公文書館なくして民主主義なし
公文書制度の動向がピンと来ない。現状、細田博之官房長官の私的懇談会「公文書等の適切な管理、保存および利用に関する懇談会」(座長、高山正也慶大教授)が進行しており、先月28日、各省庁が保存する文書の国立公文書館への移管基準の明確化などを求める報告書が細田長官に提出された。
懇談会の詳細については、内閣府ホームページ(参照)のかたすみの「その他の施策」にこっそりとリンクがある。リンクであることがわかりづらいように下線を消した項目の「公文書館制度」がそれだ。内閣府は公的ホームページの作りかたもわかってないな。とほほ。
この「公文書館制度」(参照)の資料は、面白には面白い。が、専門的な議論が中心になるのはわかるのだが、率直に言うと、「わかってんのかこの人たち」という印象がある。
同じ印象は昨日の読売新聞社説「公文書保存 政府が直接やるべき事業だ」からも受けた。内容はよく書けてはいるのだが、ジャーナリストたちは公文書館の意味がわかっているのだろうか、という印象がある。
「公文書館なくして民主主義なし」という言葉がある。政府は、国の重要な意思決定について、その記録を保存し、公開することを通じて、将来の国民に対しても説明する責務がある。
もちろん、まとめるとそういうことなのだが、読売新聞の憲法議論でもそうなのだが、主体が誰なのかよくわからない。ここでは、「国は」ということであり、読売粗悪憲法案だと「国民は」だろうか。
現状の問題としては、読売社説が指摘するように、日本の公文書館のあまりにお粗末な現状がある。
最大の問題は、その判断が、事実上、各省庁に委ねられていることだ。廃棄するか国立公文書館に移管するかは、内閣府と省庁の合意によって決まるが、文書の内容を把握しているのは省庁側だ。
各省庁が、自らの判断で保存期間を延長し、保有し続けることも出来る。
このため国立公文書館には、各省庁の重要な政策を記録した文書は、断片的にしか収納されていない。
このように、まったくあきれた状態であり、読売社説はこれに対して、米国のように「政府が直接やるべき事業だ」というわけだ。
だが…、と私はここでそのニュアンスが違うと思う。
米国では、上院の助言と同意の下で大統領により任命される国立公文書館長が、公文書館へ移管する文書を決定している。公文書保存に取り組む姿勢が、日本とは根本的に異なる。
大統領だから行政権というふうに読んでもよいのだが、ここには大統領と国立公文書館長に国民の、歴史に向き合う良心が委ねられている、と理解することが重要だと思う。
日本では、民主主義というのが多数決と同義語になってしまっているが、まるで違う。民主主義とは、正義に国民が向き合う制度であり、その最大のポイントは権力の制御だ。だから機構もややこしい仕組みになっているのだが、そうした機構とは別に、さらにその「選択された正義」を歴史の審判に仰ぐことで、自分たちの正義を裁きうる謙虚さが含まれている。少数の意見や間違いとされた決定をけして歴史のなかで消失させないということをもって、今の正義の根拠ともしているのだ。
この感触を山本七平が「日本人とアメリカ人」(「山本七平ライブラリー (13) 」収録。ただし、絶版)でよく伝えている。なお、アーカイブとは連邦政府資料館のことである。
アーカイブのギリシア神殿そのままの建物の前に立ったとき、私は、いかなる精神がこの神殿を造りあげたか、という秘密を引き出し、それを日本と対比するには、たとえ何時間かかろうと、実務でおして行く以外に方法はあるまいと覚悟した。
前にも記したが「天皇の戦争責任を天皇に直接問うた」のは戦後三十年である。だが重要な資料は、米軍に押収されてこのアーカイブにあるもののほかは、ことごとく焼却され、皆無に等しい。書類焼却は実に徹底しており、たとえば満州国壊滅のときに、日露戦争時の書類まで焼却されたときの大火事のような様子を、児島襄氏が記しておられる。
焼却・抹殺は、敗戦時に必ず起こる現象であろうか? ドイツ人は、強制収容所の帳簿から、”処理”の原価計算まで残しているから、何もかも焼却することが、敗戦に必ず随伴する現象とはいえない。そしてこの保存という点で最も徹底しているのがこのアーカイブであり、政府の文書はすべてここに集積され、三十年後には一切を公開するという。戦後三十年、日米両国共に民主主義・自由主義のはずだが、この点で両者の行き方は全く違い、日本にアーカイブは存在しえいない。
山本がこの文章を書いたのは昭和51年(1976年)である。長いがもう少し引用したい。
アメリカ式にやれば”恥部”といわれる部分も遠慮なく白日のもとに出てくる。その一部はもう出てきて、さまざまな議論を呼んでいる。そして出れば出るだけ「病めるアメリカ」を、アメリカ政府自らが世界に印象づけかつ宣伝する形になり、甚だしくその国益を損ずるであろう。なぜ、こういうことを平気でやるのか?
日本ではこういういことは起こり得ない。焼却もさることながら、戦後の”民主日本”の政府にも十六万五千の秘密があり(「毎日新聞」松岡顧問による)、さらにこれだけの「秘密があることすら秘密」にしているから、実態は国民にはわからない。
山本がこれを書いてから、さらに30年近い時が過ぎようとしている。しかし、日本はなにも変わっていないと思う。なんだか、泣けてくる。「病めるアメリカ」としてあざ笑い、ムーアのインチキ映画を賞讃する日本の知識人の浅薄さをどう評したらいいのだろう。(後年山本はこのアーカイブのなかから洪思翊を読み出した。)
なんだか長い話を書きそうな気になってきたので切り上げたい。特に糞なのが外務省だ。それがどれほどひどくむごいものか、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬)を読めと言いたかったのだが、これも絶版。図書館でめくってくれ、大学生。卒業試験より大切なことはこういう事実を知ることだよ、高校生。
外交には秘密は必要だということくらい私もわかる。沖縄県人がどれほど、機密文書「日米地位協定の考え方」増補版の公開を求めても空しいかもしれない(参照)。しかし、この最初の文書は、沖縄本土復帰の翌年、つまり1973年に、外務省条約局とアメリカ局が作成したものだった。国会における政府答弁の基礎資料となる虎の巻でもあった。日本に公文書公開制度があれば、あれから30年後の今、この文書を私たちが読むこともできるはずなのだ。しかし、できない。これで民主主義国家なのか。
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コメント
度し難き軽薄さを誇る我が日本を思うに、歴史に学ぶためには、そのための制度も必要なのですね。公文書館を作り上げる精神は当然のこととして。
投稿: synonymous | 2004.07.21 13:25
>民主主義とは、正義に国民が向き合う制度であり、その 最大のポイントは権力の制御だ。
という言葉で、いつも心の中でもやもやしていたことが、はっきりとしました。今の日本は、民主主義の本来の意味合いから外れているのですね。
投稿: Rashita | 2004.07.22 12:32