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2004.07.31

オクトーバー・サプライズ(October surprise)

 7月も今日で終わり明日から8月に入る。米メディアは民主党の大統領指名の騒ぎに浮かれているが選挙の動向はまだ見えない。8月からはブッシュ側の攻勢が始まるのだが、どうもそう呑気な話ではすまなそうな気配だ。やっぱ、オクトーバー・サプライズ(October surprise)っすかね、みたいな雰囲気なのだ。
 この手の話は前回もあったのだが、今回はどうも雰囲気が違う。そのあたりは、Newsweek"A Matter of Public Trust"(参照・日本版では「民衆の信頼を失った民主主義の行方」8.4)がうまく表現している。


It is thus very disturbing that reasonable men and women in America today have begun to talk of an "October surprise": not just some red alert designed to frighten the nation into rallying around the president, but a scheme to postpone the election altogether if it seems Bush might lose. This would be unprecedented, unconstitutional... and hitherto unimaginable. I have no idea how plausible the scenario is. What is troubling is that people give it credence - a striking indication of the erosion of public trust.

 うまい表現だなと思う。"It is thus very disturbing."は前段の民主主義に対する国民の信頼を指しているのだが、その信頼の安寧に対して"Don't disturb."というわけだ。チェックアウトまで掃除に来るなよ、と。しかし、現在の米国ではそういう健全な民主主義国家への信頼が失われつつある、というのだ。そして、これも簡素でうまい表現が"reasonable men and women in America"だ。日本人も御多分に洩もれず米国への劣等無意識に駆られているのでアホな米国を見て満足するが、米国にはがんとした"reasonable men and women"がいる。「理性のバランスがいい男と女」と直訳したくなる。
 そうした米国の良識がオクトーバー・サプライズを懸念し始めているというのだ。
 オクトーバー・サプライズとは、この引用にほのめかされているように、"some red alert designed to frighten the nation into rallying around the president"、つまり、大統領選間際で選挙動向を左右するために国難をでっちあげることだ。10月になったら、おやまビックリというわけだ。
 オクトーバー・サプライズのなかでも、ほぼ米国史上汚点とも言えるのが、1979年イラン人学生による米国人大使館員人質事件に絡んだ陰謀だ。翌4月にデルタ・フォースによる救出も失敗。カーターってだめぽのだめ押しになり、このダメージで共和党からロナルド・レーガンが出てきたということなのだが、裏でパパ・ブッシュたちは、パリでイラン政府関係者と密談し、大統領選挙後まで事件解決を延期してくれと懇願し、見返りに賄賂と武器供給を約束したらしい。
 え、ほんとかよ?でもあり、この手の話がお好きなかたは"The October Surprise"(参照)、"Archive October Surprise 'X-Files' Series"(参照)、"Paul Wilcher and the “October Surprise”"(参照)などをご参照あれ。
 ということだが、この時のオクトーバー・サプライズの仕掛けを現在に当てはめると、ケリー側がやってくれるかなということになる。スペインの列車テロやオーストラリアの緊急事態の切迫感を見ると、そうかなとも思えるし、先のイラン関連のオクトーバー・サプライズでは、ケリーの義理の父ジョン・ハインツ三世(当時ペンシルバニア州上院議員)も噛んでいるので、むふふでもある。どっかのサイトみたいな話になりそうだが、面白すぎるので、あくまで真偽は別として、"Paul Wilcher and the “October Surprise”"ちょいとひいておく。

Senator John Heinz CR-Pa), was also later murdered in order to keep him quiet -- again because he was threatening to come forward and tell what he knew about President Bush’s involvement in the “October Surprise” and other scandals. Like Senator Tower, Senator Heinz’ death resulted from his private plane being blown out of the sky. News reports at the time indicated that Senator Heinz’ plane had collided with a helicopter. What actually happened, however, is that the helicopter fired a missile at Heinz’s plane causing it to explode. But because the helicopter pilot was inexperienced and did not get out of the way in time, the exploding debris from the plane fell onto the helicopter, causing it to crash also. (See page 48 above on both the Tower & Heinz murders.)

 ちょっとこれは解説を控えたいし、ちょっと脱線がすぎたが、裏の裏はパパ・ブッシュというあたりがいいダシ取れますねぇ、ということである。
 ということで、でもないが、Newsweek"A Matter of Public Trust"に戻ると、今回懸念されるオクトーバー・サプライズの仕掛けはブッシュ側かもだ。つまり、"but a scheme to postpone the election altogether if it seems Bush might lose."、ということで、ブッシュこけるか?という事態になれば、大統領選挙自体が延期という反則技に出てくる可能性がある。
 まさか? いや、そのまさかがまさかじゃないというのを、良識ある米人が懸念しているというのだ。くどいがそのあたりをもう一つ引用しよう。

Conspiracy theories have respectable genealogies in any democracy - and sometimes they're true. But it is quite another thing to say you can't trust your representatives to preserve the core attributes of their own democratic culture

 名文だな。陰謀論的解説というのは民主主義国家から排除できないものだし、それが真実のことすらある。しかし、問題は、民主主義自体が信頼できないいうことではない。
 というわけで、この8月のブッシュ側の攻勢にかげりが見えたときに、オクトーバー・サプライズの幻影がさらにちらつき始める。
 というところで、このエントリを終わりにしようと思ったのだが、ちょっと、悪いジョークで締めておくのもおつかもしれない。アルジャジーラ"Bush's October Surprise: Attacking Iranian Nuclear Facilities Using the Israeli Proxy "(参照)だ。

There has been speculation about what surprise Bush might engineer to secure a second term. Present Osama Bin Laden perhaps? Not likely, if they were holding him in secret the fact would be as difficult to keep quiet as keeping Jack in the box with a broken lid. Defeat the Iraqi resistance and show the world a transformed Iraq? Impossible. Attack Iranian nuclear facilities using the Israeli proxy? This is much more likely.

 ま、難しい英語でもないので、夏ボケの頭にがつんと一発読んでくれ、という程度だ。ハイホー!

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2004.07.30

在仏ユダヤ人退避勧告と分離壁問題

 イスラエル問題について少し書く。あまり考えがまとまらないのだが、この時期にコメントしておくべきだろうと思う。話題は二つあり、関係している。一つはイスラエル首相シャロンが在仏ユダヤ人に出した退避勧告について。もう一つはイスラエルとパレスチナの分離壁の問題だ。
 退避勧告については、朝日新聞系「イスラエル首相、在仏ユダヤ人に『退避勧告』 仏は反発」(参照)をひいておこう。背景にはフランスで起きているユダヤ人への墓荒らしの問題がある。遺体を焼いてしまう日本人には墓荒らしの感覚はわかりづらいかもしれない。


 シャロン首相は18日、エルサレムで開かれた在米ユダヤ人代表らの集会で「すべてのユダヤ人にイスラエルへの移住を提案する。中でも、たけり狂う反ユダヤ主義にさらされる在仏ユダヤ人は直ちに動くべきだ」と述べた。さらに「仏人口の1割がイスラム教徒。反ユダヤ主義の新たな温床だ」とも発言した。

 ニュースではシャロンの発言だけが浮いてしまうのはしかたがないが、国際情勢としては米国とフランスの外交的な対立もある。
 シャロンの言い分など胸くそ悪いのだが、それでも次のファクツは、シャロンを愚弄してすむことではない。

 仏内務省によると、仏国内で起きた墓地荒らしなどの反ユダヤ主義犯罪は今年前半で132件を数え、早くも03年全体の127件を超えた。在仏ユダヤ人団体によると、イスラエルへの移住は02年に急増し、03年も前年並みの約2300人が仏を離れている。

 率直なところこの数値に私は驚いた。日本人の感覚からすれば、危ないイスラエルに移住するよりはフランスに定着すればいいというくらいではないだろうか。
 しかし、フランスの人口構成を考えるとそれほど異様でもない。現在、在仏のユダヤ人は60万人。また、フランス内のイスラム社会の構成員は500万人(参照)。という数字の提示はあたかもフランス内でのイスラム対ユダヤというふうに読まれる危険性があるが、そう単純に結びついているものではなく、反ユダヤ主義は歴史的にフランスに根深い。また、フランスの人口は日本の半分の6000万人。国家規模的にも日本の半分くらいの近代国家なのだが、日本でこうした状況は考えにくいのではないだろうか。
 シャロンの放言を受けてフランス政府は早々にシャロンの訪仏禁止など外交のシグナルを出していたのだが、これはシャロンのほうが折れた形になった。ちょっと偏向かなとも思えるが朝日新聞系「イスラエル首相、『退避帰還』の訴えを撤回」(参照)がわかりやすい。

イスラエルのシャロン首相は28日夜、同国に帰還した在仏ユダヤ人200人を歓迎する式典で「反ユダヤ主義と帰還は区別すべきだ。ユダヤ人は恐怖や憎悪を理由にではなく、ここが故国であるがゆえに帰還すべきだ」と語った。

 こうした式典はけっこう頻繁に開かれているのか私は知らないのだが、数的には200人程度ではちょっとしたパーティ程度のものだろう。全体としては、イスラエルに流入するユダヤ人が少なくはない。とすれば、彼らユダヤ人にとってイスラエルが安全に見えるということなのだろう。
 話を分離壁に移す。分離壁についての基礎的な話は省略するが、勝手にパレスチナの地に国境と称して巨大な壁を作り出した。パレスチナ=アラブ人の居住空間もずたずたにされた。NHKはこの問題にご執心なのでよく映像でこの分離壁見るのだが、一目見ても監獄の壁のようにふざけたシロモノだ。まるで国家をゲットーにするみたいでもある。
 当然国際社会での反発を買い、分離壁撤去の国連決議が出た。概要を産経新聞系「国連総会 分離壁撤去を決議 イスラエル批判明確に」(参照)からひく。

 決議案は(1)分離壁の建設を国際法違反と認定して壁の撤去を求めた国際司法裁判所の勧告にイスラエルが従う(2)アナン国連事務総長が分離壁建設による被害を把握する(3)イスラエル、パレスチナ双方が和平実現に向けたロードマップ(行程表)を履行する-などを求めた。

 米国は、当然というべきか、決議に反対している。それ以前に、こんな国連決議になんの実効性はない。

 しかし、安保理決議と違って総会決議に拘束力はなく、イスラエルが決議に従う見通しもない。米国は反対に回っており、今回の決議案採択が今後の中東和平の進展に直接結び付くとは考えにくい。

 産経のこの言い回しの裏には、分離壁を撤去すれば和平が進展するという含みがあるし、日本人の多くもそう自然に考えるだろう。私もそう考えていたのだが、ちょっと気になることがある。
 露悪的に言うべきではないのだが、現実を見つめていると、分離壁は機能しているし、シャロンの強攻策は効果を持ってきているのではないか? むしろ、以前の和平プロセスのロードマップよりユダヤ側には効果がありそうにも見える。こうした疑念がふつふつと浮かんでいたのだが、ネットを見ていたら、似たような指摘があった。
 "Sharon to France: Send Me Your Jews"(参照)より。

London's Daily Telegraph chided Tony Blair's government for siding with Europe rather than Israel. "The barrier is undoubtedly proving effective in protecting the population, the prime duty of any government," the paper wrote, pointing out that despite the "rivers of blood" promised by Palestinian militants following Israel's dual assassinations of Hamas leaders, terrorist attacks inside Israel proper have actually dropped by more than 80 percent. The Telegraph said Britain should have voted against the U.N. resolution along with the United States, Israel, Australia, the Marshall Islands, Micronesia, and Palau - or, at the very least, abstained like Canada.

 テレグラフをひいているだけでもあるのだが、テレグラフの原文"UN's twin betrayal
"(参照)のほうは標題のように、ばかやろう国連、であり、論点が違う。
 イスラエルの文脈に戻ると、テロが80%も減少したという事実を見れば、分離壁は機能しているとしか言えないだろう。
 パレスチナ問題で重要なのは概論でもロードマップでもなく、個々の問題解決の集積のように思われる。つまり、正義なり理念なりが、現実と乖離し始めた兆候がありそうだ。

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2004.07.29

ファーストレディー候補曰く、「お黙り!」

 大統領候補であるケリー上院議員のテレーザ夫人が失言をした、というニュースが米国でちょっと話題になっていた。日本での報道を見ていると、なんとなく、ブリトニー・ズピアーズ(Britney Spears)とかアブリル・ラヴィーン(Avril Lavigne)の放言みたいな小ネタっぽい印象にも思える。朝日新聞系「ケリー夫人、思わず『失言』 保守系紙記者に」(参照)ではこう伝えている。


 ケリー上院議員のテレーザ夫人が、新聞記者に「くそくらえ」(shove it)と発言したことが米メディアで大きく取り上げられている。テレーザ夫人は歯にきぬ着せぬ物言いで知られており、ケリー氏は「気持ちを適切に話したのだと思う」と弁護しているが、ケリー陣営は26日からの党大会で敵対的な選挙運動は展開しないという方針を打ち出したとあって、注目を集める結果になった。

 話は、ケリー地元ペンシルベニア州の代議員の会合で、彼女が非米国的ななんたらという曖昧な発言をした際、朝日新聞の言うところの「同州の保守系紙」(実際は"Pittsburgh Tribune-Review")の記者が彼女に「非米国的とはどういう意味か」と問いただしたところ、怒った彼女は、先の発言に及んだというのだ。
 とうのPittsburgh Tribuneのニュース"Teresa Heinz Kerry tells editor to 'shove it'"(参照)をひいておこう。

Her answer prompted the following exchange:
Trib: "What did you mean?"
Heinz Kerry: "I didn't say that. I didn't say that."
Trib: "I was just asking what you said."
Heinz Kerry: "Why do you put those words in my mouth?"
Trib: "You said something about 'un-American activity.'"
A Kerry campaign worker attempted to stop the questioning.
Heinz Kerry: "No, I didn't say that, I did not say 'activity' or 'un-American.' Those were your words."
She walked away, paused, consulted with an associate and returned to this editor.
Heinz Kerry: "Are you from the Tribune-Review?"
Trib: "Yes I am."
Heinz Kerry: "Understandable. You said something I didn't say -- now shove it."

 ちょっとむちゃくちゃん、という感じもする。
 朝日新聞系ではもう一つ「米民主党大会、『暴言』のケリー夫人が締めくくり」(参照)があるのだが、なんか変だ。

新聞記者に「くそくらえ」と発言する様子が全米に放映されるなど、歯にきぬ着せぬ物言いがファーストレディー候補として批判を浴びることも多いが、米メディアはとりあえず、この日は「合格点」をつけた。

 朝日新聞、そういうまとめでいいのか? 私の印象では、朝日新聞、随分とケリーに肩入れしているな、である。私は、ブッシュもケリーも支持しないし、争点の少ない米大統領選挙にあまり関心はない。
 問題は、「くそくらえ」(shove it)の語感でもある。先のPittsburgh Tribuneのニュースでは、この「事件」の当初の印象をこう書いている。

The Sun reporter, Washington correspondent Julie Hirschfeld Davis, thought Heinz Kerry had said only "shut up." But a review of a videotape shot by WTAE-TV confirms Heinz Kerry used the phrase "shove it."

 朝日新聞はどういう意図かわからないが、「くそったれ」と訳しているが、ネイティブが「shut up」と勘違いしたように、状況からもわかるが、「お黙り!」という意味合いがある。
 このあたりの解説はないかとちょっとぐぐったら、あった。「過激で笑えるムービーレッスン『言ってはいけない英会話』」(参照)である。このページの「電車の中で携帯電話を使い続けている人がいた時」がそれだ。

"Turn it off, or I'm gonna shove it up your ass."

 日本語でいうと、「カマほったるか、われ」だろうか。shoveの語感だと「ぶちんだるわい」かも。それでもテレーザ夫人は"up your ass"を略しただけお上品かもである。余談だが、assは「しり」とよく訳されているが誤訳だと思う。じゃ、正解はなんてちょっと言えないのだが。
 などと書きながらちょっとこ汗をかくな。
 この手の口語は、米人とつるんで遊んでないとなかなか身に付かないものだが、って身につけてどうする。あるいは映画でもわかるか。ま、普通はわかんなくてもいい。ただ、「過激で笑えるムービーレッスン『言ってはいけない英会話』」の「信号無視した歩行者を轢きそうになった時」の"Get out of the way!"(あっち行け)は覚えておくといいかも。米軍基地内でコーラ持ってうろうろしていると、銃口向けられて言われるかも、だから(ってそんなこと普通しないか)。
 こういうとなんだが、米国というのは階級社会なので、その世界を覗き見るにはなんらかのツテなりがいるし、率直に言って日本人は、韓国人より差別が少ないかくらいの扱いなので、あまりああいう世界を覗く人は少ないかもしれないが、それでも、あれはすごい世界だ。身だしなみもだがLanguageもきびしい。Languageというのは、「話し方」という意味だ。「言語」じゃないよ。丁寧語がきびしい世界なのだ。あの世界を思うと、テレーザ夫人の今回のインパクトがわかるだろう。
 朝日新聞は取り繕っているが(産経新聞もそうだが)、今回の失言は、彼女も発言撤回をせず、むしろ、リベラルの印象を強めるという方向に出た。これで、福音派はすべて敵に回したようなものだし、上流階級も眉をひそめている。
 とま、なんか批判みたいだが、私は、この件で、彼女が好きになったな。単純な話、私は藤原紀香でもそうだが慈善家が好きだからだ。慈善家って、偽善ぽく見えるが、これをマジでやるには、強い信念が必要だ。それに、私が使うケチャップはハインツだしね。

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2004.07.28

麦茶の話

 麦茶が好きだ。だけど、なかなかうまい麦茶がなくて数年前まであれこれ迷っていたが、今は石切神社(「大阪のこと」参照)近くでもないか東大阪の梶商店(参照)の「鉄釜砂炒り麦茶」(参照)が気に入っている。うまい。なにより、あーこれが麦茶だという感じだ。注文は電話で10袋単位4200円。ダンボール箱で届く。ちょっとそんなに飲みきれないという量でもあるが、一夏超してもほとんど味は劣化しない。1袋で注文できれば、是非、試してごらんと薦めたいが、ちょっと敷居が高いかも知れない。作り方は袋に書いてあるが、沸騰した湯で5分ほど煮だし、10分置き、さます。薬罐はステンレス製広口で内網のついたのがいいだろう。1000円くらいで売っている中国製のアレだ(ネットで見かけないが)。
 この麦茶は左派系雑誌みたいな「通販生活」で見かけたもので、その後、通販生活が扱わなくなったので直接梶商店を探したら、同じようにこの麦茶好きがいるらしく、直接購入できることを知った。販売していた通販生活は処分してしまったので、ウンチク話はないが、麦を見ればわかるように、これは鉄釜でないとできないちょっとした名人芸だなと思う。梶商店のページの焙煎の話(参照)も面白い。砂炒り焙煎にはこうある。


回転ドラム式の鉄釜の中に熱した砂を循環させ、その釜の中に大麦を通して、熱された砂の遠赤外線効果で麦の芯まで焙煎する方法です。昔ながらの焙煎方法で、大麦を急激に焙煎するので麦の粒が膨化(膨れること)し、粒がはじけたようになるのが特徴です。

 どうやら、昔の麦茶の製法のようだ。焙煎の上がりについては、「色々な麦茶・穀物茶」(参照)にあって面白い。
 麦茶は大麦を使う。詳しくは知らないが、粒の大きな二条大麦と小粒な六条大麦があり、二条大麦はビールにも使うとのこと。そういえば、ピルスナー麦の麦茶というものがある。小川産業(参照)という江戸の粉引き屋さんが石引で作ったもの。ちょっとページからは注文しづらい。関心がある人は該当ページにあるメールアドレスなどで「ピルスナー麦茶」を相談してみるといいと思う。私はこれもけっこう好きだ。ライトでピルスナービールような香りもある。クセが少ないので食事の水代わりに向いている。煮出すときは紙パックを破いたほうがいい。
 この小川産業、三代目の話が「つくる人直撃インタビュー・みきorいくみが行く!」(参照)にあって面白い。ちょっとひいておきたい。

麦茶屋とか黄粉屋って言えばわかりやすいんですけど、黄粉も麦茶も上新粉も麦こがしもつくるんですよ。早い話が、代々うちには何かを煎るための石釜と煎ったものを粉にするための石臼(うす)があったんでしょうね。石臼は今機械になりましたけれど。だから「煎ったり・ひいたり」屋なんですよ。(笑)煎りひき業なんて世間じゃ通用しませんから、一応製粉業ってことになってます。じいさんのそのまたじいさんのまだ前の話ですから私もよくわからないんですが、誰かが石釜をつくって石臼でいろんな粉をつくっているうちに、あちこち近所に頼まれて、煎りひきの専門屋になったんでしょうね。実に地域密着の自然発生的な商売です(笑)

 偉そうなことを言うと、人類は石臼とともに生きてきたようなものだが、今の若い世代は石臼なんて見たこともないのだろうなと思う。
 ピルスナー麦茶の話もある。

ええ。つぶまるは六条大麦、ピルスナー麦茶は小麦麦芽を使ってます。麦茶って言ったらもう昔から六条大麦が基本ですね。「ピルスナー麦茶」ってのはこの業界じゃ初の画期的な新商品です。まだぜんぜん売れてないところが画期的なんです(笑)私は灼熱地獄のあとのビールが日課なもんで、「ピルスナー麦茶」ってのもうまいんじゃないかと小麦麦芽を煎ってみたら、これが評判がよかった。で、とにかく商品にしました。売れるんでしょうか? 不安です・・。(笑)笑い事じゃありません。社運がかかってるんです。

 私も今年は注文してないので、社運についてちょっと心配だ。こういう洒落っけがいいなとは思う。
 関連の話で、私は朝鮮料理が好きなので、穀茶もよく飲む。最近はあまり外食をしないのだが、穀茶を出す店に当たらない。穀茶はコーン茶とも言われている。朝鮮料理の食材屋にいけばビニールにどっさり入った安価なのがあるが、ネットでは「癒しのキムチ」(参照)の「コーン茶」(参照)がいいだろう。この店は、肉もキムチもかなりいい。もっと嬉しいのは、アレない?とかメールで聞くといろいろ相談に乗ってくれることだ。オススメは今の季節なら水キムチだ。冷麺の汁にも使える。そう、できあいのスープなんか使っちゃだめだよ。
 ほうじ茶については…また別の機会にでも。

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2004.07.27

脱北者450人の韓国受け入れを巡って

 400人規模と言われていた脱北者の韓国受け入れが始まった。国内では毎日新聞系「北朝鮮:脱北者200人、あす韓国へ 「東南アジア待機」が定着--過去最大規模」(参照)が詳しい。基本的には、今回の受け入れは、数が多いということだけで、外交・政策上、質的な転換になるわけでもないようだ。


 北朝鮮を脱出し、東南アジアに滞在している脱北者約200人が27日にもチャーター機で空路韓国入りする。政府関係者が26日明らかにした。第一陣の200人に続いて250人も後日、到着する予定。脱北者が増え始めた94年以降、一度にこれだけの脱北者が韓国入りするのは初めて。韓国政府としては、中国だけでなく東南アジアにも広がった脱北者問題に積極的に取り組んでいることをアピールする狙いがあるようだ。

 いくつか気になることがあるのだが、まず、大規模といっても、400人程度が現状は、韓国がいちどきに受け入れられる上限だろうということ。通常、韓国入りした脱北者は、ソウル郊外定着支援施設「ハナ院」に収容され、2カ月間韓国社会の生活に慣れる訓練や治療を受ける。ただ、今回は「ハナ院」ではないらしい。施設滞在後、政府から生活資金が5年間で3600ウォン(360万円)提供され、韓国社会に放たれる。
 2か月のローテンションを組めば、今回の450人に続く脱北者の受け入れも可能だが、そのあたりの今後の動向がわからない。政府の本音はこれで大量受け入れが終わりにできるものなら終わりにしたいだろうし、また今後も受け入れ可能を示せば、さらに脱北者が増えることにもなる懸念はあるのだろう。
 もう一点、どこから脱北者がやって来るか、なのだが、人道的な配慮もありこれは表向き公表されていない。が、毎日系のニュースにも示唆があるように、ベトナムらしい。いったんは中国を経由しているだろうから、中国とベトナムの関係が気になる。同じ社会主義圏とはいえ、両国が複雑な関係にあることは古くもない歴史を顧みてもわかる。あるいは私はこの問題に疎いので誤解かもしれないが、各ルートの脱北者を今回はいったんベトナムにまとめているのかもしれない。つまり、直接海路で北朝鮮から東南アジアに出ていたのかもしれない。
 脱北者の統計だが、毎日系ではこう指摘がある。

食糧難で餓死者も出ていると言われる北朝鮮からの脱北者は94年以降、年々増加している。00年の韓国入りは312人、01年は583人だったが、02年には一気に1140人になった。昨年は1281人で、過去最高を記録した。

 脱北の理由は食糧難とみてよさそうだ。ただ、ラジオ深夜便の話では1997年までは70人だったというので、毎日系の示唆と違う。この増加数を見るに、94年あたりを契機とするには無理がある。
 同じく、ラジオ深夜便の話では現状の韓国在の脱北者総数は5000人。うち、19歳以下の教育を必要とする人口が500人とのこと。だが、実際に通学が定着しているのはその2割だとのことだ。現状の韓国の学歴社会傾向を見れば、脱北者を十分に受け入れることは難しいようにも思える。
 問題を韓国という国の、民族的なアイデンティティとして見た場合、ある意味、急速に大衆レベルでの民族国家志向が高まるなか、韓国という国の歴史が必然的に持つ対外的な多様性はどうなっていくのだろうか。
 この問題は、日本からは在日の問題として捕らえやすいのだが、私は、朝鮮族というものの意識が、今後どう韓国で形成されているのかが気になる。
 朝鮮統一というとき、一般的には、南北を指すのだが、在日以外にも韓国人・朝鮮人は世界に広がっている。だが、「コリアン世界の旅 講談社+α文庫」などでも、中国内の朝鮮族の問題には触れていなかった。
 つらつらとこの問題を考えているうちに、カザフスタンやウズベキスタンの朝鮮人の現状が気になった。この問題はまったく隠蔽されているわけではない。1998年には国際在日韓国・朝鮮人研究会主催で「ロシア・日本の韓朝鮮人強制移住と国際人権」といったシンポジウムも開かれている。概要の代わりに1988年11月6日読売新聞(大阪版)をひく。

 強制移住は1937年にスターリンの指示で行われ、18万人が短期間に中央アジアの草原に送り込まれた。現在は、カザフスタンやウズベキスタンなどに子孫を含め約35万人が住んでいる。

 史実はあまり異論はない。問題は現状だ。このあたりの統計が実はよくわからない。例えば、WikiPediaの次のKoreanについての記述(参照)は少し困惑させるものがある。

Koreans in Central Asia
Approximately 450,000 ethnic Koreans reside in the former USSR, primarily in the newly independent states of Central Asia. In 1937, Stalin deported approximately 200,000 ethnic Koreans to Kazakhstan and Uzbekistan, on the official premise that the Koreans might act as spies for Japan.

As of January 1, 1998, 1,123,200 ethnic Koreans lived in Uzbekistan, amounting to 4.7% of the total country's population.

Probably as a consequence of these ethnic ties, South Korea was the second import partner of Uzbekistan, after Russia, and one of its largest foreign investors. The car manufacturer Daewoo set up a joint venture (August 1992) and a factory in Asaka city, Andizhan province, in Uzbekistan.


 記載ミスが私の誤読かわからないが、1998年の時点で100万人を越えるコリアンがこの地域にいるらしい。
 情報に確信がもてないのだが、仮にこの統計が正しいとすると、統一朝鮮というのはいったいどういうイメージを持つべきなのか、私には皆目わからない。もちろん、ある民族が他国の大都市に移民するということはある。ギリシア人が多く住む都市の1位はアテネ、2位はサロニカだが、3位はメルボルンらしい。不思議でもないといえば不思議でもない。それでも、歴史の意味合いは違うだろう。
 話が斜めにずれている気もするが、ちょっと気になるニュースがある。関連しているのだろうとしか思えない。2003年12月18日読売新聞「北朝鮮からウズベクの労働者撤収」をひく。

 韓国政府で、対北朝鮮軽水炉事業を担当する軽水炉企画団の関係者は17日、北朝鮮咸鏡南道・琴湖地区の軽水炉建設現場で働いていたウズベキスタンの労働者94人が同日、韓国経由で帰国の途につき、撤収が完了したと明らかにした。

 時期を考えてもわかるが、これは、KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が中断したことに伴う措置だ。さらっと読むと、ウズベキスタンの労働者が誰であるかはわからないが、朝鮮族なのではないだろうか。そうではないとしても、ウズベキスタンの朝鮮族が噛んでいることは間違いないだろう。
 どういう連携プレーが北朝鮮、韓国、ウズベキスタンにあるのだろうか。またそれが、どういうふうに韓国人・朝鮮人の意識に関わっているのだろうか。石油の関連も気になるのだが、こうした文脈で触れるべきではないだろう。


【追記 7.28】
 どう考えていいのか困惑するような事実が数点わかった。追記しておきたい。
 まず、女性の比率と、中国内朝鮮族についてだ。朝鮮日報「450人中女性が70%」(参照)より。


 今月27日と28日の両日に東南アジアの第3国から韓国入りする脱北者450人のうち、女性が70%も占めていることが分かった。女性脱北者が脱北者全体に占める割合は1990年前は10%未満だったが、90年代後半から20~40%台の増加率を見せ、2000年40.4%、2001年49.6%、2002年54.8%、2003年63.4%と増え続けている。
 このように女性脱北者の割合が増えたのは、女性が男性より現地に適応しやすいためとみられる。女性が多数であるだけに、今回入国する脱北者に子どもの占める割合も全体の20%であると伝えられた。
 地域別では咸鏡(ハムギョン)道出身が全体の80~90%となっている。中国国境に近い咸鏡道地方の住民が脱北者の多数を占めているということだ。政府は、今回入国する脱北者の中に中国朝鮮族が含まれている可能性があるだけに、合同尋問を通じ徹底して探し出す方針だ。

 もう一点は、脱北の全貌に関係する。中央日報「<脱北者韓国入り>政府の7カ月間極秘プロジェクト」(参照)より。

 何よりも集団移送の計画が公表される場合、およそ10万人にのぼる中国内北朝鮮脱出者が大挙押し寄せることを懸念したからだ。だが、政府が説得しつづけたすえ、結局、今年5月末に「秘密厳守」を条件に、初めて前向きな反応を得た。その時点から、韓国政府も関連省庁の合同対策班を設けるなど交渉準備を本格化した。

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2004.07.26

ランス・アームストロングはがん患者の希望

 ツール・ド・フランスでランス・アームストロング(Lance Armstrong)が優勝した。最終日が近くなるにつれ、アームストロングでキマリでしょうっていう雰囲気だったので、あっと驚くニュースでもないし、国内でもベタ記事扱いっぽい。米国でもそれほど大ニュース扱いでもないようだ(これから話題になるのかも)。私はサイクル・スポーツに詳しいわけでもない。ので、ちょっと間の抜けた話になるかもしれないが、彼のがん克服に関心があるので書いておきたい。
 ツール・ド・フランスは、モントローからパリのシャンゼリゼまで163キロを走る自転車ロードレースで(注:この記述はミス。コメント欄おりたさんからご指摘があった。これは最終日のことだけ)、"2004 Tour de France"(参照)を見てもわかるが、まさに名前通り「フランスの旅(Tour de France)」という感じがする。今回は、それまで、スペイン人、ミゲル・インデュラインが持っていた大会5連覇の記録をアームストロングが更新し、史上初となる6年連続総合優勝を達成した。
 優勝者には「黄色いジャージ」が与えられる。と言うと、なんでかなぁ、という感じだが、これが「マイヨ・ジョーヌ(Maillot Jaune)」。この黄色という感じは"Tour de France"公式サイト(参照)を見るとわかるだろう。
 マイヨ・ジョーヌといえば、アームストロングには、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」という著作があるが、小林尊がアメリカの誇り大食い競争を制したように、米人アームストロングがフランス全土の競争を制覇したということがポイントではない。原題"It's Not About the Bike"(「自転車のためだけじゃないんだ」)が暗示するように、むしろ、がんからの生還がテーマになっている。ツリを引用するとアームストロングの紹介にもなるだろう。


人生は、ときに残酷だけれどそれでも人は生きる、鮮やかに。世界一の自転車選手を25歳で襲った悲劇―睾丸癌。癌はすでに肺と脳にも転移していた。生存率は20%以下。長くつらい闘病生活に勝ったものの、彼はすべてを失った。生きる意味すら忘れた彼を励ましたのは、まわりにいたすばらしい人々だった。優秀な癌科医、看護婦、友人たち、そして母親。生涯の伴侶とも巡り合い、再び自転車に乗ることを決意する。彼は見事に再生した。精子バンクに預けておいた最後の精子で、あきらめかけていた子供もできた。そして、彼は地上でもっとも過酷な、ツール・ド・フランスで奇跡の復活優勝を遂げる―。

 というわけで感動的な話なのだが、この物語のあとで彼は離婚している。人生はなかなか複雑なテイストがある。
 私がアームストロングに関心をもつきっかけとなったは、何年前だろうか、たしか、現在も協賛している製薬会社ブリストル・マイヤーズ・スクイブについてちょっと調べ事をしているとき、この話題の深みを知った。
 現在、Bristol-Myers Squibbは、マイヨ・ジョーヌのアームストロングと協賛して"Tour of HOPE"(参照)を推進している。また、アームストロング自身のこの方面での財団"Lance Armstrong Foundation"(参照)の目的もがん患者への支援だ。端的にこう書かれている。

The LAF believes that in your battle with cancer, knowledge is power and attitude is everything. From the moment of diagnosis, we provide the practical information and tools you need to live strong.
【試訳】
ランス・アームストロング財団は、あなたががんと戦うとき、がんについての知識がパワーとなり、また、がんに向き合う生き方が重要になる、と確信している。がんと診断が下ったときから、私たちは具体的にがん患者に必要な情報と、強く生き抜くのに役立つ情報を提供する。

 財団は機構的にはブリストル・マイヤーズ・スクイブとは独立はしているだろうが、支援も大きいだろう。米国ではがん以外にも各種の難病について、巨大製薬会社は同様の支援を行っている。臨床実験や薬剤市場への意図もあるのだろうが、問題はそれで患者の利益になるかどうかだ。日本では「メナセ」などでお文化の側面はこの言葉に訳語を許さないほど進んでいるが(皮肉)、福祉面での企業活動はよくわからない。なんとなく清貧のNPOという印象があるが、私の偏見だといい。
 アームストロング自身の睾丸がんは、診断時、腹、肺、脳に転移しており、生存率50%とのことだったようだ。そこからの回復は奇跡的というほどでもないのかもしれない。が、私は、そういう「奇跡の生還」といった健康食品的な煽りよりも、むしろ問題なのは、がん患者の社会復帰なのかもしれないと考えるようになった。
 このブログでも書評を書いた「がんから始まる(岸本葉子)」でも、強調されていたが、現在がん患者に必要なのは、5年生存率間の精神的サポートやその後の社会的な偏見を除くサポートの体制だろう。というのも、がんの完治の目安と言われる5年生存率は65%にもなるという。
 米国ではNCI(国立がん研究所)にがん生存者対策局(参照)があるが、先の岸本の本を読むかぎり、日本では厚労省レベルではそうした動向はなさそうだ。テーマが違うよと言えばそうだが、「ブラックジャックによろしく」などでもがん患者のあつかいは、日本のメディアのがん意識に偏向しているように思える。
 どこかにこうした情報をまとめたリンク集ももあるだろうが、がん支援団体Cancercare(参照)も付け足しておく。

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2004.07.25

自殺者で3万人、交通事故で1万人死ぬ社会

 警察庁統計によると自殺者が前年より2284人多く3万4427人になったとのこと。ニュースや社説などでよく目にしたものの、この問題を扱うのはもういいやという感じがしていた。しかし、なんとなく心にひっかかることでもあるので、まとまりもないが書いてみたい。
 いくつか思ったのだが、私たちの身の周りの具体的な自殺者と、こうした統計3万人という統計は、うまく自分の心のなかで噛み合わない。噛み合えばいいというものでもないから、デュルケームの古典「自殺論」以来、社会学的なテーマにもなる。というか、そういう社会科学の方法論をもってその噛み合わなさを理解することになる。この問題は社会科学的にはアノミー論になるかと思うが、この分野のたぶん最高の水準である小室直樹の「危機の構造―日本社会崩壊のモデル」では日本の状況を急性アノミーと、斜めの階層という概念を立てていた。簡単にまとめるのは難しいが、階層社会ならそれはそれなりに階層間の連帯が生じるが、日本社会の病理はどのような集団のなかにも連帯の原理が見られないような、まるで再帰プログラムのような差異を生み出す構造がある(小室はこういう言い方はしないが)、というものだったと思う。
 その論があっているのか私の理解がぼけているのか、ちょっといい加減だが、連想ゲーム的に言えば、そうした斜めの階層=非連帯の社会構造というのは、日本の今向かうべき消費社会の構造と似ているなとは思う。サヨク的にあるいは杜撰に「消費社会がどうたら」というのは私にはまるで関心はない。私が気になるのは、微細な差異に象徴的な価値を持たせることで日本の消費社会が成立するというふうになってきているのだろうという点だ。粗く言うと、「そんな違いはどうでもいいだろ」ということに「価値を見いだせ」と迫る社会だ。こだわりってやつか、ま、そんなところだ。
 もうちょっと続ける。そうした消費活動に組み込まれた微細な差異という欲望の表象、あーめんどくさい言い方だな、簡単にいうと、金で買えるちょっとしたこだわり、センス、みたいなものがなぜ求められているのか、というと、「私」というありかたが、そうした微細な差異でしか表現できなくなったからだろう。
 無料ブログなどでは、アマゾンからのキックバックを期待してか、「あなたのオススメ商品を掲載しよう」みたいな機能がアフィリエイトもどきで付いてうざいが、自分がなにものであるかを示すために商品が必要になるのだ。マルクスが生きていたら、こうした動向も物象化と言うだろうか。ま、私は批判できる立場などには全然ない。
 多分、今の若い人の恋愛というのも、自己がそういう微細な差異の収束となっている以上、同じような機構となっているのだろうと思う。ブログなどで若い人の恋愛の様子をたまに覗くとき、かつては理念としての愛だのがあったところに、微細化された商品欲望のゲームがあるように見える。ついでに言うと、読書なんぞも、当然、本という商品流通のありかたにあいまって、そんなふうなものになってしまった。なにを読んだかが量的に問われ、どう読んだかは概念の組み合わせでできる差異の織物になっている。デイビッドソンを読んで偉そうなこと言うがプラトンは読んでないなんて洒落にもならないというのが古典的な教養であった。デリダの哲学用語を並べてもラテン語ができないのではジョークであった。でも、そういう世界ではなくなったのだ。
 と、書いて、オヤジ臭いか。でも、私のような人間にはそうした表象としての消費の運動には疲れてしまったので、どうでもいいや、勝手にしてくれという気がする。もうちょっと過激に言うと、そうした社会構造が自殺の社会学的な説明になりうるなら、やはり、どうでもいいと思う。新聞の社説だのは、はなから自殺=倫理的な悪、としたり、自殺=排除すべき病気としているのだが、自分の身近の自殺者でもなければ、どうでもいいやと思う。ただ、私は日本の社会を見るとき、交通事故で1万人、自殺者3万人、しめて4万人は死んでもしかたないや的世界に生きているのだ、自分もいつなんどきそういうところにぶち込まれるのだろうなとは思う。悪いジョークだが、現在のイラクの治安の悪さは政治的な部分が多分にあるが、単純に規模として見れば今の日本社会とそれほど変わらないのではないか。そうではないとしてもそれにはそれなりの日常はあるのだろう、とは思う。バグダッドの小売り店の品揃えとか見ると、ふーんとか思う。
 少しニュース的な話に戻す。朝日系「自殺者、過去最多の3万4千人 昨年、経済的動機が増加」(参照)では統計について、こうある。


 公表された自殺の動機は、本人の遺書や生前の言動、家族の話などをもとに、警察が分類した。
 「経済・生活問題」が動機とみられる自殺者は、全体の増加率が7.1%だった中で12.1%増だった。全体に占める比率も、バブル期の90年は6.0%(1272人)だったが、景気停滞期に入ると増加傾向が続き、昨年は25.8%(8897人)を占めた。

 以前このブログにも書いたのだが、私が昔自殺について調べたとき、米国統計は遺書など明確な自殺の意志表明がないものはカウントしていないことに気が付いた。国連関係の資料を見ても、実際には、統計の取り方が各国まばらで比較には使えないなと思った。今ではどうなのだろうか。あまり指摘されていないように思える。だから、23日読売新聞社説「自殺者数最悪『心の病』への対策が必要だ」では、こんな指摘も違和感はなくなっているのだろう。

 欧米の先進各国と比べても、日本では自殺する人の割合が二倍前後も多い。なぜこうなってしまったのか、社会の在り方を含めて考えることも重要だ。

 とあるが問題は警視庁じゃないのか。
 朝日系のニュースのほうに戻るが、増えた自殺のセクターは経済・生活問題が動機らしい。だというなら、このあたり、きちんと目に見える社会学的な分析が可能だ。恐らく、実態は借金苦だろうし、このセクターについては、先に私が述べた消費活動の構造とは別に、10万円程度の小銭(とま仮に小銭という)を擦るような賭博とかも含まれているようにも思う。つまり、サラ金に走ってしまう層だ。放言めくが、このセクターの行動パターンは、日本のサラリーマン社会が生み出したものだ。月額の微細な金(とま仮に微細な金という)でやりくりして、やりくりできちゃうという精神が、サラ金にきちんと結びついている。他の途上国なら、金なんてないときはない、あるときは必死に集めちゃえ、である。金が存外に入ったら、次の一発にそなえるか、ばらまく。ばらまくというのは、よき互助である。自営業でもいわゆる企業をしていなければ、そんなふうに生きるしかない。ちまたにライターになるにはみたいなガイド本がいろいろあるが、一番重要なのは、サラリーはないということだ。邱永漢が子供に小遣いをやるときは、年額をどんと渡すという話をしていたが、さすがだな。小遣いなんか、ちまちまやるから、それを吸い上げるトレーディングカードみたいな商品が出てくる。
 自殺の最大のセクターは健康問題らしい。

 一方、「健康問題」は動機別で最多の1万5416人、全体の44.8%を占め、5年ぶりに増えた。その原因ははっきりしないが、厚労省によると、自殺につながる原因は複雑で複合的に絡みあっているのが一般的だという。

 「らしい」と人ごとのように書いたが、私は個人的にはよく理解できる。ああ、俺はもう生きていけないのか、生きていけないなら死のうという感じだ、たはは、とかちゃちゃでも入れたくなるほどの絶望感である。傍から見れば「健康問題」だの「病気」ということなのだが、内側から見れば、不断の苦痛であり、終わり無き苦痛である。それを解消するのは自殺というのはわからないでもない。そういう自分にしてみると、毎日新聞社説「自殺者最多記録 『社会の母性』を育まねば…」のような話は、むかつく。

 1900(明治33)年の自殺者は5863人で、人口10万人当たりの自殺率は13.4人にすぎなかった。昨年の自殺率は約27人となり、先進諸国の中でも突出している。こと自殺予防に関する限り、日本は百有余年間、経済や科学の発展と引き換えに退歩の道をたどってきてしまったと言える。
 その非を自覚するところから対策を講じたい。生きる喜びや生命への慈しみを改めて認識し、子供たちにも教育、しつけを通じて繰り返し伝えたい。困っている人、悩んでいる人に優しく手を差し伸べるため、「社会の母性」を育(はぐく)み、強めていかねばならない。

 何言ってんだか。母性なんてただ支配の無意識でしかないよ。説明するのもうざったい。
 話はこれで終わり。結論は、ない。しいていうと、このブログを読む人は自殺はやめてくれよとちょっと思う。そういうメッセージは無効だし、出しづらいものだ。ついでに、まったくの余談だが、このエントリにどんなアドセンス広告がつくのか…公共広告だろうな。小銭のお化けは、こういう話が嫌いなのだ。たはは。

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2004.07.24

PDF出版とブログ

 Exciteブログが先日リニューアルした。予定されていた機能アップは十分には行われなかったが、定刻に始まり定刻に終わり、JUGEMのようなトラブルはなかった。これで、Exciteブログも試験運用のベータ版だった状態から本格実施となり、無料利用と有償利用に分かれることになった。無料利用ではブログ上部のIFRAMEに広告バナーでも付くのかとも予想していたが、そんなことはなかった。野暮は、アマゾンアフィリエイトの小銭をサービス側でいただきますよ、という程度だ。このあたり、日本のブログ・マーケットの動向も大きくものを言っているようだ。有償料金(アドバンス会員)の料金設定である250円という横並びもそうだ。ココログよりちょっと安という線で落ち着きそうだ。
 ま、その手のメタブログ的な話の大半はどうでもいいのだが、気になるのは有償のブログというとき、どこで商品価値をつけるかだが、Exciteブログの場合は、PDF出版を打ち出した。書きためたブログを、サービスサイドの処理でPDF文書化するわけである。そして、PDF化した文書は、現在まだサービスは実施されていないが、実際に紙の書籍として印刷・簡易製本ができる。これは、私などには食指が動くサービスだ。まだ実際の製本の仕様と価格は公開されていない。
 ExciteブログのPDF出版は、現状5エントリが無料で出力できる。2エントリで試しにつくってみた。eBook338140(886KB)だ。ご覧のとおり、ファイルサイズが異様に大きい。フォントを埋め込んでいるようだ。ブックデザイン的には無難なものだ。画像が入ると、見栄えがいい。処理にはTeXを使っているのだろう。
 ブログを印刷・製本するというサービスということでは、私の知る限りでは、はてなダイアリーが先行して始めたものだ。サービス「はてなダイアリーブック」(参照)を見ると、こうだ。


はてなダイアリーブック価格表
基本料金
(税込・PDF作成料1回分を含む) 800円(税込)
印刷料金
(1ページあたり印刷費) 8円/ページ(税込)
送料
(税込・日本国内) 350円(税込)
上製本オプション 3,000円(税込)
※ページ数が100ページ未満の場合は、印刷料金一律800円が必要です
※440ページを超える場合は分冊となります
※料金ははてなポイントのみでご購入可能です
※10冊まとめてご購入頂きますと、1冊無料プレゼントいたします
価格例
100ページの場合・・・ 800 + 8 x 100 = 1,600円 + 送料 = 1,950円 (税込)
400ページの場合・・・ 800 + 8 x 400 = 4,000円 + 送料 = 4,350円 (税込)
400ページ+上製本の場合・・・ 800 + 8 x 400 = 4,000円 + 3,000円 + 送料 = 7,350円 (税込)

 ちょっと直感的にわかりづらいが、ソフトパッケージに添付されいてるマニュアルのような製本仕上がりで1冊2000円という感じだろうか。単品で注文できるし、縦書きも可能なので、小説などを書くのにも向けているかもしれない。ただ、自分の感性から言うと、この製本仕上がりはあまり好きではない。
 ブログと連携した類似のサービスでは、Teacupが提供しているAutoPageの書籍化サービス(参照)がある。こちらの価格はこんな感じだ。

記事数
(投稿記事単位)
基本料金 書籍本体価格 お支払い合計
(税込)
60 500円 1,480円 1,980円
120 500円 1,980円 2,480円
180 500円 2,480円 2,980円
240 500円 2,980円 3,480円

 価格帯・製本の仕上がりで、はてなとサービスがよく似ているように思える。
 この手のサービスで私が欲しいと思うのは、次の5点だ


  1. PDFから作成する
  2. サイズは新書版
  3. ページは100ページ
  4. 価格は1000円
  5. 日付の表示は消す

 自分の書いたものとかを簡単に読むには、読み慣れた新書版がいい。人にあげるのにも便利だ。書棚の問題も大きい。売る場合でもこの形態がいいのではないか。
 自分が書いたもの以外でも、青空文庫やグーテンベルグプロジェクトのテキストを実際に紙に打ち出して読みたいとも思う。100円ショップのダイソーが学校向けなのか、青空文庫を元に100円の文庫を出しているのだが、あまり面白みのないのが残念だ。ああいう感じでもっと選択があるといいなと思うが、100円ショップのコンセプトが足を引いてる。
 ちょっと手元の一太郎でまねごとを作ってみた。Taro-sample.pdf(38KB)だ。フォントを埋め込まないので、かなり小さいサイズになる。まじにブックデザインをすると手間取るので、ブログ同様あまり校正もしてないし編集も手抜きだが、なんとなく実際にプロトタイプを作ってみると、こういうのって悪くないなという感じがする。
 やってみて思うのは、手抜きでないととてもやってらんないくらい時間がかかる。失笑を買うような当たり前のこと言って恥ずかしのだが、書籍というのは編集がものを言う。ブックデザインもかなり重要だ。が、そのあたりはかなり妥協してもいいのではないか。
 サンプル作成は当初、Wordを使おうかとも思った。ある程度使い慣れているし、編集ノウハウとしては、「Wordで本をつくろう タテ組編」「Wordで本をつくろう ヨコ組編」、それと、「Wordでマスターする使えるビジネス文書」が便利だ。余談だが、「Wordでマスターする使えるビジネス文書」はこのシリーズとかけはなれたちょっとした奇書でもある。
 が、実際にサンプルを作る際には一太郎のほうが楽だった。この手の作業はやはり餅は餅屋ということだろうか。TeXはいいとして、やはり普通に使うなら昔のroffのようなシステムのほうがやりやすい。いや、これこそ、簡易なXMLタグのシステムがあるといいと思う。具体的には、タグ打ちしたものを安価にPDFで返すようなサービスだ。
 PDF出版のアウトソースは技術的には難しくないし、これが普通にブログユーザなどに利用されるようになり、オークションなどで販売すればちょっと違った出版の風景になりそうな気もする。が、キモは編集者なんだろうな。

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2004.07.23

人間の遺伝子にはコピー番号が付いている

本文を読まれる前に

 本稿について、duさん、おがさんより、重要なコメントをいただいた。本文に併せて読んでいただきたい。
 エントリの標題は「人間の遺伝子にはコピー番号が付いている」としたが、これは誤りだった。「コピー番号」ではなく、「コピー数」である。標題は「人間の遺伝子情報には重複や欠落がある」としたほうがよかったかと思う。
 本文もこの点に大きく誤りがあるが、INSタグで修正する種類ではないので、ここに明記しておくことにする。本文を読まれるかたは注意していただきたい。


 ニュースをザップしながら、ロイターヘルスの記事"New genome test finds big differences among people"(参照例)が気になった。標題を試訳すると「新しいゲノム・テストによって、人それぞれに大きな違いがあることがわかった」となる。
 で? みたいな感じだ。遺伝子情報は人それぞれ違っていて当然じゃないか。だから、サダム・フセインを捕まえたときはわざわざ家畜の扱いにして口を開けさせ遺伝子を取り、鑑定していた。遺伝子鑑定は究極の個人認証だみたいな考えは、なぜか日本人には、いや現代人にはかな、なじみやすく、奇妙に常識化している。
 が、話はそういうことでもないようだ。なんどか記事を読み直したが、どうも要領が得ない。記事の書き方も悪いようだが、それでも、なにか重要な話でもありそうだ。

The researchers found - by accident - that some people are missing large chunks of DNA, while others have extra copies of stretches of DNA.

Writing in the journal Science, the researchers have dubbed these differences "copy number polymorphisms." They are found in genes linked with cancer risk, with how much people eat and with reactions to drugs.


 人によって特定のDNAがごそっと抜けていたり、逆にくっついていたりというこことがあるらしい。これは、コールド・スプリング・ハーバー研究所などが開発したROMA (Representational Oligonucleotide Microarray Analysis )という遺伝子の検査方法で、偶然に発見されたというのだ。近くサイエンス誌に掲載されるらしい。今日付のサイエンス(Science 23 July 2004: 525-528.)に記事"Large-Scale Copy Number Polymorphism in the Human Genome"が掲載されている。こうした違いを、この研究者たちは「コピー番号多形(copy number polymorphisms)」と呼び、CNPと略している。定訳語がわからないが「複写番号変異多型」となるかもしれない。
 この概念が私にはよくわからない。ポリモーフィズムは結晶学では多形性を示すものだ。ダイヤモンドと炭素の違い、というのはあまりいい比喩ではないが、そんな感じでもある。Javaのクラスなんかでもポリモーフィズムがよく活用されているので、プログラマはそんな印象を持つだろう。私の感じからすると、polymorphic(多形)はpolyphonic(多声)に似ているので、16音源着メロみたい語感ではないかと思う。
 もちろん、生化学的には、"CNP:copy number polymorphisms"は略語の類型からして、"SAP:single nucleotide polymorphisms"、つまり一塩基変異多型に対応しているのはわかる。ロイターの記者もある程度その点は意識しているようだ。

These were large differences that have not been reported before - involving much more DNA than so-called single nucleotide polymorphisms, which are well-known single-letter changes in the A, C, T, G nucleotide code that makes up DNA.

 CNPは、核酸記号ACTGのシークエンスの変化による多様形態SAPとは違うというのだ。が、説明はSAPのほうでCNPの説明はない。とにかく従来考えられてきた以上に、個体間に遺伝子情報の差異があり、それは、いわゆる遺伝子暗号の差異ではないということだ。
 説明には苦慮のあとがある。

Everyone has two copies of each chromosome, except for the X and Y chromosomes that separate men from women. The researchers found that each of their healthy volunteers had just one copy of each CNP.

"If they happen to marry and have children with someone who has the same CNP, maybe the children will be affected," Sherwood said.


 性遺伝子を除けば、人は両親の遺伝子情報をもつので、そのあたりで、いわゆるDNA鑑定ができる(ちなみに、GoogleでDNA鑑定を検索してくずおれたが)。だが、CNPはそういう概念でもないようだ。血統が違っても同じCNPがあるのとこだ。このあたりはよくわからない。
 推測だが、このコピー番号というのは、リソグラフやエッチングのコピー番号と似た語感で命名されたのではないだろうか。著作権のCopyの概念にも近い。余談だが、英語では、通常の書籍のことをコピーという。オリジナル原稿をコピーしたものだからだ。そういえば、昔は書籍に通し番号入りの著者検印があったが、ああいう感じだろう。
 余談めいた話が多くなったが、今回の発見で、重要なことは2点ある。まず、終了したはずのゲノム解析にも影響が出るもようだ。

The researchers also found possible mistakes in the map of the human genome published by the Human Genome Project.

In 20 people they found a stretch of DNA on chromosome 16 that does not appear there in the published sequence of the human genome - but rather on chromosome 6. "It is extra copies of a gene that no one knew about," Sherwood said.


 個体差が大きいので従来のゲノム・マップが見直されるかもしれない。
 もう一点は、CNPが、がん、肥満、神経疾患、遺伝子病などと強い関連を持つらしいことだ。

"Thus, a relationship between CNPs and susceptibility to health problems such as neurological disease, cancer, and obesity is an intriguing possibility," the researchers wrote in their report.

 この点については、昨年に出されたコールド・スプリング・ハーバー研究所のプレス情報"Powerful new method helps reveal genetic basis of cancer"(参照)のほうがわかりやすい。

Plus surprising differences in 'Normal' DNA
Researchers at Cold Spring Harbor Laboratory have developed one of the most sensitive, comprehensive, and robust methods that now exists for profiling the genetic basis of cancer and other diseases. The method detects chromosomal deletions and amplifications (i.e. missing or excess copies of DNA segments), and is useful for a wide variety of biomedical and other applications.

 この研究は当初よりがんなどの医学的な応用が意図されていたようだ。

By using ROMA to compare the DNA of normal cells and breast cancer cells, the researchers have uncovered a striking collection of chromosomal amplifications and deletions that are likely to be involved in some aspect of breast cancer (see http://roma.cshl.org, password available on request). Some of the DNA amplifications and deletions detected in this study correspond to known oncogenes and tumor suppressor genes. However, many of them are likely to reveal new genes and cellular functions involved in breast cancer or cancer in general.

 乳がん研究からわかったようだ。
 話を極東ブログっぽく締めたい。誰でも推測できるが、いわゆる「生活習慣病」の遺伝子リスクは今後より正確に計測されるようになるだろう。当然、予防にも活かせるのだが、その情報は保険に限らず個人の人生選択に影響を与えるようになる。これは、従来からも言われていたことでもあるのだが。
 また、厚労省が責任逃れ、あるいは個人の「自己責任」化をもくろんで作り出した「生活習慣病」というものの嘘臭さも、こうした新世紀の医療・保険のなかで実質的に暴露されるだろう。健康が、生活習慣に依存するなら、そのリスクも計算できなくてはいけないし、いかにもそのリスクは疫学的に計算できそうにも見える。
 しかし、CNPのような研究が進めばどこかで、いわゆる健康によるリスク回避は係数ではなく些細な定数のようになるのではないかと思う。つまり、健康という概念は、どこかで終焉するか、変化するだろう。すでに変化しているのかもしれないが。

【追記 同日】
コメント欄でおがさんから、「コピー番号」ではなく、「コピー数」という指摘をいただきました。


”通し番号”ではなくて遺伝子のコピー数のことですね。
父母から1セットづつ常染色体を貰うので、我々は大部分の遺伝子について2つづつコピーを持ってます。片方の親から受け継いだ染色体にCNPがあれば、コピー数が1(脱落の場合)あるいは3以上(重複の場合)になるってことです。

 なるほど。
 さらに誤解かもしれないが、通常遺伝子情報は両親から受け継いだ2つのコピーを持っているが、情報の部位(それがCNP)によっては、1つであったり3つであったりということのようだ。
 とすると、その発現が気になる、ということでもある。

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2004.07.22

[書評]アーリオオーリオのつくり方(片岡護)

 料理本にはめちゃくちゃにおもしろいものがまれにあるが、「アーリオオーリオのつくり方」(片岡護)は間違いなくその一冊だと思う。こんなに面白くて、役に立つ本はない。読んですぐ役立つ。特に人生のどん底にある人間、あるいはかつてどん底にあってどん底に馴染んだ人間(ああ私もそうだ)は、この絶望のパスタ、スパゲッティ・アーリオオーリオを食べるべきである。

cover
アーリオオーリオのつくり方
明日も食べたいパスタ読本
集英社文庫
 アーリオオーリオの「アーリオ(aglio)」はにんにく、「オーリオ(olio)」はオイル、つまりオリーブオイルのこと。にんにくのオイルソースということだ。これをスパゲッティにからめたのがスパゲッティ・アーリオオーリオなのだが、普通、辛みをきかせる。辛みは唐辛子、ペペロンチーノ(peperoncino)。だから、スパゲッティ・アーリオオーリオは、ペペロンチーノのことである。なーんだと思うかもしれないし、そう思っても当然かもしれない。なにしろ、こんな料理はイタリア料理屋にはない。中華料理屋がお粥を出さないのと同じ。金をとって食わせるものじゃない。でも、スパゲッティ・アーリオオーリオがわかれば、イタリア料理のとても大切ななにかがわかると思う。アルポルトの片岡護主人はこうさらっと言っている。

 ミラノでの五年間、休日はほとんどパスタの食べ歩きに費やしました。
 知れば知るほど、ますますパスタが好きになりました。
 ですから、この機会に、僕の道を決めることになったパスタのことをいっぱい話したい。しかし、この本一冊では五年分のパスタはとてもとても語りつくせません。
 そこで、名案か迷案かわからないが、にんにくの香りと鷹の爪の辛みをオリーブオイルとともにゆでたスパゲッティにからめる、あのもっとも簡素で、しかしイタリーのパスタを代表する「スパゲッティ アーリオ オーリオ」について、五年間の成果とし、まず、聞いていただこうかと考えました。

 というわけで、アーリオオーリオの話なのだが、まず基本的な素材について、項目立てて説明がある。これが大変に面白い。

第一章 スパゲティアーリオオーリオのつくり方
 第一課 パスタ
 第二課 オリーブオイル
 第三課 にんにく
 第四課 赤唐辛子
 第五課 パセリ
 第六課 最後に水と塩と鍋について
 第七課 では、実際にアーリオオーリオをつくりましょう)
第2章 パスタは僕の料理の原点
 料理人になるまでの右往左往
 パスタの旅日記
つくり方索引
おわりに

 オリーブオイルの項目には、ワインと同じように、フリーランの話もある。一通りオリーブオイルの区分と作り方の話のあと、こう続く。

 で、この作業を始める前にオリーブの実を集めて山のように積んだとき、重さに耐えきれず、たらたらと流れ出るオイルがスーパー最上級ものです。これをフリーランといいます。なんの手を加えずに流れ出たオイルは素直で、生の香りと味わいに満ちています。フリーランは、エキストラ・ヴァージンの最高級品として、一リットルに一万円ほどの値段がつきます。
 こういう最上級のオイルは、深いオリーブグリーンの色がゆったりと広がり、力強い花の香りやいろんな要素の香りがします。神様からの贈り物というものがあるとすれば、こういうものかと思います。一口ふくむと、奥深い香りと味が生まれて、これは確かに植物から採れた純粋なジュースであることがわかります。ああ、こういうのをブーケというんだなと納得できます。その年の天候や実のつき方で、香りも味も当然違います。それが、楽しみでもあるのですが。

 神が存在するのかなどと問うまえに、「神様からの贈り物というものがあるとすれば、こういうものか」というものを喰ってみるのがいいのだと私は思う。そうすれば、逆に神の存在が確信できるかもしれない。できなくても生きる支えにはなる。生きてみるというのは、まず、喰うことだし、愛することだ。なんだか、イタリア人になってきたみたいだな。
cover
アーリオオーリオのつくり方
アルポルト
御馳走読本 (4)
 フリーランのオリーブは高いといってもワインに比べれば安い。でもアーリオオーリオには使わない。どう使うか。この本には書いてないが、いいオリーブオイルは、茹でたパスタ(塩茹)にそのままかけて喰うというのを私はする。焼き魚にもかける。刺身にもかける。トーストにもかける。豆腐にかけてもいい。冗談ではない。
 塩の話も面白い。和食でなければ、塩はやっぱり岩塩だよと思う。パセリも…そうだな、日本のパセリはどうしてこうなっちゃたんだろうなと思う。水の話もうなづく。にんにくは…といろいろ思う。
 アルデンテの話も愉快だ。

 「アルデンテ」とは、「歯ごたえ」ということです。アルは、なになに対してという意味です。ということは、「自分にとって好ましい歯ごたえにゆでましょう」ということなので「絹糸一本残して」ということではありません。実際、イタリーの中でも、ナポリ人のアルデンテは芯があきらに残っている状態を好みます。まだ、ごりっとするくらいで、生の小麦の香りがするくらいです。北のミラノでは、しこっとするくらいを好みます。
 しかし、こんなことは各人の好みなのですから、
 「くたくたが私のアルデンテなのよ」
 と言う人がいても不思議ではありません。

 こういう文章を読むのが料理本の楽しみでもある。
 書籍としては、文庫とオリジナルがある。私は文庫は持っていない。できたら、この本はハードカバーを薦めたい。

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2004.07.21

公文書館なくして民主主義なし

 公文書制度の動向がピンと来ない。現状、細田博之官房長官の私的懇談会「公文書等の適切な管理、保存および利用に関する懇談会」(座長、高山正也慶大教授)が進行しており、先月28日、各省庁が保存する文書の国立公文書館への移管基準の明確化などを求める報告書が細田長官に提出された。
 懇談会の詳細については、内閣府ホームページ(参照)のかたすみの「その他の施策」にこっそりとリンクがある。リンクであることがわかりづらいように下線を消した項目の「公文書館制度」がそれだ。内閣府は公的ホームページの作りかたもわかってないな。とほほ。
 この「公文書館制度」(参照)の資料は、面白には面白い。が、専門的な議論が中心になるのはわかるのだが、率直に言うと、「わかってんのかこの人たち」という印象がある。
 同じ印象は昨日の読売新聞社説「公文書保存 政府が直接やるべき事業だ」からも受けた。内容はよく書けてはいるのだが、ジャーナリストたちは公文書館の意味がわかっているのだろうか、という印象がある。


 「公文書館なくして民主主義なし」という言葉がある。政府は、国の重要な意思決定について、その記録を保存し、公開することを通じて、将来の国民に対しても説明する責務がある。

 もちろん、まとめるとそういうことなのだが、読売新聞の憲法議論でもそうなのだが、主体が誰なのかよくわからない。ここでは、「国は」ということであり、読売粗悪憲法案だと「国民は」だろうか。
 現状の問題としては、読売社説が指摘するように、日本の公文書館のあまりにお粗末な現状がある。

 最大の問題は、その判断が、事実上、各省庁に委ねられていることだ。廃棄するか国立公文書館に移管するかは、内閣府と省庁の合意によって決まるが、文書の内容を把握しているのは省庁側だ。
 各省庁が、自らの判断で保存期間を延長し、保有し続けることも出来る。
 このため国立公文書館には、各省庁の重要な政策を記録した文書は、断片的にしか収納されていない。

 このように、まったくあきれた状態であり、読売社説はこれに対して、米国のように「政府が直接やるべき事業だ」というわけだ。
 だが…、と私はここでそのニュアンスが違うと思う。

 米国では、上院の助言と同意の下で大統領により任命される国立公文書館長が、公文書館へ移管する文書を決定している。公文書保存に取り組む姿勢が、日本とは根本的に異なる。

 大統領だから行政権というふうに読んでもよいのだが、ここには大統領と国立公文書館長に国民の、歴史に向き合う良心が委ねられている、と理解することが重要だと思う。
 日本では、民主主義というのが多数決と同義語になってしまっているが、まるで違う。民主主義とは、正義に国民が向き合う制度であり、その最大のポイントは権力の制御だ。だから機構もややこしい仕組みになっているのだが、そうした機構とは別に、さらにその「選択された正義」を歴史の審判に仰ぐことで、自分たちの正義を裁きうる謙虚さが含まれている。少数の意見や間違いとされた決定をけして歴史のなかで消失させないということをもって、今の正義の根拠ともしているのだ。
 この感触を山本七平が「日本人とアメリカ人」(「山本七平ライブラリー (13) 」収録。ただし、絶版)でよく伝えている。なお、アーカイブとは連邦政府資料館のことである。

 アーカイブのギリシア神殿そのままの建物の前に立ったとき、私は、いかなる精神がこの神殿を造りあげたか、という秘密を引き出し、それを日本と対比するには、たとえ何時間かかろうと、実務でおして行く以外に方法はあるまいと覚悟した。


 前にも記したが「天皇の戦争責任を天皇に直接問うた」のは戦後三十年である。だが重要な資料は、米軍に押収されてこのアーカイブにあるもののほかは、ことごとく焼却され、皆無に等しい。書類焼却は実に徹底しており、たとえば満州国壊滅のときに、日露戦争時の書類まで焼却されたときの大火事のような様子を、児島襄氏が記しておられる。


 焼却・抹殺は、敗戦時に必ず起こる現象であろうか? ドイツ人は、強制収容所の帳簿から、”処理”の原価計算まで残しているから、何もかも焼却することが、敗戦に必ず随伴する現象とはいえない。そしてこの保存という点で最も徹底しているのがこのアーカイブであり、政府の文書はすべてここに集積され、三十年後には一切を公開するという。戦後三十年、日米両国共に民主主義・自由主義のはずだが、この点で両者の行き方は全く違い、日本にアーカイブは存在しえいない。

 山本がこの文章を書いたのは昭和51年(1976年)である。長いがもう少し引用したい。

 アメリカ式にやれば”恥部”といわれる部分も遠慮なく白日のもとに出てくる。その一部はもう出てきて、さまざまな議論を呼んでいる。そして出れば出るだけ「病めるアメリカ」を、アメリカ政府自らが世界に印象づけかつ宣伝する形になり、甚だしくその国益を損ずるであろう。なぜ、こういうことを平気でやるのか?
 日本ではこういういことは起こり得ない。焼却もさることながら、戦後の”民主日本”の政府にも十六万五千の秘密があり(「毎日新聞」松岡顧問による)、さらにこれだけの「秘密があることすら秘密」にしているから、実態は国民にはわからない。

 山本がこれを書いてから、さらに30年近い時が過ぎようとしている。しかし、日本はなにも変わっていないと思う。なんだか、泣けてくる。「病めるアメリカ」としてあざ笑い、ムーアのインチキ映画を賞讃する日本の知識人の浅薄さをどう評したらいいのだろう。(後年山本はこのアーカイブのなかから洪思翊を読み出した。)
 なんだか長い話を書きそうな気になってきたので切り上げたい。特に糞なのが外務省だ。それがどれほどひどくむごいものか、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬)を読めと言いたかったのだが、これも絶版。図書館でめくってくれ、大学生。卒業試験より大切なことはこういう事実を知ることだよ、高校生。
 外交には秘密は必要だということくらい私もわかる。沖縄県人がどれほど、機密文書「日米地位協定の考え方」増補版の公開を求めても空しいかもしれない(参照)。しかし、この最初の文書は、沖縄本土復帰の翌年、つまり1973年に、外務省条約局とアメリカ局が作成したものだった。国会における政府答弁の基礎資料となる虎の巻でもあった。日本に公文書公開制度があれば、あれから30年後の今、この文書を私たちが読むこともできるはずなのだ。しかし、できない。これで民主主義国家なのか。

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2004.07.20

マイクロソフト特許非係争(NAP)条項を巡って

 13日、日本の公正取引委員会はマイクロソフトに対して、独占禁止法違反として排除勧告を出した。自分はそれほどこの分野に疎くもないつもりなのだが、率直に言ってよくわからない。最初の印象を言えば、欧州がマイクロソフトに対する予備調査を開始した動向の尻馬に乗って公取はフライングしたか、でも、なぜ今なんだろうか、という疑問がわいた。すでに1998年に米国訴訟の尻馬に乗って排除勧告を出しているのだが、その関連でもなさそうだ。
 連想したのは、この臨時国会で談合の取り締まりを強化する独占禁止法改正案の提出する動きがあるので、そのからみのこけおどしかなとも思った。NHK「あすを読む」では日本の新三種の神器を守るためだ、みたいな解説になっていて、そうかぁ?と疑問を深めた。依然この問題はよくわからない。ので、たらっとした話になるが、気にはなるのでそのあたりをざっと書いておきたい。
 話は、最初のニュースだろうと思われるロイター「公取委、米マイクロソフトに排除勧告」(参照)からひく。奇っ怪なのだが、最初のニュースはロイターのようである。共同も同時とも言えるが共同のほうは薄く、ロイターを追った形だった。


 [東京 13日 ロイター] 公正取引委員会は、米マイクロソフトに対し、独占禁止法違反(不公正な取引方法)で排除勧告する、と発表した。公取委によると、マイクロソフトは同社のOS(基本ソフト)「ウィンドウズXP」を搭載したパソコンを発売する日本のパソコンメーカーに対して、契約に際し不当な契約条項を課していたという。

 不当な契約条項は「特許非係争(NAP)条項」で、Windowsに関して日本のパソコン・メーカーと使用許諾契約を結ぶ際、マイクロソフトに特許侵害の訴訟を起こさないことを誓約するものだ。NAPは"Non-Assertion of Patents"の略で、昼寝している場合ではない。
 今朝の日経社説「転機迎えたマイクロソフト」では、かつてのNAP条項と現状がそぐわないという見方をしている。

 NAP条項が盛り込まれたのはマイクロソフトの売り上げ規模がまだ小さかった1993年のことで、メーカーもあまり問題にしなかった。互いに余計な訴訟を避ける都合のいい手段だった面もある。しかしマイクロソフトが急成長し、デジタル家電分野などで直接競合するようになると、同社の支配力を排除しようという動きが日本の中にも出てきた。

 1993年というとちょうどWindows3.1がリリースされ、本木雅弘がCMでWindowsを連呼して、私ようなMacユーザーは、たかがガワじゃんと苦笑したころだ。1993年は日経のトーンだと曖昧に昔のことじゃないかという感じだが、Windowsは3.1から取りあえず実用レベルになったので、NAP条項も本格的なWindows戦略の一貫にあったのだろう。ただ、この時代を思い出すに、時代の空気は今とは違った。個人的な思い出だが、私がNECのある課長さんに、「Windowsが伸びてくるとこれからは98の時代ではなくなりますよ」と言ったら、そんなばかなという感じで高らかに笑っていた。
 NAP条項について先のロイター記事の後段では、マイクロソフト日本法人はすでにこの8月以降の契約でこの条項を削除しているとしている。が、マイクロソフトにありがな泥縄的な言いぐさかもしれない。というのも、マイクロソフトのNAP条項ではWindows搭載パソコンの販売終了後3年間訴訟を起こせないとしているのだが、それでこのくそな条項が終わりかといと、そうでもないようだ。Windows XPの機能が次期Windows(コード名Longhorn)に継承されると、Longhorn販売終了後さらにその3年後まで、NAP条項が適用されるようだ。洒落にならない。
 問題のもう一方の側面は、その技術ってなによ?である。そのあたりがよくわからない。日経「米マイクロソフトに排除勧告、使用契約に不当条項」(参照)では次のように概要を示している。

 公取委によると、マイクロソフトはOS「ウィンドウズ」の使用許諾契約をソニーや松下電器など日本のメーカー15社と結ぶにあたり、「特許非係争条項」を規定。メーカー側が、自社の開発技術がウィンドウズの中で無断で使われているとの疑いを強めても、訴訟を起こせないよう拘束していた。メーカー側は、マイクロソフトが2000年発売の「ウィンドウズME」以降、OSのAV(音響・映像)機能を拡充したことに危機感を強め、侵害された恐れのある特許のリストを提示して非係争条項の削除を求めた社もあったが、マイクロソフトは応じなかったという。

 曖昧な書き方だが、WindowsのAV機能は、Windows Media Playerの関連だろうとは想像が付く。Windows Media Playerは、多くの人が知っているように、iTuneやRealPlayerのような単純なメディア再生のアプリケーションではなく、Windowsのミドルウェアに位置づけられている。粗く言うと、OSの内部に組み込まれている、のだが、COM(Microsoft Component Object Model)の構造からそうなる。というか、COMの考え方はアプリ的なものではないので、その中に、他者特許の技術がずるずる引きずり込まれるようになる。なお、現状では、Dot NET Frameworkという名称になっている。
 私の誤解かもしれないが、この構造が取りあえず問題ということなのではないだろうか。そして、その線で問題解決となると、旧来通り技術はアプリケーションごとに分けるという志向になるのだろう。というあたりで、私も技術屋の端っこにいた感じから、率直に言うと、現状のCOMがいいとも思わないが、そういうルーズなプラットフォームのほうがすぐれているとは思う。
 個別な点で以前から私が気になっていたのは、ASFとWMVの技術の関連だ。よくわからないのだが、ASFは通常言われているAdvanced Streaming Formatではなく、Asynchronous Streaming Formatだったと記憶している。NTTの技術が噛んでいたようにも記憶している。コーデックはMPEG-4の技術を応用しているらしいのだが、これもよくわからない。ただ、いつからか、ASFを避け、単に拡張子を書き換えただけのWMA・WMVとなった。つまり、Windows Media Playerの標準フォーマットである。
 そんな思いでインプレス系「MicrosoftのNAP契約が引き起こしていた問題点」(参照)を読んだのだが、やはりいまひとつわからない。インプレスが、以前マイクロソフトの代理店をしていたアスキーからスピンアウトした関係の会社だからなのか、やや偏向した印象も受ける。が、問題は、より技術的な側面だ。

 MPEG-4に代わるコーデックとして開発されたWMVに関して、昨年までMicrosoftは一貫して「MPEG-4/AVC(H.264)に似たものだが、実装が異なる」と主張してきた。リバースエンジニアリングが禁止されている中では、この主張を崩すことは難しいかもしれない。ところが、昨年10月にWMV9の圧縮・伸張アルゴリズム部分を抜き出したVC-9のソースコードがSMPTE(映画テレビ技術者協会)に提出されたことで状況が変化してしまった。


 ちなみにVC-9で使われている特許はH.264/AVCとほぼ同じで、特許保有者ももちろん同じ。MicrosoftはVC-9で使われている数十の特許のうち、1件しか取得していない。結局、VC-9(=WMV9の圧縮アルゴリズム)のライセンス料金は、他の多くの企業(大部分は日本の家電ベンダー)が制空権を握っている状態だ。

 この説明はなるほどとは思う。この線だと、マイクロソフトが潜在的に引き起こしていた特許の具体的な問題は、Windows Media Playerのヴァージョン9が本丸ということになる。
 私としては、でも、VC-9の話はなるほどとは思うがそれほどしっくりもしてない。依然、COMの構造が重要であるとも思うし、問題がWindows Media Playerのヴァージョン9だけとも思えない。
 話はうまくまとまらないのだが、国産AV時代、新三種の神器の露払いとして、単純にマイクロソフトをとっちめても、実際上の技術の進展にはあまり役に立たないようも思う。
 じゃ、どうする? AV関連でOSに依存しないCOM構造のような仕組みの規格でもあればいいようにも思うが、現実それがTRONで実現しているとしても、市場では個別のアプリケーションや機械として実装されるのではないか。ちょっと技術の方向が違うような気がするのだが。

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2004.07.19

沖縄県内代替基地なしの普天間飛行場返還は好ましい

 特に目新しいこともないのに、今頃になって在日米軍再配置が国内ニュースで問題になっているのは、日米外務・防衛当局者の協議が長引いて、いよいよチキンレースも終わりかという局面になってきたからだろう。
 嫌な感じだなと思う。なにが嫌かというと、これでまた一連の勢力が反米で騒ぎ出すのだろう、なんという偽善なんだろうと思うからだ。
 今回の再配置は、総合的に見れば、確かに在日米軍基地強化につながる。そして、日本は米軍に強く取り込まれる結果になる。しかし、反面、沖縄の負担は確実に軽減されるのだ。平和のプラカードをかざしたところで、それがもたらしてきたことは、他国の軍事基地を沖縄に押し付けるだけのことだった。沖縄の苦渋を理解すると言いながら、ほとんど本土民は分かちあってはこなかった。また繰り返したいのか。それが嫌な感じなのだ。
 事態について素描するための材料として、読売新聞系「米軍基地移転で自治体と調整、官邸に近く専門チーム」(参照)をひく。


日米協議で米側から提案されたのは、厚木基地の移転のほか、〈1〉在沖縄海兵隊一部の陸軍キャンプ座間(神奈川県)への移転〈2〉沖縄の海兵隊普天間飛行場の嘉手納空軍施設への統合〈3〉米ワシントン州の陸軍第1軍団司令部のキャンプ座間への移転〈4〉在日米軍司令部の横田基地(東京都福生市など)からキャンプ座間への移転――などだ。

 読売新聞は意図があってのことかもしれないが、この項目の1と2は、本格的な沖縄の米軍基地縮小につながる。なぜ明記しないのか不可解だが、これは、普天間飛行場を廃止し、しかも、これまで代替案とされてきた辺野古沖海上基地案を廃棄することになる。
 この問題を私は10年近く見続けてきた。8年は沖縄に暮らしていた。住宅地域の真ん中に存在する普天間飛行場は今や米軍の最大級のリスクになっている。そこで住民を巻き込む事故が起これば、すべては終わる。沖縄県民は完全に怒る。冗談ではなく、独立を志向するかもしれない。ラムズフェルドも先日その状況を上空から見て呆然としたのではないか。
 もともと普天間飛行場は嘉手納に統合する予定だった。あまり詳細には言えないが、私が軍雇用員から聞いた話では、沖縄の本土復帰後に移転の準備までしていたようだ。実現しなかったのは、アメリカの四軍の派閥争いである。普天間飛行場返還合意の際でも、識者は当初から嘉手納統合が妥当だと見ていた。それが恐ろしく醜い経緯で辺野古沖案が出てきた。これは政治的な策略も含まれているようだ。もともとあんなところにヘリ基地なんかできはしない。台風銀座の沖縄をなめてもらっては困る。台風の瞬間風速は恐ろしいものがある。
 当然、後はチキンレースあるのみ。これを延々とやってSACO合意の7年が過ぎたというわけだ。日本はなんでも問題を先延ばしにするが、一応契約の民でもある米国が同じことはできない。チキンレースは終わったのだ。ある意味で、四軍の派閥争いの負けだ。これでネオコンがイラク占領統治にとちらなかったら、もっとすんなり変化していただろう。
 こう書くと、いかにもおまえは米軍寄りだということになるだろうか。しかし、それでも、これで普天間飛行場がなくなるんだよ!、その意味が本土に通じるのだろうか。
 問題の裾野にある沖縄の実態については、正直にいうとあまり語りたくない。端的に素描すれば、沖縄の現状からすれば、在沖米軍の全体を今すぐ撤退させることは、軍雇用員や関連産業の状況を見ても不可能だ。この問題が気になる方は、少し古いが、米留組の牧野浩隆副知事が琉球銀行常任監査役時代に書いた「再考沖縄経済」を参照して欲しい。本質的なところで状況は変わっていないはずだ。
 米軍がなぜこの再配置を行うかについても、今回は省略する。極東ブログの話題は散漫だとは言われるが、この問題の背景については、逐次縫うように問題提起してきたはずだ。
 大局的に見れば、日本は安保を解消すべきだろうと思う。在日米軍基地を撤廃するということはそういうことだ。そして、それは米軍にとっても技術的に不可能でもない。グアム、フィリピン、オーストラリア、シンガポールなどのに分散すればいい。恐らく中期的には米軍海兵隊はオーストラリアに定着するようにも思える。
 しかし、平和運動というのは、そういうこととは思えない。日本から米軍を追い出して他国に回すことが平和の実現だとは思えない。本土が沖縄に米軍基地を押し付けてきた偽善の歴史と同じではないのか。そして、安保廃棄は日本が防衛のための軍備を必要とすることでもある。

【追記 04.07.21】
状況は悪化している。こんな話を沖縄県民が飲むと思っているのだろうか。

「普天間代替 現行計画で推進へ 政府説明に米側理解」(参照


 【東京】在外米軍再編(トランスフォーメーション)に関する日米協議で、辺野古沖での普天間飛行場代替施設建設について日本側が現行計画を説明し、米側が一定の理解を示していたことが20日、分かった。政府関係筋が明らかにした。移設の長期化に不満を示していた米側が理解を示したことで、普天間移設は現行計画通り進む可能性が濃厚となった。一方、協議では在沖米海兵隊の一部の本土への移転も論議されており、今後、米軍再編に関する日本側での検討が加速する見通しだ。


 関係筋によると、15―17日の米サンフランシスコでの日米協議で、日本側は普天間代替施設建設の計画内容をあらためて説明した。太平洋の外海に面する辺野古沖は、内海にある他の空港と違い、荒波を防ぐ「ケーソン」と呼ばれる大型のコンクリート施設を数多く必要とする点など、工事に9年半を要する事情などを詳しく説明した。
 米側はこれまで「関西国際空港などは7年で完成したのに、なぜ代替施設は10数年かかるのか」と疑問を示し、工期縮小の可能性などについて日本政府の考えをただしたが、日本側から説明を受け「共通認識を持った」(関係筋)という。

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2004.07.18

ボビー・フィッシャーを捕まえた

 ボビー・フィッシャーについて書くのはまったく私の任ではない。とま、そんな気取ることもないか。フィッシャーは、単純に言って、チェスを少しでも知る人間にとっては、神的存在だ。私もチェスの駒くらいは動かせるし、暇つぶしにチェスもする。
 そんな私にとっても、フィッシャーはグランド・マスターより偉い。もっとも、チェスをよく知る人間にすれば、もう彼の時代は終わったよと言うかもしれないが。
 フィッシャーはすでに伝説の人らしく、映画「ボビー・フィッシャーを探して」(参照)もある。私はこの映画は見ていない。映画のあらすじを読むにフィッシャー伝説の一端を文学っぽく描いたかなという感じがして、あまり見るきにもならない。とにかく、彼はチェスの天才少年だった。チェスの天才少年あるいは少女は、現代でもロシアでは最高の話題である。というか、社会的なヒーローだ。ロシアや東欧の文化は日本にあまり知らせていないようにも見える。いや、世界的に見ても、チェスは、オリンピック、サッカーに次ぐ3番目のスポーツでもある。ほんと。
 その伝説の人、フィッシャーが日本で捕まった。容疑は表面的には入管難民法違反だ。が、そんなものは名目に過ぎない。最大の罪は、アメリカへの事実上の反逆罪だ。と、先走る前に事実確認を兼ねて、共同「チェス元王者を収容 成田で入管難民法違反容疑」(参照)を引く。


 フィッシャー氏は1972年にソ連のボリス・スパスキー氏を破り世界王者になった後、消息が分からなくなった。
 92年、米政府が国連の対ユーゴスラビア経済制裁決議を受け、米国人に対しユーゴにかかわる経済活動を禁止する中、同氏は突然ユーゴに現れて賞金335万ドルをかけて対局し勝利。このため米連邦大陪審に起訴された。
 その後再び姿を消したが2001年、東京都内のチェスプレーヤーによって日本滞在が確認された。

 1972年は冷戦のまっただなかである。先にチェスの天才はロシアで社会的なヒーローだと書いたが、当時のソ連でも同じだ。アメリカはフィッシャーを使って、ソ連をくじいたのである。彼はアメリカのヒーローともなった。このことが彼の人生に暗い影を落とす。
 1975年、フィッシャーは世界チャンピオンに就いたものの、タイトル防衛戦の対局をすっぽかして公式には消えた。その後は、共同が言うほど消息不明というものでもない。カリフォルニアを拠点に東欧を転々としていた。彼が次に公式に世界に現れたのは1992年。共同のニュースのとおりだ。これでアメリカからお墨付きの罪人となる。
 共同ニュースでは2001年に在日が確認されたとあるが、この話は、チェスをする人間なら誰でも知っている。それほどの秘密でもない。どういうふうに来日したかはわからないが、この数年ずっと日本滞在していたことについては、私のような人間でも知っていたし、その滞在のようすはある程度想像が付くほどだ。2003年1月26日の朝日新聞の三面には、フィッシャーの東京での行動を伺わせるエピソードも掲載された。東京のチェスセンターにある棋譜のポスターに、これは私のものだととサインをしたというのだ。
 棋譜に署名したという彼の行動はまったくもって正しい。それは彼のものだからだ。彼は棋譜に名誉を持っているのだ。将棋好きでもわかることだが、棋譜とは勝負師の命だ。もちろん、大局に命を懸けるとはいえ、そして負けは負けといえ、棋士が名誉をかけるのは、棋譜の美しさだ。棋譜は芸術である。チェス愛好家は、へぼ同士へっぽこチェスをするだけが楽しみではなく、フィリップ・マーロウのように、一人棋譜を広げてその芸術を観賞するものなのである。チェスは芸術でもある。だから、どんなにコンピューターのプログラムがチェスに強くなったとしても、コンピューターには棋譜という芸術を産む能力などない。過去の棋譜を数学的に処理しているだけなのだ。ディープ・ブルーが深く憂鬱をかこっているとすれば、それを癒すにはフィッシャーの新しい芸術が必要なのだ。
 フィッシャーはアメリカの反逆者であるが、これが徹底的なアンチ・ヒーローとなるには、だめ押しがあった。9.11同時多発テロについてだ。経緯は、ニューヨークタイムス"Chess's Lost Soul, Bobby Fischer, Is Held in Tokyo"(参照)からひこう。

On Sept. 11, 2001, he told a radio talk-show host in Baguio, the Philippines, that the terrorist attacks on the World Trade Center and the Pentagon were "wonderful news," adding he was wishing for a scenario "where the country will be taken over by the military, they'll close down all the synagogues, arrest all the Jews and secure hundreds of thousands of Jewish ringleaders."

 その日、フィリピン滞在中のフィッシャーはアメリカを呪った。「素晴らしいニュースだ。この国は軍事に支配されことになり、ユダヤ教会は全部閉鎖され、ユダヤ人を全員逮捕ということになるだろう。ユダヤ人首謀者たちをかくまうだろう」。暴言である。試訳が悪いのか意味不明でもあるが、実際はこの暴言にはまだ先があるものの内容は支離滅裂ぽいようだ。
 この暴言は全米に流れた。それにしても、ユダヤ人になぜそんなに敵意をもつのか、このユダヤ人。そう、フィッシャーはユダヤ人でもある。こうした屈曲した心理にご関心のあるかたのために、フィリップ・ロスの文学があるともいえる。
 フィッシャーに比べれば、マイケル・ムーアはふざけた陰謀映画を作るアホなデブである。それだけ。ピリオド。およそ、反米になんかなっていないのは、なんのことはない米政府はこのデブを敵視していないことでわかる。
 それに対して、フィッシャーは、本気だ。狂気と言ってもいい。しかし、この狂人が本気でアメリカを怒らせるのは、あの芸術を生み出した天才の本源に、ある真実を予感するからだろう。そして、その予感は、私を少し狂わせる。糞!
 フィッシャーを逮捕したのはなぜ日本政府なのか。このまま、米国に送還させるというのか。糞! この糞は、時期的に見るに、どうしようもないバーターの臭いすらする。

【追記 2004.8.17】
ブログ本文では「その滞在のようすはある程度想像が付くほどだ。」とぼかしておいたが、予想した進展があった。

CNN 元チェス世界王者、日本チェス協会の女性と結婚へ(参照


 東京 無効旅券の利用で東京入管成田空港支局に先月13日収容され、その後、茨城県の東日本入国管理センターに移送されている、元チェス世界王者の米国人、ボビー・フィッシャー氏(61)が、日本チェス協会の渡井美代子会長代行兼事務局長と結婚することになった。
 フィッシャー氏の代理人を務める弁護士が16日、2人は既に婚姻届に署名し、書類は同日中に提出されると述べた。
 東日本入国管理センターは、不法入国などで強制送還が決まった外国人らを収容する施設だが、フィッシャー氏の強制送還などは決まっていない。
 また、2人の婚姻届が受理されるのかどうか、日本人との結婚によって、強制送還措置を免れるかどうかなどは、現時点では不明。
 弁護士によると、フィッシャー氏と渡井事務局長は2000年から一緒に暮らしていた。

【追記 2004.12.20】
 アイスランドがフィッシャー氏のためにビザを出そうとしていた。ここで日本政府がヘタレなければ、フィッシャー氏はアイスランドに移ることも可能になる。

CNN Japan:元チェス王者にビザ発給のアイスランド、米国「圧力」と参照


 コペンハーゲン──無効旅券の使用で東京入管が拘束中の元チェス世界王者のボビー・フィッシャー氏(61)に対し、アイスランド政府が永住査証(ビザ)の発給を決めた問題で、米国が同国に発給を撤回する「圧力」を掛けていたことが分かった。ロイター通信が20日、オッドソン・アイスランド外相の側近の話として伝えた。
 フィッシャー氏は今年7月から東京入国管理局に身柄を拘束されている。
 アイスランド政府は今月16日、ビザの発給方針を明らかにした。外相側近によると、米国は翌17日、発給の撤回を文書で申し入れてきた。アイスランド政府は、米国にはまだ返答していないとしている。

Iceland offers asylum for chess legend Fischer参照

追記(2005.3.12
 アイスランド政府はフィッシャーに対して、永住査証の発給を決めた。よって、フィッシャーは日本政府の拘束さえ緩めれば、いつでもアイスランドへ渡航出来る。もともと恣意的な拘束だったのだから、これを機にフィッシャーをアイスランドに移れるようにしてはどうかと思う。

"拘束の元チェス王者に旅券を発給、アイスランド政府"(参照


成田空港で無効な旅券(パスポート)保持が発覚し、昨年7月から東京入国管理局に身柄を拘束されている米国の元チェス世界王者、ボビー・フィッシャー氏(61)に対し、アイスランド政府が旅券を発給した。フィッシャー氏と面会した元アイスランド国会議員が7日、明らかにした。

追記 2004.3.23
 フィッシャーが解放された。アイスランドに向かうことになる。日本としては、これ以上の恥を重ねることもなく、またこの世紀の天才がいくばくか自由に暮らせると思うと、私は、とても嬉しい。

BBC Japan 'set to free' Bobby Fischer(参照
CNN Fischer 'to leave for Iceland'(参照

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2004.07.17

痛風、ためしてガッテンは間違い?

 痛風の発作は七月に多いらしい。ということからか、先月16日NHKの家庭番組「ためしてガッテン」に「痛風対策の新事実」(参照)という番組があった。私はHDレコーダーにとっておいたのを見た。新事実というからには、アレだなと思っていたが、スカを喰らった。NHKのいう新事実というのもよくわからなかった。
 番組は事実というレベルでは間違いないのだろうが、健康指導の面では疑問に思えた。というのは、この番組は健康指導の側面を持っているようだ。


現在、急増中の病気「痛風」。患者数は約60万人、予備軍は500万人とも言われています。痛風のイメージと言えば、ぜいたく病や、ビールなどに含まれているプリン体が悪いと思われていますが、本当にそうなのでしょうか? 痛風のメカニズムを徹底解剖し、その対策と予防法をお伝えします。

 その後もこの番組を見ているが、識者からの指摘はなかったようだ。これでいいのだろうか。番組内容は論理的にもおかしかった。そのあたりをまず簡単に批判したい。
 痛風の発作についてだが、NHKは、Aさんという人を例にこう説明していた。

 当時、33歳のAさんは、健康診断で尿酸値が高いと指摘されました。しかし、体質だと思いこんで、特に対策はしていませんでした。それから10年たった43歳の時に、突然、右足のくるぶしに痛風の発作を起こしました。
痛風の発作は、人によって個人差があり、2、3年で起きるという人もいれば、10年たって起きる人もいます。

 ポイントは、尿酸値が高い状態から痛風発作に至るまでに数年を要するという点だ。ここをまず、留意していただきたい。次に、NHKは、一般に痛風によくないとされる食物は尿酸値を上げるわけではないという説明を奇妙な人体実験で始めた。

 尿酸の原料となるのが、おいしいものに多く含まれているという「プリン体」です。そこで、こんな実験をしてみました。
 40代男性6人に、温泉宿で3日間の合宿をしてもらいました。プリン体をたくさん含んでいる食品を食べるチームと、プリン体が少ない食品を食べるチームに分かれて、プリン体を食べ続けてもらいました。
 食べるエネルギーはどちらも適正量で、違うのはプリン体の量だけです。高プリン体チームは332ミリグラム、低プリン体チームは223ミリグラムです。
 合宿前と、合宿中の3日間、血清尿酸値を調べたところ、低プリン体チームだけでなく、なんと高プリン体チームの尿酸値にも、変化が見られなかったのです!

 こんな人体実験をするまでもなく、肝臓で作られる尿酸のうち、食べ物によって作られる尿酸の比率は4分の1程度だ。健康な人間が短期間にプリン体を多く摂取してもきゅーっと尿酸値が上がるわけもない。
 矛盾点は、人体実験はたかだか3日、なのに痛風発作は高尿酸値が数年続いてからおきるということだ。常識で考えても、この人体実験では痛風の説明にはならない。
 実際に最近の医学的な知見ではどうかというと、この5月に権威ある医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」(Volume 350:1093-1103 March 11, 2004 Number 11)で重要な発表"Purine-Rich Foods, Dairy and Protein Intake, and the Risk of Gout in Men"(参照)があった。対象は男性に限定される。概要はネットから見ることができる。

Background
Various purine-rich foods and high protein intake have long been thought to be risk factors for gout. Similarly, the possibility that the consumption of dairy products has a role in protecting against gout has been raised by metabolic studies. We prospectively investigated the association of these dietary factors with new cases of gout.

【試訳】
背景
プリン体や高たんぱく質の食物摂取は長年痛風のリスク要因とみなされてきた。同様に、乳製品が痛風を予防する可能性について代謝の研究が進んできた。そこで、我々はこうした予想のもと、痛風と食事の関係について調査してみた。


 研究は12年にわたって行われた。十分な年月だと言えるだろう。調査モデルやその結果については省略するが、詳細は先のリンクにあたってもらいたい。一般社会にとって重要なのは、健康指導にいかせる新知見なので、この調査の結論を伝えたい。

Conclusions
Higher levels of meat and seafood consumption are associated with an increased risk of gout, whereas a higher level of consumption of dairy products is associated with a decreased risk. Moderate intake of purine-rich vegetables or protein is not associated with an increased risk of gout.

【試訳】
結論
肉食とシーフードの多い食事は痛風発作のリスクを高めている。しかし、乳製品については逆にリスクを軽減している。植物性のたんぱく質については、過剰に摂取しなければ、痛風発作のリスクを高めない。


 ということで、NHKの指導とは異なり、やはり従来から言われてきたように、肉食やシーフードの過剰摂取は控えるほうがいいだろう。日本でも流行のアトキンズ・ダイエットだが、当然、高尿酸値の男性にはよくない。納豆もプリン体が多いが植物性ということで問題ないだろう。乳製品については日本人は乳糖の消化が不得意な人が多いので、ヨーグルトのほうがいいかもしれない。チーズだと脂肪分が多すぎるようにも思う。
 医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」は健康指導が目的ではないが、NHKの番組と比べて、どちらの知見が医学的に正しいかは論じるまでもない。
 ただし、ホームページのサマリーには記載されていないが、NHKの番組では女性アナウンサーが牛乳はよいということをやや強調していた。しかし、番組の流れからすると、アルカリ性食品だからということではあった。
 以下は、痛風についての余談。痛風は医学的にも面白い病気でもあり、そのあたりは、少し古いが中公新書「痛風―ヒポクラテスの時代から現代まで」が面白い。痛風持ちには自虐ネタの仕込みどころかもしれない。
 かく言う私も、6年ほど前、沖縄暮らしがたたったか尿酸値が7.2になって驚いた。知人もばたばたと痛風発作を起こしていたので、次は俺かぁと思ったものだった。7を越えたら薬を飲めとも言われたが、その後は5レベルになった。この2年ほどは計測していないが、どうだろうか。
 尿酸は人体では抗酸化物質の役割もしている。進化の系統からみると、アスコルビン酸が身体で生成できないことの代償のようにも思える。ということは…と類推するのだが、その先はもはや医学ではない。

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2004.07.16

良心的兵役拒否

 15日韓国で、宗教上の理由で兵役を拒み、兵役法違反の罪に問われた男性被告が最高裁で有罪となった。つまり、韓国は良心的兵役拒否を認めない国家となった。国内ニュースとしては、この手の話が好きそうな朝日新聞系「良心的兵役拒否の有罪確定 韓国最高裁『国防義務優先』」(参照)があるが、ベタ扱いに近い。


 判決は「兵役の義務が履行されず国家の安全が保障されなければ、人間の尊厳と価値も保障されない。良心の自由が国防の義務に優越する価値とはいえない」とし、北朝鮮という現実の脅威を背景に徴兵制を敷く韓国として、個人の基本権より国防・兵役義務など社会秩序の維持が優先されるとの考えを示した。
 男性は01年、陸軍入隊を宗教上の理由で拒否した。一、二審で懲役1年6カ月を言い渡され、上告していた。

 現代自由主義国家が良心的兵役拒否を認めないということは、国際世論からすれば国家的な恥辱とも言えるものだが、だからこそその点を考慮してか刑は軽いようだ。少し私の宗教的な判断が入るが、この程度の刑なら、むしろ宗教的な良心にとって好ましいのではないか。
 国民の30%がキリスト教信仰を持つ韓国で、この問題がどう扱われているか気になる。韓国紙中央日報「国家安保なくして人間の尊厳・価値なし」(参照)では、今回の判決を支持している。

もちろん良心の自由は自由民主主義国家にとって大切なものだ。 しかし、だからといってそれが共同体維持のための「国防の義務」に優先することはない。


  南北分断により北と軍事的対立を続けているわが国の安保状況では、良心の自由を掲げてすべての若者が国を守らなくなったら、どのような結果を招くかは火を見るより明らかである。

 この滑稽さはまるで産経新聞社説を読んでいるような錯覚をもたらす。もっとも、日本でも無知な左翼陣営は、日本で兵役復活したら大変だ、と言うが、現代の軍事に素人は不要だ。
 韓国紙東亜日報「『良心的兵役拒否』は有罪」(参照)は、基本的に判決を支持していながらも、もう少し深みがある。

しかし、軍隊の代わりに刑務所行きの選択を強いられる「エホバの証人」の信者たちの問題に終止符が打たれたわけではない。最終的に違憲法律審査権を持つ憲法裁判所(憲法裁)の決定を待たなければならない。本質的な問題は未解決のまま残っているわけだ。憲法裁が、憲法上の二つの価値が衝突する時にどのように調整するのか、合理的な決定を下すことを期待する。

 ここには朝日新聞が意図的に落としている二点がある。一つは本質的には未決であること、もう一つはこの宗教が「エホバの証人」であること。韓国世論がこれらの新聞からわかるわけではないが、今回の問題の重要なキーワードは「エホバの証人」だとは言えるだろう。
 「エホバの証人」というと日本では、カルト的な宗教のイメージを持ちがちだし、日本基督教団やカトリックでも異端としていることから、偽のキリスト教徒であるかのように見られることもある。しかし、宗教史の大きな流れを見るものなら、これが三育系(セブンスディ・アドベンティスト)と同系のルーツを持つものであり、米国では社会的にもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなど同様、一定の評価を受けている宗教であることがわかる。むしろ、正統とされるキリスト教、つまり事実上今日のエキュメニズムは、ニケア信条に端を発するという点で、原始教団と初期教団の歴史的間隙について、神学的な課題を十分に追及してはいない。
 「エホバの証人」と良心的兵役拒否については、日本もまた貴重な歴史を持っている。元「エホバの証人」の戦前の組織である灯台社がそれだ。その中核的な人物は明石順三である。日本の戦時において、彼は、堂々と良心的兵役拒否を貫いた点で高く評価されてよく、その日本人の良心を支えたのは、「エホバの証人」の信仰であったということは、現代日本人は深い負い目としなくてはならない。
 残念なことに、正確には、「エホバの証人」の信仰とは言えない現状がある。明石順三は戦後、「エホバの証人」から異端とされているからだ。この問題は、1970年代にはある程度研究が進んだもの、現在では忘れ去られたように思える。日本人が良心的兵役拒否を論じるときに欠かすことのできない歴史的なくさびを忘れているがために、精神的に脆弱化した左翼はこの概念を国家の良心に拡張しようとしている。
 良心的兵役拒否の問題は、私も個人的に課題としたことがあり、「エホバの証人」の現状の内部資料を探ろうとしたこともあった。十分な資料は得られなかったが、平信徒には、本来は誇りであるべき明石順三について、異端であることの教育が進められているようだった。
 灯台社関連については、書籍としては、岩波新書「兵役を拒否した日本人」(稲垣真美)が読みやすいが絶版になっている。晩年の明石を知るという点ではむしろよく書けた書籍なので絶版であることは岩波の恥だ。参考までに、現在入手可能な稲垣真美のこの関連の書籍には「良心的兵役拒否の潮流―日本と世界の非戦の系譜」がある。また、ネットでは、「灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ」(参照)が興味深い。
 話がだらけるが、私は先の岩波新書が出た当初に読んだので、それは中学三年生の時だっただろうか。そのころの私は、ドストエフスキーなどの影響もありキリスト教に傾倒していたこともあって、日本が戦時になれば私は兵役拒否をしようと心に誓っていた。が、今47歳にもなり、もはやそんな誓いは無意味になったかのように思える。またその後、高校生になり小林秀雄を海馬にたたき込むほど読みながら、実際の徴兵があれば、私は一兵卒として従軍するだろうとも思うようにもなった。戦時のクリスチャンの生き様として山本七平からも強い影響を受けた。
 で、今、どうなんだ?、良心的兵役拒否をするのか?と問われると、答えがたい。国家の保証する権利であることは譲る気もないが、自分の宗教的倫理としては、よくわからないのが率直なところだ。ただ、いろいろ考えながら、いろいろ知るようにもなった。
 その一つは、軍事は人を殺すことではない、ということだ。たるい左翼は、戦争の本質とは人を殺すこと、というのだが、少なくとも、軍人は人を殺すのが役目ではない。敵軍の軍事リソースを潰すだけである。12人を殺害、とか言うのはジャーナリズムである。軍事では、戦車一台を爆破、とかになる。軍事が常識ならそんなことは当たり前のことであり、むしろ、敵軍人が負傷しているなら殺してはいけない。平和を希求するなら、軍事という歴史の産物を正しく理解しなくてはならないと思うようになった。
 蛇足でつまらぬ感傷めくが、私が大学生のときの恋人が普連土学園を出たばかりお嬢さんだった(失恋したがな)。彼女自身はそれほど強いクエーカーの信仰を持っていたわけではないが、私はクエーカーという信仰のありかたに深く批判されるように思えたことがある。先に書いたように、思春期の私は「心に誓った」が、そうした「誓い」がキリスト教に反することをクエーカーの信仰は告げた。英語の法律・政治文書を読むと、oath or affirmation、または、oath and affirmationという表現がよく出てくる。oathは宣誓である。私の誤解かもしれないが、oathが信仰上許されない人の歴史が、affirmationを生み出したようだ。
 私はその知恵と信仰の深さに強くうたれるとともに、「誓って」と言明する人間を弱く、罪深いものであると思うようになった。また、私にとって狂気に見える他人は、もしかしたら、狂気をおしてまでして、私が担うべき良心を担っているのかもしれない、と思うようになった。そういえば、パウロもそうであった。


【追記 同日】
 拙い文章を一部改めた。内容に関係することではないので修正履歴は残していない。
 コメントを読ませていただいて、意外な印象を受けた。議論の正否以前に、先進諸国では良心的兵役拒否が事実上確立していることが日本ではあまり知られていないのだろうかという懸念を持った。つまり、もっとエレメンタリーな部分から書くべきだったのかもしれない。補足代わりに、この問題が深く議論されたドイツの状況について「概説:現在ドイツの政治」(参照)が参考になるので引用しておく。


 最後に付け加えておくと、ドイツにおいて、こうしたさまざまな社会福祉団体でのマンパワーの供給源になっているのは、いわゆる良心的兵役拒否者とよばれる若者たちです。ドイツには徴兵制があり、18歳になると青年は兵役に服す義務があります。しかし、憲法は「なんびともその良心に反して武器をもってする軍務を強制されてはならない」(第4条)と定め、良心にもとづく兵役拒否を認めています。兵役を拒否したものは、軍務につかない代わりに非軍事分野での代替役務(Zivildienst)につかなければなりません。兵役が9ヶ月なのに対し、代替役務は11ヶ月とより長期間つとめねばなりませんが、1999年には代替役務従事者は13万8千人を超え、兵役従事者数を上回りました。代替役務従事者のほぼ7割の約10万人が福祉関連の仕事に従事し、福祉業務の1割相当がかれらによって担われています(市川ひろみ「社会国家の安全保障と管理-ドイツにおける軍隊の変容から-」文部省科学研究費補助金成果報告書『グループウェアを活用した欧州統合と福祉国家体制の変容に関する共同研究』2002 年)。

 また、基礎的な知識として「兵役拒否」(佐々木陽子)も役立つかと思う。

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2004.07.15

SARS隠蔽と戦った蒋彦永医師の状況は変わらず

 TIMEの目次をざっと見ながら、我ながらうかつだったのだが、蒋彦永医師の問題が硬直した状態のままであったことを思い出した。中国をある程度知る人間なら、彼は絶対に殺害されないことは確信できる。むしろ、政府側に拘束されているので安全かもしれない。むしろ、最悪な事態は、現在進行中の「学習」が効果をもたらすことだが、方孝孺の故事は彼自身はもとより、彼を糾弾する側も熟知しているだろう。むしろ、方孝孺の故事を知らない日本人も多くなったのかもしれないが、余談は慎もう。
 TIMEは蒋彦永医師と関係が深いので、気になって"Prisoner of Conscience"(参照)に目を通したのだが、特に重要な情報はなさそうだ。なので、概要については、読みづらい英語ではなく邦文記事「SARS告発の中国人医師、強制的に『学習会』」(参照)をひく。医師は、蒋彦永医師のことである。


 [北京 5日 ロイター] 昨年、中国政府が重症急性呼吸器症候群(SARS)感染状況を隠蔽(いんぺい)しているとして内部告発した医師が、1989年の天安門事件をめぐり、当局に身柄を拘束され強制的に「学習会」に出席させられていることが分かった。関係筋が明らかにした。

 この記事には触れらていないが、拘束の理由としては、米国にいる娘に会うために国外に出ようとしたのを阻止したという話もある。
 日本でまったく報道されていないわけではないが、あらためて調べ直すと蒋彦永医師については実に情報が少ない。AMNESTY INTERNATIONALでも"China: 15 years after Tiananmen, calls for justice continue and the arrests go on"(参照)では実名が上げられているが、国内のアムネスティ・サイトには見あたらなかった。見落としならいいのだが。
 日本のメディアがこの問題に及び腰なのは理解できないわけではない。率直なところ、私もこの蒋彦永医師の問題は、もちろん人権問題でもあるのだが、中国内での政治の図柄が読み切れないところがあり、躊躇する部分もある。
 例えば、ワシントンポストは"China's 'Honest Doctor'"(参照)では、次のように蒋彦永医師のヒーロー視を指摘しているが、こうした影響をそのまま評価していいものなのだろうか。

Second, and especially unfortunate for Beijing, is that Dr. Jiang fits the profile of an archetypal Chinese hero -- that of a conscientious scholarly official who puts himself on the line to tell the corrupt emperor the truth for the sake of the people and is ordered punished.

 Googleを引いていくと、マイトレーヤー観までありそうだ。例えば、"China's creating a new martyr"(参照)というニュースではこうだ。

China's leaders are taking a very big risk in detaining Jiang Yanyong, the 72-year-old military surgeon who became a national hero last year when he exposed the government's attempts to cover up the extent of the SARS epidemic. Their attempt to silence a popular critic could become the catalyst for a broad-based challenge to the authority of the ruling Communist Party. Even if they succeed in suppressing this challenge in the short run, they will have created a new and powerful martyr for the cause of democracy in China.

 記者が中国人の弥勒観を知っているかどうかわからないにせよ、こうしたヒーロー的な熱狂は、中国の場合、予想外の事態に発展しがちだ。
 というわけで、我ながら歯切れが悪いのだが、そのあたりの受け止め方の感性を日本人の私はよく共感はできない。
 なお、蒋彦永医師の問題となった書簡は、現代中国のサイトで邦訳で「蒋彦永医師 89年六四学生愛国運動の名誉回復の建議――今期全人代、政治協商会議への書簡」(参照)で読める。清明な文章で人の心を打つ。
 つまらぬ余談だが、かつては、日本の左翼もこうした清明な心を文章にする人々がいたことを思い出す。

【追記 04.07.21】
蒋彦永医師が解放された。詳細は以下。

ワシントンポスト "China Frees Dissident Physician"(参照

Jiang Yanyong, 72, a semi-retired surgeon in the People's Liberation Army who had briefly become China's most famous political prisoner, was returned to his apartment in western Beijing about 11 p.m. and appeared in good health, his wife, Hua Zhongwei, said by telephone Tuesday.

She said she and her husband had been ordered by the Chinese military not to speak to reporters, and she declined to discuss the circumstances of his release. But asked how she felt, she laughed and said, "You can guess by how I sound."


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2004.07.14

今週のスケジュールは台湾海峡軍事演習?

 中台関係の緊張が高まりだした。中国という国は国内の権力闘争のために対外的に火遊びをする困った国なので、今回も「またかよ」かもしれない。沢民・フランケン・江が糸を引いているのかもしれない。あるいは、これも米国大統領選がからんでいるのかもしれない。
 時事的な状況は産経系「中国、米軍想定し演習 台湾海峡制空権」(参照)がわかりやすい。


 【北京=野口東秀】中国人民解放軍が台湾海峡の「制空権」確保を重点にするとされる福建省東山島での陸海空統合の大規模演習の時期について十三日付中国英字紙チャイナ・デーリーは今月後半に実施と報じた。天候次第では早ければ今週中にも実施する態勢を整えるとみられる。人員は十万人と最大規模になるようだ。
 北京の軍事筋は、米軍の介入を阻む観点から大陸海岸線から約九百キロ程度の「制海・制空権」確保を視野に入れた演習になると指摘した。

 参考までにオリジナルのチャイナ・デーリーは"Military to hold drills at Dongshan"(参照)。つまらぬ余談だが、ネットが使えるならブログである程度の水準のジャーナリズムは可能になっているという例題にもなっている。
 今回の事態はすでに今月に入ってから各紙で報道されているので、今週かもな、というのが目新しいニュースであるかのようにも見える。つまり、台湾陳水扁総統に対する威嚇でしょうな、という受け取り方だ。間違っているわけでもないのだが、どうもそれだけではない。
 ポイントはむしろ制空権にありそうだ。単純な話、このところの米軍の優位と失敗は制空権に対する強さに由来している。中国側としても、率直に、丸裸にされているなという焦りがあるのだろう。
 ちょっと勇み足のコメントになるかもしれないが、バラバラとした各種報道からは見えてこないが、制空権という含みには、三峡ダムが関与しているようだ。このあたりは、Newsweek"Dangerous Straits"(参照、ちなみに日本版では「中台間に漂う火薬の臭い(6/30)」)がわかりやすい。

But last week it was Washington that dropped the rhetorical bombshell. Buried deep inside a 54-page Pentagon report on China's military readiness, U.S. defense planners speculated that, in the event of a war across the strait, Taiwan might seek to hit "high-value targets" like the prestigious Three Gorges Dam as a way of deterring a Chinese invasion.

 米国ではペンタゴン・リポートに意図的なのか、台湾海峡で戦争が始まれば(余談だが有事というのは嘘くさい言い方だ)、中国の軍事行動を阻止するために、三峡ダムを空爆・破壊するというのだ。やるな、である。
 当然、中国は怒る、というか、これをおおっぴらに言われたら、面子丸つぶれだ。

Predictably, such speculation did not sit well with Beijing. If the dam were attacked, warned Chinese Lt. Gen. Liu Yuan in the state-run China Youth Daily, Beijing's retaliation would "blot out the sky." Liu, who is the son of the late Chinese president Liu Shaoqi, slapped down the Pentagon's suggestion that such a threat could ever stop a war over Taiwan. "It will have the exact opposite of the desired effect," said Liu, who for good measure described the United States as "a prostitute pretending to be a gentleman."

 "blot out the sky"を訳すのは鬱になってきそうだし、ついでに""a prostitute pretending to be a gentleman"の元の中国表現も気になるが、ようはサノバビッチに徹底抗戦するというわけだ。で、ちょっと気になる余談なのだが、この記事の日本語版には、この喇叭野郎劉源が劉少奇の息子だという説明をオミットしている。「おい、ニューズウィーク日本語版、ばかやろう」と言っておく。
 三峡ダムとはいいところに眼をつけたものだ、とブラックジョークを飛ばす趣向はない。率直なところ、「米国、悪い冗談はペプシブルーだけにしろ」という感じだ。三峡ダムがどのような意味を持つかは、「三峡ダム 大プロジェクトが次の段階へ」(参照)を参照されたい。
 というわけで、なにもペンタゴン・リポートのブラック・ジョークが原因というわけではないだろうが、中国側には、戦時には、制空権がなくなり、一気に急所蹴りを喰うのは明か、とは言えるのだろう。もっとも、その戦力維持のためには、台湾の「協力」が重要になる。この緊張を背景に米国の軍事産業はウハウハ(古い)ものだ。
 もちろん、米国を批判するのはたやすい。そして、米国だけ批判して中国を批判しないのは、嘘くさい。台湾も批判から免れない。だが、それで、オイラって平和愛好家だもんね、で、いいのか?
 Newsweekの記事の締めが不気味だ。

And while the focus remains on Taiwan, a senior Pentagon official says there's something "much broader and more fundamental going on." China is seeking "a comprehensive, well-planned, well-executed transformation" of its military capabilities. That's sure to raise fears that the next time bombs start dropping, they won't be rhetorical.

 中国の軍部の中核部で本質的な変化が進行中だというのだ。"they won't be rhetorical"は、「洒落じゃすまねーな」と訳そう。私もこの印象を持っている。単純に自己を平和主義者として、軍事を批判するだけでは、おそらく徹底的に無力、という事態の進行が、そこにあるのだと思う。
 批判されるのを覚悟していえば、火遊び好きで、事態によってはカタストロフィックに統制が取れなくなる巨大国家中国を思えば、台湾の、当面の軍事強化は避けられないだろうし、並行して、中国の民主化をもっと推し進めなくてはならないのだと思う。

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2004.07.13

キトラ古墳の被葬者は天皇である

 キトラ古墳壁画劣化の話を、朝日新聞と毎日新聞が社説で扱っていたが、こんな話題もよかろうか、くらいの飛ばし書きなので、内容はない。キトラ古墳壁画の現地保存には、ちょっとした政治の裏がありそうにも思うが特に言及がないどころか、朝日社説「キトラ壁画――いずれ現地で公開を」ではあっけらかんと書いているため、かえって裏の臭いがする。


 「文化財はその地の歴史、風土から離れると価値が少なくなる。現地で公開するのが原則だ」と歴史学者の上田正昭さんは指摘している。その通りだと思う。

 そうなのだろうか。毎日社説「キトラ古墳 美しく後世に残したい」のほうにはちょっと含みがある。

 この機会に、従来の壁画保存方法が適当だったかどうか、徹底した科学調査と検証が必要だ。

 しかし、この問題はうやむやになるのではないかと思う。そして、なんとなくだが、しかたないよね感が漂う。
 キトラ古墳壁画劣化のニュースでは、あまりキトラ古墳というものには触れていない。私はなんだか変な世の中になったなと思う。
 高松塚古墳が実質発見されたとき、その壁画も衝撃的だったが、なにより被葬者が話題になったものだった。正確にいうと、話題にしたのはメディアや梅原猛など学者であれ、門外漢たちだった。考古学では被葬者の特定(比定)というのは分野外なので、眉をしかめただろう。情けないのは歴史学者だ。被葬者の議論を怖がって避けているとしか思えない状態だった。
 日本の古代史では、なぜか歴史学が戦後考古学と不分化な状態になっており、極端な話、毎度毎度の邪馬台国の話題なども、考古学的な知見が重視されるといった方法論的な錯誤があたりまえになっている。
 他にも、日本史学のばかばかしさは聖徳太子についてなどでも顕著で、今さら谷沢永一などに「聖徳太子はいなかった」と言われるまでもない。世界史学的に見れば、推古朝とされている時代の日本の大王は男王であるのに、遠山美都男など若い日本の古代史学者たちも巧妙にこの問題を避けている。
 日本の古代史学が実質タブーを多く含むこともあり、そのニッチで、アマチュアの古代史愛好家の被葬者推理はどうしてもトンデモ説になりがちだ。このため、逆に科学的であろうとするために、同じくアマチュアの一部は、考古学的な方法論を、本来別分野なのに史学混入し、さらに被葬者議論を封じている傾向すらある。ネットなどでもちょっと小賢しい者たちが、被葬者比定をただ嘲笑うだけで終わっていることもある。嘆かわしい。
 キトラ古墳でもっとも重要な問題は、高松塚古墳も含めて、被葬者の推定だと私は思う。理由は簡単で、考古学的にもそれが天武時代あたりであることは明かであり、そのまさに天武時代に日本の歴史が作成されたからだ。我々もまた、その創作された歴史の内部にいる。
 端的に言うとトンデモ説っぽくなるが、日本の歴史を創作した集団の裏をさぐることから、日本古代史を解体するといいと思う。そして、日本も万世一系のような天皇家の歴史物語から解放され、フランク王国のように7世紀に出来た王朝としての日本という国民史とその国民理解に変更していくべきだろう。
 余談めくが、被葬者の比定は、考古学的には、それを明記した木簡なりが出てこないとわからないということになっている。つまり、それが出なければわからないというのがこの学問のデッドエンドなので、出土の可能性が低ければ、史学はそんなものに見切りを付けるべきだ。
 被葬者ではないが、木簡が出土しても、古代史学は無視を決め込むこともある。長屋王の評価にいたっては、明確に親王号が出てきたのだから、父の高市は天皇位についていたと考えるべきなのだが、そういう議論はアカデミックの世界ではどうも見かけない。
 天武天皇の子とされる高市皇子が天武崩御後皇位についたとすれば、大津皇子や草壁皇子などの死も見直さなくてならないし、なにより、長屋王の殺害は、天武・高市・という皇統に対するクーデターであったことになる。しかも、この系統は女系側から見ると蘇我の系統でもある。この先は自覚的にトンデモ風に言うと、蘇我の系統こそ皇統だったのではないか?
 さて、この手の話より、キトラ古墳の宿星図について、あまり基礎的なことがあまり報道されていないし、教育もされていないようなので、ここで簡単に解説をすべきかとも思ったが、またの機会としたい。いやいや、すでにわかりやすい解説「キトラ古墳の星宿図」(参照)があったので参考するといいだろう。
 私が補足するとすれば、星宿図と四神(蒼竜・朱雀・白虎・玄武)が描かれている意味だ。古代の人は天体に呪術的なロマンを抱いていたというようなわけはない。朝日新聞社説の次の言及はあまりに恥ずかしい。

 キトラ古墳で壁画が発見されたのは83年秋だった。3次にわたる調査で、方位をつかさどる古代中国の四神「青竜」「白虎」「朱雀」「玄武」が見つかり、天井には飛鳥のプラネタリウムといわれる「星宿」が描かれていた。

 説明を端折るために、吉野裕子のもっとも一般向けの「カミナリさまはなぜヘソをねらうのか」をひく。

 そうして古代中国の天文学では、その唯一絶対の存在を象徴する星を「北辰」すなわち北極星としたのです(北斗七星をあわせて、北辰ということもあります)。
 さらにこの北極星を神霊化したものが「天皇大帝」です。

 「天皇号」は、たしか北魏でも見られたかと記憶しているが、その場合でも、中国の皇帝号に対置した意味合いを持っていた。
 古代日本が、大王号から天皇号に変更したのは、トンデモ説でなくても、天武朝だろうと推定される。もともと天皇号は死者におくる号だが、天武は自身をそう号したらしい。天武天皇は壬申の乱の際は劉邦に自分を擬しているが、日本人なのか疑わしいほど中国の世界観にも精通していた。

黄道と宿星
カーソルが現代的な意味での北極星
 キトラ古墳の星宿図が天皇大帝を中心とした宇宙を描いているのはどういうことなのか。「千字文」にある李暹の「千字文注」の訳が参考になる。「日月盈昃辰宿列張」の部分の注だ。
 以前にも書いたが、千字文は東洋人の常識である。そしてその常識には李暹注が含まれていると言っていい。そしてその常識があれば、キトラ古墳の星宿図が何を意味しているか明かだろう。先に朝日新聞社説の言及が恥ずかしいのは単に東洋の常識に欠けているからだ。ついでに老婆心ながら、この蒼竜・朱雀・白虎・玄武の四神は東西南北(東南西北)に配されているとはいえ、地上の東西南北ではない。

 北極星は五つの星である。『論語』(為政)に言う、「北辰、其の所に居て、衆星之を拱く(北極星は固定した位置にあり、他の多くの星がそれに向かってあいさつしている)」と。これのことである。
 天には二十八宿がある。四方にそれぞれ七宿ずつある。東方の七宿は蒼竜の形をし、南方の七宿は朱雀の形を作る。西方の七宿は白虎の形をし、北方の七宿は玄武(亀と蛇がからまった図)の形を作る。そしてそれらが四方に輪になって連なり、天帝(北極星)を補弼(天子の政治をたすけること)しているのである。

 この李暹注をよく読めば、キトラ古墳壁画の四神に囲まれていた被葬者が天皇以外にありえないことがわかるはずだ。

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2004.07.12

参院選であまり問われなかった女性議員の問題

 参院選も終わった。終わってみても、よくわかんない選挙だった。
 2chの声援も空しく又吉イエスは落選し、喜納昌吉は当選した。現代うちなーの神んちゅという点で似たような人に思えるのだが…。どのくらい「かみのひと」であるかは、沖縄タイムス 2002年10月16日朝刊文化27面より、喜納昌吉曰く、を読むべし。


二十一世紀の戦争のあり方はテロと報復から始まった。テロにいかなる理由があろうが、報復にいかなる正義があろうが、二つに共通するのは、死体の山しか見いだせないことだ。シンプルに思考すればどこかに間違いがあることに気づく。私たちはその間違いを正し、過去の植民地主義から脱却できない分裂した西洋精神と、常に西洋の恐怖の影におびえるアジアの精神とを和合させ、宇宙に浮かぶこの奇跡の惑星・地球こそが人類の聖地であるということを、そして人間が生きて輝く道を、この沖縄から日本・アジア・全世界に向かって示す時が来たのである。

 というわけで、今回は私はさすがに民主党も嫌になった。しかし、所詮、どーでもいい参院だしな。
 話は少し逸れる。選挙速報を見ていて、女性党というのを知った。まったく知らないわけでもないが、ほとんど関心がなかった。率直に言うと、こんな党を作るより、各党派に女性候補増加についてアファーマティブな規制をかけてもいいのではないか。民主党はそれなりに配慮はしているようでもあるが、まだまだ弱い。
 資料としては、内閣府発表の「平成15年度において講じようとする男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」概要(参照)というのがちょっと面白い。まとめとしては、「第1表 各国の男女の主な参画状況と制度の充実度」(参照)を見ればいいだろう。
 これを見ると、日本ってちょっと先進国とは言えないな、韓国とはお友達…って感じだが、韓国ではすでにクォーター制度が導入されているようだ。クォーター制度は、政治関与における男女差を無くすためにアファーマティブに女性を割り当てる制度だ。詳細は先のページに説明がある。なお、このページにはアメリカについて否定的にもとれそうな言及がある。

 一方,アメリカにおいては,1970年代後半以降,雇用や教育分野でのアファーマティブ・アクションに関する訴訟において,違憲・違法の判決が出されるなどの動きがあり,政治分野においても各政党はクォータ制に対して慎重な姿勢をとっている。

 だが、実際には、アメリカの実社会における女性の力は強いので、ある意味で例外なのではないか。
 話を女性議員割合に戻すと、これもグラフがわかりやすい(参照)。スウェーデンとかは、これもちょっと例外っぽいが、日本の現状は、先進諸国という点では、ちょっと恥のレベルにある。参院、つまり、上院は日本の場合、女性を含ませる言い訳のように見えないでもない。ま、それでももっと多いほうがいいだろう。だが、今回もしょぼかった。
 この手の国際間比較の統計の元ネタによくなるのは、the Inter-Parliamenary Unionの一覧(参照)だが、見るとわかるように、上位が先進諸国というわけでもない。というか、このリストの意味はちょっと難しい。印象として思うのは、これが民族国家の適正サイズいうイメージだ。つまり、現在の巨大国家というのは国家としてすでに間違った方向にあるようにも思える。
 話がさらにずれるが、先月米国でおきたウォルマート集団訴訟がこのまま推移すると、先進諸国に大きな衝撃を与えるようになるのかもしれない。朝日新聞系「女性160万人原告 対ウォルマート、米最大集団訴訟に」(参照)をひく。

 米小売り最大手ウォルマートでの給与や昇進で男性社員に比べて差別的な待遇を受けた、として女性従業員が同社に損害賠償を求めている訴訟について、カリフォルニア州連邦地裁は22日、集団訴訟として扱う決定を出した。これにより、98年12月以降に働いていた元従業員と現従業員の女性160万人が原告となり、人権を巡る米国の集団訴訟としては過去最大となる。

 話が散漫になったが、ただのスローガンではなく、もっと大きな潮流として、日本でも女性がいっそう政治に大きく関与しなくてはならない時代になってきているのだろう。
 だが、率直に言えば、おたかさんのイメージではないが、女性の政治家であることがある種のイデオロギーの傾向を含むかのように見えるのは日本の問題だろう。もっと端的に問われなくてはいけない中絶問題や低容量ピルといった問題などは、女性問題のなかから置き去りにされている。原因はマイルドな左翼イデオロギーがブロックになっているようにも思えるのだが、それだけの問題でもないだろう。
 飛躍した言い方だが、女性が社会コミュニティの質を変化する主体とならなくてはならないのだろうが、今の日本の傾向としては、優秀な女性がむしろ、経済的な勝ち組に吸収されるような構造があるように見える。

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2004.07.11

中国政府がバイアグラの特許を取り消したことについて

 中国政府がバイアグラの特許を取り消したというニュースは先日国内でも報道された。ベタ記事とはいえないまでも、扱いは軽かったようだ。テーマがバイアグラであり、また特許に疎そうな中国ということから、日本では、それほど重要でもなく、少し滑稽なニュースとして受け止められたのかもしれない。私もまず、そういう印象をもった。
 それから、私はどうにもこのニュースが気になり、英語で読める記事などもあたってみた。よくわからない。ロシアでフォーブスの記者が暗殺されたといった、いわゆる事件とも違うので、なにか真相を探るという種類のものでもないが、関連ニュースを読んでも、なにかしっくりこない。結局、未だにしっくりとこないのだが、どうも気になる。そのあたりを書いておきたい。
 事実関係については、取りあえず朝日新聞系「中国政府、バイアグラの特許取り消しへ 」(参照)をひいておこう。


 中国政府で知的財産権を担当する国家知識産権局が、米製薬大手ファイザーの性的不能治療薬「バイアグラ」に与えていた特許を取り消す決定をしたことが8日明らかになった。同社は薬の成分「クエン酸シルデナフィル」を性的機能不全の治療に使う点で各国の特許を取っており、中国でも01年9月に取得済みだった。ファイザー北京事務所は「当局の対応にたいへん落胆している」として、再審査を求める意向を示している。

 さらっと書かれているが、これはけっこうこの分野について知識のある記者かもしれない。というのは、特許のポイントを「クエン酸シルデナフィルを性的機能不全の治療に使う点」というあたりの表現に工夫があるからだ。つまり、クエン酸シルデナフィルという化学物質を作る特許でもなければ、それ自体をただの薬品として販売することを禁じるための特許でもない。もっとも、「クエン酸シルデナフィル」とラベルを貼った薬品を自由に販売していいわけでもなかろうが、このあたりは私も詳しくない。
 中国政府が特許を覆した理由について同記事では、中国の製薬会社15社がその製法は広く知られているものだという理由で無効を申し立てていたこととしている(中国医薬品会社の申して立てを受けた形だ)。ここの含みも面白い。つまり、言外に中国人はクエン酸シルデナフィルの製法特許だと勘違いしているというわけだ。中国人についてある程度知っている人間なら、実に彼らがこの手の「秘伝」に敏感なことを知っているだろう。例えば中国茶などについてもこの手のばかばかしい話が山ほどあり、中国茶ツウとかいう日本人が真に受けているということもある。
 中国的な発想としては、「製法も物質もわかっているものに特許なんかあるわけないじゃん」ということかもしれない。そうなのか? そのあたりは、中国ソースを当たってみたが、いま一つはっきりしない。英文ソースからは、「中国人は特許がまるでわかってないよ、しかたないな」といったトーンも見られた。つまり、今回の問題は、そういうこと、中国の特許制度が単に未熟、という面もある。
 中国の特許制度ということでは、もう一点、ファイザー側の中国への特許申請に問題があった、というニュース"Viagra patent found invalid"(参照)もある。滑稽なので、メモがてらにひいておく。

The China State Intellectual Property Office (SIPO) has declared the patent for Viagra, the US-based pharmaceutical company Pfizer Inc's erectile dysfunction-correcting drug, as invalid in China because it doesn't conform with Article 26 of China's Patent Law.


But according to Article 47 of China's Patent Law, any patent right which has been declared invalid shall be deemed to be non-existent.

Article 46 of China's Patent Law, said where the patentee or the person who made the request for invalidation, is not satisfied with the decision of the Patent Reexamination Board declaring the patent invalid or upholding the patent, a party may file suit in the people's court within three months.


 要は中国の国内法上の不備があったということのようだ。しかし、そんな話が国際的に通じるわけもない。このあたりの中国という国の国際センスに唖然とするものがある。というか、基本的に中国というのは、外国を自国の辺境だとする中華主義のセンスのままなのだろうか。国内では、依然共産党独裁なので「俺がルールだ」で通っているままかもしれない。もっとも、事態がそういうことなら、国際社会は成熟を待つべきかもしれない。
 この問題に当事者のファイザーはどう見ているのか。もちろん、中国側に控訴はするらしい。が、WTOに持ち込むのかが気になるところだ。もっといいソースもあるかもしれないが、オーストラリア・フィナンシャル・レビュー"Viagra's China patent a fizzer"(参照)の言及は参考になる。

Less clear is what the US government could actually do about it.


Under China's 2001 pledge to the World Trade Organisation, it must enforce and protect intellectual-property rights. But patent rules within the WTO leave large discretion to member countries.


Other countries have disallowed Pfizer patents for Viagra. In 2001, the patent was disallowed in Bolivia, Colombia, Ecuador, Peru and Venezuela over a different issue. The company is appealing against those decisions.

 知的財産権問題は国際的にごり押しすればいいというわけでもないので、おそらく早急にはWTOの課題とはならないのではないか。
 ではファイザー側の不利益はどうか? これがよくわからないのだが、ファイザーの中国でのヴァイアグラの売上げはそれほど利益に寄与していないようだ。また、現状では、上海に出回っているバイアグラ(偉哥)の90%は偽物だという話もある(これはNYTより)。おそらく今回の決定を受けて、市場には偽物や品質の不明なクエン酸シルデナフィルがいっそうばらまき散らされることにはなるだろう。安全性には問題はあると言えるし、こうしたものがかなり日本にも輸入されることにはなるだろう。しかたない。
 と、さめたようなことを言うのは、途上国におけるバイアグラのニーズとういのは止めることができないのではないか。しかも、その規模があまりに大きすぎる。
 バイアグラと限らずファイザーは、こうした途上国における医薬品ニーズ規模の大きさの現状を考慮し、貧困国に向けては薬のディカウントも検討している。
 逆に言えば、ファイザーと限らず、国際的に寡占化が進む巨大医薬品会社は、その重要な薬をもって途上国の高度な医療やQOL医療を事実上支配できることにもなるのだろう。
 しかし、私の言い方が拙いのだが、それはけして悪いということでもない。医療と医薬品の関係が、今世紀に入り、前世紀の医学のイメージからは乖離しはじめてきているのだろうから。

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2004.07.10

韓国がブログを敵視し始めたようだ

 韓国がブログを敵視し始めたようだ。話はNorth Korea Zone"Big Brother in South Korea"(参照)から。まだ別ソースからの裏は取れてないので、ここにネタをひくのは、若干フライングなのだが、逆に極東ブログがわずかに日本側の印象を集めることに寄与できればと思う。
 話は、北朝鮮問題を扱うブログNorth Korea Zoneへのインターネット・アクセス遮断が韓国で起きているというのだ。以前、それは中国だったが、まさか韓国までそれをやるのかというのが、率直なところ、私には衝撃的だった。ひどい言い方かもしれないが、香港・台湾には若い世代に民主化が根を伸ばしているのに、大陸と韓国はこの点で、後退しているようにも思われる。あるいは、日本のようなアパシーという点で先行しているのかもしれない。
 North Korea Zoneはついにホスト移転を余儀なくされてきている。


NKzone is going to move the server hosting soon, which should (hopefully) solve the problem. Nonetheless, while NKzone has always expected to have problems with Big Brother in China and North Korea, we never expected to face censorship problems in South Korea. If you know people in South Korea and China who are unable to access the NKzone site, please have them email nkoreazone@yahoo.com to sign up for the daily e-mail updates.

 North Korea Zoneの事実認識が確かなら、韓国でネット検閲問題が起きるとは私も思っていなかった。韓国・台湾が戒厳下に置かれていた歴史感覚を持つ世代としては、このうかつさを恥じる思いだ。
 North Korea Zoneに報告されているサポーターの見解がまたぞっとする内容だった。

This censorship, coming at a time when the GNP is reported to want to promote a law allowing South Koreans to view legally North Korean internet sites, coincides with the government's continuing blocking of access to any individual blog on all the main bloging sites worldwide, such as blogs.com, blogspot.com &typepad.com, leaving millions of sites worldwide inaccessible to Koreans, including bloggers themselves resident here.

 当初の遮断の目的は、例のイラクにおける韓国人殺害映像だったかもしれない。しかし、この状況は、そうした単発的なものではなさそうだ。これが本当なら、ブログへの挑戦が始まるのだろう。そんな大げさな物言いはちょっと恥ずかしいが、これが現実なのではないか。ブロガーを相手にした戦いに、韓国レベルの国家が勝てるわけはないとも思うのだが、しかし、その勝利の確信たるべき、我々自由主義国家の市民の気力のほうが問題だ。杜撰な言い方だが、これだけインターネットが普及し、ブログも勢力を持ち始めているのに、いまだメディアの大衆誘導が優勢に見えるのはなぜだろうか。麻木久仁子バッシングなども洒落で済むことではないのかもしれない。
 以下、連想される気になることを散漫に書く。
 まず、北朝鮮がらみではないのだが、韓国大統領府、青瓦台(チョンワデ)が、朝鮮(チョソン)日報・東亜(トンア)日報を敵視始めたことだ。この動向は以前の反日法にも関連しているようだが、当面の問題は大統領府問題についての「青瓦台『朝鮮・東亜の報道に4大矛盾』」(参照)が興味深い。

青瓦台は、両紙の記事を分析したところ、否定的・批判的な内容が価値中立的な内容の4倍だったと指摘した。与党「開かれたウリ党」(ウリ党=「わが党」との意)も加勢した。同党の金賢美(キム・ヒョンミ)スポークスマンは9日「韓国政治の地形は『ハンナラ党対ウリ党』ではなく『一部新聞対ウリ党』」とし「ハンナラ党は、一部新聞の思考と主張を実践する『胴体』であり、『脳髄』ではない」と話した。

 両紙の日本版を読み続けた私に偏見があるのかもしれないが、この動向は異常だし、いったいなにが起きているのか、韓国と思う。およそ自由国家で、政府がメディア批判に乗り出すのは異常としか思えない。もっとも、表層的には、日本政府対朝日新聞に似ていないでもない。が、読売・産経が腰抜けしてしまった現在、憎まれ役というだけでも朝日新聞は日本に存在価値があるかもしれないと思えるほどだ。
 北朝鮮の関連の文脈に戻れば、産経ではあるが、最近の黒田勝弘のエッセイ「金日成主席、没後10年 “独裁継続”許した中韓 今後10年…日本の役割重要に」(参照)があまりに秀逸だった。この10年間北朝鮮の独裁体制が維持されたのは、中国の責任もだが、韓国にもその責を問うている。

 韓国の責任も大きい。いや、同じ民族(!)としてこちらの責任の方が大きいかもしれない。しかも国内問題であれだけ「民主化」や「人権」を言ってきた人びとが政権の座についたとたん、北朝鮮の独裁体制批判や民主化、人権問題には口をつぐんでいるのだ。
 体制批判など「北を刺激するようなことはしてはいけない」という。その代わり食糧や肥料など物資はもちろん、経済交流のためといって巨額の外貨まで提供してきた。そして何よりも大きいのは「北は同胞」として、対立、敵対感情を後退させたことだ。

 私は、韓国(日本もだが)北朝鮮に対して敵対感情を後退させることは有意義だと思う。しかし、問題はそのことと北朝鮮の体制批判は同じではない。が、そこが事実上弾圧されているのだ。

 北朝鮮にとってさらにうれしいことは、韓国社会では北の独裁打倒や体制批判をやっている亡命者は疎んじられ、金総書記に対する個人批判がタブーになっていることだ。ソウルでは最近、金総書記のソウル初訪問の条件として「雰囲気づくり」を注文しているという話も出ている(七日付、中央日報)。金総書記に対して批判どころか“称賛”の動きまで公然化しかねない。
 結局、左翼や親・北朝鮮勢力を解禁し「北の脅威」を否定した韓国の民主化が「北の独裁」を維持させたことになる。したがって「失われた十年」は韓国が演出したということになるが、次の十年はどうか。

 つまり、そういうことなのだ。しかも、その動きが、ネットの遮断ということで加速しているのだ。
 日本国内でこの問題を深刻に捕らえている人の思いをもうしばらく見つめてみたい。

【追記 同日10:45am】
 ためしに韓国サーバーのプロキシをかましてNorth Korea Zoneをアクセスしたら、見事、遮断されていました。まじかよ。

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2004.07.09

今後エイズは日本の大問題になるかもね

 エイズの問題を扱うのはちょっと気が重い。重要な問題なのに、必ずと言っていいほど政治の思惑が絡むからだ。しかし、潜在的ではあるが、すでに事態は洒落にならない状態に移行しているように思われる。だから、少し書いておこう。
 最初にたるいニュースだが朝日新聞系「エイズ死者、累計2千万人超える 国連最新推計」(参照)をひく。


 国連合同エイズ計画(UNAIDS)は6日、世界のエイズウイルス(HIV)感染者が03年末に3780万人にのぼり、同年の新たな感染者が480万人、エイズによる死者は年間290万人とする最新推計を発表した。

 幸い、これは推定値より伸びが鈍い。UNAIDSの主眼はアジアに向いてきている。

 一方、アジア地区では伸びが目立ち、感染者数が740万人、うち03年の新規感染者数が過去最高の110万人に達した。中国では、感染者が01年末の66万人から03年末には84万人に増加。UNAIDSは、同国で効果的な措置が取られなければ10年に感染者数が1000万人に達する可能性があると警告している。

 わかりやすいようでわかりづらい。印象としては中国が本丸のようにも思える。ここはジャーナリズムも書きづらいのだろう。
 さて、エイズの問題は、日本人には、ピンとこないのが実際ではないだろうか。メディアも騒ぎ疲れた感じがあるが、統計的にも日本の危機には見えない。というのも、HIV感染者は米国で95万人、ロシアで96万人、ベトナムで22万人というが、日本は1.2万人と桁違いに少ないからだ。単純に言えば、日本人にとって、エイズは、外人の病気であり、薬害エイズのような国政側の人災といったところだろう。
 私もどちらかといえばそう思っているのだが、今朝のロイターでちょっと気になるエッセイがあった。配信の関係からちょっと変わったサイトからになるが"Oblivious Japan may be on brink of AIDS explosion"(参照)からひく。標題を試訳すれば「健忘症の日本でエイズ爆発の可能性あり」となるだろう。そう、日本人はすっかりエイズのことを忘れているのだ。なお、記事中の"Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University"は木原正博・京大教授、また、引用部分ではないが、ボランティア活動をしている"Akaeda, a doctor"は赤枝恒雄医師である。

Some experts warn cumulative numbers could jump to 50,000 by 2010 due to increased youth sexual activity, less condom use, and official indifference, symbolised by falling budgets.

Worse though, may be general public apathy.

“It’s impossible for people to think AIDS has anything to do with them,” said Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University. “AIDS is Africa. It’s America It’s gay.

“The ignorance is huge... so this is a very dangerous situation,” he added. “I think the estimate of 50,000 by 2010 might be an under-prediction.”


 現状では、統計的に見れば、たしかに日本でのエイズは問題でないかに見える。しかし、問題は2点ある。1つめは、先進諸国ではエイズは衰退の傾向にあるが日本は逆であること、2つめは、"The ignorance is huge"、つまり、無関心さだ。記事では、2010年に5万人を想定している。6年先は遠いのようにも思えるが、6年前はついこないだのことだったな。いずれにせよ、6年後、そのとき、日本のエイズ患者が5万人の水準になっているかが一つの目安になるだろう。が、そのときは、この不吉な予言の的中であり、事態はさらに難しくなっているだろう。
 この問題は、日本のメディアでは、若い人の性活動や避妊具流用の推進というお定まりの文脈で語られやすい。が、問題の大きな軸は、日本の性産業にもあるように思える。ロイターでは簡素にしか触れていないが。

But while in the past many cases involved foreign women in the sex trade or men who picked up the virus overseas, the sources of infection now are almost all domestic -- and spreading from major centres like Tokyo to cities around Japan.

 もうちょっとあからさまに言ったほうがいいのかもしれないが、控えておく。あと、以下についても引用だけはしておくが、コメントは控えたい。

Some 20 to 30 percent of 16-year-olds have sex, and nearly a quarter of these have four or more partners, said Masako Kihara.

“Only 20 percent use condoms every time,” she added. “They think they have a set partner, so it’s safe.”

Not surprisingly, both AIDS and other sexual diseases - such as chlamydia, which can cause infertility - are on the rise.


 ロイターの記事ではこの先、日本のエイズ検査の状況を問題にしているが、あまり踏み込んでない。ので、関連して、読売新聞に連載中の「エイズ・20年目の現実」の第四回(7.7)をひいておく。誰もが知っているが献血検査の問題を指摘している。

 こんな検査キットが、一年半ほど前から大手薬局の店頭などに並び始めた。一セット5000円弱と安くないが、販売元は「ほとんど宣伝していないのに、売れ行きは確実に伸びている。潜在需要は大きい」と話す。
 エイズ患者・感染者が増える中、感染の不安を抱える人の多さを物語る現象だが、こうした人たちを受け止めるはずの公的検査態勢が不十分であることの裏返しでもある。この現実は医療を支える献血の安全性をも脅かしている。検査目的とみられる献血が後を絶たないからだ。
 日本赤十字社は高精度検査を実施しているが、感染から二か月近くはウイルスが少なく検出が難しい。昨年末には、その「空白期間」に献血された血液が検査をすり抜け、輸血された患者の感染が報告された。
 厚生労働省は、再発防止策の一環として、検査目的の人には、献血窓口での正直な申告と日赤の提携病院で無料検査の受診を求める仕組みを整備する方針を打ち出した。
 しかし、日赤には反発の声がくすぶる。ある幹部は「保健所だけで不十分なら、全国の国公立医療機関で無料検査する枠組みを作ればいい。国は自らの努力を怠り、日赤に責任を押しつけている」と批判する。英仏などでは一般の医療機関で検査を受けるのが普通で、検査目的の献血は基本的にないという。

 端的に言えば、そういうこと言っている場合じゃないだろ、だが、日赤の問題の根は深い。というか、ブラジル沖までつながっていそうな井戸を覗き込むような感じだ。
 どうも喉にものが詰まったような言い方になってしまったが、どうもずばっと書くには危険なことが多いかなとつい思うようになった。ごめんな。

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2004.07.08

新暦七夕のこと

 昨日は七夕ということで、その手の話題をネットでもよく見かけた。が、そのうち、なんだか変な気がしてきた。七夕というのは本来は旧暦でやらないと意味がないのだが、そのあたり知識がまるでわかってないんじゃないか、というか、ネットって、百科事典的な知識がコピペで伝搬しているだけなんじゃないか。なんだ、これは、という感じだ。なので、ちょっと書いておくのもいいのかもしれないと思うのだが、顧みて、自分の考えが正しいと強弁するものでもない。
 まず、「七夕」と書いてどうして「たなばた」と読むかについてだが、このあたりの解説はけっこう多い。字引にも載っている。広辞苑にあるように、読みの元は「棚機」であり、「すなわち横板のついた織機の意」ということ。
 これは、「棚機つ女(たなばたつめ)」の略だ。ところで、この「つ」の意味についてはあまりネットでは見かけなかった。わかってないのかも。これは「国つ神」の「つ」であり、現代語の「の」つまり、「棚機つ女」は「機織りの女」ということだ。「まつげ」の「つ」もこれと同じだから「目つ毛」なのである。高校の古文とかでこういうのちゃんと教えているだろうか。ま、いいか。
 「棚機つ女」については、万葉集にこんな歌がある。


我がためと棚機つ女のその宿に織る白たへは織りてけむかも(2027)
天の川梶の音聞こゆ彦星と棚機つ女と今夜逢ふらしも(2029)

 表記は適当。意味もよくわからない。偉そうな解釈は明治以降いろいろついているが、2027は民謡臭いし、性遊戯が連想される。2029は、文字通りの意味ではなく、なにかの当てこすりなのか、いずれ歌の機能がありそうだ。というわけで、文学としてはなんだかわからない。わかるのは、万葉集の時代にすでに七夕の伝説はあったということだ。
 この「棚機つ女」を、近代の歌の表記によっては「織女」とすることもあるように、一般的には、これが理由で、中国の織女伝説と、日本の棚機姫の神が習合した、とかいう説明が多い。例えば、大辞林にはこうある。

奈良時代に中国から乞巧奠の習俗が伝来し、古来の「たなばたつめ」の伝説と結びついて宮中で行われたのに始まる。近世には民間にも普及。また、盆の習俗との関連も深い。七夕祭り。星祭。[季]秋。

 たしか古事記や日本書紀にも記録にあるのだが、私はこれは変だと思っている。というのは、日本の古来というのは幻想に過ぎない。日本列島の住民は、二、三世紀あたりで、すでに、北方系のツングース(かな)と南方系の海洋民の混血が進んでいたようだが、文化的に見れば、というか、権力的な家族システム的に見れば、早々に中華圏の影響を受けた辺境であり、端的に言えば、日本人はすべて中国人の子孫である。とだけ言うと、とんでも説になるのだろうが、原日本人なる実体を想定するよりはまともだろう。
 つまり、日本古代の氏族的なファミリー組織は基本的に中華圏の移民(華僑)のように構成されていたと考えるわけだ。とすれば、こうした七夕伝説なおは、日本と中国の習合ではなく、古中国(おそらく越人であろう)の文化と、万葉集時代の中国である唐(これは実はユーラシア民の王朝)の文化の混合からできたのものであり、基底には、古いか新しいかの違いはあるにせよ、道教があるはずだ。
 もう一点。七夕が今日の民間の風習になったのは、大辞林がいうように近世のことだ。どうも、潮干狩りだの七夕だのの年中行事は江戸時代にその時代の社会的な要請からできたようだ。ついでにいうと、ねぶた祭りだが、これの解説は概ね変だ。マイペディアではこうある。

青森,弘前など東北地方の七夕行事。弘前では「ねぷた」という。青森では8月3~7日に行なわれ,竹,木,針金,紙などで作った大きな人形(ねぶた)に灯をともして町を練り歩く。7日には船に乗せて海上運行が行なわれる。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の故事によるともいうが,元来は睡魔を払い流そうとしたもの。

 「睡魔」があきれるが、これは柳田国男だったか、「ねぶた」を「ねぶたし」の洒落にしてしまったためだ。しかし、「ねぶた」が「たなばた」行事であり、古代にその名称で確立していたのだから、「たなばた」→「たねぶた」→「ねぶた」といった音変化であることは間違いない。
 さて、とうの七夕の行事だが、これは、広辞苑にあるように実際の天体の状態が欠かせない。

五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。

 そこで、新暦で天の川の両岸に牽牛星と織女星が見えるのか?
 見えると言えば見える。だが、それでいいのか、というのが、冒頭、私の変な気がしたということだ。ちょっと説明したい。
cover
新暦7月7日21時<東>
 牽牛星は、鷲座 α Aquilae Altair、つまり、アルタイルなのだが、Altairと聞いてピンとこないコンピュータ技術者もいるご時世になってしまった。そして、織女星は、琴座 α Lyrae Vega、つまりヴェガだ。これに白鳥座座のデネブを加えると夏の大三角形ができる、のだが、都心だと見づらい。新暦の7月7日だと東の空のやや低い位置に大三角形が見える。ヴェガは高いのこれでも夏の大三角形らしさはある。深夜過ぎると月齢19日の月が東の下方向から登り始め、星は見づらくなる。あまり、七夕に適した夜ではない。まして、梅雨時である。
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新暦8月22日21時<西>
 これに対して、旧暦の7月7日、今年の場合は8月22日になると、やや西空ではあるが、21時頃には天空の中央に夏の大三角形が現れる。ちょうどステージに現れたという感じだ。そしてこの晩は月のじゃまがない。あたりまえの事だが、旧暦というのはムーンカレンダーなので、15日で満月になる。7日だとその半分というくらいだ。
 その他、ちょっと気になる天体シミュレーションをStella Thater Pro(参照)で行ってみた。天文ソフトだが、古代史と限らず歴史に関心のある人間には必携のソフトなのだが、そのあたりの話はまたなにかの機会にでも。

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2004.07.07

国松孝次元警察庁長官狙撃事件の裏にあるもの

 この話は書こうかどうかためらった。私が書かなくても、誰かが書くだろうというのと、私でないと書けない部分がありそうな点だ。後者については、書いても誤解されるだけで、うまく書けないだろうが…。
 話の切り出しは、朝日新聞系「オウム元幹部ら4人を殺人未遂容疑などで逮捕 長官銃撃」(参照)あたりがいいだろうか。意外に、若いネットの世代はすでにこの事件を知らないか、あるいは、この事件の持つ歴史的な感覚を持っていないだろう(批判しているのではないよ)。


 国松孝次・警察庁長官(当時)が95年3月、東京都荒川区の自宅マンション前で銃撃された事件で、警視庁は7日、オウム真理教(アーレフに改称)の信徒だった警視庁の元巡査長と教団元幹部2人の計3人が事件に関与した疑いが強まったとして、殺人未遂容疑で逮捕した。もう1人の教団元幹部も別の容疑で逮捕し、銃撃事件について事情を知っているとみて調べる。警察トップが銃撃されるという日本の犯罪史上例を見ない事件の捜査は、発生から9年ぶりに解明に向けて重大な局面を迎えた。

 ということなのだが、率直なところ、こんな話は、今さら、といった問題でもある。そのあたりは、「勝谷誠彦の××な日々」(参照)の今日7日のエントリがよく表現している。

ご存じのようにこの事件は今回逮捕された小杉敏行元巡査長が一度メディアに対して告白したもののそれを警察庁は認めなかったという「一度は終わった事件」である。

 そして、勝谷は、当然ながらというか、北朝鮮との関連に思いをはせている。勝谷の表層的なレトリックの部分については捨象して読むといいだろう。つまり、一度は終わった事件がなぜ、今蒸し返されたのか。

それがどうしてここへきて寝た子を起こすようなことになったのか。当時と今とで変化したことは二つある。一つは小泉首相がブッシュに続いて金豚の狗にも成り下がったことであり参院選に向けてのなりふりかまわぬサプライズのために次々と国を売り渡していることである。明らかに北朝鮮が関わっていると思われるこの事件がここで急に解決に向かうこととそれとを結びつけない方が不自然ではないのか。もうひとつはあの事件当時の国家公安委員長が野中広務だったことだ。闇同和の帝王が警察のトップを務めていたということ自体笑うほかはないが北とのパイプ役でもあった彼が権力のラインから退いたことがどういう影響を与えているのかどうか。ことは単純に金豚に恩を売るということではなくもっと複雑な「ラインの付け替え」が行われているのではないか。

 ジャーナリズムに関わった人間なら、勝谷のレトリックを除けば、特に驚くような話ではない。幾人かのジャーナリストはある程度まで食い込んだが、たぶん、ある鉄壁を前にしているはずだ。ちょっと下品な言い方だが、今朝の朝日新聞社説「北朝鮮――金総書記の小泉頼み」はこの観点から深読み出来そうなのだが、省略する。
 問題は、しかし、そこではない。勝谷は北朝鮮との疑惑以前にもっと重要なことを、ちょっととぼけながら、想起している。

また今回逮捕された中に含まれている石川公一は法王官房長官という麻原の側近中の側近でありながら処罰らしい処罰を受けずにそのことから公安のスパイではないかという見方まで出ていた。彼は小松島の医者の息子で灘の後輩です。すみません。それがここへ来ての驚きの逆転逮捕劇である。

 勝谷はこれ以上はここでは触れていない。朝日系の先のニュースではこうある。

 殺人未遂容疑で逮捕されたのは、教団元信徒で警視庁本富士署の元巡査長小杉敏行(39)▽教団元「防衛庁」トップの岐部哲也(49)▽教団元「建設省」幹部の砂押光朗(36)の3容疑者。
 教団「法皇官房」の事実上のトップだった石川公一容疑者(35)も、別の爆発物取締罰則違反容疑で逮捕した。

 ここで、少し私も逡巡するのだが、小杉敏行元巡査長と言えば、苫米地英人(英斗)を外すわけにもいかず、実は、彼は、かなり明確にすでにこの問題を多方面で語っている。というか、語っても空を切っているため、しだいに脇が甘くなっているかのような印象すら受ける。ネットのソースとしてこれをリファーしていいのか悩むが、重要な証言なので、利用させてもらう。「実話ナックルズ5月号」での彼のインタビューだ。これはたまたま阿修羅サイトに転載されている。阿修羅サイトには私は率直に言うとできるだけ距離を置きたいのだが、そういう気取った状況でもあるまい(参照)。

オウムの洗脳をふくめ一大体系を作り上げたのは、法皇官房の石川公一元幹部その人です。石川元幹部は地下鉄サリン事件の謀議をしたリムジン謀議の場にもいました。これは証言されています。また、そのリムジン謀議がサリン謀議として今回の麻原の第一審で初めて認定されたことは記憶に新しい所です。その認定されたサリン謀議に参加したにも拘わらず何故か罪に問われず、いまも社会で生活をしています。灘高から東大医学部を出た彼こそ、オウムの洗脳を作りあげた張本人です。ナルコとニューナルコ。ニューナルコは記憶を消すやつでナルコは自白させる。これを発明したのは、林郁夫みたいに言われてますが、違います。これを発明したのは、石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近は、石川公一元幹部なのです。またオウムの教義を作り上げたのも石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近であり、麻原のブレインは石川公一元幹部その人なのです。現在、石川公一の面倒を見ているのは、オウムや被害者の救済をする立場にある阿部三郎管財人です。被害者を今の立場に追いやった中心人物の一人である石川公一元幹部を、被害者を救済しなければならない阿部三郎管財人が面倒を見ているというのは日本特有の現象といえるでしょう(阿部氏は何も知らずに石川公一に同情したようです。石川公一は、『爺殺し』はうまいですからね)。

 取りあえず、この件の考察はちょっと中断する。私が書く必要もない。苫米地英人はこれ以上のことを知っているのであり、いずれ明るみに出るだろう。
 少し話の向きが変わるように思われるかもしれないが、苫米地英人はこの先、こう語っている。

苫米地  オウムの教義は中沢新一氏の唱えた物そのものです。中沢氏の書いた『虹の階梯』です。実際に麻原は獄中からも取り寄せています。氏がどう思っているかに関わらずオウムにとっては中沢新一氏こそオウムの教義そのものといっても過言ではないでしょう。オウムの教義編纂の中心人物でもあった石川公一元幹部が中沢新一氏のいる中央大学へ再入学したのも記憶に新しいところです。ほかにもタネ本はあります。これは私がある脱退した最高幹部から、催眠によってごく一部の人間しか入れない麻原の部屋を再現させ、彼の本棚にあった本をいくつも探し出しました。その中で、麻原がもっとも影響を受けた書物がこれです。

苫米地氏は青色の本を差し出した。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(ダンテス・ダイジ著/森北出版)

苫米地  この本は、オウムの一番のタネ本です。佐保田鶴治氏の『ヨーガ根本経典』も麻原が獄中から取り寄せた本として知られていますが、コアのヨガ的な洗脳の一番のエッセンスがちゃんと入っているのがこの本なのです。この書がオウムのタネ本であることはここで初めて紹介するわけですが、ここであかすことはきわめてリスクがあります。なぜなら、これを読むとカルトをつくれるから。
これだけでつくれてしまうのです。ですからずいぶん悩みました。しかし、オウムの洗脳を暴くためにも、あえて決断しました。このタネ本はオウムの高弟たちのごく一部しか知り得ません。


 このあたりの様相は、あの時代の空気を吸った人間ならそれほど秘密のことではない。中沢新一「虹の階梯」はよく知られている。また、佐保田鶴治訳「ヨーガ根本経典」は恐らくヨガに関わったことのある人間は誰でも持ち、読んでいる。ヨーガ・スートラについてはさておき、この本は、ヨーガ・スートラ以降のインド・タントラの古典を合本にしているので、きちんと知的訓練を受けていない人は、その流れで読んでしまいそうになる。つまり、タントラ側からヨーガ・スートラを理解するということだ。これは、もっとも合理的なアイアンガー・ヨガ、およびその源流のクリシュナマチャルヤ(Sri T. Krishnamacharya)との関連するのだが…ちなみ、昨今日本でも流行のパワーヨガはこの系統のもっとも合理的なもので、アイアンガー・ヨガに近いが、アシュタンガ・ヨガの亜流だ。アイアンガー・ヨガの公式教師も実際面では混同しているのだが、アイアンガー・ヨガにはもっと重要なセラピュイックな側面があり、これは米国でもあまり注目されずまして日本ではの状況だ…その話もここまで。
 タントラとヨガの関係、さらにそれがオウム真理教のようにチベッタン・システムと融合してしまうのは、成瀬雅春(例えば、「空中浮揚」)などでも同じ傾向がみられる。ちなみに彼と麻原の直接的な関係はなさそうで、むしろ、麻原の稚拙なインディアン・システムのヨガは桐山靖雄の初期の修業(例えば「人間改造の原理と方法」、なお本書は歴史文献である)に近い。桐山と麻原の関係については、よくわからない。さらに、桐山のヨガ的な源流は、本山博(例えば「密教ヨーガ」)と天風(例えば、「成功の実現」。廉価版もあるかもしれない)だろう。生長の家をこれらと密教とで味付けしなおしたという印象はある。なお、成瀬雅春や阿含宗を非難しているわけではないので、誤解無きよう。
 インディアン・システムのタントラとチベッタン・システムの融合は、Theos Casimir Bernard(参照)の"Hatha Yoga: The Report of a Personal Experience"にも見られるので、20世紀初頭のインディアン・オカルトの嫡流であるかもしれない。当然ながら、これに神智学が関与してくるのだが、この話もここまで。同様に、この神秘主義への探求は、バナードと同様、エリアーデにも見られるし、彼もまさに実践を通じてあの大著「ヨガ」を書き上げる。この傾向は、その後の立川武蔵にも影響している(「マンダラ瞑想法」など)のだが、くどいが、この話もここまで。
 いずれにせよ、オウム真理教における、インディアン・システムとチベッタン・システムの融合(またそれゆえに仏教が絡む)は、この分野をある程度系統的に見た人間ならそれほど違和感のないものなので、麻原の神秘体験記述は吉本隆明が驚嘆するものではなく、すぐに出典が連想されるようなものだった。と、私はなにを書こうとしているのか? オウム真理教における教義の、こうした宗教学的な側面の欠落についてなのだ。キリスト教と聖書学の分離のように、オウム真理教はなぜこの背景の流れを学的に相対化できなかったのか? また、その後も、日本ではこの研究がなされていない。宗教学者たち自身、神智学の基本もわかっていないようだし、まして、そこからの派生である人智学もこの流れを十分に了解していない。
 話を少し戻す。オウム真理教では、パーリー語訳などを行っていたわりには、教義は十分に史的に対象的に考察されてはいなかったのは、端的に、文献を読み下すことができなかったからではないだろうか。あの時代の、インディアン系の神秘学は、カリフォルニア・ムーブメントとしての文献は入っていても、大きな流れは見逃していたように思える。当然、そこからは、教義と神秘体験の融合がおこり、さらに、奇妙な亜流の解説書が溢れ、オウム真理教も一義的にはそうした解説書教義のパッチワーク化していった。このあたりは、麻原自身のケチャリー・ムドラの挫折体験なども興味深い。いずれにせよ、十分な文献に当たっていれば、佐保田訳だけを読むわけもないのだ。
 そして、だから、ここで、ようやく、これが出てくる。ダンテス・ダイジだ。彼は日本人であり、ネットを引いて驚いたのだが、情報がある。「ダンテス・ダイジについて」(参照)によくまとまっている。同サイトには他にもダンテス・ダイジについて触れているが、これを読めば、あえて私が書くまでもなく、いろいろ得心できることがあるはずだ。
 と、ここでこの文章を終わる。これ以上は、うまく書けそうにないからだ。文章が拙く、特定の宗教を批判しているかのように聞こえる部分もあるかと思うが、私の関心は世界史の潮流における宗教学の意味づけなのだ。そして、オウム真理教事件の一部もそのなかで位置づけられる部分があるとは思う。

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2004.07.06

日本でも携帯電話投げ競技とかやったらいいのに

 ホットドッグ早食い大会はMr.尊・Tsunami・小林が12分53個半を喰って、自身の世界記録50半を更新。4連覇。おめでとう! 半分のを残すところがスゴイ。普通、無理して喰っちゃうものね。セレブは違います。
 って、この手のネタを続けるわけではないけど、似たような面白い大会のニュースがあった。フィンランドで5日、毎年恒例「妻担ぎ競争」大会が行われ、エストニアのカップルが優勝した。エストニア勢の優勝は、1998年以来7年連続とのこと。日本語で読めるニュースではCNN Japan「妻担ぎ競争、エストニア勢が7年連続優勝」(参照)がある。


この競争は、カップルの男性が女性を担ぎ、約252メートルの障害コースを走るというもの。この大会の由来は、19世紀末に近隣の村から女性を盗み出す習慣があったという言い伝えや、盗賊が男の価値を証明するために、ライ麦袋を担いで競争したという逸話を元にしているという。正式な夫婦でなくとも出場でき、今年は約7000人の観客が見守る中、カナダや英国などから18組のカップルが参加した。

 英語では、BBC"Estonian carries 'wife' to glory"(参照)など。これには写真もついておもしろい。
 私はこの風習は欧米に根強いのではないだろうかと思った。映画「ある愛の唄」でも新居に新妻を運び入れていたが、ああいう風習がベースなのではないだろうか、とね。
 妻担ぎ関連のたるいニュースをぱらっと見ていくと、他にもこの手のお笑い大会がフィンランドには多いようだ。"Estonian couple take home Wife-Carrying title"(参照)にはこうある。

Another "typical" Finnish event is the mobile-phone throwing competition at the end of August, which incidentally takes place on the same weekend as the infamous air guitar contest. Both are hugely popular with foreigners.

 携帯電話投げ競技や、ギターを弾く振り競技だ。いかにもネット的な話題なので、ちょっと探すと日本語で読める記事も多い。例えば、「FINLAND CAFE 80」(参照)など。
 それにしても、携帯電話投げ競技というのはいいなと思った(ノキア以外にソニーを投げてもいいらしい)。日本でもやったらどうだろうか、と思う。参院選前だからなのか、世の中、嘘くさい偽善ムードが漂っていて、うっとおしくてたまらない。2chが又吉イエスに騒ぐのもわからないではない(沖縄という背景を知らないとただのギャグにしか見えないのだろうし)。トリビアの泉でも、壊すネタがなんか最近減ってきた。番組に偽善ないちゃもんが多いのだろうが、お子様番組の本道を貫いてほしい。
 とま、話はそれだけなのだが、なんかこう痛快なおバカが足りないような気がするし、その欠如はどうもイカンのではないかと思う。という文脈で、小林よしのりの話題に振るわけでもないし、それに単純に批判するというわけでもないが、この人の考えにはついていけないなと思った分岐点を考えると、れいのAIDS問題の抗議活動で、当時の厚生省の食堂でバカ喰い計画を大々的に実施しなかったことじゃないか。あそこで、一端サヨクに取り込まれて、お手々つなぎとかでお茶を濁したのだが、元に戻ってバカを貫いて欲しかったな。その後はなんか、おバカが欠乏しているように思う。本当の批判力はものを恐れない自由なバカであることじゃないのか。
 話がたらっとするが、私は頭のなかにバカが足りないと不快になる。ので、Mr.Beanのコンプリート版だのサウスパークだのに没頭するのだが、そういえば、Beanのネタで、壁に貼った皇太子チャールズの写真の首を切るというギャグがあった。私は爆笑した。が、文藝春秋で井上章一は、このギャグには笑えなかったと書いていてちょっと驚いた。猪瀬直樹も似たようなことを言っていたように思う。
 そうか? 日本でもこれができるくらいでなくちゃ、天皇家はもたないよと私は思ったのだ。逆にいえば、ニューカッスル大学を首席卒業後、オックスフォード大学修士に進んだローワン・アトキンソン(Rowan Atkinson)のようなのがいないと、知性っていのはバックボーンが無くなるよ。東大出のタレントなんかどうでもいいから東大出の本格的なお笑いはいるのだろうか?
 マイケル・ムーアの「華氏911」は見ていないのだが、話を聞くに、マッドアマノみたいなとほほなセンスのような気がする。違っているといいのだけどね。

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2004.07.05

ユコス国有化が暗示するロシアの大望

 そこまでやるか屋敷しもべ。っていうか、さすがだ。というわけで、読みを外してしまったので、追記話を書くしかあるまいな。事件は、産経系「プーチン政権 露ユコス国有化へ 本社ビル差し押さえ “独裁化”に懸念も」(参照)に詳しい。標題通り、ユコスは国有化されてしまった。


【モスクワ=内藤泰朗】ロシア治安当局は三日、巨額の追徴税支払い命令を受けた同国石油大手のユコス本社ビルを封鎖、差し押さえた。近い将来、同社の一時国有化は避けられない事態となった。ユコス側との妥協を一切拒否し、警察権力によって同社を国家管理下に置いたプーチン政権の独裁的手法は今後、同国の民主主義の発展に大きな傷となっていくものとみられる。

 記事を読んでいただければわかるが、ナニワ金融かガサ入れかなんてもんじゃない。ちょっと昔のサヨク用語で形容したくなるような話だ。ロシア国内問題で済む話じゃないのに、そこまでやるのか。まったく、読みが甘いね、甘っちょろいね、極東ブログさんである。と、までは言い切れないのは、国際市場っていうものがあるからだが…。

 政権側は「金の卵を産むニワトリを殺しはしない」(プーチン大統領)方針だ。同社の一時的な国有化の後、政権側に有利な株式売却などを行い、現幹部を一掃して従順な新会社として再出発させる戦略との見方が広がっている。

 が、ある程度まで産経の読みでいいのだろう。

 しかし、同社に追徴税を支払う機会を与えずに優良民間企業の資産を「石油は国民共有財産」として国家管理下に置いた手法や、政権が、同社と同じように国家資産を「横領した」ほかの企業には目をつむり、特定企業を弾圧した事実はぬぐえず、政権への信頼低下は避けられない。

 しかし、ここまでやるのに、政権への信頼低下なんていうもんじゃないでしょう。だから、次の期待も甘い。

 だが、その論理と手法は、ロシア革命を主導した「ボリシェビキ(後のソ連共産党)」流にも通じかねない。国民が「こうした公約は幻想に過ぎない」と認識したとき、大きな反発に発展する可能性は否定できない。

 甘いな。そんなことはないな。というあたりで、先日極東ブログ「宣戦布告なき石油戦争の当事者は日本と中国」(参照)を描いたとき、わざとシカトを決め込んでいたが、Newsweek"The Yukos Endgame"(参照。なお、同記事は日本版7.7「石油を制した大統領」に訳文あり)の筋書きが概ね正しいようだ。といって、さすがにここまでの事態を読み切っていたわけでもない。

Yukos will, in essence, pay its tax bill with stock, or end up in the hands of a company friendly to the Kremlin, effectively renationalizing the firm and giving Putin better control of a strategic resource. "Putin wants to be Sheik Yamani in 1973," says a longtime American observer of the Russian market.

 しかし、事態がどう転んでも、プーチン大統領が1973年時点のヤマニ(サウジ石油相)になろうとしている話は、シカトもできないし、笑えもしなくなった。
 さーて、問題はやり直しだ。問題は、日本であり中国なのだ。

Putin is making it clear that energy decisions with foreign-policy consequences are not for businessmen to make. In the Kremlin's view, one of Khodorkovsky's great sins was to push for an oil pipeline from Siberia to China - Russia's top security threat in Asia. Putin has scrapped that idea in favor of a more expensive and less commercially viable pipeline to Japan.

 ということだ。つまり、例のシベリア石油パイプラインを中国に向けることは、経済的な理由を度外視して国策として許さないということだ。もうちょっと露骨に言ったほうがいいかもしれない。ロシアは近未来に中国と対立することになるので、日本を巻き込んだ形で対中国の布石を取るということだ。
 嬉しいか、日本?
 別に嬉しかないよ、とつい言いそうになる。それより北方領土を早く返せとか言いたくなる。言えよ、である。屋敷しもべのほうが格段に力が上だ。

No question, President Putin may have a score to settle in the Yukos affair, but Sheik Putin has bigger aims in mind.

 溜息がでる。"Sheik Putin"…シーク・プーチン、いや、違う、「シャイフ・プーチン」と読まなくてはこの文章は通じない。
 プーチン首長のより大きな目標?、それを阻止できるのは、世界市場だけだが、その世界市場は、端的に言って、米軍の新しいシフトの下でしか機能しないんじゃないか。

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2004.07.04

警察の不正は問題だが、もっと身近に変な警察をどうにかしろよ

 以前の話「身近な警察の問題」(参照)とかぶるが、このところ新聞各紙の社説で昨今の警察の不正を扱うネタが目に付く。でも、なんだか抽象的な話が多いなと思う。偉そうなお説教するより、具体的に警察を変えていかなくてはダメだと思う。ということで、まず、ここを変えろと思うのは、ネズミ取りだ。法治国家の日本でなんであんなことが実施されているのか、呆れて物が言えない。
 と言ったものの、最近、自動車に乗ることが少ないので、現状はどうだろうと、ネットをふらっと見回してみると、どうやら、ネズミ取りは少ないようでもある。そうなのか?
 kunisawa.netの「知っておくと便利です」(参照)にある「ネズミ取りは教え会うのがルール?」の話が面白かった。近年、一般道でのネズミ取りは少なくなったというのだが、どうやら最近復活の兆しもあるとのこと。そこで、あれ?と私も思ったのだが、ネズミ取りのマナーを知らないドライバーが増えているようなのだ。


 で、何が行いたのかと言えば、どうやら最近の若いドライバーは、ムカシから引き継がれてきた美しい行為を知らないらしい。「ヒジョウに安全だと思われている場所」でネズミ取りが行われてのを見たワタシは、突如ヘッドライトが壊れてしまい、なぜか対向車にパッシングしてしまう。困ったことであるけれど、ベテランドライバーは皆そうやってきた。突如ヘッドライトが壊れるワケね。
 普通なら対向車のドライバーも、これまたなぜかスピードを落とす。別に落とせと言ってるんじゃないのに、不思議にアクセルを戻したくなっちゃうらしい。ところが、である。元気よく走ってきて信号で止まった若い兄ちゃん風のシルビアにパッシングしてやったら、怒ってるじゃないの! 窓を開けて「何かモンクあるのか!」と凄み始めた。この時、全てを納得してしまったのだ。

 私も、え?と思った。そうなのか。

 そいつは美しい日本の風習を知らなかったのだろう。最初に書いた通り、確かに最近は高速道路でしかネズミ取りをやらなくなっている。となると免許取り立てのドライバーとしちゃ、パッシングの意味が解らない。きっとその兄ちゃんもネズミ取りやってるのを見たら(もしかしたら捕まったかも)、ああそうだったのね、と納得したろうけど……。後日、若いドライバーに聞いてみたら、皆さん案外と知らない。

 確かに、交通法規には書いてないけど、そうやって日本人庶民は、無法な警察に対処してきたのであって、考えようによっては、昨今警察が不正にまみれているのは、日本の庶民の知恵による睨みが利かなくなったからではないか。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、警察のなかでちょとくらい裏金作りがあってもいいけど、それだって、地域社会のなかでのお目こぼしの範囲であっただろうと思うのだ。
 引用が多くなっていけないが、もう一点。

 それより大切なことは「キチンとした取り締まりを行う」ことだと思う。20㎞制限となっている狭い学童の通学路などで取り締まりをやってくれるなら、警官に差し入れしたくなることはあっても、誰だって対向車にパッシングなどしない。交通の流れを滞らせるホントにジャマな場所の駐車違反などは、即刻レッカー移動したっていいのだ。警察当局(特に交通関係)は、多くの国民から嫌われていることを認識すべきであろう。

 これは、本当にそう思う。特に、学童やお年寄りがスーパーに通う道でこういう困った駐車が多い。っていうか、小さなスーパーに車で来るんじゃねーと思う。
 ついでに言うのだが、最近、歩道をちんたら自転車で走る警官をよく見かける。警官をどやしつけてやることもあるのだが、叱られて、のほのほんとしているんじゃねーよ。道交法を知らないのだろうか、警官は。歩道というのは、特別に標識で自転車の通行が認可されているところ以外は、走ってはいけないのだよ。警官が道交法を破ってどうする。
 また、自転車の通行が認可されている歩道でも、歩行者が優先なのだ。だから、歩道を走る自転車は、歩行者の通行を妨げてはいけないのだ。後ろから、ちりんとベルを鳴らすばかものが多くて困る。おまえさんにだって口はあるだろう。「すみません」の一言を言えと思う。
 とま、ボヤキ漫才のようになったが、マナーというほどでもないのだろうが、当たり前の社会自治の知恵みたいのが薄まった分、警察もおばかになってきたのだと思う。

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2004.07.03

日本の高齢者介護問題は外国人看護師・介護士から検討しよう

 朝日新聞社説「介護保険――行きづまりをどうする」を読みながら、高齢者介護問題のことをぼんやり考えた。「ぼんやり」というのは自分が考えがまとまらないこともあるのだが、社説が的を得ていない。端的に、解決策の提言がない。問題は、まず、金(かね)ということだろうか。


 00年度に始まった介護保険はこの4年間で、利用者が300万人に倍増した。なかでも訪問介護や通所介護などの在宅サービスは2・3倍も伸びた。老後の支えの一つとして頼りにされているのだ。
 だが、金は天から降ってこない。当初3・6兆円だった費用は今年度、6・1兆円にふくらむ。3年ごとに決められる65歳以上の高齢者の保険料は、平均月2911円から3293円に上がった。

 当然と言っていいが、保険料の対象は若い世代に向かうのだろう。朝日新聞はこうした問題をなぜ参議院選挙で議論しないのかと責めるのだが、ちょっとタメくさい。年金がボロボロなんだから、ダメに決まっているという現実がある。
 厚労省はどうしようとしているのか。朝日新聞はこう見ている。

 本当に高齢者の自立に役立つサービスに切り替える。介護を必要としないよう介護予防に力を入れる。そうして、できるだけ利用者が増えないようにする。
 特別養護老人ホームなどの施設は、介護だけでなく食事や住居の費用まで保険でみているが、この部分は在宅サービスと同じように高齢者に負担してもらう。
 介護保険の対象を高齢者だけでなく障害者も加え、介護が必要な人は国民全体で支え合う仕組みにする。保険料は高齢者と40~64歳の人だけでなく、新たに20~39歳の若い世代にも払ってもらう。

 よくわからん。
 朝日新聞は介護予防は当然だとしてそれ以上言及していない。私はこの問題にはなにか大きな錯誤が隠されていると思う。そう思うのは、メディアはさも日本人は米国人より健康だみたいな法螺を吹くが、100歳以上の老人の人口や、高齢者の自立という点で、たしか日本は米国にはるかに劣っていたと記憶している。誰かがグルでなんか隠蔽しているなという感じがする。ついでにいうと、アルツハイマー病の統計も日米間でなにか違う。
 次に、食事や住居の費用まで保険でみるのを止めるというのだが、実際上、日本の場合、高齢者介護は子どもが主体になっているはずだ。朝日新聞はわざとなのかそこを最初から無視している。子どもが親の面倒をみろ、と単純に言うのではないが、まず、その支援策から検討されてしかるべきではないのか。
 介護保険と障害者福祉の統合については、金の問題はさておくとすれば、なにが問題なのかよくわからない。
 朝日新聞社説で、なにかまた隠蔽しているなと思ったら、外国人看護師・介護士についてなにも言及していないことだ。関係ない話題でもないだろうに。
 読売新聞系「外国人の看護師や介護士、「受け入れ」申請次々」(参照)をひく。

 政府が地域を限定して規制を緩和する「構造改革特区」の第5次の申請で、全国12の病院や介護施設などが、外国人の看護師や介護士の受け入れを認めるよう求めていることが、30日明らかになった。
 高齢化の進展で、地方を中心に看護師や介護士の不足が深刻化していることが背景にある。政府は外国人労働者の受け入れに高いハードルを設けているが、フィリピンとの自由貿易協定(FTA)の交渉では、フィリピンが看護師と介護士の就労を求めていることもあり、今後、外国人受け入れを巡る議論が活発化しそうだ。

 私の率直な考えを言えば、改革特区なんてまどろこしいことしてないで、さっさと全国レベルで外国人の看護師や介護士の受け入れを推進すればいいと思う。FTAの考えからしてもそうだ。
 この問題は、「ナース・スタイル」というサイトの「"外国人看護師さんの受け入れ"って」(参照)が詳しく諸点を上げていて参考になる。ただ、問題点の指摘は変だ。

 これら賃金面以外でも、看護師1人に対する患者数の多さなど深刻な問題が多数あり、フィリピンでは、海外へ職場を求める看護師があとを絶ちません。
 しかし、この“海外出稼ぎ”は、自国に対する経済貢献である一方で、ある大きな問題を生み出しています。というのは、このままのペースで看護師の海外流出が続くと、近い将来、フィリピン国内の看護師の人材不足という問題が起こってくる危険性があるのです。

 なんだかサヨクの言いそうな話だし、くだらない。まずこの視点はフィリピン政府をばかにしているし、なにより看護師のニーズがフィリピンで高まれば裾野が広がる。
 むしろ提言内に潜む問題が気になる。つまり、「日本語」だ。おそらく、外国人看護師・介護士というとき、日本人は日本語が気になるのではないか。あるいは、またこれを非関税障壁にするのではないか。
 しかし、それこそくだらないと私は思う。フィリピンの看護師を例にすれば、英語は十分できる。とすれば、日本側で通訳の草の根ボランティアが補助すればいいのではないか。こんなものは簡単に解決する。
 いや、と私は逡巡する。本丸の障壁がどこにあるかを私は知っているからだ。ちょっと恐くて書けないけど、自分が入院したり親族が入院した経験者なら、わかるよね。

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2004.07.02

英語の動詞には未来形はない

 英語についての話。「はてな」にちょっと面白い質問が上がっていた(参照)。


英語について、どうして過去は、過去形とかで表現するのに(wentとか、cameとか。)、どうして未来形は助動詞で表現するのか、歴史的背景や文化的背景から何か理由があったら教えて下さい。

 回答期限を早々に打ち切ったのか、掲載されている回答は一件のみ。しかも、その回答はちょっと検討違いのようだ。

 ヘブライ語の説明に、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。とあります。
 英語もその影響をうけて、すべてはすでに完了したこととして考えて、文法としての未来形というものをもっていないのではないでしょうか。

 え?みたいな感じだが、もとネタ「ヘブライ語の超論理性について」(参照)自体、愉快な説明だ。

ヘブライ語は、伝言ゲームをしても変わらない言語だと言われている。それは、あいまいな言葉が無く、すべて具体的だからである。そのため、聖書が書かれた時代の古代ヘブライ語は、現代ヘブライ語とほとんど変わっていない。

 それは、現代ヘブライ語が古代を模した人工言語だからだ。このあたりは先日のNHK特集の「エルサレム」でも触れていた。現代に合わせるためにけっこう造語したらしい。余談だが、インドネシア語も人工言語だ。マレー語を元に英文法で整えている。国ができると自国の言語を作ってしまうものなのだ。古くはラテン語もそう。地方の語彙にギリシア語文法をぶちこんだ。日本語については主要な論にはなっていないが、7世紀の国家成立に合わせて作った人工言語だろう。倭人の語彙に朝鮮語の文法をぶちこんでしまった。さらに余談だが、フランス語もけっこう人工言語くさい。どこの国の愛国者も自国の言語に陶酔しちゃうし、私もその傾向が強いのだが、起源を冷静に考えると、そんなものだ。そして、これには宗教が絡みやすい。聖典が言語の規範となりやすいからだ。ドイツ語とルター訳聖書、英語と欽定訳聖書。そして、コーラン(クルアーン)も原資料はアラム語っぽいのに、アラビア語となっている。
 話をちょっと戻す。先の説明からひく。

 聖書のヘブライ語の最大の特徴は、時制が無く、完了形か未完了形か(**)の区別しかない事である。すなわち、超論理的なものを表現し、信仰が最もfitする言語である。これは、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。

 信仰の表明みたいなので真偽を問うものでもないが、時制のないという特徴はたしか、セミティックに見られるので、ヘブライ語だけでもない。ので、信仰がフィットするというものでもないわけだ。
 それに、キリスト教とヘブライ語はそれほど関係はない。というのも、キリスト教に至る歴史のなかでは、日本でもようやく翻訳が出てきた70人訳聖書からできているので、直にヘブライ語(一部マラキなどアラムのはずだったと記憶しているが)の聖書を読むという態度は、実はユダヤ教か近代のキリスト教(ルター以降)でしかない。が、このページではこうメモしている。

プロテスタントの旧約聖書は、ヘブライ語 → 日本語

 パウロ書簡やルカが引用している旧約聖書は70人訳なので、結局、70人訳がキリスト教徒にとっての旧約聖書にならざるをえない。
cover
Essentials of
English Grammar
 ってな、話は、ご信仰をくさしたい意図はまるでない。誤解なきよう。が、こうしたお話は英語の時制とはまるで関係ない。ので、もとの「はてな」の質問に戻る。
 実は、問いが間違っている。「どうして未来形は助動詞で表現するのか」ではない。時制と時間の表現の違いが混乱しているのだ。未来形というのは時制の問題であり、助動詞を使うのは未来という時間の表現の問題だ。その意味で、一つの回答は、英語には未来時制がない、となる。
 こんなうざったい話をネタのしたのは、こういうことを今の学校ではきちんと教えているのだろうか、と疑問に思ったからだ。つまり、英語には未来時制はないよ、と。
 私が以前も薦めた文法書、イェスペルセンの""Essentials of English Grammar"には、こう明記されている。Preteritは、過去時制の形態のことだ。

The English Verb has only two tenses proper, the Present and the Preterit.

 つまり2つだけ。時制と時間表現については、イェスペルセンはまず基本を簡素に解き明かしている。

It is important to keep the two concepts time and tense strictly apart. The former is common to all mankind and independent of language; the latter varies from language to language and is the linguistic expression of time-relations, so far as these are indicated in verb forms. In English, however, as well as in many other languages, such forms serve not only for time-relations, but also for other purpose; they are also often inextricably confused with marks for person and mood.

 彼は、さらに、英語において未来時間がどのように表現されているかについて、shallとwillの議論をかなり厳密に進めているが、英語自体が元来未来時制をもたないために、明確な議論ができるわけでもない。

We have come to the end of this survey of the various functions of the two verbs will and shall, in which we have seen that they still to some extent preserve the old meanings of volition and obligation, but often combine these with the idea of futurity, and finally very often denote futurity pure and simple without any visible trace of the original meanings. Matters are thus far from simple, chiefly because the English language to express the three distinct ideas of volition, obligation and futurity possesses only two auxiliaries; but also because there is always some inherent difficulty in speaking with certainty of what is yet to come, more particularly so if it is to be viewed as independent of human will. .....

 現代言語学は嫌う説明だが、英語には言語システム上未来時制がないために、その表現のなかに話者の意識のありようが反映してしまうというのだ。逆に言えば、英語という言語はそれだけ、話者の意識を問うとも言えるだろう。
 このことは次のような含みがある。

But the tendency to use will everywhere is to some extent counteracted by the desire for clearness, which requires the notions of volition and of future time to be kept distinct in all those cases in which actual misunderstandings of importance might arise. This leads, on the on hand, to a frequent use of stronger expressions like want, intend, mean, choose instead of will, and on the other hand, to the preference for shall in combinations where one particularly often has occasion to speak of someone's will, namely in the first person, in questions in the second person, and finally in conditional and relative clauses: in these cases it is desirable to have neutral auxiliary which does not imply volition. .....

 イェスペルセンがすばらしいと驚嘆するのは、このあたりの言語に対する直感だ。つまり、言語システムとしては(これをラングと言っていいのだろうけど)、未来形に準じるかたちで、willを形式的に使いたいという話者の制度的な無意識を想定しているのだ。が、これが実際の発話(パロールと言っていいだろう)によって、つねに揺り返される。だから、英語には、want, intend, mean, chooseと言った表現が、むしろ言語の運用(パロール)側から言語の組織(ラング)を変動させる要因になりうる…ま、言語学的にはそういう要因はありえないことになっているのだが。
 なお、現代英語で見るなら、shallは固定的な表現を除けば、古めかしく、また、be going toの用例も広まりつつある。
 関連して、英語に未来形が存在しないことから、現在形を使った「仮定法現在」が英語には生じうるのだが、このあたりは、あまり英語の学習書などで見かけない。あるいは、仮定法現在というとらえ方が違っているのかもしれない。イェスペルセンもこのあたりは、現在形を使った未来の表現としているようだ。
 この話はすでに絶版のようだが、一般書の「学校英語のウソ」(有川清八郎)が詳しい。

 また、英語の動詞には「未来形」がないという事実を意識している人は、あまりいないようです。
☆英語の動詞:「現在形」 He does …有り
       「過去形」 He did …有り
       「未来形」 --- 無し
 仏語の動詞:「現在形」 Il fait …有り
       「過去形」 Il fit …有り
       「未来形」 Il fera …有り
 そして、英語では、助動詞のWILL・SHALLなどの「現在形」により[現在における未来]を表現し、また、こらの助動詞の「過去形」により[過去における未来]を表現するという事実も、あまり認識されていないようです。
 したがって、「あとで、あの子が宿題をする時、…」と言うのに、この[する]は仏語では未来形が使われますが、英語では「現在形」が使われることになります。
☆英語:When he does his homework later,…
 仏語:Quand il fera son devoir plus tard, …
 そして、この英語の「現在形」は、まだ宿題をし始めてはいませんので、[事実を述べる]のに使う「直接法現在」ではなく、あとで宿題をするかも知れないという[仮定を述べる]のに使う「仮定法現在」であることになります。
 また、この「現在形」が「仮定法現在」であることは、「仮定法」が現実の[過去]・[現在]・[未来]という時制には関係なく、過去にも使われることからもわかります。
☆あとで、あの子が宿題をする時、手伝ってやろうと思います。
=I think I will help him when he does his homework later.
 あとで、あの子が宿題をする時、手伝ってやろうと思いました。
=I thought I would help him when he does his homework later.

 この問題は、口語の状況や、米国と英国とでも違う傾向もあるようだが、いずれにせよ、英語の動詞に時制としての未来形がないということから派生してきている問題のようだ。

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2004.07.01

子どもがキレて何が悪い

 こういう馬鹿には知の鉄槌を下してやらなくてはいけない、と思った。読売新聞系「キレる子供の脳には特徴?1万人追跡調査へ」(参照)を読んで、そう思ったのだ。
 この法螺話を真に受けるとこうだ。近年、ささいなことですぐにキレる子供が増えたのは、ゲームやインターネットの普及などと関連がありそうだが、因果関係はわからない。そこで、科学的に研究しようというのだ。


 少年犯罪の増加や学級崩壊、不登校のまん延などの原因を、最先端の脳科学で探ろうと、文部科学省所管の独立行政法人科学技術振興機構は29日、零歳児と5歳児計1万人について、行動の特徴と脳の働きの関係を5年間にわたって追跡調査すると発表した。
 同機構は、体を傷つけずに磁気や光で脳内の活動を調べる「機能的MRI(磁気共鳴画像)」や「光トポグラフィー」といった最先端技術を活用。子供の生活状況や心身の発達、言語の習得具合などを調べながら、脳との関係を長期間にわたって観察する。
 そのうえで、家庭環境の違いや地域差、男女差なども詳しく分析。問題行動を起こす子供の脳の特徴や、その原因などを突き止めるのが目標だ。

 私は一読して馬鹿かと思った。ふざけてんのか新聞と思った。が、そうでもない。この愚劣な研究はマジである。「科学技術振興機構報」(参照)を読んで、私の脳はキレた。いや、キレたらいいのだが、率直に言えば、落胆した。ものすごい疲労感を感じた(暑いしな)。というわけで、私は、たらっと書く。誰か、ネットの天才たち、きちんとこの汚らわしきものを踏みつぶせ、と期待するよ。
 あのなぁ、とまず言いたい。子どもがキレる。というのは、心の働きだ。でだ、その心の働きは脳と因果的に関係なんかない。脳の働きは心の働きと共時的な変化の相を示す。しかし、それは因果関係ではない。あれほどいそいそと脳をこじ開けて奇妙なコビトの絵を描きだしたペンフィールドも、だからこそ、脳と心の関係はつながっていないと得心した。近年では、脳の病変と心理を追及したファインバーグは「自我が揺らぐとき」で、こう結論づけるしかなかった。文章は難しいし、訳者たちはフッサールの現象学をまるで知らないので哲学的にトンチキな訳語を付けているが、そんなこたぁ、目をつぶれ。

 意味の存在論が個別的であるように、個々の目的も存在論的に一人称であって、自己の「内なる視点」でのみ存在する。観察者は相手の脳のなかに目的の在処をつきとめることはできない。「意志」は触ったり指摘したりできるものではない。意志的行動を創出する脳の神経細胞の発火パターンを明かにすることができても、その発火パターンが目的をもった行動の一部であることを示すものは何もない。

 ファインバーグは哲学的に偉そうなことが言いたいわけではない。本書を読めば、彼がきちんと患者に向き合っている態度がわかるだろう。そうした日々の積み重ねとまっとうな思考から、脳は意志とは関係ないと主張しているのだ。
 どだい、子どもがキレるというとき、今の日本人は、それは脳が壊れたとでも思っているのか?
 もちろん、子どもだから感情が制御できないことはある。しかし、そうした感情が制御できない訴えかけもまた、純粋に人間の行為であり、人間の意志の現れではないか。自分が子どもだったとき、つらくキレたときのことを思い出せないのか。そうしてキレることがどれほど人間的であることもわからないのか、馬鹿ども、と私は思う。
 私は先日の参議院の年金議論のとき、一人国会に行って、石でも投げ込んでやろうと思った。キレたからだ。もちろん、というか、残念なことに、実行はしなかった。ふがいないと思った。普通の国民なら、キレる。なぜ日本人はキレないのかいぶかしかった。そして、今度はキレない子どもをつくるというのだ。
 ちょっと話が前後するが、このニュースを読んだとき、私はテクニカルにはMRIの危険性を思った。MRIは必ずしも十分に安全ではないし、生育期の子どもに適用すべきではないと考えるからだ。しかし、この点は、実はこっそり、日立製作所フェロー小泉英明の研究について当たってみた。安全性はそれほど問題はなさそうだ。逆にいうと、だから、こんな馬鹿げた発想を得たのだろう。
 この記事は、読売新聞以外に、私の知るところでは、朝日新聞にも掲載された。ネット上では「TVゲーム、パソコンどう影響 子どもの脳、1万人調査」(参照)がある。

 インターネットやテレビゲームなどの仮想空間と現実との混同は起こっているのか――。子どもの脳のメカニズムについて科学的に解明する研究を、文部科学省が今年度から始める。医学や脳科学、教育の専門家らが、乳幼児1万人を10年かけて追跡調査する。育児や教育の現場で役立ててもらう狙いだ。

 なにが育児や教育現場に役立てるだ。おめーらきちんと取材しろよと思う。取材というのは、言われたことを垂れ流しするんじゃなくて、こういう問題の背後に潜む、およそまっとうな人間の常識に反する危険な臭いを嗅ぐことだ。
 ここで利用されている技術「光トポグラフィ」は、近赤外線を光ファイバーで脳の外部から当て、それが頭骨を抜けて脳表面でどのように反射するかをもって血流を測定する技術だ。動き回る子供でも簡単に検査できる。かなり安全だとは言えそうだ。が、ジャーナリストなら想像してみなさい。頭に多数の光ファイバーを付けたその光景を。なにか思い当たるだろう。同じだよ。それに気が付くっていうことがジャーナリストだ。
 いや、普通の常識だと言っていい。1959年、文芸評論家小林秀雄は当時の最先端技術としての嘘発見機の愚かさをきちんと見抜いていた。「考えるヒント(文春文庫 107-1)」より。

 機械が、望み通りに、驚くべき性能を発揮するとする。裁判官は言う、「嘘をつくと、嘘発見機にかけるぞ」。被告は主張する、「嘘だと思うなら、嘘発見機を使用されたい」。たったそれだけの事を考えてみても、既に良心の住処が怪しくなって来るだろう。だが、嘘をつくつかぬという事は、良心の複雑な働きの中のほんの一つの働きに過ぎない。嘘はつかなくても、悪いことはできる。もし、嘘発見機に止まらず、これが人間観測装置として、例えば、閻魔の持っている照魔鏡のような性質を備えるに至ったならどうなるだろうか。この威力に屈しない人間はいなくなるだろう。誰にも悪いことは出来なくなるだろうが、その理由はただ為ようにも出来ないからに過ぎず、良心を持つことは、誰にも無意味な事になるだろう。人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械なららば、その性質は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威圧する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。そうすれば彼らが、もはや人間ではない事だけは、はっきりわかるだろう。
 私は、徒らな空想をしているのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。…

 キレない子どもをつくるために、人間観測装置を作り出す愚かさは半世紀近くも前に一人の常識人が喝破していた。こんなものを真に受けるやつらは、おかしいぜ、と。

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