福井俊彦総裁、満一歳
今朝の朝日新聞社説「福井日銀――難題を抱えて2年目に」は、こんなテーマを朝日が書くのか、ふーんという感じだった。きっかけは、標題通り、福井俊彦総裁が今日で就任1年目になることだ。
朝日の社説は何を言いたいのかはっきりとはしていない。むしろ、経済解説コラムといった雰囲気でもある。極東ブログで一時期執拗に扱った円介入はリフレじゃないかということについても、ようやく、今頃、こう言っている。
財政政策も金融政策も手詰まりのなかで、政府と日銀の「暗黙の合意」のもとに、政府の為替介入と日銀の量的緩和の拡大をセットにした経済政策が進められているようにも見える。
財務省は円高を防ぐために、昨年1年で20兆円、今年もすでに10兆円を超すドル買い円売り介入を行った。量的緩和の拡大は、これと軌を一にしている。介入の結果、市場に出回る円の一部を日銀が回収しないことが金融緩和につながり、それが景気回復に役立っているとの見方がある。
いまさら言うなよ、極東ブログより先に言えよとも思うが、社説のレベルでこういう認識が定着したということなのだろう。朝日はどうせよというのかというと、そこがはっきりしない。
消費者物価は下落幅が縮まり、企業物価指数は下げ止まるなど変化の兆しはあるが、まだデフレ脱却に道筋がついたとはいえない。景気が回復しているといっても、日銀は当面、量的緩和を続けていくしかないだろう。
こんにゃくのさしみを味噌ダレを付けずに食っているような感じだが、こう続く。
問題は、いよいよデフレ脱却となれば、長期金利が一気に上昇する可能性があることだ。経済の実態以上に急騰すれば、景気回復の足かせになりかねない。
金融緩和のなかで、金融機関は膨大な国債を抱え込んでいる。株価が同時に上昇するのならいいが、金利上昇が先行して国債相場が急落すれば、金融機関によっては経営の重荷になる心配もある。
長期金利上昇の話は、ゴーちゃんが暴走する前の「デフレの終わりは始まったか? 」(参照)に関連記事がある。私は木村剛と意見が異なることはすでに極東ブログ「木村剛『デフレの終わりは始まったか?』に」(参照)で触れた。半可通な話だが、現状それ以上の考察もない。
銀行が抱える国債については、すでにリフレ派が口酸っぱく言うように、日銀の買い切りということがこの執筆者の念頭にも浮かんでいるのだろうが、そこは示唆するだけで触れていない。話はペイオフに流れ込んで終わるが、UFJ問題の示唆のつもりでもあるのだろう。
話を国債の買い切りについて言えば、私はよくわからないなというのが本音だ。国債が暴落するという懸念もよくわからないが、私は単純に、それってタコが足を食うことになるのだから、そういう市場調整はいやだなという感じがする。このあたり、きちんとした説明を読んでみたいものだが、見あたらない。それと、陰謀論めくが、人的に円の価値を下げるという措置は米国が禁じているようにも思う。普通の感覚で言えば、米国側としては、国債よりも日本の内需を大きく変化してほしいところだろう。
私は庶民の感覚として、「需要」なんていうものはない。が、しいて言えば、住宅状況の改善だろう。そしてこれも庶民感覚でいうのだが、住宅状況の問題は、手短な娯楽消費に結びついた住居、つまり都市の快楽ではないかと思う。日本には大人のナイトライフもない。
関連して、昨日の毎日新聞社説「福井総裁1年 量的緩和の出口探る時だ」はしきりに量的緩和をやめろと言っていた。悲痛感と滑稽感がないまぜになっている。
政府、日銀ともに相変わらずデフレの恐怖を強調している。しかし、物価は前年比横ばい水準まで戻している。素材市況は活況を呈している。こうした状況下で、大量の資金を銀行に滞留させておけば、何らかの要因で物価が急騰する場面がないとは言い切れない。
それでいいんじゃないのか。「急騰」っていうから変な話になるだけではないのか。っていうか、「何らかの要因」って何だ?
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