空想過去小説「チーズとバギウム」
毎週鉄人28号を見ている。今週は、ヤポンスキー(日本人)とニッポンとヒコポンデリーから造語したような、おなじみのキャラ「ニコポンスキー」も声優名を隠して登場した。面白くてたまらない。戦後に糸川英夫(バレーリーナ?でもあった)博士が作ったペンシルロケットも、戦前の設定で登場してきた。フィクションだからな。空想科学小説が未来ではなく過去に向けて描かれるのは、もしかするとなんらかの意味があるのかもしれない。私も過去に向けてちょっとフィクションを書いてみたい。
というわけで以下は、フィクションである。
「チーズとバギウム」
アジアの現代史はアヘン戦争から始まる。
イギリスは中国人に麻薬のアヘンを売りつけていた。人間をダメにするには最適の薬だ。当然、中国に君臨していたモンゴル王朝正統の清王朝道光帝は怒った。1839年、イギリスとの交易を禁止した。が、翌年イギリスはこれに因縁をつけて中国に軍を派遣。42年に攻撃開始。清軍は大敗し、香港島、九龍地域が割譲された。98年には99年間の租借とした。契約を結んだとき返還が実現する日が来ると思う人はほとんどいなかっただろう。だが、1904年に生まれたポーカー好きの小柄な中国少年は心に誓った、必ず、この契約を実現してみせる、と。なお、この契約書は今台湾にある。
こうしてアジアにヨーロッパが侵略を開始した。まるで大きなチーズを切り分けるような具合である。
各国はイギリスのような汚い手口の真似を始めた。ロシアは鴨緑江以北(これが今の北朝鮮とロシアの国境にもなる)とウラジオストックのある沿海州を割譲させた。フランスは清朝下のベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化した。この地域を、だから、日本人は仏印と呼んだ。対向する西側のビルマをイギリスが植民地化した。タイは緩衝地域になったので植民地化を免れた。
清朝下の国は植民地化される、というのがこの時代の常識になっていた。そして残りの李氏朝鮮をロシアが狙っていた。
朝鮮半島がロシアのものになれば次のチーズは日本になる。日本は焦った。僕はチーズじゃないよ鼠だよ、というわけで、朝鮮に手を出した。半島の清軍を追い出そうして清朝と戦争を始めた。1884年日清戦争である。日本は勝利し、朝鮮を清朝配下から独立の名目で自国配下に置き、さらに遼東半島(大連・旅順)を割譲した、はずだったが、ロシアが怒った。そこは俺のチーズのはずだったと言うのだ。フランスとドイツをつるませて、いちゃもんをつけた。1889年三国干渉である。日本は遼東半島を失った。
遼東半島の旅順を失えば、朝鮮半島支配などできるわけもない。逆に言えば、旅順を手に入れれば朝鮮半島が支配できる。ロシアは清朝から旅順を租借し、要塞を築き始めた。おまけに清朝の内乱義和団事件(1899)にかこつけて満州を占領した。やったね。実質半島はロシアの手に落ちた。余談だが、北朝鮮はソ連が作った傀儡政権なので、見方によれば今でもロシアの手に落ちたままなのかもしれない。
日本は怒ってロシアに宣戦布告した。日露戦争である。日本はからくも勝利した。が、全面的な勝利でもなければ、さらに泥沼の戦闘に推し進めるだけの国力も日本にはなかった。
このまま突き進めば最後はロシアが勝つだろうと、ロシア買いかぶりのアメリカ人ルーズベルト大統領は思った。
アメリカは日本の植民地化に失敗し、ようやくフィリピンを捕ったばかりだ。日本を潰してロシアとことを構えるのはめんどうなことだとも思った。ここは日本にロシアを露払いさせて、あとで日本を潰せばいいのだ。というわけで、講和に乗り出した。かくして満州が実質、日本の手に入った。日本は、迫り来る最後の日も知らず、図に乗って朝鮮も併合した。最後の日を想像できる日本人もいたにはいたのに。
アメリカは満州にちょかいを出し始めた。
それを知ったロシアは、やべーぜと思った。今度は日本とロシアが満州の権益をきちんと山分けしておくべ、とした。
が、矢先にロシアのロマノフ王朝が倒れた。1917年ロシア革命だ。レーニンのちょっとした勘違いのクーデターがひょんないきさつで革命になっちまった。これって、マルクス=エンゲルスの予言した共産主義革命かもと思うばかたれは、アメリカにまで出てくるありさまとなった。いずれにせよ、ロシアは極東から一時的に撤退した。それを見ていた愛国者スターリンは義憤した。俺がチーズを取り戻してやると思った。
満州に居座った日本の関東軍は、なんくせだか屁理屈だかつけて、日本本土のシビリアンコントロールから外れてきた。シビリアンコントロールがあれば軍隊は暴走しない。シビリアンコントロールのない軍隊は暴走する。まんまじゃん。
関東軍は、「清朝を倒すことに一役買った孫文も満州は中国じゃないからね」と言ったよ、ほいじゃね、というわけで、1932年関東軍は満州に清朝の傀儡政権を作った。
日本本土の犬養首相は怒った。うぜーなと軍人は思った。軍人は犬養首相を問答無用で暗殺した。いや、こんなの軍人なんかじゃないか。軍人はこれから殺そうとする者にまず銃を渡す。そうでなければ、軍人の名誉が守れない。日本の軍人には名誉なんてものはなかった。それはやがて満州が崩壊したときに、恐ろしく醜いかたちで露呈したのだが…。
満州をめぐり日本と米国が争う構図はできあがった。
だが、国際状況が読めないとんちきな軍部はロシア戦争の勝利とソ連共産政権への恐怖から次の戦争はソ連に備えていた。まるで根拠がないわけでもない。
1939年、スターリンの台頭とともに極東への関心を取り戻したソ連は、満州とモンゴル人国境ノモンハンで日本と衝突し、戦闘を始めた。ノモンハン事件と呼ばれるが、事件なんてものではない。戦争である。
日本側の被害もひどかったが、ソ連側の被害もひどかった。スターリンは実は臆病ものである(ロシア軍の本質は臆病である)。しばらく日本と事を構えるやめとこうと考えた。1941年、日ソ不可侵条約を結んだ。
もっとも、それで終わりなわけはない。スターリンは考えた。この愚劣なヤポンスキー(日本人)を南方に追い出し、アメリカに叩かせればいいじゃないか、と。
かくして、諜報活動を駆使して日本の方向を転換させた。が、日本の軍事教練はいまだに対ソ連戦を想定して行われていた。そんなもの南方では役に立たない。役に立たないという点で、今の日本の教育と似ている。日本人は歴史からなにも学ばない。
ソ連との関係が沈静化するなか、満州を巡り、日本とアメリカの対立は激化した。
1939年以降戦時に盛り上がったアニメ、トムとジェリーよろしく、アメリカは日本鼠を巣から出してみるか、ということで、アメリカは日本の海路を封鎖した。日本に石油が来ない。資源のない島国はこれで終わりだ、と日本は妄想した。フセインくらいタフな悪知恵も働かなかった。
かくして日本はアメリカのシナリオどおりに開戦したのだが、日本の戦闘はアメリカの予想に反して意外とタフだった。国家総動員で軍事生産に充てるなんてことは科学的な経済学では予想だにできなかった。おい、この国(日本)には民間部門はないのか。あ、今でもないか。
アメリカ人は恐怖した。日本人は、そのまま自殺爆弾になって攻めてくる。そんなことは想像もできなかった。
武士道とは死ぬことと見つけたり。武士は戦うと決めたら死ぬことと決める。考えれば人間は必ず生きることに向かう。己が生きることに向かえば戦闘には隙ができる。いずれ死ぬという状況にその隙は負けを誘発する。死が栄誉であるには、そして勝機を得るには、まず死ぬと決める。これが武士道だ。哲学としては素晴らしいが、近代戦の実戦には有効的ではない。
それでも自殺爆弾となった日本人に、米軍の勇者の誇り海兵隊がまずびびった。こんなやつらに面と向かって戦うなんてやなこったと泣き言を上げた。
それじゃ、殺虫剤を撒くように空爆でこいつらの家族を殺してやるに限るな、とファミリー思いのアメリカの上層部は考えた。実践した。
害虫駆除のように東京を焼き払った。1945年3月10日。10万人の日本人非戦闘員が殺された。面倒よく家族ともども殺したから、その消息も辿れる生存者は少ない。
それは恐ろしく無意味な殺戮だった。そんなに多数の日本人の民間人を殺す必要はなかった。
日本政府もその時期、すでに敗戦の手続きを始めていた。が、目先の敵に目がくらんで本当の敵が見えなかった。日本は、こともあろうか、スターリンに泣きついていたのだ。日ソ不可侵条約のよしみで米英につないでくれよ、というのだ。泣けるほど、ダメ、日本。
なぜならその1か月前にスターリンはそんな日本の泣きをネグって、ルーズベルトとチャーチルとで、クリミヤ半島のヤルタで日本の戦後処理の計画を始めていた。戦後処理といっても、戦後復興ではない。くずれたチーズを寄せ集め、また切り直そうというだけのことだ。
スターリンは躍起になっていた。このままいけばルーズベルトにやられる。いや、ルーズベルトは阿呆だからなんとでもなるだろう。問題はこのハゲ(チャーチル)だ。取り敢えず、1年期間の残る日ソ不可侵条約なんてものは反故にしまっせ、とした。満州・極東については三国干渉の時に戻して、俺(スターリン)にくれ、と飲ませた。あとはヒットラーがくたばるのを待つばかりだ。
が、ここでまるで偶然であるかのように4月ルーズベルトが死ぬ。え?とスターリンは思った。ヤルタの密談はどうなるんだ。
アメリカは副大統領にして真の男、トルーマンを出してきた。今で言ったらチェイニーが大統領になったようなものである、いや、このスターリン嫌いの反共主義者は民主党だな。歴史的には民主党のほうが戦争好きに見える。トルーマンはヤルタの密談に怒った。スターリンにやるチーズはない。
5月にヒットラーが自殺。ドイツ壊滅。スターリンは軍隊を急いで極東へ向けた。チーズが、チーズが、無くなっちゃうよ。
トルーマンはトルーマンで焦りだした。ルーズベルトを消すのに手間かけすぎた。敵はスターリンだ。こいつの前で、どかんと一発、やつの嫌いなハゲ頭、をやるしかないだろう。俺(トルーマン)に刃向かえないっていうのを知らせるのに、ま、もう10万人くらい日本人でも殺すか。ビッグファイアー博士の弟子オッペンハイマー博士から届いたコード名「バギウム」の威力も見てみたいものだ。
7月16日、原爆実験成功。
すげーな、と実験報告を受けたトルーマンは満足した。まるで、この世の終わりみたいだ。これなら東京大空襲の10万人殺戮が一瞬でできそうだな、な、フォン・ノイマン博士。と、トルーマン大統領はコンピューターの父にきいた。
ノイマン博士は原爆開発のマンハッタン計画で、爆発高度の計算を行っていた。また、爆発地の選定にも関わり、広島、長崎など4都市の攻撃に賛成していた。というのも、軍需工場地帯ではそれほど威力はない。
トルーマン大統領に問われたノイマン博士は、内心困惑した。そ、そんな威力はないっすよ、とは言えなかった。
同席していたオッペンハイマー博士は瞑目した。死ぬのはたぶん1万人だろう。だが、なぜ科学が民間人を殺すために利用されるのか。
こうした博士たちの心中を見抜いていた一人の軍人がいた。彼は思った。これだからシビリアンは困るぜ。原爆といっても所詮は兵器。いいも悪いもリモコン次第、じゃない、使い方だ。東京大空襲ではチープな焼夷弾で10万人も屠れたのに、こいつの破壊力ではそんなに殺せない。普通に使っても威力は出ない。まして、鼠が巣に隠れてしまうなら威力はさらに半減する。
ってことは、鼠を巣から出しておくのがこの作戦の要諦というわけだな、と軍人は思った。こっそり、やるか。
1945年7月26日、広島を避けて、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に原爆の模擬爆弾を落としてみた。
1945年8月6日7時9分、広島で警戒警報が発令された。
敵大型三機が豊後水道方向から国東半島を周り北上し、広島湾西部から広島中部を旋回した。外出していた人々は防空壕など避難所に駆け込んだ。が、何事もなく、7時25分、敵機は播磨灘に抜けた。
7時31分、警戒警報解除。あれはなんだったのだろう。さて、敵機が去って、これから暑い一日が始まるのか。時刻は8時を回ったころだ。
正確な時刻はわからない。後の長崎の原爆では長崎海洋気象台に保存されている気圧計のデータから爆発は定説より10分早い。広島原爆投下時刻は今も不明だ。
その朝の8時過ぎ、突然フラッシュのような閃光が広島上空で走った。
廿日市の自宅でこの日、広島文理大に向かう予定だった若木海軍技術大尉は、あれはなんだ、と思った。と、瞬間激しい爆風が襲い、ガラス戸が砕けた。
若木は地獄図のような光景のなか文理大に向かった。
その時、きちんとした身なりでリュックサックを背にした少女たちの一群に会った。「あなたたちはやられなかったのですか?」若木はきいた。
「私たちは警報解除になったのを知らないでずっと防空壕のなかに残っていたんです。」と少女たちは答えた。
【参考】
原爆は本当に8時15分に落ちたのか―歴史をわずかに塗り替えようとする力たち
広島原爆―8時15分投下の意味
広島反転爆撃の証明
原爆機反転す―ヒロシマは実験室だった 光文社文庫
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コメント
はじめまして。マスコミとは一風違ったニュースへの視点が楽しみで、いつも拝見しております。
さて
>1945年8月15日7時9分、広島で警戒警報が発令された。
「8時15分投下」の話題のせいか、日付を間違われてしまってます。8月15日は8月6日と同じく日本人には特別な日。
どうしても気になります(苦笑)。
尚、拙blogでも広島忌と言う事で、あるコピペを取り上げております。よろしければご笑覧下さい。初めてなのに生意気を申し上げて失礼致しました。
投稿: ナナシ(天籟) | 2004.08.06 14:42
ナナシ(天籟)さん、ご指摘ありがとうございました。あ、ほんと、間違ってら、というわけで、訂正しました。本来ならdel-insで直すべきなのですが、ご指摘のとおり、8:15が念頭にあった誤字の類として、こそっと直しました。
投稿: finalvent | 2004.08.06 15:35
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040808-00000003-yom-int
投稿: (anonymous) | 2004.08.09 04:15
糸川博士のペンシルロケットの実験は昭和30年で、
横山光輝氏の鉄人28号の連載開始が昭和31年。
当時としては最新の科学ネタとして読者受けしたんじゃないかな。
(原作中のペンシルロケット型ロボットはアニメとは異なるが、)
投稿: at | 2004.08.10 02:22
finalventさん、こんばんわ、
今ごろ読了いたしました。おそい反応で申し訳ございません。
ピントを外したコメントかもしれませんが、ご指摘の通り案外ソ連側にもこの時代の前後は余裕がなかったということが戦後知られるようになりました。「大国の興亡」の下巻に第二次世界大戦前後のロシアの国力の分析がなされているのを読みました。歴史に「もしも」はないにしても、ポール・ケネディーが書いているように1930年代に日本が北へもっと戦略的に向かっていて、ドイツとソ連を挟撃していたら戦後の世界は全く違っていたのではないかという気がします。
こういう重大な問題を「気がする」程度に貶めてしまってはいけないのですが、もしかするとfinelventさんも同様の感想をお持ちかと思い、コメントさせていただきました。
投稿: ひでき | 2004.08.11 19:47