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2004.10.31

今晩はハロウィーン

 ハロウィーンである。子供たちはこの晩、仮装をして隣近所の家を回り、「トリック・オア・トリート」と言ってスィーツをせびる。"Trick or treat"、魔法によるイタズラを所望かそれとも我をもてなすか。いやいや、お菓子をくれないと困らせるぞ、というのである。「アメリカのハロウィーンはやっぱりすごいぞ」(参照)に米国の雰囲気を伝える話がある。

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スヌーピー
ベストコレクション
 私自身は参加した経験はない。チャーリー・ブラウン好き(そう、チャーリー・ブラウンが大好き。声優は谷啓がいいんだけど)の私は、ハロウィーンには憧れていた。「りんごのにおいと風の国」でもあるな。沖縄に移住してからは米兵とのつき合いもあり、この行事を身近に見ていた。子供たちは、確かに、楽しそうだった。子供のそういう楽しさをできるだけサポートしようとしている米人たちの親心というか隣人愛みたいなものも感じ取れた。
 この手の物まね好きの日本でも最近はハロウィーン行事をする幼稚園やら地域があるようだ。が、夜の町を子供が練り歩くわけでもない。危ないからね。でも、当然、米国だって危ない。だから注意が出るのだが、誰が出すと思う? もちろん、いろいろあるが、日本人には多分意外なのではないか、米国小児科学会(American Academy of Pediatrics)も出している。米国の小児科医と限らず、米国の医療従事者は日常の安全性への配慮の意識が高い。
 米国小児科学会の今年のハロウィーンへの注意は"AP News Release - 2004 Halloween Safety Tips"(参照)にある。ちょっと気になるあたりを抜き出してみる。

Plan costumes that are bright and reflective. Make sure that shoes fit well and that costumes are short enough to prevent tripping, entanglement or contact with flame.

 夜の祭りなので交通事故に遭わないように光の反射のよいものを身につけろ、と。日本でも夜間塾通いの子供が多いがこういう忠告は見かけない。靴はしっかりさせる。そう、私が子供のころは、貧乏だったせいもあるのだろうが、子供靴っていうのは足がすぐ大きくなるからとか言われておニュー(死語)はいつもだぶっとしていた。これは危険。巻き込まれそうな身支度はダメ。と、連想なのだが、電車のなかで長髪の女性を見るといつも気になる。燃えやすいものもダメ。そりゃね。

A good meal prior to parties and trick-or-treating will discourage youngsters from filling up on Halloween treats.

 行事の前にきちんと食事をさせておくこと。スィーツを無理して集めて食わせないようにするためだ。このあたりは、なるほど小児科医っぽい。

Carry a mobile phone for quick communication.

 ケータイを持たせろ。ほぉ。日本でも新聞だのテレビだの出てくる物を言う人は子供のケータイを目の敵にする傾向があるが、実際、日本の親たちはケータイをセイフティ・グッヅだと認識している。そういうものなのだ。

Only go to homes with a porch light on.

 ポーチライトのある家以外に行ってはダメだよというのが、これは、ハロウィーンのルールでもあるのだが、関連して、ちょっと気になる話題もある。ワシントンポスト"Va. Tracking Sex Offenders On Halloween"(参照)が興味深い。

Virginia is offering probation departments a suggestion for Halloween night: Keep sex offenders home with their porch lights off or have them report to a government office until children in costumes are off the streets.

 性犯罪者はハロウィーンの晩には強制的にポートライトを消させろという規制が社会問題でもあるのだ。子供を性犯罪者から守るというのは、米国ではかなり深刻な状況になりつつある。と、同時にこれは人権の問題も絡んでくる。日本ではこのあたりのことはまだそれほど社会問題化していない。別に、ハロウィーンがないからというわけでもないが。
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ロッキー・
ホラー・ショー
 ハロウィーンは大人もけっこうはしゃぐ。でも、大人の仮装がメインではない。大人の仮装はまたそれは別。「ロッキー・ホラー・ショー」も、できたら、DVDじゃなくて、仮装して、グッヅを用意して行かないと。もっとも、映画館でライターを振るわけにもいかないから、特別の上映会があるみたいだね。はてなの「ロッキー・ホラー・ショー」(参照)の解説がいい。

「米を少々」とか「水鉄砲」とか「クラッカー」とか、なんだかんだ持ってくる物を指定される場合がある。不信がらずに素直に用意して、行こう。行ってみれば何に使うかすぐに分る。

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2004.10.30

あなたは偽善者ですか?

 先日「はてな」のアンケートで「『はてな』に偽善者はいると思いますか?」(参照)というのがあった。アンケートの選択肢に「義援金を払っている人ほぼ全員が偽善者」というのが含まれていることからわかるように、背景には、はてな利用者がはてなポイント(1ポイント1円相当の地域マネー)で新潟中越地震被害者に義援金を送るという話がある。もちろん、アンケート者は、その行為を偽善だと間接的に主張したいわけでもないようだが、なにか、こーゆーのって偽善じゃないかという感じは持ったのではないだろうか。私も多少わかる気がする。
 アンケート結果で多数を占めたのは「はてなユーザーの一部が偽善者」なので、アンケートとしてはほぼ意味のない結果とも言えるのだが、なんとなくこの波紋が面白かった。
 面白いというのは、その、なんというか、みなさん「偽善者」と言われるのが嫌みたいなんだなっていう感じが伝わってくることだ。他方、偽善でも困っている人に義援金を送ることはいいことじゃん、ごちゃごちゃ言わんといて、と考える人も少なからずではありそうに思えた。
 そもそも「偽善者」という言葉がなにかしら、うちあたい(沖縄語:心に自分が思い当たるっていう感じのこと)する人が多いのか、引き続き、「偽善者じゃなければ何者ですか?」(参照)という問いかけも盛り上がった。
 この件で、自分が思ったことは二つある。まず、今の自分は、あまりそういうことは考えなくなったなということ。若いころはけっこう考えていたかなとも思い出す。
 現在だと、「おまえは偽善者だ」と言われても、「ほぉ、そう見えるかね」というくらいのリアクションだ。余談だが、このブログをやっていると、「ばかみたいですよ」というコメントをいただくことが多い。これも、「ほぉ、そう見えるかね」と思う。つまり、他者がそう思う、そう見るという現象自体は正しいし、その他者の経験を私が否定できるものでもない。もうちょっと言うと、実際のところ、私は偽善者だし、ばかなんだろうなと、けっこう了解してきている。
 若いころはそういうふうに自己を受容してなかったのだろうが、どこで、そうした転換があったのか、しばし考えてみた。ただ、歳とともに身体が老化していくように、心も老化したというだけかなという感じもする。
 思ったことのもう一つは、偽善者って英語でなんて言うのだろう?ということ。もちろん、"hypocrite"という言葉は知っているが、あまり日常使わないように思う。この言葉自体は基本的に聖書から来ている言葉だろうと思う。たとえば、マタイ6章にはこうある。


 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあたながたの父から報いを受けることがないであろう。
 だから、施しをする時は、偽善者たちが人にほめられるために会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

 英語の聖書でも大抵はこんな感じで、この「偽善者」に"hypocrite"を当てている。だが、あまり詳しい考証は省略するが、よりわかりやすく工夫した英語の聖書だと、ここは「演技者」のように訳されている。
 聖書では他にも類似の箇所があるが基本的にはこの箇所が「偽善者」についての言及の代表的だと言えるだろう。とすると、聖書的には「偽善者」というのは、「私は良いことをします」と宣伝して良いことをする人ととりあえず言ってもいいのだろう。
 それだと、ちょっと日本語の偽善者の語感とは違うし、英語の生活文化でもそうした言葉はあまり使われていなさげだ。英語だと「嘘つき」"liar"だろうか。いやそれだと人間じゃないというくらいの非難になる。英辞郎を引いたら"fox in a lamb's skin"というというのもあった。それほど使われている表現でもないが、「羊の皮をかぶった狐」というのは、欧米圏の感覚としてはわかる。逆に、日本人の偽善者というのはそういう、「羊の皮をかぶった狐」ほどでもない。
 私は、たぶん、日本人の場合、特に若い人の気性だと、偽善というのは、本心を偽っている、純真にそう思っていない、という、思いの純度のようなものに関わっているのだろうと思う。偽善者の反対はまごころだけの人みたいな。私信を捨て去るみたいな。
 しかし、ある程度人間生きてみると、偽善者より困るのがこの純真な人々ってやつだ。小林よしのりが、「純真まっすぐ君」とかおちょくって言っていたが、そんな感じだろうか、と言って、最近の小林よしのりについては知らないのだが。
 話がたるくなったので、私の考えをささっと書いてしまおう。私は、五・一五事件(参照)や二・二六事件(参照)を思う。このとき、青年将校たちは偽善者ではなかった。純真な心でテロ活動をやっていたのである。
 純真な心が問答無用に彼らが悪と見たものを殺し、しかも、その殺し方は、相手に同等の武器を与えることによって自らの名誉を守ろうということもない卑怯極まるものだった。というか、そういう行為が卑怯になるという西洋的な感性はなかったのだろう。
 いや、もっとも、こうした感性は日本人だけに特有ではないのかもしれないのだが。
 ネットの掲示板などで「匿名」というのが悪の隠れ蓑のように言われることが多くなったが、聖書的な世界観で言えば、匿名とは、先のイエスの垂訓が明確に示しているように、善意をこの世に知られないように、偽善を避けることが主眼であった。聖書的には、偽善者でなく生きるには、匿名で善行を行うことである。
 じゃ、匿名で悪行をなすのは、なんというのかわからないが、ま、偽善ではないのだろう。偽悪というのかな。悪でないだけましなのかも。

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2004.10.29

南無量的緩和、南無低金利

 28日付のフィナンシャルタイムズに"Japan on hold(日本は保留中)"(参照)という標題で、日銀の量的緩和政策は継続しとけという記事が掲載された。ニュース的な意味としては、20日の参院予算委員会における福井俊彦日銀総裁の表明に賛意を表した形だ。
 たいした内容ではないのだが、国際的にはそう見られているのか、ふーん、という感じ。わかりやすくまとまっているのでブログにネタにでもしようかなと思っているうちに、日本語のロイターで抄訳のようなものが出た。「日銀の量的緩和政策の堅持、適切な判断=FT紙社説」(参照)である。原文とのニュアンスの違いのようなものがあるなと思ってざっと見比べたがないようだ。なので、うざったい英文引用はやめて、気になる人はそちらを読むといいだろう。
 その内容だが、フィナンシャルタイムズが量的緩和政策は継続しろというのは、こういう危険性があるからだというのだ。


  1. 原油価格の上昇はインフレ率の上昇を招くが、日本の場合、実質賃金や企業収益の減少も招き、中期的には期待されているインフレ圧力を減少させる。
  2. 現在の日本の景気回復は中国の外需頼みなので、中国経済が減速すれば、日本経済は失墜する。
  3. また今年前半のように最近の円高ドル安基調になってきている。

 私なんぞ、原油がもっと上がれば日本の製造業に本気で価格上昇のドライブになって良し、とか思っていたが、フィナンシャルタイムズのいうように、実質賃金や企業収益になるのだろう。例の一次産品の高騰の経過をみれば、そうよそうよ、である。
 二点目の中国経済の減速については、今回の中国利上の動向が気になるところだ。すでに原油バブルは少し冷えた。もっともこの程度では石油価格が下がったといえるものではない。むしろ期待するなら、中国利上が円売り材料になるかな、くらいだろうか。
 関連して三点目のドル安基調だが、このまま続くのかは、米国大統領選挙にも関係してくるので、しばらくすると動向がはっきりするのだろうが…と、つまり、ドル高って線があるかだ。
 フィナンシャルタイムズでは、円高基調になれば、日本はまた例の介入をやる気だろうが、やめとけ、と諭している。

Now as then, the Japanese authorities stand ready to intervene against the yen if it seems to be rising dangerously quickly and adding to deflationary pressures. But the best way of weakening the yen will be to hold interest rates low, reducing the yield available on Japanese assets and creating expectations of higher inflation down the line.

 それより金利を下げろというのだが…はて、これ以下には下がらんが、と、おっと読み間違えた(わざとら)、ただ現状の低金利を維持しろ、というわけだ。それがthe best wayっていうのか英語って難しいなと思うが、要するに、円高になっても下手を打たずに我慢せいということなのだろうか。ゆっくり景気は回復するのだからってか。
 そのあたりが、よくわからん。というか、フィナンシャルタイムズは、量的緩和をもっと進めろとか、あれとかこれとかいわゆるあの政策をしろというわけでもない。そのあたりの機微がわからん。
 が、総じて福井日銀総裁を支援していると見ていいから、22日の財政制度等審議会での主張が暗に込められているのだろう。「日銀総裁が財政健全化の必要性強調、歳出カットだけでは困難」(参照)のこれだ。

 インフレを意識的に起こして、財政赤字を削減の議論があることについては、「もしこの方法を取ると、金利が急上昇するのは当然のこと。金利の上昇は、経済の活性化を損ない、経済の急速な収縮が起こる」として、否定した。

 つまり、フィナンシャルタイムズ的にもそういう含みなのだろう。
 フィナンシャルタイムズの話から離れ、量的緩和政策は、ま、それはそれとして、福井日銀総裁のこの表明だが…つまり、日本政府は無い袖は振れぬ的状況になっているわけで、どうするかと。当然、取れるところから取るぞー税なので、所得税の定率減税の廃止である。
 これはすでに計画段階のようだ。「定率減税の段階的縮小、常識的には半分ずつ実施=政府税調会長」(参照)だと、こう。

石会長は、首相発言について、「(定率減税は)あまりにも規模が大きいので部分的にやる。先行きの予測がつかない景気情勢の把握にも時間がかかる」として、段階的な縮小は現実的、との認識を示した。その上で、「一挙に全部やろうという人は不満が残るかもしれないが、少なくとも部分的にやる。その意味は半分なのか、3分の1か4分の1かわからないが、常識的に考えれば半分ずつということだろう」と語った。来年度から実施した場合は、2005、06年度の2年間で廃止することになる。

 ま、そーゆーこと。庶民的にはどんどんセピアなシビアな世界になっていくのだろうけど、餓死者がでる国というわけでもないし、ま、いいっか、なのだろう。
 これでどうやって「インフレ期待」かよとも思うけど、じわじわとなんとなるのでしょう。仮になんかのなんかでスポーンとなぜか資産バブルが起きても、以前と同じで直接に庶民に関係はないでしょう。貧乏人は気にしない気にしない。

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2004.10.28

日本の報道の自由の順位はチリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ

 今年で3回目になる「国境なき記者団(Reporters Sans Frontieres)の「世界各国における報道の自由に関する年次報告(Third Annual Worldwide Index of Press Freedom)が26日に発表された(参照)。日本の順位は42位。チリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ栄誉である。なんかおおらかで住みやすそうな国の印象を出して好ましい、わけはない。

世界各国の報道の自由の順位

1 デンマーク 11 スウェーデン 24 ジャマイカ 36 ブルガリア
1 フィンランド 11 トリニダード・トバゴ 25 ポルトガル 36 イスラエル
1 アイスランド 15 スロベニア 26 南アフリカ 38 カーボベルデ
1 アイルランド 16 リトアニア 27 ベナン 39 イタリア
1 オランダ 17 オーストリア 28 エルサルバドル 39 スペイン
1 ノルウェー 18 カナダ 28 ハンガリー 41 オーストラリア
1 スロバキア 19 チェコ 28 イギリス 42 チリ
1 スイス 19 フランス 31 ドミニカ 42 日本
9 ニュージーランド 21 ボスニア・ヘルツェゴビナ 32 ポーランド 42 ナミビア
10 ラトビア 22 ベルギー 33 ギリシア 42 ウルグアイ
11 エストニア 23 アメリカ 34 香港 46 モーリシャス
11 ドイツ 23 アメリカ領 35 コスタリカ 46 パラグアイ

 率直に言ってむかつくほどの低順位なので、日本の新聞やテレビ報道機関は無視するだろうかというと、無視するとすれば、その理由はたぶんそうではない。「国境なき記者団」が日本の報道の自由の問題で目の敵にする記者クラブの存在について、日本の新聞やテレビ報道機関が触れたくないというところだろう。
 「国境なき記者団」は2年前に記者クラブなんて廃止にしろよ、ということで、"Reform of Kisha Clubs demanded to end press freedom threat"(参照)という勧告を出している。これに対して、昨年末に「日本新聞協会編集委員会 記者クラブ問題検討小委員会」は「記者クラブ問題検討小委員会・2002-2003活動報告」として次のように明快に回答している。


結論から言えば、これらの疑問の大半は、誤解や曲解に基づくものです。しかし、結果として、彼らは記者クラブを「承服できない障壁」ととらえ、十分な取材ができなかった不満・怒りの矛先が<記者クラブ>に向けられる例が少なくありません。われわれ新聞協会加盟各社は「日本の記者クラブ制度は国民の『知る権利』の代行機関として重要な役割を果している」との基本認識を共有しています。

 なかなか面白いでしょ。というわけで、面白い反論がこの先と、「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(参照)に書いてあるので、暇な人は読んみてもいいかもしれない。いずれにせよ、今年の発表でもそうだが、そんなの反論にもなってないと結果的に受け止められている。
 今回の発表について、日本のブログで触れているところはあるかとちょいと検索したら、CNNの日本語版が触れていた。"報道の自由度、中東、東アジア低く、日本42位"(参照)。

紛争地におけるジャーナリストの支援や、言論と報道の自由について調査している国際団体「国境なき記者団(RSF)」(本部パリ)は26日、世界各国における報道の自由に関する年次報告書2004年度版を発表した。経済先進国では日本が最低で42位。全体的には、最下位の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を含む東アジアと中東地域で、自由度の低さが目立った、としている。

 いったいどんな基準でこんな順位にしているのかというと、アジアというだけでベースの減点があるわけでもない。"How the index was compiled"(参照)に説明がある。具体的にこの順位が本当に気にくわないなら、これにそって反論すればいいのだろう。
 私はこの順位が気にくわないかというと、そうでもない。こんなものなんじゃないか、日本の報道ってと思う。そんな諦観で国民の知る権利はどうなる、と思うのだが、新しいジャーナリズムを模索していくしかないのではないかと思う。とはいえ、ブログや2ちゃんのようなものがすぐにその代替となると楽観しているわけでもない。
 基本的には国内問題はタレ込みがもう少し増えればなんとかなるかもしれない。外信関係はもうネットで十分でしょと思う。
 社会問題がグローバルな枠組みに置かれるようになれば、国内のボトムアップ式なジャーナリズムでなくても、大枠で抑えることができるのではないかとも思う。例えば、アメリカ産牛肉の輸入がストップしている例の問題だが、これなんか全頭検査という虚構はさすがにグローバルな照明によって維持できなくなった。類似の例だが、日本版Newsweekの編集長コラム「大統領選とすき焼きの中身」ではこんな話がある。

 狂牛病の発生によってアメリカ産牛肉の輸入がストップしている問題では、9月になって日本側の全頭検査要求の見直しという動きがあった。その背景に、大票田であるアメリカの畜産業界による圧力があったことは想像にかたくない。酪農の盛んなテキサス州出身のブッシュが当選すれば、よりアメリカ側の要求に沿った決着が図られるか、輸入の解禁がさらに遠のくかもしれない。

 コラムのユーモアと受け止めるべきかもしれないが、面白過ぎる。事態はそうではない。アメリカの畜産業界は、カナダからの牛肉輸入がなくなったので、日本に出せなくてほっとしているのが実態だ。日本との牛肉で儲かるのは、彼らがクズ肉だと見なしている部分に限定されている。そのあたりの利権はあるにせよ、米畜産業界全体としてマジに日本に外圧をかける状況ではない。また、米国からの牛肉が本当に減少して日本が困ることが確実になれば、オーストラリアのオージービーフが増産できる体制に入ることができる。現状その動向がないのは、日米に出し抜かれることを恐れているためだ。いずれにせよ、こういう問題は国際関係で成り立っているのだから、グルーバルな大枠が見えれば、国内報道の虚構は大筋でわかるようになる。
 ということは、日本の場合は、グローバルなネットリテラシーというのと、またまた英語の問題ということはあるかもしれないが、現状のコンピューターパワーの拡大で実用レベルの英日翻訳は可能になるだろう。
 むしろ、日本の場合、ブログなりが代替ジャーナリズムな志向をやめてしまう傾向が特徴的になるかもしれない。というか、そういう傾向と日本の既存ジャーナリズムが釣り合っていて、報道というより、プロパガンダやアミューズメントになっていくのかもしれない。

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2004.10.27

オスカー・テマル(Oscar Temaru)を殺してはいけない

 世界のニュースをそう詳しく知りたいというものでもないのだが、私は沖縄での暮らしが長かったせいか、植民地化された島国になんとなく関心を持ち続けている。気になるのはタヒチだ。タヒチの大統領選挙をめぐって大きな社会混乱が起きている。このニュースはほとんど日本では報道されていないようなので、概要から書くべきなのだが、私自身、この問題をよく理解しているわけでもないので、取りあえず、自分の関心から書いてみたい。
 「タヒチ大統領」という呼称を使ったが正確ではない。またタヒチは国ですらはない。ナウル(参照)ですら独立国なのにタヒチは未だにフランスの植民地のままである。正式にはフランス領ポリネシアだ。その中心となるのがタヒチ島。植民地のままで独立してないのだから「大統領」なんて存在しようもない。統治機構の頂点にいるのは「正確」に言えば「行政長官」である。
 ところが、タヒチ大統領と言われることもある。例えば、原水協(原水爆禁止日本協議会)の2004年6月17日「祝:オスカー・テマルが仏領ポリネシアの新大統領に」(参照)にはこうある。


 タヒチ島を中心とするフランス領ポリネシアの新大統領にオスカー・テマルさんが選ばれました。
 ガストン・フロス前大統領は、フランスのシラク大統領とも親しく、モルロアやファンガタウファ環礁でおこなわれた核実験を推進し、20年にわたってポリネシアを支配してきました。95年にフランスが核実験を再開した際には、モルロア環礁で泳ぐパフォーマンスをして見せ、フランスの核実験はクリーンだ、などというプロパガンダをしてきた人物です。

 この記事は今年の6月の時点でテマル大統領の誕生を祝したものだ。フロス前大統領は91年から今年までこの任にあった。
 現在進行中の事態の発端は、新しいテマル大統領が廃されて、4か月ぶりに以前のフロス大統領に戻ったことだ。この点については、日本では現地からではなく、シドニー共同による報道がある。例えば、毎日新聞「仏領ポリネシア:反独立派のフロス氏が行政長官に復帰」(参照)ではこう伝えた。

南太平洋のフランス領ポリネシアの領土議会(定数57)は22日、テマル行政長官に対する不信任案可決に伴う行政長官選挙を実施、反独立派のガストン・フロス前行政長官(73)を賛成29、反対0で選出した。

 不信任案可決が反対なしということではない。28人はボイコットしたのだ。それなりの思いがあった。この状態で不信任案は正しく可決したと言えるのだろうか疑問だ。いずれにせよ、行政長官選挙、つまり実質再度の大統領選挙で、フランス支配下の自治を主張する人民連合のフロスが投票で返り咲いたのだから、これでよしということにしたい勢力がある。
 それにしても、なぜ4か月でテマル政権は転覆したのだろうか。これは別ニュースで補うと、テマル大統領が、フロス行政長官時代の会計検査を命じたことに、フロス勢力が反発したことがきっかけらしい。
 それでも、この間、国民側にテマル大統領に目立った不満があったかといえば、社会不安やそれに伴う事件は起きていない。デモやストライキもなかった。
 もっとも、結果的にフロスにも投票が集まったことを見れば、国民の状態は議会同様に拮抗して割れていたのだろうは推測できる。だから、テマル政権を国民すべてが支持していたわけではない。
 だが、テマル大統領が議会の不信任投票で罷免された16日に大規模な民衆デモが起きた。タヒチ島で一万五千人近く、他島で数千人がデモに参加した。BBC"Tahiti crisis sparks mass protest(タヒチ危機で群衆の抵抗た高まる)"(参照)は18日の時点でその状況を伝えている。

A political crisis has escalated in French Polynesia, where at least 15,000 people have staged the Pacific territory's biggest ever protest rally.
【試訳】
フランス領ポリネシアで政治危機が高まってきている。少なくとも一万五千人もの民衆が太平洋地域の植民地でかつて無い規模の反対運動に参加している。

 テマルとしては、一旦大統領に選挙されたのに、植民地制度の議会で罷免できるわけがないとしているようだ。私はそれが普通の大統領の意識というものだと思う。
 テマルへの国際的な支援層は厚いことは、先の原水禁のページからも伺える。

新大統領のオスカー・テマルさんは、長年、核実験反対運動を続け、原水禁大会にも参し、フランスの核実験被害を訴えて日本の反核運動がポリネシアの核実験被害問題に関わるっかけの一つをつくりました。非核・独立・太平洋運動の立て役者の一人でもあり、ポリシア--マオヒの人々のフランスからの独立を求めてきた政党、タビニ・フイラーティラ(ポリネシア解放戦線)の党首、タヒチ第2の都市ファアアの市長でもあります。95年には、核実験再開反対の大運動を組織し、世界の注目する中でミスター・反核実験と呼ばれていました。

 私も率直に言うとテマル支持なのでこうした心情を共感する。その分だけ、事態が気になる。
 現状では混迷を深めているようだ。26日のBBC"French Polynesia crisis mounts"(参照)では、テマルのハンガーストライキを伝えている。

French Polynesia's former President, Oscar Temaru, has gone on hunger strike to protest against his ousting.
【試訳】
フランス領ポリネシアの前大統領、オスカー・テマルは、彼の追放への抗議としてハンガーストライキを続けている。

 また、ダルフール危機情報などで最近参照することの多いロイター・アラートネットでは"Ousted French Polynesia leader starts hunger strike"(参照)で伝えている。

The ousted leader of French Polynesia began a hunger strike on Tuesday to protest against his removal and try to prevent an ally of French President Jacques Chirac from taking office.
【試訳】
フランス領ポリネシアで追放された政治指導者が、その追放とフランス大統領ジャック・シラクの同盟者たちをタヒチ政府から排除することを訴えて、火曜日からハンガーストライキに入っている。

 私はテマルは本気だと思う。本気というのは、彼はタヒチ独立に人生を賭けた人間だし、ここが彼の人生の最後の山場になると決意しているに違いない。だめなら死ぬ気だなと思う。国際社会は彼を殺すような状況にしてはいけない。
 ここでフランスのシラク大統領が出てくるのは宗主国ということもだが、この追放劇に、フランス本国からの政治工作が疑われているからだ。BBCは次のようにほのめかしている。

The new leader, Gaston Flosse, is a close ally of French President Jacques Chirac. Mr Temaru has accused France of political manoeuvring, but Paris has denied any involvement.
【試訳】
新しい指導者ガストン・フロスは、フランスのシラク大統領の強い同盟者である。テマルはフランスの政治工作を非難しているが、フランス政府はその関与を否定している。

 この問題を力でねじ伏せることは、より多くの禍根を残すことになるだろう。
 だが、と、少し奇妙な思いにかられるのだが、このニュースは人権意識が高いといつも思っていたVOA (Voice of America)に現時点でもないようだ。米国のニュースサイトでもあまり報道されていないように見える。所詮、フランスの国内問題だというのだろうか。とすると、この問題は、テマルを弾圧することで取り敢えずの収束とするといった国際的な暗黙の合意がすでにあるのだろうか。もちろん、日本国内でもこの問題は、ほとんど取りあげられていないように見える。
 さて、ここで変な話にずっこける。タヒチ危機について調べているうちに、奇妙な別のニュースがYahoo!で見つかった。"EnCana says Tahiti joint venture could produce 30,000 barrels a day"(参照)がそれだ。標題を試訳すると「エンカナによれば、タヒチのジョイントベンチャーは一日三万バレルの石油を生み出す」とのこと。これはなんだ?
 実際に石油の埋蔵がありそうなのは、メキシコ湾内のようではある。タヒチとのジョイントベンチャーというのがどういう意味を持つのかわからない。ついでにメキシコ湾内での石油開発のニュースをざっと見ていると、えっ?みたいな埋蔵量が想定されているようでもある。
 石油というとやはり陰謀論でしょ、みたいにすると話が面白いのだが、当方には想像力というものがない。
 現在の原油高が無茶苦茶にサウジを潤して(そして実際はサウジにつながっている政治グループを利して)、反面、中国をきりきりと締め付けている。しかし、こんな高値が続くわけもないし、その気になれば、地球はまだまだぶちゅーっとあちこちで石油を吹き出すようでもある。
 タヒチのジョイントベンチャーというのが、タヒチ危機やフランスの思惑に関わっていないといいと思うが、そこはまるでわからない。
 でも、なんか変だなとは思うし、率直に言って、フランスにきな臭い感じがする。

追記(2005.5.5)
その後この問題を十分にフォローしてこなかったが、いろいろな経緯もあって、テマルは行政長官に復帰した。エントリについていだいたコメント、及びトラックバックに有益な情報があるので参考にしてほしい。

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2004.10.26

ODA(政府開発援助)についてのよくある話とシラク商売人

 Japan Timesの昨日のオピニオン欄に掲載されていた"ODA looks wasted on China(中国へのODAは無駄遣いみたいだ)"(参照)が面白かった。三つの点から日本のODAの見直しを提言したものだ。標題通り中国向けODA批判が際だっていた。
 中国向けのODA(Official Development Assistance:政府開発援助)については、もうその役目を終えたという意見は多い。特に中国は軍事費が毎年10%ずつ増えているわけだが、そんな金(かね)どこから出ているのか。昨年は中国に円借款として日本は967億円を投じているわけで、それが軍事費の潤沢につながるように見えるのもおかしな話だ。
 Japan Timesでも、この問題は2点目の課題しとて取り上げられていた。


Second, Japan should strictly observe the principles of its ODA charter by suspending or reducing aid to countries that contravene them. China clearly flouts the principles as it is increasing military expenditures and has produced weapons of mass destruction and missiles.
【試訳】
二点目に、日本はODAの原則を厳格に守り、これに違反する国への援助を削減すべきだ。中国が明確にこの原則を踏みにじっていることは、増大する軍事費や、ミサイル、大量破壊兵器の製造といった点からもわかる。

 しかし、重要だなと思ったのは、一点目のほう。ODAの金(かね)をアフリカに回せというのだ。

First, Japanese ODA should now be focused on Africa and other non-Asian regions. Asia, which has received 50 to 60 percent of the aid, has achieved fast economic growth.
【試訳】
一点目は、日本のODAは今後アフリカと非アジア地域に焦点を当てるべきだ。アジア諸国は現在ODAの50%から60%を得ているが、すでに急速な経済成長を遂げてきている。

 このところ私もアフリカ問題に関心を持つようになったせいか、日本政府のこの分野での立ち後れには戸惑うものがある。日本の企業や民間援助では違うのかもしれないが、EUがスーダン・ダルフール危機鎮静のために、アフリカ連合(AU)に1億ドル以上拠出しようとき、日本はなにやってんだと苛つく(参照)。これに対して日本はというと、国連諸機関2,100万ドルの拠出の予定だというのだ(参照)。はぁ?
 ついでに三点目はNGOとの連携がうまくいってないということ。それもそうだろう。この話は省略。
 話の焦点を中国に移すのだが、先日のシラク仏大統領ご一行様(仏企業トップ50名ほど)の中国商談の旅もあきれた。8日から5日間の旅で、40億ユーロ(約5400億円)の契約をまとめた。たいしたセールスマンである。あ、salesmanじゃなくて、vendeur? 中国の死刑制度についてはどう考えているでしょうね、シラクって。政治家じゃなくて、あきんどってやつかな。
 読売新聞(2004.10.13)「中仏大接近、シラク大統領が中国で“商談の旅”仏企業40億ユーロ規模契約」ではこう。

 中国の国営新華社通信などによると、仏エアバス社は大型旅客機計二十六機を中国東方航空などに販売する契約を結んだ。また、仏重電大手のアルストム社は、時速二百キロを出せる高速鉄道車両六十編成のほか、水力発電タービンなど合計10億ユーロ(約1350億円)の契約を結んだ。
 このほか、仏石油大手のトタール社は、石油大手の中国中化集団とガソリン小売りの合弁会社設立で合意し、北京、天津などで、ガソリンスタンド二百店を展開する計画という。

 それでも、北京―上海高速鉄道とエアバスA380の売り込みには失敗したのだそうだ。成功してたらよかったのにと皮肉も言いたくなる。
 現状、こうした中仏の動きは、米国大統領選挙への牽制もあるのかもしれない。武器輸出についてもあらためて賛意を表明。これについては6月以降、EUでは、フランスが主導になって、対中武器禁輸の解除に向けた検討に入っていた。ブッシュ政権は、そんな事態になれば、NATOもやめるぜ、EU向けの軍事技術供与を停止するぜ、と脅した経緯もある。
 米国がケリー大統領になると各国との協調とかいう名目でEUに擦り寄るだろうから、こうしたEUっていうかフランスの行動はさらに露骨になるだろう。
 うがった見方をすれば、EUのダルフール危機鎮静のためにAUへ拠出するというのもフランスの米国封じという意味合いがあるだろう。中国のスーダン利権への配慮もあるかもしれない。しかし、それはそれでダルフールの人々の平和が維持できればいいのであって、この点については結果オーライではある。

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2004.10.25

[書評]超恋愛論(吉本隆明)

 吉本隆明についてこのブログで書くのは、このブログが続くなら、あと一回ということになるのだろうかとも思っていたが、意外にもと言っては失礼だが、「超恋愛論」(参照)が面白かったのでネタにしてみる。標題はこーゆーのやめとけ系だが、編集はよく出来ていた。対談すると何を言ってんのかわからん吉本翁の言葉なのだがかなりくっきりしている。もっとも、漱石を語る当たりで少しボケてしまったのは、編集者の力量が問われるところか。

cover
超恋愛論
 気になったのは、この本、吉本隆明だのといった面倒くさい前提をいっさい抜きにして、ある過激な恋愛をした爺ぃの話として読めるだろうか?ということだ。そう読まれるべきだろうと思うのだが、そこが、岩月謙司先生なみにトンデモ本となってしまうのか。
 吉本隆明の思考の癖みたいのがわかるともっとわかりやすいのだが…というあたりで適当に恋愛論的にざらっと書いてみたい。
 恋愛について、爺さんがまず頑固に言っているのは、もてるもてないっていう話はどうでもいいというあたりだ。ライブドアの社長さんなんかを気にする人が多い昨今、こうした頑固話が通じるのか。

 ただ単に、たくさんの異性にちやほやされるとか、出会いのチャンスが多いとか、そんなのは本質的に恋愛となんの関係もありません。
 つまり、いわゆる「もてる」「もたない」みたいなものは、恋愛において意味がない。
 恋愛というのは、男女がある精神的な距離の圏内に入ったときに、始めて起こる出来事です。最初にぼくが精神的距離感を問題にしたのも、そういうことです。
 その距離の圏内に入ってしまうと、相手に対する世間的な価値判断は、どうでもよくなる。

 「精神的な距離の圏内」ってなんやねん?みたいだが、簡単に言えば、「あいつは見知らぬ他人じゃないよな」っていう感じだろうか。例えば、新潟で地震があったとき、あいつ新潟出身だけどどうしてるかな、と気になるような、その気になり具合が翁のいう距離ということだ。だから、男女の場合でも、ある種の好悪の感じが前提になるのだろう。
 じゃ、恋愛ってどうよだが、こうだ。

 細胞と細胞が呼び合うような、遺伝子と遺伝子が似ているような--そんな感覚だけを頼りにして男女がむすばれ合うのが恋愛というものです。

 どっひゃである。動物学的には遺伝子と遺伝子が似ているのを避けるのがメイティングのシステムだよねというツッコミは、なしよ、としても、細胞レベルで遺伝子レベルで引き合うような実感があるのが恋愛だと翁は言うのである。ほんとかね?
 これが、ほんとなのだ、というその「本当」が人生のなかで確信できるかどうかが、まさに人生における恋愛が問われているところで、この「本当」のありかたが非常に難しい。
 ぶっちゃけ、誰でも「私って恋愛中」みたいなとき、実は計算というか打算というかがある。これならイケルみたいな。あるいはそんなのないとしても、「いつまでもつかな計算」とかがあったりする。
 ということは、この計算がない理想状態ってどうなのだろう。真空状態で物体を落下させたら羽でもパチンコ玉でも同速度で落下するみたいなことだ。自分のなかに恋愛の本当の姿が予感されているとき、どこまでそれを本当だと信じるか?
 吉本の発想はこの理想状態と、それを阻みうる社会歴史文化制度という二元論からできている。
 つまり、吉本的には(ってお笑いじゃないが)、私たちの実社会における恋愛の現象を考えるとき、その理想形態の側から社会を相対化しようという意図がある。
cover
不美人論
 そんな枠組み自体が間違ってんじゃないのか、という議論もありうるのだが、問題は、むしろ、恋愛に付きまとう、計算感や妥協感ってなんだろ?というあたりだ。
 社会側のパラメーターをうんと高くして、あるのは恋愛の現象だけ(「本当の恋愛なんてない!」)とすれば、ライブドア社長の言うように、いい女は金についてくるぞがはは、となる。
 あるいは、「不美人論」(藤野美奈子、西研対談)(参照)みたいにブス意識を知的な問題にするのはもうやめて、それなりに相応のオシャレでもしたら、というようになる。
 で、吉本の問いかけに戻るのだが、問題は、その逆があるのか? つまり現在の社会を基準にそれって現実だよね、おしまい、ではないありかたというのはアリ? つまり、私たちは本当の恋愛を想像しつつ恋愛しているのか?
 ここで実際的に重要なのは、吉本の考えの枠組みでは、「精神的な距離」というのと、「細胞が引き合う体感」だが、それらが仮に虚構だとしても、そうした虚構にどこまで人生賭けられんのかよ、ということだ。つまり、精神的な距離を目安に、細胞が引き合うような異性を探し当てることはできるのかね? 「電車男」…違うって。
 残念ながらまるで答えはわかんないのだが、人生終局近くなった吉本翁が言うのだから、それなりのすごみはあるかもねである。
 それと、吉本読みの私からすると、自分の主張や好みといったものが手薄のときに、そうした本当の恋愛に、不意に襲われるというものだろうかとも思う。そして、それは、その人の全てを奪っていくと思う。ま、そう思う。絵として描けば、駆け落ちってやつだな。
 現代の恋愛の多くは、失いたくない自分というものの延長に、他者としてのパートナーの個性を調和するというふうに、自分というものと他者の関わりが積極的に問われる。
 だが、恋愛というのは、その逆としてあるのが本質なのかもしれない。そして、その逆さ加減が、「細胞」というか身体性を開いていくっていうか緩めていくことにつながるのだろう。下品に言うと、本当の恋愛でなければ細胞というか身体は性的な開花はしないのだろう、と。
 ただ、身体が社会的に性的に開花するということはありえるかもしれない。つまり、社会のなかで人の存在が性的なあり方として可換であっても(あっちの女/男でなくてもこっちの女/男でも可とか)、そこから性的な快楽を得られるというような。というか、現代はそっちに向かっているようにも思う。下品に言うと、性的にうまくいく相手ということだけで快楽の相手を見つけうるものなのかもしれない。このあたりを含めて、吉本はほのめかしているだけが、性の問題は大きい。
 吉本は、この本ではあまり強調していないが、本当の恋愛というのは、誰でもそういう相手はいるんだよともよく言う。これも逆説があって、そういう相手と一緒にならんなら人生なんて意味ないよという含みがある。
 吉本がなぜそんなふうな恋愛に、つまり本質っていうのに、そんなんにこだわるかというと、先にも触れたが、そういう恋愛が社会(国家)のパラメーターをひっくりかえすという確信を持っているからだ。
 ただし、このあたりに十分に整理されていない問題がある。具体的には「籍」だ。吉本はこの本で初めてというわけでもないが、籍を入れる問題を重視している。私などの感覚からしても籍を入れるか入れないかはプライベートな領域の問題と税制の問題じゃないかという気もする。

 ぼくはそれまで法律婚というものにほとんど価値を置いていませんでした。男と女が一緒に暮らすその生活の内実こそが大切なのであり、国に届けを出すということは、ほとんど意味がないと思っていたのです。
 けれども、実体験としてはそうではなかった。正式に届けを出すとか抜くとかいうことが、自分たちにかなりの重みを持っているのだと、やってみて初めてわかった部分がありました。

 吉本学的にいうと共同幻想領域ということになる。国家の宗教性とも言える。が、問題はこれがそういう知的な部分で現在のわたしたちの大半は籍というものを扱えないという事実だけだろう。
 同様の構造は、実際に恋愛から結婚という形態での男女の関わりだ。吉本は端的に女性は結婚して不利だよということをはっきり書いている。それはそうなんだろと思う。面白いのは、吉本は恋愛の本質とか言っておきながら、実際は、彼自身は従順な奥さんのほうがいいなというのをぼそっと正直に言っているあたりだ。そこが現在の日本の男の限界でもある。吉本はその限界を明確に意識しているわけでもある。
 そういえば、私が吉本隆明からいろいろ影響を受けた中で、ひとつ際だった一枚の写真がある。吉本が買い物籠をさげて商店街で買い物をしている写真だ。これが思想家というものだと私は思った。たとえば、誰でもいいのだけど、いわゆる哲学者とか文学者とか、けっこうカッコつけているじゃないですか。というか、意外にそのカッコが人気だったりする。で、そのカッコというのが、どうにも買い物籠をさげて商店街に行くのと似合わない。私は、それは、だからそういう思想家はダメなんだと思う。思想とそういうのには関係ないとか言えばいえるけど、どのような思想であれ、それが生身の人間として社会に存在している、ということは性的な存在としてある、というとき、いわゆる家族的な問題にどうきちんとケリをつけるか。生活というのは炊事洗濯掃除なわけですよ。そこから乖離した思想など、少なくとも私には無意味だと実感した。ま、私はそうというだけのことだが。
 この本では、中盤、三角関係についての話もあって面白い。あれれと思ったのは、私もけっこう好きで調べたのだが、小林秀雄、長谷川泰子、中原中也の関係だ。私は小林秀雄寄りの人だからもあるが、このどろどろの関係で、吉本は中原が一番傷ついたとしている。私はそう思ったことがなかった。が、言われてみるまでもなくそうだ。というあたりで、実は、私なども、日本的な三角関係というか同性愛的な性向への感性を失っているのだなとは思った。

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2004.10.24

新潟県中越地方地震雑感

 昨日午後5時56分ごろから発生した新潟県中越地方を震源とする連続地震は、今朝の時点で14人が死亡、700人以上が怪我という惨事になった。東京でもかなり揺れた。今朝の新聞各紙社説では読売新聞と日経産業新聞が触れていた。すぐに社説で触れるべき問題だとも言えないが、朝日新聞社説「東京映画祭――変化の芽を生かしたい」といったことを書くなら、小泉首相がこの地震発生後現地で余震の続くなか、東京国際映画祭開会会場で一時間以上も映画観賞していた点についても触れるべきかなと、八つ当たり的に思う。追記:小泉が映画をぼけっと見ていたというのはガセ・ヤラセ情報の可能性があるとのご指摘を受けた。ただ、官邸に戻るまで結果的に1時間の待機はあったようだ。毎日エントリを書くブログも同じで、この災害に触れないわけにもいかないような気がする。しかし、結果的には情報の混乱を招きかねないのかもしれないので、簡単に自分の思いの部分を書いておくだけにしたい。
 地震発生と同時に私はラジオをオンにした。停電も多い沖縄の暮らしが長かったせいか、電灯線に依存しない情報源としてラジオをいつでもオンにできるようにしている。同時にテレビも付けた。NHKでは数分後にニュースが始まったのでラジオをオフにした。震度6とのことで、被害が出るなと印象を持った。その後のニュースでマグニチュード6.8と知った。
 新潟で地震といえば、1964年(昭和39年)、東京オリンピックが始まる前の6月に起きた新潟地震を思い出す。1957年生まれの私でも印象深く、被害報道についての記憶がある。ネットで情報を補足すると、当時の地震は日本海新潟沖を震源とするマグニチュード7.5。新潟市や長岡などで震度5。死者26人、全壊家屋1960戸とのこと。
 今回の地震で個人的に驚いたのは、新幹線が脱線したことだ。私は新幹線というのは脱線しないようにできていると思いこんでいた。幸いこの点で大きな被害は出さなかったので、新幹線技術はそれでも優れていたと見るべきなのかもしれない。
 今朝のニュースを見ると今回の地震では都市インフラの破損が印象的だ。約27万戸で停電。送電設備は案外もろい。約1.4万戸でガス供給停止。この地域ではプロパンが多いのだろう。そしてプロパンの事故は少ないように見える。火災も少ないようではある。関東大震災の大被害はその大半は火災だった。秋も深まり冷えが厳しいが極寒であればもっと厳しい状況になったことだろう。
 今回の地震で、私は少し淡い期待を抱いていたのだが地震予知はできないものだとも悟った。一昨日サイエンス誌に発表された、地上近い震源の地震と月の引力の相関がふと脳裡に浮かんだが、旧暦を見るに関係ない。もちろん、予知についての各種の科学的な努力が無意味だとは思わない。今回の地震でも、事後の説明にはこうした科学知見に依存しなくてはならない。
 読売新聞(2004.10.14)「長岡平野西縁断層帯、30年以内にM8程度の地震の確率は2%以下=新潟」では、10月13日の地震調査委員会が、全長83キロの長岡平野西縁断層帯について、「今後三十年以内にマグニチュード8.0程度の地震が起きる確率は2%以下」と発表したことを伝えている。また、直下型地震を起こす可能性のある全国98か所の活断層の発生予測評価では高い確率になるとしている。だが、この発表の活断層が今回の地震に関係しているかについてはまだよくわかっていない。別のものではないかという指摘も多いようだ。
 昨年の東京地震予知騒ぎのおりに自分なりに調べたときの印象では、いわゆる周期型の地震としては関東ではあと200年くらいは問題なさそうだが、阪神大震災のような活断層型のものはわからないようだ。またマグニチュード8以下はそれほど問題視されないふうでもあった。
 防災は重要だが、実際的には比較的広範囲の地域で地震の起きる可能性についてはまるで予想できそうにもないので、事後の体制が問われてくるように思う。今回の地震でも、現在の救援活動を注視したい。

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2004.10.23

コーヒーは心臓に悪いらしい

 またコーヒーと健康の話。今回はコーヒーが心臓に悪いよということ。マジ? ま、そういう可能性は高そうだ。ネタ元は"American Journal of Clinical Nutrition"という健康研究誌。みのさんじゃない。
 話は、"Associations between coffee consumption and inflammatory markers in healthy persons(健康な人の炎症マーカーとコーヒー消費量の関係)"。概要はこれだ(参照)。で、結論はこういうこと。


Conclusions: A relation exists between moderate-to-high coffee consumption and increased inflammation process. This relation could explain, in part, the effect of increased coffee intake on the cardiovascular system.
【試訳】
結論:適量のコーヒー消費と炎症過程には相関がある。この相関は、部分的ではあるが、コーヒー摂取量増加が心臓血管系に影響をもたらすことを説明しうる。

 ロイターだともうちょっとわかりやすい。"Coffee Tied to Inflammation, Perhaps Heart Disease(コーヒーは炎症に関係がある、たぶん、心臓病にだね)"(参照)がその記事。同種のCBSだと"Coffee Tied To Heart Risks(コーヒーは心疾患リスクを高める)"(参照)。
 この調査は3千人を対象に問診したものだ。心疾患に関係する炎症マーカーは、コーヒーをまったく飲まない人に比べて、飲む人は一日一杯のコーヒーでも影響を受けることがわかった。より具体的には、コーヒー二杯以上がよくないようだ。この影響は性別とか喫煙とは独立したものらしい。
 コーヒーのなにがよくないかというと、やっぱしカフェインらしい。とすると、コーヒーだから悪いというものでもない。影響がでるのは一杯を28mgとすると二杯は56mg。この量は、健康ドリンクとかに含まれている量50mgにも近いから、あれも心臓によくないかもねである。
 さて、このネタをどれだけマジに受け止めるか?
 もちろん、この調査でコーヒーは心臓によくないと決まったわけではない。この手の研究はけっこう覆ることがある。
 でも、心臓に不安のある人は、コーヒーは避けておくのが無難かもねとは言えそうだ。
 余談としてだが、ちょっと専門的に見ると、詳細はこう。

Compared with coffee nondrinkers, men who consumed >200 mL coffee/d had 50% higher interleukin 6 (IL-6), 30% higher C-reactive protein (CRP), 12% higher serum amyloid-A (SAA), and 28% higher tumor necrosis factor (TNF-α) concentrations and 3% higher white blood cell (WBC) counts (all: P < 0.05).

 IL-6とTNF-αの増加が目立つので、今回の結論とはなったのだろうが、CRPも高めるので**(伏せ字)のリスクも高まるのではないかと思う。っていうか、そういう研究も次には出てきそうな気はする。

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2004.10.22

リベリアの武装解除と暴れる学生たち

 VOA(Voice of America)にあるアフリカのニュースを見ていると、"UN: 95,000 Liberian Fighters Disarm(国連:9万5千人のリベリア人兵士が武装解除)"(参照)というのがあった。あらためて言うまでもないが、14年にもわたったリベリア内戦が終結し、昨年、イラク同様、ガーナで開かれた協議で各派を取り込んだ暫定政権が樹立し、選挙実施までの二年間の統治を行うことになっていた。今回の武装解除もこの10月31日までに行うと期限を切ったもので、取りあえずは順調な推移となっている。ジャック・ポール・クラレン国連リベリア問題特別代表も、武装解除プロセスは概ね終了したと発表した。もちろん、完了とは言い難い。
 リベリア内戦についてはあまり深く立ち入らないが、1989年、当時のサミュエル・ドウ政権にチャールズ・テーラー率いる国民愛国戦線が武装蜂起したことから始まった。昨年テーラーがナイジェリアに亡命したことで一旦終止符が打たれた。この内戦による死者は15万人以上と見られている。経過は「はてな」のキーワード「リベリア」(参照)がなぜか詳しい。
 VOAの記事中、ちょっと気になることがあった。


The top U.N. envoy to Liberia, Jacques Paul Klein, told the U.N. News Service that 10,000 of those who have turned in their weapons are children.
【試訳】
ジャック・ポール・クラレン国連リベリア問題特別代表が国連ニュース・サービスで語ったところによると、この武装解除者の一万人は子供だったとのことだ。

 この件の補足は記事にはないが、なぜ子供がと問うまでもなく、リベリア内戦は少年民兵が際だつ陰惨な戦闘だった。ネットでは「黒柳徹子のリベリア報告」(参照)や、「リベリア少年兵の悲劇」(参照)といった記事が詳しい。読売新聞(2003.12.24)「リベリア 独裁者亡命後の混乱」にはこうある。

 支援団による武装解除は、旧政府軍兵士、テーラー派民兵、二つの旧反政府武装勢力の計四万人を対象とする。武器を差し出した兵士、民兵は職業訓練を受けた上で、社会復帰支援金として三百ドル(約三万二千円)を手にする。
 初日には予想を上回る約千四百人が武器を置いた。AK47自動小銃を差し出した旧政府軍兵士のアレックス・ティエーさん(26)は「もう戦う理由はない。戦争は終わったんだから」と話した。「大学で貿易を勉強したくてここへ来たんだ」と将来に目を向ける。
 だが、少年兵を中心とした民兵は、そもそも社会復帰をする気はなく、現金が目的だった。武器を差し出してもその場では現金がもらえないことを知ると、数百人が武装解除を拒否。市内に帰ると住民への略奪を再開し、暴徒化した。郊外へと向かう幹線道路は、ぼろぼろのTシャツ、ジーパン姿の少年兵が、目を血走らせて歩き回り、外国報道陣にも銃口を向け、空に向け発砲を繰り返した。

 その後の状況はどうだろうかと少しネットを見回すと、最近のニュースとしてBBC"UN confronts angry Liberia pupils"(参照)があった。引用は控えるが、ここでは少年兵でないが、暴徒と化した学生の状況が語られている。他にも"UN peacekeepers disperse Liberian school protest"(参照)といったニュースが伝えられている。
 少年民兵と暴れる学生とのつながりはないのかもしれないし、ちょっとした小競り合いということなのかもしれない。
 日本ではあちこちで「平和の尊さ」が語られているが、平然と人を殺し続けてきた少年民兵にどのように平和を語ったらいいのか、私にはわからないなと思う。

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2004.10.21

農業に求められる生物多様性は文化をも守る

 先週の土曜日、10月16日は世界食糧デーだった。今年のテーマは「食糧安全保障のための生物多様性(Biodiversity for Food Security)」。FAO(国連食糧農業機関)の"World Food Day 2004"(参照)は、生物多様性を維持することが人類の食を守ることになると主張している。


A rich variety of cultivated plants and domesticated animals are the foundation for agricultural biodiversity. Yet people depend on just 14 mammal and bird species for 90 percent of their food supply from animals. And just four species - wheat, maize, rice and potato - provide half of our energy from plants.
【試訳】
農作物と家畜が十分に多種類存在していることが農業における多様性の基礎となる。なのに、現在の人類は、その90%の食用畜産・家禽を14種類に限定している。また私たちは、カロリーの半分を得ているもとを、たった四種類の植物、小麦、モロコシ、米、ジャガイモに限定している。

 現在この地球では、いまだに飢餓が深刻な問題となっている地域が多い。農業と食の関係はグローバルに見直す必要はある。特に、世界の多様な地域では、その土地とその民族に見合った多様な農業や畜産が維持される必要もあるだろう。単純な話としては、農業に関わった人間なら誰でも知っているが、同じ作物だけ育てていると、耕地は疲弊してしまうものだ。あの繁茂するセイタカアワダチソウですら、自家毒で繁殖の限界が出るらしい。
 多様な農耕を推進することで、各種の生物の環境にも多様性が維持できる。特定の植物だけでは昆虫などの生息のバランスが壊れてしまう。農業・畜産業以外の全体的な環境のためにも生物多様性は重要だ。
 ただ私は、率直に言うと、こうした主張とは多少違った考えも持っている。というのは、1957年生まれの私は、品種改良された作物の種類と計画的な農耕方法を世界規模で進めることで多くの飢餓を救った「緑の革命」を見てきた。このおかげで途上国では人口が増加したケースもある。伝統的な農業の復権が単純によいとも思えない。だから、食糧安全保障のための生物多様性の希求が、捕鯨禁止運動のように、宗教的とも言える環境保護になってしまうような傾向があれば困る。また、福岡正信の著作に見られる自然農法も興味深いとは思うがどう評価していいのかはよくわからない。
 FAOの主張には含まれていないが、私は、生物多様性は伝統文化との関係面でも重要だろうと思う。
 例えば、先日、極東ブログ「白露に彼岸花」(参照)で彼岸花の球根の毒性のことに触れた。毒があるとわかっていながら、私たちの祖先はその毒を水で晒し、澱粉を選り分けて食料としていた。このエントリでは、その労が美味しいものを食べたいからなんじゃないかと気楽なことを書いた。が、そんな呑気な話だけではあるまい。重要な食料だったのだろう。
 同エントリでは沖縄のソテツについても触れた。ソテツにも毒があるが、沖縄の人はその毒を抜いて食用にする。そういえば、沖縄の「きーうむ」にも毒がある(そうでない種類もあるらしいが)。「きーうむ」という言葉は、たぶん、木の幹のように見える芋ということで、「木芋(きいも)」に由来するのだろう。本土人からするとキャッサバ、あるいはタピオカと言われたほうがわかりやすい。世界の各地で沖縄同様、主要な食糧とされている。
cover
てぃーあんだ
 きーうむを水で晒して毒抜きしてできた白い澱粉を沖縄では「きーうむくじ」と言う。琉球の伝統料理のデザートにはこれを使った西国米(しーくーびー)がある。「てぃーあんだ 山本彩香の琉球料理」(参照)に詳しい。
 きーうむくじという名称は、サツマイモ、つまり本来なら琉球芋から取る「うむくじ(芋葛)」の連想もあるだろう。このサツマイモだが、野国総管から儀間真常に伝え、これを薩摩が真似して本土ではサツマイモと呼ばれるようになった。
 もちろん、「いもくじ」の食文化がすべて沖縄経由で本土に伝承されたとは言えない。本土でも彼岸花と限らず、類似の製法による蕨粉などが伝統的に利用されていた。もとの葛自体がこの製法による。「いもくじ」の原型は本土から沖縄に伝えられた可能性もある。他にも沖縄ではぶくぶく茶といって泡立てた茶があるが、これらは室町時代に本土で飲まれていたものが琉球に伝えられたものだ。
 話は食の多様性ということから少し逸れるのだが、農業・畜産の現場と伝統文化というのが、現代の人間には伝わりづらくなっているなとよく思うようになった。
 先日、小学生数名を引率し、昼飯に蕎麦屋で蕎麦を食わせたのだが、注文した蕎麦が出てくるまで間がありそうなので、蕎麦と麦の民話を話した。ご存じだろうか。こういう話だ。
 ある冬の川辺で老人が川を渡ろうと難儀しているのを蕎麦と麦が見ていた。蕎麦は可哀想にと思って老人を背負って冷たい川を渡した。蕎麦の足は凍えて真っ赤になってしまった。この間、麦は素知らぬふりをしていた。老人は実は神様だった。神様は足を赤くした蕎麦に「二度と寒い思いをすることはない」と祝福したが、麦には怒りを覚え「おまえのようなやつは冬に人に踏まれて育つがよい」と呪いをかけた…。
 もちろん、こんな話、子供たちにはまるでわからない。蕎麦と小麦が擬人化されているのもわからないし、気まぐれに呪いをかける神様というのも理解できない。なによりこの物語が何を意図しているのかまるでわからないのだろう。私はこの話より、その解説がしたかったのだが、頼んでいた蕎麦がすぐに出てきたので、解説をする機会を逸した。
 食を守ることは民族の歴史の心を伝えることでもある。この民話は蕎麦と麦についての生活文化がにじみ出ている。蕎麦はごちそうという含みもあるのだろう。こうした生活の実感が単純化された農業と食の工業的製造からは失われてまうだろうし、そうした損失は私たちの伝統文化の情感を失うことでもあるのだろう。

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2004.10.20

ミャンマーの政変、複雑な印象とちょっと気になること

 昨日ミャンマーの政変が報道された。クーデターと言ってもいいようだ。キン・ニュン首相は軍によって拘束された。隣国タイの首相府報道官は、駐ミャンマー大使からの報告として、キン・ニュン首相は汚職容疑で解任され自宅軟禁に置かれていると発表。ミャンマー国営テレビは代わってソーウィン第1書記の首相昇格を発表した。
 キン・ニュン首相はミャンマー軍政内の序列三位にあり、軍主導ではあっても民主化にも理解を示す穏健派と見られていた。スー・チー氏とも対話し、国際社会との窓口役も務めていた。しかし、その成果を軍政トップのタン・シュエ議長を好ましく思っておらず、タン・シュエ議長はキン・ニュン首相を冷遇しているとの情報がすでにタイ経由で報道されていた。今回の政変はさらにそれを推し進めものなのだろう。
 私の憶測なのだが、タン・シュエ議長は、外国勢力であるタイが序列四位のトゥラ・シュエ・マン大将を擁立してその地位を奪うと恐れ、事前に今回の行動に出たということはないのか。今回の政変報道がなにかとタイ発なのも気になる。
 政変については、マウン・エイ副議長と間の反目も原因とも言われている。シャン州の中国国境近くで先月マウン・エイ側の陸軍部隊とキン・ニュン首相側の情報局員との間で銃撃戦があり、情報局員が多数逮捕された。この波及で、情報局出身のウィン・アウン外相が更迭されている。キン・ニュン首相の「汚職容疑」には利権の裏があるのかもしれない。
 キン・ニュン首相が更迭されると、ミャンマー民主化の行程表(ロードマップ)も、言い方は悪いのだが、予想通り行き詰まることになる。新憲法の起草、国民投票、民主選挙実施、民政移管といった一連の手順がふいになった。ノーベル平和賞受賞スー・チー氏の民主化運動も頓挫したかに見えることになるので、欧米側からミャンマーへの圧力はいっそう強くなることだろう。
 さて、と言うまでもなく、今回の事態について軍政タン・シュエ議長は当然責められるべきだろう。だが、私は正直に言うと、どうもそうすっきりしないなという思いもある。感情的な些細な問題に過ぎないのかもしれないが、今回の政変について、欧米のニュースを当たっていくうちに、イギリスBBCが頑なに国名を「ミャンマー」ではなく「ビルマ」としているのに奇妙な感じがした。
 ネットの世界を覗くとわかるが、イギリス系の民主化運動では国名を「ミャンマー」ではなく「ビルマ」を使っている。これは、日本がネーデルラント王国をその一部の呼称オランダとして伝統的に使っているのとはわけが違う。イギリスは、「ミャンマー」の国名を頭から否定しているからだ。「ビルマ」呼称には民主化への期待も込められているが、植民地として押し付けた国名の維持という面もある。国名についてはいろいろな見解があるが、現軍政権が押し付けられたビルマ呼称を嫌ったというのが大筋だろう。また、ミャンマーには「ビルマ」という伝統的な言葉は存在しないようだ。
 もう一つすっきりしないのは、ミャンマー軍政は一義的に悪なのだろうかという疑念がある。これもはっきりと言えるものではないが、たとえば、こういう話がある。「ビルマ『経済開放と民主化の狭間で』」(参照)。


 世論に逆行する日本大使館員の意見に、こんな心情を語っていた人を思い出した。竹内輝さん(39)。 ヤンゴン日本人学校の教諭として、九〇年四月から三年間も現地に暮らした数少ない日本人である。
 「赴任する前は、『軍政イコール悪』で『スーチーさん軟禁=民主化が拒まれている』と、思っていました。 でも、二年、三年と住んでみて、一概にそうした図式で割り切れるものだろうか、という疑問が沸いてきたんです」。


ビルマは陸続きに五国と接し、その国境沿いに多くの少数民族を抱える。 「この国を纏めてゆけるだけの集団が、軍以外に今のビルマにあるんでしょうか」。 確かに、この国からは夥しい数の頭脳が流出してしまっている。「『暴動(ママ)』を起こした民衆の大半は、 軍さえ去って民主政府になれば、自分たちの生活も一挙に良くなるというような、無責任な幻想を抱いていたんじゃないですか」。

 もちろん、そうした特定の印象から軍政権を擁護できるものではない。しかし、庶民の生活や軍独裁には複雑な陰影があるように思える。
 ミャンマーの歴史も示唆的だ。少し長くなるが、この経過を見る上で、Wikipediaの該当項目を引用したい(参照)。なお、ここでは、民族呼称としてビルマ人、また、この地域名はミャンマーとされている。それでいいのかについては議論もあるが、通説でもあるのでそこには立ち入らない。ただ、私は、歴史文脈でのビルマ人はビルマ族と仮に呼ぶことにしたい。

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人のよるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やランナー王国、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。

 重要な点が二つある。
 一つは、ミャンマーという民族主義的な国家の主体がビルマ族によって形成されたことだ。ビルマ族のパガン王朝が13世紀にモンゴルの侵攻で滅ぶという過程はユーラシア大陸全域に見られる。が、このビルマ民族的なナショナルな国家運動は、継続してタウングー王朝、コンバウン王朝となる。民族の意識の高まりが強い。近代までにビルマ族を主体とする民族国家が歴史的に形成されていたと言ってもいいだろう。
 もう一つは、モン族など諸部族との軋轢を歴史過程なかでナショナルな国家に十分に統合していないように見えることだ。とはいえ、モン族について言えば、コンバウン王朝下でビルマ族との混血は進み、言語もその多数は固有のモン語から離れていた。現状では、モン族はミャンマー人口の2%ほどの少数民族になっている。
 ビルマ族のコンバウン王朝が近代に民族主義的な国家への萌芽を見せ始めたころ、植民地化によって破壊しつくしたのがイギリスである。コンバウン王朝は独立をかけて三次にわたる英緬戦争を繰り広げたが、1886年に破れ、英領インドに編入された。さらに1937年イギリスの自治領となった。かくして同種のイギリス植民地のように、ミャンマーも実際の経済、つまり軍事以外の実質的な権力を印僑と華僑が握ることになる。
 第二次世界大戦後、植民地化脱出の契機とともに他族との争いが前面に出てくる。この点については、先のモン族を例にすると、モン族支援的な立場で書かれたとみられる「モン族の歴史3 タイ・ビルマ国境からの報告」(参照)が興味深い。
 1962年から1988年までは、ネ・ウィン将軍の軍事政権が続いた。ネ・ウィンは鎖国政策をとるのだが、好意的に見るなら、イギリスによって注入された要素を排除し、植民地化と異民族支配によって中断された民族主義的な国家の完成を目指していた。そしてある意味では、ネ・ウィンを継いだ現在の最高権力者タン・シュエの意図もその途上にあるとも言えるだろう。
 その民族主義的な国家の形成は、その後、軍政自らが結果的に招いた欧米の制裁のよる鎖国的状況から困窮を招き、もはや国内は強権によってしかつなぎ止められないいびつなものに変形してしまった。
 別の言い方をするとベトナムのように社会主義であれ民族主義的な国家でれば、その民族国家的な基盤を形成し、その上に経済的な発展があれば、民主化はその段階の上に位置づけやすい。そういえば、ミャンマーは石油会社ユノカルとの間で奴隷労働による人権侵害を訴えられていたが、これもユノカル側としては経済振興的な意図があったと言えないわけでもない(参照)。
 ユノカルの連想のようだが、今回の政変で石油関連で気になることがある。中国は今回更迭されたキン・ニュン首相との間で、ミャンマーと中国雲南省を結ぶ中国の石油パイプライン建設の構想を持っていた。これは、中国の国策、利権、またこの地域の地政学的に、かなり重要な意味を持っている(参照)。現在、中国はミャンマーの軍政権に多量の武器輸出をしているのだが、これもパイプライン計画の布石の可能性もある。あまり陰謀論的に考えたくはないのだが、その行方と中国の動向も注視しておきたい。

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2004.10.19

ロシアのスキンヘッドはマジ恐いよ

 15日のモスクワタイムスに"Asian Student Stabbed to Death(アジア人学生が刺殺される)"(参照)というニュースがあった。私もアジア人なので、なぜアジア人が殺されるのか?と思って読み進めた。サンクトペテルブルグでの事件だ。ぞっとした。


Vu An Tuan, a 20-year-old first-year student at St. Petersburg Polytechnic University, was walking to the metro after attending a friend's birthday party at the Pavlov Medical Institute dormitory when he was attacked at about 10 p.m., police said Thursday, citing witnesses.

The witnesses said there were about 18 attackers and that they had shaven heads and black clothes and boots.
【試訳】
サンクトペテルブルグ技術専門大学一年生ヴー・アンチュアン(ヴェトナム人・20歳)が刺殺されたのは、目撃者情報を元にした警察発表によれば、木曜日夜10時頃、パブロフ医学研究所寮の友人の誕生日パーティの帰り地下鉄へ向けて歩いている時のことだった。目撃者によれば、18人の暴漢がいたが、彼らはスキンヘッドで黒服を身につけ黒靴を履いていた。


 あれかなと想い浮かぶものがある。2002年6月9日のサッカー・ワールドカップ、日本―ロシア戦で、日本の勝利の後、ロシアで大暴動が起きたが、これにスキンヘッドたちが関わっていたはずだ。当時の記事はと探すと、産経「ロシア 恐怖に震えた 騒乱一夜明け…」(参照)にあった。

モスクワ市内での騒乱は、一九九一年夏に三人の若者が死んだ守旧派によるクーデター未遂事件、九三年秋の当時の保守派の牙城だった最高会議砲撃事件以来だ。しかし、モスクワの真ん中、クレムリン隣のマネジ(調馬場)広場一帯が、放火された数台の車から噴き上がる黒煙に包まれ、百人近くが流血でのたうち回る事態は、帝政ロシア時代からの歴史でも初めてのことである。


 ロシア政府のボーリン官房副長官は、「今回の暴動はスポーツにも本当のサッカーファンにも何の関係もない。数百万というファンへの侮辱だ」と述べた。事実、広場にはネオナチやスキンヘッド組織のスローガンを絶叫する「精神遺産運動」など、極右・過激主義者の姿が多数見られた。別の政府筋は「プーチン政権への国民の信頼失墜を狙った輩(やから)が、法案など何の効果もないことを実力で誇示するために挑発グループを使ったのだ」などと反論している。

 ネオナチの若者たちが、ロシアにまだいたのか。まいったなと思って、しばしネットを探すと、あるある大事件…。アムネスティによる「ロシア連邦:人種的非寛容は撲滅しなくてはならない」(参照)は、昨年のアナウンスだ。

2002年7月のある夕方、スキンヘッドのロシア人の男性10人ほどが人種主義的な暴言を吐きながら、モスクワのとある公園でピクニックをしていたアフリカ系の学生や難民、庇護希望者らを襲撃した。付近の警察は、当初、彼らを助けに来ようとはしなかった。30分後に警察が到着した時には、暴力をふるったとされる一群は2人を残し、すでにその場にいなかった。ある警官は、ピクニックをしていた人たちが最初にけんかをふっかけたといいがかりをつけ、目撃証言を無視した。

 外務省の海外安全ホームページには、「サンクトペテルブルグ(ロシア):スキンヘッドと思われるグループによる外国人留学生襲撃事件の発生」(参照)がある。幸い、この情報は、「本情報は2004/02に失効しました。」とあるから、もう大丈夫…な、わけない。
 モスクワタイムスの記事に戻ると、こいつらひどすぎる。

A 9-year-old Tajik girl was brutally stabbed to death in front of her father and young cousin in February.
【試訳】
9歳のタジク人の少女は金曜日に父と従兄弟の目前で刺殺された。


Last year, a group of young men killed a 6-year-old girl and seriously injured a 5-year-old girl and 18-month-old baby in an attack on a Gypsy camp south of the city. Seven suspects went on trial for the attack Monday.
【試訳】
グループは、昨年、市南部のロマ・キャンプで6歳の少女を殺し、5歳の少女と18か月の赤ん坊に危害を加えた。月曜日にこの襲撃容疑者の裁判があった。

 東欧でも右傾系が進んでいる。日本でも「右傾化」ということが政治的な話題になることがあるが、こんなひどい事件は起きてはいない。こうした問題はたんなる政治的な趣味ではなく、もっと別の視野から見るべき問題ではないだろうか。
 日本人はなんとなく国際ニュースでテロの危険ということに関心を向けているようだが、身に迫る危険はテロだけではないと思う。現状、日本人などアジア人、有色人種が被害に会う地域とその危害を加えるグループは限られている。日本人はまだ身を守ることができるが、世界にはそれが難しい人々もいる。

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2004.10.18

パラサイト・シングルの不良債権化現象

 先日「パラサイト社会のゆくえ ちくま新書」(山田昌弘)(参照)を読んだ。ベストセラー「パラサイト・シングルの時代 ちくま新書」(参照)の続編として位置づけられているのだが、雑誌掲載のエッセイをまとめたものらしく、読みやすく興味深いものの、当の問題への求心性に欠くために書籍としては雑駁な印象を受ける。ここでも書評としてエントリするより、雑駁な話題の一つとして「パラサイト・シングルの不良債権化現象」について、軽く触れてみたい。

cover
パラサイト社会
のゆくえ
 「パラサイト・シングルの不良債権化」現象というは面白すぎるネーミングだ。もちろん比喩である。事態は、親元暮らしのパラサイト(寄生)の未婚者が、結婚できないままの状態を不良債権に模したものだ。ちょっと長いが本文の説明を引用しよう。

親と同居して、「いつか結婚できるはず」と将来設計を先延ばしにしているうちに、年を重ね、三十代、四十代に突入する。自分が二十代には五十代だった父親も引退して年金生活に入り、家事をしていた母親も弱り始める。経済的にも、家事に関しても、徐々に、逆に親を支えなければならない立場に移行する。


 私が『パラサイト・シングルの時代』で指摘したように、一生結婚しないことを前提に親と同居生活を選択し、将来の生活設計をして行動している未婚者は問題ない。「いつか結婚できるはず」、「結婚すれば問題が解決する」と考え、準備をしないまま未婚中年になてしまう状況を問題視したいのだ。この状況は、いつか土地や株が上がれば問題は解決すると考え改革を先送りにし、不良債権を抱えて経営危機に陥る企業にそっくりだというのが、私が「パラサイト・シングルの不良債権化」という言葉で表したい状況なのである。

cover
パラサイト・
シングルの時代
 そして、同書によれば、かつてはリッチなパラサイト・シングルもいまや老人となる親の介護や不況につれて経済的な困窮からパラサイトを続けているという状況なのだという。
 そうかもしれないとも思うし、そう言われてもねというふうに思う人も多いだろうと思う。どだい、一生結婚しないことを前提にしている未婚者は少ないのが当然だろうから、それなら未婚で人生設計するなら問題ないと責められても困る。
cover
結婚の条件
 こうした問題について、著者山田は、この文脈では個人のライフプランのように見なしている。だが、社会学的には結婚というのは個人の選択の問題というより、単に世情の問題にすぎないだろう。社会現象というだけのことだ。かつて適齢期で結婚していた人が多かったのも、ただそういう世情だったからに過ぎない。そして、かつて世情のままに結婚した人たちの人生がその後幸せだったかというと、それは結婚とはまた別の問題だろう。むしろ、パラサイト・シングルは、小倉千加子「結婚の条件」にあるように、子供の未婚状態を支えているのが実は親の希望であるということからわかるように、親の結婚観の反映もあるのだろう。
 繰り返すが、世情は単に世情である。逆らって個人を打ち出すこともない。これからの日本はむしろ、パラサイトのまま家の財産を継いで老人介護する未婚者の層を社会を構成する重要な要素と見なしていけばいい。社会の課題としては、そこにどう社会的な連帯を発生させるかということのほうが問われるべきだ。
 むしろ、結果的に生じる少子化と、そうした厳選された子供への教育のための資産投下によって社会が階層分化することのほうが重要になってくる。この点について、「パラサイト社会のゆくえ」では「パラサイト親子の背後に祖父母あり」という章でこの関連問題が触れられているものの、階層分化については言及はない。
 話が散漫になるが、先日、私は東京から大阪まで新幹線で過ぎていく風景をぼんやり見ていながら、地方都市の近郊ほど一戸建てが多いなとなんとなく思っていた。日頃私が大型マンションに見慣れているからかもしれない。こうした地方の一戸建てに、それぞれパラサイト・シングルもいるのかもしれないが、率直に言えば、都市生活から隔離された地域の一戸建てに若い人が暮らしていても面白くもないだろう。
 とすれば、ひどい言い方だが、現状の日本の惰性のまま、こうした地方都市がどんどんだめになっていけば、若者は餌に惹かれるように都市に出てくるだろうし、都市のなかで連帯を模索するようになるのかもしれない。そうしたなかで、定常的な性関係を基礎とするかつての家族の維持は昔のようにはいかないだろう。が、モデルを変えていけばいいのではないか。フリーターが二人でなんとか一人前だが子供もいます、といった感じの人々の生活を都市が許容できるようにすればいいのではないだろうか。
 というか、家とパラサイトの問題というのは、大都市郊外の中産階級地域の崩壊の途中過程なのではないかと思う。それはもっと壊れてしまったほうが、新しいなにかが現れてくるだろうし、その壊滅から新しい都市のあり方を期待するのもそう悪いものではないように思う。

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2004.10.17

フリーペーパー雑感

 フリーペーパー(無料新聞)の部類に入るのか、あるいはフリーマガジンというジャンルになるのか、R25(参照)を地下鉄駅とかでチャンスがあればたまに拾う。あらためて配布所一覧を見たら、地下鉄駅だけではなく、関東一円に広がっているようだ。R25が面白いかといえば、私は面白いと思う。雑誌としても軽くて、ネタも文章の質もいい。それなりに成功したと言えるのではないか。
 内容的なノリとしてはブログみたいだなという印象もある。もちろん、編集が入っているからブログとはまるで違ったものとも言えるのだが、それでも、特定のブログのネタを継ぎ合わせて編集してもこんな感じのができるんじゃないか。というと逆にブログもフリーペーパー的なものになっていくのかもしれない。つまり、広告収入がある程度得られるほどのメディアに成長すれば、ブログで喰っていける人も出てくるんじゃないか。大手雑誌を見ても、特集という目玉に配慮するにせよ、実際は、連載エッセーで読者をつないでいる。
 しかし、既存の雑誌の業界あるいは既存の広告業界から見ると話は逆になる。雑誌というのは先に広告主ありきで、特定のマーケットに広告を打ちたい企業のニーズから生まれてくる。そのあたりは業界的にはごく常識。なので、広告が効率的にターゲットに行き渡ることを優先すると、フリーペーパーだとターゲットが絞れないし、かえってハズレにもなりかねない。
 おそらくやる気になればフリーペーパーなどどこでもできるだろうという気はする。現状はその兆候が本格化するかようす眺めもあって、R25が業界的に注目されているのだろう。そういえば、「競争優位を獲得する最新IT経営戦略」というすごい名前のサイトに"フリーペーパー「R25」に学ぶこと"(参照)という記事もあった。ま、考えることは誰も似ている。
 現状の雑誌の問題点は、その雑誌のマーケットの規模と、端的に言ってコンビニの流通の棚の確保なのだろう。雑誌は根が広告媒体だから、部数が捌けないとなるとやっていけない。それがダメなら潰れるというか潰す。同じ現象の裏側とも言えるのだが、現状、ある部数を出すにはコンビニ流通に依存しないといけないし、その流通に乗せるにはまたしても部数が必要になる。このあたりが雑誌のハードルだろう…とか知ったかぶりみたいに書いているのだが、最近、週刊文春が週刊新潮に比べて20円値上がりした意味とかはよくわからない。コンビニへのキックバックの関係だろうか。
 雑誌は宅配という手もある。マーケットが特化されていて規模が小さい場合はこれで行ける。というか、この配布方法も以前から使われている。業界誌系はこれだと言っていい。これが価格として高いような安いような価格帯である。月額にするとワンコイン500円から1000円くらい。宅配がより洗練されると配送費用も落とせるので、実質、コスト面では流通コストだけになるのかもしれない。
 そういえば現在の戸別に配達する日本の大手新聞も実際は広告媒体というのがその本質だ。紙面率でみると、広告が新聞紙面の半分になる。残り半分の半分、つまり全体の四分の一がニュースであり、このニュースは現在、もはや、ネットでほぼ足りている。残りが企画ものや、論説などとなる。この部分はブログを含めたネットである程度カバーできるか。できる、となると、それだけで新聞要らねーとなりそうだ。実際すでにそうなのかもしれない。
 フリーペーパーの海外の状況はというと、アメリカではけっこう盛んなようだが、どのように流通しているのかよくわからない。もともとアメリカでは、日本のような大手新聞というのはなく、基本的に新聞というのはローカルなものだ。
 韓国では地下鉄などで毎日各種のフリーペーパーが配布されていて、部数では旧来の新聞を抜いているらしい。ただ、これらは事実や各種情報を手短に記載したもので、論説的な内容や主張はあまり含まれていないと聞く。
 都市生活とフリーペーパーには流通の接点として強い関連があるのだろうと思うのだが、そうなると諸外国の都市部ではどうなのか。ふと洒落でfree daily newspapersに相当する"quotidiens gratuits"というフランス語をキーワードにgoogle調べてみると、検索結果のリストで、フランス語から英語の自動翻訳が選べるようになっている(余談だがこのサービスはけっこうすごい)。
 上位に"Les titres gratuits gagnent du terrain en regions"(参照)がひっかかり、その英訳を読んでみた。Metroというのが55.5万部、20 Minutesというのが75万部売れているらしい。けっこうな部数なので、既存の新聞にマイナスの影響はできないものかと思うが、それほどでもないらしい。自動翻訳を引用するとこうだ。


Do those cannibalisent the paying press? Mr. Bozo defends himself some: "According to Ipsos, two thirds of our readers did not read a daily newspaper . The daily press is on a slope of regression of its assistantship of 3 % to 4 % per annum. I think that the free press can have an impact of 3 % to 4 % additional."

 つまり、フリーペーパーの購読者の三分の二は既存の新聞を読んでいないというのだ。なるほど、新聞と棲み分けの状態なのだろう。
 日本の場合、既存新聞の代替となるようなフリーペーパーが出現するかわからないが、出るとしても、同様に、読者の棲み分けという現象は起きるようにも思う。というか、現状、新聞を読まない若い層は狙い目のニッチの可能性はあるのだろう。

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2004.10.16

中国で肥満が増えている

 中国で肥満が増えているという話は以前からたまに聞く。社会が裕福になるにつれ肥満者が出てくるのは当然のことだろうと思っていたが、2億人だよという話を聞いて、ちょっというか、いやいや大変驚いた。毎日新聞「『肥満人口』2億人突破、都市の肥満深刻」(参照)によるとこうだ。


中国衛生部の王隴徳(※旁部分は「心」の上に「一」)・副部長は12日、中国全土における成人の肥満率が7.1%、大都市では12.3%となったことを発表した。さらに、2002年末時点で、中国全土における「肥満人口」が2億6000万人に膨れ上がったとも説明した。なお「肥満人口」とは標準体重の超過者と肥満患者を含む。

 同種の話は、Forbes"Fat In China"(参照)にもある。

The new statistic derives from China's first comprehensive national survey on diet, nutrition and diseases, which was conducted by the Ministry of Health. It found that 7.1% of Chinese adults were obese and 22.8% were overweight, Wang Longde, China's vice minister of health, told a news conference. He added that an estimated 200 million of China's population of around 1.3 billion were overweight.
【試訳】
最新統計は、中国衛生部が実施した中国初の全国家レベルの「食事・栄養・疾病調査」によるもの。同部副部長王隴德は、中国人成人の7.1%が肥満、22.8%は標準体重超過と語った。彼は13億人の全人口中、2億人が標準体重を越えていると推定している。

 2億人の肥満人口というのはすごいなと思うが、これは、国際基準での「肥満:BMI 30以上」ではなく「標準体重超過:BMI 25-30」を指しているので("Statistics Related to Overweight and Obesity"・参照)、その肥満人口の大半は、外見的にはちょっと小太りくらいのものだろう。
 米国と比較すると、こちらは肥満が30.5%、標準体重超過が65%なので、中国は、比率としてはまだまだ余裕がある。が、増加のテンポも速いらしい。北京に限定すると、ほんとかなという感じだが、肥満人口は60%にもなるという。
 肥満人口増加に伴い、栄養バランスや生活習慣病も問題になりつつある。人民網「太った北京っ子 市民健康栄養白書を発表」(参照)によると、北京市民は栄養過剰な一方で、微量栄養素の摂取が不足、コレステロールと塩分は摂取過多、ビタミンAとカルシウムの摂取が不足ということらしい。豆乳飲んでないで(北京では塩味の豆乳をよく飲む)牛乳にしたら、という感じもするが、日本人同様、中国人も乳糖不耐性の人が多い。
 同じく人民網「中国、高血圧など慢性病の発病率を抑える措置を講じる」(参照)では、「高血圧などの慢性病にかかっている患者が18%を超えており、10年前と比べて、糖尿病、肥満など慢性病の患者も明らかに増えてきた」とのこと。これも文明病として普通のことだ。
 こうした面でいち早く対応が進んでいる日本としては、健康産業ということで中国にビジネスチャンスを見ている人もいるかもしれないな。

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2004.10.15

[書評]あなたは生きているだけで意味がある(クリストファー・リーヴ )

 クリストファー・リーヴ(Christopher Reeve)の遺書のようにこの本を読んだ。日本では昨年末の出版だったが、私は、出版社はPHP研究所かぁ、このタイトルかぁ、とひいてしまっていた。帯に「心がふるえる。感動がとまらない」というのも苦手だなと思っていた。でも、この帯は私のような冷笑家には誤解を招くが、正確な表現だった。もっと早く読むべきだった。

cover
あなたは
生きているだけで
意味がある
 リーヴは映画「スーパーマン」の主演俳優として有名だ。1952年9月25日の生まれ。先日52歳になったばかりだった。1995年の落馬事故で脊髄を損傷し、肩から下が麻痺するようになり、ほとんど全身の自由を失った。この重度な障害からの回復は当時の医学的常識では不可能ということだったが、彼は奇跡的なリハビリテーションで通説を覆し、車椅子での生活が可能となった。その後、同じく脊髄損傷に苦しむ人々を支援するために「クリストファー・リーブ麻痺財団」(参照)で精力的に活動した。議論の多い胚性幹細胞(ES細胞)の医療活動への啓蒙活動で最前線にも立った。
 さらなる活動が期待されていたが、9日、ニューヨーク州パウンドリッジの自宅で心停止状態から昏睡状態に陥り、翌日10日に病院で家族に囲まれて亡くなった("Christopher Reeve, 'Superman' and Crusader for Stem Cells, Dies"・参照)。子供は三名いる。前妻との間に長子マシュー25歳、長女アレクサンドラ21歳。最期を看取った後妻のデイナとの次男ウィル12歳。
 1995年の事故の直後、リーブは死にたいと願った。しかし、それを妻ディナの愛情が押し止めた。

 私が自らの命に終止符を打ちたいと思ったことに対して、デイナは「少なくとも二年待ちましょう」と言った。そして、「もしその時点でまだあなたの気持ちが変わっていなかったら、そのときはあなたの思い通りにする手段を見つけましょう」と。

 これ続くリーブの文章は、この本のユーモラスな特徴をよく示している。

 ある意味で、彼女は古い営業テクニックのマニュアルを使ったとも言えるだろう。消費者に無料お試し期間と無料サンプルを与え、なんの義務も料金も発生させずに、上手に彼らを追い込むやり方だ。一方で、もっと深い意味もあった。そこには私たちの互いの愛と尊敬が常に息づいており、彼女は、この悲劇に直面した私がまだ結論を急ぎすぎているだけだと思っていたのである。「待ちましょう」は完璧な指針の言葉だった。デイナは私に猶予と選択の自由を与えようとした。しかしそのときすでに彼女は、後に私が何を選択するかを知っていたのだ。

 この本は、こうしたユーモアとそれが暗示する強く率直な精神に溢れていて、いわゆるお涙的な表現は極力抑えられている。だからこそ、この本をたんたんと読み進めると、私のような人間は不意の号泣に襲われることにもなる。
 リーブのこの本は、現在病に苦しむ人やその身近にいる人にとって無理のない勇気を与えるものにもなっている。それまでの医療の常識を覆してリーブが回復していくようすなど、人間の可能性について強い希望を暗示する。
 私自身としては、この本を読みながら、自分も無縁ではない障害という問題よりも、一人の男の人生に深く考えさせられた。うまく言えないのだが、男性学、あるいは男性成人の心理的な危機という点で、静かな深い考察を促す指摘も多い。父親との関係、青春をついだ形の恋愛・結婚の破局、子供を持つこと…。
 それと多分に私という読者特有のことかもしれないのだが、世代・文化的に共感することも多かった。リーブは1952年生まれ。私は1957年生まれなので5歳下になる。この歳の差は自分にとってはそう少なくもないのだが、サイエントロジーや各種の、日本では「人格改造セミナー」と呼ばれていた活動について、いろいろ心当たりすることがある。
 そうしたムーブメント以外に、リーブの語りは信仰という点でも興味深いものだった。宗教への希求・探求は特定の形を取らずに、日々の精神性というもの深化という形で了解されていた。

 私は徐々に、精神性というのは、日々の生活を送っていく過程で見つかるものなのだと信じるようになった。他者を思いやりながら時間を過ごせばいい。何らかの高尚なパワーが存在すると想像するのは、それほどむずかしくはない。それがどのような形で、どこに存在するかを知る必要はない。ただそれを崇めて、それを支えに生きていけば十分である。なぜなら、私たちは人間であり、しばしば失敗もするが、少なくとも罰を受けることはないとわかっているからだ。その認識が私たちを守り、改めてトライしようという気持ちにさせてくれるのである。

 こうした考えは日本人の近代の神道感にも近いので、ある意味、素直に共感しやすいかもしれない。それはそれで悪いとか間違っているとか言いたいのではない。が、このくだりは実はアメリカ人にとってもうちょっと難しい含みがある。あまりこうした点に踏み込むべきではないのだが、これも私という読者の人生にも関係する手間、ちょっと脱線になるが加えておきたい。この先、リーブこう続ける。

 こうした考えが新たな人生を歩むプロセスの中で見えてきた一方で、私は自分が一神教信者になりつつあるとは考えもしなかった。四十代後半になって、信仰と組織的宗教にいつのまにか心が向かっていたのだ。デイナ、ウィル、そして私は、その当日担当の看護士も連れて、定期的にミサに通った。

 「ミサ」とあるのでカトリックのようにも思える。「その教会の司祭」ともあるので、日本人ならやはりカトリックかなとという印象を持っても不思議ではない。もう一点関連して、こうある。妻デイナとの話の一部だ。

 一神教・普遍救済主義の何がいいかというと、その扉を開いた人々が罪を犯したと仮定されていないからだ、と私は話した。そこでは司祭に懺悔しろとも言われないし、10の天使祝詞と五つの主の祈りによって少なくともあと一週間は神に対して正直であるようになどと言われることもない。

 翻訳者に十分な知識がないとも思えないし、なにより訳が間違っているというわけではないのだが、そして原文を私は持っていないのだが、この「一神教・普遍救済主義」とは、ユニテリアン・ユニバーサリズム(Unitarian Universalism)のことだろう(参照)。
 そういえばと思って、Unitarian Universalist Associationのサイトを覗いてみたら、ずばりリーブの話が掲載されていた。"In Memoriam: Christopher Reeve, Unitarian Universalist"(参照)である。ユニテリアンとユニバーサリストは米国では融合している。この話をここで突っ込むと混乱するので一つだけ避けるが、ユニテリアン・ユニバーサリズムのもつ宗教的情熱という点で現代日本人にわかりやすいのが、WWW(World Wide Web)を創始したティム・バーナーズリー(Tim Berners-Lee)の思想だ。関心がある人は"The World Wide Web and the 'Web of Life'"(参照)を読まれるといいだろう。Webの宗教的な情熱は多分にユニテリアン・ユニバーサリズム的である。
 リーブがユニテリアン・ユニバーサリストとして語っているのは、その背景に、プロテスタントの主流ともいえるカルヴィニズムへの緩和な形での反発がある。神学的あるは社会学的には予定調和説のエートスへの反発だとも言える。そして、それには広義にカトリックへの反発も含まれているだろう。
 話をリーブが残した思いに戻したい。彼は、この本のなかでも、強く、胚性幹細胞(ES細胞)の医療活動を呼びかけている。これには深く心を動かされた。私にとってはちょっとしたオクトーバーサプライズにもなった。この研究推進については、現在の米国大統領選挙でも重要な争点となっている。ケリー候補は8日の第2のテレビ討論会でリーブについて言及していた。ケリーが大統領となるなら、リーブが残したこの思いは、米国社会に少し具体的な形を取るようになるのだろう。

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2004.10.14

外国語を学ぶと脳がパワーアップするだとよ

 東ドイツの極右勢力の話なんかするより、これだよね。外国語を学ぶと脳がパワーアップするだとよ。洒落? いやいや、ネイチャー誌の最新号に掲載されている"Neurolinguistics: Structural plasticity in the bilingual brain"(冒頭・参照)の話。


Humans have a unique ability to learn more than one language -- a skill that is thought to be mediated by functional (rather than structural) plastic changes in the brain. Here we show that learning a second language increases the density of grey matter in the left inferior parietal cortex and that the degree of structural reorganization in this region is modulated by the proficiency attained and the age at acquisition. This relation between grey-matter density and performance may represent a general principle of brain organization.
【試訳】
人間にはその固有の能力として複数言語を学ぶ能力がある。この学習能力は従来、脳の物質的な構造によるのではなく、その機能の可塑性によって達成されると見なされてきた。だが、私たちは、外国語学習によって下頭頂葉皮質の灰白質の密度が増加することを見いだした。つまり、この部分の脳の物質的な構造は、外国語習得によって達成された能力のレベルに見合った状態で再編成されている。この灰白質の密度と外国語能力の関係は、脳の一般的な原理をも表しているのだろう。

 な、なるほど、外国語がぺらべらできるやって脳自体が違うんだな、と納得していただけましたでしょうか。
 っていうか、日本のメディアでの情報だとそういうのってすでに当たり前みたいに言われてるが、脳の学問では、機能と構造というのをかなり厳密に分けていて、いわゆるところのゲーム脳とかメール脳とかいうお笑いは機能の話にすぎない。脳の構造、つまり、物質的な意味での脳ミソが、まるで筋肉みたいにもりもりするっていうのは、それはそれなりにネイチャーが取り上げるに足る研究ではある。
 「筋肉みたいに」というのは悪い冗談止めろかと思いきや、これをニュース扱いしたBBC"Learning languages 'boosts brain'"(参照)も使っている。

They found learning other languages altered grey matter - the area of the brain which processes information - in the same way exercise builds muscles.
【試訳】
研究者たちは、多国語を学ぶことで灰白質(情報を処理する脳の領域)が、筋トレで筋肉が付くのと同じように変化することを発見した。

 脳学者にしてみると今回の研究の意義は、むしろ、「a general principle of brain organization」にあると思われるが、一般的には、外国語を学ぶと脳がパワーアップするみたいに受け止められるだろう。面白そうなネタだし、このネタだと広告もちゃんと付きそうだし。
 BBCのニュースを読むと今回の発表では、よく言われる言語習得の臨界期についてもある程度意識されていることがわかる。というのも、こうした外国語の習得による脳構造変化は幼い時点でバイリンガルになった子供に顕著らしい。この手の話もまた日本では外国語の幼児教育の必要性とかに化けるのだろう。研究者に次のようにコメントさせている。

"It means that older learners won't be as fluent as people who learned earlier in life.

"They won't be as good as early bilinguals who learned, for example, before the age of five or before the age of ten."
【試訳】
 今回の結果から、ある程度の年齢に達したら、幼いころに外国語を習得した人ほどぺらぺらになるというわけにはいかないことがわかるでしょう。
 五歳前とか十歳前にバイリンガルになっている人と比べると、それ以上の歳の学習者が同等に上手になることはないでしょう。


 それじゃあんまり、というわけで、CBS"Being Bilingual Boosts Brain"(参照)では、お慰みのコメントも加えてくる。

Of course, while it might seem easier to pick up a second language as a child, it's still possible to do so as an adult.
【試訳】
もちろん、子供のほうが外国語を習得しやいようだとは言えますが、成人だって可能なんですよ。

 ま、がんばってくれ。私もかんばる…ってなんのこっちゃ。
cover
100 Words
Almost Everyone
Confuses & Misuses
 BBCのニュースでは話のオチに、外国語が話せるイギリス人労働者は十人に一人。そして、2010年には小学校で外国語教育を導入するということを加えている。EUでは多国語が重視されるという含みなのだろう。
 さて、外国語の幼児教育について、おまえさんはどう考えるのかと問われるなら、実は関心ない。デーモン小暮は幼児期に英語の環境にいたためバイリンガルなのだが、彼は、たしか、余の話す英語はお子ちゃまの英語なのである、とか言っていた。そうだろうと思う。知的な意味を担わせた英語なりを使いこなすのは、アメリカ人の英語ネイティブでも語彙を増やす必要があり、これにけっこう苦労しているものだ。英語ネイティブでも英語は難しいのは、"100 Words Almost Everyone Confuses & Misuses (The 100 Words)"とかでもわかる。
 それと今回の研究は印欧語内の言語なので、日本語と英語のように離れた言語で一般的に成り立つのかかなり疑問かな。

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2004.10.13

ゴードン・ブラウン、その救世主的な情熱

 これはニュースではなくてネタだなと苦笑したまま、凍り付いてしまった。ゴードン・ブラウン(Gordon Brown)英財務相は、私のような冷笑家ではないからだ。彼は本気だ。彼は、重債務貧困国に対する債務返済免除に、IMFが保有している金(きん)を使え、というのだ。
 私は稚拙ながらもおそらく日本のブログとしては最初にスーダン・ダルフール危機に言及したのだろうと思うこともあり、その関連からその後、軽くではあるが「スーダン・ダルフール危機情報wiki」(参照)に関わり、ついでにアフリカ関連のニュースを意図的に読むようになったのだが、先日(9月27日)、この話を、AllAfrica.comインタープレス系"Seize Golden Opportunity On Debt, Groups Urge IMF"(参照)というニュースで見かけた。


Global anti-debt activists are rallying around a call issued by Britain on Sunday that urges the International Monetary Fund (IMF) to cancel debts owed by the world's poorest nations and finance the forgiveness through sales of its own gold.

UK Chancellor of the Exchequer Gordon Brown called for full debt cancellation for the highly indebted nations, adding that his government would put up 10 percent of the cost of the move. He challenged other governments to help finance debt forgiveness.
【試訳】
 英国の呼びかけで債務帳消し国際活動家が奮起した。その主張は、IMF(国際通貨基金)は自らが所有する金(きん)を売却した利益で世界の最貧国の債務を帳消しにせよというものだ。
 ゴードン・ブラウン英財務相は、重債務の完全な債務帳消しを訴え、加えて、英国はそのために10%の支出を行うとした。彼は他国にも債務帳消しを熱心に呼びかけている。


 IMFは、10万オンス、2.8トンの金塊を保有しているが、これが現状、80億ドルと低く見積もられているとのこと。実際に市場に回せば、その6倍にもなるらしい。ほぉという感じだが、この金塊は、米国とドイツが積んだものらしく、その思惑も絡んではくるのだろう。
 この話が気になったのは、日本での関連報道でちょっとひっかかる感じがしていたからだ。私の見落としかもしれないのだが、そして先のニュースを読んでからの印象なのだが、日本国内では、IMF保有の金(きん)については意図的に報道されていなかったのではないだろうか。例えば、日本経済新聞に掲載されたAP・共同系「英、重債務貧困国の債務返済を免除」(参照)がおそらくこの話題を扱っているのだろうと思われるのだが、そしてここに全文掲載はできないものの、IMF保有の金(きん)についての言及はまるでない。

【ロンドン26日AP=共同】英国政府は26日、世界の重債務貧困国に対する一層の債務返済免除を実施すると発表、他国にも同様の債権放棄を呼び掛けた。
 英国は債務国が世界銀行や他の開発銀行に対して負う債務の約10%、重債務貧困国の全債務の7%について債権を持つ。英財務省は、2015年まで毎年各1億ポンド(約200億円)の返済を免除するとしている。

 私の単なる勘違いかもしれないが、なにか意図的な情報操作の感じもする。ま、陰謀論とかは考えないが。
 この金(きん)交換の話は、その後、同じくAllAfrica.com"Finance: Groups Defend Plan to Swap IMF Gold for Third World Debt"(参照)に続く。

Objections by Canada, a major gold producer, may have played a part in the failure of the world's richest countries to adopt a British proposal to use the proceeds from a revaluing of the gold reserves of the International Monetary Fund (IMF) to relieve the debts of the poorest countries.
【試訳】
IMF保有の金塊を重債務貧困国の債務帳消しに充てるという英国提案は、カナダ、及びその他の金産出国の反対によって、富裕国に対する訴えとしては失敗してるようだ。

 これは日本人の常識から言ってもそんなものではないかとは思う。
 ふと気になってこの手の話は左翼的なガーディアンにあるだろうと思ったら、あった。"IMF must learn the golden rule"(参照)である。とすると、当然、右派のテレグラフでもおちょくっているに違いなと思ってみると、やはりある。"Do all these consultants really benefit the Third World? "(参照)だ。保守派の結論は読むまでもないのだが、そのトーンはわずかだが自分の予想に反していた。

For once, Gordon Brown shares his messianic zeal, never missing an opportunity to make an announcement about support for the developing world. Ever more ingenious ways are concocted to raise money - most recently using the value of IMF gold to wipe out debt. The Prime Minister and the Chancellor are, according to Bono, the Lennon and McCartney of international aid.

 訳すほどのことはないのだが、気になったのは、"his messianic zeal"(救世主的な情熱)という表現だ。そうだ、これだなと思ったのだ。冒頭、苦笑したまま凍り付いたのは、ゴードン・ブラウンの、まさに救世主的な情熱だ。こいつ、本気でマジなんじゃないか。なんだか、クロムウェル(Oliver Cromwell)をふと連想してしまう。
 重債務帳消し運動は、9.11以前には坂本龍一などもわいわいやっていたように、けっこうわかりやすいお話だった。これがまさに坂本的わかりやすさで、9.11後に「非戦」とかに流れて、あれ、以前何してたっけ的軽さに消えてしまったみたいだが、この問題は、そうした表層的な国際政治のポーズを抜きにしても、大筋の方向としては、債務帳消し以外の選択などない、と私は考えている。つまり、問題は、どうするかの次元であるわけだが、どうしろと言ってもねぇ、ぷは、みたいにお茶を濁していたのだが、ゴードン・ブラウンはそういう方法論を問うという点では、正攻法で、ずどーんと打ち込んできたわけだ。
 もっとも、言うまでもないことだが、重債務帳消し運動も、単に「救世主的な情熱」で動いているわけはなく、IMFを巡った各種の政治団体の思惑というのがある。そのあたりは、すでにこってり語られてもいるわけなので、私が言及するまでもない。
 私としては、この問題は、日本の国策として、中国のアフリカ攻勢への骨抜きのように推進すればよかろうなとも思う。という点で多分に特定のイデオロギーのもとにはあり、善意とはほど遠い。それでも、世の中、本気マジなやつっているよなと思う。感動するというか、あきれる。

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2004.10.12

交通手段と環境についての雑感

 パリのポルト・ド・ベルサイユにある国際見本市会場で第83回パリ・オートサロン(Mondial de l'automobil)が9月24日から昨日まで開催されていた。といって、私は車に関心があるわけではない。沖縄で暮らしていたときは他に交通手段がなく、しかたなく車を使っていた程度である。
 パリ・オートサロンについては、車好きにはさまざまな視点があるだろうが、全体的な傾向として見れば、環境に優しい「クリーンカー」が注目されていたようだ。これには原油価格の高騰といった背景もある。ちょっと驚いたのだが、シトロエンは天然ガスを使う一般向けの自動車を今後開発するとのアナウンスもあった。購入した場合、フランス政府は、自宅用のコンプレッサー設置の経済支援をするらしい。この傾向が普及すれば、フランスでの脱ガソリン化がいっそう進むだろう。
 フランスでは、すでにバスやゴミ収集車など公共の自動車の場合、燃料にエタノールを利用していることが多い。日本でも、京都議定書に定められた温室効果ガス削減目標を達成するためにエタノール混合ガソリン(3%)の使用が昨年8月解禁され、その普及を進めてはいる。先日小泉総理がブラジルに訪問した際も、ブラジルのサトウキビからできるエタノールの輸入の期待を表明している。とはいえ、身近でエタノール混合ガソリンの利用の話は聞かない。エタノールを燃やしてもCO2は出るが、京都議定書の枠組みでは、CO2を吸収して育つ植物が原料ということで排出量はゼロと見なしている。
 京都議定書といえば、これを批准しないアメリカが環境に配慮しないというイメージで見られることもある。が、エタノールの利用の面では米国は先進国だ。「ガソホール」という名称で1970年代から利用され、現状全米のガソリンの約10%がすでにこれに相当している。日本が今後の導入を検討しているエタノール10%混合ガソリン(E10)も米国ではすでに流通している。日本も公共交通や市街の宅配便車などにエタノール燃料を義務づけたらいいようにも思うが、どうなのだろうか。
 パリ・オートサロンでは、電気自動車にも人気が集まった。この分野の技術はご存じのとおり日本が先行している。とはいえ、この技術の適用が日本に向いているのか私にはよくわからない。日本の場合、このタイプの車が快適に走る道路になってないようにも思う。
 米国は電気自動車普及の点でも進んだ面がある。ハイブリッド車利用をアファーマティブに支援するための施策が進められているのだ。有名なところでは、カリフォルニア州のカープールレーンだ。シュワルツェネッガーが知事となるや、45マイル/ガロン(19.0km/l)以上の燃費の車種なら、一人だけの運転でもカープールレーンの走行が可能となった(参照)。
 カープールレーンは、交通の混雑を減らすために、相乗り車を優先するための特設レーンである。2人以上の乗車がないのにこのレーンを走行するとかなりの罰金が取られる。今回のカリフォルニア州の決定は、燃費のいい車なら、半人前という換算なのだろう。
 45マイル/ガロンの燃費をクリアできるのは、現状、プリウス、シビックなど日本車に限定されるので、その点から米国内でブーイングもあるようだが、アメリカというのはこういうのに頓着しない(イチローも優れた選手だから評価する)。こうした米国の動向は、環境重視と交通渋滞解消の施策として十分評価できる。
 カープールレーンでふと思い出したのだが、沖縄にはバスレーンというのがある(参照)。沖縄でレンタカーを運転する前にはバスレーン規制について知っておくといい。知らないとちょっと困ることにもなる。
 沖縄は戦後米軍が鉄道を撤去したため、かなりひどい自動車社会になった。うちなーんちゅは「歩くのなんぎー」とか言って、通勤・通学に一台一人で乗るが一般的。交通渋滞も烈しい。このため、時間制限ではあるがバス専用のバスレーンを設けないとバスの運行ができない。
 沖縄では新設のモノレールも交通渋滞解消というのが建前だがあまり効果は出ていない。沖縄のような土地ではモノレールよりも新型の路面電車LRT(Light Rail Transit)の導入が好ましくその推進団体もあるだが、まったく進展していない。現行の江ノ電並み二両編成のモノレールは開発当初から赤字となることがわかっていたのに、建築は中断できず、代替のLRT推進もできなかった。しかも沖縄では赤字続きのバス会社統合問題でもめ続けている。なんとかしてほしいとも思うが、なんくるないさ、なのだ。おっと、沖縄の話がつい長くなった。
 欧州や米国の交通機関におけるガソリン・セーブの傾向を見ながら、日本でもこうした施策を何か進められないかと思うが、よくわからない。鉄道がこれだけ普及しているからそれでいいのだろうか。
 そういえば、ギリシアでは伝統的にタクシーも相乗りする。しかも、これが、すでに客が乗っているタクシーでも道の途中で停めて、別の客が相乗りでずかずか乗り込んでくる。最初私もびっくりしたのだが、これも慣れるとどってことはない。日本でもできるところからタクシー相乗りを推進すればいいのにとも思う。
 と、特に焦点のある話でもないのでこのあたりで終わりとするのだが、最後にちょっとディーゼル車について。
 欧州ではディーゼル車はクリーンな交通機関と見られている。ガソリン車に比べて燃費が良く、CO2排出量が少ないからだ。日本だと、東京都で規制されたように、ディーゼル車は粒子状物質(PM)の排出のため、環境に悪いというイメージが強い。だが、欧州では、ディーゼル・エンジンの燃焼室内で燃料を完全燃焼させるため、粒子状物質を排出しない技術開発が進んでいるようだ。

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2004.10.11

イラク大量破壊兵器調査の余波

 この手の話はまた感情な反発を引き起こすことになるのかもしれないが、どうも日本での報道は偏向があるように思えるので、簡単に触れておきたい。話は、6日に発表されたイラク大量破壊兵器捜索についての米調査団(ISG: Iraq Survey Group)発表の余波についてである。が、前段の話が長くなるだろう。
 調査団の団長であるドルファー中央情報局(CIA)特別顧問は米国上院軍事委員会で、昨年のイラク戦争開始前にイラク国内に軍事的に有用な量の大量破壊兵器の備蓄はなかったと証言した。同時にイラクは大量破壊兵器を再開発する意図の存在も指摘した。
 これを受けて日本では、イラク戦争の大義は失われたとの線での主張が目立った。典型的なのは、8日の朝日新聞社説「大量破壊兵器――なかったからには」(参照)である。


 戦争前のイラクに、結局、大量破壊兵器はなかった。米政府の調査団がそう結論づけた。戦争の大義をめぐる長い論争に決着がついた。
 生物・化学兵器の備蓄はいっさいなく、核兵器の開発計画も湾岸戦争後の91年以降は頓挫していた。フセイン政権からテロ組織への兵器や情報の供与を示す証拠もなかった。要するに、ブッシュ米大統領がイラク侵攻に踏み切った最も重要な根拠が見当違いだったのだ。
 フセイン政権を排除しなければ、再び大量破壊兵器の開発に手を染める危険があった。米英両政府は、そうした理由で戦争をなお正当化する。調査団もイラクには大量破壊兵器開発に戻ろうとする「意図」はあったと指摘している。

 この主張は誤りではないが、先の調査では「フセイン政権を排除しなければ、再び大量破壊兵器の開発に手を染める危険」の背景にも触れていた。日本では、朝日新聞を初めこの背景部分については、十分には報道されていない印象を受ける。
 国際的に公開されている情報なので、日本のジャーナリズムも全く触れていないわけでもない。国内では産経新聞系の報道「大量破壊兵器なかった 米イラク調査団 最終報告書、脅威の存在は認める」(参照)が比較的詳しい。

ただ、報告書は、その一方で、フセイン政権の大量破壊兵器保有に向けた開発の意図は昨年三月のイラク戦争開戦まで保持され、湾岸戦争(一九九一年)以降の国連制裁下でも、フセイン政権が石油密輸などで得た莫大(ばくだい)な資金でロシアや北朝鮮からの技術供与を受けて長距離ミサイルの開発を続けていた-との脅威の実態を報告した。

 すでに極東ブログ「サダム・フセイン統治下の核兵器疑惑の暴露手記によせて」(参照)で核開発について、開発当事者マハディ・オバイディ(MAHDI OBEIDI)氏による手記について紹介したが、ここでも核兵器開発の再開は短期に可能だっただろうと主張されている。
 しかし、問題は、重大ではあれ、潜在的な危機についてではない。今回の発表で米英のジャーナリズムで問題視されていたのは「フセイン政権が石油密輸などで得た莫大な資金」の構造についてだ。この点を補足するために先の報告書の内容に戻る。

 報告書は、千ページに及び、(1)フセイン政権の大量破壊兵器開発に向けた戦略的意図(2)国連制裁下のフセイン政権の石油密輸や、国連の「石油・食料交換プログラム」の不正利用などで莫大な不正資金を取得した構造(3)ミサイル開発(4)核兵器開発(5)化学兵器開発(6)生物兵器開発の六章で構成されている。

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サダム
その秘められた人生
 章立てからもわかるように、「国連制裁下のフセイン政権の石油密輸や、国連の『石油・食料交換プログラム』の不正利用などで莫大な不正資金を取得した構造」が重視されている。
 この記事の補足にもあるように、制裁下のイラク石油からフセインが不正に得た資金については、(1)抜け道的に続けられたシリア、イエメン、ヨルダンなどの企業との貿易取引で75億ドル以上、(2)国連管理下で行われた「石油・食料交換プログラム」の石油会社選定での見返り金で20億ドル以上、(3)石油密輸で9億9千万ドル、がある。
 別の言い方をすれば、国連制裁によってはこの構造を断つことができなかった。この点について、「サダム―その秘められた人生」の著者コン・コクリン(Con Coughlin)はテレグラフに昨日、辛辣な内容の"The sordid truth about the oil-for-food scandal"(参照)という記事を寄稿している。コクリンの視点には日本では異論も多く、この寄稿は詳しく紹介するにはあまり穏当でもないので、引用は控えておきたい。
 「石油・食糧交換プログラム」不正について、今回の発表ではこのプログラム管理の欧州企業代表が、この事業に構造的な欠陥があったとの証言が含まれている。また、石油・食糧交換プログラムの不正防止策をとることにフランスやロシアが反対したことを明らかにしている。国内の報道では、同じく産経新聞「石油・食糧交換プログラム 欧州企業代表が証言『構造的な欠陥あった』」(参照)に指摘がある。

 米国の国連代表パトリック・ケネディ氏も証言して、サイボルト、コテクナ両社の検査が危険な環境、不十分な機材、フセイン政権の妨害などによって満足のいく水準には達せず、不正の温床となったことを認めた。
 ケネディ氏はまた石油・食糧交換プログラムの進行中の九八年ごろ米国側は不正な資金の流れに気づき、監督や検査を強化する措置をとることを求めたが、「委員会の他の諸国に抵抗されて、その措置がとれなかった」と証言した。同プログラムを運営する国連の特別委員会には米国以外には仏、露、中国、シリアが主要メンバーとして加わっていた。

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 国内報道ではこの先の食い込みがあまり見られないが、7日のワシントンポスト"Hussein Used Oil to Dilute Sanctions"(参照)では、報告書をベースに、国連制裁下のイラク石油から甘い汁を吸っていた国を明らかにしている。重要なのでここは英文だが簡単に引用しておく。

The report, written by chief U.S. weapons inspector Charles A. Duelfer, indicated that some of the oil vouchers were used legitimately by the recipients. Not all were fully cashed in, and some were not used at all. Companies or individuals from at least 44 countries received vouchers, the report said.


Russia, France and China -- all permanent members of the U.N. Security Council -- were the top three countries in which individuals, companies or entities received the lucrative vouchers. Hussein's goal, the report said, was to provide financial incentives so that these nations would use their influence to help undermine what Duelfer called an "economic stranglehold" imposed after Iraq's 1990 invasion of Kuwait.

 名指しされているロシア、フランス、中国だが、国家のレベルで関与したというわけでもないし、その後の調査で米国企業もこの不正に連なっていることが明らかになっている。
 だが、特にフランスについては、米英のジャーナリズムの追及が厳しいように思える。これはむしろ保守系のジャーナリズムに限ったことではない。ブッシュ政権に厳しいニューヨークタイムズも"French Play Down Report of Bribes in Iraq Scandal"(参照)で、この不正にフランス高官の関与について触れている。類似の視点は英国オザーバー紙の"France's Saddam deals revealed "(参照)にも見られる。
 さて、問題はこの余波についてである。フランス政府は早々にこの発表に不快を表し、不正関与を否定しているようだが、この問題は米仏間の外交問題に発展していきそうな気配がある。
 気になるのは、フランスのジャーナリズムでの扱いだ。私はフランス語が読めないので、直接フランスのジャーナリズムの状況はわからないが、フランスジャーナリズムにとっては、この問題は済んだこととして、その検証にかかっていないようだ。国益と一体化してしまっているのか、ジャーナリズム自体に問題があるのかよくわからない。
 この指摘は保守系のテレグラフ" 'Old story' is cut by French press"(参照)に詳しいが、今後の動向を含めて検証が必要だろう。
 私の印象としては、ロシア、フランス、中国の、要人を含めた不正取引がまったくの無根拠だとは思えない。また、そうであるためにはより詳細なジャーナリズムの追及を必要とするだろうと考える。
 先の朝日新聞の社説に戻る。

 日本政府は来週、イラク復興支援国会合を東京で開く。イラクの再建を大いに助けたいが、そのためにも国際協調の下でイラクに安定を取り戻させることが先決だ。「でも戦争は正しかった」の一点張りでは、それもできにくい。

 戦争の是非については難しい。しかし、制裁が十分に機能していなかったこと、しかも、その不正に国連に拒否権を持つ大国の要人レベルが関与していた可能性があることを考えると、この問題の追及なしに、国際協調が可能なのだろうか疑問に思う。
 この問題は時期米大統領が誰であるかに関わらず、イラク統治と合わせて、依然、残る問題だろう。

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2004.10.10

オーストラリア総選挙はイラク派兵支持の保守連合の勝ち

 昨日オーストラリア総選挙があり、ハワード首相ひきいる与党・保守連合が野党労働党に勝利し、継続して四期目となる政権を担うことになった。事前の予想では、接戦とも伝えられていたが、蓋を開けると意外なほどあっけなく決まった。保守層は今朝も安心してパンにベジマイトを塗ることができただろう。

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ベジマイト
 オーストラリアは日本同様追米的にイラク戦争に荷担していることもあり、今回の選挙は国際的にはイラク戦争との関連で注目されていた。が、今朝の日本の新聞各紙では社説で扱っているものはなかった。
 選挙前のテロの危険性も注視されていた。労働党はイラクからの撤兵を公約としており、ちょうどスペインでの大規模テロの前夜と似た状況とも見られていたからである。テロについては、先日ジャカルタではオーストラリア大使館を狙ったと見られる爆弾事件は発生したものの、オーストラリア本土では現在のところテロはない。イラク派兵の部隊でも死傷者は出ていない。この事実は、ある意味で不思議なほどとも言えるのだが、日本も似た状況である。
 ハワード政権続投により、イラク派兵850人の駐留は継続される。当然ながら、今回のハワード陣営の勝利は、米国大統領選挙でもブッシュ陣営に好材料となる。一昨日の大統領選挙討論会でもケリー候補は米国は国際的に孤立したと主張していたが、これでオーストラリアと日本からは強い支持が得られたことになるからだ。また、健康に不安な点もあるものの、イギリスのブレア首相へも来年の総選挙について続投支援になった。日本ではあまり報道されていないが、ブレア首相はスーダン・ダルフール危機に対して、大国としては初めての要人としてスーダンを訪問しその政府に公式に圧力をかけているが、こうした活動も英国内では政局の関連と見られている。
 イラク政策以外では、ハワード政権続投により、米国としてはアジア・オセアニア地域の安全保障の政策がやりやすくなった。日本とオーストラリアという大きな拠点が維持できたからだ。すでにシンガポールには米軍を置いているように基本的に親米であり、先のインドネシア選挙でも親米的なユドヨノ政権となったことも米国には有利となる。むしろ、問題なのはマレーシアかもしれない。石油がらみでどうも奇妙な動きをしているようでもある。
 対外的には重要な意味を持つオーストラリア総選挙だったが、オーストラリア国内ではイラク問題はあまり論点とはなっていなかった。もともと英国連邦の構成員であり、最近では米国映画界でオーストラリア人の活躍が目立つように米国との関係が深い。イラク派兵だけを単独の問題としてとらえるという視点は立てづらい。
 言い方は悪いが、今回の選挙結果は保守層の最後のあがきとなる可能性もある。当初接戦も伝えられていたように、ハワード首相ひきいる与党・保守連合への批判は大きい。世代交代へ声もある。ハワード首相が65歳であるのに、労働党のレイサム党首は43歳というのは世代交代のアピールもある。さらに、オーストラリアの世代の問題には、英国連邦というオーストラリアのありかたに対する反発も強い。現状、オーストラリア国民の若い世代を中心に七割もが英国連邦からの離脱を支持している。
 現状、オーストラリアは国旗を見てもわかるが、英国連邦の構成員であり、エリザベス英女王を元首とする立憲君主制である。その意味あいは象徴的なものでしかないとはいえ、レイサム党首率いる労働党は、この体制への反発を見込んで、今回の選挙では、共和制移行の是非を問う国民投票を公約していた。
 共和制移行については、1995年の労働党政権時代、キーティング前首相が2001年までの実施を目指し、1999年に憲法改正案が国民投票にかけられたが、賛成45%、反対55%の小差で否決された経緯がある。もっとも、これは共和制のシンボルとも言える大統領選出方式を、現状に近い形で議会の3分の2の賛成で選ぶ間接選挙にしたためでもある。
 今回立憲君主制支持派で趣味はクリケットというべたな英国志向のハワード首相が続投ということで、表面的には共和国移行問題は据え置きになったかにも見えるが、10年スパンで見れば、共和国移行は避けられない。保守党側もすでにその動向は織り込んでいるが、ヘタを打つ可能性もあるだろう。
 次回以降の選挙については、オーストラリアの選挙制度が労働党に有利に作用する可能性もある。オーストラリアでは、選挙区の全候補者に有権者がお好みの順位を付けるアンケートみたいな方式になっており、第一位得点を過半数を取った候補者が当選する。過半数が得られなければ、支持されていない候補の票が対立票として二位の候補に配分される。なぜ?といった感じでもあるが、それを言うなら米国大統領選挙もけっこう奇妙なものだ。
 この選挙方式は、対立票が重要になる。そこで第三政党が注目される。オーストラリアではドイツほどではないが、緑の党の支持者も少なくないので(少なくとも米国大統領選挙でラルフネーダーを支持する人よりははるかに多い)、この傾向が今後のオーストラリアの動向の鍵を握るかもしれない。英国でもそうだが、今後、世界は二大政党化というより、キャスティング ボート(casting vote)を握る第三政党が重要になる可能性があるのだが、自らのその可能性を窒息させている某国の第三政党もある。
 経済的な不安材料もある。比較的好調な国内経済がハワード首相を支持していたともいえるが、これは世界的な低金利で行き場を失った資金がオーストラリアに流入していたとも見られる。日本は事実上のゼロ金利、米国はついこないだまで実質マイナス金利、ユーロ圏は2%程度、というなかで、豪州準備銀行(RBA)の政策金利は5.25%だった。世界経済が回復すれば金の流れが変わるだろう。

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2004.10.09

スカル・アンド・ボーンズ(Skull And Bones)とフラタニティー(fraternity)

 先日の極東ブログ「ケリー米大統領なら日本は…」(参照)でちょっといたずら心もあって「スカル・アンド・ボーンズ」にCBS"Skull And Bones"(参照)のリンクをはっておいた。CBSがソースならまいいかなと思ったが、この趣向はあまり関心を持たれるふうはなかったようだ。このブログはそれほどおもしろいネタが少ないからしかたない。次は@の書き順のネタでも書きますか。
 スカル・アンド・ボーンズについてはgoogleで日本語のサイトを検索すると、「陰謀がいっぱい!―世界にはびこる「ここだけの話」の正体」みたいなのだが出てくる。比較的穏当なWikipediaの「スカル・アンド・ボーンズ」(参照)の説明も、これはちっとどうかなとは思うが、それほどひどいわけでもない。


スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones、S&B)はアメリカのイェール大学にある秘密結社。通称「スカボン」。構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。

 この項目でも強調されているが、ケリー上院議員とブッシュ大統領は二人ともスカル・アンド・ボーンズのメンバーだ。この結社は年間15名しか入会しないから、少数のつながりは強固だ。大統領選の二人も結社ならではの暗号のやり取りができはずだ。
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石の扉
 そういえば、フリーメイソンについて書かれた「石の扉」にも、この話が載っていた。

 ブッシュ大統領の有力対抗馬は民主党のジョン・ケリー上院議員ですが、お互い名門イェール大学の同窓生。しかも二人は秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」に入会していたのです。この「スカル・アンド・ボーンズ」は、十九世紀にイェール大学にできました。徹底した白人至上主義エリート集団とされる、フリーメーソン仕込みの秘密結社で、米国社会には強力な影響力があるといわれています。
 アメリカのクラブは、名門であればあるほど会員は非公開で、秘密団体に近い形で存在しています。

 なかなか愉快なお話だ。秘密結社とかいうと日本人はいろいろ想像したくなる。だが、これらは基本的に大学のサークルの延長のようなものである。青春映画などにもよく出てくる。
 厳密にいうと日本の大学のサークルとはかなり違う側面もあるが、いずれ一種の社交クラブだ。男性向けはフラタニティー(fraternity)、女性向けはソロリティー(sorority)とも呼ばれる。
 フラタニティーはそれなりに威厳を重んじるので、入会が難しいこともある。フラタニティーという組織自体が資産をもっていたりもする。この先は、私が説明するより、「アメリカ留学便りNo.34 ~ジャッキーとYシャツと私(2)~」(参照)という体験談を読まれたらいいだろう。

メンバー同士は「ブラザー」と呼ばれ、その結束力は強い。活動内容は、大学内の各種行事にオーガナイゼーションとして参加する、他支部と交流する、毎週開かれる集会で様々な問題を話し合う、ソロリティーと合同でパーティーを行う、など。また、大学各分野で積極的に活動している学生に、フラタニティーのメンバーは多い。確実な組織票が得られるし、様々な要職がブラザーつながりで得られるからだ。また、組織として様々な分野で行事やチャリティーに参加するので、リーダーシップ能力を伸ばしたり、ディベート能力を伸ばしたりするのにも格好の組織である。フラタニティーに入ったことがきっかけで活躍する人間も多い。クリントンにしてもブッシュ親子にしても大学時代はフラタニティーのメンバーであった。

 これに類するもので、ハリーポッターの映画でも出来たのだが、寮(dormitory)もおもしろい。奇妙な入寮儀式(initiation)などの風習がある。
 この手の仲間内グループは、クリック"Clique"というふうに言われることもある。考えてみると日本の学閥などもクリックの一種だし、旧制高校のOB会というのは日本の成長期には帝国ホテルなどでかなり盛んに活動していたものだった。
 というわけで、「スカル・アンド・ボーンズ」は陰謀に胸ときめかすほどのことでもない。
 フラタニティーということではもう一点、あまり日本人に知られていないかなと思うことがある(といいつこのネタは以前も書いたか)。フランス革命のスローガン、「自由・平等・博愛」あるいは「自由・平等・友愛」についてだ。これが三色旗の起源にもなっている。で、この言葉なのだが、対応する英語で言えば、"liberty・equality・fraternity"である。
 つまり、フラタニティーというのが王政を打ち倒すときの共和制の価値の原理でもあるわけだ。別の言い方をすると、愛国心というのは、王政の場合は忠誠はloyaltyだが、共和国の場合は忠誠はfraternityだとも言える。このあたりの違いはあまり日本人には感じられていないようでもある。
 フラタニティーというものが歴史的にどういうふうに出来てきたかというのは、近代の各種の友愛団によるものだろう。そして、さらにはアッシジのフランチェスコの修道会のような宗教的な団体に遡及できる。
 と、話がいっそうたるくなるので、このあたりでおしまいにしよう。

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2004.10.08

売春は合法化すべきなのか…

 先日の極東ブログ「在外米軍の売春利用規制」(参照)で簡単に触れたが、先月23日韓国では性売買特別法が施行され、売春斡旋業者や買春男性への処罰を強化された。この産業セクターは韓国では無視できない規模なので、なんらかの社会反応があるだろうという点に関心を持っていたのだが、昨日(7日)、風俗街などで働く女性約2500人がソウル市内の国会前で抗議集会を開いたというニュースを聞いた。彼女たちは「生存権保障」や「2007年までの猶予」などを訴えたらしい。
 国内では日本経済新聞「韓国、性売買春取締新法で女性2500人が抗議デモ」(参照)などがニュースとして取り上げていた。韓国紙では朝鮮日報「売春街の女性3000人が国会前でデモ」(参照)や「性風俗業の職業認定を!」(参照)が詳しい。写真は集会の熱気と組織性を伝えている。帽子の色は出身地を示している。この整然とした組織性にはなにか裏があるのかもしれないという印象は持つ。
 まず誤解をして欲しくないのだが、私は韓国をこうした点で貶める意図はまったくない。また、売春それ自体に関心が深いわけでもない。しかし、私たちの社会の現実は売春やそれに類縁の風俗産業を含み込んでいることは確かなので、そうした社会の視点から無視すべきではないし、知的にチャレンジされている側面もあると思う。そこを少し書いてみたい。
 韓国の規制についてはその実態を私は詳しく知らないだが、私が理解している範囲では、ソウル集会に集合した女性たちは売春婦というわけではなく、広義に性風俗産業に関わっている女性である。というのも、今回の規制法との運用では、むしろ買春側に着目していることと、処罰対象の行為が「性交渉」から「性交類似行為」に拡大されているからだ。基本的に男の側を締め付けてお金の流れを止め、このセクターの産業を断とうとしている。これではこのセクターのサービス就労者はたまったものではないだろう。
 だから、この問題は単純に売春の問題ではない。が、国際的には、売春のあり方として総括され、またその枠内の問題としては、今後解禁の流れにあるように見える。示唆的なオランダの動向である。
 オランダでは、1999年に売春宿合法化案が議会で可決。2000年夏から売春の営業所が公認され、地方自治体への登録制が敷かれた。この立法の背景には、未成年者や不法入国の外国人の強制売春を効果的に規制するには、合法化によるガラス張りがよいとする判断があった。実際、ガラス張りの飾り窓の営業所は日本の江戸時代の吉原のようでもあるらしく、観光名所にもなっているようだ。もっとも、この政策が所期の目的を達していると言えるのかについては現状ではよくわからない。失策だとも言えないようだ。
 ヨーロッパでは伝統的に売春の規制が甘い。売春婦が一人で職業として選択している場合は基本的に合法のうちに入ることが多いようだ。それゆえ、ヨーロッパでの売春の問題は、彼女たちを支配する組織とその規制がまず問われる。売春の裏で操る組織が犯罪の温床になりうるからである。
 また、売春婦自身らによる自主組織の動向もある。売春という動労の権利と納税という点からも重視されてきているようだ。特にドイツでそうした意見が目立つ。今後、EUという形で欧州が統合がさらに進むと、売春規制も実質オランダ・モデルを志向ざるをえないのではないか。
 と、いうのが先進国における売春についての「民度」の高そうな意見といったところかな、とも思っていたのだが、日本の状況を考えると、多少ぶれる。
 日本の場合、敗戦の翌年1946年時点で、GHQ(連合軍総司令部)の指令という上からの直接権力で表向き公娼制度は廃止された。現実には、遊廓地帯と私娼街を特殊飲食店街の「女給」が自発的に行なう売春は黙認された。この背景にはGHQの都合もあるようだ。
 この時点ではまだまだ売春の撤廃にはほど遠く、特飲街指定地域は赤線地帯と呼ばれ、これに対し非指定の私娼街は青線地帯と呼ばれていた。赤線は1957年の売春防止法施行によって廃止された。ちなみに私は1957年の生まれなので、こうした歴史の後の人間だが、子供の頃には赤線・青線といった言葉がまだ生きていた空気を多少知っている。
 その後の日本は、と長い話になりそうなので端折るが、ようするに売春の規制対象となる本番を可能な限り迂回することで性風俗産業が発展し(警察との癒着の結果とも言える)、またかつての売春のニーズは一般社会の側に拡散された。かくして日本では売春の問題が消えたかのようにすら見える。
 だが、なくなったわけでもなく、日本では売春の実態把握がより複雑になっているだけだろう。いわゆる売春はすでに払拭したかに見える日本の性風俗産業だが、最近では対外的には、外国人をこのセクターで人身売買をさせている国のように見るむきもある。そうした視点も失当とはいえないのがなさけない。
 では、日本にもオランダ・モデルが適用されるべきかというと、普通の日本人の感覚としてはそう思えないということだろう。形式的に適用すると実質の対象は外国人だけになってしまうのではないかという懸念がふっと浮かぶ。問題はまさにこの「普通の日本人の感覚」にあるのだろうなとは思うが、どうモデルを建てて考えたらいいのかはよくわからない。

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2004.10.07

ケリー米大統領なら日本は…

 昨日の副大統領候補討論は互角ということだろうか。米国に対して外人である私などが見てもよくわからないが、直後のネット上のCNNの投票を見たら、チェイニーが18%、エドワードが78%ということで、前回の大統領候補討論でブッシュがコケ負けになったとの似た構図だった。しかし前回も世論が落ち着くとケリーやや優勢というくらいにはなったので、そうした補正みたいなものも今回もあるだろうとも思った。が、それを待たずに、ABCの調査では、チェイニーが43%、エドワーズが35%と逆点が出た。今回の討論ではかなり評価が分かれたということなのだろう。ということはだいたい引き分けと見ていい。
 副大統領のレベルでドローということは、事実上大統領選挙のレベルでは、当初優勢と見られていたブッシュもケリーとドローに近い状態にはなっているのだろう。
 アメリカの大統領選挙は仕組みが複雑なので、単純に有権者の総和として出てくるものではないが、それでもケリーが米大統領になるという目は出てきた。すると、所詮他国の大統領選挙とはいえ、また両者同じイェール大学のスカル・アンド・ボーンズ・メンという点で大差ないとはいえ、ここで大統領が交代となれば、日本にどういう影響が出るのだろうか。少し考えてもいい局面にはなった。
 ケリー大統領、つまり、民主党大統領、というとクリントン元大統領と同じだ。そう言われると、日本人にしてみると反射的に日本軽視政策や言いがかりのような対日訴訟の悪夢がよみがえる。あれがまたかよと思うと日本の実業界は萎えるものがある。
 こうした悪夢にいくつか反論もある。クリントンの日本軽視の政策や対日訴訟の傾向は後期には減っていたので、次回民主党政権になってもその新しいトレンドは変わらないだろうというのだ。そうかもしれない。どうせ下院の共和党優勢も変わらないだろうし。
 日本への影響はマクロ経済的な波及になるかもしれない。ケリー大統領候補は財政赤字の削減を目指しているのだが(参照)、そのためには米国内で結果的に増税策を取らざるをえないし、ブッシュ政権の特徴だった財政支出もピリオドになる。相当しょっぱい時代になってくる。米国内の需要は減るだろう。日本も為替操作で擬似的なリフレ政策などもできない。日本からの対米の輸出はへこむだろうし、同じようにな影響は中国にも出るだろう。
 ブッシュが再選したら大丈夫かというと、このまま財政赤字を膨大にしてその穴埋めにアジアから資金調達を続ければ、いずれどかんとドル暴落になる。だから、ケリーのほうがましじゃないかという理屈も成り立つ。
 短期的に見るならケリー大統領となると日本の不況も固定化するのではないだろうか。それはそれで悪いということでもない。景気がだらだらしていてくれると日本国内の金利も上がらないから、大盤振る舞いした国債の高騰のリスクが減る。
 外交・軍事という点では、ブッシュ対ケリーというと、日本ではイラク戦争の是非というあたりがわかりやすいので話題になりがちだが、外交・軍事の政策がなんであれ、財政がしょっぱくなれば米軍の動きは鈍くなる。足りない分は日本を含め諸外国から埋め合わせてくれ、というのを国際協調と呼ぶことになる(参照)。だが、そうしたしょっぱい状況での国際協調がうまくいくわけもない。
 国際危機についてはどうか。イランについては一線を越えるのをケリー大統領の米国はじっと耐えるのだろう。つまり、次回は米国内ネオコンではなくイスラエルがイランに向けて暴走するまで国際社会は待機だ。いや、それは考えすぎかもしれない。それでも、やんちゃ頭の米国がいなくなれば、スーダン危機などに国際社会はより腰が引けるだろう。いずれ日本には対岸の火事でもある。
 日本の隣国北朝鮮の核・ミサイル問題については、なぜだかケリー大統領候補は米国単独で取り組むらしい。韓国・中国・日本は外す。日本が外されれば、この問題も対岸の火事で済むことなる…わけもない。
 ブラックジョークを書いているみたいだ。ブッシュ再選ならまたブッシュかよと退屈だが、ケリーもそれなりに退屈な時代を作ってくれそうではある。

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2004.10.06

[書評]蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)

 「蘭に魅せられた男」(スーザン・オーリアン)の文庫版(ハヤカワ文庫NF・参照)が出ていた。最近の話ではなく、昨年に出ていたのを私が知らなかっただけなので、とほほ。でも、この手の本は文庫だと紹介しやすい。副題は「驚くべき蘭コレクターの世界」。蘭マニアの話だろうという推測は付く。アオリもこうある。


人々の心を捕らえてやまない花、蘭。中でもポリリザ・リンデニイは、幻の「幽霊蘭」と呼ばれ愛好家垂涎の的となっている。その虜となった野心家の男ジョン・ラロシュは、フロリダ州保護区から幽霊蘭を盗み出すことに成功。大量増殖し富と名声を手に入れようとしたが…コレクターの面妖な世界を巧みに織り混ぜ、蘭泥棒をめぐる類なき事件を描いた狂騒のルポルタージュ。

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蘭に魅せられた男
 だが、これはちょっと違うだろう。特殊な事件の真相を描くという趣旨の本ではない。ノンフィクションではあるが事実上の主人公ジョン・ラロシュは幽霊蘭だけにとりこになったというのでもない。この物語で幽霊蘭が重要なのはフロリダ州保護区とそこの原住民との関係の結び目にもなっているからだ。
 この作品は、蘭の物語というよりも、蘭を使った現代アメリカ社会のある深層を描いたものだ。特に、後半部分になると、作者の意図がより現代アメリカ社会に移ってくる。ラロシュがこの本の最後で蘭への関心を失い別業種に転じるのだが、これもそうした線からは当然だろう。
 少し長い引用になるが、その意図をよく表現している部分がある。

 たとえば幽霊ランが本当にただの幻想でも、毎年毎年それを追い求めて、人々に何マイルも難儀な旅をさせることができるほど、心を惑わせる幻想と言えるだろう。もし本物の花なら、この目で見るまで、何度でもフロリダに戻ってきたいと思う。といってもランを愛しているという理由からではなかった。ランはとりたてて好きな花ですらない。ただ、人々をこれほどまでに強い力で惹きつけるものを見たかったのだ。


こうした人々が植物を欲するほど激しく、わたしも何かを求めたかった。しかし、それはわたしの気質ではない。わたしの世代の人間は、我を忘れた熱狂を恥ずかしく感じ、過剰な情熱は洗練されていないと信じているのだろうと思う。ただし、わたしには恥ずかしいと感じない情熱がひとつだけある--何かに情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ。

 著者スーザン・オーリアンは1955年生まれ。1957年の生まれの私は同世代だ。日米差はあるにせよ同世代の人間としてこの感覚はとてもよくわかる。おそらくそうした感覚は、私の世代だけではなく、私の世代以降にとって、ごく当たり前過ぎる基本的な世界の感覚だろう。私たちの上の世代のロックの大御所たちが老齢となってもその下の世代に続かないのはロックというのがなんかださくてやってらんないという感覚でもある。そしてそれに続く様々なスタイルもすべて時間とともにださくてたまんねーと言わざるをえない強迫に変奏される。そこには、情熱にのめり込むことができないことのバリエーションだけがある。それをスキッツォ(統合失調)と呼ぶにせよ、インテンシティ(強度)と呼ぶにせよ、永続する情熱こそが開示すると期待される生の充実は最初から失われている。だが、擬似的に知的であることのゲームにもやがて疲れてくる。
 そうした状況に向けて主人公ラロシュはさらっとこう言ってのける。それはただある確信だけを伝えている。

「つまりね、何かを、何でもいい、そいつを見ると、心の中でこう思わずにいられないんだ、やあ、たまげた、今度はこいつがおもしろそうだ! 意外に思うかもしれないけどさ、賭けてもいいが、世の中にはそういうものがどっさりあるんだよ」

 蘭はそうしたものの象徴として現れている。しかし、世の中に本当にそういうものがどっさりあるのだろうか。たぶん、そうした問いがずっと私たちに投げかけられている。
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アダプテーション
 そういえばこの本を原作とした映画がある。私は見ていないのだが「マルコヴィッチの穴」の監督・脚本スパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマンによる「アダプテーション」だ。アカデミー賞も受賞した。原作を素直に映画化したものではなく、一種のメタ映画のようになっている。著者スーザン・オーリアンにメリル・ストリープが扮し、さらにパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマン自身のカリカチャ(戯画)も出てくる。どたばたのようでいながら、映画の口上などを見るに、原作の意図する現代アメリカ社会のありさまが映画の手法で鮮明に描かれているようだ。つまり、蘭の物語というのはここではきちんと暗喩となっている。タイトル「アダプテーション」にも、脚色と現実適応のダブルの意味があるのだろう。と、やっぱこっちの映画も見ておくか。ま、見たら、なんか書きます。
 もちろん原作の書籍を、蘭に取り憑かれた人の物語として読んで悪いわけでもない。蘭についての歴史的な知識や博物学的な知識も満載。それだけでも楽しい。原題"The Orchid Thief"は、狂言花盗人のような含みもあるのだろう。さて、このころは蘭のもとにて縄つきぬ見果てぬ想いと人やいふらん、と。
 ところで、本書には作者の意図があってかどうかわからないが、蘭と人間の性的な幻想についてほのめかすコメントが散在していて気になる。たとえば、これだ。

人々がランに対して抱いている感情は、科学ではとうてい説明できない。ランは人々を狂気に駆り立てるようだ。ランを愛好する人々は熱狂的にランを愛する。ランはロマンスよりも情熱をかきたてる。ランは地上でもっともセクシーな花なのである。

 著者はその内実にまでは踏み込んでいない。なぜだろうか。私の個人的な印象だが、著者は蘭の存在そのものが性的に恐いのだろう。もちろん、恐いという言い方はあまりに拙いのだが、そんな感じだ。
 最後に蘭という花について少し。本書でも触れられているが、蘭の栽培技術は現代では格段に進んだ。特に台湾にめざましいものがある。先日ニューヨークタイムズに蘭産業の記事"Orchids Flourish on Taiwanese Production Line"(参照)があったが、蘭の産業は全世界では20億ドル、とすると、2兆円規模らしい。けっこうすごい。そういえば、台北の郊外の蒋介石邸近くの蘭園を見学したことがある。たくさんの蘭が並べられていたのは、交配のためだったのだろうなと本書を読んだとき思い出した。

追記(2005.6.5)
映画「アダプテーション」を今頃DVDで見た。面白かった。悪い冗談をここまでやるかという感じもしたが、ある種の米国インテリ達の内面の空虚感や苦しみみたいなもの、それと、世界のもつ誘惑性とでもいったものがうまく表現されていた。蘭に暗喩されているリアルなものへ渇望、脚本家のこだわりであるストリーとして理解される世界への疑念、そうしたものから人間の意志と意志を越えるなにか(愛ということ)を求めているのだろう、そういう言葉だとちょっとつたないが。あと、意外といっては失礼だが、映像のつくりがとてもきれいにできていた。

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2004.10.05

台北・新北投に残る日本風温泉

 台湾・台北に都市交通MRT(Mass Rapid Transit System)が出来る数年ほど前だったが、台北の郊外(台北市北投区)新北投(しんぺいとう)の温泉宿「星之湯」(逸頓大飯店)に泊まった。日本統治時代の温泉地の名残を残す高級温泉旅館だ。文人とか政治家が似合う日本風家屋なので、伊豆や熱海の小さな旅館にでもいるような気分になる。それでも、台湾人はすっぽんぽんで共同浴場に入るという風習を好まないせいもあり、現在では各部屋に温泉を引いた小さなユニットバスも付いているようだった。私は日本人なのでいかにも温泉という風情の浴場のほうを好んだので、客室のバスは見っこなしだった。浴場の泉質はラジウム泉だと言われている。分類では放射能泉というのだろうか、いかめしいがもちろん無害だ。
 星之湯から木立の道を少し歩くと、沖縄より南方にあるのにここはまるで日本みたいだなと思いつつ、源泉の地獄谷(地熱谷)に出る。硫黄の臭いもする。足湯をする人もいる。台北均衡の行楽地らしくちょっとした人出もある。温泉たまご作りは危険だということで禁止になったらしい。
 私は地獄谷の屋台のようなところで軽食をした。店員の若い女性から日本から来たのですかと問われた。少したどたどしい日本語だった。彼女も日本にいたことがあるらしく、懐かしげに日本についての雑談などを少しした。哈日族(ハーリーズー・参照)という感じではなかった。

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衛慧
上海ベイビー
 地獄谷の反対の坂道を少しいくと茶芸館「禪園」がある。ここも日本統治時代に建設された和風建築で当時は政府高官が集まる新高旅社だった。ここは見渡しもよく庭の風情もよい。日本人の感じとしては大正時代のレトロといった雰囲気で和む。こうした趣向を台湾人や中国人は、しかし、和風というより、国際的な唐代の印象を持つようだ。衛慧(Wei Hu)だったか、来日していたとき、日本の文化のなかにそういう臭いを嗅ぎ取っていた。未読だが彼女の「我的禅(ブッダと結婚)」(参照)もそういう思いがあるのだろうか。
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中国茶と茶館の旅
 禪園の茶はもちろん台湾茶である。いくつか選べた。故旧の四階にある茶館とは違い、当時改良種として定評を得てきた金宣茶もあった。乳香は自然で着香ではない。私の他に客は、ドライブで来ているのか若い台湾のカップルが数組いた。
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中国茶と茶館の旅
 禪園については旧版の「中国茶と茶館の旅」(平野久美子)に写真付きでの紹介があったなと思い出す。新版「中国茶と茶館の旅」はどうだろうか。その後、禪園はモダンなレストランになった。もっとも翡翠軒として茶芸館も隣接しているらしい。
 禪園に行く途中の坂道には当時コンクリート建築の大きな旅館の廃墟がいくつかあった。今ではもう取り壊されているのだろうか。こうした建物がそうなのかわからないが、北投温泉の往時の売春のことを思った。日本統治が終わり、大陸から侵攻した中華民国政府はここを公娼の歓楽街としていた。その後、蒋経国の時代に表向きは公娼制度は廃止となり、現在の総統陳水扁(台湾大統領)が台北市長の時代に新北投の置屋も撤廃された。
 新北投には、変わるものがあり、変わらないものもある。星之湯の旅館の界隈では金木犀がよく香っていた。それは今でも変わっていないのだろうと、双十節も近いこの季節に思う。

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2004.10.04

"&"(アンパサンド)の正しい書き順

 「はてな」(参照)に寄せられていたアンパサンド(&という記号)についての質問が面白かった。"&(アンパサンド)"の正しい書き順を教えてほしい、というのだ(参照)。


&の書き順を教えて下さい。正確に知りたいので、それを証明するサイトも添えて紹介して下さい。ただ単に個人的な意見はご遠慮下さい。

figure まいったな、全然わからない。この記号は私も日常使っているし、ちょっとしたプログラムコードのメモ書きとかでも使うのだが、その正しい書き順は?と言われるとまるでわからない。こういうのは本当に困った。どきっとする。私は小学生のころ、数字の"5"を上の横棒から先に書いて、それから下の丸みを書いていた。「ら」の要領である。中学生のときに気が付いてなおした。
 この質問に寄せられた回答はいくつかあるが率直に言って正答というには遠い。というか、回答のなかにも意見としてあるのだが、正しい筆順はたぶん存在しないのかもしれない。私もそう思う。それにはいくつか理由もある。
 一つには、私の経験だが、大学のころ同級生や教員に米人が多かったのだが、彼らのノートや板書を見て呆れたものだ。こいつら英語の大文字と小文字の違いを知らないんじゃないか?というレベルなのである。チャーリー・ブラウンの漫画でライナス・シュローダーがカボチャ大王に手紙を書いているののほうがはるかにまし。おまえって本当にプリンストンのマスター持ってんのか、とか訊きたくなったが、やめた。気にしてないようだし。ついでに言うと、米人はけっこうスペリングもめちゃくちゃ。筆記体なんて書けるヤツはまずいない。でも、悪貨は良貨を駆逐する。気が付くと、私も似たようなことになっていた。ひどい手書きだ。さらに悪いことに私は大学でギリシア語を勉強していたのであの文字の癖まで英語に出てきた。米人並の悪筆になった。正しい筆順なんか関係ないの世界だ。
 もう一つの理由は後回しにする。のだが、関連してこういうアンケート質問が出された(参照)。これも面白い。結果も添えておく。

あなたの“&”の書き順を教えて下さい。
 ・左上がり直線→逆S字カーブ 135
 ・逆S字カーブ→右下がり直線 53
 ・それ以外 12

figure ちなみに私もちょっと書いてみると多数のほうだ。身近のものに書かせてみたら、これも同じ。なぜそう書くかと訊いてみたら、そのほうがバランスとりやすいとのこと。そうか?
 先の質問に戻る。私は考えたのだ。手書きの正書法について、直接はわからないが、推理すればなんとかわかるのではないか? それには"&"という記号の意味と成立史がヒントになるに違いない、と。そもそも、なんで"&"という形なのか? 知ってますか?
 "&"の形状の理由は、この質問の回答にもあるが、「eとt」が元になっている。フランス語の接続詞"et"と同じ。つまり、これには英語の"and"の意味がある。"et"の元はラテン語。この二字が。どう"&"の形状の元になっているかは後で説明するとして、この回答には、カリグラフィーのサイトが紹介されていて興味深い。"セルティックハーフアンシャル2(celtic half-uncial2)"(参照)である。
 最近ではやらなくなったが、私もカリグラフィーの専用のペン(たしかstemと言うのだが辞書にはこの言葉はないみたいだ)を持っていた。インクもわざわざ古文書っぽくこげ茶色を選んで使った。で、アンパサンド記号のカリグラフィーなのだが、見るとわかるように、単に「eとt」を単純に組み合わせている。"&"の形状の書き順の参考にはならない。
figure それにしても、この「eとt」を組み合わせの形状と"&"の形状には、随分形状に開きがある。どうしたことか。
 ここまで見てきた"&"であるローマン・アンパサンドの他に、もう一つのアンパサンド、イタリック・アンパサンドがあるのだが、こちらは先のカリグラフィーのように、EとTの組み合わせであることがわかる。するとたぶん、ローマン・アンパサンドの形状のほうも基本はEとTには違いないのだろう。なお、英語のフォントセットにはローマンではなくこちらのイタリックが含まれているのもある。
figure 問題はローマン・アンパサンドの形状がどのように「eとt」に由来するかなのだが、これは、このようだ。単純に図解したほうがいいだろう。というわけで、eとtとで色分けした参考の図解を見てほしい。つまり、こういうこと。あるいはちょっとこの色分けは誤解もあるかもしれない。というのも、tについては、ここでTのように見える部分はセリフ(うろこ)によるものかもしれない。だとするとtの形状は交差部分を指すのかもしれない。いずれにせよ、ローマン・アンパサンドの形状の由来はこういうことだろう。
 問題はここからだ。これでローマン・アンパサンドの仕組みがわかったのだから、ここから手書きの正書法が類推できないか。単純な話、「左上がり直線→逆S字カーブ」でいいのか?
figure ここで行き詰まる。色分け図を見るとわかるが、この記号を「eとt」筆順を考慮した組み合わせとして描けというなら、一筋書きはできないのだ。色分け分岐地点で、eに向かう方向とtに向かう方向が逆になるからだ。
 これは矛盾。よって、背理法的に、「eとt」の組み合わせからは"&"の手書きの正書法は推察できない。というと、なーんだ、というオチになってしまった。あとは、一般的な手書きの正書法からこの形状を描く場合の合理性を類推するだけなのだが、どうもその類推の根拠は弱いみたいだ。デッドエンド。標題はウソです。ごめん。
figure ところで、この質問の回答や追記「いわし」にも言及があるのだが、実は、プログラマーは別として、普通の英米人は"&"の形状を使わない。じゃなにを使うかというと、これがまた変な形状を使う。私も使うのだが、「す」みたいのがあるのだ。なんでこれがアンパサンドなんだよとぼやきたくもなるが、どうもこれは「+(プラス記号)」のようだ。
figure もう一つは「3」の左右逆向きに縦棒を引くアレだ。アレとか言ってしまったが、こちらはPalmなんかの手書き入力のときによく使う。こちらのほうは、それなりに「eとt」の組み合わせだというのが理解しやすい。
 ということで、学生諸君わかったかな?とか言いそうになるが、こうしたことはあまり教えてもらえないのではないか。米人とかに訊いてもわけわかんない答えになりそうだしね。
 ついでに、この記号をなぜ「アンパサンド」と呼ぶかなのだが、これは、"and per se and"から来ている。"per se"という熟語は大学受験生とかも覚えておいたほうがいいだろう。「それ自体は」という意味だ。もとはラテン語だ。語形からは英語だと"for itself"に近いようだが、意味的には"by itself"ということになる。発音は「ぱーすぃー」。例文を添えておくと、"Winny isn't evil per se."「Winny自体が悪いんじゃない」。含みは、「表面的にはWinnyが悪いように見えるのだが、その本質から考えれば悪いとは言えない」ということ。
 アンパサンド(ampersand)の語源"and per se and"は、「andといってもつまりandそれ自体」ということ。含みとしては、AとNとDの略語とかじゃないということ。「"&"はだからぁANDなんだよぉ」ということでもある。
 ところで、手書きの正書法なんてパソコンが普及した現代ではどうでもいいようだが、今回の"&"の筆順の疑問でも思うのだが、これらは活字の文化の派生だ。つまり、活字側から手書きの正書法を類推したくなってしまうという傾向が現代にはある。これは困ったことかなと私は思う。
 現在初等教育で教えているのか気になるのだが、「くにがまえ」と、構えではない「口(くち)」とは手書きの正書法では形状が違う。ところがこれは康煕字典ですら明朝体という版組の文字を使っているため、わからない。この違いを知っていてもどってことない些細なことのようだが、歴史・文化を愛することに僅かだが関わっているようにも思うのだ。

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2004.10.03

中国の将来を悲観的に見る

 G7(先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議)に中国がゲストとして招かれた。今や中国が世界経済の主役と言ってもいいくらいだから当然だろう。原油高の背景には、中国の石油需要の増大があるし、依然人民元の取り上げと変動相場制移行は国際経済にとって問題のままだ。
 しかし、人民元については、本当にそれが問題なのか、とあらためて問うと、G7の本音も単純ではないだろう。産経新聞「中国、発言権確保へ力点」(参照)がわかりやすい。


 中国が急成長の半面で抱える諸問題の解決を目指し、投資抑制などの過熱対策を講じていることは、中国市場への依存度を深める世界経済にとっても歓迎されており、中国経済を失速させかねない「急激な為替変動」は、多くの国は望んでいないことを中国は熟知している。

 とりあえず、それはそうだろうなと思う。そして、ふと先日の極東ブログ「胡錦濤政権はたぶん国内格差を深めるだけだろう」(参照)で中国を「新重商主義」と書いたのは勇み足だったかなと反省した。そのあたりと、ちょっと余興めくが、中国の将来への悲観論を書いてみたい。
 そんなことは当たり前じゃないかと失笑する向きもあるだろうが、反省点は、中国の現状を見るに、中国経済を日本や韓国のように重商主義(保護貿易主義の立場に立って輸出産業を育成し貿易差額によって資本を蓄積しようとする)だ、とは言えないかもな、ということ。
 念頭にあったのは「論座」10月号フォーリン・アフェアーズの抄訳エッセイ「『中国経済の奇跡』という虚構 --政治政策なくして、近代化は実現しない ジョージ・ギルボーイ」だ。抄訳のせいかのなか論の展開に理解しかねる部分もあるのだが、それでも大筋では間違っていないのだろう。気になったのは、中国の輸出を行なっている企業の大半は外資系だという指摘だ。
 と、それだけなら、ふーん、と言うくらいものだが、コンピューターパーツ、周辺機器に限定すると外資企業が75%、外資合弁企業が15%、外資による共同生産2%…とこれだけで92%になる。そして国営企業が6%。残りはもうほとんどない。え、それって何よ?である。電子・テレコミュニケーション機器や工業用機械も似たような構成だ。単純に言えば、中国に本来の意味で自国の企業というものがまるでない。
 全産業の状態はわからないので、部門によっては重商主義的に見える部分も少なからずあるかと思うのだが、総じて言うなら、この構成は重商主義的な施策の結果とは言い難い。当然、この状況では人民元の為替レートによる利益は結果的に外資にも還元されていることになる。
 これも当たり前のようだが中国は輸入面でも巨大だ。その意味は、米国にとっておいしい市場だということ。

 日本や韓国のように、アメリカからの製品や投資の受け入れに前向きでなかったアジアの貿易国とは違って、中国はアメリカの製品を受け入れる巨大市場なのだ。

 だから、中国は穀物や肉なども輸入してしまう。もちろん、それが単純に悪いと言うのではさらさらない。単なる比較優位の問題もある。
 中国は相手国ごとに見ると貿易赤字もあるのだが、その実態については、少し驚いた。特に台湾が突出しているし、韓国は日本との国力比で見るとバランスが悪いように思える。

〇三年度の対米貿易黒字は千二百四十ド億ドルに達しているが、一方で中国は他の諸国との間で貿易赤字も抱えている。日本に百五十億ドル、韓国に二百三十億ドル、台湾に四百億ドル、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国に百六十億ドルという具合だ。

 中国が貿易赤字を抱えていること自体はふーんという程度のことだが、台湾と韓国への赤字額は考えさせられる。比較的に少ない日本については、中国の反日政策っていうのは大陸人ならでは温情だったのかもしれないな。
 それにしても、この輸出・輸入の状況を見て、いったいこれは一国の経済と呼べるものなんだろうかという愚問も起きる。普通国民国家はこんなことはしないだろう。というか、これって、単に米国の帝国主義侵略の成果なんじゃないか、というのは、帝国主義とはマルクス主義経済学的には地政学的な意味ではなく国際間取引(資本輸出)の問題だからだ。ま、そんなこともどうでもいいな。
 論旨の繰り返しになるが、ようするに中国の経済は産業・輸出の部門では外資と国有企業しかない(軍系が多いのではないか)。
 「『中国経済の奇跡』という虚構」ではこの他に、中国では研究開発投資が少ないことや短期利益が目標とされていることなども指摘しているのだが…私はここで書架を覗く。あった。
 「妻も敵なり―中国人の本能と情念」(岡田英弘)である。なお、この改訂廉価版「この厄介な国、中国 ワック文庫」も同じ。香港経済に対する北京の関わりについて、著者岡田英弘はこう言及していることを思い出した。

 といっても、行政機関を通じて直接的な収奪が行なわれるわけではない。おそらく、資本参加をするといった間接的な方法で利潤を吸い上げることになるだろう。合弁企業をたくさん作らせ、香港人や外国人を働かせて稼がせ、儲かったら税金を重くしてもっと吸い上げ、儲からなかったら没収するというやりかたである。
 この仕組みは、中国人が最も得意とするものである。なぜなら、秦の始皇帝以来の中国の支配者は、こうして莫大な富を吸い上げてきたからである。
 ことは香港だけに限った話ではない。中国全土で行なわれている「経済の近代化」は、過去の皇帝システムの焼直しでしかない。つまり、上海や杭州といった各都市で産業を活性化し、そこから上がった利潤を吸収し、皆で金儲けしようというのが「開放経済」の意味なのである。

 岡田はそして、このシステムは頓挫するだろうと話を続けている。1997年のことだ。それから、7年が過ぎた。未だ頓挫していない。岡田の予言は外れたかに見える。
 いや早晩に当たっていたほうがまだましだったのではないだろうかなと私はさらに悲観的に思う。

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2004.10.02

コーヒー中毒ってマジ(医学的根拠有り)みたいですよ

 習慣となっているコーヒーを止めると禁断症状がでるみたいだよ、という話を先日書いた。極東ブログ「あなたは三日間コーヒー断ちができますか?」(参照)である。そのエントリでは、でもこういうのは経験的なもので医学的な根拠はないんだけどね、という但し書きは入れておいた。
 ところがである。出てきたのである。マジでコーヒー中毒っていうのは有りだという研究が出てきた。しかも、やっぱし、コーヒー一杯で起きる。
 ニュースはロイターなどでも報道されたが、CBSあたりの話がわかりやすいかもしれない。ずばり、"Caffeine Withdrawal Is Real(カフェイン禁断症はマジだせ)"(参照)である。


Researchers are saying that caffeine withdrawal should now be classified as a psychiatric disorder.
【試訳】
研究者の発表によると、(朝一杯のコーヒーを飲まないことによる)カフェイン禁断症状は今や精神疾患と見なされるべきだ。

 そ、そこまで言う? 言うみたいだ。次もすごいよ。

Researchers are suggesting that caffeine withdrawal should be included in the next edition of the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM), considered the bible of mental disorders.
【試訳】
この研究者たちは、カフェイン禁断症は、精神疾患についてのバイブルともいえる精神障害診断統計便覧(DSM-IV)に記載されるべきだと主張している。

 極東ブログおなじみのDMS-IVではないですか。うひゃ、DMS-IVがますます面白くなってまいりました、っていう感じですね。と、ちょいとふざけしまうのは、それほど大きな精神疾患というわけではないからだ。追記:正確にはDSM-IV-TR。
 それでも冗談ではない。この研究はちゃんと、Psychopharmacology誌の10月号に掲載されるそうだ(まだ同サイトには概要掲載はなかったようだ)。研究者は、ホスキンズ医大の精神・神経科に所属するグリフィス博士(Griffiths, PhD)らだ。手法は一種のメタアナリシスのようだ。
 というわけで、来るべきDSM-IVを先取りすると、いやいやあくまで提案段階らしいが、コーヒー断ちで12時間から24時間後に、次の症状が出るらしい。そして、この症状は2日ほど続く。ワイル博士が言っていたのとほぼ同じ。いや、今回の発表ではコーヒーのカフェインに限定されてはいない。チョコレートやコーラ、日本茶も含まれる。

  • ありがちな禁断症状として50%の人に頭痛が起きる。
  • 疲れて眠くなる。
  • 不幸感、憂鬱、イライラが起きる。
  • 集中力欠如になる。
  • 風邪のときのようなむかつき、吐き気、筋肉痛、肩こりが起きる。

 それって鬱なゴージャスとまでは言えないけど、マイルドに人間やめたくなります系の禁断症状は出そうだ、なんて洒落はいけない。8人に1人はかなり深刻なことになる可能性もあるらしい。
 というわけで、ある程度、コーヒー中毒に医学的な根拠も出てわけだが、じゃ、コーヒーを止めたほうが健康にいいのかというと、今回の研究ではそこまでは言えないようだ。DSM-IV編纂に関わっているヒューズ博士は、この結果を見て、ある種の頭痛や不快症状の原因がカフェイン禁断症として起こることもあるのでしょうな、と、その程度のコメントをしている。さすが医者は不健康に強い。
 ついでにこの記事で知ったのだが、アメリカ人は平均で一日280mgのカフェインを取っているらしい。アメリカサイズのコーヒーマグで二杯分。コーラなどソフトドリンクで3杯から5杯分。おい、それってカフェイン取り過ぎ以前に、蔗糖や異性化糖取りすぎだ。それじゃ太る。極東ブログ「異性化糖でデブになる?」(参照)も読んでくれ。

【追記(2004.10.02)】
 今回の研究は、Caffeine Withdrawal(カフェイン禁断症)なので、 現行DSM-IV "305.90 Caffeine Intoxication"(カフェイン中毒)、つまり、過剰摂取による中毒症とは異なる。
 加えて、ヒューズ博士のコメント部分を引用する。


"Caffeine withdrawal was proposed for DSM-IV [the current edition of DSM], but the major objection to including it as a disorder was an absence of good data showing clinical significance," says Hughes, who was not involved in Griffiths' study. "Not only do you have to show it produces symptoms, but you have to show that those symptoms can interfere with daily function."

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2004.10.01

中国のアフリカ資源攻勢

 このところ、ダルフール危機への関心もあって(参照)、アフリカ状勢に関心を持つようになった。なかでもVOA(アメリカの声:Voice of America:参照)にわかりやすいニュースが多いので日々ざっと目を通す。VOAはアメリカ主義のプロパガンダという側面もあるのだろうとも思うが、読み慣れていくとこの分野にも興味が深まるものだ。29日には中国とアフリカの関わりについて、気になる二本の記事があった。どちらも中国の石油戦略に関係している。簡単に触れておきたい。
 一つは"China's New African Oil Ties Create Concerns(中国のアフリカ原油についての提携は関心を呼び起こす)"(参照)という記事なのだが、まず記事そのものよりAP提供の写真が目につく。胡錦濤とガボンのオマル・ボンゴ大統領が握手をしている。2004年2月4日のことらしい。なんだこれ、と思って国内ニュースを見ると読売新聞"中国・胡主席が中東など歴訪へ"(2004.01.27)という記事があった。


 中国の胡錦濤国家主席は26日、フランス、エジプト、ガボン、アルジェリアの4か国歴訪に出発した。国家主席就任後初の中東訪問で、イラク戦争後の国際関係の中で、アラブ重視姿勢を強く打ち出し、将来のエネルギー確保に向けた資源外交を展開する構えだ。

 日本では「中東など歴訪」「アラブ重視」としているのだが、フランスを除けば、これらの国はアフリカである。また、エジプトを除くとガボンとアルジェリアの宗主国はフランスだった。このニュースの続報は見あたらないのだが、イラク戦争という文脈より、これはフランスの息のかかるアフリカ関連の問題だったのではなかっただろうか。
 VOA"China's New African Oil Ties Create Concerns"を読むと、お返しにガボンのボンゴ大統領が中国を訪問し、その際、彼は"military honors"で迎えられている。"military honors"といっても軍葬のわけはない。よくわかんねーな、であるが、特に中国がなぜかガボンに力を入れていることだけはわかる。
 というあたり、ガボンで奇妙な連想が浮かんだ。ガボンと言えば、向こう一年間の国連総会の議長国ではないか…。というあたりでちょっと気になってニュースを見ると、これってどうよ、という感じがした。朝日新聞「安保理改革で国連総会議長が『平和と開発を忘れずに』」(参照)だ。

 第59回国連総会のジャン・ピン議長(西アフリカ・ガボン外相)は22日、朝日新聞記者と会見し、日本が求める安全保障理事会の改革・拡大は支持しつつも、「目的はあくまで平和と開発の達成。改革はその手段に過ぎない」と本末転倒になりかねないことを戒めた。

 あくまでゲスの勘ぐりで言うのだが、これって中国・ガボン・朝日新聞のマッチポンプでねーのか? ま、国連議長国をロビー的に籠絡しているとまでは言わないのだが、中国のアフリカに対するロビー活動には日本はもっと注意すべきなんじゃないのかとは思う。
 VOA"China's New African Oil Ties Create Concerns"に話を戻す。記事は単純に反中国ということではない。当たり前といえば当たり前だが、中国の対アフリカ攻勢は冷戦的な政治イデオロギーの枠で考えず、中国の原油需要という経済面でまず考えようとしている態度が伺える。また、記事では中国のアフリカへの肩入れを、欧米型より好ましいと見ているアフリカ政府筋の印象も描いている。
 が、メインの部分では、アナリストなどの言葉を引いて中国への批判を展開している。

"The Chinese are much more prone to do business in a way that today Europeans and Americans do not accept - paying bribes and all kinds of bonuses under the table," he said. "These are things that have been rampant throughout Africa, particularly in Nigeria, Angola and Equatorial Guinea and to a certain extent Chad and Gabon. I think that it will be much easier for those countries to work with Chinese companies rather than American and European companies that are becoming more and more restricted by this 'publish what you pay' initiative and others calling for better transparency."

 単純にいうと中国筋は賄賂を使っているということでもある。私の印象ではたぶん本当なのだろうと思う、というか、ただ中国国内のやり方を延長しているだけなのだろう。こうしたことが本当ならそれだけでも問題といえば問題だが、些末なことだとも言える。中国の投資が直接アフリカ諸国の政府に向いてしまうことのほうが問題だろう。

But other analysts, such as Thalia Griffiths from the London-based Africa Confidential newsletter, fear doing business with China will make African governments more corrupt. She says China is paying with large sums of advanced credit or loans for infrastructure development, making it more difficult to ensure that oil revenues benefit the people of the countries that produce the oil.

 中国がアフリカ各国の政府に貸し付けをしてその返済に原油が充てられるという構図だ。言うまでもないがこの構図は欧米が批判できるものではない。が、それでいいわけでもない。また、日本からの中国援助が直接的ではないにせよ、余剰として結果的にこういうところに流用されているのも気持ちのいいものではない。
 それでも敢えて言えば、誰がアフリカ原油にどのように関わって投資しようと、原油が商品として国際市場に回されるなら、日本の国益にはまるで問題ない。逆に言えば、そうではない傾向があるかもしれないこと、つまり、市場を迂回した原油の流通がありうるなら、日本の死活問題となる。
 もう一点のニュース"China Looks to Southern Africa for Resources(中国は南方アフリカの資源に着目している)"(参照)では、中国が現在石油を含め鉱物資源を求めて南方アフリカに攻勢をかけているようすをさらっと描いている。こちらは中国自体の問題を扱っているわけではないのだが、次のようなアフリカ研修者からの指摘にちょっとはっとする。

"Industrializing economies such as the Chinese economy, the Indian economy which are huge consumers of steel for example, of steel products, ferroalloys and the like, depend to a significant extent on getting these inputs from South Africa, ferrochrome, ferromanganese, ferronickel, as well as iron ore, as well as other precious and near precious metals," he says.

 中国と限らずインドも鉄資源などを求めてアフリカに攻勢をかけるようになるのだろう。
 ふと、華僑と印僑という言葉が頭をよぎるが、このタフな商人がたちがレベルアップしてくるのだろうか。国家レベルではまた違った様相になるだろうか。
 印僑の活動はアフリカの歴史と深く関わっている。その分、インドがそうした人的なチャネルを国家の経済活動に利用しないわけもないだろうと思う。
 中国やインドの対アフリカ資源を目指した活動は今後さらに活発になるだろうが、華僑・印僑といった商取引ではなく、そこには国家レベルの開発事業が関係している。当然プラント技術なども深く関わってくるはずだ。とすると、この動向はそう遠くなく日本にとっても向こう岸の風景ではなくなってくるだろう。

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