[書評]流れる星は生きている(藤原てい)
「流れる星は生きている」(藤原てい)は満州にいた日本人家族の引き上げの物語である。家族といっても、この物語に夫の藤原寛人(新田次郎)はなく、26歳の妻、藤原ていが、6歳の正宏、3歳の正彦(藤原正彦)、1か月の咲子(藤原咲子)のみだ。この幼い子どもを連れて、若い女性が死線をさまよいつつ壮絶な脱出劇を展開する。
流れる星は 生きている |
しかし戦後60年近い年月が去り、この物語を読んでいない日本人も増えてきたようにも思われる。日本人ならこの本を読まなくてはいけない、とまで言うつもりはない。率直に言って、現代の日本人がこの本を直接読んでも、かつての日本人が読んだときとはまったく異なることになるのではないだろうか。
この本が当初、出版され、読まれた時代、世間のあちこちに、満州・朝鮮の引き揚げ者はいた。かく言う私の父も朝鮮引き揚げ者である。そうした共有すべき経験を持つ世間があったからこそ、この本が読めたという部分は大きい。
その意味で、この本の背景解説が必要な時代になったのだが、日本人がなぜ満州にいたかという説明はさすがに省略する。なぜこんなにまで悲惨な引き上げをしなくてはいけなかったについては、少し補足したい。ソ連軍が突然満州に攻め込んできたからだ。戦争だから攻めてくるのは当然だろうと考える人もいるかもしれないが、それは違う。当時、ソ連と日本の間には不可侵条約が成立しており、その期間はまだ1年を残していていた。ソ連が日本に宣戦布告するとは誰も予期し得なかった。
1945年8月8日5時ソ連のクレムリンで、佐藤尚武駐ソ連大使は、ソ連のモロトフ外相から、日本に対する宣戦布告を聞かされた。佐藤ソ連大使は驚愕した。彼の任務は昭和天皇から東郷茂徳外相を通して終戦手続きを進めるものだった。ソ連にイギリスとアメリカへ終戦手続きの仲介を依頼することだった。まったくの逆の展開になってしまった。
1時間後、極東時間8月9日未明、ソビエトの極東軍は、満州国境を越えて日本軍への攻撃を開始した。その10時間後、長崎にプルトニウム原爆が投下された。
日本の敗戦は決定していたのに、ソ連もアメリカも無益な日本人民間人を殺戮を開始したのである。いや、無益ではなかったのかもしれない。1945年8月8日、戦後の極東と日本を奪い合うための争いが始まったのだ。冷戦がこの日始まったのだと言っていいだろう。
「流れる星は生きている」の物語は満州新京(長春)から始まる。夫の藤原寛人がそこの観象台に勤務していたからだ。
昭和二十年八月九日の夜十時半頃、はげしく私の官舎の入口をたたく音が聞こえた。子どもたちは寝ていた。私たちは昨夜遅かったから今夜は早く寝ようかといっているところであった。
「藤原さん、藤原さん、観象台の者です」
若い人の声であった。夫と二人でドアーを開けると木銃を持った二人の男が立っていた。
「あ、藤原さんですか、すぐ役所へ来て下さい」
物語はその夜、突然始まる。
夫が帰って来た。蒼白な顔を極度に緊張させて私の前に立った夫は別人のようにいった。
「一時半までに新京駅へ集合するのだ」
「えッ、新京駅ですって!」
「新京から逃げるのだ」
「どうして?」
夫はそれに対して言葉短に説明した。関東軍の家族がすでに移動を始めている。政府の家族もこれについで同じ行動を取るように上部からの命令である。新京が戦禍の巷になった場合を考慮して急いで立ち急ぐのだとのことだった。
この時点の集団移動もすでにあまり組織化されていたとは思えない描写が続く。この集団は数日かけて内海に近い宣川に移動した。宣川は現代の北朝鮮の領域で先日爆破事件があった龍川(Ryongchon)より少し南下した地点にある。当然、38度線は越えていない。
宣川は「流れる星は生きている」でも教会のある町として描かれているが、戦前からキリスト教がさかんな地域だ。この宣川で、主人公藤原ていと子ども三人は到着の数日後一旦夫との再開を果たすが、夫寛人は満州に戻り、その後非戦闘員であるにもかかわらずその後シベリア送りとなる。
宣川到着の時点では、まだ日本国は存在しており、移動の日本人集団も完全に無規範(アノミー)の状態にはなっていない。宣川停留中に15日を迎え、その後1年近い滞在となる。現代人の私から見ると、ここから海路が取れないものかとも思うが、無理だったのだろう。
「流れる星は生きている」の物語は、この宣川での、日本国が存在しない日本人の悲惨な集団生活の物語が1年ほど続く。
こういう言い方は私自身が完全に戦後の人間だからだろうが、この物語は、満州引き上げの物語というより、アノマリーな状況におかれた日本人がどのように行動するのかというある種の実験報告を読んでいるような印象を受ける。宣川生活での話は、経時的ではあるがエピソードの積み上げになっているので、わかりやすい。そこで小さな悲惨な事件が多数発生するのだが、私にはその実態がよくわかる。
少し脱線する。私は結果的に愛国的な人間である。が、日本人同胞を心情的に愛しているかといえば正直に言ってそうではない。私は幼稚園から小学校高学年になるまで、地域の友だちから排除され、いじめられた経験を持つ。いじめられた最大の理由は、おそらく私の居住区に関連しており、私の家の近くには隣町の小学校があるにもかかわらず、遠い小学校に通わなくてはならかったことだ。いずれにせよ、その子どもの剥きだしな陰湿な日本人の民族性は、しかし、その後私が社会人になっても同質に経験されるものだった。
私は日本人というのは陰湿な国民性があると思う。もっとも、だからこそ私はそのなかで生き延びるために日本人の陰湿さを人間というものの陰湿さの一般性で理解できるように思索した。こんな話をするのは、私のこの感性は、恐らく戦後を生き延びた日本人にかなり普遍的に存在しているのではないかと思われるからだ。そして、端的に言って、現代日本でも、その深層としては同じなのではないかと思う。
「流れる星は生きている」に描かれている日本人の本質的とも言える陰湿さは現代でも同じだというふうに今の若い日本人は読んでもいいだろう。むしろ、「満州引き上げは苦労でしたね」というより、日本人の本性はこんなものだと読むほうがいいように思う。
物語では、1年ほどの宣川生活に区切りをつけ、藤原ていたちも、南下を開始する。はっきりとは描かれていない点が多いのだが、後の描写を見るに米軍保護を求めての38度線越えだったのだろう。
宣川から南下する時点ですでに日本人の集団は事実上解体し、藤原ていと子どもだけの壮絶な脱出劇となる。壮絶とはこういうものを指すのかというほどの物語である。母性についての考えさせられる。
私は、率直に言って、「母性」というものは信じない。それは「母性」なんていうのが幻想だというような甘っちょろい否定でなく、母性というのは恐ろしいものだと考えるからだ。だが、「流れる星は生きている」を読むと、その恐ろしい母性がなぜ人類に存在しているのかわかるように思う。子を生かすというのはここまで物凄い心性とエネルギーを必要とするのだ。こういう読み方もいかにも戦後的だが、そう読んでよいだろう。というのも、「流れる星は生きている」の素晴らしさは、戦後民主主義の嘘くさい虚偽を完全に超越しているからであり、そこにはだからこそ普遍的な意味が読み取れる。今、この時、同じ悲惨がダルフールで起きているのかとも思う。
「流れる星は生きている」の物語では、最後、無事母子は日本に帰還する。その意味でハッピーエンドであるはずだ。だが、エンディングの描写は暗い。信州の親の家に帰還した藤原ていはこうつぶやいて物語は終わる。
「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」
私の頭の中はすべてが整理された後のようにきれいに澄みきっていた。深い深い霧の底へ歩いていけば、どこかで夫に逢えるかもしれない。
「もうこれ以上は生きられない」
私は霧の湖の中にがっくり頭を突っ込んで、深い所へ沈んでいった。
現代ならPTSDということにされるのかもしれない。しかし、このエンディングはさらに深い意味を持つ。それは私たちが歴史のなかに生きているということでもある。この話はもう少し続けたい。
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コメント
逃げそびれてソ連支配下のモンゴルに抑留されてから
帰国するまでのエピソードを描いた
胡桃沢耕史の直木賞受賞作「黒パン俘虜記」は
面白かったですね。
こちらも人間が悲惨な状況でいかに卑しくも恐ろしい行動に出るか
具体的であり普遍的であり…
母性の話は出てくる余地がなかったんでこちらも読んでみたいと思います。
投稿: TXXX | 2004.08.08 09:02
私の祖父もシベリア抑留者でソ連が攻めてくるとは誰も思わなかった、といっていますが、素朴な歴史的疑問としてドイツとの軍事同盟下にあった日本がソ連に攻撃されるのは当然のこととおもいますが、違うのでしょうか。
不可侵条約といいますがそれはソ連とドイツにもありましたし、
日本とソ連との条約は「中立条約」であり、ドイツがソ連に参戦した時点でドイツとの同盟を破棄しないなら既に中立ではないわけで
先に破ったのは日本ではという理屈も成り立つ気がします。
投稿: 大学1年生 | 2004.08.08 15:49
大学1年生さん、ども。皮肉の意図はないのですが、面白い「理屈」ですね。学説として提唱されているのでしょうか。
日ソの条約ですが、名称は中立条約です。
日本国及ソヴイエト聯邦間中立条約
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPRU/19410413.T1J.html
内容、特に、重要な一条をご覧下さい。
「第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スベキコトヲ約ス」
内容的には不可侵条約となっています。
基本的に日独伊同盟はヨーロッパとアジアの覇権の線引きであり、基本的に防衛、特に対米戦のものでした。
理論的にはナチスがソ連から攻撃された場合、日本はナチを助ける義務があったという解釈は成立するように思われます。
ソ連はむしろ当初からこの条約は対独のために、極東地域の安全を意図していたので、むしろ、対独戦で日本の参戦を防ぐためのものというのが通解であると思います。
投稿: finalvent | 2004.08.08 16:19
いえ、上記の「理屈」は私が祖父の「ソ連は汚い」(祖父は露助、という言葉を使いますが)を聞くたびに思っていたことで、学説として提唱されているかどうかは存じません。
>基本的に日独伊同盟はヨーロッパとアジアの覇権の線引きであり、基本的に防衛、特に
>対米戦のものでした。
>ソ連はむしろ当初からこの条約は対独のために、極東地域の安全を意図していたので、
>むしろ、対独戦で日本の参戦を防ぐためのものというのが通解であると思います。
最終的にはそのような流れになりましたが、枢軸同盟の当初の敵は防共協定という名にあらわれているようにソ連だったわけですよね。それがその後独ソの不可侵条約締結で日本は方針転換をして、南侵を決意し、背後の憂いを絶つためにソ連と不可侵条約を締結するわけです。当然ここではソ連と日本の目的はニ正面作戦の回避ということで一致しただけで、そういう意味でいえば、独ソ戦が終結した以上、ソ連が極東での覇権拡大を目指すだろうというのは当然のことで、ナチスが不可侵条約を破ってソ連に侵攻したように、ソ連が満州(および樺太)に侵攻するのも十分予測可能であったように思えますが、これは歴史の後知恵なんでしょうか。シベリア出兵でソ連に干渉し、ソ連を敵として防共協定を結んだ国が、自分の国の方針が対米戦に固まったからといって、「条約があるから攻めてこないだろう」などと考えるのは自己中心的に過ぎるのではないでしょうか。もしも不可侵条約の有効性を主張するなら、日本はドイツがソ連に宣戦した時点で枢軸同盟を破棄するべきだったのでは、というのが私の考えです。
投稿: 大学1年生 | 2004.08.08 19:22
大学1年生さん、ども。
枢軸同盟については、昭和天皇もいぶかしがっていたと推測されるように、あまり意味のないものだっただろと思います。ドイツがソ連と開戦した時点で破棄すべきだったかは、よくわかりません。あまりメリットもないように思います。
日ソ不可侵条約については、ご指摘のとおりだと思います。
>ナチスが不可侵条約を破ってソ連に侵攻したように、ソ連
>が満州(および樺太)に侵攻するのも十分予測可能であっ
>たように思えます。
ええ、そう思います。というか、あの関東軍の逃げっぷりを見ていると、沖縄戦のように、民間人を盾にして逃げる算段があったような気もします。
投稿: finalvent | 2004.08.08 20:14
だからどうだと言う訳では無いですが、日本少林寺拳法の創始者(故人)は、ソ連侵攻時の引き揚げの悲惨さ(というより軍・政府機関が民間人を見捨てて我先に逃げた事)や、戦後の日本人の足の引っ張り合いを語り伝えてます(&参加者はそういう事がない様に、そうならない社会にする様勤めろと教えてます)。ま、今やってる人間のどれくらいが本気で「昔のじいさんの言った事」を聞いているかはわかりませんが(+創始者は思想的に右翼系で、私兵を作る気満々だった様ですが)。ご参考までに。
投稿: (anonymous) | 2004.08.08 21:22
私は藤原正彦が好きなのですが、どうも彼は母よりも父の方に
言われるところの「母性」を感じていたのではないか、とエッセイなど読んでそう思います。藤原が好んで言う「情緒」、これを教えてくれたのは母ではなく父であると読めるのです。
藤原ていは、実は子どもたちはかなり苦手だったのではないか。それはそうです。新田次郎でさえ、妻には生涯頭が上がらなかったといいます。あの状況下でたった一人、子どもを生かして日本に連れ帰ったのですから。ましてや子どもにとっては母は絶対の存在だったでしょう。
藤原ていは立派な人ですが、どこか情緒の壊れた人だったと思います。あのような体験を潜り抜けて壊れない人はまずいないでしょう。そしてfinalventさんの少し前のコラム「父親が大丈夫なら子どもは大丈夫」をふと思い出し、なるほど母親が病んでいても父親が健全なら子どもは大丈夫なものかもしれない、「ちゃんとした父親」というのがいわゆるマッチョではなく、「健全な情緒」の持ち主という意味なら……と思ったりします。
藤原正彦は愛国者だしサムライっぽいし「男子たるもの」なんてよく言いますが、何かそこはかくなく母性的な匂いがします。それは「母恋し」より「父恋し」がもたらしたもののように思え、何かいつも哀しいのです。
投稿: T | 2004.08.09 00:50
「父親が大丈夫なら子どもは大丈夫」。あぁ、なるほど。私も母がたいそうな事業家なもので、情緒はほとんど壊れておりますが、父がそうではなかったおかげでここまで生き長らえられた気がします。
投稿: synonymous | 2004.08.09 12:01
Tさん、ども。ええ、私もそう考えているのですよ。というわけで、この話、その線で続きを考えています。
投稿: finalvent | 2004.08.09 14:25
大連から帰って直ぐに、一人暮らしをしている姑に電話をしました。姑は満州で暮らしていた時期があったので、今の大連の様子を知らせたかったのです。
投稿: kawamoto | 2005.09.14 08:51
父母(T5生)の年代は想像を絶する苦労をしています。国策に従い満州に渡り、会社を立ち上げ成功していました。しかし、ソ連が参戦した昭和20年8月9日をもって、すべてを失いました。私の父母と幼い兄二人は、8/12満州牡丹江市の自宅を捨て、8/15鮮満国境の安東にまで南下しました。その安東で8/17、中国人から後2日したら八路軍(中国共産軍)が来ることを知り、その日の内にソウルまで列車で逃げ、そのソウルで9/1から朝鮮南部がアメリカ軍施政権下に置かれることを知り、直前の8/30釜山から興安丸で日本に脱出しました。朝鮮が日本の施政権下にあった最後に脱出した民間人の日本人一家です。
昨年、市立図書館の古い倉庫から探し出してもらって、前々からどうしても 読みたいと思っていた、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を一気に読 みました。あの文章を読むと、藤原さん一家も本当に生きるか死ぬかの苦労をされたのだなあと、涙ながらに読みました。しかし、藤原さん一家は、民間人とは違って、国家公務員でいち早く逃げるように指示され用意された列車で、民間人より先に逃げていることがわかります。私の父母と幼い2人の兄達が民間人にもかかわらず逃げ切れたのは、本当に父の中国語による情報収集能力と母の読書力からくる判断力だと思います。もし逃避行中の鮮満国境の安東にあと2・3日いたら、朝鮮の38度線はソ連軍により封鎖(8月20日頃)され、藤原ていさん母子のように大変な苦労をして38度線をわたるか、わたりきれずに一家全滅しているかどちらかだと思います。藤原さん一家は、国家公務員で先にいち早く新京から逃げたにもかかわらず朝鮮北部で、いたずらに集団の意見統一を待っていて、38度線が閉じられ、南下できなくなっています。 私の一家の行動と比較することにより、厳しい見方ですが、国家公務員の親方日の丸の命令を待つ態度が、一家をどれだけ苦しめたかがわかります。大変な混乱の時代になったとき、個人の情報収集能力と判断力が如何に大切か、如何に政府が信じられないかがわかります。
父母は満州政府(*1)の軍人・公務員らが民間人を置き去りにして先に逃げたことに、戦後一貫して憤りを隠していませんでした。民間人には一時的に現地の山の方に逃げろと言っておきながら、軍人・公務員らは先に列車を仕立てていち早く日本へ向けて逃げていたのです。今の安倍首相のおじいさんの岸信介氏もその時、列車を仕立てて新京からいち早く、民間人より先に逃げています。関東軍司令長官の山田乙三大将も、東京に溥儀皇帝をお連れすると称して皇帝を連れていち早く飛行機で逃げましたが、ソ連戦闘機にとらわれました。父は、この事実を安東で聞いて、関東軍はそれまで皇帝溥儀をないがしろにして、関東軍の思うままにしてきたのに、司令長官が逃げるときには溥儀を利用したと、その汚いやり方に、憤慨していました。国家公務員や軍人が自分の身の保全と利益を先に考え、民間人や国民のことを考えなかった典型例だと私は思っています。父母は、その後政府のやることを心からは信じていませんでした。政府だって間違ったことをするから、いざとなれば自分の判断で動くことが必要だと言っていました。
(*1:満州政府には政治家はおらず、軍人と高級官僚が支配していた特殊な国家でした。一言で言うと「官僚が支配していた政府」ということになります。)
投稿: Anonymous P | 2007.07.13 09:51
素晴らしい文章を読ませてもらいました。
ありがとうございます。
ただ、日本人の陰湿性もそうですが、
人間の陰湿性ではないでしょうか?
投稿: たろう | 2008.01.15 13:09
今日、読み終わりました。
さっさと読まずに、ゆっくり時間をかけて読んでいきました。
この文庫本は今年に入って、たまたま本屋さんで目にとまり購入しました。
大変有名な小説だったのですね。25年生きていて恥ずかしながら、知りませんでした。
書評に「率直に言って、現代の日本人がこの本を直接読んでも、かつての日本人が読んだときとはまったく異なることになるのではないだろうか。」と書いてありましたが、それはそうだろうと思います。
本から伝わってくる凄まじい一つ一つの出来事に対して、貧相な想像力を膨らせながら読み進めてきましたが、同じ経験を共有していない私には、決して実感することはできないと思わされました。(まぁ、実感しなくて良いものだとは思いますが…)。
でも、とても良い本に出会えたなぁと思います。
藤原ていさんは、昭和51年1月のあとがきで、子どもたちに対して、「私は彼らに何一つ残してやるものはないけれど、この本だけは、たった一つの遺産として、彼らに生きる勇気を与えてくれるかもしれない。」と書いてありますが、この先まだまだ長いであろう私の人生にも、大切な勇気を与えてくれるに違いありません。
私は、人生の師匠に師の人生を通して「人間の生き方」を教えていただいたので、絶対に「生きること」を諦めるようなことはしませんが、本来自分の生命を軽視しているところがあります。残念ながら、いまだにそういう面が見え隠れしています。
藤原ていさんは、満州からの引き上げの最中、おそらく「いっその事死んでしまいたい」と思うようなことが、数え切れないほどあったことでしょう。でも、それでも生き抜いた。私にはその事実がこの先ずっと影響していくと思います。
素晴らしい本をありがとうございました。
投稿: ふつう | 2008.02.19 03:36
私のブログで極東ブログさんの記事、紹介させていただきました。(TBもお送りしたのですが、不通でした。なぜ?)
この本は、私の読んだ本の中でもすごいインパクトのある本でした。
投稿: レバレッジ君 | 2009.09.20 08:28
昨晩、読了しました。なぜ僕はこの書名を知っているんだろう、といぶかしりながら手に取って、しばらくして思い出しました。finalventさんの記事で見かけたことがあった、と。思いを受け取るのに時間のずれがありました。「歴史存在であることの苦しみと孤独。」また、母の子であるところの僕、ということを思いました。
「今、この時、同じ悲惨がダルフールで起きているのかとも思う。」そうした想像力の欠如を小さく恥じたいと思います。足の裏の皮膚を破って肉をずたずたにした石を思いました。また彼女をして語らせる歴史を思いました。なぜ彼女はあの本を書いたのか、なにが書かせたのか。歴史に思いがあるとして、そうしたものを思いました。
投稿: edouard-edouard | 2009.09.26 01:27
満洲からいち早く逃げ出した関東軍の事ですが、皇軍最強とか精鋭とか言われていたのですが、実態は、その主力を南方に回していて張り子のトラでしかなかったと言われています。ソ連軍が侵攻してきたらひとたまりもない事は司令官はよくよく分っていたので、民間人を捨てて、さっさと逃げたのでしょうね。
もちろん、司令官は上級軍人ですから、民間人や兵卒と違って、数年前のノモンハン事件で日本軍がソ連軍に完膚なきまでに打ち破られたことも知っているでしょうし、日本軍がソ連軍の機械化部隊の敵でさえないこともわかっていたでしょう。せめて軍事的にできることは、ソ連軍の侵攻を遅らせるための交通手段の破壊ぐらいしかなかったと言えるでしょう。その結果として後に残された民間人の逃げる手段が無くなることなど考えもしなかったでしょうが。
それにしても、最近ノモンハン事件等の責任者の一員にして、皇軍の指揮系統すら無視して好戦的な言辞を弄して国(軍かな)の方針を誤らせた辻正信の自伝が大々的な広告とともに再出版されていることに「反省」「批判」はこの国にないのかと呆れてしまいます。もっとも、そもそも辻を処罰することができなかった軍の体質が問題ですが。皇軍に映画「クリムゾン・タイド」の様な暴走する司令官を阻止しうる軍規でもあれば違った結果になったかもしれませんが、日本人には無理でしょうね。
投稿: bousyo | 2013.06.19 00:26