鷺沢萠、松田新平
高校生のころだったか私も自殺しようと思っていたことがある。そのあたりの記憶はぼんやりとしてる。なにかを無意識に抑圧してしまったためだろう。なにが自殺を押しとどめたのかということでは、ぼんやりと歎異抄の「念仏申さんと思ひ立つ心の起る時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり」が思い浮かぶ。
当時の私は亀井勝一郎や三木清、梅原猛などの影響もあり、親鸞に傾倒していた。それが自分を救いうるのだろうかという若い思いでもあった。
歎異抄は、唯円の聞き書きとして、この文言の前に「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」とある。信仰が先行するのである。が、私はその時の体験から、これは逆だと思った。つまり、念仏申さんと思ひ立つ心の起るその時に、弥陀の救済が働き、そして、誓願不思議と往生の確信となる、という順なのだろう、と。
そう考えることで、親鸞の信仰と唯円との落差が見えたように思った。親鸞は、変な言い方だが、「念仏申さんと思ひ立つ心」をある種、絶望の極北と見ていたのではないか。他力とは、ある意味、絶望の極北ではないか。そこにあるとき、人を貫いて念仏申さんと思ひ立つ心の起ること自体が、弥陀の誓願不思議の顕現ではないのか。もちろん、真宗学の人は否定するだろう。私はその後、その何かをキリスト教の中に見ていこうとしたが、その話はどうでもいい。
その後自殺を思うことがなくなったが、死んだほうがましということは、今思うと二度あった。一つは青春を打ち砕いた。と、言うも恥ずかしいが、私のような無名な人間のそういう生き様はごく普通の人の生き様でもある。過ぎ去れば、どういう話でもない。もう一つは、正確には死んだほうがましというものではなく、単に生きる苦悩だった。大げさな言い方ついでに言えば、乾巧がウルフオルフェノクに変身したように絶叫した。人生には存在の底から絶叫することがあるものだ。が、それも、沈静して考えれば、わりと普通のことでもある。
自殺や懊悩というのは普通の人生の一部だと思う。というか、私はそうして生きることにした。ふん、俺は生きるのか、という感じだ。
こんな光景も思い出す。人っ子一人いないある西洋の断崖に立ったことがある。柵もなく注意書きもなく、眼下に遠くただ美しく静かな海が広がっていた。怖くもあった。死ねるな、である。自殺の思いがふっとよぎった。小林秀雄が若いころ、断崖から見る海が美しかったら死のうとしていたことを思い出した。彼が自殺しなかったのはその日曇りだったからだろう。そういうこともある。
慰撫的な前振りが長くなったが、鷺沢萠と松田新平の自殺ということを聞いて、さて自分は、とそんなことを思ったわけだ。
鷺沢萠という作家の作品は読んだことはない。その内面はまったく知らない。が、気になったのは、たぶん、メディアでも取り上げることになってしまうのだろうと思うが、彼女が昨今言うところの「負け犬」の代表の一人であり、その生き様の一つとして、自殺ということを刻んだのだということだ。そんなのは勝手で不謹慎な解釈と非難されそうだが、言わずにも世の中はそう受け止めるだろう。現在発売の「野生時代」で、まさにそのテーマで酒井順子と対談していた。読んだ。この時点で読めばいろいろ思うこともあるのだが、それでも、端的に言えば、こうした残された文章から自殺へはつながらないのではないか。そして、それは、負け犬の生き方の一つの結末として自殺があるとしても、そこはそう簡単に文章でつなげるものでもないだろう。本質的につながらないかもしれない。ただ、酒井順子は、もし、物書きの魂というものがあるなら、何かを書かなくてはいけないだろうし、書くだろうなと期待する。
ネットで鷺沢萠のことを軽く見回したら、「鷺沢萠連載エッセイ かわいい子には旅をさせるなvol.28 メシのモンダイ その2」(参照)という面白い話がった。このシリーズのエッセイではこれが最後になるだろうか。
韓国人も実に頻繁に「メシ食った?」のひと言を口にする。もっとも韓国人の口から出るそのひと言は、アメリカで私を驚かせた「ジュイッ?」と違って、純粋な意味での質問である。
これは私見だが、韓国人は「ひとりで食事する」ことをあまり好まない。韓国人には「メシは複数人数で食うもの」という観念があるように思う。だからこそ頻繁に「メシ食った?」と訊ねるのであろう。つまり彼らはそのことばを介して、「一緒にメシを食う相手」を探しているのではないか、というのが私の個人的見解である。
エッセイに無粋な重箱つつきをする意味はないが、この挨拶は中華圏では当たり前のものだ。私の父は、10代を朝鮮で過ごしたので、この話を私が子供の頃よくしてくれた。鷺沢萠の祖母は朝鮮系であるというが、家庭内ではそういう文化の伝承のようなものはかったのだろうか。ふと気が付いたのだが、私はそういう意味で、引き揚げ者の子供なわけだな。
松田新平が誰かという詳しい話はしない。最近、松田新平が死んだという噂は飛んでいたことが気になっていた。先月から「みんな」心配していたのだ。「松田新平をかまってやれないほど忙しかったわけですが、最近毒電波も飛んでこないところを見るとイジケテいるのかもしれません。今頃うんこ我慢しながらインターネットしている彼に激励の言葉をどうぞ。」(参照)というわけだ。そうしたら、今日の山本一郎のブログに追悼が出ているじゃないか。「松田新平が死んだ件について」(参照)。現代における名文だな。本当に死んでしまったのだなという心の思いがこの文章にすーっと引き寄せられる。
しかしまあ、松田が死んだってことで、これで少し世の中が生きやすく、そしてつまらなくなったってことだ。あれだけ人を騒がせておいて、自分勝手に逝きやがって。
山本は意図的ではないのだろうが、結果的に暗示するように、彼の死はこの現代の日本の一つの大きな象徴なのかもしれない。またしても、ここで時代がぐぃんとつまらんものに曲がってしまったか、あるいは、この世代をつまらない世界に押し込んだのか。ある意味、今というこの時は、その不思議な頂点でもあるのだろう。ああ、そうだ、僕らみんな松田新平が好きだったのだ。そういう「好き」という人間への感性が、今から変容していくのだ。
松田新平は、はてなでこう問いかけたことがある(参照)。
わたしはだれでしょうか。nameforslashdotだのnameforhatenaだの1967.08.02生まれの男性だの住所だの学歴だの病歴だの人間だの動物だの生き物だの無機物の集合体だの三次元空間の存在だのわかりませんだの知っていますだの誰に聞けだのなにを読めだのはぜんぶだめです。
私はこう答えた。
「ゲド」です。
漢字の「外道」ではありません。
参考:http://homepage1.nifty.com/ima-dame/matuda.htm
彼の応答はこうだった。
なに、おれの本名は「ゲド」だというのですか?それでいいのですか?
それはそれとして、参考URLとしてあげられている、クリッカブルでないほうのURLがどうして参考になるのかわかりません。減点しようかな、、どうしましょうか?
減点はされなかったが、貰ったのは2ポイントだった。通じなかったな、と思った。彼は、彼と私にある重要な共通の知人がいることに気が付かなかったようだ。が、私はそれでもいいやと思った。私は彼が面白い人だとは思うが、ある一定以上近寄るのはやめようと思った。
私はそうして、少しずつ、本当に孤独になっていくのだろうなとは思う。それは、自分の死というものの一つの形だ。自殺しないという決意は、反面崩れていくような死の受容でもある。だが、それは本当は虚偽なのだろうとも思う。
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コメント
finalventさん、
こんにちわ。
松田新平さんを存じ上げませんが、同年代の一人として親近感を覚えます。1つ違いなのかな。鷺沢さんも、今回はじめてホームページを見せていただいたくらいですが、ほぼ同年輩です。2つちがい...
地下鉄の駅で乗り換えをするときに、そばにホームレスの人がいるのに恐怖を感じます。いつか自分はこうなってしまうかもしれない、と。このままカバンを置いて、ホームレスの人たちのとなりに座り込んでしまうかもしれないとか、感じます。弱いんですよね、きっと。
「ゲド」といわれると、オジオンという師がハイタカに名前を教えるシーンを思い出します。小学生の自分にとって大きな場面でした。あのころ、よく首のない男が御堀端の角から曲がって出てくる夢を熱を出すたびに見ていました。
ちなみに、私の知っているゲドは、名前を与えられても、女を知るまでに、世界の中心に一度立ち、そして、世界の果の先までいって、力も全部失って、それでも生きてもどってこなければなりませんでした。生きるって、そういうことなのでしょうか?自分にそれだけの強さがあってほしいと、素直に思います。
そんな感じです。でも、なんとか今生きています。
投稿: ひでき | 2004.04.16 14:41
死の前にある生を飛び越えて、死に至るという行為を、どう捉えればいいのか、わかりません。
どう、という事はなくて、それが彼らの選択で、私とは違うという事なのですが、死者との対話のむなしさを思います。
私は、自分がどう死にたいかを考え、それを逆算して今日を生きています。
投稿: のっち | 2004.04.16 17:49
ひできさん、こんにちは。少しゲドについて語ってみたい気もしますが、生きる楽しみの一つとして、また後の話としましょう。のんびりのんびり。
投稿: finalvent | 2004.04.16 20:50
のっちさん、こんにちは。「自分がどう死にたいか」を問う生き様というのもあると思います。私はどちらかというと、自分の「生」そのものが所与(与えられたもの)と考える延長で「死」もまた先行的な所与なのではないか、と、ハイデガーとは逆の考えをしています。もちろん、矛盾はあります。
投稿: finalvent | 2004.04.16 20:52
うへぇ、finalventさんが日曜の報道特番も見ずにファイズを見てたなんて結構意外だ。ファイズの夢オチを思い出しました。しかも切込隊長と知り合いってのも意外でした。
私の場合は、残されたものの心のケアを考えてしまいますね。
自分の経験から、知人の自殺ってのは「俺のせいだろうか」と思いやすいですから。
時代の曲がり角に感じたあたりをまた何かの機会に読ませてください。
投稿: Cyberbob:-) | 2004.04.17 15:26
Cyberbob:-) さん、こんにちは。切込隊長とは知人という間柄ではないです。別の某氏です。ファイズはミレニアム仮面ライダーではいちばん良かった(でも思い入れはアギトか)。サブカル的なのでは、鉄人28号が最高です。横山さんが亡くなって悲しいですが。
投稿: finalvent | 2004.04.17 21:58
>人を貫いて念仏申さんと思ひ立つ心の起ること自体が、弥陀の誓願不思議の顕現ではないのか。もちろん、真宗学の人は否定するだろう。
いや、その理解のほうが正しいのです。詳しくは歎異抄第8条の解説をご覧ください。
投稿: F.Nakajima | 2004.04.17 23:29
Nakajimaさん、ども。Nakajimaさんがそうおっしゃるとちょっと心強いですね。いつもご示唆、参考になります。
投稿: finalvent | 2004.04.18 08:34
ぼくぁ松田さんより鷺沢さんが死んでしまった方が世の中がつまらなくなってしまったと思うよ。
松田さんは彼の頭脳を一個のシステムに例えるなら排水口の詰まった便器みたいなものだったから。
出力不良の彼のウンコの異臭に悩まされてた人は、ただぼんやりと納得してしまうばかりだ。
鷺沢さんはまだ人のお役に立っていたから、惜しい人を亡くしたと思う。負け犬とかそういう観点は意味が無い。
投稿: noname | 2004.04.20 23:28
finalventさんの、「ちなみに私の知っているゲドは…」の部分、心に残りました。
私は、鷺沢さんがご自分で亡くなられたこと、驚いたけれど、意外には思いませんでした。いろいろな著作を拝見していて、お父さんからもらってしまったトラウマがあまりに大きすぎて癒せていないのを感じていたからです。だから、いつもどこかで心配していました。
投稿: ブロッコリ | 2004.06.17 17:36
ブロッコリさん、ども。この記事書いてから、週刊文春の先崎さんの追悼記事?読んで、なるほどと思ったことはありました。
偉そうな言い方ですが、癒されない心を持っていきる運命に定められた人間というのはあると思いますね。どうしていいのかまるでわからないのですが、ただ、癒しとかってそんなたいしたもんじゃないよとは思うことが多いです。
投稿: finalvent | 2004.06.17 18:24
古いエントリーにコメントつけてすみません。
次の記事を読んで松田さんのことを思い出し、貴エントリーに再び泣きました。
RBB TODAY 2005年4月8日 ネットから消えた友人について
http://www.rbbtoday.com/column/ittoku/20050408/
投稿: anonymous | 2005.04.10 19:14
だいぶ古いブログのようですね。
コメントすみません。
松田さんをよく知っていて、精神病だと打ち明けられたこともありました。
彼の行動がエスカレートしていったので怖くなって連絡を取らなくなりましたが、まさか亡くなっていたとは。
ビックリしました。
投稿: ミネラル納豆 | 2006.09.12 23:19
人間って、そんなに簡単に自殺できるもんじゃないなと、最近よく思います。「自殺」って結局、(酷い言い方になってしまうけど)一種の他人への面当て、と言って悪ければ、メッセージなんだと思う。・・・それだけの、他人も見いだせない人が、世の中には沢山いるから。そっちの方が不幸だな、と。・・・取敢えず、ご冥福をお祈りします。
投稿: ジュリア | 2010.01.09 17:17