週刊文春差し止めの是非は今後の問題だ
新聞各紙社説はこぞって昨日の週刊文春差し止めを扱っていた。へぇそんなのが話題になるのかと思った。考えてみれば、憲法でうたわれている出版の自由が侵害されるとも取れるので大騒ぎしても不思議ではないか。昨日、このブログのリファラでも、「週刊文春」というキーワードが少し目に付いた。と、たらっとした感じなのは、私自身の関心がすでに抜けているからだ。理由は簡単。それを読んでみて、あまりにつまらなかった。結論だけ言うと、週刊文春も大人げないことしたな、これじゃ、差し止めくらって当然だ、である。
昨日、朝、ラジオのニュースでこの一報を聞いた。差し止めの記事は気にはなるものの、近所のコンビニは優等生なセブンイレブンだからもう撤去済みだろうと思った。むしろ、私は毎週、週刊文春と週刊新潮を読んでいるので、連載エッセイなどが欠けるのがやだなと思った。昼飯買いついでにコンビニに寄ると、撤去済みだったが、ウィンドウディスプレイ側に残っていた。バイトさん、間抜けで良かったというくらいなもので、よっこいしょと手を伸ばして引き抜き、週刊新潮と共に買う。なんかお宝ゲットのような気分になったが、午後夕飯かねてスーパーマーケットに寄ったら、週刊文春は山積みで売れ残っていた。なーんだである。
記事を一読した。なーんだという感じだった。まず、つまらない。そして不快だ。田中真紀子の娘はただの私人である。こんな私人のネタはどう調理しても面白くはなるまい。面白くしてはいけない。この記事は愚劣というか、これはルール違反だ、東京地裁の判断は常識的だなと思った。
それにしても、文藝春秋っていうのは、田中一族に対するオブセッション(強迫)がすごいものだ。そして、そのオブセッションというのは、まさに岸田秀的な精神分析学の対象だろう。短絡して話すとまた、歴史も知らねぇ厨房に電波だの言われるのかもしれないが、文藝春秋という組織の無意識にあるのは田中角栄を誤って屠ったことに対する呵責なのだ。その過ちを認めたくないから、娘まで罰し、孫まで罰したいのだ。環境ホルモン騒ぎですでにとち狂ってる論壇の蛭子能収、もとい、立花隆も、それで評価できなくなった。とまで言うのはさすがにこっち側の勇み足か。それでも、立花にせめて柳田邦男のような花道を敷いてあげるのが編集ってものだろう。が、そういう編集がないのだ。文藝春秋で福田和也や日垣隆が看板を張る時代なのだ。
私はジャーナリズムというのは間違ってもいいと思う。間違う勇気を持つべきだとも思う。もうちょっというと、今回の差し止めは常識があれば足りるが、以前の国内狂牛病騒ぎの記事こそ差し止めるべきだった。週刊文春は国立神経精神センターにすでに患者がいるような記事を書き腐った。きちんと裏も調べないで書き飛ばし、謝罪もない。まぁ、深く私人のプライバシーに関わったわけでもないので差し止めろという私が常識を欠いているか。
疑惑の三浦事件についての文春の扱いは、今でも私はわからない。O.J.Simpsonケースと同じで、市民としてはここで口を閉じるのが礼儀だろう。最近のジャニーズ関連ではよくやっていると思う。創価学会関連では、新潮よりはるかに腰が引けている。北朝鮮関連はガセが多い。が、それでも、こうして見ると、総じて、日本のマスのジャーナリズムは週刊文春と週刊新潮で成り立っていると見てもいい。この二誌がなければ、日本はほとんどファシズム下のようだ。だから、今回のポカも、まぁ、反省せいよで、次行ってみよう!でいいのではないか。田中ファミリーバッシングネタはもうよせよとも思うが。っていうか、あの事件の米側を今からでも遅くない、掘れよと思う。
以下、社説をざっと巡る。朝日「出版禁止――警鐘はわかるけれど」では、標題どおり、文春側を非としながらも出版禁止はやりすぎだというわけだ。お利口ちゃんだね。読売「出版禁止命令 プライバシーの侵害は明らかだ」は「やむを得ない」だそうだ。ナベツネが書いたか? 毎日「週刊文春記事 販売差し止め命令に驚いた」は朝日と似ているが「また、政治家の家族は私人だと言っても、田中前外相ほど影響力の大きな政治家の場合、家族の私生活まで社会の関心事になるのは無理からぬところだ」だとさ、違うよ。産経「週刊文春差し止め 出版の自由に抵触の恐れ」は差し止め自体に法学的な疑義を提出している。日経は当事者っぽいのでパス。
こうしてみると産経が一番まともであり、他は極東ブログ同レベルの床屋談義に過ぎない。
出版物の出版・販売の差し止めをめぐっては、昭和六十一年六月の最高裁大法廷の判例がある。
これは北海道知事選の立候補予定者が、自分の中傷記事をのせた月刊「北方ジャーナル」誌の差し止めを求めた訴訟で、最高裁は、「憲法は原則的に言論の事前抑制を禁じているが、(1)表現内容が真実でなく(2)記事が公益を図る目的でないことが明白(3)被害者が著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合、例外的に差し止めを認めることができる」との一般論を示した上で問題の記事は真実ではなかった、として差し止めを認めた。
東京地裁も差し止めについては、裁判官三人の合議体で審理することを決めているようなので、床屋談義は切り上げて、その結論を見ていくほうがいいだろう。
余談だが、憲法でいう「出版の自由」は誤訳に近い。プレス(報道)の自由だ。私は、どっちかというと憲法改正反対だが、修正や追加はあってしかるべきだと思う。憲法に規定しない軍を持つ近代国家はジョークであるし。ただ、それとは別に、憲法はきちんと改訳すべきだ。ただ、いくら芥川賞を取る前にヴォネガットなどの翻訳をしていた池澤夏樹とはいえ、あれはいただけないが。
追記
リソースに以下の文書を追加した。
文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容
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