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2004.07.16

良心的兵役拒否

 15日韓国で、宗教上の理由で兵役を拒み、兵役法違反の罪に問われた男性被告が最高裁で有罪となった。つまり、韓国は良心的兵役拒否を認めない国家となった。国内ニュースとしては、この手の話が好きそうな朝日新聞系「良心的兵役拒否の有罪確定 韓国最高裁『国防義務優先』」(参照)があるが、ベタ扱いに近い。


 判決は「兵役の義務が履行されず国家の安全が保障されなければ、人間の尊厳と価値も保障されない。良心の自由が国防の義務に優越する価値とはいえない」とし、北朝鮮という現実の脅威を背景に徴兵制を敷く韓国として、個人の基本権より国防・兵役義務など社会秩序の維持が優先されるとの考えを示した。
 男性は01年、陸軍入隊を宗教上の理由で拒否した。一、二審で懲役1年6カ月を言い渡され、上告していた。

 現代自由主義国家が良心的兵役拒否を認めないということは、国際世論からすれば国家的な恥辱とも言えるものだが、だからこそその点を考慮してか刑は軽いようだ。少し私の宗教的な判断が入るが、この程度の刑なら、むしろ宗教的な良心にとって好ましいのではないか。
 国民の30%がキリスト教信仰を持つ韓国で、この問題がどう扱われているか気になる。韓国紙中央日報「国家安保なくして人間の尊厳・価値なし」(参照)では、今回の判決を支持している。

もちろん良心の自由は自由民主主義国家にとって大切なものだ。 しかし、だからといってそれが共同体維持のための「国防の義務」に優先することはない。


  南北分断により北と軍事的対立を続けているわが国の安保状況では、良心の自由を掲げてすべての若者が国を守らなくなったら、どのような結果を招くかは火を見るより明らかである。

 この滑稽さはまるで産経新聞社説を読んでいるような錯覚をもたらす。もっとも、日本でも無知な左翼陣営は、日本で兵役復活したら大変だ、と言うが、現代の軍事に素人は不要だ。
 韓国紙東亜日報「『良心的兵役拒否』は有罪」(参照)は、基本的に判決を支持していながらも、もう少し深みがある。

しかし、軍隊の代わりに刑務所行きの選択を強いられる「エホバの証人」の信者たちの問題に終止符が打たれたわけではない。最終的に違憲法律審査権を持つ憲法裁判所(憲法裁)の決定を待たなければならない。本質的な問題は未解決のまま残っているわけだ。憲法裁が、憲法上の二つの価値が衝突する時にどのように調整するのか、合理的な決定を下すことを期待する。

 ここには朝日新聞が意図的に落としている二点がある。一つは本質的には未決であること、もう一つはこの宗教が「エホバの証人」であること。韓国世論がこれらの新聞からわかるわけではないが、今回の問題の重要なキーワードは「エホバの証人」だとは言えるだろう。
 「エホバの証人」というと日本では、カルト的な宗教のイメージを持ちがちだし、日本基督教団やカトリックでも異端としていることから、偽のキリスト教徒であるかのように見られることもある。しかし、宗教史の大きな流れを見るものなら、これが三育系(セブンスディ・アドベンティスト)と同系のルーツを持つものであり、米国では社会的にもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなど同様、一定の評価を受けている宗教であることがわかる。むしろ、正統とされるキリスト教、つまり事実上今日のエキュメニズムは、ニケア信条に端を発するという点で、原始教団と初期教団の歴史的間隙について、神学的な課題を十分に追及してはいない。
 「エホバの証人」と良心的兵役拒否については、日本もまた貴重な歴史を持っている。元「エホバの証人」の戦前の組織である灯台社がそれだ。その中核的な人物は明石順三である。日本の戦時において、彼は、堂々と良心的兵役拒否を貫いた点で高く評価されてよく、その日本人の良心を支えたのは、「エホバの証人」の信仰であったということは、現代日本人は深い負い目としなくてはならない。
 残念なことに、正確には、「エホバの証人」の信仰とは言えない現状がある。明石順三は戦後、「エホバの証人」から異端とされているからだ。この問題は、1970年代にはある程度研究が進んだもの、現在では忘れ去られたように思える。日本人が良心的兵役拒否を論じるときに欠かすことのできない歴史的なくさびを忘れているがために、精神的に脆弱化した左翼はこの概念を国家の良心に拡張しようとしている。
 良心的兵役拒否の問題は、私も個人的に課題としたことがあり、「エホバの証人」の現状の内部資料を探ろうとしたこともあった。十分な資料は得られなかったが、平信徒には、本来は誇りであるべき明石順三について、異端であることの教育が進められているようだった。
 灯台社関連については、書籍としては、岩波新書「兵役を拒否した日本人」(稲垣真美)が読みやすいが絶版になっている。晩年の明石を知るという点ではむしろよく書けた書籍なので絶版であることは岩波の恥だ。参考までに、現在入手可能な稲垣真美のこの関連の書籍には「良心的兵役拒否の潮流―日本と世界の非戦の系譜」がある。また、ネットでは、「灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ」(参照)が興味深い。
 話がだらけるが、私は先の岩波新書が出た当初に読んだので、それは中学三年生の時だっただろうか。そのころの私は、ドストエフスキーなどの影響もありキリスト教に傾倒していたこともあって、日本が戦時になれば私は兵役拒否をしようと心に誓っていた。が、今47歳にもなり、もはやそんな誓いは無意味になったかのように思える。またその後、高校生になり小林秀雄を海馬にたたき込むほど読みながら、実際の徴兵があれば、私は一兵卒として従軍するだろうとも思うようにもなった。戦時のクリスチャンの生き様として山本七平からも強い影響を受けた。
 で、今、どうなんだ?、良心的兵役拒否をするのか?と問われると、答えがたい。国家の保証する権利であることは譲る気もないが、自分の宗教的倫理としては、よくわからないのが率直なところだ。ただ、いろいろ考えながら、いろいろ知るようにもなった。
 その一つは、軍事は人を殺すことではない、ということだ。たるい左翼は、戦争の本質とは人を殺すこと、というのだが、少なくとも、軍人は人を殺すのが役目ではない。敵軍の軍事リソースを潰すだけである。12人を殺害、とか言うのはジャーナリズムである。軍事では、戦車一台を爆破、とかになる。軍事が常識ならそんなことは当たり前のことであり、むしろ、敵軍人が負傷しているなら殺してはいけない。平和を希求するなら、軍事という歴史の産物を正しく理解しなくてはならないと思うようになった。
 蛇足でつまらぬ感傷めくが、私が大学生のときの恋人が普連土学園を出たばかりお嬢さんだった(失恋したがな)。彼女自身はそれほど強いクエーカーの信仰を持っていたわけではないが、私はクエーカーという信仰のありかたに深く批判されるように思えたことがある。先に書いたように、思春期の私は「心に誓った」が、そうした「誓い」がキリスト教に反することをクエーカーの信仰は告げた。英語の法律・政治文書を読むと、oath or affirmation、または、oath and affirmationという表現がよく出てくる。oathは宣誓である。私の誤解かもしれないが、oathが信仰上許されない人の歴史が、affirmationを生み出したようだ。
 私はその知恵と信仰の深さに強くうたれるとともに、「誓って」と言明する人間を弱く、罪深いものであると思うようになった。また、私にとって狂気に見える他人は、もしかしたら、狂気をおしてまでして、私が担うべき良心を担っているのかもしれない、と思うようになった。そういえば、パウロもそうであった。


【追記 同日】
 拙い文章を一部改めた。内容に関係することではないので修正履歴は残していない。
 コメントを読ませていただいて、意外な印象を受けた。議論の正否以前に、先進諸国では良心的兵役拒否が事実上確立していることが日本ではあまり知られていないのだろうかという懸念を持った。つまり、もっとエレメンタリーな部分から書くべきだったのかもしれない。補足代わりに、この問題が深く議論されたドイツの状況について「概説:現在ドイツの政治」(参照)が参考になるので引用しておく。


 最後に付け加えておくと、ドイツにおいて、こうしたさまざまな社会福祉団体でのマンパワーの供給源になっているのは、いわゆる良心的兵役拒否者とよばれる若者たちです。ドイツには徴兵制があり、18歳になると青年は兵役に服す義務があります。しかし、憲法は「なんびともその良心に反して武器をもってする軍務を強制されてはならない」(第4条)と定め、良心にもとづく兵役拒否を認めています。兵役を拒否したものは、軍務につかない代わりに非軍事分野での代替役務(Zivildienst)につかなければなりません。兵役が9ヶ月なのに対し、代替役務は11ヶ月とより長期間つとめねばなりませんが、1999年には代替役務従事者は13万8千人を超え、兵役従事者数を上回りました。代替役務従事者のほぼ7割の約10万人が福祉関連の仕事に従事し、福祉業務の1割相当がかれらによって担われています(市川ひろみ「社会国家の安全保障と管理-ドイツにおける軍隊の変容から-」文部省科学研究費補助金成果報告書『グループウェアを活用した欧州統合と福祉国家体制の変容に関する共同研究』2002 年)。

 また、基礎的な知識として「兵役拒否」(佐々木陽子)も役立つかと思う。

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コメント

こんにちわ

先ず国家・人間社会ありき、宗教はその中での活動、と考えます。
従って、宗教上の理由で国家の制度(社会制度)を拒むのはおかしい気がするのですが。だったら、宗教上の理由での殺人・誘拐等犯罪も正当化されてしまう----のでは?。
この考え方がおかしいのか---。

投稿: 無限 | 2004.07.16 10:46

おかしかないですよ。現世の裁きは下されるべきだ。でも、時に信心はその先に届いてしまう。それは一種の狂気であるかも知れず、その信心に縁無き者は、まずは驚くしかないんでしょうか。

投稿: synonymous | 2004.07.16 11:21

そういえば、この問題、こちら→http://www3.diary.ne.jp/user/342460/ の「犯罪と道徳」が、ちょっと関係するかもしれません。>無限さん

投稿: synonymous | 2004.07.16 11:25

コメント欄で出すぎた真似をいたしました。申し訳ございません。

投稿: synonymous | 2004.07.16 11:35

ちょっと補足ですが、グローバルスタンダードというわけではありませんが、良心的兵役拒否は人権の一部としてほぼ確立しています。

参考:
http://www.wri-irg.org/books/co-guide-un.htm

投稿: finalvent | 2004.07.16 13:57

synonymous 様
HP資料を有難うございます。
興味深く読ませて頂きました。

finalvent  様
参考HPは英文のため、あまり(ほとんど)理解できませんでした。
暇な時、辞書を片手に頑張ってみたいと思います。

またお邪魔します。その節はよろしくお願いします。

投稿: 無限 | 2004.07.16 16:17

 こんにちは、本文についてちょっと質問させてください。

>また、私が狂気に見える人が私の良心ゆえにその狂気を担っておらるのかもしれないと思うようになった
 これはおそらく重要なところだと思うのですが、今ひとつぼくには理解できませんでした。

『私の中に狂気を見てとる人がいらっしゃる。
それは私が、私の良心ゆえに、その人に「他人に狂気を感じるという不安」を担わせてしまっているということだ』

 というようなことでしょうか。それとも、

『狂人に見える人は、(たとえば私のような)他人の分の良心まで引き受けてくれているのだ』

 というようなことでしょうか。

投稿: けいた | 2004.07.16 16:54

はじめまして。

個人的見解ですが、兵役拒否は自由ですが国家への帰属拒否と等価と思えますので、国外退去処分が適当と考えます。
あるいは、納税義務の拒否と等価か?
いかなる理由をもってしても、徴兵が義務なら拒否は犯罪でしょうね。実際にそれが必要で、制度が敷かれている国なら。

正直申し上げて、現実の脅威の前には、宗教など毛ほどの役にも立ちませんな。

こと日本に限っては、より本格的な予備役をプールするシステムを、構築する必要があると思います。
徴兵よりはROTC的なものがベターと考えますね。

投稿: あさって | 2004.07.16 17:00

狂気が照らし出す狂気というものもあるのでしょうね。

投稿: synonymous | 2004.07.16 17:15

けいたさん、ども。あまりに拙い文章でしたので、本文を書き換えました。事実認識に関わることではないので、修正記録は残しませんでした。意図は、けいたさんが解釈された後者の意味です。

また、本文に関連事項を追記しました。

投稿: finalvent | 2004.07.16 18:25

文章を拝読させていただきました。
国家のために死ぬことが嫌だと感じている私は、「ぬるい左翼」なのでしょうか?
あなた自身、若いころは兵役拒否を考えていたとのことですが、年をとって
兵役対象年齢を超えたからって、今度は一転、自己は安全地帯にいながら
兵役を是認肯定するのですか?

投稿: はじめまして | 2005.11.14 04:16

 平時ならいざ知らず、戦時であれば、徴兵されても戦地で死に、兵役拒否をしても拷問で死ぬ。戦争というのは、どんな立場に立とうが両方の命を危険に晒すものだ。現実の生活を守るための可能性に賭けて戦地に行って結果として死ぬか、理想を貫き通すことで自分を死にいたらせるかの違いでしかない。

 私はなるべくなら、戦争にならないように平時に努力すべきだと思うが、完全に戦争を防ぎきれぬことは歴史を見れば明らかである。戦が起こって死を前にしたときどちらが良いかは、本人が決めるだろうし、平時の状態で、その決断を論じても無意味な気がする。いずれにしても命を賭けたギリギリの選択であるだろう。

 先の大東亜戦争で、赤紙を前にギリギリの思いで戦地に赴いた人も多かった。負け戦であるとわかっていたにもかかわらず戦いつくした人もいた。私など、自然に敬意を表さなければならない気持ちになる。

 しかし、完全に理想を守るために死んでいく人がごくわずかでもやはりいるものだ。その人たちの志はやはり重いものとして受け止めなければならないだろう。唾棄すべき対象ではなく、平時における警告として徹底して重んじるべきであろう。それで初めて彼らの拷問の苦しみと初めて釣り合いを取ることができるのであって、唾棄するなら罰当たりでしかない。

 批判されるべきは、理想が貫き通せないからといって理想をまげて自己弁護するというブザマさであり、ギリギリの選択の重さを知らない軽い論等の批判である。これはどちらの陣営にも言えることだ。少なくとも戦争を経過してブザマに生き残ったとしても批判されるべきではないが、自己の生命の存続に対して何の正当化もできないということくらいは覚えておきたいものだ。

投稿: 通りすがり | 2007.04.19 16:37

「先ず国家・人間社会ありき、宗教はその中での活動、と考えます。」というご意見ですが、社会が宗教に優先するかという考え方は適当でなく、どこまで宗教や個人の信条を尊重する社会にするかという観点で考えるべきでしょう。宗教を理由に、武道の履修を拒むことを認めるからといって(判例があります。)、宗教を理由に殺人を認めるわけではありません。論理が飛躍しすぎていると思います。

投稿: パルコム | 2007.05.05 10:50

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