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2004.12.31

奈良小1女児殺害事件、容疑者逮捕雑感

 奈良小1女児殺害事件の容疑者として男36歳が逮捕された。共犯の可能性についてはわからないものの、公開されている情報から普通に判断してこの男が犯人だろうと確信させるものがある。昨日のこのブログでこの事件について書いているときに、事情聴取が始まったものの、書き出したときはこの事件の解決も年を越してしまうかもしれないと懸念した。まずはよかったとは言える。今後、事件の全容が明らかになるのだろうが、現時点で残る奇妙な後味のようなものを記しておきたい。
 逮捕報道は一定の時間を取りながら昨日じわじわと進行した。当初は犯人の名前が出てこないようであったり、報道機関によっては名前の公開に時間差があることから、なにか裏があるのではとも思ったが、最終的には犯人名は公開された。報道機関にある種の逡巡があったようには思う。私が思ったのは、犯人が毎日新聞の配達員ということで多少なりとも報道機関に関わっていること、また、後でふれるつもりだがミーガン法への世論の配慮があったのではないだろうか。
 逮捕報道に併行して、2ちゃんねるなどでもちょっとした「祭」が進行した。こういう事件では現地ならではの空気というものがあり、そのタレコミでもないかとざっと見回した。気になったのは、二階堂コムというサイトの記事、"貴様ら!俺の言うことを聞いてみませんか?"(参照)というコーナーの【12/6(月) 3:30】という日付入りの項目だ。そこにタレコミ投稿の情報と思われるものがあり、犯人の住所として「奈良県生駒郡三郷町城山台」という記載があった。旧地名であることに奇妙な印象があるし、結果として、三郷町はまではあたりとしても、総じて言えば、このタレコミは外していた。
 後から考えると、容疑者には前歴があり、この手の犯罪は再犯を繰り返すということから、警察では早々に目ぼしを付けていたと思われるし、昨日の逮捕劇も年内決着を図るという政治面があっただろうと思う。それにしても、タレコミ的な空気は漏れていなかったのだろうか。このことに私がこだわるのも後でふれるつもりだがミーガン法との関連だ。
 当事者と言ってもいいと思うが今回の事件に関連する毎日新聞の対応は面白かった。21日付けの記事"奈良・女児誘拐殺人 事件受け、配達中に防犯パト--新聞販売店の代表ら /奈良"(参照)では、今回の事件について新聞配達員に防犯パトロールを指示しているということが誇らしげなトーンで書かれている。


 この日は県支部幹事の福井隆輝・毎日新聞二上販売店主ら5人が出席。不審者を見かけたら積極的に警察に通報することなどを約束した後、プレートの見本を山崎勝洋・県警生活安全部長に手渡した。
 山崎部長は「夕刊の配達は、児童の下校時間と重なることもあり、大いに期待している」と語った。

 おそらく毎日新聞内部ではタレコミなり予想は立っていなかったのだろう。警察のこのときの心境は、昨今の流行語でいえばビミョ~だ。
 2ちゃんねるなどでは毎日新聞へのツッコミ的な発言もいくつか見られたが、今朝の毎日新聞の記事"奈良女児誘拐殺害:「携帯画像入手」と自慢 小林容疑者"(参照)はなかなか含蓄がある。すでに容疑者と毎日新聞記者とは面識があった。記事では記者としての限界を率直に吐露している。

県警が絞り込んだ地域をよく知る販売所従業員として、直接取材した本紙記者もその弁舌にだまされた。


 翌14日夜。もしかしたら携帯の履歴に例の画像の発信元が残っているかもしれない。記者がそう思い電話で問い合わせたところ、小林容疑者は「履歴は消した」と返答。むきになったような答え方に不自然さも感じた。
 ただ、質問にはっきりと答える小林容疑者に、後ろめたさは感じ取れなかった。「ごめんな、情報小出しで」。むしろ取材に協力する姿勢すら見せた。だが今から考えると、こうした口のうまさが子どもまでをだまし、誘拐できた理由なのかもしれない。

 記者に刑事コロンボ並の優れた勘があれば、こいつはおかしいと思ったに違いない。それこそが記者の能力だからだ。だが、率直に言ってそれを新聞記者に求めるのは現代では無理なようにも思う。また、この記事を公開した毎日新聞の姿勢は好意的に受け止めていい。
 ここでちょっとしきりのまとめだが、ようするにタレコミ的な空気はなかったのではないだろうか、ということだ。
 新聞配達員という点に視点を移す。
 今回の事件で、市井の人なら新聞配達員ということがかなりひっかると思う。端的にいえば、かなり多くの人が新聞配達員・新聞勧誘員に嫌な思いをした経験があるだろう。ひどい言い方だが端的に言えば、「ああいう人たちならやりかねない」といった感じだろうか。恐らく新聞社の側もそのことを理解していると思われる。新聞は表向きでは正義をたれているがそのエリートの裏のゼニの収拾部分には事実上日本の闇に隣接するようなシステムを基礎としている。
 今回の容疑者は、逮捕時には毎日新聞の配達をしていたが、この業界はそれほど新聞社のカラーが強くあるというものでもない。彼は他紙も配達していた経歴があるらしい。朝日新聞"奈良の容疑者、新聞販売所転々 ASA解雇、再雇用断る"(参照)にはこうある。

 小林薫容疑者(36)は高校卒業後、新聞各社の販売所などを転々とした。00年には朝日新聞の販売所(ASA)に勤めたことがあったが、5カ月後に解雇されていた。
 小林容疑者は00年3月、奈良市にある朝日新聞の販売所に採用されたが、同7月、「勤務態度が悪い」(朝日新聞大阪本社広報部)として解雇された。今年春ごろにも、同じ販売所の関係者に「雇ってくれないか」と電話があったが、店側は過去の経緯から断った。

 私は新聞の宅配制度は不要だとは思うが、反面、新聞配達員が日本社会において、ある意味でセイフティーネットの役割をしていることは重要な意味があると考えている。今回の事件で、新聞配達員が社会的に敵視されないような環境を整備していくことは新聞社の急務だろうし、その手は進められているのだろうが、これらは今後も報道面では見られないだろう。
 話が存外に長くなり、ミーガン法について触れる気力がなくなってきたが、こうした性犯罪者は統計的に見て再犯の可能性が高い。今回の容疑者も再犯だった。なので、社会を守るという点から、米国ではこうした犯罪者を社会に公開するというミーガン法がある。解説記事としては"ミーガン法 - マルチメディア/インターネット事典"(参照)がいいだろう。
 日本でもこの事件をきっかけにミーガン法的な規制を求める声は高くなっていくだろうと思われる。そうした声をすでに先読みして、今朝の朝日新聞社説"女児誘拐犯――性犯罪から子供を守れ"(参照)では防戦的な修辞を繰り出している。

 英国では、子どもを狙った性犯罪の前歴を持つ者は、地元の警察署に住所を登録するよう法律で義務づけている。再犯の恐れのある前歴者に無線標識をつけて監視する対策まで検討された。
 人権に絡む問題だけに慎重さは必要だが、子どもの人権もまた十分に擁護されなければならないのだ。

 米国に触れず、また、人権を説いて現状では深入りしないというのは北朝鮮をテーマにするときも同じ朝日新聞らしい筆法である。だが、朝日新聞だけではなく、対極と見られることが多い産経新聞も社説"奈良女児殺害 凶悪犯逮捕が最大の防犯"(参照)で類似の見解を出している。

 米国や英国では、地域により再犯の恐れが強い性的異常者については、顔写真や住所を公表している所もある。わが国も犯罪防止の観点から、このような制度を取り入れるかどうか、その是非を真剣に論議したい。

 産経新聞では人権云々といった対応はないものの、トーンとしては曖昧だし、ミーガン法というキーワードもなければそれによって引き起こされた問題への配慮もない。確かに社説のなかで扱い切れない問題ではあるのだろうが、いずれそこに踏み込まなければならなくなるだろう。
 ところで、今日は大晦日である。日本もカウントダウンには花火でも上げるようになったのかな。いずれ、一つの年の区切りのように思える。しかし、こういう問題が来年の日本社会に、貫く棒の如きものとして続いていくのだろう。

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2004.12.30

世田谷一家殺害事件から四年

 書いても年末の雑談になってしまうと思う。明日が大晦日かと思うと、あの事件を思い起こす。
 平成12年12月30日深夜から未明にかけて上祖師谷に住む宮沢さん一家四人が殺害された。あれから四年過ぎた。今年も事件解決の糸口すら見つからなかった。昨年大晦日に私はこのブログで大手新聞各紙社説がこの問題に触れないことに苛立ちを書き散らした。しかし、また一年ブログを続けてみて、あの苛立ちは諦観に変わってきてしまったと思う。恐らく、明日の新聞社説になにもこの事件に言及がなくても、そういうものかと私は思うのだろう。
 今年は災害の多い年で「災」という字がキーワードになったとも聞く。しかし、天災というのは絶えることなく起こりうるものであって、人知の及ばない面がある。道徳をたれるみたいだが、人間にはどうしようもなく運と不運というものはあり、天災は不運ということになるのだろう。人はそうした運や不運に流されつつも、それに流されまいとして生きていくものだし、生涯というスパンで見たとき、運と不運がその人の人生にどう意味づけられるかは、その人の生き様のあり方に側に取り込まれる…つまり、どんなに不運でもそれを生きた人生には意味がある…と思う。というか、そう信じたい。
 もちろん、それは大きな虚構かもしれない。スマトラ沖地震の被害者はいよいよ10万人に及ぼうとしている。天災とは、自然とは、依然畏怖を覚えるものだし、不運で済まされないような虚無がばっくりと口を開けているように思う。突然途絶えた人生には、生涯という意味への模索が閉ざされてしまう。
 世田谷一家殺害事件が社会にもたらした恐怖は、天災とも不運とは違うものだ。こうした悪事を撲滅すべく人の社会は努力していかなくてはいけない…しかし…と、それでもそれは、あたかも天災のようにどうしようもなく見えてしまう。11月17日に奈良県で起きた小1女児殺害事件も、その後解決の方向も見えない。このままこの事件も新しい年を迎えることになるのだろうか。いや、事情聴取が始まったようではある。追記同日:同県三郷町に住む男(36)が逮捕された。
 いや、世田谷一家殺害事件は、今年はどうだったのか、と、もう一度問うてみよう。
 Yahoo! JAPANにはこの事件記事のログがある。「Yahoo!ニュース - 世田谷一家殺害事件」(参照)がそれだ。著作権などの理由か、掲載されている点数はまばらになっているが、数えてみると18点ある。過去のものからめくっていく。なんども読んだ記事ばかりだなという思いがよぎるが、読んでいない、気になる記事もあった。先日23日の出された共同"15-45歳「少年」明確に 世田谷一家4人殺害4年"(参照)だ。


東京都世田谷区で2000年12月に起きた宮沢みきおさん=当時(44)=一家4人殺害事件は30日で発生から丸4年。現場に犯人の指紋が残りながらも捜査は難航しているが、犯人像は徐々に浮かびつつある。


冷蔵庫のアイスに興味を示す点などから「15歳-45歳」とし、少年の犯行の可能性を明確にした。

 少年犯罪?
 私は、その可能性は考えてもいなかった。もちろん、可能性としては考えられはするだろう。が、奇妙な思いがする。率直に書くが、この事件は当初、15歳というレンジの少年犯罪を予想させる情報はなかったと思う。そして、今頃こういう情報を出すのは、この四年間で、少年によってもこれほどまで残酷な事件が起こりえる、というふうに日本社会の空気が変わったからだろう。
 もちろん、残虐さというなら、あるいは少年が引き起こすというなら、この数年の社会の空気など言い出さなくても、戦後の世相などでもあったことだろう。しかし、この事件についてわれわれが恐怖を覚えるのは、その虚無性だ。どうやら怨恨でも、カネ目当てだけでもない、しかも犯人の挙動は血まみれの死者に動揺の様子もみせていない。つまり、こうした虚無を少年にだぶらせても不思議ではない社会の空気が出来てきたのだ。
 事件を社会問題に還元して社会を論じたいというオチにしたいわけではない。ただ、若い少年に及んだ虚無の、社会感覚は、今現在の私の感性の一部だとは思う。
 うまく言えないが、それはなんなのだろうか。一つには、たぶん、どのような社会でも失ってはいけない正義への希求感覚の、新しい形の麻痺なのではないか。

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2004.12.29

2004年、中島らも追悼

 今年を振り返ってという趣向は好きではないのだが、それでもブログに書きそびれて心にひっかかっていることがある。中島らもの死のことだ。7月16日未明、神戸市内の飲食店の階段から転落し、頭部を負傷。脳挫傷となり意識不明のまま10日後、26日に亡くなった。52歳の人生だった。
 本人の意思で葬式・告別式はなかった。翌日密葬を済ませたという。今こうして見直してみると、事実としてはちょっと不明なものがあるなとは思う。

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心が雨漏り
する日には
 本名、中島裕之(なかじま・ゆうし)。兵庫県尼崎市の歯科医の二男に生まれ、灘中学・高校へ進み、大阪芸術大学放送学科を卒業。コピーライター名声を高めるものの、おそらく遺伝的な形質から躁鬱病に悩み、酒に溺れる。35歳の時にアルコール性肝炎で50日間ほど入院した。経緯は、2002年10月に出版された。「心が雨漏りする日には」に詳しい。

 とうとう来るべきときが来たと思った。
 病院に行くことにしたが、生きて出てくるのは無理だろうなというあきらめがあった。というのも、おれは今まで三人の人に「お前は三十五歳で死ぬ」と宣言されていたのだ。一人は友人、一人は医者、そしてもう一人が占い師である。三人の意見がバラバラだったら気にも留めないところだが、三人とも同じことを言うのだから、「そういうものか」と素直に受け止めていた。
 ちょうどそのときが三十五歳だった。なるほど、三人の意見が正しかったわけだ。

 その後、アルコール性肝炎は回復したものの、躁鬱病とその薬の副作用に苦しみ続けた。廃人半歩手前と洒落のめして書いているが、その気持ちもわかる気がする。
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牢屋でやせる
ダイエット
 同書には大麻を愛用していた話もあるが、その後のことは触れていない。しかし、大麻を愛用し続けていた。2003年2月、自宅に大麻などを隠し持っていたとして大麻取締法違反の現行犯で逮捕され、同年5月に懲役十月、執行猶予3年の判決を受けた。この経緯は「牢屋でやせるダイエット」に詳しい。筆法は粗く、内容も、さっと読むとくだらない本なのだが、老年期を前にくずおれていく中年の男のなさけない心情をこれでもかというくらい、こってり書いてあり、今は、これは希有の本かなと思う。その情けなさの最たるは女が恋しいことだ。もちろん、若い時のような性欲ぎんぎんとかではない。

 独房の中で最初から最後まで欠乏し、おれが希求していたものがタバコと女性だった。酒や咳止めシロップの禁断症状は一週間もすれば治った。あまたの不自由にも徐々にではあるが耐えられるようになっていった。いや、あきらめるのに慣れていったと言うべきか。
 ただ、タバコと女性だけはどうしようもなかった。結局、おれの拘置所生活は二十一日間だったが、その間ずっと頭を離れなかったキーワードがこの二つだったのだ。
 女性といっても、すぐにベッドインできるような女が欲しかったわけではない。どちらかというと生身の女は面倒だ。そうではなくて、女性的なイメージにおれは飢えていたのだ。菩薩のような慈愛に満ちたまなざし。柔和な微笑。やさしい声。そういうものにおれは包まれたくてしょうがなかった。

 中島らもは知識人でもあり、この文脈の先でユングのアニマのことに少し触れている。彼がヘッセの「知と愛」(ナルチスとゴルトムント)の最終を知っていたかどうか。死にゆくゴルトムントはナルチスに女性なるものがなくて君は死ねるのかいと問うた。たぶん、男の人生というのは、そういう女性なるものなくしては死ねないのだろうと思う。
 この獄中記が出た2003年の8月以降、一年ほどは、らもの話題をあまり聞かなかったように思う。自粛されているのだろうかとも思ったていたが、しばらくして聞いたニュースが死の知らせだった。
 中島らもの死は、私の最愛の書の一つ、山本周五郎「虚空遍歴」(上巻下巻)を連想させる。挫折した芸術家だけが本当の芸術家と言ってしまえば、なんと凡庸なことか。しかし、その挫折はある生き様の必然性である。この世には、悲劇の塊のような芸術家が、その真実を告げるために、たまに現れ、消えていく。不思議なものだ。
 「虚空遍歴」の最後で中藤冲也が死んだとき、彼の破滅していく人生に付き合ったおけいは、冲也の魂がなお、虚空を遍歴しているように感じた。中島らもの夫人中島美代子は8月21日に発売された婦人公論9/7号「中島らもとの35年は心底、面白かった」でこう言っていた。

 だけどね、らもは転倒して後頭部を強打して死んだせいか、まだ自分が置かれている状況を把握できていないみたい。どうやら家の天井あたりをたゆたっているらしくて、夜になるとらもが可愛がっていたペロが上のほうを見上げて変な声で吠えるんですよ。「らも、死んじゃったんだよ」って声をかけているんですけど、らもは自分が死んだこと、わかってないんじゃないかなあ。まだ家にいるんです(笑)

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2004.12.28

スマトラ島沖地震津波に思う

 スマトラ島沖地震津波で沿海の各地ではすでに二万人を越える死者が出たことがわかった。津波が襲ってくるのは、地震発生から時間的に遅れることがあるので、防災の用意があれば被害は防げる、と言いたいところだが、現実にはそうもいかない。今回の地震はスマトラ島沖とはいえ陸地に近いので地震発生から津波が来るまでの時間差はあまりなかったのかもしれない。また、津波地震とよく言われるように陸地からではあまり地震を感じないこともある。
 サロン・コムのニュースを見ていると、国連の発表があり(参照)、今回の地震はcostliestとあった。今後の対策に巨額の費用がかかる。


Dec. 27, 2004 | United Nations -- The earthquake and tidal wave that raced from southeast Asia to east Africa this weekend, killing tens of thousands of people, may be the costliest disaster in history, reaching billions of dollars, the U.N. emergency relief coordinator said Monday.

 陸上の地震などの場合、救援は初動の四八時間が急務だが、今回の津波災害の初動対策はあらかた終わったのではないか。それでも被害者への対策や伝染病の蔓延を阻止する対策は急務だ。
 私は今回の津波被害で、沖縄での生活のことを思い出した。港から50メートルといったところの平屋に数年暮らしていた。窓から海が見えた。リーフが広いのでそれによって津波は軽減されるのだろうなと思ったが、実際に津波が来たら一発で終わりだなとも思った。地震が発生したときは、いつも津波を恐れた。
 沖縄の人間が津波を恐れるのには歴史的な理由もある。通称明和の津波と呼ばれる1771年の八重山地震津波では八重山諸島と宮古で津波の被害で1万2千人が死んだ。石垣島では現在空港建設問題で話題になる白保地区だが、ここでは、およそ千6百人、村人の九八%が亡くなったという。つまり、村が壊滅した。
 この地には伝説がある。海人(うみんちゅ)が人魚を捕らえたところ、「竜宮に帰りたい」と懇願するので海に放った。すると、ほどなく再び海上に姿を見せ、「津波が来るので山に逃げなさい」と告げたという。
 こうした津波から奇跡的に難を逃れたという伝説は本土にも少なくない。それだけ津波が恐ろしいものだということを、伝統社会はそれなりに伝えうるものだろうとも思う。なので、というわけでもないが、今回のスマトラ沖地震津波のニュースを聞いたとき、こうした伝統的な知恵が伝えられてなかったのではないかとも思った。
 近代化を迎えた日本でも、明治二九年(1896年)、明治三陸大津波では約2万2千人を越える人が津波で死んだ。被害が大きかったのは津波地震特有の揺れの小さいこともあっただろう。震度三程度だったらしい。この地域には慶長の大津波(1611年)の伝承もあったのだから、津波の恐ろしさは伝えられてはいたのだろう。
 明治30年代というと私の祖父母が生まれた時代である。私の祖先は山間の人ではあったが、津波の怖さというもののあるリアリティはしっかり継いでいたように記憶する。
 私も津波というものが心底恐いなと思ったのは、津波で百人を越える人が亡くなった昭和58年(1983年)の日本海中部地震の映像を見たときだ。ちょっと言葉に詰まるのだが、本当の津波というのはサーフィンの高波なんていうものではまるでない。マンション群が高速でぐぐっとせまってくるような感じだ。そういえば、昨今のマンションを見上げるとき、津波ってこんなのが襲ってくるのだなと思うことがある。
 津波の被害といえば防災をという話題にもなる。しかし、平成五年(1993年)北海道・奥尻島と渡島半島西部を襲い百人以上の死者を出した北海道南西沖地震では、日本海中部地震での津波をもとに築かれた防潮堤だったのに、この時に襲った津波はそれを越えてしまった。
 今回の津波災害に関する海外の記事では、テレグラフ"A terrible reminder that nature is dangerous"(参照)が私などには心に迫るものがあった。

The extent of yesterday's tidal cataclysm makes it hard to think about the individual losses. Our brains are not designed to compute suffering on such a scale. We can relate to a single death. We can even, with more difficulty, feel grief at an atrocity such as that at Beslan. But, when whole villages are extirpated and thousands slain, our minds seem to skim off the surface. We might cling to the more manageable components - the fate of British tourists, for example - but the swallowing up of whole communities is literally unimaginable.

 人間の脳というのは、これほど大惨事を理解するようにはできていないのかもしれない。もちろん、それでいいというわけではない。テレグラフの論調に賛成するものでもないが、人間が自然の前にいかに小さな存在かという事実は愕然と存在する。

追記(2004.12.29)
 死者は5万人を越え、WHOは疫病によるさらなる危険性の警告を出している。このエントリでは曖昧にしか扱っていなかったが、被害は対岸のスリランカやインドにも大きい。この距離を考えるに津波の警告は技術的には可能であっただろう。悔やまれてならない。

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2004.12.27

北朝鮮の政権交代のシナリオが見えてきたか

 北朝鮮の話は気乗りしないのだが、ここに来て急に政権交代というシナリオが強くなってきたようだ。あるいは、そこまで行かなくても、北朝鮮内部の体制変化への言及は増えてきた。例えば、24日のNHK"北の体制不安定化の兆し"では公安がこんな話を流している。


公安調査庁がまとめた「内外情勢の回顧と展望」によりますと、北朝鮮は、貧富の差の拡大などによって体制が不安定化する兆しが見られると初めて指摘し、今後、体制を支える権力基盤に亀裂が生じることもあり得ると分析しています。

 公安による北朝鮮の読みとしては、内部の貧富差が権力闘争をもたらすというのだ。そうだろうか。
 北朝鮮の体制崩壊の懸念は、イギリスのガーディアン"Tremors that may signal political earthquake in North Korea "(参照)などにも見られる。

European policymakers have been advised to prepare for "sudden change" in North Korea amid growing speculation among diplomats and observers that Kim Jong-il is losing his grip on power.

 当の北朝鮮も、世界が北朝鮮を危険視している動向に配慮し出しているようでもある。昨日付けのAP"Report: N. Korea Won't Invade S. Korea"(参照)では、北朝鮮は自国からは侵略しない声明も出した。
 こうした高まる北朝鮮崩壊のシナリオだが、現状では陰謀論に近い観念の遊びに近く、具体的なシナリオと見るにはあやうい。北朝鮮の崩壊なり政権交代の可能性は高まるだろうと以上のことは言いづらい。
 とはいえ、少し踏み込んだ政権交代のシナリオが話題になってきている。特に、中国が現状の金正日政権をより中国の息のかかる政権にすり替えるという話だ。日本語で読めるネタは韓国紙が目立つ。
 きっかけは、一昨日マイケル・ホロウィッツ・ハドソン研究所首席研究員の発言を受けてのことだ。ネオコンのシナリオとも読まれたわけだ。典型的な記事として、中央日報"米強硬保守派ホロウィッツ氏「北朝鮮は1年以内に崩壊」"(参照)を引用する。

ホロウィッツ氏は23日、ワシントンのハドソン研究所で「平壌(ピョンヤン)にはクリスマスがない:金正日政権は持続するのか」というテーマで講演を行った。ホロウィッツ氏は「金正日政権維持の対価がますます膨らみ、中国が(北朝鮮の)一将軍をを選んで政権を奪取させ、これによって中国軍20万人を北朝鮮に送るというシナリオを検討中」と主張した。 また「9月に米上院が北朝鮮人権法案を全会一致で通過させたのは、北朝鮮政権の終末を知らせる強力な信号」と語った。

 この手のシナリオとして見れば、それほど衝撃的でもない。似たような話は以前から流布されてもいた。例えば、極東ブログ「プリンス正男様、母の生まれた国へ、またいらっしゃい」(参照)でもあえておふざけを混ぜてこの手の話に言及しておいた。

杞憂ではあるまい。金正日政権が突然崩壊して北朝鮮に権力の空白ができれば正男への王権委譲はすんなりとはいかないだろう。朝日新聞が暗黙にヨイショするように、金正哲あたりに王朝を嗣がせた親中傀儡政権ができるかもしれない。そういえば、河の向こうに中国の軍隊が見えるじゃないか。

 ホロウィッツのシナリオでは、金正日後の傀儡政権では現在の将軍をトップに据えるとのことだが、私は、先のおちゃらけ話でも触れたように、実際には名目の王様を立てるだろうと思う。というのは、現実の北朝鮮はすでに王権の世襲を行い、壇君神話も建国神話となっていることからわかるように、日本の天皇のような血統的な王の希求がある。いくら南伸介系お笑いフレーバーの金正男とはいえ、長男を無視するわけにもいかない(だから暗殺が話題にもなる)。
 関連した韓国の動向も気になる。すでに政権交代の話題が韓国で盛り上がっているとしても、こうした中国の介入についは、つい最近までは韓国では事実上タブーに近い話題でもあったようにも思える。少し古いが12月9日付け朝鮮日報"北朝鮮の「崩壊」と「政権交代」"(参照)ではこの問題をこう切り出している。

 最近、北朝鮮の政権交代(regime change)がよく話題になっている。北朝鮮の改革と開放に向け、金正日(キム・ジョンイル)政権が交代されるべきだとか、北朝鮮政権が不安になれば東北アジアの安保が危うくなるなどとしながら、自分らの観点でもって政権交代問題をいとも簡単に取り上げているのである。

 朝鮮日報の議論は、この先やや混乱した展開になるのだが、中国の関与について言及を避けているためだだろう。また、アジア諸国の政治議論の典型でもあるのだが、対外問題を内政問題にすり替えてしまっているのも議論の混乱のもとになっている。
 しかし、この朝鮮日報の論説は、ブッシュ政権が盧大統領をすげ替える可能性を示しているとも読める点が興味深い。ちょっと変な日本語だが大意は通じる。

 ひいて、盧大統領の「北朝鮮崩壊不可」の言及が北朝鮮の内部要因により、金正日体制に何らかの変化が来ることまでも願わないということと解釈されれば、それは大多数の韓国人の真の願いを反映したとみる根拠もなく、また、内政干渉という指摘を受ける可能性もある。
 それが、何らかの目的を持って、金正日政権の歓心を得るためのことであるばら、危険なことである上、空振りに終わってしまうだろう。
 北朝鮮政府は今この時点では、米大統領と信頼を築き、米国の朝野を動かすことのできる実力を持った韓国指導者をより好むはずだ。金正日政権が最も恐れを持って注目しているのは、結局ブッシュ政権であるためだ。

 北朝鮮崩壊なり政権交代のシナリオより、米国の圧力による盧大統領切り崩しのほうが先行するかもしれない。問題は、北朝鮮体制というより、朝鮮半島における大国のパワーバランスになるだろうからだ。
 北朝鮮の新レジームが出来たとして、また韓国の政権の質が変貌したとして、それは米国対中国のパワーバランスの機能を担わされる。中国側としては北朝鮮は韓国や日本との緩衝地域でもあり、米国側としては、中国の軍事的な台頭を許さないこともあり、対中国の軍事的な恰好のカモフラージュである。
 こうした状況で日本はどうあるべきかと問いたいところだが、選択肢は事実上ない。韓日の連携を深め反米反中を模索するというずる賢さと度量のある政治家はいまや両国には存在しない。
 余談めくが中国にとって北朝鮮を保持しておく理由は地政学的には十分だとも言えるのだが、多少気になるのは、ウラン資源というスジはないのだろうか。もしそうなら、米国もIAEAも日本と統一朝鮮が連携する可能性を早々に潰しにかかるはずだし、中国も北朝鮮資源へのちょっかいを見せるだろう。

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2004.12.26

[書評]スイス探訪(国松孝次)

 この本を知らない人なら、あるいは、この事情を知らない人なら、著者国松孝次(正しくは國松孝次)という名前を見て、あれ?と思うかもしれない。あるいは同姓同名か、と。そうではない。元警察庁長官国松孝次本人の著書だ。1997年に警察庁を退いて、1999年から3年間スイス大使を勤めていた。なお、この本の表紙や本文中の挿絵は奥さんが描いた水彩画で美しく、ご夫妻の人柄がしのばれる。

cover
スイス探訪
したたかなスイス人の
しなやかな生き方
 国松孝次元警察庁長官といえば、1995年3月30日警察庁長官狙撃事件で、荒川区自宅マンション前で狙撃され重傷を追った本人である。事件の全貌は依然わからない。しかし、国民の安全を守るべき最高の権威者であるべき警察庁長官が危機に陥るということ、また、当時は地下鉄サリン事件直後で事実上の厳戒態勢であったにも関わらずこの狙撃の隙を見せたことは、この公務にある者としては失格である。文芸評論家福田和也は、この不覚の事態に「戦前の人だったら切腹していた」と評した。私はこういうアナクロニズムの物言いが好きではない。福田の指摘に対して国松元警察庁長官は「ごもっともと感服するところが多く」「ズシンと胸にこたえた」と文藝春秋で答えていたが、私には、彼が真剣なのかとぼけているのか、物事をただプレーンに見ているのか、よくわからなと当時思った。
 総じて言えば、サリン事件に至るオウム真理教の問題をここまでほったらかしにしたこと自体、警察庁の責任であり、つまりはそのトップの責任なのではないかとも思った。ただ、彼を弁護するなら、彼が長官となったはその前年の7月6日であり日が浅い。また、当時警察の急務となっていた課題は企業テロだった。9月には住友銀行名古屋支店長畑中和文さんが、マンション自室でパジャマ姿まま銃殺されていた。あまり、余談に踏み込むべきではないが、国松孝次元警察庁長官は当時の世相とオウム真理教についてなにか思いあたることがあるのではないだろうか。
 書籍内容には関係のない前段が長くなったが、ある程度は仕方がないだろう。私としてもこの本には関心も持っていなかった。だが、先日ラジオ深夜便四時「心の時代」で二日にわたり国松元警察庁長官の対談があり、それを聞きながら、なんというのだろうか、この人はちょっとただならぬ人だなと思い、この本も読んでみたくなった。
 まず、良書である。やさしく書いてあるのだが、これだけスイスについてきちんと書けるというのは生半可な教養ではない。読みやすいとはいえ、高校生には少し内容的に難しいかもしれない。が、世界史に関心があるなら、是非勧めたい。もちろん、大学生にも社会人にも。
 筆者はおそらく社会学の勉強はされていないのだろうが、この本を読みながら私は社会学の基礎概念である共同体の概念やマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のことなどいろいろ思い出した。また、神学者カールバルトがスイス人であることを少し考えなおしたりもした。例えば、こういう話が私には面白い。

スイスには三段階の行政単位があって、一番基礎となる単位をゲマインデ(Gemeinde)といい、これが全国に二八〇〇余りある。ゲマインデを束ねるのが州(Kanton)。そして、全国に二六ある州が集まってスイス連邦(Schweizerische Eidgenossensshaft)を形成する。ゲマインデは通常「市町村」と訳される。フランス語ではコミューン(Commune)である。


 ところが、ここがスイスのややこしいところであり、面白いところなのだが、実は、スイスにはもうひとつ別のゲマインデが存在し、こちらのほうがむしろ伝統に根付いている。
 それは属人的な概念としてのゲマインデであって、要するにその集団のメンバーシップを認められた者を包摂し、その者がどこに居住しようとその者を対象に一定の管理を及ぼし、あるいは一定の恩恵を与えようとする集団を意味する。これを市町村たるゲマインデと区別してどう日本語に訳すか難しいところであるが、ここでは犬養道子さんのひそみに倣い「共同体」と訳しておきたい。


 さて、共同体のメンバーシップを与えられた者をビュルガー(Bu"rger)といい、これまで述べてきた属人的意味における共同体を普通ビュルガーゲマインデと呼ぶ。

 わかりづらいといえばそうだが、このあたりにスイス的なヨーロッパというものを解く鍵があるようにも思う。ビュルガーゲマインデは単純に考えると土着的な伝統的な地域共同体のようにも見えるのだが、国松はここでこのビュルガーゲマインデが実はスイスが傭兵などで国外に出たものの帰属意識による、概念的な共同体ではないかと考察している。
 ここで、私はちょっと飛躍だが、関連してこう思う……日本では社会主義というときの社会というのは、なにか公的なイメージを描きがちだ。あるいは、「社会の窓」といったり、「世間様」とかのイメージだろう。しかし、この対応の英語であるsocietyという英語の言葉は結社の意味に近く、また、マルクスも原義的な共産主義的共同体のイメージをassociationに近いものとして描いている。これらの結社的な共同体というのは、概念的な土着的な共同体をより友愛によって理念化したものではないだろうか。このあたりで、国家というものの意味がまた難しくなる。
 くどいが、日本の社会主義者・共産主義者というのは歴史的にはコミンテルンに端を発しているため、トロツキー的な亜流はあるにせよ、基本的にレーニン主義に立っており、国家についても、その暴力的な機能として一義的に了解しがちだ(だから暴力革命が肯定される)。ここに国家論の間違いがあり、欧州の構造主義でも吉本隆明の幻想論でも、よりマルクス思想の原義に戻る形で国家の再考を迫るのだが、そこで描かれる国家とは、スイス的なビュルガーゲマインデを友愛原理によって構成した集合体ではないだろうか。あるいはスイスとは、傭兵的な民兵による友愛的な精神の原理であるかもしれない。つまり、その精神を活かすための方便として国家=スイスが可視になっているのかもしれない。
 社会学的に考えるにはちょっと言葉遊びのようになってしまったので切り上げるのだが、スイスのビュルガーゲマインデとゲマインデのありかたが国家というものを要請しているのだろう。問題は、ここで要請される国家が、超国家としてのEUをどうやら拒絶しているという様相だ。
 結局のところ、現代世界では、米国もロシアも中国も国家というよりは超国家の様相を示している。これに向き合うためにはヨーロッパの伝統社会なり諸国家は、EUという超国家的組織が必要とされる。だが、ヨーロッパ的なものの根とも言えるスイスの国家原理はこれを拒絶する。たぶん、この拒絶の傾向のほうがヨーロッパは根強く、EUは近未来的に実質的には超国家原理としては崩壊するのではないだろうか。
 と、書籍の紹介には適さない話にそれてしまったが、この本は、楽しく読め、そして深く考えさせられる。愉快な話題も多い。チョコレートについても詳しい。先日トリビアの泉でネタになっていた黒いサンタクロースの話もさりげなく入っている。有島武郎の逸話など驚きでもある。この本はよく読むとなかなかネタ満載なのである。
cover
黒いスイス
 スイスについては、この他、そのダークな側面を戯画的に描いた「黒いスイス」も面白いのだが、国松の「スイス探訪」に比べると浅薄な印象が否めない。というか、スイスの暗黒面が。なぜどのように歴史と地域共同体に根ざしているのか、彼らがそれをどう考えているのか、そういう深奥に踏み込むことなくジャーナリスティックにスイスの知識を増やしてもつまらない。
 やや余談に逸れるが、先日のOECDのテストで最高位になったのはフィンランドだった。英国やドイツは日本よりも悪いこともあり、なぜフィンランドの教育が優れているのかといった記事もそれぞれの国で書かれていた。しかし、ようは、フィンランドが共同体的な社会を持ち、それを教育にまで延長しているからとしか言えない。そしてそれこそがEUの他の国では実践できなものだった。
 この本の著者国松はスイスを考えることは日本の将来を考えるうえでのヒントになるとしている。たしかに、日本が世界に誇るもの、そしてリソースは、教育を含めた国民の質だけだろう。しかし、フィンランドのような小さなクローズドに近い国家に日本はなれないのだから、どこかである程度スイスのようなビュルガーゲマインデ的な閉鎖性というものをより大規模に実施するということが必然的につきまとう。

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2004.12.25

ヤドリギの話

 日本でクリスマスにツリーを飾ることが多いのは米軍占領下の文化の名残だろうか。オーナメントとしては最近ではそれに加えてリースも見かける。しかし、クリスマス・クリブは見かけない。キスィング・ボールもなにげで目立たない。そういえば、ヤドリギ(mistletoe)も見かけないなとふと思った。
 ヤドリギ、知ってますよね?(参照
 ヤドリギといえば、あれだ、松原のぶえの「宿り木みたいな人だけど」…違う。漢字で書くと「宿木」。「寄生木」「桑寄生」とも書くか。ちなみにアマゾンをひいたら、大林幸二「宿り木情話」川江美奈子「宿り木」も出てきた。知らないなぁ。シングルだったらダウンロード販売のほうがいいのでは。話が間違った方向にずれた。
 西洋ではクリスマスにヤドリギを飾ることもある。「トイ・ストーリー」の最後のシーンでボー・ピープがウッディーに無理矢理キスをするのだが、あれはヤドリギの下だから…ということ。欧米ではヤドリギの下にいる相手にキスをするというクリスマスの風習がある。ヤドリギのキス(Mistletoe Kiss)とも言うようだ。ネットをちょっとひいたら"Why people kiss under mistletoe"(参照)というページに由来の考察があった。


Ancient Europeans thought mistletoe was sacred. Druid priests used it in sacrifices, thinking it brought good luck. Perhaps the kissing started with the Norsemen when Frigga, the goddess of love, shed tears of joy over her son Balder, god of the sun, when he was restored to life after being shot with an arrow.

 ここで、古代のヨーロッパではヤドリギは聖なるものと考えられていたとあるが、そうなのだろうと思う。
 ここからトリビア的な話なのだが、先のヤドリギのリンク(参照)で薬用植物を引いておいたのは、これが伝統薬にも利用されるからだ。漢方(というか本草)では「桑寄生」をソウキセイとそのまま読む。カネボウの独活寄生丸にも配合されている。
 ヨーロッパで聖なるものといえば、担当はルドルフ・シュタイナーでしょ、というわけで、彼は、ヤドリギは癌の薬だと霊的に理解したのである。なぜか…。
 シュタイナーはわかっているのである…彼によれば、癌とは、人間の身体を形成する低次元の組織力と高次元の組織力という二つの力の不均衡によるもので、高次元の組織力が弱くなると細胞の低次元な組織力のよって腫瘍が形成される。これは、魂の混乱によっても引き起こされるのである…。だから、この均衡を変える非地球的な特性をもったものの力が援用されるうるのではないか…地上なるものは地に立ち、重力に支配され、季節の循環に屈服する…しかしがそうではないもの…そ、それはヤドリギではないか!!
 彼の電波、いやいや直感、いやいや霊的洞察力によってできた薬がイスカドールというので、これはけっこうドイツなどで利用されている。またまた米国人にもこういうのがお好きでたまらない人がいるので、数年前だったか癌になった女優がイスカドールを使うとマスコミで吹聴してちょっと話題になった。
 イスカドールはこんな文脈でおちゃらけで書くとお笑いの対象のようだが、ヨーロッパではある程度の効果をもたらしたとする歴史があり、薬学的にも研究が進められている。注意したいのは、じゃ、とかいって、ヤドリギ茶とか作らないように。イスカドールの原料となるヤドリギはクリスマスなどのヤドリギとは違って特定された種類だし、製法は難しい。特殊な方法でミネラルを配合するのだが、単純にはできない。
 最近はイスカドールの話題はどうかなと思ったら、一昨日のタイムのオンライン版に"Kissing plant has dubious reputation(キスの木の評判は疑わしい)"(参照)という記事があった。

A good source of information on mistletoe is the USGS site (www.usgs.gov/mistletoe) where you will learn that there are over 1,300 species of mistletoe worldwide, 20 of which are endangered. Quoting from the Web site: "In fact, says Rob Bennetts, a USGS research scientist, some animals couldn't even survive without mistletoe, including some birds, butterflies, and insects."

And we thought it was only for kissing!


 結論が常識的なところだろうか、曰く、私たちが思うに、ヤドリギはキスの口実にだけ使うのがよろしかろう、と。
 それでも、ヤドリギって、出会いヲタこと栗先生(参照)のアイテムには使えねーでしょうかね。あるいは、れいの帰国子女とかだとよいかもしれませぬが。って、イブは終わったけど、米人などが騒ぐクリスマスパーティは今日。

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2004.12.24

環境問題をスルーしてしまった人のために

 どうでもいいやと思ってスルーした話題だったのだが、あれだ、先日のブエノスアイレスで開かれてた地球温暖化防止条約(気候変動枠組み条約)の第10回締約国会議(COP10)のことだが、あれって、いったいなんだったのだ? わかる?
 わたし的には、どうせ京都議定書なんて成功するわけもないし、成功したところで地球環境になんかに関係ないし、米国をやりこめる政治的な枠組みとしてしか使えねーと思っていたのだが、どうやら、かなり芳しい方向に爆走していたみたいだ。
 おっと、こんな枠組みが成功しないのは日本くらいであって、EUのほうは、さすがヨーロッパ人、使える道具はとことん使え。マジでやる気のようだ。昨日の共同だが"排出削減目標は達成可能 EU、積極的取り組み強調"(参照)でもその見通しを確認していた。


15カ国の02年までの削減率は2・9%だったが、欧州委は、排出量取引制度の導入など今後予定している削減策を動員すれば、10年までに8・6%まで引き上げることが可能と指摘。10カ国は追加的な削減策で目標を達成できるとしている。

 確かにうまく立ち回ればこれは使える。って対米的に使うのだろうが。それに、ふと思うのだが、これって結局日本はせっせと墓穴を掘っているのではないのか。
 この話題を積極的にスルーしたのは、例えば12月16日の愉快な朝日新聞社説"温暖化会議――次の一歩を踏み出そう"とかがあまりに説得力があったからだ。

 ブエノスアイレスで開かれている気候変動枠組み条約の第10回締約国会議(COP10)の参加者には、久しぶりに笑顔が戻っている。

 そりゃあいい。当然、朝日新聞さんだって環境なんて反米の看板だってことはわかっていらっしゃるからこうなる。

 対立はあっても、世界が一つになって温暖化を防ぐという共通の目標に向かう必要がある。途上国を呼び込むには、まず先進各国が自分たちの削減義務を確実に果たすことだ。  それを考えるとき、最も大きな障害はやはり米国である。


 米政府の代表は会議で「米国は京都議定書とは異なる道を選んだ」と議定書に加わらないことを改めて示した。削減は容易ではないとはいえ、世界最大の排出国が途中で降りるのは身勝手だ。
 先の大統領選挙では温暖化への対応も焦点になった。民主党のケリー氏は京都議定書の批准には反対したものの、国際交渉には積極的にかかわるべきだという姿勢を示していた。
 振り返ってみれば、温暖化研究を引っ張ってきたのは米国である。市場メカニズムを利用した排出量取引など京都議定書の仕組みも米国のアイデアだった。
 国際社会と協調することを求める声も米国内には多い。そうした声を受け止め、米政府は方針を転換すべきだ。

 そうよ、そうよ、米国よ、悪いのは。って、そういう話題かよ。と、こりゃ、スルーしかないよね、と思っていたのだが、どうやら、そーゆーことではない。
 どういうことか。これが個別のニュースを引くとかえってわかりづらいのだが…ちょっとまとめる。

南の島は沈んでしまうよぉと嘆く嘆く
 読売新聞(2004.12.17)"温暖化防止「COP10」閣僚級協議 ポスト京都議定書、各国手探り"より。開催日の花火のようなものだが…。


だが、この日のハイライトは、その直後に演説した太平洋赤道直下の国・キリバスだった。海面上昇で水没の危機を訴える島しょ国代表として、「我々は持続的発展どころか、生存の危機にさらされているのだ」と訴えると、聴衆から、さらに大きな拍手が起きた。

 ナウルなどを考えるに、沈む原因はそれかねとも思うが、話としてはわかりやす過ぎ。ところで、島しょ国って沖縄でよく聴いた言葉だった、あ、次、行ってみよう。

中国はなにかとケチを付けるの巻
 共同"先進国への不満相次ぐ COP10閣僚討論会"(参照)より。


中国は「世界最大の排出国が議定書を批准しておらず、批准しながら排出が増えている先進国もある」と米国や日本などを厳しく批判した。

 ケチをつけないと中国らしさが出ませんし。

EU対米国の対立は当たり前
 共同"欧米間の意見対立が表面化 将来の温暖化防止国際制度"(参照)より。


京都議定書に定めのない2013年以降の「ポスト京都」の国際制度をめぐっては、同議定書をベースに、より厳しい温室効果ガスの削減目標を目指すEUと、議定書と異なる枠組みを求める米国の立場が鋭く対立。

 このあたりは、先にも触れたようにEUってすっかりヤル気でいるし、米国もすっかりソノ気。ついてけないよ。

EU内でも方針が分裂するかも
 共同"イタリア、延長に「反対」"(参照)より。


ロイター通信によると、イタリアのマテオリ環境相は15日までに、地球温暖化防止のための京都議定書の有効期限について、現行の2012年までとし、延長すべきでないとの考えを示した。

 イタリアってEUでしょ、ってツッコミはなし。反対理由は、温室効果ガス大量排出国である、米国、中国、インド抜きで意味があるのかぁ!、であり、このあたりはただのラテンな気質とは言い難い。

ボーランド曰く、環境だけの問題じゃないよ
 京都新聞"「気候変動」対策、途上国と溝深く COP10、閣僚級会議"(参照)より。


ポーランドは「気候変動の影響は環境だけではない。社会や経済への影響を測る手法を共有する必要がある」と提案。

 ポーランドにしてみれば、この問題はEUに日和ったものの、このまま進むといいようにEUにしてやられてEU内の三流国家にされちまうぜ。

産油国は環境なんて儲からん、ゼニをくれぇと吠える
 同じく京都新聞より。


サウジアラビアは「先進国が京都議定書に基づき二酸化炭素などの削減を進めれば産油国は毎年数10万ドルの損失を被る」と、気候変動対策の「補償」を求める従来の主張を繰り返した。

 芳し過ぎ。土台昨今の原油価格つり上げでボロ儲けを出しているのは誰ぇ? それはさておき、中国が北京オリンピック後にシナリオ通りに崩壊したら、世界の石油ってだぶだぶになるのでしょうか。

環境省VS経産省
 読売新聞(2004.12.17)"ポスト京都議定書交渉 環境省VS経産省 足並みの乱れ露呈"より。


 期間中、経産省は米国や中国の政府高官らをゲストに招いた講演会を相次いで開催し、その席で、同省の審議会がまとめた報告書を紹介。ポスト京都の国別の数値目標は補完的なものにとどめ、目標の期間も緩やかな二十―四十年の長期にするべきだとの立場を説明した。
 一方、環境省は同省所管の研究機関が主催する講演会で、「次の枠組みでは、京都議定書の成果を尊重すべきだ」と主張。会場では数値目標を軸にした同省審議会の報告書が配布された。

 アッパレ日本。環境省と経済産業省が相反する内容の報告書を配布していたのだ。

 実際のところ、気候変動枠組み条約第10回締約国会議(COP10)ってなんだったのだろう。
 例えば…環境って大切だよね、それを守らない米国って悪いよね、だから、良い子のEUと日本とロシアが正しい道を進めば、中国やインドもきっと納得してくれるよね…とか言う?
 マジなストーリーで言えば、現代の先進国の経済発展とそれを狙う中国・インド・ブラジルとの縦の覇権争い、それにEU対米国の横の覇権争い。そして、日本は道化。
 それと、EUと日本については、所詮石油をだぶだぶ使うわけにはいかないので、石油に絡んだエネルギー戦略でどうやって優位に持ち込むかということ。
 環境問題っていうのは、環境って考えるからスルーしがちになるけど、以上のような乱闘のリングとして見ると、まだまだ楽しめるのではないだろうか。

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2004.12.23

世界子供白書2005を巡って

 ブログのネタとしては少し古いが12月9日「世界子供白書2005」が発表され、その翌日から英語版がPDF形式でダウンロードできるようになった(参照)。日本語版は来年3月末になるとのことだ(参照)。概要部分については、すでに日本語の文書がPDFで用意されている(参照・PDF)。内容は、おそらく誰もが想像がつくように、陰惨極まるものだ。
 国内のニュースでは、例えば毎日新聞では共同配信の"ユニセフ:「世界子供白書」を発表 途上国の子、半数ピンチ"(参照)の記事がある。


国連児童基金(ユニセフ)は9日、ロンドンで05年版「世界子供白書」を発表。発展途上国に住む18歳未満の子供の半数以上に当たる約10億人が貧困や戦争、エイズのために窮状にさらされていると指摘した。

 10億人が窮状にさらされているとあるが、英語ではもっと端的に"Under Threat"と表現している。「脅迫」という日本語の語感は合わないとはいえ、窮状というよりは脅迫下に置かれているというほうが実態に近い。
 こうした問題は従来貧困の問題として扱われてきた。たしかに貧困の問題は基底に存在している。
 ここで私が自分の稚拙な意見を挟むべきではないのかもしれない。だが、こうした世界の貧困問題は、日本では従来、左翼なりレーニン系のマルクス主義の文脈で捕らえられ、あたかも世界の資本主義国が帝国主義として第三世界を搾取しているのだというふうな話につながっていたと思う。現在ではある程度の知識人の層は苦笑するだろう。また、そのリングで不毛なイデオロギー論争は避けたいと思うのではないか。私もそう思う。
 世界の貧困の問題は難しい。今回の白書では、ノーベル賞経済学者スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz)の寄稿もあるのだが、率直に言って、その経済学的な知見を活かしたものではない。

Our self-interest is at stake: A world with such social injustice and despair provides a fertile breeding ground for terrorism. Democracy without education often falters. As an economist, it is easy to say that we are not allocating resources in ways that maximize our own long-term interests. Lack of resources is not, and cannot be, an excuse. But we should not view the eradication of poverty among children as simply a matter of self-interest. It is a question of what is morally right.

 スティグリッツですら、経済学の立場を横に置いて、今やモラルを説いている。
 もしかすると、経済学の本質になにか欠陥があるのではないかとすら私は疑念を持つ。政治と経済を分離し、モラルを独立させることで問題は解決されるのだろうかと疑う。旧来のマルクス主義なり世界システム論なりが不毛であるにせよ、より代替的な世界理論の構築が計られなくてならないではないのか。
 子供を巻き込む紛争が今回の白書の大きなテーマでもあった。紛争と言えば、現在、世界は日本も含め、中東問題に目を向けていることが多い。しかし、世界を本当に世界の視座で見るなら中近東は紛争地域の典型でもなければ、貧困地域の典型だともいいがたい。その対応の可能性も、そう難しいものではない。この地域の国家資源をどのように内政的に配分するか、あるいは、国際市場に対応するかという模索で見ていくことができる。むしろ、紛争ということで世界的に問題となっているのはアフリカだということは、たとえば私なども、この一年間の極東ブログの継続でも実感されるものだった。
 問題は、端的に言えば、アフリカだ。共同は今回の白書について、こう簡単にまとめている。

 白書はまた、90年以降の戦争や紛争で死亡した360万人の半数近くが子供だったとした上で、大勢の子供が依然、兵士になるのを強制されたり、戦争に伴う性的暴行の犠牲になっているとした。
 さらにエイズで親を亡くした子供の数が2003年末で1500万人に達し、そのうち8割はサハラ砂漠以南のアフリカ諸国に住んでいると指摘した。

 このまとめが間違っているわけではないのだが、白書が現在世界が訴える子供の問題は少し違うようにも思われる。そこがうまく表現できないのだが、アフリカの紛争という構造が必然的に子供を巻き込んでいるように見える。
 この側面において、最悪なのは、私が思うに、ダルフールではない。ウガンダだ。今回の白書でも"Uganda's ‘night commuter’ children(ウガンダにおける「ナイト・コミューター」の子供たち)"(同書p48)として大きく取り上げている。
 「ナイトコミューター」の説明の前に、私のような者が言うにためらうのだが、できたら、今、国連人道問題調整事務所(OCHA:the Office for the Coordination of Humanitarian Affairs)のサイトのトップページを開いて見てもらいたい(参照)。

"The conflict in northern Uganda is characterized by a level of cruelty seldom seen elsewhere. This is a war of children against children. It excludes vast swathes of the population from participation in any semblance of development. The world owes them better, for the sake of peace and for the sake of humanity. They should not be abandoned."

Jan Egeland
Under-Secretary-General for Humanitarian Affairs
and Emergency Relief Coordinator

【引用部試訳】
北部ウガンダの紛争は他所では見られない残虐さで際立っている。この紛争は子ども同士が殺し合う戦争なのだ。この戦争は社会向上の原動力となる人口を奪っている。世界の人々は、平和と人道主義のためにも、この子どもたちに救援の手を伸べなくてはならない。この子供たちを見捨ててはいけない。


 ここで起きている事態については、日本語では、実際にウガンダ北部でこの問題を取材された毎日新聞白戸圭一記者による三回シリーズ"子供たちの戦場:ウガンダ北部内戦"が詳しい(参照参照参照)。

 アフリカのウガンダ北部で「神の抵抗軍」(LRA)と名乗る武装カルト教団が、18年にわたって住民虐殺と子供の拉致を続けている。政府軍の攻撃で勢力は衰えつつあるといわれるが、子供たちが拉致におびえる暮らしは変わらない。国際社会からほとんど顧みられることのない危機の実態を報告する。


 住民は90年代半ばに激化した襲撃のため、村を捨てキャンプへ移住してきた。だが、逃げても逃げても抵抗軍は追ってくる。避難民はウガンダ北部全体で50万人を超え、拉致された子供は2万人、うち少なくとも5500人は行方不明のままだ。

 先の「ナイト・コミューター」についても、同記事で触れられている。ナイト・コミューターは子供が夜間に拉致されないようにするための避難所である。

午後6時。熱帯の太陽が地平線に消えるころ、ウガンダ北部の都市グルでは子供たちの大移動が始まる。5000人は下らないと思われる子供が鉄条網に囲まれた施設へ吸い込まれていく様子は異様というほかない。行き先は、地元ボランティアが運営している「ナイト・コミューター」と呼ばれる宿泊所だった。

 このウガンダの悲惨な状況は、さすがにウガンダにおいて頂点を極めるのだが、類似の構造はアフリカの他所でも見られることは、極東ブログ「リベリアの武装解除と暴れる学生たち」(参照)でも触れた。

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2004.12.22

米国は台湾への軍事支援を強化してきている

 昨日VOAのニュースを見ていたら、アメリカ政府は現在台湾の台北に派遣している防衛エキスパートのシビリアン(非軍属)を、今後現役将校に据え換える、とあり、ぎょっとした。単純に考えると、台湾への軍事支援を明白に強化するように思えたからだ。VOAのニュースは"US Reported Ready to Station Military Officers in Taipei"(参照)である。
 この手のニュースは日本国内では報道されないだろうかと気になったが、その後、ロイター系で報道され、おそらくそれを引いた共同系の"米、現役将校を台湾派遣か 断交後初と英軍事誌"(参照)でベタ記事に近い扱いで報道された。主要紙では毎日新聞が台北特派員の記事として、"米が将校配属か 英誌報道、断交後初めて"(参照)の記事を出したが、内容を読むに、「台湾当地の新聞では」と切り出すものの、その文面はロイター系の報道とほぼ同じなので、現地取材の利点は活かせてないようだ。これに対して、冒頭のVOAは北京特派員による取材情報が含まれている。
 事態の概要を知るべく共同系のニュースから引用する。


 20日付の台湾各紙は22日発売の英軍事専門誌ジェーンズ・ディフェンス・ウイークリー最新号の報道として、米国の現役将校が来年、米国の台湾代表部に当たる米国在台協会台北事務所に配属されると報じた。

 また、その意味として、共同系はこうまとめている。

ここ数年来の中国の軍事的脅威拡大を懸念している米当局が台湾との軍事関係強化に向け、政策転換したとみられるとしている。

 さらっと書いているがここ、つまり「米当局が台湾との軍事関係強化に向け、政策転換した」がこのニュースのキモでもある。
 同記事では、さらに、現在台湾が対中防衛力強化に向け、米国から約2兆円もの武器購入決めているため、その調達を担当するとしている。VOAもそのスジでの解説もしているのだが、それだけなら、シビリアンでも問題はないだろう。むしろ、武器の技術的な調整などは製造に関わるシビリアンでも詳しいはずだ。
 今回のニュースの元ネタは英誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウイークリー」だがこのサイトから該当記事はオンラインでは読めないようだった。また、この事実関係について他のソースからは裏は取れていない。追記同日:ATIからアナウンスがあり確認された。
 Google Newsを使って、このニュースの国際的な反響を見たのだが、日本国内とは違いベタ記事扱いとはいかなようだ。AsiaNews"US military staff to be stationed in Taipei after 25 years"(参照)ではVOAよりも政治面に踏み込んでいた。

According to the magazine, the change reflects “growing concern in Washington over China's military ambitions in the region” and should become effective by mid-2005 when military officers are expected to take up their posts at the American Institute in Taiwan, the de facto US diplomatic mission in Taipei.

 中台の軍事バランスが数年以内に転換するため、それを機に中国が突発的な軍事行動に出ないようにという米国の思惑があるらしい。

 US Congress in 2002 passed a bill allowing for the posting of military staff in Taiwan if it was deemed to be “in the national interest of the United States.”

 米国下院では今回の件はすでに承認済みとのことだ。ここで米国の国益とやらが出てくるのが、難しい。この点、先のVOAでは台湾法について簡単に補足している。

The United States remains one of Taiwan's key allies and the leading source of its military hardware. It is also obliged by law to come to Taiwan's defense if it is attacked.

 台湾が攻撃を受ければ米国が乗り出すのは同盟に関わることなのだが、このあたりは日本人で知らない人がまれにいる。
 ニュースとしては以上なのだが、「ジェーンズ・ディフェンス・ウイークリー」の記事を書いたWendell Minnickについては、Asia Pacific Media Servicesというサイトで近年のエッセイをまとめて読むことができるので、今回の報道との関連あるかとざっと見渡した。うかつにも驚くべきものがあった。
 なかでも、今年の4月の記事だが"The year to fear for Taiwan: 2006"(参照)では、中国軍がどのように台湾を軍事侵略をするかについてのシナリオが掲載されていた。あくまで軍事的な意味しかないのだろうが、読んでいて私などには空恐ろしいものであった。
 軍事シナリオに加え、軍事的な政策面で、ある意味では当たり前なのだが、興味深い指摘もあった。特にハワイのPACOM(US Pacific Command)の意義だ。

PACOM argues that the move is in response to North Korea, but others are suggesting that Taiwan is the basis of much of the move. This is a common theme in US military planning in Asia: the overt reason used is North Korea, but the covert one is Taiwan. Guam is now being considered for possible placement of an aircraft-carrier strike group to be moved from Hawaii.

 つまり、表向きには対北朝鮮シフトということにしているが、実際には台湾問題のためにある。"the overt reason used is North Korea, but the covert one is Taiwan"という表現に含蓄があるのだが、このあたり、私の印象ではどうも日本のマスメディアや一部の大衆感情は北朝鮮という餌に踊らされているようにも思える。
 それにしても、そこまでして台湾に米国が入れ込むメリットはなにかがやはり問われうるだろう。この点についても同エッセイは踏み込んでいる。

Why is Taiwan worth fighting for?
To anyone who looks at a map of the region, the reasons are obvious. Taiwan's strategic location makes it extremely valuable. The Taiwan Strait is a critical sea lane, and taking Taiwan would allow China to choke off international commercial shipping, especially oil, to Japan and South Korea, should it ever decide to do so. In addition, Taiwan serves as a vital window for US intelligence collection. Taiwan's National Security Bureau and the US National Security Agency jointly run a Signal Intelligence facility on Yangmingshan Mountain just north of Taipei (see Spook Mountain: How US spies on China, March 6, 2003). Taiwan's inclusion into China's military power structure would be unthinkable for Japan.

 「理由は明白でしょう("the reasons are obvious")」というところに、私など沖縄にいたころ米人と話したことを思い出す。彼らは在沖米軍基地についてよくそう答えた。
 ここでは、台湾海峡が封鎖されれば、日本と韓国が封鎖されますよ、特に、石油が断たれますよ("choke off international commercial shipping, especially oil")と触れている。日本には単純にぞっとする話が、冷静に考えれば、そのことがどれだけ米国にとって重要性を持つことなのだろうかとも疑問に思う。米国にとってみれば、日韓が事実上滅んでも、中国がその代替となるというシナリオだってありうるかもしれない。
 考えてみれば、イラク戦争も大儀なき戦争と言われ、確かに理想の国連を中核に据えた国際秩序を考えればそのとおりなのだが、現実の国連は理想とはほど遠いうえに、自由経済の重要な象徴ともなっている石油取引を保護するという理由はあった。
 日本は国際的な自由経済が保証されなければ存続できない。そして、台湾問題は日本の存続が米国にどのような意義を持つのかとい問いにも関連しているようだ。

【追記同日】
その後、北京政府側から米国への公式な非難コメントがあった。また、AIT側も今回のシフトは、台湾への米国の軍事政策変更ではないとの旨ものアナウンスもあった。ので、逆にこのニュースは公式に事実と確認もできた。

China Opposes US Military Presence in Taiwan参照

The Chinese Foreign Ministry says the U.S. policy threatens to destabilize cross-strait relations.

Foreign Ministry spokesman Liu Jianchao criticized Washington's plans in a news briefing Tuesday.

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2004.12.21

マカオの思い出

 昨日は12月20日、コザ暴動の日だなとも思った。そういえば、マカオがポルトガルから中国に返還されて5周年でもある。そんなこともあってか、マカオで開かれた記念式典に胡錦涛が出席したとのニュースを聞いた。マカオかぁ、とちょっと物思いにふけった。そういえば、10年も前になるが、この季節、日本は寒いからというわけでもないが、ちょっくら香港からマカオに行ったことがあった。香港の派手なクリスマス・イルミネーションに萎えて、早々に船でマカオに渡った。マカオの港に着くと空気は奇妙に生温かい感じがした。

cover
ジョアンの
香港・マカオ
ノート
 港から出て、さてどこに行くべーかと海沿いにたらたら散歩した。そして、リスボンホテルの前だっか、ぼーっとつっ立っていたら、現地の女の子なんだろう肌の色の濃い中学生くらいの年頃の子が寄ってきて、なんかもしょもしょ言う。小銭ない?ということらしい。あるよ……ちょうだい……あげるよ……ありがとう……(物乞いでもないらしい)……どうするの?……バスに乗る……と、今思うに、いったい何語で会話をしたのか覚えていないが、そういう次第だった。彼女は、そして、すっとバスに乗って行った。華人ではないなぁと思った。あとで思うと、その後住むことになる沖縄のウチナーンチュの女性みたいな感じではあった。
 また一人ぽつんと残された私は、そういえばよくバスが行き交っているものだなと見ていた。バスの数台は橋の向こうの島に行くようだ。島かぁ、島はいいな、と思って、そっちに行きそうなバスに乗って島のほうに向かった。地図を見ると、島は二つある。なんとなく、島の南端に行ってみたくなくなった。コロアネ島である。
 コロアネ島のバス停で降りて、さて、と見渡すと、なんとなく東洋というよりは、ギリシアかトルコの田舎みたいな雰囲気でもある。南端はどこかなと思っているうちに、タクシーがいたので乗って、南端の海岸に出た。ドライバーは華人だった。今思うと、変なやつと思ったのではないか、怪訝そうだった。ぼられた。ま、いいか。海岸に着く。今はぁもう冬♪、誰も、いない海、である。タクシーがいなくなり、誰もいないコロアネ島の海岸に残されて、さて、俺って何?と思った。別にここに死に場を求めたわけでもない。まぁ、こうしてよく旅先で途方に暮れる。途方に暮れないと旅という感じもしない。
 海を見るに飽きると、自分が異国の島で迷子になっていることに気が付いた。それほど大きな島でもないからと、歩きだした。あの時の風景が記憶のなかでやはり後の沖縄の風景に重なる。まさかそれから沖縄で8年も暮らすことになろうとは…。
 その先はよく覚えていないのだが、またタクシーを見つけたかなんかして、ザビエル教会に出た。当時、コロアネ島の唯一の繁華街?という感じなのだろうか。教会の前にはカフェテラスというかこれも地中海風のオープンエアの、あるいは江ノ島風な、タベルナがあった。白人が20人くらいいたか。まさにコロニアルっていう感じだなと思った。白人たちの幾人かはのんびり巻き貝のようなものをつまんで食っていたので、私もそれをくれと注文した。沖縄のチンボウラとも違う巻き貝だが、塩ゆでしただけのもの。それをただ食うだけ。たいしてうまくもない。他になんだかわけのわからんチャーハンのようなものを頼むと、よく見かける金属製の茶壺(急須)にプーアル茶も出てきた。こんな島でこんなふうに暮らすのいいなとは思った。
 暇なのでザビエル教会も見た。小さな、玩具のような教会だった。きれいはきれいだ。ザビエルの腕なんてものも陳列してあった。まったくな、カトリックってやつらはこういうのが好きなんだよなと、イスタンブルのトプカピ宮殿の博物館で見たヨハネを腕を思い出した。
 ザビエル(Dominus Franciscus de Xabier)と日本では言い習わしているが、本当はなんと読むのかと、そういえば大学生のころフランス語の先生と雑談したことを思い出した。シャヴィエル、ハビエール、グザビエー…なんだったかな。ザビエルはバスク人だ。そういえば、ザビエルの忌日(聖人の日)は12月だったかと思い出し、Wikipediaでもひいてみるかと見ると、ありましたね(参照)。おやおや、ちゃんと名前の読み方談義までついてますね。スパイだった説はあるかなと見るが、Wikipediaにはない。トンデモ説だったか。
 コロアネ島からはまたバスに乗ってマカオに戻った。バスと歩調を合わせて海産物を積んだトラックが走っていたのを奇妙によく覚えている。橋を渡りつつ、遠くに、建設中の大きな空港を見た。あれだけ大きな空港ができたら宗主国ポルトガルへの直行便もあるだろうなと思った。後に台北の中正空港で暇になって、マカオ経由でリスボンに行けるのかちょっと調べたが、直行便があるみたいだった。
 マカオの思い出はそのくらい。マカオの街は…ま、どうでもいいでしょ。観光地ですよ。それから香港が返還され、マカオが返還された。その間、もう一度マカオに行きたいものだとも思ったが、はたしていない。暴力団もいなくなったとのことだが、日本人の中年男がぼそっと出かけると目的を誤解されるのではないだろうな。いや、旅に目的なんてないのだけど。

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2004.12.20

「NHKに言いたい」で終わるというシナリオなのかな

 NHKの不祥事に対するNHKからの回答とも言える、昨日の「NHKに言いたい」(参照)を見た。2時間を超える番組なのに、あるいはだからなのか、ひどく、つまらなかった。でも、私も「NHKに言いたい」として、もう一つここにエントリを書いておく。
 番組「NHKに言いたい」は、朝まで討論とかの真似事なのだろうか、個々の意見には聴くべきことも多いのだが、この番組を総じて見れば、対話自体のエンタテイメントに過ぎず、不祥事の具体的な対応という問いかけに答えたものとは言えないかった。つまり、この番組の構成が、意図的になのか(ガス抜きとか)、まずい。あるいは表層的に、この番組を映像メディアとして見るなら、「NHK海老沢勝二会長ってすげー恐い顔しているな、こいつってこれでも辞任しないんだな、呆れるなぁ」というのがエンタテイメント的なメッセージだったのだろう。
 このNHKの不祥事問題に関連して私は以前、極東ブログ「今回のNHKの不祥事は録画でハゲを見せて終わり」(参照)を書いたが、依然、関連会社の問題のほうが重要かなとは思っている。些細な例だが、NHKで報道した「永平寺」(参照)をDVDで売るのはいいとして、制作費はNHK受信料持ちなのに、なんでこんなに高額なのだろう。
 別の言い方をすれば、今回の不祥事は、事実上は、問題にすらなっていないと思う。その話を当てこすり的に補足しよう。
 NHKの側の問題としては、単純な話、不祥事であれなんであれ、受信料というカネが入ってくればOKであり、入らなければアウトだ。だが、今回の一連の不祥事で行き詰まったカネは、11月末の時点では11万3000件。これがさらに膨れてもせいぜい20万件止まりだろう。これに対して、現在受信料を払っている世帯は約3800万世帯。桁が違う。不払いの意思表示が問題だとかいうが、3800分の20なんて屁でもない。日本社会の惰性・無気力を考慮すれば、今後、地滑り的に不払い者が増えるという事態もならないだろうし、NHK側としても年金問題のように未来の経営ビジョンが描けないなんてこともない。少なくともNHK側には実質の問題なんてない。
 以前からでもNHKの受信料の不払いは多いと言われるが、それとても、50万世帯で天井ではないだろうか。多く見積もっても、NHKに受信料なんか払いたくないという世帯は100万世帯程度で収束する。やはり、こんなの、NHK側にはどってことのない問題なのだ。
 これは結局、れいの「ブログ対新聞」といった愉快なメタ議論にも関係するが、新聞なんて事実上すかすかでも、戸配と広告による新聞社の収益構造が変わらなければ、変わりはしない。むしろ、戸を中心とする日本社会のシステムがじわじわと崩壊することで、新聞もNHKも崩壊するのだろうが、それというのは、ごく自然な社会変化の過程だ。
 では、NHKはこの機に何も変わらなくていいのかといえば、多少は変わるだろう。NHKとしてもこれだけ「祭」にしたからには、あと十年くらいは不埒なやつも出にくくなる。でも、それだけのことだ。そして、それはそれでいいのかもしれない。と思うのは、国民年金の問題のように、支払いを強制化するような政治権力の介入を招くよりはましかもしれないからだ。
 問いの方向を少し変えて、惰性のNHKはどんどんつまらなくなっていくかだろうか? NHK好きの私にしてみれば、別にそれほどクオリティが落ちているとも思わない。先日の3回特集「ローマ帝国」は中学生レベル以下のすかすかの内容だったが、見る側のレベルもそんなものかもしれない。私について言えば、NHKがキリを入れる韓流ドラマにはまるで関心ないが、だから困るわけでもない。クローズアップ現代とラジオ深夜便があればいいからだ。そのくらい。NHKのメディアとしての価格も、他の情報の価格帯と比べれば、まず妥当だろう。というか、そういう判断が実際の日本社会には結果的に多い。
 今回のNHKの不祥事がうやむやで終わるとして、どうしても嫌だな、やりきれないなと思うのは、エビ・ジョンイルより、NHKの経営委員会という存在だ。端的に言って、本来なら、ここできちんと海老沢勝二会長の首を切るべきでしょう。それができないというか、まるで機能していない。今後も機能しそうにない。
 経営委員の任命は内閣だが、その活動は、事実上、政府側のシナリオ通りに動いているし、それに対して、空気を読め的にNHKの政治情報は規制されている。反面、そこから奇妙にずれたところでは、旧来の左翼インテリ的な奇妙な政治メッセージを出してもいる(例えば、NHKは国連疑惑には触れない)。でも、この点について言うなら、稚拙な偏向報道は別のジャーナリズムで個々に叩き潰していけばいいのだ。ブログのネタにもなるしね。

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2004.12.19

私のお気に入りのクリスマスソングCD

 この数年自分の定番になっているクリスマスソングのCDの紹介でも。

Christmas Singers Unlimited
cover このクリスマスソングCDがないと私のアドベント(待降節)…クリスマスは始まらない。クリスマスのための完璧なBGMだと思う。すごく美しい、って大げさだけど、そう実感している。
 1972年の作品というから、30年以上も前なのだけど、古さをまるで感じない。アカペラだからなのかもしれない。
 リンク先のアマゾンのサイトで全曲の冒頭がリアルプレーヤーで試聴できる。ちょっと聴くとわかると思うけど、シンガーズ・アンリミテッドのこのクリスマス・アルバムを知らない人でも、きっとどっかでなんとなく聴いているから、あーこれかと納得すると思う。
 レコーディングの音質も、デジタルマスターからハンス・ゲオルク・ブリュナー・シュヴェア(Hans Georg Brunner-Schwer)からリマスターしているので、かなりよい。


Christmas Harmony Inner Voices
cover こちらもアカペラ。女性四人のグループ。ジャケットを見るとわかるように黒人二人と白人二人、なので、声質のバランスも面白く、リズム的なノリもいい。リンク先の米国アマゾンのサイトで曲の試聴ができる。1990年の作品だが、古さを感じない。
 日本のアマゾンでは販売していないが、米国アマゾンでは売っているのでそっちにリンクを張った。
 米国アマゾンの素人評を読んでいたら、最初はカセットテープで買ったのだけど擦り切れたのでCDで買い直したというエピソードがあった。わかる気がする。なんどもなんども聴きたくなるハーモニーだからだ。
 特に、White Chiristmasは、彼女たちの歌が最高だと思う。


Billboard Top Christmas Hymns
cover これを勧めると、音楽のセンスを疑われて当然、といったシロモノなのだが、ようするに米国の大衆的なクリスマスソングの定番集だ。アンディ・ウイリアムスやジュリー・アンドリュースとかね。
 アマゾンのサイトで試聴できるので聴いてみると、一定以上の年代の人なら、あ、これねという感じがするはず。というか、実に、アメリカンなクリスマスの雰囲気が漂う。
 こういうのもいかがなものかとは思うが、荒井由実的戦後の米軍基地文化というのは私などにも郷愁を呼ぶものがあって、嫌いにはなれない。っていうか、そもそもクリスマスなんてものが米軍文化だった。


Christmas Collection The Carpenters
cover カーペンターズのクリスマス・アルバム。78年の「クリスマス・ポートレイト」(78)と「オールド・ファッションド・クリスマス」(84)の二枚組。1984年なんてついこないだのことかと思うのだがもう20年も経つのか。
 マジで恥ずかしながらカーペンターズのファンだったので(キング・クリムゾンとかもファンだったが)、カレンの声は懐かしくてたまらない。だが、カレンの曲を聴けるよういなったのは、数年前からだ。彼女が死んだのは1983年2月4日のこと。直接の死因は心臓発作だが、そこに至った原因は神経性食欲不振症(Anorexia nervosa)、つまり、拒食症だった。彼女の死については、「カレン・カーペンター―栄光と悲劇の物語」が詳しい。同時代の人間としてはやりきれないような悲しさを覚え、私は10年以上もカレンの声を聴くことを拒んだ。
 昔ギリシア語を学んだとき、ギリシア語で覚えた格言があるのだが、それも忘れたのに、意味だけはなんとなく覚えているのだが、曰く、時はすべてのものにとって薬となる、だったか。かくしてクリスマスには懐かしくカレンの声を聴く。


Celebration of Christmas
cover 考えようによってはこいつもちょっと悪趣味。ジャケットを見るとわかるように、脇の男性はカレーラスとドミンゴ。そして、女性はナタリー・コール。ナット・キング・コールの娘だ。何? パバロッティがいない? いや、パバロッティがいるクリスマス・アルバムのあるのだが、お好きですか?
 当然だが、これは「世界3大テノール’94夢の競演」と似たようなもののクリスマス版。ところで、この3テナのDVD版ってもう在庫なしですか(ってCDももう無くなりそう)。


Favorite Christmas Hymns
cover 私の好きなマリアン・アンダーソンのクリスマス讃美歌集。古いレコードから起こしたらしく、録音状態は悪くノイズがかなり入っている。歌もマリアン・アンダーソンの代表的なものとは言い難い。それでも、不思議に彼女の魂のようなものを感じさせる。
 マリアン・アンダーソンをトスカニーニは「百年に一度聴くことができる美声」と評した。彼女は、美声と信仰と強い心の他には何もない、貧しい黒人として生まれた。もし、クリスマスの伝説のように神が存在するなら、その天才的な声と歌唱力は、アメリカの人種差別を打ち砕くためのものだっただろうとも思う。


Messiah (Arias and Choruses)
cover ヘンデルのメサイア。当然、全曲ではなく、アリアを集めたもの。これ以外にもヘンデルのメサイアのCDはいろいろある。だが、このCDだとソプラノがキリ・テ・カナワ、演奏・合唱はシカゴ交響楽団・響合唱団、指揮はゲオルグ・ショルティ、なので安心して聞ける。ちなみに音楽史的にはこれは「トービン版」。


Byzantine Music, Vol. 3: Hymns of Christmas Eve
cover 「ビザンチン音楽:クリスマス・イヴの讃美歌」というものだが、ギリシア正教のもの。アマゾンではすでに在庫切れ。米国アマゾンも覗いてみたが、売っていないようだ。いろいろ手を尽くせば入手可能だろうが、そこまで強く勧めるものではない。
 それでも、リンク先の在庫なしページから試聴ができる。なので、ものは試し、"2.Doxastikon-Troparia"を聞いてみてほしい。ギリシア語で讃美の詩を朗詠しているのである。日本人には、多分、コーラン朗詠とグレゴリオ聖歌の中間のように感じられるのではないだろうか。ギリシア正教ではこのような朗詠で新約聖書も朗詠するものなのだ。
 このCDには思い出がある。ちょうどクリスマスの日、アテネのプラカで買ったのだった。

 ちょっと早いが、メリークリスマス! 最近のニューヨークでは、ハッピー・ホリデーズ!というのが流行っているらしいけど、混ぜずにもう一つ、ハッピー・ハヌカー!

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2004.12.18

英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう

 9日のことになるのだが、英国で王位継承権のあり方を変更する法案が提出された。この法案にはいくつかの側面があるが、もっとも重要なのは、王位継承権を持つのは男女を問わず王または女王の最初の子とする、ということだ。従来は男性が優位だったので、王または女王の長男に姉がある場合でも年下の長男が王位を継いでいた。男子がいなければ女子が女王となった。この王位継承のありかたは、従来、毎日新聞"女性天皇:政府内で検討 皇室典範を改正へ"(参照)の記事にあるように、「英国型」と呼ばれていた。


 改正の素案では「男系の男子」と定めている皇室典範第1条を見直す。また、皇位優先順位は、欧州の王室で見られるような兄弟姉妹の中で男性を優先している英国型▽男女にかかわらず長子を優先しているスウェーデン型があり、識者の意見を踏まえながら骨格を固める。

 法案の審議は来年に入ってからだが、おそらく英国の王位継承権は改正されることになるだろう。王室もこの法案を好意的に受け止めている。その意味で、今後は王位継承のあり方として「英国型」というのはなくなる。
 この法案は労働党のダブズ議員(ダブズ卿)が提出したもので、彼は、この法案を出すにあたって次のように主張している。ガーディアン"Bill challenges 'outdated' royal succession rules "(参照)から引用する。

"Anachronistic rules of succession risk preventing the monarchy being acceptable to a full range of 21st-century British society," Lord Dubs warns.

"Support for changes that would reflect modern Britain's values on gender and religious discrimination would be all but universal."
【試訳】
「時代錯誤の王位継承規範には、王室が21世紀に英国社会に幅広く受け入れられることを妨げる、というリスクがあるのだ」とロード卿は警告している。「改正を支援することは、現代英国が掲げる男女平等と宗教差別撤廃が普遍的な価値であることを反映したものなのだ。」


 ここで宗教差別の話が出てくるのは、今回の法案では、従来、王位継承者はカトリック信者を配偶者としてはいけないという規制も廃止するためだ。現実的にはチャールズ皇太子がカトリック教徒のカミラさんを後妻にしてもいいよ、という意味になる。
 同じく、The Heraldの"Time for reason to rule in the outdated royal family"(参照)にあるダブズ卿の発言も興味深い。

"If parliament is unwilling and the monarchy is unable to discuss the issue, then royal reform risks becoming the Bermuda Triangle of the British constitution. Increasingly, the monarchy will suffer from this politics of 'benign neglect'. Most Britons support the monarchy but regard these anachronistic features as unacceptable."
【試訳】
もし議会が気のりしないまま先延ばしの態度でいたり、王位継承権問題は議論できなとするなら、王室改革がはらむリスクは、英国という国家の根幹において、船舶や航空機が蒸発する謎の水域であるバミューダ・トライアングルと化してしまうだろう。しかも、王室は、「慎み深い無視」という政策によって苦しむことになる。英国人は王室を支持しているのだ。この問題について触れるのはやめておこう、といった時代錯誤の誤りをおかしてはならない。

 ダブズ卿の雄弁がまるで指輪物語のシーンようにも思えてる。王室を愛するというのはこうした気迫を持つということでもあるのだろう。
 法案の解説については、ちょっとビックリしたのだが、すでにWikipedia"Succession to the Crown Bill"(参照)に手短にまとまっている。法案全文は英国国会のサイトにある(参照)。だが英国法と歴史の知識が必要とされるのでむずかしいったらありゃしない。
 さて、ダブズ卿が警告しているように、王室が社会に受け入れるには、社会の普遍的な価値を受け入れなくてはいけない。普遍的というのは、このあたりもしかすると日本人にはあまりピンとこないかもしれとも思うのだが、伝統より優先するということだ。日本の文脈で言えば、メディアが愛子様と呼び習わしている敬宮愛子内親王殿下をいずれ東宮とすべきだ、ということになる。
 とはいえ、この手の話は、日本国内だとなんたらかんたら収拾のつかない議論となるのだろう。ふと思うのだが、日本には本来的な意味での貴族制がなくなったために、ダブズ卿のように発言できる人がいなくなってしまったのがいけないのかもしれない。
 日本の皇室については、先日の秋篠宮発言に関連してだろうが、英国系のロイター通信だが、12月7日に"Japan royal succession crisis sparks drama"(参照)という記事があった。

Japan's monarchy is in crisis and, four decades after the last imperial male was born, many royal watchers say it can only be resolved by a decision to let a female succeed to the throne.
【試訳】
日本の皇室は、皇太子誕生後、四十年ものあいだ、危機状態にある。皇室を考える人たちは、この問題を解くには女性の皇位継承しかないと考えている。

 実際のころ、それしかないだろうし、それ意外はあまりに奇怪なウルトラC(死語)にしかならない。
 英国ロイター通信は、2007年には問題になるのでしょうな、としてこの記事を締めている。ま、そうでしょう。そのころまでには、日本の空気ももっと女帝承認になっているだろう。

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2004.12.17

れいの「ひざまくら」が世界のブログに苦笑を誘う

 ところで、話題の「ひざまくら」だが、こんなものもうブログのネタにもならないよね、と思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。ところで、もしかして、「ひざまくら」が何を意味しているか知らない人もいるかもしれないだが、これは、つまり、こういうものなのだよ、ということで、@nifty:デイリーポータルZの"「ひざまくら」新発売"(参照)にリンクを張っておく。余談だが、銭形平次などで見る膝枕っていうのは、こんな正座ではなく、ちょっと足を崩すと思うのだが…。
 ま、「ひざまくら」とは、そういうシロモノなのだが、これが、一昨日付でロイターで流れたらしく、世界に爆笑というか苦笑を撒き散らしている。イギリス版だが"Japanese men offered "lap pillow" solace"(参照)がまず、一つのソースになっている。


TOKYO (Reuters) - Single or lonely Japanese men may get lucky this Christmas.
One popular item for holiday shoppers is the "lap pillow", with skin-coloured polyurethene calves folded under soft thighs -- a comfy cushion for napping, reading or watching television.
【試訳】
東京(ロイター) 日本人独身男性やあるいは寂しい男性はクリスマスに幸運を得るかもしれない。休暇用品販売店で人気が高まるのが、「ラップ・ピロー(膝枕)」だ。肌色のポリウレタンでできたふくらはぎが、柔らかいふとももの正座の形状になっている。昼寝や、読書や、テレビを見るのに心地よいクッションになる。


At stores, lap pillows gather crowds where people poke and pry at the foam legs.

"I think this may be good for single men, but it could cause trouble for someone who is married," said Shingo Shibata, a 27-year-old company employee browsing at a toy store which sells the pillow.
【試訳】
店では、たくさんの人が「ひざまくら」に集まって、ひざのところをつついたりいじったりしている。
 店員のシバタ・シンゴさん(27)は、「ひざまくら」の売り場を眺めつつ、「独身男性にたぶんいいと思いますよ。でも、既婚者だとちょっと問題ありかも」と語った。


 ロイターのこの記事だと写真もないし、ウィットも抑えているのだが、BBC"Japanese men lap up new comfort"(参照)や"If girl's away, pillow is the way"(参照参照参照)などに添えられている写真の醜悪なインパクトは、日本人への偏見かねという感じがもした。
 いやそうなのかな、という疑問もあって、情報の流れをなんとなくトレースしてみたのだが、どうやら一つのネタ元は各種ブログのリンクなどを見るに、テックジャパンの"Girlfriend's lap pillow"(参照)のようだ。しかもこの記事、先の、@nifty:デイリーポータルZの"「ひざまくら」新発売"を訳したものだ。
 よく日本のブログは日本語に閉鎖していて、海外には意見が伝わらないとも言われるが、なんのことはない、海外にインパクトのある情報なら、こうして伝わっていくようだ。と、言っていいのかちょっと自信はない。
 このネタは視覚的なインパクトというものが先行しているから、ブログの言論とかいったものではないのだろう。"12/14/2004: Lap pillow"(参照)などを見るに、映像が強烈ということのようだ。気になって、Yahoo!(US版)のMost Emailed(メールで配布しまくった写真)というコーナーを見たら案の定「ひざまくら」が上位にあった(参照)。ようするに、英語でいうところのbizarre(ビザール)というのと、日本のもつ奇妙なエキゾチシズムが受けたのだろう。
 いくつかブログを見渡して気になったものをクリップしておこう。フランス語のlegweak"Hizamakura"(参照)は、こんなものを必要とするのは精神分析医に行けという感じだ。

Enfin... je me demande si certains ne devraient pas plutot prendre rendez-vous chez un psy ???

 Lone Star Times"Men can really be pathetic"(参照)は侮蔑的なコメントをつけている。試訳は避けておく。

And to think these people were responsible for the Rape of Nanking and the Bataan Death March.

 世の中にはどの国にも変な人はいるということか、Kitten With A Whip - Natasha Strangeの"Lap Pillow?"ではこうだ。ちょっと用語が特殊な世界なので、訳せませーん。

A small modification to this and it could be a face sitters dream.

 いずれにしても、海外では「ひざまくら」がかなり奇妙なものには見えるのだろう。日本のブログだが、"今日も一日"というブログの"HIZAMAKURA 「ひざまくら」"(参照)というエントリに興味深い話があった。

 日本語サイトのページの上の部分をそのまま画像に保存してメールに添付、日本語環境の整っていないオージーのPCでも文字化けせずに見れるようにとの配慮があるメ-ル。。。会社のオーストラリア人の同僚にも転送したところ、デスクにやってきて:
 「何あれ?(笑)」 (もちろん英語で)
 「枕だって。友達がメールしてきた。赤と黒の色が選べるみたいよ(^^ii) 」
 「え?何?どうやって使うの?えっ、えっ?」
 膝枕を全く理解していなかったみたいのですが、奴はなんだかすごいものを発見したかのごとく興奮していました...

 案外この11月15日のエントリが今回の国際的な広がりに火を付けたのか…ということはなく、実は、この手のネタが受けるには素地があった。私も知らなかったのだが、「ボーイフレンドのうでまくら」というのがあって、すでに世界に苦笑を撒いていたのだ。BBC"Boyfriend pillow for Japan singles"(参照)がわかりやすい。MSNBC"Women snuggle up with 'Boyfriend's Arm'"(参照)に類似の記事がある。けっこう洒落でなく米国で売れているふうでもある(参照)。
cover
片腕(収録)
眠れる美女
 それにしても、こういう発想というのは、日本的なのだろうか? よくわからないのだが、ふと、川端康成の「片腕」を思い出した(参照参照)。

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言つた。そして右腕を肩からはづすと、それを左手に持つて私の膝においた。
「ありがたう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝はつた。
「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですといふしるしにね。」と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがひ……。」


「ありがたう。」私は娘の片腕を受け取つた。「この腕、ものも言ふかしら? 話をしてくれるかしら?」
「腕は腕だけのことしか出来ないでせう。もし腕がものを言ふやうになつたら、返していただいた後で、あたしがこはいぢやありませんの。でも、おためしになつてみて……。やさしくしてやつていただけば、お話を聞くぐらゐのことはできるかもしれませんわ。」
「やさしくするよ。」
「行つておいで。」と娘は心を移すやうに、私が持つた娘の右腕に左手の指を触れた。「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 変なこじつけをするようだが、「ひざまくら」も「ボーイフレンドの腕枕」も、「やさしくしてやつていただけば、お話を聞くぐらゐのことはできるかもしれませんわ。」ということかもしれない。こうした心性は、やはり日本的なものでもあるだろうし、そうした日本らしさというのは、どこかでユニバーサルな心性にもつながっているのだろうと思う。
 ちょっと笑いで締めておきたいのだが、このエントリのネタ探しに「ひざまくら」をめぐって英語で書かれたくだらねーブログをしこたま見た。わかったこと。ブログって、外国でも日本と同じレベルで、けっこう、くだらない。

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2004.12.16

美人だろうが民主化だろうが、私はチモシェンコ(Tymoshenko)が嫌い

 私は率直に言ってウクライナ選挙に続く騒動にそれほど関心はない、ということは先日の極東ブログ「ウクライナ大統領選挙雑感」(参照)にも書いた。その後も基本的にどちらの勢力にもそれほど荷担する心情はない。だが、日を追うにつれ、気炎を上げているユシチェンコ陣営に不快感を覚えるようになった。それほど政治的な意識ではなく、印象に過ぎない。でも、この印象を書いておきたい気になってきた。
 不快の核は、ユシチェンコ陣営のユリヤ・チモシェンコ(Glamorous Yulia Tymoshenko )元副首相(44)の存在だ。彼女の紹介は読売新聞系"カリスマ的な演説…ウクライナに「ジャンヌ・ダルク」"(参照・または参照)を借りよう。


 【キエフ=飯塚恵子】大統領選をめぐって政治危機が続くウクライナで、野党代表ビクトル・ユシチェンコ大統領候補(50)を支え、「ウクライナのジャンヌ・ダルク」(欧米メディア)と注目を集める女性政治家がいる。
 ユリヤ・チモシェンコ元副首相(44)で、敏腕ビジネスウーマン出身の同氏は、女優のような容姿とカリスマ的な扇動演説を“武器”にキエフで連日10万人以上のデモ隊を動かす原動力となっている。

 こういうのって不快なんだよね。個人的なものかもしれないのだが。かつてニクソン追及のために奮闘していたジョーン・バエズに萌えの少年時代を送ったことへの嫌悪感かもしれないなとも思うだが。それでも、バエズは今でも好きだが、チモシェンコについては、うへぇという感じがする。自分でもよくわからない。美人? ま、それは人の好みもあるでしょうけど(参照)。
 「萌え」の問題だからというわけでもないが、要は物語的な言葉による描写っていうこともあるのかもしれない。読売系のニュースを引用したのは、この語り口も紹介したかったせいもある。ナイーブとはいえこの書き出しはねーだろという感じがする。
 このあたりについては、そう感情的に無茶苦茶を言っているつもりはない。BBC"Ukraine's 'goddess of revolution' "(参照)と比べてみるとわかりやすい。

Orange-clad protesters call her "Goddess of the Revolution" while outgoing President Leonid Kuchma and some of the oligarchs - Ukraine's business and political elite - are believed to hate her.
【試訳】
オレンジ色をまとった抗議者たちは彼女を「革命の女神」と呼ぶ。だが他方、クマチ元大統領やロシアの新興財閥は彼女を嫌悪しているようだ。

 いかにも明暗のあるリードが先にくる。
 チモシェンコに、こうしたダークサイドがあることは、先の読売系のニュースも伝えてはいる。

 トレードマークは、長いブロンドを3つ編みにして後頭部に回すウクライナの農民風髪形。だが、チモシェンコ氏は実は、工業が栄える東部のドニエプロペトロフスクの出身。地元財閥との関係を深め、ウクライナの天然ガスを取り扱う「統一エネルギー機構」代表を95年から2年間務めた際には商才を発揮し、巨額の富を蓄えたとされる。
 98年に国会議員に当選し、現在の政敵・クチマ大統領の庇護(ひご)を受けて政治基盤を築いたが、2000年に大統領と対立、副首相を解任された。その後も2001年には汚職容疑で逮捕され、釈放されるなど、闇の部分も併せ持つ劇的な半生を送ってきた。

 端的に言って、このあたりの彼女の過去の持つダークな部分が今回のウクライナ騒動にどのような影響を持っているのかが気になるところだ。
 実際のところ、30日に野党陣営が与野党協議の決裂を宣言した背景はチモシェンコの画策だろう。ユシチェンコが大統領になれば、チモシェンコは首相になるのは、過ぎゆく今年の流行語で言えば、間違いない。下衆の勘ぐり的に言うと、ユシチェンコに致死ならぬ毒を盛って一番利益を得るのは誰なんだ?
 読売系のニュースでは「統一エネルギー機構」について曖昧に書いているが、こいつは独占企業だし、商才を発揮というよりは、そのビジネスの全容は不透明なままだ。BBCの言葉を借りるとこうだ。

They point to her controversial past when in the 1990s she reportedly made a fortune from questionable gas trading.
【試訳】
ウクライナの人々は彼女について評価の割れる過去を指摘する。彼女は、1990年代において疑惑がつきまとう天然ガス取引で財産を形成したと言われているからだ。

 彼女の「汚職容疑」も天然ガスに関係している。クチマ元大統領との対立も、ようはこうした彼女の疑惑に端を発していると言っていいのだろう。
 BBCでは、ユシチェンコの下でチモシェンコがロシアの新興財閥のカネを政府側に吸い上げたという話も伝えているが、彼女が首相となれば、さらに新興財閥の追討を徹底させる…というか、その利益を自分の統制下に置くようになる。彼女自身も新興財閥ではあるが。
 日本語圏以外にネットを見渡すと、この問題にはいろいろ陰謀論も渦巻いている(参照)。日本経済新聞などにも事前に暗示的な記事があったりもする(参照)。しかし、私などにはなにが真実だかわからない。多少なりともわかるのは、東部資源にダークな関わり秘めたチモシェンコのような政治家が牛耳るような国には所属したくないよ、という東部分離派の言い分だ。

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2004.12.15

岩月謙司容疑者、"準強制わいせつ容疑について

 考えがまとまらないのだが、現時点で思うことを書いてみよう。きっかけは、香川大教育学部教授、岩月謙司容疑者(49)の"準強制わいせつ容疑"逮捕の事件だ。
 この話を聞いたとき、私は苦笑した。先生、すっかりあっちの人とは思っていたが、そこまで爆走してしまいましたか、と。彼は、教授というステータスとかなんだけど、恋愛とか人間心理についてはただのド素人だし、彼の本を読むとわかるけど、ほとんど新興宗教的な内容。ただ、だからくだらない、と切れないところはある…。
 事件として見ると、毎日系の7日の記事"<準強制わいせつ>恋愛指南本の香川大教授を逮捕 高松地検"(参照)では、容疑を否認。ついでに事件概要はこういうこと。


 高松地検は7日、香川大教育学部教授、岩月謙司容疑者(49)=高松市昭和町1=を準強制わいせつ容疑で逮捕した。岩月容疑者は否認している。
 調べでは、岩月容疑者は02年4月27日夜から28日午後まで、自宅の浴室や寝室で、神経症的な症状に悩んでいた20歳代の女性に対し、「父からのセクハラと母の嫉妬(しっと)という呪いがかかっている」などと言い、治療上必要な行為を装い女性の胸などを触るわいせつ行為をした疑い。

 その2日後、9日の時事"「下腹部触った」と供述始める=わいせつ容疑の香川大教授-高松地検"(参照)では容疑を認めたとしている。

 心の悩みの相談に訪れた関東地方の20代女性に対する準強制わいせつ容疑で逮捕された香川大教育学部教授の岩月謙司容疑者(49)が、高松地検の調べに対し、容疑を認める供述を始めたことが8日、分かった。

 しかし、彼の認可を受けていると思われるホームページ(参照)では、11日のお知らせとして、無罪主張のままだ。

皆様へ
 今回の逮捕に対し、御家族と、応援、支援者たちは、無罪を証明するために全力でがんばっております。
岩月謙司を支援するネットワークを広げたいと思っています。岩月謙司をご存知の方、本を読んでくださった方、またそれ以外でも、今回の逮捕は不当なのではないかと思われて支援したいと思って下さる方は、このHPへ応援メッセージ等をお寄せください。

 おそらく事実関係は報道の通りで、これを女性の側がどう受け止めたかという問題ではあるのだろう。
 二つ思うことがある。一つは、女性が騙されたと理解しているとしたら、この事件は、レイプなのではないか、ということ。このあたり、今週号に掲載されているSPAのコータリのエッセイなどでは、不埒な話だなくらいなトーンで終始していた。彼のエッセイを非難しているわけではない。こうした事件について、これってレイプでしょ、と受け止める感性が日本にはないのか?というのが疑問に思った。
 私の認識ではこれはレイプ事件なのだが、大げさなのか。たまたま"A Rape and Sexual Abuse Survivor's Site"(参照)というサイトに定義があった。

Dictionary Definitions
Rape: Sexual intercourse with a woman by a man without her consent and chiefly by force or deception.

 つまり、"deception"、「騙し」によって行われたという点で定義どおりなのではないか。Wikipediaを見たら、もっと整然とした話があった(参照)。が、大筋では上記の定義でよさそうだ。
 そういえばと思って対応する日本語版Wikipediaの項目を見たら、なるほどねと思う注解があった(参照)。

 欧米、特に英語のレイプ(rape)に比較すると、強姦は、より狭い概念である。近年、国連規約人権委員会や女子差別撤廃委員会(女子差別撤廃条約に基づく)などの国際機関において、日本は法と法の運用の不備を指摘され、国際的な批判を浴びている。
 また、親告罪であることと、後述のように訴えたとしても、その後の事情聴取や法廷の場で証言しなくてはならないという苦痛から、被害者が訴えずに泣き寝入りをしてしまうケースの多い犯罪でもある。

 以前から日本人のレイプ観は違うのではないかと思っていたのだが、きちんとそういう問題意識を持つ人もいるわけだ。そして、法的にはここに書いてある問題がある。
 実は、先日のエントリ「サマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙」(参照)でサマンサちゃんの同級生だった女性から日本のレイプ被害者サポーティング・グループの状況について問われたことがあり、応答に苦慮したことがある。欧米ではNPOで州ごとにサポーティング・グループがあるようだった。が、日本の状況はよくわからなかった。まったくないわけでもないのだろうが、率直なところよくわからない。
 話変わって、もう一つの点だが、岩月謙司容疑者は心理学・精神分析学にはド素人(専門は生理学・参照)で、私もド素人ではあるのだが、私はフロイトに傾倒していることもあり、今回の事件で「転移」という概念を思い出した。
 日本ではフロイトについては昨今の風潮もあって非科学的という決めつけが多いのだが、これはある種、経験科学としては侮れない知見が多く、そのなかでも「転移」はとても重要な概念だのだが、と、手元に資料がないのでネットを見ると、またしてもWikipediaにそれなりの説明がある(参照)。

転移(Transference)
フロイトは、面接過程において、患者が過去に自分にとって重要だった人物(多くは両親)に対して持った感情を、目前の治療者に対して向けるようになるという現象を見いだした。これを転移(または感情転移)という。転移は、患者が持っている心理的問題と深い結びつきがあることが観察されたことから、その転移の出所を解釈することで、治療的に活用できるとされた。転移の解釈は、精神分析治療の根幹とされている。
逆転移(Counter Transference)
フロイトは、治療者の側に未解決な心理的問題があった場合、治療場面において、治療者が患者に対して転移を起こしてしまう場合があることを見いだした。これを逆転移という。フロイトは逆転移は治療の障害になるため排除するべきものであり、治療者は患者の無意識が投映されやすいように、白紙のスクリーンにならなければならないと考えた。しかし、そうした治療者の中立性に関しては、弟子の中にも意義を唱えたものが多かった。

 やや曖昧なのだが、「転移の解釈は、精神分析治療の根幹とされている」という指摘はなかなかのもので、まさにフロイトの場合、精神分析医のもっとも基本的な技法と見なしていたようである。このあたり、日本ではあまりきちんと解説されていないようにも思うのだどうだろうか。
 ちなみに英語では、TransferenceでWikipediaには重要な指摘がある(参照)。

Transference is often manifested as an erotic attraction towards the therapist, but it's also common for patients to transfer feelings from their parents or children. The later may be a problem when treating elderly patients.

 また、"臨床心理学の基礎用語"(参照)というサイトに興味深い指摘があった。

 心理療法の過程で生じるクライアントと治療者の間のメンタルな関係は、クライアントが神の子で治療者が神様ということではなく、人間対人間というFace to Faceであるということから、好むと好まざるとに関わらず強いパーソナリティーが生まれます。これを転移と呼びますが、拡大解釈を許されるのなら我々は心理療法の云々という場面だけではなく”転移”そのもので人間関係をつくっているということができると思います。クライアントは治療が進むにつれて、それと同時に治療者の個人的な感情に熱中してくることがあります。これは我々が会社などで新米の後輩が先輩に対して、仕事というものを学んでゆく中でも同じように起こります。このような状態になった時にはクライアント(あるいは後輩)は過度な愛情・盲目的な信頼・依存心などを向けてくるわけです。その全く逆の方向で、憎悪・不信・過度な怒りを感じてしまう場合もあります。前者のポジティブな状態を陽性転移、後者のネガティブな状態を陰性転移と呼びます。これらは、よっぽどの場合を除いて、殆ど治療者(あるいは先輩)の現実的なパーソナリティー(人格)とは全く関係のないものです。我々はこのような場合を”妄想”と言いたくなりますが、心理学ではこの場合を転移という段階に留めています。

 話をちょっと無理目にまとめると、岩月謙司容疑者の事件には類似の問題が潜んでおり、かつ、そのことに容疑者は無自覚であったのではないかと思う。
 あと、日本社会やネット社会について、関連して思うこともあるのだが、うまく考えがまとまらないので、この話題はここまでにしておく。

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2004.12.14

シュレーダー首相が来日時に爆弾発言

 12日のラジオ深夜便でベルリン在住の永井潤子さんの話をいつものように聞いていた。この季節は特にクリスマスの話題が楽しいのだが、それに続いて、先日シュレーダー首相が来日した件について興味深い話があった。
 彼女は、ベルリンに入ってくる国際版の日本の新聞で、シュレーダー首相来日のことが日本であまり報道されていないように思えることを怪訝に思い、日本にいる知人に電話して、日本国内での報道状況について聞いて回ったのだそうだ。
 もちろん、その結果は私たちも知っている。たいした報道はなかった。私など、シュレーダー首相来日に、ほとんど関心をもっていなかった。先日のシラク大統領の真似で中国でセールしくさった帰りにちょっくら日本にも寄ってみたヘタレに関心なんか持てるかよ、と思っていた。間違いだった。シュレーダーはヘタレではなかった。
 永井さんは、この来日の本質について、「シュレーダー首相は実は東京でいわば爆弾宣言をしているんです」と切り出した。爆弾宣言というのは、日本とドイツは国連で常任理事国の五か国と同様に拒否権を持つ扱いを受けなければいけない、ということだ。
 眠気を誘うために聞いているラジオなのに、思わず目がさめた。報道を読み直してみた。なるほど日本経済新聞系"首相「拒否権付きの常任理事国入り、中国も拒否権持ち難しい」"(参照)などを読むと報道されてはいた。


小泉純一郎首相は9日夕、来日中のシュレーダー独首相との共同記者会見で、両国が目指している国連安全保障理事会の常任理事国入りについて、「新しい常任理事国が現在のP5(米ロ中英仏)と差別がない方がいいと思っている。今の時点では同等の権利を持ちたい」と述べ、P5が有する安保理での拒否権獲得が望ましいとの考えを示した。

 フランスのシラクなども、日本が国連でもっと名誉ある地位につくべく推挙してくるふうではある。が、拒否権を持てるほどの地位という話はなかったかと思う。シュレーダー、やるなぁ。
 それにしても、シュレーダーの意図はなんだろうか。もちろん、あちこちで踏んづけられている者の本音を、同じような境遇と見抜かれた小泉にゲロったのだろうが、それにしても、この発言は彼の持論だったのだろうか。
 私はドイツ語がさっぱりわからないが、拒否権を意味するvetoはドイツ語でもvetoだろうし、あとはシュレーダーと国連(UN)をキーワードにしてドイツ語のニュースを検索してみた。
 どうやらシュレーダー首相の発言はドイツ国内で話題となっていた様子がわかった。確かに爆弾宣言と言ってよさそうだ。あまり適切な例ではないが、シュレーダー訪問についてのDie Weltの記事をGoogleで訳してみた(参照)。

Surprising raid of the chancellor
Schroeder demands a right of veto for the new constant members during its Japan attendance with an extension of the uncertainty advice. Merkel and Stoiber support the suggestion.

Tokio Federal Chancellor Gerhard Schroeder wants to exist with an extension of the uncertainty advice on a right of veto for new constant members. With a reform of the committee "not with two different measure", said Schroeder may be measured at a restaurant forum in Tokyo. The new acquisitions would have to receive a equal status with the past five constant members and concomitantly the right of veto.


 ドイツではシュレーダーの拒否権付き発言が驚愕の話題になっていたようだ。
 考えてみれば、それはそうだ。仮に日本が国連で拒否権を持てるなら、どれほど世界に平和を訴えることができるだろうかと私は夢想する。
 日本国内での報道をもう一度見渡してみたが、やはり、シュレーダー発言については、ほとんど触れていない。だが、国連疑惑が国内では腫れ物を触るような扱いであるのに比べると、このシュレーダー発言は、どうやら日本のマスメディアが関心を持っていないためのようだ。
 それでも、官邸のホームページには、シュレーダー首相と小泉首相の会見内容が掲載されている(参照)。

【質問】 今朝、シュレーダー首相は、将来の常任理事国も拒否権を持つべきであるということをおっしゃられたわけですけれども、総理もそのようにお考えであられましょうか。それとも、今後日本の場合には、この拒否権について中国との間に何らかの交渉の余地がまだあるというふうにごらんになってらっしゃるのでしょうか。
【小泉総理】 日本としては、今の国連改革の1つとして、常任理事国と非常任理事国ともに双方とも拡大すべきだという考えを持っています。その際に、新たな常任理事国と現在のP 5、既設の常任理事国と差別が、違いがない方がいいと思っております。しかし、今後の改革でありますから、なかなか難しい状況の中での改革であります。今の時点で常任理事国になるんだったらば、同等の権利も持ちたいと思っていることにとどめておきたい。しかし、これは今のP 5は拒否権を持っていますからね。なかなか難しい問題というのは認識しております。そういう中で中国もP 5の1つである。この国連改革というのは、P5の国々とも協力していかなければならないというのは当然だと思っております。

 小泉はなんとも要領を得ない回答をしている。それでも「今の時点で常任理事国になるんだったらば、同等の権利も持ちたいと思っていることにとどめておきたい」と小泉首相は言っている。日本語特有の曖昧さに辟易するのだが、同等の権利とは拒否権のことなのだから、この発言がきちんと世界に報道されれば、多少は中国もむっとくるのではないだろうか。
 ということで、中国でのこの報道の受け止めかたをざっと見渡したのだが、よくわからない。新華社通信"German government plays down Schroeder's veto power remarks"(参照)を読むに、シュレーダー発言には注視していることがわかる。

BERLIN, Dec. 10 (Xinhuanet) -- The German government on Friday soft-pedaled Chancellor Gerhard Schroeder's demand that new permanent members of the UN Security Council should also have veto power.
 "His remarks should be taken as a starting point for future negotiations," a government spokesman said, adding that the question of veto rights should be considered in connection with the whole UN reform discussions.
 Foreign Minister Joschka Fischer refused to comment on Schroeder's remarks.

 記事にはブラジル、インドと並べて日本もその仲間に入りたがっているとかの言及はあるものの、小泉首相がシュレーダーにこの件で同意したという言及はない。ほとんど、スルーってやつだ。うりゃ、ここでも舐められてんだよ、日本、とちょっと思った。
 そういえば官邸に情報があるのだから、外務省でもなんかあるだろうと思ったら、ありましたよ、こんなもの。"小泉純一郎日本国総理大臣とゲアハルト・シュレーダー・ドイツ連邦共和国首相との間のハイレベル委員会報告書に関する共同プレス声明"(参照)。該当箇所はこれ。

国連の機構改革の中では、安全保障理事会の改革が重要である。安全保障理事会が今日の現実をより良く反映するためには、先進国及び開発途上国を新たな常任理事国とする形で、安全保障理事会の常任・非常任理事国双方を拡大しなければならない。それゆえに、我々は、ハイレベル委員会の報告書の中にある関連する提案を歓迎する。

 キーワードが抜けているんだよ、キーワードは「拒否権」なんだよ。まったく、なんつう外交センスなんだろう日本の外務省。

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2004.12.13

窪田弘被告という人生もまた良し

 2004年はまだ終わっていない。そんな今年の5月28日のこと、東京地裁は72歳の窪田弘被告に懲役1年4か月、執行猶予2年の有罪判決を言い渡した。求刑懲役は2年。刑は少し軽い。堀の中で老後を過ごす心配はなかった。被告には感慨があったことだろう。被告、窪田弘の父親は裁判官だった。
 罪状は、証券取引法違反。有価証券報告書の虚偽記載だ。旧日本債券信用銀行の会長だった窪田弘は、1998年3月期決算で不良債権の貸し倒れ引当金1592億円を隠していた。隠し事っていうのはよくないよね、で済む程度の話ではない。が、そりゃあ巨悪だ、なんて驚くのは嘘くさい。
 旧日本債券信用銀行(日債銀)は現在の「あおぞら銀行」である。名称が暗示する晴れ渡るその青空は、はて、どこの国のものだろうかと考えるに、朝鮮かもしれない。日債銀の前身は「朝鮮銀行」であった。
 朝鮮銀行は、戦前朝鮮半島に日本が設置した中央銀行だった。日韓併合の前年1909年(明治42年)、すでに当地に設置されていた第一銀行の京城支店が韓国銀行として第一銀行と分離した。その3年後、1911年(明治44年)に、日本は「朝鮮銀行法」を公布し、韓国銀行を朝鮮銀行とし、この地の中央銀行とした。国が設立したものだが、株は民間人も持っていたようで、窪田弘の祖父はその株主でもあった。
 朝鮮銀行は、戦後、当然解体された。朝鮮半島での資産は接収され、それをもとに大韓民国に韓国銀行、北朝鮮に朝鮮中央銀行がそれぞれ設立された。日本国内の資産分は、1957年(昭和32年)、長期信用銀行法よって、新設の日本不動産銀行に引き継がれた。この設立に若き日の大蔵省官僚、窪田弘も関わっていた。
 朝鮮銀行を継いだ日本不動産銀行は、さらに1977年(昭和52年)、社名を日本債券信用銀行と変更した。業態に合わせたのだろう。その看板でもある、割引金融債「ワリシン」(旧「ワリフドー」)や、利付金融債「リッシン」「リッシンワイド」という名前に、ある年代以上の人なら、懐かしさを覚えるのではないか。
 このワリシンだが、実に都合のよい代物だった。金融商品としては、償還期間1年の利息先取り型債券、ということだが、重要なのは、無記名で購入できたことだ。これはいい、誰が買ったかわからないし、誰に渡してもわからないという優れもの。たくさん持っているやつもいた。1993年3月7日、自民党副総裁も勤めた金丸信を家宅捜索したら、約12億円ものワリシンを簿外資産として持っていたことがばれた。ちなみに、この時、日本興業銀行発行のワリコーも家宅捜索で出てきた。こちらも無記名で購入できた。
 いくら無記名で購入できるとはいえ、これだけ巨額のワリシンを出して日債銀は素知らぬというわけにもいかないでしょう、というわけで、旧大蔵省が日債銀の改革に駆り出したのが、窪田弘だった。なぜ彼に白羽の矢が? 彼がその頃、日本国の税の番人のトップである国税庁長官だったからだ。一番脱税に厳しい人を日債銀の幹部に据えれば、ややこしい問題は解決するだろうと、誰もがとりあえず納得しやすい。
 そう、窪田弘は1993年には国税庁長官になっていた。着任したのは、金丸事件の6年前、1987年(昭和62年)のことだった。それも大抜擢だった。大蔵省といえばエリート順送りの人事をしていたのだが、この件では有能な人材を優先した結果だったと言わているほどだ。
 国税庁長官になった際、窪田弘はインタビューでこう答えていた(読売1987.11.11)。やや長いが、窪田弘自身の言葉使いの感じがよく出ている。


 ◆悪質事犯には社会的制裁を◆
 --悪質な脱税や不正な所得隠しについて、日本ではまだ認識が甘いように思えるが、ある裁判で「詐欺に極めて近い犯罪」という言葉が出た。脱税抑止の観点から悪質事犯についてどんどん公表するべきではないか。
 長官 気持ちとしては良く理解できる。私が十五年前税務の現場(広島国税局直税部長)にいたころ、当時の民間の意識調査では脱税とはこそ泥、住居不法侵入くらいだった。今、同じ調査をすれば詐欺、横領になるのではないか。脱税というのは被害者が具体化しない犯罪。ある人が脱税すれば他の人の負担が重くなる。なかなか見えにくいから世間の批判がもう一つということになる。脱税を摘発された人が「払うべき金は払うから名前だけは出さないでくれ」という話は多いんです。虫が良すぎると私も思うが、税務当局には守秘義務があります。税は最高のプライバシーだからなかなかそうは出来ない。ただ、やはり何らかの形で社会的制裁を加えるには、今後、そういうことも考えなきゃいかんという感じはある。これまで税務の世界では、やっていることを外に言わないのを美風としたものだが、守秘義務に触れない範囲で仕事ぶりを知っていただいた方が良いのでは、と思う。

 窪田弘がこう答えたのは今から17年前のこと。彼がまだ55歳のことだ。読書家でもある窪田弘元国税庁長官は、人の世の機微というものをよく心得ていた。
 話を1993年に戻そう。この年、国税庁長官経験者である窪田弘は日債銀の顧問となった。実際のところは日債銀を大蔵省の特別な管理下に置いたという意味でもあるのだが、当時の新聞(読売1993.6.30)は窪田弘について「いつもは柔和な眼鏡の奥の目は笑っていない。密輸を発端に交際費による政官界への働きかけが表面化したKDD事件では、東京税関長として陣頭指揮に当たった経歴を持つ」とトンチンカンな期待を込めていた。
 彼はこの職に就きたかったのだろうか。少なくとも自分から進んでこの職を選んだわけではない。松岡誠司会長からくどき落とされたとつぶやいていた。彼は日債銀における自分の役目を知っていたからこそ、前のポストのほうが楽だなと思っていた。以前のままでいたら、好きな純米日本酒もじっくり楽しめに違いない。でも、運命は彼を彼の予想以上に遠くに押しやっていく。
 日債銀の顧問から頭取となり、そして、1997年7月30日の取締役会で代表権のある会長専任に任命された。窪田弘はついに銀行の会長となった。普通の天下りなら、ここで上がりというところだろう。が、そうもいかない。仕事っていうのは厳しいもんだな。日債銀は莫大な不良債権を抱え、経営はすでに破綻寸前だった。それでも、彼はやっていけると思っていたのだろう。
 だが、あたかもそれは突然の出来事のように始まった。翌1998年12月12日政府は、経営再建中の日本債券信用銀行に、金融再生法に基づく一時国有化の適用を通告。端的に言えば、日債銀は、潰れた。当然、窪田弘も会長を去ることに決まった。
 この政府による国有化のシナリオを窪田弘元日債銀会長は事前に知っていたのだろうか?
 知らなかったのではないか。前年までと同じ検査官が、金融監督庁という看板に変ったとたん、去年までよしとされていた不良債権が突然ダメとなった、なぜだ?、と彼は思ったのではないか。自分たちが長年決めたはずのルールがいつのまにか変更させられている、と。オレははめられたのか、と。
 それどころか、半年後には、窪田弘元日債銀会長は粉飾決算疑惑があるとして証券取引法違反容疑で逮捕された。旧大蔵省出身者が逮捕されたのは日本史において初めてのことだった。
 もちろん、貧乏人としてひっそりとこの世を仮の住まいとする人間でない者なら、叩けば叩くだけ相応のボロは出るものである。窪田弘元日債銀会長も厳しいリストラの陰で、毎月50万円から250万円もの役員報酬を受け取っていたし、日債銀の帳簿外で保有していた美術品を売却して裏金を仲間内で山分けしてたりもした。ま、そんなのはたいしたことではない。
 今年の5月28日に判決を出した東京地裁だが、この裁判で検察当局は、粉飾時期について、経営者の自己責任で決算を行う自己査定制度が導入された98年3月だけに限定した。それを受けて弁護側も会計基準の解釈論に終始した。つまり、この裁判では、旧大蔵省の関与の歴史にはまるで触れないというエレガントな前提ができていた。
 この判決に窪田弘被告は控訴した。納得いかない点もあっただろう。とはいえ、彼は事の真相を殊更に知りたいという心境でもないのではないかと察する。
 いや、彼は、その地位にいたのだから、すでに真相なんていうものは知っていたに違いない。つまり、不良債権と世の中が呼んでいるものの真相だ。
 不良債権とは簡単に言えば、貸したけど返ってこない金(かね)のことだと普通思われている。しかし、考えてもみよ。ウォルフレンが日本の銀行は「信用権」といったもので動いていると喝破したが(参照)、信用権を持っている大企業に対して銀行は金(かね)を貸したきり、返してもらうことなんて期待されていない。金利分がなんとなく返ってくればいいだけのこと。つまり、不良債権かどうかというのは、「信用権」の有無が決める。
 別の言い方をしよう。この物語は、不良債権を隠すと見るか、信用権を与えていたと見るか、つまりは、見方の問題ではないのか。そして、窪田弘被告はその信用権を管理しうる立場にいたと自分自身をみなしていたとして別段不思議でもない。
 いずれにせよ、彼は、ほぼ強制的にその特異な立場から除外された。今さら信用権がどういうことは無意味になり、「それ」は不良債権となった。
 「それ」がめでたく不良債権となった、ということは、そうなってしまったら、「本当に返らない金(かね)なのか?」と問うことは危険だという意味だ。借りている側の立場に立ってみるとわかりやすい。これまで信用権が与えられていると思っていた。なのに、突然、オメーなんか知らねーよとなったら、その金(かね)返せよ、になって不思議ではない。でも、返せないよ、そうですか、じゃ不良債権ですか、そうですか、とすれば、とりあえず収まる。
 同時に、失われた信用権を補うように、金(かね)を返せる可能性なんてものに首を突っ込むんじゃねーよと諭す何かが現れる。あたかも信用権の裏返しの権威というか、「そいつ」はゲドの影のように現れる。その後、ちゃんと現れるときは現れていたし。
 窪田弘被告は「そいつ」に会うことはなかった。これからも会うことはないだろう。彼はすでに除外されているからだ。一生懸命お国のために尽くしたのに、70歳を過ぎて身に覚えもない罪で被告となろうとは、と嘆く思いもあるのだろうが、それでよかったのだ。
 被告という人生も悪くない。72歳なら今後のんびりと過ごすべきだし、それがたとえ42歳の厄年だったとしても、悪くはない。生きていればこその人生塞翁が馬である。敵に見えるものがその身を救うこともあり、仲間に見えるものが「そいつ」であるかもしれないのだから。

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2004.12.12

[書評]ウォルフレン教授のやさしい日本経済(カレル・ヴァン ウォルフレン)

 これは変な本だ。この本を読んで日本経済がわかるかというと、たぶん違うだろう。経済学専門のかたは本書をパラっとめくっただけで、ぽいと捨てる…いや、まるでそれを手にしたのがマナーの勘違いであるかのように、そっと書棚に戻すのではないだろうか。学問的には多分価値はない。

cover
ウォルフレン教授の
やさしい日本経済
 経済学の入門でなくても、一般向け書籍として読みやすければそれだけでもいい。そうか? 確かに表面的には読みやすいのだが、何を言っているのかよくわからない説明も多い、と思う。もっともそうした印象はウォルフレンのこの本だけに限らない。当初は啓発された気にはなるのだが、そのうちわけがわからなくなる。近著「アメリカからの“独立”が日本人を幸福にする」(参照)は、よくあるリベラル派の浮ついた話でもないのだが、読み終えてから奇妙な疑問符が残る。なんだ、この本?
 でも私は、この「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」(参照)を何度も繰り返して読んだ。さらにこれからも繰り返し読むだろう。で?、どう? いやそのあたりを書こうかと思うわけだ。
 本書の紹介は釣りに任せておこう。

たとえば著者は、「日本の財政政策や全般的な経済政策を旧来どおりに維持してきた官僚たちは、今ではそれらの政策が政策であることを忘れてしまっている」「政策だとはつゆほども思わず、自然の摂理のように思っている」などと論じて、状況が変わっても無自覚に同じ政策を継続させている官僚の「特異な経済システム」を浮かび上がらせている。また、それが経済低迷の原因になっているともいう。

 間違いではない。が、話を進める。
 いきなりだが、銀行とはなにか?
 山本夏彦の言うように金貸しである。企業にも貸す。融資である。その際、銀行はどうするのか。ウォルフレンは原点からこう説明を始める。

 融資にあたって、欧米の銀行が検討する最も重要な事柄は、信用(クレジット)を提供することに伴うリスクの大きさです。この「信用リスク」の計算は、銀行の新入社員教育の最も重要な部分になっています。

 借りる側の企業としては、融資、つまり企業活動の資本に対してどのくらいの金利を払うかが重要になる。単純な話、企業活動の利潤が金利を上回るという判断が必要になる。ウォルフレンはこれを「資本コスト」と説明する。
 そして、彼はこの二つ、信用リスクと資本コストは、日本経済には重要ではないと言い切る。
 それでも銀行は結果として融資にあたり信用を割り当てる必要がある。

 本来、信用はどう割り当てるかが重要なはずですが、それ以上に日本の企業にとって重要なのは「信用に対する権利」を持っているかということです。大企業など、銀行にコネを利用できる日本の企業はこの権利を持っていますが、規模が小さく、コネもない企業は「信用に対する権利」を持っていません。

 「信用に対する権利」というのは経済学の用語ではなく、ウォルフレンの造語である。「信用権」と簡略して呼んでもいる。信用権はこう言い換えてもいいだろう、つまり、政治家や官僚システムに"顔"の利く人間の保証。

 起業家になりたい日本人はまず、日本の経済システムのなかで自分が資金調達の面で保護を受けることができるかどうか、を考えなければなりません。今持っている財産で、上部機構や金融機関との間にどのような関係をつくることができるのか、それがビジネスに成功できるかどうかのカギになるのです。
 もし相当大きな財産を持っていたとしても、それだけでは必ずしも信用を得ることはできません。むしろこれらの関係こそ、持っている財産よりはるかに重要なものになります。

 彼によると、日本の企業は、銀行に対して信用権がある大企業と、それを持たない中小・新興企業の二つに分かれる。そして、日本の銀行は、後者を融資の対象としない。このため、後者はお金を銀行から借りることができない…。では、この信用権のない企業はどうするのか。金は必要だ。

お金を借りるにしても、銀行ではなく、もっとずっと高い金利で融資する「商工ファンド」のような金融会社から借りなくてはならないのです。
 大企業にコネのないこれらの会社の信用判断をするのは、銀行家とは別の人でした。一九八〇年代から九〇年代初頭には、商社が中小企業の信用力を判断していました。

 この二種類の企業の棲み分けとシステムが、崩れてきた。
 かつては信用権を持っていたと見なされる大企業に対しても、ダメなのは潰すということで、改革と称して、潰す企業のリストを作成し、それを元に潰すことになった。
 ウォルフレンの意見ではないのだが、ここで「潰すという決断を下したと見なされた新しい権威が同時に新しい信用権を再配布しうる主体となるのだ」というメッセージが暗黙の内に含まれていたかもしれないと思う。
 大手企業以外にも、中小企業であれ下請け企業として大手企業の信用権を又借りしていた企業も経営が厳しい時代となり、銀行による貸し渋り・貸し剥がしが進んだ。
 他方、信用権を持たない企業は、商工ローンなどより高金利の金融業に依存することになる。それしか、この構図では手がない。
 そこで、当然ながら、銀行からは相手にされないけど、あまりの高金利も避けたいという願望のニッチが経済活動の場に広がってくる。そこに無担保でも融資してくれる新種の銀行があればいいな、という願望が生まれる。あるいは、従来社会構造的な理由などで信用権を持てない者同士が特異な政治力でなんとか新しい信用権が獲得できないものかと画策する機運も生まれる。それらがあたかも自然の流れであるかのように起きても不思議はない。
 しかも、ウォルフレンの言うこの奇妙な信用権だが、その機能に着目すれば、逆の解釈もできる。
 要は、官僚・政治機構にコネと同質のものを作ってしまえばいいのである。
 あるいは、審議会だのなんとか政策のブレーンだの、というところから最初にシステムに侵入し、蚕食し、つまりは、コネを先に作ってしまえばいい。コネ=信用権となる。そして、それを先のニッチに結びつければ、なにか大きなことが出来そうな気配になる…と、書くに、それらは机上のシミュレーションでしかない。つまり、推定上の話。そして、この本が出版されたのは2002年5月から現在まで、2年半が過ぎた。

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2004.12.11

サマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙

 先日書いた経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)の読解力テストについてのエントリ「日本学生の読解力低下が問題ではなく文化差異が問題だ」(参照)で、2000年に出題された問題を例示した。あのエントリを書いた後で、奇妙に心にひっかることがあった。なにかなと思ったが、しばらくしてサマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙のことだと思い至った。
 先のテストでは、インターネットから寄せられたという想定で二人の少女の手紙が掲載されていた。15歳の義務教育終了のアチーブメント・テストということから考えて、その同年の少女の手紙という想定だろう。私が大学生のころ非日本人と時を過ごすことが多かったのでそのときの経験から類推するのだが、欧米人の子供はこのくらいの年代でもあのようにポリティカルな意見を堂々と書く。
 不思議なくらいなのだが、欧米人の場合、小学生ですらポリティカルな自己主張をする。そのよい例というわけでもないのだが、興味深い例として、1983年当時10歳だったサマンサ・スミス(Samantha Smith)ちゃんの手紙がある。彼女は、当時ソ連(ロシア)の最高権力者だったアンドロポフ書記長に手紙を書いた。アンドロポフは当時、82年11月10日のブレジネフ書記長の急死に伴い、急遽書記長に就任したところだった。サマンサ・スミスちゃんの手紙にお祝いの言葉があるのはこうした背景からだ。


Dear Mr. Andropov,
My name is Samantha Smith. I am ten years old. Congratulations on your new job. I have been worrying about Russia and the United States getting into a nuclear war. Are you going to vote to have a war or not? If you aren't please tell me how you are going to help to not have a war. This question you do not have to answer, but I would like to know why you want to conquer the world or at least our country. God made the world for us to live together in peace and not to fight.
Sincerely,
Samantha Smith
【試訳】
アンドポフ様
わたしの名前はサマンサ・スミスです。わたしは10歳です。新しいお仕事につかれたとのこと、おめでとうございます。わたしはロシアとアメリカ合衆国が核戦争になるのではないかと心配してきました。あなたは戦争に賛成する気ですか、そうではないのですか。もしそうではないなら、戦争をしないために、あなたになにができるかを教えてください。この質問はあなたが答えなければいけないものではありません。でも、なぜあなたがこの世界や少なくともわたしたちの国を支配したいと望むのかについて、わたしは知りたいと思います。神様はこの世界を人々が平和に暮らすようにおつくりになったのであって、戦い合あうためにおつくりなったのではないのです。
こころから
サマンサ・スミス

 さすがに10歳の子供の英語は訳すまでもないのだが、洒落で試訳してみた。訳の出来は別としても、この原文のきついトーンはなんだろうと思う。"This question you do not have to answer"など、黙秘の権利はあります、みたいな印象を受ける。
 というか、このトーンと同じものをOECDのテストのヘルガとソフィアの手紙から感じないだろうか。文化差異というのはこうした感性の問題でもあるので、そんなことはないと言われるなら別の方法で私は書くべきかもしれないのだが、そんな必要あるかな?
 サマンサ・スミスちゃんの手紙はアンドロポフ書記長から返信があった。そしてそれはソ連の新聞であるプラウダに掲載された。その原文を読みたいかたは、WikipediaのSamantha Smithの項目を参照してほしい(参照)。なかなか誠意のある返信である。
 その後、サマンサ・スミスちゃんは、アンドロポフ書記長によってソ連に招かれ、一躍時の人となった。米国では、冷戦時代の子供の平和活動家というふうに扱われるようになり、マスコミでも活躍するようになった。が、そうしたメディアでの活動の際、飛行機事故で亡くなった。1985年13歳のことだった。
 繰り返すが、10歳の少女が政治的な手紙を堂々と書いて送りつけるというのは、アメリカではそれほど不思議なことではない。チャーリー・ブラウンの登場人物ライナスはカボチャ大王に手紙を書くほどだ。だが、それにしても、アンドロポフ書記長に届くというのはできすぎた話である。やらせとまではいかないにせよ、不自然なことだなとは思っていた。本当にあった話とはいえ、あまり親近感を覚える話ではなかった。
 ところが、私事だが奇妙なことがあった。私は数年前、サマンサ・スミスちゃんの同級生の女性とコミュニケーションを取る機会があった。というか、彼女との話の途中でそのことを知った。偶然とはいえ、そんなことがあるのもなのかと不思議に思った。当然、サマンサ・スミスちゃんがどういう少女だったのか訊いてみた。答えは、普通の女の子でしたよ、というくらいものだったが…。
 現代はインターネットの時代である。サマンサ・スミスちゃんの古い物語はどうなっているのだろう、とネットで調べてみて、少し驚いた。いや、先に示したWikipediaの項目の参照にもあるのだが、まず彼女を記念し、その名前をとった小学校"Samantha Smith Elementary School"が存在している(参照)。また、すでに彼女は歴史上の人物として学ぶべき学習教材にもなっているようだ(参照)。
 つまり、サマンサ・スミスちゃんはヘルガやソフィアのような少女を製造するひな型でもあるわけだ。そして、こうした精神を形作ることが、彼らの教育というものなのだ。
 私は溜息をつく。つくよなぁ?

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2004.12.10

少女コマンドーまゆみは16年前に言っていた

 まとまりのない話だが…。一昨日、日本政府は、北朝鮮側が「横田めぐみさんのもの」とする遺骨について、DNA鑑定した結果、別人だと発表した。率直に言うと私には多少意外感もあった。これが残念なことに横田さん本人のもので一連の幕引きの始まりというストーリーになるのかもしれないとも多少思っていたからだ。もっとも、そうしたストーリーはなんとはなしに流布されていたこともあって、訝しいとも思ってもいた。幕引きを願う一群の人々の情報操作があるのかもしれない。
 そして昨日毎日新聞系で政府関係者の話として"田口さんが金賢姫に日本語指導 地村さん証言"(参照)という記事が出た。


北朝鮮による拉致被害者の地村富貴恵さん(49)が、田口八重子さん(行方不明時22歳)は大韓航空機事件を実行した金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚の教育係の「李恩恵(リウネ)」であることを示唆する証言をしていることが、政府関係者の話で分かった。

 もちろん、この話自体はある意味ですでに知られていたことだが、拉致被害者からの証言となると格段に真実性が増す。とはいえ、どういう「政府関係者」なのかも気にはなる。
 この証言の意味は同記事にもあるが、横田めぐみさんの安否に関係している。

 大韓航空機事件への関与を否定している北朝鮮側は、先月の日朝実務者協議でも、田口さんが横田めぐみさん(行方不明時13歳)と81年から84年まで一緒に生活していたと説明。金元死刑囚が「李恩恵」と同居して教育を受けたとされる期間と重なることから、家族会などは、横田さんの履歴を捏造(ねつぞう)して李恩恵を否定したと批判している。

 ある年代以上の人には当たり前の話かもしれないが、私なりに少しまとめてみたい。
 北朝鮮の言い分では、81-84年、田口さんと横田さんが一緒に暮らしていた。そして、金賢姫の言い分では、81年7月-82年3月まで金と李が同居していた。田口さんが李と同一人物でないなら、北朝鮮の言い分も成り立つ。
 だが、地村さんの証言によって、田口さんが李と同一人物であることがわかった。この証言は金の証言に矛盾しない。矛盾するのは北朝鮮の言い分だ。北朝鮮の言うような、81-84年、田口さんと横田さんが一緒に暮らしていた、ということはありえない。北朝鮮は嘘をついている。
 なぜ、そのような嘘を北朝鮮がつくかと、李恩恵=田口八重子を否定したいためであり、その理由は、北朝鮮が大韓航空機事件を起こしたということを否定したいためだ。そして、そのために、田口=李さんとペアにされた横田さんを出すわけにはいかないという、ということになったのだろう。なお、ネットの世代は若い人も多いので、もしかして大韓航空機事件を知らない人がいるかもしれない。その場合は、とりあえずWikipedeiaの同項目を参照されるといい(参照)。
 さて、しかし、と、ここで多少物思いにふけるのだが、すでに大韓航空機事件については、まさにその事件を起こした本人である金賢姫の証言が存在しており、その信憑性は高い。つまり、北朝鮮の大韓航空機事件の関与は疑いえない。なのになぜ、未だにそれを疑う人がいるのだろうか?
 先のWikipediaもつい両論併記のつもりだろうが次ような記載がある。

朝鮮民主主義人民共和国との関係を悪化させるべく韓国国家安全企画部(2004年現在の国家情報院)が仕組んだ謀略ではないかという声も一部にある。


金賢姫の自白には矛盾点が多く、また解放の後行方不明となっており、真相の究明が待たれる。

 Wikipedeaの記載を非難したいわけではない。が、私にしてみると、そういう次元じゃないよと思う。それでも、世論のなかにそういうトーンが含まれていることを知らないわけではない。単純に、大韓航空機事件を曖昧にする情報のあり方を奇妙に思う。
 過去を顧みる。大韓航空機事件から数ヶ月後の、1988年2月8日読売新聞"大韓機事件 金賢姫への日本側聴取内容の全文/韓国発表"に、李恩恵について次のような聴取内容がまとめられていた。

◆身の上話を語った恩恵◆
 〈8〉北朝鮮に拉致された経緯
 ○高等学校を卒業後、結婚したものの離婚し、東京で息子(当時三歳)と娘(同一歳)を養っていたとき、
 --海辺を散歩中に拉致され、船で北に連れて来られた。
 --日本には親戚多数が居住している。
 ○拉致当時、船酔いが激しく、何日間も食事がとれず、こん睡状態になった。
 --拉致直後は牡丹峰(モランボン)招待所に収容されたが、その際、子供と家がなつかしく泣きわめき、環境に適応するのに大変だったという。
 ○なかんずく、金正日誕生日(二月十六日)の夕食に日本人女性として特別に招待されて行ったことがあると言い、そこで自身の境遇のように拉致されてきた日本人夫婦にも会ったと話し、この事実は絶対にだれにもしゃべってはいけないと口止めしたことがある。
 ○酒に酔えば、子供に会いたい、家に帰りたいと言っては苦しがり、泣くことがよくあり、ぼんやりと座っては身の上苦労話を聞かせることもあった。
 ○「李恩恵」という名前は北朝鮮で金日成と金正日の恩恵をたくさん受けて生きているという意味から北朝鮮から与えられた名前だと説明し、日本の名前をたずねたら回答を避けて「統一されれば日本に帰る」と語った。

 この「拉致されてきた日本人夫婦」はすでに判明したと言っていいだろう。それにしても、これが1988年のことである。
 今読めばどうということもないのだが、この証言の重みはその後10年以上もほったらかしにされていたに等しい。と、私はぼんやりと自分の思考を取り巻く、情報の空気の重さというか臭いというか、それはなんだったのだろうかと思う。
 ここから話がずっこける。というかちょっと支離滅裂になる。
 1987年と言えば、17年前のことである。17年前と言えば、随分昔のようだが、47歳の私にしれみると30歳。まだ20代の気分でいたし、「スケ番刑事」の後続、「少女コマンドーいづみ IZUMI」とか熱中して見ていた。五十嵐いづみには役柄もだが奇妙な暗さもあって、ファンの私としては、今でいうところの萌え、だっただろうか。
 番組を解説している「allcinema ONLINE 映画データベース」の解説を借りるとこういう話だった。

身に覚えの無い殺人の汚名を着せられ、住み慣れた街を追われた少女、五条いづみ。彼女は最終兵器として生まれ変わる為、謎の組織で秘密プロジェクトに参加させられる。実験途中で脱走したいづみに対して謎の組織は抹殺指令を発動。“バイオフィードバック”という能力を得たいづみは、謎の組織の正体を暴き、奪われた青春を取り戻すため、激しい戦いの中に身を投じていく……。

 笑うっきゃない設定だが、さて、この番組が始まったのが1987年11月5日。第4回「おかしな2人、潜入」の放映が1987年11月26日。その3日後、大韓航空機爆破事件が起きる。犯人の金賢姫は日本人名「蜂谷真由美」を名乗っていた。「少女コマンドーまゆみ」である。おい、洒落にならねーよ、ということで、「少女コマンドーいづみ IZUMI」の打ち切りが早速に動き出した。
 それでもなんとか番組改編の3月まではひっぱり、2月18日の15回最終回を迎えた。スケ番刑事麻宮サキ編全25話、少女鉄仮面伝説伝説編全42話、風間唯=浅香唯編全42話に比べれば、尻つぼみ感ありありだった。ま、中だるみなしでよかったかも。
 ところで、世間的には「いづみ」と「まゆみ」の駄洒落みたいなオチが付くのだが、私は、1987年「少女コマンドーいづみ」のバイオフィードバックの設定に奇妙に心がひっかかっていた。というか、今も奇妙に心にひっかかったままだ。1980年代後半から1990年だにかけての世界の状況とバイオフィードバックの関係はただの物語の設定というより、なにかの象徴、あるいは暗示だったようにも思うのだが、…考えがまとまらない。

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2004.12.09

米国内では州ごとに経済自由度が異なる、で?

 先日ラジオ深夜便で米国内の州ごとの経済自由度(Economic Freedom Index)という話があり、ちょっと気になった。しょぼいネタかもしれないが…。
 経済自由度というと、国際間での比較は日本経済新聞などにも毎年掲載されて話題になる。例えば、"経済自由度ランキング、日本は36位・米シンクタンク"(参照)によると、今年は、日本は36位だった。


米シンクタンクのケイトー研究所は2004年版「世界の経済自由度ランキング」をまとめた。金融市場の開放度や貿易の自由度などを評価したもので、1位の香港に続き、シンガポール、米国や英国などが上位に並んだ。日本はイタリアなどと並ぶ36位で、前年(35位)からやや後退。主要国ではフランス(44位)に次ぐ低い評価になった。

 そう言われてもねみたいなランキングではある。フランスより上というのが妥当かなという感じだ。
 この経済自由度という概念が、米国だと各州にも適応できるというわけだ。考えてみると当たり前のことで、米国というのはUnited Statesというように、法制度の異なる国家(state)の連邦制になっている。法制度が違うということは税制やその他の経済規制も違う。私事めくが、10年くらい前だと米国のショップで注文するとき、マサチューセッツ州の場合は税率はどうなるとかいう面倒臭い手続きの注意書きを読まされたものだった。最近では比較的ネットで簡単にできるようになっとはいえ、米国内では州ごとにいろいろ経済的な規制が今でも違う。なるほど経済自由度ということが話題になりうるわけだ。
 米国州ごとの経済自由度についての資料は、パシフィック調査研究所(Pacific Research Institute)(参照)にある。調査の概要はPDFファイルで配布している(参照・PDF)。手短にわかりやすくまとっている。
cover
州ごとの経済自由度
 この概要を見ると、米国に多少なり関心のある人間は、なるほど、面白いといえば面白い。結論は、一目でわかるように、先日の大統領選挙のように州ごとに色分けされている。
 これを見ていると、なんというか、先日の大統領選挙に似ているなという印象も受ける。つまり、ブッシュ陣営の地域のほうが経済自由度が高いかのようだ。しかし、実際には、この差異というのは、単に都市部かそれ以外ということで、都市部の場合は行政に求められるところが多いのために財源確保に経済規制も多いという単純なことなのだろう。
 調査結果によると、最も経済自由度がないワーストはニューヨーク州。なんだか苦笑してしまいそうだ。お手あげかな?(自由の女神がもう一方の手もあげたら独立宣言書が落ちてしまう)。ワースト方面でこれに次ぐのがカリフォルニア州。がんばれシュワちゃん、共和党。先日も日本に来て楽しいセールをやっていた。
 ベストはというと、カンザス州。二位はコロラド州。そしてバージニア、アイダホ、ユタと続く。と、見ていきながら、で?、こんなリストになんの意味があるのか?という気持ちにもなるかもしれない。だが、調査概要には面白い模範想定問答もあった。ぶっちゃけた話、経済自由度が高まると手持ちの金(かね)が増えるのか?、と。

Q: If we enact policies in our state that yield more economic freedom, will we have higher personal income?
A: Yes. Based on the economic model, a 10-percent improvement in a state's economic freedom score yields, on average, about a half-percent increase in annual income per capita. If all states were as economically free as Kansas, the annual income for an average working American would rise 4.42 percent, or $1,161, putting an additional $87,541 into their pocket over a 40-year working life.

 答えは増えるというのだ。全州がカンザス州並になると収入は4.42%アップするらしい。年間で1161ドル(12万円くらい)の儲けになる。日本だと国民年金をシカトするとこれよりちょっと多い差分になる。米国の場合、この差額を安全な米国財務省証券で40年運用すると8万7541ドルの差になる。ドルは今後下がるだろうが生涯で800万円くらいの差となるのだろうか。多いと言えるのかたいしたことないと見るべきかよくわからないが。
 そういえば、ワーストで二位のカリフォルニア州では、現在不動産価格が高騰し同州から逃げる人も増えているという話を聞く。州間であまり経済的な規制の差が出れば、米国の場合直接的な人間の移動が起きるのかもしれない。
 企業という点でも、カンザス州など経済自由度の高い州のほうが有利になる。通信と輸送が高度化されればこうした地域での企業はメリットになるだろう。こいうのは、ある程度技術とコスト面が飽和した状態で質的な変化が起きることがある。
 調査をぼうっと読みながら、日本のことも思った。日本でも地方行政の独立性が高まれば、県ごとの経済自由度なんていうものもできるのかもしれない。いやいや、そんなはずはないか。
 ところで、この報告書の発表者を見ているとYing Huangという女性がいる。漢字だと「黄英」だろうか。こうプロフィールがある。

Ying Huang, born in the Peoples Republic of China, graduated in 2000 with a B.A. in international finance from Shanghai University of Finance and Economics. Before coming to the United States in 2002, she worked in the Shanghai office of an Australian consulting company. Huang received her M.A. in economics from Clemson University in December 2003. Her master's thesis developed the economic freedom indexes used in this report.

 ざっと見る限り、国籍は大陸中国なのではないだろうかと思う。M.A.(修士)論文がこの経済自由度であったとのこと。この調査の実質は彼女のM.A.論文なのではないか。
 こういう経済自由度を重視するという考えの中国人の人材が、遠くない将来大陸中国で活躍するようになるのだろうか。

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2004.12.08

日本学生の読解力低下が問題ではなく文化差異が問題だ

 昨日発表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)の結果、日本人の学生の読解力は41か国中14位(平均以下)ということで先進国の教育としては世界にお笑いを提供することになった。というわけで、保守系のオヤジというかそのあたりは日本の教育はなっとらーん合唱でもしそうな香ばしさなので、私なんぞは「けっ、くだらねー」とまず反応した。そんなものどうでもいいじゃん。時代によって子供に求められる能力は違う。尺度を変えて、一行メールの瞬間読解能力とかすれば日本は断然一位だよ、ってな具合に毒づいた。が、間違いだった。私のこのリアクションは間違いだったのだ。詳細を知って、日本の教育はすごい危機にあるぞと認識を改めた。懺悔。
 まず、話の枠組みなのだが、せっかくだから今朝の毎日新聞社説"OECD学力調査 土台の弱さ見据えた対応を"から拾う(参照)。ちなみに、毎日新聞社説は昨今自衛隊イラク派遣問題など政治面ではわけのわからない各種意見を乱発しているのだが、それ以外ではそれほどひどくもない。


 義務教育修了段階の15歳を対象とする経済協力開発機構(OECD)の2回目、03年の学習到達度調査(PISA)結果が7日、世界同時発表された。
 日本は参加41カ国・地域中、今回の中心分野である数学的活用力は6位(3年前の前回は1位)、読解力は14位(8位)、科学的活用力は2位(2位)。今回初実施の問題解決能力は4位だった。
 数学、科学、問題解決能力は、フィンランド、韓国などの上位国と有意差はなく、1位グループ。前回2位グループの読解力は低下し、OECD加盟国平均と同水準という。文部科学省は「我が国の学力は国際的に見て上位にあるが世界トップレベルとはいえない状況」との認識を示した。

 私が当初見落としていたのだが、この調査は、一種のアチーブメント・テストであり、その達成の対象は義務教育修了の状況なのだ。つまり、読解力の点において、先進国の義務教育としては日本はダメダメということが歴然になったということだ。
 毎日新聞社説などではこれをネタに教育問題とやらをいろいろ言うのだが、端的に言えば、くだらない。読売新聞社説"学力国際比較 なぜ『読解力』は低下したのか"(参照)にいたっては、あほか、である。

 この調査で学力が最上位だった国の教育のあり方にも目を向けたい。フィンランドでは、教師になるには大学院卒の「修士」資格が必要で社会的地位も高い。国を挙げて読書文化も推進している。

 義務教育で必要なのは院卒の免状じゃなくて、まともな大人の常識だよとツッコミを入れておく。
 いずれにせよ、こんな社説みたいのを読んで、くだらねーな、と思っていたのだが、昨晩の「あすを読む」でのこの問題の解説を、今朝になって紅茶を飲みながら聞いていて、はっとした。かいけつゾロリのブックラこいーたじゃないが、驚いたのだ。
 まず何に私が驚いたかというと、読解力のテスト方法だ。いや、方法はそれほどどってことはない。具体的にそのテストの内容だ。そういうことだったのか、と思った。
 今回の調査に使われたテストについては次回2006年も流用するのとのことで公開されていないが、前回のが公開されている。それは、二つの意見を読んで、自分の意見を書きなさいというものだ。ま、こりゃ、日本人学生が苦手とするところだな、とは思った。実際にそのマテリアルと採点基準を見た。これは毎日新聞"OECD学習到達度調査 読解力出題例 <前回00年の出題> "(参照)の出題(1)から(4)にPDF形式で公開されているのだが、この二つの意見というのはこうなのだ。あえて全文、引用する。読んで味噌。

落書きに関する問題


ヘルガの手紙
 学校の壁の落書きに頭に来ています。壁から落書きを消して塗り直すのは1今度が4度目だからです。創造力という点では見上げたものだけれど、社会に余分な損失を負担させないで、自分せ表現する方法を探すぺきです 。
 禁じられている場所に落書きするという、若い人たちの評価を落とすようなことを、なぜするのでしょう。プロの芸術家は、通りに絵をつるしたりなんかしないで、正式な場所に展示して、金銭的援助を求め、名声を獲得するのではないでしょうか。
 わたしの考えでは、建物やフェンス、公周のペンチは、それ自体がすでに芸術作品です。落書きでそうした建築物を台なしにするというのは、ほんとに悲しいことです。それだけではなくて、落書きという手段は、オゾン層を破壊します。そうした「芸術作品」は、そのたびに消されてしまうのに、この犯罪的な芸術家たちはなぜ落書きをして困らせるのか、本当に私は理解できません。
                    ヘルガ


ソフィアの手紙
 十人十色。人の好みなんてさまぎまです。世の中はコ ユニケーションと広告であふれています。企業のロゴ、お店の看板、道りに面し年大きくて目ぎわりなポスター。こうい うのは許されるでしょうか。そう、大抵は許されます。では、落書きは許されますか。許せるという人もいれば、許せないという人もいます。
 落書きのための代金はだれが払うのでしょう。だれが最後に広告の代金を払うのでしょう。その通り、消費者です。
 看板を立てた人は、あなたに許可を求めましたか。求めていません。それでは、落書きをする人は許可を求めなければいけませんか。これは単に、コミュニケーションの問題ではないでしょうか。あなた自身の名前も、非行少年グループの名前も、通りで見かける大きな製作物も、一種のコミュ ニケーションではないかしら。
 数年前に店で見かけた、しま模様やチェックの柄の洋服はどうでしょう。それにスキーウェアも。そうした洋服の模様や色は、花模様が措かれたコンクリートの壁をそっくりそのまま真似たものです。そうした模様や色は受け入れられ、高く評価されているのに、それと同じスタイルの落書きが不愉快とみなされているなんて、笑ってしまいます。
 芸術多難の時代です。
                    ソフィア

 いかがだろうか?
 私は、ちょっと文化的な目眩感を感じた。
 私は、どっちかというとかなり欧米的な高等教育を受けたし周りに非日本人の学友もそれなりにいた。で、あいつらは、そう、こんなふうに言うのだ。そう、こういうふうに自分の意見をがなりたてるのだ。
 私は当時を思い出す。私はこうしたとき、まず、日本人の心としては、「そんな議論は、くだらないな。第一そんな議論なんて虚しいし、無意味。壁の落書きなんて駄目に決まっているじゃないか。でも、今晩、君と一緒にやろうというなら覚悟して付き合ってもいいよ。」と思う。だが、そう言うことはできない。英語で言うという能力以前に、それは意見でもなんでもないからだ。
 難しくいうなら、私のリアクションは、ただの政治判断なのだ。日本人の心というのは、子供ですら、即座に空気を読みそして政治判断を下して身の置き所を考えるのである。イザヤ・ベンダサンが言うところの「ああ、政治天才よ! そしてわれら政治低能よ!」である。
 当時の私はそんな状況で心を切り替えることにした。彼らとタメを張るにはどのような論点が有効かと考え直す。この時点ではまだ日本人をやめてない。まず、両者の意見の利得をさっと計算する。ある状況ならソフィアの意見のほうが受けがいい。ああ、そうだよぉ♪、ニューヨークタイムズだのワシントンポストだのコラムなんて大人ですらこのレベルじゃんか。で、利得に合わせて論理と補強を考える。つまり、例証のサンプルを記憶でさっとかき集める。組み立てて、話す。その直前で日本人を止める。そこから先はチェスと同じだ。議論というゲーム。
 みなさん、それが、できますか? 日本人の子供にそうさせて読解力とやらを高めさせたいですか? これって、「ああ言えば、上祐」じゃないですか…。この問題、日本人の学生に白紙が目立ったというのだが、私は率直に言えば、これに白紙を出した日本人の学生に共感する。くだらねー、やってらんねー。ヘルガとソフィアの写真マダー、である。
 しかし、これができることが世界という場に求められているのは間違いないし、日本の義務教育を終えた子供たちは、たぶん、イザヤ・ベンダサンのいう政治天才性を保持しながら、読解力低能の状況となっているのだろう。
 どうしたらいい? 結論はついている。こうした読解力を高める以外に日本人が今後の世界を生きていく道なんかないよ、である。すぐわかる。政治天才だものな、日本人は。
 つまり、そういうことなのだ。つまり、この問題は、読解力の問題じゃないよ。オヤジたち息巻いて、夏目漱石だの森鷗外だの読めとかとち狂ったことを言わないでくれよな。もちろん、漱石も鷗外も人生後半で女と暮らすのはいかにしんどいものか、といういい教訓を教えてくれるという意味で実に文学的だが、先の読解力とは関係ねー。
 余談だが、「あすを読む」では、日本の大学生の学力低下についても嘆いていた。ふんなものどうでもいいとか思ったのだが、提示された国立大と私大の学力差に唖然とした。私大の五人に一人は中学生以下の読解力だというのだ。ああ、俺も私大だよな、ばーかで悪かったなとか言う問題とは違う。どういう問題なのか、これは、また別の問題なので、別の機会にでも。

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2004.12.07

1944年12月7日マグニチュード7.9の地震が発生した

 12月7日は何の日?みたいなのはブログのネタが切れたときの定番のようだが、1944年の今日12月7日マグニチュード7.9の地震が日本列島の太平洋岸側で発生した。現在では東南海地震と呼ばれている。死者は全国で1千223人に及んだ。
 「今日は何の日」というとき、Wikipediaがネタに使えることがある。日付がそのままキーワードになっているからだ。12月7日はこんな感じだ(参照)。


できごと
1787年 - デラウェア州がアメリカ合衆国憲法を批准した第1の州になる。
1941年 - 真珠湾攻撃(米国時間)
1954年 - 吉田内閣総辞職
1997年 - 介護保険法公布。
1999年 - 年金改正法成立。
2001年 - 文化芸術振興基本法施行。

 真珠湾攻撃(大詔奉戴日)が米国時間で掲載されているのはあまりよいジョークとはいえない。チョムスキーや古舘伊知郎の誕生日というのが記載されているのは面白いのか苦笑すべきことなのかよくわからない。いずれにせよ、Wikipediaのこの日の項目には東南海地震については記載されていない。
 「東南海地震」についてはWikipediaでは別途項目を立てている(参照)。

太平洋戦争の末期でもあり、大々的な報道が控えられたこと、記録自体が消滅・散逸していることなどから、被害の全体像がなかなかつかめない地震である。

 Wikipediaのこの項目は書き込み途中らしく十分な情報はない。
 地震災害東南海地震のページ(参照)に掲載されている「昭和19年12月2日東南海地震の震害と震度分布」(愛知県防災会議編)や手元の情報をまとめると、東南海地震はこの日、1944年12月7日午後1時36分に発生した。マグニチュード7.9。震源は尾鷲市沖南東海底(南海トラフ)。海溝型地震だった。津波による被害を含めて、全国で死者1千223人。負傷者2千864人。家屋全壊3万4946戸、家屋半壊6万993戸。海溝型地震なので被害が広範囲に及んでいるのが特徴的だ。
 多少なり地震に関心のある人なら、この戦争末期の東南海地震について知ってはいる。なにより、この震災の経験者はまだ存命なので当時の被害を今に伝えている。私もいくつか読んだが、その中に、当時東洋一と言われた石原産業四日市工場の煙突がこの地震によって崩壊した話もあった。
 地震発生当時は、Wikipediaにもあるように、日本は戦争中の報道管制のため、被害状況はほとんど報道されなかった。もちろん隠蔽するには被害は大きすぎたのでとりあえずベタ記事扱いにはなった。また、この地震は海溝型地震だったこともあり海外でも察知されていた。米国ではこの震災による被害をかなり正確に推定してようだ。
 東南海地震の被害のなかでも特に際立つのが、零戦などで航空機製造に男女学生が多数勤労動員にされていた名古屋地域の状況だ。彼らに多くの死者が出た。米軍はこの弱り目を狙ってさらに空襲を強化したようでもある。
 さらに名古屋地域では、翌年1月13日午前3時38分、三河湾中央部を震源とする直下型の三河地震が発生した。手元の資料ではマグニチュード6.8とある。深夜ということもあり死者2千306人と東南海地震の倍にもなった。
 Wikipediaの「三河地震」(参照)の項目では次のように伝えている。

震源が浅くマグニチュード7.2と非常に規模が大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かでしか残されていない。地震が発生した当時は戦時中で戦意を低下させないように報道管制がしかれ、国は一切三河地震のことを報道するなと圧力をかけたからである。

 戦時はこうした地震被害を隠蔽してしまうものなのだろうか。昨年12月26日イランのバムで発生した地震では死者約4万1千人、負傷者約2万650人。両親を亡くした子どもは約1800人、片親を亡くした子どもも約5000人とのこと。しかしイランと言えば、核開発疑惑だのというニュースのほうが先行して伝わってくる。
 それでもよく耳を傾ければ、各種の情報が伝わる時代になった。イラン地震救援プロジェクト(参照)などで支援者からの声を聴くこともできる。

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2004.12.06

平和のために折り紙爆弾投下

 これこそ正真正銘ベタ記事だと思った。昨日、タイ政府が国軍とイスラム系住民の衝突で治安悪化が進行している南部三県に一億羽近い折り紙の鶴を空から投下し、和解と平和を訴えた、という記事だ。プミポン・アドンヤデート(Bhumibol Adulyadej)国王(77)の誕生日に合わせのことだというのだが、そんなものに効果があるなら、世界から核兵器がなくなっているよと苦笑した。
 国内での記事には読売系"「タイに平和を」1億羽の折り鶴舞う…数拾えば特典も"(参照)などがある。BBCではもうちょっと大きく扱っていた。"Thais drop origami 'peace bombs'(タイ政府は折り紙による平和爆弾を投下した)"(参照)である。「平和爆弾」という言い回しが面白いのでこのエントリでも拝借した。
 もちろん平和の祈りであろうがゴミはゴミなんで無意味に撒き散らすのも芸はない。なので、この折り鶴はくじ引きのようになっていたり、何万羽か集めた人には特典もあるという話のようだ。折り鶴とかいうとどうしても日本人には引くものがあるが、気になってこの関連のニュースを各種読んでみるに意外にも日本への言及はなかった。英語も"origami"でどうやら通じているらしいこともわかった。
 もちろん、このニュースはただの洒落でしかない。ちょっと気の利いた洒落かもしれないとしても背景には気の利かない現実がある。この地域の治安悪化だ。
 先日ラオスで開かれていた東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議でも、当初は、ASEAN域の治安悪化がどのように問題になるのか、多少は、注目されていた。特に、10月末タイで国軍の治安部隊と衝突した際、イスラム系住民78人が国軍の搬送トラックの中で熱射病と窒息により死亡するという非人道的な事件が起きたばかりだった。今年に入ってからこの三県では国軍とイスラム系住人との衝突ですでに550人以上が死亡している。
 三県の所在については先のBBCのニュースに地図があるので参照するといいと思うが、マレーシアに隣接している。当然、イスラム系国家である、マレーシアのアブドラ首相とインドネシアのユドヨノ大統領はこの事態に懸念を抱き、ASEAN首脳会議前夜にタイのタクシン首相との間で三者会談が開かれたが、結論は出なかった。いや、この問題は扱わないという結論を出した。タクシン首相が押し切ったと見ていいだろう。タイってそんなに強くなってんのか今ひとつこのあたりの問題は私にはわからない。
 この問題の行方だが、私には十分な知識がないのでわからない。不謹慎な言い方になるのだろうと思うが、率直なところ、なぜマレーシアと融合しないのかすら疑問に思う。マレー人ではないからというのが答えなのだろうか。この地域は宗主国とのつながりもないので背景で分離独立の糸が引かれることもないだろう。余談だが独立運動など国際的には常にうさんくさいものである。
 タイにおけるイスラム系住民の状況について簡単にメモしておきたい。タイでは人口比ではイスラム系住民は4%弱、250万人ほど(と言われているし、資料もあるが実態はかなり違っていそうだ)。ソンクラー、ヤラー、ナラティワート、パッターニの南部四県に集中している。この地域の街にはマレー語の看板も目立ち、マレーシアとの二重国籍者も多いと言われている。昨年バンコクで米英豪大使館爆破を計画したとして、東南アジアのイスラム系テロ組織「ジェマア・イスラミア(JI)」の構成員が逮捕されたが、この組織が南部四県に拠点を置いているらしい。少なくとも、タイ政府はそう見ている。
 歴史的には、パッターニ県付近を中心に14世紀以降イスラム系のパタニ王国が存在していた(参照)。18世紀後半タイが近代化国家化への始動する際、支配下に入り、20世紀初頭に併合され、王国としては滅んだ。は日本と琉球王国との関係に多少似ているのかもしれない。

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2004.12.05

中国は弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)を完成していた

 率直に言うとあまり気乗りしない話題だし、読みのスジを大きく外しているようにも思う。だが重要な問題かもしれないという印象も強い。簡単に事実関係から書いてみる。
 話は標題通り「中国は弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)を完成していた」ということだが、これは米国防総省のリークであり、しかもリーク先がワシントンタイムズなので、端的な事実とは言い難い。こういう話が米国防総省から統一教会系資本のメディアであるワシントンタイムズに流れたということがプライマリーな事実になる。
 話は、中国海軍はこの七月末までに弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)を完成していたということで、これには弾道ミサイルが搭載可能だ。実現すれば、中国は米国本土に核弾頭を落とすことができるようになり、以前のソ連に近いパワーになる。とはいえ、こうした核の軍事力は、国連の元になる連合軍だったフランスやイギリスもすでに持っているものなので、その意味では中国が持っても特段におかしいというものでもない。中国もそのつもりでいるのだろう。だが米国がそれを許すだろうか。
 ニュースのソースとしてはまずガーディアンなどに掲載されたAP系"China Launches New Class of Nuclear Sub"(参照)を先に読むといいだろう。


WASHINGTON (AP) - China has launched the first submarine in a new class of nuclear subs designed to fire intercontinental ballistic missiles, U.S. defense officials said Friday.

 元になったワシントンタイムズの記事"China tests ballistic missile submarine"(参照)はさすがに詳しい。

The new 094-class submarine was launched in late July and when fully operational in the next year or two will be the first submarine to carry the underwater-launched version of China's new DF-31 missile, according to defense officials.

 現状ではこの情報はガセの可能性もある。
 私はこれはガセではないと思う。いくつかの話がこれに集約されてくるように思えるからだ。
 話は少し迂回するが、先日の極東ブログ「中国原子力潜水艦による日本領海侵犯事件について」(参照)で私はこう書いた。

台湾をからめた軍事的な脅威となるのは、SLBM搭載原潜だ。SLBM(Submarine-Launched Ballistic Missile:潜水艦発射弾道ミサイル)は、ICBM(InterContinental Ballistic Missile:大陸間弾道ミサイル)とならんで、毛沢東政権以来中国が悲願とするもので、これがあれば、米国を直接核攻撃に晒すことさえ可能になる。以前のソ連のような軍事大国となることができるわけだ。とはいえ、旧ソ連のような軍事大国に成りたいとしてもそれがまだ無理なことくらいは中国もわかっているはずだ。いずれにせよ、同じ原子力潜水艦といっても、漢級・原潜はそれほど脅威ではない。
 今回の事件が意図的なら、中国は台湾海峡を含めて不用意な緊張を日本をからめて高めたかったことになるが、中国がそんな利益にならないことをするとは思えない。先の軍事演習も早々に引き揚げている。

 この脅威がいよいよ実現になってきた。中国は旧ソ連のような軍事大国と成る野望を持っているとみてよさそうだ。
 今回の原潜開発の話には純粋に軍事的な考察を必要とする部分があり、その部分については私は十分な知識を持っていない。だが、国際政治に反映される部分については、いくつか思うことがある。なにより、先日の中国原子力潜水艦による日本領海侵犯事件との関連があるように思える。
 先日の中国原子力潜水艦による日本領海侵犯は、沖縄で長く暮らしていた私にしてみると、現地である程度噂に聞く話でもあり、そう珍しくもない。なので、なぜ防衛庁は今回に限ってフカシているのか、と思った。ミサイル防衛(MD)を名目に防衛庁の予算が削減されるのがむかついているのだろうとも推測がつくし、それ自体は国防を担う者として当然のアクションかもしれない。極東ブログ「ミサイル防衛という白痴同盟」(参照)で触れたように、このシステムは非科学的だという理由で実用にはならない。おまけにMDにご執心のラムズフェルドはまだブッシュ政権に居座ることが決定的になった。
 このあたりから読みが陰謀論のスジに迷い込んでいるのかもしれないのだが、防衛庁のフカシは、そうした内部からの動きというわけでもなかったようだ。これもネタ元はワシントンタイムズなのでへろへろになりそうだが、中国原子力潜水艦による日本領海侵犯は完全に米軍の監視下にあった。琉球新報"中国原潜の航路、米政府が地図に"(参照)ではこうまとめている。

中国海軍所属の原子力原潜が11月初旬、石垣島と多良間島の間の日本領海を侵犯した事件について、米保守系紙「ワシントン・タイムズ」は3日、同原潜が10月下旬に浙江省寧波(ニンポー)を出港してから米側が航行を把握しており、米情報当局が地図上に航路をおとした文書をまとめたと報じた。

 中国のとんまな原潜の動向は米軍からお見通しだったのだが、それを日本の防衛庁にチクったのはそれなりの意味があったのだろう。
 というあたりで、その意味というのが、今回の弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)だったのではないだろうか?
 チクったのは反ラムズフェルド派なのか? どうも陰謀論に踏み込んだ印象もあるのだが、米軍側はこれらの情報を全て持っていて、一部が特定の観点から情報を操作しているのだろう。
 脇道にそれるのかもしれないが、ミサイル防衛をめぐる防衛庁と財務省の確執と今回の新原潜の関連で、ちょっと気になることがある。財務省のサイトにある"中国の軍事力と日本の ODA"(参照・PDF、なお、ダウンロードできないかもしれない)だが、これがかなり弾道ミサイル原子力潜水艦を過小評価しているように見受けられる。

同様に、東風31号の派生型である潜水艦発射ミサイル巨浪2号(JL-2)も問題をかかえている。すなわち、これを16基搭載する新型ミサイル原潜(タイプ094)の開発である。すでに述べたように、中国は夏級ミサイル原潜の開発に事実上失敗している。タイプ094は、ロシアの技術を導入し、夏級と比べて格段に進歩したミサイル原潜となるはずであるといわれるが、現時点においても、その建造にかかわる信頼すべき情報はない。かりに今年から建造を開始したとしても、建造・儀装に3~4年を要し、訓練航海さらには巨浪2型ミサイルの水中発射実験を行わなければならず、配備できるのは早くても2008年以降のこととなろう。まして戦力として運用するとなれば、最低でも2隻、できれば4~8隻を保有する必要がある。それが可能になるとしても、実現するのは2010年でも早すぎる。

 今回のリーク報道をベースにすれば、この見積もりがくるう。この見解について財務省と防衛庁になんらかの駆け引きがあるのだろうか。
 話を戻し、今回の弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)だが、弾道ミサイルとしては射程距離8000kmのJL-2(巨浪-2)が搭載されることになりそうだ。米本土を狙うなら当たり前のようだが、現実問題としてそんな軍事力で中国が米国と対峙するとも思えない。
 話を端折って乱暴に書くことになるのだが、こうした軍事力は米国本土を攻撃するという用途ではなく、台湾を米国が保護するのを断念させるための示威なのではないか。
 非核兵器による台湾海峡を挟んでの戦闘はまだ十分に台湾に余力があり、中国の追い上げもなんとか台湾はかわせるだろう。とすれば、そこに中国の勝ち目はない。だったら米国という脚立を外してやれというのが中国の思惑なのではないか。そう思える。
 ストーリーとしては、米国対中国という対立の枠組みが唯一の可能性ではない。台湾を両国で潰してそれからデタントに持ち込んでもいい。米仏のような関係が米中に築けないわけもない。その場合、日本は蚊帳の外でいいし、米軍の手足となっていればいいだろう…それも平和ってやつか。
 私の本心ではそんなストーリーでいいわけがないと思う。ただ、この話はあまりに不確定な要素が多いのであまりマジに頭を突っ込みたいとは思わない。が、しばしこの関連は注視しておく必要はあるだろう。

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2004.12.04

[書評]幕末日本探訪記(ロバート・フォーチュン)

 ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、1812年スコットランドに生まれた。エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当した。異国の植物に魅せられた人だったのだろうが、そのままそこで人生を終えても不思議ではなかった。だが、30歳を過ぎて好機が訪れた。アヘン戦争後の南京条約によって中国に外国人が入国できるようになったことから、彼は中国に派遣された。主要な目的の一つは茶の木である。優れた茶は貴族たちが目の色を変えるほど欲しいものでもあった。

cover
幕末日本探訪記
 手元の「現代紅茶用語事典」のロバート・フォーチュンの項目を参照するに、彼は中国語を習得し、中国人の服装をし、中国の茶の産地をくまなく調査したとのことだ。東インド会社の依頼で彼は中国からインドに茶の木を移植した。その後、インドではアッサム種が発見されて主流になるが、私のような紅茶ファンは中国種を好む。
 ロバート・フォーチュンは、先日紹介した「蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)」にもあるようなプラントハンターでもあった。キク、ラン、ユリなど東洋の代表的観賞植物を英国にもたらしたのも彼である。バラの愛好家なら彼の名を冠したバラ、Fortune's Double Yellow(参照)を知っているだろう。金柑の学名Fortunella japonicaは、まさにフォーチュンの名前と「日本」を彼が組み合わせたものだ。
 フォーチュンは二度来日し、その時の記録をこの「幕末日本探訪記―江戸と北京」に残している。標題には江戸と北京とあるが、内容の九割は日本に割かれている。オリジナルは「A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China」。翻訳は日本語として読むにはややこなれていない印象を受けるが、それでも、この探訪記は無性に面白い。これを読まない読書人があろうか、と言いたくなるほどだ。
 彼が最初に来日したのは万延元年、1860年のことだ。まだ明治維新前の江戸のようすが、あたかも植物を描写するように、客観的に精密に描かれている。これを読みながら、私のような日本人はこの一世紀半の間だに変わってしまった日本と変わらない日本についていろいろ物思いにふける。昨今の軽いナショナリストの主張が明治時代の擬古の化けの皮に過ぎないかもしれないと啓発される点もあって楽しい。そういう面白いところを、ちょっとトリビア風に紹介してみよう。
 明治直前の若い女とはどんなものだったのか。

とにかく私に侍った小娘達は、輝くばかりの白い歯を持ち、唇を深紅に染めていた。

 お歯黒は既婚者のものであり、未婚の女は今とそれほどは変わらないようだ。

日本女性はシナの女性と比べて、作法や習慣がひどく違っている。後者は外国人の顔を見ると、すぐに逃げ出すのが常識となっている。日本女性はこれに反して、われわれに対して、いささかも疑惑や恐れを見せない。

 集会で彼はこんな経験もする。

ことに婦人たちが既婚、未婚の別なく、面白がって私の意見を求めた。そして笑いながら次つぎに前で出てきて、「奥さんになる!」と申し出た。

 目に浮かぶようだ。現代の若い日本の娘とまるで違いはないのではないだろうか。
 話を変える。日本人の肉食は明治以降のことだというのが通説になっているが、これはどうも嘘のようだ。

通りすがりに肉屋[ももんじ屋、江戸時代の獣肉を売る店]も目にとまった。これは日本人が野菜や魚だけを常食としていないことを表している。

 日本人は江戸時代から肉を食っていたようだ。ただ、フォーチュンは、牛と羊の肉はないと言っている。代わりに「鹿の肉はどこにもあった」と言っている。なるほどなと思う。が、本当なのだろうかと思うこともある。猿の肉も売っていたというのだ。「おそらく日本人は、猿の肉をうまいと思っているのだろう」と彼はコメントしている。
 トリビア的な話はこのくらいにしよう。
 フォーチュンはプラントハンターとしてか、当時の日本人が植物を愛し景観を愛する姿をある種感嘆と敬意の念をもって見ている。また、絶えず剣道など武術に精を出す国民性に将来の発展を予感してもいる。
 だが、そこはもう違ってしまったの知れない。私たち日本人は植物と景観を愛し、また文武の心を日常に涵養することはない、ように思う。悲観しすぎかな。

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2004.12.03

欧州連合(EU)の軍隊が始動する

 昨日2日、ボスニア・ヘルツェゴビナの治安維持活動が、北大西洋条約機構(NATO)の平和安定化部隊(SFOR:Stabilisation Force)から、新設の欧州連合(EU)の和平維持軍(EUFOR:EU Force)へ移譲された。つまり、EUの軍隊が本格的に稼働を始めた。予定されていたことなので、驚きということはないのだが、実際にEUの旗のもとに軍事力が行使されるのは感慨深い。というより、私は大事件なのだと思う。
 正確に言えば、EUは昨年マケドニアやコンゴに部隊派遣をしているので今回が初めての軍事活動というわけではない。なお、EU軍という呼称は従来欧州のNATO軍や米軍を指していることもあり、EUFORとしたほうがいいのかもしれない。
 例によってこの話は日本国内ではベタ記事扱いなのだが、そんなことぼやくのはもはや無駄だろう。この問題には、恐らく現在のウクライナ騒動も関連している根の深いものもありそうだが、今日は自分の実時間をそれほどにはブログに裂けないこともあり、雑駁に思うことを記しておきたい。というか、私の間違いなり、補足なりについて、トラックバックやりコメントをいただけたらと思う。
 日本語で読める記事としてはCNNジャパン"サラエボの和平維持活動、EUが指揮権引き継ぐ"(参照)がある。


 今年、加盟25カ国に拡大したEUは、米軍とは一定の距離を置いた、域内の軍事協力態勢の強化を図っているが、今回の指揮権しょう握もその一環となっている。EUには、ボスニア内戦を初期段階で終息させることが出来なかった苦い経験もある。
 AP通信によると、指揮権の委譲で、現在駐とんする米軍兵士1000人以上が、英軍少将が指揮官のEU和平維持軍と交代する。ただ、NATO軍は全面撤退せず、一部が残留しボスニア政府の戦犯追跡作戦などを側面支援する。米兵約150人もとどまる。

 他の英文のニュースをざっと見てもEU側の軍事力については明示的には書かれていないが、交代ということなので現状の千人規模とみてよさそうだ。この規模が今後のEU軍の活動単位になるのだろう。読売新聞"EU戦闘部隊創設へ 20か国参加、紛争地域に緊急展開"(2004.11.23)にはこうある。

欧州連合(EU)は二十二日、外相・国防相合同会議をブリュッセルで開き、英仏独三か国が提唱した、緊急介入のための千五百人規模の「EU戦闘部隊(バトルグループ)」創設に、加盟二十五か国中、二十か国が参加することで合意した。当初は英仏独を中心とする数か国の参加と見られたが、結局、大勢が参加することになった。

 ここで正確に見ていく必要があるのだが、今回のボスニア・ヘルツェゴビナの治安維持活動はピースキーピングであるのに対して、この報道はバトルグループと性格が違う。だから、同等に議論してはいけないのだろう。が、それでも、千人から千五百人の規模がユニットなって構成されるとはいえるだろう。後に触れたいと思うのだが、日本の自衛隊の場合、大枠ではペースキーピングとはいえEUFORとかかなり性格が異なるうえ、バトルグループは存在しえない。また、イラクの場合は、600人規模であり、端的に言えば、軍事的には「使えねー」、というのが国際的な評価だろう。
 先の記事の続きではEU戦闘部隊の構想が言及されているが、ようは、この部隊はEUの行政部から指示があれば10日以内に該当地域に展開し、そのまま30日間の作戦能力を持つとされている。スケジュール的には2005年までに英仏伊が初期作戦用にそれぞれ1500人の部隊をもち、2007年には完全な作戦の遂行ができるようにということになる。
 話を端折るが、EUつまり事実上フランスの指揮下で現在の米軍規模の軍事活動が展開できるというのだ。余談だが12月2日はフランスではボナパルト祭になっているのだが、その盛り上がりは私などにはフランスは醜悪な幻想を持っているような印象をうける(偏見だろうとは思う)。
 当然、疑問が浮かぶ。米国がそれを許すのか? また、英国はNATOなのかEUFORなのか?
 ここれは大きな問題で考察を要するのだが、後の課題としたい。いずれ米国の対応の動きはある、としか思えない。
 EUFORでの英国軍の役割もだが、この軍に参加しているのはEUだけではない。なぜ?とつぶやきたくなるのだが。ロイター"EU force takes over Bosnia role"(参照)では端的に以下の事実を示唆している。

EUFOR's troops come from 22 EU member states and 11 other countries, including Canada, Chile and Morocco.

 つまり、カナダ、チリ、モロッコがEUFORに参加している。日本では意外と知らない人がいるのだが、カナダは米国の隣国なのだが米国主導の有志連合によるイラク戦争に荷担していない。このことでカナダと米国はある意味かなり険悪になっている。また、チリでは先日の米大統領訪問に関連してこれも日本ではあまり報道されなかったが、些細とはいえ反米騒動があった。米大統領が暗殺されても不思議でもないような状況とも言えた。と、明らかにこの枠組みは反米的に出来ている。
 日本は追米だから問題外、としてのんきでいていいのかもしれないが、端的に言って、日本の昨今の自衛隊イラク派遣延期問題の新聞社レベルの議論はかなりピンボケしている。話を端折るとまずい面もあるのだが、オランダの撤退を英米で埋め合わせるというのは具体的な状況における戦略の問題(軍事的な問題)なので政治と混同すべきではないが、オランダとしては、単純に言えば、今回の撤退は米国への義理を果たしたしEUとのつき合いもあるし、なにより、仏独への皮肉でもある。なんだかんだといってもイラクは復興せざるをえないし、それには国連なりが主導するということになる。となると、実際にはこれに仏独が関わらざるをえない。米国の始めた戦争でしょとはさすがにここに来て言えるわけもない。
 アフガニスタンの場合はNATOが機能したが、これにEUFORが当たるのか、というと、そういう話は私は聞かない。どうなるのだろうか?
 話が散漫だが、こうした動向に、また、こうした新しい世界の枠組みのなかで、日本はただ追米でいいのかも当然議論されなくてはならない。余談めく話ではあるが、今回のEUFORの派遣にあたり、ノルウェーでは憲法議論が起きている。EUFORへの参加が憲法違反ではないかというのだ。"Controversy over Norwegian EU force"(参照)をひく。

There is a majority in Parliament in favour of sending a Norwegian contingent to the new EU security force.

However, the move may not be compatible with the Norwegian Constitution, according to legal experts.


 国内法によって対外的な軍事活動を忌避する国があってもいいとは思うし、まさに日本は現行憲法下では、その先頭でなくてはならない。それで国内的にはイラク派遣にすったもんだしてきたわけだが、現在、EUが独自の軍隊をもって活動し、その規模がEUの枠を越えるにあたり、日本は従来のような古い世界観だけではいられないだろう。
 端的なところ、国連を介在した平和への貢献はもう不可能なのか。そして、有志連合というのが、対EU軍という性格を帯びてきたとき、日本はどうするというのだろうか。

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2004.12.02

ブレア首相曰く「ヘリコプター買いまへんかぁ」

 30日朝のNHKラジオで大統領専用ヘリコプター選定の話をワシントン油井秀樹記者(ワシントン)が伝えていた。話を聞きながら、半年くらい前だったか、いくらブレアが熱心にブッシュにヘリコプターを売り込んでも必ずしもブッシュ再選とはならんかもよ、とかちょっと思っていたことを思い出した。そして、そうかぁブッシュは再選したのだよな、と奇妙に物思いにふけった。
 この話、他のソースではどうかなとざっとネットを見渡してみた。NHKの話は大筋でTampa Bay Business Jounarnal"Helicopter decision up in the air -- again"(参照)などにもある。これがそのままネタ元というわけでもないのだろうが、なるほど話題にはなっていたようだ。他にも、この話題は米国内の地元産業のありかたにも関連しているらしく、地域的な観点でも語られているようだ。
 日本国内ではどうかなと思ったら、「突撃隊員休憩所」というブログの"大統領専用ヘリで相手を落としあい?"(参照)というエントリにあった。ネタ元は書いてないが、内容とスジがNHKラジオとほとんど同じだったので、書き起こしてまとめたのだろうかとも思った。いずれにせよ、そういう話だ。
 NHKでの話を簡単にまとめるとこうなる。米国海兵隊が運用している大統領専用ヘリコプター、通称「マリーンワン」(参照)が老朽化し機種変更ということになっているのだが、選定に当たっては、従来から利用されているシコルスキー(参照)に加え、ロッキードマーチン、ベル、アグスタ・ウェストランド三社共同による別機種US101が候補となっている。危機感を覚えたシコルスキーは、自社がオールアメリカンの製品だと愛国心に呼びかけているのだが、社の所在がケリー陣営の強いコネチカット州だったことから、ブッシュ陣営が嫌うのではないかという噂もあるらしい。他方、US101のグループは受注が決まれば製造拠点の大半を米国に移すとしている。現在、選定は紛糾し、結論は1か月後に伸ばされるとのことだ。
 NHKでの話にはないがシコルスキー社創設のシコルスキーについてはWikipediaの該当項目が詳しい(参照)。


イゴール・シコルスキー(Igor Ivanovich Sikorsky, 1889年5月25日 - 1972年10月26日)はロシアのキエフ生まれで、後にアメリカに亡命した、航空のパイオニアの1人で、4発の大型機の開発、近代的なヘリコプターの開発をおこなった。

 ロシアのキエフでいいのかよというツッコミをちょっと入れておくにしても、なかなか興味深い現代アメリカ史の一面である。この時代の亡命ロシア人というと私の好きなラフマニノフ(1873-1943)を思い出すが、米国で活躍した時代はかなり違うということになる。
 余談めくが、Wikipedeiaは軍事情報が充実してきており、自衛隊の兵器一覧(参照)も非常に参考になる。ここのヘリコプターの項目からもリンクのあるUH-60 ブラックホーク(参照)はシコルスキー社製で関連情報を読んでいただければ、日本とシコルスキー社の関係の深さも理解しやすい。また、これらには記載されていないが、シコルスキー社が今回オールアメリカン(純米国製)を標榜しているわりに、部品の一部は日本で製造されているので、ようはアメリカで組み立てているというに過ぎない。当たり前といえば当たり前なのだが、そうした点で見ればUS101と大差はないということにもなるだろう。経済活動とはそういうものだ。
 今回の選定はその単に米国の地場産業に影響するという以上に、国際的なヘリコプター産業全体にも影響があるらしい。英国側の報道なので話半分ということかもしれないが、11月21日タイムス紙"PM wants British helicopters on White House lawn"(参照)では、その意義を強調している。

Some industry analysts believe the Pentagon deal is big enough to decide the future of the world helicopter industry. “Whichever company loses it will find it very difficult to compete in this medium-to-large military helicopter market,” said one analyst. George David, the no-nonsense chief executive of United Technologies, Sikorsky’s parent, has no doubt about its importance: “It’s win or drop dead,” he said.

 さて、どういう選定になるのか。純粋に軍事的な観点から選択されるのか(恐らく軍人はシコルスキーを好むだろうと思うが)、政治がらみがあるのか。そのあたりをいろいろ考えてみるのだが、政治がらみというスジではないかと思う。
 関連して先のタイムス紙はこう締めていた。

Whitehall officials have also written to the Bush administration putting forward the case for Westland. Both the White House and Downing Street refused to comment on the bid last week, because it was “a commercial matter”.

 英国ブレア必死の要請にブッシュが応えるという構図になるのではないだろうか。
 なお、US101は三社開発とはいえ、実際はアグスタ・ウェストランド社(参照)のEH101をちょこっと変更したものだ。日本では丸紅エアロスペースが扱っている(参照)。

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2004.12.01

国連アナン事務総長退任まであとニ手

 臭い切り出しだが、率直に言って日本の報道はどうなっているのだろう? ブログ対既存ジャーナリズムというような枠はこの際どうでもいいのだが、日本のジャーナリズムがかなりおかしいような気がする。気になる2点を取り上げる。重要なのは後者の国連アナン事務総長退任問題だ。
 まず一点目は、昨日のエントリに書いた陳家山炭鉱の続報だが、日本国内に情報がまるでないというわけではないのだが、事実上はないに等しい。こうした災害の場合初動の48時間が重要になるというのが常識だと思うのだが、そういう枠組みが報道から明白に欠如している。
 中国の炭鉱災害については今回が最悪だとはいえ、近年続発していた。この様子はロイター"CHRONOLOGY-Snapshot of Chinese mining disasters"(参照)で年表形式にまとめられている。異常な状態だと思うのだが、解説は見かけない。
 不確かな情報で危機感を高めたいわけではないし、今回の陝西省ではなく四川省なのだが、"四川:石炭備蓄が危機的状況、産業構造にも問題"(参照)という話を興味深く読んだ。


 四川省の石炭不足が危機的状況になっている。備蓄量は41万トンと、全省の使用量8日分にすぎない状態。燃料ショートのため、11月24日には9つの発電機を停止している。11月30日付で新浪網が伝えた。

 四川省の石炭不足および電力不足は2002年からはじまっている。同年の石炭生産量は5358万トン、03年には7253万トン、今年は8000万トン以上の生産が見込まれるなど、生産量は増えているが、需要に追いつかない状態だ。


 これと昨日エントリーに引用した11月9日の東京新聞"四川でも10万人暴動"(参照)と合わせて考察すると妄想のようなお話もできそうだ。いや、妄想では困る。だが、どこからこの問題に着手していいのかもわからないが、きちんとした考察が必要だ。どこかによい考察があるなら、読みたいと思う。少なくとも、陳家山炭鉱の続報を事実上ネグっているような日本のジャーナリズムはおかしいと思う。
 二点目は国連疑惑だ。極東ブログでも石油食糧交換プログラム関連でなんどか扱ってきたが(参照)、この問題を論じるだけで右派に思われる節もあって最近ではニュースは追いつつ、問題の収束を見つめるだけとしていた。そう、なんとなく終わりになるのだろうという感じもしていたからだ。ボルカーの判断は良識ということかとも思っていた。なにより、このネタは米国大統領選挙ではブッシュ再選への燃料になるかとも思っていたがその気配もあまりなかった。
 しかし、11月24日のワシントンポスト"Oil-for-Food Inquiries Aren't Finished"(参照)で指摘されてように、終わってはいない。そしてその後の展開は、国連アナン事務総長退任へチェックメイトニ手という動きになってきた。
 米国大本営とはいえこうした問題には国際的な配慮を示すVOAまで"US Calls on UN Chief to Release All Oil-for-Food Facts "(参照)として触れてきたので、多少あれ?とすら思った。しかし、すでにある程度「疑惑」の次元は終わっており、VOAの記事で書かれているように、国連内部資料の公開が求められるはずだ。日本など国連への拠出金が大きいのだから、まさにその権利があると言ってもいいだろう。
 が、日本国内ではこの関連の報道を見かけない。過去の経緯で見ると、この問題については大手ではNHKが事実上隠蔽しているに等しく最低であると私は思う。かろうじてCNNジャパンが"アナン国連事務総長、息子の疑惑に「残念」 "(参照)で次の報道を見かけた。

国連のエッカート報道官は26日、石油・食糧交換計画に関わったスイス企業コテクナから、コジョ・アナンさんが西アフリカ情勢に関するコンサルタント料として報酬を受け取っていた期間は、以前に発表したよりも長かったことが判明したと発表。国連は以前、コジさんとコテクナとの関係は、同社が石油・食糧交換計画の取引を受注した98年を機に終わったと発表していたが、実際には04年2月まで報酬が支払われていたと訂正した。

 少なくとも国連がこの件で嘘をついていたことは明確だ。アナン・パパは息子のことは知らないとバックレているが、某国首相が息子の面を民放テレビで売っているのとはわけがちがって、彼は息子を国際政治の場にデビューさせたのだから、責任がないわけもない。というか、常識的に見て、アナン辞任議論がスケジュールに登らないとおかしい状況にある。
 すると、後任の問題やら、国連の置かれた状況だのが大きく変わることになるのだし、その問題をもはや取り上げる時期に来ているはずだ。
 と、ここで右派のウォールストリートジャーナルを引くと滑稽かもしれないが、それでもこの話はどこかの陰謀論とは違い大筋が通っているので、参考になるだろう。"Time for a Kofi Break"(参照)はこう切り出す。

Things are going badly for Kofi Annan. The oil-for-food scandal has revealed U.N. behavior regarding Saddam Hussein's Iraq that ranges from criminally inept to outright corrupt. Rape and pedophilia by U.N. peacekeepers haven't gotten the kind of attention they'd get if American troops were involved, but the scandals have begun to take their toll. And the U.N.'s ability to serve its crowning purpose -- the "never again" treatment of genocide that was vowed after the Holocaust, and re-vowed after Cambodia and Rwanda -- is looking less and less credible in the wake of its response to ongoing genocide in Darfur. And finally, the U.N. has so far played no significant role in defusing the Ukrainian crisis.

 不用意な刺激にならないように試訳はあえて避けておこうと思う(気乗りしない)。
 ウォールストリートジャーナルのエッセイでは、後任として声の高まるバツラフ・ハベル(Vaclav Havel )元チェコ大統領というのはどうだろうか、とネタにしている。確かにネタというだけに思える。ビロード革命なんて過ぎ去った時代のことであり、これを現在に持ち出すのは洒落としては面白いが、それだけという感じがするからだ。
 それでも、明確に国連は変わらざるを得ない。とすれば日本がこれに大きく関わらなくてはいけない。なのに、日本に情報も議論もなきに等しい。いや、私にはそう見える。違っているならそれでもいい。議論を起こすべきだし。

追記(2004.12.2)
米国1日付けウォールストリート・ジャーナルに連邦議会上院小委のノーム・コールマン委員長がアナン事務総長に辞任を求める寄稿をした。
該当記事:Kofi Annan Must Go(参照

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