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2004.12.26

[書評]スイス探訪(国松孝次)

 この本を知らない人なら、あるいは、この事情を知らない人なら、著者国松孝次(正しくは國松孝次)という名前を見て、あれ?と思うかもしれない。あるいは同姓同名か、と。そうではない。元警察庁長官国松孝次本人の著書だ。1997年に警察庁を退いて、1999年から3年間スイス大使を勤めていた。なお、この本の表紙や本文中の挿絵は奥さんが描いた水彩画で美しく、ご夫妻の人柄がしのばれる。

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スイス探訪
したたかなスイス人の
しなやかな生き方
 国松孝次元警察庁長官といえば、1995年3月30日警察庁長官狙撃事件で、荒川区自宅マンション前で狙撃され重傷を追った本人である。事件の全貌は依然わからない。しかし、国民の安全を守るべき最高の権威者であるべき警察庁長官が危機に陥るということ、また、当時は地下鉄サリン事件直後で事実上の厳戒態勢であったにも関わらずこの狙撃の隙を見せたことは、この公務にある者としては失格である。文芸評論家福田和也は、この不覚の事態に「戦前の人だったら切腹していた」と評した。私はこういうアナクロニズムの物言いが好きではない。福田の指摘に対して国松元警察庁長官は「ごもっともと感服するところが多く」「ズシンと胸にこたえた」と文藝春秋で答えていたが、私には、彼が真剣なのかとぼけているのか、物事をただプレーンに見ているのか、よくわからなと当時思った。
 総じて言えば、サリン事件に至るオウム真理教の問題をここまでほったらかしにしたこと自体、警察庁の責任であり、つまりはそのトップの責任なのではないかとも思った。ただ、彼を弁護するなら、彼が長官となったはその前年の7月6日であり日が浅い。また、当時警察の急務となっていた課題は企業テロだった。9月には住友銀行名古屋支店長畑中和文さんが、マンション自室でパジャマ姿まま銃殺されていた。あまり、余談に踏み込むべきではないが、国松孝次元警察庁長官は当時の世相とオウム真理教についてなにか思いあたることがあるのではないだろうか。
 書籍内容には関係のない前段が長くなったが、ある程度は仕方がないだろう。私としてもこの本には関心も持っていなかった。だが、先日ラジオ深夜便四時「心の時代」で二日にわたり国松元警察庁長官の対談があり、それを聞きながら、なんというのだろうか、この人はちょっとただならぬ人だなと思い、この本も読んでみたくなった。
 まず、良書である。やさしく書いてあるのだが、これだけスイスについてきちんと書けるというのは生半可な教養ではない。読みやすいとはいえ、高校生には少し内容的に難しいかもしれない。が、世界史に関心があるなら、是非勧めたい。もちろん、大学生にも社会人にも。
 筆者はおそらく社会学の勉強はされていないのだろうが、この本を読みながら私は社会学の基礎概念である共同体の概念やマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のことなどいろいろ思い出した。また、神学者カールバルトがスイス人であることを少し考えなおしたりもした。例えば、こういう話が私には面白い。

スイスには三段階の行政単位があって、一番基礎となる単位をゲマインデ(Gemeinde)といい、これが全国に二八〇〇余りある。ゲマインデを束ねるのが州(Kanton)。そして、全国に二六ある州が集まってスイス連邦(Schweizerische Eidgenossensshaft)を形成する。ゲマインデは通常「市町村」と訳される。フランス語ではコミューン(Commune)である。


 ところが、ここがスイスのややこしいところであり、面白いところなのだが、実は、スイスにはもうひとつ別のゲマインデが存在し、こちらのほうがむしろ伝統に根付いている。
 それは属人的な概念としてのゲマインデであって、要するにその集団のメンバーシップを認められた者を包摂し、その者がどこに居住しようとその者を対象に一定の管理を及ぼし、あるいは一定の恩恵を与えようとする集団を意味する。これを市町村たるゲマインデと区別してどう日本語に訳すか難しいところであるが、ここでは犬養道子さんのひそみに倣い「共同体」と訳しておきたい。


 さて、共同体のメンバーシップを与えられた者をビュルガー(Bu"rger)といい、これまで述べてきた属人的意味における共同体を普通ビュルガーゲマインデと呼ぶ。

 わかりづらいといえばそうだが、このあたりにスイス的なヨーロッパというものを解く鍵があるようにも思う。ビュルガーゲマインデは単純に考えると土着的な伝統的な地域共同体のようにも見えるのだが、国松はここでこのビュルガーゲマインデが実はスイスが傭兵などで国外に出たものの帰属意識による、概念的な共同体ではないかと考察している。
 ここで、私はちょっと飛躍だが、関連してこう思う……日本では社会主義というときの社会というのは、なにか公的なイメージを描きがちだ。あるいは、「社会の窓」といったり、「世間様」とかのイメージだろう。しかし、この対応の英語であるsocietyという英語の言葉は結社の意味に近く、また、マルクスも原義的な共産主義的共同体のイメージをassociationに近いものとして描いている。これらの結社的な共同体というのは、概念的な土着的な共同体をより友愛によって理念化したものではないだろうか。このあたりで、国家というものの意味がまた難しくなる。
 くどいが、日本の社会主義者・共産主義者というのは歴史的にはコミンテルンに端を発しているため、トロツキー的な亜流はあるにせよ、基本的にレーニン主義に立っており、国家についても、その暴力的な機能として一義的に了解しがちだ(だから暴力革命が肯定される)。ここに国家論の間違いがあり、欧州の構造主義でも吉本隆明の幻想論でも、よりマルクス思想の原義に戻る形で国家の再考を迫るのだが、そこで描かれる国家とは、スイス的なビュルガーゲマインデを友愛原理によって構成した集合体ではないだろうか。あるいはスイスとは、傭兵的な民兵による友愛的な精神の原理であるかもしれない。つまり、その精神を活かすための方便として国家=スイスが可視になっているのかもしれない。
 社会学的に考えるにはちょっと言葉遊びのようになってしまったので切り上げるのだが、スイスのビュルガーゲマインデとゲマインデのありかたが国家というものを要請しているのだろう。問題は、ここで要請される国家が、超国家としてのEUをどうやら拒絶しているという様相だ。
 結局のところ、現代世界では、米国もロシアも中国も国家というよりは超国家の様相を示している。これに向き合うためにはヨーロッパの伝統社会なり諸国家は、EUという超国家的組織が必要とされる。だが、ヨーロッパ的なものの根とも言えるスイスの国家原理はこれを拒絶する。たぶん、この拒絶の傾向のほうがヨーロッパは根強く、EUは近未来的に実質的には超国家原理としては崩壊するのではないだろうか。
 と、書籍の紹介には適さない話にそれてしまったが、この本は、楽しく読め、そして深く考えさせられる。愉快な話題も多い。チョコレートについても詳しい。先日トリビアの泉でネタになっていた黒いサンタクロースの話もさりげなく入っている。有島武郎の逸話など驚きでもある。この本はよく読むとなかなかネタ満載なのである。
cover
黒いスイス
 スイスについては、この他、そのダークな側面を戯画的に描いた「黒いスイス」も面白いのだが、国松の「スイス探訪」に比べると浅薄な印象が否めない。というか、スイスの暗黒面が。なぜどのように歴史と地域共同体に根ざしているのか、彼らがそれをどう考えているのか、そういう深奥に踏み込むことなくジャーナリスティックにスイスの知識を増やしてもつまらない。
 やや余談に逸れるが、先日のOECDのテストで最高位になったのはフィンランドだった。英国やドイツは日本よりも悪いこともあり、なぜフィンランドの教育が優れているのかといった記事もそれぞれの国で書かれていた。しかし、ようは、フィンランドが共同体的な社会を持ち、それを教育にまで延長しているからとしか言えない。そしてそれこそがEUの他の国では実践できなものだった。
 この本の著者国松はスイスを考えることは日本の将来を考えるうえでのヒントになるとしている。たしかに、日本が世界に誇るもの、そしてリソースは、教育を含めた国民の質だけだろう。しかし、フィンランドのような小さなクローズドに近い国家に日本はなれないのだから、どこかである程度スイスのようなビュルガーゲマインデ的な閉鎖性というものをより大規模に実施するということが必然的につきまとう。

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コメント

こんばんは、finalventさん。

ご紹介の本よりも、スイス的共同体をモデルにとりながら考察した国家、超国家、EUの見方が興味深かったです。

あ、そうか。と思うことがあって、私には示唆に富んだ一文でした。

投稿: むぎ | 2004.12.26 19:32

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