対馬丸メモリアルデー
1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷により撃沈された。氏名判明者に限定すれば、学童775人を含む1418人の民間人がこの攻撃で殺された。僅かに59人の学童は救出された。この殺戮については日本では当時機密ということになったが、県民の多くは戦中この惨劇を知っていたようだ。
それから60年を経た今日、この惨事を追悼すべく、那覇市若狭の遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」(参照)が開館されることになった。
なぜこれほどの惨事になったのか、なぜ米軍は民間人を大量殺戮したのか。しかし、冷徹に歴史を見ればそれほど不思議はない。当時187隻の疎開船により約8万人にもが安全に疎開できていた。また、米軍はすでに商船も攻撃対象としていた。対馬丸は商船と見られていた。
当時、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹(現在84歳)は、琉球新報のインタビュー「子供乗船『知らなかった』 対馬丸攻撃の米潜水艦乗員が証言」でこう答えている(参照)。
―どのような命令を受けていたのか。
「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のように見せ掛けて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある。真珠湾攻撃の後、米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた。太平洋や大西洋、そのほかの指定された戦闘地域を航海しているこれら3カ国の船であれば、種類を問わず撃沈させるという意味だ。軍需物資や原料の輸送を防ぐためだった」
―対馬丸に子どもたちが乗船していたことを知っていたか。
「戦後35年ほどたってから、誰かが書いた本で知った。罪のない子どもたちが巻き込まれたことは、かわいそうなことだと思う」
―知っていたらどうしたか。
「答えるのがとても難しい質問だ。潜水艦の命令を出せるのは、たった1人の人間(艦長)で、彼の責任は重大かつストレスが重くのしかかっている。普通の人間であれば、戦争中であれ、無実の人々を殺そうと思う人はいない。私には何とも言い難い。もし、私が知っていたなら、(魚雷を)撃たなかったと思う」
この問いかけは虚しい。戦時下で軍規に背くことはできないからだ。
だが、カーター元二等兵曹の証言は正しいのだろうか。「ボーフィン号航海日誌」は米国立公文書館で公開されている。調査を行った保坂広志琉大法文学部教授は琉球新報「対馬丸出港前から攻撃目標に」(参照)でこう発表している。
1944年8月18日 鳥島南西海上で哨戒。
8月19日 粟国島北東海上を哨戒。
午前6時 煙発見。
午前6時38分 三隻の船団発見。2隻に接近。中型輸送船2隻、小型輸送船1隻。駆逐艦3隻。
午前7時7分 潜望鏡で見る。目標は4000ヤード。船団は那覇港へ向け基本航路を進み続けている。追跡を続ける。しかし接近に失敗。本艦は進行角度を変更し1時間ほど作戦を続行。予想航路を計算し損ねたようだ。引き続き追跡。スクリーンには船団の存在が確認されている。再び本艦が進行角度を変更。深度のコントロールを誤る。目標の船団が進路変更。魚雷発射が不可能になる。一時は目標を撃沈する位置につけていながら、絶好の機会を逃してしまった。残念極まりない失敗。
8月20日 伊江島西方海上を哨戒。
8月21日 久米島北西を哨戒。
8月22日 鳥島南海上を哨戒。
午前4時10分 船団発見。
(中略)
午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決める。
午後9時15分 アグニ丸(対馬丸)を目標に定める。
午後10時11分 対馬丸に魚雷命中。
午後10時21分 対馬丸が姿を消す。ボイラーが爆発したようなこもった激しい爆発音が三度聞こえる。火災が消え、レーダーにも映らない。
別途戦時遭難船舶遺族会が入手した米軍の無線傍受記録によれば、対馬丸含む輸送船団が中国を出発して那覇に向かっていることを米軍は事前に知っていた。那覇で民間人の大量乗船が行われたことは知り得なかっただろうか。また、記録中、対馬丸がアグニ丸とされているが、米側のコード名なのか不明だ。
私は、歴史好きの一人としてだが、この事態にはなにか不明な点がありそうに思える。ハーグ条約の海戦法規では交戦国の非武装商船に対しては、乗員の安全を確保した上でのみ、拿捕や沈没処分が認められているが、対馬丸の攻撃では米軍はあっさりと無視している。
近年、対馬丸が特に話題になったは、1997年12月4日のことだ。深海探査機「ドルフィン3K」が、鹿児島県悪石島北西沖約10キロの海底870mの深海に眠る対馬丸の船名の撮影に成功した。船首部に描かれた「丸馬對」の文字を示す写真は、沖縄県民に強いインパクトを与えた。そこにはっきりと幼い子供が今なおいることがわかったからだ。
沖縄では、その後、海底に眠る約1000柱の引き揚げができないものかと政府に陳情した。が、翌年12月24日、対馬丸船体引き揚げ可能性調査検討専門家会議(座長・藤田譲東大名誉教授)は総理府で記者会見し、現在の技術水準では、引き揚げは極めて困難とする最終調査結果を発表した。
本当だろうか。タイタニック号の沈没地点は深さ約4000mだ。一部ではあるが船体は引き揚げられた。「対馬丸引き揚げ9億円 私が見たロシア海洋研究所の実力」(参照)など引き揚げ可能とする提言もある。いずれにせよ、いつの日かこの引き揚げて沖縄の地に迎えて眠らせてあげなくてはならない。対馬丸の惨事は終わった物語ではない。
もう一つ、残された課題があると私は思っていた。真珠湾の復讐者と渾名される潜水艦ボーフィンについてだ。
潜水艦ボーフィンは、現在、戦艦アリゾナ、戦艦ミズーリとともに真珠湾の観光用の記念館になっている。1997年12月13日の琉球新報社説「海底の対馬丸が語る」によれば、そこでは潜水艦ボーフィンの戦果として、商船40隻と帝国海軍船籍4隻を沈没させたと説明していらしい。ばかな。学童775人の殺戮が商船というだけで終わりなのか。その愚かさかを知らしめずに、なにが反戦だと私は当時沖縄で暮らしていて思った。
しかし、今日、ネット上の潜水艦ボーフィンのサイト(参照)を見ると、対馬丸への配慮がある。"Tsushima Maru Sinking"(参照)には学童の死者についても説明されている。沖縄の人たちの説得によるものだろうか。いずれにせよ、米国側のこうした態度は公平であり、立派だと思う。真珠湾の復讐者潜水艦ボーフィンは栄誉に浴するのではなく、罪に穢れていることを米人も知らなくてはならない。
【追記 2004.8.28】
対馬丸撃沈について重要な仮説が出された。琉球新報「対馬丸撃沈の状況検証 當間栄安さん『遭難の真相』発刊」(参照)である。正確な書籍名は対馬丸遭難の真相』(琉球新報社)。
當間さんは「ボーフィン号の乗組員は『学童がいるとは知らなかった』と話すが、約1キロの距離まで対馬丸に接近し、潜望鏡で監視している。学童の乗船を知らなかったはずがない」と話し、「戦争になれば、無差別殺りくを禁止する国際法は完全に無視されてしまう。今、米国がやっていることも60年前と同じだ。
つまり、故意に非戦闘員、しかも、未成年を米軍は虐殺したのである。
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コメント
沖縄には記念館ができたと聞きました。
投稿: Sola | 2004.08.23 11:50
スイマセンザッと読んだ時に2行ほど飛ばしてしまったようです。読み直そうと思ってストップかけたのですが遅かった(汗
投稿: Sola | 2004.08.23 11:51
Solaさん、ども。いえいえ、強調なります。
投稿: finalvent | 2004.08.23 15:31
対馬丸撃沈について虐殺の仮説が出てきたので、追記した。
投稿: finalvent | 2004.08.28 19:36
ものすごくタメになりました。。
投稿: 雷那 | 2005.06.17 15:19
最強
投稿: あたま | 2005.09.21 14:09
対馬丸の船体確認については、鈴木宗男の科学技術庁の政務秘書官という経歴が重要との指摘があるようです。
琉球処分をめぐる中央政府と沖縄のねじれ
http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/56081819ce3fbb719f071940819fa29e
投稿: ペペロンチーノ | 2007.03.15 01:19