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2004.05.24

最近のネットメディア雑感

 先日実家の書架を見ていたら、1971年9月のGuts(ガッツ)が出てきた。号が間違っているかもしれない。二十代の吉田拓郎がフォークギターを抱きながら座っている表紙のだ。めくるとよく覚えている。若い頃の記憶力はまるで写真のようなもので、けっこうページのディテールとかも覚えていた。あるある大事典に出てくる初老の堺正章がマチャアキとかでひょろっとした三枚目の若者の写真で載っている。レモンちゃんも今の子のメイクで、出直しできそうな笑顔だ。
 他にもこの時代の雑誌が書架にないかと思ったが、自由国民社の岡林信康とかの特集やフォークギター奏法関連ばかりだ。実用的なものだけ残っているということか。ああ、オレに収拾癖というものがあればなと思うが、ない。ないものはない。
 ネットの興隆のおかげで昔の雑誌とか買えるようになって嬉しいのだが、さて、Gutsはと見ると、たまたま「オヨヨ書林」(参照)というのが出てきた。Gutsは一冊2000円くらいだ。表紙を見ていると思い出が湧く。このくらいで思春期の思い出が買えればいいかという気もする。が、取りあえず欲しいのはない。ヤングセンスのほうが欲しいなとかは思う。そういえば、ASCIIの創刊も今はない。GOROや日本版プレーボーイなんかも持っていたのにな(石井めぐみの激写文庫は欲しいが…)。ま、自分で持っていなくてもいいから、こういうのを閲覧できる図書館でもあればいいというか、きっとあるのだろうけど、すでに貴重な歴史資料なのだろう。
 このところネットラジオで70年代のオールディーズをよく聞くようになった。最初、抵抗があった。以前から街中で70年代の曲が流れるといらつくし、リメークとか聞くと気分が悪くなる。のだが、なんか、最近やけくそで聞いていると、しばらくして、意外なのだがアンビュエントよりリラックスできることがわかった。どういう現象なのかわからないが。

cover
Between the Lines
 というわけで、マイベストセレクトCDでも作ろうかという気になるのだが、さて、どうする? 初期キャロルキングは全部CDでリニューしてある。ジョニミッチェルは途中からCDか。ジョーンバエズはまだ。カーペンターズはまばら。いずれも紙ジャケへの思い入れだけが残る。そうだそうだ、カーリー・サイモンとかジャニス・イアンはどうよ…というわけで、こんなとき、ネットから落とせるといいというわけか。

At seventeen by Janis Ian

I learned the truth at seventeen
That love was meant for beauty queens
And high school girls with clear skinned smiles
Who married young and then retired.

世の中のことがわかったのは17歳のとき
恋愛っていうのは、きれいな娘だけのもの
笑顔が似合う女性高校生とかのもの
彼女たちは若いうちに結婚して仕事なんかやめていく


 泣ける。
 音質さえいとわなければ、ちょっとしたコツで合法的に落とせる手法がある(もったいぶるわけではないが詳細はあえて書かない)。そういえばと思って、AOLにアクセスしたのが、最近使ってなかったのでチューンしているうちに、もともと私は米会員なので、ちょっとインストールにバグがあるが、AOL9が設定できた。で、これすごいじゃん。15年くらい前、Macintosh SE/30にカラーボードを付けてAOLをアクセスしていたときの、なんつうか、あの優越感が蘇るじゃないですか、って洒落なので、本気にしないでほしいのだが、ま、スゲと思った。ワーナーとのどたばただのスティーブ・ケースの凋落などニュース面でしか見てないし、今じゃAOLも落ち目とかいうニュースを鵜呑みにしていたのが、うひゃ、メディア後進国日本にいると全然そうではないな。
 オンデマンドってこういうことかと実感でわかったのは、いつでも好きなときに好きなコンテンツがエンジョイできるってこと、っていう理屈じゃなくて、「おい、これを聴け、これを見ろ、これがわかんねーセンスじゃダメピョン」の横にボタンが付いているということなのだ。
 オンディマンドはむしろインフラで、重要なのは、欲望を駆り立てるコンシェルジュなのだ。もちろん、日本でもないわけではないが、そういうコンシェルジュがスタティックなHPとかになっていて、コンテンツはそこに直結していないわけだ。このワンテンポのズレが、欲望を加速させない。
 っていうのと、冒頭の爺臭い話でもないが、歴史の終焉が日米とかは1970年代ごろにきたから、そのあとの時間が、ただ、各時代のセンスとしてDB化しているのだ、と意味不明なことをいうけど、今の若い人のセンスだけが問題じゃなくて、このフラットではあるけど、DB量の多い歴史みたいな世界からコンシェルジュのセンスで見極めてくれないといけない、わけだ。と、話として書くと、割烹屋のオヤジみたいだが、実感としてはちょっと驚いた。
 日本の場合、これが実現できないのは、オンディマンドや感性のDBに対応できる実際のコンテンツがDB化できないというかそういうインフラができないからだろう。で、できないのは料金の問題でもある。というか、それで既得権にしがみついてそこから日本の現代的な意味での著作権が出てくるということか。妥協的にはSONYのコクーンみたいなやりかたもある。iPodもそうか。つまり、ローカル側に小さなDBを作るわけだ。しょぼいが。
 なんとなく思うのだが、米国のメディアを見ていると、ベースのところでパワーが全然違うという気がする。特にダンスシーンとか見ていても、その「生」の欲望の喚起がものすごい。洋物ポルノみたいに、ちょっと脂と臭みが気になるくらいだが、それでもベースの力が全然違うと思う。その力が社会の根底のところで、爺の利権を押しつぶしているのだろう。
 なんだか間違った話を書いているようだが、糞な著作権問題が出てくるのは日本人のメディアのパワーがないからなんじゃないか。

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