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2004.06.23

「慰霊の日」に思う雑感

 今日は「慰霊の日」である。慰霊の日のことは書くのをやめようと思っていたが、なんとなく書く。
 小泉首相は、今日、国立沖縄戦没者墓苑で献花し「私たちはこの歴史を後世に語り伝えるとともに、2度と悲惨な戦争を起こしてはならない責務を負っています」とあいさつしたそうだ。カート・ヴォネガットふうに言えば、他に何を言えばいい?
 慰霊の日は、日本軍の組織的戦闘が終結した日だと言われている。嘘である。組織的な戦闘はその後も続いた。沖縄戦が終結したのは本土より遅れて9月に入ってからだ。琉球列島守備軍が嘉手納米第10軍司令部で正式に降伏文書に調印したのは、9月7日。沖縄の慰霊の日はこの日に移すべきだと思う。
 じゃ、この23日って何よ?であるが、日本軍第32軍司令官・牛島満中将と同参謀・長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日だと言われている。嘘くさい。22日じゃないのか? 私は沖縄でいくつか資料を読んだ。23日であるかは疑わしいと思った。こうした儀礼的な史実はかなり疑わしいものが多いのではないか。広島原爆投下が8時15分というのも本当なのか? (「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」
 22日説が強いのに、なんで23日が「慰霊の日」となったのか? 答えは、ちょうど6月23日が本土の安保デーだったからだ。本土左翼の運動デーを沖縄に持ち込んでいたので、それに近い日付をかぶせたのだ。それ以前の沖縄では本土から分断された4月28日を沖縄デーとして社会運動をしていた。
 いったい、慰霊の日というが、23日以降も沖縄の民間人は殺され続けた。なのになぜ本土の軍人への慰霊が先行するのか、私はまるで理解できない。節目? それは間違った節目じゃないのか。
 沖縄戦では二十数万人が戦死したと言われている。どうやって推定したのか知って私は唖然とした。戦前の人口引くことの戦後の人口である。私が間違っているのかもしれない。しかし、私は、どの戦闘で何人死んだというのが積み上げられて、つまり、加算によってこの数値に至っていたのだと思っていた。そうではなかった。どこでどのようなかたちで沖縄の人間が殺されていったのか、いまだにきちんと調べられいないのだと思った。そう知ったとき、なんか、泣けた。おかしいじゃないか。二十数万人が死んだというなら、万単位の人が死ぬ戦闘、千人単位の人が死ぬ戦闘などが、具体的どの地区の戦闘で、どこの聚落の人であったかなどが推定されるべきではないか。もちろん、私が無知なのかもしれないとも思う。だが、沖縄で8年暮らし、折に触れて調べたがわからなかった。それどころか、未だ遺骨が収集されていないガマの存在を知って驚いた。
 先日(3/16)、NHKの「その時歴史が動いた」の「さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~」(参照)では、23日以降の沖縄戦を描いていた。


●その時を、「昭和20(1945)年9月7日 沖縄戦が公式に終結(沖縄戦降伏調印日)」としたのは?
「沖縄戦終結の日」は、牛島満司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終了した6月23日、アメリカ軍の沖縄戦終了宣言がなされた7月2日、そして日米両軍の司令官が調印をおこなった9月7日、の3通りが考えられます。
国際法上は、両軍の調印をもって戦争の公式な終結としますが、6月23日は「沖縄慰霊の日」ともなっており、この日が「沖縄戦終結の日」という印象が強いかもしれません。
今回の番組では、以下の理由から9月7日を「沖縄戦終結の日」とし、「その時」としました。
①沖縄県が、9月7日の降伏文書調印を、「沖縄戦の公式終結」としていること。
②同様に、沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20(1945)年3月23日から、9月7日」としていること。
③取材した中に、8月の末まで戦闘を続行していた方がいらっしゃいました。牛島司令官は自決する前に、最後まで戦うよう訓令していたため、「組織的戦闘」は終了しても、部隊ごとに抵抗を続けていたのです。
この方の所属していた部隊などが武装解除に応じた結果、9月7日の降伏文書調印となったので、この方のご体験を描く意味でも、9月7日をその時としました。

 基本的には正しい。そして、新資料をもとに23日以降の沖縄戦を描いてたのだが…。

●新たに発見された日本軍の作戦文書とは?
アメリカ国立公文書館(新館)に所蔵されています。一般閲覧も可能です。
請求番号は、RG407/ENTRY427/BOX5352です。
アメリカ軍が戦場で入手し、翻訳した物です。発見したのは、関東学院大学の林博史教授です。
史料名・内容は以下の通りです。

① 「日本軍の防衛召集計画」(中部地区、昭和20年3月6日)
日本陸軍第62師団が、管轄している村ごとの割当数を示した召集計画表。
待機者6940名に対して、5489名を召集する「根こそぎ動員」だったことが判明した。
② 「西原地区における戦闘実施要領」
奇襲攻撃の際の注意事項が記されていた。
例として「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である」(放送)、
「住民の服を借りてあらかじめ確保せよ」(放送)、「一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人割り当てよ」(放送せず)、「攻撃の案内として現地住民を連れて行け」(放送せず)など。


 沖縄戦というが、この番組で描いたのは「西原地区における戦闘実施要領」のみであり、史実としては、そこに限定されていた。

●西原村の犠牲率47%
人口10881人の内、5106人が犠牲になりました(「西原町史第3巻 西原の戦時記録」より)。

 約五千人についてはわかった。でも、他はわからない。他も積み上げていかなくてはいけないのだと思う。
 なお、番組を見ながら思ったのだが、NHKの取材班は西原町の資料だけを当たっていて、他の南部住民の動きを総合的には理解していない。私は現地の人から実際に聞いて、この番組とは違う住民の動きなども知っている。
 話を少し戻す。先にNHKではこう触れていた。

沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20(1945)年3月23日から、9月7日」としていること。

 では、そこに刻まれている戦死者はこの期間の戦死者だろうか? 違うのだ。また、戦死者名は地域分類と役職分類があり、オーバーラップはどのように排除されているだろうか?
 私はたぶん、その真相を知っているが、ここには書かない。「平和の礎」に行って調べれば誰でもわかる。
 沖縄戦は知れば知るほどわからなくなる。
 話は少しそれるが、先日の、6月7日、宮城悦二郎元琉球大学教授が肺癌で亡くなった。米留組で、米軍「星条旗」の記者となり、73年に大田昌秀現参院議員に誘われて琉球大に来た。90年に法文学部教授に就任。英語の授業は新聞英語が主体だったという。学問的には沖縄の米軍占領史を専門とした。なんどかお会いしたことがあるが、私は、うかつにも彼が名護の生まれであることを、訃報で初めて知った。名護んちゅうだったのか。だったら、訊きたいことがあったに…、いや、まだ生きていて欲しかったと悔やまれた。

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