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2004.03.30

対幻想と正義

 自動回転ドア事件の関連でちょっと暴言を吐いた。無意識に対幻想を基軸とした自分の考えが露出した。暴言だからなというのはある。通じると思っていたわけでもないが、それがほぼ無内容に響く世代があることは知らず、自分が不覚に思えた。俺はヤキが回っているぜと本気で思った。そして、対幻想についてぼんやりと考えた。そして考えるほどに、対幻想のありかたがまるで変わっているのだとしか思えないことに、気が付く。
 対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉本隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。
 駄本だなと思った橋爪太三郎「永遠の吉本隆明」を昨日ぱらっとめくりながら、いろいろ思った。駄本は駄本なのだが、こういうことを言う状況の必要性というものはあるのだろう。ただ、この本は、イントロダクションとしてはあまりいい本ではない。そして、率直に言えば、吉本本人の「共同幻想論」はお世辞にもいい本ではない。編集者的な視点や欧米的な視点で見るなら、電波としかいいようがない。これを丹念に読み解くことは簡単なことではないし、もしかすると、それは未だになされたことはないのかもしれない、とぐぐると、「書評1 吉本隆明『共同幻想論』」(参照)が出てきた。読みという点では、きれいに読んでいる。へぇと関心した。だが、これで読解されているかというと、そうでもないようにも思うというのは正直な印象だ。


今回、私はじっくりとこの本を読み込んでみたが、論理の展開にやや錯綜している印象を抱いたものの、何度も考え直してみたくなるような深いテーマに知的興奮を感じないわけにはいかなかった。

 非難をしているのではないが、共同幻想論は「知的興奮」として読まれたものではなかった。全共闘世代の大半が読んで大半は理解しえなかったのだが、それでも、ある核心的なメッセージだけは伝わっていた。やさぐれた言い方をすれば、「おまえは正義の前に、その女の身体を抱け」ということだ。女性なら「男根くわえてみな」っていうことだ(もちろん、そうしたマスキュリニズムが対幻想ではない)。
 共同性が正義なり倫理として人を支配しようとするとき、吉本は、それを原理的に無化して見せた。もちろん、そういう総括や理解は違うよ、という批判もあるだろう。というのは、吉本は「国家」の否定原理として対幻想を挙げたのであって「正義」や「理想」ではないのだと。しかし、私は、正義・倫理・理想とは、吉本のいう国家幻想に含めてよいのだと考えている。
 そして、吉本が国家の幻想領域を無化したとき、ある意味、市民社会の正義の可能性というものの芽も断たれた。社会学的に見ればニヒリズムにも転化したと評価してもいいだろう。吉本自身は80年代半ばまで実は「革命」の可能性を模索していたのだが、それも原理的に解消された。そこから先は、超資本主義という新しい国家の相貌をどう解体するかという積極的な理念が出現したのだが、ここで吉本主義者の大半は脱落した。
 アポリアも多かった。おそらくその新しい闘争の次元の地平となるのは、吉本原理でいうなら、対幻想であったはずだがそこがまさにアポリアだった。対幻想=家族が、どう超資本主義に向き合うのか、また、超資本主義が個人の欲望を疎外したように見える点についても、対幻想は確固たる橋頭堡たりえるか、そこは十分に問われていなかったように思う。いや、家族の解体として、問われていたのかもしれないが、思想を課題に生きる人間にとって十分なエール(声援)にはなりえなかった。
 くどいようだが、恋愛と家族の問題にくたくたになるまで擦り切れて生きる。それだけが真の人間存在であり、人生っていうものなのだが、そこからどう超資本主義に向き合うのか。そのアポリアの脇に、くだらねぇニューアカのあだ花が咲きまくり知性を誘惑した。それはある意味、必然だっただろう。知性を抱えた自己幻想が、対幻想のなかから十分に意味を汲み出すことができなければ、知性そのものが危険な外化を遂げてもおかしくはないのだ。そして、それが今やある種の大衆化を遂げているのが、たぶん、ブログの風景の一端なのだろう。
 こう書きながら、おめえさんはどうなのかと言えば、知性に与しないと言いながら、そして対幻想だけが原理だと抜かしながら、なぜ、極東ブログなんてものを書くのか? 答えられやしない。自己満足なんて揶揄は承知の上。矛盾はそんなところにあるわけでもない。
 話を少し戻す。正義がそのように原理的に無化されたとき、人は本当に生きることが可能か。ちょっと問いの出し方が正しくないのだが、私がこの20年間考え続け、ある意味、吉本から離れているのは、自己幻想・対幻想と共同幻想=国家幻想のその中間に、「市民存在」というものをある種確信するしかないのではないかと思えることだ。
 端的な命題からいえば、今や自己幻想・対幻想に敵対するものは国家としての共同幻想ではなく、ある種の疑似国家のような正義の幻想ではないか。そこから、どう自己幻想・対幻想を内包した市民存在を救い出すのか。
 わかりづらいので例を挙げるが、社会の正義幻想が田中真紀子の娘を追撃するとき、彼女を救い出すには権力が必要になる。その意味での、あたかもルソーの一般意志のような国家幻想が必要になるのではないか。
 複雑な状況にあると思う。吉本隆明ももう老いてしまって、思想というもの根幹を支えるエールとしては存在しえない。そして、多分に対幻想というもが崩壊してしまった。対幻想というのは難しいといえば難しいが、ごく単純に言えば、「私はこの女とこの女の子供の視野の中で死のう」ということだ。正義のためにも国家のためにも死ぬことなんかできやしない、ということだ。だが、そうした対幻想はすでにある本質的なところで崩壊した。もしかすると、歴史の運動のなかでそれが再現されることもないのかもしれない。
 すると、個人とそれを抑圧する社会と、個人を社会から保護する国家という三極になるのだろうか。私にはわからないし、私の考えの道筋が間違っているのかもしれない。
 それでも、個人を抑圧する社会は正義の相貌をしていることは、このブログを書きながら確かだと思えてきた。私は正義に誅せられる状況にあれば、ぎりぎりまで対幻想の立場から防戦して、アッパレ戦死を遂げてみせようかという欲望にも駆られる。ある種のニヒリズムでもある。また、そう言いながら、どこかで対幻想から別の防戦の正義(それは本質的に倒錯したものだ)をひねり出すかもしれない。いや、そうしているのだろうとも思う。
 こうしたスキームのなかで、自分が対幻想と、一般意志としての国家への依拠という矛盾したスタンスが出てくるように思う。そして自分が矛盾しているのは、まさにその二極をどう扱っていいのかまるでわからないことだ。(一般意志としての国家は今や超国家にもなりつつある。)
 くどいが、それでも私は現在の状況のなかで、言説的には正義たりえないし、私がひねり出した正義は一般意志としての国家として奇っ怪な相貌を見せることになるのだろう。
 結語はない。ふと吉本の顔が思い浮かぶ。麻原事件の件で、社会正義で血祭りに挙げられたことを、「俺の勝利だよ」と呟いたのではないのか。いや、気にも留めなかったのだろうな。

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コメント

少しだけコメントです。

ぼく個人としては未だに「家族」だとか、もしくは血のつながりとか...個人間の誓いのようなものを全面的に信じる気には
なれないのですが..
最近になって少しだけ、いろいろな繋がりのようなものを信じてもいいような気がしてきています

ぼやけた話になりますが、前に友人たちとごはん食べてるときにその中の一人が、「家族みたいだ」、っていったことがあって..
なんだかそういうものなのかもしれないって思いました

「世帯としての家族」ではなくて、そういう「家族」としての契約はしていないけれども、「家族」的な連帯をしているものにもなんらかの可能性があるのではないか、とちょっと思っています。
たとえば、歳をとってからお金を出し合ってみんなで暮らすとか・・そういう感じの


そういうものに対して、国家的正義ってやつの風当たりはどんどん厳しくなってくるのかもしれませんが・・
風が強くなるほど、みんなで固まって耐えるってこともあるのかなぁ、って...ぼんやりと考えています

投稿: m_um_u | 2004.03.30 12:36

m_um_uさん、ども。
>歳をとってからお金を出し合ってみんなで暮らすとか
ええ、そういうヴィジョンというか感性っていうかとてもいいと思うのですよ。つまり、旧来の家族(対幻想)というのは戻ることがないでしょう。
 そして、その対極に見える「正義」が不思議な相貌をしているなと思うのです。簡単に言えないので、変な表現になってしまうのですが。

投稿: finalvent | 2004.03.30 12:50

話がずれまくりですが、私という存在は、自分という意志の側で死ぬのか、それとも生物として自然死(病死、事故死)するのか、そんなことをつらつら考えます。

子供の身代わりで死ぬなんてのは分かりやすい(ほんとか?)一方、それが理想や正義に殉ずるとなるとどうなのか?

ほとんどの日本人が自然死の範疇で死ぬ以上、悩むまでもないことなのかもしれませんが。いや、真の問題は、日本の医療の現状、自然死が不自然死になっているというあたりで思考停止ですね。

投稿: a wathcer | 2004.03.30 14:03

a wathcerさん、ども。この問題は大きな問題だと思います。共同幻想論の文脈でも、禁忌・恐怖としてある程度論じられています。それはたぶん、死の所属として言い換えできるのではないかとも思うのです。ちょっと短絡した言い方ですが、医療が死を担うように国家幻想ができているのでしょうね。いや、これはかなり大きな問題なので、また考えてみます。

投稿: finalvent | 2004.03.30 16:44

難しいことをおっしゃりますね。
「社会の正義幻想の錯覚と今回の文春報道事件」で日本の司法が世論に反して「自らの正義」を貫いた例として、ぱっと思いつくのが「大津事件」しかないのが良いことなのか悪いことなのかは知りませんが。

何度だって言いますが、大津事件と今回の事件に共通しているのはその結論に至る論理展開を司法の側は明瞭に示していることです。それに対して日本の世論(とそれを引っ張る日本の論壇)はどうしてもその論理を突き崩さずに情緒的な反応しか出来ません。

さらに言えば、オウム事件における吉本氏の言動も論理的ではありません。あれは単なる麻原に対する情緒的なシンパシーを表明したに過ぎず、その論拠は単なる屁理屈に過ぎません。あの時、高名な吉本氏をロジックで完膚なきまでに倒して言動に対する責任を取らせなかったのが今になって論壇の「言ったもの勝ち」の世になった一因ではなかったかとも思いますが。

投稿: F.Nakajima | 2004.03.30 22:42

Nakajimaさん、ども。後段のほうに関心が移るのですが、吉本の麻原評価については、私がこういうと矛盾するようですが、Nakajimaさんの視点は概ね正しいというか、吉本を叩きつぶせばよかったように思うのです。ここで自分の課題です。私は吉本主義とシャレでいう吉本シンパですが、吉本を叩きつぶすことに躊躇いはありません。自分にそれができるか。そこで2つのことが立ち上がります。1つは、率直言いますが、吉本が怖い。この怖さの感覚は私はそれなりに大切します。2点目は吉本を論破できない。なぜだろうと思います。それは私が吉本の圏内で思考しているからさ、とも言えるかもしれません。しかし、違和感を言語化し、その先にある像は、直感的には吉本を否定するものです。
 実は、今回のこの記事を書きながら、自分なりに、共同幻想論を越える可能性がほのかに見えました。そしてそれは自分にとっては大きな課題です。
 あと失笑されると思うのですが、吉本が死んだとき、動顛したくないのですよ。ほんと、失笑を誘いますが。(これは、彼が多くに思想者にエールを送っていた裏返しです。辛いとき、「吉本さん」と思って耐えていたわけですね。)


投稿: finalvent | 2004.03.31 08:19

素朴な疑問なのですが、これ程の書評をされるエネルギーはどこからくるのでしょうか?

投稿: 匿名 | 2008.04.01 04:24

私はこのエントリーがとても好きで、何度も読んでしまいます。

投稿: ggg123 | 2011.01.14 20:48

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