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2004.08.12

[書評]祖国とは国語(藤原正彦)・父への恋文(藤原咲子)

 流れる星は生きている(藤原てい)で、当時26歳の藤原ていは、6歳の長男正宏、3歳の次男正彦、1か月の長女咲子を連れて壮絶な満州から引き揚げた。「祖国とは国語」(藤原正彦)はその次男、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」(藤原咲子)はその長女が、それぞれ、それから半世紀の時を経て書いた作品である。

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祖国とは国語
 「祖国とは国語」は、数学者藤原正彦が雑誌などに書いたの軽妙なエッセイをまとめたものだが、なかでも雑誌「考える人」に掲載された「満州再訪記」が満州引き揚げに関連して興味深い。彼は、半世紀の年月を経て、彼は自分が生まれた満州の地を母と訪れたかったというのだ。帯の引用がよく伝えている。

混乱の中で脱出した満州の地を訪れることは、長い間、私の夢であった。母の衰えが目立つようになったここ数年は、早く母と一緒に訪れなくては、と年に何度も思った。母が歩けなくなったり、記憶がさらにおぼろになったら、二度と私は、自分の生まれた場所を見ることはできない、と思うようになっていた。他方では、八十歳を超え、体力低下とわがまま増大の著しい母を、連れて旅することの憂鬱も感じていた。

 「わがまま増大の著しい母」というユーモラスな表現が今も気丈な藤原ていをよく表している。感傷的な物語ではない。また、この新京(長春)への旅行には、妹の藤原咲子も同伴していて、家族の会話も面白い。
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流れる星は
生きている
 旅の話には当然、「流れる星は生きている」が出てくる。現在の文庫版には、昭和51年(1976年)文庫版のあとがきが付いているが、そこで、この本が藤原ていにとって遺書として意識されていたことが書かれている。

引き揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、歯を食いしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた。

 「流れる星は生きている」の最後が死を暗示する暗いトーンで描かれているのは、まさに彼女が死に直面している現実があった。
 遺書を企図されていたという話は「祖国とは国語」の「満州再訪記」に続く。次男、藤原正彦は新京でこう思い出す。

 自宅にある『流れる星は生きている』の初版本を思い出した。引揚げの三年後に日々や出版から上梓された時、父と母は、三人の子供たちが大きくなったら読むようにと、三冊を大封筒に入れて大事にしまっておいたのである。
 引揚げの苦労がたたり病床に臥ていた母の、遺書がわりとして著されたこの本は、半世紀を経て、ぺらぺらの表紙も粗い手触りのページも、すべて茶色に変色している。それぞれの扉には、父と母からのおくる言葉が万年筆で書かれている。私あてのものにはこう書いてあった。

 これに手短に新田次郎と藤原ていの、父母としての言葉が手短だが続く。引用はしない。
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父への恋文
 藤原ていの引き揚げ後の病床のようすは、藤原咲子の「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にも描かれている。
 彼女は、戦後の大ベストセラー「流れる星は生きている」の咲ちゃんとして周囲から見られて育った。誰もが、「咲ちゃん、よく生きていたわね」と驚愕の眼でその少女を見つめたのだろう。しかし、本人にしてみれば当然わかるものではない。
 大人である私からすれば、その咲ちゃんは、母の強い愛情を受けて強く育ったに違いないと思う。もちろん、そうでないわけもない。だが、この咲子本人の本には、少なくとも私にはぞっとするエピソードが描かれている。藤原咲子は「流れる星は生きている」を読んだことで自殺をもくろんだという。その小学校六年生の時の咲子の文章が、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にそのまま掲載されている。

 大好きなお父さん、咲子は死にます。
 これ以上生きていると本当に悪い子になってしまいます。「チャキはいい子だね」とお父さんがいつも私の頭を撫でるでしょう。嬉しいけれど、そのたびに、お父さんの咲子でなくなりそうな気がします。どんどん良い子から離れていくからです。

 自殺を決意した遺書だ。そのきっかけは、母ていの「流れる星は生きている」を読んでのことだった。まさかと思うだが、咲子はこの物語を読んで、自分など生きていなければよかったのだというように了解してしまったようだ。兄二人と一歳の乳児の生命の重要性に順序をつけようと苦悩する描写なども、咲子の心情を傷つけたようだ。
 そんな受け止めかたがあるものだろうか。なぜ、そんな「誤読」になってしまうのか。と、私はここで、ある種呆然とした思いで立ち竦む。
 小学六年生の女の子の心情とは、そのようなものである。幼いと言えば幼いのだが、死をそこまで思い詰める心の動きにうたれる。私が、少女の父親なら、感受性のするどい小学六年生の少女に立ち向かえるものだろうか。
 小学六年生の咲子は長い遺書を書いたのち、風邪薬を大量に飲んだ。市販薬の風邪薬だから、結果は傍から見れば笑い話にもなろう。これが、親が睡眠薬を常用していたのなら、ぞっとする結果になりかねない。
 もちろん、成人し、この話を書きつづる大人の藤原咲子はこう見つめ直している。

『流れる星は生きている』を読んだあとの絶望感は、日常のすべてにわたり、私を虚しくさせ、それをふり払うことができないまま、ついには母への不信感へと移行していった。風邪薬を飲むという行為そのものは、滑稽、幼稚であり、喜劇的な結末をもたらしたが、十二歳の、感性の豊かな少女の心をギリギリまで追いつめた数行の表現は、切なく、悲劇的なこと以外に、いったい何をもたらしたというのだろうか。しかし、戦時下でやむなを得なかったという重要な事実を、誰からも説明されなかったことは、それ以上に悲劇的であったといえるかもしれない。

 もちろん、そうだ。だが、と、私はここでも立ち止まる。では、誰かが戦争とはかくかくであったと説明すればよかったのだろうか? 曰く、戦争の悲惨さを語り継げ、命の尊さを子供に理解させよう、と。
 私にはわからないという感じがする。
 傍の者がここまで言ってはいけないのかもしれないが、彼女の心を死にまで追いつめたのは、まさに一歳のときの生死を分ける惨事の無意識そのものではなかったか。
 そして、その無意識は、母藤原ていとシンビオティック(symbiotic)な、死に直面する凶暴な何かだったのではないか、と思う。歴史とは、そのように、恐ろしい爪痕を心の奥深くに残すことで、継承されるものだろう。むしろ、歴史とは、我々の無意識の、個人の意識だけに還元されない集合的な無意識の、凄惨な残滓であるかもしれない。そして、母性と女性性とは、その恐ろしい何かに耐えるように人類の意識の基盤としてあるのかもしれない。
 だからこそ、「父」がそこに立ち向かわなければいけない。彼女の父、新田次郎はそれを本能的に、あるいは、歴史心情的に理解していたのだろうと、この本を読んで察せられる。
 咲子の心の傷は、父新田次郎の物語によって癒されることになる。不思議な奇跡の物語である。新田次郎という「父」の存在が、歴史がもたらした凄惨な無意識をきちんと受け止めるように援助し、そのことで、「生」への回帰を親和的にもたらしている。
 と、言辞を弄しているきらいはあるが…。
 私は藤原咲子という人の存在がとても気になる。昭和51年(1976年)文庫版「流れる星はいきている」の後書きで、母藤原ていは娘の咲子について、こう軽く触れている。

 当時生まれて間もなかった娘も、三十歳になった。大学で文学を勉強していたので、小説でも書き出すのかと思っていたら、自分で結婚の道を選んだ。すでに二児の母になっている。

 母から見ても、この娘は小説を書き出すように見えたのだろう。父新田次郎も、自分の死後自分のことを書いてくれと彼女に残している。親から見れば、この子は作家になるとの確信を持っていたのではないだろうか。
 変な言い方だが、戦後史に藤原咲子という小説家が不在であることのほうが不思議であるようにも思えてくる。
 小説家というのは、若くして書き出せばいいものでもあるまい。八つ当たりのようだが、ここで、私はよしもとばななのことを連想する。彼女もその作品のあちこちに父吉本隆明のイメージを描きながら、いまだに父と母の物語の核心を描いていないのはなぜか。私は、彼女がそれを書くまで、どれほど素晴らしい作品を書いても、運命が彼女に書かせるべき小説を書き上げていないのではないかと思っている。

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コメント

「心の傷」を病気のように扱う風潮に、ちょっと嫌気がさしているのです。傷に向き合うことが歴史に向き合うことでもあるのに。

投稿: synonymous | 2004.08.12 09:54

藤原ていも藤原咲子も読んだことはありませんが、
finalventさんの記事には共感しました。
以下は個人的な話です。母が家族の生命力を信じてうたがわず、
日常を前に進めていくとすると、父ももちろん日常に生きては
いますが、ときたま客観的状況を知らせたり、わりと大きな観点で
適切な方向を示したりということはあったような気がします。
ふだんはもっぱら母だのみ、母擁護なのですが、
あのとき父に救われたんだな、
という心当たりが確かにあるんですよね。

投稿: じゃがりこ | 2004.08.12 20:29

なんというか、世の中は、生かされている人と生きている人の二種類に分かれるのではないかと。私もどちらかというと生かされ派なんですが、そうかといって、「感謝の気持ちを大切に」みたいな方向へは行きたくないし、そもそも何に生かされているのかわからないというか、それがわかったら誰も苦労しねえよってな感じなんですが。意味不明な自分語り失礼しますた。

投稿: marionnette | 2004.08.12 20:55

先ほどの追伸を失礼します。
親の性別と子どもの性別で、どの組み合わせが
すんなりとサポートのやりとりができるか、というのは、
finalventさんの意見を聞きたいと思います。
特に、父と息子とか。

この話を母親と父親の役割分担が大切、といった関心と
取ってくださいませんように。
子どもの人生への、他者としての親のかかわりについて
考えさせられました。

投稿: じゃがりこ | 2004.08.12 21:47

じゃがりこさん、ども。親と子の性別のサポートの問題、率直にいうとわからないんです。ただ、社会的に広まっている進歩的な意見や保守的な意見と実態は違うように思います。だから、気をつけていたいと思うのです。

ごく個人的には、親というのは、とくに父親というのは、特に男の子に対して、男は死ぬものなのだということを教える存在かなと思います。うまく言えないのですが。

最近思うのですが、女の子の場合、父親というのは、いわゆる青年期の恋愛を経てから、彼女自身のパートナーとの男との関係の無意識に大きな意味をもつように思います。曖昧な言い方ですが、「父親が男選びに影響する」というようなことより、むしろ、女性が中年を生きる時点でのある課題のように思えます。

投稿: finalvent | 2004.08.13 08:48

私も藤原咲子の「父への恋文」には少なからぬ衝撃を受けました。実はこれを読んでなぜ藤原正彦は父への思慕ばかり語るのか、その謎が解けたような気がしたものです。言ってみれば藤原咲子は母の中に「ソフィーの選択」のソフィーを見てしまったんだと思います。そして男の子たちも決して無傷ではなかったはずです。
たとえば藤原ていは長男に「挫折」を教えるために中学受験をさせます。受験のための特別な勉強などしていないので当然落ちることはわかっている。自分はその程度の出来なのだと思い知るため、言わば天狗の鼻をへし折るためにあえて落ちるとわかっていて受験させるのです。しかし果たしてこれは教育的配慮といえるのだろうか、と戦後民主主義の教育になじんだ私はつい思ってしまう。
そしてそのざらつきを、藤原正彦のエッセイが中和してくれるのです。彼は雨の日も風の日も休まず塾に通った長男が中学受験に失敗し、兄よりも格段に勉強しなかった三男サブがあっさり同じ中学に受かった顛末を、あの軽妙洒脱なユーモアたっぷりの語り口で語ります。運不運、個性の違い、勝負の局面はひとつではないこと、人が花開くときはいろいろであること……そうした全人格的なまなざしに触れて私はああよかったとようやく胸を撫で下ろすことができるのです。
戦後民主主義が達成した現在の教育を貫くものが「去勢否認」
だとするなら(斎藤環)、藤原ていは迷わず子どもを「去勢」した孟母でしょう。それが彼女の「実感」に基づく子育てだったとして、それゆえのトラウマもあれば、「去勢否認」がもたらしたトラウマには、たとえば「ひきこもり」があげられるでしょう。
なるほど私たちは歴史の無意識から逃れられない、と思います。


投稿: T | 2004.08.15 01:31

Tさん、ども。Tさんには以前のコメントでもきれいに読まれていたなと思いました。歴史がただの知識ではない、無意識の感触して今の日本のこの時間にじっとひそんでいるのだなと思います。歴史の知識と私たちが私たちであること(日本人)の無意識をどう共同的な合意意識のなかにくみこんでいくか。実は現代の課題というのは、そういうフレームワークを持っている…あたりまえですが、そう思います。

投稿: finalvent | 2004.08.15 08:04

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