オリンピックと身体
私はオリンピックにまるで関心がない、とまで言ってもいいと思う。今回のオリンピックについて、しいて関心を持つのは韓国が日本より何個メダルを多く取るかな、ということだけ。韓国では今回シドニーより報奨金(最高約1500万円)が増えたし、金メダルなら兵役免除だ。って、もちろん、皮肉だよ。勝手にしろよ、と思う。というわけで、以下、酔ってくだを巻くような話になる。
私はスポーツが嫌いか? 概ね嫌い、と言っていいと思う。でも、中学高校と陸上部だった。もちろん、選手ではないし、競技を目指すのも嫌だ。私は、幼稚園から小学校に入る頃、小児喘息だったこともあり、運動オンチってやつだ。ドッジボールでは逃げるの専門。っていうか、玉が当たらないくらいの運動神経はあるというトホホなヤツだ。金魚掬いの金魚の気持ちがよくわかる。小学校が遠いっていうのがいじめられる理由であったりもしたし、勉強もできなかったし、てなものだが、高学年になり成績があがるにつれ、自己イメージを少しずつ変えた。中学で陸上部で訓練していたら、短距離はクラスで2番にはなった。1番にはなれない。先天的に飛脚の子孫かみたいなやつがいる。ま、そんなことはどうでもいいが、こうして自己とそのイメージと身体はまさに思想のように可変だということがわかるのも奇妙なものだった。
球技もひととおりはやった。ルールはわかるから、競技を見ろと言えば、見てわからないでもない。ただ、球技は抜本的に嫌い。というか、一つの玉を集団で追っかけるというのが、しらけてしまってダメだ。あんなものただの玉だ、オメーラなぜそんなに必死、みたいに思ってしまうのだ。もっとも、人の生き方には干渉しない。
大学ではフィットネスと水泳を適当にしていた。私は着痩せするタイプだし、ムキっと筋肉が付くタイプでもない。が、「わたしって脱ぐとすごいの」感は、当時は、若干あったかも。ホモ視線をよく浴びた。
身体を使うというか身体とその運動イメージについては、社会人になっても関心を持ち続けた。ダンスとかバレエとかやりたいものだと思った。バレエはさすがにできないが、ダンス系やニューエージ系の身体訓練は好きだった。世界的に有名なヨガのインストラクター、ロドニー・イー(Rodney Yee)のヨガのセミナーにも参加したことがある。一緒に参加していた欧米人の女性は恍惚(こうこつ)と彼の裸身を見ていたが(参照・スチルだとわかりづらいが)、なるほどね、あれは、さすがにセクシーだねと、思った。東洋人でもあそまで美になれるものなのだ(そもそも仏像っていうのはセクシーだよな)。ロドニーはムキムキ系の筋肉ではない。腹筋も強いが、Tarzanオススメの見せかけ肉ではない。ヨガでは腹筋は鍛えるが柔らくしないといけない。余談だが、ロドニーに訊いたら、昔バレエをやっていたと言っていた。あれだけ美しい裸身をしていながら、ファッションセンスがないのか、服を着ると中国人のオタクみたいになる。なんだか変な話になってきたな。
私は、レオナルド・ダ・ビンチがその重要性を説く解剖学にまで関心は進めなかったが、それでも骨格と筋肉の付き方には関心をもっていた。もともと西洋美術が好きなこともあり、よくトルソを見た。あれはなんというのか、見慣れてくると、なるほどいうものがあり、面白さがわかる。若者のトルソと中年のトルソの違い、少女のトルソと夫人のトルソの違い。そうしたなかに西洋的な美がどう表現されているかがわかるようになる。私はどうも欧米系のオヤジ志向なのか、マイヨール(Aristide Maillol)のトルソもいいと思う。女っていうのはむちっとしているのもいい(参照)。って、そういう話じゃないよな。
この話の出だしはオリンピックだった。古代オリンピックの場合、あれは競技というより、美しい身体を生み出し、観賞するというものだったのではないかと思う。全裸で競技をしていたというのも、トリビアの泉のネタで笑いをとるようなものではあるまい。
あの身体造形、つまり、アテネの考古学博物館やその他地中海の古代彫像を見ていると、はっきりととまでは言えないが、ギリシアの身体とローマの身体には肉付きの差があることに気が付く。個人的には背筋に違いがあると思う。ローマのほうは戦闘の香りがするのに対して、ギリシアのほうがスレンダーでセクシーだ。戦闘の身体ではない。プラトンの著作など読むと、こういう男色的な美の理念があったのだろうとも思う。
こういう考えかた、つまり、オリンピックはギリシア身体の生成に関係するのだろうというのは、誰かがすでに言っているのか知らないのだが、以前、シュタイナー・スクールを卒業した人とそんな話をしていたら、スクールではではまさにギリシア競技をやっているとのことだった。声(シュプラッハ)を出すにも、やり投げなどが基本になるらしい。ほんとかね。
シュタイナー、つまりルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)については、ここではちょっと言及するにためらうのだが、ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner)についても言える面があるが、どうしてもギリシアを模した美とナチの美学の類型に連想が及ぶ。そう、アレだ、「民族の祭典」(Fest Der Volker Olympia)である。1936年ベルリン・オリンピックの記録映画という枠組みを持つものの、端的に言って、ナチ美学である。「美の祭典」と併せてオリンピア二部作とも言われる。露骨にギリシャ古代遺跡に始まり、その彫刻と同じようにポーズをとる裸体美の描写などが映し出される、と言ったものの、近年NHKでも放映されたことがあるが、私は部分的にしか知らない。
こーゆーのなんなのだろうねと思う。大正生まれの山本夏彦や吉本隆明も、この手のスポーツ美学を非常に嫌悪していたが、嫌悪と忌避ですまされる問題でもない。
幸いと言っていいのか、現代のオリンピックは成果主義なのか、特定の競技にアスリートの身体が特化されて(畸形化なんて言っちゃいけないよね)、ギリシア的な身体美は出現しない。唯一の救いは黒人の陸上競技者の美しい身体だ、と思う。
| 固定リンク
「雑記」カテゴリの記事
- ただ恋があるだけかもしれない(2018.07.30)
- 死刑をなくすということ(2018.07.08)
- 『ごんぎつね』が嫌い(2018.07.03)
- あまのじゃく(2018.03.22)
- プルーム・テックを吸ってみた その5(2018.02.11)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
個人的には、黒人の短距離選手の体は好きじゃないです。
明らかにドーピングしてますよ。
長距離系が好きです。
トライアスロンがバランスよくて美しい。
「飛脚の子孫」には笑いました。
ホント、いるんですよ。
2歳のとき。
それこそ、歩くのがやっとかなッテ、いうころに、オカーサンって
走りよるフォームそのものが、ほかの子供とはまったく違う。
グッツ、グッと加速する2歳児。
見ると驚きます。
残念ながら、すでに中学で腰を痛めて、彼女は今は走ってない。
投稿: donadona | 2004.08.17 11:53
I also have no interest in the Olympics, especially since I have no TV. But I think it's interesting that the Korean government is giving Gold Medal winners exemption from the draft.
投稿: Karlo | 2004.08.18 01:56
トライアスロンや「近代五種」のような競技になごりをとどめているのでしょうね。ただ実際にそうした競技の選手の身体がギリシア的な身体美を備えているどうか、見ていないのでわかりません。
水泳で作られた身体はあるひとつの理想形だと昔から思っているのですが、いわれてみるとたしかにあれも特化されたデザインなのかもしれません。
投稿: summercontrail | 2004.08.18 14:20