吉本隆明についてこのブログで書くのは、このブログが続くなら、あと一回ということになるのだろうかとも思っていたが、意外にもと言っては失礼だが、「超恋愛論」(参照)が面白かったのでネタにしてみる。標題はこーゆーのやめとけ系だが、編集はよく出来ていた。対談すると何を言ってんのかわからん吉本翁の言葉なのだがかなりくっきりしている。もっとも、漱石を語る当たりで少しボケてしまったのは、編集者の力量が問われるところか。
気になったのは、この本、吉本隆明だのといった面倒くさい前提をいっさい抜きにして、ある過激な恋愛をした爺ぃの話として読めるだろうか?ということだ。そう読まれるべきだろうと思うのだが、そこが、
岩月謙司先生なみにトンデモ本となってしまうのか。
吉本隆明の思考の癖みたいのがわかるともっとわかりやすいのだが…というあたりで適当に恋愛論的にざらっと書いてみたい。
恋愛について、爺さんがまず頑固に言っているのは、もてるもてないっていう話はどうでもいいというあたりだ。ライブドアの社長さんなんかを気にする人が多い昨今、こうした頑固話が通じるのか。
ただ単に、たくさんの異性にちやほやされるとか、出会いのチャンスが多いとか、そんなのは本質的に恋愛となんの関係もありません。
つまり、いわゆる「もてる」「もたない」みたいなものは、恋愛において意味がない。
恋愛というのは、男女がある精神的な距離の圏内に入ったときに、始めて起こる出来事です。最初にぼくが精神的距離感を問題にしたのも、そういうことです。
その距離の圏内に入ってしまうと、相手に対する世間的な価値判断は、どうでもよくなる。
「精神的な距離の圏内」ってなんやねん?みたいだが、簡単に言えば、「あいつは見知らぬ他人じゃないよな」っていう感じだろうか。例えば、新潟で地震があったとき、あいつ新潟出身だけどどうしてるかな、と気になるような、その気になり具合が翁のいう距離ということだ。だから、男女の場合でも、ある種の好悪の感じが前提になるのだろう。
じゃ、恋愛ってどうよだが、こうだ。
細胞と細胞が呼び合うような、遺伝子と遺伝子が似ているような--そんな感覚だけを頼りにして男女がむすばれ合うのが恋愛というものです。
どっひゃである。動物学的には遺伝子と遺伝子が似ているのを避けるのがメイティングのシステムだよねというツッコミは、なしよ、としても、細胞レベルで遺伝子レベルで引き合うような実感があるのが恋愛だと翁は言うのである。ほんとかね?
これが、ほんとなのだ、というその「本当」が人生のなかで確信できるかどうかが、まさに人生における恋愛が問われているところで、この「本当」のありかたが非常に難しい。
ぶっちゃけ、誰でも「私って恋愛中」みたいなとき、実は計算というか打算というかがある。これならイケルみたいな。あるいはそんなのないとしても、「いつまでもつかな計算」とかがあったりする。
ということは、この計算がない理想状態ってどうなのだろう。真空状態で物体を落下させたら羽でもパチンコ玉でも同速度で落下するみたいなことだ。自分のなかに恋愛の本当の姿が予感されているとき、どこまでそれを本当だと信じるか?
吉本の発想はこの理想状態と、それを阻みうる社会歴史文化制度という二元論からできている。
つまり、吉本的には(ってお笑いじゃないが)、私たちの実社会における恋愛の現象を考えるとき、その理想形態の側から社会を相対化しようという意図がある。
そんな枠組み自体が間違ってんじゃないのか、という議論もありうるのだが、問題は、むしろ、恋愛に付きまとう、計算感や妥協感ってなんだろ?というあたりだ。
社会側のパラメーターをうんと高くして、あるのは恋愛の現象だけ(「本当の恋愛なんてない!」)とすれば、ライブドア社長の言うように、いい女は金についてくるぞがはは、となる。
あるいは、「不美人論」(藤野美奈子、西研対談)(
参照)みたいにブス意識を知的な問題にするのはもうやめて、それなりに相応のオシャレでもしたら、というようになる。
で、吉本の問いかけに戻るのだが、問題は、その逆があるのか? つまり現在の社会を基準にそれって現実だよね、おしまい、ではないありかたというのはアリ? つまり、私たちは本当の恋愛を想像しつつ恋愛しているのか?
ここで実際的に重要なのは、吉本の考えの枠組みでは、「精神的な距離」というのと、「細胞が引き合う体感」だが、それらが仮に虚構だとしても、そうした虚構にどこまで人生賭けられんのかよ、ということだ。つまり、精神的な距離を目安に、細胞が引き合うような異性を探し当てることはできるのかね?
「電車男」…違うって。
残念ながらまるで答えはわかんないのだが、人生終局近くなった吉本翁が言うのだから、それなりのすごみはあるかもねである。
それと、吉本読みの私からすると、自分の主張や好みといったものが手薄のときに、そうした本当の恋愛に、不意に襲われるというものだろうかとも思う。そして、それは、その人の全てを奪っていくと思う。ま、そう思う。絵として描けば、駆け落ちってやつだな。
現代の恋愛の多くは、失いたくない自分というものの延長に、他者としてのパートナーの個性を調和するというふうに、自分というものと他者の関わりが積極的に問われる。
だが、恋愛というのは、その逆としてあるのが本質なのかもしれない。そして、その逆さ加減が、「細胞」というか身体性を開いていくっていうか緩めていくことにつながるのだろう。下品に言うと、本当の恋愛でなければ細胞というか身体は性的な開花はしないのだろう、と。
ただ、身体が社会的に性的に開花するということはありえるかもしれない。つまり、社会のなかで人の存在が性的なあり方として可換であっても(あっちの女/男でなくてもこっちの女/男でも可とか)、そこから性的な快楽を得られるというような。というか、現代はそっちに向かっているようにも思う。下品に言うと、性的にうまくいく相手ということだけで快楽の相手を見つけうるものなのかもしれない。このあたりを含めて、吉本はほのめかしているだけが、性の問題は大きい。
吉本は、この本ではあまり強調していないが、本当の恋愛というのは、誰でもそういう相手はいるんだよともよく言う。これも逆説があって、そういう相手と一緒にならんなら人生なんて意味ないよという含みがある。
吉本がなぜそんなふうな恋愛に、つまり本質っていうのに、そんなんにこだわるかというと、先にも触れたが、そういう恋愛が社会(国家)のパラメーターをひっくりかえすという確信を持っているからだ。
ただし、このあたりに十分に整理されていない問題がある。具体的には「籍」だ。吉本はこの本で初めてというわけでもないが、籍を入れる問題を重視している。私などの感覚からしても籍を入れるか入れないかはプライベートな領域の問題と税制の問題じゃないかという気もする。
ぼくはそれまで法律婚というものにほとんど価値を置いていませんでした。男と女が一緒に暮らすその生活の内実こそが大切なのであり、国に届けを出すということは、ほとんど意味がないと思っていたのです。
けれども、実体験としてはそうではなかった。正式に届けを出すとか抜くとかいうことが、自分たちにかなりの重みを持っているのだと、やってみて初めてわかった部分がありました。
吉本学的にいうと共同幻想領域ということになる。国家の宗教性とも言える。が、問題はこれがそういう知的な部分で現在のわたしたちの大半は籍というものを扱えないという事実だけだろう。
同様の構造は、実際に恋愛から結婚という形態での男女の関わりだ。吉本は端的に女性は結婚して不利だよということをはっきり書いている。それはそうなんだろと思う。面白いのは、吉本は恋愛の本質とか言っておきながら、実際は、彼自身は従順な奥さんのほうがいいなというのをぼそっと正直に言っているあたりだ。そこが現在の日本の男の限界でもある。吉本はその限界を明確に意識しているわけでもある。
そういえば、私が吉本隆明からいろいろ影響を受けた中で、ひとつ際だった一枚の写真がある。吉本が買い物籠をさげて商店街で買い物をしている写真だ。これが思想家というものだと私は思った。たとえば、誰でもいいのだけど、いわゆる哲学者とか文学者とか、けっこうカッコつけているじゃないですか。というか、意外にそのカッコが人気だったりする。で、そのカッコというのが、どうにも買い物籠をさげて商店街に行くのと似合わない。私は、それは、だからそういう思想家はダメなんだと思う。思想とそういうのには関係ないとか言えばいえるけど、どのような思想であれ、それが生身の人間として社会に存在している、ということは性的な存在としてある、というとき、いわゆる家族的な問題にどうきちんとケリをつけるか。生活というのは炊事洗濯掃除なわけですよ。そこから乖離した思想など、少なくとも私には無意味だと実感した。ま、私はそうというだけのことだが。
この本では、中盤、三角関係についての話もあって面白い。あれれと思ったのは、私もけっこう好きで調べたのだが、小林秀雄、長谷川泰子、中原中也の関係だ。私は小林秀雄寄りの人だからもあるが、このどろどろの関係で、吉本は中原が一番傷ついたとしている。私はそう思ったことがなかった。が、言われてみるまでもなくそうだ。というあたりで、実は、私なども、日本的な三角関係というか同性愛的な性向への感性を失っているのだなとは思った。