[書評]こわれた腕環(ゲド戦記2)アーシュラ・K・ル=グウィン
この数日鈍く追われるように考えていたことがあった。論理的に考えてもわからない問題は、深く自分の魂の奥の声に耳をすますほうがいい。その声は、ル・グイン「こわれた腕環(ゲド戦記2)」"THE TOMBS OF ATUAN"を再読せよ、とつぶやいていた。
![]() こわれた腕環 |
二巻目「こわれた腕環」はゲドの物語としても読めるが、主人公はゲドではない。二巻目だけを読んでも話がわからないということはない。この物語では、主人公はテナーとよばれる少女だ。テナーは幼くして、恐るべき闇の存在に支配されたアチュアンの墓所の大巫女のアルハとなる。この任命はダライ・ラマに似ている。死者の蘇りのとしての大巫女だからだ。アルハとは、この墓所の悪しき存在である「名なき者」によって魂を食い尽くされた「喰らわれし者」の意味である。
物語は、アルハ/テナーが女性としての魂の成長と決意を遂げながら、ゲドによって救い出されるという仕立てになっている。が、ここでも物語の比喩はそう単層ではない。根幹にある神話的・哲学的なテーマは、「少女/女」という存在と、世界に向けられたその存在論的な意味だ。
物語をなぞりたい。少女テナーは根源的な悪意の象徴である墓所に連れてこられ、犠牲となる。
突然、玉座右手の暗がりから、白い毛織りのガウンをはおり、腰に革帯を巻いた人影があらわれ、大股で石段をおりてきて、子どもに近づいていった。白い覆面の男で、その手には一メートル半はあろうかと見えるよく光る刀が握られていた。男は少女のかたわらに立つと、無言のままいきなり両手でその刀をふりあげた。少女の小さな首がその下にあった。太鼓の音が止んだ。
物語はここで刀を首に差し込むことはなく、テナーの命は救われたかに見える。違うのだ。ここでテナーは象徴的に殺害され、復活して墓所の大巫女アルハとなった。
少女アルハは、彼女に向かってくるものに、かつて自分の首に向けられた刃のような殺意を向け続ける。ひたすら死だけを願うような根源的な殺意だ。それを魔法使いゲドに向ける。アルハはゲドを殺そうと決意する。
アルハはのぞき穴の縁に置いていた両手に力をこめると、ないか、ひどい苦痛にでも耐えるように唇をかんで、からだを激しく前後に揺すった。水なんてやるものか。一滴だってやるものか。殺してやるんだ。水のかわりに死をやるんだ。死を、死を、死を……。
アルハはしかしゲドをそのまま殺すことはできず、物語はある信頼のような関係から展開し、ゲドはアルハに失われた名前である「テナー」を告げる。
テナーとして存在しうることを意識したアルハは、ここで、墓所の根源的な殺意とともに、無神論的な傲慢な世界からの殺意にも怯えるようになる。
後者は神話的な悪意を無化するかに見える。だから、テナーは、この世界にただ殺意をもたらすような悪の存在が死に絶えたのではないかと、あたかも現代人のように考える。だが、ゲドはそれを否定する。この世界では、根源的な悪意というものは死んでいないとゲドは語る。
「ほんとに、彼らが死んだと思ったのかい? いや、あんたは心の奥底でちゃんとわかっている。そうだよ。彼らは死ぬことはない。決して滅びることはないんだ。彼らは闇に生きて、光をきらう。限りある命を持った、われわれの明るい束の間の光をきらうんだ。彼らは永遠不滅なものだよ。…
「そうさ。彼らは人間に与えるものなど、何ひとつ持ってはいないんだ。彼らにはものを作る力がないんだもの。彼らにあるのはこの世界を暗くし、破壊する力だけだ。彼らはここを離れることができない。彼らはこの場所そのものなんだからね。ここは彼らに残してやるべきなんだ。彼らの存在は否定されるべきものでもなければ、忘れ去れらるべきものでもない。…
単純に読めば、ゾロアスター教以来の二元論に聞こえるかもしれない。しかし、ゲドの物語では、そうした悪の存在をアルハとしての少女の世界に結びつけている。なぜか? その理由は語られていない。
だが、ここで私ははっきりと、その殺意を含んだ根源的な悪について、否定されるべきでも忘れ去られるべきでもないことを神話的に了解する。
物語に戻ろう。死と合体した魔法使いゲドは、テナーであるべき者に、決定的に呼びかける。その呼びかけなくしては、アルハ(悪としての少女)はテナー(悪から離れた少女)にはなれない。
「決めるんだ。テナー。どちらかに決めなくちゃいけないんだ。わたしを置き去りにして、鍵をかけ、祭壇に行って主たちにわたしを引き渡し、それからコシルのところに行って、彼女とうまくやっていくか--そうなれば、それきり話は終わりだけど--、それとも、鍵を開けて、わたしといっしょにこを逃れ、墓所も、アチュアンもあとにして、広い海原に出て行くか。そうなれば、話はそれからだ。アルハになるか、テナーになるのか。両方同時にはなれないんだ。
アルハとテナーに、同時になることはできない。
このファンタジーの神話的な問いかけは、私には現代の少女にも投げかけられうるものだろうと思う。しかし、現代でその問いを投げかけるゲドの存在はいないのかもしれない。むしろ、根源的な悪の世界で大巫女として永遠の生命を得るように、アルハであれと呼びかける声のほうが強いかもしれない。
テナーはテナーとなる。そして、ゲドの物語では、テナーはゲドとともにアチュアンを抜け出す。
しかし、この物語は、さらにもう一度ねじれる。アチュアンを離れて、さらに物語の終盤手前でなお、テナーにゲドへの殺意を喚起させる。テナーは、アチュアンでの短剣を使った踊りを思い出しながら、短剣を手にゲドを殺そうともくろむ。
落ちてくる短剣の柄がまちがいなくつかめるようになればよいのだが、そうなるまでの間、彼女は幾度となく指をけがした。短剣はよく切れたから、傷は骨に達することもあり、うっかりすれば、頸動脈さえ切りかねなかった。(わたしはやっぱり、今までどおり、あの主たちにつかえよう)と、テナーは思った。(主たちはわたしを裏切って見捨てたけど、でも、最後にはきっと、私の手をとって導いてくれるに違いない。この生け贄を受け入れてくれるにちがいない。)
テナーは、この自分の内面にわき上がるこの最後の殺意から逃れたとき、はじめて自由になり、泣き崩れた。自由は、彼女に喜びではなく、苦しみを与えた。
彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。
「こわれた腕環(ゲド戦記2)」はお子様向けのファンタジーだとも言われている。岩波の訳本には「小学6年、中学以上」とある。そう、この物語を、小学6年にも読んでもいたいとも思う。SFXを駆使した映像としてではなく。
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コメント
そういえばル・グイン、ほとんど読んでるはずなんですが、不思議と忘却の彼方です。引用ですが、生と性と死としか読めませね。
投稿: a watcher | 2004.06.05 20:56
>小学6年にも読んでもらいたいとも思う。
>SFXを駆使した映像としてではなく。
同感です…。
ゲドも、今回のfinalventさんの文章も、
読んでいて涙がでてきましたよ…。
言葉にできないものを、それでも、語ること、
その試みをルグィンと同じように、
finalventさんも書評という形でやっておられるのだな…
と思いました…。
投稿: kagami | 2004.06.05 21:19
finalventさん、こんばんわ、
書き直そうかなとか思っていたゲド戦記についての昔の文章をトラックバックさせていただきました。finlaventさんの書評を読ませていただいて、またいろいろイメージが膨らんできています。
語ることも行動のひとつの形だと最近感じます。私も私の課題を行動で見つめていきたいと、今日あらためて決心しました。
投稿: ひでき | 2004.06.05 22:20
今別件でこちらのブログ内を検索していたのですが、改めて拝読しました。再び考えるきっかけをいただきました、ありがとうございます。
本のタイトルですが、ゲド戦記の2巻目は『こわれた腕輪』ではなく『こわれた腕環』ですよね?
些細なことを指摘するようで申し訳なく思いますが、この記事が他の人にも検索されやすくなるように、『こわれた腕環』という言葉をコメント欄に記入しておきます。
投稿: 左近 | 2005.01.29 09:44
左近さん、こんにちは。ご指摘ありがとうございます。TypePadの全置換機能を使ってみました。このコメントをもって修正ログの代わりとします。
投稿: finalvent | 2005.01.29 13:57
しばらく前のブログに出てきた「ゲドの影」が気になっていろいろ検索していました。
深そうですね。
古典のファンタジー文学は苦手で、全編読めるかどうか分かりませんが、ためしてみます。子ども向けということなので勇気が出てきました。
投稿: むぎ | 2005.01.29 19:21
はじめまして。
私のブログで、映画『ゲド戦記』に関する記事を書きまして、その中でこちらの記事をご紹介させていただきました。
どうぞよろしくお願いします。
TBもさせていただきました。
投稿: umikarahajimaru | 2006.08.31 15:43
何て言うか・・・読みました。そして、finalventさんの評は「正しい」と思いました。しかし、現在のブログシーンでは、主人公は「アルハ」であれ、と言う声の方が大きいでしょうね。
それはともあれ、テナーが「善」を受け入れるためには、自分の内部に「死と合体した魔法使い」を、受け入れなくちゃいけないんですね。そして、その後、彼女は、完全にゲドを受け入れるまで、ある種の自傷を繰り返す。ここは、本能的によく分かります。
女性が、というか「悪」に取り込まれた人間が、何かを「受容」しようとすると、必ずそのような道のりを辿る・・・と、理屈っぽく言えばそうなるでしょうか。
世界で、「生きる」ことって、すなわちそのような事だと。
投稿: ジュリア | 2010.02.03 22:09
壊れた腕環、何十年も探していた、自分のものと言える本です。
アルハでも、テナーでもなく、では私は誰なのか。
誰が、何故、何の為にと、祈るように問い続けています。
カウンセリングを受けるなかで、奇跡のようにこの本を思い出しました。
この書評を読んだことと、カウンセラーのお陰です。
この書評を読んだ数日後に、道端に果物ナイフかおちていました。
とても、不思議でしたが、何故か神話的に了解しました。
訳のわからない事を言っていますが。
了解して頂けると信じています。
ありがとうございました。
投稿: maria | 2015.04.10 23:16