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2004.07.13

キトラ古墳の被葬者は天皇である

 キトラ古墳壁画劣化の話を、朝日新聞と毎日新聞が社説で扱っていたが、こんな話題もよかろうか、くらいの飛ばし書きなので、内容はない。キトラ古墳壁画の現地保存には、ちょっとした政治の裏がありそうにも思うが特に言及がないどころか、朝日社説「キトラ壁画――いずれ現地で公開を」ではあっけらかんと書いているため、かえって裏の臭いがする。


 「文化財はその地の歴史、風土から離れると価値が少なくなる。現地で公開するのが原則だ」と歴史学者の上田正昭さんは指摘している。その通りだと思う。

 そうなのだろうか。毎日社説「キトラ古墳 美しく後世に残したい」のほうにはちょっと含みがある。

 この機会に、従来の壁画保存方法が適当だったかどうか、徹底した科学調査と検証が必要だ。

 しかし、この問題はうやむやになるのではないかと思う。そして、なんとなくだが、しかたないよね感が漂う。
 キトラ古墳壁画劣化のニュースでは、あまりキトラ古墳というものには触れていない。私はなんだか変な世の中になったなと思う。
 高松塚古墳が実質発見されたとき、その壁画も衝撃的だったが、なにより被葬者が話題になったものだった。正確にいうと、話題にしたのはメディアや梅原猛など学者であれ、門外漢たちだった。考古学では被葬者の特定(比定)というのは分野外なので、眉をしかめただろう。情けないのは歴史学者だ。被葬者の議論を怖がって避けているとしか思えない状態だった。
 日本の古代史では、なぜか歴史学が戦後考古学と不分化な状態になっており、極端な話、毎度毎度の邪馬台国の話題なども、考古学的な知見が重視されるといった方法論的な錯誤があたりまえになっている。
 他にも、日本史学のばかばかしさは聖徳太子についてなどでも顕著で、今さら谷沢永一などに「聖徳太子はいなかった」と言われるまでもない。世界史学的に見れば、推古朝とされている時代の日本の大王は男王であるのに、遠山美都男など若い日本の古代史学者たちも巧妙にこの問題を避けている。
 日本の古代史学が実質タブーを多く含むこともあり、そのニッチで、アマチュアの古代史愛好家の被葬者推理はどうしてもトンデモ説になりがちだ。このため、逆に科学的であろうとするために、同じくアマチュアの一部は、考古学的な方法論を、本来別分野なのに史学混入し、さらに被葬者議論を封じている傾向すらある。ネットなどでもちょっと小賢しい者たちが、被葬者比定をただ嘲笑うだけで終わっていることもある。嘆かわしい。
 キトラ古墳でもっとも重要な問題は、高松塚古墳も含めて、被葬者の推定だと私は思う。理由は簡単で、考古学的にもそれが天武時代あたりであることは明かであり、そのまさに天武時代に日本の歴史が作成されたからだ。我々もまた、その創作された歴史の内部にいる。
 端的に言うとトンデモ説っぽくなるが、日本の歴史を創作した集団の裏をさぐることから、日本古代史を解体するといいと思う。そして、日本も万世一系のような天皇家の歴史物語から解放され、フランク王国のように7世紀に出来た王朝としての日本という国民史とその国民理解に変更していくべきだろう。
 余談めくが、被葬者の比定は、考古学的には、それを明記した木簡なりが出てこないとわからないということになっている。つまり、それが出なければわからないというのがこの学問のデッドエンドなので、出土の可能性が低ければ、史学はそんなものに見切りを付けるべきだ。
 被葬者ではないが、木簡が出土しても、古代史学は無視を決め込むこともある。長屋王の評価にいたっては、明確に親王号が出てきたのだから、父の高市は天皇位についていたと考えるべきなのだが、そういう議論はアカデミックの世界ではどうも見かけない。
 天武天皇の子とされる高市皇子が天武崩御後皇位についたとすれば、大津皇子や草壁皇子などの死も見直さなくてならないし、なにより、長屋王の殺害は、天武・高市・という皇統に対するクーデターであったことになる。しかも、この系統は女系側から見ると蘇我の系統でもある。この先は自覚的にトンデモ風に言うと、蘇我の系統こそ皇統だったのではないか?
 さて、この手の話より、キトラ古墳の宿星図について、あまり基礎的なことがあまり報道されていないし、教育もされていないようなので、ここで簡単に解説をすべきかとも思ったが、またの機会としたい。いやいや、すでにわかりやすい解説「キトラ古墳の星宿図」(参照)があったので参考するといいだろう。
 私が補足するとすれば、星宿図と四神(蒼竜・朱雀・白虎・玄武)が描かれている意味だ。古代の人は天体に呪術的なロマンを抱いていたというようなわけはない。朝日新聞社説の次の言及はあまりに恥ずかしい。

 キトラ古墳で壁画が発見されたのは83年秋だった。3次にわたる調査で、方位をつかさどる古代中国の四神「青竜」「白虎」「朱雀」「玄武」が見つかり、天井には飛鳥のプラネタリウムといわれる「星宿」が描かれていた。

 説明を端折るために、吉野裕子のもっとも一般向けの「カミナリさまはなぜヘソをねらうのか」をひく。

 そうして古代中国の天文学では、その唯一絶対の存在を象徴する星を「北辰」すなわち北極星としたのです(北斗七星をあわせて、北辰ということもあります)。
 さらにこの北極星を神霊化したものが「天皇大帝」です。

 「天皇号」は、たしか北魏でも見られたかと記憶しているが、その場合でも、中国の皇帝号に対置した意味合いを持っていた。
 古代日本が、大王号から天皇号に変更したのは、トンデモ説でなくても、天武朝だろうと推定される。もともと天皇号は死者におくる号だが、天武は自身をそう号したらしい。天武天皇は壬申の乱の際は劉邦に自分を擬しているが、日本人なのか疑わしいほど中国の世界観にも精通していた。

黄道と宿星
カーソルが現代的な意味での北極星
 キトラ古墳の星宿図が天皇大帝を中心とした宇宙を描いているのはどういうことなのか。「千字文」にある李暹の「千字文注」の訳が参考になる。「日月盈昃辰宿列張」の部分の注だ。
 以前にも書いたが、千字文は東洋人の常識である。そしてその常識には李暹注が含まれていると言っていい。そしてその常識があれば、キトラ古墳の星宿図が何を意味しているか明かだろう。先に朝日新聞社説の言及が恥ずかしいのは単に東洋の常識に欠けているからだ。ついでに老婆心ながら、この蒼竜・朱雀・白虎・玄武の四神は東西南北(東南西北)に配されているとはいえ、地上の東西南北ではない。

 北極星は五つの星である。『論語』(為政)に言う、「北辰、其の所に居て、衆星之を拱く(北極星は固定した位置にあり、他の多くの星がそれに向かってあいさつしている)」と。これのことである。
 天には二十八宿がある。四方にそれぞれ七宿ずつある。東方の七宿は蒼竜の形をし、南方の七宿は朱雀の形を作る。西方の七宿は白虎の形をし、北方の七宿は玄武(亀と蛇がからまった図)の形を作る。そしてそれらが四方に輪になって連なり、天帝(北極星)を補弼(天子の政治をたすけること)しているのである。

 この李暹注をよく読めば、キトラ古墳壁画の四神に囲まれていた被葬者が天皇以外にありえないことがわかるはずだ。

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コメント

高松塚が天武の墓であるなら、キトラは高市ということになるのでしょうか。なんかすっかり疎くなりましたが。

投稿: a watcher | 2004.07.13 14:04

お酒の出る場とかでは、歴史学者のセンセイとかとはその手の比定論なんかの話題では結構盛り上がっていたものですけどねぇ。
やっぱり、表立ってやるのをひよってる人が多いのかなぁ。

投稿: 有芝まはる | 2004.07.13 15:10

天智天皇と天武天皇の母親の斉明天皇には再婚歴があって、
天智と天武の公式的な父親は敏達天皇系の舒明天皇だけど、
舒明の前に旦那が居て、これが用命天皇系の高向王とかいう皇子だったとか...
実は、弟だと言われてきた天武のほうは本当は兄で
天武の父親は、この高向王だったとか...
そういう説があると思う。
ただ、こういう説もあくまでも一つの説であって断定できるものでないし、
極東ブログで語られることも、断定できる程の物で無いと思うが...

天皇号については、記憶は定かではないが、推古天皇の時代の木管に
天皇とか言う文字が出てきたと話題になっていたような気がする。
一概に、天武天皇が最初とは言い切れんと思うが...
日本に最初に漢字が入ってきた時期についての説も、
当初言われていた時期より古くなっているし...
皇室が万世一系かは、下手すりゃ皇后や側室の誰かさんが浮気して
子供が出来ることだって考えられるわけで、
そういうふうにいうとキリがなくなるわけで。

ちなみに、中国の大昔、泰皇、天皇、地皇の3つの称号は
道教の思想で天帝の意味で使われた称号で、
秦の政王は、家臣に その3つの称号(泰皇、天皇、地皇)の中で
最も尊貴が高い泰皇を勧められたんだけど、
彼は、「泰を取り去って皇をとどめ、上古の帝位の号をとって『皇帝』と号することにする。
その他は、なんじらが議定したとおりにしよう。」
と言い、中国の歴史の中で始めて皇帝号が誕生し
彼は最初の皇帝ということで始皇帝を名乗ったとか...

投稿: 寄道くん | 2004.07.13 16:35

ところで、中華において天皇号は唐の高宗の時代(674年)に一時利用されてたというのはときおり引かれる話ですが、これと日本の天皇号については、連動しているという解釈に立っておられるのでしょうか?

投稿: (anonymous) | 2004.07.13 17:01

この問題の先、天皇号の由来や被葬者の比定について、ある程度の推理は持っているのですが、あえてここまでを書くに止めました。

というのは、具体的なディテールの推理に入る前に、千字文などアジアの教養の背景のほうに注目して欲しいからなのです。そして、そうした教養の背景をもってすれば、キトラ古墳の被葬者が天皇であることは、まず妥当な判断ではないか、と。

投稿: finalvent | 2004.07.13 17:32

いや、finalventさんに東洋人の「常識」とまで言われたので一応岩波版の千字文読んでみたんですけど、感想としては、「この本の記述を根拠にあの壁画があるから天皇陵とするのはしんどいじゃないかい?」

まず、日本に中国や朝鮮半島から伝わってきた宗教は(日本書紀には仏教伝来しか書かれていませんが多分道教も伝わっていた可能性は大です)仏教と道教です。そして、日本は(どういう理由かは未だに学者間でも論争がありますが)自国に広げるのに仏教を選択し、道教についてはかなりの制限を加えています。そして、蘇我氏・大王家に限らず、現実に一部の神道系豪族を除き豪族は仏教信者になってしまっています。

例として、歴史書の記述から取り上げれば、鑑真和上伝の記述では唐は日本に道教の布教を許可するかわりに和上の日本へ渡海する認可を出しています。
又、(finalventさんは嫌がるかもしれませんが)日本に現実にある全ての考古学上の遺物は仏教の隆盛を今に伝えるものであり、道教的なものはせいぜい木簡の呪術的な漠々たるものでしかありません。(神道に合流したという論は成り立ちません。道教のシステムは仏教への対抗上、唐時代にはすでに「中華風」が強いものであり、どう考えても短期間での神道との合流は無理です)
つまり、「王家の谷」にある終末期古墳のあの道教的な宗教観は日本にとっては「無いはずだろ」ということになっているんです。でも現実にあるんで学者にとっては「被葬者」の特定を言いにくいんですよ。

で、私の感想ですが、もしあれが天皇陵だとすると(それとも思い切って当時の日本の豪族の第一人者だと考えると)、その人物は相当「西洋かぶれ」していた上に、その前後(法隆寺~奈良諸寺)の仏教信仰のラインから外れた人物を想定しなければならなくなります。現実問題としてそのような人物が(思考パターンの違う)諸豪族の支持を取り付けられたとは考えにくいのです。私はあの古墳群は当時の政権を支えた「朝鮮よりの亡命渡来人顧問団」のリーダー的な人物の墓だと考えますね。

投稿: F.Nakajima | 2004.07.18 13:45

Nakajimaさん、ども。ご指摘は理解できます。ありがとう。

ポイントはあの時代の道教にありそうですね。この話題は、また、なんかの形で書くと思います。

投稿: finalvent | 2004.07.18 19:00

古墳、神道、タオなど
隠れた趣味? で、よく読んでるパンピーです。

出土ものに漫才などやらせてます(^_^);

良かったら、お心休めに
笑いに来てやってくださいまし♪

http://ameblo.jp/340-zax/

投稿: みし丸 | 2006.02.12 14:56

日本古代史の謎がわかれば、皇室にたいする理解も深まるかもしれない。

投稿: 邪馬台国総論 | 2007.03.04 23:40

古墳と記紀・日本書記にある天皇陵墓の記述
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34031301.html

投稿: 古代 | 2007.03.04 23:42

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