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2004.10.06

[書評]蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)

 「蘭に魅せられた男」(スーザン・オーリアン)の文庫版(ハヤカワ文庫NF・参照)が出ていた。最近の話ではなく、昨年に出ていたのを私が知らなかっただけなので、とほほ。でも、この手の本は文庫だと紹介しやすい。副題は「驚くべき蘭コレクターの世界」。蘭マニアの話だろうという推測は付く。アオリもこうある。


人々の心を捕らえてやまない花、蘭。中でもポリリザ・リンデニイは、幻の「幽霊蘭」と呼ばれ愛好家垂涎の的となっている。その虜となった野心家の男ジョン・ラロシュは、フロリダ州保護区から幽霊蘭を盗み出すことに成功。大量増殖し富と名声を手に入れようとしたが…コレクターの面妖な世界を巧みに織り混ぜ、蘭泥棒をめぐる類なき事件を描いた狂騒のルポルタージュ。

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蘭に魅せられた男
 だが、これはちょっと違うだろう。特殊な事件の真相を描くという趣旨の本ではない。ノンフィクションではあるが事実上の主人公ジョン・ラロシュは幽霊蘭だけにとりこになったというのでもない。この物語で幽霊蘭が重要なのはフロリダ州保護区とそこの原住民との関係の結び目にもなっているからだ。
 この作品は、蘭の物語というよりも、蘭を使った現代アメリカ社会のある深層を描いたものだ。特に、後半部分になると、作者の意図がより現代アメリカ社会に移ってくる。ラロシュがこの本の最後で蘭への関心を失い別業種に転じるのだが、これもそうした線からは当然だろう。
 少し長い引用になるが、その意図をよく表現している部分がある。

 たとえば幽霊ランが本当にただの幻想でも、毎年毎年それを追い求めて、人々に何マイルも難儀な旅をさせることができるほど、心を惑わせる幻想と言えるだろう。もし本物の花なら、この目で見るまで、何度でもフロリダに戻ってきたいと思う。といってもランを愛しているという理由からではなかった。ランはとりたてて好きな花ですらない。ただ、人々をこれほどまでに強い力で惹きつけるものを見たかったのだ。


こうした人々が植物を欲するほど激しく、わたしも何かを求めたかった。しかし、それはわたしの気質ではない。わたしの世代の人間は、我を忘れた熱狂を恥ずかしく感じ、過剰な情熱は洗練されていないと信じているのだろうと思う。ただし、わたしには恥ずかしいと感じない情熱がひとつだけある--何かに情熱的にのめり込むことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ。

 著者スーザン・オーリアンは1955年生まれ。1957年の生まれの私は同世代だ。日米差はあるにせよ同世代の人間としてこの感覚はとてもよくわかる。おそらくそうした感覚は、私の世代だけではなく、私の世代以降にとって、ごく当たり前過ぎる基本的な世界の感覚だろう。私たちの上の世代のロックの大御所たちが老齢となってもその下の世代に続かないのはロックというのがなんかださくてやってらんないという感覚でもある。そしてそれに続く様々なスタイルもすべて時間とともにださくてたまんねーと言わざるをえない強迫に変奏される。そこには、情熱にのめり込むことができないことのバリエーションだけがある。それをスキッツォ(統合失調)と呼ぶにせよ、インテンシティ(強度)と呼ぶにせよ、永続する情熱こそが開示すると期待される生の充実は最初から失われている。だが、擬似的に知的であることのゲームにもやがて疲れてくる。
 そうした状況に向けて主人公ラロシュはさらっとこう言ってのける。それはただある確信だけを伝えている。

「つまりね、何かを、何でもいい、そいつを見ると、心の中でこう思わずにいられないんだ、やあ、たまげた、今度はこいつがおもしろそうだ! 意外に思うかもしれないけどさ、賭けてもいいが、世の中にはそういうものがどっさりあるんだよ」

 蘭はそうしたものの象徴として現れている。しかし、世の中に本当にそういうものがどっさりあるのだろうか。たぶん、そうした問いがずっと私たちに投げかけられている。
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アダプテーション
 そういえばこの本を原作とした映画がある。私は見ていないのだが「マルコヴィッチの穴」の監督・脚本スパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマンによる「アダプテーション」だ。アカデミー賞も受賞した。原作を素直に映画化したものではなく、一種のメタ映画のようになっている。著者スーザン・オーリアンにメリル・ストリープが扮し、さらにパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマン自身のカリカチャ(戯画)も出てくる。どたばたのようでいながら、映画の口上などを見るに、原作の意図する現代アメリカ社会のありさまが映画の手法で鮮明に描かれているようだ。つまり、蘭の物語というのはここではきちんと暗喩となっている。タイトル「アダプテーション」にも、脚色と現実適応のダブルの意味があるのだろう。と、やっぱこっちの映画も見ておくか。ま、見たら、なんか書きます。
 もちろん原作の書籍を、蘭に取り憑かれた人の物語として読んで悪いわけでもない。蘭についての歴史的な知識や博物学的な知識も満載。それだけでも楽しい。原題"The Orchid Thief"は、狂言花盗人のような含みもあるのだろう。さて、このころは蘭のもとにて縄つきぬ見果てぬ想いと人やいふらん、と。
 ところで、本書には作者の意図があってかどうかわからないが、蘭と人間の性的な幻想についてほのめかすコメントが散在していて気になる。たとえば、これだ。

人々がランに対して抱いている感情は、科学ではとうてい説明できない。ランは人々を狂気に駆り立てるようだ。ランを愛好する人々は熱狂的にランを愛する。ランはロマンスよりも情熱をかきたてる。ランは地上でもっともセクシーな花なのである。

 著者はその内実にまでは踏み込んでいない。なぜだろうか。私の個人的な印象だが、著者は蘭の存在そのものが性的に恐いのだろう。もちろん、恐いという言い方はあまりに拙いのだが、そんな感じだ。
 最後に蘭という花について少し。本書でも触れられているが、蘭の栽培技術は現代では格段に進んだ。特に台湾にめざましいものがある。先日ニューヨークタイムズに蘭産業の記事"Orchids Flourish on Taiwanese Production Line"(参照)があったが、蘭の産業は全世界では20億ドル、とすると、2兆円規模らしい。けっこうすごい。そういえば、台北の郊外の蒋介石邸近くの蘭園を見学したことがある。たくさんの蘭が並べられていたのは、交配のためだったのだろうなと本書を読んだとき思い出した。

追記(2005.6.5)
映画「アダプテーション」を今頃DVDで見た。面白かった。悪い冗談をここまでやるかという感じもしたが、ある種の米国インテリ達の内面の空虚感や苦しみみたいなもの、それと、世界のもつ誘惑性とでもいったものがうまく表現されていた。蘭に暗喩されているリアルなものへ渇望、脚本家のこだわりであるストリーとして理解される世界への疑念、そうしたものから人間の意志と意志を越えるなにか(愛ということ)を求めているのだろう、そういう言葉だとちょっとつたないが。あと、意外といっては失礼だが、映像のつくりがとてもきれいにできていた。

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