇用統計がよく指標になるのだが、率直に言って、なぜなのかわからない、というか、わかるけど、それがなぜ米国だけの問題で日本には適用されてなさげななのか、と。いくつかごにょごにょした説明は読むのだが、それって、経済学かよ?っていう疑問は払拭されない。単純な話、フィリップス・カーブだとNAIRUだのが日本の現状の経済にどう適用されるのかという話もあるにはあるようだが、全然現実感がない。なにより、雇用は問題視されているようでいて、そうかぁ?みたいな状況にある。若者をがさがさフリーターにし、主婦はパートみたいにしているだけに見える。話を戻すと、フィリップス・カーブだとNAIRUだの適応が現実のわれわれを取り巻く状況と噛み合っている感じがまるでない。
 話を米国に戻す。この雑談を書こうと思ったのは、米大統領選に関連した「雇用流出」の問題だ。最近、この話をよく聞くのだが、これも日本には関係ねー感があって、嘘くさいと思っていたのだが、今日共同で「中印に一段の市場開放要求 雇用流出で米通商代表」(参照)というニュースを見た。

 今秋の大統領選に向けた政策論争では労働コストが安い中国やインドなどへの「雇用流出」が大きな争点となっている。ゼーリック代表は「米国を世界から孤立させることが答えではない」と述べ「経済孤立主義」には反対しながらも、米国内で高まる雇用空洞化の不安に一定の理解を示した。

 実態はよくわからないのだが、少なくとも米政府レベルでは問題視が始まっているようだ。
 もっとも、雇用流出というだけなら、ありげな話なもので、おなじみ「梅田望夫・英語で読むITトレンド」とかにも出てくる。ま、出るでしょう。「IT産業の雇用とイノベーションの未来」(参照)。余談だが、この記事中のこの英文和訳ってどうよ?である。

「If it is still tacit and requires a lot of unstructured discussion, then it must be done here.」(暗黙知に関わり非構造的な議論を必要とする仕事)

 この人、tacit lawは、「暗黙知の法則」とか訳すのだろうか。と、クサシじゃないけど、英語に堪能な人の語感についけてないことは多い。っていうか、語感にこだわる人間は外国語に向かないか。それと、この記事、事実上トラバもコメントもないのはなぜ?
 余談にそれたが、「雇用流出」っていうのはマジな議論なのか? ま、それが看過できないとして、それは、IT(情報産業)分野に限定されるのか? というあたりで、思うことを率直にいうと、それってIT経済法螺話の余話かよ?という感じだ。
 ゼーリック代表発言の含みだと、それって、繊維産業とかが中国にやられた、とかいう、ありげな中国脅威論っぽい。なのかよ? 日本における中国脅威論は、マクロ経済的には笑い話になっているようだが、それって米国ではどうなのか?
 というあたりで、話がずれるのだが、れいの「切込隊長BLOG ~俺様キングダム」で山本は「中国、大幅入超」(参照)を気にしていた。「誰がファイナンスするのだろう」とね。そりゃそーだ。ネタは日経からの記事「中国の貿易赤字が79億ドル――1-2月」(参照)だ。

 【北京9日共同】中国中央テレビが9日伝えた税関統計によると、中国の1―2月の輸出は前年同期比28・7%増の698億7000万ドル、輸入は42・0%増の777億7000万ドルで、79億ドルの赤字だった。赤字幅は1月の3000万ドルから大きく拡大した。

 で隊長曰く。

税関統計で伸びたという輸入(日本からする輸出)なんだが、例えばドイツの会社が中国に自動車工場を出す、地域にもよるが97年に建設した工場、2003年には償却が概ね終わる。償却が終わろうが終わるまいが工場は操業を続けなければならないが、一通り投資が終わると部品を調達する必要がある。ところが、中国では電力供給もタレパンもプレスもイマイチなので部品供給は海外に依存しなければならない。キーデバイスの大半は海外製だ。従って、やばい、眠くなってきた、まあそういうことだ。

 この話って、アレでしょ。極東ブログ「またまた米国債買いのお話」(参照)で書いたのと関連しているのでは。

 と、かく思いつつ、先日のラジオ深夜便で聞いた国際金融アナリスト大井幸子の小話がどうも気になった。この問題を別の角度から取り上げていた。別の角度というのは、Richard Duncan, "The Dollar Crisis: Causes, Consequences, Cures"に触れて、この状況を簡単に説明していたのだ。この本は昨年夏ごろ出て米国ではそれなり話題だったようだが、日本ではリファーされていないようだ。スカ本か? ついでに、ところでなのだが、この本のアマゾンのレビューだが、なんかパクリ臭いのだが、こんなのありか?
 大井の説明だと、米国債をがばがば購入しているのは日本と中国。それはそうだ。で、日本の場合、2003年に27兆ドルの米国債を買っている。これは米国の赤字5200億ドルの半分に相当する。2004年1月分でも米国赤字の13%だという。ま、そんなところだろう。そこまではそうだろうなというだけの話。そして、中国は米国に対して1250億ドルの黒字。これもわかる。で、この先、72へぇ~なのが、それを使って対日貿易の赤字分を埋めているというのだ。そ、そうなのか? かくして、大井は、日米中三者のもたれ合い、というようなことを言うのだ。なんだそれ?

 またしても、「なんだそれ?」でしかないのだが、このあたり、そーゆーからくりなのか?
 先日のグリーンスパン発言やスノー発言でも、日本がよぉ、というのもだが、中国もまぜていた。のわりに、この二国の関係を、がばがば米国債買いくさっていうのに留まっていた。
 とま、わからん。別に陰謀論を聞きたいわけでも展開したいわけでもないが、この現状って、なんか説明があってしかるべきじゃないのか。

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有事法制の背後を見ていくことが重要だ

 今朝の新聞各紙の共通話題は有事法制である。政府は有事関連七法案、三条約を閣議決定した。この国民的な課題にキーをになっているのは民主党である。しっかりしてもらいたいよ、民主党と率直に思うと同時に、「左翼」というのがいかにしょーもない機能をしていたのかその歴史の感覚の、ある種の異常さを思う。そのあたりは、未だに朝日新聞や毎日新聞の社説に見られるので、歴史感覚というには早すぎるかもしれない。ただ、そのお馬鹿な議論をおちょくるのも芸がないので省略する。
 ただ、朝日の次のくだりを読みながら、毎度のサヨクかよ、という話とは違う変な感じがした。


 だが改定はそこにとどまらない。現行のACSAは、米軍と自衛隊が「周辺事態」や国連平和維持活動、人道救援活動などで協力する際に、弾薬を除く物品や役務の相互提供ができるとしている。この範囲を広げ、たとえばいまイラクやインド洋で活動する自衛隊と米軍の間でも同じことを可能にしようというのだ。

 イラクやインド洋とまとめてしまっているのだが、イラクについてはマスコミの感覚がボケ過ぎていてどうしようもないが(1000人規模の派兵など象徴的な意味しかない。韓国の状況をマスコミは報道しないなど)、インド洋のほうは、この記述でわかるのだろうか。そんなことはみんな分かり切ったこと?なのか。極東ブログ「印パ対話で解決なのか?」(参照)を関連として再記する。

インド洋における米軍のプレザンスを支援しているのは当然インドなのだが、そのあたりの国益やインド政権内での決定はどうなっているのだろうか、ということ。
 問題の一つの極はディエゴ・ガルシア島だ。歴史的な背景については英語でちと読みづらいががーディアンの"US blocks return home for exiled islanders "(参照)は基礎知識。

 このあたりのすでに行われている自衛隊の動向の意味をきちんと分析したものを私は読んだことがない。話の文脈を戻すと、サヨクさんたちは目先の国政にだけかまけていて、世界情勢の分析の力量が落ちているのではないか。しっかりしてよという感じがする。それとも2ちゃんみたいに「祭り」好き?
 少し余談めくが、次の朝日の言及も「片手落ち(注意:不快用語等)」である。

 大規模テロや大量破壊兵器の拡散という新たな脅威を前に先制攻撃戦略を打ち出したブッシュ米政権は、機動性と展開能力を重視した米戦力の世界的再編にも取り組んでいる。アジア情勢をにらんで、陸軍第1軍団の司令部を米ワシントン州から神奈川県のキャンプ座間に移すといった構想が、すでに日本側に伝えられた。

 すでに極東ブログでも書いたので、縷説しないが、こういう扇動的な書き方して近視眼的に祭りモエしないでほしい。このシフトによって、総体的には日本駐留米軍は縮小されるし、なにより沖縄の海兵隊が縮小される。ちょっとむかつくのでいうが、沖縄の米軍基地の実質的な縮小をいつもこうやってサヨクが妨害しているじゃないか。沖縄なんてどうでもいいというか、いつまでも米軍下の悲惨な状況にしておくというが本土サヨクの常套なのだ。これは本土の言葉で「上等!」だよ(っていう込み入った洒落は通じないか)。
 さらにいうと、サヨクさんは、従軍慰安婦問題や創氏改名などで都合のいいときだけ、韓国を持ち出して外圧化するけど、韓国がこの問題で今どういう状況に置かれていて、だから日本の市民はどう連帯していかなくてはいけないかというビジョンをまるで提出していない。それで、ほんとの反米かよと思う。
 話がおちゃらけたので終わり。お笑いで締めるために、毎日新聞社説「有事7法案 時間かけじっくりと議論を」を引く。

 民主党をはじめ共産、社民両党がきちんと国会対応をしなければ、疑問を残したまま成立してしまう。野党の責任は重大だ。

 共産、社民両党がきちんと国会対応できるか、見ているよ。がんばれ。

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2004.03.09

洪思翊

 韓国ネタはしばし書くまいと思っていたが、書く。頭に血が上りすぎかとも思うし、ディテールを書くほどの知識もないので簡単にする。
 中央日報「【噴水台】親日派『洪思翊』」(参照)で次の文章を読んだとき、脳内血管がぶちっと切れたような感じがした。


 洪思翊が、自らの死の前で詩篇を聞こうとしたのは、戦争犯罪によるものではなかった。彼の内面を苦しめた親日行為を贖罪するためだった。洪思翊にとって、親日は出生の時に持って出た、原罪のようなものだった。

 「親日行為を贖罪するため」と、そこまで言うかよ、と。「日本帝国の将軍だったが、創氏改名は最後まで拒否した」というのなら、ただの歴史の無知だが。
 しかし、その先を読み続けながら、筆者全栄基(チョン・ヨンギ)政治部次長とやらは、なんとか洪思翊の名誉を守ろうとしているのかもしれないとも思った。少なくとも、全は洪への敬意を持っていて、なんとか親日反民族行為の真相調査対象者から洪を守りたいと思ったのだろう。
 百歩譲って「親日行為を贖罪するため」だとしてその歴史を生きた人間としてなにがあり得たのか、全はそのことをわかって書いているのだろうとも思う。
 そう思えば、なんか、涙が出てくる。
 先日、「韓国反日法に唖然とする」(参照)を書いたおり、自分の文章の稚拙さもあったから、単なる反韓感情に取られてしまってもしかたがないとは思った。が、懸念していたのは、むしろ、洪思翊のことだった。そのことはあえて書かなかった。
 洪思翊については、事実上の復刻である、山本七平ライブラリー「洪思翊中将の処刑」に詳しい。とアマゾンを見ると、こちらも絶版か。しかし、この絶版は希望だ。当初の刷りはすべて捌けたのだから。日本の読書人の層の厚みを李登輝は驚嘆を持って語ったが、この書物をきちんと読み通す日本人が少なくはない。と書きつつ、私自身、洪思翊について、山本が書き残したこと以上のことは知らない。
 だが、その書物によって、洪に罪なきことが歴史に刻まれたと信じている。山本七平は、関連するイザヤ・ベンダサン著で本多勝一を批判したことや、鈴木明を支持したことから、徹底的に左翼に極度に嫌われた人間だが、歴史が過ぎていけば、左翼の醜悪をよそに山本の真価が際立つ。しかし、そんな表層的なことはどうでもいい。「洪思翊中将の処刑」という書物の持つ意味だ。もちろん、多様な意味はある。また、読みやすい書物でもない。
 私にとって決定的な意味は、この書物は、洪の無罪を証した書物だということだ。山本は明言していないが、恐らく洪はクリスチャンだったのだろう。そして戦争という罪は罪としてキリストを真似て死んでいったのだろう。神がその無実をいつか明らかにするという希望もあったのに違いない。その願いを山本はきちんと聞き届けていた。山本自身、折に触れ、執拗なほどヨセフスの話を語ったものだが、まさにヨセフスのように神に生かされるという苦難の経験をしたからこそ、罪なきものが世に裁かれていく様を否定してみせたのだろう。
 先の中央日報の全は、次のように牧師の名を明らかにしていない。

 1946年9月26日、フィリピンの刑務所の絞首台。大日本帝国南方軍総司令部の洪思翊(ホン・サイック)中将(当時57歳)は、立ち会った牧師に対し、聖書の詩篇、第51篇を読んでくれと頼んだ。彼は、第2次世界大戦のA級戦犯として判決を受けた。

 片山師である。当時はまだ牧師ではなかったようだ。彼の証言によれば、この詩を読んだのち、心配する片山師にこう言ったという(「洪思翊中将の処刑」より)。

 片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところに行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな。

 すでに神のもとある者を地に引きずり降ろそうすることはやめよ、と願う。

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身近な警察の問題

 ちょっと身近で触れる警察のことを書く。話のきっかけはmuse-A-museさんのブログ「実録『黒いカバン 2004 ver.』(あるいは『職業としての警官』(?))」(参照)と私のコメント(参照)だ。ついでに、そこで引いた迷宮旅行社「コッペ川と行く福井警察署・取調室ツアー」(参照)も関連する。
 話は端的に言って「みなさん、警察でイヤな思いしてませんか」である。私もなんどかイヤな思いをしている。どころじゃねー経験もある。指紋とかも取られた。
 ただ、この手の話は、韓国問題と同じで、警察への怨念をぶちまいてもあまり益はない。結局のところ、警察というのは市民サービスなので、サービスをより向上させる手だてというかヒントを知恵出して考えるほうがいい。
 と言いつつ、最近、また一段と警官の質が落ちてきたなと思う。先日、犬に紐もつけないで商店街を闊歩している馬鹿がいて、しかも交番の前を過ぎるので、ぼんやりつったているお巡りに「あれ、注意しなさいよ」と言ったら、昔の表現だが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。あ、こりゃ馬鹿だと思って、ああいうのは都条例違反ですよ、市民に危険ですよと諭したら、「犬のサイズが問題であります」とぬかした。ぜんぜんだめ。
 先日といえば、歩道を二人乗りしている高校生の馬鹿ップルっていうのかがいるので、降りろ、二人乗りは違反だ、しかも、歩道というのは歩行者優先だと、怒鳴る。と、そこにお巡りがまさに回ってくるので注意しろというと、このお巡りがにへらにへら注意していたので、こっちはむかっぱらを立てて、全員を怒鳴りあげると、お巡りが退散。高校生のあんちゃんが俺にくってかかるので、ここでドンパチやるかと思ったら、スケのほうが「あんたやめなさいよ」とか仲裁に入った。上等! というわけで俺も引き下がった。ま、若いやつとどんぱちやって勝ち目はなかっただろうな。
 と、すでに私もヤキ入りまくりだが、と言っておきながら、マジで戦うときはこんな大衆的なそぶりはしない。左翼インテリオーラぎんぎんモードにする。っていう左翼が落ち目なんでこの手ももう効きづらいし、田舎出身の警官もインテリに対する恐れがなくなってきているので(いいことでもあるが)、もう有効な策ではないかもしれない。
 でも、ヤルと決めれば、俺はやる。インテリなめんじゃねーぞ、と、冷静に慇懃に。実戦的にはどうするかというと、単純。その場では争わない。その場での争いはできるだけ引く。そしてできるだけ引きつつ、ログを取る。メモでいい。ログを取りつつ、警官の裏にある組織側から、後で法的に社会的に攻撃しますからねという脅しをちょろちょろと怒らせないよにかける。
 そこで、自分の頭を冷やすというのも当然ある。
 頭を冷やしても、俺は正しいと思えば、やる。これは断固としてやる。重要なことはここで折れないことだ。そして、やる以上、終戦ラインに腹をくくること。
 とま偉そうに言ったが、これは、市民誰もが、そういう局面の常識として知っておいていいと思う。
 話が前後するが、ヤクザだの大門だの、もともと市民の業界じゃない。別業界に殴り込むには、それ相応の武具が要る。端的に言って国家装置を使うしかない。国家は、くどいようだが、市民を社会から守るための装置だ。
 それと、あまり詳しく言えないのだが、裁判にもちこんだら、弁護士の能力がものを言う、が、有能な弁護士はコストが高い。どうするか? できるだけ、実証を自分で積み上げるしかない。そこで重要なのは、実はプレゼンテーション技術だ。事実なんてものは、裁判官がわかってナンボである。弁護士にかける費用をバイト代にあてて、プレゼンテーション資料を作ったほうが裁判は勝てる、というか、民事において勝ちはない。どこまで有利に金をふんだくるかだ。もっとも、相手が警察になるとこのあたりは、難しいものがある。
 話を戻して、警官の質が落ちるのは、ひどい言い方だが、地方出身者の産業だからという面がある。自衛隊にもそれがある。反面、エリートはただの官僚だ。日本社会全体のゆがみの反映というのは多分にある。困ったなと思う。

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設計ミスっていうのは抜本的にだめぽ

 社説ネタとしては読売新聞の「H2A報告 手順の“甘さ”が失敗をもたらした」なんだろうが、これは単に社説として面白くない。私の読みが悪いのかもしれない、とも思う。が、何を書きたいのか未整理なメモのようだな。ずばり言って、「問題は設計ミスなんだろぉ」と、ちょっと叫んでしまう。
 というのも、なんか、設計ミスかよと思ったら、マジで背中に蹴り入れられたみたいにくずおれたよ、俺、っていう感じだ。ちょっと引く。


 開発時の五回の地上燃焼試験でも、ノズル浸食は起きていた。その際、徹底して調査し、設計変更を含め抜本的な改良を加えていれば防げた可能性がある。
 ところが、開発陣は、設計そのものを見直さず、内壁の削れを補うため厚さを増すなどにとどめ、「完成」とした。

 読売がなぜか口はばったくうだうだ書いているが、それって、「設計ミス」って言うのだよ。設計がミスっていたら、すべてはダメなのだよ。
 朝日新聞系のニュース「H2Aロケット失敗、ノズル設計に問題 調査部会が見解」(参照)を引く。

なぜ6号機の片側のSRBだけでトラブルが起きたかについて、調査部会は「ノズルの設計に潜在していた問題が、6号機の片側のSRBで初めて顕在化した」と指摘するにとどまった。落下したSRBが回収されていない現段階では、原因究明に限界があることも示した。また、「今回の事故原因を予見できなかったのはやむを得ない」として、当時の設計、開発関係者の立場に配慮した。

 内情を知らない人間がここでぷんぷんしてもいかんのだろうが、「当時の設計、開発関係者の立場に配慮した 」はねーだろと思う。設計ミスっていうのはなぁ…絶句。
 と書きながら、プログラマー時代の自分の怨恨が反映しているくさいのでやめにする。という流れで、プログラム設計に関していうと、現状では、設計ミスっていうのはあまりないのかも。ソフトは上から下へずーどーんと作る時代でもないのかな。
 逆にそういう柔軟な設計環境(シミュレーション環境)を含めて、設計への決意が甘くなっているのかもしれない。
 でも、と思う。設計者っていうのは、なにか一つ魂を込めるものだと信じる。その魂が生きてこの世の出現するために執念をかけると思うのだが、私も、どっちかというとプロジェクトX世代なのか。
 先の記事ではこうまとめている。

 文部科学省は「打ち上げ再開には宇宙機構の組織体制や意思決定システムの改革が必要」としており、今後宇宙機構は、ロケット、衛星全般について問題点の洗い出し作業を行う。

 産業的な設計で定石が決まっているならそれもありかと思うけど、先端を切り込むなら、設計者は「狂」にならなきゃできないと思う。

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多分、大丈夫だよ、毎日新聞経済担当さん

 毎日新聞社説「押し下げ介入 こんなむちゃは許されない」が面白かった。まったく、面白いという意味で面白い。わっはっはである。罵倒しているわけではない。単に面白いのだ。話は、財務省・日銀がさらなる円売り・ドル買い介入を行っていることへの批判だ。
 最初に私の意見を言うと、これはそれなりに批判してもいいことではあるのだろうとは思う。が、すでに収束局面であり、日本という最大ヘッジファンドにしてみれば、残務処理に近いものではないか。その意味で、財務省・日銀もグリーンスパン(つまり米国)にもストップ(もうよせ)を言い渡されているのに、非不胎化介入というリフレ策をさらに進めるというものであるまい。もっとも、昨日の日経社説が提言するように、もう一歩国内的なリフレ策はあってもいいとは思うが。
 この問題について、しいて言うと、私は日本の米国債買い込みには政治的な意味合いもあるとも思うので、もう少し続くかもしれないとも思う。また、中国絡みもあり、米国も本気でストップ信号を出すのは意外に先かもしれないとも思う。8日スノー米財務長官発言でもまだ日本を名指しで批判はしていない。このあたりの米国の意向が大統領選絡みだとちょっと鬱になりそうだが。余談だが、ケリーっていうのは健康は大丈夫なのか?
 ぷっと吹くのは次のようなくだりだ。


 為替介入はもともと、補助的、限定的な手段でしかない。ドルと他通貨の相場を固定する固定相場制が終わった後の変動相場制度下では、乱高下をならす円滑化介入が典型である。急落時や急騰時にも、相場を持ちこたえる介入があり得る。この論理から言えば、円がドルに対してじり高となった昨年来は、小口での介入はありえても、年間20兆円もの介入は荒唐無稽(こうとうむけい)としかいいようがない。

 グリーンスパン発言にほっかむりしてまだこれを言うという態度がイケテル(死語)っていう感じか。また、また次の指摘は逆だろう。

 この考え方には重大な疑義がある。政府が円安方向に相場水準を動かすということは、円の価値を下げることであり、国民にとっては財産権の侵害である。また、円売り・ドル買い介入でドル売り安心感を与えた過程では、ドル資産の目減りをもたらし、同様に財産権を侵害してきた。米国や欧州の通貨当局が介入に慎重な姿勢を堅持しているのは、為替相場を政府や中央銀行が動かすことの怖さを認識しているからだろう。

 外貨準備ががぽーんと増えて政府はわっはっはじゃないの。と言ったものの、国民サイドに立てば毎日の言い分にも理があるか。というのも、日本国民は外貨預金とかいっても、実際に自分の資産を外貨で運営するっていうことはない。このあたり、日本内の階級化が進んでいるようでもある。が、そこまで金融面で遊べる個人っていうのは日本にはいなくて、未だに外貨運用も企業ベースか。山本一郎とかは多分例外。
 とま、聞きようによっては毎日へのクサシになってしまったが、次の提言は、この一連のどたばたを追いながら私も痛感したことではある。

 介入が財務省の聖域になっていることも問題である。財務省は外為資金特会の枠内で、随意に巨額の介入資金を短期証券発行で賄い、介入で得たドルを米国債に投資している。その規模が月間7兆円にも達しているのに、国会や国民の監視の目は届かない。

 まったく、国を傾ける危険のある決断が、まるで国会や国民から独立しているというのは、いったい日本っていう国はなんなのだと思う。とはいえ、実際上、国会コントロールというのは無理だし、まして国民にこんな問題が扱えるわけもない。さらに、諸外国においても、実質は同じだろう。毎日新聞もこのあと、結局、市場に任せよというのだから、この提言はそれほどマジでもない。
 ただ、国民のなかのある種の知識層の厚みがあれば、こうした問題の動向は変わるのではないか。率直に言って、財務省・日銀の動向は、日本という国の威信の舵取りには失敗したり成功したりするが、いずれにせよ、日本というのを産業部門として見ている。これがまだまだ続く。ウォルフレンが「日本の権力の謎」を出したとき、後書きだかで、成功した社会を批判することは難しいと言っていた。しかし、その後の日本の凋落と社会システムの腐敗は彼が結果的に予言した通りだった。日本の舵取りはまたこれで成功の局面に向かうかもしれない。が、依然、ウォルフレンの指摘するように、日本というシステムはその国民を幸福にしていない。するわけもない、産業部門のための政府なのだ。抜本的に間違っているよな感が疲労感のように襲う。
 ウォルフレンは直接中産階級の政治意識の向上に期待をかけた。それはある意味、地味に成功しているようでもある。先の衆院選挙でも都市部では民主党が実は勝利していることでもわかる。だが、それは都市部と田舎の亀裂、また、世代間の亀裂をも生み出している。

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2004.03.08

地方は「行政」で階級化されている?

 毎日新聞社説「地方の予算 地方の首長は真剣になった」、読売新聞社説「地方財政改革 身の丈にあった予算編成が肝心」を読みながら、もどかしい感じがした。この問題はこれまで極東ブログでもなんどか書いてきたこともあり、特に新しい視点もない。また、今、この問題を扱う気力もないのでが、簡単な雑談は書いておきたい。
 毎日の社説の出だしが愉快だった。


 国の04年度予算が衆院を通過した。与党からも野党からも異常な過去の国債累増の厳しい現実を直視した議論はついに聞かれなかった。なぜこうした惰性の予算がまかり通ってきたのか。国会議員というのは予算を獲得する時は本気だが、肝心の財政規律は財務省の官僚に丸投げしているからだろう。
 おいしいところは頂き、嫌なことは官僚にやらせていてはとどのつまり破たんしかない。マックス・ウエーバーの「職業としての政治」を読み返して「政治のあるべき志」を想起してもらいたい。

 いや、ホントに「職業としての政治」を読んだほうがいいと思う。というか、この本を薦めるというのも恥ずかしいことだというのが私の常識でもあった。大学生なら文系とか社会科学専攻に限らず「職業としての学問」と並んで必読だろうと思う。毎日の社説執筆者も内心そう思っているらしく「責任倫理」という話は省略している。私も省略する。
 毎日の言い分は正しい。

 地方財政は国に連動しており元はと言えば政府のバラマキ財政の被害者でもある。国家公務員より地方公務員の給与レベルが高くなった要因もその一つだ。何も国家公務員より給与が低くなければならない法律はないが、その地域の民間企業の平均を大幅に上回っているのは地域住民に奉仕する公務員としては説明がつくまい。
 その原因がどこにあるのか。確たる証拠はないがそれぞれの自治体の給与勧告制度が中央のように実態的に機能しているのかどうか調べる必要がある。都道府県の給与レベルがその地方の本当の財政力を反映しているのかも疑問だ。

 実際にそうした地方に長らく住んでいた人間として、この問題は若い人にとってもよくないなと思う。若い人間が公務員志向をするからだ。そのための予備校なども整備される。そして、公務員になれば上がりだし、よせばいいのに若いのに豪邸を建てるものも少なくない。なんか、第三世界のような階級世界を作り出している。
 資本主義の根幹は企業精神でもあるのだが、そういうエートスが根こそぎやられてしまう。反面、屈曲した地方意識はしょーもない伝統賛美のようなものになる。と、言えば悪口みたいになってしまうだけなのでこの辺でおしまい。
 それでも、多数の地方においては、こういう「行政」という産業の存在自体が間違っているのだが、それがすでに既存の権力によって支持されている。この権力だけは解体したほうがいいだろうと思うのだが、そう簡単にいく問題でもない。
 つならぬ話なのでおしまい。しいて言えば、地方の若い人は、やっぱ、東京に出てくるしかないんじゃないか。

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心の病に思う

 毎日新聞社説「増える『うつ病』 排除せず偏見をなくそう」を読みながら、しばしぼんやりと考えた。この社説自体は特にどうという話ではない。鬱病も普通の病気なのだからきちんと対処しようというものだ。キャッチフレーズで言うなら、鬱病は心の風邪、ということなのだろう。もちろん、その観点は間違いではない。つまり、内面の精神性の問題ではなく、風邪と同じように医療を必要とする疾患だということだ。以前、ニフのフォーラム時代、オフ会の食事のあと、参加者が今各人が飲んでいる抗鬱剤だのはコレという話題で盛り上がったことがあった。テーブルの上にばらばら出てくる出てくる。時代だなと思った。
 私がぼんやりと考えたのは、私自身としては、鬱病を単純にメディケア対象とする考えにある種違和感を持ち続けているからだ。だが、内服薬などいらない、それは精神的な問題だ、と言いたいわけでもない。まったく違う。その違和感は言葉になるだろうかと考えてて、戸惑ってしまった。少し書いてみる。

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青空人生相談所
 ふと橋本治の「親子の世紀末人生相談」を思い出した。確かこれは改題されリメークされ文庫かなにかになったはずだ、と、探すとある。手元にはないので記憶を辿るのだが、エレベーターにも乗るのが不安という人に橋本はそれは大変な問題だ、あなたはビョーキだよみたいにその深刻さを諭す話があった。橋本の意見はなにかと得心するのだが、この話は特に心に残った。人はあまり辛くなると、心が一種の防衛反応のようなり悩めなくなってしまう。回答は忘れたが、メディケア的なものではなかったかと思う。前題「親子の世紀末人生相談」は1985年出版。連載時は83年ごろだったろか。週刊プレイボーイ誌だったか。まだ抗鬱剤などは普及していなかった。83年というと、そのころ、私も失恋や学問の挫折でカウンセリングに通っていた。
 私の場合は、鬱病ではなかったと思う。鬱病はむしろ、数年前の状態だろう。厄年頃だ。睡眠障害になった。いろいろやっかいではあったが乗り越えたのだろうか。メディケアはしなかった。思うにその弊害も残った。ので、克服したとはとうてい言えない。が、話をカウンセリングのころの思い出に戻す。
 自分は面倒臭いタイプの「クライエント」だったと思う。こういうタイプは少なくもない。数ヶ月前だが、「はてな」の質問である意味面白い質問を出すかたがいて、自身本当に心の問題に悩まれているのだが、精神医学関連の書物を読みあさってそれなりに知見を得ているらしく、それがかえって問題を難しくしているようにも見えた。
 自分もそれに類しており、精神分析学だとカウンセリング理論だの詳しくなっていた。木村敏「異常の構造」を始め、彼の本はほとんど読み、ビンスワンガーなども読んでいた。ので、ははぁ、これは離人症ってやつかとも思っていた。と、個人的な話はいろいろあるのだが、概ね、カウンセリングで症状は緩和した。カウンセラーが重要な意味を持っていた。
 話を端折るのだが、すべてがそうだとはとうてい思わないのだが、原因は「孤独」だったように思う。人は孤独に本当に苦しみうる存在だし、その孤独というのは、いったいどこまで底が深いのかわからないような恐ろしいものだ。そして、恐ろしいほどの孤独に襲われたとき、人の心は壊れてしまうように思う。
 この孤独というのは、ある段階を越えると悪意のようなものにまでなる。というか、悪意としか見えないような形態を取ることがある。これは、むしろ、存在論的に「悪」という問題かもしれない。が、それに悲痛感があり、絶叫するような世界への救済希求があれば、それを聞き届けうるという確信性が、それを救いうる、と思う。
 話が難しいが、その孤独を聞きうるかということで、私の実感ではカウンセリング理論や精神分析理論は補助に過ぎず、その術者の人間としての経験の質にかなり依存していると思うようになった。私の場合、カウンセラーは初老にならんとする女性だったが、穏和な相貌の背後に狂気をきちんと受け取るあるいは、向き合うなにかを持っていた。私が幸運でもあったのだろう。
 そのころ、マルクス・アウレリウス「自省録」なども読んでいたのだが、こうした哲人には及ばないものの、また、この本について言えば、訳者神谷美恵子の訳文のよさもあるのだろうが、死者たちの残された巨大な孤独のようななにかに触れることがあった。ああ、みなこの孤独を抱えて死んでいったのかという、奇妙な懐かしい感覚だった。死んだ賢者からorkutのインヴィテーションが来たような感じである、というのはもちろん冗談だ。孤独の深みには、それなくしてもは通じない時空を越えたなにかがある。それは確信した。
 話は散漫になるが、余談みたいな話で終わりにしたい。先週号のSPAの鴻上尚史ドンキホーテのピアスというつまらない連載を、たまたま読んでいたら、こうあった。

 カウンセリングのテクニックを持ったホステスさんだと、お客さんが、どんどん話しながら、やがて、自分の抱えていた問題の本質に自分でたどり着くのです。酒の席で、ですよ!
 日本でも、だんだん、精神科の敷居が低くなり、心療内科もポピュラーになってきました。神経科、神経内科という言い方も増えました。

 目が点になりましたね。鴻上が阿呆で済むことなのか、編集者しっかりせーよなのか、オメーに言われたくないよなのか。嘆息だ。心療内科と「神経科」や「神経内科」を並べてはいけない。
 東京医科大学八王子医療センター 神経内科のWebページがあるので引いておく(参照)。

■神経内科ってどんな科なの?
神経内科とは神経(脳、脊髄、末梢神経)や筋肉を専門とする内科です。心療内科や精神科とは違って、心の病を診療する科ではありません。また、外科的な手術を主体に治療していく脳神経外科ともやや異なります。神経内科では、総合的な内科的な視野から病気を診断し、薬やリハビリテーションを主体に治療していきます

 些細なことだろうか。鴻上も一応文化人なのだろうが、文化に関わる人間がこういう点で杜撰なことを書いているということが、これも現代の心の病そのものだなという気がする。

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2004.03.07

教育委員会は本質的に地域教育の点では欠陥組織

 社説からは読売新聞の「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」が気になったので、少し関連した雑談でも書こうかと思うが、その前に、ひと言だけ。日経新聞社説「巨額介入の次の一手が大切だ」が今朝になってグリーンスパン発言を取り上げていた。あれ?なんで今さらという感じがした。内容は特にない。
 読売新聞社説「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」だが、まず冒頭が面白かった。


 新しい土地に人が集まり、町が出来ると、まず学校と教会を建てる。学校の運営には、住民の代表が当たる。アメリカの開拓史を彩る伝統である。
 教育委員会は、教育に対する住民自治の伝統を持つアメリカの制度が戦後、日本に移植されたものだ。

 これは以前PTAの歴史関連で調べて、「あ、そうなのか」と思ったことがある。ただ、アメリカ開拓史というのであれば、教会は宗教、学校は教育という別範疇ではなく、どちらも宗教範疇のようだ。むしろ、教会は、コミュニティセンターというか、まさに行政の場でもある。そういえば、テレビ版の「大草原の小さな家」は今でも再放送されているようだが、若い人たちは見ているのだろうか。歴史を学ぶ点でも面白いのだが、現代アメリカが奇妙に混入してもいて、ちょっと困った点もあるにはある。
 地方の教育委員会に関わったことのない人間は、あれは学校組織の一環だから文科省管轄かと思うのではないか。私も実際にとある交渉をするまで組織がよくわかっていなかった。今でもよくわかっていないのだが、教育委員会とその実質サポートの部分も分かれているようで、後者は市町村と一体化している。いったい、これはなんなのだろうと思う。
 原理的に考えると教育委員会のほうは、市町村から独立しているはずだと思って調べると、あれれだった。このあたりは自分の無知で恥ずかしい。私は高校の英語教師の資格を持っているので採用に関する教育委員会の決定権については知ったつもりでいたのが、逆にいけないかったようだ。で、教育委員会という組織なのだが、特に教育長だが、これって考えてみたら、公選ではない。たいてい校長の天下り先であり、しかも、なにかと市町村レベルの香ばしい政争が関係する。なんだコレである。
 ちょっと基本に戻って字引レベルの話をする。大辞林ではこうだ。

地方の教育行政を処理する機関。都道府県および市(特別区を含む)町村などに設置。大学・私立学校を除いた学校その他の教育機関の管理、学校の組織編制、教材の取り扱い、教育課程、社会教育などに関する事務を扱う。

 なんとなくそう思っているというあたりがぼよーんと書かれている。広辞苑はもう少し面白い。

地方教育行政を担当する機関。都道府県委員会と市町村(特別区・組合)委員会がある。1948年教育委員会法に基づいて成立。初めは公選制であったが、56年任命制となる。

 なるほどねである。やっぱしGHQの名残りらしく、最初は公選であったようだ。56年に任命制となるというわけで、骨抜きになっていったわけだ。というわけで、現状では、読売新聞社説がちょっと基本事項をわざと暈かしている。
 読売の主張はこうだ。

 国と自治体、教委と首長部局の役割と責任は何か。明確な区分けをする論議が中教審には求められる。

 その背景には、現状が違うというのがある。

 本来、地方分権そのものの制度だ。それなのに、地方分権時代の到来を理由として、文部科学省が中央教育審議会に、教委の在り方の見直しを諮問した。歴史の皮肉である。
 教育改革に熱心な自治体に、現行システムへの不満が少なくない。文科省→都道府県教委→市町村教委という“上位下達”の指示系統ができ上がり、独自の施策を実施できないとの不満だ。趣旨と実態の食い違いが、諮問の背景にある。

 しかし、実際には、読売の基本的な認識の間違いと言っていいだろう。確かに、市町村というレベルでは地方分権と言えばいえる。が、すでに公選を廃した段階で地方の民主主義からは迂回し、地方行政下に一元的に組み入れられている。
 話がくどくなるが、発足時には、地方分権、一般行政からの独立、民主公選制という3原則があった。しかし、1956年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」により教育委員会の委員は地方の首長による任命制に変わった。この時点で、「本来の教育委員会」ではない。しかも、会議は非公開が原則である。歯止めは唯一、任命時の議会承認だが、いかされているとは言えないというか、制度的に非承認はせいぜい不祥事暴露時くらいではないか。
 というわけで、なにもGHQ様が正しいというわけではないが、教育委員会という制度そのものが欠陥というか、あるいは改革不可能というべきか、いずれにせよ、本来の独立した機能は原理的になさない。もっとも、読売の主張のように市町村下という限定でなら、地域の独立性がまったく出せないわけではないのが、そういうものなのだろうか。
 ついで、PTAも同じようで、率直にいえば、こちらは実際には法的な根拠性がないだけ(厳密にはゼロではないようでもあるが)、突っ込むとけっこう醜悪なのだが、この話はまた別の機会にしよう。

追記
 ブログ本文は少し原則論に傾き過ぎたかもしれない。というのは、単純に公選にせよと言いたいわけではない。公選を目指して、準公選とした自治体でも、実際には機能していないようだ。
 中野区の例については「どないなっとんねん(2)」(参照)が興味深かった。

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