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2004.08.29

[書評]私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界(クリスティーン ボーデン)

 「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」という本については、これまでなんどかここで書評を書こうかと思って、そのたびごとに読み返し、ためらい、そして断念した。書きたいことはあるがなにも書けない気がした。が、少し書いてみよう。この本は、とりあえずは、標題のように、アルツハイマー病患者の内面を描いた手記と理解していい。
 書いてみようかと思ったのは、今朝の朝日新聞社説「痴呆症――患者の思いにふれたい」を読んでいて、ちょっと嫌な感じがしたからだ。単純に非難をしたいわけではない。社説の執筆者がこの問題を理解していないのにきれい事を書いているなという印象を持ったくらいのことだ。嫌な感じを受けるのは私だけかもしれない。この部分だ。


 昨秋、市民グループの招きで来日したオーストラリアの女性、クリスティーン・ブライデンさんも参加する。アルツハイマーを発病する前は政府の高官だった。病名がわかったとたんに誰も近寄らなくなり、社会的に孤立した。その苦しみや日常生活の過ごし方、子どもたちの顔がわからなくなる恐怖などを講演会で静かに語りかけて感動を呼んだ。豊かな感情は少しも損なわれていなかった。

 揚げ足取りに取られるかもしれないが、「豊かな感情は少しも損なわれていなかった」という表現に私の心は少し傷つく。彼女はたまたま感情に障害がないか、それを乗り切ることができたのであって、こうした障害を持つ人に、たとえ豊かな感情の表出がなくても、その心にはなんの変わりもないのだ。
 あえて、人の魂には変わりがないと言ってみたい。知的にまたは感情的に障害を受けても、人の魂に及ばないことがある。もちろん、そう言えば、宗教めいた言い方すぎるのかもしれない。
cover
私は誰に
なっていくの?
アルツハイマー病者
からみた世界
 ジャーナリズム的にもちょっと疑問が二点ほど残った。敬称は略すが、まず「クリスティーン・ブライデン」の名称。これは再婚後の名称だ。しかし、「クリスティーン ボーデン」名で書籍が出ているのだから、その注記があってもよかったのではないか。また、夫のブライデンにも言及しなければ、「クリスティーン・ブライデン」とする意味は少ない。
 もう一点は、この書物にも言えることだが、クリスティーン・ボーデンはアルツハイマー病ではない。この問題は微妙なのだが、問題の背景を朝日新聞社説執筆者は調べていないように思う。「私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界」には、小沢勲種智院大学教授の解説があり、彼女の文章とその病態について次のように明記している。

この文章を読んだわが国の専門家のなかには、ボーデンさんの痴呆という診断が誤診なのではないか、と疑った方があったという。
 確かに、彼女は痴呆ではあるが、前頭側頭葉型痴呆というアルツハイマー病の中核群からややはずれた病態であることが関係しているだろう。本書ではアルツハイマー病と診断されたとあるが、国際アルツハイマー病学会の招待講演で、彼女は前頭側頭葉型痴呆と自己紹介している。ちなみに、専門家のあいだではこの二つの病態は区別して論じられるのが通常である。

 厳密にはアルツハイマー病ではない。が、もちろん、彼女の体験から私たちがアルツハイマー病について学ぶことは多い。
 朝日新聞社説に難癖をつけているようだが、私が願うのは、こうした問題を、単純なきれいごとで片づけないで欲しいということだ。
 話を書籍に戻す。彼女が厳密にはアルツハイマー病ではないとしても、この本の価値はいささかも減じない。普通に暮らしている人間に突然脳疾患が訪れたときの驚愕をこれほど正確に伝えている書籍は類例がないように思う。原題は"Who Will Be When I Die?"、つまり「私が死ぬとき、私は誰になっているだろうか?」だ。
 そういう苦悩に直面させられたとき、人によっては自殺したくなるような苦悩が起こる。あまり言ってはいけないことかもしれないが、そういう状況では、「今、自殺すれば、少なくとも意識は私のままだ」という思いは捨て去りがたい。
 こうした苦悩をなにが救えるのか。実は、この本はそのために書かれている。それがテーマだと言っていい。
 本書が示唆する答えは、「魂」だ。と、だけ言えば、すでに宗教の領域に入っているし、筆者も自分の自身のキリスト教信仰を人に押し付けるように受け止められることは極力抑制している。だかこそ、下品な言い方だが、この信仰と霊性は本物なのだということが伝わってくる。
 私たちは絶望のなかで神を呪うことがある。日本古来とされる神々は、私の印象ではそのように呪われることをよしとしないようだ。仏教では呪い自体が事実上禁忌であるかのように抑制される。しかし、キリスト教の神は呪ってもいい。神に対して、「なぜこの苦しみがあるのか、あなたはなぜこの苦しみを私に与えるのか」と問うてもいい。
 ボーデンはまさにこの苦悩のただ中を生きて、こう語っている。

 神は、私の病気につける「救急ばんそうこう」ではなかった。しかし、あの診断と私の未来にうまく折り合いをつけることを通して、私は大きく変わった。聖書をよりよく理解し、神の愛により深く感謝し、私の人生において神の目的とされるものを受け入れた。この精神的成長は、ほんの三年間にわたってのことだが、真の祝福となった。
 この旅を思い巡らせて、今、私は神にさらに大きな信頼をおくようになっていることに気づく。私は、神の約束を自分の内に深く信じるように一所懸命努め、いつまでも残る疑いを取り除くことを学んだ。
 私に「もし、選ぶとしたら、この精神的成長は得られなくてもいいから、再び元気になるほうがよいと思うか?」と聞かれるなら、私の答えは疑うべくもない。

 ここには恐ろしい真実があるようだ。しかし、私は、正直に言うのだが、その信仰も彼女も肯定しているわけではない。私には私の人生があり、私には私の神へ呪いがある。私は木に登る収税人である。
 本書には日本での編集の際に彼女のインタビューを巻末につけている。そこにはこうある。

痴呆症と診断された時、「自分の人生に意味があるのかという思いと、今日から違うかたちの自分の人生を楽しんでいくんだと考える内側からの力がないと生きていけません。カウンセリングでは……その人にとって、何が一番大切なのかを探っていくべきなのです。それがみつかれば、ハードルを越える力を生み出すことができます。痴呆症の場合は、自分がなくなるという恐れがあります。でも、それがなくなっても魂があるので恐れることはないのです。

 「痴呆症の場合は、自分がなくなるという恐れがあります」というのは恐ろしいことだ。だが、それに対置されている魂とはなんとも非科学的なと思う人も、日本人には多いかもしれない。
 精神医学者ですら、DSM-IV、の「臨床的関与の対象となりうるその他の状態(Other Conditions That May Be a Focus of Clinical Attention)」のV62.89「宗教または魂の問題(Religious or Spiritual Problem)」 をジョークと見ているかもしれない。いや、専門家はこの問題の奇妙さに真摯に取り組んでいるのに、現代日本社会がDSM-IVの上っつらをなめているだけなのかもしれない。
 そのいずれであっても、いいのだろうとは思う。魂の問題は、それを問うその人だけの人生の意味に深く関わっているのだから。

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コメント

毎日見て回るいろんなおもしろい日記には 感情を高ぶらせるものも多いのですが、
ここにくると なぜか落ち着いた気分が取り戻せます

投稿: クレ | 2004.08.29 16:40

よろしかったら、「私は木に登る収税人である。」という言葉を解釈していただけませんか?
聖書の言葉でしょうか?

投稿: | 2005.09.14 18:59

2005.09.14にコメントされた方へ

「私は木に登る収税人である。」というのは、ザアカイのことを示唆しているのだと思います。聖書の中に出てくる人物です。

投稿: 左近 | 2007.09.28 23:32

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