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2004.03.08

心の病に思う

 毎日新聞社説「増える『うつ病』 排除せず偏見をなくそう」を読みながら、しばしぼんやりと考えた。この社説自体は特にどうという話ではない。鬱病も普通の病気なのだからきちんと対処しようというものだ。キャッチフレーズで言うなら、鬱病は心の風邪、ということなのだろう。もちろん、その観点は間違いではない。つまり、内面の精神性の問題ではなく、風邪と同じように医療を必要とする疾患だということだ。以前、ニフのフォーラム時代、オフ会の食事のあと、参加者が今各人が飲んでいる抗鬱剤だのはコレという話題で盛り上がったことがあった。テーブルの上にばらばら出てくる出てくる。時代だなと思った。
 私がぼんやりと考えたのは、私自身としては、鬱病を単純にメディケア対象とする考えにある種違和感を持ち続けているからだ。だが、内服薬などいらない、それは精神的な問題だ、と言いたいわけでもない。まったく違う。その違和感は言葉になるだろうかと考えてて、戸惑ってしまった。少し書いてみる。

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青空人生相談所
 ふと橋本治の「親子の世紀末人生相談」を思い出した。確かこれは改題されリメークされ文庫かなにかになったはずだ、と、探すとある。手元にはないので記憶を辿るのだが、エレベーターにも乗るのが不安という人に橋本はそれは大変な問題だ、あなたはビョーキだよみたいにその深刻さを諭す話があった。橋本の意見はなにかと得心するのだが、この話は特に心に残った。人はあまり辛くなると、心が一種の防衛反応のようなり悩めなくなってしまう。回答は忘れたが、メディケア的なものではなかったかと思う。前題「親子の世紀末人生相談」は1985年出版。連載時は83年ごろだったろか。週刊プレイボーイ誌だったか。まだ抗鬱剤などは普及していなかった。83年というと、そのころ、私も失恋や学問の挫折でカウンセリングに通っていた。
 私の場合は、鬱病ではなかったと思う。鬱病はむしろ、数年前の状態だろう。厄年頃だ。睡眠障害になった。いろいろやっかいではあったが乗り越えたのだろうか。メディケアはしなかった。思うにその弊害も残った。ので、克服したとはとうてい言えない。が、話をカウンセリングのころの思い出に戻す。
 自分は面倒臭いタイプの「クライエント」だったと思う。こういうタイプは少なくもない。数ヶ月前だが、「はてな」の質問である意味面白い質問を出すかたがいて、自身本当に心の問題に悩まれているのだが、精神医学関連の書物を読みあさってそれなりに知見を得ているらしく、それがかえって問題を難しくしているようにも見えた。
 自分もそれに類しており、精神分析学だとカウンセリング理論だの詳しくなっていた。木村敏「異常の構造」を始め、彼の本はほとんど読み、ビンスワンガーなども読んでいた。ので、ははぁ、これは離人症ってやつかとも思っていた。と、個人的な話はいろいろあるのだが、概ね、カウンセリングで症状は緩和した。カウンセラーが重要な意味を持っていた。
 話を端折るのだが、すべてがそうだとはとうてい思わないのだが、原因は「孤独」だったように思う。人は孤独に本当に苦しみうる存在だし、その孤独というのは、いったいどこまで底が深いのかわからないような恐ろしいものだ。そして、恐ろしいほどの孤独に襲われたとき、人の心は壊れてしまうように思う。
 この孤独というのは、ある段階を越えると悪意のようなものにまでなる。というか、悪意としか見えないような形態を取ることがある。これは、むしろ、存在論的に「悪」という問題かもしれない。が、それに悲痛感があり、絶叫するような世界への救済希求があれば、それを聞き届けうるという確信性が、それを救いうる、と思う。
 話が難しいが、その孤独を聞きうるかということで、私の実感ではカウンセリング理論や精神分析理論は補助に過ぎず、その術者の人間としての経験の質にかなり依存していると思うようになった。私の場合、カウンセラーは初老にならんとする女性だったが、穏和な相貌の背後に狂気をきちんと受け取るあるいは、向き合うなにかを持っていた。私が幸運でもあったのだろう。
 そのころ、マルクス・アウレリウス「自省録」なども読んでいたのだが、こうした哲人には及ばないものの、また、この本について言えば、訳者神谷美恵子の訳文のよさもあるのだろうが、死者たちの残された巨大な孤独のようななにかに触れることがあった。ああ、みなこの孤独を抱えて死んでいったのかという、奇妙な懐かしい感覚だった。死んだ賢者からorkutのインヴィテーションが来たような感じである、というのはもちろん冗談だ。孤独の深みには、それなくしてもは通じない時空を越えたなにかがある。それは確信した。
 話は散漫になるが、余談みたいな話で終わりにしたい。先週号のSPAの鴻上尚史ドンキホーテのピアスというつまらない連載を、たまたま読んでいたら、こうあった。

 カウンセリングのテクニックを持ったホステスさんだと、お客さんが、どんどん話しながら、やがて、自分の抱えていた問題の本質に自分でたどり着くのです。酒の席で、ですよ!
 日本でも、だんだん、精神科の敷居が低くなり、心療内科もポピュラーになってきました。神経科、神経内科という言い方も増えました。

 目が点になりましたね。鴻上が阿呆で済むことなのか、編集者しっかりせーよなのか、オメーに言われたくないよなのか。嘆息だ。心療内科と「神経科」や「神経内科」を並べてはいけない。
 東京医科大学八王子医療センター 神経内科のWebページがあるので引いておく(参照)。

■神経内科ってどんな科なの?
神経内科とは神経(脳、脊髄、末梢神経)や筋肉を専門とする内科です。心療内科や精神科とは違って、心の病を診療する科ではありません。また、外科的な手術を主体に治療していく脳神経外科ともやや異なります。神経内科では、総合的な内科的な視野から病気を診断し、薬やリハビリテーションを主体に治療していきます

 些細なことだろうか。鴻上も一応文化人なのだろうが、文化に関わる人間がこういう点で杜撰なことを書いているということが、これも現代の心の病そのものだなという気がする。

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コメント

知らなすぎるのもよくありませんが、知りすぎることの弊害もあると思いますね。患者としての立場で知るべきことと、治療者のそれとは違うので。つまり、治療の過程で、だまされるようなところが必要だということでしょうか。

それから、「神経科」は精神科の柔らかい名称としても使われますね。躁うつ病の私が通院しているのも「神経科」です。

投稿: manic-depressive | 2004.03.10 02:19

manic-depressiveさん、こんにちは。そういえば、「神経科」のほうはそういう言い方もあったような気がします。っていうか、古い呼称のような気がします。「神経衰弱」とか。と、書いてみて、ATOKが文句を言わないな。これって注意用語のはずですが。

ブログ、拝見しました。有益なインフォが多いように思いました。「音に対する感覚がおかしい」というあたり、あ、そーだよねとか思いました。って、私も躁鬱? ま、それはとりあえず置いといて、私は音の感覚がどうも普通の人と違うみたいです。味覚もそんな気がします、って、自分でいうのはなんですが、過敏過ぎるみたいです。嗅覚も。と、いうと自分は繊細なんだという意味ではないです。うまく言えないのですが。

子供の頃、野山のなかで孤独に生きていたので、どっか、コイサマン的な部分が自分にはつよいです。そういう自分はとてもこの文明に耐えられないっていう心もあるみたいで、それが病に似たようなものになっているかもとも思います。


投稿: finalvent | 2004.03.10 09:08

私の場合ですが、躁の時には、感じ方とその解釈の仕方が飛躍するようになるように思います。同じ音、同じ文章に接しても、不必要なほどに感じてしまうため、不快なものはより不快に、創造的なものには、天啓のようなものを感じてしまいます。第三者から見ると、明らかにおかしく見えるレベルでしょうね。どこまでを病気と見るか感性と見るか。判別不可能でしょう。

この躁病的な部分と、表現したいことの多さというか世の中に叫びたい思わせる何か、との間には、何らかの相関があると、私も思います。
この辺は、まだよく分からないことですけど。

投稿: manic-depressive | 2004.03.10 18:20

・・・鴻上さんってそういうアホだったんですか。一種の放言のような気もしますが。それはそれとして・・・
心の病って、これ全て90%は、「親との、または特定の他人との共依存」から始まっているような気がします。逆に言うと、いつかカキコしたような気もしますが、全ての「孤独」というものは、多分誰かとの、不本意な強烈な「共依存」から来てるんじゃないかなぁ、と。・・・だから「悪」に走るんですよ、多分。
これって、黒船以降の日本に対する精神分析にも言えることのような気がします。
ところで、橋本修の「世紀末人生相談」読みましたよ、青春期(?)に。そのころは、ビョーキが重すぎて、何の事か分かっていなかった。(恥。)今なら、分かりますが・・・。要するに、カウンセラーが偶然、相性がよくて、「共依存相手」の代わりを、一時的にでも務めてくれて、なおかつ相手の人生に責任を持てる(つまり、上手くある時点で突き離せる)人格だと、心の病が治るきっかけになるんだと思います。

投稿: ジュリア | 2010.01.09 16:33

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