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2004.03.03

アジア人に日本を開く

 朝日新聞社説「アジアに開く――外国人と生きる覚悟を」の問題提起は、別面企画の宣伝でもあるのだろうが、悪くなかった。日本にこれから増えるアジアからの外国人とどう接触するかは重要な課題だと思う。
 と、文章を書き出すとき、自分の頭では数段先がいつもなんとなく浮かんでいるのだが、ふと、インターヴェンション。アジア人の外人問題といえば、在日朝鮮人問題はどうか、という思いが浮かんだ。彼らは日本人にとって、外国人問題のティピカルなケースなのだろうか。あるいはモデルだろうか? 違うのではないか。あまり結論だけ書くと誤解されるが、在日朝鮮人問題というのは日本人問題ではないかと思う。日本が歴史を背負うときに必然的に出てくる問題。という意味で台湾人もそうだ。とりあえず、アジア人の外国人問題からは、捨象する。
 朝日の社説は、予想通り、つまらないきれい事に満ちている。執筆者自身にアジア人との交流はあるのだろうか、というのは、文章というのはどこかしら、その人の経験というか思いの一端がにじむところに真価があるのであって、巷の文章術の類がアホくさいのは、その経験を問わないからだ。経験が人に強いて書かせるのであって、書くために書くのが書くという行為ではない。
 例えば、実際にアジア人と日常や職場で苦戦した人間ならこんなことは言わないと思う。


 問題は、こうした現実があるにもかかわらず、増え続ける外国人にどう向きあうのかという哲学が、政治にも行政にも国民の意識にもまだ希薄なことだ。

 私の経験論が間違っているのかもしれないという留保はしたい。が、この問題は、哲学でもなければ、意識でもない。この問題は、覚悟とルールの問題だと思う。「つきあうぞ」という覚悟と、「おめーも日本の社会のルールを守れよな」という二点だ。
 この二点というのは、極限すれば、喧嘩をすることだと思う。「おめーそれはないだろ」っていうのを言葉や身振り(つまり演出)でわからせることだ。私自身喧嘩がうまい人間ではないのだが、昨今の世相を見ると、特に若い人間だが、それってて喧嘩かよ、と思うことが多い。まず暴力っていうのは喧嘩ではない。暴力っていうのは基本的にプロの領域だ。暴力っていうのは、ちゃんと訓練や修行をつんだヤの方や警察がやること。暴力で方を付けるのは素人がやるこっちゃない。が、これが、もうダメなんだよな。ヤも桜大門も全然ダメだと思う。だから暴力の規制緩和になるのか。この話はそこまでにする。で、民間の喧嘩というのは、コミュニケーションの重要な要素だ。コミュニケーションっていうのは、円滑にするとか、相手を意のままにするとか、そーゆーこっちゃ全然ないのだが、どうも本屋に並ぶ本の表紙のツラをみると、バカかコレ、みたいな本が売れているみたいだ。なさけない。コミュニケーションは、わかってくれない人間にわかってくれよ、ここまで俺はカードを切るよと、関わることだ。ま、これも説教臭いのでこの話もこのくらいにする。
 この手の喧嘩を外国人、とくにアジア人とやるのは、すげーしんどい。ほぼ全滅なのはインド人、といってもターバンを巻いている、日本人からのインド人のイメージはヒンズーじゃない(あれはシーク教徒)。ヒンズーはもっと直接的には穏和、だけど、鉄壁感は同じ。次に、中国人。これは各バリエーションはあるけど、基本的にすげーむかつく。が、韓国人と違い、こっちのむかつきがつーじねーの。で、相手も全然違うところで傷ついたりするから手に負えない。タイ人やフィリピノ、マレーなどは比較的通じるような気がするから、逆にめんどくさい(基本情報が通じてない)。と、愚痴だな、こりゃ。だが、そういうことは体験して学ぶしかない。というのは、体験すれば自分の力量がわかるからだ。タイの子供の頭をなでるのはやめましょう、お坊さんをからかうののもダメよ、みてーなノウハウっていうのは、自分の力量を換算していないからほぼ無意味。どうも、話がずっこけるのだが、よーするに朝日の言うようなきれい事の世界ではない。
 朝日の話で一点、これは汚ねーなと思ったことを一点だけ指摘する。

 例えばアジアの国々との自由貿易協定は、物と金だけではなく人の移動ももっと自由にしようとするもので、フィリピンやタイは日本に対して介護士や医師、マッサージ師などの受け入れを求めている。

 誰かが手を入れたのかもしれないが、こういう曖昧韜晦文は困る。この文脈でフィリピノは看護婦だよ。思わずそこら辺のブログのように、看護婦のところをfontタグで囲みたくなる。ま、そうはしない。それに正しくは看護師(看護士ではないらしい)だ。朝日も社会派っていうのなら、この問題を日本人の社会イメージのなかに絵になるように書けよと思う。
 最後に毎度の自分の回顧話。20代のころのあるバイトの相棒がフィリピノだった。まぁ、仲良かったかな。仕事が終わって、自分の自転車のケツに乗せて居酒屋に行く。カーペンターズとか英語で声出して歌っていくのだ(他に何を歌えってか)。青春だよなと泣けてくる。居酒屋に着いて、適当につまみでも思うと、彼が、大丈夫、今日は私の奢り、ってことを言う、と同時に、テーブルにばっと、かっぱえびせんを広げた。アリ、かよ? BYO!! 思わず、YMCAのノリで踊りそう。そのまま、当方も中国系フィリピノしてもよかったんだけど、ま、飲み屋の人に了解してもらうよう話をしました。名前も忘れたが、彼、今頃偉くなっているのだろうか。

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コメント

ああ・・
この問題すごくわかる気がします(しみじみ)

特に中国人のところが!
(っていう言い方すると偏見・差別的ですかね?(^^;)?で・・でも、事実だもん!)

少なくとも、ぼくがいままで話したりしてきた中国の人(10~15人)の中で、(日本的感覚として)ふつーな感じの人は4人ぐらいでした・・。

正直、「・・自分の見てきた中国の人たちは偏っているのか?」、とも思っていたのですが・・やはりけっこう典型的だったのですね・・。

でも、
極東さんのおっしゃるように、やっぱ仲良く・・というか、なんとかやっていく術を考えないといけない・・。
というか、日々、そのルールを模索中です
(問題を解決したかと思ったら、次の問題がすぐに出てくるので)

投稿: m_um_u | 2004.03.03 15:39

話はそれますが、「師」の方が「士」より偉いので、「看護婦」から「かんごし」になるときに、前者を使うようにいろいろと力を使ったとかなんとか聞いたことがあります。

投稿: naruse | 2004.03.04 04:25

naruseさん、こんにちは。看護士は看護婦との対(男女)でそれをジェンダーフリーとかで看護師にしたと記憶しています。どうでしょうか。

投稿: finalvent | 2004.03.04 08:19

確かにそういう見方もあるようですね。軽く検索してみた所、このあたりについては諸説あるようです。本当の所はどうなのかは結局わかりませんでした。
http://www.shinchosha.co.jp/shoushin/kanji_ichiran/kanji0206.html

投稿: naruse | 2004.03.05 03:03

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