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2004.04.04

些細なことには首をすくめておけばいい

 朝日新聞社説「国旗・国歌――産経社説にお答えする」を読んで、まず率直に思ったのは、産経の社説に応答するなんて朝日も大人げないなということだった。が、先日も朝日は読売の社説と読み比べてほしいとか言っていたので、そういう傾向なんだろう。これって、つまり、ブログだよね、と思う。社説ってブログになっちまえばいいのに思って、こちとらの極東ブログを始めたという経緯もあるのだが、こっちの影響なんざあるわけもないが、世の中のメディアの言説っていうのがブログ化しているのは確かだろう。この傾向は、たぶん、新書を覆うんじゃないだろうか。電子ブックリーダーがマジで使えるようになると、この傾向はさらに一段階進むのだろうが、さて、そこはどうかなという感じがする。電子ブックリーダーを買って烏賊臭いか試してみたい気もする。
 朝日の社説の内容だが、産経同様、面白くもない。本人たちはつまらないこと言っているという自覚が多分ないのが、極めてブログ的だと思う。っていうか、極東ブログでもそうだが、面白くねーとかくだらねーというフィードバックを戴くことがあるのだが、その度、ちょっとふふっと思うのだが、このブログを従来のメディアの視点で読まれるからだろう。ブログなんて編集が無ければ読者の視線をそう反映できるものじゃないし、プロのライティングとの決定的な違いはそこにある。と同時に、プロのライティングにはブログのようなある種の自由はない。
 私が古くさい人間なので、そういう書き方のスタンスをしているのがいけないのだろうが、ブログなんていうのは、つまんなければ、即捨てだし、本質的にサブカルだろう。と、ここでサブカルというタームを出すと話が違うので、もとに戻すと、大手新聞が自分たちの言説のスタンスと時代の変動への感性を失って、じわじわと崩壊というか壊れていく様子は面白いと思う。
 話を当の国旗・国歌への態度に移す。ちょっと自分も言っておきたいなと思うことがあるからだ。ブログ的に言うということだが。で、結論から言う。国旗・国歌なんて熱くならねーことだよ、である。そんなことに入れあげるんじゃねーよである。具体的に国旗・国歌で「ご起立を」と言われたら、その時の状況の利害判断で、適当にすればいい。立ってもいいし、座っていてもいい。ただ、そのことが踏み絵のような状況になるなら、さらに状況の利害判断でことを決めちまいなと思う。ここは絶対に譲れないっていう感じがするなら、そうすればいい。でも、そういう絶対に譲れないなんていうことはほとんどない。立ちたくないなと思ったら、ちょっと小便でもしてこいやと思う。俺はそうするね。ゲロ吐くかもね。昨晩飲み過ぎましてぇとか、適当に繕う。
 国旗・国歌に敬意を持つかといわれると、率直のところ、よくわからない。それほど反感もない。以前はとっても嫌だったし、自分が成人式の時は、拒否して周りの者に忠告もされた。今は、自分の気持ちを大切にしたい。自分の気持ちを大切にしたいっていうことに、とやかく言われたくないっていう感じだ。もちろん、礼儀なんていうのは、形だから礼儀だよというのがわからないほど幼くもない。
 左翼は昔から国旗・国歌には嫌悪を示すのだが、同様になんか追悼黙祷とかは好きだ。私の感覚ではこれも嫌だ。自分が追悼したいという気持ちがないときに、「ではみなさんご一緒に」って言われてもなあである。
 「降りる自由」とかいうのがブログで話題になっているふうでもある。が、私はよくわからない。単純にわからない。こそっと卑怯にその場しのぎできればそれでいいんじゃないか、ってことじゃないのか。些末なことは些末だ。些末なことに思想と言論を無駄遣いするなよとも思うが、ま、どっちかというとこういうのは熱くなれるエンタテイメントなんだろう。じゃ、俺、その手のエンタテイメントは降りるよと思う。

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「社会」カテゴリの記事

コメント

>産経の社説に応答するなんて朝日も大人げないなということだった。
逆に私はこの様な試みはじゃんじゃんやってくれと思ってるんです。
朝日新聞は夕刊に月一回、各種オピニオン雑誌に関する書評を載せていたのですが、今年3月にその執筆者が交代するときに書評ではなく、最後に意見として考えさせられることを書いていました。
それを要約すれば、諸君や文芸春秋、論座や公論と言ったオピニオン雑誌はその役割を果たしていない。なぜなら彼らは自分の応援団のために文章を書いているだけでこの戦後50年間以上を過ごしてきた。例として、諸君と論座の3月号の記事を10年前の見出しと比べてみても同じことしか書いていないではないか。彼らは自分の殻に閉じこもるだけで全く他流試合を行ったことが無い。
というものでした。

おそらく、朝日関係者にはこの批判が結構効いたので、一度他流試合をやってみようという気になったんだと思いますよ。

投稿: F.Nakajima | 2004.04.04 13:05

こんにちは。

僕もfinalventさんのご意見には共感します(同時に、F.Nakajimaさんのご意見にも共感できるのですが)。

ただ、国歌はともかく、国旗は自衛隊を海外派遣する際に使用する為、国家のシンボルとして再定義しなおす必要があったという側面があるようなので、政治的意図が強いように思いますが。

投稿: (oita) | 2004.04.04 15:03

すみません、上のコメント名前入れ忘れちゃいました。

あと、上の話は1999年8月13日施行の国旗・国歌法(国旗及び国歌に関する法律)に関してのことです。

説明不足ですみません。

投稿: oita | 2004.04.04 15:42

Nakajimaさん、ども。そういう背景もありそうですね。

oitaさん、ども。アメリカの場合国歌に忠誠を誓わないとというのはわかるけど、日本は別の歴史がありますよね。

投稿: finalvent | 2004.04.04 17:56

こんにちは。お邪魔します。
どうもfinalventさんが降りた「エンタテインメント」に私はしがみついているかもですが、それでも書かせてもらいます。すいません。

朝日の社説は、生徒の自主性と教師の自主性、そして学校の自律的経営を無理に直結させている(すり替えている)という印象を受けます。つまり、生徒置き去りで、もっぱら教師についてのみ考慮しているのでは、と。
後者の、彼らはあくまで公務員(完全な一個人とは違う)という立場において間接強制を受けているという視点が抜け落ちるのは思想的にもう仕方が無いのかなと思ってしまいますが。
心底には何か思いをもっている教師でも普通は、finalventさんが言われるようにその場の判断で、起立して斉唱しているんでしょう。

今回の通達を「当然」とする立場(読売・産経)でも「国際人の教養として当たり前」「日本での事態は世界的に見て異例」という以上のことを言っていない(言う必要がないと思っている?)ので、議論がかみ合うことは、今のところなさそうです。

投稿: sparituda | 2004.04.04 18:46

「自由」と「勝手」を区別できない愚かさ。「ルール」と「常識」を区別しない非常識さ。もうダメポ。

投稿: laohu | 2004.04.04 18:58

>laohuさん

コメントについてもう少し細かくご説明いただけますでしょうか。

投稿: K.K.P | 2004.04.04 19:52

新国旗案 グッチとかディオールに作ってもらう。

新国歌案 ジョンレノンのイマジン。

投稿: ゚゚゚゚゚-y(^。^)。o0○ | 2004.04.04 20:32

>新国旗案 グッチとかディオールに作ってもらう。
いや、日本なんですから川久保玲さんに。

>新国歌案 ジョンレノンのイマジン。
いや、やっぱり六甲降しでしょう。。。(わーい)


投稿: F.Nakajima | 2004.04.04 21:42

>K.K.Pさん
他意は無いです。付け加えるなら、自由とルールはセットなんですよ、はぁ~・・、です。

投稿: laohu | 2004.04.05 16:51

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