ジェンダーフリーとかの雑談
ジェンダーフリー云々の話は私はあまり関心がない。産経新聞社説「ジェンダーフリー 是正の動きを加速したい」をざらっと読みながら、特に関心もわかない。「おまえも保守オヤジじゃねーか」というのを棚に上げて思うのだが、この話題は何が焦点なのかもわからない。男女別名簿を一元化するべし? すれば、である。些末。そんなことが問題なら、相原さん、和田さん、といった順序も問題か。
私は、日本では女性の社会進出がまだまだ遅れているのだから、教育にもっとアファーマティブ(affirmative)な圧力をかけていいのではないかとも思う。誤解されて非難くらいそうだが、現状、公務員の女性はかなり優遇されているが、その優遇幅をもっと広げていいのではないか。短期的には、他の女性との間に落差が広まり社会怨嗟の元にもなるだろうが、公務員の半数が女性くらいになってしまえば、その問題も異質なものになるだろう。公務員の大半はサービス業のようなものなので、まさにジェンダーフリーに向いているし、先進国ではその傾向にある。
ジェンダーフリーってなことが大してわかりもしないで言うのだが、私の感覚からいうと、現代の少女のジェンダーフリーの意識は46歳オヤジが少年のころに比べてかなり劣っている。どうしたこったという感じだ。というか、そのあたりが、むしろジェンダーフリーの議論に登ってこないように見えるのだが、なぜだろう。象徴的な例でいうなら、女子中高校生のふざけたミニスカートの制服だ。私はこういうところ実は米人的なのか、あれはお下劣に見える。軍服である詰め襟など男子に着せておいて、何がジェンダーフリーなのだ。もっとも、そんな議論はジェンダーフリーとは関係ないか。
個人的な回顧だが、高校の文化祭のとき、企画で議論した。私はその過程で議論がきつくて女子を泣かせたことがある。私は別になんとも思ってなかった。泣くなよ、議論しようぜってなものである。あとで、私の友だちが、こっそり忠告した、「女の子を泣かすのはだめだよ」と。ついでに、「赤頭巾ちゃん気をつけて 」をも一度読みな、と。なるほどな。ところで、この小説シリーズは今でも読まれているか。思い返すと、けっこう影響受けたか。
未だによくわからない。「女の子を泣かすのはだめだよ」っていうのは、男たるものの倫理なのか? こういうところに私のごっそりとした感性の欠落がある。ついでに言うのだが、女子供に暴力をふるうっていうもの理解を超えている。吉本翁も同じことを言っていたので、私だけの感覚でもないのか。別に、私はDVとやらからフリーです、ってなことではない。もっと、単純な何かだ。
話がたらけたついでなのだが、"Blog for Japan"というブログで「女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違い?」(参照)という記事を読んで、ちょっと変な感じがした(どうでもいいけど、アフィリエイトの入れ方も、もうちょっと工夫したら)。
女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違いって、なんとなく分かる気がするけど明確に説明しろって言われると難しい。誰か教えてください。
これが私は皆目わからない。暴論になるのだろうなと前置きする。女性のニーズっていうのが不明だ。私はこう考える。「俺の女」のニーズか、「世の中の女性」か。
「俺の女」ってなことを言うと礫が飛ぶか。しかし、その対(つい)は「わたしの男」である。対幻想領域だ。この領域の問題はまさに対性のなかに閉じている。そこに性的な心性の一般性は働くが、栗本慎一郎がポランニをひいていうように、「女性のトランザクションは個別的である」だ。対幻想的な領域で女は、一般性を内包しているようだが、その機能は個別的だ。男というのは、「女は俺を理解しねー」と思いがちだが、女の個別性の可能性(韜晦ですまねーな)は、それを本質的に凌駕する(理解している)。女というのは存在論的に不思議な存在だ。と、そのあたりに気が付くかどうかで、男の人生は変わるようにも思う。
で、「世の中の女性」のニーズというなら、そのもそも理解する必要があるのか。そんなものは、古くさい英語だが"common courtesy"で足りる。社会的な礼儀で足りるはずだ。そして、議論など性を捨象した次元では、女性のニーズといった視点は消える。
このあたり、そう単純に吉本的な対幻想論で割り切れるものではないだろうが、それでも、男のもてたい論や女のいい男論は、くだらねーと思う。
くどいが言う。男などもてる必要などない。てめーの存在を深め、あとはそれを理解しえる女に命をかけるだけだ。「いい男」っていうのも、無意味だ。誰にもいい男などそもそも無意味だ。と、さらに言う。この議論は、女の床屋談義のテーマだ(床屋じゃなねーな)。上野千鶴子あたりもこの手のことを言い出すのは、対性という存在のあり方に腹をくくってないからだろう。
フェミニズムという韜晦の森に迷い込むのはご免被りたいが、フェミニズムは、当たり前のこととして、「女性、わたし達は」という「達」の議論だ。それはそれでいい。それを「一人の女のてめー」の問題に混ぜなければ。
「一人の女のてめー」という実存論的な可能性は別の次元にある。そのあたり、ポーリーヌ・レアージュことドミニック・オーリーなど、婆になりくさってまで見事に「女」そのものだった。この話は、これ以上書かない。
男そのものみたいな男は? そりゃ、当世でいうなら、鴨志田穣、カモちゃん、だな。あっぱれだ。サイバラが最初の子供の生むとき、障害児だったらと悩んだとき、カモはこう答えたという、もっと産め! 兄弟が助ける、と。そう言うのが「男」だ。
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コメント
あ・これですねー(笑)
あまり発言するとキケンそうですが、ちょっとだけ...
やっぱぼくも近頃、極東さんと似たような感じです。
なんか・・・・「女の目」とかめんどくさいので...
(前からそうだったんですが、最近はさらにその傾向が強くなりましたね)
んで、周りのコ達ともホンネトークしだしたんですが...
そうすろと、却って彼女達も喜んでくれてるみたいですよ
なんか・・・
ぼくのほうとしても楽ですし...
やっぱ、お互いにゲームの対象みたいにしてるだけじゃ、おもしろくないですしね(露店の景品みたいで 笑)
投稿: m_um_u | 2004.03.14 12:11
>女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになること の違い
単純に語感からするとニーズは、「必要最低限与えておかないといけないもの」、で、言いなりになるというのはそれ以上のものを与え続けること、のような意味だと思います。
最近のジェンダーフリーの議論はときどきとんでもない方向まで飛んでいってしまっているようなものが多いので、あんまり言うべきことはないようなきがします。
男女平等が目的でありながら、女尊男卑に進んでいっているような気がします。別に、女尊男卑それ自体がどうというつもりはありませんが、微妙な理論のすり替えが、いつもいつも引っかかるんですよね。
問題提起が大好きな人たちがTVなどで声高に議論すればするほど、現実の世界とはどんどんかけ離れていくような気がします。
>男などもてる必要などない。てめーの存在を深め、あとは それを理解しえる女に命をかけるだけだ
かっこいいですね。大変共感します。なるべくそのように生きて生きたいと思います。冗談抜きで。
投稿: らした | 2004.03.14 14:45
m_um_uさん、らしたさん、ども。こう言ってはいかんのかもしれないのですが、若い世代の、きちんとした感覚をうかがえるっていう気がしました。ま、この手の話題は、あまり触れないが吉っぽいのですが。
投稿: finalvent | 2004.03.14 15:20
確かにあまり触れないのが吉っぽい気もしますが、理性的判断
/判断停止の問題としてサンプルのひとつになるのではないかと思います。できる限り自分の言葉で、自分の頭で考えなければいけないという意味で。
>男などもてる必要などない。てめーの存在を深め、あとは それを理解しえる女に命をかけるだけだ
いやまったく共感できますね。若いころに、口先ではもてないなあ、もてる男はいいなあと言いつつも、あんまり本気でそう思っていなかったところがありました。
結果として割といい女性と連れ添うことになり、まあ人生そういうものかとひそかに自尊しております。こういうことを言ってしまうのはかなり間抜けですが。
「命をかけつづけていく」というのが、またてめー存在を深めていくのではないかと思ったりもします。
投稿: さいもん | 2004.03.15 00:19
一般論(っていうか伝わってるかどうか)は定かではありませんが、“れんあい観”ってやつもちょっとは進歩してるみたいです
なので、ちょっとトラバっときます
(※ちなみに、「くるり」は18~20代中ごろぐらいまでの女性に特に人気がある感じのバンドです)
投稿: m_um_u | 2004.03.15 06:38
さいもんさん、ども。そうですよね。っていうか、それが当たり前って思うのだけど、っていう感じです。
m_um_uさん、ども。トラバ、面白かったですよ。
投稿: finalvent | 2004.03.15 17:15
東京都では男女混合名簿が廃止になるのでしょうか。別にそのままでいいと思いますが、ただ、ジェンダーフリー推進者はもっと他にやるべきことがあるんじゃないかとは思います。「男(女)は~であるべき」という思い込みを排することで達成される平等(選択の自由)なら、すでに達成されているんじゃないでしょうか。女の子が何色のランドセルを背負おうとどうということはないし、今どき女子にだけ掃除を命じる先生とか、「女の子なんだから行儀よくしなさい」なんてうかつなことを言う先生はいないでしょう。いたとしてもそれこそ少数派です。
それよりも、一応「選択の自由」(機会の平等)が保障されていながら、「結果平等」に結びつかない分野─国会における女性議員の少なさとか、民間企業の女性管理職の少なさとか─についてはどう考えているのか。もし「女に不利なシステム」がそうさせているのなら、思い込みを捨てたところで平等は達成できないでしょう。システムを変えるしかない。クォーター制の導入とか、国や企業が子育てにかかるコストを負担する(育休、育休中の所得保障、復帰後のポストの保障、残業の免除等)とかです。しかしそうした政策は「自由な競争」を侵害するという反論が当然予想されます。ジェンダーフリー推進者はそれに正面から答えるべきだと思いますが、それをやると一気にマルクス主義の地金が見えてしまうので、経済の絡まない学校でカルトチックな運動をするしかないのかな、と多少意地悪く思います。
教育の場では、今は男女間格差より家庭における格差の方が深刻なはずです。「学ぶ意欲」すら親の収入や学歴に左右されるなんて、ほんとかよ、と思うけど、ほんとなんでしょう。中流家庭の子女が負け犬になろうと勝ち犬になろうと摂食障害になろうと「人生いろいろ」ですむけど、東京に出てきたとたん数ヶ月で餓死する沖縄の少年ってなんなのか(20年くらい前にも同じような事件があってそのときですら衝撃だった)。平等ってなんなのか。腹が立つけど、多分何もできない。
私もサイバラ大好きです。サイバラには人間の尊厳を感じます。かっこいいと思う。「何もできない」ことを知っている人のかっこよさ。で、ジェンダーフリーはかっこ悪くてかまわないから、少しは腹の足しになることをやれよと思います。
投稿: T | 2004.08.31 05:06
先生、先生。
×「譲」じゃなくて ○「穣」。
最後まで間違えられて彼、常世で苦笑してますよ。
投稿: 意中の女に振向かれなきゃモテることなど虚しい | 2007.03.21 22:56
意中の女に振向かれなきゃモテることなど虚しいさん、ご指摘ありがとうございました。
投稿: finalvent | 2007.03.22 06:45
・・・どうなんだろう・・・女性が、「不思議な存在」として括られている以上、「私は」じゃなくて「私たちは」と言いだすのも、ある意味分かるような気もするけれど。(言葉遊びになってしまいました)
それにしても。女性が、もし「個」とか「愛」を自分の中に見出すとしたら、それは「憎みきれないろくでなし」と関係した時だけ、にも思えます。(@_@。そういう時って、自分がしっかりするしかないから。・・・しっかりした男に、依存しようとする時(つまり、「嫁」になろうとする時)女は不可解な生き物になるのです。・・・そして、ママ友と「男ってさ~」と、愚痴垂れるようになるんです。(これ、本当。)
投稿: ジュリア | 2010.01.09 16:48