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2004.12.11

サマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙

 先日書いた経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)の読解力テストについてのエントリ「日本学生の読解力低下が問題ではなく文化差異が問題だ」(参照)で、2000年に出題された問題を例示した。あのエントリを書いた後で、奇妙に心にひっかることがあった。なにかなと思ったが、しばらくしてサマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙のことだと思い至った。
 先のテストでは、インターネットから寄せられたという想定で二人の少女の手紙が掲載されていた。15歳の義務教育終了のアチーブメント・テストということから考えて、その同年の少女の手紙という想定だろう。私が大学生のころ非日本人と時を過ごすことが多かったのでそのときの経験から類推するのだが、欧米人の子供はこのくらいの年代でもあのようにポリティカルな意見を堂々と書く。
 不思議なくらいなのだが、欧米人の場合、小学生ですらポリティカルな自己主張をする。そのよい例というわけでもないのだが、興味深い例として、1983年当時10歳だったサマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙がある。彼女は、当時ソ連(ロシア)の最高権力者だったアンドロポフ書記長に手紙を書いた。アンドロポフは当時、82年11月10日のブレジネフ書記長の急死に伴い、急遽書記長に就任したところだった。サマンサ・スミスちゃんの手紙にお祝いの言葉があるのはこうした背景からだ。


Dear Mr. Andropov,
My name is Samantha Smith. I am ten years old. Congratulations on your new job. I have been worrying about Russia and the United States getting into a nuclear war. Are you going to vote to have a war or not? If you aren't please tell me how you are going to help to not have a war. This question you do not have to answer, but I would like to know why you want to conquer the world or at least our country. God made the world for us to live together in peace and not to fight.
Sincerely,
Samantha Smith
【試訳】
アンドポフ様
わたしの名前はサマンサ・スミスです。わたしは10歳です。新しいお仕事につかれたとのこと、おめでとうございます。わたしはロシアとアメリカ合衆国が核戦争になるのではないかと心配してきました。あなたは戦争に賛成する気ですか、そうではないのですか。もしそうではないなら、戦争をしないために、あなたになにができるかを教えてください。この質問はあなたが答えなければいけないものではありません。でも、なぜあなたがこの世界や少なくともわたしたちの国を支配したいと望むのかについて、わたしは知りたいと思います。神様はこの世界を人々が平和に暮らすようにおつくりになったのであって、戦い合あうためにおつくりなったのではないのです。
こころから
サマンサ・スミス

 さすがに10歳の子供の英語は訳すまでもないのだが、洒落で試訳してみた。訳の出来は別としても、この原文のきついトーンはなんだろうと思う。"This question you do not have to answer"など、黙秘の権利はあります、みたいな印象を受ける。
 というか、このトーンと同じものをOECDのテストのヘルガとソフィアの手紙から感じないだろうか。文化差異というのはこうした感性の問題でもあるので、そんなことはないと言われるなら別の方法で私は書くべきかもしれないのだが、そんな必要あるかな?
 サマンサ・スミスちゃんの手紙はアンドロポフ書記長から返信があった。そしてそれはソ連の新聞であるプラウダに掲載された。その原文を読みたいかたは、WikipediaのSamantha Smithの項目を参照してほしい(参照)。なかなか誠意のある返信である。
 その後、サマンサ・スミスちゃんは、アンドロポフ書記長によってソ連に招かれ、一躍時の人となった。米国では、冷戦時代の子供の平和活動家というふうに扱われるようになり、マスコミでも活躍するようになった。が、そうしたメディアでの活動の際、飛行機事故で亡くなった。1985年13歳のことだった。
 繰り返すが、10歳の少女が政治的な手紙を堂々と書いて送りつけるというのは、アメリカではそれほど不思議なことではない。チャーリー・ブラウンの登場人物ライナスはカボチャ大王に手紙を書くほどだ。だが、それにしても、アンドロポフ書記長に届くというのはできすぎた話である。やらせとまではいかないにせよ、不自然なことだなとは思っていた。本当にあった話とはいえ、あまり親近感を覚える話ではなかった。
 ところが、私事だが奇妙なことがあった。私は数年前、サマンサ・スミスちゃんの同級生の女性とコミュニケーションを取る機会があった。というか、彼女との話の途中でそのことを知った。偶然とはいえ、そんなことがあるのもなのかと不思議に思った。当然、サマンサ・スミスちゃんがどういう少女だったのか訊いてみた。答えは、普通の女の子でしたよ、というくらいものだったが…。
 現代はインターネットの時代である。サマンサ・スミスちゃんの古い物語はどうなっているのだろう、とネットで調べてみて、少し驚いた。いや、先に示したWikipediaの項目の参照にもあるのだが、まず彼女を記念し、その名前をとった小学校"Samantha Smith Elementary School"が存在している(参照)。また、すでに彼女は歴史上の人物として学ぶべき学習教材にもなっているようだ(参照)。
 つまり、サマンサ・スミスちゃんはヘルガやソフィアのような少女を製造するひな型でもあるわけだ。そして、こうした精神を形作ることが、彼らの教育というものなのだ。
 私は溜息をつく。つくよなぁ?

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

日本は教壇も演説しているだけ。もし教育があったとしたら、職人たちの徒弟制度。今でも残っているとしたら宝塚と相撲かなぁ…

苦痛をあたえて服従させるようなのは教育ではない。今は肉体的なものはなくなったけど、精神的に支配しようとしているだけ。

子供の頃から他者に関心を持とうとさせる教育はいいと思う。日本以外で文化的に高い国は、「あなたは私についてどう思っていますか。また、あなたがどう思っているか私は関心がある。」というのは、本の中だけでも山のように表現されているし、数少ない異国の人との接点でも感じた。

投稿: 野猫 | 2004.12.11 08:26

他者に関心をもち、その思う所を知りたいと欲するのは人間の基本的な欲求であって、それをことさら口に出したからといって、文化的に高度な行いをしているわけではないと思います。

投稿: katsuo | 2004.12.11 10:23

おそらく自分が好きなもの=文化的に高度な行いと決め付けているのでは?
「他者に関心を持とうとさせる教育はいいと思う」と言いつつ、
自分と異なる価値観に基づく文化や教育を理解しようとせず見下しているところに、
私は溜息をつく。(笑)

投稿: 横槍スマソ | 2004.12.11 10:40

ポリティカルな主張の応酬は往々にしてマジな戦いを招く訳でして、それによって欧米の悪夢的訴訟社会は実現した訳です。

日本がわざわざ「他人とむやみやたらに
戦いましょう!!論敵を倒せ!!」
なんて煽りたてる教育を
する必要を私としてはまったく感じませんね…。

私はラ・ロシュフコー的哲学(詭弁の理学)
よりも、葉隠的哲学(行動の哲学)の方が
ずっと人間(教育)として良いものだと思うなあ…。

「人事を云ふは、大なる失なり。
誉むるも似合わぬ事なり。
兎角我が身をよく知り、我が修行に精出し、
口は慎みたるがよし」
(葉隠)

投稿: kagami | 2004.12.11 11:59

>欧米の悪夢的訴訟社会

って一口に括れるものですかね。あれはすぐれてアメリカ的な現象だと思うんですが。

基本的に私は特殊日本主義的発想は嫌いなのですが、ロジカルな物言い(少なくてもそれを試みているもの)を「屁理屈」「詭弁」と受け取ってしまうのは日本の社会通念上一般的なことなのでしょうか。

投稿: だい | 2004.12.11 12:50

その文化差異ってのを教えるっていうか教育させれば、って話であって日本人にそういう文化を擦り付けれ!って訳じゃないんでしょ。
こういう感性もあるんだよ、世界には。で、それが必要だから教えます。問題ドゾーって事じゃないの?違うか?

投稿: kurogane | 2004.12.11 13:27

日本の文化が言葉による戦いを認めないからといって、
異文化と比べて慎み深い行動規範を持っているとは言えないでしょう。

日本人は、自分が下位であると認識している場合や
リスクが存在する場合は借りてきた猫のように振舞いますが、
自分が上位だと思った瞬間に居丈高に振舞う人が多いですよ。

外国で店員にサービスが悪いと文句を言ったら言い訳された、と憤慨する人をよく見ますよね?
日本人は、客は店員より偉いと信じて疑わないわけで、
客にも店員にも言葉で戦う権利を認めた文化の中では
その行動規範が摩擦を起こすこともあるわけです。
このような文化の違いは良い悪いで片付けられるものではないので、
一面的に捕らえて自己の肯定に結び付けても虚しいですよ。

このエントリに象徴されるような異文化の存在を教えることで
自らの文化への理解が深まる面もありますし、
義務教育では日本文化的でない物言いに対する免疫が
全く備わらない現状は、改善すべき余地があると思います。

投稿: Lou | 2004.12.11 15:07

>日本人は、自分が下位であると認識している場合や
>リスクが存在する場合は借りてきた猫のように振舞いますが、
>自分が上位だと思った瞬間に居丈高に振舞う人が多いですよ。

これは、本当に頭が痛い。とくに、お酒が入ると露骨だし。で、当の本人はぜんぜん気がついていない。信用しろといっても信用できなくなるもの。そういう態度をとる人には。

投稿: 野猫 | 2004.12.11 18:36

う~ん…。ポリティクスな主張は往々にして
勝つ為のマキャベリズム的言説に陥りやすいので、
ロジカルな能力を育成することは賛成ですが、
それを一足飛びに論争に結びつけるのではなく、
礼節の徳や和を大切にする心というものを重視
する、教育勅語的な理念の再建、魂の育成としての
教育理想の見なおしは急務だと思いますよ。
文科省もそちらの方向で進んでいますよね。

後、海外の行動規範は日本よりもずっと
酷いですよ…。よく小林よしのりさんあたりが
挙げていますが、漫画なので引用できない…(^^;
小林さんと同じことを云っている人物として、
以下は中島義道さんの著書
「哲学の教科書」より引用です。

「私は、ある意味、我が国以上に悲惨な状態に陥っている
欧米諸国の現実を知っているつもりです。
ドイツやアメリカでは際限のない自己主張に基く訴訟の山が、
社会の人間関係を阻害しているところにまで達している。
誰も彼もが相手を幸福にするより相手に勝とうとする。
たとえ相手に一分の理があることが分かっていても、
「勝つ」為にそれを握りつぶす。
そして、自分の落ち度は分かっていても、
「勝つ」為にそれを隠し通す。

そして、いたるところで人々は対立し闘争を繰り返し、
物を盗まれることは日常茶飯事、
いついかなる仕方で他人に欺かれるか常に緊張を強いられ、
とくにアメリカに到っては麻薬は蔓延し、
銃でいつ撃たれるかすらわからない状況です」
(中島義道著 哲学の教科書)

投稿: kagami | 2004.12.11 20:38

私は。
むしろ幸田さんの時の事件を思い浮かべましたが、ちょいと視界の狭い正義感。
若さに共通のものでもあるのではないですか?

あれが日本。
そして年齢の下がったこれが欧米。
こっちのが同系統であるのならレベル高いし、まだ視界も広い、で年齢も低い。
ただ、ここで止まってしまうのかな……。
まあ、教育で作り出すべきとは確かに思えませんね。

投稿: 紅玉石 | 2004.12.11 21:17

あ、殺害画像を見ろ、と言ってた方らのことです。
幸田さんじゃあないです……orz
毎度言葉が足りないなぁ。

投稿: 紅玉石 | 2004.12.11 21:18

少なくとも、今世紀に入ってからの日本では、葉隠的な考え方よりサマンサ的な思考方法の持ち主の方が必要な時代に入ったと私は思います。
ただ、日本では同時にTPOをわきまえると同時に、ときには挑発的に相手に自分のポリシーをぶつけるという高度に「ポリティカル」な行動認識が必要な二重社会に現在はなっていますがね。

>人事を云ふは、大なる失なり。
誉むるも似合わぬ事なり。
兎角我が身をよく知り、我が修行に精出し、
口は慎みたるがよし

これは身分システムが固定化されている江戸時代初期の処世訓だと私は思います。少なくとも江戸時代では功ありても出世するのは家老の前の政務官まで、無くても大過なければお家は安泰である時代が前提条件であり、現代ではなりたたない論だと思いますが。


投稿: F.Nakajima | 2004.12.11 21:47

>中島義道著 哲学の教科書

ははは、ではここでポリティカルに一発やってみますか。
彼が嘆いているにもかかわらず、欧米社会はちゃんと「社会」として機能していますし、未だシステムの崩壊も起きていません。却って日本社会の方が現在急速に変化(もしくは悪化)し、日本にに住む人の方が心理的閉塞感が大きいというのはなぜなんでしょうか?

投稿: F.Nakajima | 2004.12.11 21:56

みなさんは、リンク先の問題文を読んで本当に文化の差だと思うのでしょうか?僕には今回のテストにおいては読解力がトップクラスから並になったということだと思います。統計的に。

>欧米の悪夢的訴訟社会

訴訟するかどうかと、読解力を持つことは別次元だと思う。

投稿: eda | 2004.12.11 22:32

>却って日本社会の方が現在急速に変化
>(もしくは悪化)し、日本にに住む人の方が
>心理的閉塞感が大きいというのは
>なぜなんでしょうか?

この事態こそが、小林や西部などの保守派が
主張する「欧米の個人主義による極端な
エゴイズムの流入・蔓延による日本独自の徳の崩壊」
であり、だからこそ、彼等は個人主義の行き過ぎ
に歯止めを掛けるべきと主張しているのですが…

私は、彼等の言葉にも一理あると思いますね…。
私も電車のなかで化粧したり座りこんでいるような
若者を見ると、激しく憤りを感じますから。

投稿: kagami | 2004.12.11 23:11

追記:
上記の「日本独自の徳」というのは、
個人主義の欲望よりも公共心を大切にする
精神のことです。

投稿: kagami | 2004.12.11 23:12

>欧米の個人主義による極端なエゴイズムの流入・蔓延による日本独自の徳の崩壊
「日本以外の国にはモラルがなく、それももうすぐ同質化して誇り高きわが国民の公共心も他所の国と同じになってしまう」としか読めない。。。

>日本人は、自分が下位であると認識している場合や
>個人主義の欲望よりも公共心を大切にする精神のことです。
小林よしのりの雑誌は公徳心より「自分はカリスマだ」という自意識的欲望しか私には読み取れないのですが。


投稿: F.Nakajima | 2004.12.12 00:02

>却って日本社会の方が現在急速に変化(もしくは悪化)し、日本にに住む人の方が心理的閉塞感が大きいというのはなぜなんでしょうか?

ヨーロッパでは極右が台頭したり、失業率が増えているし、
アメリカでは、貧富の差が広がり、テロの不安が増大しているし、とても閉塞感が日本より小さいとは思えないのですが、私の思い込みでしょうか?
どういう基準で閉塞感の大小を測っているのでしょうか?
日本人だから日本の閉塞感ばかりに目が行くのでは?

>私も電車のなかで化粧したり座りこんでいるような若者を見ると、激しく憤りを感じますから。

文芸春秋の「しょぼんとした祖国でいい」では、中島義道さんは今の若者には肯定的でしたね。

投稿: 横槍スマソ | 2004.12.12 00:05

>若者を見ると、激しく憤りを感じますから。
それで黙っている事も日本の美徳なんでしょうか?

finalventさんのため息が何に対してなのかも、すっきりしません。

投稿: eda | 2004.12.12 00:47

ため息はヘルガやソフィアのような自己主張の塊の
ような少女に日本の少女が
なってしまうかもしれないことに
ついてだと思いますが…。
私も、finalventさんと同じくため息です…。
若い女性の場合は、自己主張しない美徳と
いうのも、あると思いますし…。
恥じらいという美学が大和撫子にはありますから…
黙して語らぬ美しさ、ってやつですね…。
サマンサちゃんより、
ラスト・サムライのたか(小雪)たんの
方を見習って欲しいです…。

>「しょぼんとした祖国でいい
確かにそうでしたね~(^^;

投稿: kagami | 2004.12.12 01:03

 個人的な体験に根ざした印象論に過ぎないと前置きした上で、1点だけ。
 日本人なら自分の主張を論理的な表現でassertするより、場の空気を読んで慎み深い言動をすべしという考えには非常に強い違和感を覚えます。以前家族が交通事故に遭ったとき、加害者側は自らが年上の男性という優位な立場にあることを利用して強引の自分の言い分を通そうとしてきました。「一方は若造と女子供だけ、もう一方は年配の社会人男性。どちらの言い分が正しいかは明らかだろ?」と言わんばかりの姿勢でした。いわゆる「善良な日本人」であれば、どちらの主張が正しいのかを論理的に戦わせることよりは場の空気を読んで社会的に信用できる方の言い分を認めようとするのでしょうが、私にはそれが許せませんでした。こちらは全く落ち度のない被害者なのに、単に相手との相対的なポジションが劣位にあったというだけで何故こちらの正当な言い分を曲げねばならないのか?憤慨した私は相手の言葉を逐一論破していき自分の言い分が完全に正当であると加害者側に認めさせるまでひたすら責め立てました。
 TVで隣人や親族、悪徳業者等との(主に民法上の)トラブルに対して泣き寝入りする哀れな被害者の姿を見る度に、何で日本人という人種は自分の正当な立場を通すために言葉を尽くして戦おうとしないのかという歯痒い思いで一杯になります。自分が本来有する権利であっても口に出して主張しなくては他者から正当な権利として尊重されません。自己を論理的にassertしない限り、「場の空気」だの「社会的立場」だの非論理的な原理にその場を支配されてしまって損をするのは弱者の方なのです。こういう目に見えないソフトな権力に善良な人々が屈しないためにも日本社会として論理的な自己主張を認める方向に持っていくべきではないでしょうか。その結果日本が訴訟社会になったとしても、現在のように私人間の紛争が裁判の外で非合理に解決されている状態よりは幾分なりとも公正だと思います。

投稿: だい | 2004.12.12 01:17

ときどき、ため息ほどウザイものはありません。
電車の中でガキが化粧して、包容力で何も言わない事が美徳というなら分かりますが、何の被害も無いのに憤っていて、何も言わないのは日本の美徳とは思えません。ダイさんのように被害を受けて文句を言う事が、日本の美徳を逸脱しているとも思いません。江戸時代の武士が仕官先の大名に文句を言わないのは、大名から恩恵を受けても被害を受けていないからに他なりません。そんな武士も敵に憤れば、立ち向かうはずです。
>恥じらいという美学が大和撫子にはありますから…
>黙して語らぬ美しさ、ってやつですね…。
>サマンサちゃんより、
>ラスト・サムライのたか(小雪)たんの
>方を見習って欲しいです…。
キモ過ぎる。

だいたい美学など日本古来からあるとは思えない。あったとしても武士や貴族など一部のもので、百姓は一揆をしてきたと思う。

投稿: eda | 2004.12.12 02:04

少し話が飛躍しているような印象を受けます。PISA2003年調査の読解力の点数が14位で8位から転落したという話が発端なわけですよね。それがディベート能力の問題ではないか、と。日本より上位の13カ国を見る限り、特別に個人主義的気風の強い国というわけでもなければ、訴訟件数が高い社会とも言えないと思えます。上位を占めているのは、英連邦の国々、北欧諸国、中欧の小国、日本と類似した教育システムをとるアジアの新興国であって(フランス17位、アメリカ19位、ドイツ21位)、教育システムに相対的に恵まれている国々が上位を占めているというだけの話ではないでしょうか?なぜこんな混ぜっ返しをしたかと言えば、ステレオタイプな日欧比較論にはもううんざりだからです。欧米のイメージも日本のイメージも著しく歪んでいるように思えます。21世紀はこの種のコンプレックスから脱するところから始まるのではないですか?

投稿: ferendo et sperendo | 2004.12.12 02:43

最初のほうのコメントで
「アメリカは訴訟社会で云々」ということに言及されていた方が何人かおられましたが、訴訟するかしないか、は本当に人それぞれだと思います。むしろ母集団(アメリカの人口)に対して訴訟を起こしている人の数ってほんのちょっぴりだと思うのですが。(「事なかれ主義」に傾く心の動きって人間なら基本的に持っているかと・・・・・・。)

確かにアメリカでは訴訟が起こしやすいシステムになっていますが、それは、国土の広大なのと人口の膨大で人の出入りが激しいせいで、国(やら公の機関やら)がカバーできる範囲が、日本と比べると非常に限られるためだと思います。
アメリカ人は「自分の身・財産は基本的には自分で守る」ということを前提に、「身・財産」が損なわれた時、面倒がいやなら黙っているし、厭わないなら訴える、と。こんな調子なのではないかなあ。

バングラデシュで暮らしていたときに、日本人と話すよりもバングラデシュ人と話していた方が気が楽だなあと感じたことがたびたびあります。
私の言葉がつたなかったからということもあります。(もってまわった言い方をすると誤解が生まれやすく、お互い言いたいことはずけずけ言うしかなかった。)
でも、基本的にあまり根に持たないという国民性も確かにあったような気がします。(その代わり覚えておいて欲しいことも忘れてしまう。)

「日本人も(ポリティカルな)自己主張をできるようになるべきだ」とか「必要だ」と特に思いませんが、言いたいことがあるなら言えばいいとは思います。その方が楽です。(ただ逆に自分が言われたときも根に持たない、という精神は必要。)

サマンサの年齢でこういうポリティカルな主張ができることは驚くべきことですが、別にできなくても構わないでしょう。
要するにその後社会に出るまでにどういう風に考え方を育んでいくかが問題。サマンサが(もし生きていて)成長しても10歳の時のまんまだったら・・・・・・?
(個人的な感覚から言えば、早く大人になってしまった子供ほどその後の精神的な成長が難しくなるような気がします。)

本題の「日本の教育をどうするか」という点に関しては、上でkuroganeさんがおっしゃっているまとめの内容に同意。
「世界にはこういう考えもあるよ。で、主流はコレ。それに参加するにはこういうテクニックが必要なんだけど、それに参加するかどうかは人それぞれだからさ」というような感じかな?

投稿: 西方の人 | 2004.12.12 03:52

>却って日本社会の方が現在急速に変化
>(もしくは悪化)し、日本にに住む人の方が
>心理的閉塞感が大きいというのは
>なぜなんでしょうか?

トラブルを公的な場で解決できことがフラストレーションを産んでいるからだと思います。

喧嘩両成敗やお互い様といった、トラブルを解決していない日本的な解決方法よりも、トラブルはトラブルとして、それの解決方法や社会的な正しさをはっきり示す欧米式の方が、複雑化する社会では有用だと思います。


投稿: むにゅう | 2004.12.12 08:20

・個人的感覚でいえば、若くてもそうじゃなくても日本の女性はかなりいい線の自己主張を持ってると思うですよ。
付け加えるなら、オルガもサマンサも女の子ですねえ。これが一点。

・日本は自分の意見を持ちにくい構造になってます。広い意味での“教育”構造です。これのネッコはかなり古い。
まあ、侍社会の“上様”に対しては絶対服従の線って気がします。(2ch見ててもコレ風な出る釘叩きはよくあるし)
で、この侍社会って男社会ですねえ。おなごは元来数に入ってない。

・狭い意味での教育について言えば、記憶がベースの選択形式が強いお受験勉強では論争力はつきませんです。
“和”は美しいですが、理力のある“ヨーダ”師匠みたいのが言うんなら説得力あるけど、たんなるおうむ的繰り返し政治男なんかが言っても困ったもんです。国際ビジネスでも有能な倭人ビジネスマンは多くを語らずとも肝心なトコで肝心なことを言えるでしょう。
文章力があれば、小難しいテーマの小論文でも自分風にこなせると思いますよ。文章力は技術なんすもん、やりゃあ誰だって出来るよ。
ただ日本の教育の中では重要視されてないってだけのことだ、と思います。

まあ前の例で言えば、市内の壁中グラフィヒティだらけでそれを消すのに市なり区なりがかなりな税金を使ってるってな情況は日本にはないですから、まあ“やってらんないよ”て思うのは理解できるけどね。

投稿: ねこ仏少年 | 2004.12.12 08:38

すでに間に書き込まれた方があるので、蛇足みたいになりますが、前に書いた自分の意見が曖昧、というか飛躍しているところがあるので付け加えさせてください。

「言いたいことは言っといた方がすっきりしますよ」云々は、サマンサの意見は(それがポリティカルなものであれ何であれ)彼女自身が誰かに伝えたいことだった、という前提で書きました。

伝えたいことを相手(特定の人であれ不特定多数であれ)に伝えるのは精神衛生上いいことだと思います。そういう捉え方をすれば、このブログに私がコメントを書き込んでいるという行為もそうだし。(とお礼がてらコメント追加。)

投稿: 西方の人 | 2004.12.12 09:07

おはようございます。
>世界にはこういう考えもあるよ。で、主流はコレ。
主流はコレなどと果たして言えるものだろうか?それを小中学生に教えるの?それこそ文化の破綻だと思う。
みなさんは、リンク先の問題文を読んで本当に文化の差だと思うのでしょうか?それが疑問。僕には今回のテストにおいては読解力がトップクラスから並になったということだと思います。統計的に。
このニュースから得られる「日本の教育をどうするか」という点に関しては、読解力を高める事に他ならない。

投稿: eda | 2004.12.12 10:03

はじめまして。
いつも興味深く拝見しております。

私はフランスに20年ほど住んでおりまして、
10歳から17歳の4人の子供を持っている女性です。
読解テストの例文のような意見を言う子供というのはこちらでは山のようにおりますが、
それはほとんどの場合親の口真似であることが多いです。

親が政治的なスタンスを確立していて、それに基づいて諸事をコメントする。
それを念仏のように聞いている子供が自分の意見として同じようなコメントをする、という図です。
ですので、学校教育とは直接は関係がないと思います。

もちろん、教育システムも自論を述べることに重きを置いていますが、それは社会が求めていることだからです。

日本を離れて長いので現在の日本の社会や教育のことはわかりませんが、私の印象としては日本の教育は「使いやすい人間」を作るシステムなのかな、と思います。

投稿: 柚子 | 2004.12.12 19:15

>サマンサ・スミスちゃんはヘルガやソフィアのような少女を製造するひな型でもあるわけだ。そして、こうした精神を形作ることが、彼らの教育というものなのだ。

ちょっと思ったのですがこれってアメリカでブログがジャーナリズムとして機能し始めていると云われている事にも関係しているような。ブロッガーがマスコミをやっつけたと云われるラザーゲート事件。そういう姿勢がこれを達成したとも言えるのでは。そういう部分では複雑な想いがあるのでは。ぜんぜん関係ありませんか?

投稿: hasenka | 2004.12.12 20:26

>日本の教育は「使いやすい人間」を作るシステム

そうみたい。使いにくい人は仲間はずれにするし。それに平均値ばかりだしてくる。でも、実際は、日本ほど、勉強のできる子とできない子の差が激しい国はないと思う。そもそも、学習が達していない子を自動的に学年をあげていくというのは、日本だけ?

投稿: 野猫 | 2004.12.12 20:30

学力低下の一番の原因は学童数の激減かも。競争が緩和されてしまった。先日、お堀沿いを歩いていたら、とある大学の立派な大ビルディングを見た。生徒数を確保しなことには維持できないかもしれないと思った。学力をとやかくいっていたら生徒が集まらなくなるかもしれない。では、留学生に魅力ある大学になるのだろうか。で、たぶん役人たちか考えている方法では、ずっと数字は上がらないはず。

私自身は、学力は気にしていない。学力と人格は別だから。それに、人格というのは、西洋社会がすぐれている、アジアがすぐれれているという問題でない。伝統的な日本人であろうと前衛的であろうと、人格者というのは、魅力であって数字にはできないし、アートに近いとおもう。

投稿: 野猫 | 2004.12.12 22:02

> edaさん
>>主流はコレなどと果たして言えるものだろうか?
>>それを小中学生に教えるの?

確かに厳密に客観的な判断で主流を判断することは出来ないですね。でも文化という切り口ではなくて、使われるテクニックによってカテゴライズする、ということは可能ではないでしょうか?
その中で何が主流かという判断も、やはり恣意的なものでしかないでしょうが、誰がどのように決定するか明確になっていれば、ある程度は納得できるのではないかなあ・・・・・・。

教える時期については、あまり早いと確かにマズいだろうなと思います。小学生では早すぎる気もするし、中学生も微妙な感じ。高校から、ということになるんでしょうか?義務教育過程ではないですけど。

投稿: 西方の人 | 2004.12.13 00:59

長年自分の内なる“日本”って一体なんだ、と考えておりまして今回のテーマは身につまされるわけで、も一度書きます。
これは米映画監督スパイク・リーが第一作発表当時(1985)に“グローバルであり同時にローカルじゃないとやっていけない”といった内容のことをしゃべっていた。で、この20年近く前の言葉についてこのごろよく考える。

言い換えれば、グローバルに拡散する世界にあってはローカル性/個人性を意識的に深化せなグローバルできない、となるのか。
マルチカルチャーの没個性・灰色化を防ぐためにも自己のオリジンを確認しつつ他カルチャーあるいは他コミュニティー人ともコミュニケート
でけんとあかん、ということかと。

保守とかナショナリズムとは違うつもりなんですけど(保守と言うのは過去の、あるいは現在ある構造を守るというスタイルかと)、“自己”を守りつつ(これも保守ですがセルフデフォンスか)“他者”と共存してくためには他カルチャー複数が集まる場でもディベイト能力がないと困るだろう。米国はどうも子供がすぐ要人に手紙を出しちゃう国なので、これはため息が出たりしますが、まあ未知の複数オリジン雑居環境でも自己表現・他者理解の技術養成は必要でしょう。非アングロサクソン圏あるいは非西洋圏も大きいわけですから、なにもサマンサちゃんのアグレッシブ性をコピペする必要はまったくないですが。    長文ごめんなさい。

投稿: ねこ仏少年 | 2004.12.13 08:49

PISA2003で順位が下がっていること自体に関しては、実際「すごくどうでもいい」です。
あの順位が高ければ安心かというと、そうではないでしょう。

ただ、PISAの問題文やサマンサちゃんの例を出されると、こういう教育で鍛えられた連中と、
日本の子供が議論をする場面を思い浮かべるだけで鬱な気分になれます。

我々は子供たちに、こういう連中と渡り合って
この先生きのこっていくための教育を施すべきなんでしょうかね?
それはもしかしたら日本文化に対する破壊行為かもしれないのですよ。

だからどうだ、というと、とりあえず溜息をついておくわけですが...

投稿: Lou | 2004.12.13 09:41

>>心理的閉塞感が大きいというのは
>>なぜなんでしょうか?
>トラブルを公的な場で解決できことがフラストレーションを産んでいるからだと思います。

もしそうなら、もっと昔から日本は閉塞感が大きいはずなのでは?
欧米では閉塞感は小さいと本気で思っているのですか?

>使いにくい人は仲間はずれにするし。それに平均値ばかりだしてくる。でも、実際は、日本ほど、勉強のできる子とできない子の差が激しい国はないと思う。

今回の調査結果では日本より格差の大きい国も少なくなかったはずでは?
ほかの国だって平均値は出すし、仲間はずれにされたりすることもあると思うのですが、何を根拠にそういうことを言ってるのでしょうか?

投稿: おやまあ | 2004.12.13 13:40

手紙そのものは朝日新聞の投書欄で時折見かけるような内容ですな。
親や教師がそそのかせばこれくらいのものは書くでしょう。
(なぜか早野透氏の顔をした教師が浮かびますが)

しかし、先日のエントリもそうなんですが、
議論好きの欧米人少女にトラウマでもあるんでしょうか(笑)。
日本の教育とか欧米の教育とかはどうでもよくて、
実はそのへんが本題みたいですね。

投稿: P | 2004.12.13 20:40

>今回の調査結果では日本より格差の大きい国も少なくなかったはずでは?
>ほかの国だって平均値は出すし、仲間はずれにされたりすることもあると思うのですが、何を根拠にそういうことを言ってるのでしょうか?

質問の意図がよくわかりません。
私が言いたいのは、学力低下の調査自体が無意味で、現実に改善する方法につながらないことを言いたいだけです。

それと、根拠というのは、私は、私の経験の範囲で述べているだけであって、公式的な資料をもとに言っているわけではありません。

学力の格差についていっているのは、各国でも格差はあるけど、その学習が達成していない生徒を自動的に学年をあげてしまうから、一人の生徒としてみると、結局、小学生としての学習もできなくて高校生になる場合もある不自然さの格差を言っています。それに、勉強のできないことを私は否定していませんよ。

それと、できたら排他的な質問の方法は望みません。どうやって答えていいか分からないからです。それと、もう一つ、私はこのfinalventさんの記事を第一に考えているので、できたらそちらに即して質問してください。そうしないと、どうやって関連付けて考えたらいいかわかりません。

で、あなた流で、こちらからも質問しますので、ぜひ答えられたら、どうぞ。

今回の調査結果では日本より格差の大きい国が多いとどうなるのでしょうか?

ほかの国だって平均値は出すし、仲間はずれにされたりすることもありますが、それについて根拠は必要ですか?

投稿: 野猫 | 2004.12.13 21:30

昨日のedaさんへの自分の回答を読み返してみて、
「ポリティカルな議論ができるように子供の頃から教育するべきかどうか」
ということに関して、私とedaでは根本的な立ち位置の違いがあるような気がしました。
いや逆か?
すれ違いみたいなものかな?

私も文化が破綻するのは嫌だ、と思っている点でedaさんとの立ち位置は一緒。(「小中学生に教えるのはちょっとなあ・・・・・・」)
「コミュニケーションとしてポリティカルな議論を楽しむという意味で、教育に取り入れてみても面白いのでは。それも楽しいかも知れないし」と思っているところがedaさんとは違うようにも思えますが、結局「楽しむ」という点では強制ではなくて高校で選択科目(ボランティアみたいに)すればいいと思うので。
「ポリティカルな議論」に対する好き嫌いというか、温度の違いかもしれませんね。

ただ「文化が破綻するのは嫌だ」と思いつつ「(破綻するかもしれない)日本の文化」とは何なのか、考えてもよくわかりません。むずかしい。

投稿: 西方の人 | 2004.12.14 00:09

>今回の調査結果では日本より格差の大きい国が多いとどうなるのでしょうか?

「日本ほど、勉強のできる子とできない子の差が激しい国はないと思う。」というのが嘘だということになります。

>ほかの国だって平均値は出すし、仲間はずれにされたりすることもありますが、それについて根拠は必要ですか?

必要だと思います。強制はしませんが。
個人低な体験だけで決め付けるのはやめたほうがいいということがいいたかったんです。
別に学力低下をどう思うかは個人の自由だと思いますが、明らかな事実誤認や根拠薄弱な憶測に基づくステレオタイプを見るとついつい突っ込すこしきつかったのは申し訳なかったと思います。M(__)M

投稿: おやまあ | 2004.12.14 13:23

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