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2004.08.31

緑のある環境がADHD(注意欠陥多動性障害)を緩和する

 ADHD(注意欠陥多動性障害)が日本でも注目されるようになってきたが、今日のロイターヘルスに、子供のADHD改善について、興味深い研究が紹介されていた。ある意味で、常識的なことかもしれないのだが、緑のある自然に触れることで子供のADHDが改善されるというのだ。
 記事と研究の紹介の前に、ADHDについては、東京都福祉保健局の解説(参照)を参考に少し補足しておこう。
 ADHD(attention-deficit hyperactivity disorder)は、注意欠陥/多動性障害と訳されるように、注意力の障害と多動・衝動性を特徴とする行動障害だ。一般的な症状としては、注意障害(注意が持続できない、必要なものをなくす)、多動性 (じっとしていない、しゃべりすぎる、手足をそわそわ動かす、離席が多い)、衝動性(質問が終わらないうちに答えてしまう、順番を待つことが苦手、他人にちょっかいを出す、などがある。
 診断については、現在、極東ブログでおなじみのDSM-IVに加え、ICD-10がある(参照)。私自身もADHDの傾向があるが、それ以外にも私の人生にはわけあって、この問題がMBD(微細脳機能障害)と言われていた時代から関わりがあった。当時はこれが脳構造の欠陥とみなされていた。現在でもその系統をひいた解説も多い。また、学習の側面では、LD(Learning Disorders/Learning Disabilities)とも関係している。
 ジャーナリズム的には、あまり正確ではない印象も持つが、読売新聞「医療ルネサンス」シリーズの「多動性障害・ADHDと向き合う」が読みやすく、ネットからでも読める。


 この他、読売(岩手)「『困ったちゃん』で終わらせないで」(参照)のシリーズも実態を知るのに読みやすい。こちらのシリーズでは、大人のADHDについても扱っている。
 日本ではADHDをどちらかいえば知能が劣ったものとして捕らえられているが、米国では、著名人にも多いという受け止め方もある(参照)。サバン症候群とは違うが、ある種の学習的な能力欠損は別の能力の補償かもしれない。誤解されるかもしれないが、ADHD傾向のある私も自分の脳味噌と47年付き合ってきたのだが、どうも他の人と脳機能が違っているようだ。単に人それぞれの違いというだけのことかもしれないのだが。
 話を戻す。こうしたADHDの子供の症状を、植物のある環境が緩和するらしい。調査のオリジナルは"American Journal of Public Health, September 2004"の"A Potential Natural Treatment for Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder: Evidence From a National Study -- Kuo and Faber Taylor 94 (9): 1580"(参照)。結論はシンプルだ。

Conclusions. Green outdoor settings appear to reduce ADHD symptoms in children across a wide range of individual, residential, and case characteristics.
【試訳】
結論。緑の植物がある野外環境は、各種・各地域のADHDの子供の症状を緩和し、鎮静するようだ。

 ジャーナリスティックにはロイターヘルス"Great Outdoors May Ease ADHD Symptoms"(参照例)がわかりやすい。
 野外の緑ある環境は、芝生でも裏庭でもいいらしい。

They speculate that daily doses of "green time," such as simply taking a greenery-splashed route when walking to school, or playing on grass instead of concrete, could aid in managing ADHD.
【試訳】
例えば、コンクリートで覆った公園より芝生で遊ぶことや、通学路に緑があるだけでもいい。研究者達は、そうした、緑の時間「グリーンタイム」があるだけでも、ADHDの症状を扱いやすくするとしている。

 「グリーンタイム」という表現がいいと思う。また、もう一ついいキーワードがある。「注意疲労」だ。

Attention fatigue, though fleeting, shares characteristics with ADHD, the researchers note. Some studies, mostly in urban areas, have suggested that spending time in green spaces eases children's ADHD symptoms.
【試訳】
短時間とはいえ「注意疲労」もADHDの症状と関連している。他の都市部での調査だが、緑のなかですごす時間はADHDの症状を緩和しているようだ。

 自然を好む日本人としては、緑の自然が人間の心を癒すというのは、ごく当たり前に受け止めるだろうと思う。その意味で、つまんない話なのかもしれない。しかし、実際に我々の現代の生活を、「グリーンタイム」と「注意疲労」というキーワードで見つめてみると、わかっていても、そこに大きな欠落があることに同意するしかないだろう。
 辛口エッセイで有名な高島俊男先生も以前連載のエッセイで、緑の木立のなかを散歩するとすこぶる眼によいというようなことを書いていたが、多様な緑の色彩もだが視点が多様になっているのもいいのだろうと思う。我々は読書やパソコン作業では、注意を一点に集中する。慢性的な「注意疲労」があることは想像しやすい。しかし、自然の活動は注意をある程度分散しなくてはいけない。それが注意疲労の軽減にもなっているだろう。
 個人的には、この調査を聞いたとき、私は高校生くらいまで木登りをしていたことを思い出した。実家の隣の空き地には、手頃な松の木があった。そこに私は猿のようによく登った。小学校六年生のとき、アマチュア無線の電話級の試験に合格して嬉しくて登ったことを昨日のように思い出す。ADHDっぽい少年の私は数多くの緑に支えられてきた。思い返すと、小学校から大学までずっと芝生だの雑木林のあるところだった。あの木々と草たちに感謝したい。
 イーデス・ハンソンの「花の木登り協会」は復刻されないのだろうか。今の子供たちが木に登らないことをちょっと悲しく思う。

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2004.08.30

プリンス正男様、母の生まれた国へ、またいらっしゃい

 北朝鮮金正日総書記夫人高英姫(コ・ヨンヒ)の死亡を北朝鮮朋友朝日新聞(ちなみにチョウニチ新聞とは読まない)が、ようやく報じた。「金正日総書記夫人、死亡説 韓国の通信社が報道」(参照)。死因は心臓疾患とも言われているが、詳細はわからない。享年51歳。同じ風景を見た者として哀悼の意を表したい。
 高英姫は日本に生まれた。父高泰文(日本名高山洲弘)は済州島の生まれだとも言われるが、日本に来て大阪で暮らしていた。著名な柔道家でもあり(参照)、後年、北朝鮮に渡っても柔道界の指導に努めた。
 高泰文は戦後は北朝鮮籍とのことでオリンピックなどの場では柔道での活動ができず、昭和30年には当時人気スポーツだったプロレスに転向して活躍した。リング名は大同山又道である。昭和31年日本ジュニア・ヘビー級王座決定トーナメント戦での活躍では、駿河海三津夫の初代日本ジュニア・ヘビー級王者に次ぐ2位になった(参照)。しかし、2位は敗北かもしれない。そのせいもあってか、彼はプロレスを廃業し北朝鮮渡り、当地で体育協会の副会長となり、柔道の普及に努めた。娘の高英姫はダンサーとしての美貌もだが、著名な柔道家の娘としても有名になっていたのだろう。
 高英姫は昭和28年生まれ(推定)だ。離日の年代は1960年代だから、少女時代は日本で暮らしていたことになる。ある意味では日本のよき時代を知っていたかもしれない。そうであって欲しいと日本人の私は願う。2ちゃんで見かける日本の若者はウリナラマンセーとか気合いを込めたのが朝鮮語だと思っているが、本当の朝鮮語は、本当の日本語がそうであるように、たおやかでやさしい響きがするものだ。高英姫ならそれを語ることができたことだろう。金正日の嫡子金正男が、しばしば来日していたのも、義母の第二の故郷への憧憬もあっただろう。

cover
金正日に
悩まされるロシア
 高英姫はその人柄ゆえか、北朝鮮を実質支えている朝鮮人民軍でも「尊敬するオモニ」と呼ばれているとのことだ。高英姫がいわば帰国子女だったように、同じくソ連人の帰国子女である夫正日(ユーリ・イルセノビッチ・キム)とも共感できる部分は多かったのだろう。
 夫正日は妻への愛情と信頼も厚く、それゆえに彼女の死は彼の人生にも深い思いを残すことだろう。金王朝の世継ぎにも影響するとの噂もある。というのも、高英姫は嫡子であるがゆえに正男をよく諫めていたとのことだ。彼女が嫡子正男を失脚させたとの噂すらあるほどだ(参照)。
 そうした噂に踊らされてか、同朝日新聞記事にはこうある。

 高夫人は金総書記の有力な後継候補とされる次男の金正哲(キム・ジョンチョル)氏、三男の金正雲(キム・ジョンウン)氏の母親。金総書記には前妻の故成恵琳(ソン・ヘリム)氏との間に長男金正男(キム・ジョンナム)氏がおり、高夫人の安否は後継問題に影響を与えるとの見方が強い。

 北朝鮮の朋友朝日新聞も無礼なことを書くものだと思うが、歴史を知らない、あるいはよく歴史を忘れる朝日新聞ということかもしれない。歴史を顧みないことはかくも愚かなことだ。次男正哲が有力な後継候補とされるわけなどない。米人ですら、歴史に耳を傾けている。ニューヨークタイムス"A Mystery About a Mistress in North Korea"(参照)はこう述べる。

"Now Kim Jong Nam might be the best candidate," continued Mr. Kim, the defector, who once worked for the Central Committee of the Korean Worker's Party. "He was most loved by Kim Jong Il and Kim Il Sung" - Kim Jong Il's father and political predecessor - "and has the most international sense of the three."

But Korea has hundreds of years of history of brutal dynastic politics, in which male family members have frequently killed one another in fights over the throne.

"All during the Chosun dynasty, the succession struggles were very severe," Dae Sook Suh, a political science professor at the University of Hawaii, said of a five-century dynasty that ended in 1910. "There were uncles killing nephews, and brothers killing brothers, all to stay in the line of succession."


 そうだ。朝鮮の歴史を少しでも知るものなら、血塗られた王朝の始まりを誰もがみーんな知っている。
 そして、後年金日成と呼ばれる元ソ連人金成柱の名を見れば、誰も李氏朝鮮の太祖李成桂を思い出すだろう。日本で言ったら、神武天皇、あるいは天武天皇(実はどっちも同じだが)のような建国の英雄だ。李成桂を思い起こせば、その皇子たちの果てしない醜悪な跡継ぎ争いを、当然思うものだ。意外にもこの話はWikipedia「李氏朝鮮」に詳しい(参照)。

 李成桂は、新王朝の基盤を固める為に没頭していたが、意外なところから挫折することになる。李成桂は自分の八男である李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同志の殺し合いまでに発展する。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男の李芳遠(後の太宗により殺されてしまう。このとき李成桂は病床にあり、そのショックで次男の李芳果に譲位してしまう。これが2代王の定宗である。しかしながら定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男の李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ仏門に帰依する事になる。
 一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした、李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代王太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備しなおし政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、李氏朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備されていくのもこの時代である。

 太祖李成桂にしてそうだった。金成柱(金日成)がどれほど金正日の異母弟金平一を世継ぎとしたくても、ダメだった。嫡子は嫡子だ。トートーメーはトートーメーだ。門中は門中だ。今日はうーくいだ。かくして、平一は現在もポーランド大使として国外退去となっている。
 金王朝の三世は金正男に決まったと言ってもいい。日本も、生さぬ仲とはいえ、縁あるこの皇子を快く迎えようではないか。
 もちろん、朋友朝日新聞ですら無礼なことを書き散らすように、不穏な空気はある。同胞韓国人も憂慮している。朝鮮日報「北に親中政権が登場するのではないかと眠れなかった」(参照)がよく表している。

 高建(コ・ゴン)前首相が「大統領権限代行として務めた今年4月、北朝鮮の龍川(リョンチョン/竜川)で爆発事故が起きた時は韓半島情勢が心配で夜も眠れなかった」と打ち明けた。
 もし、金正日(キム・ジョンイル)政権が突然崩壊し北朝鮮に権力の空白が生じる場合、中国が介入することになり北朝鮮に“親中傀儡政権”が登場するのではないかという判断や、その場合韓国が北朝鮮に影響を与えられる手段をひとつも持っていない現実を知っていたためだという。

 杞憂ではあるまい。金正日政権が突然崩壊して北朝鮮に権力の空白ができれば正男への王権委譲はすんなりとはいかないだろう。朝日新聞が暗黙にヨイショするように、金正哲あたりに王朝を嗣がせた親中傀儡政権ができるかもしれない。そういえば、河の向こうに中国の軍隊が見えるじゃないか。
 なに? 朝日新聞は北朝鮮の朋友じゃなくて、親中傀儡報道機関? まさか、そんなことはないでしょ。でも、正哲の期待を日本国内に高めてくれるかもしれないのだが。

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2004.08.29

[書評]私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界(クリスティーン ボーデン)

 「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」という本については、これまでなんどかここで書評を書こうかと思って、そのたびごとに読み返し、ためらい、そして断念した。書きたいことはあるがなにも書けない気がした。が、少し書いてみよう。この本は、とりあえずは、標題のように、アルツハイマー病患者の内面を描いた手記と理解していい。
 書いてみようかと思ったのは、今朝の朝日新聞社説「痴呆症――患者の思いにふれたい」を読んでいて、ちょっと嫌な感じがしたからだ。単純に非難をしたいわけではない。社説の執筆者がこの問題を理解していないのにきれい事を書いているなという印象を持ったくらいのことだ。嫌な感じを受けるのは私だけかもしれない。この部分だ。


 昨秋、市民グループの招きで来日したオーストラリアの女性、クリスティーン・ブライデンさんも参加する。アルツハイマーを発病する前は政府の高官だった。病名がわかったとたんに誰も近寄らなくなり、社会的に孤立した。その苦しみや日常生活の過ごし方、子どもたちの顔がわからなくなる恐怖などを講演会で静かに語りかけて感動を呼んだ。豊かな感情は少しも損なわれていなかった。

 揚げ足取りに取られるかもしれないが、「豊かな感情は少しも損なわれていなかった」という表現に私の心は少し傷つく。彼女はたまたま感情に障害がないか、それを乗り切ることができたのであって、こうした障害を持つ人に、たとえ豊かな感情の表出がなくても、その心にはなんの変わりもないのだ。
 あえて、人の魂には変わりがないと言ってみたい。知的にまたは感情的に障害を受けても、人の魂に及ばないことがある。もちろん、そう言えば、宗教めいた言い方すぎるのかもしれない。
cover
私は誰に
なっていくの?
アルツハイマー病者
からみた世界
 ジャーナリズム的にもちょっと疑問が二点ほど残った。敬称は略すが、まず「クリスティーン・ブライデン」の名称。これは再婚後の名称だ。しかし、「クリスティーン ボーデン」名で書籍が出ているのだから、その注記があってもよかったのではないか。また、夫のブライデンにも言及しなければ、「クリスティーン・ブライデン」とする意味は少ない。
 もう一点は、この書物にも言えることだが、クリスティーン・ボーデンはアルツハイマー病ではない。この問題は微妙なのだが、問題の背景を朝日新聞社説執筆者は調べていないように思う。「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」には、小沢勲種智院大学教授の解説があり、彼女の文章とその病態について次のように明記している。

この文章を読んだわが国の専門家のなかには、ボーデンさんの痴呆という診断が誤診なのではないか、と疑った方があったという。
 確かに、彼女は痴呆ではあるが、前頭側頭葉型痴呆というアルツハイマー病の中核群からややはずれた病態であることが関係しているだろう。本書ではアルツハイマー病と診断されたとあるが、国際アルツハイマー病学会の招待講演で、彼女は前頭側頭葉型痴呆と自己紹介している。ちなみに、専門家のあいだではこの二つの病態は区別して論じられるのが通常である。

 厳密にはアルツハイマー病ではない。が、もちろん、彼女の体験から私たちがアルツハイマー病について学ぶことは多い。
 朝日新聞社説に難癖をつけているようだが、私が願うのは、こうした問題を、単純なきれいごとで片づけないで欲しいということだ。
 話を書籍に戻す。彼女が厳密にはアルツハイマー病ではないとしても、この本の価値はいささかも減じない。普通に暮らしている人間に突然脳疾患が訪れたときの驚愕をこれほど正確に伝えている書籍は類例がないように思う。原題は"Who Will Be When I Die?"、つまり「私が死ぬとき、私は誰になっているだろうか?」だ。
 そういう苦悩に直面させられたとき、人によっては自殺したくなるような苦悩が起こる。あまり言ってはいけないことかもしれないが、そういう状況では、「今、自殺すれば、少なくとも意識は私のままだ」という思いは捨て去りがたい。
 こうした苦悩をなにが救えるのか。実は、この本はそのために書かれている。それがテーマだと言っていい。
 本書が示唆する答えは、「魂」だ。と、だけ言えば、すでに宗教の領域に入っているし、筆者も自分の自身のキリスト教信仰を人に押し付けるように受け止められることは極力抑制している。だかこそ、下品な言い方だが、この信仰と霊性は本物なのだということが伝わってくる。
 私たちは絶望のなかで神を呪うことがある。日本古来とされる神々は、私の印象ではそのように呪われることをよしとしないようだ。仏教では呪い自体が事実上禁忌であるかのように抑制される。しかし、キリスト教の神は呪ってもいい。神に対して、「なぜこの苦しみがあるのか、あなたはなぜこの苦しみを私に与えるのか」と問うてもいい。
 ボーデンはまさにこの苦悩のただ中を生きて、こう語っている。

 神は、私の病気につける「救急ばんそうこう」ではなかった。しかし、あの診断と私の未来にうまく折り合いをつけることを通して、私は大きく変わった。聖書をよりよく理解し、神の愛により深く感謝し、私の人生において神の目的とされるものを受け入れた。この精神的成長は、ほんの三年間にわたってのことだが、真の祝福となった。
 この旅を思い巡らせて、今、私は神にさらに大きな信頼をおくようになっていることに気づく。私は、神の約束を自分の内に深く信じるように一所懸命努め、いつまでも残る疑いを取り除くことを学んだ。
 私に「もし、選ぶとしたら、この精神的成長は得られなくてもいいから、再び元気になるほうがよいと思うか?」と聞かれるなら、私の答えは疑うべくもない。

 ここには恐ろしい真実があるようだ。しかし、私は、正直に言うのだが、その信仰も彼女も肯定しているわけではない。私には私の人生があり、私には私の神へ呪いがある。私は木に登る収税人である。
 本書には日本での編集の際に彼女のインタビューを巻末につけている。そこにはこうある。

痴呆症と診断された時、「自分の人生に意味があるのかという思いと、今日から違うかたちの自分の人生を楽しんでいくんだと考える内側からの力がないと生きていけません。カウンセリングでは……その人にとって、何が一番大切なのかを探っていくべきなのです。それがみつかれば、ハードルを越える力を生み出すことができます。痴呆症の場合は、自分がなくなるという恐れがあります。でも、それがなくなっても魂があるので恐れることはないのです。

 「痴呆症の場合は、自分がなくなるという恐れがあります」というのは恐ろしいことだ。だが、それに対置されている魂とはなんとも非科学的なと思う人も、日本人には多いかもしれない。
 精神医学者ですら、DSM-IV、の「臨床的関与の対象となりうるその他の状態(Other Conditions That May Be a Focus of Clinical Attention)」のV62.89「宗教または魂の問題(Religious or Spiritual Problem)」 をジョークと見ているかもしれない。いや、専門家はこの問題の奇妙さに真摯に取り組んでいるのに、現代日本社会がDSM-IVの上っつらをなめているだけなのかもしれない。
 そのいずれであっても、いいのだろうとは思う。魂の問題は、それを問うその人だけの人生の意味に深く関わっているのだから。

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2004.08.28

スーダン・ダルフール虐殺問題と日本、そして日本のブロガー

 微妙な問題なのでうまく書く自信がないが、書いておく責任のようなものを少し感じている。Googleでダルフール問題を検索する結果として極東ブログが上位にヒットするからだ。理由は、おそらくこの問題を日本語でした初期メディアの一つだからだろう。
 これまで極東ブログでは次の2つの記事を書いた。


  1. スーダン・ダルフール州の民族浄化(参照
  2. スーダン虐殺は人道優先で。石油利権の話はやめとけ(参照

 どちらも英文の参照を除けば、ダルフール状勢について日本語では十分な情報は提供していない。
 その後、誰の手によるものか、Wikipediaに「ダルフール紛争」(参照)が掲載された。掲載は遅きに失する感もあるものの、概ね正しく、政治的な偏向はほとんどない。
 極東ブログが当初問題のきっかけとした国境なき医師団にもその後スーダン内戦について特殊ページができている(参照)。アムネスティジャパンも、やはり遅きに失する感もあり背景説明も不十分だが、日本語の情報を掲載しはじめた(参照)。
 ダルフール紛争がどういうものであるかは、これらのページを参照するといいだろう。
 脇道に逸れるようだが、極東ブログでは、JANJAN「アフリカのスーダン 米国が制裁!?」(参照)を批判したが、その後、JANJANではこの問題について反米的な主張は控えてきており、8月以降の記事は概ね正しい。特に、「英国外相 人道危機のダルフール視察」(参照)での次の指摘は重要だ。

 スーダン政府の取り締まりは表(国連)向きのポーズに過ぎない。現地を視察した国連のプロンクス特使は23日、「殺戮は続いている」と明らかにした。

 端的に言うのだが、スーダン政府は全然信用できない。この点を重視するのは、来月スーダン政府が日本政府に経済援助でコンタクトを取ろうとしているからだ。
 話を端折って意見が粗くなるが、日本政府は人道支援とかぬかしてスーダン政府支援をやりかねない。そんなことをすれば、この信頼できないスーダン政府によってダルフールの人々はどのようになるのか、火を見るよりも明らか、と古くさい表現で言いたい。
 スーダン政府の裏には中国がいることは、極東ブログ「スーダン虐殺は人道優先で。石油利権の話はやめとけ」(参照)で触れた。日本外交のチャイナスクールがこれに迎合しかねない怖さを感じる。
 なにより人道支援が最優先だが、この問題には、米国、中国、アラブ世界、アフリカ世界を巻き込んでいる複雑な政治背景もある。ロシア非合法組織などは、スーダン政府に武器販売を行っている。
 人道支援の邪魔になる政治要素をどのように排除したらいいのかも、問われなくてはならない。恐らくこの関連で、日本の最近の報道では、大衆興行オリンピックの陰でダルフール問題の報道はかなり抑えられている。
 活発に活動しているかに見えるイギリスもある意味でやっかいだ。端的に言ってイラク問題で失政したブレアがダルフール問題で挽回しようとしている気配がある。対フランスでの顕示もあるのかもしれない。それでも結果さえよければいいのだが、どうもバランスがおかしい印象はある。米国と国連は、これも端的に言えば、ワシントンポストがいきり立つほど、手ぬるい。
 こうした中、ブログやネット・ピープルは、ダルフール問題に活発に動き出している。そのようすは、幸いにか、極東ブログでも見ることができる。先日の8月25日は「ダルフール良心の日」への呼びかけがあった。"Sudan: Day of Conscience August 25, 2004"(参照)がそれだ。
 また昨日、"International Sudanese Peace Meetup Day"(参照)の呼びかけを受けた。イギリスのIngridさんのコメント(参照)を転載する。

Hello finalvent, I found your blog in the sidebar at Passion of the Present. Thought you might like to see a copy, here below, of a report in the Sudan Tribune today. Also, someone just emailed me to say Meetup.com is reporting September 6 is International Sudanese Peace Meetup day... I don't know if it's coordinated by another group or this is just a monthly, smaller event. I'll treat Sept 6 as a global "virtual" meetup day and aim to do a post that links to you in Japan from England and to Passion of the Present in the USA and other blogs I know of in Canada, Australia, Malaysia. What about China and Russia -- do you know of any bloggers writing about the Sudan there? If I link to you, will you know via Technorati? Seems the bloggers in Malaysia don't get the pings when I link to them. Best wishes from England, UK.

【試訳】
finalventさん、こんにちは。"Passion of the Present"のサイドバーであなたのブログのことを知りました。下にコピーしておいたのを読んでもらえると思うけど、これは今日のスーダン・トリビューンのリポートです。私にメールしてくれた人の話だと、Meetup.comが9月6日のスーダン平和の対話デーをレポートするとのこと。これが別グループとの協賛なのか月例なのかわからないけど、とりあえず9月6日を、グローバル・バーチュアル・ミートアップ・デー(世界中の人がこの件で対話する日)としたいと思います。目的は英国からあなたの国日本にメッセージを送ってリンクをつなげること。アメリカのPassion of the Presentや、私が知っているカナダ、オーストラリア、マレーシアといった国のブログにも送ります。そこで相談だけど、日本中国とロシアでスーダンについて書いているブロガーはいますか? 私があなたのブログにリンクしたら、Technorati経由でわかるでしょうか? マレーシアのブロガーは、私がリンクしてもピン(ping)が打てないらしい。ということで、イギリスからよろしく。


 参照されている記事はこうだ。
 オリジナル:http://www.sudantribune.com/article.php3?id_article=5028


TOKYO, Aug 27, 2004 (Kyodo) -- Sudanese Foreign Minister Mustafa Osman Ismail will visit Japan Sept 5-9 for talks on the conflict in the African nation's Darfur region, ministry sources said Friday.

Ismail is expected to meet with Japanese Foreign Minister Yoriko Kawaguchi on what the United Nations says is the world's worst humanitarian crisis.

The Japanese government has suspended economic assistance to Sudan since 1992 on the grounds of human rights violations by the military junta and still does not believe that circumstances warrant a resumption of such assistance, the sources said.

But Japanese officials are willing to consider emergency or other humanitarian assistance if the Sudanese government makes some progress in resolving the conflict such as disarming militias, the sources said.

There has long been tension in Darfur between Arabs and black Africans.

Tens of thousands of people have been killed and more than 1 million have been displaced since February 2003, when African rebels rose against the government, which they say is persecuting them. Arab militias also started assaulting Africans indiscriminately. [end]

【試訳】
2004年8月27日共同 --  官邸筋によると、スーダンのムスタファ・オスマン・イズメイル外相は、来る9月5日から9日にかけて、アフリカの国であるダルフール地域の紛争について対談すべく、来日するとのこと。
 イズメイル外相は、国連が言うところの世界で最も陰惨な人道危機について、日本の川口外相と対談する意向だ。
 日本政府は、スーダン軍事政権による人権侵害を理由に1992年以降経済支援を中断しており、現状でもなお支援再開の状況が整っていないと見ているとのこと。
 しかし、日本側の政府担当者たちは、スーダン政府が武装解除など紛争解決への意欲を見せれば、緊急事態として人道支援を行うことも検討しているとのこと。
 現在ダルフール地区ではアラブ人と黒人アフリカ人との間に長期にわたり緊迫した状況が続いている。
 2003年2月以来、数万人に上る人々が殺害され、100万人が避難民となっている。2003年2月とは、アフリカ人勢力がスーダン政府に対して反乱を起こした時だ。アフリカ人勢力は、政府がアフリカ人勢力を迫害していると主張している。時を同じくして、アラブ人武装勢力もアフリカ人勢力に対して無差別的な迫害をはじめた。この段落はsilvervineさんの訳を借りました。


 誤訳、つまり、私の理解が違っている点があったら指摘して欲しい。つまり、私を助けて欲しい。
 さて、ダルフール問題にどう日本のブロガーは取り組むべきだろうか。私には単純な答えはない。大筋では、日本は人道支援を優先しなくてはいけないが、現状のスーダン政府を日本は受け入れてはいけないと考える。
 日本も国連下で活動すべきだろうとは思うが、現実問題として突き詰めれば、米軍に動いてもらうしかないのではないか。

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2004.08.27

性犯罪者につける薬?

 標題は別のブログのテーマみたいだが、久しぶりにお薬系の話。ロイター・ヘルス"Anti-Addiction Drug Treats Teen Sex Offenders"(参照例)を読んでへぇと思った。標題を試訳すると「抗中毒薬が十代の性犯罪者に有効」となるだろうか。これからの社会は、性犯罪者をお薬で対処しようとする傾向が出てくるかもしれない。なお、典拠は"Journal of Clinical Psychiatry, July 2004."の"982 Naltrexone in the Treatment of Adolescent Sexual Offenders. Ralph S. Ryback "(参照)だ。
 余談めくが、"Sex Offender"に定訳語があるのかとgooの三省堂提供「EXCEED 英和辞典」や英辞郎をひくと「性犯罪者」とある。英辞郎の用例には"teen sex offender"まであったのはちょっと驚いた。翻訳の世界では定訳語化している感じがする。ついでに、日本特有の「痴漢」は英語でなんと言うのかと見ると、molesterあたりがよく出てくる。しかし、痴漢も"sex offender"だがなと思ってぐぐると「彩の国高校生英語質問箱第158号」(参照)がよかった。英作文のMLらしい。お題は、「チカンを見たら110番!」だ。そこで痴漢をこう説明している。


痴漢は、性的いたずらをする男を意味しますが、英語では男女の区別をする必要はありません。英語では“sexual offender”が適当です。なお、動詞“offend”の意味は次のようになっています。
 ・to make somebody feel upset because of something you say or do that is rude or embarrassing
この言葉を使って、次のように表現します。
 ・Call 110 to report (a) sexual offender.
看板では、不定冠詞を省略して、短くすることも可能です。複数形にしても構いません。

 ま、そういうことだ。
 話を戻して、「抗中毒薬が十代の性犯罪者に有効」だが、こうある。

Naltrexone, a drug that has been used to treat various addictions, safely controls sexual impulses and arousal in adolescent sexual offenders, new research shows.
【試訳】
各種の依存症に処方されるナルトレキソンだが、最新の研究で、青少年期の性犯罪者の性衝動や性興奮を安全に制御するのに役立つことがわかった。


Ryback states that use of naltrexone "provides a safe first step in treating adolescent sexual offenders. It is possible that the benefits observed here will generalize to the large population of non-socially deviant hypersexual patients."
【試訳】
研究者リバックによれば、ナルトレキソンの処方は、青少年期の性犯罪者に対して、安全でかつ最初に試みられる対処になるとのこと。また、同研究員は、今回の結果から、多数の反社会的な変質者に対しても効果を持つだろうと推測している。

 これを読んで私は、え?という感じがした。性犯罪者までお薬で対処、で終わりという社会になるのかと思ったからだ。
 しかし、しばし考えてみると、それが実際的ではあるのだろう。現実日本でもアメリカでも精神疾患者への対処は薬物による治療がメインだ。また、日本ではなんだかんだと実現されていないが、米国では性犯罪者については社会的に徹底的にマークすることで社会の安全を実現する方向に向かっている。このようすは、先の用語でちょっとふれた"sex offender"で検索するとわかっていただけるだろう。上位にsex offenderの検索サイトがぞろぞろ出てくる。
 それにしても、ナルトレキソン(Naltrexone:Revia)か、というのが次に私が思ったことだ。ナルトレキソンは、アヘン受容体拮抗薬としてアルコール依存症の治療薬として米国食品医薬品局に承認されている。日本での扱いはどうかとネットを見ると、意外にも、「プラセボ以上の有効性を示す証拠は認められない」とする見解が目立つ(参照)。このあたりは、どうも日本の精神医学会になにか事情がありそうだ。というのは、スタンダードな医療事典であるメルクマニュアル「第7節 精神疾患 薬物依存と嗜癖」(参照)にはこう記載されている。

もう一つの薬物、ナルトレキソンは、人々がもしそれをカウンセリングを含む包括的な治療計画の一部として用いるなら、アルコールへの依存を減らすのに役に立てる。ナルトレキソンは、脳内の特定のエンドルフィンに対するアルコールの効果を変化させることで、アルコールへの渇望と消費に関連する。ジスルフィラムと比較して大きい利点はナルトレキソンが人々の気分を悪くしないということである。しかし不利な点は、ナルトレキソン服用者は(アルコールを)飲み続けることができることである。ナルトレキソンは肝炎あるいは肝臓病がある人が服用すべきではない。

 メルクマニュアルの解説は今回の""Journal of Clinical Psychiatry"の結果を理解する上での補助にもなるだろう。つまり、性犯罪は、脳内の特定のエンドルフィンに対する効果、という可能性があるわけだ。
 もちろん、そんなことは嗜癖という点からすればあたりまえのことじゃないかとも言えるかもしれないのだが、私は嗜癖という概念はそうむやみに拡張すべきではないと考えている。逆に言えば、嗜癖についてもう少し丁寧な研究も必要だろうとは思う。というあたりで、たまたま「東京都精神医学総合研究所 - 薬物依存研究部門 - 部門業績」(参照)を見つけた。

性的障害(sexual disorder)の分類やその治療については、すでにいくつかの論文や成書が公表されており、これらの知見をもとに、議論を一歩進め、「嗜癖」の概念や視点から、様々な性障害の成因や治療について、再度捉え直しを試みた。特に、従来別個に論じられてきた、小児性愛やレイプなど「性犯罪」に類型化される逸脱行動と、「セックス嗜癖」あるいは「恋愛嗜癖」と称される逸脱行動を、統一的に理解することは可能であろうか。本論は、こうした問題意識に基づいて、様々な性障害への治療的アプローチについて、最近の動向をまとめた。その結果、Marlattらに代表される物質依存の認知療法理論や自助グループによるアプローチが、治療の現場に積極的に取り入れられ、めざましく発展している動向が判明した。

 専門家でもそういう模索が進められているのだろう。
 さて、私はこうした問題をどう考えるのか?
 もったいぶるわけではないが、ちょっと言いにくい。特に「十代の性犯罪者」というのは実はすでに日本社会にとって深刻な問題ではあるのだが、そこが踏み込みづらい。
 なんとか言える部分としては、こうした議論を社会が受け取るとき、すでに「性犯罪者」として処理済みになっているので、彼らを社会から疎外しているのだなということが気になる。そのあたりの問題意識はたぶん日本の識者にもあり、それがこの分野での薬物療法をためらわせているようにも思える。また、余談として言及した「痴漢」だが、それを結果的に許容する日本社会は、こうした性犯罪者問題の社会システム的な制御を内包していたのかもしれない。しかし、もはやそういう社会ではないことは確かだ。

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2004.08.26

中国がハイチにPKO派遣

 たぶん些細なニュースなのだろう。日本ではベタ記事も見かけない。しかし、スーダン虐殺のように、日本ではベタ記事でも海外主要紙はきちんと扱うこともある。だが、この件はそうでもない。考えようによってはニュースですらないのだろう。中国が国連PKO参加としてハイチに警察部隊を派遣した、という話だ。
 日本語版の新華社には掲載されていないが、チャイナデイリーの新華社記事"Peacekeeping riot police to leave for Haiti"(参照)には手短に掲載されている。


China's first batch of peacekeeping riot police forces is scheduled to leave for Haiti in September to carry out the United Nations peacekeeping missions, sources with the Ministry of Public Security said.

The forces consist of 125 Chinese policemen who have undergone a three-month-long special training and passed exams held by the United Nations, the ministry said.


 実際の派遣は9月になるようだ。最初の派遣とあるが、警察部隊として最初ということかもしれない。規模は小さく125名。当然、警察部隊なので治安維持が目的になる。
 ハイチになぜ治安維持が必要になるかについては、今年2月のハイチ政変が関係している。この話題は事件当時極東ブログに書こうかどうか迷って結局書かなかった。宗主国だったフランスと不法移民やアメリカの関係でいろいろと複雑な背景があるが、ここでは政変自体について簡単に言及しておこう。
 今年2月ハイチの反政府勢力が当時のアリスティド大統領退陣を求める運動を開始。これが暴動となりハイチ全土に拡大した。2月29日、武装勢力は首都に侵攻し、アリスティド大統領は国外逃亡した。なお、彼は米軍に拉致されたと証言している。この事態を受けて、国連安全保障理事会は多国籍軍派遣を決議。アメリカと元宗主国フランスからなる部隊が派遣された。結果的にこれがイラク戦争による米仏の険悪な両国関係の改善にもなっていたようだ。3月8日にはアレクサンドル暫定大統領が就任。6月2日、治安維持軍は国連部隊「国連ハイチ安定化派遣団に引き継がれた。なお、この5月に洪水があり、1000人以上の死者を出している。
 現在の維持軍の主体は南米諸国だが、これに中国も参加する運びとなったのが今回の派遣である。
 中国は今回の派遣について、内心小躍りという感じなのだろう。チャイナデイリーの先の新華社の記事ではこうある。

According to Zhou, it is an important diplomatic move to sending peacekeeping policemen for UN peacekeeping missions as it reflects the role and influence of China, a permanent member of the UN Security Council, in the international affairs.

 the role and influence of Chinaがちゃんちゃら可笑しいとは日本のサヨクさんたちとその愉快な仲間たちは思わないだろう。例えば、こんなニュースもばっちりOKなのだろう。人民網「中国民間企業、ハイチPKO部隊の装甲車を受注」(参照)より。

中国が派遣するPKO部隊や警官に最良の防弾車輌を提供するため、国連は中国で特別に公募入札を実施した。入札の結果、陝西宝鶏専用汽車公司の防弾使用装甲車「新星2002」が選ばれた。今年55歳になる陝西宝鶏専用汽車の王宝和総経理(社長)は「入札した国内企業5社のうち、4社が大企業で、当社だけが民間企業だった」と経緯を振り返る。

 そして、「今回ハイチに出発した装甲車は、海外からも約20両の注文を受けている」と誇らしげだ。でも、それってもう少しで死の商人なんだってば。
 というくだらない話はどうでもいいのだが、当然、今回の中国のPKOは台湾がらみがある。外務省の「台湾」(参照)にも「台湾と国交を有するが、中国との開係にも配慮」と指摘されているのが暗示的だ。台湾側も気が気ではない。台湾ニューズ・COM"Taiwan's Haiti embassy to monitor PRC mission"(参照)では、状況を注視している。

Taiwan's embassy in Haiti will closely monitor the actions of China's 125 riot police for a United Nations peacekeeping mission, ensuring the Chinese "do not become involved in any activities other than those they are supposed to," spokesman of the Ministry of Foreign Affairs said yesterday.

 しかし、ものは考えようで、こうして中国を国連に軍事的に貢献させ、日本もそれに巻き込んでいけば、新しい時代になるのかもしれない。
 そう思う? 私はあまりそんな気がしない。北京オリンピックを本当に見ることができるのだろうかすら、疑わしい気持ちがする。

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2004.08.25

中絶船、ポルトガルへ

 中絶関連の問題について極東ブログはぼそぼそと言及してきた。あまり関心はもたれていない。もちろん、このブログ自体もそれほど社会的な発言力を持つわけでもないし、私に明確な主張があるわけでもない。問題自体も非常にタッチーなので、最近は書くことに気後れしている。しかし、日本での情報があまりに少ないというか無視されているのかもしれないとも思うので、今回の"Women on Waves"の通称中絶船についても簡単に言及しておく。
 日本語の記事としては、CNN JAPAN「オランダの「中絶船」、ポルトガルに向け出航」(参照)が読みやすいだろう。


 オランダ・ヘルダー 中絶が厳しく制限されている国の女性達に、公海上で中絶処置を施すための船が23日、オランダの港からポルトガルに向け、出航した。ポルトガル沖の公海上に到着後、約2週間停泊し、望まない妊娠をしたポルトガル女性に対して、中絶薬の処方などを行う。
 船を派遣したのは、女性の権利向上と危険な中絶の根絶を目指す非営利組織(NPO)「ウィメン・オン・ウェーブズ」。これまでにも同様の船を、2001年にアイルランドへ、2003年にポーランドへ送り出している。

 ロイター系なのだが、対応するCNNの記事がよくわからない。ざっと見るとCNN"Abortion clinic sails to Portugal"(参照)かなという感じはする。こちらの英文記事もそれほど情報はない。
 BBC"Abortion ship sails for Portugal"(参照)もそれほど深くこの問題を扱っているわけでもない。というか、CNNもBBCも恐る恐る扱っているなという感じがする。
 日本人の感覚からすると中絶は中絶手術なのではないだろうか。日本の現場が率直なところ私にはわからない。が、CNNでもBBCでも中絶薬と書かれている。英語では"an abortion-inducing pill"だ。BBCの先のニュースではなんらかの配慮があるのだろうと思うが、掲載されている反対派の写真にきっちりRU-486(RU-666については洒落か)と書かれている。つまり、この問題はRU-486の問題でもある。この点、カトリック系の報道"Dutch abortion boat sails for Portugal"(参照)には明記されている。
 もっとも、RU-486だけの問題でもない。端的に言うのだが、こうした表立ったラディカルな行動がなくても中絶船が向かう国では事実上、国内法で禁じていても国外で中絶を実際に行っているのであり、その意味で、中絶輸出国でもある。また、当然、そうした闇の中絶によって命を落とす女性が少なくない。
cover
ピル
 RU-468もまたモーニングアフターも問題にならないかに見える日本にとって、この中絶船のニュースはやはり問題にならないのだろうとは思う。そして、この無関心は恐らく低容量ピルの問題でもあるのだろう。世界の先進国のなかでたぶん日本が突出してピルの問題が隠蔽されている。少し間違った発言かもしれないが、日本のフェミニズムにはイデオロギー的な偏向があり、この問題を正面から見据えていないようだ。それどころか結果的に政府側の協力となっている。
 なにが問題か。北村邦夫医師著「ピル」には、日本が低容量ピルを抑制している状況が対外的にどう見えるかという事例ともいることが描かれている。

 一方、人工妊娠中絶数は、ピルの使用者が減少しているときは増加し、ピルの使用が増加してときは減少を示しています。
 こうしたデータをみると、欧米における避妊にはピルが役割を確実に果たしていることがうかがえますし、日本においても、ピルの承認により若年層の人工妊娠中絶の減少が期待できます。
 そうした期待の高まる中、「産婦人科が承認を遅らせている噂がある。彼らは、確な避妊法の登場によって、中絶手術に伴う収入減を恐れているのではないか」といった質問が、外国のメディアから私に向けらることがありました。

 北村邦夫医師はその噂に否定的だが、対外的に日本がそのように見えることは確かだろう。なお、同書に指摘されていることだが、日本は先進国のなかでは中絶数が高く、しかも見えない部分も多いようだ。いずれ国際的な問題になるのだろう。見える部分だけだが、先の「ピル」にはこうある。

 世界と比較しても、わが国の全妊娠数(出生数+人工妊娠中絶数)に対する人工妊娠中絶数の割合は、九四年には二二・七%と二二・三%のスウェーデンを上回り、きわめて高い水準となっています(男女共同参画白書 平成一一年反)。

 こうした高い中絶率について、同書ではアラン・ローゼン・フィールド元コロンビア大学公衆衛生学教授は次のように言及している。

日本は政策が的を得ていないため、中絶率の最も高い国となってしまった。政治の役割は、薬剤の安全性と有効性を審査し、各個々人がそれによって自ら判断できるような情報を提供することです

 北村邦夫医師はこうした海外からの指摘を、日本では「中絶が非常に安易に選択できる国」と見えるためだとしている。確かにそうなのだろう。そしてそれゆえにRU-486も問題にはならない。
 話が逸れるが、ピル問題の背景にはさらにコンドームの問題がある。国際的にはコンドームは性病の予防具というのが常識化し避妊具でなくなりつつある。しかし、そうした国際的な常識は日本には浸透していないし、浸透する気配もない。この件について、具体的にコンドームについて思うこともあるのだが、自分自身が男性でもあり言いづらい面もある。

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2004.08.24

中国はもはや食料輸入国

 22日付のフィナンシャルタイムズに"China fears food crisis as imports hit $14bn"(参照)の記事が掲載されていて少し驚いた。話は標題からも推察がつく。試訳すると「中国は食料輸入が140億ドルに及び食料危機を恐れる」となるだろうか。従来食料輸出国と見られていた中国がついに輸入国に転じたことで、またぞろ食料危機だというのである。


China has become a net importer of farm produce, raising concerns at the highest levels of government about the security of the food supply for 1.3bn people as land and water shortages put pressure on domestic grain production.

 驚いたのは、もちろんと言うべきだと思うが、食料危機云々ではない。フィナンシャルタイムズまでそんな話を書くのかということだ。読み進むとレスターブラウンまで出てくる。呆れた。

Lester Brown, president of the Earth Policy Institute and an authority on Chinese agriculture, said recently that as well as importing wheat, Chinese would start buying foreign rice and corn in years to come. A year or two from now, he said, China might be importing “30m, 40m, 50m tonnes” of grain, more than any other country.

 レスターブラウンのこの話については、3月22日の極東ブログ「世界市場の穀物価格は急騰するか?」(参照)に書いた。現状私の考えに変わりはない。
 今回のフィナンシャルタイムズの話の元は、先日の中国の発表によるものだが、ジャーナリズム的にはチャイナデイリー"Crop trade deficit recorded for 1st time"(参照)が注目された。この記事はなかなか含蓄があるのだが、産経ビジネスiなどは浅薄に受け止めていた。ここでもレスターブラウンが出てくるのはお笑いだなと思った矢先にフィナンシャルタイムズも似たようなものだったので、驚いたという次第だ。
 統計的な状況は、産経ビジネスiの記事が邦文でもあり読みやすい。

 中国農業省によると、中国の上期の食糧輸出額は前年同期に比べ10.7%増の106億2000万ドル(約1兆1700億円)。一方、輸入額は143億5000万ドル(約1兆5800億円)で同62.5%増の大幅増となり、輸入額が輸出額を37億3000万ドル(約4100億円)上回った。
 同省統計では、昨年上期の中国の食糧貿易額は7億6000万ドル(約836億円)の黒字。通年でも95年から03年までの9年間の食糧貿易では、年平均で43億ドル(約4730億円)の黒字を記録してきた。
 今年は、上期だけでも食糧貿易額は初の赤字で、このままいけば、通年でも初めて赤字になると予想されている。

 以上は事実としていいのだが、ここから次のオチを導くのは、まいったなである。

米環境問題専門家のレスター・ブラウン氏は約10年前、中国の人口増と食糧生産の停滞から、2030年には2億トンから3億7000万トンの穀物輸入国になり、発展途上国に供給される穀物が不足し、大規模な飢餓状態が起こるなどとの予測を発表し、国際的に大きな論議を呼んだ。中国が食糧輸入国に転じれば、ブラウン氏の予測が現実になる可能性もあり、世界の食糧需給に大きな影響を与えることは必至だ。

 こんなネタから、日本の食料自給が問題なんていうトンデモ話が出てきそうな気もする。石油だの食料だのというのは、ユダヤネタにつぐばかばかしさがある。と、笑い飛ばすものの、それが笑話に過ぎないことをきちんと説明することは難しいかもしれない。
 大雑把にいえば、地球全体の農業生産力が適切に発揮されれば飢餓状態はないだろうということと、飢餓はありうるとしても、局地的に政治の不在で起こるだろうということ。なにより、中国の穀物輸入超過はたんなる経済上の問題、比較優位の問題だということだ。外貨があれば穀物を買うのは当たり前のことだ。
 が、チャイナデイリーにもあるように中国国内での穀物の絶対量の不足もある。このあたりが私の上の世代など食えない貧しさのトラウマ(心的外傷)をもっている人にはきつい。実際、政治上のへまがあれば飢餓がありえないわけでもない。
 楽観論的に言っておきながら詰めが甘くて申し訳ないのだが、まず、この「食料」の正体というか大半は「穀物」である。これは、飼料と油など加工原料だろう。そのまま食うという意味での食料ではない。そして、チャイナデイリーも指摘しているのだが、食物には畜産物も含まれている。

What Cheng reckoned as "unexpected" was the part of the deficit contributed to by trade in animal products.

China's animal products have been long regarded as advantageous in terms of export, Cheng said.

But between January and June, China exported US$1.37 billion worth of animal products and imported US$2 billion, creating a deficit of US$630 million, the customs statistics indicated.


 端的に言えば、中国人が米国などの肉を食うようになったということだ。近代化につれ、食の構造が変化したということだ。それだけのことだとも言える。
 私が気になるのは、米国風の農業、つまり遺伝子改良作物やホルモン漬け畜産といった農業が中国市場を覆うことでもない。これらはある程度しかたがない。そうではなく、自立など所詮不可能な日本の農産物に対して、日本の食文化をどう位置づけるかを模索すべき点だ。曖昧だが、日本の食文化(単にうまいものと言ってもいいだろう)それを維持するにはどうしたらいいか。当然、エコとは関係ない。むしろ文化の問題だ。
 もう一点、気になるのは、中国の農民の問題だ。米国から穀物や畜産物を輸入しなくても、その気になれば中国内で受給可能になる潜在力はあるだろう。そういかないのは農政の問題だ。稼いだ外貨でなにを買っても自由だが、中国という国は実際にはマクロ経済のモデルとなるような国家ではないのではないか。なんだか私のほうがトンデモ説のようだが、マクロ経済的に目に見える部分以外の中国が人口面では巨大であり、それはかなり決定的な社会不安の構造になっているのではないか、という懸念だ。昨今の反日運動などもそうした表出でなければいいのだが。

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2004.08.23

美浜原発事故について、今さらだが

 9日の美浜原発事故について、私は、それが原発特有の事故ではなく、火力発電所などでも起こりうる事故だと知って、まず関心を失った。近年、大工場で事故が多発しているという日本の状況に一つ事例を加えるという程度のものであり、原子力発電だからという問題ではないように思えた。その後、関西電力とその天下り先会社である日本アームのすったもんだについて、これもよくある醜い日本社会の構造だと考えた。しかし、なにか無意識にひっかかる。ので、私が常にそうするようにわかる範囲での初期報道の洗い出しをしてみたのだが、その無意識的なひっかかりはより大きくなってきている。思いと考えがまとまっていないし、この事件になにか隠された真相があると主張したいわけではない。しかし、とりあえず書いておきたい。
 無意識のひっかかりのコアは非常に単純なもので、その事故は偶然なのか、人為的なのか、ということだ。中川昭一経済産業相は12日の記者会見で事故を人災と見ている。この災害は起こるべくして起きた人災という意味で人為的ということには落ち着きそうだ。しかし、私がここで疑問に思っているのはそういう意味ではない。端的に言って、作業員がそこにいたのは偶然なのか、それとも作業員が事故の誘発になんらかの関わりがあるのか。もちろん、私は作業員にミスがあると主張したいのではない。その点は誤解無きよう。事件の大枠は明らかに人災だからである。
 毎度のことながら初動のニュースを追ってみる。事件当時の様子を記者たちはどう想像して描いているのか。読売新聞大阪「美浜原発事故 高熱蒸気、突然襲う 作業着姿で全身やけど 氷で応急処置/福井」(2004.8.10)にはこうある。


福井県美浜町の関西電力美浜原発3号機のタービン建屋内で、九日午後、二次冷却水の蒸気が噴出し、作業員四人が死亡、二人が重体、五人が重軽傷を負った事故。突然、復水配管の穴から流れ出した約140度の熱湯が蒸気となって下にいた作業員に容赦なく降り注いだ。

 蒸気が降り注いだという表現がよくわからない。熱湯が降り注いだというのなら了解しやすい。もちろん、噴出したのは常識的に考えれば蒸気ではあるのだろう。単純なところ、作業員情報から熱湯を浴びたようにも読めるが、よくわからない。同記事には次の描写もある。

 水蒸気は建屋内に充満し、火災報知機が作動。十一人のうち七人は自力で出口まで逃げたが、四人は配管近くで倒れ、耐熱服を着用した関電社員らが担架で外に運び出す。
 二階天井付近の配管に大きな穴が開いていた。配管を包む石こうボードの破片が床に飛び散り、床には熱湯がくるぶしまでたまっていたという。建屋二階は消防隊員が突入するのを躊躇(ちゅうちょ)するほどのすさまじい熱気だった。

 ここではすでに蒸気ではなく熱湯として表現されている。当然といえば当然だが、実際の被害は熱湯ではないのだろうか。
 破裂は二階天井付近ということで、たまたま被害にあったように受け止められる。しかし、勘ぐり過ぎるかもしれないが、検査作業の足組みなども設置していたのではないか。状況は単純にはわからない。
 作業員がなにをしていたかについては、大枠では次のように、検査準備であったとされている。

 作業員が所属する大阪市天王寺区の木内計測が関西電力の関連会社から請け負っているのは、タービンに付いている圧力計や温度計など計測器具の検査で、年に一度のタービンの定期検査に合わせて実施。タービンの温度が下がる今月二十日ごろから、約一か月かけて検査する予定だった。
 同社の曽我唯志・技術本部開発課長は「うちの社員は事故現場に居合わせただけと考えている。想定外の事故で筆舌につくしがたい。若狭支社(福井県小浜市)に対策本部を設け、状況把握に努める」と沈痛な面もちで語った。

 ここでもまた失礼な勘ぐりのようだが、「うちの社員は事故現場に居合わせただけと考えている。」という言明は、作業員の関わりを極力排除したいという意志が当初から明確になっていることがわかる。
 私はこの事件になにかひっかかりがあると感じた、その感覚のコアをもう一度見つめ直すのだが、そこに「絵」が見えないということがある。そして、ふと、従来の原発事故は絵(映像)として報道されていたことに気が付く。今回、事故後に撮影されたビデオが存在しているのだが、それは人道的な配慮から報道の対象にはなっていないようだ。なにより、それは事故後のビデオだ。と思いを進めるととき、なぜ事前の映像が存在しないのかと思い至る。私は無茶なことを言ってはいないと思う。関連資料をざっと見ていて、「美浜発電所だより」の「第4回アトムカップゲートボール大会を開催」(参照)にこういう記事がある。

11月9日(日)21時37分、美浜発電所2号機の調整運転中における加圧器スプレ配管ベントライン閉止栓からの水漏れに伴い点検のため原子炉を手動停止しました。
[発生状況]
 7時頃     監視カメラにてほう酸の析出を確認
 7時頃~9時頃 約4分に1滴程度の水漏れを確認
 13時     加圧器スプレ配管ベント弁のシート漏れと判断プラント停止をして点検を行うことを決定
 14時     出力降下開始
 21時37分  原子炉手動停止

 監視カメラが異常を捕らえ、それにより点検のため原子炉を手動停止したのだ。私の疑問は単純である。今回の事故現場には監視カメラはなかったのか? なかったのかもしれない。しかし、その言及は報道にはない。
 作業員はなにをしていたのだろうか。先の記事中、「タービンの温度が下がる今月二十日ごろから、約一か月かけて検査する予定だった。」とあることから、本来なら検査は、さらに10日後ではなかったのか。
 毎日新聞「美浜原発事故:配管破損、腐食が原因か」(参照)では、検査日を14日ごろとして識者から次のコメントを掲載している。

 死傷した作業員は14日から始まる予定だった定期検査の準備中だった。NPO(非営利組織)「原子力資料情報室」の伴英幸・共同代表は「検査期間を短縮し、原発の稼働率を上げるため、通常運転中に、あらかじめ準備できる作業をさせていたのだろう。安全性より経済性に軸足を置く電力会社の姿勢の表れで、原発のあり方が問われる」と指摘する。

 原子力資料情報室伴英幸共同代表の指摘は、故人平井憲夫原発被曝労働者救済センター代表の指摘を連想させる。平井憲夫は原発の点検工事をコミカルにこう描いている。

 稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが一本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人三十人を用意しました。一列に並んで、ヨーイドンで七メートルくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。ネジをたった一山、二山、三山締めるだけで百六十人分、金額で四百万円くらいかかりました。
 なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を一日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。放射能というのは非常に危険なものですが、企業というものは、人の命よりもお金なのです。

 たしかに、原発をできるだけ止めないで点検しようとすることが問題の背景にはあったのだろう。
 しかし、それだけなのだろうか。

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2004.08.22

対馬丸メモリアルデー

 1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷により撃沈された。氏名判明者に限定すれば、学童775人を含む1418人の民間人がこの攻撃で殺された。僅かに59人の学童は救出された。この殺戮については日本では当時機密ということになったが、県民の多くは戦中この惨劇を知っていたようだ。
 それから60年を経た今日、この惨事を追悼すべく、那覇市若狭の遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」(参照)が開館されることになった。
 なぜこれほどの惨事になったのか、なぜ米軍は民間人を大量殺戮したのか。しかし、冷徹に歴史を見ればそれほど不思議はない。当時187隻の疎開船により約8万人にもが安全に疎開できていた。また、米軍はすでに商船も攻撃対象としていた。対馬丸は商船と見られていた。
 当時、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹(現在84歳)は、琉球新報のインタビュー「子供乗船『知らなかった』 対馬丸攻撃の米潜水艦乗員が証言」でこう答えている(参照)。


―どのような命令を受けていたのか。
 「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のように見せ掛けて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある。真珠湾攻撃の後、米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた。太平洋や大西洋、そのほかの指定された戦闘地域を航海しているこれら3カ国の船であれば、種類を問わず撃沈させるという意味だ。軍需物資や原料の輸送を防ぐためだった」


―対馬丸に子どもたちが乗船していたことを知っていたか。
 「戦後35年ほどたってから、誰かが書いた本で知った。罪のない子どもたちが巻き込まれたことは、かわいそうなことだと思う」
 ―知っていたらどうしたか。
 「答えるのがとても難しい質問だ。潜水艦の命令を出せるのは、たった1人の人間(艦長)で、彼の責任は重大かつストレスが重くのしかかっている。普通の人間であれば、戦争中であれ、無実の人々を殺そうと思う人はいない。私には何とも言い難い。もし、私が知っていたなら、(魚雷を)撃たなかったと思う」

 この問いかけは虚しい。戦時下で軍規に背くことはできないからだ。
 だが、カーター元二等兵曹の証言は正しいのだろうか。「ボーフィン号航海日誌」は米国立公文書館で公開されている。調査を行った保坂広志琉大法文学部教授は琉球新報「対馬丸出港前から攻撃目標に」(参照)でこう発表している。

 1944年8月18日 鳥島南西海上で哨戒。
 8月19日 粟国島北東海上を哨戒。
 午前6時 煙発見。
 午前6時38分 三隻の船団発見。2隻に接近。中型輸送船2隻、小型輸送船1隻。駆逐艦3隻。
 午前7時7分 潜望鏡で見る。目標は4000ヤード。船団は那覇港へ向け基本航路を進み続けている。追跡を続ける。しかし接近に失敗。本艦は進行角度を変更し1時間ほど作戦を続行。予想航路を計算し損ねたようだ。引き続き追跡。スクリーンには船団の存在が確認されている。再び本艦が進行角度を変更。深度のコントロールを誤る。目標の船団が進路変更。魚雷発射が不可能になる。一時は目標を撃沈する位置につけていながら、絶好の機会を逃してしまった。残念極まりない失敗。
 8月20日 伊江島西方海上を哨戒。
 8月21日 久米島北西を哨戒。
 8月22日 鳥島南海上を哨戒。
 午前4時10分 船団発見。
 (中略)
 午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決める。
 午後9時15分 アグニ丸(対馬丸)を目標に定める。
 午後10時11分 対馬丸に魚雷命中。
 午後10時21分 対馬丸が姿を消す。ボイラーが爆発したようなこもった激しい爆発音が三度聞こえる。火災が消え、レーダーにも映らない。

 別途戦時遭難船舶遺族会が入手した米軍の無線傍受記録によれば、対馬丸含む輸送船団が中国を出発して那覇に向かっていることを米軍は事前に知っていた。那覇で民間人の大量乗船が行われたことは知り得なかっただろうか。また、記録中、対馬丸がアグニ丸とされているが、米側のコード名なのか不明だ。
 私は、歴史好きの一人としてだが、この事態にはなにか不明な点がありそうに思える。ハーグ条約の海戦法規では交戦国の非武装商船に対しては、乗員の安全を確保した上でのみ、拿捕や沈没処分が認められているが、対馬丸の攻撃では米軍はあっさりと無視している。
 近年、対馬丸が特に話題になったは、1997年12月4日のことだ。深海探査機「ドルフィン3K」が、鹿児島県悪石島北西沖約10キロの海底870mの深海に眠る対馬丸の船名の撮影に成功した。船首部に描かれた「丸馬對」の文字を示す写真は、沖縄県民に強いインパクトを与えた。そこにはっきりと幼い子供が今なおいることがわかったからだ。
 沖縄では、その後、海底に眠る約1000柱の引き揚げができないものかと政府に陳情した。が、翌年12月24日、対馬丸船体引き揚げ可能性調査検討専門家会議(座長・藤田譲東大名誉教授)は総理府で記者会見し、現在の技術水準では、引き揚げは極めて困難とする最終調査結果を発表した。
 本当だろうか。タイタニック号の沈没地点は深さ約4000mだ。一部ではあるが船体は引き揚げられた。「対馬丸引き揚げ9億円 私が見たロシア海洋研究所の実力」(参照)など引き揚げ可能とする提言もある。いずれにせよ、いつの日かこの引き揚げて沖縄の地に迎えて眠らせてあげなくてはならない。対馬丸の惨事は終わった物語ではない。
 もう一つ、残された課題があると私は思っていた。真珠湾の復讐者と渾名される潜水艦ボーフィンについてだ。
 潜水艦ボーフィンは、現在、戦艦アリゾナ、戦艦ミズーリとともに真珠湾の観光用の記念館になっている。1997年12月13日の琉球新報社説「海底の対馬丸が語る」によれば、そこでは潜水艦ボーフィンの戦果として、商船40隻と帝国海軍船籍4隻を沈没させたと説明していらしい。ばかな。学童775人の殺戮が商船というだけで終わりなのか。その愚かさかを知らしめずに、なにが反戦だと私は当時沖縄で暮らしていて思った。
 しかし、今日、ネット上の潜水艦ボーフィンのサイト(参照)を見ると、対馬丸への配慮がある。"Tsushima Maru Sinking"(参照)には学童の死者についても説明されている。沖縄の人たちの説得によるものだろうか。いずれにせよ、米国側のこうした態度は公平であり、立派だと思う。真珠湾の復讐者潜水艦ボーフィンは栄誉に浴するのではなく、罪に穢れていることを米人も知らなくてはならない。

【追記 2004.8.28】
対馬丸撃沈について重要な仮説が出された。琉球新報「対馬丸撃沈の状況検証 當間栄安さん『遭難の真相』発刊」(参照)である。正確な書籍名は対馬丸遭難の真相』(琉球新報社)。


當間さんは「ボーフィン号の乗組員は『学童がいるとは知らなかった』と話すが、約1キロの距離まで対馬丸に接近し、潜望鏡で監視している。学童の乗船を知らなかったはずがない」と話し、「戦争になれば、無差別殺りくを禁止する国際法は完全に無視されてしまう。今、米国がやっていることも60年前と同じだ。

 つまり、故意に非戦闘員、しかも、未成年を米軍は虐殺したのである。

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2004.08.21

料理の下手な女

 ちょっと危険な話題だが、「料理の下手な女」について最近思うことが多いのでちょっと書いてみる。最初に断っておくが、料理は女がせよとも、女は料理が上手でなければならないともまるで思わない。
 先日、「父への恋文」(藤原咲子)を読み返していて、その藤原ていは料理が下手だったらしい印象を受けた。


塩と砂糖を入れまちがえるのはいつもだが、料理の種類も少なく、魚や肉は焼くか、煮るかの状態でほぼ原形のまま、大皿にどんとのっていた。

 この様子は目に浮かぶものがある。私の母親も似たようなものだ。私の母も藤原ていも信州人だからということもなかろうとは思うが、都市的な文化のない地域にはあまり美食というものはない。
 「美麗島まで」(与那原恵)に描かれる母与那原里々のエピソードもすごい。娘与那原恵はこう語っている。

私は子供のころ、里々のつくる料理のまずさに閉口して、これは自分でつくるしかないと台所に立ったほどである。良規は、普通の食材を使っているのに、里々ほどまずく調理するというのはある意味すごいと、妙な感心をしていた。

 自分の母親の料理はまずいんじゃないかと思う人は少なくないだろう。庶民漫画としてサザエさんを嗣いでいるような、「あたしンち」だが、主人公の一人であるおかあさんの料理も、笑っきゃないでしょという壮絶なものだ。
 こう言うに少しためらうのだが、字はいくら練習してもうまくならない人はならないように、料理というのも下手な人は努力しても無駄なのではないか。ただ、字を書く器用さとは違い味覚の問題もあると思う。作っている料理の味がまずいというのを分析的にフィードバックして自己教育できないのだろう。そう書くと一群の人を貶めているようだが、これはようするに向き不向きということだ。
 ちょっと頓珍漢な意見かもしれないが、現在問題になっている学習障害(LD)についても、現代文明が要求する一斉教育という限定が付く。もともと一斉教育などというのはコメニウス(Comenius, JA 1592-1670)の独創であり、特殊な学習形態だ。同じように、料理の技術というもの、特殊な学習能力という側面はあるかと思う。
 話が逸れるようだが、およそある程度料理ができる人間は日常の料理にレシピを必要としない。それどころか、ある料理を食べれば、だいたいのコピーはできるものだ。このあたりを沖縄料理の名人山本彩香は「てぃーあんだ」でうまく表現している。

料理の作り方に関して、ここでお断りしておきます。材料はこれこれを何グラム入れて、などとはなかなか決められないのです。ですからこの本の中では、材料の量などに関して詳しく述べていません。適量というのは作る人それぞれの舌と感覚で決めるしかないと思います。

 もっとも、私はちょっと違った考えを持っているのだが、いずれにせよ、レシピで料理を作るということは、日常の料理を作る人間は、しないものだ。
 私はさらにやばい話に進める。美人と料理の上手下手には相関があるのではないか。美人で料理が上手という人が思い浮かばない。例外は翁倩玉や平野レミくらいか。美人で利発な人はいる。その利発さで料理をこなすことはできる。が、料理が上手というのとなにか違う。
 山本彩香の連想だが、彼女の育ての母は辻の「じゅり」(芸妓)だった。辻と「じゅり」については取り敢えず花街と芸者としておく。山本の母はそこでの料理を担当していたのことだ。失礼な言い方だが、それほど美人ではなかったのだろうと思う。
 さらに私は変な話に進める。先の与那原恵の母里々だが、夫の良規が求婚した際、金魚のてんぷらでなければなんでも喰うと宣言したそうだ。ここで男の私は密かに思うのだが、たいていの男は自分の伴侶が美人でなくてもいいと思っているし、料理が下手でもしかたがないと思っている。女性には失礼な言い方だが、たいていの男はそう決心してそう耐えるし、一生耐える。「耐える」と言えば何事かと叱られるのは必定なので、普通は、男は黙る。あたしンちのお父さんは、男というのをよく表している。
 で? だから?
 別に男が偉いわけでもない。男のほうが料理が上手なら自分で作れば、は、正論だ。それにうまいものが食べたいなら、金を出してグルメになればいい…なのか? というと、そこが実は大きな間違いで、外食の味は日常の料理の味ではない。料理屋でよく、おふくろの味とかいうのもあるが、そう言われてきたもので、私がそうだと納得できなのは数少ない。おふくろの味というのはたぶん嘘だ。
 家庭というものには、あるいは男と女というのには、うまく言えないのだが実際に生活してみないとわからないなにか、奇妙な秘密のようなものがある。なにかの統計だったと記憶するが、離婚の理由というのが、歳を取るにつれて、味覚の相違が増えた。日本では女性が食事を作るケースが多いから、女性の料理が下手なのか、男性の忍耐が弱いのか、どちらかなのだろう。

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2004.08.20

ナウル、冗談ではない

 少し前の話になる。今月5日のことだが第35回太平洋フォーラムがサモアの首都アピアで開催された。様子はBBC"Pacific Forum opens Samoa talks"(参照)などがわかりやすいだろう。話題の中心はここでも触れられているように国家破産に貧しているナウルだ。


On Friday, an appeal was made for help for the nearly bankrupt island of Nauru, on the brink of financial ruin.

Corruption, economic mismanagement and dwindling stocks of phosphate, its main export, mean that Nauru risks becoming a "failed state", said Cook Islands Prime Minister Robert Woonton.

"I hope the bigger countries will look very sympathetically toward the needs of these islands before it becomes a multimillion dollar exercise like the Solomons," he said.


 ナウルは1万6千人ほどの小国だが、今回のアテネ・オリンピックにも代表選手を送っているように国家として独立している。1999年には国連にも正式加盟しているので、台湾・中国外交のターゲットにもされた。
 詳細は外務省の「ナウル共和国」(参照)と言いたいところだが、重要な情報がわざとらにオミットされているのと、内政についても正確な情報ではあるのだがなにがなんだかわからない。むしろ、ナウルを知るにはブログ「適時更新」の「ナウルの記事のまとめ」(参照)がわかりやすいかと思う。お笑いテイストで書かれているのだが(というかお笑いテイスト以外には書けない対象かもしれないのだが)、ナウルという国の現状の問題は掴めるだろう。きちんと手短にまとめた情報は、BBC"Country profile: Nauru"(参照)及び"Timeline: Nauru"(参照)にある。
 ナウルは、もともと燐鉱石の国家資源を有効に島民に配分していけばなんとかやっていけた国なのかもしれない。が、同規模の日本の地方自治体でも似たような傾向があるのだが、ナウルもその資源枯渇とともに迷走を始める。国家の指導者が誰かもよくわからない。それでも一応、国家であることを建前に、パスポート販売やタックスヘブンを始めてしまったので、ウンコに銀蠅が群がるように(という光景を最近見なくなたと思うが)悪が群がった。アルカイダ資金がプールされていることも判明しアメリカは怒った。テロリストや犯罪人もナウル国籍を偽造に使った。
 と、言うような話は日本には関係ないのかと思ったが、ちょっと調べると、あらま、そうでもない。「資産家宅を狙った緊縛強盗事件、男2人を再逮捕」(参照)によると、関東地方の4都県で2003年末から相次いだ資産家宅を狙った緊縛強盗事件の犯人がナウル国籍だった。

再逮捕されたのはナウル共和国籍で千葉県市川市市川南4、無職、デイビット・カイピン・チェン(35)▽中国籍で同県船橋市海神1、同、余強(35)の両被告=いずれも強盗罪などで起訴。調べでは、チェン容疑者らは3月12日午前4時ごろ、ほかの7人と共謀して板橋区大山町のビル管理業の男性(60)方に侵入し、室内にいた男性ら4人を粘着テープで縛り、現金約245万円と約3000万円相当の貴金属を奪った疑い。

 おやまという感じだが、このあたりは組織的に展開していたのだろう。
 都合のいい国なので、難民もやってくる。北朝鮮難民も経由したようだ。が、最大の問題はアフガン難民だ。しかも、アフガン難民がナウルにやって来るというのではなく、オーストラリアにやってくるのをゴミ箱よろしくナウルに押し付けてきた問題だ。先のBBC"Timeline: Nauru"にはこうある。

2001 August - Australia pays Nauru to hold asylum seekers picked up trying to enter Australia illegally.

2002 June - Nauru holds some 1,000 asylum seekers on Australia's behalf. President Rene Harris says Canberra's promise that they would be gone by May has been broken.


 この状況は非人道的ではないかということで、昨年末から今年の初めにかけて収容されているアフガン難民はハンガーストライキを始めた。読売新聞2003.12.18「足止めアフガン難民、豪移住求めハンスト 赤道上のナウルに2年」を読むに、悲愴である。

 難民支援団体や豪移民省によると、ナウルの収容施設には、女性や子供を含む二百八十四人の中東からのボートピープルが生活しており、このうちアフガン人二十三人とパキスタン人一人の計二十四人がさる十日、ハンストを始めた。このうち四人は自分の唇を縫い合わせた。十七日までに十一人が脱水症状などで病院に運ばれた。

 ハンストは収束したがオーストラリアの態度は変わっていない。という情報だけ書くとオーストラリアはひどい国だという印象を与えるが、私の考えでは日本のほうがもっとひどい。オーストラリアはなんだかんだ言っても、政治難民の受け入れを全体では緩和している。むしろ、オーストラリア政府としてはこの件をテロ対策の一環として扱っていたのだろう。
 ナウルをどうしたいいのか? 太平洋フォーラムが示唆するように支援するしかないのだが、支援は実質的な独立の放棄になるだろう。
 今朝のNew Zealand Herald"Nauru learning to live without wealth"(参照)は、日本人にしてみるとなんだか植民地政策のように見えないでもない。ABC News"Nauru urged to reconsider its independence"(参照)はもっと露骨だ。独立なんかやめなさいということだ。
 しかたがないのだろう。ナウルは特例とも言えるが、こうした傾向は他にも及ぶだろう。国家とはなんだろうなと思う。というほどでもではないが、宮古など文化的にはすでに独立国。だが、名目的に独立することは無理だろう。え? どこから独立? 日本、沖縄?

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2004.08.19

[書評]沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史

 率直なところ、あまり多くの人に勧められる本ではないのかもしれないが、私には面白く、そして考えさせられることの多い本だった。「沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史」(アナトーリー・T・クージン)である。
 内容は、沿海州及びサハリンにおける朝鮮人の近代史についてだ。文章は紀要か修論でも読んでいるような大味な感じなのだが、この問題に関心をもつ私などには面白い事柄に満ちていた。構成は沿海州とサハリンの二部に分かれている。


  1. ロシア極東の朝鮮人 1862~1937年(移住の始まり/法的問題/文化の発展 ほか)
  2. サハリンの朝鮮人 1870~1992年(サハリン人として生きて/強制移住と弾圧 ほか)

 率直なところ、出版社名(凱風社)やあおり文を読むと、うへぇまた左翼史観ですかという気にもなる。が、事実は事実だ。特に、日本が戦前行ったこの蛮行を覆うことはできない。

ロシア極東の朝鮮人が、どのように中央アジアやカザフスタンへ強制移住させられたのか、日本によってサハリンに連れてこられた朝鮮人はなぜ、祖国に帰れなかったのか。サハリン在住の研究者がソ連時代の公文書をもとに著した過去の「真実」。

 だが、この問いかけに本書は十分に答えていない。著者クージンが記す部分はなんと言ってもロシア人だという偏向はしかたないとしても、それほどは日本左翼マンセー的な内容ではない。歴史を見つめる者の一人としては、「日本によってサハリンに連れてこられた朝鮮人はなぜ、祖国に帰れなかったのか」はこの本によってもわからないと言うのが公平なところだろう。それは曖昧にするというのではなく、未決な歴史上の問題だということだ。
 前半に描かれるスターリンによる沿海州朝鮮人の強制移住は、ロシア側に立つクージンとしても、その数値、17万人を見る限り、弁明のしようもない蛮行であることがわかる(これをモンゴルにやっている)。スターリンの言い分としては、朝鮮人は日本のスパイになりかねないというのだが、そんなことはいくら左翼史観でも受け入れることは無理だろう。いずれにせよ、この強制移住で沿海州の朝鮮人は事実上根刮ぎになった。
 私も迂闊だったのだが、極東地域の朝鮮人の問題はついサハリンを中心に考えていた。そして、そのダイナミックな要因は日本だろうと思っていた。しかし、沿海州の朝鮮人移住は1969-70年の飢饉と当時の朝鮮の専制を逃れることによって始まったようだ。もちろん、その後は、日本の圧政を逃れての朝鮮人もいるのだがそれほどクリティカルな特徴は形成していない。
 現在中国と韓国の間でもめだしている高麗の歴史(日本史学では高句麗)だが、背景にあるのは中国域内の朝鮮族200万人が、統一朝鮮ができた際に民族主張をするのを中国側が恐れていることもある(参照)。
 この朝鮮族がどのように形成されたのか、私はよくわからない。ここでも日本の朝鮮半島支配を逃れたという説明を読むことがある。たとえば、「チャイナネット」の「中国の少数民族」(参照)の朝鮮族の説明にはこうある。

中国の朝鮮族の人びとは、主に19世紀中葉に朝鮮半島から続々と移住してきたのである。1910年に、日本帝国主義が朝鮮を併呑した後、帝国主義の残酷な抑圧と搾取に堪えられなくなった朝鮮の人たちの多くが中国の東北地区へ移住し、1918年までに36万余人に達した。

 反日は中国のお得意だし、その後の満州での人口増加を見るにこの説明はそれほど妥当なものとは思えない。むしろ、日帝のせいだというなら、なぜ帰還させないのかという問題を当然惹起するし、さらに半島自体を中国に含めていけない理由が消えてしまう。というわけで、チャイナネットの記述はいったって呑気な印象を受ける。この呑気さだとそのうち中国は、彼らは渤海人とか言い出すかもしれない。いずれにせよ、この曖昧な記述からも、沿海州の朝鮮人と類型な要素は多いだろう。
 ちょっと問題発言かもしれないが、今回の高麗歴史問題が韓中間で発生したのは、スターリンのような強制移住がなかったからとも言える。逆に言えば、ソ連を継承したロシアはカザフスタンやウズベキスタンに残る100万人からの朝鮮人子孫の問題を内包している。また、北朝鮮がソ連によって形成された傀儡政権であったことからも、北朝鮮の国境というものを皮肉にも明確にしている。つまり、ソ連の思惑どおりの北朝鮮のイメージを北朝鮮自身が受け取っている。
 しかし、韓国が統一朝鮮を朝鮮民族という視点で国民国家化するとなると、こうしたやっかいな問題を扱っていかなくてはならなくなる。日帝憎しの単純な発想ではすまないはずだ。だが、代替となる国家ビジョンを韓国側の知識人から聞くことは私にはない。
 日本が多く関わるのはサハリンである。「沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史」で私が驚愕したのは、むしろ知ってたはずのサハリン史のほうだった。先日の極東ブログ「北朝鮮残留日本人」(参照)を書いたおり、朝鮮人サハリン連行の事態にどうも自分が十分知らない大きな要素があると思いなおしたのだが、「沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史」を詳しく読み返すと、ぼんやりその相貌が見え始めてきた。
 まず、日本が行った強制連行の歴史は比較的わかりやすい。この本でも、(1)1939.9~1942.2の募集、(2)1942.2~1944.9の官斡旋募集、(3)1944.9~1945.8の徴用にわけて説明している。クージンは簡単な補足を述べている。

ここで注意したいのは、樺太への朝鮮人連行には、戦時の法に従った動員によるものと、募集によるものの二つがあったことである。動員によるものが完全に強制的だったとすれば、募集はそうではない。つまり、樺太に来た朝鮮人のすべてが強制されて来たというわけではないのである。もちろん、募集が詐欺的であり、拒否すれば身が危うくなったということはあるが、それは別問題である。また、日本に財産を持つ裕福な朝鮮人たちが樺太に渡り、地元の保護者に忠実に仕えた事実も否定できない。

 私の感触だが、1980年代ごろから「強制連行」が「徴用」の語感を失って論じられるようになってきたようにも思われるが、史的には徴用として考え直したほうがいいケースも多い。つまり、日本人も等しく徴用されていた。
 むしろ問題は、その「日本人も等しく徴用」という入口に対して、引き揚げの出口が対応していないことにある。日本の敗戦によって、突然、サハリンに残された朝鮮人は日本人ではないということになり、置き去りにされてしまった。これが非常に大きな問題だし、すでに日本人と朝鮮人の融合も進んでいたことも悲劇的な問題となった。
 この対処を行ったのはなぜか。本書からはあまり得るところはないのだが、やはり連合国側の思惑だろう。ちょうど、極東ブログ「終戦記念日という神話」(参照)で連合国が朝鮮総督府を使って戦後も朝鮮を統治しようとしたのと似た構図がありそうだ。
 こうして朝鮮人としてサハリンに遺棄された人口なのだが、本書では23,500人と推定している。率直に言うと、私がなんとなく記憶していた4~5万人という数の半数になる。私の錯覚は、まさに自分自身が「終戦記念日という神話」に呪縛されていたことにあるようだ。つまり、戦争が終わったのは日本だけなのだ。
 ソ連の傀儡国家である北朝鮮が成立すると、ソ連の要望によって、サハリンでの労働力を確保するために、北朝鮮の朝鮮人がサハリンに移動させられている。これは名目は募集ということになっているし、スターリンが行ったような強制移住ではない。1946年時点ではある種出稼ぎ労働者とでもいうように、帰還者も多い。だが、1948年、韓国が独立してから様相が変わり、帰還者が減る。クージンはあまり強調しないのだが、1950年時点で単純に入出の引き算すると12,000人ほどの北朝鮮の人々がサハリンに残されていることになる。
 ということは、よく左翼が日本が強制連行し遺棄したとする朝鮮人にはこの北朝鮮の人々と子孫が算入されているのではないか。
 誤解しないで欲しいのだが、私はそう読み取ることで、日本を免罪したいとも思わないし、北朝鮮を単純に責めたいということではない。一義的には歴史が語ることを不思議に思うのだ。
 むしろ私はこうした問題に対して悪い意味でナイーブなので、日本本土内の在日朝鮮人がなぜ十分保護されて半島に帰還できないのかとも思うし、帰還できない部分は帰化を推進すべきだと思う。だが、サハリンに遺棄されたように見える朝鮮人を朝鮮半島の南北の政府はどう扱っているのだろうか。帰還が推進されているのだろうか。

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2004.08.18

ロシアのプルトニウムと日本の関わり

 今朝の朝日新聞社説「核の闇市場――アジアで封じ込めを」は奇妙な感じがした。主張内容には標題以上のことはない。当然、反対する人もいないだろう。奇妙な感じというのは、なんだか見当識障害のような印象を受けたからだ。なんでも朝日新聞を批判したいというのではないが、まず簡単にコメントしたい。気になるのは二カ所ある。
 まず結語が常軌を逸していると思う。


核の拡散が起きるのは、保有国が核を手放そうとしない一方で、その保有国をまねようとする国や集団が絶えないからだ。この矛盾を解くには、核の廃絶に向けて世界を動かすことだ。それも、日本の不拡散外交の核心である。

 単に反米というだけのことかもしれないのだが、問題はそんな単純な理想を掲げることでは解決しない。一度できた核兵器は念力で消失するわけもない。きちんと解体する作業が必要になる。そして、現状の世界にまず重要なのは、ソ連の核兵器の解体だ。ソ連から継承したロシアの核弾頭解体によって、余剰プルトニウムが50トン出てくる。これがどのくらいとんでもない量かというのは、長崎原爆からでも類推できる。長崎に投下された原爆はウランタイプの広島原爆とは違い、プルトニウムを使っていた。当時の技術で6.1キログラム。同程度の破壊力で現在北朝鮮が開発しているのだと、2.5キロほどで足りるようだ。
 朝日新聞が叫ばなくても、すでに世界は動いている。2002年のカナナスキス・サミットでもこの解体のために、先進七か国が10年間で最高二百億ドルの援助を行うという目標を掲げた。もっともこれがうまく行っているとも思えないが。
 もう一点、気になるのはこれだ。

 アジアの国々が輸出管理を徹底し、闇市場を封じ込めていくうえで、日本の果たせる役割は大きい。非核三原則を持ち、武器の輸出を事実上禁じてきた国として、不拡散の大義を堂々と主張できる立場にある。加えて、アジアで最も厳しい輸出管理政策をとっており、そのノウハウを伝えることもできる。

 日本はそんなに偉いのだろうか? 私はあまりそう思えない。日本のプルトニウム管理はむしろずさんに思える。例えば「核燃機構の不明プルトニウム、問題なしと判断・文科省」(参照)など、これで問題解決なのだろうか。

核燃料サイクル開発機構の東海再処理施設(茨城県東海村)で、1977年から2002年9月末までに累計206キロのプルトニウムが行方不明になっていた問題で、文部科学省は実際の不明量は59キロで、測定・計算上の誤差と見なして問題ないとの報告をまとめた。

 この日本の文部科学省は、ソ連の核兵器解体に関係し、余剰プルトニウム処理に乗り出している。読売新聞2004.3.19「核兵器解体後の平和利用 余剰プルトニウム処分へ新技術 文科省、露と共同開発」をひく。

 核兵器のプルトニウムは純度が高く危険なため、原発用燃料にするには、核分裂しないウランなどを混ぜる必要がある。焼き固めて燃料にする従来の方法はコストが高いため、文科省傘下の核燃料サイクル開発機構とロシア原子炉科学研究所が二年前から、粉状の燃料を詰めて使う実験をロシアの原子炉で行ってきた。
 昨年末までの初期試験では、余剰プルトニウム約二十キロを含む新型燃料を燃やし、安全性に問題がないことを確認できた。今年から、一度に使用する新型燃料を七倍に増やす本格試験に入り実用化を目指す。

 実験は国内ではないので実態が掴みづらい。これらについて、まったく情報が隠されているわけではない。例えば、「余剰プルトニウム処分に関する日ロ協力について」(参照)。だが、わかりづらいのは確かだ。
 話が散漫になってきたが、先日のMoscow Times"Nuclear Security Is a Myth"(参照)では現状ロシアのプルトニウム管理に疑問を投げかけていた。真偽についてどうコメントしていいのか、率直に言うとわからないのだが、ロシアにはまだ500トンもののプルトニウムがあるというのだ。

There are other highly disturbing facts. I have obtained a document, signed by the head of the old Nuclear Power Ministry in November 1997, stating that over 500 tons of weapons-grade plutonium and uranium are stored in Russia in conditions that "do not conform to international safety standards." More than 20,000 nuclear weapons could be produced from 500 tons of weapons-grade material.

 Moscow Timesはこれらのプルトニウム管理に欧米の力を借りるべきだと言う。

If nukes get loose, Russia will be the first to suffer. Russia urgently needs Western aid and technology to help build a modern security and nuclear material control system. Just telling the world that everything is hunky-dory won't get the job done.

 核問題に呪縛されたようにナーバスになるべきではないと思うし、ロシアの核の問題はアジアの核の闇市場とは別問題だと言えないこともない。だが、朝日新聞のように、日本が核不拡散の大義を堂々と主張できるとはとうてい思えない。そして、潜在的な問題は、たぶん、ロシアにあり、すでに日本も深く関係している。

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2004.08.17

オリンピックと身体

 私はオリンピックにまるで関心がない、とまで言ってもいいと思う。今回のオリンピックについて、しいて関心を持つのは韓国が日本より何個メダルを多く取るかな、ということだけ。韓国では今回シドニーより報奨金(最高約1500万円)が増えたし、金メダルなら兵役免除だ。って、もちろん、皮肉だよ。勝手にしろよ、と思う。というわけで、以下、酔ってくだを巻くような話になる。
 私はスポーツが嫌いか? 概ね嫌い、と言っていいと思う。でも、中学高校と陸上部だった。もちろん、選手ではないし、競技を目指すのも嫌だ。私は、幼稚園から小学校に入る頃、小児喘息だったこともあり、運動オンチってやつだ。ドッジボールでは逃げるの専門。っていうか、玉が当たらないくらいの運動神経はあるというトホホなヤツだ。金魚掬いの金魚の気持ちがよくわかる。小学校が遠いっていうのがいじめられる理由であったりもしたし、勉強もできなかったし、てなものだが、高学年になり成績があがるにつれ、自己イメージを少しずつ変えた。中学で陸上部で訓練していたら、短距離はクラスで2番にはなった。1番にはなれない。先天的に飛脚の子孫かみたいなやつがいる。ま、そんなことはどうでもいいが、こうして自己とそのイメージと身体はまさに思想のように可変だということがわかるのも奇妙なものだった。
 球技もひととおりはやった。ルールはわかるから、競技を見ろと言えば、見てわからないでもない。ただ、球技は抜本的に嫌い。というか、一つの玉を集団で追っかけるというのが、しらけてしまってダメだ。あんなものただの玉だ、オメーラなぜそんなに必死、みたいに思ってしまうのだ。もっとも、人の生き方には干渉しない。
 大学ではフィットネスと水泳を適当にしていた。私は着痩せするタイプだし、ムキっと筋肉が付くタイプでもない。が、「わたしって脱ぐとすごいの」感は、当時は、若干あったかも。ホモ視線をよく浴びた。
 身体を使うというか身体とその運動イメージについては、社会人になっても関心を持ち続けた。ダンスとかバレエとかやりたいものだと思った。バレエはさすがにできないが、ダンス系やニューエージ系の身体訓練は好きだった。世界的に有名なヨガのインストラクター、ロドニー・イー(Rodney Yee)のヨガのセミナーにも参加したことがある。一緒に参加していた欧米人の女性は恍惚(こうこつ)と彼の裸身を見ていたが(参照・スチルだとわかりづらいが)、なるほどね、あれは、さすがにセクシーだねと、思った。東洋人でもあそまで美になれるものなのだ(そもそも仏像っていうのはセクシーだよな)。ロドニーはムキムキ系の筋肉ではない。腹筋も強いが、Tarzanオススメの見せかけ肉ではない。ヨガでは腹筋は鍛えるが柔らくしないといけない。余談だが、ロドニーに訊いたら、昔バレエをやっていたと言っていた。あれだけ美しい裸身をしていながら、ファッションセンスがないのか、服を着ると中国人のオタクみたいになる。なんだか変な話になってきたな。
 私は、レオナルド・ダ・ビンチがその重要性を説く解剖学にまで関心は進めなかったが、それでも骨格と筋肉の付き方には関心をもっていた。もともと西洋美術が好きなこともあり、よくトルソを見た。あれはなんというのか、見慣れてくると、なるほどいうものがあり、面白さがわかる。若者のトルソと中年のトルソの違い、少女のトルソと夫人のトルソの違い。そうしたなかに西洋的な美がどう表現されているかがわかるようになる。私はどうも欧米系のオヤジ志向なのか、マイヨール(Aristide Maillol)のトルソもいいと思う。女っていうのはむちっとしているのもいい(参照)。って、そういう話じゃないよな。
 この話の出だしはオリンピックだった。古代オリンピックの場合、あれは競技というより、美しい身体を生み出し、観賞するというものだったのではないかと思う。全裸で競技をしていたというのも、トリビアの泉のネタで笑いをとるようなものではあるまい。
 あの身体造形、つまり、アテネの考古学博物館やその他地中海の古代彫像を見ていると、はっきりととまでは言えないが、ギリシアの身体とローマの身体には肉付きの差があることに気が付く。個人的には背筋に違いがあると思う。ローマのほうは戦闘の香りがするのに対して、ギリシアのほうがスレンダーでセクシーだ。戦闘の身体ではない。プラトンの著作など読むと、こういう男色的な美の理念があったのだろうとも思う。
 こういう考えかた、つまり、オリンピックはギリシア身体の生成に関係するのだろうというのは、誰かがすでに言っているのか知らないのだが、以前、シュタイナー・スクールを卒業した人とそんな話をしていたら、スクールではではまさにギリシア競技をやっているとのことだった。声(シュプラッハ)を出すにも、やり投げなどが基本になるらしい。ほんとかね。
 シュタイナー、つまりルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)については、ここではちょっと言及するにためらうのだが、ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner)についても言える面があるが、どうしてもギリシアを模した美とナチの美学の類型に連想が及ぶ。そう、アレだ、「民族の祭典」(Fest Der Volker Olympia)である。1936年ベルリン・オリンピックの記録映画という枠組みを持つものの、端的に言って、ナチ美学である。「美の祭典」と併せてオリンピア二部作とも言われる。露骨にギリシャ古代遺跡に始まり、その彫刻と同じようにポーズをとる裸体美の描写などが映し出される、と言ったものの、近年NHKでも放映されたことがあるが、私は部分的にしか知らない。
 こーゆーのなんなのだろうねと思う。大正生まれの山本夏彦や吉本隆明も、この手のスポーツ美学を非常に嫌悪していたが、嫌悪と忌避ですまされる問題でもない。
 幸いと言っていいのか、現代のオリンピックは成果主義なのか、特定の競技にアスリートの身体が特化されて(畸形化なんて言っちゃいけないよね)、ギリシア的な身体美は出現しない。唯一の救いは黒人の陸上競技者の美しい身体だ、と思う。

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2004.08.16

米軍機、市街地墜落の意味

 沖縄県宜野湾市の沖縄国際大構内に、米軍CH-53D大型輸送ヘリコプターが墜落したのは、13日の金曜日、午後2時20分ごろ。あれから3日近く経過したが、沖縄県警はいまだ現場検証ができない。ここは本当に日本国領土なのだろうか。日本側の事故検証ができないのは、米軍の同意が得らないからなのだが、なぜそんな同意が必要なのかというと、日米地位協定があるからだ。事故機は米軍財産にあたるので、現場検証には米軍の同意が必要とされるというのだ。沖縄国際大学は日本の財産ではないのか。ようするに、日米地位協定がまたもしょーもないネックになっている。沖縄人のレファレンダム(referendum)といえる住民投票によって、日米地位協定改定が希求されたのに、依然、日本国政府はこれを無視したままである。
 事件は本土側にも報道されたが、ベタ扱いに近い。プロレスとさして変わりない大衆興行であるオリンピックでメディアの時間枠が埋まっているせいもあるのだろう。住民被害もなく、大惨事という印象を与えないせいも大きいかと思う。
 自分も長く沖縄県民であったから思うのだが、沖縄県民には、おそらく二つの思いがよぎったことだろう。一つは、またかよ、である。1972年の本土復帰以降、沖縄県内で発生した米軍機の墜落は今回で41件め。年に一回は落ちる計算になる。しかも、今回のCH-53Dは1985年、1999年に、沖縄本島北部国頭村で墜落したことがあり、2回ともきちんと4人死亡した。今回は乗員3人。1人は重傷だが、2人は軽傷に終わった。よかったねと言えるわけもない。事故地域は人口の多い住宅地なのだ。
 それが二点目の思いにつながる。普天間飛行場自体、危険極まりない存在だということだ。今回の墜落が、沖縄国際大学近くの保育所やマンションであれば大惨事となった。沖縄県民は誰でもいつかその大惨事が起こると予想している(この感覚が本土人に伝わらない)。もちろん、米国側も予想している。昨年来沖し、普天間飛行場の上空を視察したラムズフェルドも巷にいわれるほど、おばかではない。状況を理解している。日本政府もある程度は理解している。次に事故が起きれば、すべては終わる。
 普天間飛行場というのは、実に破廉恥な米軍基地である。回りを住民の居住区が囲んでいる軍事基地などという存在自体がふざけている。米軍側でも言い分もあるかもしれない、後から住民が住みだしたのだ、と。ふざんけんな、である。日本軍の駐屯地ではあったが、本土空爆用の滑走路を作ったのは米軍。戦争が終われば、こんなもの無用になるはずで、しばらく放置されていた。空軍下だったので、嘉手納基地に統合されるはずだった。ところが1960年に海兵隊へ渡され、以降海兵隊の既得権となった。4軍がまともに統制されるなら、さっさと閉鎖されていい基地であり、Stars and Stripes紙が"Base targeted for closure:閉鎖目標基地"(参照)と表現するのも当てこすりではない。
 このニュースが本土側でベタ扱いなのは、土地勘が働かないせいもあるのだろう。沖縄中部の地図を見るとすぐにわかるように、普天間飛行場は沖縄国際大学に隣接している。今回の事故機も、琉球大学西側から北上し、あとわずかで普天間基地内に入ろうとしていたようだ。地域をより詳細に見ると、住宅地であることがわかり、ぞっとする感じももう少し伝わるのではないか。



 墜落地点付近にはマンションが多いことがわかる。まさに住宅地域だ。小学校や保育所(幼稚園)、また、県民なら日常なじみの「かねひで」も近い。沖縄の普通の生活地域だ。琉球大学生による写真撮影「写道部」(参照)が現場の雰囲気をよく表している。一覧(参照)中、特にこの写真(参照)のコメントがいい。


駆けつけた人々。つーかこの高さのマンションによく激突しなかったもんだ。
墜落機の進入経路には背の高いマンションやアパートが並んでいる。
隙間を縫って大学の壁面に衝突したのは奇跡的。

 実際のところ奇跡的だったのかはよくわからない。その他、現場を見ていた人の話を総合すると、墜落以前に沖縄県警のヘリが危険を察知して待避のアナウンスをしていたようでもある。また、事故機はしばし、ふらふら空中を旋回していたらしい。落ちる場所を探していたのかもしれない。シェル給油所は絶対にさけるポイントだったことだろう。事故機の乗員たちに死傷者が出ていないのも、ある程度自分たちの命は助かると踏んでいたのだろう。
 米軍の現場レベルでは今回の事故をそれほど重視していない。というのも、普天間飛行場の海兵隊は15日には通常通り、C2A輸送機のタッチ・アンド・ゴー(離着陸訓練)をやっている。あるいは、事態の政治的な意味が、まるでわかっていないのだ。
 今回の事件は国際的には注目されていない。本土が側が初動ベタ扱いという点では、1995年の少女レイプ事件でも同じだが、あの時は国際的なリアクションがあった。私はすでにインターネットのニューズグループなどを見ていたが、レイプ犯が黒人であるということまで早々に議論されていた。少女レイプ事件や服部君射殺事件でもそうだが、米国内で潜在的な問題意識があれば、事件の様相も変わる。日本政府や日本マスメディアは国際世論に弱い面がある(すべてそうではないが)。しかし、今回の事故は米国民には特に関心をひかない。例外的に新華社が若干関心を持っているようだが、つまり、そういう政治の枠に収まってしまう。
 沖縄を含め、反基地運動グループの動向は、皮肉でいうのではないが、組織が硬直化しているのか反応は遅いだろう。プロ市民動員の割り当てには準備がいるのではないか。インターネット時代の情報戦にも弱いことは先日のイラク日本人人質事件でもわかった。
 日本政府側の表面的な対応はこのままうやむやだろうか。利権もあるため、自民党は辺野古代替基地をいまだ推進しようとしている。愚か者としかいいようがない。潜在的に日本の国家危機でもあるというのに、政府内に沖縄を知るタマがこの10年で自民党から消えてしまった。梶山静六が死に、野中広務が引退し、事実上岡本行男が失脚した。山中貞則も死に、福田康夫も失脚した。つまり、そういうことがすでに危機なのかもしれない。

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2004.08.15

終戦記念日という神話

 終戦記念日というけど、終戦したのは日本だけ、ということを日本人は忘れがちになる。しかも、8月15日は。降伏勧告のポツダム宣言を受諾したと元首が国民に通知しただけで、実効の降伏文書に調印したのは9月2日。終戦記念日は9月2日とすべきかとも思うが、沖縄を含む南西諸島の日本軍守備軍と米軍との間で降伏調印が行われたのは9月7日。なので、沖縄戦が本当に終わったこの9月7日をもって、日本の終戦記念日としたほうがいいと思う。
 1945年8月15日、日本の国家元首である天皇はラジオを通して敗戦を通知した。玉音放送と呼ばれている。放送とはいっても、いったんレコードに録音されたものだった。録音場所は皇居なので最初から雑音が入った。その前日、新聞などで重大な放送があると発表されていたので、多くの日本人はたぶん敗戦宣言だろうと予断を持って聞いたようでもある。
 玉音とはいえ、日本国民は現実の天皇の声など聞いたこともなかったし、そもそも聞いてわかるような内容ですらない。書き起こした「終戦の詔勅」(参照)は今ではインターネットで読むことができる。玉音放送のmp3ファイルへのリンクもある。玉音放送など聞いたこともないという日本人もいるかもしれない。だったら、聞いてみそ。
 秋田県に疎開していた山本夏彦は、玉音放送を聴いたその日は、別に変わったことはなかったと言っている。ただ、その夜、突然拡声器で東京音頭が流れたそうだ。老は「僕のだいきらいな東京音頭、やーっとな、それよいよい」(「男女の仲」)と言う。
 余談だが、昭和天皇が崩御したその時、私は東京駅にいた。職場に向かうはずだったが、こんなことは人生にそうあることでもないと思って、そのまま二重橋に走った。明治大帝が亡くなったとき、あるいは敗戦時を連想させるような光景がそこに出現するだろうかと期待した。が、何も無かった。静かだった。人も少なかった。私はしばらく虚空を見ていた。歴史に遭遇するというのはそういう感じかも知れない。
 玉音放送のシーンは、その後ドラマなどで何度も再現された。だが、そのたびに、別の物語になっていくように思われる。本当はどうだったか、もっときちんと調べたほうがいいようにも思う。
 一例だが、春風亭柳昇の名著「与太郎戦記」によれば、柳昇は、負傷兵となり北京の病院に収容されているときに、玉音放送を聴いた。前日にやはり通達があったそうだ。


私たちは、翌八月十五日の正午、病棟前に整列し、玉音放送を聞いた。だれも、
「戦局が悪くなるし、みんな、がんばれ」
という陛下の激励のおことばだと信じ込んでいた。そのうえ、詔勅の文章がむずかしく、ラジオも雑音が多いので、ご放送が終わると、
「さァ、いよいよ決戦だぞ!!」
一同、武者ぶるいしながら病室に戻った。

 「与太郎戦記」を読めばわかるが日本軍は実にトホホとしか言いようがない、笑うっきゃないような戦争を展開していた。私は戦争をばかにしたいのではない。本当の戦争には、そういう側面もある。「与太郎戦記」のような、本当の従軍者の、しかも、高位軍人ではない人の実体験禄は、今後も日本人が読み継いでいく必要があるだろう。が、これは絶版のようだ。
 柳昇は玉音放送を聞いて疑問に思ったらしい。

だが、どうも私にはフに落ちないところがあったので、ただ一人残って、あとのニュースを聞き、戦争は日本の無条件降伏で終わったことを知った。助かったと思う半面、いい知れぬ悲しみをおぼえ、気持ちは複雑だった。
 当然のことだが、終戦になると同時に、食事は今までの半分になってしまった。なるべく体を動かさず、腹がへらないように努めた。
 炊事場へ行くと、昨日まで雑役で働いていた中国人が、一夜にして中国軍の中尉に変わっていた。スパイだったと聞いて、ビックリした。

 柳昇の話によれば、玉音放送にはちゃんと解説もついていたのだ。あれだけじゃなかった。
 さて、日本では終戦記念日だが、日本に支配されていた国では、当然、違う意味を持つ。
 8月15日は韓国では光復節として祝う(なお、台湾の光復節は10月25日)。北朝鮮では祖国解放記念日としているらしい。「光復」には日本の支配からの解放という意味合いがあるのだが、史実はやや皮肉でもある。
 1945年8月15日以降も朝鮮総督府の統治は続いていた。当然といえば当然で、この日を境に体制が崩壊したわけではない。沖縄から遅れること2日、9月9日になって、ようやく朝鮮総督府は米軍との間で降伏調印式を行い、これによって、朝鮮半島は日本から米軍下に置かれることになった。
 この間の1か月に満たない朝鮮の歴史は、かなり紛糾していた。
 朝鮮総督府は、朝鮮が米軍下になる前に、統治機構を朝鮮民衆に引き渡そうとしていた。なんらかの日本側の思惑もあったのかもしれない。17日に朝鮮総督府は、朝鮮の建国準備委員会に権限を委譲し、市中では太極旗の掲揚を推進させた。建国準備委員会では、現在のイラクよろしく、当時のリーダーであった呂運亭と宋鎮禹との政争もあったようだ。
 しかしこの権限委譲の動向を早々に察知した米軍は、16日の時点で暫定的な朝鮮統治を朝鮮総督府に命じていた。結局、米軍の命令どおり、統治の権限は18日には総督府に戻されることになった。太極旗も日章旗に戻った。朝鮮の人はいやな思いをしたことだろう。
 米軍は、朝鮮に主権が発生することを抑制し、朝鮮への支配をそのまま日本から譲渡するという形態を取りたかったようだ。米軍には、38度線で朝鮮半島を分割する、対ソ連の思惑もからんでいたのだろう。
 その後、国連決議では、南北朝鮮で総選挙を実施し朝鮮統一政府を樹立するよう推奨されたが、ソ連の反対により頓挫。しかたなく米軍は、韓国だけで1948年5月10日に憲法制定国会の総選挙を実施させた。
 この結果、李承晩を初代大統領として1948年8月13日に大韓民国が建国した(参照)。
 そう、韓国の建国記念日は8月13日のはずである。が、現状、韓国では、その2日後の15日の光復節をもって、建国記念日としているようだ。日本から独立したという意味合いを込めたかったからなのだろう。

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2004.08.14

DNAから日本人の起源がわかるものなのか

 宝来聰総合研究大学院大教授が10日に亡くなった。58歳。直接的な死因は肺化膿症とのことだが、別の病気から誘発したのではないのかとも思った。わからない。今後の活躍が期待される学者だったのに残念だ。

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DNA人類進化学
 書棚を探すと、宝来聰教授の本が一冊残っている。「DNA人類進化学」だ。アマゾンで見たら、在庫切れになっている。絶版だろうか。他の著書はどうかと思って、検索したがまずもって見あたらなかった。1997年の「DNA人類進化学」の知見はその後、本人が否定したともどこかで聞いたことがあるが簡単には確かめようがない。ネットをサーチしてみると、同書についてのコメントはちらほらとあるが、率直に言って、あまり要領を得ない。私の理解が足りないのかもしれない。
 「DNA人類進化学」で私が印象に残っていることは三つある。一つは人類をその起源から考えるとき、アフリカ人の多様性こそ重視しなければいけないのではないかということ。日本人は白人、黄色人種、黒人くらいにしか分類しないが、どうもこの分類自体が近代の偏見のようだ。二点目は、琉球人の祖先がいわゆる縄文人から遠いとしている点だ。この点については、率直なところそれ以上はよく読み取れない。それでも、私はアイヌと琉球が日本人の原型だとするのは間違っているように思うので印象に残った。三点目は、二点目に関係するのだが、日本人起源論ではおそらく定説と思われる埴原和郎説を否定しているように見えることだ。
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分子人類学と
日本人の起源
 ところが、読みやすい入門書である「分子人類学と日本人の起源」を見ると、宝来説が埴原説をサポートしているかのように書いてある。そう読めないこともないのだろう。
 宝来聰の研究は、「DNA人類進化学」でまとめられた時点では、母性遺伝のミトコンドリアDNAによる人類・民族起源を対象としていた。ミトコンドリアDNAは母系だけに遺伝する。このからくりから彼はこう説明している。

例えば、われわれ一人一人の一〇世代前の祖先は2^10、すなわち一〇二四人存在するから、われわれのもつ核のDNAは祖先の染色体の全部で四万七一〇四本(四六本×一〇二四人)のうちの四六本に由来するものを持っている。したがって、各染色体が一〇世代前のどの先祖に由来するのかを特定することはほぼ不可能である。一方、ミトコンドリアDNAでは、確実に一〇世代前の一人の母系の祖先が持っていたミトコンドリアDNAに行き着くことができる。

 それが本当なら、かなり確実性をもって祖先の推定ができそうにも思うが、この限定性には両面があり、端的な話父系にはかかわらない。むしろ、遺伝子学を使った祖先の特定はできないというふうに読んでもいいのかもしれない。
 東アジアや東南アジアのように、紀元前から華僑的な交易の盛んな地域では、男は単身で遠隔地に行って、そこで現地妻を作る特性がある。なので、文化的な特性及び父系の遺伝的要素がまるでわからないと、実際には無意味な結論になりかねない。
 率直なところ、こうした民族起源説は、私は話半分といったところかとも思う。
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日本人の
骨とルーツ
 しかし、古代史全般に言えることだが、こうした「科学的」な手法が古代の真実を表すと考える人は多い。しかたがないのかもしれない。以前、松本秀雄のGm遺伝子論(「日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く」)に固執する人と話をしたことがあるだが、それだけが科学的な日本人起源だとして譲らずに閉口した。
 同類の科学的な議論は、日沼頼夫「新ウイルス物語―日本人の起源を探る」にも見られる。栗本慎一郎はこれに偏って評価していた。しかし、科学というものは多面的だ。なのに、常識的な科学観が、古代史といった分野では欠落しやすいのだろう。
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母型論
 その点、吉本隆明はこうした問題を扱った母型論では、埴原説、松本説、日沼説を並べながらも一定の距離を取っている。だが、この本はあまりに独自すぎてどのように評価していいかわからない。また、言語をもって民族起源に迫ろうとしているようにも見える点は稚拙すぎる。言語の起源は民族の起源とはまったく独立である。
 文化様式も民族の起源とは異なる。だから、民族学や民俗学的な知見から日本人起源を探ることは無意味だ。縄文人も弥生人も本来は、洒落に過ぎない。縄文土器と弥生土器という文化様式があるだけなのだ。
 結局、日本人のルーツは何か、どう探るのかという問題になる。だが、この問いかけが倒錯しているのだろうと私は思う。宝来聰らのような研究が無意味だとは思わないが、それらの研究成果がもし我々日本人の起源幻想に答えようとしているならやはり倒錯だろう。
 問題は、「われわれ」というときの民族の幻想的な同一性である。これがどことなく血をや骨格を連想させることが科学の装いを持ってDNAだのという話になりやすい。だが、民族とは共同的な幻想による集団の行動特性でしかない。韓国でも、高句麗・渤海の起源を巡って中国と争い始めたが、この議論に潜む朝鮮族という幻想から抜け出ようとはしない。近代が民族国家を志向するなら、統一朝鮮ができても同じことになるのだろう。中国は中国で諸民族の統合を名目としつつ実際には巨大な民族国家的な志向をする。
 特に話の結論はない。
 余談だが、今日で極東ブログが一年経った。一年よく続いたものだなと思う。感慨はある。思うこともいろいろある。人生のある一年、よく書き続けたものだと自分をいつか思うのだろう。

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2004.08.13

北朝鮮残留日本人

 「流れる星は生きている(藤原てい)」を読み返しつつ、史料として見ると、ソ連と朝鮮を配慮してあえて書かれていないせいもあるのだろうが、反省するに、私も背景についてよく理解できないことが多い。満州の崩壊については、もっと組織的に勉強しなおしたほうがいいのだろう。単純な話、藤原ていが引き揚げのときに持っていた紙幣はどのように流通していたかさえわからない。紙幣など一夜にして紙くずになってもよさそうだが、そうでもない。
 引き揚げのルートがなぜ、あのようなものであったのかもわからない。38度線というと私などは朝鮮戦争後のイメージが強いが、満州崩壊後はソ連軍と米軍の管轄の線引きだったのだろう。宣川の状況についてもよく読み込めていない。ソ連の暫定的な管轄下だったのではないかと思う。そこで1年滞在後に彼らが移動を開始するのは、その管轄にも関係があるのだろう。別の言葉で言えば、ソ連軍には、難民を保護して日本本土に帰還させる義務があったと思うがそれが実質放棄されたのではないか。いずれにせよ、藤原ていなど日本人は、38度線越えてから米軍に保護された。
 当然ながら、こうした逃避行を実施し得ない人々も存在する。満州といっても、北の延吉や南の安東などすでに現在の北朝鮮域に近い。北朝鮮に残留した日本人も少なくないことは想像にかたくない。彼らはどうなったのか。
 私がこの問題に気になったのはそう昔のことではない。その存在は以前から知ってはいたが、日本国政府が動く気配はないようだった。中国残留の日本人とは違い、国政上顕在化したのはようやく、1997年12月5日にもなってのことのようだ。同日の読売新聞「北朝鮮残留日本人 一時帰国目指し親族調査へ 1442人中、67人/厚生省」にはその実態についてこう記している。


厚生省によると、北朝鮮からの未帰還者として現在、親族から届け出がある残留日本人は千四百四十二人。このうち、千三百七十五人は、死亡が確認されないまま、親族が裁判所へ申請して戦時死亡宣告を受けている。それ以外の六十七人については、同省は九一年まで随時、親族の所在確認を行ってきたが、住所が変更されて居住地がわからないままの親族もいる。

 私はこのニュースに驚いた。厚生省が関わるのは67人のみ。1375人については、死んだことになって終わりなのである。
 藤原ていは生死の境を越えて生き延び、当時の記憶もないほどの幼児だった藤原正彦はすでに初老といっていい歳になる。この同じ年代の日本人が、北朝鮮の地にあって、すべて死に絶えたのだろうか。そんなわけはないだろう。
 ふと気になって、過去の新聞を見ていると、奇妙な話があった。奇妙で済まされることではないのだが、樺太(サハリン)残留の日本人が北朝鮮に連れられたケースがあるというのだ。1991年読売新聞「 不明のサハリン残留邦人女性 北朝鮮へ移住させられた ソ連当局が認める」の記事だ。

 同州ユジノサハリンスク市(豊原)に住む秀子さんの妹、ザツェピナ・徳子さん(49)と大阪府内の兄、梅村時男さん(56)の二人が昨年十月にKGBサハリン州総局に対して行方を明らかにするよう求めたところ、徳子さんあてに十一月、U・N・ビスコフ総局長の名で回答書が郵送された。
 回答書は「あなたの親族の運命については、ソ連内務省の決定で北朝鮮との合意により、市民権のない人物として一九七七年十一月十九日、北朝鮮に引き渡された」などとしている。生死や現在どこにいるかなどには触れられていない。
 徳子さんは「秀子さんが日本移住を強く望んでいたので(日ソ冷戦で)好ましくない人物として強制移住させられたのではないか」と話している。

 これは特殊なケースだろうとは思う。しかし、それを言うなら現在焦点を当てられている拉致被害者についても特殊なケースのようにも思われる。もっとも、戦後処理と国家犯罪は別だとも言える。
 北朝鮮残留の他に、樺太残留の日本人にも複雑な問題がある。ぞんざいに書いてはいけないことだが、戦前の日本は朝鮮人を多数樺太に強制連行したが、この地で日本人女性と結婚した人も少なくない。日本人社会がそこにあったからだ。彼女たちも長く日本に戻ることができなかった。朝鮮人の樺太連行については、別途書きたいとも思う。
 樺太残留日本人の引き揚げは戦後ある程度組織的に行われたが、その後は個別の問題とされた。1993年に国際状況の変化からか社会の話題になり(参照)、永住帰国のニュースも聞いた。あらかたは解決したのか、最近はあまりこの話を聞くこともない。

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2004.08.12

[書評]祖国とは国語(藤原正彦)・父への恋文(藤原咲子)

 流れる星は生きている(藤原てい)で、当時26歳の藤原ていは、6歳の長男正宏、3歳の次男正彦、1か月の長女咲子を連れて壮絶な満州から引き揚げた。「祖国とは国語」(藤原正彦)はその次男、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」(藤原咲子)はその長女が、それぞれ、それから半世紀の時を経て書いた作品である。

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祖国とは国語
 「祖国とは国語」は、数学者藤原正彦が雑誌などに書いたの軽妙なエッセイをまとめたものだが、なかでも雑誌「考える人」に掲載された「満州再訪記」が満州引き揚げに関連して興味深い。彼は、半世紀の年月を経て、彼は自分が生まれた満州の地を母と訪れたかったというのだ。帯の引用がよく伝えている。

混乱の中で脱出した満州の地を訪れることは、長い間、私の夢であった。母の衰えが目立つようになったここ数年は、早く母と一緒に訪れなくては、と年に何度も思った。母が歩けなくなったり、記憶がさらにおぼろになったら、二度と私は、自分の生まれた場所を見ることはできない、と思うようになっていた。他方では、八十歳を超え、体力低下とわがまま増大の著しい母を、連れて旅することの憂鬱も感じていた。

 「わがまま増大の著しい母」というユーモラスな表現が今も気丈な藤原ていをよく表している。感傷的な物語ではない。また、この新京(長春)への旅行には、妹の藤原咲子も同伴していて、家族の会話も面白い。
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流れる星は
生きている
 旅の話には当然、「流れる星は生きている」が出てくる。現在の文庫版には、昭和51年(1976年)文庫版のあとがきが付いているが、そこで、この本が藤原ていにとって遺書として意識されていたことが書かれている。

引き揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、歯を食いしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書きつづけた。

 「流れる星は生きている」の最後が死を暗示する暗いトーンで描かれているのは、まさに彼女が死に直面している現実があった。
 遺書を企図されていたという話は「祖国とは国語」の「満州再訪記」に続く。次男、藤原正彦は新京でこう思い出す。

 自宅にある『流れる星は生きている』の初版本を思い出した。引揚げの三年後に日々や出版から上梓された時、父と母は、三人の子供たちが大きくなったら読むようにと、三冊を大封筒に入れて大事にしまっておいたのである。
 引揚げの苦労がたたり病床に臥ていた母の、遺書がわりとして著されたこの本は、半世紀を経て、ぺらぺらの表紙も粗い手触りのページも、すべて茶色に変色している。それぞれの扉には、父と母からのおくる言葉が万年筆で書かれている。私あてのものにはこう書いてあった。

 これに手短に新田次郎と藤原ていの、父母としての言葉が手短だが続く。引用はしない。
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父への恋文
 藤原ていの引き揚げ後の病床のようすは、藤原咲子の「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にも描かれている。
 彼女は、戦後の大ベストセラー「流れる星は生きている」の咲ちゃんとして周囲から見られて育った。誰もが、「咲ちゃん、よく生きていたわね」と驚愕の眼でその少女を見つめたのだろう。しかし、本人にしてみれば当然わかるものではない。
 大人である私からすれば、その咲ちゃんは、母の強い愛情を受けて強く育ったに違いないと思う。もちろん、そうでないわけもない。だが、この咲子本人の本には、少なくとも私にはぞっとするエピソードが描かれている。藤原咲子は「流れる星は生きている」を読んだことで自殺をもくろんだという。その小学校六年生の時の咲子の文章が、「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」にそのまま掲載されている。

 大好きなお父さん、咲子は死にます。
 これ以上生きていると本当に悪い子になってしまいます。「チャキはいい子だね」とお父さんがいつも私の頭を撫でるでしょう。嬉しいけれど、そのたびに、お父さんの咲子でなくなりそうな気がします。どんどん良い子から離れていくからです。

 自殺を決意した遺書だ。そのきっかけは、母ていの「流れる星は生きている」を読んでのことだった。まさかと思うだが、咲子はこの物語を読んで、自分など生きていなければよかったのだというように了解してしまったようだ。兄二人と一歳の乳児の生命の重要性に順序をつけようと苦悩する描写なども、咲子の心情を傷つけたようだ。
 そんな受け止めかたがあるものだろうか。なぜ、そんな「誤読」になってしまうのか。と、私はここで、ある種呆然とした思いで立ち竦む。
 小学六年生の女の子の心情とは、そのようなものである。幼いと言えば幼いのだが、死をそこまで思い詰める心の動きにうたれる。私が、少女の父親なら、感受性のするどい小学六年生の少女に立ち向かえるものだろうか。
 小学六年生の咲子は長い遺書を書いたのち、風邪薬を大量に飲んだ。市販薬の風邪薬だから、結果は傍から見れば笑い話にもなろう。これが、親が睡眠薬を常用していたのなら、ぞっとする結果になりかねない。
 もちろん、成人し、この話を書きつづる大人の藤原咲子はこう見つめ直している。

『流れる星は生きている』を読んだあとの絶望感は、日常のすべてにわたり、私を虚しくさせ、それをふり払うことができないまま、ついには母への不信感へと移行していった。風邪薬を飲むという行為そのものは、滑稽、幼稚であり、喜劇的な結末をもたらしたが、十二歳の、感性の豊かな少女の心をギリギリまで追いつめた数行の表現は、切なく、悲劇的なこと以外に、いったい何をもたらしたというのだろうか。しかし、戦時下でやむなを得なかったという重要な事実を、誰からも説明されなかったことは、それ以上に悲劇的であったといえるかもしれない。

 もちろん、そうだ。だが、と、私はここでも立ち止まる。では、誰かが戦争とはかくかくであったと説明すればよかったのだろうか? 曰く、戦争の悲惨さを語り継げ、命の尊さを子供に理解させよう、と。
 私にはわからないという感じがする。
 傍の者がここまで言ってはいけないのかもしれないが、彼女の心を死にまで追いつめたのは、まさに一歳のときの生死を分ける惨事の無意識そのものではなかったか。
 そして、その無意識は、母藤原ていとシンビオティック(symbiotic)な、死に直面する凶暴な何かだったのではないか、と思う。歴史とは、そのように、恐ろしい爪痕を心の奥深くに残すことで、継承されるものだろう。むしろ、歴史とは、我々の無意識の、個人の意識だけに還元されない集合的な無意識の、凄惨な残滓であるかもしれない。そして、母性と女性性とは、その恐ろしい何かに耐えるように人類の意識の基盤としてあるのかもしれない。
 だからこそ、「父」がそこに立ち向かわなければいけない。彼女の父、新田次郎はそれを本能的に、あるいは、歴史心情的に理解していたのだろうと、この本を読んで察せられる。
 咲子の心の傷は、父新田次郎の物語によって癒されることになる。不思議な奇跡の物語である。新田次郎という「父」の存在が、歴史がもたらした凄惨な無意識をきちんと受け止めるように援助し、そのことで、「生」への回帰を親和的にもたらしている。
 と、言辞を弄しているきらいはあるが…。
 私は藤原咲子という人の存在がとても気になる。昭和51年(1976年)文庫版「流れる星はいきている」の後書きで、母藤原ていは娘の咲子について、こう軽く触れている。

 当時生まれて間もなかった娘も、三十歳になった。大学で文学を勉強していたので、小説でも書き出すのかと思っていたら、自分で結婚の道を選んだ。すでに二児の母になっている。

 母から見ても、この娘は小説を書き出すように見えたのだろう。父新田次郎も、自分の死後自分のことを書いてくれと彼女に残している。親から見れば、この子は作家になるとの確信を持っていたのではないだろうか。
 変な言い方だが、戦後史に藤原咲子という小説家が不在であることのほうが不思議であるようにも思えてくる。
 小説家というのは、若くして書き出せばいいものでもあるまい。八つ当たりのようだが、ここで、私はよしもとばななのことを連想する。彼女もその作品のあちこちに父吉本隆明のイメージを描きながら、いまだに父と母の物語の核心を描いていないのはなぜか。私は、彼女がそれを書くまで、どれほど素晴らしい作品を書いても、運命が彼女に書かせるべき小説を書き上げていないのではないかと思っている。

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2004.08.11

李下に龍を顕す

 この14年間シンガポール首相を務めてきたゴー・チョクトン(63歳、Goh Chok Tong)が辞任し、明日12日、これまで副首相兼財務相を勤めてきたリー・シェンロン(52歳、Lee Hsien Loong)が首相となる。シンガポール建国の初代首相にして善き独裁者リー・クアンユー(80歳、Lee Kuan Yew)の長男である。単純に言えば、王位継承ということだ。世界が沈滞化してきたのか、自由主義国ですら、世襲が珍しくないが、直接的な国民投票によらないという点ではどこかの寒い国に似ている。もちろん、どこかの寒い国と同様に、表層的にはその国民に不満があるわけでもない。リー・シェンロンはシンガポール国民に強く支持されている。もっとも、盤石と言えないのは、かつてリー・クアンユーがその位置にいた上級相にゴー・チョクトンがつき、さらに心太よろしくリー・クアンユーは新設の顧問相に突き上げれたことからでもわかる。没問題、大丈夫。52歳のシェンロンには、パパがついている。かくして三首相体制となった。東南アジアの龍に首が三つもある。なんだかキングギドラみたいだな。
 今回の世襲は古い筋書き通りだった。もともとゴー・チョクトンは父クアンユーが長男シェンロンに国を嗣がせるための中継ぎに過ぎなかった。シェンロンが父に並ぶ生え抜きの経歴を持つのに対して、ゴー・チョクトンは見劣りがする。シンガポール大学を卒業し、政府系海運会社の役員を務めて、1976に政界入った。その後、国防相・副首相を歴任して、1990年リー・クァンユーから首相職を移譲された。リー・クァンユーにしてみると、英国自治領時代から通算31年後のこと。すでに、1984年に政界入りした世継ぎの嫡子シェンロンも、この時すでに副首相兼商工大臣となっていた。いい滑り出しじゃん、とパパは思ったか。
 人生というのは広く眺めてみると意外に公平なものである。あるいは、どこかに神の采配があるような気もしてくる。「天の将に大任を是の人に降ろさんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いには其の為す所を払乱す。 心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を曽益する所以なり」である。1992年、シェンロンは癌(リンパ腫)にかかっていた。妻は1983年に病気で亡くしていた。世の辛酸舐めた。
 シェンロンは、「そのことは今でも人生に影響していますか」と訊かれたとき(参照)、こう答えた。「それは誰の人生でもありうることです。人生の荒波に揉まれず自動操縦の飛行機に乗るようにはいきません。人はそうした不幸とともに生きていくものなのです。」
 彼は先妻との間の子を引き取り、再婚もした。どこかの国の首相と、とても、違う。人生いろいろではないのだ。庶民の普遍的な生き様には変わりえぬ根幹というものがある。それを見つめることができない人が首相となってはいけない。国民が不幸になる。
 シェンロン個人への表立った批判は少ないだろうが、リー王朝への批判は少ないわけではない。現在の妻ホー・チンはテマセク・ホールディングスの執行取締だ。この企業はシンガポール航空など国内の主要企業を傘下にしている。弟のリー・シェンヤンはシンガポール・テレコムの最高経営責任者。ま、もっとも、自由主義というのはそんなものか。米国大領選挙候補ケリーの最終的な金づるはかみさんだしな。ブッシュ? もう言うまでもないでしょ。
 世襲で、しかも、大企業をファミリーにしていて、それでいいのか?
 いいに決まっている。それ以外になにがあるというのだ。歴史は苛酷だ。それを思えば独裁制と言われようが屁のごときだ。
 シンガポールの歴史は1819年に始まる。今ではホテルにその名前を残すサー・スタンフォード・ラッフルズがシンガポール島に着いたとき、そこに中国人はいなかった。マレー人が150人ほどだけ。なのに、4年後には、住人は1万人を越え、中国人はその1/3を占めるまでになった。中国人といっても、出身はばらばらでお互いに言葉は通じない。この華僑たちは、今でもそうであるように、その地に現地夫人を作るから、混血の子供がたくさん生まれる。日本の古代もそんなものだっただろう。
 マレー人の女と華僑の間に生まれた子供たちはババ・チャイニーズと呼ばれる。母語とはよく言ったもので、母の言葉を指すが、マレー人の母を持つ華僑の子孫たちは、マレー語を母語とする。中国語なんか話せない。リー・クァンユーもそんな一人だ。頭が良かったのは確かだから、宗主国イギリスで教育を受けることができた。
 1957年、ようやくこの地にマレー人の民族意識の高まりから、マラヤ連邦ができたが、できてみると、華僑の子孫ははたして自分たちが何者かわからなくなった。彼らは1963年マラヤ連邦に入ったものの、2年後に追い出された。この理由をマハティールがこっそり書いているが物騒で再録できない。
 こうして1965年8月9日、シンガポールは華僑の国として独立することにした。華僑なんだから中国を話さなくてはということで、リー・クァンユーも普通語(北京語)を覚えた。もっとも、ババ・チャイニーズたちがすべて彼のように普通語が話せるわけもない。そもそも華僑が北京語を話すというのも変な話だ。ということで、英語を普及させることにした。We can speak English, laである。語尾になんか付いているがいいじゃないか。日本人はかくしてシンガポールの公用語は英語だと思っている。間違いではない。が、公用語は英語、中国語(北京語)、マレー語、タミル語。で、この国の言語はと言えば、歴史が示すとおりマレー語だ。法螺話ではない。JETROの「シンガポール;概況 」(参照)にも正直にそう書いてある。
 そうそう、リー・クァンユーは漢字で李光耀だった。この光輝くイメージは息子のシェンロンのあだ名、Rising Sunに受け継がれているようだ。Rising Sunとかいうと、つまらぬ歌でも歌いそうになるな。

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2004.08.10

消費上向きで100円ショップがなくなる?

 6日のフィナンシャルタイムズに日本の100円ショップの話が載っていた。そんな話も載るのかと思って読んだ。"100-yen shops fall victim to Japan's recovery"(参照・有料)である。記者はMariko Sanchanta。標題は「100円ショップは日本の経済回復の犠牲となる」とあるように、日本の消費経済が回復するにつれ、日本人は安物買いをしなくなったというのだ。


With economic recovery increasingly well-established and deflationary pressures continuing to abate, Can Do, an operator of Y100 shops, is set to close 34 of them by November. Meanwhile, Daiso, the leading owner of Y100 shops, has diversified its product range by introducing items that cost between Y200 and Y300. Y100 shops first appeared during Japan's economic “lost decade”,

 話にさして裏付けがあるわけでもない。昨年11月にキャンドゥで34店舗が閉鎖。ダイソーでは最初のウリだった100円以外に、高額が200円、300円が出てきた、というのだ。が、日本の「失われた10年」と結びつけるような話でもあるまい。
 山本夏彦はよくエッセイで300円は金の内に入らない時代となったと言っていた。先日亡くなったマクドナルドの藤田田は、ハンバーグの価格はタバコ一箱にしろと言っていた。タバコは300円くらい。300円が高額化というものでもあるまい。
 余談だが、タバコの価格の正体は税金なので鰻登りとまではいかないものの、ちょっとした一服の庶民感覚より上昇してきた。それでも、欧米の半額以下なのは、タバコは日本人の福祉的な意味があるからだろう。この話は極東ブログ「たばこという社会福祉(もちろん皮肉)」(参照)に書いた。週刊文春・週刊新潮もいよいよ300円を超えようとしている。恐らく日本の経済は、この300円ベースからワンコイン500円の間を結局のところを税金などが埋めていくという仕組みになるだろうと思う。隠された重税社会だ。
 記事に戻る。日本庶民の財布が緩みつつあるとして高額のモスバーガーが売れているというエピソードがある。

But there is anecdotal evidence that certain companies are taking advantage of the fact that consumers are beginning to open their purses, albeit cautiously. Mos Food Services, a company that operates Mos Burger, the fast food chain, last year introduced a Y610 limited edition hamburger that has contributed to a 2-3 per cent increase in the average spent by each customer.

 610円のハンバーガがよく売れて、総売上に寄与しているというのだ。記事にはないが、モスバーガーもこれに気をよくして今度は880円を出す。「モスが880円バーガー 高級路線をアピール」(参照)だ。

新商品は、昨年8月から販売している高級バーガー「ニッポンのバーガー 匠味(たくみ)」シリーズの新メニュー「アボカド山葵(わさび)」。静岡県の安倍川水系で栽培され、すし店などで使われる本わさびのすりおろしを付け、牛肉やアボカドのうま味が際立つようにした。当初は100店限定、一店当たり1日10食とし、改装の進ちょくに応じて取り扱う店を増やす。

 しかし、当面、これは恐る恐る話題作りということに過ぎないだろう。
 私は、庶民の財布が緩んでいるという実感はあまりない。モスバーガーの事例もフィナンシャルタイムズのエッセーの読みとは違うと思う。簡単でヘルシーな個食(参照)志向だろう。オヤジとタバコを避けて個食したいというニーズではないかな。現状、マクドナルドのほうも経営が持ち直してきているが、こちらは高級化というより基本サービスを向上させているからだと思える。
 財布が固いという実感はある。自分の趣味ではないのだが、夏休みということもあり郊外のファミリー対象の回転寿司に行く機会が増えたのだが、絵皿による値段差がなくなっていた。300円ネタがない。300円でネタを喰うという感覚は戻っていない。300円の寿司ネタは別の、それほど消費に寄与しないセクターに移行しているのだろう。
 100円ショップについても、このセクターが他の小売りに事実上吸収されているからではないかと思う。
 私も先日、ダイソーとキャンドゥで買い物をした。付箋やプラスチックケースなど簡単な文具がそこにしかないためで、特に買いたい商品が100円ショップにあるわけではないし、安いからというのも理由ではない。
 目的のものを買うと、あとはぶらっと面白いものはないかなと見て回る。そういうショップなのだ。ちなみに、なにを買ったか? アクリル絵の具、FMラジオ、韓国製の激辛ラーメン、書道の半紙…あまり意味のないショッピングだった。消費というより、ショボイ娯楽である。

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2004.08.09

アテネの思い出

 アテネに行ったのはもう10年も前なので、これからアテネに行く人に、私の話はさして参考にはならないかもしれない。世の中でアテネ、アテネと騒ぎ出すのでこのところ思い出すことが多いので、なにげなくそんな思いを書いてみたい。

cover
遠い太鼓
 アテネを一言で言うなら、村上春樹が言っていたのだが、「三日で飽きる」である。正確には、紀行記「遠い太鼓」のアテネに「三日もあれば目ぼしいものはだいたい全部見て回ることができる」とある。まったく、そうだな。
 アテネという街は、初日は、驚く。あれま、ほんとにアクロポリスがある、ってなものである。
 たいていの観光客はシンタグマ広場あたりのホテルに泊まる。アクロポリスまではちょいと歩いていけるし、その途中に、原宿みたいなプラカという下町のお土産店街がある。つまんない観光土産しか売ってないのだが、最初はなんか珍しい気がするものだ。
 今の季節だと夏場でサマータイムもあり、8時過ぎまで陽が照りつける。0時を回っても深夜の雰囲気はなく、世界各国のお上りさんがうろうろしているし、カフェもタベルナもあちこち開いている。ワインでも飲みながら、実に観光気分である。タコのサラダがうまいよ。
 二日目は国立考古学博物館でも見るといい。シンタグマ広場からそれほど遠いものでもない。けっこう見応えもあるし、高校の世界史の副読本の写真の現物みたいのがあれこれあって奇妙な既視感に襲われる。たしか、地下で軽いランチができたかと記憶しているが、街にはあちこちサンドイッチ店がある。ギロ(くず肉のでかい塊を焼いたもの、トルコではケバブとか言うが…)の肉を挟んでほおばる。ギリシアコーヒーはやめとけ。不味い。ホテルでもコーヒーはインスタントしかでない。インスタントがギリシアコーヒーより上等らしい。なにかソフトドリンクでギロのサンドイッチでも喰えばいいかな。
 いや、ギリシアコーヒーはやめとけというのは本意ではない。本当はお勧めしたい。エスプレッソみたいな煮だしコーヒーなのだが、フィルターしてないから、口ぺっぺになる。そして無性に甘い。村上春樹がアトス山でのデザートがなんでこんな甘いのかと言っていたが、総じてギリシア・トルコのスイーツは苦いほど甘い。ギリシアコーヒーを頼むと、サーブの人は観光客を見るや「ミドル・スイート?」と聞く。ほどほどの甘さがいいでしょというわけだ。ここでこう答えるのがいいのだ、「ノーノー、ベリーベリースイート」彼らはにやっと笑う。旅の楽しみである。
 博物館からの帰りはオモニア広場からマーケットのある通りを通っていくといい。外国旅行でなにが楽しいって、マーケットを覗き見ることだ。エスカルゴが樽いっぱい売っている。ほおっと思って覗き込むと、生きていやがんの。
 三日目はアクロポリスとの向かいリカベストの丘でも登るか。アテネの雑多な街が見渡せる。今の季節なら、ブーゲンビリアが美しい。
 さて、このあたりから、退屈してくる。国会議事堂前で玩具みたいな近衛兵を見ながら、随分とアテネって小便臭いところだなと思うようになる。あちこちで犬が死んでいる…いや寝ているのだ。街路のカフェでぼんやりしていると猫が寄ってくるので、猫と遊ぶ。他になにかすることはないのか?
 ある。アクロポリスのヘロデス・アティコス音楽堂で毎日なんか出し物やっているからチケットを買ってきて夜見に行くといい。手軽なナイトライフだ。場所はアレである。古代ギリシアの屋外劇場。ほぉっという感じだ。そこでクラシックをとか合唱を聴くのだが、盛り上がってくると蝉がビックリしてコーラスをしてくれる。音楽は台無し。だが、文句は言うな、観光じゃないか。
 というわけで、アテネは三日で飽きる。どうする?
 通りのツーリストの貼り紙を見よである。デルフィへの一泊ハトバスではないが、バスツアーがある。50ドルくらいだったか。ちょいとデルホイ神殿とか見に行くのもいい。これもけこう感動もんだ。おお、これがソクラテスのあれかというわけだ。渓谷も美しい。私は深夜アポロン神殿あたりを満月の下うろうろしたが、ほんと神秘的だった。
 エギナ島あたりの日帰りクルージングもいろいろある。ニコス・カザンザキスの「その男ゾルバ」にも出てくるピレウスの港から船に乗る。エーゲ海クルージングである。とか言っても、それほどたいしたものではない。だいたいが乗っているのは、だらっとした観光客ばかり。そして海上は暇。私はぼうっとしていたのだが、なんかのついでで、マレーシア人とおしゃべりした。高官のようだ。マハティールの東京お忍び旅行の話なども聞いた。ユダヤ人の中年女性は、日本は素晴らしいとか言って話しかけてきた。なんのことはない、日本人はチップを求めないというのだ。あほくさ。
 エギナ島は江ノ島と同じである。醜悪ってほどでもないか。でも、そんな感じ。小さな島だが、ちょっと奥まったところに、こぎれいなホテルがあるので、泊まった。クルージングのとき、泊まってもいいよというアナウンスがあった。明日も来るから同じだよ、というのだ。ほぉである。
 エギナ島のホテルはよかった。なんだか、ヨーロッパの映画のようだな。などなど。ここで私はクルージングの切符を無くすのだが、次の船長に話をすると、彼はメモ帳に「これが切符だ」みたいに書いて、署名した。すること、これが本当に切符になった。へぇ、船長って偉いのだと思った。後に、この手を知っていろいろ便利だった。今はどうか知らないけど、飛行機でも、機長が、これが切符だいう署名付のメモを書くとそれが切符になった。
 あー、なんかすでに長い話だな。ギリシア料理話はなどはまたいずれ。

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2004.08.08

[書評]流れる星は生きている(藤原てい)

 「流れる星は生きている」(藤原てい)は満州にいた日本人家族の引き上げの物語である。家族といっても、この物語に夫の藤原寛人(新田次郎)はなく、26歳の妻、藤原ていが、6歳の正宏、3歳の正彦(藤原正彦)、1か月の咲子(藤原咲子)のみだ。この幼い子どもを連れて、若い女性が死線をさまよいつつ壮絶な脱出劇を展開する。

cover
流れる星は
生きている
 この物語は、戦後の大ベストセラーとなり、ある一定の年代以上の日本人なら必ず読んでいるものだ。あるいは、書籍で読んでいなくても、テレビでもドラマ化されたので、知らない人はない。
 しかし戦後60年近い年月が去り、この物語を読んでいない日本人も増えてきたようにも思われる。日本人ならこの本を読まなくてはいけない、とまで言うつもりはない。率直に言って、現代の日本人がこの本を直接読んでも、かつての日本人が読んだときとはまったく異なることになるのではないだろうか。
 この本が当初、出版され、読まれた時代、世間のあちこちに、満州・朝鮮の引き揚げ者はいた。かく言う私の父も朝鮮引き揚げ者である。そうした共有すべき経験を持つ世間があったからこそ、この本が読めたという部分は大きい。
 その意味で、この本の背景解説が必要な時代になったのだが、日本人がなぜ満州にいたかという説明はさすがに省略する。なぜこんなにまで悲惨な引き上げをしなくてはいけなかったについては、少し補足したい。ソ連軍が突然満州に攻め込んできたからだ。戦争だから攻めてくるのは当然だろうと考える人もいるかもしれないが、それは違う。当時、ソ連と日本の間には不可侵条約が成立しており、その期間はまだ1年を残していていた。ソ連が日本に宣戦布告するとは誰も予期し得なかった。
 1945年8月8日5時ソ連のクレムリンで、佐藤尚武駐ソ連大使は、ソ連のモロトフ外相から、日本に対する宣戦布告を聞かされた。佐藤ソ連大使は驚愕した。彼の任務は昭和天皇から東郷茂徳外相を通して終戦手続きを進めるものだった。ソ連にイギリスとアメリカへ終戦手続きの仲介を依頼することだった。まったくの逆の展開になってしまった。
 1時間後、極東時間8月9日未明、ソビエトの極東軍は、満州国境を越えて日本軍への攻撃を開始した。その10時間後、長崎にプルトニウム原爆が投下された。
 日本の敗戦は決定していたのに、ソ連もアメリカも無益な日本人民間人を殺戮を開始したのである。いや、無益ではなかったのかもしれない。1945年8月8日、戦後の極東と日本を奪い合うための争いが始まったのだ。冷戦がこの日始まったのだと言っていいだろう。
 「流れる星は生きている」の物語は満州新京(長春)から始まる。夫の藤原寛人がそこの観象台に勤務していたからだ。

 昭和二十年八月九日の夜十時半頃、はげしく私の官舎の入口をたたく音が聞こえた。子どもたちは寝ていた。私たちは昨夜遅かったから今夜は早く寝ようかといっているところであった。
「藤原さん、藤原さん、観象台の者です」
 若い人の声であった。夫と二人でドアーを開けると木銃を持った二人の男が立っていた。
「あ、藤原さんですか、すぐ役所へ来て下さい」

 物語はその夜、突然始まる。

 夫が帰って来た。蒼白な顔を極度に緊張させて私の前に立った夫は別人のようにいった。
「一時半までに新京駅へ集合するのだ」
「えッ、新京駅ですって!」
「新京から逃げるのだ」
「どうして?」
 夫はそれに対して言葉短に説明した。関東軍の家族がすでに移動を始めている。政府の家族もこれについで同じ行動を取るように上部からの命令である。新京が戦禍の巷になった場合を考慮して急いで立ち急ぐのだとのことだった。

 この時点の集団移動もすでにあまり組織化されていたとは思えない描写が続く。この集団は数日かけて内海に近い宣川に移動した。宣川は現代の北朝鮮の領域で先日爆破事件があった龍川(Ryongchon)より少し南下した地点にある。当然、38度線は越えていない。
 宣川は「流れる星は生きている」でも教会のある町として描かれているが、戦前からキリスト教がさかんな地域だ。この宣川で、主人公藤原ていと子ども三人は到着の数日後一旦夫との再開を果たすが、夫寛人は満州に戻り、その後非戦闘員であるにもかかわらずその後シベリア送りとなる。
 宣川到着の時点では、まだ日本国は存在しており、移動の日本人集団も完全に無規範(アノミー)の状態にはなっていない。宣川停留中に15日を迎え、その後1年近い滞在となる。現代人の私から見ると、ここから海路が取れないものかとも思うが、無理だったのだろう。
 「流れる星は生きている」の物語は、この宣川での、日本国が存在しない日本人の悲惨な集団生活の物語が1年ほど続く。
 こういう言い方は私自身が完全に戦後の人間だからだろうが、この物語は、満州引き上げの物語というより、アノマリーな状況におかれた日本人がどのように行動するのかというある種の実験報告を読んでいるような印象を受ける。宣川生活での話は、経時的ではあるがエピソードの積み上げになっているので、わかりやすい。そこで小さな悲惨な事件が多数発生するのだが、私にはその実態がよくわかる。
 少し脱線する。私は結果的に愛国的な人間である。が、日本人同胞を心情的に愛しているかといえば正直に言ってそうではない。私は幼稚園から小学校高学年になるまで、地域の友だちから排除され、いじめられた経験を持つ。いじめられた最大の理由は、おそらく私の居住区に関連しており、私の家の近くには隣町の小学校があるにもかかわらず、遠い小学校に通わなくてはならかったことだ。いずれにせよ、その子どもの剥きだしな陰湿な日本人の民族性は、しかし、その後私が社会人になっても同質に経験されるものだった。
 私は日本人というのは陰湿な国民性があると思う。もっとも、だからこそ私はそのなかで生き延びるために日本人の陰湿さを人間というものの陰湿さの一般性で理解できるように思索した。こんな話をするのは、私のこの感性は、恐らく戦後を生き延びた日本人にかなり普遍的に存在しているのではないかと思われるからだ。そして、端的に言って、現代日本でも、その深層としては同じなのではないかと思う。
 「流れる星は生きている」に描かれている日本人の本質的とも言える陰湿さは現代でも同じだというふうに今の若い日本人は読んでもいいだろう。むしろ、「満州引き上げは苦労でしたね」というより、日本人の本性はこんなものだと読むほうがいいように思う。
 物語では、1年ほどの宣川生活に区切りをつけ、藤原ていたちも、南下を開始する。はっきりとは描かれていない点が多いのだが、後の描写を見るに米軍保護を求めての38度線越えだったのだろう。
 宣川から南下する時点ですでに日本人の集団は事実上解体し、藤原ていと子どもだけの壮絶な脱出劇となる。壮絶とはこういうものを指すのかというほどの物語である。母性についての考えさせられる。
 私は、率直に言って、「母性」というものは信じない。それは「母性」なんていうのが幻想だというような甘っちょろい否定でなく、母性というのは恐ろしいものだと考えるからだ。だが、「流れる星は生きている」を読むと、その恐ろしい母性がなぜ人類に存在しているのかわかるように思う。子を生かすというのはここまで物凄い心性とエネルギーを必要とするのだ。こういう読み方もいかにも戦後的だが、そう読んでよいだろう。というのも、「流れる星は生きている」の素晴らしさは、戦後民主主義の嘘くさい虚偽を完全に超越しているからであり、そこにはだからこそ普遍的な意味が読み取れる。今、この時、同じ悲惨がダルフールで起きているのかとも思う。
 「流れる星は生きている」の物語では、最後、無事母子は日本に帰還する。その意味でハッピーエンドであるはずだ。だが、エンディングの描写は暗い。信州の親の家に帰還した藤原ていはこうつぶやいて物語は終わる。

「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」
 私の頭の中はすべてが整理された後のようにきれいに澄みきっていた。深い深い霧の底へ歩いていけば、どこかで夫に逢えるかもしれない。
「もうこれ以上は生きられない」
 私は霧の湖の中にがっくり頭を突っ込んで、深い所へ沈んでいった。

 現代ならPTSDということにされるのかもしれない。しかし、このエンディングはさらに深い意味を持つ。それは私たちが歴史のなかに生きているということでもある。この話はもう少し続けたい。

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2004.08.07

金魚救い?

 金魚救い? あー、また誤字かね、正しくは、「金魚掬い」とコメントをいただきそうだが、金魚救いでよろしい。この4月のことだが、イギリスでBBCで報道されたが、金魚救出の事件があったのだ。
 洒落た文章なのでちょっと読みづらいが、BBC"Goldfish rescued from drain death"(参照)を読まれたし。


 He was the only goldfish showing any signs of life when seven of the fish were spotted down a drain, among pebbles and plants from their tank.
 Residents of Sunbury Avenue, Newcastle upon Tyne, called the RSPCA but when the drain grate refused to budge, the council was called in to save the fish.
 He was fished out, christened William and adopted by one of the rescuers.

【試訳】
 彼は生存の可能性を示していた唯一の金魚だった。他の7名の金魚は、排水溝の下、タンクの小石や水草にまぎれていた。
 タイン河沿いサンベリー街ニューカーッスルの住人はRSPCAを呼んだが、排水溝が開けられないとわかるや、住宅委員会が金魚の救出に呼ばれた。
 ウイリアムと名付けらた金魚は救助隊の一人に救い出された。


 いまひとつ解せないのだが、どうやら、金魚の救出が困難であれば、排水溝を壊すぞということだったようだ。
 いずれにせよ、マジで、金魚救い、なのである。
 ところでこの話の主人公は金魚のウイリアム君ではない。RSPCAだ。RSPCAは、Royal Society for Prevention of Cruelty to Animalsの略。ロイヤル・ソサエティだよ、控えおろう! 王立動物虐待防止協会(英国動物愛護協会)だ。アニマルポリスと言ったほうがわかりやすいかもしれない。おいこら、そのジャ※、エビのおどり喰いすんじゃないよ。おいこら、そのコリ※※、犬を喰うんじゃないよ。
 RSPCAは篤志家の寄付金によって運営されている団体で、イングランドとウェールズに200ほどの支部、100ほどの動物病院を持つ大組織だ。国際的にも活動を展開している。
 この団体は、金魚の命を救うのに必死だ。日本人の感覚からすると、金魚って動物?って印象もあるが、動物だ。ウイリアムはニモの友だちなんだ、ということかどうかしらないが、先月は、RSPCAの尽力によって、金魚掬いから金魚を救うための法案もできた。
 だから、マジなんだってば。テレグラフ"New law to ban children from owning pets"(参照)にちゃんとこうある。

The Bill, which modernises century-old laws, safeguards circus animals and halts the sale of goldfish as prizes at funfairs. Children under 16 would be banned from buying pets if the Bill becomes law.

【試訳】
この法案は、100年前のものを現代的にアレンジしたものだが、サーカスの動物の生命を守り、お祭りなので金魚を商品用に金魚を売るのを止めさせるものだ。この法案が通れば、16歳以下の子どもが動物を購入することも禁止される。


 ほらね。夏祭りの金魚掬いなんてもっての他だ。NHKの「ためしてガッテン」で金魚掬いのコツなんか放映していたけど、これをBBCで流せば日本バッシングになってしまう、マジで。
 こうした動向はさらに広がりを見せている。イタリア北部のモンツァでは金魚鉢で金魚を飼うのも禁止になった。ABC"Council bans goldfish bowls"(参照)の報道はこうだ。

Pet owners in the northern Italian city of Monza, best known for its Formula 1 Grand Prix, have become the first in Italy to be banned from keeping their goldfish in bowls.

【試訳】
フォーミュラ1グランプリで有名なイタリア北部のモンツァだが、ここがイタリアで初めて金魚鉢で金魚を飼うことが禁止されるようになった。


 これが台湾にまで広がれば、故旧の茶館の金魚も撤廃されるのだろうか。
 とま、この手の話は、俺なんざ日本人さと、茶化してみるのだが、正直に言うと、私はけっこうRSPCAに心情的に傾いている。その心情の本源は彼らと同じではなく、単に仏心ってやつだ。地獄に堕ちたら、蜘蛛の糸で救われたいと願っているのだ。金魚掬いも好きではない。命からがら逃げまどう衆生を追いつめてはいけないとも思う。日本ではなにかと命の大切さというが、本当じゃないなと思うし、私は仏教徒なら肉食はすべきではないとも思う。
 ただ、こうした愛護は日本ではまたぞろ偽善になるのだろうとも思う。夏祭りの金魚掬いの金魚だが、あれは、実は、他の動物飼育用の餌の流用だと聞いている。金魚掬いだけを隠して、生きた餌として流通される実態はそのままというのも変なものだ。
 また、金魚掬いは残酷だという声は日本にもあるのだが、それも金魚を追いつめるからというよりは、始末に関連したもので、池などに放てばいいとしているところもある。おいおいという感じがする。
 こんなことで日本の夏の風物詩が消えていくのもなんだかなという感じもするが、すでに昔のような夏祭りでもない。金魚が好きなら、私のお薦めだが、奈良の郡山でも散策するといい。ほんと、いい所だよ。旧家の町並みもあり、女郎屋敷の話「千と千尋の神隠し」を思わせる風情もある。

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2004.08.06

空想過去小説「チーズとバギウム」

 毎週鉄人28号を見ている。今週は、ヤポンスキー(日本人)とニッポンとヒコポンデリーから造語したような、おなじみのキャラ「ニコポンスキー」も声優名を隠して登場した。面白くてたまらない。戦後に糸川英夫(バレーリーナ?でもあった)博士が作ったペンシルロケットも、戦前の設定で登場してきた。フィクションだからな。空想科学小説が未来ではなく過去に向けて描かれるのは、もしかするとなんらかの意味があるのかもしれない。私も過去に向けてちょっとフィクションを書いてみたい。
 というわけで以下は、フィクションである。

「チーズとバギウム」
 アジアの現代史はアヘン戦争から始まる。
 イギリスは中国人に麻薬のアヘンを売りつけていた。人間をダメにするには最適の薬だ。当然、中国に君臨していたモンゴル王朝正統の清王朝道光帝は怒った。1839年、イギリスとの交易を禁止した。が、翌年イギリスはこれに因縁をつけて中国に軍を派遣。42年に攻撃開始。清軍は大敗し、香港島、九龍地域が割譲された。98年には99年間の租借とした。契約を結んだとき返還が実現する日が来ると思う人はほとんどいなかっただろう。だが、1904年に生まれたポーカー好きの小柄な中国少年は心に誓った、必ず、この契約を実現してみせる、と。なお、この契約書は今台湾にある。
 こうしてアジアにヨーロッパが侵略を開始した。まるで大きなチーズを切り分けるような具合である。
 各国はイギリスのような汚い手口の真似を始めた。ロシアは鴨緑江以北(これが今の北朝鮮とロシアの国境にもなる)とウラジオストックのある沿海州を割譲させた。フランスは清朝下のベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化した。この地域を、だから、日本人は仏印と呼んだ。対向する西側のビルマをイギリスが植民地化した。タイは緩衝地域になったので植民地化を免れた。
 清朝下の国は植民地化される、というのがこの時代の常識になっていた。そして残りの李氏朝鮮をロシアが狙っていた。
 朝鮮半島がロシアのものになれば次のチーズは日本になる。日本は焦った。僕はチーズじゃないよ鼠だよ、というわけで、朝鮮に手を出した。半島の清軍を追い出そうして清朝と戦争を始めた。1884年日清戦争である。日本は勝利し、朝鮮を清朝配下から独立の名目で自国配下に置き、さらに遼東半島(大連・旅順)を割譲した、はずだったが、ロシアが怒った。そこは俺のチーズのはずだったと言うのだ。フランスとドイツをつるませて、いちゃもんをつけた。1889年三国干渉である。日本は遼東半島を失った。
 遼東半島の旅順を失えば、朝鮮半島支配などできるわけもない。逆に言えば、旅順を手に入れれば朝鮮半島が支配できる。ロシアは清朝から旅順を租借し、要塞を築き始めた。おまけに清朝の内乱義和団事件(1899)にかこつけて満州を占領した。やったね。実質半島はロシアの手に落ちた。余談だが、北朝鮮はソ連が作った傀儡政権なので、見方によれば今でもロシアの手に落ちたままなのかもしれない。
 日本は怒ってロシアに宣戦布告した。日露戦争である。日本はからくも勝利した。が、全面的な勝利でもなければ、さらに泥沼の戦闘に推し進めるだけの国力も日本にはなかった。
 このまま突き進めば最後はロシアが勝つだろうと、ロシア買いかぶりのアメリカ人ルーズベルト大統領は思った。
 アメリカは日本の植民地化に失敗し、ようやくフィリピンを捕ったばかりだ。日本を潰してロシアとことを構えるのはめんどうなことだとも思った。ここは日本にロシアを露払いさせて、あとで日本を潰せばいいのだ。というわけで、講和に乗り出した。かくして満州が実質、日本の手に入った。日本は、迫り来る最後の日も知らず、図に乗って朝鮮も併合した。最後の日を想像できる日本人もいたにはいたのに。
 アメリカは満州にちょかいを出し始めた。
 それを知ったロシアは、やべーぜと思った。今度は日本とロシアが満州の権益をきちんと山分けしておくべ、とした。
 が、矢先にロシアのロマノフ王朝が倒れた。1917年ロシア革命だ。レーニンのちょっとした勘違いのクーデターがひょんないきさつで革命になっちまった。これって、マルクス=エンゲルスの予言した共産主義革命かもと思うばかたれは、アメリカにまで出てくるありさまとなった。いずれにせよ、ロシアは極東から一時的に撤退した。それを見ていた愛国者スターリンは義憤した。俺がチーズを取り戻してやると思った。
 満州に居座った日本の関東軍は、なんくせだか屁理屈だかつけて、日本本土のシビリアンコントロールから外れてきた。シビリアンコントロールがあれば軍隊は暴走しない。シビリアンコントロールのない軍隊は暴走する。まんまじゃん。
 関東軍は、「清朝を倒すことに一役買った孫文も満州は中国じゃないからね」と言ったよ、ほいじゃね、というわけで、1932年関東軍は満州に清朝の傀儡政権を作った。
 日本本土の犬養首相は怒った。うぜーなと軍人は思った。軍人は犬養首相を問答無用で暗殺した。いや、こんなの軍人なんかじゃないか。軍人はこれから殺そうとする者にまず銃を渡す。そうでなければ、軍人の名誉が守れない。日本の軍人には名誉なんてものはなかった。それはやがて満州が崩壊したときに、恐ろしく醜いかたちで露呈したのだが…。
 満州をめぐり日本と米国が争う構図はできあがった。
 だが、国際状況が読めないとんちきな軍部はロシア戦争の勝利とソ連共産政権への恐怖から次の戦争はソ連に備えていた。まるで根拠がないわけでもない。
 1939年、スターリンの台頭とともに極東への関心を取り戻したソ連は、満州とモンゴル人国境ノモンハンで日本と衝突し、戦闘を始めた。ノモンハン事件と呼ばれるが、事件なんてものではない。戦争である。
 日本側の被害もひどかったが、ソ連側の被害もひどかった。スターリンは実は臆病ものである(ロシア軍の本質は臆病である)。しばらく日本と事を構えるやめとこうと考えた。1941年、日ソ不可侵条約を結んだ。
 もっとも、それで終わりなわけはない。スターリンは考えた。この愚劣なヤポンスキー(日本人)を南方に追い出し、アメリカに叩かせればいいじゃないか、と。
 かくして、諜報活動を駆使して日本の方向を転換させた。が、日本の軍事教練はいまだに対ソ連戦を想定して行われていた。そんなもの南方では役に立たない。役に立たないという点で、今の日本の教育と似ている。日本人は歴史からなにも学ばない。
 ソ連との関係が沈静化するなか、満州を巡り、日本とアメリカの対立は激化した。
 1939年以降戦時に盛り上がったアニメ、トムとジェリーよろしく、アメリカは日本鼠を巣から出してみるか、ということで、アメリカは日本の海路を封鎖した。日本に石油が来ない。資源のない島国はこれで終わりだ、と日本は妄想した。フセインくらいタフな悪知恵も働かなかった。
 かくして日本はアメリカのシナリオどおりに開戦したのだが、日本の戦闘はアメリカの予想に反して意外とタフだった。国家総動員で軍事生産に充てるなんてことは科学的な経済学では予想だにできなかった。おい、この国(日本)には民間部門はないのか。あ、今でもないか。
 アメリカ人は恐怖した。日本人は、そのまま自殺爆弾になって攻めてくる。そんなことは想像もできなかった。
 武士道とは死ぬことと見つけたり。武士は戦うと決めたら死ぬことと決める。考えれば人間は必ず生きることに向かう。己が生きることに向かえば戦闘には隙ができる。いずれ死ぬという状況にその隙は負けを誘発する。死が栄誉であるには、そして勝機を得るには、まず死ぬと決める。これが武士道だ。哲学としては素晴らしいが、近代戦の実戦には有効的ではない。
 それでも自殺爆弾となった日本人に、米軍の勇者の誇り海兵隊がまずびびった。こんなやつらに面と向かって戦うなんてやなこったと泣き言を上げた。
 それじゃ、殺虫剤を撒くように空爆でこいつらの家族を殺してやるに限るな、とファミリー思いのアメリカの上層部は考えた。実践した。
 害虫駆除のように東京を焼き払った。1945年3月10日。10万人の日本人非戦闘員が殺された。面倒よく家族ともども殺したから、その消息も辿れる生存者は少ない。
 それは恐ろしく無意味な殺戮だった。そんなに多数の日本人の民間人を殺す必要はなかった。
 日本政府もその時期、すでに敗戦の手続きを始めていた。が、目先の敵に目がくらんで本当の敵が見えなかった。日本は、こともあろうか、スターリンに泣きついていたのだ。日ソ不可侵条約のよしみで米英につないでくれよ、というのだ。泣けるほど、ダメ、日本。
 なぜならその1か月前にスターリンはそんな日本の泣きをネグって、ルーズベルトとチャーチルとで、クリミヤ半島のヤルタで日本の戦後処理の計画を始めていた。戦後処理といっても、戦後復興ではない。くずれたチーズを寄せ集め、また切り直そうというだけのことだ。
 スターリンは躍起になっていた。このままいけばルーズベルトにやられる。いや、ルーズベルトは阿呆だからなんとでもなるだろう。問題はこのハゲ(チャーチル)だ。取り敢えず、1年期間の残る日ソ不可侵条約なんてものは反故にしまっせ、とした。満州・極東については三国干渉の時に戻して、俺(スターリン)にくれ、と飲ませた。あとはヒットラーがくたばるのを待つばかりだ。
 が、ここでまるで偶然であるかのように4月ルーズベルトが死ぬ。え?とスターリンは思った。ヤルタの密談はどうなるんだ。
 アメリカは副大統領にして真の男、トルーマンを出してきた。今で言ったらチェイニーが大統領になったようなものである、いや、このスターリン嫌いの反共主義者は民主党だな。歴史的には民主党のほうが戦争好きに見える。トルーマンはヤルタの密談に怒った。スターリンにやるチーズはない。
 5月にヒットラーが自殺。ドイツ壊滅。スターリンは軍隊を急いで極東へ向けた。チーズが、チーズが、無くなっちゃうよ。
 トルーマンはトルーマンで焦りだした。ルーズベルトを消すのに手間かけすぎた。敵はスターリンだ。こいつの前で、どかんと一発、やつの嫌いなハゲ頭、をやるしかないだろう。俺(トルーマン)に刃向かえないっていうのを知らせるのに、ま、もう10万人くらい日本人でも殺すか。ビッグファイアー博士の弟子オッペンハイマー博士から届いたコード名「バギウム」の威力も見てみたいものだ。
 7月16日、原爆実験成功。
 すげーな、と実験報告を受けたトルーマンは満足した。まるで、この世の終わりみたいだ。これなら東京大空襲の10万人殺戮が一瞬でできそうだな、な、フォン・ノイマン博士。と、トルーマン大統領はコンピューターの父にきいた。
 ノイマン博士は原爆開発のマンハッタン計画で、爆発高度の計算を行っていた。また、爆発地の選定にも関わり、広島、長崎など4都市の攻撃に賛成していた。というのも、軍需工場地帯ではそれほど威力はない。
 トルーマン大統領に問われたノイマン博士は、内心困惑した。そ、そんな威力はないっすよ、とは言えなかった。
 同席していたオッペンハイマー博士は瞑目した。死ぬのはたぶん1万人だろう。だが、なぜ科学が民間人を殺すために利用されるのか。
 こうした博士たちの心中を見抜いていた一人の軍人がいた。彼は思った。これだからシビリアンは困るぜ。原爆といっても所詮は兵器。いいも悪いもリモコン次第、じゃない、使い方だ。東京大空襲ではチープな焼夷弾で10万人も屠れたのに、こいつの破壊力ではそんなに殺せない。普通に使っても威力は出ない。まして、鼠が巣に隠れてしまうなら威力はさらに半減する。
 ってことは、鼠を巣から出しておくのがこの作戦の要諦というわけだな、と軍人は思った。こっそり、やるか。
 1945年7月26日、広島を避けて、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に原爆の模擬爆弾を落としてみた。
 1945年8月6日7時9分、広島で警戒警報が発令された。
 敵大型三機が豊後水道方向から国東半島を周り北上し、広島湾西部から広島中部を旋回した。外出していた人々は防空壕など避難所に駆け込んだ。が、何事もなく、7時25分、敵機は播磨灘に抜けた。
 7時31分、警戒警報解除。あれはなんだったのだろう。さて、敵機が去って、これから暑い一日が始まるのか。時刻は8時を回ったころだ。
 正確な時刻はわからない。後の長崎の原爆では長崎海洋気象台に保存されている気圧計のデータから爆発は定説より10分早い。広島原爆投下時刻は今も不明だ。
 その朝の8時過ぎ、突然フラッシュのような閃光が広島上空で走った。
 廿日市の自宅でこの日、広島文理大に向かう予定だった若木海軍技術大尉は、あれはなんだ、と思った。と、瞬間激しい爆風が襲い、ガラス戸が砕けた。
 若木は地獄図のような光景のなか文理大に向かった。
 その時、きちんとした身なりでリュックサックを背にした少女たちの一群に会った。「あなたたちはやられなかったのですか?」若木はきいた。
 「私たちは警報解除になったのを知らないでずっと防空壕のなかに残っていたんです。」と少女たちは答えた。

【参考】
原爆は本当に8時15分に落ちたのか―歴史をわずかに塗り替えようとする力たち
広島原爆―8時15分投下の意味
広島反転爆撃の証明
原爆機反転す―ヒロシマは実験室だった 光文社文庫

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2004.08.05

北朝鮮の麻薬を日本が密輸しなければいいのに…でも

 北朝鮮関係の話題は意図的に控えたい気もするのだが、これはちょっと言及しないわけにはいかないのではないか。産経新聞「北、麻薬5億ドル密輸 米議会調査局報告書 年間外貨収入の7割、軍事費に転用」(参照)だ。
 率直に言うと「ワシントン=古森義久」かぁ、米国議会調査局(CRS:Congressional Research Service)かぁ、なんかパスしたいなという感じはある。
 ソースが気になるのでCRSのサイトを見たがまだ登録されていない。関連文書は昨年の"Drug Trafficking and North Korea: Issues for U.S. Policy "(参照PDF)である。この問題は経時的に米国が追及しており、最近特に注目されているわけでもないし、ガセ度も低いと見ていいだろう。
 というわけで、それほど驚くほどのニュースでもないかとも言える。が、韓国紙を見ていると、米国議会調査局のもとネタを洗わずに、産経の記事をそのまま引っ張っている。韓国社会にもインパクトを持っているようでもある。余談だが、東亜日報ではなぜか「ヒロポン」の表記がある(英文でもphilpones)。
 産経の記事の要旨はこうだ。世界が麻薬取り締まりを強化しているのにも関わらず、北朝鮮からの麻薬は増加し、その輸出全体の七割相当年間約5億ドルの外貨獲得に寄与し、これが軍事費などに転用されているとのことだ。また、利益を上げるためにロシア、中国、日本、韓国の犯罪組織とも連携しているらしい。背景についてはこう説明している。


 同調査局が米国議会の法案審議用の資料として作成した「麻薬取引と北朝鮮」と題する報告書は、北朝鮮の国家関与の麻薬生産・流通について米国政府関連機関などが得た情報の総合として、(1)北朝鮮は一九七〇年代半ばからアヘン原料のケシ栽培を国家政策として始め、八〇年代半ば精製アヘンを組織的に輸出するようになった(2)しかし九五、九六年の豪雨でケシ栽培が大幅に減ったため、覚醒(かくせい)剤のメタンフェタミンを大規模に生産して、東南アジアなどに密輸出するようになった-などと伝えている。

 記事では、1999~2001年に押収した3300kgのメタンフェタミンのうち34%が北朝鮮からの密輸品だったとの指摘もあるが、1/3ならもっと別の大きなソースがありそうにも思える。
 これを言うとやぶ蛇かもしれないが、麻薬が北朝鮮にとってそれほど重要な軍事収入源なら、国防という観点で、日本のヤクザを徹底的に締め上げればいいのだろう。日本が組織的な麻薬犯罪をきっちり締め上げれば、北朝鮮はそれだけでこけるという構図はありそうだ。だが、ようするに、それができないわけだ。警察の裏というか行政側の裏がありそうだし、ま、ある程度想像付くよねという言及にとどめたい。
 関連して、朝鮮日報を見ていると、「北紙『大麻は魅力ある植物』」(参照)というベタ記事があった。

 大麻を麻薬の一種として生産および流通を禁じている韓国と違って、北朝鮮では最近金正日(キム・ジョンイル)総書記の指示に従って、大麻栽培がブームになっている中、北朝鮮メディアは大麻の経済的効果を大々的に宣伝し、栽培を督励している。

 本当なのだろうか。ジョークだったらサイコーです。

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2004.08.04

レジ袋問題について、つらつらと思う

 レジ袋について、このところどうも心にひっかる。ので少し書いてみたい。
 のっけから余談めくが、「レジ袋」という言い方でいいのか気になって「デイリー新語辞典」をひくと、載っている。「スーパーマーケットなどの小売店で,レジでの精算の際,客に渡される買い物袋。多く,ポリエチレン製。」 つまり、アレだ。レジ袋と呼んでよさそうだ。
 海外では、plastic bagと呼んでいる。ちょっと気になって、EXCEED英和辞典をひくと「ビニール袋」。あれま。英辞郎をひいたら「ビニール袋、プラスチック袋、ポリ袋」のみ。こんな例文も載っている。


I put the things I bought into a plastic bag.
買ったものをビニール袋に入れた。

curb shoppers' use of plastic bags
買い物客{かいものきゃく}のビニール袋使用に歯止め{はどめ}をかける


 訳していて変だと思わないのだろうか。ま、どうでもいいか。
 plastic bagという単語を挙げたのは、もしよかったら、これでニュース検索してみて欲しいからで…そう、最近、けっこう世界的に話題になっている。特に、最近ではオーストラリアで話題だ。当然、環境問題である。
 例えば、"Australian town joins global war on plastic bags"(参照)はあまり一般的なニュースとは言えないが、逆にわかりやすいかもしれない。

SYDNEY The tiny Australian seaside town of Huskisson, perched on the edge of glittering Jervis Bay and fringed by pristine national parks, has signed up for the global battle against the humble plastic bag.

 オーストラリアの海辺の町、ハスキンソンは、あのささいとも言えるレジ袋に対して国際的な宣戦布告をした…ということで、トーンはわざとヒューモラスになっている。でないと、環境問題って、ちょっと宗教みたいになるしね。
 レジ袋っていうのは普通の日本人の感覚でも、やなゴミだなという感じはあると思う。殊更に環境問題にするほどでもないかのようだが、これってけっこう生物には残酷なシロモノだ。間違って喰ってしまうから。

Sacred cows roaming India's streets have died after chewing bags containing scraps of food, while thousands of turtles, birds, and other marine animals are killed each year after mistaking the millions of bags in the world's oceans for squid and jellyfish.

 私もカルカッタで生ゴミをあさるツートーン・カラーの烏をよく見た。もっとも、それほどはレジ袋は見なかった。道の中央分離帯よろしく生ゴミが捨てられているのだが、すぐに干上がる。ま、そんな話はどうでもいいか。
 話を戻すと私も沖縄で海辺で暮らしていたので、寄せられるゴミのレジ袋には困惑していた。できたら、こんなものは使いたくないので、私は、コープで売っている100円ほどの布のショッピングバッグをよく持ち歩く。これがけっこうタフに出来ていて、しかもきちんと折りたたむと小さくなる。便利極まりない。コープ以外のスーパーマーケットでも使うので、レジのお姉さんにも覚えられてしまったものだ(けっこう恥ずかしいものがあるが)。
 コンビニでも使う。近所のコンビニは比較的マナーがいいので(中年男性店員のマナーの悪いのには呆れる)、特に困らないのだが、困ることある。ネットを見ていたら面白い話があった。「質問:コンビニのレジ袋」(参照)。長いが引用したい。

近年スーパーでは、環境問題への配慮からレジ袋を使わないよう働きかけている店も多くみられるようになりました。しかしコンビニではそういう動きはあまり見られません。

自分の袋をかばんに入れているので、スーパーの時と同じように「袋はいりません」と言うとあまり店員さんの態度がよくない時があります。

「調子狂うな、マニュアルと違うことを言う客だな」「もっと早く言えよ」という気持ちが見え隠れしている店員さんが時々います。(大抵そういう時はレシートもこっちが言うまで渡そうとしない)

何度も同じ店に行っていれば顔も覚えるだろうに、あい変わらずの対応です。(マニュアルどおりしか仕事ができないタイプかも)

ちょっと言うタイミングが遅いとさっさとレジ袋にいれてしまうし、一旦入れたものを出してくれというわけにいかずそのまま店をあとにすることもあります。

そのレジ袋はゴミ箱に捨てるしかないけど、何枚も積み重なると何だかもったいないという気持ちがしてきます。邪魔くさいし。

コンビニでレジ袋をいらないと言うことはおかしいのですかね。最近ちょっとそういう気がしてきました。(もしかしてどうでもいいことかもしれないけど)


 これ、わかるな。どうも余談が多くていけないが、冷たいものと雑誌と一緒に袋に入れる神経もわからん。「それ、入れないで」とか言おうものなら、険悪。
 この質問に寄せられた回答は好意的なもので、電車男の話じゃないが、世間もそう悪くないような気になるが、実態は改善されないだろう。
 さて、話は、さぁ、みんなマイバッグを持ちましょう、というオチなのか。なんだか15年くらい前だったか、割り箸止めましょう運動みたいで、キモイな。
 あるいは、杉並や韓国みたいに、レジ袋に課税したり有料を義務づければいいのか。それもあるかもしれない。せっかく先進国日本なのだから、レジ袋は可燃性のものせよという規制をかけてもいいのかもしれない。
 マイバックを使う主婦にちときいてみた。ところ、レジ袋はレジ袋で便利だというのである。それもそうかと思うが、どうやら、結局、ゴミとして捨てられてはいるようなので、可燃性なり自然に壊れるようなもののほうがよさそうだ。
 つらつらと思うが、どうも心のひっかかりは取れない。先の英文ニュースにはこうもある。

"We've had plastic bags since the 1960s and initially they seemed like a great idea, lightweight, low energy needed to make them. Then the dead animals starting washing up on beaches," said John Dee, from environmental group Planet Ark.

 環境団体の人は、1960年代にレジ袋が登場したころはなんて便利だと思ったものだ、と言っている。というあたりで、私もいつレジ袋がこの世界に登場したのか、ちょっと思い起こしてみる。私も目撃者の一人だ。
 それは、急激な変化ではなかった。じわっとした変化だったと思う。エポックはある。たとえばコンビニだ。酒屋がコンビニになった、あの時代だ。
 あの時代の前の時代というのがある。
 最近、ネットなので30代の人の意見をよく見かけるのだが、なにかが抜本的に通じないなと思うことが多い。なんだろと思うのだが、共通する風景かもしれないという気もしてきている。「檄を飛ばす」「姑息」なんてのの誤用はどうでもいいが、あの風景を見た人と見ない人の差はなんだろうと思う。いや、あの風景を生きた人と生きてない人の差だろうか。もちろん、いい悪いといった話ではない。
 かつてスーパーでは紙袋だった。紙袋で足りているところにスーパーがあったと言ってもいいのかもしれない。菓子屋は、うすっぺらなスジの透けるような紙の袋だった。開封のところがぎざっとしていた。乾物屋の包み紙はぺらっとした鶯色だった。ピンクのもあった。あの紙はどこに行ったのだろう。魚屋は新聞紙だったと思う。肉屋は経木だった。「経木」なんて読めないのだろうな。
 懐古したいわけでもないし、昔はエコだったと言いたいわけでもない。ああいう生活のなかで包装というのものはああいうものだったという生活の感覚の有無が、なにか重要だという感じはする。
 批判ということでは全然ないが、例えば、レジ袋反対とか言う環境運動の人が1970年代生まれだったら、私は、心のどっかでその人を信じないだろう。というか、信じろっていうのが無理に思える。
 環境運動は懐古を基礎にするものではないことはわかる。でも、あるべき環境というものに生活の臭いや風景が感じられないなら、全然だめだよという感じがする。
 この感覚が大切なんだろうと思う、というのがこうした問題の暫定的な自分の結論である。

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2004.08.03

父親が大丈夫なら子どもは大丈夫

 つまらない話なのかもしれない。が、気にはなるので書いておきたい。以前、極東ブログ「女の子の喧嘩には科学的に見て特徴がある」(参照)でもネタ元にした、青少年期の医療を扱う専門誌"Archives of Pediatrics & Adolescent Medicine"だが、最新号で"Combined Effect of Mothers' and Fathers' Mental Health Symptoms on Children's Behavioral and Emotional Well-being"(参照)という調査を発表していた。
 標題を試訳すると「子どもの健全な行動と情緒に対して、母親と父親双方の精神的な傾向が与える影響」となるだろうか。憂鬱や不安など心的なトラブルを抱えている親が子どもの行動と情緒の発育にどう影響を与えるかという問題を、母親と父親のコンビネーション、つまり組み合わせで調べてみたというのだ。
 結果は特に常識に反するものではない。


Conclusions
A father in better mental health may buffer the influence of a mother's poorer mental health on a child's behavioral and emotional problems, and these problems seem to be most severe for children who have 2 parents with poorer mental health. The form and intensity of pediatric approaches to mothers with poorer mental health may need to consider the mental health of fathers.

【試訳】
結論
母親が精神的によくない場合でも、父親の精神が健全なら、子どもの行動や情緒に対する母親の悪影響を父親が緩和しうる。両親そろって精神的な問題を抱えている場合は子どもへの影響は深刻である。母親が精神的な問題を抱えている子どもの身心の健康について考慮する際、父親の精神的な状態も考慮する必要があるだろう。


 そんなのあたりまえじゃんという感じだが、そうでもないのかもしれない。
 母親に憂鬱や不安(適応障害もDSM-IVに定義されている心的な疾患なのでこれに入れていいだろう)など精神的なトラブルがある場合でも、父親の精神状況が安定しているなら、その子どもが行動や情緒の問題を起こすリスクは低いのだから、それほど状況を深刻に考えなくてもいいことになる。この背景には、より深刻な問題に対処せよという含みがある。およそ、大きな問題を扱うときにもっとも重要なことは、最重要課題と次点の問題を切り分けることだ。その意味で、父親が健全なら、子どもの問題は次点の問題としていいことになる。
 この結果をみて、私はふと考え込んだのだが、日本では、「家庭」「母親」「父親」は確かに子どもの問題の重要なキーワードになるのだが、一義的には家庭であり、次に母親、そして三番目に父親だが、父親というときでも、「子どもには父性も必要」といったノリだなと思う。
 それに対して、この調査が暗黙に示していることは、母親の精神的な状態を父親がサポートできるなら、子どもの行動・情緒の問題は回避できるという点だ。日本ではあまり指摘されて来なかったのではないだろうか? 自分が男なのでその立場に立つと、「男は父親として子どもに接するにはどうたら」という話ばかり聞かされてきた。
 今回の調査は、ジャーナリズム側でも注目されていて、ロイターヘルス"For Kids, Dad Can Buffer Mom's Depression"(参照)のようにもう少し、あけすけなまとめになっている。こちらの標題を試訳すると、「お父さんなら、お母さんの憂鬱攻撃から子どもをまもる防御壁になれる」だろうか。こうしたタイトルにまとめられるということの背景には、米国の家庭では母親の憂鬱という大きな社会問題があるのだろう。そして、多分、日本でも同じなのではないか。
 ロイターのニュースには研究者へのインタビューがあるのだが、これが少し興味深い。

Kahn explained that fathers may buffer the effects of mothers' poor mental health by supporting mothers and helping to take care of the children. In addition, healthy fathers may have good mental health genes, which they pass on to children, he added.

【試訳】
カーン調査員によれば、父親が母親を精神的に支えることで、母親の精神的な状態が子どもに影響することを防げるようだ。また、健全な父親は、精神を安定させる遺伝子を子どもに引き継がせているのかもしれないとも言及した。


 この追加の発言がちょっといただけないなという印象もある。
 いずれにせよ、父親が家庭の精神的な支柱たるべく問われるということになっていくのかもしれない。
 男である私としてはそれをどう受け止めるべきなのかなのだが、正直言って複雑だ。私の精神的な状態というのは、たいしたことない。端的に、だめでしょ、という感じだ。大半の男がそうなのではないかなとも思う。すると、精神的に安定した母親たるべき女性が求められる…となんだか冗談のような展開になってくる。
 ただ、少し思うのだが、これは多分に私の偏見なのだが、男の精神的な健全さというのは、自分が男であるという意識に強く依存しているように思う。それがもっと難しい問題なのかもしれない。

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2004.08.02

サウジ王家のムーア批判の背後にありそうなもの

 たいした話でもないのだが、サンデー・テレグラフによる駐英サウジ大使インタビューが少し気になった。ロイター「駐英サウジ大使『ムーア監督は華氏911で事実をわい曲』」(参照)が概要を伝えている。


[ロンドン 1日 ロイター] 1日付の英サンデー・テレグラフ紙がトゥルキ・ファイサル駐英サウジ大使の話として伝えたところによると、マイケル・ムーア監督はドキュメンタリー映画「華氏911」を制作した際、サウジアラビアに現地取材をしなかったとして事実を歪曲したとの見方を明らかにした。

 話の要点は2つあり、一つは、ムーアの法螺話への批判だ。ムーアは、米同時多発テロ発生直後に民間機がすべて離発着中止となったのに、サウジ王族とビンラディン家族が国外に脱出したとしているのだが、これは法螺じゃないか、と。ただ、その根拠はサウジ側ではなく、先日の米国の報告書によるものだ。余談だが、ブッシュのイラク攻撃も不確か情報に基づいて誤ったのだが、それを批判するムーアが同じレベルでどうすんだよと思うが、ムーア万世によっておろかな知識人がフィルターアウトしてよかったのだろう。
 もう一つは、ムーアにサウジへのビザを支給されたのに、同地を訪問をしていないという指摘だ。これはオフィシャルには初めてかもしれない。ムーアは手を抜いたというより、サウジの真相には関心なかったんだな、やっぱり、という感じがした。
 話はそれで終わりではあるのだが、元になっているサンデー・テレグラフ"Saudi royal family lambasts Michael Moore for twisting the truth in his 9/11 film "(参照)は、事実は同じだが、少しトーンが違う。まず、トゥルキ・ファイサル駐英サウジ大使の意味を確認している。

Prince Turki al-Faisal, the Saudi Arabian ambassador to London and a half-brother of Crown Prince Abdullah, was in charge of Saudi intelligence at the time of the 2001 terror attacks.

 トゥルキ・ファイサル駐英サウジ大使は名前を見ればわかるが、王族であり、アブドラ皇太子の異母兄弟である。つまり皇子でもある。サウド家の権威ある代弁者でもあるし、諜報にも関連していたとある。英大使というだけでなく、この件でのもっとも重要な人物だと言えそうだ。
 インタビュー後半では、焦点をサウジのありかたに当てている。つまり、テロとどう取り組むかだ。なお、サウジこそがアルカイダの温床であることの説明は今日は省略したい。

The Saudi security forces are currently involved in an intensive operation to track down the last remnants of an al-Qa'eda cell that has been responsible for a number of devastating terror attacks in the kingdom.


'We have made significant progress in fighting al-Qa'eda in Saudi Arabia,' he said. 'Of the 26 known al-Qa'eda hardliners in the kingdom, we have killed or captured more than half of them.'

 前段は保守系のテレグラフらしいまとめで、後段はトゥルキ大使の発言である。サウジはテロ撲滅に邁進しているとでも言いたいのだろう。
 だが、事実は少し違う。このあたりは、7月27日のフィナンシャルタイムズ"The House of Saud must pursue reform"が素朴に描いている。

Saudi Arabia's hopes that a month-long amnesty decreed by King Fahd would break the resolve of the al-Qaeda franchise operating to increasingly deadly effect in the Arabian peninsula have been disappointed. The time for the Islamist terrorists to give themselves up has expired and only six have done so.


Crown Prince Abdullah, the kingdom's de facto ruler because the king is incapacitated by a stroke, has promised a pitiless campaign against the would-be insurgents. That seems to have begun, not least with the detention of the wife and children of Saleh al-Awfi, the new leader of the Saudi jihadis who is still on the run.

 サウジの対応はうまくいっていない。テロ的な聖戦主導者の妻子の拘束までしている。当然、サウジ側にも焦りがある。先日のイラク派兵もその対応ではあるのだろう。
 フィナンシャルタイムズの示唆はやや皮肉めいている。

The Saudi authorities will need to strike a careful balance. The local al-Qaeda chapter wants to lure them into an indiscriminate crackdown that will widen its constituency of supporters. At the same time, the House of Saud, after a long period in denial, now knows beyond doubt that Osama bin Laden and his followers seek its overthrow.

 サウジ国家とビンラディンのようなラジカリストの関係はそう簡単に分断できるわけでもないのだが、やりすぎるなよというわけだ。そう言われてもねといった感じだし、フィナンシャルタイムズの提言はといえば、富の再配分をきちんとしろというくらなもので、非白人の私などにはこうした言及に人種差別的な蔑視の印象も持つ。
 話をトゥルキ大使のインタビューに戻すが、もう一点気になる発言がある。

'There is no doubt that as a result of the Iraq war it is easier for al-Qa'eda to sell their point of view to potential recruits. Al-Qa'eda has become stronger and more active since the Iraq conflict.'

 サウジの公式見解と見ていいのだが、イラク戦争によって、アルカイダはより強力となったというのだ。あれまという感じだ。
 ちょっと説明を省くが、アルカイダの求心性はその財源とともに低下していると評価していいだろう。テロの続発は基本的には小規模であり、中東圏の国家利益とも合致した反米勢力である。
 このサウジ側の発言は、ブッシュとサウジの仲が割れていると見ていいのではないか。あるいは責任のなすりあいである。長期的に見れば、ムーアの浅薄な見解とは裏腹に、サウジと米国の関係は緊張が続く。
 ただ、ブッシュが再選されるとこれも流れは少し変わるだろう。ムーアを批判しておきながら、同レベルの放言もなんだが、オクトーバー・サプライズ(October surprise)は、原油価格の低下ではないのか。しかもサウジと結託しての。

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2004.08.01

夏は冬瓜

 スーダンに武器を流している国のことを少し調べていくうちに気が滅入った。適応障害について調べていくうちにもっと気が滅入った。シリアスな話なんか書くんじゃねーとGoogle AdSenseに言われているようでもある。食い物の話でもするかね。さて、最近なんか食い物忘れているよなとつらつらと思うに、冬瓜である。
 沖縄に暮らしていた頃、この季節、必ず冬瓜を喰う。三日に開けず喰う、というほどでもないが、よく喰う。
 内地に戻ってからは冬瓜すら見かけない。いや、そうでもない。あれだ、切って売るなよな、である。と言っても空しいか。内地の家庭では、まるごとじゃ喰いきれないものな。
 と、もしかすると、冬瓜というものを見たこともない人も増えているかもしれない。もしかして、「冬瓜」も読めないとか…。なぜこの字を当てるかとか……ま、そんなことはどうでもいいか。知識より先に喰うこった。
 沖縄も核家族化が進み(少子化も進んでいる)、スーパーなどでは冬瓜を売ってないところもある。が、ちょっと田舎っぽいところのマチヤ(小売り)みたいなところではごろっと売っている。でかい。欧米の西瓜のように楕円形で、でかい。フットボールより、でかい。そして、すごい重い。まじかよというくらい、重い。あれが伝統的な沖縄の家の台所の隅にごろっと置いてある。やぁ、っていう感じだね。わらび(子供)はこれをかならず、よいしょよいしょとか言って持ちたがる。無理だって。
 冬瓜は、沖縄では「すぶい」とも言う(「とも言う」というのは沖縄的だな)。「しぶい」が語源とも言われているが、まさかね。私が暮らしているときは、「とうが」とも言っていた。「ん」が脱落していた。なぜかわからない。
 調理法は…とネットを引くといろいろ出てくるのだが、なんかポイントがずれているような気がする。山本彩香「てぃーあんだ」をめくってみたら、冬瓜は載っていない。料理のうちに入らないでもなかろうと思うが…というわけで尚弘子「聞き書き 沖縄の食事」の索引を見ると、なんか変。めくっていくと、索引漏れで各所に記載がある。なーんだ。


とうがんはほかの野菜と違ってもちがいいので、収穫したあとは、家の後ろの太陽の当たらない涼しいところに並べて貯蔵する。諸行事のときやお祝いごとのあるときに、こんぶといっしょに豚肉の汁で煮て食べる。また、生でも食べる。

 うまい記述だ。たしかに冬瓜の基本は、いわいむん(お祝い料理)である。もっと重要なのは、昆布と豚肉の汁で煮るという話だ。
 脱線で、しかもこんな話するとちょっと嫌われるだろうなと思うが、ちょい覚悟して言うと、えー、おまえだってそうだと言われるかもしれないがだな、えー、内地の人間が「沖縄そば」のどこがうまいとか言う話題は、大嫌い。うちなーんちゅも、どこどこのそば(すば)がうまい、という話が好きだが、これもおいおい、と思う。
 沖縄そばというのは、昭和初期頃内地から入ってきた支那そばをまねしてできた食い物だ。「そば」の呼称は「支那そば」に由来する。支那そばって、うまいなとうちなーんちゅも思ったのだろう。そして作れないかと思ったわけだ。
 麺の腰を出すのに鹹水はない。だから、ガジュマルの灰の上水を使った。麺を細く切るのはむずかしいので太くなった。出汁は…そう、沖縄で出汁といったら昆布と豚肉の汁しかない(塩で調味する)。それに入れる。できあがり。これが沖縄すばというものだ。
 そこから出汁はかつおがあったほうがうまいので足す。トッピングがないのは寂しいのでかまぶく(蒲鉾)をのせる(内地の現在の蒲鉾とは違う)。三枚肉をのせる。ということだ。そういうものなのだ。これは、アーリオオーリオと同じで、外で喰うようなものじゃない…脱線、長すぎ。
cover
カツ代が聞く、
九十一歳現役台所
 で冬瓜なのだが、ようは出汁で煮るというだけのこと。沖縄料理の出汁は昆布・豚・カツオしかないから、それで煮るだけ。煮くずれないように煮るだけ、と言いたいところだが、冬瓜は一旦下ゆで(水煮)する。それから出汁を含ませる。汁が料理だとも言える。もちろん、バリエーションはいろいろあるけど、基本はそれだけ。同日追記。ちょっと気になってうちなーんちゅに訊いてみた。下ゆでなんかしない、それと、肉を煮るとき泡盛を入れてね、とのこと。なるほど。
 それで話もおしまいなのだが、冬瓜というのは、本土の人も夏場に普通に喰う食べ物だったなと思い出す。そういえばと書架を見ると「カツ代が聞く、九十一歳現役台所」がある。明治38年生まれの秋山千代さんはこう言っている。なお、先生と呼ばれているのはカツ代先生である。

あの、先生、冬瓜は「夏の腹薬」っていうんですよ。夏に煮るのね。これね、今日は鶏の挽肉と煮ましたけど、エビと煮てもおいしいんですよ。…


冬瓜というのは、だいたいやわかくして食べるものですから。鳥じゃなくてもいいのよ。油揚げと煮てもおいしいの。それから「なまり」がおいしいの。「なまり」ってお魚があるでしょ。

 というわけで、東京でも昔から喰っていたものだった。なお、作るかたにいらんお節介だが、油揚げは必ず湯通ししてくれ。
 以前、NHKのドラマほんまもんで夕顔を冬瓜の味の違いがわかるかというシーンがあったが、京料理でも当然、冬瓜使う。もっとも、夕顔を冬瓜を比べるか、ドラマ? 私は宇治で喰った京料理の冬瓜は忘れらないほどうまかった。食い物と限らないが私は京都市内より宇治のほうが好きだ。
 夕顔についてもちょっと思い出がある。信州の思い出だ。またね。

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