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2004.04.30

[書評]アラブ政治の今を読む(池内恵)

 雑誌の書評などで概ね好評なので、一般向け書籍で2600円はちと高いなと思いつつも、アマゾンに注文。1500円以上の書籍の配送は無料なのでこんなときは便利だ。で、読んでみて、どうか? 確かに、お値打ち感はある。読みやすい。いろいろ蒙を啓かれた点もある。こりゃ、俊英というに相応しい頭の良い学者さんだなと思う。読みつつ、ふーんと思う点や、こりゃそうか?と突っ込む点も多々あるので、鉛筆持ちながら線引いたり、ちょこっとメモして読んだ。こんな読書は、学生のころのリーディング・アサイメントみたいだ、とちょっと苦笑。

cover
アラブ政治の今を読む
 本というのは、私にしてみると読後のしばらくしてからの思いというものが重要になるのだが、さて、しばらくしてみると、あれれ、と心に疑念がいくつか浮かんでくる。本書が優れていることは確かで、クサシの意味はないのだが、そのあれれの部分を書きたい。批判というほどのことでもないので誤解なきよう。
 2つある。1つは前著「現代アラブの社会思想」のほうが顕著なのかもしれないが、この筆者のお得意である、90年代以降の現代アラブ世界のメディアに満ちる、陰謀史観風「イスラムの終末論」についてなのだが、なんというか、現代アラブのメディアの傾向としては面白いが、それが現代日本人にとってアキュートな課題である、テロリズムに直結したイスラム原理主義との関係が、実は、議論として、つながってないんじゃないの?、という疑問だ。単純な言い方をすると、9.11を起こした犯人側の思想は、そういう池内が分析する陰謀史観風イスラムの終末論なのか?、ということがわからない。この本では結局、9.11の事件やそれに関連する米国側でのメッセージは、現代アラブに陰謀史観風「イスラムの終末論」として伝わるという、だけではないのか? ちょっとひどい言い方をすると、そのこと自体には、国際社会は関心を持たないし、関心を持つ意味はあまりない。どこの国でも陰謀論はあるものだ、くらいのことになる。陰謀論的な世界がイスラム原理主義的なテロリズムに具体的にどう関与しているかが、本書では結局問われていないように見える。
 別の問題意識かもしれないが、例えば、韓国では反日の歴史・精神風土があり、また、陰謀論めいた反日メディアがぼこすか出てくる。では、それらがウリ党の出現などに関係しているか?、というと、そうでもあるし、そうでもない。こうした場合は、実際の経済活動の動向などから、できるだけ客観的な状況というものを見る必要がある。指標は様々あるのだろうが、経済交流の面などからは、どこが反日?という実態があったり、対日本というよりもグローバルな位置に置かれた韓国の状況分析が実際の韓国の動向をうまく説明するものとして見えてくる、ものだが、そうした点は、アラブ社会にも言えるのではないか。
 韓国を中程度の発展国というのは間違いだし、陰謀史観は米国にも多いが、そういう雑音を除き、現代アラブについて、具体的な経済や社会の動態などから、テロリズムの温床がどのように形成されるかという抽象化の方法論が欲しい。
 ええと、ですね、つまり、そういう経済や社会の実態的な動向側から裏打ちされたイスラム原理主義についての説明が欲しい、というわけだ。もうちょっと突っ込むと、本書では、ヨルダンやカタールなどが親米というのはわかるのだが、その経済的な背景や軍事的な背景について、特に数値を含めた考察が知りたい。そうした、できるだけ客観的なもののと、イスラム原理主義のテロリズムとの関連がないと、ただ、エジプトで広がっている終末論的なメディアの解説というだけのことになってしまう。
 関連して、本書は意図的なのか、サウジがごそっと抜けている印象を受ける。本書の場合、エジプトに著者が居住していたということはわかるし、ご先輩?の酒井啓子でもそうなのだが、エジプトがアラブ学のベースになるというのはわからないではない。が、それでも、サウジにもう少し突っ込んで書いてほしい。サウジこそ、諸悪の元凶であるという見取り図には間違いないだろうから。
 くどいが、例えば、ザルカウィについてはエジプトの文脈は必要だが、ウサマについてはサウジの歴史背景や現状のサウジの分析が必要になるはずだ。というか、繰り言になっていかんが、テロリズムに直結したイスラム原理主義について、どうも本書のような現代アラブの思想状況からは、十分に説明されていないという印象を持つ。
 もう1点は、私なぞ古くさいヴェーバリアンでもあるせいか、逆にこの本で啓蒙される面が多いのだが、それにしても、思想と社会機能の関連の考察が弱いという印象をうける。もちろん、コーラン(クルアーン)は出てくるのだが、イスラム社会の場合、キリスト教のフンダメ(fundamentalism)のようなSola Scriptura(ソラ・スクリプチュラ)ということはない。実際にタリバンの例でもそうだが、法学者とその社会機能のあり方の変異として原理主義が出てくる。その意味で、トルコなどの穏和なイスラム原理主義もタイポロジーとしては同じはずだ。という、あたりのイスラムの社会構成や社会機能についての考察が本書にないように思える。
 くどいが、アラブ社会というのは、イスラムの法学的な権威によって、部族内外の公機能(調停機能)を担う最適な組織(構造)なのではないか。その基本構造と、部族社会のスルタン的な王の関連が、どう近代化と軋みを起こすのかという、古くさい考察が本書にないように思える。不要? 
 と、基本的に「あれれ?」は2点である。くさしに聞こえるかもしれないが、実は、本書で優れた点は、アラブ学なりの知見ではなく、単に、池内恵の国際政治に対するセンスの表出ということなのではないかとも思える。その意味で、その優れた感じというのは、フォーリンアフェアーズあたりの論考のレベル、ということなのではないだろうか。っていうか、左翼さんのおかげで日本の知的レベルが沈没しているから、当たり前の知性が目立つのか、というと皮肉か。いずれ、普通に英語論壇が日本語でバランスよく見えるようになれば、本書のように普通に見えるはずの像を、ただ確認するという感じにはなるだろう。その傾向は否めないというか。
 本書で、読後、うなったのは、多文化主義の問題だ。本書では安易な解答を出していないのが優れた点かもしれないし、著者は、昨今のニューアカ以降の日本の若い知性みたいに自由を論じるにジョン・スチュワート・ミルもお読みでないみたいなポカはないのが助かる。と、八つ当たりのようだが、自由を議論するなら、池内のように古典(歴史)を踏まえてアキュートな現代のコンテクストで論じてもらいたい。日本の現状を批判する形で流行の欧米理論的に自由を論じ、ほいで、それでそのまま日本の状況がグローバルに移行する、なんてことは金輪際あり得ないのだから、むしろ、グローバル化がもたらす潜在的な日本の問題に論者の身を置いて、さあ自由とはなんだ?と問う必要がある。
 で、多文化主義なのだが、まいった。わからん。決定的にわからないのは、いかに論理的な解決が出て、それを我々の原則としても、彼ら(イスラム教徒)には通じない。とすると、むしろ、通じないということを高位の原則として、我々の最低綱領を断固押し通すしかないのではないのか、と私には思える。つまり、フランス風ライシテだ。
 くどいようだが、日本人好みの文化相対主義では、譲ることを知らない絶対主義に向き合えるわけがない。むしろ、イスラム文化圏側で「譲る」可能性は西洋近代原理による知性の開放(単純な話、教育)を契機にするしかない…と言いつつ、ここでも、詰まる。自爆で言うのだが、西洋近代原理が貫徹化したかに見えるイスラエルが全然、新しい形での、多文化主義を打ち出していない。むしろ、イスラエルの穏健な思想は伝統的な歴史主義的な多文化主義でしかない。隘路?迷路?
 とま、およそ書評じゃないが、それだけ、知的興奮を誘う書物であることは確かだし、頭のなかからバカの垢が落ちてすっきりする面も多い。
 本書を読むなら今が旬だとも言えるし、この本自体が日本の現在をうまくスナップショットしているという意味で、私の書架に残るかもしれない。いや、残るなと思う。
 余談だが、喧嘩売っているつもりはないが、現状、本書についてのアマゾンの書評はなんか無意味だ。本書が批判されるとき、どこから批判しているかを見極めたほうがいい。私については、以上のとおりだ。

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2004.04.29

大欧州がコケるに賭ける

 朝日新聞社説を読み切れないことはあまりないのだが、今朝の「大欧州の誕生――この途方もなさ」はなんだろう。朝日の左翼・反日の意図がどうこの記事に反映されていて、何を誘導しようとしているのだろう。あるいは、そういう毎度の枠組みではないのか。気になって何度か読み返してみてもわからない。そう、基本的には私はこの社説に同意している。
 問題は、五月1日に人口4億5千万人、国内総生産の規模で世界の4分の1を占める大欧州が誕生する、ということだが、もっと端的に言えば、「おフランス帝国出現」ということだ。が、そう言ってしまうまえに、解説したほうがいい。ちょっと読みづらいが、まず朝日を引く。


 政治的な統合が深まるにつれて、新たな問題も起こり始めている。
 ユーロの導入はユーロ圏諸国が通貨主権を手放すことによって実現した。EUが重要政策を決めれば、各国は歩調を合わせる。例えば、フランス議会で作られる法律の半分以上がEUの方針を実施するためという試算もある。
 だから、多くの人々は、国政選挙での自分の選択とは関係なく生活にかかわる決定がなされていると感じてしまう。反EUを掲げる左右の急進的な政党が支持を集める背景にも、この不満がある。

 朝日はどうしてこうねじ曲がった文章を書くのかよくわからないが、ようするに、フランスがEU諸国を支配するということだ。ボナパルト再来だか、ドゴール再来だか、そんな感じだ。
 冗談じゃないということで、スペイン、ポーランド、イタリアは、早々に反仏を明確化するために米英主導の有志連合に加わったが、現在となれば、貧乏くじを引くことになった。どうしたわけか、日本では、フランスのル・モンドあたりの反米主張がさも世界の言説のごとく流布されるが、こういう政治背景を差し引いて読まないといけない。
 いずれにせよ、スペインは転んだし、ポーランドもびびっている。ということで、今こそイタリア人の本気の底力が試されるところでだが、私は、早々に枢軸から転げた過去を持つイタリアであれ、この状況では本気になるよと、信じている。
 むしろ、イギリスが奇妙なコケかたをしているように思えてならない。これまでジョンブル・ブレアよくやるよと思ってきたが、ここに至って、私はよく理解できない。ブレアは、それまで否定してきたEU憲法の是非を問う国民投票を実施するというのだ。そんなものやれば、否決されるだけじゃないかと思うのだが、やるというわけだ。「英国:EU憲法の是非問い国民投票…ブレア首相、真意どこに 方針転換に波紋」(参照)をひく。

 英の国民投票は、73年のEC(欧州共同体=当時)参加の2年後にその是非をテーマに実施して以来、ほぼ30年ぶりとなる。EU憲法をめぐる最新の世論調査では、賛成はわずか20%台。ブレア首相は「英国が欧州の政策決定の中心にいると決意するかどうかの時だ」と国民に呼びかけ、首相周辺も最終的な勝利に自信を示しているが、情勢は楽観を許さない。
 英国民にはもともと、仏独の大陸国家主導で進められてきたEUへの複雑な思いがある。一部のメディアは、6月のEU首脳会議でEU憲法が採択されれば英国の主権がEU本部のブリュッセルに移る、と早くも危機をあおりたてている。

 理由はイギリス内政的にはいろいろと噂されている。が、それよりも、この国民投票が実現してコケれば、フランスも国民投票せよということになる。そうなれば、爆笑ものだが、フランスですら、コケるだろう(マーストリヒト条約成立を想起せよ)。そういうドミノ倒しを近未来に見ることになるのだろうか。というか、それを避けるために、「フランス、必死だな」、になってきている。余談だが、もともと、フランスはドイツなしではやってけないという、ありがちな隣国腐れ縁もあるので、当面はよりドイツに親和を示すだろう。そして、それがまたドイツなんてやだな、という国を刺激するわけだ。
 どういう展開になるのか、EUズッコケという以外に私には予想はつかない。いずれ、当分はフランスからのお話はこうした背景で聞いたほうがいい。
 実際のイギリスの国民投票は2006年にずれこみそうだ。まだ、かなり、間がある。その間、当然アメリカ大統領選、イラクの動静なども影響するのだろう。

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年金問題はまた五年後に蒸し返し

 年金問題について書くだけ馬鹿馬鹿しい気がする。率直な話、国会議員がふざけているなら、どうでもいいやという感じだ。こんなことで国はどうするという思いもあるが、気が抜けてにへら笑いしそうだ。普通の国なら、暴動が起きるか、国会にコーラの瓶でも投げ込むのだろうとなと思う。自分にもその気力がない。活動はプロ市民にお任せだよね。
 もちろん、考え詰めていっても、ある意味「どうでもいい」とも言える。それは極東ブログで書いてきたとおりだ。目先に迫ったと言われる年金危機はフェイクの可能性が高い。差し障りがある表現だが、共済年金が実は隠れた本丸じゃないのかとも思う。また、もしかすると、現状の公明党路線で日本の景気が上向けば(=インフレになれば)、問題は自動的に解決するのかもしれない。しかし、理性的に考えれば、年金問題はまた五年後に蒸し返しになるだけなのだろう。
 と、つい「公明党」と口走る。今朝の新聞各紙社説を読みながら、あるもどかしさの中心は公明党なのではないかという印象を持つ。私の印象は間違っているのかもしれないが、産経新聞が最近とみに公明党に配慮しているようだ。社説「年金法案可決 これじゃ誰もソッポ向く」は威勢のいいタイトルの割に、内容は散漫。同様に、毎日新聞社説「採決強行と未納 年金不信はここに極まった」も数値を示すなど毎日らしいトーンではあるが、主張というには弱い。この気の抜け方は、公明党への配慮ではないのか。
 読売新聞社説「年金法案可決 党派超えた改革協議の場を作れ」も気の抜けた感じだが、これは自民党への配慮か。ただ、結語は奇妙なものだった。


 先進各国が年金改革のモデルと注目するスウェーデンは、党派を超えた論議の末、抜本改革を実現した。合意形成への政治手法を、日本も学びたい。

 執筆者の精一杯の読売上層部への抵抗なのかもしれない。というのは、スウェーデンのように、党派を超えた論議をするには、専門家を入れるしかなく、専門家を入れれば、スウェーデンのように当たり前の結論しか出てこない。つまり、一元化だ。
 朝日新聞社説「年金大揺れ――これは一体何なんだ」は、他紙より公明党への怒りを含んでいる印象を持った。それでも、朝日は民主党案への支援の意志は弱い。そう、この態度は、社民党と共産党のそれと同じということなのだ。
 私は考えすぎかもしれないが、当面の問題は年金に見えながら、起きている事態は、新聞なりという公論の崩壊なのではないか。そしてその公論的な言説は、庶民の感覚からはすでに離れている。新聞の社説なんてそんなものだよというのはわかるが、そういうふうに総括したいわけではない。
 新聞がダメならダメでいい。しかし、国民は公論というか、整合できる意見をどうまとめていったらいいのだろうか。
 私の話も散漫になった。やけくそ的な気分は晴れない。
 私は、年金問題について、国会議員らよりもう少し国家というものを信頼していたと思う。私はどういう状況であれ年金のための金をきちんと払ってきた。払うのは大人の甲斐性だよとも言った。しかし、立法府は腐っていたのだ。甲斐性も糞もない。福田、谷垣、竹中、茂木、管、中川、麻生、石破…その面を見るだけでむかつく。台湾から専用の腐った卵を密輸してそのツラにぶつけてやりたいと思う。そうされるに値するだけ、こいつらは国民を愚弄してきたのだから。

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2004.04.28

大学非常勤講師は…

 朝日新聞社説「非常勤講師――こんな処遇ではいけない」が面白かった。大学の非常勤講師の実態の話だ。要するに、すごい低賃金なのだ。私も大学で非常勤講師をやったことがあるので、爆笑…もとい、苦笑した。
 実態を知らない人もいるかもしれないので、基本はこうだ。


 しかし、大学の先生は二つに分かれ、待遇に大きな格差がある。専任教員は月給が支払われ、個別の研究室と研究費が与えられる。一方で、非常勤の教員は講義に応じて賃金が支払われるだけで、研究室も研究費もない。

 賃金はこうだ。

 首都圏や関西の非常勤講師組合の調査によると、1コマ、90分の講義を受け持って、平均賃金は年30回で計約30万円。年齢は平均で42歳だ。講義の準備や試験の採点にかかる時間を考えれば、学生の家庭教師並みの時給である。
 専任教員並みに5コマの講義を担当しても、年収は150万円ほどにしかならない。講義のための本代や学会に出席する費用は自己負担だ。契約は1年ごとで、専任教員になれる保証もない。

 わっはっはとか笑ってしまいそうだが、これでもマシな部類かもしれない。時給6000円ならいいじゃんとかね。実際には、前後に1時間近くかかる。時給で割ると3000円くらいか。それでいいバイトじゃんとか思う? これに通勤費は含まれない。なにより問題なのは、大学によってはけっこう辺鄙なところにあるので、通勤時間が馬鹿にならない。1コマだけのために午前なり午後がつぶれるということになる。その影響のほうが大きい。つまり、その間は、生活費を稼ぐための仕事に充てられないのだ。とすると、ある程度稼ぐということで考えるとどうしても2コマ以上は入れることになる。
 と、すでに、実はボランティアだよ~んの雰囲気をただよわせているが、実感としてはそんなものだ。じゃ、なぜやるのか?というと、岸本葉子が、カルチャースクールの講師の話だが、「炊飯器とキーボード」に書いているように、断りにくいことがあったり、また、山本夏彦が、彼自身の経験ではないが、なにかのエッセイで、歳を取ると若い人に教えたいという欲望は抑えがたいと書いていたが、それもある。学生と飲むというのは楽しいこともある。
 大学講師は、ちょっとした肩書きにもなる。私の場合だと、図書館のフリーパスとかメリットだし、どうせ本でも読むなら静かなところがいいかというのもあった(専門書は自前で購入できないしな)。ま、いずれにせよ、金銭的には、わっはっはと笑ってしまうしかない。余談だが、学生たちに、「きみたちに教えているより、実仕事をしているほうが稼ぎの点ではいいんだよ」と言ったら、え?みたいな顔をしていた。
 繰り返すが、大学非常勤講師はボランティアだと思えばいいというのはある。私自身について言うと、失礼な言い方かもしれないが、大学生がつまんなくなったというのが、もうやりたくねーの最大の理由だ。私が歳を食ったからかもしれないが、もうちょっと言うと、ケースにもよるのだろうけど、講義が終わった後、「はーい、教室を出て」とか言って、ドアに鍵をかけるなんて指導込みっていうのも、どうよ?とかとも思った。
 問題はそうした賃金のことだけではない。

 文部科学省の調査によると、専業の非常勤講師は全国で延べ約6万7千人にのぼる。いくつかの大学を掛け持ちしている人が多いので実数は2万数千人と見られるが、こうしたパートタイム教員が科目の3~4割を担当しているのが日本の大学の現実である。

 ある意味、こっちのほうが問題なのだ。というと、講師の質が悪いからなと思うかもしれないし、そういうのもあるのだろう。私の立場の偏見もあるのかもしれないが、教えていることや背景知識の点で、講師は大学教師に劣るものでもない。というか、現場に近い人が多いので優れていることも多い。そういう点では問題はあまりないのだが、要は、この構図なくして大学が教育の場として運営されていないことだ。
 この問題について、朝日は次のような見通しを語っている。

 文科省は国立大学に対しても「4月の法人化後、非常勤講師はパートタイム労働法の適用を受けることになる」と通知した。法人化で教職員は公務員でなくなり、一般の労働法の適用を受ける。国立大学も専任教員の待遇とのバランスを考えなければならないというわけだ。各大学はこの通知を重んじてほしい。

 朝日は意図していないか、さらなる実態を知らないのかもしれないが、この話はさらに、わっはっはと笑ってしまいそうになる。って、笑ってどうするなんだが、笑う以外になんと言っていいのかよくわからない。極端な話をすれば、教員が今度は講師になり、講師がさらに下に落とされる。トランプの大貧民みたいな感じだ。
 私の認識は間違っているのかもしれないし、それなら幸いだ。私は、むしろ、こうしたひどいなという状況から、逆に大学を離れた場で教える・学ぶという意義が市民社会に広がる契機にもなるかと思う。
 カルチャースクールとかいうと、主婦の暇つぶしのようにも思われてきたが、先の岸本葉子でもないが、市場原理から優れた講師が教えるという場に増えてきている。語学や基礎の計算力といった勉強でなければ、優れた先生の謦咳に触れることは、人生の宝ともいえる経験になる。

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今日は沖縄デー

 読売新聞社説「主権回復の日 『戦後』はこの日から始まった」があまりに馬鹿なことを言っているので、書くのはやめようと思っていたが、少し書く。


 きょうは何の日か。こう問われて、すぐにピンと来る人はそう多くはないだろう。
 一九五二年四月二十八日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は、六年八か月にわたる占領統治から解放された。
 講和条約の第一条を読めば明らかなように、日本と連合国との戦争状態は、この日にようやく終了した。本当の意味での「終戦の日」、あるいは「主権回復の日」と位置付けることもできよう。

 今朝の朝日新聞に「『反日』とは何ですか」というくだらない社説があったが、読売新聞のこの社説こそ「反日」と言っていいだろう。日本という国のありかたに真っ向から反対しているのだから。
 きょうは何の日か、そう問われれば、すぐにピンと来る。沖縄デーだ。それ以外にあるのか。
 1952年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は国土を分断された。沖縄は日本ではなくなったのだ。「占領統治から解放」されただの「主権回復」だのいう意見は沖縄を日本だとは思っていないのだ。
 講和条約を読めば明らかなように、日本と連合国との戦争状態は、この日から新たな問題の次元に突入し、戦争は終わったとはとうてい言えない歴史が始まった。
 日本国の主権を理解していない読売は、当然ながら領土も勘違いしている。

 サンフランシスコ講和条約は、日本の領土についても規定している。
 中国や台湾が尖閣諸島、韓国が竹島の領有権をそれぞれ主張しているが、講和条約を素直に読めば、日本が主権を放棄していないことは明らかである。

 この話は、最近では、極東ブログ「尖閣諸島、領土と施政権」(参照)、「領有権=財産権、施政権=信託」(参照)にも書いたので繰り返さない。
 読売のこうした主張は、日本国民として恥ずかしいと思う。

四月二十八日は、昭和史の大きな節目となる記念すべき日であるはずだった。だが、この日の意義は、日本の占領体験と同様に忘れ去られようとしている。

 そのとおりだ。でも、忘れているのは、読売新聞だ。
 しかし、当の沖縄でも、「沖縄デー」は風化してきている。だが、その日が残した米軍基地がある限り、風化しきることはできない。
 沖縄デーについては、「やがて「壁」は崩れる 4・28の運動に学ぼう」(参照)がよく書けているので参照して欲しい。

楽観も悲観もせず、ひたすら兵力削減と基地返還を求め続ける。4・28は、その愚直とも思える運動がやがて厚い壁を突き崩すことを教えている。

 それがこの日の意義だ。

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2004.04.27

郵政民営化問題が象徴するかもしれないこと

 今朝の新聞各紙社説は、昨日、郵政民営化の法案作成ための「郵政民営化準備室」が小泉内閣発足したことを受けて、郵政民営化をまたテーマとしていた。同じ話の蒸し返しめくが少し書いておきたい。
 朝日新聞の社説は無内容だった。産経は視点がややぼけている。が、少し触れておく。


 日本郵政公社の職員は郵貯・簡保業務だけで十万人、全体で二十八万人に上る。事業の縮小・効率化は大幅な人員削減を伴う。それをせずに民営化を進めれば、逆に経営が一気に行き詰まるのは必至だろう。

 それはそれほど大きな問題とは思えない。業態を変えていけばいいだけのことで、経営の行き詰まりを懸念している産経のそぶりは誰の利益を代表しているのだろうか。
 読売新聞社説「郵政民営化 改革の狙いが不鮮明な中間報告」はそう悪くない。はっきり言って、郵便事業など問題から外していい。

 郵政民営化は何のために行うのか――その目的を再確認しながら、今後、検討作業を進める必要がある。
 最大の狙いは、郵便貯金や簡易保険で国民から集めた約350兆円に上る資金を国の管理下に置く構造を改めることだ。巨額の資金は特殊法人に流れ、非効率な事業を支える要因となってきた。
 財政投融資の改革に伴って、その資金を財投に全額預託する義務がなくなったものの、国債や財投債を大量に引き受けており、同じ構図が続いている。
 その資金を民間に取り戻すことで、民間経済の活性化につながる。財政や財投の改革を一層促進することになる。

 問題はまさに、この第二の国家予算ともいえる資金が国債や財投債に流れる構図をどう見るかだ。読売のように、その資金を民間に戻せばいいと単純に言えることなのかが、率直なところよくわからない。陰謀論めきたいわけではないが、この件について、米国からの圧力がいつのまにか消えているように思えることもよくわからない。私は頓珍漢なことを言っているのかもしれないが、日本国民の財産について、まるで国際化なりグローバル化なりが進んでいるとはとうてい思えない。米国銀行がもっと日本に入って、日本人も米国金利で貯蓄などができればいいと思うのだが、なぜできないのだろう。米国側の理由で阻まれているような気がする。
 日経は読売と同じ内容をもう少し正確に説明している。

 国営金融事業の規模は郵貯と簡保の合計で約360兆円、民間の預金と保険の約6割に当たる。国債発行残高の約23%の約126兆円を保有する郵政公社は最大の国債投資家だ。「財投改革」で郵貯・簡保から財投機関への自動的な資金の流れは断ったが、政府が財投機関に貸し出す資金を国債の一種の財投債の発行で調達し、郵貯や簡保が引き受ければ実態はそう変わらない。
 この仕組みを温存すれば、政府の借金の膨張に歯止めがかからず、財政危機が拡大し、金利上昇などを通じ経済全体をむしばむ危険が増す。「金融の衣を着た財政」の仕組みを改め、持続可能なものにしなければならない。郵政改革は日本を危機から救う改革という意味を持つ。

 日経の説明は確かに具体的ではあるのだが、その結論が「日本を危機から救う改革」とするあたりが、どうもきな臭い。
 以下、少し陰謀論めいた話に聞こえると思うが、この件で、「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」の指摘が気になっている。ウォルフレンは小泉にインタビューした後、彼が実際に彼自身の主張を理解していないのではないかという疑問を持った。

 彼が初めて郵貯民営化を主張したとき、このアイデアはどこから出てきたのか、と私は考えました。おそらく当局の担当者が長期的に考えていくうちに、思いついたものでしょう。担当者自身、自分たちでしてしまった間違った投資を隠すために使おうと考えていたのが、将来ひょっとすると、政府の資金源である財政投融資(郵貯はその主要部分です)が底をつくかもしれない。そこで、二〇〇三年に郵政事業を公社にしようと計画したのではないでしょうか。
 そして郵政を公社化した後で、旧・国鉄のような形で民営化を進めようとしているのかもしれません。旧・国鉄は世界最大の赤字垂れ流し企業でしたが、それを「民営化」することによって、株式を売り、新しい資金創造ができました。NTTが民営化されたとき、その株式総額は、ドイツ一国の株式市場全株式総額を超えるとも言われたものです。これだけ円を経済に投入する方法があったのかと驚かされました。
 それは新しい形での「創造的な」帳簿つけでした。日本の当局は、歴史上最大の創造的な帳簿つけ名人なのです。

 おそらくウォルフレンの言っていることは、日本の言論の世界では、陰謀論なり素人の見解としてせせら笑うという反応が返ってくるのではないだろうか。私自身、国鉄や電電公社についてはウォルフレンの読みでいいのではないかと思うが、郵貯についてはその線でうまく読み取れない面がある。
 問題をクリアにするには、「政府の資金源である財政投融資が底をつくかもしれない」というリスクがきちんと計量化される必要がある。だが、それはかなり不可能だろう。というのも、年金問題にしても、庶民からは民主党はなにをごねているのだ、みたく現状では見えるからだ。官僚が年金計画の算定のための資料を提示してこない。まして、郵貯については不可能に近い。また、道路公団問題でもよくわからないグレーなものになってしまったことを思えばが、郵貯ではさらにひどいことになるだろう。
 話が皮肉になるのだが、ウォルフレンが嫌悪するような解決の仕方が、結局日本社会にそれほど悪いものでもないのかもしれないという思いもある。国鉄の赤字問題も、気にしないで済むようになってしまった(もちろん、これは皮肉だ)。
 結局のところ、なんだかんだと、日本国は民営化をよそに国家側が肥大化し、隠された重税化になって「解決」するかもしれない。その方向はまさに奇妙なナショナリズムだ。
 縮退していく日本が流民を含めてグローバル化することが避けられなければ、どこかで大きなクラッシュになる。若い知性が「降りる自由」とか議論しているようだが、そうした事態への皮肉な予感なのかもしれない。つまり、「降りる自由」はこの奇妙なナショナリズムにしなやかに荷担していくのだろう。

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2004.04.26

G7と「地政学リスク」

 G7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)が日本時間25日未明に、共同声明を採択して閉幕した。というわけで、各紙の社説が扱っていた。今回のG7は私もそれほどワッチしていたわけでもないし、経済の素養が足りないこともあるのだろうが、よくわからない。
 それでも、朝日新聞社説「G7――リスクは下がったのか」は、なんかめちゃくちゃな印象をうけた。これって迷走?と思うので、話の枕代わりに、少し引用したい。


 とはいえ、状況は本当に改善したのだろうか。イラク情勢の悪化は、石油価格の高止まりを招いただけでなく、軍事費の増加による米国の「双子の赤字」の悪化やそれに伴う金利の上昇、テロ拡散による途上国投資の減退など、さまざまな経済リスクをむしろ高めている。

 石油価格高騰はイラク情勢に無前提に結びつけていいのか? 現状では、一義的には石油輸出国機構の問題ではないのか。双子の赤字は軍事費の増加が原因か? 単に米国の財政政策の結果では。また、金利の上昇はまだでしょ? テロ拡散による途上国投資の減退って目に見えているほどなのか? …と、どう読んだらいいのかわからない話がコンデンスしている。ついでだが、読売の社説には特に内容はなかった。毎日は中国を問題視しているのだが、文脈が違うように思えた。
 話をG7自体に戻すと、日経社説「G7政策協調の出番はこれからだ」がよくまとまっている。が、主張のようなものはない。

ワシントンで開いた7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議の共同声明は、世界経済の回復傾向を確認し、為替政策も前回(2月)の声明を踏襲した。米経済は力強さを増し、日本も景気回復軌道に乗り、欧州に停滞感は残るものの、世界経済の不安が和らいだのは事実だ。

 次の判断も妥当だろう。

今回の声明では、各国の個別の政策への踏み込んだ言及はなかった。世界経済のリスクが減っているとの認識から、特定の国や地域に強く政策発動を促す状況にはないという判断であろう。同時に世界経済が最悪期を脱する中で、各国の政策も今後は景気一辺倒ではなくなってくる可能性がある。

 というわけで、G7は今回は形式的な儀式ということでとりあえず理解してもよさそうだが、気になるのは、「地政学リスク」についてだ。日経系「G7会議が開幕――『地政学リスク』を懸念・原油高騰に警戒感」(参照)をひく。

世界経済は順調に回復しているものの、イラク情勢の悪化といった「地政学リスク」を警戒すべきだとの認識で一致。原油価格の高騰などが世界経済に与える影響を注視する姿勢を示す。

 トートロジーのようだが、地政学リスクとは、イラク情勢の混迷に伴う市場の混乱ということだろう。基本事項を確認しようとぐぐってみると、すぐに的確な解説が出てきた。「地政学リスク」(参照)より。

地域紛争がぼっ発する可能性が高まるなど、特定地域が抱える政治的・軍事的な緊張の高まりが世界経済全体の先行きを不透明にすることです。英語で「geopolitical risk」といいます。最近では米国によるイラクに対する武力行使の可能性が増してくるなかで使われたため、中東情勢の緊迫化を指すことが多くなっています。米連邦準備理事会(FRB)が2002年9月に出した声明文で触れてから、多く用いられるようになってきています。

 ということでFRBが2002年から言い出した言葉のようだ。
 差し迫った地政学リスクとして、具体的には、昨日のバスラ沖海上施設を狙った自爆攻撃が気になる。共同系「海上施設狙い自爆攻撃 開戦後、初の海上テロ」(参照)より。

【バグダッド25日共同】米海軍によると、イラク南部バスラ沖で24日夕(日本時間同日夜)、2つの石油輸出ターミナルにボート計3隻が近づき、爆発した。米軍の艦船などが接近を阻止したが、爆発で米兵2人が死亡、4人が負傷した。
 新生イラクの主要な外貨収入源である石油の積み出し施設を狙った同時自爆テロとみられる。イラク戦争開戦後、海上での自爆テロは初めて。ロイター通信などによると、輸出ターミナルや付近に停泊中のタンカーに被害はなかった。

 記事にもあるが、イラクでは1日約190万バレルの石油を現在でも輸出していて、その大半がこのバスラ沖の施設に集中している。こういう言い方はよくないのだが、イラクでのテロ活動がアルカイダなどの「本気」組が組織的に関わるなら、ここやイラク内の石油パイプラインを狙ってくるわけで、当然米軍もここを死守している。
 今回の事件は死者は少なく小さい規模の事件のようだがけっこうな被害だとも言える。共同系「海上テロの損害30億円 石油相、操業再開遅れも」(参照)より。

イラク暫定内閣のウルーム石油相は25日、同国南部バスラの石油輸出ターミナルを狙ったボート3隻による自爆テロの影響で約100万バレル分の輸出ができなくなり、2800万ドル(約30億5000万円)の損害が出たことを明らかにした。

 イラク戦争を米軍の石油利権のための戦争だというのは笑い飛ばしてもいいのだが(「世界を動かす石油戦略」参照)、この「地政学リスク」は世界経済に深刻な打撃を与える可能性はあり、その危険な兆候として今回の事件を見てもいいのかもしれない。
 私の誤解かもしれないが、米国のエネルギー事情は中東の石油にそれほど依存していない。米軍が死守しているものは、世界経済そのものでもあるのだろう。と、書くと、イデオロギー的な批判を受けるのかもしれないが、まだ世界第二位の経済大国であり世界経済システムの恩恵の上になりたつ日本は、言い方は悪いが、イラク復興より、世界システム安定のための「地政学リスク」を減らすために貢献しなければならないはずだ。というか、それが結局、現自民党政権の本音でもあるのだろう。

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2004.04.25

北朝鮮・竜川駅構内大爆発

 北朝鮮の中国国境に近い竜川駅で起きた大爆発について、朝日新聞と産経新聞の社説が仲良く扱っていた。が、まいどの構図とは少し違う印象を受けた。朝日社説「列車大爆発――北朝鮮は本気で門開け」は、何かを知っているという印象を受けた。というのは、記事の書き方が社説というよりベタ記事の文体に近いわりに、奇妙な陰影がある。


 爆発は、訪中を終えた金正日総書記が乗った特別列車が現場を通過してから約9時間後に起きた。一時はテロではないかという憶測も飛び交ったが、米韓両政府ともに否定的だ。
 北朝鮮は、肥料や爆薬の原料となる硝酸アンモニウムを積んだ貨車の入れ替え作業中に「不注意から電線に接触した」と説明している。

 北朝鮮に思い入れの強い朝日新聞なので、いつもなら、日本国民の気分を察しつつ北朝鮮の宣撫班よろしくの誘導話を書くのだが、今回の文章は弱い。金正日を狙っているので「テロ」という表現は拙いのだが、暗殺事件であることを強く打ち消してはいない。
 爆破原因についての説明も朝日らしくなく、投げやりな印象を受ける。朝日はなにかを知っているのではないかという印象を私は持つ。「それって考え過ぎ」というウンコが飛んできそうなので、もうちょっと補足する。朝日はこう続ける。

 北朝鮮の鉄道は、日本の植民地時代に敷かれた路線がもとになっており、老朽化が激しい。過去にも公表されていない大事故が数多く起きたようだ。

 そんなの当たり前じゃんと、さらっと読み過ごしそうだが、この文章の味わいは、「事故」ではなく「大事故」だ。「大事故が数多く起きた」という表現はさらっと読むべきでない。それって何よ?と問われてもおかしくない。ここで隣国日本人の一人として思うのだが、そういう大事故はニュースとして、これまで知らされてきただろうか。北朝鮮は秘密主義だからというのは当然ある。
 朝日は何を知っているのだろうか。朝日の過去を詳しく洗ったわけではないが、きちんと報道してきたのだろうか。
 と、しつこく書くのは、気になる事件が以前あったことを思い出すからだ。ベタ記事扱いだが、読売新聞「北朝鮮の弾薬列車爆発説 在韓米軍も発生を確認」(1988.2.4)ではこう書かれている。

駐韓米軍のルイス・メネトリー司令官は三日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で昨年十二月、軍用列車の爆発事故が発生したことを確認した。

 だが、このニュースは北朝鮮側では否定している。他にもちょっと気になるニュースもあった。同じく読売新聞「中国籍密航容疑者の難民認定を アムネスティが福岡入管に要望提出」(1998.6.16)ではこうある。

同グループなどによると、金容疑者は北朝鮮の鉄道警察官だったが、列車事故の責任で身の危険を感じ、一九八八年に中国へ密入国。同国の身分証明書を不正取得した

 この列車事故について、このニュースからは事故規模はわからない。だが、朝鮮日報に"1997 Train Disaster Claims Death Toll of 2,400 People"(参照)に対応しているのではないだろうか? その対応は憶測だとしても、この朝鮮日報のニュースはいったいなんなのだと思う。2400人が死んでいたのか。ちょっとシュールな感覚になってくる。
 北朝鮮ワッチャーには当たり前のことかもしれないが、朝日もこうした情報をプールしているのではないだろうか。この社説からはそんな臭いがしてくる。
 暗殺説に戻る。朝日も暗に暗殺説を否定していない。というのは、金正日がここを通過したのは9時間前だからということで十分には否定できないようだ。朝鮮日報「【龍川爆発事故】政府はテロ否定 丹東は暗殺説拡大」(参照)では次のように暗殺説に簡単に触れている。

 それにも関わらず、当面「金正日暗殺企図説」は簡単に収まりそうもない。今回の事件が前例のない大型事故である上、金総書記の特別列車が4~5日の間に2度も通った場所で過失により列車が衝突したという事実のためだ。
 特別列車が過ぎる場合、一般住民は全員疎開させられ保衛部員などが近所に密集配置されるため機関士などの不注意で事故が発生する状況にはないというのが脱北者たちの話だ。

 この暗殺説で重要なのは、この後段の部分だ。京郷新聞だが、この点について、金正日の歓迎団体が定刻を知らずに集結されていたというニュースもある(参照)。
 この事件が難しいのは、暗殺説が真相だった場合、事件の意味合いが、がらっと変わるように思えることだ。
 もちろん、暗殺説が真相であろうがあるまいが、救助は必要だとは言える。産経新聞社説「北朝鮮列車爆発 まず秘密主義と独善排せ」もこの点を指摘している。

とはいえ、北朝鮮が国際社会に救援を求めてきたことは注目してよい。現場の鉄道が中朝間の物資輸送の大動脈で、その復旧の遅れは北朝鮮体制の命運にかかわるという事情からかもしれないが、北朝鮮が国際社会と正常に交わることの重要性を見直すきっかけになれば、悲劇も無駄にはならない。北にとって、政治的にも経済的にも重要な意味を持つものとなろう。

 この点は、BBCニュース"N Koreans informed in radio broadcast"(参照)も朝鮮日報をひいて指摘している。

 Choson Ilbo reported that, as the story broke, security-related departments in the South were put on high alert to analyse incoming reports and assess their significance.
 The paper speculated about the impact the blast might have on the North's fragile economy.
 "It is not an overstatement to say that the North Korean economy is sustained by the narrow lifeline passing through Ryongchon. If this lifeline has been damaged by the explosion incident, what adverse effects it will have on the North Korean economy is anyone's guess," it wrote.

 この路線が北朝鮮のライフラインだとはいえるのだろう。ただ、それは政府側のライフラインだという意味かもしれない。
 いずれにせよ、事態は別の事態を引き起こすだろうとは思う。

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2004.04.24

三菱自動車を潰してはいけないのか

 今朝の新聞各紙社説では、ドイツのダイムラークライスラーが三菱自動車の金融支援の打ち切りを表明したことを扱っている。だが、率直なところ、なにが問題なのだろうか。もっと率直に言うと、三菱自動車を潰してはいけないのだろうか。なぜこれが新聞の社説に取り上げられる事件なのだろうか。私はよくわからない。
 日経新聞社説「ダイムラーに見限られた三菱の衝撃」の文脈はこうだ。


 三菱自を支援していた三菱重工業、三菱商事、東京三菱銀行の3社を核にする三菱グループにとっても、再建の唯一の切り札だったダイムラーの「逃避」で最悪の事態を想定することを迫られている。
 突然の翻意だった。今月初旬のダイムラーの株主総会で、ユルゲン・シュレンプ社長は三菱自の再建支援を言明、2日前にはダイムラーの取締役会で増資など7000億円の資金提供など再建策の大枠も決定したと報じられていた。
 それが最高意思決定機関の監査役会で筆頭株主のドイツ銀行や労組代表が反対し、「増資計画への参加を見送り、これ以上の金融支援を打ち切る」と明快な支援打ち切りを表明した。三菱自の筆頭株主で、社長を派遣し、経営の主導権を握っていたダイムラーが金融支援を打ち切ることは、事実上資本提携解消を前提にした三菱との決別宣言に等しい。

 私はめちゃくちゃなことを言っているのかもしれないが、そんなことは、三菱グループの問題であって、日本社会の問題とは違うように思える。
 いずれにせよ、新聞社説では、三菱自動車の再建を期待するというトーンで終わっている。引用するまでもないように思う。
 少し気になるのは、読売社説「三菱自動車 裏目に出たダイムラーとの提携」のトーンだ。

 日産は、ルノーから派遣されたカルロス・ゴーン氏の指導で大胆なリストラに取り組み、新車開発でヒットを飛ばしたことなどで短期間に業績が回復した。日本人社員のやる気をうまく引き出したのが、成功のカギとされる。
 だが三菱自動車では、ダイムラーからの首脳陣と日本人幹部との意思疎通が円滑ではなかったようだ。ダイムラーは米ビッグスリーの一つであるクライスラー部門でも赤字を続けている。海外事業の経営ノウハウに欠ける、と言われても仕方ないだろう。

 つまり、外国のダイムラーの経営が悪いから日本の三菱自動車がうまくいかないのだというトーンを感じる。しかし、経営なんて別に日本だろうが外国だろうが、どうという問題でもない。
 と、いう以上に私はこの件についてコメントはないのだが、「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」の次のくだりを思い出した。

 欧米の資本主義経済では、企業が利益を上げることが健全だとされます。もちろん日本でも企業は利益を上げるべく、さまざまな努力をしています。しかし日本経済全体でいえば、利益を上げることによって健全であろうとする考え方はそれほど重要とは思われていません。現に、一〇年も二〇年も利益を上げていない大企業はたくさんあり、なかには設立以来ずっと利益を上げることがなかったという企業があります。これは会計処理の仕方とも関連しています。日本経済システムの中核をなす企業であっても、これはとくに製造業がそうなのですが、きわめて曖昧な会計処理をしています。

 私はドラッカーの著作をある程度系統的に読んだのだが、彼は利益というものを企業の健全性の指標としていた。これほど日本の経営者がドラッカーをよく読むわりに、しかし、実際にはこうした基本的な部分は影響を与えていないようにも思える。
 話が違うのかもしれないし、実際は海外でも同じなのかもしれないが、日本では株式の配当というのは実質上、ない。資本主義の根幹が資本ということで、この資本が利潤を生み出すというなら、株の配当のない制度は資本主義とは言えないように思う。
 話をウォルフレンの指摘に戻すのだが、今回の三菱自動車の件も、結局はそういうことなのではないか。社説などでは、ダイムラークライスラーでの決定は監査役会でなされたものであり、その筆頭株主のドイツ銀行やドイツの労組の反対などが背景にある云々、また三菱自動車の経営体質といった話を問題視しているが、これは、単純に、会計と利益の構造の問題なのではないのか。つまり、当たり前のことをしただけ。
 日産の復活があったので、つい三菱自動車という一企業のありかたに目が向けられるが、根幹にあるのは、こういう基本構図ではないのか。つまり、三菱グループが曖昧な会計を許す日本国家のものではなくなったというだけのことではないのか。見当違いかもしれないが、そういう財閥の残滓を整理する機会にすればいいだけのことに思える。(と、こういう言い方はその関連の方にひどく聞こえるだろうが、有能な人の雇用がより流動的になればいいのだろう。)

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イラク人質事件、さらに雑感

 イラク人質事件のことは新しいファクツでもでないかぎり書くべきことはないと思っていたが、事件そのものより事件の社会への反照について、なんとなく思いが溜まっているので書いておきたい。
 一番気になるのは、奇妙な言いづらさ、みたいなものだ。浅田農産事件のときもそうだったが、一斉に社会ヒステリーのようなバッシングが発生したものの、事件の中心人物が自殺するとそれが急速に収束したかのように見えた。しかし、誰もが知っているはずだが、「なんか、言いづらいよね」という空気に圧倒されただけのことだった。事件の真相は、情報操作なのか、カラス騒ぎのなかで曖昧になった。普通に考えたら疑わしいはずだと思って、このブログでは、「浅田農産事件で隠蔽されている日に何があったのか?」(参照)を書き、人的感染経路への疑念を指摘したが、その解明も消えてしまったかのように見える。
 人質事件も似たような経緯を辿っているように思える。そして、真相の解明はうやむやに終わるのだろうか。私は依然、狂言事件と思うのだが、メディアは産経系を除いて、こぞって「自作自演」説は政府側が意図した陰謀論ということで終わりにしようとしているように見える。変な言い方だが、それで終わりというのもしかたないようにも思う。というのは、いずれ真相解明自体がまた政治の枠組みに置かれることになるだろうし、そうした政治との関わりはなにかうざったい気もするからだ。
 「自己責任」という話題には私は当初から関心はないし、それはすでに書いてきたとおりなのだが、その後なんとなく現れてきた、「自己責任」を問うべきではない、という空気には奇妙なものを感じる。これにル・モンドなど海外メディアの援軍も加わるに至り、変な感じは深まる。まぁ、ル・モンドだしな、とかいうことで、どうでもいいかと思ったのが、他にも広がりつつはあるようだ。
 が、ここでも私はひっかかる。日本人人質事件の際、オーストラリアでもエイド・ワーカー(支援作業者)の女性Ms Mulhearnが人質になり、解放される事件があった。ご存じのとおり、オーストラリアも派兵について日本のように世論が割れているので、世論やメディアのありかたは類似の傾向が見られるかとも思ったが、そうでもなかった。
 例えば、こんな記事"Aust hostage 'foolhardy': Howard"(参照)がある。Downerはご存じ通り外相である。前段にはハワード首相も同じように非難している。


 Mr Downer told the John Laws radio program he was puzzled by Ms Mulhearn's decision to travel to Fallujah.
 "She's gone into a war zone ... I'm not sure what an Australian would do wandering into that area, it was very reckless," he said.
 "I think Australians have got to be enormously careful, whatever their political opinions, she claims to be a member of the Labor Party, ... to make sure that they are as safe as possible.
 "Otherwise other Australians then have to go and try and help them.
 "I worry about all the Australians of goodwill, who nevertheless have had to look after people who describe themselves as human shields and go into Iraq to make all sorts of political points ... and get themselves into trouble.
 "Then our people have to take risks to try to help them."
 Mr Downer said political comments by Ms Mulhearn concerning the Australian government were also unhelpful.

 ご覧のとおり、DownerをKoizumiに、AustraliansをJapanese置き換えてもいいような記事になっている。他にもオーストラリアのABCだが"Australian government slams 'reckless' activist in Iraq "(参照)では短くこうある。

 The prime minister, John Howard, has accused the peace activist of behaving in a foolhardy fashion.
 "Irresponsible behaviour, whatever the cause may be, is not acceptable and should be criticised," Mr Howard said.

 問題は、こうした報道がどうオーストラリア社会に受け止められていたのかでもあるのだが、在住者のブログ「オーストラリア・シドニー海外生活ブログ」の記事「人質事件で家族を考える」(参照)を読むと、拉致された女性への擁護の声はなかったようだ。
 とすると、日本の場合、擁護の声も高まってエキゾチックな社会現象に見えたから、取材能力のない海外特派員などのコラムネタになったのではないだろうか。と、くさしっぽく書いたのは、少し取材すれば、人質女性が以前のイラクでの「人間の盾」のグループとの関係があることくらいわかる。だとすれば、少しは考察すべきこともあることくらいはわかるだろうからだ。
 先の「オーストラリア・シドニー海外生活ブログ」では、さらに興味深い指摘があった。

 でも、日本の報道姿勢と決定的に違っていたのは、拉致された人の家族については一切触れないというところではないかと思う。
 最初に拉致された日本人3人のうちの1人は未成年だったけれども、後から拉致された2人も含め、その他は全員30歳以上。
 今回問題になったオーストラリア人女性も34歳と、皆いい大人。
こういった場合、家族が出てきて、あれこれコメントするということは、この国ではまず見られない。
 だからか、日本人の人質家族が泣いて訴える映像を流した後、ニュースキャスターの反応は冷ややかだった。
 欧米の家庭では、(ほとんどの場合)高校を卒業すると同時に家を出て独立し、たとえ親が高齢になっても同居することは稀。大人になったら、自分のことは自分でする=責任を持つのが当たり前とされている社会。
 自分に責任を持てる大人がとった行動に、親・兄弟は関係ない――
 という欧米人の考え方と、家族は共同体というお家制度みたいなものが根強く残る日本を垣間見た気がした今回の事件だった。

 この感覚に私は当たり前のこととして同意する。「自己責任」という以前に、大人のしていることに親が出てくるのは変な話だと私は思う。
 私は日常テレビをほとんど見ない。この事件についてもテレビ報道は見ていなかった。人質家族の動向はほとんど知らなかった。というか、そんなものに関心の持ちようもなかった。事件とは関係ないという感じもしていた。
 が、人質帰国後はテレビがどう報道するものか関心があって少し見た。そこで、一番奇妙に感じたのは、人質だった3名が自宅に入るシーンが放映されていたことだ。そんな映像になんの意味があるのかという疑問と同時に、未成年は別として、この人たち、親の家に帰るというわけなのか、と思った。
 非難に聞こえてはいけないが、それって、パラサイトであり、「負け犬」であり、フリーターであり…ということで、現代日本ならではの世相のてんこ盛りではないだろうか。解放された人の恋人が抱き合ってキスをするというシーンは、まるでないのだろう。日本的だなと思う。
 日本的な事件だということでは、浅田彰が「イラク人質問題をめぐる緊急発言」update版(参照)でこう言っているのを思い出した。

結局、謝罪と感謝でひたすら頭を下げて回るだけってところまで人質と家族を追い込んじゃうんだから、まさに前近代のムラ社会だね。

 だが、それ以前に、親が出てくるところでムラ社会なのだろう。と、いうことを浅田は指摘もしないのはなぜだろう。
 もう一点、この関連で、「善意でしたことは良いこと」という空気もあるのだが、社会というのは実際には善意の結果が重要になるものだ。この話も書きたい気がするが、そうでなくてもつまらない説教みたいになりそうなで、やめとく。

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2004.04.23

日本版Googleの仕様が変わった

 昨日(22日)日本版Google(google.co.jp)に、特殊検索として、新たに「辞書検索」「路線検索」「株価検索」「会社情報検索」「荷物検索」の5種類が追加された。 どういうわけか、Googleのプレスセンターにはこのニュースはなく、インプレスの「日本のGoogleでも株価や路線、辞書などの特殊検索が可能に」(参照)にひょっこしニュースがある。


特殊検索では、検索時に特定語句をキーワードの前に挿入することで、通常の検索結果と異なる、パートナー企業と提携した検索結果が表示されるというもの。ツールバー「Google ツールバー」からでも利用できる。

 Googleツールバーから利用できるっていう意味がよくわからないが、ただあの検索欄でも使えるというだけのことか。なんか、プレスを垂れ流している感じがするが。
 各特殊検索については、インプレスの同記事に一応説明があるが、これも垂れ流し感があって、実例がない。ので、一例。こんな感じだ。

Google 検索: 英和 philandering


 結局、アルクを経由して英辞郎に入るだけだが、アルクのサイトが素でアクセスするとJavaScriptで弾かれるのよりはましかもしれない。同様に他の特殊検索もちょっと阿呆臭感が漂う。先日(20日)にGoogleの日本法人が渋谷に研究開発センターを設立したというので、成果もでそうにないのでと懸念したか、まずこんな風船でも上げてみたというところだろう。と、くさしたものの、キーワードの形態素解析は日々変わっているようで、最近は、細かい辞書引きレベルの形態素解析を処理途中で捨てて最長マッチングみたいなことをしているようだ。
 話をアルクを使った辞書引きに戻すと、このGetメソッドを見るに、以下のようにIEのSearchUriレジストリを書いてもよさそうだ、と、まだ試してないので、そんな感じというだけの話なので、やるなら「自己責任」でお願いしますよ。

http://www2.alc.co.jp/ejr/index.php?word_in=%s&word_in2=reedeirrf&word_in3=zJPa7DCxJ15687987t

 ちなみに、IEのSearchUriレジストリは以下にある。

HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Internet Explorer\SearchUrl

 で、ようやく極東ブログのネタなのだが、このレジストリに私はgプリフィックスで以下を登録している。

http://www.google.com/search?q=%s&hl=ja&lr=lang_ja

 これが、昨日効かなくなった。google.comがいけねーのかとかオプションとかを調整してもだめぽ、なんで、いろいろトライしたが、どうやら、素でUTF-8を%sにパスしても、ダメなようだ。URIエンコーディングしか受け付けない。あるいは、もっと別のエンコードの理由かもしれないので、わかっている人がいたら、教えてくれ。(この問題は解決しました。それと、この説明には間違いがありました。追記をご覧下さい。)
 ついでに、Googleエンジンを使っている日本版infoseekはどうなっているかと調べてみたら、案の定、このタコな特殊検索は実装していない。っていうか、こっちはこっちで辞書引きサービスを提供しているので、まじーと思ったのだろう。gooも確かそろそろGoogle移行をするはずなので、サービス動向はちょっと気になる。で、思いついたのだが、Googleの渋谷センターってgooのNTTの日本語研究がらみなのか、このあたりの業界の動向は、あっち(米国)むいてホイの「SEOルートディレクトリ」(参照)には情報がなっかったようだが、なぜだ?
 話をSearchUrlの仕組みに戻して、これじゃメンドクセーじゃんということで、調べたのだが、%sにパスする前にUTF-8をURIエンコーディングにするスイッチがどっかにあるはず、っていうか、Windows XPはJScriptでも使えるけど、ECMAの勧告を真に受けて、escape関数の仕様を途中で変更し、encodeURI関数を実装しなおしたので、ま、内部で簡単にスイッチできるはずなのだが、レジストリがわかんねー、です。さらにわかんないのは、infoseekのSearchUrlでは、%sでUTF-8で渡してもURIエンコーディングに変わる…これはサーバー側でリライトしているのか? つうことで、よーするに、gプリフィックスでGoogle検索をする方法があったら、教えてくれぇ^2である。(これも間違い&追記で解決済み。)
 まいったな、いちいち、Googleの面を拝んで、「あ、今日はアースデイかぁ」と喜ぶ趣味はないので、もっとスクリプトに開いているSleipnirの検索欄の構造を見ていたのだが、こっちは意外に簡単だった。Seach.iniのEncodeスイッチを0から2にしてやればいい。例えば、「Google(日本語)」の場合なら、こうなる。

7行目
 SearchEngine0_Encode=0
  ↓
 SearchEngine0_Encode=2

 13行目の「Google(全体)」も同じなので、同様に手を加えることができるのだが、実際のアウトカムは「Google(日本語)」と同じ。これもなぜかよくわからん、というか、Googleの日本語サービスが使いづらく変更されている気がする。
 以上で、ネタはおしまい。
 話がなんか極東ブログらしくない? そーでもないんですよ。「Googleに問え。なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか?」(参照)もご参照あれ。

追記(同日)
 早々に便利なインフォをnaruseさんからいただきました。ありがとう。関心あるかたは、ご参照下さい。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/04/google.html#c194501
 エンコードについても、naruseさんのコメントが正しいと思います。つまり、素ではShift_JISがパスできず、UTF-8なら問題なし、というわけです。
 Sleipnirの設定ですが、iniファイルをいじらずに、オプション→検索バー→検索エンジンで、エンコードをUTF-8にするだけでできます。すぐに、iniファイルをいじるクセはよくないのかも。
 本文中に触れたアルクの直接字引はこのままで機能しました。けっこう便利です。ので、リソースにまとめました。
 http://homepage3.nifty.com/finalvent/resource/for_apr22_google.zip

追記(4/24)
 手前味噌ではないが、もしかすると、今回のGoogleの事態を「仕様変更」と断言したのは、当サイトが最初ではないか?
 と書いたら、どうやら窓の杜が22日なので、ここより早かったですね。

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2004.04.22

カルカッタの思い出

 とりとめもない旅の感想である。「人質高遠の崇高なるボランティア遍歴」(参照)というページを見ながら、その表に滞在先としてカルカッタが多く掲載されているのを見て、私もカルカッタに行ったときのことを少し思い返していた。
 「シティ・オブ・ジョイ」(1992)が公開された時期だったこともあり、カルカッタの人たちは、「こんなしょうもない映画でインドが後進国と見なされるのは困る」というようなことを口々に言っていた。そういえば、原作「歓喜の街カルカッタ」も私はカルカッタに持って行って読んだのだったか。小説のほうは面白いと言えば面白かった。が、ありがちなエキゾチシズムとヒューマニズムの作品という感じだろうか。

cover
歓喜の街カルカッタ
 私が滞在していたのは、ちょうど今頃の季節だった。乾期から雨期に変わるころだった。雨の量ははんぱではない。道が川のようになり、ノラ牛たちも歩きにくそうだった。エアコンの効かない車の窓を少し開けたら、とたんに痩せた子供の手がその隙間から伸びてきて面食らった。物乞いである。あれから、10年近く経つ。今はどうなっているのだろうか。
 昼間は50度近い気温になる。路上では、中央分離帯よろしく生ゴミが整然と捨てられるのだが、見る間に乾燥していく。そうなる前にどっかから白と黒の混じった烏(だと思う)がせわしなくやってきて餌を探していた。
 街を歩きながら、私は喉が渇いたなと思って、サトウキビ絞り汁の屋台に近づいたら、同行のインド人がやめなさいといって、どっから熱いミルクティを買ってきた。ミルクティはあちこちでよく飲んだ。インド人は猫舌が多そうなのに、熱いものしか飲まなかったように思えた。が、衛生の配慮だろう。そういえば、中国人は冷めたお茶は飲まないというのがかつての常識だったが、変わった。
 「人質高遠の崇高なるボランティア遍歴」の表では「マザーハウス手伝い」が多い。私もマザーのことは気になっていた。街中ではマザーの会のシスターたちをよく見かけた。「死を待つ人の家」に行って見学したいと思い、世話をしてくれる人に話すと、最初はいいでしょと言って車を出してくれたものの、近くなってから、やめましょうということになった。理由はよくわからない。それなりに現地の人の配慮というものがあるのだろう。そういえば、エジプトのカイロでも、一度コプト教会を見たいと言ったら、門前までにしましょうと諭された。外国人狙いのテロなどもあり、観光保護に軍が動くという話まであった時期なのだから、現地の人に従うが吉だろう。
 カルカッタでは、マザーの施設の近くまで来ながら、結局そこには立ち寄らず、近くのヒンズー寺院に寄った。案の定、身体障害者の物乞いが何名かいた。こう言うのは偏見になるのかもしれないのだが、外国人の行きそうなところに物乞いが多い。そして、貧困と悲惨という感じの光景もそこにある。
 が、カルカッタには中産階級の住宅街などもあり、清楚できちんとした感じがする。社会主義政策で都市化を進めているという雰囲気の地域もある。サリーをモダンにアレンジした制服の女子高校生の集団なども見かけた。カルカッタは、むしろそういう地域のほうが多いという印象を受けた。私は、インドの文化がそれほど好きでもないし、その宗教に関心があるわけでもない、ましてヒッピー的な旅をしているわけでもない。
 絹製品のお土産でも買いに行きたいと、また世話をしてくれるインドの方を煩わすと、イスラム教徒の商人のいる地域がいいでしょうということで、案内してもらった。オウム真理教のあの体育着みたいのではないおしゃれな絹製のクルタを2つ買った。値段は忘れたが、そう高くもない。もっと買いたい気もしたが、やめた。
 一通り商店街を回って疲れたので、日陰を求めて、近くにあるモスクで休息した。大理石でできているのだろうか、ひんやりとして気持ちよかったことを思い出す。イスラム教徒だろう人たちがあちこちでくつろいでいるようだった。キリスト教のドームの中にいると私は緊張するがモスクだとなにか心安らぐ感じがする。イスタンブルだったが、朝晩に流れるコーランの朗唱も心にじーんとしみるものがあった。なぜかよくわからないし、それ以上にイスラム教に関心があるわけでもない。
 カルカッタの大通りにはチャンドラ・ボーズの立像があった。インドの人は、彼こそ英雄だと言ったていた。そしてガンジーはダメだとも言っていた。その機微は私もある程度知っていたので驚きもしなかったが、インド人から直接言われると奇妙な感じもした。もちろん、インドといっても、カルカッタを含むベンガルは特殊な地域もあるのだろう。日本でも西洋でもガンジーは聖人のごとく語られる反面、ボーズのほうは悪評すら多い。歴史を忘却しているのだ。そして、日本人のインド観は、けっこう奇妙なイメージだけでできている。そのイメージのなかのインドを求める人も多い。マザーハウスもそうしたイメージではないのだろうかと疑う。
 カルカッタ(コルカタ)は東洋のパリと言われたこともある。ハウラ橋で夕日を浴びながら見る街の光景には、そんな雰囲気が残っていた。今でも、変わらないではないだろうか。

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2004.04.21

国連期待はさらなる間違いかもしれない

 18日のNHKスペシャル「イラクの復興 国連の苦闘」(参照)を見ながら、「これはプロジェクトXじゃないんだよな」と思わず、一人ツッコミを入れて苦笑した。後味が悪い。話は嘘だとは思わないが、しばし考え込んだ。このNHKの番組はおかしいのではないか、という印象が自分の心の中で濃くなってきた。と同時に、その他のNHKの報道や解説全体に奇妙に国連幻想のバイアスがかかっているようにも思えてきた。人質事件の際、NHKがアルジャジーラを垂れ流していたのも疑問を感じていた。
 番組「イラクの復興 国連の苦闘」を見ながら、極東ブログ「石油・食糧交換プログラム不正疑惑における仏露」(参照)にも書いた、れいの国連疑惑について、番組の流れでいつか触れるのだろうと思っていた。が、なにも言及がなかった。ずっこけてしまった。それはないだろう。
 国連疑惑はなぜか日本で議論されてない印象がある。だが、アメリカではけっこうマジな問題になっている。アナンもそれゆえ、ポール・ボルカー(Paul Volcker)を不正疑惑の独立調査委員会の責任者とした。マジだぜ、ということだ。シラクだって炙り出してやるぜ、とまではいかないかもしれないが、期待はできる。ル・モンドは人質問題で日本をおちょくる暇があるくらいなら、自国の不正を晴らすことを先決にしろよという感じもする。
 こうした国連疑惑を巡る動向は、イラク復興の枠組みが連合国暫定当局(CPA)主導から国連に移ったことの政治的な駆け引きにも関連はしているのだろう。が、それだけの線の読みで済む問題でもなさそうな雰囲気も感じる。つまり、国連とアメリカの双方で小突き合うという構図より、もっとたちの悪い根がありそうに思える。というのも、私もイラク戦争を肯定した背景には、国連なんて機能もしないお間抜けと考えていたことを思い出す。
 そんな思いで、ネットをザップしていて、ゲッという話をNational Reviewでめっけた。もとより、「National Reviewって右派こてこてでしょう」という偏見で読むのだが、Michael Rubinの"Unwelcome U.N."(参照)という記事が面白かった。内容は、端的に言えば、標題どおり、国連なんてやめとけ、である。
 筆者のMichael Rubinは、CPA内部の政策に関与していたようだ。


Michael Rubin is a resident fellow at the American Enterprise Institute. He spent 16 months in Iraq, most recently as a Coalition Provisional Authority governance adviser.

 この紹介を読むだけでも、Michael Rubinなんてダメじゃん、という印象も持つが、考えてみると、私はCPA側の言い分というのをまともに検討したことはない。ある意味、Paul Bremerの代弁かもしれないが、と思って記事を読むのだが、けっこう説得されてしまった。
 まず驚いたのだが、昨年夏の国連事務所テロについてだが、私は「イラク混乱中の国連事務所爆破テロ」(参照)で書いたように、問題の一番の誘因は、国連事務所が米軍と距離を置こうしてその保護を求めなかったことと考えていた。また、犯人は、反米意識によるシーア派かと考えていた。
 Rubinはこう指摘している。

While L. Paul Bremer, Coalition Provisional Authority administrator, expressed outrage over the bombing of Iraq's U.N. compound last August, Iraqi reaction was more subdued. "It was an inside job," a Shia doctor insisted as we sat in a restaurant the next day. The U.N. had not only refused Coalition protection but had also retained guards employed under the former regime. "Didn't they know that their guards reported to the Baathists?," the doctor said. Iraqis watched in disgust as the U.N. subsequently fled to Jordan.

 こういう言い方は極端かもしれないが、国連事務所テロを、イラク人は、フセイン残党とつるんでいたからで、いいざまだ、というふうに見ていたというのだ。Rubinの話ではこの前段に国連が如何に無慈悲でフセインの悪事に荷担していたかというくだりもある。
 私はそういう見方はしてなかったので、少し意外だったが、先の国連疑惑の大きな構図のなかに置いてみると、Rubinの言っていることは、ただの怨念とも思えない。日本人の大半は私も含めて反米にかたまっているので、それ以外の勢力の問題性に疎い。
 この記事では、国連側の責任者となるブラヒミについても酷評しているが、案外イラクではそういう受け止めかたもあるのだろうと思う。もっとも、この指摘はブラヒミを持ち上げて事足りるとするケリーへの八つ当たりもありそうだが。
 率直なところ、この記事は、どう評価していいか難しいのだが、ある種、ヴィヴィッドなイラク状勢を伺い知ることはできる。
 Rubinの結語の皮肉はかなりきつい。

United Nations involvement will hamper, not help. Militant Islamists and remnants of Saddam's regime interpret our turn to the U.N. as sign of weakness, while Iraqi democrats see the U.N. role as a sign of abandonment. Both associate the U.N. with corruption. Ironically, while administration officials and senators seek greater U.N. involvement to pacify Iraqis, their calls have the opposite effect. Washington's hand-wringing is a sign of weakness welcomed only by those we fight.

 国連の関与は、イラクの造反者や海外テログループから弱腰と見られ、もっとろくでもないことになるよ、と読んでいいだろう。アフガニスタンの現状を考えると、私もその可能性はあると思う。もっとも、その可能性に無知な米軍でもあるまい。善意とかの通じない世界だ。
 そういえば、れいの人質事件から私がかいま見たことだが、日本人の多くがイラク人全てを善意の人のように見ている。また、善意が通じる相手だと確信している。そう思うことで自分が善人だと思われたいのだろう。そう思いこみたい心性は実は無意識的な恐怖を抱えているからではないかとも思うが、話がそれたのでおしまい。

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2004.04.20

自衛隊はイラクから撤退すべきか?

 こういうネタもどうかなとは思うが、人質事件もひとまず息をつき、スペインの撤退も決まったこともあるので、少しこの件について、あまり深く考えたわけでもないが、一人の日本人として今の感想を書いておきたい。
 結論から先にいうと、私は、段階的に撤退したほうがいいのではないかという考えに傾いている。もともと派遣もどうでもいいじゃんと思っていた私だ。撤退したらぁ、の、一番の理由は、現状のサマワ支援のあり方を見直したいいだろうという、先の「自衛隊が汗を流すのではなく、現地の雇用を増やせ」(参照)の延長だ。イラクが戦闘地域だうんぬんという話ではない。
 前提となるイラク情勢の認識だが、この点、私の認識が間違っているかもしれないのだが、イラクの現状はそれほど泥沼でもないと見ている。停戦前のファルージャでの米軍の虐殺行為は明らかに責められるべきだが、基本的には戦闘は局所化している。もともと、米軍がイラクの武装勢力を舐めてかかったのがいけなかったと私は思う。しかし、米軍としてみれば、実は、莫大な余剰ともいえる軍事力をイラクにずるーっと駐留させているので、まるで相手を軍事的な対象と見ていなかったのだろう。この点は、米軍が未だに、吹聴しているわりには対テロ戦にシフトしていないという構造的な欠陥があるようだ。
 日本ではあまり報道されていないようだが、特に、米国は自国各軍の福利を非常にケアしている。この手厚い福利の体制も、こいつらの戦闘能力のためであり、これは基本的に冷戦構造のままというか、案外ノルマンディ上陸作戦時代のままなのではないか。
 話がたるいが、日本のマスコミや、案外軍事専門家と言われる人も、米軍の軍事力を過小評価しているような印象を私は受ける。問題は、現状のイラクに必要な、特定の軍事・警察力をどう基本的なところで采配するかということだろう。率直なところ、その潜在力を活かしていない米国は、方針を転換すべきだろう。
 そして、だ、その方針を変えるなら、各国の軍の駐留も当然シフトさせたほうがいい。もちろん、米軍としては圧倒的な潜在的な軍事力のプレザンスをイラクから撤退させるわけはないのだが、それはある種、お飾りでしかないのだから、実動できる新しい配置を作り直し、すでに国連主導ということも決まっているので、日本を含めて各国もその新しい配置のなかで、今後のイラクを考え直すべきだろう。
 ちょっと、おっちょこちょい的な意見を言うのだが、私は南部シーア派の動乱は多分にタメではないかと思う。本気なら石油ラインを狙うだろう。それだけの武装もない。サドルも実際には民衆から浮いているのではないか。皮肉な言い方をすれば、彼らの最大の武器は彼らの人命だ。はっきりとした情報ではないのだが、サマワのシーア派は実はサドルらをメンドクセーやつと見ているのではないだろうか。もしそうなら、本音は、お金だし、復興だろう。もっと早急な課題は雇用という名目の富の再配分だろう。
 今朝の新聞各紙社説では、読売と産経が、自衛隊撤退に反対しているが、私の素朴な印象だが、安全地域から偉そうなこと言うなよ、だ。顧客と上司に挟まれた現場みたいな現状の自衛隊をなんとかするには、上司(国)がきちんとせーよだよ。精神論、こくなよと思う。
 話は散漫だが、スペインの撤退で功を奏したテログループは次はオーストラリアを狙うかだが、その目はあんまりないのではないか。ほっておいても米国がどじれば、与野党は逆転するだろう。また、日本はどうかというと、参院選は毎度の楽しいお祭りになるくらいで政治的な意味もないように思う。私の感覚がぼけているのかもしれないが、自衛隊は英語にするとForceで通常の軍隊に誤解されるが、軍事力も行使できないし、サマワに局所化しているので、イラクの人にしてみれば、日本が米軍の子分かというだけが関心だろう。テロリストにしてみても、あまりうまみのない標的のようにも思う。
 今回の人質事件でテロリスト側はなぜか、よく日本のメディアをワッチしていたようだが、本当にそれが外国の勢力なら、「日本っていう国はなんだか、さっぱりわからん」と思っているのではないか。

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2004.04.19

イラク邦人人質事件後の雑感

 邦人人質は5名になるが、私が関心を持つのは先の三名のほうだ。この事件では、事件そのものより、いくら被害者とはいえここまで非常識な日本人がいるのか、というのと、いや世論はそこまで非常識を許してなかったよ、ということが目立ったように思えた。
 奇妙な自衛隊撤退論は浮いた形になったが、本当に自衛隊撤退を訴えるなら、むしろ今からだろう。だが、主張はこの事件のもたらした空気でなんとなく鈍いものになったように感じられる。その他、この事件は、率直なところ、もういいやという気持ちにもなるが、これまでここで書いてきたことのひとつの区切りとして簡単に触れておきたい。
 まず、ちょっと物騒な話ではあるが、私はこの事件は心証としては狂言だろうと書いた。一部狂言説は否定されたという意見もあるが、この点について、私は依然腑に落ちていない。未だこの事件は狂言なのではないかと疑っている。産経系の報道「人質にナイフの脅迫映像は演出 政府分析、早期に認識」(参照)では、今回の人質映像の一部は人質が合意の上の演出であったとしている。


人質3人は政府関係者の事情聴取に、銃やナイフで脅されるシーンについては武装グループに事前に説明されたうえでおびえたような動作をするように強要されたことを大筋で認め、「食事は十分与えられ、待遇はよかった」などと説明したという。

 これが本当なら、やっぱり狂言じゃないかと思ってそう不自然でもない。が、これだけでは事件の構図全体が狂言とまでは言えないだろう。この報道に対して、若王子さん事件のときも犯人側に説得されたような映像はあったじゃないかという反論を見かけたが、話の筋はまるで違う。今回の事件で、本当におびえたような動作をさせたいならテロリスト側が本気でやればいいのだから。
 狂言説はさておき、この産経系の報道が確かなら、政府側は当初から人命への危機感はそう強くはないと見ていたと言えるだろう。そう考えるほうが合理的であるようには思われる。
 この事件全体が狂言という構図だったかを知るには、なにより人質三名からの状況報告を聞きたいところだが、「PTSD」という理由で、その道は閉ざされることになった。もっとも、これは端的にふざけた話だ。と、きつく言うのは、精神医学を冗談にしてもらっては困るからだ。
 国際的にPTSDの診断は、米国精神医学会が発行している"Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders"を元に行われる。この4版を略して、通称、DSM-IVという。PTSD("Posttraumatic Stress Disorder")の診断に必要とされる期間についてはこうある(参照)。

E. Duration of the disturbance (symptoms in Criteria B, C, and D) is more than 1 month.
F. The disturbance causes clinically significant distress or impairment in social, occupational, or other important areas of functioning.
Specify if:
Acute: if duration of symptoms is less than 3 months
Chronic: if duration of symptoms is 3 months or more

 各種の症状が1か月続かないとPTSD診断はできない。人質家族も精神医学を冗談にするようなことを言うものだ、また、メディアもよくこんな話を注釈なしで垂れ流すものだと思ったが、その後の報道では注釈的な説明が入り、PTSDというタームは消えてきているようだ。
 正直なところ、私の心証にすぎないが、「自衛隊撤退、小泉に会わせろ」といった昔懐かしい稚拙な主張より、この点のほうが悪質な感じがする。確かに人質のかたには心理的な動揺はあるのかもしれないし、帰国後すぐの記者会見はなくてもいいのかもしれないが、もう少しまともな釈明があってしかるべきではないか。開口一番、「PTSDなので語れません」ではないだろう、と思う。
 少し行きすぎの憶測かもしれないのだが、今回の事件の経緯で、気になるのは、人質家族の態度の急変、解放後の人質のかたの態度の急変という、奇妙なカタストロフ点があるように見えることだ。一応常識的な判断では、政府の尽力や国民感情を知って反省したということだが、私は率直なところ、なにか重要な情報のエフェクトではないかという気がしている。今回帰国の飛行機内の状況といい、即弁護士が付くという対応も疑問を抱かせるに足ると思う。もし、ことの真相が狂言であるなら、今後、解放された人質のかたの行動には警察のマークが付くだろうと思われるので、我ながら品がないが、そのあたりの情報はなんとなくだが注視したいなと思う。くどいが、狂言説をここであらためて主張したいという意図ではまるでない。
 事件の構図がどうなっているのかわからないが、私の予想が外れたというか、スンニ側の立ち回りが上を行ったなと思う点はあった。「イラク人質事件の政治面は日本政府の勝ち」(参照)より。

現状の停戦を見ると、これは、豊臣秀吉城攻めかなという感じはする。せめて水を止めるという愚行はしないで欲しい。私の推測では夜間しらみつぶしかなという感じもする。で、この文脈でチェイニーの協力というのが実際上の意味を持つわけだ。つまり、小泉が期待しているのは、ファルージャ掃討戦で、焼殺犯と一緒に人質めっけてくださいね、と。そしてこれが成功すれば、日本国雪崩打って、米軍ありがとうになる。
 おい、そんなストーリーでいいのかよと私は思う。

 このストーリーは回避された。この補足をする前に、少し関連するのだが、今回朝日新聞系のニュースで、停戦は日本が米国に懇願したからだという憶測が流れた。ざっと見た感じでは、朝日系から出ているので、これは、朝日の思惑に関連しているのだろうなという印象を持った。私の考えでは、これだけ世界が注目しているところで派手な掃討戦は、通常の指揮系では無理だ。暴発がなければ、停戦はだららだ続くだろう(すでに女子供の大半は避難しているようでもある)。
 とすれば、このだらだらの時間をテロリスト側がどう見切るかだ。怯えたまま人質を盾にするか、あるいは、上のようなストーリーになる前に日本に恩を売るか。で、ここは、テロリスト側というかファルージャの自治側、といっていいだろう、がうまく立ち回った。うまいものだと思う。これで、日本に恩を売るかたちになった。米側がこれをどう見ているか気になるが、一応の是認はあるのだろう。
 今回の事件の圏外の話ともいえるのだが、「自己責任」「自作自演」という言葉も気になってしかたなかった。というのは、無意識にこのブログでもうっかり使っているのかもしれないのだが、一応意識の上では、この二語は私の言葉ではない。私はこんな言葉を使わない。こんな言葉は日本語にはない、とまでは言わないが、なかったとは言えると思う。使わないのは、まるで語感の響きがないからだ。語義的に意味がわからないわけではないが、その言葉が自分の身心に響かないという点で、意味がわからないに等しい。
 私の言葉は「覚悟」だ。危険な地域に行く人道支援のかたやジャーナリストには覚悟が必要だ、消防士や教師も覚悟を必要とする仕事だ。だから尊い。と、それ以上になにを言うべきなのかわからない。覚悟がなければ自由はない。この間、パウエルが人質のかたのありかたを賞賛するようなコメントを出したとして話題になったが、覚悟なければ自由はないという当たり前の感性の表現を出ていないと私は思った。
 危険な地域なのだから国が渡航を禁止せよという意見は我々の自由を奪う。論外だと思う。また、国はいかなる状況でも国民の生命を守る義務があるのも当然のことだ。むしろ、通常は、今回の事件のように外務省は動かない。なにげなく行方不明になって終わりだ。テロリストや犯人からの要求があっても、それが正式な情報であるかなど通常はわからないから、もみ消されて終わりだ。また、そんな危険な地域ならなぜ自衛隊が派兵されるのかという屁理屈も聞いた。戦闘地域と危険な地域は全然話が違う。多事争論というのはこういうことを言うのか。
 「自作自演」も私の言葉ではない。人質のかたが筋書きを書いたという含みなら、その可能性はむしろ低いのではないか。今回の事件への疑念は、狂言という言葉で足りるし、そのほうが正確だと思う。聖職者協会のクバイシは、今回のテロリストを含むグループの政治部門であり、テロリストは警察・軍事部門であるように私は疑う。だから、ことの真相は狂言ではないかと疑う。狂言という言葉をそう私は使う。
 と、あたかも自分の言葉の感覚が正しいかのような偉そうな書きぶりになったが、それほど自分の感性が正しいのだと言いたいわけではない。私は、新しい世界を古い言葉でしか捕らえられないと思っているだけだ。新しい言葉が私の頭には入ってこない、のでもある。その意味で、人質家族があたかもプロ市民のような勘違いをした古い思考法と、実は私も五十歩百歩かもしれない。

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2004.04.18

遠藤周作「沈黙」の自筆草稿発見に想う

 先日遠藤周作の「沈黙」の自筆草稿が発見されたというニュースがあった。それがニュースなんだろうかとも思いつつ。しばし、物思いにふけった。私は、若い頃、遠藤周作のファンだった。

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沈黙
 「沈黙」は、キリスト教が禁制となった17世紀の日本(長崎)に潜入した司祭ロドリゴが、日本人信者の迫害を減らそうとして、自ら棄教の意志を示すために、キリストの顔のある踏み絵をあえて踏むという話だ。キリスト教信仰にもいろいろあるので、イコンでもない、異教徒が描いたキリスト像を踏むことにためらいなどありえない、ということもある。これは日本人キリスト教徒の特有な物語かとも思ったが、その後、東欧などでの評価を見るに、この心性は西洋人に理解されないものでもないようだ。
 ニュース「遠藤周作氏代表作の『沈黙』、幻の自筆草稿を発見」(参照)では、研究者の藤田尚子は、現行の「沈黙」とキリスト像の違いを強調している。

 自筆草稿をゲラ刷りや初版本などと比較した藤田さんによれば、最も大きな変化は、ロドリゴが思い浮かべるキリストの顔の描写だったという。

 確かに遠藤文学ではそこがよく話題になるのだが、私自身はあまり関心はない。むしろ、設定変更に関心を持った。ZAKZAK「遠藤周作氏代表作『沈黙』の自筆草稿を発見」(参照)にはこうある。

日記には、当初は主人公として、キリスト教弾圧下の宣教師を研究する現代人を考えたことも記されている。最終的に宣教師を主人公にした理由は書かれておらず、同館は「時代設定をなぜ変えたのかは今後のテーマ」としている。

 同館というのは、先の藤田尚子の見解だろうか。こう言うと僭越かもしれないが、私はその話を聞いたとき、なにも不思議には思わなかった。というのは、この作品は、「アデンまで」「黄色い人・白い人」「わたしが・棄てた・女」のテーマを継いでいるからだ。それと、私は詳しく知るわけではないが、ヘルツォーク神父の問題もあるのだろう。いずれにせよこの系列からは現代人が問われている。また、「沈黙」を継いだ「死海のほとり」で、キリスト教に挫折したキリスト教研究者を描いていることも、「沈黙」の原形が関係しているのだろうと思う。
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黄色い人・白い人
アデンまで
 遠藤周作の作品で文学的にもっとも優れているのは、「アデンまで」そして芥川賞受賞となった「黄色い人・白い人」ではないかと思う。遠藤文学を遠く、ある意味、捨て去ってしまた自分にいまだ突き刺さってくるものは、表層的に仕掛けれれたキリスト像の問題ではなく、むしろ、「アデンまで」の課題だ。これは、拙い言い方だが、黄色人種というものと性の身体の醜さというものにつきまとう、奇妙な罪の意識だ。黄色人種という人種(社会学的な意味ではない)にある潜在的な集合的な罪の無意識がある、といった頓珍漢なことはまるで思わない。中国人などはもたないだろう。とすれば、それは極めて日本人的なものなだろうか。「家畜人ヤプー」や三島由紀夫が暗黙に悩み続けたことであるが、それらは、戦争という歴史意識なのだろうか。この問題は、依然よくわからない。
 「アデンまで」では、印象的な描写がある。女は白人(フランス人)だ。

 女と俺との躰がもつれ合う二つの色には一片の美、一つの調和もなかった。むしろ、それは醜悪だった。俺はそこに真白な葩にしがみついた黄土色の地虫を連想した。その色自体も胆汁やその他の人間の分泌物を思いうかばせた。手で顔も躰も覆いたかった。卑怯にも俺はその時、部屋の灯を消して闇のなかに自分の肉体を失おうとした。

 少しためらうのだが、遠藤文学もかなり距離を置いて研究されていい時代になったと思うので、敢えて言うのだが、この体験は、遠藤の実体験だったろうと私は思う。遠藤はその体験がおそらく一生離れなかったに違いない。そして、そのいわば失恋(その女の魂を捨てた)と性の身体のおぞましさから、ぬぐい去りがたい独自の罪の意識ができたのだと思う。最晩年の「深い河」も、結局のところ、その問題に終始しているという印象を受ける。呑気な言い方だが、それは確かに苦悩の人生だったのだろうと思う。類似の印象は、森有正の罪の意識からも受ける。山本夏彦もある意味、類似の経験をしている。もっとも、彼の場合は、「無想庵物語」(絶版か?)にある武林イヴォンヌ(人種的には日本人)の存在が、そこに入ることを押しとどめたのだろう。いずれも、性の問題が奇妙な陰影で罪を際だたせている。
 私はこんなところで何を書こうとしているのか? 率直に言うと、白人女性との恋愛というもののなにかかもしれない。国際結婚も増え、白人女性と結婚する日本人男性も珍しということもない。私は白人の女性と恋に落ちたことはないが、恥ずかしいようだが、数度ドアの前というか、その崖の淵に立ったことはある。あれはなんなのかいまだによくわからないのだが、彼女たちの目には、魂を宗教的に射すくめられるような力があった。西洋において、恋というものは、こういうものなのか。頭をコンクリにぶつけたような感じがした。身体も魂もすべてを要求されているという感触でもある。もちろん、人にもよるのだろう。日本人間の恋愛なら、その恋愛がある種、自然の風景のなかにとけ込めるなにかがある。が、白人女性との恋愛はそういかない。あの起立した大聖堂の前に立っているような感じすらする。私はびびった。私は逃げた。遠藤はその先に入り込んだなというふうに思う。頓珍漢ついで言えば、遠藤周作は長身だったことが幸いでもあり災いでもあったのだろう。
 遠藤文学のなかで、キリストは、たぶん、そうした白人の、しかも彼が捨てた女性というものの象徴として、その生涯に立ち現れてきたのだろうと私は思う。表向きは、というか、あたかも大衆文学のように、弱い者の同伴者の像として彼は描くのだが、今の私からすれば、それは、血を吐いてでも許しを請いたい像の裏返しのように思える。
 ふと気になって、アマゾンで現在でも読み継がれている遠藤の作品はなんだろうとひいてみて、少し驚いた。正確に読まれているものだなというのが率直な感想だ。さっとめぼしいものだけ一巡してこの話をおしまいにしたい。
 「死海のほとり」は現代と古代が較差する。古代の側で描かれているイエスは現代の新約聖書学から見れば、ほぼ虚構だと言っていい。遠藤文学上は重要な作品ではあるが、文学としてはあまり意味のある作品でもないように思う。が、この古代へのノートから「イエスの生涯」「キリストの誕生」ができる。やはり、修辞が重いので大衆的な感銘は受けやすいのだが、歴史学的にも重要ではないし、神学・文学的にも、それほどの重要性はないと私は思う。
 「深い河」は私は、リヨンの描写など美しく、筆致はすばらしいのだが、総合的に見れば失敗作だと思う。人生を総括する作品がこのように出現したことに、泣きたいような皮肉を感じる。「『深い河』創作日記」に背景が描かれている。当然ながら、遠藤文学上は重要な作品ではある。宇多田ヒカルの同題の歌はこの作品の影響だろう。おまけに「『深い河』をさぐる」という本もある。うへぇ。
 「おバカさん」は今読み直したらどういう印象を私は持つのだろうか。面白く感動的な作品ではある。「聖書のなかの女性たち」「私のイエス―日本人のための聖書入門」は今でもクリスチャンに読み継がれているのではないだろうか。つまりそういう作品だ。悪くはないが、今の私は避けたい本だ。遠藤訳の「テレーズ・デスケルウ」もある。遠藤文学の重要なカギになる。そういえば、彼の勧める「ぽるとがるぶみ」も入手可能なようだ。これは読み直したい。ところで、トリュフォー「アデルの恋の物語」の原作「アデル・ユーゴーの日記」って翻訳ないの?
 「侍」は、形式的には「沈黙」を継ぐのかもしれない。私は史実に関心が向くので、この作品の評価はわからなくなってきている。「愛情セミナー」は私の青春にとって大切な本だ。現代人の若い人が読んでも無意味だろうし、むしろ害があるかもしれない。
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彼の生きかた
 現在の私には遠藤周作に否定的な思いのほうが強いので、書籍紹介もひねくれる。が、それでも、私は密かに遠藤周作の最高作品は初期作品を例外にすれば、「彼の生きかた」だと思う。人生の本当の秘密みたいなものを描いている不思議な作品だ。この作品の最後のシーンを思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。
 話は逸れるが、遠藤周作の兄は電電公社につとめたお偉いさんだった。死んだ父を通して個人的な話もきいている。が、書くこともあるまい。

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2004.04.17

韓国総選挙、ウリ党過半数への不安

 15日に実施された韓国総選挙で盧武鉉大統領の与党ウリ党が、以前の第3党から過半数を占める第1党に躍進した。予想された事態ではあったが、もう少しハンナラ党が伸びるかなと期待していた。
 選挙の率直な印象は「やべーなぁ」であるが、そういう本音を漏らすと「なぜ」とか突っ込まれそうになる。「やべーなぁ^2」である。簡単に説明できる問題ではないよ。極東ブログのスタンスでいうと、なにもやばいことなんかない、とも言える。板門店共同警備区域を警戒していた100人ほどの米軍がこの10月に完全撤退し、韓国軍に完全委託になるのだが、これも、別にやばいことなんかない。と、言ったものの、私は47歳だが、50歳より上の世代の日本人は内心やばいよなと思っているのではないか。読売新聞は露骨に北朝鮮関連で心配を表現している。朝日新聞ですら内心懸念を感じているようだ(「韓国総選挙――変化の風はやまない」)。


 ウリ党は、従来の政治家たちにはできなかった改革を速めようとするだろう。しかし、数の力にものを言わせて強引な進め方をすれば、野党との対立をあおるだけに終わる恐れもある。ここはおごってはならない。
 日本にも課題ができた。金鍾泌(キムジョンピル)氏の落選が物語るように、これまで日本との間をつないできた世代が舞台から消えた。若い議員同士の交流をどう築くか。

 今回のウリ党勝利は端的に若い世代の勝利といっていいのだから、日本の朝日新聞は韓国の若者に「ここはおごってはならない」とお説教をたれるのである。ありがたいだろ。
 よその国の内政を諭す気にはならないが、そういう気持ちもわからないではない。昨年11月26日朝鮮日報社説「国がここまで上手くいかないなんて…」(参照)がある意味具体的でわかりやすい。なお、この記事で野党となっているのが今回与党になるのである。

 最近の大韓民国は本当に「めちゃくちゃ」としか言いようがない。▲在韓米軍問題 ▲イラク派兵 ▲労使間葛藤 ▲自由貿易協定(FTA)と農民問題 ▲セマングム ▲京釜(キョンブ)高速鉄道の金井(クムジョン)山区間 ▲北漢(プクハン)山トンネル ▲行政首都移転問題 ▲スクリーン・クォータ制度 ▲扶安(プアン)問題 ▲大学入試の公信力をめぐる危機、など問題は山積している。
 こうした問題の中にあって、何一つまともに解決されたものがない。ここに、大統領による特別検事制法案の拒否で、与野党の対立問題がまた1つ加わった形だ。
 本当にもどかしいのはこれら問題のうち、そのほとんどは政府の不手際によるものだという事実だ。

 別の見方をすれば、大統領側のウリ党が与党になることで「政府の不手際」が解消されれば問題はスムーズに行く、とも言える。さーて、そう思いますかね?という以上、私はつぶやくべきでもあるまい。
 韓国がどうしてこういう政治に転換してきいるのかについて、私は、ちょっと単純過ぎるようだが人口動態が最大の原因ではないかと考えている。このあたりの基本である386世代については毎日新聞社説「韓国総選挙 政治の混乱収拾が急がれる」がわかりやすい。

 候補者も支持者も「90年代に30代になり、80年代に大学に通い、60年代に生まれた」いわゆる386世代と呼ばれる40歳代の青壮年層が中核だ。高度成長下に育ち、革新志向が強い。それが時に反米的民族主義感情を高め、米国の対極にある北朝鮮への親近感となっているといわれる。大統領選で盧氏を当選させた原動力は、米軍装甲車による女子中学生ひき殺し事件に抗議する反米デモだった。

 これを人口ピラミッドで確認すると面白い。少し古いのだが、ネットにあった。「人口で見る韓国/ソウル 」(参照)である。グラフの画像の拡大はこちらにある(参照)。
 すぐ見てわかるように、20歳から40歳までの層が厚い。選挙時このグラフを睨んでいる私に、「何を見ているのか」と問う者がいたので、「ある国の人口ピラミッドなんだけどどう思う?」と訊いてみた。「高齢者が長生きできないみたい」と答えた。ぎゃふん。
 グラフを見てわかるように、現在の40歳代までは途上国的な発展をしていたのだろう。日本と10年ずれのシフトという感じではないか。そして、発展の雰囲気が20年間続いたのだろう。いずれにせよ、この20歳から40歳までの層の厚みが今回の政変の基礎になっているのだろ。とすれば、10年から15年後にはまた大きな変化が来るだろう。
 人口分布についてもこの記事に面白いコメントがあった。

ソウル市の人口は989万5000人で、全国の人口の21.4%。そして仁川広域市と京畿道を含む首都圏の人口は2135万4000人。なんと全国の人口の46.3%、つまり韓国の人口の約半分が首都圏に住んでることになるんですね(@_@)。すごい集中ぶりにびっくり!

 とびっくりされているが、日本でも都市部に1/4は集中しているのではないか。だが、韓国ほどの都市化ではないだろう。当然ながら、これを背景に韓国では住宅事情の問題もあるようだ。
 と、オチはない。なにが「やべー」だよだな。そうそう。これは歴史の感覚とも言えるものなので、うまく説明はできないのだ。

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2004.04.16

鷺沢萠、松田新平

 高校生のころだったか私も自殺しようと思っていたことがある。そのあたりの記憶はぼんやりとしてる。なにかを無意識に抑圧してしまったためだろう。なにが自殺を押しとどめたのかということでは、ぼんやりと歎異抄の「念仏申さんと思ひ立つ心の起る時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり」が思い浮かぶ。
 当時の私は亀井勝一郎や三木清、梅原猛などの影響もあり、親鸞に傾倒していた。それが自分を救いうるのだろうかという若い思いでもあった。
 歎異抄は、唯円の聞き書きとして、この文言の前に「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」とある。信仰が先行するのである。が、私はその時の体験から、これは逆だと思った。つまり、念仏申さんと思ひ立つ心の起るその時に、弥陀の救済が働き、そして、誓願不思議と往生の確信となる、という順なのだろう、と。
 そう考えることで、親鸞の信仰と唯円との落差が見えたように思った。親鸞は、変な言い方だが、「念仏申さんと思ひ立つ心」をある種、絶望の極北と見ていたのではないか。他力とは、ある意味、絶望の極北ではないか。そこにあるとき、人を貫いて念仏申さんと思ひ立つ心の起ること自体が、弥陀の誓願不思議の顕現ではないのか。もちろん、真宗学の人は否定するだろう。私はその後、その何かをキリスト教の中に見ていこうとしたが、その話はどうでもいい。
 その後自殺を思うことがなくなったが、死んだほうがましということは、今思うと二度あった。一つは青春を打ち砕いた。と、言うも恥ずかしいが、私のような無名な人間のそういう生き様はごく普通の人の生き様でもある。過ぎ去れば、どういう話でもない。もう一つは、正確には死んだほうがましというものではなく、単に生きる苦悩だった。大げさな言い方ついでに言えば、乾巧がウルフオルフェノクに変身したように絶叫した。人生には存在の底から絶叫することがあるものだ。が、それも、沈静して考えれば、わりと普通のことでもある。
 自殺や懊悩というのは普通の人生の一部だと思う。というか、私はそうして生きることにした。ふん、俺は生きるのか、という感じだ。
 こんな光景も思い出す。人っ子一人いないある西洋の断崖に立ったことがある。柵もなく注意書きもなく、眼下に遠くただ美しく静かな海が広がっていた。怖くもあった。死ねるな、である。自殺の思いがふっとよぎった。小林秀雄が若いころ、断崖から見る海が美しかったら死のうとしていたことを思い出した。彼が自殺しなかったのはその日曇りだったからだろう。そういうこともある。
 慰撫的な前振りが長くなったが、鷺沢萠と松田新平の自殺ということを聞いて、さて自分は、とそんなことを思ったわけだ。
 鷺沢萠という作家の作品は読んだことはない。その内面はまったく知らない。が、気になったのは、たぶん、メディアでも取り上げることになってしまうのだろうと思うが、彼女が昨今言うところの「負け犬」の代表の一人であり、その生き様の一つとして、自殺ということを刻んだのだということだ。そんなのは勝手で不謹慎な解釈と非難されそうだが、言わずにも世の中はそう受け止めるだろう。現在発売の「野生時代」で、まさにそのテーマで酒井順子と対談していた。読んだ。この時点で読めばいろいろ思うこともあるのだが、それでも、端的に言えば、こうした残された文章から自殺へはつながらないのではないか。そして、それは、負け犬の生き方の一つの結末として自殺があるとしても、そこはそう簡単に文章でつなげるものでもないだろう。本質的につながらないかもしれない。ただ、酒井順子は、もし、物書きの魂というものがあるなら、何かを書かなくてはいけないだろうし、書くだろうなと期待する。
 ネットで鷺沢萠のことを軽く見回したら、「鷺沢萠連載エッセイ かわいい子には旅をさせるなvol.28 メシのモンダイ  その2」(参照)という面白い話がった。このシリーズのエッセイではこれが最後になるだろうか。


 韓国人も実に頻繁に「メシ食った?」のひと言を口にする。もっとも韓国人の口から出るそのひと言は、アメリカで私を驚かせた「ジュイッ?」と違って、純粋な意味での質問である。
 これは私見だが、韓国人は「ひとりで食事する」ことをあまり好まない。韓国人には「メシは複数人数で食うもの」という観念があるように思う。だからこそ頻繁に「メシ食った?」と訊ねるのであろう。つまり彼らはそのことばを介して、「一緒にメシを食う相手」を探しているのではないか、というのが私の個人的見解である。

 エッセイに無粋な重箱つつきをする意味はないが、この挨拶は中華圏では当たり前のものだ。私の父は、10代を朝鮮で過ごしたので、この話を私が子供の頃よくしてくれた。鷺沢萠の祖母は朝鮮系であるというが、家庭内ではそういう文化の伝承のようなものはかったのだろうか。ふと気が付いたのだが、私はそういう意味で、引き揚げ者の子供なわけだな。
 松田新平が誰かという詳しい話はしない。最近、松田新平が死んだという噂は飛んでいたことが気になっていた。先月から「みんな」心配していたのだ。「松田新平をかまってやれないほど忙しかったわけですが、最近毒電波も飛んでこないところを見るとイジケテいるのかもしれません。今頃うんこ我慢しながらインターネットしている彼に激励の言葉をどうぞ。」(参照)というわけだ。そうしたら、今日の山本一郎のブログに追悼が出ているじゃないか。「松田新平が死んだ件について」(参照)。現代における名文だな。本当に死んでしまったのだなという心の思いがこの文章にすーっと引き寄せられる。

しかしまあ、松田が死んだってことで、これで少し世の中が生きやすく、そしてつまらなくなったってことだ。あれだけ人を騒がせておいて、自分勝手に逝きやがって。

 山本は意図的ではないのだろうが、結果的に暗示するように、彼の死はこの現代の日本の一つの大きな象徴なのかもしれない。またしても、ここで時代がぐぃんとつまらんものに曲がってしまったか、あるいは、この世代をつまらない世界に押し込んだのか。ある意味、今というこの時は、その不思議な頂点でもあるのだろう。ああ、そうだ、僕らみんな松田新平が好きだったのだ。そういう「好き」という人間への感性が、今から変容していくのだ。
 松田新平は、はてなでこう問いかけたことがある(参照)。

わたしはだれでしょうか。nameforslashdotだのnameforhatenaだの1967.08.02生まれの男性だの住所だの学歴だの病歴だの人間だの動物だの生き物だの無機物の集合体だの三次元空間の存在だのわかりませんだの知っていますだの誰に聞けだのなにを読めだのはぜんぶだめです。

 私はこう答えた。

「ゲド」です。
漢字の「外道」ではありません。
参考:http://homepage1.nifty.com/ima-dame/matuda.htm

 彼の応答はこうだった。

なに、おれの本名は「ゲド」だというのですか?それでいいのですか?
それはそれとして、参考URLとしてあげられている、クリッカブルでないほうのURLがどうして参考になるのかわかりません。減点しようかな、、どうしましょうか?

 減点はされなかったが、貰ったのは2ポイントだった。通じなかったな、と思った。彼は、彼と私にある重要な共通の知人がいることに気が付かなかったようだ。が、私はそれでもいいやと思った。私は彼が面白い人だとは思うが、ある一定以上近寄るのはやめようと思った。
 私はそうして、少しずつ、本当に孤独になっていくのだろうなとは思う。それは、自分の死というものの一つの形だ。自殺しないという決意は、反面崩れていくような死の受容でもある。だが、それは本当は虚偽なのだろうとも思う。

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2004.04.15

米軍を擁護するわけではないが

 日本人人質3人がバグダッドで解放されたとの報道がアルジャジーラからあった。つまり、解放は確かなようだ。人命問題は解決して、私も日本人として安堵した。
 以下は、そう言いながら、アルジャジーラの報道姿勢を疑うような話である。
 イラク情勢関連の情報について、非常に微妙な問題ではあるのだろうが、この間気になったことを少し散漫にでも書いてみたい。
 日本版CNNのサイトのニュース「アルジャジーラは『うそつき』 米軍が非難」(参照)が挑発的なタイトルということもあって気になって読んだが、要領えない感じがした。こうした場合、原文を読んだほうが早いこともあるので探したのだが、わからない。対応していると思われる記事は"U.S. blasts Arabic-language TV networks"(参照)だろうが、記述の順序やディテールに随分に違いがある。報道バージョンの違いかもしれない。が、この差は気味の悪い印象も与える。
 いずれオリジナルはこの英文であろうと思われるので、それをひく。話は、アルジャジーラの報道には偏見があるとして、米軍や暫定占領当局がクレームを付けているというものだ。


BAGHDAD, Iraq (CNN) -- Citing reports by Arabic-language television networks they considered erroneous, U.S. military representatives urged Tuesday that reporting from some news organizations not be taken at face value.

 米軍はアルジャジーラの報道をまともには受け取れないとしている。非難も出したようだ。それがこの話だ。もちろん、非難にアルジャジーラは反発している。

"Al-Jazeera rejects these accusations and consider them a threat to the right and the mission of the media outlets to cover the reality of what is happening in Iraq during this tough and complicated field circumstances," the statement said. "This is an unjustified pressure against the freedom of the press."

 反発はたいしたものではないのだが、"the freedom of the press"に注目してもらいたい。この用語はこういうふうに使う。日本国憲法の「出版の自由」は半世紀前は紙媒体を指していたが、現状ではまるで違う。すでに誤訳と言ってもいいだろう。
 CNNのニュースからは、米軍はアルジャジーラを嘘つき呼ばわりしているとも読めるのだが、実際のニュースを読むと、私の印象では意外に米軍も暫定占領当局もアルジャジーラを全面的に否定しているわけではない。むしろ、彼ら側の情報と照らして、「行きすぎじゃないのか」とクレームを出していると見てもよさそうだ。例えばこういう感じだ。

 Coalition Provisional Authority spokesman Dan Senor called a report that U.S. forces have targeted women and children "poisonous."
 "It is part and parcel with the reporting that we have been seeing, or the misreporting that we've been seeing, on a number of the satellite channels like Al-Jazeera and Al-Arabiya," Senor told reporters.

 暫定占領当局(CPA)のセナー報道官は、女子供を殺めたことを否定しているわけではない。だが、問題の取り上げ方が部分的に過ぎるというわけだ。
 苦笑するむきも多いだろう。報道なんてそんなものだというのが常識だからだ。しかし、次のようなケースは米側の言い分がたぶん正しいだろう。

 Later Tuesday, Brig. Gen. Mark Kimmitt -- in an interview with Al-Jazeera anchor Jamal Azhar -- accused the Arabic-language television network of lying.
 Asked why U.S. tanks violated a cease-fire in Fallujah, Kimmitt challenged the premise of the question.
 "I don't think that the U.S. soldiers violated the cease-fire in Fallujah," he said.
 "We have been respecting a unilateral cease-fire. But you have to understand, if our troops are attacked, they have the right to defend themselves and respond."

 停戦中であれ、局所的な攻撃には防衛的に対応せざるをえない。もっとも、その防衛でよいのかという問題はあるだろう。
 たるい話が多くなったので切り上げたいのだが、つまり、このCNNの記事だけでいうのではないが、私はアルジャジーラからの情報はかなりバイアスが入っていると考えている。
 そんなの当たり前さという苦笑を誘いたいわけではない。むしろ、アルジャジーラの報道の基本的なバイアスに常に考慮しなければいけないということと、アルジャジーラが出所となる伝言ゲーム的な情報にも気をつけるべきだということだ。
 後者は重要だとこの間思うことが多い。日本人は、つい現地イラク人の直接の言葉をその原体験の報告のように捕らえがちだが、彼らの発言もアルジャジーラなどメディアの伝言ゲームである可能性はかなり高いだろう。イラク人と限らない。現地にいる日本人を含めたジャーナリストの発言にもその影が濃くなっているようだ。
 反面、米軍側の情報も同程度の信憑性ではあるものの、軍の原則を逸脱した情報は少ないはずだ。CNNの先のニュースでも、個々のディテールでは、米軍キミット准将の発言にはかなりのファクトが含まれているようだ。
 このことを少し応用したい。
 具体例として、田中宇の「米イラク統治の崩壊」(参照)を取り上げてみたい。「4人の米『民間人』殺害のなぞ」の前段では、ファルージャで米軍の強奪があったかのように、こう書かれている。

 だが、英ガーディアンによると、家宅捜索を受けた人々の多くはゲリラ攻撃とは関係ない一般市民で、捜索を受けた市民の証言によると、米軍兵士は捜索に入った多くの家庭から現金や宝石類などを持ち去った。こうした不当行為は、米軍に対する市民の反感を強める結果となった。

 参照しているのは"Driven by national pride"(参照)なので、読み比べるといいのだが、この強奪とも言える事態は、事実だとは言い切れない。イラク人の証言にすぎない。もちろん、田中宇もそのように書いているとも読めるだが、「こうした不当行為は、米軍に対する市民の反感を強める結果となった」のトーンは事実の認定に近い。これは、修辞というより、詐術に近い。
 また、ファルージャで焼殺された米民間人についての、次の話は陰謀論臭い。

 だが、彼らは実は食糧運搬などしておらず、しかも4人が攻撃され、遺体が引き回されて何時間も騒動が続いていた間、その近くに駐屯していた米軍部隊は全く動かなかった。殺された4人は、ひと目で米占領軍の関係者と分かる白い4輪駆動車に乗り、重武装していた。そのため、殺害事件を誘発するために、米軍がわざと4人を犠牲にしたのではないかという見方が、アメリカの大手マスコミの記事にも出ている。

 参照している大手マスコミはクリスチャン・サイエンスモニター"Seeing Iraq through the globalization lens"(参照)で、確かに、陰謀を臭わす部分はある。

The chaos here has to be at least partly deliberate." The main question on most people's minds is not if his assertion is true, but why?
 For example, many here see last week's carnage of Americans in Fallujah as suspicious. To send foreign contractors into Fallujah in late-model SUVs with armed escorts - down a traffic-clogged street on which they'd be literal sitting ducks - can be interpreted as a deliberate US instigation of violence to be used as a pretext for "punishment" by the US military.

 しかし、大手マスコミであるNewsweekやWashington Postの記事からは、ことの背景は、単にファルージャに軍の介入を控え、傭兵的な民間人を投入したことがあることがわかっている。この点は、極東ブログ「ファルージャの状況について」(参照)に記した。
 そこで、対比的にこの問題の、私の推測を書く。
 米軍人は軍規に従うように訓練され、逸脱は軍規で処罰される。が、民間人はその対象ではないため、この傭兵的な民間人は、ファルージャでかなり手荒なことをしていたのではないか。それが、イラク人からは米軍の行動に見える。私は米軍を擁護したいわけではない。むしろ、こうした暴発があるとすれば米軍側が保護すべきだっただろう。だが、米軍側としては、保全についてはイラク人組織に移管したような呑気さもあったのだろう。
 私がそう推測するのは、Newsweek記事でも米民間人の焼殺に際し、なぜ彼らファルージャにいたのか疑問としていることがある。殺害された米人には失礼な推測だが、この行為は彼らの強奪とも関連する勝手な行動の一環だったのではないか。そして、そこを報復で狙われた、と。
 このように、私の推測は田中宇の推測ほど奇抜ではないし、問題の根幹の認識はまったく異なる。私は、問題の根幹は、単なる統治ミスということになる。
 繰り返し、私は米軍を擁護したいわけではないが、と断るのだが、ファルージャの「虐殺」についても、傭兵的な米民間人の暴発ですべてが説明できるとは思わない。米軍も実際は、女子供の殺害を否定していない。
 だが、米軍は、それはゼロにはできないとして、正規の戦闘を行っていたということではないか。そして、当然のことだが、米軍という最高の軍事力に刃向かう武力勢力には、その10倍からの被害はでると推測して不思議でもないだろう。正規軍に兵器を持って向かってくるものは、民間人ではなく戦闘員と見なされる。スイスでは永世中立国と呼ばれた時代から、市民が防衛のために銃を取るなら、その時点で敵からは民間人とはみなされないという教育を国民に施している。
 オチではないが、最後にちょっと余談を書きたい。イラクの現状をベトナム戦争に比較する人たちがいる。だが、ベトナム戦争では1週間のうちに米軍は500人戦死したこともある。もちろん、その数倍ものベトナム人も殺された。ベトナム戦争を知るものなら、イラクの戦闘はクリーンすぎる印象すら持つだろう。

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2004.04.14

ミラーマンの秘密

 くだらない話を書こう。って、くだらなくはないかもしれないけど。早大大学院のU教授が女子高校生のスカートを手鏡で覗こうとして逮捕された話についてだ。
 私は、民放テレビはトリビアの泉とあたしンち、鉄人28号くらいしか見ていないので(今回の仮面ライダーは脱落した)、U教授のTVでの活躍は知らない。そんな有名人だったのか。エコノミストとしては、野村系で財政出動派だったと記憶している、というか、リチャード・クーを読めば、U教授のご説は要らないと思っていた。
 もちろん、43歳の著名人が女子高校生のスカートを覗くっていうのも、びっくりではあるが、マーシーの件もあるので、これは、一種のおビョーキなんだろうなと思う。この手のおビョーキは治らないか、治りづらいと思う。ので、できるだけ社会に害をかけないように、自分で対処すればいいのに、とも思うが、ダメなのだろう。そういう社会的な線を越えるところが、快感の源泉でもあるのだろう。「困ったやつだな、奥さんいないの、この人、43歳」って思うあたり、またしても、私に「保守」のラベルが飛んできそうだ。
 事件を聞いて、ただ、ちょっと変な感じはした。というのは、当初ニュースをざっと聞いたとき、「手鏡」というから、なんか、♀、みたいな形状の鏡をスカートの下に差し入れたのかと思った。が、さすがに、そんなわけないよね。それに、どうして逮捕されのか、もちょっと気になった。
 ニュースを読み直してみた(参照)。手鏡は♀形状ではないようだ。


調べによると、8日午後3時ごろ、JR品川駅の高輪口上りエスカレーターで、前にいた都立高校の女子生徒(15)のスカートの中を、持っていた名刺サイズの手鏡でのぞき見ようとした疑い。

 私の推測なのだが、状況は、たぶん、人一人分くらい上方にいる女子高校生のスカートなかを覗き見るべく、U教授は自分の鼻のあたりで名刺サイズの手鏡で見ていたのではないか。あたかも、コンタクトレンズでも直すかのように。
 ここで私はいくつか疑問が浮かぶ。まず、その角度なら首を上げれば覗けるんじゃないかということ。ただ、自分でも、その気はないのだが、エレベーターなどで、「上にいるあの女子高校生のスカートは下の人から覗けるんじゃないか」と思うことがある。だが、そのアングルから覗けたことはない、って書くと、私までお変態みたいだが、だらしないな、と思うだけで積極的に覗きたいわけじゃない。上を見たら、なんだよあれ、と思うだけだ。
 と、これは誰でも知っていると思うのだが、あの短い女子高校生のスカートの中は、ホットパンツのようなものを履いているのではないか。電車のなかであられもない恰好で寝ている女子高校生のスカートがあられもなくめくれているのをたまたま見たことがあるが、これって下着じゃないな、めくれてもどってことないパンツを履いているのか、と思った。こんなものを見ても面白いわけもないだろうにと思う。
 が、そこは、見識の高いU教授だから、今回の人選にはワケがあったのかもしれない。つまり、下着だったのを確信していたとか。
 関連して、どうして逮捕されたのだろうかも疑問だった。が、これは、わかった。
 彼は横浜駅内でミニスカートの女性を尾行するなど不審な行動をしていたらしい。そこで、神奈川県警鉄道警察隊が彼を尾行し、品川駅に構内のエレベーターで犯行に及んだところを現行犯逮捕したようだ。U教授は取り調べには素直だったという。過去にも同条例違反容疑で逮捕され、罰金刑になったこともあるらしい。
 つまり、警察官がずっと尾行していたわけだ。過去にも逮捕歴があるとのことで、目星を付けられていたのではないだろうか。
 なるほどなと思うのは、前回の逮捕では騒がれもしなかったという経験もあるのだろう。だから、取り調べの対応が素直というのは、ごめんで謝ってしまえ、ということだろうか。このあたりで、ちょっと考え込む。
 というのは、ふざけた話として書き出したネタだが、東京都迷惑防止条例違反で逮捕されるということと、それをニュースとして取り上げることは、ちょっと話が違う。もちろん、テレビの著名人のようなので、私人のプライバシーともならないだろうし、逮捕というのはプライバシーの問題でもあるまい。それでも、この条例違反でたまたま捕らえてみたらU教授だった、というより、著名人を捕まえて見せしめにするという印象が拭えない。
 案の定、日垣隆がたいした被害ものないのに報道するなということをメルマガに書いていた。それもそうだなと思う。もっとも、日垣はU教授が再犯あることには触れていない。初犯のお目こぼしがあったと考えると、そう弁護もできるものでもないだろうとは思う。最近はあまり外人の女性と話す機会ものないので以前のことになるが、彼女らは一様に日本の電車の痴漢の多さに呆れていた。信じられないと言うことも多かった。たぶん、今でもそうではないのか。
 ところで、東京都迷惑防止条例違反ってなんだろと、ぐぐってみると、自由法曹団「東京都迷惑防止条例「改正」案の廃案を求める声明」(参照)というのがトップに出てきた。ざっと読んでみるがよくわからない。都条例なのだから、U教授は品川駅で降りなければ良かったのかもしれない。冗談のようだが、東京都迷惑防止条例改正というのは、冗談ですまされるものでもなさそうだ。そういう点で、U教授のおかげで少し考えるべきことが増えた。
 余談だが、U教授のように手鏡で見ると、女性のお尻は、上から見たときとは逆の像になるはずである。そんな不自然な像が面白いものだろうか、と疑問に思っていたとき、身近にジーンズの女性がいたので、この次第を話して、了解してもらって、椅子に載ってもらい、彼女のファンデーションキットの鏡で見た。
 おやっ!である。これは、ちょっと新鮮な感じがするのではないか。やべー、というわけで、洒落にならない世界に陥る前に実験中止。いや、まずかった。みなさん、真似しないように。
 といいつつ、これは、あれだな。女性の尻が問題ではないな。子供のころ足の股から世界を覗くと、世界の光景が奇妙に見えたあの感じに似ているなとも思った。そういえば、そうして見た世界はいつも草原だった。そんな草原は川辺くらいしかなくなったし、いい大人がするものでもないので、しなくなっていた。

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自衛隊が汗を流すのではなく、現地の雇用を増やせ

 たらっとした雑文を書きたい。日本人人質関連したイラクの話題を追うのは、ちょっと疲れたなという感じがある。なぜそんなことに私が興味を持つのかといえば、この問題は案外戦後思想の急所になるかもしれないなという思いもあるからだ。疲労感からゲロっとしてしまうのだが、往時の吉本隆明ならこの状況になんと言うだろうか、と想像する。彼のことだから、「もともと日本に関係ない戦争なんだから、さっさと自衛隊を撤退しなさいよ」と言うかもしれないのだが…。
 こういう言い方は大げさで自分でも笑ってしまうのだが、戦後思想がここを境にこれから全面的な瓦解を始めるのかもしれないな、と思う。「そのとき、俺はどうする?」と自問してみる。もちろん、私なんかどうでもいい存在だし、解体され、小さな発言者としてすら雲散霧消するのもいいことかもしれない。あるいは、戦後思想なんて、すでに瓦解しているのを確認するだけのことかもしれない。ま、この話は個人的な思いに過ぎないな。
 今回の人質事件とリンケージした形での自衛隊撤退論には私は端から与しない。論外だよ、トンカツはヒレじゃなくてロースだよ、みたいな感じだ。って不真面目なジョークを飛ばしてどうするだが、テロリストの要求には一顧だにする気もない。が、日本が自衛隊をイラクから撤退させることはありうると考えてはいる。
 それはイラクを戦闘地域と認識するかということだ。よくわかんないのだが、イラクからの自衛隊の撤退の理由に、反米だの平和だのというのを持ち出す人は、私にはまるで理解できない。
 私は、自衛隊の派遣は「イラクが戦闘地域ではない」という内閣の判断に基づいている、と理解している。だから、問題は、その派遣先が戦闘地域なのか、ということだ。
 問題は細分化する。派遣先は「イラク」なのか、「イラクの一部」なのか、ということになる。イラクということなら、これは常識的に見て、戦闘地域と言っていいだろう。
 だが、マスメディアや識者と呼ばれる人たちでも、イラク全土が戦闘地域と見ていることがあるようだ。
 私はそれは違うと思う。私は、戦闘地域は、ローカライズ(局所化)されていると見る。戦闘地域がローカライズされている国と、国全体を戦闘地域することは別だと、私は思うのだ。なにも、小泉に擦り寄りたいとはまるで思わない。ごくあたりまえの原則から考えているだけだ。
 この間の自衛隊の駐屯地への攻撃と見なせるものも、規模が小さく散発的なものだった。ので、これは戦闘とは呼べないだろう。だから、現状の日本の行政の枠組みでは、自衛隊の撤退はないだろう。
 非戦闘地域という認定のまま自衛隊を撤退させるなら、イラク特措法(参照および「イラク特措法に基づく対応措置に関する基本計画」)の改定に取り組まなくてはならない。あたりまえのつまんないこと書いているようで恐縮なのだが、自衛隊を撤退させたいなら、この法を改定するのが筋なのではないか。「自衛隊を撤退せよ」という主張の行動は私には無法者に見える。
 私はイラク特措法を改定してもいいと思う。というか、改定したほうがいいとすら思う。具体的に法律的な言葉で説明することはできないので、簡単に書くのだが、私は、「復興支援の実動が自衛隊である必要はないどころか、好ましくない」と思うからだ。むしろ、自衛隊はイラク在の日本人の安全保護に徹し、復興はできるだけイラク人に任せるようにしたらいい。つまり、復興を足がかりにイラク人の雇用を発生させるように行うべきではないか、と思うからだ。これもあたりまえのことだと思うが、現行法では難しいのではないか。
 よく自衛隊が汗を流しているというが、イラクの人に汗を流してもらうようにしたほうがいい、と私は思う。雇用があれば、労働の関係が成立し、そこから社会秩序も自動的に正常化せざるをえなくなる。それが結果としての、平和ということではないか。
 非難で言うのではないが、例えば、高遠菜穂子さんが単身バグダッドでティーンエージの孤児らの世話を中心に活動することを日本では尊ぶ雰囲気があるが、この年頃の孤児に必要なのは、職を与えることだ。もちろん、それ以前の状態を救う必要があるのだという反論もわかる。だが、それなら、なぜイラクなのだ?
 私の勘違いかもしれないが、イラクの復興とはNGOがこぞって出かけてボランティアをすることではなく(NGOイコール、ボランティアではないのは知っているが)、雇用をまず先行させ、産業を興し、外資を導入できる体制を作ることではないか。現実に、途上国の発展とはそのようになされるものだし、復興もまたその道筋を辿ることは間違いない。
 と書きながら、それが「資本主義」に見えるが故に、左翼的な思想が違和感を持っているのだろうなとも思う。

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2004.04.13

イラク人質事件の政治面は日本政府の勝ち

 私は昨日の夕方あたりから、この事件の真相は狂言ではないかという心証を強くした。ええいとそちらのほうに思いの軸足を寄せてみると、各種の疑問が解きやすいという感じがした。そして、なにより、ニュース報道の見方ががらっと変わることに驚いた。小泉、福田、川口の腹が透けて見える感じもした。さて、自分の心証がそうなら、どれだけ批判を喰らっても、正直これを極東ブログに書くかというところで逡巡した。一晩考えてみるかなと。そして、一晩経ち、「人質事件は狂言だよ」というのは、ぜんぜん主張にはならんなと思った。というか、そう言うことの無責任さを思った。
 だから、この事件は狂言だと主張したいわけではない。が、ブログなんだし、心証としてなら、語ってもいいだろう。この事件の私の心証は狂言だという点は変わらない。そう書きながら、矛盾するようだが、くどいが狂言だよと主張したいわけではない。なぜなら、狂言だとする決定的な理由はないこと、それを将来にであれ証明することも難しいこと、そしてなにより、狂言だとしても依然人命の危険性の点では変わらないことだ。
 ただ、言った手前、ちょっと補足する。最初から狂言だったかとまで思ってはいないのだが、この点で私の最大の疑問は映像がCDだったことだ。私はCDに映像を焼き込む技術にそう詳しくない、わけではない、と笑いを取ってどうするだが、いずれDVには圧縮をかけなくてはいけないし、パソコンの環境も問われる。まず端的にMacintoshかWindowsか。Macintoshなら、あの状況ではiBookか。おいiBookってジャーナリストの御用達だぞ。映像のほうはナイトショットじゃねーのか、と、それだけで犯人側のかなりの情報になるのだが、そうした情報はマニア側の推測ではあるものの、なぜか公的には情報がないのが変だなと思う。CD媒体からですら足がつくはずだし。
 狂言かなという心証は、気取るわけではないが、2ch的な考察ではない(もっとも、2chというのはそうバカにしたものでもないぞと今回は認識を変えたが)。昨日のファルージャの記事を書きながら、これは人間の盾ではないかと思ったことだ。モデレートに見ても、現状の人質はファルージャで人間の盾にされているな、と思ったとき、あっと思った。日本人は、willinglyに人間の盾になりたいものなのだ。と、willinglyって英語まぜるなだよだが、私が思ったタームはそれだ。訳すと「喜んで」か。ちょっとニュアンスが違うが。
 以上で、狂言かなの心証の話は区切りをつける。
 現状を冷ややかに見ると、彼らが主体的(willingly)に人間の盾となっているかはわからない。だが、現状の推測としては、ファルージャの状況からは、人質の意志がどうであれ人間の盾と見ることは最も妥当だとは思う。すると、彼らの意志であれ、強制であれ、人命の危機という点では変わらない。私は、「プロ市民は氏んでください」とはまるで思わない。依然、彼らの人命救助は大きな課題だと思う。そして、それは、どうやら現状の政府側の裏の認識と同じなのではないか。
 事態を政治的に見ると、自分としては、奇妙なことに気が付く。端的に言うとまるで陰謀論めくが陰謀論ではなく、単に政治的に見るということなのだが、日本政府は体よく「自衛隊撤退論」をつぶしてしまったということだ。
 これは、テロ事件の原則を守ったが故というより、テログループから届いたとされる二報で、人質解放が先行したため、人質と天秤にされる自衛隊撤退要求が事実上雲散霧消したこともある。狂言説を取るならこの声明は最大の失敗でもあろうが、狂言説はもういい。いずれにせよ、この二報をこれ幸いと政府側はメディアで大々的にばらまいため、日本国民の大半の脳裡からは当面の自衛隊撤退問題が消え、人命問題だけになってしまった。
 国内左翼にとっては、苦虫を噛むといったところだろう。その後、福田が言うところの情報が錯綜しているということになったので、仮に犯人グループ側から声明が出ていたとしても、事実上、錯綜した情報ですね、で終わることになる。
 関連してアルジャジーラの対応も、不思議なほど、日本政府に好意的だった。もともと、アルジャジーラもテロリズムは好まないということかもしれない(テロは倫理的に恥ずかしいのだろうと思う)。一つ気になったのは、イスラム聖職者からのスポークスマンの発言というのを、たまたま私はTVで見たのだが、彼の訴えかけの大半は、人質を約束通り解放しなさいより、米軍のファルージャ包囲を解きなさいだったことだ。なるほどなと思った。イラク人の本音は、米軍のファルージャ包囲を解くことにあるので、日本人人質や自衛隊撤退という問題が念頭にあるわけもないのだ。
 結果として見れば、スンニ派のイスラム聖職者は、テログループの今回の事態を好ましく見ていないし、日本政府への理解を示している、と見ていいだろう。むしろ、こうした彼らの行動の表れこそ日本人は大切にしなくてはいけないのだと私は思う。
 日本政府がうまくやっていやがるなと思いつつ、今朝のニュースをぼうっとラジオで聞きながら苦笑した。小泉はチェイニー副大統領に、人質事件の解決を協力を要請したのとことだ。
 別に苦笑するほどじゃないというなら、サヨクなんかと縁のないいいセンスをしているということで、自分が嫌になる。サヨクは、この事態にさらに苦虫を噛んでいるはずだ、と私はピンとくる。結果として、構図が自衛隊撤退どころか米軍協力になっているからだ。
 メディアでも私が雑見したブログなどでも、指摘がないようなので不思議に思うのだが、ファルージャ掃討戦において、ほぼ確実な鉄則がある。それは、米軍は絶対に米民間人焼殺犯人をとっ捕まえるということだ。もちろん、それは、米国国内世論向けなので、それに等しい心理インパクトを与えるだけでもいい。報復感を米国民に伝える必要があるというわけだ。こんなの9.11以降の阿呆な米国政策を見て、日本人もすぐに分かれよと思う。と、書くとまたおまえさんだけ偉そうにであるな、すまん。少し冷ややかに考えると、現状では、以前のような目立った掃討戦はできない。しかし、報復のための掃討戦は絶対にやる、とすれば、どうやるのかというだけが課題になる。
 現状の停戦を見ると、これは、豊臣秀吉城攻めかなという感じはする。せめて水を止めるという愚行はしないで欲しい。私の推測では夜間しらみつぶしかなという感じもする。で、この文脈でチェイニーの協力というのが実際上の意味を持つわけだ。つまり、小泉が期待しているのは、ファルージャ掃討戦で、焼殺犯と一緒に人質めっけてくださいね、と。そしてこれが成功すれば、日本国雪崩打って、米軍ありがとうになる。
 おい、そんなストーリーでいいのかよと私は思う。
 今回の話は、陰謀論だの電波だのと言われるかもしれないなと思う。ある程度仕方ないなと思うが、繰り返して言う。まどろこしいが、狂言説はあくまで私の心証というか印象であって、そんなものは主張にすらならない。主張としての意味がないからだ。それよりこのブログから、どの立場の人であれ、全体構図を考えるヒントがあれば受け取ってほしい。
 あ、ついでに、イラクで外国人狙いの人質事件が多発しているが、それがするっと解放されているというのは、つまり、人質ビジネスの市場が拡大しただけだなと私は思う。もちろん、米人人質は別格だろうが。

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2004.04.12

ファルージャの状況について

 日本人人質が依然解放されない。前回解放されると楽観視して書いたのは、現在の時点から考えれば間違いになったと思う。もっと慎重に考えるべきだったと反省する。
 なぜ解放されないのか。私は2つの理由を考えあぐねた。1つは引き渡しの手続き上の問題。もう1つは、解放決定の権限が別グループに委譲されている可能性だ。
 日本政府側は、デマ情報を早々に却下していることや、交渉可能な状態でありながら、難航している様子なので、恐らく、2番目の可能性だろう。また、以前のようにへたれた声明も出てこないところを見ると、相手の要求はそう政治的な意図はないのだろう。金銭であれば日本の手慣れたところだが、そういかないのは、米軍とのからみもあるかもしれない。それ以上の推測は、事態を考える上でただの雑音になるだろうと思うので控える。が、背景から見えてくる構図はある。
 その構図について、この間考えたことを書いておきたい。類似の議論を見かけないので、かなり批判を受けるだろうとは思う。
 日本人人質事件が発生したのはファルージャである。なぜ、3人がファルージャを通過したのか、人質になりたかったのか、と放言したくなるほど、理解を絶するものがある。いずれにせよ、今回の人質事件と先日の米人焼殺はファルージャで起きている。なぜ、ファルージャでこうした事件が起きたのかという考察はメディアでは見かけない。
 もちろん、ファルージャが反米的なスンニ派の拠点であるというのはわかるし、日本のメディアや各種ブログの意見では、すでにイラクは反米一色であるかのようなトーンが見られる。つまり、だから、そこで事件が起きるのは当然である、というお話になるわけだ。そして、この話は反米感につながり、それを支援する自衛隊は撤退せよ、ということなる。私には奇妙なのだが、国連が自衛隊の尽力を期待していた事が一斉に失念されたかに見える。
 なぜファルージャなのか。私は端的に、米軍の統治のミスだろうと思う。力不足だったのだろうと思うのだ。もちろん、そう書けば、それが事実のかなり正確な状況分析であっても、おまえはさらに米軍を強化せよというのかと短絡的な批判は浴びることだろう。だが、私はイデオロギーより状況分析を先行したい。ただし、その分析にあたっては、米ジャーナリズムを使う。
 気になっていた発端は、ワシントンポスト4月6日の"A Necessary Fight"(参照・要登録)という記事だ。


The same could be said for the Marine operation that is developing in Fallujah, where Sunni insurgents are based -- and where the bodies of four American contractors were desecrated after their slaying last week. U.S. forces have largely avoided operations inside Fallujah in recent months, depending instead on Iraqi police and security forces that have proved less than capable. The Marine action represents a return to more aggressive tactics against an enemy that appears not to have weakened as much as U.S. commanders believed.

 この数ヶ月間の間、米海兵隊はファルージャ内の介入を避けていたというのだ。そして、こともあろうか、イラク警察と治安委託会社に委ねていたのだ。"security forces"は先日焼殺された民間人を指しているだろうと思う。いずれにせよ、ワシントンポストが指摘しているように彼らにはその治安維持を行う能力はない。能力とは軍事力と解していいだろう。
 ワシントンポストの意見は、米海兵隊がもっと強固な押さえ込み("aggressive tactics")を行うべきだとしている。理由は、米国が想定したよりも武装勢力(敵とワシントンポストは表現している)が弱体化していないからだ。
 類似の指摘は、Newsweek(April 12)"By Rod Nordland"(参照)(日本版ニューズウィークでは「イラク アメリカ民間人『惨殺』の衝撃 橋につるされた黒焦げの遺体が物語る占領統治の混迷」)にもある。

"The White House doesn't get that we need more troops - significantly more troops," says one knowledgeable Coalition Provisional Authority source. "They don't get that we need more resources for our people." The problem goes far beyond Fallujah, where U.S. forces must find a way to punish the killers without worsening the town's hatred of Americans.

 弱腰とも思える米軍の状態はそれでも国内・国際世論を反映したものだったのだろう。なるべく米軍の存在を潜めようとしていたわけだ。が、存在自体が弱くなっていたわけではない。

U.S. forces have generally tried to avoid such confrontations. Last summer they were running about 2,400 patrols a day nationwide, according to official figures. In the latest reports, the number has fallen to 1,400. Most American troops live huddled in a few sprawling encampments that have grown into small cities. Of 105,000 U.S. military personnel now stationed in Iraq, more than half are housed in just four megabases. There used to be 60 U.S. bases in Baghdad, but the last of those posts is to close by the end of this month, and U.S. troops will have pulled back to eight big suburban enclaves.

 この話は別の読み方もできる。米軍の潜在力は大きい、ということだ。が、実際のイラク治安には向けられていない。
 この状態はイラクの住民も理解しているようだ。米軍のプレザンスより治安を求めていると見ていいのだろう。

As delighted as most Iraqis are to be rid of Saddam Hussein, they still aren't free. Never mind the U.S. military presence. It's no more than an inconvenience next to the insurgents and common criminals who effectively rule much of the country.

 この指摘は気の利いた皮肉というより、それがイラク人としての実態だろう。
 米民間人焼殺の際は、イラク人警官は逃げ出している。この半年で632人のイラク人警察官が殺されている。日本のメディアからすると、イラク民衆対米軍というスキーマばかりだが、実態が報道されていないからではないか。
 米軍のまずさは、さらに続く。こともあろうか、ファルージャへの制圧にイラク人を充てようとして拒絶されていた。ワシントンポスト"Iraqi Battalion Refuses to 'Fight Iraqis' "(参照)ではこの問題が、こんな統治でいいかということで、暴露されている。

BAGHDAD, April 10 -- A battalion of the new Iraqi army refused to go to Fallujah earlier this week to support U.S. Marines battling for control of the city, senior U.S. Army officers here said, disclosing an incident that is casting new doubt on U.S. plans to transfer security matters to Iraqi forces.

 当初この話を読んだとき、私は、米軍というのは、イラク人同士を戦わせようしているな、汚いことをするものだ、と思った。が、実際は、本部側の及び腰を現場で尻ぬぐいさせられているという図柄なのだろう。この件では、それ以上に米軍がイラク人を強いているふうでもない。
 当然ながら、こうした流れで、現在の米軍によるファルージャ包囲が始まり、戦力も増強された。恐らく、やる気になれば掃討可能な状態になっている。そこに現れたのが、ずっこけ三人組なのだろう。話ができすぎている感はある。
 現状まだファルージャでは停戦が続いている。復活祭でもあり、血なまぐさいことは避けたいこともあるだが、日本人人質は恐らくファルージャ市内でいわば人間の盾のようにもなっていて、米軍の目障りきわまりない存在だろう。
 当然やる気になれば、米軍がやるということを、ファルージャ内の武装グループもわかっている。だから、この絶好の盾を利用しない手はないという判断が出てもおかしくない。人質とはいえ、そうした点での主張では、三人組も同意できるだろう(ここで怪電波を飛ばさぬが吉)。
 なんだか最悪のようだが、私は事態はそうひどくもないように思う。米軍が掃討戦に出ることは実際には不可能だろうからだ。今回のテロリストグループのへたれ感を見ても、ある程度の軍事力のプレザンスを持続すれば、スンニ派の部族側も知恵を回してくるだろう。テロリストが打って変わって治安勢力になってもおかしくはないのだ。

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2004.04.11

日本人人質解放雑感

 イラク人質事件について、2004年4月11日7時の時点で、自分が思うことを記しておきたい。つまり、人質解放が決定された後の感想ということだ。
 日本人の人質3名が解放されてよかったという思いと、私には、そうして自分の心が日本に閉じていく気持ちへの不快感がある。プロ市民なんか殺されてもいいといった阿呆な心情に誤解されないように気を使って言うのが難儀なことだと思うが、極東ブログも「保守」のラベルで済まそうとする人が読む時期になったのだからなと苦笑する。
 自分の不快感は、日本人の生命だけを喜ぶ自分の心性についてだ。日本国民として当たり前は当たり前だが、卑しいと思う。テロリストに捕まっている他国の民間人は解放されていない。日本人のありかたが良かったから釈放されたのだというのは、テロリストに同意しているに等しい。
 今回の日本人解放は極めて政治的な結末になった。政治的な影響という点で、テロリスト側は日本人人質を殺すことと、解放することを天秤で計り、損得を出したわけだ。リザルトは政治である。その政治の意味を日本の知識人は受け止めることができるのだろうか。
 後出しじゃんけんのようなことは言うべきではないが、私はこれは解放されるなという印象も持っていた。でも、大丈夫、解放されるよ、と書く気にはなれなかったのは、おい、日本人だけよければいいのかよ、なにが大丈夫だよという感じがしたからだ。
 私のこの感覚は、考えてみると沖縄での生活の影響なのかもしれない。私は沖縄では米兵や元米兵とも交流があった。会って話せば米兵とて同じ人間である。沖縄は米軍によって被害を被っているし、また、つい米国という政治の括りで考えてしまいがちだ。しかし、この沖縄の被害を構造差別としている主体は日本本土の政治である。
 ひとりひとりの人間という点で見るなら、私が沖縄への寄留民であるように米兵も同じだ。米兵も、イチャリバチョーデー(会えば兄弟)でしょとサヨに言ったら嫌がられたこともある。サヨさんは、米兵は短期の寄留であり余所者だと言いたいのだろう。それなら私も余所者であり、イチャリバチョーデーはなくなる。だが、米兵のうち、そう少なくない人間が沖縄とその民衆に強い思いを残し人生を変えていく。沖縄が彼らを変えるのだ。彼らは、沖縄を愛していると言っていいし、人生に深く関わる。沖縄に来ることで米兵にはその人生の別の次元の可能性が開ける。在沖米兵も潜在的なウチナーンチュではないのか。平和がありうるなら、沖縄はその独自な視点に立てるのではないかと思った。
 先日、沖縄からの派兵された米兵に初めて戦死者が確認された(参照)。シェーン・ゴールドマン上等兵(19)、ジェシー・サーティ伍長(23)、マシュー・セリオ上等兵(21)、クリストファー・ラモス一等兵(26)の4名。同時ではないが、ファルージャ戦闘で亡くなった。歳はごらんのとおり。今回の日本人人質と同じくらいの若者だ。なぜこの若者たちが兵士になったかは知らないが、私はある程度予想が付く。同じような経験者を数名知っているからだ。大筋では、そうする以外に道はなかったのだ。徴兵でもあるまいにと日本人は思うだろうが。
 日本人は、「今回の日本人人質は平和目的であり、イラクの復興のためだ。それに対して米兵は戦争目的であり、イラクを破壊しているのだ」と言うのだろうか。そして、その先は、言う言わないにせよ、「だから米兵は殺されてもいい」となるのだろう。今回の日本人人質は危険地域のジャーナリスト・人道支援ということで、殺される覚悟はあったはずだ。私には、その点では、米兵と変わりないように思う。しかし、それでも兵は兵だ。だが、現在人質となっている他国民は兵ではなく、テロリストの被害者というだけだ。そのテロリストを憎み続けるべきなのだ。
 もちろん、「戦争そのものがいけないのだ」と言うこともできる。殺されるのはイラク人だって同じだ。だが、その結論には今は触れない。それは最後の言葉であり、その言葉を最後に言うためにこのブログを書いているのだという思いがあるからだ。
 私のことなど、どうでもいいといえばいいのだが、極東ブログも短絡して読まれるようになった。私が「小泉支持であり、自衛隊派遣賛成派にして保守」だと思っている人もいるようだ。苦笑する。首をすくめる……が、過去の文章を読んでいだければ、違いはわかって貰えるはずだとも思う。フランスは嫌いだがフランスを理解してのことだしな。だから過去の文章も読んでくれ、と言いたいところだが、私のメディアの勘からすれば、無駄だ。繰り返そう。
 私は、前回の衆院選挙で民主党に票を投じた。小泉政権を倒すためにだ。第一の理由は、民主党が日米地位協定の改定を公約に盛り込んだからだ。もう一点は官僚体制をリセットするためだ。全ての改革は官僚体制をリセットしなくては進まない。
 民主党がイラク復興の派遣に反対していることも知っていた。それはそれでいいと考えていた。私はこのブログでも書いてきたが、自衛隊をイラクに派遣することはどうでもいいと考えてきた。明確に、どうでもいい。その理由はすでに書いた。日本の勢力は微々たるものだし、戦闘に関わるわけではない。
 そして、私の意にはそぐわないが、多数の国民が選挙を通して確立させた与党の内閣(行政)がイラク・サマワを非戦闘地域と認定したのだから、そこへの派遣もあり得ると考えた。そして同じ理屈で、内閣がサマワを戦闘地域と認定するなら、自衛隊の撤去はありうると考えている。だが、テロリストの要求では断じてない。
 今回の解放にいたる事態のディテールの部分で、気になったこともメモしておきたい。今回の事件で、小泉や外務省の対応を無策と見る向きが多かったようだ。また、今後もそう見られるようだ。が、私が冷ややかに見る限り、小泉(福田だなつまり)と外務省は、きちんと動いていた。前もってシフトがあったとしか思えない。えぐいディテールもありそうなので、外務省もしっかり秘密は守ってもらいたいものだ。
 今回の事態も、クロノロジカルにはかなり早期の時点で、スンニ派指導者とのコンタクトがあったように思える。昨晩にはすでに解放の打診は取れていたことだろう。全体の動向としては、テロリスト側とそれを統括するスンニ指導者側の政治誘導は、かなりうまくいった。スンニ側の勝利と言ってもいいのだろう。シーア派を盛り立てないと主権委譲がうまくいかないのだから、頭の痛い話だ。が、それが政治というものだ。
 余談ついでに言えば、今はキリスト教徒は復活際の時期である。本来ならこの時期は肉食も忌む。停戦にはキリスト教信者への配慮もあると思うのだが、日本でその指摘はない。宗教音痴という感じはする。

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2004.04.10

スーダン・ダルフール州の民族浄化

 現在の世界で一番深刻な問題を抱えている地域はどこか? それは視点が違えば違った答えができるので、無意味な問いに聞こえるかもしれない。それでも、その指標として日本でもわかりやすいのは、「国境なき医師団日本」のニュースリリース(参照)だと思う。彼らがすべての問題地域に派遣されているとは言えないにせよ、彼らが必要とされている地域が問題を抱えていることは確かだ。
 そうした観点で、ニュースのリストを見ていくと最近ある特徴に気が付く。スーダンのニュースが増えていることだ。今日時点のリストだと27項目中、スーダン内戦が7項目ある。試しにgooのニュースでスーダンを検索したが、関連するめぼしいニュースはなかった。日本にニュースが配信されていないということはないだろう。日本の人道支援団体NGOなら、なんらかの情報を発しているかとGoogleを検索したが、印象ではほとんどニュースはなかった。
 別のソースで気になるのは、4月3日のWashington Post"Crisis in Darfur "(参照・要登録)の記事だ。


ACCORDING TO THE United Nations, one of the world's worst humanitarian crises now afflicts a Muslim people who face a horrific campaign of ethnic cleansing driven by massacre, rape and looting. These horrors are unfolding not, as Arab governments and satellite channels might have it, in Iraq or the Palestinian territories, but in Sudan, a member of the Arab League. Maybe because there are no Westerners or Israelis to be blamed, the crisis in Darfur, in northwestern Sudan, has commanded hardly any international attention. Though it has been going on for 14 months, the U.N. Security Council acted on it for the first time yesterday, and then only by issuing a weak president's statement. More intervention is needed, and urgently.

 この記事によると、国連は、スーダン北西部ダルフール州におけるイスラム教徒の民族浄化(大量虐殺・レイプ・略奪)を、現在世界における最大の人道上の問題の一つとみなしているようだ。
 さらに、ワシントンポストは、この問題が報道されないのは、イラク問題やパレスチナ問題のような利益代表がいないからだと皮肉っている。
 同記事では、死者を数万人と推定しているが、事態としては、ワシントンポストが言うように、早急な介入が必要になっている。被害者は非アラブ系のアフリカ住民である。

 The victims of the ongoing war crimes are non-Arab African people who have lived in the Darfur region for centuries.

 同様に、CBSニュース"Sudan: The Next Rwanda?"(参照)にもニュースがあり、ルワンダ化を懸念している。

The innocent civilians of Darfur, Sudan can only hope the international community makes good on its stated intentions and conducts itself with more humanity and honor than it did ten years ago in Rwanda.

 日本語の情報としては、やはり「国境なき医師団日本」のニュースリリースが読みやすいだろう。3月16日から(参照)。

スーダン側からの越境攻撃は増加し、今ではほぼ毎日発生している。家畜を盗むためだと思われる攻撃もあるが、多くは難民を脅すために行われていることが徐々に明らかになってきている。3月7日には、アドレの周辺だけでも難民1人が殺害され、3人が銃弾を受けて負傷した。こういった攻撃の後には、大量の不発弾が残されるという問題もある。同じ週末、国境なき医師団(MSF)は、ある父子が不発弾によって負傷したことを確認している。

 幸いと言っていいのだろうと思うが、イギリスのインデペンデント"Warring parties sign ceasefire in Sudan"(参照)の記事によれば、とりあえず内戦は停戦の状態になりそうだ。
 関連情報を2点まとめておく。スーダンの歴史については、外務省「スーダン概況」(参照)がよくまとまっているのだが、なぜか2月以来情報が更新されていない。まるで、この民族浄化の問題に関心がないかのようだ。もう1点、いつもはコケにしているのだが、Wikipediaのスーダンの項目(参照)もよくまとまっていた。参考になる。
 最後に、要らぬ話を加えたい。私はスーダンの状況に詳しいわけではない。「国境なき医師団日本」の動向が時折気になって見て知る程度だ。が、そこから見える世界の状況は、かなりの場合、日本のメディアの国際状況とは違っている。不思議だと思う。そして、蛇足の蛇足なのだが、今回イラクで人質にあった人道支援家やジャーナリストはなぜイラクに向かったのだろうかと思う。イラクの復興は重要だ。だが、なぜ人道支援やジャーナリズムということで、イラクが選択されたのかという動機は、私には理解しづらい。

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2004.04.09

日本人人質事件、原則から考えればシンプルな問題である

 あまりテレビニュースを見ることはないのだが、時刻に合わせて手短には見る。が、昨晩からあまりに日本人人質事件一色なので正直なところ辟易とした。新しい情報があればニュースを展開する意味もあるが、そうでもないし、飛行機の墜落とは違い関係者が多いわけでもないのだから、長々報道する意味はないように思う。というか、またなんか日本の集団ヒステリー状態になったのかと思って、それにも辟易とした。そして、明日の新聞各紙の社説はこれ一色かな。しかも内容まで想像つくなと思った。一夜明けて、状況に変わりはない。社説も予想通りだった。ネットの意見を少しだけ雑見した。「あんなのプロ市民じゃないか」という意見が多く目に付いた。そういう反応は当然出てくるだろうと思う。
 この事件についての私の考えは、大筋では明確だ。完全に明確だとは言えない部分については後に回す。明確な部分を先に言うと、こうした問題には、国際的な原則が存在する。つまり、テロリストの要求を受け入れてはいけない、ということだ。つまり、テロリストが何を要求しているかはまったく問題ではない。もちろん、それが金銭(身代金)の場合は、当然ながら、裏交渉というのはありうる。が、それはあくまで裏交渉に過ぎない。キルギス人質事件を思い出せばいいだろう。今回のケースもそういう解決はありうるだろうと思う。
 日本はこの原則をダッカ事件において守らないがために、長い年月国際的に非常な汚名を被った。いやその汚名は未だに晴れていない。汚名ですむならいいやとした福田康夫のお父っあん(福田赳夫)はこれで政治生命が絶たれた。日本史に汚名を残すのも政治家の生き方というものだろうが、息子はつらかったに違いない。息子はこの問題で微動だにぶれないだろう。
 この問題は、原則からして、テロリストの要求である自衛隊の撤退とはリンケージしない。もちろん、自衛隊の撤退は別の論理からはありうるだろうし、世論誘導やなんらかの姑息な手段で撤退するという政治決断もありうるだろうとは思う。例えば、すでにイラクは戦闘地域と内閣が判断し憲法の趣旨に照らして撤退するとか、だ。それは政治の問題だ。いずれ人質事件と関連する問題であるわけがない。
 歴史も原則も忘れてしまうのが朝日新聞だ。その社説「日本人誘拐――救出に全力をあげよ」は、自社関連の人質ということもあるのだろうが、問題のとらえ方を間違っている。


 福田官房長官は「自衛隊は人道復興支援を行っている。撤退する理由がない」と、誘拐犯の要求を拒んだ。かといって要求を突っぱね続ければ、3人の身に危険が及ぶだけでなく、同種の事件を誘発する恐れがある。それがこの事件の深刻なところだ。

 イラク派兵に反対している国ですらこの朝日の主張には苦笑するだろう。話は逆だからだ。ここで突っぱねなければ同種の事件を誘発することになるのだ。
 もっとも、これが日本人の心情であるというのも、確かなところだ、と言っていいだろう。先に「大筋では」と限定したのは、これが日本の現状であり、この現状は原則で断ち切れないものがある。
 つまり、人質はどうするのか?
 それは、当然、万策を尽くして救済を進めるという以外にない。社説もみんなそうきれい事を言うしかない。実際のところ、今回の事件のディテールはまだよくわかっていないのであり、裏の情報から解決の見込みもある。
 読売新聞社説「3邦人人質 卑劣な脅しに屈してはならない」も一見朝日と逆なようだが、テロリストの要求を一顧するスキがある分、似たような見解の表裏でしかない。ただ、人質に対する次の意見は、かなり共感されるのではないか。

 昨年のイラク戦争の直前から、外務省は渡航情報の中で危険度の最も高い「退避勧告」を出していた。三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なものではなかったか。

 私は、ジャーナリストや人道支援というのは、その危険を覚悟して行われることもあると思う。皮肉な意見のようだが、この三人もその覚悟でいたと信じたい。それだけ、ジャーナリストや人道支援というのは意義のあるものであるのだ。
 私がこの事件に思うことは以上だ。
 話が少し逸れるが、今回の事件でのディテール絡みで気になったことがあるので、メモ書きしておきた。
 まず、3人はヨルダンからイラクに向かったのだが、これは、常套のルートらしく、逆に言えば最初から罠が張られていたのではないか。そう思ったのは、勝Pこと、あるいは西原理恵子の言うオカマの勝ちゃんこと勝谷誠彦が先日イラクで同様にとっつかまって身代金で逃げおおせたことだ。拘束はルーチン化されているのではないか。
 ついでに、勝谷はこうした状況を深く知っているはずだと思って、その日記「勝谷誠彦の××な日々。」(参照)を覗くと興味深かった。

実はアルジャジーラのCDの肝心のところは流されていない。首に刀がつきつけられた今井氏がガタガタと震え隣からは遠野氏らしき女性の泣き声が聞こえている映像である。

 日本のテレビはあれだけたらたら映像を流しながら、報道規制があったのか。それが本当なら、ネットに溢れている狂言説の信憑性は低いだろう。
 もう一点は、テクニカルな部分だ。

しかしバグダッドのいかなる情報源にも3人の名前はひっかかってこずつまりは彼らはアンマンを出る時にバグダッドの知り合いにそのことを告げて定刻に到着しなければすぐに危機管理を開始するという最低限のこともしていなかったようなのだ。

 これがルーチン化されていたのだろうか。不確かな情報だが、3人は週刊朝日(Weekly ASAHI)の名刺を持っていたようだ。とすれば、イラクの現状のオフィシャルな尋問の際は、このお墨付き故にジャーナリスト扱いになるはずだ。もし、そうなら、週刊朝日はこうした危険地域における取材のイロハを教示していたのか気になる。

追記(同日)
 ヨルダンからの陸路はすでに常套ではなかったようだ。現状では、ロイヤル・ヨルダン航空がバグダッド-アンマン間の運航を再開し、報道関係者などの多くは空路を利用している。

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2004.04.08

イラク情勢2004.4.8

 イラク情勢についてコメントしたい。というか、厳密に言うと「したい」わけでもない。国内世論をざっと見渡しても、茫洋としているので、こういうとき茫洋のなかに沈まないのがこのブログの意味だったかなと少し思うだけだ。もちろん、日本の大衆的な感性からすれば、日本に関係のない戦争はさっさと終わりにして、みんな仲良く平和を祈願する、というところだろう。が、さすがに大衆的な感性としてもそう言うのは偽善だよなというあたりで、沈黙になる。むしろ、左翼陣営だの平和勢力だのが、反米機運を盛り上げないのはなぜなのか、奇妙な感じもする。
 朝日新聞社説「イラク騒乱――『ベトナム化』を恐れる」はそうした日本の言論風土のなかでモデレートな左翼の代弁をしているのだろう。


 これはもう「占領軍対テロ組織」という構図ではとらえきれない。民衆の抵抗とそれを鎮圧しようとする占領軍との全面衝突と言うべきだろう。

 左翼はイラク開戦から直後も「ベトナム化」をよく口にしていた。ベトナム化になって欲しいという期待でもあったのだろう。ベトナム反戦運動が懐かしくてたまらないのだ。しかし、戦闘も終結直後もおよそベトナム化とは異なる状態になり、このタームは消えていたのだが、ここに来て、また、一発言ってみたくなったのだろう。しかし、今の事態はベトナム化なのだろうか。ベトナム化に特に定義はないが、民衆の非戦闘員的なゲリラ戦によって兵士による近代戦が苦戦することとも言えるだろう。
 呼応するように朝日は「民衆の抵抗とそれを鎮圧しようとする占領軍との全面衝突」としている。つまり、先日の米民間人の虐殺もイラク民衆の抵抗の表れだというのだ。ここで、阿呆か、と突っ込みたいところだが、日本の言論の雰囲気はそうすんなり笑いが取れそうでもないようだ。あの米民間人は事実上の傭兵でもある、が、その殺戮の仕方は非人道的極まるものだった。
 この事件で私にとって不思議だったのは、虐殺側からのメッセージはパレスチナ・ヤシン殺害の報復だったことだ。私の誤解だろうか。私はなぜイラクでパレスチナ問題が出てくるのか単純な疑問に思えたのだ。イラク民衆はパレスチナ・ゲリラを基軸としたようなアラブ大同団結を支持するわけもないと私は考えていたからだ。もし、私が外してなければ、この事件は、国際問題のリンケージを狙っているという意味で、単に外部工作員の仕業と考えるのがもっともシンプルだと思える。また、とすれば、内気なサドルのこの時期の暴発も、同様に外部工作員が噛んでいるのだろうと推測しても妥当に思える。いずれにせよ、朝日の言うような「民衆の抵抗」とは思えない。民衆の抵抗とは、私がここでコザ暴動を想起するのだが、組織的なものではない。
 朝日の状況認識は、だが完全に外しているわけでもない。

 シーア派といっても一枚岩ではない。占領への抵抗を呼びかけたのは、強硬派のサドル師とその武装民兵だ。最高権威とされるシスターニ師に比べ、支持基盤は決して広くない。この蜂起には、サドル師がシーア派内での影響力を強めようと民衆をあおった面もあろう。

 このあたりの認識はごく一般的なところだろう。そして、朝日の主張では、で、どうするか? 「さっさと米軍が撤退せよ」か、というと、そうでもない。さすがにそこまで非常識なことは書けなかったのだろう。

民主党のケネディ上院議員はいまのイラクを「ブッシュのベトナム」と呼び、泥沼化したベトナム戦争の再来だと指摘した。その通りにさせてはならない。

 じゃ、どうしろと? そこで朝日は沈黙する。
 私も沈黙するのが賢いのか。この先を言うと批判も多いだろうなとは思う。が、言う。
 このようにスンニ側とシーア側の双方から、実際の戦闘勢力が炙り出されてくる状況は、冷酷な軍事的な判断からすれば、そう悪いことではないのではないか。つまり、こうした勢力を温存したまま、主権委譲後に内戦化するよりははるかにましではないか。というのは、内戦でもっとも疲弊するのは国民だからだ。
 イラクの国民の大半は、スンニ派やシーア派の暴発を歓迎などしていないだろうと私は思う。このテロ勢力で米軍が撤退する事態すら求めていないだろう。もちろん、米軍を好ましいとも思っていないところは、察するに余りあるのだが。

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2004.04.07

年金改革は民主党案を支持するのだが…

 年金問題を扱うのは気が重くなった。これまでこのブログでも何度か扱ってきたが、それは、問題の解決の原則はシンプルだということと、互助としての国家というイメージを対話的に描いてみたい、ということがあったためだ。率直なところ、現在はそうした関心は自分の中で薄れている。それはなぜなのかということ自体も課題ではあるのだが、とにかく気は重い。
 そんな気分で、産経新聞社説「年金法案『抜本改革』の呪縛を解け」をざっと読みながら、次のくだりに心がひっかかった。


 抜本改革は行わなければならない。しかし、それには時間がかかる。一方で、当面の年金財政の悪化も放置できない。「抜本改革」の呪縛を脱し、当面の措置であることを明確にして法案の審議は進める必要がある。

 この前段にも年金問題は5年に一度見直しで今年は節目だ、とまるでオリンピックの興行のような呑気な振りがあるのに呼応していることを考えに入れれば、産経の意図は、抜本改革はやめとけ、ということなのだろう。つまり、現状の公明党案への擦り寄りがあるわけだ。産経って公明党・創価学会傾倒を始めているのだろうか。さらに、フジ産経系全体にそういう兆候はないか、ちょっと疑心暗鬼になる。
 年金についての新聞各紙の主張がおかしいと思う。のであまり社説という文脈で取り上げたいわけではないが、朝日新聞は議員年金問題なんかでお茶を濁している。読売新聞は自民党化しているので民主党バッシングをしているつもりなのだろう。が、読売はあまりのめちゃくちゃに笑いを誘う。「野党審議拒否 年金不信を助長しかねない」(参照)。

 対案を出すまで審議に応じない、という理屈も通らない。民主党は、昨年十一月の衆院選で、年金改革を政権公約(マニフェスト)の柱の一つに据えた。仮に政権を獲得していれば、今国会で自らの年金改革案を明示し、論議の方向を示さざるを得なかったはずだ。
 与党内には、民主党が審議拒否しているのは、対案をまとめ切れない党内事情を取り繕うためだ、との見方もある。

 民主党のお家の事情はお寒いかぎりだが、読売はタメの言いがかりにすぎない。民主党が政権を取っていれば、官僚による情報隠蔽がこじ開けられたからだから。その意味で、ごーちゃんこと木村剛の「年金改革に関して菅直人民主党党首に期待すること」(参照)のほうが急所を突いている。

 したがって、年金改革法案の関連で、まず第一に実現しなければならないことは、厚生労働省による試算の前提になっている諸データを国民に大々的に開示させることです。そのデータさえ開示されれば、数多いる専門家は保険数理やシミュレーションなどを駆使して分析し、現行の厚生省案をそれぞれに評価するでしょう。そこで各種の評価が互いに研鑽されてこそ、本当のソリューションに辿りつくことができます。
 そうしたデータが開示されない状況下で、民主党が対案を出そうとしても、与党は「正確な数字を示さなければ議論にならん」とか「憶測に基づく新しい制度でうまくいくわけがない」などと高飛車なコメントを繰り返すだけですから、議論は平行線を辿るだけです。

 前段はようするに年金のテクニカルな面をきちんと指摘している。ある意味、年金の問題は専門家には難しくもなんともないのだ。そして、後段の理由で民主党は対案を作り込めないわけだ。
 もっとも、木村剛がそれゆえ「その真っ当な要求に対して、おそらく与党が応えないであろうことを見越した上で、『年金脱退論』を唱えるべきなのです。」というふうに展開するのは、もちろん、ユーモアなのであろうが、いただけない。政策を根幹とする政党政治を否定して、権力をむき出した政治取引の世界に郷愁があるのかもしれないが、そういう日本は止めにしようよ。
 いずれにせよ、マスメディアやブログなどをざっと見渡しても、民主党を支持する声は少ないように感じる。なぜなのだろう。専門家の大半は民主党案しかありえないと思っているのではないか。しかし、政治的な言及は控えているのだろう。小泉の一元化発言は猫だましふうに捕らえるむきもあるが、小泉が身近の識者に説得されているからではないか。ついでなんで、私はここで明言しておくが、年金問題では断固民主党を支持する。抜本的な改革の必要性があると考える。
 話が逸れるが、年金議論の基礎データが開示されていないということで、この間、エコノミスト紺谷典子が主張する230兆円年金積立金説が気になっている。年金積立金は147兆円といわれるが、厚生年金の代行部分30兆円、共済年金の積立金50兆円がが例外となっている。これは国会でも主張されていて誰もが知っていることなのだが、彼女以外にフォローしている気配はないように見える。そんなの問題でもないということなのだろうか。「第159回国会 予算委員会公聴会」(参照)より。

二〇〇一年度の数字で申し上げますと、年金の保険料収入二十七兆円でございます。それから国庫負担分が五・六兆でございましたかね。それから給付が三十九兆だというんですね。しかし、二百三十兆前後の積立金があるわけでございますから、これが従来の年金の運用利回りの半分以下である三%で回ったとしても、六兆円を超える運用益が上がってくるわけでございます。経済が立て直ってその程度の、三%程度の利回りというのは決して過大な期待ではないと思うんですね。そういたしますと、六兆円入ってくると年金は赤字から黒字になっちゃうんですよ。現に四年前までずっと黒字で推移してきたわけでございます。

 識者には当たり前のことかもしれないが、年金問題というのは、デフレが解消してまともな経済発展の状態になれば、まるで問題にもならないことではないのか。
 そうなら、むしろ、そこを前提にして、楽な気持ちで、抜本改正へ踏み出していくという考えの道筋が取れないのだろうか。
 というのも、この政局の推移からは、恐らく、民主党は小沢新進党や自由党のように玉砕してしまうだろう。それでは、あまりに国民に希望が無さ過ぎる。

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2004.04.06

石油・食糧交換プログラム不正疑惑における仏露

 少し古いネタになるが、国内ではあまり注目されていないように思うし、新聞社説でも扱っていないようなので気になる。なぜなのだろうか。国内で報道がまったくないわけではない。読売系「石油・食糧交換プログラムに不正疑惑、国連に調査委」(参照)は4月1日のニュースだが、四月馬鹿ネタでもない。
 前提となる「石油・食糧交換プログラム」は、経済制裁下のイラク国民に食料や医薬品を供給するため、国連が一括管理した石油収入を充てるというもので、当然、フセイン政権崩壊で終了した。


 しかし最近になって、旧フセイン政権の幹部が、同プログラムの運用過程で約100億ドル以上もの不正収入を得ていたとの疑惑が浮上。さらに石油輸出に関連して、国連幹部がフセイン政権側などからワイロを受け取っていたとの、収賄疑惑も指摘された。プログラムを運営していたのは国連だが、実際にはフセイン政権が石油の輸出先を決定していたことから、石油輸入を目指した各国が水面下で同政権に接近。この過程で巨大な利権が生じ、約50か国の政府高官や石油業界関係者に贈収賄疑惑がある。

 「最近になって」という認識は間違いだが、現状では、フセイン政権幹部よりも、国連側が問題になっている。

 疑惑が取りざたされている国連幹部は、同プログラムの統括責任者で、長年にわたりアナン事務総長の側近として知られる。この幹部は疑惑を否定している。また米マスコミの報道では、事務総長の息子が、イラクと取引していたスイス企業から給与を得ていた疑惑も指摘された。

 そこで、国連安全保障理事会は先月31日に、この疑惑調査のための独立委員会を設置することを承認したのだが、この状態の国連が不正疑惑を明らかにできるかは、当然ながら甚だ疑問だ。なお、この幹部はセバン事務局長だ。
 これより前のニュースになるが、産経系「旧フセイン政権の「石油・食糧交換」で不正疑惑 実態解明へ独立委設置」(参照)では、こうある。

 アナン事務総長は十九日、記者団に対し、「間違ったことが行われていた可能性は強いが、まず調査が必要だ。どういう形で調査が行われようとも幅広い協力が求められる」と述べ、包括的に事態を解明していく姿勢を示した。ドラサブリエール安保理議長(フランス国連大使)はこれまで、不正疑惑の調査に向けた安保理の関与には否定的な見解を示していた。

 アナン弁明はどうでもいいが、私が気になるのはフランス国連大使ドラサブリエールのほうだ。記事ではこの点に突っ込んでいないが、もともとこの錬金術のからくりには仏露が噛んでいたはずだ。が、どうも国内にはあまりニュースが流れていないようだ。
 話がさらに前後するがニュースの発端は、2月28日のニューヨーク・タイムズだったようだ。朝日系「旧フセイン政権、国連制裁下で裏金30億ドル 米紙報道」(参照)では、ニューヨーク・タイムズを引いているようだ。

 その後、食糧や医薬品などを供給した企業の7割が、受け取った資金の約1割をリベートとしてヨルダン、レバノン、シリアの銀行口座などに送り、最大23億ドルを旧政権に戻していたとみられる。
 例えばシリアは小麦販売代金の15%近くを戻す計画だった。
 また、イラク産原油の購入企業は不正な割増金として7億6800万ドル余りを支払ったとされ、スーツケースなどに現金を詰め込んで石油省を訪れる例もあった。

 もともと、このイラク戦争はこうした石油の国際市場への懲罰の意味あいもあり、こうした事態は今になって明らかになったものでもない。繰り返すが、当面の問題は国連、およびアナンに向けられている。
 が、私が気になるのは、むしろフランスとロシアだ。この点は、3月22日ワシントン・タイムス社説"The U.N. Oil for Food scandal"(参照)が、選挙絡みの文脈はあるものの、わかりやすい。

Democratic presidential candidate John Kerry complains that President Bush pursued a unilateralist foreign policy that gave short shrift to the concerns of the United Nations and our allies when it came to taking military action against Saddam Hussein. But the mounting evidence of scandal that has been uncovered in the U.N. Oil For Food program suggests that there was never a serious possibility of getting Security Council support for military action because influential people in Russia and France were getting paid off by Saddam. After the fall of Baghdad last spring, France and Russia tried to delay the lifting of sanctions against Iraq and continue the Oil for Food program. That's because France and Russia profited from it: The Times of London calculated that French and Russian companies received $11 billion worth of business from Oil for Food between 1996 and 2003.

 と、かなり明瞭に仏露を名指ししている。特にフランスがイラク制裁にぐずったのはこういうことだろというくだりは痛快だ。"That's because France and Russia profited from it"というわけだ。
 また、以下のリストはなんだか、国際版「噂の真相」みたいだが、洒落ではない。

Other recipients include: former French Interior Minister Charles Pasqua (12 million barrels); Patrick Maugein, CEO of the oil company Soco International and financial backer of French President Jacques Chirac (25 million); former French Ambassador to the United Nations Jean-Bernard Merimee (11 million); Indonesian President Megawati Sukarnoputri (10 million); and Syrian businessman Farras Mustafa Tlass, the son of longtime Syrian Defense Minister Mustafa Tlass (6 million). Leith Shbeilat, chairman of the anti-corruption committee of the Jordanian Parliament, received 15.5 million.

 しかし、ワシントン・タイムス社説が冒頭に言うように、今となってはブッシュも気が重い。現状ではブッシュはアナンを責めづらい。また、ここは仏露の顔も立ててやりたいと思うだろう。阿呆とか言われるが、そのくらいの心配りと煩悶はあるのだ。
 この問題が日本として掘り下げられていないのはなぜだろうか。日本のジャーナリズムは、ブッシュを阿呆と叩けばそれで済むと思っている程度のレベルということなのだろうか。

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2004.04.05

スリランカ状勢

 朝日新聞社説「スリランカ――今こそ日本の出番だ」は奇妙な後味を残した。なぜここにノルウェーは余談のようにしか出てこないのか。 「タミル人武装勢力」が同義ということなのだろうが、「タミール・イーラム解放の虎(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam )」という言葉もない。朝日には左翼・反米のイデオロギー的な肩入れがあるのだろうとは思うが、社説としては不可解に思えた。
 この問題はどう考えたらいいのか。私はこの問題の本質を理解していないこともあり、難しい。朝日から少し長めだが引用する。


 日本政府は近年、これを外交の柱に掲げ、昨年改定した途上国援助(ODA)の大綱にも織り込んだ。戦争や内戦からの復興をめざすイラクやアフガニスタン、スリランカへの支援も、この理念を実践するものとされている。
 そのスリランカで総選挙があった。選挙ではタミル人武装勢力との和平の進め方が最大の争点になり、和平を推進してきたウィクラマシンハ首相が率いる統一国民党が敗れてしまった。
 第1党に躍り出たのは、和平に慎重なクマラトゥンガ大統領の統一人民自由連合だ。日本やノルウェーなど支援国の間では「和平プロセスが停滞するのではないか」と心配する声が出ている。

 文脈からわかるように、朝日社説はスリランカの問題に直視しているわけではない。一般論のダシというか、例としてスリランカを捕らえているにすぎない。が、その一般論は朝日の毎度のきれい事の域を出ていないので説得力もない。朝日には、スリランカの個別事例に適切指針を与えることで一般論を言ってごらんなさいな、と言いたい気もする。
 朝日のお題目としては、とにかく平和至上主義なのだから、とりあえず、統一人民自由連合(PA:People's Alliance)とLTTEが仲良くやってくれということらしい。別の言い方をすれば、米国からテロ集団と名指しされたLTTEを温存せよという意味になるのだろう。しかし、この主張は識者の苦笑を誘うのではないか。というのも、今回PAが返り咲いたのも、この和平に見えるLTTEの停戦中も、LTTEは子供を兵士に狩り出すなど、むしろテロ勢力を強化するための猶予を得てしまったとも考えられるからだ。朝日は「和平の行方が懸念される今こそ、日本の出番だ」というが、昨年の日本が設定した和平会談にLTTEは参加を拒否している。朝日は事態をどう考えているのだろうか。

 スリランカ政府は2年前、タミル人勢力と停戦で合意した。その後の交渉でタミル人側は「分離独立」の要求を取り下げ、連邦制の下での自治を受け入れた。
 ところが、自治の内容をめぐって対立し、交渉は頓挫した。タミル人側は「徴税権や裁判権、沿岸の警備権限も認めるべきだ」と主張し始めている。
 多数派のシンハラ人の間では「それでは事実上の分離独立ではないか」との反発が広がった。それが和平に慎重な政党を押し上げたと見ていいだろう。

 用語が整理されていなくてわかりづらいのだが、タミル人勢力=LTTE、前政府=UNP(United National Party:統一国民党)、多数派のシンハラ人=PA、ということだ。朝日は触れていないが、PAは2001年の総選挙でUNPに政権を譲った経緯がある。
 最近までのUNP政権下では、ノルウェーが和平仲介の主体に出て、日本はそれに従うような構図だった。が、この和平工作を好ましく見てないスリランカ人も多い。対外的な介入自体を忌避する傾向もあるようだ。IMFなども帝国主義的に見えるのだろう。LTTEとの停戦はそのまま和平につながると手放しで言えるものでもなさそうだ。こうした現状で、朝日の結語はそらぞらしく響く。

 幸い、停戦が実現した後、日本政府はNGO(非政府組織)と連携して、病院の修復や避難民の帰還事業などを推進し、高い評価を得ている。
 和平の行方が懸念される今こそ、日本の出番だ。スリランカ政府とタミル人勢力の双方に和平の道を踏み外すことのないよう、いろいろな機会やパイプを通じて働きかけてもらいたい。

 冷静に見ればこのままでは停戦は危ういだろう。なのに、どうして、日本の出番だと言えるのだろうか。むしろ、日本はこの機に、問題の構図を考え直したほうがいいだろうと思う。が、私自身、どう考えていっていったらいいのか、わからない。しいて言えば、多数のスリランカ人は嫌がるだろうが、連邦制の強化と引き替えに、LTTEを軍事的に抑止する国外勢力を注入するのがいいのではないか。

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2004.04.04

些細なことには首をすくめておけばいい

 朝日新聞社説「国旗・国歌――産経社説にお答えする」を読んで、まず率直に思ったのは、産経の社説に応答するなんて朝日も大人げないなということだった。が、先日も朝日は読売の社説と読み比べてほしいとか言っていたので、そういう傾向なんだろう。これって、つまり、ブログだよね、と思う。社説ってブログになっちまえばいいのに思って、こちとらの極東ブログを始めたという経緯もあるのだが、こっちの影響なんざあるわけもないが、世の中のメディアの言説っていうのがブログ化しているのは確かだろう。この傾向は、たぶん、新書を覆うんじゃないだろうか。電子ブックリーダーがマジで使えるようになると、この傾向はさらに一段階進むのだろうが、さて、そこはどうかなという感じがする。電子ブックリーダーを買って烏賊臭いか試してみたい気もする。
 朝日の社説の内容だが、産経同様、面白くもない。本人たちはつまらないこと言っているという自覚が多分ないのが、極めてブログ的だと思う。っていうか、極東ブログでもそうだが、面白くねーとかくだらねーというフィードバックを戴くことがあるのだが、その度、ちょっとふふっと思うのだが、このブログを従来のメディアの視点で読まれるからだろう。ブログなんて編集が無ければ読者の視線をそう反映できるものじゃないし、プロのライティングとの決定的な違いはそこにある。と同時に、プロのライティングにはブログのようなある種の自由はない。
 私が古くさい人間なので、そういう書き方のスタンスをしているのがいけないのだろうが、ブログなんていうのは、つまんなければ、即捨てだし、本質的にサブカルだろう。と、ここでサブカルというタームを出すと話が違うので、もとに戻すと、大手新聞が自分たちの言説のスタンスと時代の変動への感性を失って、じわじわと崩壊というか壊れていく様子は面白いと思う。
 話を当の国旗・国歌への態度に移す。ちょっと自分も言っておきたいなと思うことがあるからだ。ブログ的に言うということだが。で、結論から言う。国旗・国歌なんて熱くならねーことだよ、である。そんなことに入れあげるんじゃねーよである。具体的に国旗・国歌で「ご起立を」と言われたら、その時の状況の利害判断で、適当にすればいい。立ってもいいし、座っていてもいい。ただ、そのことが踏み絵のような状況になるなら、さらに状況の利害判断でことを決めちまいなと思う。ここは絶対に譲れないっていう感じがするなら、そうすればいい。でも、そういう絶対に譲れないなんていうことはほとんどない。立ちたくないなと思ったら、ちょっと小便でもしてこいやと思う。俺はそうするね。ゲロ吐くかもね。昨晩飲み過ぎましてぇとか、適当に繕う。
 国旗・国歌に敬意を持つかといわれると、率直のところ、よくわからない。それほど反感もない。以前はとっても嫌だったし、自分が成人式の時は、拒否して周りの者に忠告もされた。今は、自分の気持ちを大切にしたい。自分の気持ちを大切にしたいっていうことに、とやかく言われたくないっていう感じだ。もちろん、礼儀なんていうのは、形だから礼儀だよというのがわからないほど幼くもない。
 左翼は昔から国旗・国歌には嫌悪を示すのだが、同様になんか追悼黙祷とかは好きだ。私の感覚ではこれも嫌だ。自分が追悼したいという気持ちがないときに、「ではみなさんご一緒に」って言われてもなあである。
 「降りる自由」とかいうのがブログで話題になっているふうでもある。が、私はよくわからない。単純にわからない。こそっと卑怯にその場しのぎできればそれでいいんじゃないか、ってことじゃないのか。些末なことは些末だ。些末なことに思想と言論を無駄遣いするなよとも思うが、ま、どっちかというとこういうのは熱くなれるエンタテイメントなんだろう。じゃ、俺、その手のエンタテイメントは降りるよと思う。

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2004.04.03

男の幸せ

 ちとわけあって、「男の幸せ」というのを問われた。ついでなんでブログのネタにする。なお、この話、これ以上のフォローはなしです。ま、そういうこと。

 酒井順子「負け犬の遠吠え」を巡って、女性の幸せについて話題になっていますが、それでは男としての幸せとは、いったいなにが決め手になるとお考えですか?

 結婚っていうことだと、男の場合、その意味は世代で随分違うと思うんですよ。私は昭和32年生まれですが、上の団塊の世代で大学とか行けた中産階級予備軍はフリーセックスとか不埒なことを言っていたし、下の世代になると大学をレジャーランドにして不埒なことをしていたこともあって、って冗談ですが、私の世代くらいまでは、結婚というのはまだ性欲とかに結びついていました。富島健夫の青春小説とかまだ読まれていた時代です、って、そんな作家知らないですよね。女性は性的な憧れであり、それは20代中頃くらいまでは、けっこう幸せというのに大きな比重を持っていたと思います。もっとも、結婚すれば、サザエさんの旦那みたいに性的に滅菌したようなツラして会社に通って、裏で日活ポルノロマンを見るとか奇譚倶楽部で団鬼六を読む…ま、そんなふうに性とは退屈なものになります。ただ、性が退屈なものになるっていうのは、普通の日本人の男の人生においてごく普通なことじゃないかなとは思います。
 それと引き替えに、30代くらいから、社会的な成功っていうのが大きな意味を持つ……かのようですが、そうでもないでしょう。普通の男の大半は少年時代にすでに「僕は負け組」っていうのをしっかり納得しているものです。「どうせ俺なんかさ」っていう感じですね。でも、今の30代とか見ていると、あまりそういう負け意識がないみたいなので、のびのびと育っているのでしょうかね。あるいは、男の負け意識って静かなものですから、現代だけでも見えづらいのかもしれません。少数だけど世の中には「僕は勝ち組」っていうヤツとか勝ち組と勘違いしたヤツもいるし、そういうのが、えてしてメディアとかにも出てくるので声高に見えますが、どうでもいいことです。勝手に勝ってな、っていう感じですね。
 大半の負け組の男は、密かな幸せを追及するようになります。っていうか、たいてい男の人生なんて、そういう密かな些細な幸せを大切にして生きていくものです。それが、ちょといびつになって勝ち組ダンスを踊るのが、いわゆるオタクじゃないかな。メディアとか出しゃばるオタクってなんか、勝とう!ってしているじゃないですか。本当のオタクは俺だぁ!、みたいな。でも、オタクの大半は負け組だし、オタクっていう自意識なんかどうでもいいものです。なんかさ、適当に楽しいな、コレ、みたいな感じですね。それほど、こだわりというほどでもないけど、ちょっとこだわることがあるくらいなものです。たいていの男はそういうのを、それなりに大切にして幸せの種にしていますよ。
 でも、そういう趣味だけで十分ということはなく、男の幸せっていうので大きな意味を持つのは、情けないことかもしれないけど、とても保守的に、家族的な愛情だろうと思います。「うまく通じなけど、奥さんを大切にしてる」とか、「煙たがられるけど子供を大切にする」っていうごく普通の感じですね。もっと言うと、俺みたいな負け男と運命を共にするこの人たちが一番大切だよ、っていう感じです。これがあれば、他はもっと負けてもいいっかぁっていう感じですよ。トイレで座って小便してもいいかぁ、と。でも、そのあたりが、女性の感覚とはずれるのでしょうけど。
 こういう普通の男の幸せの感性っていうのは、案外、昔も今も変わらないかなと思います。江戸末期の国学者でもあり歌人でもある橘曙覧(たちばなのあけみ:1812-1868)に「独楽吟」という一連の歌がありますが、これなんか、そういう男の幸せというものをよく表現しています。どういういきさつか知れないけど、不埒男の元米大統領クリントンも1994年天皇皇后両陛下の訪米のスピーチで、「独楽吟」から一つ引用しています。


たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時

 ここで朝の一服マイルドセブンをぷふぁとする感じでしょうか。でも、私が一番好きなのは、こっちほうです。

たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

 橘曙覧は赤貧洗うがごとしという生活だったようです。福井の生まれだから、魚のうまいのを知っていてもそうそう子供に食わせることができなかったのでしょう。でも、たまには魚を買って、煮て、子供に食わせると、子供たちが「うめぇ」とか言って骨までしゃぶっていたのでしょうね。このとき、橘曙覧は幸せだったでしょう。男の幸せなんてこんなものです。
 もう一つ、さっきの負けオタクじゃないけど、こういうのもあります。

たのしみはそゞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

 マルクス・アウレリウスとかヒルティとかアランとか、エミ-ル・シオランとか、そぞろ読みつつ、にこりともせず奇妙な至福を感じるっていうのも、男の人生です。
 現代なら、そぞろ読み行くブログの中に、自分と似た思いの人のいることを知る時でもありますね。もちろん、男とは限らないのでしょうけど。

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日米地位協定は改定すべきなのだが

 朝日新聞社説「日米合意――協定改定への一歩に」を読みながら、日米地位協定(安全保障条約第六条に基づく施設および区域ならびに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定)は改定すべきなのだがとつぶやいて、しばし考えこみ、桜並木でも見るかと散歩に出て、戻る。
 当面の問題としては、米兵の犯罪だともいえる。朝日を引く。


 日本で殺人などの重大な罪を犯した米兵の身柄引き渡しを含む捜査手続きについて、日米両政府が地位協定の運用を改めることでようやく合意した。
 日本側は、容疑者の米兵の取り調べに米軍警察などが派遣する捜査官を同席させることを認めた。一方、米側は、起訴前の容疑者の日本側への引き渡しについて「いかなる犯罪も排除しない」という表現を受け入れた。これまでの殺人と強姦(ごうかん)に加え、強盗や放火などの容疑者の身柄の引き渡しが実現することになる。

 その解釈でいいのか、とも疑問に思うのだが、いずれにせよ、今回の合意は95年の少女レイプ事件の一つの結末でもあった。
 朝日新聞は沖縄の地元紙沖縄タイムスと長年記者交換などをしているせいか、社内に沖縄通の人脈の層が厚い。それだけ沖縄の視点を外さないとも言える。今回でも、沖縄タイムスや琉球新報の社説などを読み、そこから、沖縄の世論がこの合意に満足していないことも把握できている。
 本土はもう忘れてしまったのだろうが、沖縄が行った住民投票(referendum)では、地位協定改定が高く掲げられていた。それが、今、無惨にも踏みにじられたのである。そのことを朝日は書かない。そして、そればかりではないとして、こう言う。

基地から流れ出した燃料や化学物質による汚染。低空飛行による騒音。巨大な基地をかかえていることによる被害や損失をいつまで我慢すればいいのか。

 それも確かに問題だが、まず、問題を絞ってくれ。問題の所在を曖昧にしないで欲しい。まず、地位協定を改定するという世論を本土に盛り上げて欲しい。
 もちろん、朝日も沖縄の現状がわからないわけではない。

 沖縄県は政府に対して、11項目にわたる地位協定の見直しを要請している。米軍の日本駐留に関する基本取り決めである協定そのものを改めない限り、米兵犯罪をめぐる日米の不平等も基地被害も解決しえないという判断からだ。全国の30近い都道府県議会も、協定の抜本的な見直しを求める決議を採択している。
 それに対して、基地問題の改善は協定の改定ではなく運用の改善で、というのが小泉政権の立場だ。確かに、米政府が協定の見直し交渉に応じることは現時点では考えにくい。
 しかし、だからといって日本政府は改定問題からいつまで逃げていられるだろうか。米軍の再編の余波で普天間移設も大揺れである。ブッシュ米政権は、自衛隊のイラク派遣を日米同盟の証しとして称賛する。だが、沖縄の協力がなければこの同盟が十分機能しないことを、日米両政府は忘れていないか。

 引用が煩瑣だが、もう一点引く。微妙な問題が隠されている。

 だが、これで沖縄のかかえる問題が解決に向けて本当に前進したわけではない。事実、沖縄の人々は、この合意に納得していない。

 問題は、正論に見えながら、沖縄を日本から切り離している点だ。「沖縄の協力」と言い、「沖縄の人々」と言う。が、それは違う。それは、「日本の協力」であり「日本の人々」なのだ。
 朝日新聞よ、沖縄を日本から切り離さないで欲しい。沖縄の問題だからとして、この問題に蓋をするなら、小泉政権と何が違うのか。
 そして、もう一つ踏み込んで言えば、沖縄を反米のダシにしないで欲しい。ブッシュ政権など特定の政権など関係ないのだ。まず、日本と米国という国家間の地位協定の改定に言論の全力を傾けて欲しいのだ。
 もちろん、冒頭書いたように、私も逡巡した問題ではある。だが、繰り返すが、「確かに、米政府が協定の見直し交渉に応じることは現時点では考えにくい」という話で終わりにしないで欲しい。
 なぜ、米国が応じないのか、むしろそこに踏み込んでもらいたい。
 残念なことに、米国が応じないのには、それなりの理由がある。日本の制度に欠陥があると彼らは見ているのだ。
 日本では、警察の取り調べに際して、弁護士など第三者の同席を認めていない。これこのとは、米国と限らず、欧米では非人道的なあり方として非難の対象になっている。筋弛緩剤事件でもそうだったが、取り調べは密室で行われ、そこで自白が産出されるのだ。日本のこの非人道的なあり方に、国際人権規約委員会は、被疑者取調べについて、「電気的な方法」により記録されることを強く勧告している。いずれにせよ、米国側としては、非人道的な日本の警察に米国市民を渡すことは不可能だ。そして、その点で米国の言い分は正しい。
 そこで、今回の合意では、実際上、米兵取り調べに際して、第三者の立ち会いを認めることになった。おかしいではないか。日本人の人権は米国様のご意向より低いのか。
 日本がするべきことは、刑事手続き全般の改正であり、それをもとにした日米地位協定の改定であるはずだ。
 その希求は理想論だろうか。

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2004.04.02

[書評]博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話(サイモン・ウィンチェスター)

 「博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話(The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary)」(サイモン・ウィンチェスター:Simon Winchester)を今頃読んだ。手にしたとたん、魔力のように吸い込まれて、あっという間に読み終えた。読書トリップっていうやつだ。この感じは久しぶりだった。この手の読書の後は、なんだか通常の意識と変わってしまう。

cover
博士と狂人
 話は、世界最高の辞書OED(the Oxford English Dictionary:オックスフォード英語大辞典)編纂を巡り、その中心人物であるジェームズ・マレー博士と、その編纂の最大の貢献者となったウィリアム・マイナー元アメリカ陸軍軍医(博士号も持つようだ)の物語だ。この物語がある種奇譚の趣を持つのは、マイナーが現代の言葉で言えばおそらく統合失調症の患者であり、その後半生の大半を監禁して過ごしたことだ。統合失調症の患者がなぜそこまで知的な作業に貢献できたのか、あるいは、そのような貢献なくしては、OEDが現在の形で完成しなかったかもしれない歴史の不思議さというものが、この物語の背景にある。
 私はこの話をなんとなく知っていたものの、この本はうかつにも知らなかった。うかつにもという感じがする。まさに私こそこの本を読むべき読者なのだからと内心思うからだ。若い頃、OEDに取り憑かれていたこともあるし、この本の英文評で気が付いた言葉だが、私もlexicophiliaである。
 lexicophilia? そんな言葉はない? あるいは本書の言葉なのか。今となっては手元にOEDがないので、この言葉がOEDに掲載されているかわからないが、意味は端的にわかる。辞書愛好家だ(あるいは言葉愛好家)。ailurophiliaからすぐ連想できる。世の中には、lexicophiliaとしか呼べない一群の知性がある。そして、それはある意味、時代の知性かもしれない。ミシェル・フーコーだったが、古典主義時代の知、エピステーメーを分類学(タクシノミア)と数学(マテシス)として捕らえていた。この物語はそういう時代でもある。
 lexicophiliaはこの言葉の語感にあるように、辞書愛好家というだけには留まらず、ある種偏執的な愛情がある。その面で、狂気に通じるものがある。本書の「博士と狂人」という標題を見たとき、その狂人には、lexicophiliaのある精神的な側面を描いているのかと期待した。が、あまりそういう側面の話はない。狂気はあくまで狂気であって、マイナーのlexicophilia的な側面はどちらかといえば知識人の属性として描かれている。
 私にとって面白かったのは、やはり歴史のディテールである。マレーの貧しい生い立ちから立身する過程も面白いが、さらに面白いのは、マイナーの境遇だった。スリランカに生まれ、南北戦争を経験する。この過程のディテールがたまらなく面白い。本書ではスリランカのエキゾチシズムと南北戦争のPTSDの経験が彼の狂気を導いたのだろうと、ごく常識的に指摘し、さらに家系的な素因の示唆も含めている。確かに、その扱いは妥当なものではあるのだろう。が、マイナーの後年の事件を思うに、ここには、フロイトのシュレイバー症例に似たなにかを連想する。そのあたりにある種の時代精神も関係しているのだろう。
 本書のエポックは1896年の晩秋である。マイナーが収容されている施設をマレーが訪ねていくシーンだ。そのシーン自体には小説に描けるような資料はないのだろう。が、よく推察されている。その後のマレーとマイナーの精神の交流はさらに美しい物語になっている。なにより、博士マレーにとって、狂人マイナーとはどんな人物だったのだろうか、その人間理解にとても関心が引き寄せられる。滑稽とも言えるのだろうが、二人の老人はまるでユダヤ教のラビのごときであったようだ。それもなんとなくわかる。私も老いたらそうなるような気がする。
 二人を巡る交流にはもっと深いなにかがあると思い、ふっと、R.D.レインのことを私は思い出した。彼のおそらく予期しない晩年の思想でもあるのだが、統合失調症の患者にごく普通に接触するという話があった。この普通という感覚をレインはなんとか伝えようとしていた。
 書評に相応しい言い方ではないが、私は47年生きてみて、私の精神にはなにかしらある種の狂気のようなものが潜んでいると思う。が、それが本当に狂気であるかどうかはわからない。私はおそらく社会的にはなんら奇矯なところはないようだ。実生活やビジネスでの私を知る人はごく普通のオヤジだと思うようだ。しかし、内心のこの狂気のようななにかは、レインが最晩年にほのめかしたように、そこに暗示された超越的な何かなのだろう。こうした話に関心あるかたには、「レインわが半生―精神医学への道(岩波現代文庫学術)」も勧めたい。ただし、翻訳は中村保男のわりにこなれていない。
 神秘と呼ぶには粗忽すぎる何かがある。著者サイモン・ウィンチェスターは、マイナーの症例を見ながら、辞書編纂の知的作業が精神を維持するのに貢献していただろうと推測する。そして、現代なら、普通の生活ができたのだろうとも推測しつつ、しかし、そうであるなら、我々人類がこのOEDを受け取れないという歴史の皮肉に、ある種不思議の感に打たれている。
 本書はどちらかというと、OEDの外側のエピソードに触れた書籍であり、少し知的な高校生なら読んでおくべきかとも思う。が、シェークスピアはいいとして、スペンサー(Edmund Spenser)って誰?みたいに、まだ歴史の感覚ができていないと、本書の醍醐味は十分には味わえないかもしれない。ある程度英文学を学んだ人間には別の面白みがあるはずだ。
 本書には未翻訳の続編ともいうべき"The Meaning of Everything: The Story of the Oxford English Dictionary"があるようだ。英語で読むのはしんどいし、訳が出そうなので待とうかなと私は思う。
 最後に、やまざるさん、ありがとう。極東ブログをやっていて幸せと感じるのはこういことがあるからなのだ。

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実感薄き景気回復

 昨日エープリールフールということもないのだが、日本銀行が発表した企業短期経済観測調査では、大企業製造業の業況判断指数は、製造業・非製造業の両者ともに、昨年末より改善した。景気は回復している。もちろん、「景気」というのは産業部門のことなので、家計の視点で見て、景気がいいということに直接つながるわけでもない。生活者の実感としては、どうだろうか? そのあたりは、なんとも漠としているのではないかとも思う。
 産業部門の景気向上は、端的な話、中国への輸出効果と見ていいだろう。昔の人の言葉だと特需、神風(じんぷう)だろうか、運のいいことだ。しかし、同じ運の分け前を受けていい韓国の景気動向は暗い。韓国ももちろん中国への輸出は増え、その恩恵も受けているのだが、国内経済には反映していない。この問題はこれ以上ここで突っ込まないが、それでも、日本の景気回復には日本ならではの努力があったと見ていいには違いないのだろう。
 と、くぐもった言い方をすれば、それは結局、「構造改革じゃなかったじゃん」ということだ。むしろ、為替の安定というか、ぎりぎりまで財務・日銀が円高を抑え、間接的なリフレ政策を講じてきたことの成果だ。が、なかなかそこが見えづらい。というわけで、構造改革の偽ラッパはまだ鳴っている。毎日新聞社説「3月短観 新段階の経済政策が必要だ」ではこうだ。


 景気配慮を第一にした政策や論議の時代は終わったということだ。そこで、本当の経済構造改革をやらなければならない。
(中略)
 企業は経済全体を健康体に持っていくため、これまで先送りされてきた経営体質の強化などの手立てを打たなければならない。株価が回復し、業績も増益となれば、現状でいいとなりかねないが、過ちを繰り返してはならない。

 この手のラッパは、最近ブログの宣撫班からも聞こえるので、変な感じだ。ま、うんこが飛んで来ないようにこの話も突っ込まない、と。
 いずれにせよ、構造改革という空しい看板の裏で構造は依然改革されず、しかも、その冗長な構造のおかげで、他の国なら、すでに深刻な問題なりつつある石油高騰の話も、なんとかその冗長さのなかで日本は吸収しそうな気配だ。そ、それでいいのかぁ。ま、構造の話はやめよう。問題は、金融政策であり、為替だった。
 陰謀論的に見られるかもしれないけど、これまでの極東ブログの視点が大筋で当たっているようなのでその路線を延長すると、この景気回復の四月馬鹿みたいな話の裏で、円は急騰した。が、日本はこれに介入していないようだ。米側の「よーし、ここまで」という制御が効いているわけだ。もっとも、そこまで露骨でもないのだが、政治の視点から見れば、そう受け取る以外ないだろう。経済論理だけで見るには不自然過ぎる。本来なら、グリーンスパンの曖昧な発言も控えさせるくらいにすれば上出来だったのだが、スノーの発言まで出させた。これが限界だったかと。
 で、米側の停止信号の意味はといえば、これは、もう大統領選っていうことでしょ。なんか、陰謀論ですねと突っ込まれるだろうけど、ここで、ぐっとドルを下げるしか、ブッシュは弾除けできないんじゃないか。ま、この話を続けると本気で陰謀論になってしまうから、これもこのくらい。ただ、私の感じとしては、ケリーよりブッシュのほうが国際経済的にはマシ臭いので、これでもいいっかぁ、である。
 国内経済的には、どうでもいいけど参院選に向けて、一般家計への景気回復感がもう一声欲しい。幸い内税化もうまくいったし、じわっとインフレ誘導もしやすい。一次産品の値上げもうまくこの雰囲気に忍ばせて、さらに製造業側にエールを送るか、おっと、また製造業かよ。
 景気がよくなったとはいえ、産業別、地域別には分化も進んでいる。ま、それが「構造」っていうかだが、これは私には大きな問題だと思う。日経社説「企業景況感に春、問題は持続性と広がり」は簡単に指摘している。

 また、企業規模や業種、地域によって回復の度合いに差が大きいのも気になる。中小企業非製造業の業況判断指数はマイナス20と景気が悪い企業のほうがずっと多い。大企業でも窯業・土石(同10)、建設(同20)、飲食店・宿泊(同25)などは景気回復までになお遠い。
 長期的に需要回復が見込めないような業種には再編や事業転換などを促すような政策をとる必要がある。それを含め景気が持ち直した今こそ持続的回復に向け、企業、政府とも構造面の改革に力を注ぐ時だろう。

 日経なんで呑気なことが言えるのだが、産業の再編はいいとして、この指摘の背後には、ようするに地方を再編せーよ、ということが含まれている。地方は待ったなし状態だが、参院選がらみあり、しばらく、まだ問題は大きく露出しないかもしれない。
 地域をどうするか。わからないのだが、先日、NHKの討論会とかぼけっと見ていて、東京の一人勝ちっていうのは、国内で見ると一人勝ちだけど、国際間の大都市の競争として見ろよという指摘が気になった。国際間の大都市の競争というのはたしかにありそうだ。そしてその競争は流民をモデルにした、一種の比較優位のような状況にもあるのだろう。日本国内で見るとなんで東京が一人勝ちということになるが、東京が勝たないと国際間では負けになる。
 で、負けって何? 俺に訊くなよってオチにしておく。よくわかんないから。

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2004.04.01

文春出版禁止、高裁で反転

 週刊文春差し止めという地裁の判断を昨日高裁が覆した。私の印象はそれほど意外でもない。世論に配慮したか、高裁だと世情や歴史に対する経験判断が強くなるのかなと多少ゲスの勘ぐりはした程度だ。ただ、この反転をメディアがどう受け止めるのかと考えると、ちょっと暗澹たる気持ちにはなって、そして、苦笑した。
 出版側が先導する世論としては、これで「出版の自由」が守られたというお祭りになるのだろう。そ、それでいいのかぁ?と思う。ま、それでもいっかぁという投げやりな気持ちも私はある。が、この問題に過去2回扱った手前、現状の思いを書いておくべきなかとも思う。ちなみに、「週刊文春差し止めの是非は今後の問題だ」(参照)と「私は週刊文春の反論は間違っていると思う」(参照)だ。
 まず、今回の高裁の決定だが、「私は週刊文春の反論は間違っていると思う」として展開した私の考えとぶつかる点は、この記事内容が差し止めに値すると評価するかということだ。それだけなのではないかと思う。この含みは、依然、差し止めが可能であることは保持されているのであり、また、困ったことにその差し止めの原則性の確立には向いてないことだ。
 くどいが、今回の決定で、田中真紀子の娘が私人でなくなったわけでもなく、またその記事に公益があるというわけでもないことはむしろ再確認された。また、この記事のために他の記事が差し止めらるということは問題にすらならなかった。なにより、大筋で「出版の自由」という大看板の問題ではない。ほんとにくどいが、事前差し止めはイカンという話では全然ない。私としても事前差し止めがいいとは思わない。問題は差し止めの原則性だけにある。
 朝日新聞社説「出版禁止――取り消しは当然だ」は間違った世論誘導をやっているなと思う。北方ジャーナル事件で最高裁が差し止めは検閲に当たらないとしていることをほっかむっている。


 たとえ裁判所であっても、出版される前に記事の内容を審査することが一般化すれば、それは事実上の検閲になる。民主主義の社会を支えるために欠かせない自由な情報の流れが止まってしまう。

 今回の高裁の判断については、産経新聞社説「『文春』逆転決定 『出版の自由』保護は妥当」がわかりやすいのでひく。

 その上で、記事は長女側のプライバシー権を侵害するが、プライバシーの内容、程度にかんがみると事前差し止めを認めなければならないほど「重大な著しく回復困難な損害を被らせるおそれがあるとまではいえないと考えるのが相当」との結論を導いている。

 もう一点、読売新聞社説「文春・高裁判断『プライバシーの侵害』は動かない」をひく。なにも右寄り意見だけを引用したいわけではなく、わかりやすいからだ。

 だが、長女に対するプライバシー侵害については東京高裁も認め、「守られるべき私事を、ことさら暴露したもの」とした。記事自体についても「公共の利害に関するものではなく、公益を図るものではないことは明らか」と断言した。
 判断が分かれたのは、出版の差し止めを認めなければならないほどの「重大な著しく回復困難な損害を被る恐れ」があるかどうか、をめぐってだ。
 出版禁止を認めた東京地裁は、「回復困難だ」と明確に認めた。だが、東京高裁は、禁止するまでの「程度」ではないと判断した。

 手続き上気になるのだが、私が法律に詳しくないせいもあるのだが、田中真紀子の長女が最高裁に特別抗告すると、今回の高裁の決定は保留、つまり、依然、出版禁止の状態となるのではないか。そのあたりがあまり明確に解説されていないように思う。余談めくが、田中真紀子の長女がどうでるのかなというのは、私もゲスな関心はある。
 余談だが、今回の件で、文春ヤキが回っているなと思ってそうしたABCの資料をみていたのだが、週刊誌の売上げが、週刊新潮を除いて99年あたりをピークに急落している(ネットの影響はあるのだろう)。週刊新潮がマイペースだが、現ポスはイエローペーパー化した結果という感じだ。文春は、93年に76万部くらいなのが03年には56万部くらいに落ちて現ポスからも水を開けられている。ここは一発昔の歌(田中ファミリー叩き)で祭りをしたくなったのかもしれない。確かに、興行としては大当たりだが、この影響はむしろ社会に逆効果を生んだと思う。若い世代の大半は今回の事件で、文春オヤジってバカ?とか思っているのが実態だろうから。

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