新暦七夕のこと
昨日は七夕ということで、その手の話題をネットでもよく見かけた。が、そのうち、なんだか変な気がしてきた。七夕というのは本来は旧暦でやらないと意味がないのだが、そのあたり知識がまるでわかってないんじゃないか、というか、ネットって、百科事典的な知識がコピペで伝搬しているだけなんじゃないか。なんだ、これは、という感じだ。なので、ちょっと書いておくのもいいのかもしれないと思うのだが、顧みて、自分の考えが正しいと強弁するものでもない。
まず、「七夕」と書いてどうして「たなばた」と読むかについてだが、このあたりの解説はけっこう多い。字引にも載っている。広辞苑にあるように、読みの元は「棚機」であり、「すなわち横板のついた織機の意」ということ。
これは、「棚機つ女(たなばたつめ)」の略だ。ところで、この「つ」の意味についてはあまりネットでは見かけなかった。わかってないのかも。これは「国つ神」の「つ」であり、現代語の「の」つまり、「棚機つ女」は「機織りの女」ということだ。「まつげ」の「つ」もこれと同じだから「目つ毛」なのである。高校の古文とかでこういうのちゃんと教えているだろうか。ま、いいか。
「棚機つ女」については、万葉集にこんな歌がある。
我がためと棚機つ女のその宿に織る白たへは織りてけむかも(2027)
天の川梶の音聞こゆ彦星と棚機つ女と今夜逢ふらしも(2029)
表記は適当。意味もよくわからない。偉そうな解釈は明治以降いろいろついているが、2027は民謡臭いし、性遊戯が連想される。2029は、文字通りの意味ではなく、なにかの当てこすりなのか、いずれ歌の機能がありそうだ。というわけで、文学としてはなんだかわからない。わかるのは、万葉集の時代にすでに七夕の伝説はあったということだ。
この「棚機つ女」を、近代の歌の表記によっては「織女」とすることもあるように、一般的には、これが理由で、中国の織女伝説と、日本の棚機姫の神が習合した、とかいう説明が多い。例えば、大辞林にはこうある。
奈良時代に中国から乞巧奠の習俗が伝来し、古来の「たなばたつめ」の伝説と結びついて宮中で行われたのに始まる。近世には民間にも普及。また、盆の習俗との関連も深い。七夕祭り。星祭。[季]秋。
たしか古事記や日本書紀にも記録にあるのだが、私はこれは変だと思っている。というのは、日本の古来というのは幻想に過ぎない。日本列島の住民は、二、三世紀あたりで、すでに、北方系のツングース(かな)と南方系の海洋民の混血が進んでいたようだが、文化的に見れば、というか、権力的な家族システム的に見れば、早々に中華圏の影響を受けた辺境であり、端的に言えば、日本人はすべて中国人の子孫である。とだけ言うと、とんでも説になるのだろうが、原日本人なる実体を想定するよりはまともだろう。
つまり、日本古代の氏族的なファミリー組織は基本的に中華圏の移民(華僑)のように構成されていたと考えるわけだ。とすれば、こうした七夕伝説なおは、日本と中国の習合ではなく、古中国(おそらく越人であろう)の文化と、万葉集時代の中国である唐(これは実はユーラシア民の王朝)の文化の混合からできたのものであり、基底には、古いか新しいかの違いはあるにせよ、道教があるはずだ。
もう一点。七夕が今日の民間の風習になったのは、大辞林がいうように近世のことだ。どうも、潮干狩りだの七夕だのの年中行事は江戸時代にその時代の社会的な要請からできたようだ。ついでにいうと、ねぶた祭りだが、これの解説は概ね変だ。マイペディアではこうある。
青森,弘前など東北地方の七夕行事。弘前では「ねぷた」という。青森では8月3~7日に行なわれ,竹,木,針金,紙などで作った大きな人形(ねぶた)に灯をともして町を練り歩く。7日には船に乗せて海上運行が行なわれる。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の故事によるともいうが,元来は睡魔を払い流そうとしたもの。
「睡魔」があきれるが、これは柳田国男だったか、「ねぶた」を「ねぶたし」の洒落にしてしまったためだ。しかし、「ねぶた」が「たなばた」行事であり、古代にその名称で確立していたのだから、「たなばた」→「たねぶた」→「ねぶた」といった音変化であることは間違いない。
さて、とうの七夕の行事だが、これは、広辞苑にあるように実際の天体の状態が欠かせない。
五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。
そこで、新暦で天の川の両岸に牽牛星と織女星が見えるのか?
見えると言えば見える。だが、それでいいのか、というのが、冒頭、私の変な気がしたということだ。ちょっと説明したい。
新暦7月7日21時<東> |
新暦8月22日21時<西> |
その他、ちょっと気になる天体シミュレーションをStella Thater Pro(参照)で行ってみた。天文ソフトだが、古代史と限らず歴史に関心のある人間には必携のソフトなのだが、そのあたりの話はまたなにかの機会にでも。
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コメント
>日本列島の住民は、二、三世紀あたりで、すでに、北方系のツン
>グース(かな)と南方系の海洋民の混血が進んでいたようだが、
>文化的に見れば、というか
これは実際は違うんじゃないかと...
日本人の大半が、北方系・新アジア人種と北方系・古アジア人種で、
南方系というのは意外に少ないと聞いたことがある。
そして、その新アジア人種と古アジア人種が、当初言われていた年月よりも
長い期間かけて徐々に混ざり合ってきたんじゃないかと...
つまり、2300年前に北方系が急激に移民してきて農耕を伝えた説は
無理のある説だと思う。
農耕社会というのは、工業化社会に比べると
長い時間かけた緩やかな革命で、人口の増加も
近代に比べて、かなり緩やかだったと考えるほうが正しいと思う。
実際、最近の欧米の手法で計測したら、日本の稲作の始まりは
最低でも3000年頃までにさかのぼれて、長い半農半猟の期間があったと
前、ニュースでやってたような気がする。
ユーラシア大陸の西方では農耕というのは、
気候変動で赤道付近(メソポタミア)から徐々に獲物の数が減って
それで徐々に狩猟から農耕へシフトした。
その間の長い間、半農半猟の状態が続いた。
日本や東アジアも似たような現象だったんじゃないかと...
植物というのは、だいたい温暖な所から寒冷な所へ広がっていくでしょう?
桜なんかも沖縄から徐々に北海道へ登っていく。
日本の農耕社会も、これまでの西から東へ文明が伝わったという説よりは、
緯度の低い温暖な地域(九州)から、緯度の高い寒冷な地域(東北)へ
気候変動によって、半農半猟の状態を経過しながら、徐々に伝わったんじゃないかと...
そういうわけで、この考え方でいくと、
これまでの考えられてきた2300年前の日本の人口は
当初、言われていたよりは、かなり多くなる。
古代における日本の全人口の中の移民の比率も、
現代の在日アジア人の比率よりも小さいものだったと思う。
そして、新アジア人種と古アジア人種の交わりも、近代や現代に考えられるような
混血に比べると、速度は緩やかで、殆んど自然発生的に人種的特長が変化していった
ような感じだったんじゃないかと...
投稿: (anonymous) | 2004.07.08 22:56
無記名なので慣例的にanonymousとしました。
で、日本人の起源論ですが、その説も存じています。NHKが贔屓な説のようにも思いますが。ただ、今回の話はこのそこにポイントを置いていません。
農耕については、陸稲や赤米の問題もあり、単純にはいきそうにもありません。この問題は、科学的と称する見解が多様い存在していて、あたかも科学がそれを決めるかの様相を持ち始めましたが、科学はあるホログラフィックな多様な見解を保持するだけかなという印象はあります。
投稿: finalvent | 2004.07.09 07:42
いや、七夕の風習が日本に出来たのはもっと後、多分、大和時代ぐらいまでしかさかのぼれないのでは。
1、いくら魏志倭人伝に「絹」を朝貢したという記述があったとしても、それら原始的な布を神聖視して神に奉納したとは現在までの機織道具の出土状況からしても考慮し難い。
2、応神天皇の時代に秦氏が来朝して初めて機械的な機織が出来るようになったことをわざわざ書記に載せている。これ以前には原始的な機織技術しかなかった。
3、これから考えて、私は彼ら秦氏渡来より前の弥生時代にはそのような風習自体がなかったと考える。
投稿: F.Nakajima | 2004.07.10 07:21
Nakajimaさん、ども。Nakajimaさんのご指摘は概ね正しいと思います。ちょっと私のほうから補足すると、「たなばた」のもとになる「棚機」について弥生時代からあったという意図ではなかったのです。しかし、この点は、本文の書き方が不用意な点はありました。
ポイントは、隋・唐代の非漢的な伝承と、それ以前に日本に定着している華僑文化ということで、越かなとはしましたが、その継承者を想定していました。
しかし、秦氏あたりを、日本古来側におき、万葉集に七夕伝承を盛り込んだのは、当時の新しい移民階層かなとは思います。
投稿: finalvent | 2004.07.10 09:18
finalventさん、こんにちは、
「七夕」につられてやってきました。
>日本人はすべて中国人の子孫である。
森秀樹の「墨攻」を思い出しました。いろいろ書こうと思ったのですが、考えて見れば、ネタばれになるので「墨攻」についてはコメント欄では以上触れません。
たまたま昨日「History Channel」で秦の始皇帝の中国統一の話を見ました。「中国」は、秦からはじまったのだと。たとえば、「秦」から「シナ」、「China」ということばができたのだとか。
いつぞや咸陽市を訪問したときに、兵馬俑の実物を見せてもらいましたがとても2200年前のものだとは思えないほうど精巧にできていました。昨日の番組では金属製の発射装置のついたボーガンまで発掘されたのだと言っていました。思いは、やはり森秀樹の「墨攻」につながってしまいます。
まとまらないコメントで申し訳ございません。
投稿: ひでき | 2008.07.07 16:46