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2004.10.21

農業に求められる生物多様性は文化をも守る

 先週の土曜日、10月16日は世界食糧デーだった。今年のテーマは「食糧安全保障のための生物多様性(Biodiversity for Food Security)」。FAO(国連食糧農業機関)の"World Food Day 2004"(参照)は、生物多様性を維持することが人類の食を守ることになると主張している。


A rich variety of cultivated plants and domesticated animals are the foundation for agricultural biodiversity. Yet people depend on just 14 mammal and bird species for 90 percent of their food supply from animals. And just four species - wheat, maize, rice and potato - provide half of our energy from plants.
【試訳】
農作物と家畜が十分に多種類存在していることが農業における多様性の基礎となる。なのに、現在の人類は、その90%の食用畜産・家禽を14種類に限定している。また私たちは、カロリーの半分を得ているもとを、たった四種類の植物、小麦、モロコシ、米、ジャガイモに限定している。

 現在この地球では、いまだに飢餓が深刻な問題となっている地域が多い。農業と食の関係はグローバルに見直す必要はある。特に、世界の多様な地域では、その土地とその民族に見合った多様な農業や畜産が維持される必要もあるだろう。単純な話としては、農業に関わった人間なら誰でも知っているが、同じ作物だけ育てていると、耕地は疲弊してしまうものだ。あの繁茂するセイタカアワダチソウですら、自家毒で繁殖の限界が出るらしい。
 多様な農耕を推進することで、各種の生物の環境にも多様性が維持できる。特定の植物だけでは昆虫などの生息のバランスが壊れてしまう。農業・畜産業以外の全体的な環境のためにも生物多様性は重要だ。
 ただ私は、率直に言うと、こうした主張とは多少違った考えも持っている。というのは、1957年生まれの私は、品種改良された作物の種類と計画的な農耕方法を世界規模で進めることで多くの飢餓を救った「緑の革命」を見てきた。このおかげで途上国では人口が増加したケースもある。伝統的な農業の復権が単純によいとも思えない。だから、食糧安全保障のための生物多様性の希求が、捕鯨禁止運動のように、宗教的とも言える環境保護になってしまうような傾向があれば困る。また、福岡正信の著作に見られる自然農法も興味深いとは思うがどう評価していいのかはよくわからない。
 FAOの主張には含まれていないが、私は、生物多様性は伝統文化との関係面でも重要だろうと思う。
 例えば、先日、極東ブログ「白露に彼岸花」(参照)で彼岸花の球根の毒性のことに触れた。毒があるとわかっていながら、私たちの祖先はその毒を水で晒し、澱粉を選り分けて食料としていた。このエントリでは、その労が美味しいものを食べたいからなんじゃないかと気楽なことを書いた。が、そんな呑気な話だけではあるまい。重要な食料だったのだろう。
 同エントリでは沖縄のソテツについても触れた。ソテツにも毒があるが、沖縄の人はその毒を抜いて食用にする。そういえば、沖縄の「きーうむ」にも毒がある(そうでない種類もあるらしいが)。「きーうむ」という言葉は、たぶん、木の幹のように見える芋ということで、「木芋(きいも)」に由来するのだろう。本土人からするとキャッサバ、あるいはタピオカと言われたほうがわかりやすい。世界の各地で沖縄同様、主要な食糧とされている。
cover
てぃーあんだ
 きーうむを水で晒して毒抜きしてできた白い澱粉を沖縄では「きーうむくじ」と言う。琉球の伝統料理のデザートにはこれを使った西国米(しーくーびー)がある。「てぃーあんだ 山本彩香の琉球料理」(参照)に詳しい。
 きーうむくじという名称は、サツマイモ、つまり本来なら琉球芋から取る「うむくじ(芋葛)」の連想もあるだろう。このサツマイモだが、野国総管から儀間真常に伝え、これを薩摩が真似して本土ではサツマイモと呼ばれるようになった。
 もちろん、「いもくじ」の食文化がすべて沖縄経由で本土に伝承されたとは言えない。本土でも彼岸花と限らず、類似の製法による蕨粉などが伝統的に利用されていた。もとの葛自体がこの製法による。「いもくじ」の原型は本土から沖縄に伝えられた可能性もある。他にも沖縄ではぶくぶく茶といって泡立てた茶があるが、これらは室町時代に本土で飲まれていたものが琉球に伝えられたものだ。
 話は食の多様性ということから少し逸れるのだが、農業・畜産の現場と伝統文化というのが、現代の人間には伝わりづらくなっているなとよく思うようになった。
 先日、小学生数名を引率し、昼飯に蕎麦屋で蕎麦を食わせたのだが、注文した蕎麦が出てくるまで間がありそうなので、蕎麦と麦の民話を話した。ご存じだろうか。こういう話だ。
 ある冬の川辺で老人が川を渡ろうと難儀しているのを蕎麦と麦が見ていた。蕎麦は可哀想にと思って老人を背負って冷たい川を渡した。蕎麦の足は凍えて真っ赤になってしまった。この間、麦は素知らぬふりをしていた。老人は実は神様だった。神様は足を赤くした蕎麦に「二度と寒い思いをすることはない」と祝福したが、麦には怒りを覚え「おまえのようなやつは冬に人に踏まれて育つがよい」と呪いをかけた…。
 もちろん、こんな話、子供たちにはまるでわからない。蕎麦と小麦が擬人化されているのもわからないし、気まぐれに呪いをかける神様というのも理解できない。なによりこの物語が何を意図しているのかまるでわからないのだろう。私はこの話より、その解説がしたかったのだが、頼んでいた蕎麦がすぐに出てきたので、解説をする機会を逸した。
 食を守ることは民族の歴史の心を伝えることでもある。この民話は蕎麦と麦についての生活文化がにじみ出ている。蕎麦はごちそうという含みもあるのだろう。こうした生活の実感が単純化された農業と食の工業的製造からは失われてまうだろうし、そうした損失は私たちの伝統文化の情感を失うことでもあるのだろう。

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コメント

なるほどと読み過ごしてコメントしにくいエントリですが。
なんでも、伝統文化と結び付けるとややこしくなりますね。蕎麦だってホントに日本で作られたものはとっても少ないはず。(中学校の社会で習った)食べ物じゃありませんが、日本の元風景の代表みたいに言われている海辺の松林(九十九里浜だったかな)だって、2000年くらい前に植林されたものだとどこかで聞いたような。伝統や文化に傘した非人道的行為(アメリカが得意)なんて世界中ごろごろしてるし。
自然も伝統も作為的じゃないって言い切れるものがどのくらいあるのかな。

投稿: あさ | 2004.10.22 16:43

こんにちは。
農村では、水田の区画拡大事業が盛んです。農家は誰も、コストを掛けたくないので反対ですが、役所や業者の凄みで、押し切られ、判を押してしまい、米価は下がるのに、数十年の負債を負わされています。アメリカ流、画一的大型農業用の基盤が、創られつつあります。いったい、誰が、こんな大きな田んぼを必要とするのでしょうか。(工事業者は、潤うのかも。)
新潟では、もの凄いらしいです。

福岡正信氏の農業ですが、実際にやってみると雑草だらけに。おかしい??と思って、著作をよく読むと、除草剤を平然と使ってます!クローバーによる、施肥、雑草の抑制と、「無肥料」とも書いていますが、よく読むと、薬漬け養鶏場から、鶏糞を買ってるみた。趣味程度の極々、小規模なら出来るかも。どこが、自然農法なのか解りません。

投稿: U-1 | 2004.10.27 12:51

「農業に求められる生物多様性は文化をも守る。」と言うコピーは、
コンセプトとして、ちょっと、変かな。?と思いますよ。
本来、自然発生的な文化は、生態系の利用技術として、発生してきます。この利用の地域特性が、生物の側からすると"戦略"として機能し、ある種にとって群生の領域を拡げたり、または縮小されたりという影響として反映し、・・・。
例えば、"農耕"という"ひと"の生態系利用のかたち、即ち"文化"の働きかけが、その土地の"農耕を行うひと"という種をも含む生態系としてつくられる、という関係ですから、・・・。
"生物多様性"を必要とする、生態系利用のかたち、即ち"文化"によって、生物の多様性が保全されて行くのですから、・・・。
生物多様性と文化の関係は、どちらが、どちらを作るというよりも、
相互に保証し合っています。
つまり、「生物多様性は文化をも守る」というような、あの手この手のコピーを考えていじくり回すよりも、
「生物の多様性をもつ生態系でなければ、成立しないような、我々の営みのかたち(文化)をつくれば、必然的に"生物の多様性"は守られてゆきます。」
「生物多様性は伝統文化との関係面でも重要だろう。」というのは確かですが、我が国の場合、そのような伝統文化の生活技術の多くは失われていますから、「いまさら、伝統文化云々も、無理があるのではないでしょうか。」
「生物多様性」に対応して「文化の多様性」が必要ですが、
日本の中で、グローバルスタンダード化した"日本文化"というものに、そういう、実質のある「文化の多様性」を求めるのにも無理が感じられます。ですから、実質を伴った、施策はなかなか打ち出し難いので「生物多様性の希求が、宗教的とも言える環境保護に結びつく」というような、"信仰"や"信念"の主張に終わりがちなのではないでしょうか。

我が国の場合に限れば、食の自給率の向上をまじめに考えるところから、スタートしないと、生態系の保全も、生物多様性の維持も、
「我々が、他国より優位性を保ち生き残る為」という現実面に結びつかないのなら、「実質の無い模範解答」のようだと思います。

投稿: こたつ、ねこ | 2005.03.07 05:54

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