[書評]アラブ政治の今を読む(池内恵)
雑誌の書評などで概ね好評なので、一般向け書籍で2600円はちと高いなと思いつつも、アマゾンに注文。1500円以上の書籍の配送は無料なのでこんなときは便利だ。で、読んでみて、どうか? 確かに、お値打ち感はある。読みやすい。いろいろ蒙を啓かれた点もある。こりゃ、俊英というに相応しい頭の良い学者さんだなと思う。読みつつ、ふーんと思う点や、こりゃそうか?と突っ込む点も多々あるので、鉛筆持ちながら線引いたり、ちょこっとメモして読んだ。こんな読書は、学生のころのリーディング・アサイメントみたいだ、とちょっと苦笑。
アラブ政治の今を読む |
2つある。1つは前著「現代アラブの社会思想」のほうが顕著なのかもしれないが、この筆者のお得意である、90年代以降の現代アラブ世界のメディアに満ちる、陰謀史観風「イスラムの終末論」についてなのだが、なんというか、現代アラブのメディアの傾向としては面白いが、それが現代日本人にとってアキュートな課題である、テロリズムに直結したイスラム原理主義との関係が、実は、議論として、つながってないんじゃないの?、という疑問だ。単純な言い方をすると、9.11を起こした犯人側の思想は、そういう池内が分析する陰謀史観風イスラムの終末論なのか?、ということがわからない。この本では結局、9.11の事件やそれに関連する米国側でのメッセージは、現代アラブに陰謀史観風「イスラムの終末論」として伝わるという、だけではないのか? ちょっとひどい言い方をすると、そのこと自体には、国際社会は関心を持たないし、関心を持つ意味はあまりない。どこの国でも陰謀論はあるものだ、くらいのことになる。陰謀論的な世界がイスラム原理主義的なテロリズムに具体的にどう関与しているかが、本書では結局問われていないように見える。
別の問題意識かもしれないが、例えば、韓国では反日の歴史・精神風土があり、また、陰謀論めいた反日メディアがぼこすか出てくる。では、それらがウリ党の出現などに関係しているか?、というと、そうでもあるし、そうでもない。こうした場合は、実際の経済活動の動向などから、できるだけ客観的な状況というものを見る必要がある。指標は様々あるのだろうが、経済交流の面などからは、どこが反日?という実態があったり、対日本というよりもグローバルな位置に置かれた韓国の状況分析が実際の韓国の動向をうまく説明するものとして見えてくる、ものだが、そうした点は、アラブ社会にも言えるのではないか。
韓国を中程度の発展国というのは間違いだし、陰謀史観は米国にも多いが、そういう雑音を除き、現代アラブについて、具体的な経済や社会の動態などから、テロリズムの温床がどのように形成されるかという抽象化の方法論が欲しい。
ええと、ですね、つまり、そういう経済や社会の実態的な動向側から裏打ちされたイスラム原理主義についての説明が欲しい、というわけだ。もうちょっと突っ込むと、本書では、ヨルダンやカタールなどが親米というのはわかるのだが、その経済的な背景や軍事的な背景について、特に数値を含めた考察が知りたい。そうした、できるだけ客観的なもののと、イスラム原理主義のテロリズムとの関連がないと、ただ、エジプトで広がっている終末論的なメディアの解説というだけのことになってしまう。
関連して、本書は意図的なのか、サウジがごそっと抜けている印象を受ける。本書の場合、エジプトに著者が居住していたということはわかるし、ご先輩?の酒井啓子でもそうなのだが、エジプトがアラブ学のベースになるというのはわからないではない。が、それでも、サウジにもう少し突っ込んで書いてほしい。サウジこそ、諸悪の元凶であるという見取り図には間違いないだろうから。
くどいが、例えば、ザルカウィについてはエジプトの文脈は必要だが、ウサマについてはサウジの歴史背景や現状のサウジの分析が必要になるはずだ。というか、繰り言になっていかんが、テロリズムに直結したイスラム原理主義について、どうも本書のような現代アラブの思想状況からは、十分に説明されていないという印象を持つ。
もう1点は、私なぞ古くさいヴェーバリアンでもあるせいか、逆にこの本で啓蒙される面が多いのだが、それにしても、思想と社会機能の関連の考察が弱いという印象をうける。もちろん、コーラン(クルアーン)は出てくるのだが、イスラム社会の場合、キリスト教のフンダメ(fundamentalism)のようなSola Scriptura(ソラ・スクリプチュラ)ということはない。実際にタリバンの例でもそうだが、法学者とその社会機能のあり方の変異として原理主義が出てくる。その意味で、トルコなどの穏和なイスラム原理主義もタイポロジーとしては同じはずだ。という、あたりのイスラムの社会構成や社会機能についての考察が本書にないように思える。
くどいが、アラブ社会というのは、イスラムの法学的な権威によって、部族内外の公機能(調停機能)を担う最適な組織(構造)なのではないか。その基本構造と、部族社会のスルタン的な王の関連が、どう近代化と軋みを起こすのかという、古くさい考察が本書にないように思える。不要?
と、基本的に「あれれ?」は2点である。くさしに聞こえるかもしれないが、実は、本書で優れた点は、アラブ学なりの知見ではなく、単に、池内恵の国際政治に対するセンスの表出ということなのではないかとも思える。その意味で、その優れた感じというのは、フォーリンアフェアーズあたりの論考のレベル、ということなのではないだろうか。っていうか、左翼さんのおかげで日本の知的レベルが沈没しているから、当たり前の知性が目立つのか、というと皮肉か。いずれ、普通に英語論壇が日本語でバランスよく見えるようになれば、本書のように普通に見えるはずの像を、ただ確認するという感じにはなるだろう。その傾向は否めないというか。
本書で、読後、うなったのは、多文化主義の問題だ。本書では安易な解答を出していないのが優れた点かもしれないし、著者は、昨今のニューアカ以降の日本の若い知性みたいに自由を論じるにジョン・スチュワート・ミルもお読みでないみたいなポカはないのが助かる。と、八つ当たりのようだが、自由を議論するなら、池内のように古典(歴史)を踏まえてアキュートな現代のコンテクストで論じてもらいたい。日本の現状を批判する形で流行の欧米理論的に自由を論じ、ほいで、それでそのまま日本の状況がグローバルに移行する、なんてことは金輪際あり得ないのだから、むしろ、グローバル化がもたらす潜在的な日本の問題に論者の身を置いて、さあ自由とはなんだ?と問う必要がある。
で、多文化主義なのだが、まいった。わからん。決定的にわからないのは、いかに論理的な解決が出て、それを我々の原則としても、彼ら(イスラム教徒)には通じない。とすると、むしろ、通じないということを高位の原則として、我々の最低綱領を断固押し通すしかないのではないのか、と私には思える。つまり、フランス風ライシテだ。
くどいようだが、日本人好みの文化相対主義では、譲ることを知らない絶対主義に向き合えるわけがない。むしろ、イスラム文化圏側で「譲る」可能性は西洋近代原理による知性の開放(単純な話、教育)を契機にするしかない…と言いつつ、ここでも、詰まる。自爆で言うのだが、西洋近代原理が貫徹化したかに見えるイスラエルが全然、新しい形での、多文化主義を打ち出していない。むしろ、イスラエルの穏健な思想は伝統的な歴史主義的な多文化主義でしかない。隘路?迷路?
とま、およそ書評じゃないが、それだけ、知的興奮を誘う書物であることは確かだし、頭のなかからバカの垢が落ちてすっきりする面も多い。
本書を読むなら今が旬だとも言えるし、この本自体が日本の現在をうまくスナップショットしているという意味で、私の書架に残るかもしれない。いや、残るなと思う。
余談だが、喧嘩売っているつもりはないが、現状、本書についてのアマゾンの書評はなんか無意味だ。本書が批判されるとき、どこから批判しているかを見極めたほうがいい。私については、以上のとおりだ。
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