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2004.03.06

書棚から

 書棚を見るとその人のことがわかるというが、自分の書棚は雑然としている。引っ越しの度に本を捨てるせいもある。沖縄から転居した際は500冊をブックオフに流した。100冊くらいは捨てた。いくつかは地元の図書館に寄贈した。それでも、書棚には本は収まらないので、大半はスチール棚に積み上げている。そんなに本なんか読まないのになぜ本が溜まるかと憂鬱になる。
bookshefl パソコンから手が届く書架を見ると、やはり雑然としている。この雑然さこそ私なのだ。自分では、雑然とした自分をそのまま受けとめているのだが、いざ考えなおすと、変な本が多いなとも思う。お笑いでちょっと紹介しよう。そうでもないと、紹介することのない本だろう。
 「現代紅茶用語辞典」は、アマゾンでは品切れになっている。絶版なのだろうか。内容は古い。最新のタイプの紅茶はここからはわからない。だが、逆にその古い記述が面白い。歴史を考える上にもいろいろなヒントがある。Robert Fortune(「幕末日本探訪記」の著者)といった項目も当然ある。紅茶好きと限らず、歴史好きにはたぶん楽しい一冊だろう。
 「楽しいなわ跳び」。著者が太田昌秀と聞くと、まさかと思う人がいるだろう。そのとおり、別人だ。よく見ると苗字も違う。私はけっこうなわとびの名人だった。この本は学校教材のようなのでそれほど面白くはない。
 「クレイジーチェス」。チェスの本としては初心者向けだが、いわゆる入門書ではない(入門用にもなる)。この本ほど、チェスを愛するという気持ちの溢れた本はないのではないか。ツウ向けならいろいろあるがこの本は珍しいタイプの本だと思う。私はチェスはど素人だが、将棋よりは好きだ。日本でもハリーポッターはよく売れたが、あのチェスのシーンの意味はチェスを知らないとわかりづらい面があると思う。どうだろう。中で紹介されている、モーフィー(Morphy,Paul Charles 1837)の棋譜は芸術だ。将棋の棋譜にも美はあるのだろう。が、このチェスの棋譜の美しさを知らない人生はつまらない、というくらい。棋譜自体はネットでも見つかるだろうが、著者ピノーの解説がよい。フィッシャー(Bobby Fischer)の話も少し出てくる。池澤夏樹は最近グロタン・ディエクを知ったというが、ボビー・フィッシャーはどうだろうか(日本で暮らしているとの噂もあり)。映画「ボビー・フィッシャーを探して(Searching for Bobby Fischer.1993)」は「ヒカルの碁」のネタのような気がする。
 「バランスのいい文字を書きたい!」。タイトルから、ありがちな内容を連想するに違いない。だが、これはちょっとすごい本だ。私は書道を長く学んだが全然ダメ。それでも、この本の価値はわかる。身体についての思想家ともいえるフェルデン・クライスは、たしか、真の教師を見つけるのは宝くじに当たるより難しいと言ったが、著者はそうしたマレな教師の一人のようだ。
 「料理上手のスパイスブック」。講談社だし少し古いので絶版かと思ったが、入手可能なようだ。内容は標題のとおり、基本スパイスの辞書的な解説本だ。が、内容が優れている。「料理上手」とあるが、むしろ文化的な背景などの説明もよい。
 「熱帯のくだもの」。アジア人としては、ここに掲載されている果物は知っておきたいものだと思う。私は本書のくだものは大半は食ったな。沖縄の自宅にはシュガーアップルがあったので、食い飽きるほど食った。熱帯のくだものの食べ方のコツは、食い飽きるほど食うこと!。ドリアンだって、そう。大きく、熟れた新鮮なのをその場でぱかんと割って食えば、そんなに臭くはない。
 「おいしい花」。標題とおり、食用の花についての話だ。この手の話題が好きな人にはたまらない一冊である。先の「熱帯のくだもの」と同じく著者は吉田よし子。実は、彼女の本は私は全て読んでいる。今日紹介するのは2つだけだが、どれも面白い。
 「カブトエビのすべて」。内容はカブトエビについてだ。なぜ?とか訊かないでほしい。日本で読めるカブトエビについての唯一の本と言っていい。内容も正確だ。アマゾンの読者評で星を3つしか付けてない愚かものがいるが、この本の価値がわからんなら読まんでよろし。本書を読みながら、地球とはなにか生命とはなにか考えるのだ。著者はこの一冊に人生をかけた信州人でもある。高校の先生でもあった。こういう先生に学べぶことができた若い人は幸せである。
 ま、この手の本の話はウケがよければまたいずれ。

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小さな時代の終わりと何かの始まり

 この記事は極東ブログ「グリーンスパンは日本の円介入をリフレと見ていた」になされたsvnseedsさんのコメント(参照)への返信の意図もある。とても有益な示唆が得られたことを感謝したい。また、当のグリーンスパン発言の全文が読めて、とても嬉しい。これは貴重な歴史文書になるだろうと思う。


FRB: Speeches, Greenspan--Current account--March 2, 2004(参照

 先の極東ブログの記事だが、標題どおり、私には、グリーンスパンが日本の円介入をリフレと見ていたと知って率直に驚いた。この点については、後からブルームバーグの記事を再読しても、この記者もそのあたふたとした強調から見るに、同様の驚きの感はあったと思われる。
 ただ、svnseedsさんが指摘されるように、識者のなかには、ごく当たり前に取られてもいたのだろう。それでも、そうした声が、マスメディアや木村剛なども出現してきているブログの、ある意味、メインストリート側には出ていなかったのではないだろうか。少なくとも、大手新聞系では見かけなかった。
 それどころか、この点についても、svnseedsさんが指摘されるように、新聞系はグリーンスパン発言を誤読しているし、また軽視してもいる。軽視については、基本的に為替のディーラー側にあまり意味がないとの判断もあるだろう。つまり、特にグリーンスパン発言がなくても、G7後に円安側に揺れてくることはほぼ共通認識でもあった。
 誤読の点、つまり、「グリーンスパンが円介入を批判した」説については、私の考えでは、存外に根が深い。反動毎日新聞は論外としても、読売や日経が浅薄、朝日は気分的な反米意識のようなものが感じられる。このあたりのメディア側の意見と、財務省・日銀の思惑のズレはいったいなんなのか奇っ怪だ。洒落としては、ブルームバーグのコラム「FRB議長が懸念するアジアの根拠なき熱狂 W・ペセック(Greenspan Eyes Irrational Exuberance in Asia: William Pesek Jr.)」(一時的参照)の冒頭が笑える。

 もし中央銀行当局者を困らせたければ、為替市場について質問するといい。いすの上で態勢を整え、床を見つめ、「ノーコメント」とだれもが答えるに違いない。

 まあ、そういうことなのだろう。話のついでの同記事を利用する。

 世界で最も影響力のある中銀当局者、グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は9日、ニューヨークで講演し、アジアの中銀は近く「尋常ではない」ドル買い介入の規模を減らす可能性があると述べた。真意はどこにあるのだろうか。もっと当惑するのは、なぜ議長がそのプロセスを早急に実現させようとしているようにみえるのかということだ。
 この講演内容はアジアにおいては、日本と中国にドル買い介入を抑制するよう求めるグリーンスパン議長のシグナルと一般的に受け止められた。アジア中銀のドル資産は過去2年間で計2400億ドル(約27兆円)増加。日本と中国のドル資産残高は合計で1兆ドルを超えている。

 日本の新聞系がある意味意図的にグリーンスパン発言を誤読したのとは違い、むしろこのコラムのように、発言自体、「日本と中国にドル買い介入を抑制するよう求めるグリーンスパン議長のシグナル」と見るべきだろう。ブレーキを踏み込むという感じだ。陰謀論臭いうがった見方をすれば、それが成立する(停止)というなら、日本の円介入はそもそも米主導の政策ではなかったかという気もする。このあたりは、グリーンスパン発言に日銀批判を読むsvnseedsさんとは視点が違うところだが、私も陰謀論的な見方に固執しているわけでもない。臭いなと思うだけだ。
 いずれにせよ、ここで、米側からストップが出たことは確かだ。といって、即座にストップするわけでもない。なにせ日本政府は世界最大のヘッジファンドでもある。いつでもドンパチの構えを崩せるわけでもない。が、それでも、昨年のG7での一見敗北にも見える円高移行の防戦のような円介入(=partially unsterilized intervention)の時代は終わったと見ていいのではないか。このあたりも、デフレの根を深くみるsvnseedsさんとは視点が違うところだ。それはそれで理解もできる。
 今の事態が終わりであれば、それは同時に何かの始まりでもある。始まりとは、ごく単純に言えば、日本のデフレの終わりでもあるのではないか。と言うと、単純すぎるかもしれないのだが、これで3月を乗り切り、UFJとダイエーを片づければ、日本は新しい始まりがあるような気分にもなる。笑わないで欲しい。真面目な話、ようは、気分の問題なのだから。ついでに言うが、国政政治・軍事面でこの間、私が敵視しつづけた、有志連合もアナンの日本での発言を機に、とりあえずの終わりになったようだ。次期米国大統領やEUの動向も不確実な要素が多いが、概ね、新しいなにかが始まりつつあるようには見える。
 話を少し戻す。svnseedsさんをリフレ派に含めることは失礼なことになるのかもしれないが、グリーンスパン発言についての次の、リフレ派ぽい指摘はそのとおりだと思う。

 For now, partially unsterilized intervention is perceived as a means of expanding the monetary base of Japan, a basic element of monetary policy. (The same effect, of course, is available through the purchase of domestic assets.)

 これ、金融政策の道具として為替介入を使うのってどうよ?筋悪じゃない?と言ってるように読めるんですがどうでしょう?自分のところの資産を買い入れてもof course同じ効果があるよ、と(この部分、日本語訳ではカットされてますね)。為替介入なんかしないで自分のところの資産買った方が良いんじゃない?と遠まわしに言われてると解釈するのが自然だと僕は思うんですが如何でしょうか。


 そうだろう。が、そういうリフレ派の目はないかもしれない。そのあたり、可視になりづらいリフレ派の経済学というは今後どういう方向になっていくのか、というのも気になる。少なくとも、自分がその歴史の証人の一人であるという点でもこれからも考えていきたい。
 グリーンスパン発言には、ユーロ問題、中国問題(これもけっこうメイン)、また、日本の米国債買い入れの意味なども含まれている。が、とりあえず、そこまでは話は広げない。
 svnseedsさんからは、「日本やアジアの介入が米国債を支えてるという説もばっさり否定されてます。」との指摘があるように、グリーンスパン発言からもその意図は読み取れる。米債を含んで成長している米経済の視点からは、結果論的にそうも言えるのだろうなという思いはある。ただ、多分に米国の政治臭がするなという印象もある。
 放談的な言い方だが、大規模に非不胎化を実施した財務省・日銀は決定的に頭がいいと言えるだろう。皮肉としてそう言いたいねという気がするが。

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四月から消費税内税表示(総額表示)方式になる

 今朝も新聞社説に気になる話題はない。朝日と産経が全国人民代表大会(全人代)十期第二回会議に触れているが、つまらない。静岡県警のカラ出張問題など、警察と触れることの多い地方で暮らしていた経験から言えば、ことさら騒ぐことでもない。ただ、警察の経理をもっときちんとして欲しいとは思う。というわけで、今朝の話題は、消費税の内税化についての雑談だ。
 私は消費税の問題には詳しくはない(他の領域でも同じだが)。が、この問題は、日々の生活で直面することでもあり、基本的には、普通の生活人としての意識という視点で雑記してみたい。
 ご存じのとおり、この四月から消費税の総額表示、つまり、従来の内税表示が、全ての価格表示で義務付けられることになる。今までのようなめんどくさい消費税意識はなくなる。いろいろ思うことはあるのだが、なにより、この世界の変化の切れ目の感覚を忘れないでおきたいと思う。私はコンビニ行って、レジでは請求額を目視確認し、ざらざらと財布から一円玉を出して、渡す額を口頭で言い(口頭確認)、おつりをもらって、レシートを眺める(再チェック)。そういういう2004年早春の風景が変わっていく。
 と、書いたものの、渡す金額を口頭確認したり、コンビニのレシートを眺めるという習慣を持つのは私くらいなものか。若い人は、ゴミでも捨てるようにレシートをレジの専用のゴミ箱に捨てていく。ゴミですかねと思う。最近はセブンイレブンは教育がしっかりしているのであまり見かけないが、間抜けなバイトさんが内部用のレシートを手渡してくれることがある。けっこう楽しい。スーパーで買い物をするときも、私はレシートをざらっと眺める。まれに、ミスを発見する。すてきな奥さんになりたいわけでもないし、彼女らは別にレシートをいちいち点検するだろうかは知らない。
 こうした風景が桜の後に変わる。そして、それは歴史の感覚となる。私は、そういう些細な歴史の感覚の断層がとても気になる。
 内税化について、社会ではあまり批判は起きていない。起きていても、タメ臭い。いわく、これから消費税をさらに上げるための準備だとか、100円ショップは105円ショップにするわけにもいかないのでさらにデフレが進むとか、キリのいい額にするために値上げになるなど。どうでもいいといえばどうでもいい。
 3%の税が導入されるときはあれほど日本は騒いだ。薩摩隼人山中の胆力をもって断行した。それも歴史の向こうの世界だ。たしか吉本隆明は原則としては消費税は好ましいというので、ふーんと思ったものだ。
 私事めくがあのころ、ひょんなことで会計システム開発の一端に加わったことがある。私には関係なかろうとも思うがとりあえず、税の講習を一日受けたような記憶がある。内容はたいして覚えてもいないが、課税はレシート単位と個別があって、計算が違うことがあるというのを知った。ふーんと思い、あの時代、たまに、暇そうなコンビニに入ると「ちょっと待って、これ三つ、別々に買います」とレシートを分けさせたことがある。バイトのお姉さんなどによっては不快な顔をしたが(男というのは女の不快な顔に慣れる訓練も必要だしな)、たいていは彼女自身も機械のようだった。詳細は忘れたが、1円くらい誤差がでる。「こうすると1円もうかりました」と言うのだが、ユーモアを解してはくれなかった(女がユーモアを介さないということではない)。私は外人めきたいわけではないが、この手の私のユーモア感覚はちょっと日本人離れしてしまっているかなとも思う。そんな楽しみも5%時代にはなくなった。細川の殿様がご乱心したとき7%という話があり、ふふとか期待したものだが。
 消費税は早晩10%上がる。この調子だと、20%くらいまでは軽く上がるだろう。すでに内税化されているので、国民の税への抵抗感はなくなるに違いない。そのうち、一円玉というのも廃止されるのだろう。考えてみると、私が大学生のころ、一円玉なんて使うことはなかった。デノミが真面目な議論にもなったくらいだ。歴史の感覚とは不思議なものだ。
 内税化で、個人的に気になるのはヤフオクなどだが、価格は統一されるわけだから、これもあまり意識されないということになるのだろうか。
 日本の消費税は米国を除いて欧州と比べれば低いと言われる。が、詳しく説明するほどの知識はないが、これはほぼ嘘っぱちで流通のコストが実質税のように加わっている。まさかと思う? これは一つの商品が製造され消費者に渡るまで、どれだけ、官僚天下りの団体の規制下にあるかを想像したら、そーだよねととりあえず納得してもらるだろう。その意味で、リフレ派はよいデフレなんかねーよというし、理論的にはそうなのだが、この流通改善のプレッシャーというくらいの意味はあるだろうと私は思う。というわけで、コンピューターも店頭で買うのは初心者だけになった。
 ちんたらとした雑談になった。本質的な問題は、野口悠紀夫が指摘するようにインヴォイス(INVOICE)の問題だ。仕送り状方式とも言われる。もともと消費税というのは、インヴォイスと対になった制度だが、日本ではそうなっていない。というわけで、本質的な欠陥があると野口は言うのだが、私ははっきりと意識はしていない。要点は、仕入れ時に負担した税額が売上高に課税された税額から控除できるということだろう。いずれにせよ、複数税率になれば、現在のような帳簿(アカウント:account)方式では精密な対応はできないだろう。
 と言ったものの、それにもそれなりの社会的な意味があるかもしれない。日本の社会は、多分にアンダーグラウンド・マネーで成立しているからだ。国家はなぜだか富裕国民の所得を把握しようとしない(またぞろヤの問題だろうか)。老婆が趣味でやっているような小売り(沖縄は多いぞぉ!)も保護しよとする。このあたりの、行政の間合いというか極意を知った人間が、日本というある意味変な国家を始めて手綱取りできるのだろう。と、思って、小泉の顔を浮かべると、ありゃ、男前のうちだろうが、馬鹿面だな、日本が扱えないわけか。
 最後にプラクティカルなインフォ。内税化の具体的な説明は「総額表示方式」(参照)にあるので、以上の話をへぇとか思う人は、ちょっと目を通しておくといいだろう。ついでにいうと、このWebページ誰が作ったのか知らないけど、mof.go.jpとして恥ずかしくはねーのだろうか、と八つ当たりも書いておく(というのは改善しろよねという意味だ)。

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2004.03.05

週刊!木村剛の「厚生年金はネズミ講か?」はすげー反動

 「週刊!木村剛」の「厚生年金はネズミ講か?」(参照)を読んだ。私の率直な印象をそのまま書くと、「このお兄さん、すげー反動!」である。もう一つの印象は、こんなの退官したとはいえ、国家を担う官僚やっていたのか、世も末か、いや、待てよ、この反動、実に、国家主義どおりじゃねーか、ってなものである。というわけで、ゴーちゃんファンのくさしに誤解されてもなんなのでトラックバックにはしない。
 以下、簡単に、「厚生年金はネズミ講か?」についての私のメモをまとめる。
 (1)年金財源不足の危機的な状況についての木村の認識は正しい。確かに、ディテールは明るみに出してほしい。だが、この議論は、年金官僚へのルサンチマン(怨嗟)に直結して済む話ではない。私は、政治的な立場としては、民主党側に立つせいもあるが、これは、民主党案、ないし、民主党政権に置けば、自動的に、その方針から是正される問題であり。ルサンチマンを喚起すべきではない。また、負債の問題は、タスカが指摘しているように、日本が経済的に復興すれば問題とはならない。
 (2)年金制度改革の試算はまともな数値なのか、についても木村が正しく、まともではない。ここから先が違う。だからまともにしようではないか。民主党案の所得比例方式ならまともになる。代案がありうることを忘れて、扇情者の鉄砲玉にならないように。
 (3)年金のシステムはネズミ講ではない。この木村の議論は本質的に頓珍漢だ。どこに国でも国たるものは年金制度を持っているのだと考えてもみよ。ネズミ講はトップが儲かるシステムである。年金とは、国民の互助のシステムだ。強者が弱者やお年寄りを助けるために、働けるものが損をこくのである。これは、年金システム内部でみると、民間保険のように損得に還元されるが、広義には国民の税を使って、損をこくのである。総体的に年金とは損が避けられるシステムではないのだから、損かどうかの議論は無意味。
 (4)木村の提起する厚生年金脱退権は、ジョークである。これは、木村もジョーク、つまり、架空の話として書いているのだ。このあたりは、ちょっと悪意を感じる。これも考えてもみよ、といいたい。そんなことそもそも実現するかね? しねーよ。実現しない仮定の上に、国家の施策を考えるのは、なんと形容すべきか。
 (5)木村の議論に隠蔽されている国民年金に注目せよ。彼の今回のテーマは厚生年金に絞られている。が、現行の年金制度では、この2つは分離できるものではない。野口悠紀夫が指摘しているように、実は国民年金は厚生年金から補填されている。厚生年金は企業に負担が大きい。企業はできれば、厚生年金をやめたいのだ。というあたりで、木村が誰の利益代表をしているか気付け。少なくとも、若者の国民年金不払い動向を、この議論でバックアップするという恥ずかしい誤解はしないように。
 (6)そして、木村の意図は、厚生年金をチャラにして、税方式にせよというのだ。予想通りじゃないか。というわけで、ちょっと繰り返しておきたい。極東ブログ「多分、年金問題は問題じゃない(無責任)」(参照)。


 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。

 さらに。

 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

 というわけで、ということでもないが、民主党が本気で、所得比例方式が導入できないなら、年金議論なんて無駄だ。その決戦はそう遠くない。
 その意味で、木村の雑音は、民主党の所得比例方式案潰しの鉄砲玉なのだろう。
 所得比例方式が転けたら、私は、もう年金なんて議論するだけ無駄だ、というのを、もっと積極的に言いたい。あるいは、気力も失って、黙るかな。
 「ごーちゃん」を敵に回すようなことは言いたくないのだが、まだ、ちょっと黙るには、早いような気がする。

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韓国のクレジットカード破綻と日本の内需

 今朝も新聞社説からはネタはない。余談だが、ちょっと期待して「フジサンケイ ビジネスアイ(Fuji Sankei Bussines i)」を買ってみたが、全然ダメだった。
 気になる話題といえば、日本版ニューズウィークの今週の記事「韓国 国を挙げてのカード破産 借金と浪費を奨励する奇策で破産者急増の異常事態に」がある。この関連で雑談を少し書く。
 話は、標題どおり、韓国でクレジットカード破産が増えているということ。もっとも、銀行経営側から見れば別に目新しい話ではない。例えば「韓国市中銀行主要19行の昨年純益」(参照)やLGカードについては「LGカード一時経営危機に」(参照)など。
 背景は前述のニューズウィークの記事がわかりやすい。


 通貨危機がピークを迎えた97年12月のわずか数ヶ月後、韓国政府はクレジットカードを使ったローンの貸し出し上限を撤廃。カードによる支払いの一部を所得控除の対象とし、後はカード保有者向けの宝くじも導入した。
 韓国人はこれらの奨励策に飛びついた。カード利用額は急増し、99年、00年は経済も高成長を達成。だがそれは、借金の返済期限が来る前の話だ。

 同記事によれば多重債務者が100万人。返済の三ヶ月遅滞者は400万人。現役世代の約15%がカード破産状態だと言う。
 こういう話を聞けば当然思うことはいろいろあるし、つい「韓国人は…」という国民性についても床屋談義もしたくなる。が、してもオチも見えていてつまらないので、省略する。
 国家経済的に見るなら、韓国では、通貨危機時の不良債権処理が1400億ドルだったが、今回の個人負債は約300億ドル、ということなので、たいした問題ではないと言えないこともない。だが、実際問題としてこれだけの数の個人の債務を国家がそのまま棒引きにできるわけもないだろう。経済問題を越えて社会問題として深い病根となるに違いない。
 日本もクレジットカード破産が問題になるが、「個人の自己破産、最悪 年間22万件超す/2003年」(読売新聞04.01.26)によればこうだ。

 個人の自己破産申し立てのうち、消費者金融からの借り入れやクレジットカードの使いすぎなど貸金業者の利用が主な原因だったケースは、初めて二十万件の大台を突破して二十万千八百二十八件(91・4%)に達し、申立件数を押し上げている背景に、多重債務者の広がりがうかがえる。

 数値の意味合いが違うので直接的な比較はできないが、日本とはかなり異なる状況がありそうだ。
 韓国のような状況は同じく、経済危機に陥ったタイにも見られたようだ(読売新聞2002.05.09)

 行きすぎたクレジットカード利用による“カード破産”が新たな金融危機を引き起こす可能性がある――。タイ国家経済社会開発委員会は17日、第1四半期の国内総生産(GDP)が内需拡大などによって昨年同期比3・9%増と、当初予測を上回る伸びを示したと発表したが、同時に、金融機関に対し、内需拡大をもたらす一因となったカードの利用が過剰傾向にあるとして注意を喚起した。18日付ネーションが報じた。

 ある種のパターンがあるのだろうと思う。と同時に、現在のマクロ経済学の処方というのはそういうものなのかもしれないとも思う。
 日本も「流動性の罠」とやらでか、需要が落ち込んでいるとされているようだが、手っ取り早い需要喚起はクレジットカードなのだろうか。しかし、生活者の実感はない。
 重要という文脈で新三種の神器といったデジタル小物がタメで語られることもあるが、技術の基盤としては重要かもしれないものの、そのままの製品として見れば市場規模が小さい。やはり目立った需要というなら、やはり自動車や不動産などになるのだろう。
 特に不動産について、日本でどのような需要が見込まれるうるのだろうか、と考えてよくわからない。長期的には人口縮退を起こしているので需要は減少するはずだ。個人家のリフォームも進んでいるようには見えない。地方と都市部の落差は広がる。
 つらつら書くに、日本の内需を喚起するイメージが湧かない。
 話がそれるが、日本では若い人の就職が大きな問題になっているが、それはそれとして、特に高校生のフリーター率が高いとも言われるのだが、気になるのは、現状、大学入学など、親に金銭の余裕があれば、誰でも可能だ。なのに入らないのは、実際には、学力の問題や勉強嫌いということではなく(日本の大学生は今も昔もそれほど勉強していないように見える)、単に親の金銭的な余力だろう。そう考えると、若い人に、国家がまとまった金を貸すという制度でもあればいいように思う。
 とま、書いたものの、私のこうした考えは、考えの筋が違っているようにも思う。が、その根にあるのは、極東ブログで他の記事でも書いたように、日本の政府は民間部門より産業部門向けにそもそも出来ているので対応できない、という限界性だろう。
 もともとも、日本の政府は、民間部門の需要喚起には向かない政府なのだろう。

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2004.03.04

グリーンスパンは日本の円介入をリフレと見ていた

 また円介入話だ。このところの極東ブログの話の流れでは、「日本は米国に貢いでいるのか?」(参照)、「またまた米国債買いのお話」(参照)に続く。要点の一つは、膨大な円介入は「非不胎化介入」というリフレ策ではないのか、ということだった。
 この巨大な介入を米国はどう見ているかという点で、2日のFRB(米連邦準備制度理事会)グリーンスパン議長のニューヨーク講演が興味深かった。
 新聞系のニュースでは、グリーンスパンは「円高阻止のために多額の円売りドル買い介入を実施している日本の為替政策を強く批判した」と報じた。例えば、共同からは「米FRB議長、日本の巨額の為替介入を批判」(参照)、毎日からは「円高介入:グリーンスパンFRB議長が日本批判」(参照)、朝日からは「FRB議長、日本の大規模介入『必要ない段階に近づく』」(参照)などだ。
 だが、これらは情報が少なく、グリーンスパンの意図がわからない。そこで、ブルームバーグを見ると、もう少し詳しく、「FRB議長、日本はドル買い介入最終的に停止を-講演で(5)」(参照)というCraig Torres記者による署名記事があった。冒頭を引く。


 米連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長は2日、「日本政府によるドル資産の蓄積ペースを減速し、最終的に停止する必要があると認識すべきだ」と述べ、日本政府・日銀による円売りドル買い介入を強くけん制した。同議長はニューヨークのエコノミック・クラブの講演で見解を明らかにした。
 同議長は、日本の円売り介入について、「部分的な非不胎化介入は日本のマネタリーベースの拡大手段、つまり金融政策の基本的要素と認識される」と指摘。「日本のデフレ沈静化に伴い、継続的な介入による金融面に及ぼす結果が問題になってくるだろう」と、介入資金を市場に残す非不胎化介入に伴う金融緩和の行き過ぎに警告した。
 その上で、議長は「日本経済の現在のパフォーマンスは、現行規模の介入を続けることが、もはや日本の金融政策の要求に合致しなくなる水準に接近していることを示唆している」と述べ、大規模介入を修正する時期が近いとの認識を示した。

 ということで、グリーンスパンは、日本の円介入を、要するに、リフレ策として見ていたということのようだ。
 私としてはちょっと呆気にとられたという感じがした。というのは、このことは国内のエコノミストや経済学者ははっきりと指摘していたとは思えなかったからだ。わからないので、私は素人考えを重ねてきたわけだが、こういうことは、その筋では常識だったのだろうか?
 いずれにせよ、グリーンスパン側から、円介入をやめろというシグナルが出たので、過去の例から見ても、日本の介入は少なくなる、ということだろうか。次に知りたいのはそのあたりだ。ついでに知りたいのは、陰謀論めくが、そもそもこの莫大な介入は、米国主導だったのだろうか、という点だ。
 繰り返すが、重要なので同記事の別の言及も引いておく。

 日本政府・日銀による円売り・ドル買い介入は昨年初めからことし2月までに約30兆円に膨張。欧米の市場関係者の間では、介入規模の拡大と並行して、日銀の量的緩和目標が30兆―35兆円(日銀当座預金残高)に拡大されたことから、介入資金を市場に放置する非不胎化介入と受け取られている。グリーンスパン議長は「部分的」と断りながら、日本の為替市場介入を「非不胎化」と明言。米通貨当局も政府・日銀の為替市場介入を非不胎化とみなしていることが初めて明らかにされた。
 市場関係者の間では、日銀が量的緩和を拡大し、巨額の円売り・ドル買い介入を可能にし、手当てしたドル資金で米国債を購入、米国の双子の赤字をファイナンスしているとの見方が根強い。日本政府・日銀の円売り介入の結果、米国債が購入され、米国の市場金利が抑制されるため、米通貨当局も日本の介入政策を容認していると見られていた。

 ところで、このあたりのグリーンスパンの言及はどうなっているのか、ブルームバーグなので原文が存在するはずだと思って、「原題:Greenspan Says Japan, China May Trim Dollar Purchases(抜粋)」から原文を探すと、なんか変だ。対応するはずの冒頭を引く。

Greenspan Says Japan, China May Trim Dollar Purchases (Update3)

 March 2 (Bloomberg) -- Asian central banks may have to reduce their "extraordinary'' purchases of dollar assets soon, and when they do so, it doesn't mean that the dollar "will automatically fall" or U.S. interest rates will rise, Federal Reserve Chairman Alan Greenspan said.
 Japan, China and other Asian nations' central banks have purchased $240 billion in dollar assets since the start of 2002 in an effort to keep their currencies from rising against the dollar, Greenspan told the Economics Club of New York.
 "The current performance of the Japanese economy suggests that we are getting closer to the point where continued intervention at the present scale will no longer meet the monetary policy needs of Japan," Greenspan said in his speech.


 標題も記者も同じだが、日本語のほうの記事とは対応していない。どっかに別記事が存在しているのだろうか、探したのだがよくわからない。
 グリーンスパンの発言で、もう一点、気になるのは、ユーロへの配慮だ。

 またグリーンスパン議長は、通貨当局の為替市場介入メカニズムについて、「アジア諸国の通貨当局が自国通貨の対ドル相場抑制のため、自国通貨売り・ドル買い介入を実行すると、当局はドル建て資産を民間部門のポートフォリオから購入することになる」と指摘。「この結果、民間部門の手持ちのドル資産が減少するため、自然な成り行きとして、ポートフォリオのバランス調整で、ユーロなど介入通貨以外に対してもドル買いが発生する」と述べた。
 議長は「この結果、ドルの対ユーロ相場は上昇することになる」と説明。欧州諸国が非難するようなアジア通貨売り・ドル買い介入でユーロが上昇することはないとの見解を示した。グリーンスパン議長は「ドル相場に影響を与える要因は、当局の為替市場介入以外は予測不可能なため、アジア諸国の為替市場介入の停止は自動的なドル相場の下落を意味しない」と指摘した。

 このあたりの発言の真意もよくわからない。
 私は稚拙な陰謀論めいた冗談として、米国は日本と組んでユーロ潰しを狙っている、とも思うが、実際のところ、米国はユーロをどう見ているのだろうか。

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イラク・シーア派テロは外部からなのか

 朝日、読売、日経の社説が、シーア派を狙ったテロに関連し、イラクの状況について触れていた。が、基本的な情報が少ないこともあり、読むべき内容はほとんどない。特に朝日新聞社説「イラク再建――テロに揺るがず結束を」は頓珍漢なのだが、お笑いネタにしてもしかたなかろう。
 重要なのは日経の社説「イラク、内戦の危機回避を」の指摘にもあるが、これがイラク外部の犯行によるかという点だ。


 今回のテロは聖地カルバラと首都バグダッドで同時に、10人を超えるテロリストによって引き起こされた。大掛かりなテロ組織がイラクに存在することは間違いない。米軍などはアルカイダと関係のあるヨルダン人ザルカウィ氏が首謀者であると疑っている。

 米軍の情報については、また嘘でしょ、と思いたくもなるが、そうした可能性が否定できるわけでもない。いずれにせよ、イラクのテロがイラク外部から持ち込まれているかどうかは、今後の動向に重要な意味を持つ。
 が、ここでも、その真偽の扱いが難しい。単純な話、多分にそうした情報は米国側から出されるためだ。狼少年をそのまま信じる人はいない。
 テロが外部からとすれば、またぞろアルカイダという話になるだろう。その関連の情報という点ではビンラディン捕獲のネタが似ている。ガセ臭いのだが、すでにビンラディンがパキスタン内で実質的に捕獲寸前の状況にあるという情報が最近流されている。イラク元フセイン大統領の捕獲もタイミングがあまりに良すぎたので、ビンラディンについても、捕獲のニュースは、米国大統領選の行方しだいか、というジョークでも飛ばしたくなる。
 陰謀論めくが、大筋として、米国はビンラディンという悪玉の捕獲は気が進まないというのが本音だろう。金正日と同様に、悪玉がなくては、現状の米軍体制変更の方向性が見えない。米国は、活かさず殺さず悪玉を利用するだろうと見るのはそう外してはいないだろう。
 ついでに。イラク情勢に関連した話では、すでに極東ブログでも触れたが、日米のメディアの多くは、6月末時点のイラクへの主権を移譲を好ましいと見ているようだ。が、このあたりは、すでに引き継ぎに出ている国連、特にアナンとしては、シーア派シスタニの操縦の絡みから、そう急いではいないと見るべきだろう。
 こうしたイラクの動向は残念ながらというべきか、米国選挙の動向が関係している。私にはその米国大統領選挙の動向がわからない。米国という国は、基本的に大統領を南部から出すという根強い保守性がある。そういう視点からすればケリーはフランス人かね、というジョークも成り立つくらいだ。ブッシュでなければ誰でもいいという雰囲気に酔っている日本人も多いようだが、私はブッシュ再選の目はまだそれほど低くはないと考えている。
 いずれにしても、イラク状勢関連で、有志連合が実質頓挫した現状を、次期の米国がどう立て直すかというあたりで、悪玉の色合いが変わる。ちょっと勇み足で言うなら、米国は、EUと、ある程度は対立路線を出して来るだろう。その程度によって、悪玉の意味も変わるはずだ。
 EUの動向関連で余談めくが、2日のNHKクローズアップ現代には苦笑した。ド・ヴィルパン外相が出てきて、サービス精神なのか、インタビューと称して、稚拙な英語でまくし立て、挙げ句は「ドゴールを崇拝している」と言ってのけた。戯言だがお笑いだかホラーだかわからないのが、おフランスなエスプリってやつなのだろう。日本では、反米からフランス的な外交へ期待を持つ傾向もあるようだが、ポーランド、イタリア、スペインのEUでの状況を考えれば、フランスに過度な期待を持つのは、米国追従と同じ程度に危険だろう。
 ところで、まったくの余談だが、なぜ、「ド・ヴィルパン」や「ドゴール」というように、日本では「ド」が付くのだろう。近代言語学創始の「ド・ソーシュール」や「ド・サド」では「ド」を取るのにだ。ちなみに、英語では、de Saussureで、deを取らない。

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2004.03.03

雛祭り余話

 今日は三月三日、雛祭りである、と言いたいところだが、これも本来は旧暦で祝う行事。旧暦でなくても不都合がなければいいじゃないかということだろう。桃の節句とも呼ばれるが、新暦では桃の花は咲かない。それよりも気になることがある。この三月三日に行われる祭りの起源に関係した話だ。
 旧暦の三月三日は、沖縄では「浜降り(はまうり)」が行われる。今年は四月二十一日になる。浜降りは、菓子やよもぎ餅などを重に詰め最初仏壇に供えた後、浜辺で遊ぶという行事だ。基本的には女の行事である。行事の名称としては那覇などでは「サングゥチサンニチィ(三月三日)」と言う。八重山では「サニジ」と言う。「三の日」だろう。

cover
失われた海への挽歌
 現在では昔のような行事は珍しいがそれでも浜は人で賑わい、人は屈み込んでチンボウラという小さな巻き貝を取る。ウミヌチンボーラーグァと歌う「海ぬちんぼうら節」のあれだ。この歌はサントラには入っていないが、映画「ナヴィの恋」にも絶妙のシーンで出てきた。そういえば、この映画で見納め感のある嘉手苅林昌の声でも聞けるのは、「失われた海への挽歌」だ。嘉手苅林昌の歌声は神!であるが、このバージョンがこの歌の最高バージョンであるかはわからない。
 以下、表記は私が適当にした。囃子は抜いた。

海ぬちんぼうらぐぁ 逆なやいた立ぃば
足(ひさ)先々 危なやさ

海ぬさし草や あん清らさなびく
我身ん里前に 打ち靡く

海ぬちんぼうらぐぁ 恋する夜や
辻ぬ姐ぐゎたん 恋すらど

辻やいんどー豆 中島や豆腐豆
恋し渡地いふく豆

辻ぬいんどー豆 噛でぃんちゃんな兄様達
噛でぃやんちゃしが 味やうびらん


 意味は解説しない。私もよくわからないということにしておく(そこのうちなーんちゅ、爆笑しないように!)。滑稽に変えたテルリン・バージョンもある。
 このチンボウラを油で炒めて味噌にしたアンダンスーが絶妙にうまい。マチヤグァなんかで売っている三枚肉のアンダンスーとは違う。うちなーんちゅでも食べたことない人も多いようではある(おばぁに作ってもらいなさい)。
 話がそれてきたが、浜降りは沖縄の行事だと、うちなーんちゅも思っているので、うちなーびけんな話も出てくる。たとえば、「宮古島ダイビング事件と水産振興」の「沖縄の海面利用と漁業権」にこうある(参照)。

 沖縄が他府県と違った海面利用の状況がみられるというのは、事実と思う。身近に感じるのは、旧暦の3月3日に行われる「浜うり」の行事であろう。全県的に行われる様子は、まさに「海はみんなのもの」という県民感情を裏付けている。本土では、このような行為はみられず、地元の漁業者に遠慮する姿勢が一般的である。このような違いはどこからきているのか、これまでの歴史的な背景も踏まえて説明を加えてみたい。

 違うのだ。これは、本土にもある。「磯遊び」と呼ばれている。同じく旧暦三月三日の行事だ。浮き世の題材にもなっているようなので、江戸でも盛んだったのだろう。これが現在の、潮干狩りに結びついている。
 マイペディアでは「浜降り(はまおり)」の項にこうある。

海辺で禊をすること。全国的に祭の際に見られ,神輿を水中でもむのをこのように呼ぶ所もある。沖縄では特に厳格で,海辺で3日2晩潔斎謹慎したり,親類縁者が集まって浜辺で酒宴を開き,深夜まで歌い踊って遊ぶ等の習俗が見られた。⇒磯遊び

 というわけで、「磯遊び」はこうだ。

3月3日に海や山に遊びに出る風習で,もと雛を送ったり祓に水辺に出たりした行事の変化である。雛壇の前でするままごとを磯遊びというところもある。九州西側の沿海地方では雛祭の日に海岸に出て一日遊び暮らし,山口県大島郡などでも同じ日に磯遊びをする。磯祭と称して乙女たちが浜で草餅を食べる風習もある。

 類似の民俗は川辺のバージョンとして韓国にもあるようだ。儒教=道教的な行事なのか、海洋民の民俗なのかよくわからない。女が主体になるところも、いま一つわからない。本土の磯遊びと沖縄の浜降りの関係もよくわからない。
 重要なのはいずれも旧暦の三月三日とする点で、この日は旧暦の朔日に近いこともあり、大潮に近い。だから、貝が取れる。その意味で、この行事も旧暦でないと本来の意味はない。
 中国の行事との関係でいえば、五節句の一つ、旧暦三月初めの巳みの日を祝う上巳(ジョウシ)との関連はある。日本書紀で言えば、顕宗天皇元年三月上巳に曲水の宴が開かれたとある。これが現在に定着するのは、江戸時代に整備された五節句(五節供)による。単純に考えれば、江戸のナショナルホリデーなので、浜辺に遊んだというところだろうか。
 私事だが、午前中にぶらっと近所の和菓子屋に行くと、いつもより混んでいた。菓子の種類も多い。「引千切り」もあった。「左近の桜」「右近の橘」という名の菓子もあり、同行の物に知っているかと訊くが知らないらしい。今の高校生は内裏を参観したことはないだろうか。

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韓国反日法に唖然とする

 正直言うと、韓国問題はあまり書かないほうがいいんじゃないかと考えつつある。どうしてもナショナリズム的なところに落っこちるからだ。だが、さすがに、これはねーんじゃないのと思うので少し書く。反日法についてだ。産経新聞ニュース「韓国で『反日法』成立 統治下の『親日行為』断罪」から引く(参照)。


韓国で二日、日本統治時代の“親日行為”をあらためて断罪し歴史に残そうという「日帝下の親日・反民族行為真相糾明に関する特別法」が国会を通過し成立した。今後三年間、大統領任命による委員会が関連の資料収集や調査活動にあたり報告書をまとめるが、一九四五年の日本統治終了からすでに六十年近くたち関係者のほとんどが故人になっている今、その狙いに関心が集まっている。

 日本人の私が言えるこっちゃないかもしれないが、もう半世紀も前のことじゃないか。たとえ、断罪であっても、許せよ、と思う。記事を書いた黒田勝弘の現状の評価はこうだ。ニュースに判断が混じり過ぎのようにも見えるが、妥当な見解ではないかと思う。

 また韓国の現代史は左派や親・北朝鮮勢力からは「親日派を温存してきた」と非難され、逆に「親日派を清算した」とされる北朝鮮の歴史的優位性が強調されてきた。
 今回の特別法も左派や親北朝鮮的な傾向の強い若手議員が主導しており今後、保守派主導で実現した日韓国交正常化(一九六五年)の見直しなどの動きが表面化する可能性もあり「日韓関係への影響が懸念される」(韓国外交省筋)との声も出ている。

 関連して、朝鮮日報「日本はこのまま“行く所まで行く”つもりなのか」も、ちょっと唖然とした。

 隣国関係を念頭に置き、このような流れにブレーキをかけ、自制を要請すべき小泉首相が「独(トク)島は日本の領土」、「これから毎年(靖国神社を)参拝する」としながら先鋒役を買って出ているのでは、返す言葉がない。

 私は日本人だからというわけではないが、竹島は日本の領土だと考える。が、韓国が自国領だというなら、考慮しましょう、妥協点を見つけましょう、と思う。小泉の靖国参拝は、基本的に彼個人の問題で、国費が出ているわけでもないし、国は公的に靖国参拝などしていない。少なからぬ日本国民が、小泉の靖国問題に不快感を持っている。そのあたりは、日本国民としては妥協の部分だ。つまり、内政の問題だ。

 関東大震災の際の朝鮮人虐殺をはじめ、太平洋戦争で強制的に連行された女性たち、そして日本軍に徴用され、戦争が終るとB、C級戦犯として処刑された朝鮮の青年たちの悲劇をここでまた取り上げなければならないのか。
 韓国だけがこのような傷を抱えているのではない。中国もフィリピンもシンガポールもインドネシアも同様だ。

 それについては、取り上げればいいじゃないか。どうぞ。歴史の議論は歴史でかたをつければいい。だが、戦犯を裁いたのは連合国(国連)だ。台湾人・沖縄人も徴用された。中国、フィリピン、シンガポール、インドネシアになぜ、台湾と沖縄を、そしてマレーシア、オセアニアの小国を並べないのか。歴史の問題と政治の問題は別だ。そんなことを政治的な正義ごかして脅しに使うというのなら、不快極まる。
 率直言うと、韓国の自国内で反日気分を盛り上げることには政治的な意味はあるのだろうが、それは内政の問題なんだから、いちいち日本を引きづりだすことはないじゃないかと思う。そうやって、日本人の反感を盛り上げて、なんの得があるのだろう。
 日本人と韓国人が特定の民間のレベルで友好を築くことは可能だけど、国家としてそれほど友好というわけにもいかないだろう。隣国というのはどこもそんなものだ。歴史の問題もある。だったら、せめて互いをこれ以上傷つけるような騒ぎを起こすのはやめるというのが礼儀だ。大嫌いな福田官房長官だが、よくやっていると思う。
 というわけで、私も反感を盛り上げたいわけではないので、これ以上は書かない。

追記 2004.3.5
 本文は、どちらかというと、日本支持された韓国の老人のかたへしのびないという思いが先に立った。韓国の反日的な気分については、以下のブログが示唆深かった。

 りそ妻日記「3.1節の盧大統領ご乱心」(参照

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アジア人に日本を開く

 朝日新聞社説「アジアに開く――外国人と生きる覚悟を」の問題提起は、別面企画の宣伝でもあるのだろうが、悪くなかった。日本にこれから増えるアジアからの外国人とどう接触するかは重要な課題だと思う。
 と、文章を書き出すとき、自分の頭では数段先がいつもなんとなく浮かんでいるのだが、ふと、インターヴェンション。アジア人の外人問題といえば、在日朝鮮人問題はどうか、という思いが浮かんだ。彼らは日本人にとって、外国人問題のティピカルなケースなのだろうか。あるいはモデルだろうか? 違うのではないか。あまり結論だけ書くと誤解されるが、在日朝鮮人問題というのは日本人問題ではないかと思う。日本が歴史を背負うときに必然的に出てくる問題。という意味で台湾人もそうだ。とりあえず、アジア人の外国人問題からは、捨象する。
 朝日の社説は、予想通り、つまらないきれい事に満ちている。執筆者自身にアジア人との交流はあるのだろうか、というのは、文章というのはどこかしら、その人の経験というか思いの一端がにじむところに真価があるのであって、巷の文章術の類がアホくさいのは、その経験を問わないからだ。経験が人に強いて書かせるのであって、書くために書くのが書くという行為ではない。
 例えば、実際にアジア人と日常や職場で苦戦した人間ならこんなことは言わないと思う。


 問題は、こうした現実があるにもかかわらず、増え続ける外国人にどう向きあうのかという哲学が、政治にも行政にも国民の意識にもまだ希薄なことだ。

 私の経験論が間違っているのかもしれないという留保はしたい。が、この問題は、哲学でもなければ、意識でもない。この問題は、覚悟とルールの問題だと思う。「つきあうぞ」という覚悟と、「おめーも日本の社会のルールを守れよな」という二点だ。
 この二点というのは、極限すれば、喧嘩をすることだと思う。「おめーそれはないだろ」っていうのを言葉や身振り(つまり演出)でわからせることだ。私自身喧嘩がうまい人間ではないのだが、昨今の世相を見ると、特に若い人間だが、それってて喧嘩かよ、と思うことが多い。まず暴力っていうのは喧嘩ではない。暴力っていうのは基本的にプロの領域だ。暴力っていうのは、ちゃんと訓練や修行をつんだヤの方や警察がやること。暴力で方を付けるのは素人がやるこっちゃない。が、これが、もうダメなんだよな。ヤも桜大門も全然ダメだと思う。だから暴力の規制緩和になるのか。この話はそこまでにする。で、民間の喧嘩というのは、コミュニケーションの重要な要素だ。コミュニケーションっていうのは、円滑にするとか、相手を意のままにするとか、そーゆーこっちゃ全然ないのだが、どうも本屋に並ぶ本の表紙のツラをみると、バカかコレ、みたいな本が売れているみたいだ。なさけない。コミュニケーションは、わかってくれない人間にわかってくれよ、ここまで俺はカードを切るよと、関わることだ。ま、これも説教臭いのでこの話もこのくらいにする。
 この手の喧嘩を外国人、とくにアジア人とやるのは、すげーしんどい。ほぼ全滅なのはインド人、といってもターバンを巻いている、日本人からのインド人のイメージはヒンズーじゃない(あれはシーク教徒)。ヒンズーはもっと直接的には穏和、だけど、鉄壁感は同じ。次に、中国人。これは各バリエーションはあるけど、基本的にすげーむかつく。が、韓国人と違い、こっちのむかつきがつーじねーの。で、相手も全然違うところで傷ついたりするから手に負えない。タイ人やフィリピノ、マレーなどは比較的通じるような気がするから、逆にめんどくさい(基本情報が通じてない)。と、愚痴だな、こりゃ。だが、そういうことは体験して学ぶしかない。というのは、体験すれば自分の力量がわかるからだ。タイの子供の頭をなでるのはやめましょう、お坊さんをからかうののもダメよ、みてーなノウハウっていうのは、自分の力量を換算していないからほぼ無意味。どうも、話がずっこけるのだが、よーするに朝日の言うようなきれい事の世界ではない。
 朝日の話で一点、これは汚ねーなと思ったことを一点だけ指摘する。

 例えばアジアの国々との自由貿易協定は、物と金だけではなく人の移動ももっと自由にしようとするもので、フィリピンやタイは日本に対して介護士や医師、マッサージ師などの受け入れを求めている。

 誰かが手を入れたのかもしれないが、こういう曖昧韜晦文は困る。この文脈でフィリピノは看護婦だよ。思わずそこら辺のブログのように、看護婦のところをfontタグで囲みたくなる。ま、そうはしない。それに正しくは看護師(看護士ではないらしい)だ。朝日も社会派っていうのなら、この問題を日本人の社会イメージのなかに絵になるように書けよと思う。
 最後に毎度の自分の回顧話。20代のころのあるバイトの相棒がフィリピノだった。まぁ、仲良かったかな。仕事が終わって、自分の自転車のケツに乗せて居酒屋に行く。カーペンターズとか英語で声出して歌っていくのだ(他に何を歌えってか)。青春だよなと泣けてくる。居酒屋に着いて、適当につまみでも思うと、彼が、大丈夫、今日は私の奢り、ってことを言う、と同時に、テーブルにばっと、かっぱえびせんを広げた。アリ、かよ? BYO!! 思わず、YMCAのノリで踊りそう。そのまま、当方も中国系フィリピノしてもよかったんだけど、ま、飲み屋の人に了解してもらうよう話をしました。名前も忘れたが、彼、今頃偉くなっているのだろうか。

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2004.03.02

ゲームのこと

 ちょっとゲームの話を書く。またも古い話ばかりになりそうなのでできるだけ簡単に切り上げるようにしたい。
 今後日本も韓国ばりにオンラインゲームの時代になりそうなので、それに対して、オヤジ界から「ゲーム脳」だの、引き籠もりを増長するだの、しょーもないゲーム批判を見かけることが多くなった。それに合わせて、きまじめな若い世代の反論もよく見かける。どっちが正しいかといえば、反論のほうが正しいのだが、オヤジ界のニーズには合ってないので、同じような議論は繰り返される。そして、早晩、オンラインゲーム中毒の病人が社会問題に浮かび上がり、さらにしょーもない事態になるのだろう。
 私はそういう傾向や今後の予想に対してどう考えているかと、なーんも考えていない。テレビが出てきたとき大宅壮一は一億層白痴化などと批判したものだが、実際一億白痴化になってみたが、どうかというと、ただ、そうなっているだけ、ということだ。ゲームでも同じようなものでだろう。
 しいて言えば、私はほとんどテレビは見ない。ゲームもしない。本もろくに読まない。別段さして困らない(本については昔の本を読んでいるだけでよいということになるかもしれない)。そういう分衆が各種出現するだろうし、その分衆に社会的にまとまった意識があるわけでもない。ただ、そういう分衆の世界で、より親密な人間への希求は始まるだろうなとは思う。すでにネットやブログの世界にそういう傾向が見えてきている。はてなの顔出しとかもそうかな。ブログの多くは基本的にはそういう分衆の世界に閉じていくだろう。それが悪いことでもなんでもない。ただ、そーゆーこと、というだけだ。
 私は二十代の後半(80年代)だが、パソコン・ゲームを中心とした交友を持っていた。ゲーマー? インベーダーゲームからの世代で、そのままパソコンでもゲームをやっていた(BASICゲームの話は省略する)。流しのプログラマとしては86をメインにしていたので、仕事の面では早々にDOSに近い環境に移行していたが、自宅で遊ぶマシンはほぼ最後までPC-88にこだわった(FM音源なので「イース」の音楽がきれいだった)。それからX68000だのMacに移った。PC-98というのは自分の専用マシンとしてはつまらないしろものだった。DOS/VもWindowsもそんな感じはするが、しかたない。
 あのころのゲームだが、ハイドライドの解説冊子に、たしか、こういうのを邪道と言う人もいるでしょうが、といった記述があったのを覚えている。批判しているわけではないが、その後の日本のゲームはその「邪道」の上に乗っていたのではないだろうか。他は、ロードランナー風の条件反射的ものか。たまに、倉庫番風なパズルもの。格闘物では、Apple用のアラビアンナイトみたいのが原点のように思うが、名前を忘れた(アラジン?)。シューティング系は3Dが面白い。フライトシミュレーターもそれなりにはまる。
 現状のゲームはよくわからない。身近の子供たちがやるのを見てもなにが面白いのかまるでわからない。自分はどうしちまったのかとは、ときたま思う。
 MacではCYAN兄弟の初期の作品(HyperCardベース)は楽しかった。"the Manhole"、"Cosmic Osmo"、そして、"Spelunx"。彼らのウィットというかユーモアというかセンスは良かった。ついでなんで、MYSTもほぼ完了までやった。これは絵がきれいだったからだ。ああいう絵だけでも評価できる世界というのは、今でもいいなと思う。他に、それ自体がアートたりうるようなゲームというのもあるのだろうか。"Uru: Ages Beyond Myst"? 気になる。日本語版が出るのか?
 パソコン・ゲームをよくやっているのと同じころ、ゲーセンにもよく通った。すでにヴィデオゲームの時代だったが、私は、ピンボールがやりたったのである。あの時代、探すとなかなかシックなピンボールゲームがあって楽しかったものだ。村上春樹の「1973年のピンボール」のような世界である。ちなみに、アマゾンのこの小説の読者評を見たのだが、ピンボールやってみないとこの小説の面白さはわからんと思うよ。
 ピンボールの面白さはいろいろあるのだが、その一つはTILTだ。TILTは違反ではない。体重をかけて、腰を入れて、タイミングを見て、台をずんと押す。これってFU*Kっていうやつだろうな。ああいう熱狂が楽しめるゲームというのを私は他に知らない。スポーツだとなんか健全過ぎて萎える。
 沖縄から東京に戻ったろ、渋谷とかのゲーセンを覗いて回ったのだが、萎えた。ヴィデオゲームとお子様ばかりだ。沖縄にも北谷などにゲーセンは多いが、東京ならなんとかあると思っていた。ネットで調べるとピンポール台はまだいくつかはあるようだが、ほぼ、ない。一種の骨董品にもなっているようだ。詳しくはわからないのだが、米国の老舗のメーカーもなくなりつつあり、しかも、メンテナンスもできないようだ。
 大金持ちになって、広いフロアにお気に入りのピンボールマシンを4台くらいおけたらいいなとも思う。米国人にとって夢というのはそういうものなのだろう。しかし、私は、過ぎたものは過ぎたものだと諦めることにしている。

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西武鉄道が総会屋と癒着、で?

 今朝の新聞各紙社説の話題は、西武鉄道が総会屋と癒着していたという話題だ。私はあまり関心ないので簡単に触れるだけにする。
 各紙ともに「まだ総会屋と癒着していたとは」と呆れてみせるのが、なんか白々しいなという感じがする。このニュースを聞いたとき、私はほとんどなんの驚きもなかった。堤康次郎(つつみやすじろう)の息子じゃないか、なにを世間は驚いているのだ、という感じである。ちょっと面白い歴史の小話でもまた聞けるかなくらいに思った。そのうち、週刊新潮あたりが書いてくれるかなと期待している。
 各紙社説を読んでみたが、そういう私のような印象をほのめかしている記述はなかった。なんだか、隔世の感がある。というわけで、あとは全部余談みたいな話だ。
 私は堤康次郎についてさして好悪の感は抱かいていない。西武園遊園地の前に立っている銅像を指して、周りに身近のものがいれば、「あれなんだか知ってる?」ととりあえず聞くだけだ。たいていは知らない、という時代になった。あの銅像は悪くないないなとも思う。息子(弟)似てるしな。
 柴田翔の「されどわれらが日々」は文庫で古典のようなものだから、絶版にはなってないと思うが、と調べてみると、大丈夫。どころか、けっこう柴田翔の作品が残っていて不思議な感じを受ける。この本は、およそ読書人たるものの必読書だが、六全協など解説を付けたほうがいいのではないか。古い時代の青春小説を読みたいなら石坂洋次郎でも読めばいいのだから。で、「されどわれらが日々」には箱根の国土開発の話が挿話のように入っているのだが、考えてみると、これも「国土開発」という歴史もつ陰影が失われて読まれているのかもしれない。
 私事めくが私の父の実家は軽井沢なので、住民であった祖父母などから、国土開発の裏話を聞いて育った。ディテールは忘れたが、子供ながらに爆笑ものの話が多かった。
 強盗(五島)慶太みたいな話も、もう歴史の向こうなのだろう。ああいうワイルドな世界は、実は我々の今の世界の裏に貼り付いた歴史でもあるのだ。今回のような西武の事件でも、そういう歴史がときたま、でこぼこフレンズのオーガーラのように戸を開けて覗き込むこともあるだろう。
 そういえば、堤康次郎は近江の人だったなと思い出して、ぐぐるとそのようだ。「堤康次郎の略歴-<日本成功研究所>」(参照)というサイトに略歴があった。29歳のときに、「長野県沓掛の開発に着手」とある。そういうことかという感じだ。ところで、このサイト、「偉大な起業家に学ぶ事業創造の理論と哲学」というのが理念らしい。確かに、堤康次郎は偉大な起業家と言っていいのだけど、「学ぶ」のはやめといたほうがいいと思うよ。

追記
猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に言及するのを忘れた。が、ま、良く読まれた本なので、追記程度でいいだろう。

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2004.03.01

またまた米国債買いのお話

 また日本の為替円介入・米国債買い入れ関連の話だ。ったくシロートがなーに言ってんだよである。が、気になるのは、わかんねーではあるから。だから書く。ちょっと前振りに言うと、例えば、モルガン・スタンレー「日本:大量介入でどんな不都合が起きるか?」(参照)と言った記事がある。これ読んでわかりますか? 私はよくわからない。もちろん、話の筋くらいはわかる。納得しますか?って訊いたほうがいいかもしれない。概要はこうだ。


ドルペッグ政策は当局の介入負担を著しく高めるだけでなく、円建資産価格のプライシングに対する市場の期待を不安定化させる、ないしはプライシングそのものを判らなくしてしまうリスクがある。

 概要だけではわからないし、この記事も現状の円介入自体は別に問題もなかろうが、問題の可能性でもちょっと頭の体操でもしてミソ、っていうネタかもしれない。ま、読んでミソってなものである。
 一つ示唆を受けるのは、極東ブログでも関心のフォーカスになりつつある非製造部門の問題だ。

円高を特定水準でブロックしようとする政府の介入スタンスは、GDPの約2割を占めるに過ぎない製造業のマージン維持に真に役立っているのかどうか疑問である上に、残り約8割を占める非製造業のマージン改善を阻害している可能性がある。介入政策で一部輸出産業を保護しようとする試みは、結果的に所得配分に歪みをもたらす非効率な産業政策の恐れがあるということだ。

 それはあるかもなという気がする。気がするっていうくらいのものだが。と、私が思うのは、日本っていうのはサービス産業の政策がなんか抜本的に間違っているのではないかという「気がする」からだ。もちろん、よくわかんねーので、現状はそのくらいしか言えない。
 で、そういう頭の体操はそれほど問題でもない。っていうか、問題解決志向的にはなにも問題ではないかもしれない。私が気になるのは、一体、なにが起きているのか、という事実の了解についてだ。率直に言って、世界の金融で何が起きているのか? なんでこんな膨大な円介入と米国債購入が行われているのか。これについては、それってリフレなんだなぁ、ガッテン、という話は極東ブログ「日本は米国に貢いでいるのか?」(参照)で触れたので繰り返さない。が、この記事のケツで、もしかして、中国の銀行の不良債権処理?と「と」みたいのを付け足しておいた。そのあたり、その後、考えてみるのだが、よくわからん。誰もなんも明確に述べてないような気がする。ただの「と」かな。
 と、かく思いつつ、先日のラジオ深夜便で聞いた国際金融アナリスト大井幸子の小話がどうも気になった。この問題を別の角度から取り上げていた。別の角度というのは、Richard Duncan, "The Dollar Crisis: Causes, Consequences, Cures"に触れて、この状況を簡単に説明していたのだ。この本は昨年夏ごろ出て米国ではそれなり話題だったようだが、日本ではリファーされていないようだ。スカ本か? ついでに、ところでなのだが、この本のアマゾンのレビューだが、なんかパクリ臭いのだが、こんなのありか?
 大井の説明だと、米国債をがばがば購入しているのは日本と中国。それはそうだ。で、日本の場合、2003年に27兆ドルの米国債を買っている。これは米国の赤字5200億ドルの半分に相当する。2004年1月分でも米国赤字の13%だという。ま、そんなところだろう。そこまではそうだろうなというだけの話。そして、中国は米国に対して1250億ドルの黒字。これもわかる。で、この先、72へぇ~なのが、それを使って対日貿易の赤字分を埋めているというのだ。そ、そうなのか? かくして、大井は、日米中三者のもたれ合い、というようなことを言うのだ。なんだそれ?
 という話がRichard Duncan""The Dollar Crisis"に説明されているか、だったら読んでみるかと思いもするのだが、どうもよくわからん。というのは、公開されている次のものを読んではみた。

Asia, its reserves and the coming dollar crisis
By Richard Duncan 21 May 2003(参照

INTERVIEW WITH RICHARD DUNCAN ON
THE DOLLAR CRISIS: CAUSES CONSEQUENCES CURES(参照


 で、これを読むかぎり、現状の日本の急変化としての円介入や中国との三竦みの話がメインではなさそうだ。というか、米国の巨大な貿易赤字がアジア各国の過剰流動性を引き起こして、バブルを発生させ、それがポシャってその国の財政が危機に陥るという古い話みたいだ。そして、そのクラシスたるや、先のアマゾンのパクリかなの評にあるように、アジアが米国債を売ることなるだろうというらしい。ぶっと吹いてしまうじゃないか。
 というわけで、これも、わかんねーなである。
 もっとも、日中が米国債なんか売り払うことなんかねーよとは思うものの、じゃ、保有してどうよ?というのもよくわからない。これから円安局面になって、財務省は、わっはっはとか言うのか。あるいは、デフレ後の日本の経常赤字を先読みして、外貨準備を貯め込んでいる? 読み過ぎ?
 とま、おちゃらけでごめん。シュールな規模のお金が流れているのに、真面目な話になれなんだよな、これが。

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ケンウッド(トリオ)で思い出す秋葉原

 社説からの話題は特にない。が、しょーもない事に心が引っかかったので、それで今日のブログはお茶を濁すことにする。ごめんな、また昔話だ。きっかけはフジテレビではなく、日経新聞社説「プロの経営者が流動化する時代が来た」だ。この社説もさして面白くもないが、ケンウッドという言葉が妙に気になった。


 ケンウッドの経営を立て直した河原春郎社長は東芝時代に米国で合弁事業を経営した経験がある。上席常務として東芝の事業構造改革を担った後、リップルウッド・ホールディングス日本法人のシニア・アドバイザーを経て、一昨年ケンウッドに招かれた。

 MP3が流行る前、私はケンウッドの6連奏のCDプレーヤーを買った。私は基本的にソニーな人なのだが、それでもケンウッドのオーディオを買うのがちょっと嬉しかった記憶がある。が、ケンウッドは経営が低迷しているとも聞いた。そのあたりは詳しくは知らない。
 私はオーディオマニアではないがケンウッドに親近感を覚える。理由は、単純で、ケンウッドは春日無線、つまりトリオだからだ。私が人生において親に買ってもらって一番嬉しかったのはトリオのJR-310(SSBで50MHzまでカバーした)だった。小学6年生のときだ。これは送信機TX-310と連動するはずで、局申請書も書き終えたまま、その頃、たまたま父が研修していたコンピューター技術のほうに、私もずるっと関心が移ってしまった。おかげで中学時代はコンピューター技術に夢中になったが、局も作れずに父にすまないような思いが今でもする。ちなみに、コンピューターはまだミニコンも出ていない時代だった。ミニコンでもあれば、ビル・ゲイツのような人生があっただろうか。ないな。
 中学時代だったが、ひょんなことで、学校のクラブでプラスチック製の米国のコンピューター教材を手に入れた。これがけっこう面白かった。がちゃがちゃとプラスチックを動かしていると、簡単な論理演算ができるのだ。コンピューター技術というのはエレクトロニクスとは原理的に関係のない技術だというのがよくわかった。後に、時たま、「4ビットくらいのCPUなら、公園にピラミッドを造って、上から石の玉を落とすことでもできるのだよ」と人に説明しても、理解してもらえなかった。実際にカイロで本物のピラミッドを見たときも上から玉を転がしてみたい気がした。
 トリオの由来は、とネットを探ると、いい記事「パピーの昔噺:TRIOブランド時代の送・受信機の変遷」(参照)がある。

日本も戦時中、乏しい資源の中から、浅虫海岸の砂鉄鉱床資源から報国製鉄が精錬したフェライトなどを北大研究室に持ち込んで平社(JA8BNの御尊父)・北川(曉)(後の日立中央研究所長)両教授のもとで、実用化研究されていたようでした。戦後これをいち早く工業化して実用品に活用する道を開いたのが、後のJA1KJ春日二郎氏他2名計3名の技術者、詰まり「トリオ」だったのでした。ブランドがトリオ、社名は春日無線工業でした。

 プロジェクトXかなんかで復古話になっているだろうか。
 話は逸れる。私は物心ついたときから秋葉原にいた。父と中央線に乗って、オリンピックで変わっていく東京の光景を見ていた。私の記憶間違いかもしれないが、秋葉原の総武線のあんパンとミルク(牛乳)のスタンドは、あのころからあるような気がするがどうだろう。
 秋葉原に着くと、ジャンク屋というか、汗くさいパーツ売りのあの長屋にしけ込む。コンデンサーだと抵抗だの買う。途中から抵抗がカラー識別になったなとか思い出す。最近、秋葉原に行ってみたがあそこだけは変わらないね。変わって欲しくもないなと思う。
 それとは別によくヤマギワにも行った。なぜかしらないが、父はヤマギワ電機がご贔屓だったようだ。なぜだろう。そういえば、今頃ふと思い出すのが、なぜ父は秋葉原が好きだったのだろう。そりゃ電気屋だから当たり前なのだが、案外職場が近いせいもあったのかもしれない。先日ヤマギワに火事があって、なにか心痛むものを感じた。
 秋葉原の思い出は、無線時代、マイコン時代、パソコン時代と続くがそこまでは書かない。それぞれの時代になにかを残してくれた。秋葉原という町は、なにか、自分の、戦後日本のコアのイメージになっている。

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2004.02.29

aとtheの話

 英語の冠詞(article)、aとtheについて書く。といっても、あまり正当な説明ではない。雑談だ。その程度の話として受け取ってほしい。
 で、のっけから余談。私は一応高校英語の教師の資格を持っている。が、専門学校で初等数学の講師はしたことはあっても、バイトの家庭教師を除けば、英語なんか教えたことはない。英語はからっきし苦手。だがイェスペルセン(Otto Jespersen)の文法はよく勉強したほうだろう。高校で学んだ英文法がどうも嘘なんじゃないかと思っていたからだ。イェスペルセンの文法はその点、なかなか独創的なしろもので、いろいろ腑に落ちた。初期生成文法のネタもイェスペルセン文法の焼き直しのようだった。
 テーマのaとtheの使い分けだが、これは、OOP(Object Oriented Programming)で言うと、aがクラス(class)でtheがインスタンス(instance)だ。Flashだと、aがシンボル(symbol)。説明になってない? ちょっと違う面もある。が、とりあえず冠詞なしのdogがクラスに近い。
 このdogクラスからできたa dogや複数形のdogsがインスタンスともいえるのだが、インスタンスはID(identification)管理するから、できるのはa dogとかじゃなくて、「ハチ公」とか「ポチ」とかだ。名前が付いている。こいつらがthe dogである。theが付くのがインスタンスだ。
 HTMLだと、クラスからの継承(inheritance)という関係ではないのだが、aはclass指定、theはid指定に近い感じ。また、余談だが、HTML要素の属性であるclassやidはCSS(Cascading Style Sheet)のためにあるのではなく、あくまでHTMLの論理構造指定の補足のため。よく「論理構造はHTMLで指定し、見栄えはCSSで指定せよ」と言われる。が、CSSのためにclass指定やid指定するのは本来なら邪道じゃないか? でも、そういう指摘はあまり見かけない。もっとも論理構造とか言うならHTMLではなく最初からXMLとCSSを使えばいい。が、歴史的な背景からHTMLやHTMLからできたXHTMLを使っている。理想なんかより、歴史的な理由があるのというのが現実というものだ。
 話を戻す。aとtheの違いは、aはクラス的なものを示すのに対して、theはIDに対応している。っていうことは、「theが付く名詞には固有名が付くのだけど、それがわかんないから、仮にtheを付けておくよ~ん」という含みがある。

cover
Essentials of
English Grammar
 I met the man.というとき、the manには「ゴルゴ13」とかいう名前があるのだが、私はその名前を聞いてなかったということだ。the dogには「ハチ公」とか「ポチ」とかいう名前がある。スターウォーズで、the forceというものも「理力」というよりか、なにか古代には名前がある力だったのだろう。オリハルコンとか。いや、これは金属名だから、the metalだな。Alexandar the Greatは、「偉大なるものその名はアレキザンダー」という含みなのだろう。Winny the Poohはよくわからないが。
 以上でaとtheの説明終わり。で、いいのかぁ? 雑談だからね。でも、前振りのイェスペルセンはなんと言っているか(Essentials)。

The chief use of the article is to indicate the person or thing that at the moment is uppermost in the mind of the speaker and presumably in that of the hearer too. Thus it recalls what has just been mentioned.

 と、既知情報の有無という点で、フィルモア(Charles Fillmore)みたいなことを先に言っていたわけだ。が、イェスペルセンの場合は、もっとコミュニケーション・モデルだ。つまり、二者間で共有される情報としてリファーされる対象がtheというわけだ。文章語だと、「読者もご存じ(as you know)」という感じか。もっと単純にこうも言っている。

The may be considered a weakened that.

 このあたりは、イェスペルセンお得意の歴史考察があるかな。単純というより、ちょっと曖昧な言い方でもある。ソーシュール以前の言語学の雰囲気がある。つまり、説明に経時の概念が混在してしまっているのだ。ソーシュール言語学の偉大さはこんなところにもある。
 イェスペルセンという人はけっこう面白い人で、母語はデンマーク語だ。エスペラントみたいな人造言語も作っている。デンマーク語はおそらく英語の祖語に近いせいもあり、その分、いろいろなインサイト(直感)も働くのだろう。この感じは沖縄語と大和古語の関係に近いかもしれない。そんな感じを伺わせる記述もある。

The article is used more sparingly in English than in may other languages; it is used chiefly when the word without it would not be easily understood as sufficiently specialized. There is therefore a strong tendency to do without. Example are father, mother, baby uncle, nurse, cook and other names of persons in familiar intercourse; further, names of meals:

  Breakfast is at eight.
  He came immediately after lunch.
  I am afraid we shall be late for dinner.

 But the article is necessary in speaking of the quality of a specified meal;

  The dinner last Sunday was very frugal one.


 改めて読み返して、ほぉとか思ってしまった。他の西洋の言語に比べて定冠詞が省略されやすいのかぁ、である。ネイティブと話していて、aとtheの使い分けに、どうも変なイレギュラーな感じがするのもそのあたりの、省略の感じなのかもしれない。研究社の辞書などには単純なものだ。

U[修飾語を伴い種類をいう時にはC]

 とあるのだが、イェスペルセンの説明のほうが面白い。そういえば、「クラウン英和」を作った河村重治郎先生は、CountableだのUncountableというのを嫌っていたなと思い出す。立派な先生でした。ああいう人は現代にはいないだろうな。
 ってな話をしていると不用意にだらだらするのだが、たらっとイェスペルセンの説明を読み直していて、も一つ、ほぉだったのは、New Yorkにtheは付かないが、Dover Roadにはthe Dover Roadとtheが付くのは、固有名というよりDover行きの道という意味合いが強いのだろうとの説明だ。なるほどねである。Dover Roadはクラスでthe Dover Roadはインスタンスなのだろうな。英語ってのは、冠詞の面で、ちょっと変な言語でもあるな。

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造悪論ノート

 造悪論について書く。吉本隆明が死ぬ前に、「しまった」など悔恨する前に、私は彼が残す課題をやはりこなしておこうと思う。率直に言ってボケ始めた吉本隆明には以前のような怖さはない。それを幸いに、90年代を超えた吉本シンパたちも、否定であれ、また回顧としての肯定であれ、みな吉本を過去に押しやろうとしている。私は吉本主義に従順たれとはまるで思わない。そんなものは吉本の生涯とともに終わるのがいい。だが、吉本が戦後なしえたものを過大評価する者も過小評価するものも、吉本が歴史に刻み、また歴史に残したものの、その客観性を見失い始めていると思う。その最たるものは造悪論だろう。麻原裁判に寄せて朝日新聞に寄稿した芹沢俊介の見解もずっとひ弱なヒューマニズム的な地点に後退してしまった。
 吉本が最後に残したのは造悪論だと言っていいと思う。そして、この造悪論を持って、戦後の吉本シンパを吉本自身がほとんど駆逐してしまった。吉本主義者たちの大半は、思想的に吉本によって殺戮されたに等しい状態になった。まさに、恐ろしい思想家だと思う。そして、その恐ろしさとは、実はボケたように書かれている親鸞のまさに最後の姿と同じだったのかもしれない。親鸞はもっと緩和に述べた。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 しかし、この信仰の極北で親鸞は、彼に従う人々を、ある意味でみな捨てたのではないか。「面々の御はからひなり」の言葉は恐るべき言葉なのではないか。念仏によって救いを得ようとしている者すら、ここで親鸞は捨てたのだ。なぜ、そう言いえるか。念仏とは「面々の御はからひなり」であってはならないからだ。
 こう言うことに私も畏れを覚えなくていけないのだろうが、先の親鸞の言葉は、「念仏を信じるも信じないのも各人の勝手だ」というのではないのだ。それはなんという誤解だろう。親鸞は、露悪的に言うなら、「信じると言うものなども自力の業ではないか、そんな信など私には関係のないことだ」ということだ。
 他力とは、「面々の御はからひなり」を越えたところに現れるのであって、信じるか否かを問うような安穏としたものではない。
 そして、まさに、そのような、自力の信ではない他力の極限の信のありかたが、造悪論と同型なのではないか。
 造悪論については、読者を選ばないブログで不要な誤解を招いてもしかたがないので詳しい解説はしない。また、歴史的に見るなら造悪論は親鸞の思想ではなく法然の思想であると言ってもいい。しかし、その意味を徹底的に明かにしたのは親鸞だ。
 親鸞は、造悪論の骨頂を理解しえない者には、「薬あればとて、毒をこのむべからず」とは説いただろう。そして歎異抄を読む限り唯円も親鸞の意図を理解しえなかったように思われる。

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひし…

 この問題は北魏の仏教史などに史実の反映も見られるようだが、それよりもこの問いかけこそ親鸞の生涯の命題でもあっただろう。これを禅の公案のごときに矮小して見ては間違えると思う(あるいは禅の公案すら矮小化していはならない。南禅は無辜の猫を殺したのである)。ここに造悪論が純化される。
 親鸞は「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」とする。宿善も悪業も真に受ける必要はない。重要なのは、私の考えは間違っているのかも知れないが、造悪は他力の業だ、ということだ。
 信仰を自力に寄せることを親鸞はナンセンスとした。そんなもの各々の勝手でよかろう、と。すると、信も増悪も、意思を越えた他力、つまり、その必然に現れるものとなる。
 吉本は、この他力=必然を、不可避というふうにその思想のなかで深化させた。思想は、それ自体の意志性としての選択性を無化するような不可避の位置にあるときにしか、本当の意味を持たないとした。これは、親鸞の信とまったく同じ構造である。
 そして、この不可避性として出現する増悪を、親鸞も吉本も肯定してみせた。繰り返すが、造悪という言葉のもつ意志性の響きが、親鸞や吉本の理解を間違わせているのではないか。
 不可避として現れる悪を肯定するという関わりのなかでしか、信も思想もない。いや、ここで、信と思想は、自己の選択性としては提示されていない。つまり、そういう思想が、自己から離れて選択的に取捨しうるといったものではない。
 八つ裂きにして百編殺しても憎み足りないような悪人どもを阿弥陀は善人より先に救う。なぜか。親鸞は、救済とはそういうものだとした。吉本もそこに添っていった。
 私は、正直なところ、そのような救済の意義が得心できるわけでもない。だが、造悪論の基本デッサンから伝わる意義については、なお思想の課題としてあると思う。

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育児休業法もだがサービス産業主体の行政が必要

 日経新聞社説「実効ある育児休業法を」が興味深かった。ある意味難しいのだが、よく書けていたと思う。テーマは標題どおり育児休業法の改正案についてだ。例題の取り上げたかたがうまい。


 現行法は子供が1歳に達するまでしか育児休業を認めていない。だが保育所の多くは年度替わりの4月入所となっており、早生まれの子供などは親の休業期間が終わった後の翌春まで入所を見送られがちだ。改正案が、こうした特別な事情がある場合に限り最長1歳半までの休業延長を認めたのは、妥当といえる。

 保育所の現状を知る人間は社会的には少ないのかもしれないが、日経が指摘するこの保育所問題は、経営努力を進める企業の視点から見ると、けっこう呆れた印象を与えるものだ。現在、文科省管轄の幼稚園は少子化の影響と、それの派生であるシックスポケット(一人の子供のパトロンが六人もいる状態)効果から、保育所とは異なる奇妙な洗練に向かっている。がそれでも、幼稚園には変化はある。厚労省管轄の保育所については、ただひどいな、という印象を持つだけだ。
 日経は現行の保育所のシステムを前提としたうえで、育児休業法側の問題で見ているが、社会と育児の関係でいえば、まず、保育所のシステムを改革し、それに補う形での育児休業法が必要になるだろう。もちろん、正論を言うは易く、実際は難しいというのもわからないではない。
 今回の育児休業法の改定で重要なのは、パート労働者の問題だろう。日経はこう切り出している。

 画期的なのは、期間を限って働くパートタイマーや契約社員への適用拡大だが、これについては疑問も残る。過去1年以上雇用されていて、子供が1歳になっても雇用継続が見込まれること、ただし2歳時点で雇用関係の終了が明らかな場合は除外という厳しい条件がつくからだ。

 当然ながら、この条件自体、生活人の実感すると、ほぼナンセンスだ。日経もこの先の文脈で指摘しているが、事業主は雇用の期間を短縮するだけだろう。ではどうしたらいいかというと、私もまるで解決策が見つからない。この問題の背景は、またしても年金問題、つまり第三号被保険者の問題である。企業側で第三号被保険者の対応ができなくなり、増える女性のパート労働者に国としても対応したいということだ。
 日経の批判というわけではないが、次の結語には違和感が残る。

 すでに女性雇用者に占める非正社員の割合は過半数に達し、有期契約者も500万人程度と目される。企業にとって代替要員確保などの人件費増は頭痛の種だが、公正な処遇が労働意欲の向上や良質の人材確保につながれば、長期的には企業にも有益なはずだ。現在、女性の育児休業取得率(64.0%)に比べて男性のそれ(0.33%)は極端に低く、政府の目標値10%にも遠く及ばない。法案は触れていないが、男性の取得促進策も今後の課題だろう。

 違和感というのは、男女という言葉からはあたかも対等のようだし、また頭数という点でもそれほど男女差の問題は大きくはないのだろうが、女性雇用者の多くがパート労働者であることから考えても、日本の産業全体に占める彼女ら貢献の比率は、おそらくかなり低い。日経のこの結語では、そうした点で、女性の労働力をある意味捨象している印象を受ける。そこを見逃して、理想のようなものを述べてみても、違うのではないか。
 日本の産業は今後さらにサービス産業に向かわざるを得ない。だから、女性の活躍の場は広がるようにしなくてはならない。また、基本的にそうした女性の雇用の場は、形態としてはパート労働者に近いものであっても、現状のスーパーのレジといったパート労働者のイメージを変えていかなくてはならないだろう。
 端的に言えば、女性が常勤でなくても十分にサービス産業から所得が得られるような社会に変革していけば、常勤でないメリットが育児を含めた個人の生活に活かせるようになる。もっとも、育児を女性に任せろという暴論ではないが、育児される子供の側は「母親」をどうしても必要とする機会は多いというのが育児なのだ。男性の休業が取りやすいというのも解決の一端だろうが、よく見かける育児パパといった面白い話題ではシステム的な対応にはならない。
 とすれば、問題の基底には、いわゆる男社会とされている産業の構造を、製造業(輸出産業)主体からサービス産業主体に変えていく必要性があるはずだ。が、それを志向せできないことこそ、日本の行政のシステム欠陥なのだ。

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