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2004.03.28

子供はまず親が守る

 「回転ドア事故雑感」(参照)について、わずかなコメントとトラックバックを見た範囲だが、不思議な違和感を感じた。私の考えを整理しておこう。
 まず、今回の六本木ヒルズで起きた事件の責任は、六本木ヒルズと警察にある。疑いのないことだ(警察にも責任はある)。(この判断は妥当ではなかった。「回転ドア事故雑感」3.30追記参照)
 では、親の責任はないのか。今回の事故という範囲でいうなら、まったくない。親御さんに手落ちがあったとは思えない。責められる理由はまったくない。
 この以上の点については、先の記事から変心したわけでもない。
 私が、ここに記事を書こうと思ったのは、しかし、一般論として、子供を守るという責任は第一義に親にある、という点について、明確にしておきたいからだ。
 そう考えたのは、典型例であると思うのだが、トラックバックでいただいた「反資本主義活動等非常取締委員会」の主張に、錯誤を感じるからだ。


 しかし、子供とはそもそも馬鹿だから子供なのだ。大人なら行わないようなとんでもないことをしでかすし、ほんの数秒前まで親が手を繋いでいた子供が、突然駆け出すなんてことはよくある。子供は親に叱られたり、自ら痛い目に遭うことでやってはいけないことや、やったら危険なことを自ら学習するのであり、学習する前に死ぬこともある

 喧嘩を売る気はないが、で?、という感じがする。
 この文章には、「だから、親が、第一義的に子供の安全を守らなくてはならない」と導くことができるはずだ。
 しかし、「反資本主義活動等非常取締委員会」では

まさか、極東ブログでこういった気味の悪い文章を見ることになろうとは思いもしなかった

 というのだから、私の意見とは反対なのだろう?
 推測するに、子供は馬鹿なのだから、その馬鹿さかげんをシステム的なり制度的なりに保護せよ、ということなのだろう。そうか?
 もしそうなら、それはあまりに非現実的な考えではないか。
 例を挙げよう。「ゆりかもめ」をご存じないかたもあるかもしれないが、この鉄道(モノレールか)の駅には、安全のためにプラットフォームを囲い、電車に乗り入れるときのために専用の自動ドアが付いている。これなら、フォームに人が落ちる危険性はなく、優れたシステムだ。
 では、このようなシステムを、全ての駅に応用すべきなのだろうか?
 考えてもみて欲しい。大半の駅のフォームは非常に危険な場所だ。私が引率した馬鹿な子供は危うくフォームから落ちそうになった。
 この危険性から守るのは誰か?
 技術か? より安全なフォームの構造か?
 現状の危険な駅のフォームでも、規則を守れば安全だ。
 では、その規則を子供に告げ、あるいは、身体を張ってその子供を守るのは誰か?
 親ではないか。あるいは、親の代わりの大人ではないのか。
 よりよき未来を想定するなら、全ての駅は「ゆりかもめ」のようであるべきだろう。だが、そうではない駅を欠陥と呼ぶような議論は、あまりに常識を逸しているのではないか。
 エレベーターエスカレーターでもそうだ。あれは非常に子供に危険だ。子供の手を引くのは大人の勤めである。それを、子供は馬鹿だから手を離す可能性があるのを見越したシステムにせよ、と言うのだろうか。
 言うか。本気か?
 話を少し変える。自動回転ドアについてだ。六本木ヒルズの自動回転ドアは欠陥品であることは明かになった。だが、すべての自動回転ドアに、同様の本質的な危険性があるとは私は考えていない。私は、自動回転ドアについて、好悪の考えを持たない。一般的な技術論で言うなら、技術的には可能な限り安全性が確保できるだろうと考える。別の言い方をすれば、自動回転ドアの一般論の問題ではなく、あの六本木ヒルズの欠陥回転ドアが問題なのだ。
 さて、最近、暴論をなんとなく手控えている極東ブログなので、少し暴論に走ろうと思う。
 親子の関係とは、対幻想の延長にある。そして、対幻想は、国家幻想と対峙した独立領域であり、そこには本質的には、国家の法は及ばない。俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。子供を守るのは親だ。あるいは、子供は守られる必要があるから、親が要るのだ。

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「生活」カテゴリの記事

コメント

でも、たぶん、ええ、おそらくですけど

そうではない駅を欠陥と呼ぶよう

になるんですよ。
私はそう思います。

投稿: 愛読者@失業中 | 2004.03.28 22:10

う~ん。これはfinalventさんのほうに一理ありますね。
>そうではない駅を欠陥と呼ぶようになるんですよ。
いや、それには世間一般の常識が変わらなければなりません。というよりこの場合は実は交通法規の規定が優先されてしまうんですよ。つまり、鉄道関係の安全法規が改正されない限りは今ある駅は「欠陥」ではないのです。
(さすがにこんな所まで法の手が届くとは思っていませんでしたが。)


投稿: F.Nakajima | 2004.03.28 22:35

F.Nakajima様
私の言いたかったことは、

おそらくそう遠くない将来、世間一般の常識が、社会の動きが、そうなるだろう(私個人の妄想)

ということです。
私は勝手にそう考え、ため息をつく次第です。
分かりにくい文章で申し訳ありませんでした。

投稿: 愛読者@失業中 | 2004.03.28 22:57

>親子の関係とは、対幻想の延長にある。そして、対幻想は、国家幻想と対峙した独立領域であり、そこには本質的には、国家の法は及ばない。俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。子供を守るのは親だ。あるいは、子供は守られる必要があるから、親が要るのだ。

さーて、いくつか申し上げたきことがあるのですが、
1、いくら国家とは幻想だ!(by吉本隆明だったかな?)とはいえ国法には国法の存在理由があり、それをもって世の秩序は保たれています。その現実を超越しようとするのは思考実験としては面白いのですが、実際にはどこかに無理が生じるものです。(だから私は吉本が嫌いなんですが)
2、さーて、私も暴論を吐いてみるか。
いくら親が子供を守るとがんばってみても、子供のほうは以外とそれほど思ってないものです。いつか子供は大人になりたがり、責任もとれないのに口だけは一人前にきくようになります。私は以外と放任主義なのかもしれませんが、ルールを守ること、そしてルールを破れば制裁があること、それにルールを破らなくても被害を受ける場合があるがそのようなことが起こった場合でも何らかの対処をしなければならないことを理解させた上で、行動させるべきだと思っています。

投稿: F.Nakajima | 2004.03.28 23:11

はじめまして。

>エレベーター

エスカレーター

ですかね、どうでもいいのだけれども。


で、「責任」について。
センスという言葉の意味を考えると、ひとつ大切なことに気付く。
それは、人の死についての責任は誰も取れない、ということ。
というか、根源的な意味で「責任を取る」ことは人間には出来ない。
時間は戻せないからね。


そう、自分が死んだらそれでおしまい。誰にも責任は取れない。
だから、自らの安全は自力で確保する「責任」がある。
この「責任」は、誰かに非を責められるという類のものではない。
では、(自らの安全を確保出来ない)子どもに対する責任はどうなる?
そう、保護者がその責を負うしかないのである。

今回の件では、ビル所有者には利用者の安全を確保する責任がある。あるよ。
そしてそれとは異なる次元で、いや、むしろより基本的な意味で、
親には子どもの安全を守る責任があった。
無論、今回の事故で、この親を責める者は居ないだろう。
しかし、本人は一生自責の念に駆られるのだ。
ビル所有者が賠償責任を課せられたとしても、その親の責は消えない。
何故なら、子どもは生き返らないからだ。
親が、親であるという事実によって抱えてしまう危険性、
それをセンスと呼んでいるのではないだろうか。
そしてそうしたセンスが無い人が多い気がするのは、
私だけでは無いと思うのだが、どうか。

〔追記〕
ただし、個人的には、常識的な一般論と今回のような
「事実は単純だがその感情的な影響が大なる事件」と
を絡めて書くのは非常に難しいことだと思いましたですよ。

投稿: irota | 2004.03.28 23:16

いや、エレベーターでいいのかな。
扉がガシャンと閉まる事についての分脈だし。
でも、エレベータの扉は大抵、人が挟まることを前提に
して作られているからあまり危険では無い気もするけれども。

・・・どうでもいい、ですね、やっぱり。失礼しました。

投稿: irota | 2004.03.28 23:23

結局、ドアというものはそもそも子供にとっては危険なものだという認識があるかどうかですね。

投稿: hiro | 2004.03.28 23:43

暴論の方の議論について。

国家が、親子の対幻想から導かれる結論である報復を果たさないなら、国法など無視するぞ、
という事ですよね。

国家幻想というのは、むしろ親子の関係の延長上にあるような気がします。
pater -> patriotってそのままですが。

国家は報復をするべきだ、というのが、この場合の国家幻想から導かれる結論。

それに対するのが、国家=我々の社会を国法で管理しているだけの組織、という考えでしょう。
直接手を下したい感情と、現実に与えられる損害賠償金の落差を無理矢理納得させるのが、国家の強制力。


国家が、対幻想から導かれる結論である報復を果たさないなら、国法など無視するぞ、
という事ですよね。

国民国家は国家幻想を実現させる為に造られ、それは国法とその強制力という形をもっている。
しかし、幻想は、納得のいく形で実現されるとは限らない。


ちょっとずれますが、
王権神授の場合は、神の名においての裁きだから無理矢理納得するしかないのだが、
国民国家の場合は、国民=自分の名における裁きなのだから、納得できないよ、
というのがある気もします。

投稿: (anonymous) | 2004.03.29 00:54

目を離してた親は一生十字架を背負っていくんでしょ。いや、今この瞬間に自殺さえ考えてるでしょ。(そうじゃなきゃ鬼畜) それ以上でも以下でもないよ。国という概念やヒト科が無い知恵絞って考えたルールは国民の命と財産を守り切れてれていないし、「社会」は自分(或いはウチの子)を守ってなんかくれないという想像が働かない人は生命力が無いに等しいって事なんだろうなぁ。情け無いけど。

投稿: laohu | 2004.03.29 01:33

こんにちわ。

 利用者はバカなので、どんなことをやっても問題のおきないシステムを作るべきかと思います。さらに言えば、利用者には皆悪意があるので、悪意があっても不正利用できないようにするべきです。

 問題がおきたり、不正利用できたりするような穴があるならば、それは全て潜在的な欠陥ですよ。技術者さんはこの辺りを欠陥と認めたがらない傾向があるように感じるのですが、はっきり言ってバグです。もっとも、マーフィの法則に「バカでも使えるツールを作っても、バカは想像もしなかったような使い方を思いつく」とあるので、現実には程ほどのところで妥協することになりますけれど。よって、利用者はその‘妥協された部分に潜む地雷’を踏まないようにしなければなりません。

 また、利用者は常に最新の情報を集め、現実の理解を深めて、自ら問題を解決できるようになることが理想です。しかし、現実の問題は多岐にわたり、全てを網羅することは不可能です。そこで一般的な注意事項について学ぶようにするのですが、当然それでは現実の全てをカバーすることはできません。よって、開発者はカバーできない所に利用者が迷い込まないようにしなければなりません。

 ここまで、微妙にウィルスやセキュリティ関連の問題を意識しながら書いています。

 さて、わたしは昔から回転ドアは怖いと感じます。普通のドアも怖いです、指を挟んだことは数知れず。ふすまも怖い。全てが怖い。だから知ろうとするのです、全てを。けれどもそんなことは無理です。自分で自分を守ることすらできません。ましてや他者を守ることはできません。

 親が子に教えるべきことは「自分は守られるべき存在だ」ということでしょう。大人になると子どもは何も考えていないと考えがちですが、子どもだって考えていますよ。自分で自分を守らなければならないと思えば、ホームの端なんて怖くて歩けません。ドアの前では足が震えます。そんな子どもが思うのは「高い所の手すりが低いと落ちそうで怖い」だったりします。

投稿: naruse | 2004.03.29 02:47

んーと熱弁を振るう皆様には申し訳ないのですが、今回の事件はごく単純に「少し特殊な回転ドアで、普通の設定よりも回転速度をあげ、センサーの死角も拡張されていた可能性が高く、子供が挟まれたままでも1トンもあるドアが回り続けようとしていた」という部分で、メーカーとビル側が責任のなすりつけあいをしているというのが一番の問題点だと思います。

普通なら、二重の自動ドアにしてしまえば終わりです。回転ドアで通行処理量に問題の出たビルでは、そのように交換しています。議論を楽しむために本質とズレているような気がしますがどうでしょう?(^_^;

危険か安全かって問題なら、エンピツだって危険なものになるし、一般道だって危険なものになっちゃいます。

投稿: バカぽん | 2004.03.29 06:21

なんだか、いろいろな違和感を感じてしまいます。自分のブログで書きたいような気もしますが、なんとか短くまとめてみたいと思います。

この事件の責任についてはメーカー、警察、ヒルズ側関係者にあるということはゆるぎない事実でしょう。

そして、それと同様に考えたいのは100%完全なシステムなど存在しない、あるいは、控えめに言ってもかなり少ないということです。無論、システム設計者は完全なものを目指すでしょうが、人間が手がけている以上100%完全なシステムの実現というのはなかなか難しいということです。

人が生きていく中で、多かれ少なかれそういうものと接していかなければいけない、というのはごくごく当然のことだと思います。

だから子供のことを思う親ならば、自分の身の守り方、ルール、センスと言葉はなんだっていいんですが、そういう感覚を伝えなければいけない、と思います。
こんなことわざわざ書く必要もないとは思いますが、それが「親」というものであろうと思います。

finalventさんの
 >俺と俺の子供の関係は、国家を越える。
というのも、暴論でもなんでもなく、ひとつの真実であろうと思います。国家なんてものは結局、人間が作ったシステムに過ぎないし、それが多くの人間の生活を保証していようとも、そのシステムの存続のためだけに、自らの行動を抑制する理由なんてひとつもないと思います。

投稿: らした | 2004.03.29 07:57

>俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。

かっこいいっすね。でも、そんな一個人の美学によってこの後期近代の社会システムを乗り越えることなんて出来ないんじゃないですかね。

要するにこれって前近代の「あだ討ち」ですね。「あだ討ち」が行なわれた主な理由ってのは、「被害者の感情的回復を図る」ってことだったわけですね。今でもこのロジックは有効です。

が、あだ討ちするには個人のリスクと負担が大きすぎるため、近代に入ってからはそのリスクと負担を統治権力が肩代わりするようになったわけです。

で、もちろん加害者には刑が科せられるわけですが、近代以降の研究では、たとえ加害者が死刑になっても「感情的回復が得られない」という被害者の方々が出てきた。そこで近年行なわれているのが、「加害者と被害者のコミュニケーションを通じて感情的回復を図る」ということなわけ。

こんなの社会問題を語る上ではイロハですよね。ちょっと「社会契約論」「国家論」「法学」「法社会学」あたりをお勉強してれば、今時「俺と俺の子供の関係は、国家を越える」みたいなユルいことなんざ言えないはずですがね。「あだ討ち」が成功したって、あだ討ちした奴に未来はねえんだから。これくらいの知恵もない方が書かれているものは、どんな「ご立派」なことを書かれていても、信憑性がないですねえ。この古臭い「暴論」とやらによって、今までのお話のはしごが外れちゃいましたね。

投稿: ITAE | 2004.03.31 15:37

ITAEさん、はじめまして。私が無学であり、信憑性がないとおっしゃりたいわけですよね。了解しました。

投稿: finalvent | 2004.03.31 16:01

(極東さんには申し訳ないがでしゃばらせてもらいます)

・・・・なんつーかなぁ...

なんで、ひとりがコケると全員でたたくんですかねぇ?
ほかの板なんかでもよく見るけど..依存しすぎなんじゃないんですか?

信憑性がないなら信憑性がないで見なければいいだけの話でしょ?

たかが一回や二回、情緒性出したからって、それまでの知識や論理をすべて否定するってのは....なんか・・ガキじゃねぇんだから...

もうちょっと「みんなでギロンを作ってく」って感じにはできないんもんなんですかねぇ?

投稿: m_um_u | 2004.03.31 16:20

m_um_uさん、ども。

っていうわりに関係ない話なんだけど、近代法っていうのは、「殺すな」っていうのはないんですよ。「殺したら…」というふうにできているのです。という点で、実は対幻想的な人間の領域(殺されたら殺す)に配慮してできているのです。っていうか、そういうことわかんない人になにを言っても無駄かなと。

投稿: finalvent | 2004.03.31 16:48

>近代法っていうのは、「殺すな」っていうのはないんですよ。「殺したら…」というふうにできているのです。という点で、実は対幻想的な人間の領域(殺されたら殺す)に配慮してできているのです。

あの~、刑法第199条は、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する」となっておりまして、決して「殺されたら殺す」なんて書いてないんですけど・・・。

あと、なんでいきなり仮言命法の話が出てきたんすかねえ?

投稿: UEDA-SANT | 2004.03.31 17:11

UEDA-SANTさん、こんにちは。えっと、
>決して「殺されたら殺す」なんて書いてないんですけど
ええ、書いてないと了解しています。

投稿: finalvent | 2004.03.31 17:16

はあ。ではなんでそれが「そういうことわかんない人になにを言っても無駄かなと」というご批判につながるんでしょうか?

投稿: UEDA-SANT | 2004.03.31 17:19

UEDA-SANTさん、ども。「批判」はしてないですよ。なんか、通じそうにないなと思っただけです。

ITAEさんのコメントは、私が、国家幻想領域の話と対幻想領域の話を区分して書いているのを無視した上で成り立っているので、どうしても通じないのだろうなと諦観を持ったわけです。

もちろん、そういう区分が間違いだという、ちゃぶ台返しの議論はあるかとは思いますが。

投稿: finalvent | 2004.03.31 17:28

こんにちは、いつも楽しみにしております。

気になったんですが、国家は超えられても社会は超えられないような気がするんですが、このへんっていうのはどういう風に理解したらいいのでしょうか。

前提の部分を理解しきれてないので的外れかもしれませんが。
本来なら先に吉本なり何なり読んでから伺うべきなんでしょうけど、
ズルしてみようかなと。
バカなコメントつけてごめんなさい。バカすぎてかわいそうと思われたならご慈悲で削除してください。

投稿: 22 | 2004.03.31 20:33

22さん、こんにちは。にーにーと読むと沖縄っぽいですね。

>国家は超えられても社会は超えられないような気がする
ええ、その疑問は正当なんじゃないかと思います。いろいろな手続きを省くと(って誤解のもとですが)、社会は越えられないっていう感じがします。ふと頭に浮かぶのはれいの酒鬼薔薇くんとかです。国家は保護しようとしますが、社会は排除しつづけようとする、そんなイメージです。

あるいは、自分の息子が犯罪者であると、「あんな子供は死んでくれ」と言いいのける感性ですね。

こうした問題に吉本がどう考えていたのか。吉本の幻想論の三領域からどう説明されるのか。先の例だと、社会というのは対幻想的なものに見えます。別の言い方をすると、対象者を「おまえ」、私を「おまえのおまえ」とするあり方ですね。これが国家幻想なら、人は「彼/彼女」としてあるでしょう。

卑近な例でいうと、日本社会に特有な「いじめ」っていうのは、そういう対幻想的な社会のようなもので発生するように思えます。

そこ(社会と国家)はとても難しいとしか現状の自分では言えないです。

ただ、この思考の先には、国家幻想というのもを肯定的に再定義する必要というのが出てくるように予想しています。そして、それは恐らく、吉本原理で吉本思想を越えることになるのかなとは思います。

皮肉な感じですが、吉本自身は、国家と思想で戦いつつ、実際には、そういう社会にいつも戦っていたように見えますね。

投稿: finalvent | 2004.03.31 20:59

◎ITAEさん
>で、もちろん加害者には刑が科せられるわけですが、近代以降の研>究では、たとえ加害者が死刑になっても「感情的回復が得られな
>い」という被害者の方々が出てきた。そこで近年行なわれているの>が、「加害者と被害者のコミュニケーションを通じて感情的回復を>図る」ということなわけ。

>こんなの社会問題を語る上ではイロハですよね。

僕は野蛮人なのでこの言動をつい最近まで知らなかったんですが、
それを知ったのはミヤディのサイトを読んだから何ですね。

で、宮台自身「こういうのは基本的な(日本国民が全員周知している
)事だと思っていたけどそうじゃなかった、びっくり」って書いて
いるんですよ。まだまだ知られていないのが現状なんだと。

でITAEさん、極東ブログさんをキツイ言葉でなじるより、オタク様
がこのことを皆さんに判ってもらうようにするためにブログなりwebサイトなりを立ち上げて広く訴えかけてみてはいかがでしょうか?その手の「ドブ板掃除」を一生懸命なさる姿はおそらくSEXY
でしょうし、本当に宮台の言っている事が最適解なのかどうかの
検証もできて二重にGOODなような気がするんですよね。

投稿: miyadai_tv | 2004.04.01 05:59

あとITAEさん
「加害者と被害者のコミュニケーションを通じて感情的回復を図る」
組織って今の日本にあるんですか?公的にもNGO/NPO的なものに
しても…。そういう組織があるのなら教えてください。というか
お休みの日にでもその手の組織の活動に積極的に参加なさってみ
てくださいな。

というかここのサイトいつも拝見させてもらっており、その度に
何かを学ばせてもらっている者です、はじめまして。

吉本さんとか幻想云々に関しては全く思考停止してしまうイケナイ
ワタシですがまたなにかの機会に立ち寄るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。>極東ブログ様

投稿: miyadai_tv | 2004.04.01 06:16

miyadai_tvさん、こんにちは。

有益なコメントありがとう。ここで言うのもナンだけど、私も、「加害者と被害者のコミュニケーションを通じて感情的回復を図る」というのは知ってます。NHKがときたま扱います。

参考:http://www.inter-highschool.ne.jp/~0004055/american/juvenile/20.html

他の国ではどうなのか(EUとかアジア)、また、そういう面を見せるアメリカの実態ってなんだろうという疑問を持ちました。ちょっと粗野な言い方をすると(これが誤解のもと)、この社会動向は面白いけど、社会の実際面での有効性としては別のマイナスファクターがあるのだろうと思います。と、なると、その有効性なりという視点で批判は多分可能です。

で、ちょっと宮台にうんこ投げに聞こえるかもしれないけど、宮台の頭の良さはそういう最新の動向をその実効性(社会学的なリザルト)の2面をうまく縫い合わせることができる。くどいけど、1彼は情報をより多く持っている、2それを社会学的に手玉に取ることもできる。で、それは、私には遊技っぽく見えます。批判というほどのことはありません。小室直樹門下らしい知性を出してほしいかなと期待。

余談ですが、SPAでの文春問題を議論する宮台の発言は、なんかさえなかった。本心では今回の決定を妥当と見ているのではないかとも思うのですが。

余談の余談ですが、この決定は高裁で反転したわけですが、またしても、今回も裁判所の論理に注視したいと思います、と、話がずれまくりましたね。

投稿: finalvent | 2004.04.01 08:45

あの~、またまた割り込んでしまって申し訳ないとは思うんですが・・・。

>miyadai_tvさん

「回復的司法」のことをどこで知ったかなんていうのはどうでもいいことでですね、健全な議論をするためには、どこがソースでもいいからとにかく「知ること」が大事なんだと思うんですが。

で、もちろん詳しい人がブログを立ち上げて宣伝するのも手ですが、でも関連性のある話題がすでにあがっている他人様のブログにカキコするのも方法としてはアリなんじゃないでしょうか・・・。だって、そのためにコメントが書き込める仕組みになっているわけですし・・・。

あとですね、「回復的司法」を支持する人がいるとしてですね、その人がそれを宣伝してるからといって、その人に対して即「お休みの日にでもその手の組織の活動に積極的に参加なさってみてくださいな」ってお話になるのはすごく短絡してると思うんですが。それって「じゃあお前がヤレバ~」ってことですよね。そんなことばっか言ってたらギロンにならないんじゃないかと・・・。

> finalvent さん

私の勝手な希望ですが、吉本を読み解かれるくらいの知性がおありなのですから、「うんこ投げ」のレベルではなく、ぜひその知性を生かして「回復的司法」やら「宮台真司」へのロジカルな批判を聞かせてほしいなと思います。

勝手なことばかり言いましてすみませんでした。今後もいろんな記事を楽しみにしております。

投稿: UEDA-SANT | 2004.04.01 10:00

UEDA-SANTさん、こんにちは。単純な誤解があるのかもしれませんが、私はこの問題について宮台への批判はありません(小室派?でもあるし)。まして、「回復的司法」にも批判を持っているわけではないのです。「回復的司法」については、その現実のコンテクストで実効性の観点から検証しなくてはと思うのです。日本の風土では、善として語られる理念が現実への抑圧として機能しがちです。また、このブログでは十分に展開してきませんでしたが、私は死刑廃止論に与します。そのことと、対幻想的な心情というのは別のことです。すこし踏み込みますが、国家幻想がその成員の殺傷件を持って良いのか? 日本では陪審員制がその面で十分に理解されていないように思うのですが、陪審員というのは、死刑のある米国の場合、その共同体の構成員がその死の責務を負うという表明でもあるのです(これは聖書に由来するはずです)。日本の場合は、それがあまりに市民社会から乖離したかたちで国家幻想側に回されています。

投稿: finalvent | 2004.04.01 11:39

危険に対するコンセンサスの違い?

駅のホームから子供が転落して死んだ場合、駅の欠陥を非難する世論はないでしょう。しかし、ゆりかもめで同様の事故が起こったら、非難はおこるでしょうね。

駅のホームは危険というコンセンサスはあるが、回転ドアにはそういうコンセンサスはなかった。
危険と思っていなかったものが危険だった、という簡単な図式で最初は世論がわきかえる。(しかも六本木ヒルズ)

わたしが子供のころに、子供がエスカレータの手すりに乗って天井と挟まれて死亡した事故などがずいぶん大騒ぎになり、当然のことながら施設管理者の責任が問われたりしたことを思い出します。

今やエスカレータには注意をうながすアナウンスと、天井からぶら下げられた防護物が必須となりました。その安全対策によってシステム上の安全性が向上したとはとても思えませんが、ともかく、これにより危険に対するコンセンサスは生まれました。

その後そういう事故が起こったのかどうなのかは知りませんが、例え同様の事故が再び起こったとして、その時は施設管理者が責任を問われる論調というのは当然のことながらゆるいものになるでしょう。もちろん、アナウンスと天井の防護物が不備なければですが。それらが実質的に子供が挟まれた時にはやっぱり危険だとしても。
(実は、手すりに負荷がかかるとエスカレーターは停止するようにもなっていますが、それは無視しても)

危険というコンセンサスが生まれたあとは、もはや、その施設の安全性云々は問題ではないのです。(お手本:自動車社会)

こういうコンセンサスの形成段階における「祭り」そのものが社会システムだと思う今日このごろ。

投稿: kido | 2004.04.03 13:26

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