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2004.10.20

ミャンマーの政変、複雑な印象とちょっと気になること

 昨日ミャンマーの政変が報道された。クーデターと言ってもいいようだ。キン・ニュン首相は軍によって拘束された。隣国タイの首相府報道官は、駐ミャンマー大使からの報告として、キン・ニュン首相は汚職容疑で解任され自宅軟禁に置かれていると発表。ミャンマー国営テレビは代わってソーウィン第1書記の首相昇格を発表した。
 キン・ニュン首相はミャンマー軍政内の序列三位にあり、軍主導ではあっても民主化にも理解を示す穏健派と見られていた。スー・チー氏とも対話し、国際社会との窓口役も務めていた。しかし、その成果を軍政トップのタン・シュエ議長を好ましく思っておらず、タン・シュエ議長はキン・ニュン首相を冷遇しているとの情報がすでにタイ経由で報道されていた。今回の政変はさらにそれを推し進めものなのだろう。
 私の憶測なのだが、タン・シュエ議長は、外国勢力であるタイが序列四位のトゥラ・シュエ・マン大将を擁立してその地位を奪うと恐れ、事前に今回の行動に出たということはないのか。今回の政変報道がなにかとタイ発なのも気になる。
 政変については、マウン・エイ副議長と間の反目も原因とも言われている。シャン州の中国国境近くで先月マウン・エイ側の陸軍部隊とキン・ニュン首相側の情報局員との間で銃撃戦があり、情報局員が多数逮捕された。この波及で、情報局出身のウィン・アウン外相が更迭されている。キン・ニュン首相の「汚職容疑」には利権の裏があるのかもしれない。
 キン・ニュン首相が更迭されると、ミャンマー民主化の行程表(ロードマップ)も、言い方は悪いのだが、予想通り行き詰まることになる。新憲法の起草、国民投票、民主選挙実施、民政移管といった一連の手順がふいになった。ノーベル平和賞受賞スー・チー氏の民主化運動も頓挫したかに見えることになるので、欧米側からミャンマーへの圧力はいっそう強くなることだろう。
 さて、と言うまでもなく、今回の事態について軍政タン・シュエ議長は当然責められるべきだろう。だが、私は正直に言うと、どうもそうすっきりしないなという思いもある。感情的な些細な問題に過ぎないのかもしれないが、今回の政変について、欧米のニュースを当たっていくうちに、イギリスBBCが頑なに国名を「ミャンマー」ではなく「ビルマ」としているのに奇妙な感じがした。
 ネットの世界を覗くとわかるが、イギリス系の民主化運動では国名を「ミャンマー」ではなく「ビルマ」を使っている。これは、日本がネーデルラント王国をその一部の呼称オランダとして伝統的に使っているのとはわけが違う。イギリスは、「ミャンマー」の国名を頭から否定しているからだ。「ビルマ」呼称には民主化への期待も込められているが、植民地として押し付けた国名の維持という面もある。国名についてはいろいろな見解があるが、現軍政権が押し付けられたビルマ呼称を嫌ったというのが大筋だろう。また、ミャンマーには「ビルマ」という伝統的な言葉は存在しないようだ。
 もう一つすっきりしないのは、ミャンマー軍政は一義的に悪なのだろうかという疑念がある。これもはっきりと言えるものではないが、たとえば、こういう話がある。「ビルマ『経済開放と民主化の狭間で』」(参照)。


 世論に逆行する日本大使館員の意見に、こんな心情を語っていた人を思い出した。竹内輝さん(39)。 ヤンゴン日本人学校の教諭として、九〇年四月から三年間も現地に暮らした数少ない日本人である。
 「赴任する前は、『軍政イコール悪』で『スーチーさん軟禁=民主化が拒まれている』と、思っていました。 でも、二年、三年と住んでみて、一概にそうした図式で割り切れるものだろうか、という疑問が沸いてきたんです」。


ビルマは陸続きに五国と接し、その国境沿いに多くの少数民族を抱える。 「この国を纏めてゆけるだけの集団が、軍以外に今のビルマにあるんでしょうか」。 確かに、この国からは夥しい数の頭脳が流出してしまっている。「『暴動(ママ)』を起こした民衆の大半は、 軍さえ去って民主政府になれば、自分たちの生活も一挙に良くなるというような、無責任な幻想を抱いていたんじゃないですか」。

 もちろん、そうした特定の印象から軍政権を擁護できるものではない。しかし、庶民の生活や軍独裁には複雑な陰影があるように思える。
 ミャンマーの歴史も示唆的だ。少し長くなるが、この経過を見る上で、Wikipediaの該当項目を引用したい(参照)。なお、ここでは、民族呼称としてビルマ人、また、この地域名はミャンマーとされている。それでいいのかについては議論もあるが、通説でもあるのでそこには立ち入らない。ただ、私は、歴史文脈でのビルマ人はビルマ族と仮に呼ぶことにしたい。

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人のよるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やランナー王国、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。

 重要な点が二つある。
 一つは、ミャンマーという民族主義的な国家の主体がビルマ族によって形成されたことだ。ビルマ族のパガン王朝が13世紀にモンゴルの侵攻で滅ぶという過程はユーラシア大陸全域に見られる。が、このビルマ民族的なナショナルな国家運動は、継続してタウングー王朝、コンバウン王朝となる。民族の意識の高まりが強い。近代までにビルマ族を主体とする民族国家が歴史的に形成されていたと言ってもいいだろう。
 もう一つは、モン族など諸部族との軋轢を歴史過程なかでナショナルな国家に十分に統合していないように見えることだ。とはいえ、モン族について言えば、コンバウン王朝下でビルマ族との混血は進み、言語もその多数は固有のモン語から離れていた。現状では、モン族はミャンマー人口の2%ほどの少数民族になっている。
 ビルマ族のコンバウン王朝が近代に民族主義的な国家への萌芽を見せ始めたころ、植民地化によって破壊しつくしたのがイギリスである。コンバウン王朝は独立をかけて三次にわたる英緬戦争を繰り広げたが、1886年に破れ、英領インドに編入された。さらに1937年イギリスの自治領となった。かくして同種のイギリス植民地のように、ミャンマーも実際の経済、つまり軍事以外の実質的な権力を印僑と華僑が握ることになる。
 第二次世界大戦後、植民地化脱出の契機とともに他族との争いが前面に出てくる。この点については、先のモン族を例にすると、モン族支援的な立場で書かれたとみられる「モン族の歴史3 タイ・ビルマ国境からの報告」(参照)が興味深い。
 1962年から1988年までは、ネ・ウィン将軍の軍事政権が続いた。ネ・ウィンは鎖国政策をとるのだが、好意的に見るなら、イギリスによって注入された要素を排除し、植民地化と異民族支配によって中断された民族主義的な国家の完成を目指していた。そしてある意味では、ネ・ウィンを継いだ現在の最高権力者タン・シュエの意図もその途上にあるとも言えるだろう。
 その民族主義的な国家の形成は、その後、軍政自らが結果的に招いた欧米の制裁のよる鎖国的状況から困窮を招き、もはや国内は強権によってしかつなぎ止められないいびつなものに変形してしまった。
 別の言い方をするとベトナムのように社会主義であれ民族主義的な国家でれば、その民族国家的な基盤を形成し、その上に経済的な発展があれば、民主化はその段階の上に位置づけやすい。そういえば、ミャンマーは石油会社ユノカルとの間で奴隷労働による人権侵害を訴えられていたが、これもユノカル側としては経済振興的な意図があったと言えないわけでもない(参照)。
 ユノカルの連想のようだが、今回の政変で石油関連で気になることがある。中国は今回更迭されたキン・ニュン首相との間で、ミャンマーと中国雲南省を結ぶ中国の石油パイプライン建設の構想を持っていた。これは、中国の国策、利権、またこの地域の地政学的に、かなり重要な意味を持っている(参照)。現在、中国はミャンマーの軍政権に多量の武器輸出をしているのだが、これもパイプライン計画の布石の可能性もある。あまり陰謀論的に考えたくはないのだが、その行方と中国の動向も注視しておきたい。

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コメント

十数年前のことですが、留学生(というだけで立場が分かる?)が"I'm Burmese, not Myanmar!"って言ってたのを思い出します。

投稿: Sundaland | 2004.10.20 10:59

自分も今回の事にはちょっと疑問を持ったので、
ここでの話は興味深かったです。
どの新聞を読んでも軍政非難ばかりなので
なんとなく嫌な感じがします。

投稿: jey | 2004.10.20 15:00

いくつか問題があるように見受けられます。第一にコンバウン朝以前の「ビルマ民族」と植民地期以後の「ビルマ民族」を単直線に結べないこと。あいだに差し挟まってくる植民地時代の意味は大きいこと。現在の民族問題の原因は植民地時代(60年です)と同様、独立後の国家運営(同じく60年)にも帰せられること。第二に「ミャンマーという民族主義的な国家の主体がビルマ族によって形成されたこと」とおっしゃいますが、これは諸少数民族との葛藤、その少数民族内部の葛藤、あるいは単一的主体としている「ビルマ民族」内部の葛藤を見ない言い方で、歴史の実態としては重層的なこれらのいくつもの葛藤が、結果的にアウトプットとして単一に見える、とうだけです。ちょっと深く見れば、ビルマの歴史は葛藤だらけです。現在記述されているビルマ史(引用されているURLのものはほとんどすべて)はナショナルな立場からのビルマ史ばかりで、他のビルマ史はなかなかネット上では見れないのですが。。。。
第三に「ミャンマー」と「ビルマ(ビルマ語で「バマー」)の違いはhttp://www.uzo.net/notice/quo/b_m.htm
第四にビルマの駐在員の方は、結構地元のビルマ人の意見を知りません。正確に見てる人もいますが、商売などをしないといけないとなると、どうしても軍人さんを相手にゴルフのひとつもやらないといけない、すると相手に対して情も出てくるんですね。ビルマ人と話すと軍政が悪くないと考えている人は本当に少数です。理由は簡単。停電やら生活環境の改善をまったく省みない軍政は、戦後60年近くたつ諸政権の中で最悪の施策をしているから。貧乏人も中産階級も金持ちもビルマ人なら「この政権下の暮らしが一番つらい」と口をそろえます。私は何が何でもこの軍事政権大嫌い、というわけではないけど、やっぱり酷いですよ。現ビルマの諸問題の根源を特定することと、実際に変化を望むときに軍事政権を相手に交渉せねばならない、というのは別の話でしょう。

投稿: タープイ | 2004.10.26 23:22

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