長崎県佐世保市、小六女児殺害事件に思う
長崎県佐世保市、大久保小学校で起きた六年生女児殺人事件について、自分なりの思いをメモ書きしておきたい。
私は最初のニュースを聞いたとき、それは事故ではないかと思った。しかし、事故ではないと知った。次に、それでは喧嘩に刃物を使ったために陰惨な結果になったのだろうか、と考えた。しかし、そのとき疑問が浮かんだ。およそカッターナイフで人が殺せるのだろうか、ということだ。10センチの傷というのがよくわからないが、人というのはそう簡単に殺せるものではない。事後の対処の遅れが致死につながったのではないのか、とも疑問に思った。しかし、その後の報道を聞くに、どうやら頸動脈を切ったようなので、対処は難しかったかもしれない。
続報で、加害者の女児に明確な殺意があったことが明らかになってきた。読売新聞の報道「書き込みでトラブル?補導女児『殺すつもりだった』」(参照)をひく。ただし、被害者名はSさんと書き換える。被害者実名を記す意味はないと思うからだ。
長崎県佐世保市の大久保小(出崎睿子校長)で、6年生のSさん(12)がカッターナイフで首を切り付けられ死亡した事件で、県警佐世保署に補導された同級生の女児(11)が動機について、「インターネット上で、自分のことについてSさんが書き込んだ内容が面白くなかった。いすに座らせて切った。殺すつもりだった」と供述していることが、2日わかった。
女児は同署の調べに対し、「(Sさんの)態度が生意気だったので、呼び出して、首を切りつけた」とも供述している。同署は、最近、Sさんが書き込んだ内容を巡ってトラブルが起き、それが事件の発端になったとみて、Sさんが書き込んだ内容や、その後の2人のやりとりなどを詳しく調べている。
報道が確かなら、殺意があり、十分に計画的とはいえないまでも、計画的な殺人だったのだろう。一時の感情に駆られたということでもないのは、その後の事情聴取で、後悔はしているようだが、落ち着いていることからも推測される。
女児は1日午後7時半過ぎまで事情聴取を受け、パンとジュースの簡単な食事をした。同10時半、署内の女性職員休憩室で、職員2人に付き添われて就寝した。2日は午前7時50分に起床し、幕の内弁当のごはんだけを半分食べた。事情聴取が再開されたが、興奮した様子はなく、落ち着いて受け答えしているという。
ここで私は不謹慎な印象を少し述べる。自分でも不謹慎な話だと思う。が、この自分の印象は自分にとっては、この事件を考える一つの原点になる。それは、忠臣蔵の浅野内匠頭を連想したことだ。彼は失態したので無念が残り、それが続く物語となった。だが、あのとき、浅野内匠頭がなぜそのような蛮行に及んだのかは今もってまったく歴史の謎とはいえ、それでも彼が吉良上野介を一撃で仕留めることができたなら、彼は本望であったにことには間違いない。人間の行動の心理的な理由は他人や後代からは理解できないこともあるが、その本懐に及ぶ行動それ自体を、人の生き様(運命)として了解できないものではない。私たちはかならずしも理性で生きているわけではないし、社会的な倫理に従って生きているわけでもない。感情に押されて気が狂っていると思われても、冷静にただそれを運命と受け止めて遂行することもある。
もちろん、今回の事件がそうだというのではない。人を殺すことはまったく社会的に是認されない。加害者の女児はこの責任を一生負っていかなくてはならない。被害者とその家族を痛ましく思う。
ただ、私には加害者を断罪できない心情があるし、また、こうした問題は「命の尊さ」「人を殺すリアリティの欠如」といったことでは解決しないのではないかと思う。
今回の事件では、おそらく誰にとっても、不可解な殺人事件だという不安から、そこから心理的に逃れ、満足できるストーリーが欲しいのだろう。それが悪いことではないが、そのストーリーは見つからないのかもしれない。
話を少し戻す。小学校六年生の子供がおよそ殺意を持つものだろうか、ということにも少し触れておきたい。最初に私の思いを言えば、持つ。私自身が、持ったからだ。この話は微妙な側面が多いのだが、私自身小学校低学年とき、いじめられっ子の経験を持っていた。後に客観的に検証してみるに、いじめられっ子だったかどうかはよくわからない。だが、高学年ではいじめられなくなった。一つは学力がなぜか飛躍的に伸びたこともだが、密かに内面で「オレをいじめるヤツについて、オレの我慢が越えれば殺す、断固として殺す、一撃で殺す、ためらわず殺す」と決意した。この決意は、ある種の殺気となって漂うものだ。それが、多分、私を守った。そして、私はその守りで、他のいじめられっ子をまとめた。そうした経験からすれば、私が誰かを一撃で殺していたという人生もあったかもしれない。
これも難しい話なのだが、そういう決意がこの女児にあったかはわからないが、子供だから殺意がないということはない。そしてそうした子供の殺意は子供の内面を当然ながら荒らす。それは苦しみの一つの形態かもしれない。
小児的な、こうした殺意という、おそらく苦悩を、どう扱ったらいいのか。言葉で言えばつまらないことになるが、私は、正しく人を嫌悪することを学ぶべきだと思う。
今回の事件の被害者と加害者は、報道によれば深く関わりのある友だち同士だったようだ。だが、殺意に至る前に、それをきちんと嫌悪に変える心が持てなかっただろうか。「私はこの人が嫌いだ」とはっきりと自覚し、その嫌悪の強さと苦しみから、その嫌悪を無関心にまで引き上げる心の訓練というものはできなかったものか。
気の利いた皮肉で結語にしたいわけではないが、殺意を緩和するためには、正しく人を嫌悪し、そしてその人に無関心なる心の強さが必要だと思う。
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コメント
はじめまして「わくわく日記」の惑といいます。
>嫌悪の強さと苦しみから、その嫌悪を無関心にまで引き上げる心の訓練
いじめ、不登校、いくつかの問題を克服してきた娘を持つ父親です。父親の自分は何もしてあげられなかったけれど、彼女なりにこの訓練をつんだんだなと思います。「目からうろこ」の一文でした。嫌いな人には無関心になる心の強さを持った娘です。
投稿: 惑 | 2004.06.02 16:57
どうも、お久しぶりです。
この事件に関しては、本当に悲しい思いと、むなしい脱力感があります。
仲が良かったということで、それがそのまま相手と自分の境界線が曖昧になっていってしまったのではないかな、と考えています。
とにかく、悲しい事件です。
投稿: らした | 2004.06.02 17:53
> 気の利いた皮肉で結語にしたいわけではないが、殺意を緩和するためには、正しく人を嫌悪し、そしてその人に無関心なる心の強さが必要だと思う。
・・なんとなくですが..
「嫌い」っていうことが怖かったのでしょうかね..
つまり、コミュニケーションの問題って感じなんですが..
いじめにしてもそうだと思うんですが、まず言葉にする前に囲い込みますよね?
そして、「・・話し合えば分かってたのに」、って事態にまで発展していく
あるいは、分かり合えなければ合えないで、それでいいっていうのが大人の世界だと思うんだけど...
(「みんな仲良し♪」ってのはムリなので。基本としてはそれが理想だけど)
・・それができないのかなぁ
やっぱ「なまじ仲がよかっただけに」なんでしょうかねぇ...
(そーいや、ぼくも極東さんと同じような感じでしたよ>いぢめ)
投稿: m_um_u | 2004.06.02 18:56
今更だが、そうだったのか、と思いを新たにした。
キライな人は嫌いでいいとはよく言われていたが、
なぜキライでよいのかとずっと考えてばかりいた。
極論をいうと相手の気持ちや環境が判った処で
行動をも判るわけが無いや。ははは。
投稿: ぴ | 2004.06.02 23:47
はじめまして。雑想雑思の「院主です」です。
ミスって同じもの3っつも入れてしまい、すみませんでした。
同感するところ多いです。
投稿: 院主です | 2004.06.03 00:15
「自分にとって邪魔な存在を排除するのって、間違ってるかな?」
そんな気がしました。今回の事件。大騒ぎするほどではないと思ったのですが、怒髪点をついたコトがひとつ。それは、事件後インタビュウ中の記者でした。
「○○ちゃんの夢はなんですか?」
死んでしまった少女の父に「夢はなんですか?」恐ろしいほどの頭の悪さだと思う。もはや、自分で書く記事のタイトルしか見えてない。心底、あきれてしまいました。
投稿: 幸司 | 2004.06.03 09:26
>幸司さんへ
TVを見ていないのでよく分からないですが、また報道が過熱化していると嫌だな、と思います
特に、日本のjournalismの問題である「被害者報道」
あれが過熱化すると嫌だな、と思ってるんですが...
(あと、ゲームとか映画とかマンガ、ネットの影響がどうとかいうやつ... たしかにそれもきっかけのひとつかもしれないけど、それだけの要因では結べないので..)
ぼくは正直分からないのですが...
この事件というのはそれほどに重大なものなのでしょうか?
おそらく「ニュース」としてのポイントは「小学6年生」とか「女の子」とか言うところだと思うのですが...
・・・それほどに引きずっていく事件なのか(社会的関心が集まるべく事件なのか)というところが分からないです
もちろん子供をもつ親の方とかは心配だと思うのですが...
投稿: m_um_u | 2004.06.03 09:50
あ・すみません。訂正させてください
これみて思ったんですが(特集「佐世保の小6女児同級生殺害 」@長崎新聞)↓
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/syou6/
なんでこんなことが起こったのかわからないから重大な事件なんですね(たぶん)
そして、そういった事態をもう一度引き起こさないために、きちんとした検証が必要だ、と..
そして、それに基づいた修正案が必要だ、と..
そういうことになる(..のかな)
投稿: m_um_u | 2004.06.03 12:38
小学校6年生は12歳。
体は未発達かもしれないけれど、与えられる情報量は、すでに大人と変わらないと思います。「一人で考え、一人で悩んで」との発表がありましたが、そればらば一人で責任を取るしかない。
このような事件は、まだまだ起こると思います。
程度の差だけですね。今回も、被害者が何かしらのリアクションを返せば、手を切っただけで済んだのかも知れません。
安易に「殺すことはないんじゃないか」と思われるかも知れませんが、子供にも「絶対許せない事」ってあると思うのです。
それが死に繋がるって、悲しいですけれど。
投稿: 幸司 | 2004.06.03 13:10
やっぱ、みんな思った事あるんだ。なんとなく、うわべの社会の中で、こんなこと考える自分って
悪いんだろうか?とか、他の人は考えないんんだろうか?とか思ったことあります。
社会にでると、人間関係はうわべだけで、それほど深くもない(<---私だけかも)。
でも、学校時代って、仲がいいとか、悪いとか、けっこう人間関係はずっと深いような気がする。
6・3・3・(4)の区切りで、人生の内では、短いのに。
殺意を抱くのと実際に行為に至るの間には、境界があって、それを乗り越えたりしない。
理性(たぶん常識も、やってしまったらこうなる、まわりはこうなるとか・・・)が踏みとどまらせる。
この境界を超えるという少年の話を、昔、犯罪小説(ジョナサン・ケラーマンのOver the Edge 邦題は、グラスキャニオンだったかな?)
で読んだ。10年近くになるので詳しい話は忘れましたが、この作家は臨床心理の博士で、専門書も書いている。
他の作品も子供がからむ話が多いので、日本での犯罪が低年齢化してきているという話題に、
ちらほらでてくる専門用語などに出会う。理想的よい人間像である主人公、邦訳版はほとんど読んでいる。
でも、専門書はよんだことはない。ちなみに奥さんも犯罪小説家(フェイ・ケラーマン)
日本では、その方面はまだまだの域で、こういったような事件が起るたびに、時々新聞などでとりあげられるけど、そもそも、効果を上げられる人がいるかどうかも怪しい。
これからも度々話題になるだろうとも思う。殺人に至らない障害事件なんかは隠れてもっとありそうだ。
(内部処理だけで、届け出すらないものとか)
心理的、精神的問題は目に見えてわかるわけがないので、難しい。(目に見えてわかる方が恐いか・・・。そんな妖怪がいましたよね。
おまえはXXを考えたな。なーんて嫌なやつ)
投稿: やまざる | 2004.06.03 15:38
この文を読んで思い当たるフシは自分にもあります。
私は子どものころ皆より身体が小さかったから、いじめやすい対象ではあったようだ。
だが、私は自分の身を守るために嫌悪感をはっきりと示すということをしてきた。それは一定の効果はあったように思う。
嫌なことをはっきり表現できていたのだろうかと思いました。
投稿: Cyberbob:-) | 2004.06.04 06:32
人は時に鎧をまとい、剣を取らねばならない。
それはまさに殺意というものそのものになる。
生き馬の目を抜く当世、
それが小学生女子にまで波及しているというのは
しかし未だ受け入れられない部分は
私個人として正直ありますね。
そんな時代にまでなってしまったのかと。
投稿: モモジ | 2004.06.04 18:54
この事件をTVで知ったとき、すごくショックでした。
ランドセルを背負っている子が殺人を・・・
今学校で起こっているいじめや不登校がどんな子にも起こりうるものであるのと同じようにこの事件はいつ・どんな子にでも起こりうる事件だと考えました。
子供達の中でインターネットを返したコミュニケーションが多く用いられているのに対してネット上のモラルを教えてくれる人がいなったのがまず第一の問題点であると思いました。
現実の社会ではいえないことを文字にしてメールやチャットで会話をしますが、私達大人はどんなことに気をつけているのでしょうか?顔の見えない文字だけの世界なので、相手を傷つけない文を考えます。ネット上での個人を中傷することは決して良識ある人はおこないません。そのネットのモラルを学校や家庭で子供達に教えているのでしょうか?
学校で総合的な学習の時間で情報教育を行っています。学校でPCの使い方を学ぶ際にもう一度モラルについて学習するべきであると思います。
現代社会のモラルの低下がこの事件を招いたのではないかと思います。
そして、子供達の空想と現実の区別が付かないことも理由にあげられると思います。
家庭教育の充実が見直されています。家庭で子供のモラルをしっかりと教えるべきではないかと思います。
なんだか、よく自分で書いていて分からなくなってきてしまったんですけど・・・
この事件を起こしてしまった加害者の少女を作り上げてしまったのは家庭・学校・地域・の教育力の無さではないかと思いました。知の側面の教育ではなく「心豊かな人間性」の教育が欠けていたのであると思った。
投稿: (anonymous) | 2004.06.05 14:39
ただ病気な人が、殺人を犯しただけだという事ではないですか。昔からある程度の確率で起こっている事象だと思います。こういう問題を確信を持って長々と説明できる人にはある意味恐怖を覚えます。
投稿: メトセラ | 2004.06.05 23:24
この事件を聞いた時、私は頭が真っ白になりました。
私は3月31日まで小学6年生でした。
今は中学生になりました。
でも中学生と言う新たな言葉にまだ気持ちは戸惑っています。
そんな私と年齢も近い、一個下の女の子が自分のクラスの友達を殺すなんて考えもしない事です。ありえないです。
自分のクラスメートに殺されたsさん。
そのクラスの友達。
今どんな気持ちでしょう。
もし自分のクラスメートが同じクラスの子に殺されたら…
疑問でいっぱいです。「なんで?なんであの子が?なんでクラスメートが犯罪者になってるの?なんであの子はいないの?あの子は何処に行ったの…。」考えるときりがありません。
今まで遠足や一緒に授業をしてきた友達がまさかこんな事になるとは…。
クラスメートの友達も大きな衝撃を受けたと思います。
今回の事件は本当に衝撃的でした。
もうこんな事が二度とないように、自分が出きる事、
自分にはこの子と同じようにクラスメートがいます。
そのクラスメートがこんな事にならないように皆が皆、心を打ち解け合えたら良いと思います。
投稿: 真矢 | 2004.06.08 16:56
長崎県佐世保の事件は少女の精神鑑定まで発展してますね。
各メディアでは「信じられない」とか、加害者の少女の言動などをとりあげていますが、皆どうおもいますか?
チャット、日記、すべてに対して結び付けすぎかと。
大人が人を殺すときはいろいろ考えられますが、まだ考えが未熟な小学生が人を殺す・・・そこまでにいたったのは、被害者の少女にも原因があったのでは?
自分の身近・・・しかも交換日記をしていた相手を殺したんです。たった12歳の少女が・・・。
どの事件も未成年が殺しまで発展したものは被害者にも原因があるからでしょ?
ひとつだけあげるとすれば、教師を殺した少年も、周りにはいい先生・・・なのに、その子だけはのけもの、目の敵にしていた。それじゃおもしろくないじゃないですか。
だから、被害者の少女ばかり何かと結びつけるのは変です。
被害者の父親は悲しみばかりいって、一言も「ここまでされたのだから私の娘も何かしたんでしょうか・・・」など一言もない。非常に残念です。
投稿: じゅんこ | 2004.06.15 09:25
じゅんこさん、ども。小6加害女児の精神鑑定ですが、これは裁判上は無意味です。精神鑑定は、加害者の責任能力の有無を判定するものですが、もともと14歳未満には責任能力がありません。こんな非常識なことができるのも、昨年、男児誘拐殺人事件で前例を作ったからです。これをやっているのは、前回と同じで、メディアからこの問題を隔離するということ、原因をたぶんに「狂気」つまり病気ということに持ちこみたいからでしょう。私は、率直に言うとというか、極東ブログを深く読める人はすでに深いメッセージを読んでいただけたと思うのですが、この問題を理解するのにはある種の文学的な能力が必要になると思います。かつては、例えば変な例ですが、阿部定事件などでも大衆には文学や狂気(愛欲)へのインサイトを持っていたものですが、現代日本人はこれを狂気として自分から外化(排除)しようとしています。そのことが、つまり狂気を自己の精神から外化しようとするマスメディアの動向はおかしいと思うのですが、なかなかそれをうまく発言することはできません。表層的な社会正義の言説もこうした外化に荷担するように機能しているように思われます。
投稿: finalvent | 2004.06.15 10:16
がんばろう
投稿: (anoymous) | 2004.07.02 20:38