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2004.12.12

[書評]ウォルフレン教授のやさしい日本経済(カレル・ヴァン ウォルフレン)

 これは変な本だ。この本を読んで日本経済がわかるかというと、たぶん違うだろう。経済学専門のかたは本書をパラっとめくっただけで、ぽいと捨てる…いや、まるでそれを手にしたのがマナーの勘違いであるかのように、そっと書棚に戻すのではないだろうか。学問的には多分価値はない。

cover
ウォルフレン教授の
やさしい日本経済
 経済学の入門でなくても、一般向け書籍として読みやすければそれだけでもいい。そうか? 確かに表面的には読みやすいのだが、何を言っているのかよくわからない説明も多い、と思う。もっともそうした印象はウォルフレンのこの本だけに限らない。当初は啓発された気にはなるのだが、そのうちわけがわからなくなる。近著「アメリカからの“独立”が日本人を幸福にする」(参照)は、よくあるリベラル派の浮ついた話でもないのだが、読み終えてから奇妙な疑問符が残る。なんだ、この本?
 でも私は、この「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」(参照)を何度も繰り返して読んだ。さらにこれからも繰り返し読むだろう。で?、どう? いやそのあたりを書こうかと思うわけだ。
 本書の紹介は釣りに任せておこう。

たとえば著者は、「日本の財政政策や全般的な経済政策を旧来どおりに維持してきた官僚たちは、今ではそれらの政策が政策であることを忘れてしまっている」「政策だとはつゆほども思わず、自然の摂理のように思っている」などと論じて、状況が変わっても無自覚に同じ政策を継続させている官僚の「特異な経済システム」を浮かび上がらせている。また、それが経済低迷の原因になっているともいう。

 間違いではない。が、話を進める。
 いきなりだが、銀行とはなにか?
 山本夏彦の言うように金貸しである。企業にも貸す。融資である。その際、銀行はどうするのか。ウォルフレンは原点からこう説明を始める。

 融資にあたって、欧米の銀行が検討する最も重要な事柄は、信用(クレジット)を提供することに伴うリスクの大きさです。この「信用リスク」の計算は、銀行の新入社員教育の最も重要な部分になっています。

 借りる側の企業としては、融資、つまり企業活動の資本に対してどのくらいの金利を払うかが重要になる。単純な話、企業活動の利潤が金利を上回るという判断が必要になる。ウォルフレンはこれを「資本コスト」と説明する。
 そして、彼はこの二つ、信用リスクと資本コストは、日本経済には重要ではないと言い切る。
 それでも銀行は結果として融資にあたり信用を割り当てる必要がある。

 本来、信用はどう割り当てるかが重要なはずですが、それ以上に日本の企業にとって重要なのは「信用に対する権利」を持っているかということです。大企業など、銀行にコネを利用できる日本の企業はこの権利を持っていますが、規模が小さく、コネもない企業は「信用に対する権利」を持っていません。

 「信用に対する権利」というのは経済学の用語ではなく、ウォルフレンの造語である。「信用権」と簡略して呼んでもいる。信用権はこう言い換えてもいいだろう、つまり、政治家や官僚システムに"顔"の利く人間の保証。

 起業家になりたい日本人はまず、日本の経済システムのなかで自分が資金調達の面で保護を受けることができるかどうか、を考えなければなりません。今持っている財産で、上部機構や金融機関との間にどのような関係をつくることができるのか、それがビジネスに成功できるかどうかのカギになるのです。
 もし相当大きな財産を持っていたとしても、それだけでは必ずしも信用を得ることはできません。むしろこれらの関係こそ、持っている財産よりはるかに重要なものになります。

 彼によると、日本の企業は、銀行に対して信用権がある大企業と、それを持たない中小・新興企業の二つに分かれる。そして、日本の銀行は、後者を融資の対象としない。このため、後者はお金を銀行から借りることができない…。では、この信用権のない企業はどうするのか。金は必要だ。

お金を借りるにしても、銀行ではなく、もっとずっと高い金利で融資する「商工ファンド」のような金融会社から借りなくてはならないのです。
 大企業にコネのないこれらの会社の信用判断をするのは、銀行家とは別の人でした。一九八〇年代から九〇年代初頭には、商社が中小企業の信用力を判断していました。

 この二種類の企業の棲み分けとシステムが、崩れてきた。
 かつては信用権を持っていたと見なされる大企業に対しても、ダメなのは潰すということで、改革と称して、潰す企業のリストを作成し、それを元に潰すことになった。
 ウォルフレンの意見ではないのだが、ここで「潰すという決断を下したと見なされた新しい権威が同時に新しい信用権を再配布しうる主体となるのだ」というメッセージが暗黙の内に含まれていたかもしれないと思う。
 大手企業以外にも、中小企業であれ下請け企業として大手企業の信用権を又借りしていた企業も経営が厳しい時代となり、銀行による貸し渋り・貸し剥がしが進んだ。
 他方、信用権を持たない企業は、商工ローンなどより高金利の金融業に依存することになる。それしか、この構図では手がない。
 そこで、当然ながら、銀行からは相手にされないけど、あまりの高金利も避けたいという願望のニッチが経済活動の場に広がってくる。そこに無担保でも融資してくれる新種の銀行があればいいな、という願望が生まれる。あるいは、従来社会構造的な理由などで信用権を持てない者同士が特異な政治力でなんとか新しい信用権が獲得できないものかと画策する機運も生まれる。それらがあたかも自然の流れであるかのように起きても不思議はない。
 しかも、ウォルフレンの言うこの奇妙な信用権だが、その機能に着目すれば、逆の解釈もできる。
 要は、官僚・政治機構にコネと同質のものを作ってしまえばいいのである。
 あるいは、審議会だのなんとか政策のブレーンだの、というところから最初にシステムに侵入し、蚕食し、つまりは、コネを先に作ってしまえばいい。コネ=信用権となる。そして、それを先のニッチに結びつければ、なにか大きなことが出来そうな気配になる…と、書くに、それらは机上のシミュレーションでしかない。つまり、推定上の話。そして、この本が出版されたのは2002年5月から現在まで、2年半が過ぎた。

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コメント

finalventさんの抜粋を読む限りでは「現在の」企業融資に対する論評としてはウォルフレン教授の指摘は完全に「時代遅れ」と私は断言してはばかりません。

銀行は現在、ベンチャー企業に対して貸し出さないということはありえません。確かに新興企業に対する融資はハイリスクです。しかしその代わりそのリターンも(例えば第3者割り当てで融資の一部を株で受け取っていれば)当たれば莫大なものとなります。
但し、銀行はこれまでそのような融資はできませんでした。なぜなら、
a.護送船団時代の政府介入による呪縛。(ここは教授の意見に合意します)これは、21世紀に入ってからはそのような縛りはなくなっていています。
b.リスクとリターンを算出できる技術及び人材の不在、(これも解消されてきています。なにしろこれが出来る人の年収は莫大なものですからね。
いろいろな人がこれを目指しているわけです)
c.融資しても資本市場が未整備だったため、リターンが期待できなかった。(これも東証マザーズやヘラクレス、又企業融資を債券化するといった様々な手法によって短期間でリターンを実現できるようになっています)

ゆえに、現在の銀行融資はビジネスプランを製作し、高度なポリティカル性を発揮して(w銀行のリスク計算できる人材に対して説得し、ある程度の金利の上乗せさえ甘受すれば銀行融資を引き出せることは必ずしも不可能ではありません。
現実に私は知人が起業するときに無担保の上、政府系金融機関の制度保障を使用して銀行から融資を受けている例を知っています。

投稿: F.Nakajima | 2004.12.12 11:19

なんか見当はずれのレスをしている人がいるようですけどfinalvent氏は、もちろんキムタク銀行の話にかこつけてるんですよね?

投稿: eternalwind | 2004.12.12 18:16

「キムタク」だってまちがえちゃった。「キムタゲ」銀行

投稿: eternalwind | 2004.12.12 18:55

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