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2004.03.31

筋弛緩剤事件は冤罪ではないのか

 本当は、東電OL事件のように冤罪であると主張したい。が、筋弛緩剤事件は冤罪であると主張するだけ自分のなかで考えが詰められていない。どうしても市民からは見えづらい事件なのでそれを精力的に探るジャーナリズムの援用が欲しい。
 しかし、にも関わらず、冤罪であるとの疑いは消えない、ということははっきり書いておきたい。
 理由は3点ある。


  1. 状況証拠しかない
  2. 動機がまったく理解できない
  3. 自白への不信感

 詳しく知らないで無知を晒すのだが、このような裁判で、自白が重視されるのは先進国において通常のことなのだろうか。
 今回の判決はある程度予想されていたもので、恐らく法学的には間違いない、のではないかと思う。しかし、違和感は強くある。この感覚は、松川事件とそれを文学の視点から追及した広津和郎のありかたから得たものだ。こう言うと不正確だが、松川事件裁判の検察は法学的には正しいのではないか。このような裁判を考えるとき、自分の感覚と法学のズレを補正するのにいつもこのことを想起する。
 今回の裁判について、朝日新聞社説「筋弛緩剤判決――裁判員が裁くなら」は搦め手に出た。ちょっとずるいなという感じもするが、この手は私なども思ったことなので、評価はしたい。つまり、この事件は、裁判員制度なら異なる判決がでるのではないかということだ。私が裁判員なら、無期懲役を下すことはできないと思うからだ。
 読売新聞社説「筋弛緩剤事件 これを裁判員制度で裁けるか」は朝日と逆の論を張った。

 スピード審理とはいっても、これほど時間がかかるようでは「裁判員制度」など、本当に機能するのだろうか。そんな疑念を抱かせる判決である。

 ひどいこと言うよなというか、日本人を舐め腐ったことを言うよなと思う。しかし、現実の日本社会にとって、読売の示唆はあながち外していないことになるだろうということは、ちょっと理性的に考えればわかることである。
 ただ、意図的かどうか、読売は美しい墓穴を掘っていてくれた。

 今回の判決は、筋弛緩剤の混入の事実を示す「科学鑑定」などを足掛かりに、多数の状況証拠を積み上げた「合理的推認」の結果である。「合理的推認」を重視して、裁判の核心である犯罪事実の認定を行ったのは、新制度を視野にいれた変化の表れだろう。
 この場合、事件全体の詳細な立証がないと、被告が、例えば、量刑などで不利になる可能性がある。だが、こうした問題点は、これまでの政府の司法制度改革推進本部の制度作りの過程でも、国会でも審議されていない。

 話は逆に読める。今回のケースでは、裁判員制度の場合は、より緩和な量刑となったのだろう。
 この事件と裁判については、私としてはまだ考え続けたい。被告は「そんなことってあるのでしょうかね」と言ったらしい。多くの人が人生のなかで、これほどのことでもなくても、そう呟きたくなる経験をする。私は、ことの是非以前に、被告の心情の一端がわかる気がする。そうした思い入れが判断を誤らせているのかもしれないとも思う。しかし、そうした心情を大切にしておきたい。
 参考:「識者はこう見る 筋弛緩剤事件判決」(参照

追記(同日)
 自白について、「【日弁連】 被疑者取調べ全過程の録画・録音による取調べ可視化を求める決議」(参照)が参考になる。

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2004.03.30

The high ideals controlling human relationship

 どうせそう簡単に答えはでないだろうと思いつつ、日本国憲法前文の"the high ideals controlling human relationship"という表現が気になってしかたない(「試訳憲法前文、ただし直訳風」参照)。少し愚考したので書いておく。
 一番の疑問は、なぜ"control"という妙ちくりんな言葉が使われているのかだ。
 それと、the high idealsという表現も少し気になる。こちらは、ちょっと考えると、theの語感から、単に文脈を受けているだけなのだろうが、複数形になっているidealsは列挙するなら、なんなのだろうか? "a universal principle of mankind"は単数形なので、これを直接受けているわけではない。そして、これが相当しないとなると、それ以前の部分がidealsに含まれるわけにもいかない。端的に言えば、"a universal principle of mankind"は「主権在民("sovereign power resides with the people")」ということだろう。
 このidealsは、"human relationship"をcontrolする機能を持つのだから、その側面の意味の反映を受けるわけだ。すると、"human relationship"とはということに、少し話を持ち越す。
 "human relationship"は難しいと言えば難しいが、人間というのは利害が対立するから司法があると考えれば、それほど難しい概念でもない。刑事的な場合は正義だが、民事的には利害と言っていい。どちらかといえば、ここでは、「利害」の意味を帯びているはずだ。
 が、文脈上は、"the Japanese people desire peace for all time"に関連するから、基本的に、人間の関係というのは、日本人と他民族との争いという意味合いがあるのだろう。
 つまり、各種の理想というツールで、日本人と他の民族間の利害をコントロールする、ということだが、このコントロールは、制御、というより、「抑制」だろう。
 というのは、ふとCDC(米国疾病対策センター)の略語を思い出した。これは、"Centers for Disease Control and Prevention"である。歴史的には別の略語だったようだが、いずれにせよ、日本国憲法のcontrolの含みは、マラリアなどのdisease controlのcontrolに近そうだ。birth controlもこれに近いだろう。時代の語感も近そうだ。
 こうした考えで当時の状況はなにかとぼんやり考えていて、もしかしたら、ウィーナー(Norbert Wiener,1894~1964)じゃないのかと思い至った。サイバネティックスだよな、これって。
 しかし、その主著"Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine"が出版されたのは1948年。概念的には1947年と考えてもいいが、完成したサイバネティックス理論が直接日本国憲法に影響したとは考えにくい。
 それでも、ウィーナーは、第二次大戦のために、自動照準器を研究し、そこから、計算機理論・情報理論を開拓して、さらに、動物制御と通信技術を統合していたたので、この時代の知的ヒーローでもあったし、ポリティカルにフリーだったとは到底思えない。
 関連するcivilian controlという言葉のの歴史状況はどうかと言えば、"Civilian Control Agencies"は朝鮮戦争時の"Federal Defense History Program"の一環のようなので、やはりGHQ的な雰囲気のなかにはありそうだ。
 ぼんやりとだが、やはり、ウィーナー的な世界観から、controlling human relationshipという考えができてのであり、それは、ざっくばらんに言えば、人間という動物の制御として国家間平和を考えていたのだろう。
 なんか屁理屈をこいているようだが、Controlの語感としては、そんな時代を反映しているのではないかと思われる。
 問題は、これが我々日本人の憲法であるというとき、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."というのは、どういう意味合いを持つのだろう?
 ちょっとやけっぱちな言い方だが、これは、「オメーら危険なジャプは理想というのを心得て他民族へのちょっかいは自制せいよ」っていうことじゃないだろうか。というのは、高い各種の理想っていうのを他民族に持ち出しても、へぇ、みたいなものだ。朝日新聞がいくら平和と理想を説いても金正日は聞く耳を持たない。
 日本国憲法のスキームでは、太平洋戦争(大東亜戦争だがね)をおっぱじめたのは、政府であって、日本国国民ではない。だが、米国様がこの悪い政府を転覆して、国民が政府を立てられるようにした。だから、今度の政府を使ってまた隣国に悪さをしちゃだめよーん、というのが、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."の含みとしていいように思う。
 これって、正直屈辱感あるよね。っていうか、先日、イラクの民衆意識調査でイラクの人が少なからずアメリカに屈辱感を持っていることが表現されていたが、これは日本とも同じ面があるな。
 日本人は、この屈辱感をどうしても、忌避するから、排除したり、そんなことはないのだぁみたいなオブセッションとしての平和主義になるのだろう。
 ま、でも、それって、やっぱ、屈辱だよね。でも、日本民衆はあの戦争阻止できもしなったんだしねと考えると、しかたないっか、っていう気にはなる。英語の日本国憲法のこの部分は、要するに諸外国には、「ごめんねぇ」というニュアンスに聞こえるのだろう。しかたなよね。

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対幻想と正義

 自動回転ドア事件の関連でちょっと暴言を吐いた。無意識に対幻想を基軸とした自分の考えが露出した。暴言だからなというのはある。通じると思っていたわけでもないが、それがほぼ無内容に響く世代があることは知らず、自分が不覚に思えた。俺はヤキが回っているぜと本気で思った。そして、対幻想についてぼんやりと考えた。そして考えるほどに、対幻想のありかたがまるで変わっているのだとしか思えないことに、気が付く。
 対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉本隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。
 駄本だなと思った橋爪太三郎「永遠の吉本隆明」を昨日ぱらっとめくりながら、いろいろ思った。駄本は駄本なのだが、こういうことを言う状況の必要性というものはあるのだろう。ただ、この本は、イントロダクションとしてはあまりいい本ではない。そして、率直に言えば、吉本本人の「共同幻想論」はお世辞にもいい本ではない。編集者的な視点や欧米的な視点で見るなら、電波としかいいようがない。これを丹念に読み解くことは簡単なことではないし、もしかすると、それは未だになされたことはないのかもしれない、とぐぐると、「書評1 吉本隆明『共同幻想論』」(参照)が出てきた。読みという点では、きれいに読んでいる。へぇと関心した。だが、これで読解されているかというと、そうでもないようにも思うというのは正直な印象だ。


今回、私はじっくりとこの本を読み込んでみたが、論理の展開にやや錯綜している印象を抱いたものの、何度も考え直してみたくなるような深いテーマに知的興奮を感じないわけにはいかなかった。

 非難をしているのではないが、共同幻想論は「知的興奮」として読まれたものではなかった。全共闘世代の大半が読んで大半は理解しえなかったのだが、それでも、ある核心的なメッセージだけは伝わっていた。やさぐれた言い方をすれば、「おまえは正義の前に、その女の身体を抱け」ということだ。女性なら「男根くわえてみな」っていうことだ(もちろん、そうしたマスキュリニズムが対幻想ではない)。
 共同性が正義なり倫理として人を支配しようとするとき、吉本は、それを原理的に無化して見せた。もちろん、そういう総括や理解は違うよ、という批判もあるだろう。というのは、吉本は「国家」の否定原理として対幻想を挙げたのであって「正義」や「理想」ではないのだと。しかし、私は、正義・倫理・理想とは、吉本のいう国家幻想に含めてよいのだと考えている。
 そして、吉本が国家の幻想領域を無化したとき、ある意味、市民社会の正義の可能性というものの芽も断たれた。社会学的に見ればニヒリズムにも転化したと評価してもいいだろう。吉本自身は80年代半ばまで実は「革命」の可能性を模索していたのだが、それも原理的に解消された。そこから先は、超資本主義という新しい国家の相貌をどう解体するかという積極的な理念が出現したのだが、ここで吉本主義者の大半は脱落した。
 アポリアも多かった。おそらくその新しい闘争の次元の地平となるのは、吉本原理でいうなら、対幻想であったはずだがそこがまさにアポリアだった。対幻想=家族が、どう超資本主義に向き合うのか、また、超資本主義が個人の欲望を疎外したように見える点についても、対幻想は確固たる橋頭堡たりえるか、そこは十分に問われていなかったように思う。いや、家族の解体として、問われていたのかもしれないが、思想を課題に生きる人間にとって十分なエール(声援)にはなりえなかった。
 くどいようだが、恋愛と家族の問題にくたくたになるまで擦り切れて生きる。それだけが真の人間存在であり、人生っていうものなのだが、そこからどう超資本主義に向き合うのか。そのアポリアの脇に、くだらねぇニューアカのあだ花が咲きまくり知性を誘惑した。それはある意味、必然だっただろう。知性を抱えた自己幻想が、対幻想のなかから十分に意味を汲み出すことができなければ、知性そのものが危険な外化を遂げてもおかしくはないのだ。そして、それが今やある種の大衆化を遂げているのが、たぶん、ブログの風景の一端なのだろう。
 こう書きながら、おめえさんはどうなのかと言えば、知性に与しないと言いながら、そして対幻想だけが原理だと抜かしながら、なぜ、極東ブログなんてものを書くのか? 答えられやしない。自己満足なんて揶揄は承知の上。矛盾はそんなところにあるわけでもない。
 話を少し戻す。正義がそのように原理的に無化されたとき、人は本当に生きることが可能か。ちょっと問いの出し方が正しくないのだが、私がこの20年間考え続け、ある意味、吉本から離れているのは、自己幻想・対幻想と共同幻想=国家幻想のその中間に、「市民存在」というものをある種確信するしかないのではないかと思えることだ。
 端的な命題からいえば、今や自己幻想・対幻想に敵対するものは国家としての共同幻想ではなく、ある種の疑似国家のような正義の幻想ではないか。そこから、どう自己幻想・対幻想を内包した市民存在を救い出すのか。
 わかりづらいので例を挙げるが、社会の正義幻想が田中真紀子の娘を追撃するとき、彼女を救い出すには権力が必要になる。その意味での、あたかもルソーの一般意志のような国家幻想が必要になるのではないか。
 複雑な状況にあると思う。吉本隆明ももう老いてしまって、思想というもの根幹を支えるエールとしては存在しえない。そして、多分に対幻想というもが崩壊してしまった。対幻想というのは難しいといえば難しいが、ごく単純に言えば、「私はこの女とこの女の子供の視野の中で死のう」ということだ。正義のためにも国家のためにも死ぬことなんかできやしない、ということだ。だが、そうした対幻想はすでにある本質的なところで崩壊した。もしかすると、歴史の運動のなかでそれが再現されることもないのかもしれない。
 すると、個人とそれを抑圧する社会と、個人を社会から保護する国家という三極になるのだろうか。私にはわからないし、私の考えの道筋が間違っているのかもしれない。
 それでも、個人を抑圧する社会は正義の相貌をしていることは、このブログを書きながら確かだと思えてきた。私は正義に誅せられる状況にあれば、ぎりぎりまで対幻想の立場から防戦して、アッパレ戦死を遂げてみせようかという欲望にも駆られる。ある種のニヒリズムでもある。また、そう言いながら、どこかで対幻想から別の防戦の正義(それは本質的に倒錯したものだ)をひねり出すかもしれない。いや、そうしているのだろうとも思う。
 こうしたスキームのなかで、自分が対幻想と、一般意志としての国家への依拠という矛盾したスタンスが出てくるように思う。そして自分が矛盾しているのは、まさにその二極をどう扱っていいのかまるでわからないことだ。(一般意志としての国家は今や超国家にもなりつつある。)
 くどいが、それでも私は現在の状況のなかで、言説的には正義たりえないし、私がひねり出した正義は一般意志としての国家として奇っ怪な相貌を見せることになるのだろう。
 結語はない。ふと吉本の顔が思い浮かぶ。麻原事件の件で、社会正義で血祭りに挙げられたことを、「俺の勝利だよ」と呟いたのではないのか。いや、気にも留めなかったのだろうな。

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Froogleの潜在的な破壊力

 昨日Googleに編成替えがあり、デザインが変わるとともに、価格比較検索のFroogleが正式追加になった。私は通常、英語版のGoogleを使っているので、気になって日本語版を見ると、日本語側のほうではまだサポートされていない。英語版のほうのFroogleで試しに日本語表示で検索サイトも日本語に設定にしてみると、結果を日本語で表示したが、商品はドル表示に限定されいることと、検索精度がまだまだ実用的ではないことがわかる。なーんだという感じだ。
 と、そこで、そういえば、自分が使っているサプリメントをいつもとは違うサイトで購入してみるか、安いところはないかと、Natures'WayブランドのTru-OPCsで検索して、結果にぎょっとした。こ、これは使える。同じ製品が安い順にきれいに整列されているのだ。Froogleをこれまで試しに使ったことがあるが、自分が購入しようというインセンティブを持って使ったのは、実は初めてだった。そしてそうした状況で使うと、これはものすごいものだと得心した次第だ。
 幸いというのか、Tru-OPCsにはポテンシーと数量にいくつかバリエーションがあるので、ポテンシーの点からどれが本当に安いのかなかなか判別しづらいのだが、ざっと見た感じ、Froogleの評価は正しい。ポテンシーと数量の比較をやっているのか、あるいはディスカウント・パーセントをアルゴリズムに組み込んでいるのか。あるいは、PageRankかそれに類する仕組みで結果的にこうした表示が出てくるのか。まだ、はっきりとはわからない。
 Googleはサイトの評価をすでに初期のPageRankとは別の仕組みで行っているようだ。もちろん、PageRankがまだまだ重要であることは未だに稚拙なGoogle Bombが効くことでもわかる。が、少なくとも、Fresh crawlを決定するアルゴリズムはPageRankとはかなり独立しているようだ。極東ブログがその面で、どうもGoogleの覚えめでたい印象を受けるのは、アレだなと思うことがある。当たり前のことだが、SEOのかたもまだ明白に指摘してないので、ちょっと秘密にしておこう。
 いずれにせよ、Froogleの上位には価格が反映されるようなのだが、これが独自アルゴリズムによるのか、PageRankのような要素で決定しているのか、気にはなる。米人の場合、「破壊的イノベーション」理論ではないが、かなり生活に根ざしたコストパフォーマンスの消費行動を取る。売る側もそれに最適化された情報を露骨ともいえるほど提供する。つまり、そうした米人の消費行動自体がFroogleを最適化しているのだろうかという疑問だ。
 もちろん、アウトラインの説明などには、人工知能的な要素が加味されているだろうし、内部的にもセマンティックWeb的な再統合がされているには違いない。そのあたりの技術というのは、ちょっと溜息が出る。セマンティックWebなんてものは、ティムが考えるように公開の仕様にする必要はないんじゃかと思ったが、逆かもしれない。こうした技術を公開に引き出すために標準化があってもいいのかもしれない。
 話を、私の、びっくりしたぜ、に戻すと。これが日本で実現したら、とんでもないことになるなという感じだ。もちろん、私の生活人としての感性はかなり古いので、米人のような消費行動は取らない。また、ネックとなるのは、恐らく日本の場合、流通だ。つまり、流通という過程で介入してくる隠蔽された国家だ。ここをどう突破できるかが日本での問題になるだろう。簡単な話で言えば、送料と納期の問題である。
 Tru-OPCsの例で上位サイトの日本へのIntenernational shippingについて少しサーベイしてみると、どうも状況がかなり変わった。DrugStore.comあたりでも昨年の時点で日本が解禁されていたので、こうした流れはあるなと思っただが、この傾向はいわゆる大手ショップだけではないようだ。
 また、決済がどうもショップと分離されている面もありそうだ。このあたりは、まさに、IT化っていうものだろう。もう一点、Shippingのための配送作業などがどう標準化されているのか、そのあたりの労働力はどのように分散されているのかも気になる。自分の実感としては、顧客対応に女性が多いことと、アジア系の名前が多いので、もしかすると、こうした対応センターはすでに「雇用流出」なのかもしれない。大げさに書いたようだが、なにかが確実に変わっている実感はある。
 先に日本では、ということを書いたが、問題が流通ということになれば、単純に、個人輸入の敷居を下げればいいのではないかとも思える。下げる最大のポイントは、やはりコストだろう。と、Shipping Cost面の情報を見ていくと、これも意外なほど米国の対外的な対応がシステム化されていることがわかった。以前なら、Shipping Costは、お任せコースみたいなものだったのだが、そうでもない。世界の国がわかりやすくランク分けされている。このランク分けは以前から知っていたつもりだったのだが、ざっと見て、驚いた。韓国と日本に隣国とは思えないランク差がある。また、オーストラリア・ニュージーランドも日本より差がある。当たり前と言えばそうなのかもしれないが、日本は、かなり米国に近いようだ。メキシコの沖といった雰囲気であろう。
 もちろん、以上のShippingはAir(空輸)を想定していて、Surface(船便)ではない。米国から物を買うとき、大きなメリットが出るのはSurfaceなのだが、このあたりの手順は、ネットから見るに、まだまだ従来通りだ。個人輸入代行というと、ゴマ臭い商売ばかりだが、Surfaceをメインに在庫調整するビジネスがあれば面白いのではないかと思う。が、当方、邱永漢老ほど腰が軽くない。

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2004.03.29

英語の辞書

 身近な本屋に行ったら、辞書が山積みだった。そういえば、最近、英語辞書っていうのを買わなくなったなというのと、学習用の英語辞書にはどれがお薦めだろうかとちょっと見た。わからなかった。

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リーダーズ
英和辞書
 実務翻訳に使えるのはリーダーズ英和辞書くらいなものだろう。なにしろ語数がないといけないから。そして実務だったら、ちょっと高いが、EPWINGのEPWING版 リーダーズ + プラス V2のほうが便利だ。私が使っているのはこのバージョンではないが、EPWINGなので、DDWin(参照)が使えるはずだ。データを全部HDに移して他の辞書と串刺し検索するといい。MacならJamming(参照)だろう。
しかし、最近では、英辞郎(参照)でけっこう足りる。っていうか、これでも知りたい言葉が出て来なかったり、あまり正確ではないなと思うこともあるのだが、特定の例を忘れた。ま、医学用語とかだと思うので、それほど普通に使うには問題はない。
 私が普通に英文読んでいて、ちょこっと使うことが多いのは、プログレッシブ英和中辞典だ。特にこれがいいというわけでもないが、見やすいし、なんとなくだが、便利だ。丁寧にできた辞書だとうい印象がある。高校生など学習者に向いていると思う。
 個人的には高校生の学習向けには新クラウン英和辞典を勧めたいのだが、現代という時代を考えるとちょっと引いてしまう。この辞書は、河村重治郎の魂がこもっている。
 現在の高校の現場では、今でも、新英和中辞典 [第7版] 並装が推薦されているのだろうか。ちょっと古い文型なんで、使い勝手はどうなのだろう。英作文に向くと言えるのだろうか。7版になって挿絵が減ったようだが、つまんねー授業を聞いているとき、この辞書の挿絵はかなりおかしいので助かった。だから、この絵だけ増やしてほしいものなのだ。
 言語学的には川本茂雄の英和辞典(講談社学術文庫365)が面白いのだが、絶版のようだ。ちょっと高いが講談社英和中辞典のほうがボロボロにならないか。古いし癖があるので、高校生向きではないような気はする。
 絶版だし、学習者向けではないが、英語に関わる人なら、古書なでめっけたら購入を勧めたいのが田中菊雄ほかの「岩波英和辞典」だ。中島文雄の「岩波新英和辞典」ではない(これは糞)。田中菊雄もすごい人だ。なにしろ、この辞書は、OEDのサマリーなのである。英文学学生垂涎であろうな(ではないのか)。あと、この手の世界が好きな人には、現代読書法(講談社学術文庫)も勧める。昔の人は偉かった。
 OEDのサマリーと言えば、COD。そして、PODとなるのが私が英語を勉強した時代のことであった。今ではOEDはCD-ROMにもなる時代だが、それでも、なにかと私が使うのは、POD (Pocket Oxford Dictionary) sixth Editionだ。これは、なんつうか、今となっては奇書だろう。6版が最後のPODだろう。ちゃんとOEDの風格を残しているのだ。
 7版移行は、英語学習者志向になってしまった。だが、6版がすごいというもう一点は、事実上、発音記号を廃した点だ。英語の辞書には発音記号は要らないのだと事実上主張したのだ。英単語にちょっとフォーニックス的な工夫を加えれば、英単語はそのまま発音できるはずなのだ。が、この試みは挫折してしまった。嗚呼。
 よく英語学習者に英英辞典を薦める人が多いのだが、私は勧めない。というか、英英辞典のメリットというのがまるでわからない。OEDは英英辞典と言えばそうだが、これは、一種の歴史書でしょう。
 ちょっとどっかに出かけるときに便利なのが、ちっこい「ビジネスコンサイス英和辞典」なのだが、絶版のようだ。この用途は電子辞書になったのだろう。
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Roget's
College Thesaurus
  最近の学生は、Roget(ロジェ)を使っているのだろうか。私が学生のころから使って、これって便利なと思うのは、"The New American Roget's College Thesaurus in Dictionary Form"だ。正式なRogetの形式ではないが、実用向けだ。英単語のコノテーションを知るのにも便利だ。安いし、こいつは一冊お薦めしたい。

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自動ドアを敵視するセンス

 コメントとトラックバックへのレスも兼ねてもう一文起こしたい。が、それがこの記事の一番の目的でもない。もう一度、極東ブログ「回転ドア事故雑感」(参照)を書いたときの自分の心情に戻ってみたい。私はこう書いた。


社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。

 もやっとたした点については、明確には書かなかったが、子供を事故で亡くされた親の気持ちが自分にはとてもつらかった。Nakajimaさんからコメントもいただいたが、私もPL法に少し関わったことがあるので、その観点と他の状況から見て、過失は六本木ヒルズ側にあり、親御さんにはないと判断した。裁判でもそうなるだろう。現在の世相から判断して、まさか自動回転ドアにあれほど恐ろしい罠が潜んでいるとは普通考えづらい。そこは親御さんを責められるわけもない。また、自動回転ドアの危険性は技術的には緩和できるはずだ。問題は、あくまで欠陥した自動回転ドアの問題であり、どちらかといえば特殊なケースだと考えた。
 そのことと、同様の状況における子供の安全について、ただ六本木ヒルズを責める世論の流れに違和感を感じた。それじゃ子供が守り切れない。親たちしっかりしてくれよ、と。
 もちろん、六本木ヒルズみたいな糞を弁護する気なぞさらさらない。余談だが、私が極東ブログの筆者であることを知るわずかな人の一人に、なぜ、俺は批判されているのだろう?と訊いたら、「六本木ヒルズの弁護側に見えるからじゃないの」と言われた。そうなのだろうか。私は六本木ヒルズや三菱ふそうの事件には確かにあまり関心ない。もはやバックレも効かない古典的な悪としてお陀仏しているからだ。
 私は47歳にもなる。子供たちを守りたいと思う。親たちしっかりしてくれ、国家も企業も「正義」すらも、あてになんかならないんだぞと言いたい。「事故というものには本質的に責任は取りきれるものではない」なんて言う頭でっかちさんでは、なにがなんでも子供を守るという気概は持てやしないよ。みなさん、都市内で就学前の子供を引率してごらんなさいな、と思う。人の命を守るっていう場に立ってご覧なさい。理論も糞ない。必死だよ。子供を都市から守る経験をしてみなさい、っていうか、それを親たる年齢の人は学びなさいと思う。そんなことは当たり前だろうと言われるなら、それでもいいのだが。
 しかし、そう言ってしまえば、結局、回り回って、事故の親御さんを傷つけることになるなと思った。どう言ったらいいだろうか。黙るのもなんだしな。ああ、これはセンスの問題として考えてもらえたらいいのかな、と。それであの記事を書いた。
 実は、私も同年代の子供を引率して、大きな自動回転ドアを通した経験がある。その時のことを思い出した。私のセンスはこう働いていた。
 まず、そいつ(自動回転ドア)を見て糞っと思った(この時の俺の眼はたぶん野獣と同じだろう)。私は自動ドアが大嫌いだ。自動ドアというもの自体を敵視している。そして、ある意味、無視している。私のセンスからすれば、自動ドアというのは本質的に糞なシロモノだ。イマージェンシー(緊急時)に開閉困難になる可能性がある。自分のセンスではいつでもコイツは叩き割る気でいる。が、次に、だから、必ずバイパスがあるはずだと瞬間に見回す。私のセンスでは、ドアというのものは自力でこじ開けるものだ。そして、私のセンスでは、ドアというのは本質的に危険なものだ。だから、後続の人の安全を配慮せねばならない。
 しかし、この時、私は、敢えて、子供を引率しつつ、自動回転ドアを通させた。慣れさせるためだ。ここだけでこっそり言うが、私は子供を引率しつつ、安全を配慮しつつ、立ち入り禁止の柵を越えさせることもある。それも慣れさせるためだ。私は柵を壊し、自動ドアをたたき割る意志というものも、それとなく子供たちに伝えたいのだ。暴言だが、盗むことも教えたいくらいだ。
 私のセンスがあれば、おそらく六本木ヒルズでも安全だろう、と思った。今こう書いていて白々しいのだが、そう書くのはためらわれた。だから、センスだけの部分を書いた。通じなかったな。通じるもんじゃないのかもしれないなと思う。通じない責は俺にあるだろうなとも思う。
 前回の暴言部分についてだが、これも通じづらいことだったかなと思う。甘かったなと思うのは、吉本隆明の共同幻想論自体、もはや読まれていない時代なのかもしれない。あるいは、国家幻想と対幻想の違いが「国家」に「家」という字面やその幻想性を漂わせることから、国家との連続性を考えてしまいがちなのだろう。しかし、吉本はこの機序には配慮して説明してはいる。しかし、吉本読めよ、という時代でもない。この点は、俺が時代錯誤だったかな、と思う。
 話が少し逸れる。私は、この事件の詳細が気になる。今朝になって、位置センサーの設定が子供を排除したようになっていたことを知った。それを知って、少し納得する。私の技術屋的な感じでは、この事件は、ちょっとありえないという感じもあり、そのありえないはずがあるのは、かなり特殊なケースのように思えるからだ。くどいが、東海村事故じゃないが、たいていの場合、「ありえない」ことが起きるのは、技術的な非常識が背後にあることが多い。なにがあったのかが知りたい。この点でいうと、敢えて書かなかったし、ここで言っても矛盾になるのだが、自動回転ドアの死角をゼロにするにはかなりの技術が必要で、その技術は飽和していないかなとも思う。
 詳細に関連して、私は子供の行動パターンに関心を持つほうなので、今回の状況にその点からも疑問点がある。なぜ、頭が事故部位なのか。もちろん、子供は頭から突っ込むことはあるのだが、それでも、子供も動物的な勘として、頭だけが通れる動的な隙間に身体まで突っ込むとは私には考えにくい。身長と事故位置が10センチ違うので、転んだでもないのだろうが、率直なところ状況にはもう一つ因子があるように疑っている。
 話がおちゃらけるが、蛇足で私流の子供のしかり方を書く。原則は2つ。1、できるだけ叱らない。叱ることで自己充足してない。できるだけ、子供に危険のフィードバックが効くように学習させるためには、ぎりぎりまで叱らない。もう1つは、叱るときは、本気で叱る。理性的に叱らない。本気が通じれば、子供は安心感を持つ。
 もう一つ蛇足。世の中子供と関わらない人が増えてきた。それも生き方だということで是認するのが前提だみたいな表向きの言説だけがふらふらしている。確かに、子供を持つ、育てるというのは、運命もあり、なしたくともなしえない人すらいる。だが、子供の関わることはできる。子供と関わることは、そこに危ねー命があるのだから、こんな難儀なことはない。しかし、それを大人はもっとすべきだと思う。やってみなくちゃわからんことがいろいろあることの重要な一つだ。っていうか、それをすることで、大人になる。もっと、大人語なんか読んでないで、動物的な大人が増えろよと思う。

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2004.03.28

子供はまず親が守る

 「回転ドア事故雑感」(参照)について、わずかなコメントとトラックバックを見た範囲だが、不思議な違和感を感じた。私の考えを整理しておこう。
 まず、今回の六本木ヒルズで起きた事件の責任は、六本木ヒルズと警察にある。疑いのないことだ(警察にも責任はある)。(この判断は妥当ではなかった。「回転ドア事故雑感」3.30追記参照)
 では、親の責任はないのか。今回の事故という範囲でいうなら、まったくない。親御さんに手落ちがあったとは思えない。責められる理由はまったくない。
 この以上の点については、先の記事から変心したわけでもない。
 私が、ここに記事を書こうと思ったのは、しかし、一般論として、子供を守るという責任は第一義に親にある、という点について、明確にしておきたいからだ。
 そう考えたのは、典型例であると思うのだが、トラックバックでいただいた「反資本主義活動等非常取締委員会」の主張に、錯誤を感じるからだ。


 しかし、子供とはそもそも馬鹿だから子供なのだ。大人なら行わないようなとんでもないことをしでかすし、ほんの数秒前まで親が手を繋いでいた子供が、突然駆け出すなんてことはよくある。子供は親に叱られたり、自ら痛い目に遭うことでやってはいけないことや、やったら危険なことを自ら学習するのであり、学習する前に死ぬこともある

 喧嘩を売る気はないが、で?、という感じがする。
 この文章には、「だから、親が、第一義的に子供の安全を守らなくてはならない」と導くことができるはずだ。
 しかし、「反資本主義活動等非常取締委員会」では

まさか、極東ブログでこういった気味の悪い文章を見ることになろうとは思いもしなかった

 というのだから、私の意見とは反対なのだろう?
 推測するに、子供は馬鹿なのだから、その馬鹿さかげんをシステム的なり制度的なりに保護せよ、ということなのだろう。そうか?
 もしそうなら、それはあまりに非現実的な考えではないか。
 例を挙げよう。「ゆりかもめ」をご存じないかたもあるかもしれないが、この鉄道(モノレールか)の駅には、安全のためにプラットフォームを囲い、電車に乗り入れるときのために専用の自動ドアが付いている。これなら、フォームに人が落ちる危険性はなく、優れたシステムだ。
 では、このようなシステムを、全ての駅に応用すべきなのだろうか?
 考えてもみて欲しい。大半の駅のフォームは非常に危険な場所だ。私が引率した馬鹿な子供は危うくフォームから落ちそうになった。
 この危険性から守るのは誰か?
 技術か? より安全なフォームの構造か?
 現状の危険な駅のフォームでも、規則を守れば安全だ。
 では、その規則を子供に告げ、あるいは、身体を張ってその子供を守るのは誰か?
 親ではないか。あるいは、親の代わりの大人ではないのか。
 よりよき未来を想定するなら、全ての駅は「ゆりかもめ」のようであるべきだろう。だが、そうではない駅を欠陥と呼ぶような議論は、あまりに常識を逸しているのではないか。
 エレベーターエスカレーターでもそうだ。あれは非常に子供に危険だ。子供の手を引くのは大人の勤めである。それを、子供は馬鹿だから手を離す可能性があるのを見越したシステムにせよ、と言うのだろうか。
 言うか。本気か?
 話を少し変える。自動回転ドアについてだ。六本木ヒルズの自動回転ドアは欠陥品であることは明かになった。だが、すべての自動回転ドアに、同様の本質的な危険性があるとは私は考えていない。私は、自動回転ドアについて、好悪の考えを持たない。一般的な技術論で言うなら、技術的には可能な限り安全性が確保できるだろうと考える。別の言い方をすれば、自動回転ドアの一般論の問題ではなく、あの六本木ヒルズの欠陥回転ドアが問題なのだ。
 さて、最近、暴論をなんとなく手控えている極東ブログなので、少し暴論に走ろうと思う。
 親子の関係とは、対幻想の延長にある。そして、対幻想は、国家幻想と対峙した独立領域であり、そこには本質的には、国家の法は及ばない。俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。子供を守るのは親だ。あるいは、子供は守られる必要があるから、親が要るのだ。

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回転ドア事故雑感

 大手では毎日新聞だけが社説「回転ドア事故 弱者の目線で安全を見直そう」で六本木ヒルズで起きた6歳児の事故を扱っていた。社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。
 どちらかというと速報のようにこの事件を聞いたとき、安全基準があるだろうから、事件の背景にはなにかディテールがありそうだなと思った。一番気になったのは、子供の行動だった。
 先日、私もひょんなことで、その年代の子供を引率して都心に出かけることがあったのだが、なんどもその子を叱った。その子は、親でもない人に叱られるというのが了解できないような顔をしているのだが、やがて私が本気だということがわかった。それでも、叱る回数は減らない。エスカレーターの乗り方もなっていないわ、地下鉄で電車を待つにもラインを出る。歩道はさっさと歩かない。親はどういうしつけをしているのかと思った。ある意味で、都市部で住んでいても、都市を生きるという生活習慣ができていないのだろう。そんなこともあって、この事件でも子供の行動の問題が背景にあるのでは、と思ったわけだ。
 しかし、後続の情報を知るに、回転ドアに安全基準はないどころか、センサーや動作について安全性の面で欠陥商品であることがわかった。六本木ヒルズなんてリッチかましているが、貧乏臭いシロモノだった。さらに、警察ではこの回転ドアの危険性を知っていたとしか思えないこともわかってきた(この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。目も当てられないふざけた話だ。さらに、またまた社会ヒステリーのように、回転ドアへの危険視が始まってきているようだ。
 人づての話だが、アメリカの大都市のビルは回転ドアが多いと聞いている。とすれば、それに潜在的な危険があれば、なんらかのトピックになっているに違いない。そう思って、少しサーチしてみたが、重要な安全情報は見つからない。足こぎのスクーターやローラ付きの靴などの危険性などきちんと指摘されているのに、この回転ドアの問題は見あたらなかった。事故は少ないのだろうか。あるいは、自動式ではないのかもしれないのだが。
 自分の経験を思い起こしながらぼんやり考えてみる。なんとなく思うことが3点ほどある。1点目は、日本はなぜこんなに自動ドアが多いのだろうか、ということだ。
 といっても、あまり先進国での経験はないのだが、自動ドアの多さというのは日本特有の文化ではないだろうか。例外は大半のセブンイレブンだが。
 自分の感性はこのあたりもずれているのだが、ドアがあるのに、アクセス権を問わないのは変だという感じがする。日本でも「アクセス」という言葉が定着してきたが、この基本的な意味には、認可ということが含まれている。単純なイメージでいえば、ノックだ。あるいは、May I come in? とかWho's it!という言葉に相当する日本語を聞いたことはないように思う。
 ついでに言えば、私という人間の独自行動かもしれないが、私は開いているドアと閉まっているドアを同じに扱う。多くの人が開いている入り口から入るときでも、私は私の基準で閉じているドアを押すなり引っ張るなりする。ロックされている確率は半分くらいだ。開いているドアということ自体にもやや違和感もある。余談だが、自動改札で切符やカードにエラーがあると、自動的に扉が閉まるが、私はこれは踏み越えていこうかなといつも思う。
 2点目は、なぜ日本人は閉まるドアに駆け込むのだろうか?ということ。これは、正直なところ、私もそれに近いことはするので、あまり違和感ないといえば違和感ない。しかし、他人を見ているに、電車の乗り降りが典型だが、明らかに閉まり出したドアに突進していくケースをよく見る。あの神経はわからない。アジアなどで、よく車に乗りきれない人がなんとかへばりついているのを見かけるが、ああいう感じなのだろうか。
 3点目は、若いころ米国的なカルチャーにいたせいか、ドアで後ろから人が来るときは、私はかならず、その人が来るまで手でドアを押さえる。これは米人なら誰でもすることだ。ほとんど無意識にしている。私も無意識にしている。が、日本人でこれをしている人をあまり見かけない。ただの習慣の違いなのかもしれないので、自分が偉いとも思わない。
 と、つらつら文章を書きながら、ドアというものが元来西洋の文化そのものであるのに、その文化性は日本に定着していないのだな、と思う。良い悪いの問題ではないのだが、日本社会は一見西洋化したように見えて、根幹において西洋化していない。その奇妙なひずみがあちこちで出てくるように思う。今回事故に巻き込まれた子供は痛ましいが、どうやら頭から突っ込んだようだ。英語でいうと、Head firstだ。これには別の意味もあるが、あえて書かない。子供を非難したいわけではないからだ。

追記(同日)
 死んだ子供のことを思うともう一つ強く書けなかったのだが、どうもこの記事は誤読されることになりそうだ。なので、あえてもう少し踏み出した点を追記しておこう。
 この事件は、安全基準がない面を考慮しても、明らかに安全面で施工側や警察に非がある(警察については、この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。しかし、こうした事件の再発を防ぐという問題で見るなら、こうした企業側・警察側の安全対策では解決されはしない。もし、そう考えるならそれは間違った安全神話を信仰していることになる。一義的には、子供の安全は、親や付き添いの大人が考えなくてはならない。(そしてそれにはセンスが必要になるのだ。)

追記(2003.3.30)
 その後のニュースを点検してみるに、警察がこのドアの危険性を理解していたとまでは断言するのは妥当ではないようだ。ただ、過去に10回も救急車が出動している。また、ビル側も警察が知っているはずだとしている。現状の判断としては、警察がまったく知らないことだったと断定するのもあまり常識的ではないように思える。

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2004.03.27

領有権=財産権、施政権=信託

 昨日書いた「尖閣諸島、領土と施政権」の続きのような話。識者がどこかにいるのだろうと思うが、わからない。しかたない、自分の頭で考えよう。愚考である。
 尖閣諸島問題について、国内には外務省の公式見解を含め、各種の議論がある。が、それはほとんど領土問題を扱っている。つまり、領有権がどこにあるかを議論している。また、中国や台湾もつねに領土問題として扱っている。だが、米国はこの問題を一度として領土問題としては扱っていない。あくまで施政権の問題だとしている。
 米国の立場は、この点では、日本を叩きつぶした連合国、つまり、国連の立場と同じだと見ていい。だから、国際世界としては、暗黙裡にこの問題を施政権の問題だとしているわけだ。なのに、日本で、この問題をきちんと施政権の問題として議論しているのを私は知らない。なぜなのだろうか。私が無知というだけなら、それでもいい。だが、日本人は、施政権という考えをまるで理解していない、できない、ということなのではないだろうか。
 「施政権」という言葉の歴史をざっと探ってみたのだが、はっきりとしない。基本的に西洋世界の概念だとは言えそうだ。中世の用例がよくわからない。近世になると、植民地との関係でよく出てくる。現代的な意味での「施政権」の考えは植民地などと関連していると言ってもいいのだろう。
 現代では「施政権」は「信託統治」との関連で使われている。言語学的な考えでもあるのだが、この現代の用法から、逆に「施政権」を炙り出してみたい。
 「施政権」は英語では、昨日触れたように、"administrative right"、あるいは"administrative power"となるのだろうか。英語でこのあたりの法学を読んでいないので、私はよくわからないと言えばよくわからない。少し先回りするが、この用語は法学というより、経済学に近いのかもしれない。ので、そちらである程度規定されているのかもしれない。
 いずれにせよ、「施政」とヘンテコな訳語が付いている言葉の原義は、administrationではあるのだろう。
 OEDの系統を色濃く残す、私の愛用のPOD6thでは、administratorが項目となり、一義をmanageとしているのだが、おおっ!POD6thはすげーなと感動したのだが、その対象は、こうある。"affairs, person's estate etc"。うわ、いきなりファイナル・アンサーだな。それ以外にも、"formally give out (sacrament, Justice)"ともある。administrationでは、administering (esp. of public affairs)だ。OEDって神!だな。
 が、話の都合でちょっと語源を覗くと、F,f,L (MINISTER)だ。で、話を端折ると、つまり、原義はservantだとはいうが、管財人の語感があるようだ。
 っていうか、あ、わかったぞ、それで、Prime Ministerが出てくるわけか。OEDの歴史原則ってものすごいな。もうちょっと近世よりにすると、ministerは非国教会派と長老派聖職者を指すわけだが、おそらくこちらのほうが聖公会より古い雰囲気を持っているだろうから、教区の管財のニュアンスがあるのだろう。そして、米語のsecretaryはministerの言い換えなわけか。なるほど、今頃納得したぞ。って、読んでるみなさんにはわからなかいかも、ごめんな。
 いずれにせよ、昨日、administrationに「行政」の意味があるとし、追記で、やべ、三権分立が原則化した現代だと信託統治における「行政」だけではねーぞと補足したが、「行政」の概念は、より現代的なものだ。
 話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめると、現代語の「施政権」は主に信託統治に対応する言葉だが、その際の「施政」="administration"には、すでに、manage estate、つまり、「管財」の原義が含まれているのだ。そして、「信託統治」="trusteeship"であるように、これは、Trust(信託)の概念でもあるのだ。識者にはなんと当たり前のこと言っていると聞こえるだろうか。
 つまりだ、施政権というのは信託の概念であり、それに対応する領土はestateつまり、「財」なのだ。だから、施政権=信託、領有権=財、という関係なのだ。
 そんな当たり前と言われるかもしれないし、当たり前なのだが、これは、「富」と「資本」の関係にもなっているのだよ。「富」は古い英語で言えば、wealthの概念だが、現代の英語では、financial resourcesに近いだろう。そして、これは、財産権によって「所有」の権利でもある。このあたり、当たり前のようだが、日本では財産権が実質的に確立しているのだろうか?
 で、「富」が「資本」に転換されるのは、広義の信託=trustによって、運用(経営)が任されるからだ。昨今、ネットで「資本主義というのは気持ち悪いものだ」みたいな議論があるが、若造、こういう関係を理解しておるのかぁ?
 現代日本の場合、国富はあるし、それを金額的に換算することもできるが、資本としては転換されていない。そうできないシステムになっている。そこが、日本が資本主義国か疑問な点でもある。が、その話は別として話を戻す。
 領土は財であるから、領有権は財産権に相当する。そして施政権は信託に当たる。で、なんでこんな、日本人や中国人、韓国人なんかに理解できそうにもないヘンテコな発想が西洋に生まれたのか?
 日本の史学者が誤解しまくっている封建制度に根がありそうだが、というのは、この概念は日本史学にはユニバーサリズムとしてのマルクス主義から入ったため、日本史にも適用させようとして元の概念が壊れてしまっている。無視しよう、日本史学なぞ。
 が、推測するに、この考え方の原則は、西洋における封土と領土に関係がありそうだ。もしかすると、領土とは王に関連する概念で、封土は信託(トラスト)に近いのではないか。
 西洋の封建時代と言っていいのかわからないが、この時代は、領民と領有域が基本的にキング的な王の財になっていた。だから、結婚とかで財産分与すると、これが、まるでピースの欠けたジグソーパズルのような状態になる。西洋の地図を見て、変なパッチワークになるのはそうことだ。
 当然ながら、これを国家として見ると、国家に所属する領土のような、まるで鉄柵や壁で囲むような領土の概念ができない。
 話は逆で、むしろ、領土概念ができるのは、このようなキング的な王の財の制度が崩壊してからのことだ。それは、ある意味で、王を倒して、王の代替としての国民の主権を確立し、王から没収した財をその主権に帰属させたからだ。だから、米国など、西洋の発想では、領土が主権との関係で議論されるのだ。
 昨日、こうした関係を考えていて、はっと気が付いたのだが、極東ブログ「試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)で、日本国憲法を直訳したとき、奇妙なひっかかりがあったのだが、これもこのスキーマに関係したのだ!


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。
the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。
the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、
and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

 考えながら、この文章を睨んで、うぁと私はうめき声を出してしまったよ。これは、まさに今日のめんどくさいスキーマ通りなのだ。
 つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。authorityというのは財産権なのだな。
 くどいが、日本国において、政府とは日本人=主権が信託したものなのだ。
 でだ、先に富と資本の関係に触れたが、領土と領民という資本を任された政府はその活動による利潤を、オーナーである主権者日本人に返せ、というのわけだ。
 この文章は、そーゆーことを言っていたのだ。そんな解釈は電波か? いや、これが正当な解釈ではないのか。そんなこと当たり前? 
 つまり、そのように信託された政府の「管財代表」だから、Prime Ministerなんだよ。
 小泉、テメーはわれわれの番頭さんなんだよ。きちんと経営して国民に利潤を返せよ! っていうか、おそらく封建制度における「税」という概念は、この財と管財の分離から派生したものだろう。
 書いていて、溜息が出る。西洋ってすげーなである。日本国憲法って偉大だなと思う。そして、私はまた断固憲法改定反対論者になろう。もちろん、米国憲法のように、修正項はあってもいいし、追加もされるべきだが。
 同じ論理が憲法前文末にも徹底されている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける
to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、
with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

 これって、ヘンテコな英語で書いてあるが、ようするに、日本国という財(all our resources)を資本として政府に運営する際の、経営方針なのだ。日本というのは、高い理想のために運営されるNPOみたいなものなのだ。で、それは、ちょうど資本主義における資本の投資(馬から落馬した見たいな表現だが)によって、「しまった、すってんてんになっちまったぜ」というのを日本人は覚悟しているということなのだ。
 また、言う。日本国憲法って偉大だなと思う。本気で泣けてくるぞ。
 それにしても、どうしてこんな奇っ怪な考えが西洋に出てきたのか。先に触れたように、「税」(=利潤)が関連しているとは思うのだが、この考えのスキーマは、聖書にもある。タレントの語源タラントが、神の信託であり人はその才能(タレント)を運営して神が喜ぶことをなせ、というスキーマだ。が、聖書のこの発想は、当時のヘレニズム世界の世界観でもあったのだろう。おそらく、ヘレニズム=アレキサンダーによる世界統治、がこの考えを人類に産み出し、ローマに引き継がれ、西洋に渡り、より洗練されて、日本人が引き継いだのだろう。

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2004.03.26

尖閣諸島、領土と施政権

 尖閣諸島・魚釣島に24日、中国人活動家7人が上陸し、入管難民法違反の疑いで逮捕された。率直なところ、よくわからないニュースだと思う。中国人がなんか派手にやらかすときは、たいていの場合、中国社会でなにかその必要性があるのだ。犬を指して豚の罵るの類だ。時期的に見れば、台湾総統選挙との関連だろうか。こうした問題も基本的に、中国内で、誰が困惑し誰が利するか。と見ればいい。中共としては現政権が困る。台湾としては、民進党側が困る、ということか。いずれにせよ、こうした線がはっきりしてこない。日本国内のメディアの大半の言及はほとんどが失当だろう。
 今回の動向を見ていて、日本の空気が変わったなという感じもする。まるでこの活動家たちは北朝鮮の工作員のように扱われている。もちろん、違法行為という点では同じではあるだろう。左翼の朝日新聞がこうした空気を嗅いでなにを言うのかと思ったら、社説「尖閣――火種の管理をぬかるな」では、海上保安庁を責めていた。そう来たか。左翼とかインテリ、ジャーナリズムもなんか、言論をゲームにしているな。ということは、もう知性の限界ということなのだろうか。
 確かに海上保安庁の怠慢はあるのかもしれないが、それが本質的な問題であるわけもない。日本国としては上陸を見逃すわけにもいかないし、そうなれば逮捕する以外の道もない。そして、中共側とて、言葉で引くわけにもいかない。しょうもない外交問題起こしやがってと思うがそれが、活動家の狙いだ。
 が、今回、ちょっと違った風景かなと思ったのは、米国が早々に助け船を出していることだ。やっぱ、日本の外交戦略は金で頬をひっぱたけ、だよなである。産経系「『尖閣は日本の施政下』米副報道官」(参照)を引く。


 エレリ副報道官は「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本の施政管理下にある。日米安保条約第五条は、日本の施政のもとにある領土に適用される。したがって、安保条約第五条は尖閣諸島に適用される」と述べた。その一方で、日本と中国、台湾が領有を主張していることにも言及、「米国は最終的な主権に関する問題については、いかなる立場をもとらない」と述べ、主権問題にかかわることは慎重に避け、当事者に対して平和的解決を図ることを強く呼びかけた。

 結局、これまで尖閣諸島については微妙に言及を避けてきた米国だが、この事件をきっかけに軍事的な意味合いについて尖閣に関連して明言せざるを得なくなった。これは、日本の空気も読んでのことだろう。
 こうなると、胡錦涛も苦虫を噛むしかない。活動家たちは、先日の台湾民進党への米の冷ややかな態度を読んでいたのだろうが、日本を甘く見て、結局のところ地雷を踏んでしまった。というわけで、この問題は日中という枠組みではそれほど問題にはならない。
 ところで、今回の事件で、国内報道を見ながら、やたらと尖閣諸島を「日本の領土」だとする表現が目に付いた。私は最初は、最近のジャーナリストも馬鹿になったものだなと思ったが、この横並びはなんなのだろうか疑問に思えてきた。
 ネットをぐぐると当然、雨後の筍のごとく、尖閣諸島は日本の領土論が出てくるが、率直なところ、歴史好きって政治音痴みたいなのが多くて閉口する。端的な話、清朝時代の話などはどうでもいいのだ。
 米国は依然、明確に、尖閣諸島の領土は未決と断言しているのだ。そして、それが国連、つまり日本を叩きつぶした連合国の公式見解であり、国際評価なのだ。重要なのはそれだけ。その意味で、尖閣諸島は日本の領土ではないのである。日本人ならその事実に目をふさいで、わっしょい言ってちゃだめなのだ。
 だが、「尖閣諸島が日本の領土ではない」ということはどういう意味かというと、これは沖縄に及ぶ。沖縄は依然日本の領土ではないのだ。まさかとか電波とか、うんこ飛んで来そうだが、米国は言わなきゃならなくなれば、そう言うわけだ。というか、今回のエレリ副報道官の言及には、それが暗黙に含まれている。
 とんでもねー話で、せめて沖縄県の範囲くらいは領土的に落ち着けなくてはいけない。そこで、最大の秘策としてできたのが沖縄サミットだったのだ。沖縄に先進諸国の雁首を並ばせておけば、もう日本の領土ではないとは口が裂けても言えやしない。小渕よ、野中よ、そこだけは感謝するぜ。反面、このとき、沖縄サミットに産経新聞が田久保忠衛を使って陰湿に反対しているのを俺は絶対に忘れないぜ。
 というわけで、沖縄はもう事実上日本の領土になった。加えて、李登輝が援軍を出して、尖閣諸島は日本の領土だと言明してくれた。彼はようやく事実上民進党になったので、あとは民進党が憲法を改定すれば、尖閣諸島と沖縄は日本の領土として中共の手が及ばなくなる。台湾独立、自主憲法制定というのはそのくらい日本の国策に大きな意味があるのだが、と、罵倒してもわからんやつが多い。
 話を少し戻すと、正名台湾となっていない中華民国、つまり国民党も未だに、沖縄県を含めて尖閣諸島の領有権を主張している。台北から那覇に飛んでみると面白いものだが、その逸話はすでに書いたので、ここでは書かない。
 問題は、糞な「中華民国」というお題目にある。そこで、奇っ怪なのだが、国連は、現在の中共、中国共産党、もとい、中華人民共和国を中国の政党政府としているのに、国連内の文書は改定されていないようだということ。未だ、中華民国のままのだ。え?みたいな話だが、中共側がこれを突いた形跡もない。ただ、この問題がそれほど大きな問題にならないことは、香港の帰還で片づいている。日本では報道されなかったようだが、香港割譲というのは契約に基づいたものだが、その相手は中華民国であり、契約書は台北にあるのだ。なのに、この契約書事体は事実上反故にされたので、その意味で、「中華民国」の名前の威力も、要約事実上無効になった。
 どうも長ったらしい話なったが、この最近の歴史経緯を歴史好きの人たちが見逃しているように思えるので、ふれておいた。
 で、問題は、エレリ副報道官が、「日本の施政管理下にある」として「主権」を避けたのだが、この「施政管理」とはなにかだ。話を切り上げるために端的に言えば、施政権である。1972年に沖縄本土復帰というが、ここで復帰したのは、施政権だけである。領土ではない。
 領土と施政権の関係について、もう少し突っ込むべきなのだが、話が長くなってのでまたの機会としたいが、今回の阿呆な事件で、施政権について日本がどう考えているのか気になった。法学ではどう扱われているのだろうか。というのも、英語では、administrative right、あるいはadministrative powerとなるはずで、日本語でいうなら、行政権である。で、法学の行政権の考えに、沖縄の帰属に関する施政権の問題が含まれているのか、というと、それがまるでわからない。だれか、きちんと整理して欲しいというか、そういう文書があれば読んでみたい。
 つまらない話のオチのようだが、administrativeというのは、Windows XPとか使っている人なら知っているはずの、administratorと同じ英語だし、つまり、施政権や行政権というのは、Windows XPマシンという領土に対するadministratorログインの感覚なのだ。なんとなくわかるだろうか。あれ?っていう語感の齟齬があるとすれば、われわれがいかに、領土と施政権をきちんとイメージしていなかったか、ということになる。

追記(同日)
 託統治の場合は、施政権に立法・司法・行政の三権が含まれる。

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2004.03.25

私は週刊文春の反論は間違っていると思う

 今週の週刊文春を買って、ざっと見た。目次を見て、識者の雁首を見て、ここまでするか、これじゃマッチポンプの特集だよ、と思った。それだけでひどすぎはしないか。もっとも、立花隆の名前を見て爆笑はしたが。
 私は率直に言うのだが、この識者の一覧を見て、そして、その大半に、文春が悪いよと言うものがいないよコレクションを前に、ちょっと、びびる、な。極東ブログは今のところ匿名とはいえ、いちいおうそれなりのネットのポジションを持っているのだから、私の言論の質が問われるわけだ。が、こういう言論の状況のとき、私の原則は、危ない橋を渡れ、だ。私は私が間違うことを恐れてはいけない。私は利口そうに自分を守るな、ということだ。満身創痍にでもなりますか。
 その前に、文春に掲載されていて、文春を批判した人の名前を名誉で列記しておこう。住信基礎研究所主席研究員伊藤洋一と作家藤本義一。藤本は喧嘩両成敗なので、結局、反論を乗せたのは一人だけ、なーんだ。
 私の考えは前回と変わらない。最大の問題は、直接言論の自由とプライバシーという構図で見るのではなく、まず、裁判所の動向を見ようということだ。私の関心は、国家という一般意志がどう私と関係するかだ。私の権利と私のプライバシーを原則的にどう守りうるかだ。その意味で、極論すれば、ジャーナリズムなんかどうでもいい。そして、私は、田中真紀子の娘は私と同じ、純然たる私人だと考える。
 文春の問題提起は、意図的なのか、未整理のまま、やけくそ的にぶちまけているのだが、問題の一点に、「田中真紀子の娘は私人か?」という問題がある。文春は、厳密には私人じゃないと言いたいらしい。そして、その補強として、普通の庶民がこんな訴訟できるわけないじゃないか、とか、田中真紀子の秘書を使うお嬢様だった、とか、ある。が、その手の話は阿呆臭い。庶民と私人は別の概念。立花隆は「純粋私人などではありえない」と言うが、「純粋私人」って日本語じゃないよ。この手の線で見るなら、田中真紀子の娘はグレーゾーンかということだろう。つまり、将来政治家になりうるからというのだが、この言い分は詐術だ。現状のステータスがグレーかという議論ではないからだ。私人ではない潜在性ということだ。だったら、それが顕在化したとき、過去に遡ってほじって書けばいいだけのことだ。で、この私人か?論は終わっているのではないか。この手の議論に参加したヤツは墓穴を掘ってご愁傷様なのではないか。おめーら、ほとんどファシズムだよ。
 錯綜したもう一つの問題は、この一記事をもって、他の記事を含む週刊誌全体の発売を禁止してもいいのかという問題だ。これはSPAの巻頭コラム勝谷誠彦も書いていた。私は、なんか、阿呆臭くて涙が出そうだ。なぜ、阿呆? それは物書きにとって基本のキ印が抜けているからだ。基本は、まず資料に当たれ、である。すでに20日は地裁の決定が出ているのだから、それを読めよ。その上でこの議論が成り立つかを検討しろよ。というわけで、私はこの件について原文ではないが、リソース「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」(参照)を用意してある。これは極東ブログでは例外的に無断転載だ、というのはこれは転載されるべきだと判断した。この判断が責められるなら、削除したい。
 で、「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」では、この問題が十分に考慮された跡ある。


 以上によれば、本件仮処分命令の申し立ては、被保全権利と保全の必要性の疎明に欠けるところはない。仮処分により差し止められたのは、本件記事が含まれた雑誌の販売であり、本件記事以外の部分は、本件記事を削除するならば、販売を何ら妨げられていない。
 そのためには、債務者において相当の費用をかけて削除ないし本件記事を含まない雑誌の印刷を行う必要があるが、それは経済的損失に過ぎず、債務者のその他の記事の表現の自由自体を制限するものではない。多くの発行部数を有する雑誌では、その経済的損失も軽視し得ないが、プライバシーの侵害行為が伴っていた場合にこれを被ることは、多くの部数を販売することにより経済的利益を得ていることの半面として甘受すべき結果と言わざるを得ない。

 つまり、この下らない記事を削除して販売しなさいよ。ということだ。それをするかしないかは、文藝春秋側の経営の問題に過ぎない。ケチらず刷ればいいのだと思うが、今週号を見るに、そうしないシラを切るために刷らないわけだ。連載執筆者の不利益の責は、明白に文藝春秋側にある。と、なんだか文章が裁判所風に感染ってくるが、そういうことだ。だから、この線も、実は問題じゃない。
 で、本丸、そもそも出版の自由を弾圧したか?だが、これも「文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容」に対応する配慮がある。それを読まないで一般論的に言論の自由弾圧は許せんとかいうのは、クルクルパー。

 原決定の法律上の効力としては、取次業者や小売店などの占有下にある本件雑誌が一般購読者に販売されることを直接に阻止しているわけではないというべきである。

 別に今回の件では、出版の自由がというほどの問題ではないのだ。こういう些事で、出版の自由という大切な問題をごった煮にしないでほしい。
 さて、ではこの問題はどうすればよかったのか。
 まず、私ははっきりとしていると思うのだが、この記事は差し止めされるべきものだった、と考える。問題は差し止めの手順が明確になっていないことだ。この現時点で言うと日垣隆の受け売りになるのだが、彼の原則論の示唆が正しい。つまり、この手の問題は次のように整理される(私の言葉で)。

  1. 記事差し止めにはそれが可能な締め切り時間がある。
  2. 一度出版されたものの回収はできない。
  3. だから、出てしまったものは民事で被害を争う。

 日本には、日本の出版界というかジャーナリズムには1の原則が存在していなかった。この先、日垣の考えは私と同じではないので、これにてバイバイ。
 私は、この原則をジャーナリズムの業界が前もって検討しておくべきことだったと考える。それをしなかったのは、甘えがあったのだろう。
 この点から、地裁の今回の判断はどうかというと、意外なほど、欧米流の出版の原則に擬似的に従っているように見える。
 1では、日本では、締め切り時間がないのだから、ずれ込むのは仕方がないが、裁判所が判定できる。そしてその時点で、止められる。
 2では、出ちゃったものの回収を命じてはいない。
 本来なら、締め切り日の原則があるべきだが、それが存在しないし、そうした議論を出さないで変なお祭りをやっている文藝春秋はどうかしているよ、と思う。いずれにせよ、そういう原則ができないなら、地裁の今回の判断は、近似値としてかなり良い線を行っていると私は評価する。
 ところで、福田和也が週刊新潮でこう言っている。

公権力によって、事前に雑誌の出版が止められたということ。それが異常な事態であり、許容することはできないことを再確認する必要があります。

 福田和也も学者なんだから、ジャーナリズムから言うのではなく、学の手順で物を言えよ。つまり、事実と裁判所の見解と世界の原則を学の手順にかけろよ。
 さて、と、以上で終わり。これにコメントはしないでと言う気はさらさらないが、ウンコ投げはやめ下さいね。まとまった反論があったらご自身のブログに書いて、トラックバック下さると当方は助かります。

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郵政事業民営化について最近思う3つのこと

 毎日新聞社説「郵政事業改革 民営化後の姿見えてこない」を借りて、郵政事業民営化について最近思うことを少し書いてみたい。この問題の全貌を扱うことは難しいし、これまでの経緯をざっと眺めてみてもなんだかよくわからなくなってきている。ので、話題を3つ絞る。
 気になることは3点ある。1つは、小泉純一郎首相が郵政事業民営化について「道路公団を1とすれば100」というのだが、道路公団問題のおかげで、国民の関心自体に疲弊感はないだろうか、ということ。
 結局、道路公団って何?というのがわからない。猪瀬直樹などが奮闘したことはプラス面もあり、マイナス面もある。なかなか割り切れないのだが、いずれ猪瀬は問題のディテールをわからせようしたいのか結果として煙幕なのか、大衆には理解できない。が、この問題は大衆が理解できなくてはいけない問題なのだ。ジャーナリズムも機能しているようにも見えない。また、極東ブログでは阿呆臭いなというだけで、ある意味大規模な問題をはらんでいる石油公団には、あまり突っ込んでいない。率直のところ、こっちはゼロから仕切り直していいはずのだが、ジャーナリズムではあまり問題にもならない。当然、大衆は問題視すらしていない。ウンザリしているのだろう。こういうある種のウンザリ感が郵政事業民営化をきれいに覆っている。それ事体がやりきれない感じがする。
 2点目は、これが一番大きな問題だが、郵貯は残高233兆円って何よ?、ということだ。国債としては、郵貯・簡保が昨年末時点で合計135兆円の国債を保有している。これは国債の四分の一。毎日新聞も指摘しているが、財務省は民営化後も郵貯・簡保を安定的引受先と決め込んでいる。日本って資本主義国なのか。事実上の見えない国家予算を発生させてはいけないのではないか。というか、そこに歯止めをかけることと、それを可視にすることが、郵政事業民営化にとって一番の問題点ではないのか。そもそも、民間の財が巧妙に国家に吸い取られるような仕組みを変えるということが、郵政事業民営化の最大の目的ではないか。ということは、すでに各所でも言われているといえば言われている。でも、そこがはっきりして来なくなった。なんだよと叫びたい感じだ。
 3点目は、もっと孤立した関心かもしれない。私は気になってときおり調べるのだが、信書というもののの問題だ。用語しては特定信書便(参照)になる。この問題は宅配事業の規制緩和としてよく問題になるのだが、私の関心は、それほど、そこにはない。個別の問題意識で言えば、宅配事業が特定信書便に参入した際、それは本当に信書になるのか、ということだ。
 これは以前も書いて誤解されたのだが、憲法21条2項の通信の秘密についてだ。以前は、メールは信書かということで考察した。「電子メールは憲法で保護されているか」(参照)、「再考・電子メールは憲法で保護されているか、は変な議論か」(参照)、「さらに再び電子メールは憲法で保護されているか」(参照)。
 極東ブログなど辺境のブログは読者のリアクションをそれほど期待するものでもないが、この問題は、あまり関心を引かなかった。法の専門家と思われるかたが、ごく基本的な教条的な考察をしただけに見えた。いずれにせよ、メール内容は法的に秘匿対象にはなりそうにない、ということに私は結論づけた。この関連で、宅配事業が特定信書便に参入した際、どうなるのかも少し触れた。
 確か、今日から、ヤマト運輸がメール便サービスを個人向けに開始する。これは、特定信書便ではない。だが、実際の運用はそうもいかないだろう。
 ヤマト運輸がメール便は、それが個人で使えると非常に便利なので、以前検討したことがある。だが、事実上ダメだった。今回ようやく、個人向けに開放される。「ヤマトVS郵政公社…個人向けメール便参入」(参照)から。たぶん、ブログ購読者のかたにも有益なインフォだと思うので引用を多めにする。


 ヤマト運輸は24日にも、これまで主に企業向けに展開していた「メール便」サービスを個人向けに拡大することが分かった。低料金を武器に、日本郵政公社との全面対決に乗り出す。
 メール便は、A4サイズ程度の封筒で、パンフレットやカタログ、書籍などを家庭の郵便受けに投函(とうかん)するサービスで、個人を特定した書状など「信書」は扱えない。
 ヤマトの「クロネコメール便」は、重量1キログラムまでしか扱えないが、料金は50グラムまでが80円、300グラムまでが160円など、郵政公社の冊子小包(150グラムまでが180円)や定形外郵便物(50グラムまで120円)に比べて割安となっている。
 23日付の日本経済新聞によると、ヤマトは個人向けのメール便を全国約2600カ所の営業所で受け付ける方針で、将来的にはコンビニなどでの扱いも検討する。

 サービスとして便利だ。これでアマゾンの古本市場で文庫が買いやすくなるぞ、わーい、ということだが、問題は「信書」だ。記事に特記してあるように、メール便では信書は扱えない。で、もっとはっきりとその問題点を言えば、大衆はそんなことは理解しない。もちろん、ヤマトの店員は注意の説明をするし、大衆でも言われたことは理解する。しかし、絶対に私信をまぜる。まぜないわけがない。その分離は、あまりに不自然だからだ。
 そして、そうしてまぜた私信は信書の扱いを受けない。
 私は、メールのプライバシーについては、仕方がなければPGPでも使うしかないと思うし、メール便に忍ばせるメモ書きはプライバシー対象にはならないなと腹をくくる。が、それでいいのだろうか。常識的にこんなのおかしいよと思う。

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2004.03.24

ユニクロ野菜の失敗

 通称ユニクロ野菜こと、ファーストリテイリング全額出資子会社「エフアール・フーズ」(ブランド名「SKIP(スキップ)」)が解散することになった。私の率直な印象は、かなりのショック、だった。そのあたりを少し書いておきたい。
 ビジネスとしての失敗要因を表層的に指摘することはそれほど難しくはない。イトイ(糸井重里)の絡んだ企画はポシャルもんだよな、みたいな皮肉は要らないほどだ。が、ニュースを見ると、失敗の説明は、ややまばらな印象は受ける。共同系「ユニクロ、野菜事業を断念 割高で客足伸びず」(参照)では、プライスに着目していた。


 しかし、品質を売り物にしたためスーパーの店頭価格に比べると2割程度値段が高くなって利用者が伸び悩み、03年6月決算では、9億3000万円の経常赤字に陥っていた。

 朝日系「ユニクロ、野菜販売から撤退 会員確保できず子会社解散」(参照)ではより抽象的に会員不足としていた。もちろん、会員不足の理由はプライスかもしれないのだが。

 カジュアル衣料専門店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは22日、02年秋に参入した野菜・果物の販売事業から撤退する、と発表した。事業に対する見通しが甘く、会員制の宅配で目標の会員数を確保できなかった。店舗販売でも集客が伸び悩んで、黒字転換のめどが立たないと判断した。

 同記事には会長のコメントもある。

柳井正会長は、「衣料品と異なり計画生産できなかった。これ以上赤字が膨らむと取引先や株主に迷惑を広げる恐れがあり、撤退を決断した」と話した。

 これは意外に含蓄深い。が、もう一点、先に進めて、産経系「会員数伸びず… ユニクロ「農産物」撤退 復調アパレルに専念」(参照)を引く。

このため、初年度十二億円前後と見込んだ年商も六億五千万円と半分程度にとどまり、十億円近い経常損失の計上を余儀なくされた。需給をうまく合致させることも難しく、現状の社内ノウハウでは収益化は困難という。

 ユニクロ野菜の事業失敗に、どういうイメージが湧くだろうか?
 私はスキップの会員だったので、その点から言うと、個々の野菜の価格はさして問題ではない。へたな有機野菜よりはるかに安い。が、送料のコストはどうしても割高になるので、ある程度のグロスが必要になる。それがオーダーのめんどくささにつながる。
 オーダー自体はネットから簡単にできる(が、当初はクレジット決済のみ)。難しいのは、どういう野菜の組み合わせで買うかだ。スキップ野菜はあまり保存の利かない生鮮食料だし、ある程度はグロスで買うので、買ってからの献立を考えておかなくてはいけないのだが、配送日が不明。
 献立が難しくなる、というかめんどくさい。結局、私の場合、ジャガイモやサツマイモ、カボチャなど保存の利くものをメインに買って、他に配達時に即食えるサラダやお浸し用の葉野菜や果物ということになる。
 ある程度共同購入のサークルか店舗があればいいなとは思った。その後、店舗はできたが、私の生活圏にはない。店舗はある程度富裕な地域を狙ったのだろうが、マーケティングのミスだ。そういう地域ではニーズはないのだ。むしろ、そこから2段階くらい落ちたところを狙うべきだった。単純な指標で言えば、低温殺菌牛乳の販売状況を参照すればよかったのだ。低温殺菌牛乳の味の違いがわかる地域なら、2割高くらいでも売れる。
 こうした通販の問題は、生鮮食品だからというわけではなく、スキップより前に失敗していた千趣会の食品部門e-shopでも同じような問題があった。こちらは、生鮮ではないが、ざっとした印象で言えば、在庫管理がいわゆる千趣会とは違うマネッジができなかったのだろう。
 高級野菜の需要という点では、産経系に暗黙にあるように、総じてワンランク上の食材へのニーズとしてあるだろう、というか、実際スキップでも、これはという商品はよく品切れになっていた。
 話を戻して、私がショックというのは、あの永田農法の野菜を簡単に食うのがこれから面倒臭くなるのかということだ。私は永田農法の野菜をうまいと思うからだ。特に残念なのは、カボチャとサツマイモだ。
cover
永田農法
おいしさの育て方
 と、「永田農法」というキーワードを出したが、これが非常に面白い。すでに各所で語られているので、同じような解説をここで書く必要はないし、それに書いてもうまく通じはしない。有機農法でもそうなのだが、どうしても、「頭でっかち」とでも言うべき、一群の雑音のような、味覚もない支持者が出てくる。だが、永田農法の野菜は、極めるところ、その野菜の味になるので、それに直面した驚愕感と知識がどうしてもうまく結びつかない。関連書籍もいろいろ読んだが、かろうじてお薦めできるのは、「永田農法 おいしさの育て方」だけだ。あるいは、類書の「食は土にあり―永田農法の原点」もいいかもしれない。
 永田農法の創始者永田照喜治はまぎれもない天才だ。これがどのくらいすごいかというと、糸井のエッセイにあった逸話だが、永田は野菜はセラミック包丁で切ったほうがいい、とさらっと言う、ことだ。私は、おおっと思う。言われてみれば当たり前なのだが、少なくともその味覚の違いがわからないと永田農法の野菜の真価がわかりづらい。ただ、しいていうとスキップの野菜はそれほどには永田農法に徹したわけでもなかったが。
 永田農法は非常に不思議な意味で、有機農法の否定でもある。また、これほど管理化を必要する農法もない。うまい野菜を作るというのだが、これが植物にとってよいことなのかすらわからない。が、できた野菜は奇跡に近い、と言うだけ、まどろっこしいことになる。
 頭でわかりやすい範囲でいうなら、野菜の硝酸塩の問題がある。なぜ識者が指摘しないのか不思議なのだが、日本の野菜の硝酸塩の濃度はヨーロッパの基準なら、市場に出せないはずだ。そんなものがまかり通っているのだが、批判はあまり見かけない、と、私もあまりこんなところで雑駁に言うのもよくないので切り上げる。が、永田はそれより進めて、野菜のエグ味や青々しい色まで、良くないのだとまで語る。特に、緑のお茶は不自然だと断言した。私はお茶が好きで、蘊蓄の領域になりつつあるのだが、今まで疑問に思っていたことが永田の指摘で得心した思いがした。

 ところが、あのお茶の緑色こそ、硝酸態窒素の色なのです。昔の茶畑を知っている人ならば覚えているでしょうが、本来のお茶の葉は山吹色なのです。この原因は、油粕などの有機肥料、窒素肥料の多用にあります。(中略)
 緑の茶畑は悪夢なのです。安全意識を高めて、本物を見分ける目を養ってください。

 「茶色」という表現がなぜ、茶色なのか。各種の説があり、実際の茶色を見るに茶染めかとも思う。が、それでも茶は、茶色に近いものだったのだろう。
 永田の言葉は表現が拙い点や常識を外れた点も多いので、人によっては「電波」扱いするかもしれない。くどいが、永田の真価はその野菜なのだ。あの奇跡の野菜を食ったら、「電波」だみたいな阿呆な評は口を出ない。
 世の中には本当にうまい野菜がある。しかも、その基本的な「農」の原理がたった一人の天才で確立された。しかし、その野菜を日本に流通させることは難しい。ユニクロは失敗した。
 どうにかならないものなのか。日本の社会にとっても大きな問題だとも思うのだが。
 極東ブログもどうやら社会派ブログの仲間入り臭いが、社会派とはなんだろうと思う。政治にぼやくことやエコを声高に語ることだろうか。私は、社会は生活と切り離されてはならないと思う。そして、生活は、われわれが生命体であるその官能性に拠っているのだ。理論的には味覚のない人間にだって理想社会を論じることはできるだろう(ネットにもいるじゃないか)。だが、味覚のある人間は理想社会を味覚でしか納得しない。
 栄養士どもは、健康のために野菜を食えだのとぬかすが、日本の野菜の惨状を知らないのだろうか。なぜ、大根がみんな同じ長さなのだ? ニンジンをなぜ子供が嫌わなくなったのか? キュウリがつるっとして、触って指に刺さらないのか? ホウレンソウの葉のギザギザはいつ消えたか? それを看過して、何が野菜を食え、だ。

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2004.03.23

大久保・グリーンスパン・彦左衛門

 少し前の話になるが、1月27日連邦公開市場委員会(FOMC)で、現状の金利を継続するか意見が分かれたらしい。日経系「(3/18)1月の米FOMC、超低金利の継続巡り意見分かれる」(参照)にはこうある。もっとも、意見の違いといっても古典芸能のごとくだ。金利自体が問題になったわけでもない。


 FRBが18日公表した1月のFOMC議事録によると、「かなりの期間」を削除することに異論は出なかった。問題になったのは「忍耐強く」という表現。委員の多数はこの表現を盛り込むことで、超低金利政策の修正を急がない考えをにじませ、市場に安心感を与えるべきだと主張した。これに対して少数の委員は新しい表現が市場に別の思惑を与え、金融政策の運営を複雑にしかねないとの懸念を表明。超低金利政策の継続期間を示唆するような表現をすべて削除するよう求めた。

 フェデラルファンド(FF)金利の誘導目標を年1%に据え置くこと自体が問題にならなかったのは、その最大要因は雇用問題にあるからだ。あられもなく言えば、雇用で攻め出した対民主党の選挙対策といったところか。FOMCではこうだ。

失業数は減速しているが、新たな雇用は遅れている。

 これがほんとに遅れているかについては、極東ブログでも少し扱ったが、議論で決するというより、年内中には様子が見えてくるだろうからそれを待とう。問題は、それが見える前に大統領選挙があるということだ。選挙がらみで言えば、11日グリーンスパンの米下院教育労働委員会証言も同じようなものだ。「(3/11)米FRB議長『保護主義、雇用創出につながらず』」(参照)より。

 米議会では中国やインドなど国外への雇用流出を抑えるため、生産の国外移転や業務の外部委託などを制限する法案を提出する動きが広がっている。これに対して同議長は「疑わしい処方せんは事態をより悪化させる」と強調。「保護主義的な措置をとれば海外から報復を受け、かえって雇用を失うことになりかねない」と語った。

 「報復」ってなんだ? WTOと鉄問題? まさか。しかし、日欧が念頭にあるのか。いずれにせよ、教科書通りの経済学的にはグリーンスパンが正しいので、あまり政治的な意図を読むべきではないのかもしれない。それでも、共和党側は保護政策は出さないだろう。
 話をFOMCの金利の決定に戻す。関係者は、「ま、低金利でしょ」で決まりだが、それで済む話でもない。17日のNew York Times"The Cost of Cheap Money"(参照・要登録)では、このあたりをわかりやすく説明している。

The Federal Reserve Board announced yesterday that it would keep its overnight interest rate where it has been for nine months - at 1 percent, its lowest level since 1958. Factor in inflation, and Alan Greenspan is essentially lending money at a loss. This cannot go on indefinitely, and it should not go on much longer.

 "at a los"は高校生の英語じゃないんだから、「途方に暮れて」ではない。赤字を出して、ということだ。マイナス金利ってやつだ。New York Timesとしては、FOMCの作文問題ではなく、実際の金利を問題視している。
 実際このマイナス金利が効果的に効いているのは、住宅バブル、おっと、住宅市場の好調さだ。これもざっくばらんに言えば、住宅市場が好調なので住宅の資産価値が上がり、その上昇分の皮算用のローンが消費に回っている。New York Timesの言葉を借りたほうが上品か。

There is no question that the Fed's loose monetary policy helped jolt the economy back to life last year. It increased corporate profits and prompted consumers to refinance their mortgages and to spend their way into plenty of other debt.
(中略)
Many homeowners, and consumers in general, are borrowing recklessly, betting that rising housing prices and easy credit are here to stay.

 なんつううか、国を挙げてのマッチポンプ感がある。住宅投資は投機的ではないとはいえ、その市場がポシャれば一巻の終わりだ。残るは負債の山ってやつだ。なんか日本人には懐かしいメロディが聞こえてきそうだ。
 グリーンスパンもわかってはいるようだ。「(2/24)FRB議長『米住宅公社、金融システムの脅威に』」(参照)より。

【ワシントン=吉田透】米連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパン議長は24日、上院公聴会で証言し、米政府が事実上の信用保証を与えている米住宅金融公社について「このまま負債が増え続けると米金融システムを脅かしかねない」と警告した。

 彼が問題視しているのは、住宅市場に資金供給する上で重要な役割を持つ米連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)と米連邦住宅貸付抵抗公社(フレディマック)の負債だ。この問題にはここではこれ以上突っ込まない。
 いずれにせよ、New York Timesは前回のFOMCに反対してこう提言している。

The Fed should gradually wean the country off such extraordinarily easy money before it is forced to do so abruptly, and painfully. It cannot wait until after the election, nor until it sees inflation pick up. Rates are so low that the Fed has plenty of room to move before being accused of adopting a restrictive monetary policy. It needs to get started.

 "painfully"っていうのは、当然「痛み」だ。New York Timesはすでに住宅バブルの懸念を重視しているのだ。考えてみえれば、それが問題視されていたのは、一年くらい前のことだ。IMFも注意を出していた。たとえば、「米住宅バブル『崩壊、打撃は株の2倍』--IMFが警戒」(参照)。しかし、この間、なんとなく、イラク戦争だの選挙戦だのに気を取られて、「も、大丈夫!」ってことになっている。
 確かに、神様(グリーンスパン)がついているなら、大丈夫かもしれない。が、彼の任期は2004年6月20日。ブッシュはさらなる再任の意向をすでに示している。ブッシュ父殿にお仕えした大久保・グリーンスパン・彦左衛門は、まだ、がんばらなければならないのだ。若い奥さんとクラリネットを吹いてる老後はまだ先だ。と茶化してもなんだが、この雰囲気だと辞任はできなかろうな。
 私は現状の雰囲気だと米国大統領選はブッシュが再選されるように思う。グリーンスパンも後継に知恵を授けているのではないか(って、誰が後継だ?)。
 私は経済がよくわからない。このまま米国が低金利でやっいけるものか、考えたが、なんもわからない。バブルがあって、またつぶれても、やり直せる、っていう前向きな考えが米国的なのかもなとも思う。無責任だが、日本人にできることは円介入くらいなもの。輸入を促進する気はない。ただ、こうした背後の動向が米国を決めていくのだろうなとは思う。

追記2004.3.23
svnseedsさんのコメント(参照)は、私のブログより面白いかもしれない。ので、そちらも読まれることをお薦めする。

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アハマド・ヤシン殺害

 今朝の各紙社説は公示地価よりアハマド・ヤシン殺害の話題を優先するかとも思ったが、そうしたのは朝日だけだった。が、この問題で朝日新聞の社説を読む意味はゼロ。社説作成プログラムで書いているような内容になるだけだ。喧嘩両成敗、ヤシン老にも良い面はあったみたいな文章は大学入試向きなのか。
 アハマド・ヤシン殺害を事件として見た場合、それはなんなのだろうか。私も日本人で、ぼんやりしていると日本のメディアのぬるい空気にまどろんでしまい、和平プロセスはどうなるだとか、報復合戦みたいなことはもうよせ、とか自動的に思いがちになる。だが、極東ブログで見てきたように、アッバスを退けたあたりで、和平プロセスなんてものはチャラになっていたのだ。そして、和平プロセスと見られていたイスラエル軍のガザ撤退の意味は、こういうことだったのだ。つまり、ガザ撤退は和平のプロセスではないとイスラエルは考えているわけだ。ここでむかついてもしかたあるまい。
 事件として見た場合、欧米の報道では「暗殺(assassination)」としているように、厳格にアハマド・ヤシン個人を狙ったようだ。ロイターによれば、22日未明、ガザのモスクを出た車椅子のアハマド・ヤシンを武装ヘリコプターで銃撃した。死者は数人出たとのことだ。どう殺したって殺害だという粗暴な見解はさておき、爆弾を使っているわけではない。ピンポイント称するふざけた誤爆ミサイルを使ったわけでもない。念入りに計算された殺害計画であることは確かだ。
 ネットが普及したおかげで、あっという間にイスラエル国内の報道が読める。いくつかザップしてみると、暗殺計画は日曜日に実施されるはずだったが、市民を巻き込むことを避けるために慎重に延期されていたようだ。つまり、これは、イスラエルにしてみれば、法的な処刑の延長のようなものだろう。実際、シャロンはそんなふうにほざいていた。
 ここで私的な感慨にふけってもなんだが、隔世の感がある。昔のイスラエルなら、南米に逃れたナチス犯を拉致して無期懲役にしたものだ。イスラエルには死刑はない。が、それが今回の事件で建前になってしまったのかと思う。この殺害をもっと明白な政治的な主張にしたかったのだろうか。それでも屠るってやつだなと思う。私が気になるのは、この屠殺がイスラエルの国内向けになされたものか、海外を意識していたのかということだ。海外の反応や今後のテロの活性をまったく意識しないでやれるわけもないが、それを重視できないほどシャロンは追いつめられていたのか。シャロンを追いつめないことが和平の可能性かもしれないとも思う。
 アハマド・ヤシン屠殺は念入りな計画であったわけだから、別に陰謀論的に考えなくても、当然、米国は黙認していたということになる。時事ニュースでは、ライス米大統領補佐官はNBCのインタビューで「事前の警告はなかった」として、米国政府が暗殺計画を承認していたとの見方を否定したというのだが、ライスだけ「あたし、聞いてねー」っていうわけもない。問題は米国の黙認は同意ということなのかだ。"Jerusalem Post"(参照)では微妙な書き方をしている。


 Although American officials were not told about the assassination in advance, Sharon told the MKs that American officials were aware that significant steps against terror would be taken before Israel withdraws from Gaza Strip settlements.
 "In all meetings with American and other international officials, it was made clear that specifically because we intend to take far-reaching [diplomatic] steps, our actions against terror would become more severe," he said.

 くどいようだが、米国政府は黙認していたと見ていい。この黙認は、当然、つまり、陰謀論とかでなくても、イスラエルロビーの影響があると見ていいだろう。そしてこれも当然のことだが、この殺害はブッシュ陣営に不利にはならないというわけだ。この先は陰謀論になるので立ち入らない。
 敬老国日本では車椅子の爺さんなんか殺すなよということだが、イスラエルにしてみれば、このテロリストの親分によって国民が何人も殺されたのだから、その責務で処刑するという論理だ。ちょっと物騒な言い方だが、その論理は、オウム事件で麻原を処刑するのとたいして変わらないようにも思う。
 和平や平和というのを、自己や自己の国家幻想に外化して語ることは、私には偽善感がつきまとう。今回のアハマド・ヤシン殺害はどこをどう見ても、是認されるものではないが、外野から正義を語る問題でもないだろうとは思う。

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2004.03.22

世界市場の穀物価格は急騰するか?

 社説ネタはないので、先日来気になっていたテーマとして中国の穀物生産の話を書く。ニュースとしては、共同系で流れた11日の「中国の穀物生産が減少 輸入増で世界価格高騰も」(参照)がある。


【ワシントン11日共同】中国の穀物生産量が、急速に進む砂漠化や水不足の影響で1998年をピークに減少を続けており、今後は中国の輸入量の拡大によって世界の穀物価格が急騰する可能性が高いとの報告書を、米国のシンクタンク、アースポリシー研究所(レスター・ブラウン代表)が10日、発表した。

 ニュースとしては、この先、レスター・ブラウン説を垂れ流して、世界市場の穀物価格急騰が発展途上国での政情不安や国際紛争を招く危険があるとしている。
 そのあたりの詳細が気になっていた。ざっと国内での情報を当たってみたのだが、やはりというべきか皆目わからない。石油についてもそうなのだが、こうした問題は専門家がわかりやすい言葉で現状を説明してくれるといいものだと思う。私もこの問題について特に知見はないのだが、気になる話題でもある。が、レスター・ブラウンはただのエコなので、なんか法螺臭いなとも思い、それ以上は考えていなかった。
 さて、考えみるか、それには、どっかに原文があるはずだと思って探すと、ある。"CHINA'S SHRINKING GRAIN HARVEST.How Its Growing Grain Imports Will Affect World Food Prices"(参照)。こった言い回しのない英文なのだが、主張に修辞が多すぎてわかりづらい。読みながら、アホちゃうかこのおっさんとか思ったが、エコ(環境問題)の人はエコノミー(経済)に詳しくないことが多いので、そんなものかもしれない。それでも、指摘されているファクツは興味深いものだった。
 なかでも、共同ニュースでも指摘されていたことだが、中国での穀物減産の比喩は面白い。

After a remarkable expansion of grain output from 90 million tons in 1950 to 392 million tons in 1998, China's grain harvest has fallen in four of the last five years - dropping to 322 million tons in 2003. For perspective, this drop of 70 million tons exceeds the entire grain harvest of Canada.

 この5年間の中国の穀物減産量は7000万トンで、これはカナダの穀物収穫量を越えるというのだ。よくわかんないが、比較されるカナダのほうは年間だろう。カナダは農業国なので、修辞的には、「おや、ま、びっくり」という意図なわけなのだろうが、実際のところ、5年にわたり進行していて、その間というか、近年にドラスティックな変化もないし、また、当面はそうした変化もなさそうなので、何が問題だよ?という気にもなる。後段読み続けても、今年あたりになんらかのカタストロフが来るという意味でもなさそうだ。
 が、当然ながら、この状況は現状の世界構造の変動の大きな原因であることは間違いなく、それらは、ある時点でカタストロフを起こす可能性があるのかもしれない。レスター・ブラウン的に言えば、それが途上国問題として噴出するだろうというわけだ。
 レスター・ブラウンはこの減産は、中国の農地の水不足や都市化による環境破壊だと言いたいわけなのだが、爆笑していいのか苦笑していいか迷って苦笑する。そんなものは、経済学の基本である比較優位の問題だ。あまりも単純な経済学を無視してエコの倫理を主張しても無意味なことになる。
 となると、問題は、端的に、穀物価格を巡る国際間の経済ということになる。もっと単純に言えば、中国には外貨がじゃぶじゃぶとしているからそれで米国から穀物を買えばいい。で、何が問題?ということになる。レスター・ブラウンもそれはわかってはいて、ホラーめいた修辞を使う。

When China turns to the world market, it will necessarily turn to the United States, which controls nearly half of world grain exports. This presents an unprecedented geopolitical situation in which 1.3 billion Chinese consumers who have a $120-billion trade surplus with the United States - enough to buy the entire U.S. grain harvest twice over - will compete with Americans for U.S. food, likely driving up food prices for the United States and the world.

 これで米国の食料が枯渇するがごとき表現だが、阿呆くさい。ついでなので、もう少しつきあう。

Moving grain from the United States to China on the scale that is needed will likely involve loading two or three ships every day. The long line of grain-laden ships that may soon stretch across the Pacific will bring these two countries closer together economically, but managing the flow of grain to optimize the benefits for people in both countries will not be easy. It could become one of the major U.S. foreign policy challenges of this new century.

 というわけで、頻繁に巨大タンカーが太平洋を行き交うという光景を困ったことのように描くのだが、これも、で?、みたいな問題だ。エコ的には、ポストハーベストとか遺伝子組み換えとか楽しい話題もあるのだろうが、当方はこの文脈では触れない。
 「問題は」という以前に、これは、ただの現状のファクツでしかない。そして、これは端的に比較優位の問題だ。つまり、中国の経済状況が変化していることだ。で、それは何かというと、1つには、農政問題に手がつけられないということだ。もちろん、レスター・ブラウンの記事も冒頭で中国の対処について言及しているが、そこは中国、政治家の面子さえたてばいいのである。からして、実際の対処になんかなっていない。つまり、これは中国国内の農政、あるいは農民の問題でもあるし、ようは中国国内の貧富の問題でもある。むしろ、こちらのほうが大きな問題だろう。
 もう1は、いずれにせよ穀物価格はじわじわと高騰する、か、あるいはどっかでカタストロフ的に高騰するかだ。これも避けられない。そのあたりの反射が、どう国際経済を襲うのだろうか。単純に考えれば、以前極東ブログでも触れたように一次産品の価格上昇という問題かもしれないし、石油を含めて、中国発デフレが中国発インフレになるか、ということだが、どうもそこまで話を進めると実感はない。
 日本はどうなるかも気になる。これだけ大きなシフトがあるのに日本が無傷なわけもない。どうなるのだろう? 考えてみてよくわからない。まず、直接、穀物問題として衝撃が来るのか、「中国発インフレ」で来るのか。後者で来ると、けっこう、僥倖ってことになるかもしれない。前者の場合は、まず家畜肥料の高騰として反映するのだろうか。
 そのあたりは農水省のまた陰謀臭い臭いがしないでもないが、当面、陰謀ストリーを練り上げる気力もない。まぁ、ぼちぼち、畜産と穀物に対する農水省の動きを警戒しながら見ていく必要はあるだろう。

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2004.03.21

イラク世論調査結果を読むと戦争は概ね肯定できる

 英BBC、米ABC、独ARD、日本のNHK、4社テレビ報道機関が共同でイギリス民間調査会社に委託したイラク世論調査結果を見ると、イラク戦争自体は概ね成功したのかと思えてきた。
 と、言うと、「あの戦争を是認するのか」とか、「おまえの意見はコロコロ変わる」とか言われるだろうか。少し整理しておくと、現在時点での私の考えでは、開戦の是非はよくわからない。つまり、こんな戦争やらなくてもよかったんじゃないかとも思う。戦争のやり方については、それほど成功だったとは評価しづらい。が、失敗とも言い切れない(これはこの世論調査を見て得心した)。戦後統治については、最低だ。フセイン体制を温存すべきだった。もともと、この戦争の有志連合側の大義は独裁者フセインの打倒だったのだから、体制にまで手を入れるのは間違いだった。このミスがなければここまでイラク社会の治安悪化もなかっただろう。
 この戦争の副作用もあるなと思う。独裁者の政権下や内乱でその国の民衆が非人道的に苦しんでいるとき、国際社会はどうすべきか? これは、概ね、ほっとけ、ということになったわけだ。北朝鮮内でいくら民衆が非人道的な立場に置かれていても、国際社会は関知しない、と。戦争反対が第一義で、人道主義は二義的になった。
 この調査を結果論として見ると、人道的な面では正当化されると見ていい戦争だったようだ。この調査を引いた18日の読売新聞社説「イラク戦争1年 国際社会の連携を強化せよ」は当初読んだときは、うさんくさいなと思ったが、調査の概要を知ってから見ると、この判断は概ね正しいことがわかる。


 米英軍のイラク進攻が「正しかった」とした回答は48・2%で、「間違いだった」とする39・1%を上回った。
 「今の暮らしは良い」「一年後はさらに良くなる」と思っている回答者はそれぞれ七割に達する。戦争前に比べ「悪くなった」と答えたのは18・6%だ。

 もっと、こうした強調はあまり公平ではない。日本語版CNN「57%が生活改善と評価 イラク世論調査」(参照)のほうがましだ。

米英軍によるイラク侵攻を正しかったと評価したのは49%で、間違っていたと批判したのは39%。戦争によってイラクが辱められたと感じる人は41.2%で、イラクが解放されたと感じる人は41.8%だった。民族別にみると、イラクが解放されたと感じたアラブ人は約30%に過ぎないが、クルド人は約80%がイラク戦争を「解放」と評価している。

 CNNニュースにはもう少し詳しい情報があるのだが、それでもわかりやすいという印象は受けない。
 そんなところかと思っていたが、探すと、BBC"Survey finds hope in occupied Iraq"(参照)に元ネタがあった。ここで、グラフや調査結果のPDF文書がダウンロードできる。つらつらと見るに、なかなか味わい深い。あえて、私の印象を書いてみたい。
 意外な印象を受けたのだが、イラクに民主主義を求める声が大きい。イスラム宗教に反対はしていないようなのだが、イスラム神政は求められていない。確かに考えてみれば、イランでも若い世代や大衆の本音としては、神政ではないようだ。宗教指導者はかなり信頼はされているが、公正という他律的な規範概念が信仰に結びついているように見える。総じて言えば、政教分離意識があるようだ。
 連想するのはフセインのバース党は元来近代化政党だったことだ(社会主義的でもあるのだが)。反面、矛盾するようだが、強権のリーダーを求める声も大きい。強権と民主主義が矛盾するわけでもないのだが、浮かんでくるイメージは、民主主義も強権リーダーも、どうやら、部族間の調停という社会機能なのではないか、ということだ。民主主義の運用面で重要なはずの政党意識は低いようだ。もっとも、政党なんてものがなかったのだからしかたない面もある。
 こう考えていくと、調査全体に貫かれている反米意識の基調も理解しやすい。日本人からすると、反米=イスラム社会なのだから、同じくイスラム圏の国家に対してイラク国民は親和性を持っているのだろうと考えやすいが、今回の調査でも、私にしてみると、やっぱりなというか、エジプトやサウジは嫌われているなという感触を得た。ある意味で当たり前でもある。反面、好まれているのは、アラブ首長国連邦(United Arab Emirates)だ。ある程度、調査からイメージがまとまると、これもやっぱりな感が出てくる。
 好悪の中間くらいなのが、アメリカ、日本、クエートだ。他データを見ても、一群アメリカ贔屓はいそうだ。クエートについてはよくわからない。というか、イラクをこうした部族の緩い統合国家として見た場合、クエートという王族支配の国がどう見えるのだろうか。これは少し考え続けてみたいテーマでもある。
 日本の評価は高い。復興に期待をかけている国としては、アメリカと日本が同じくらいのポイントで並び、他はこの二国に匹敵しない。しかも、逆に復興に参加しないでくれという調査項目でみると、アメリカを嫌うポイントが高く、日本はほぼゼロだ。日本っていうのはけっこういいイメージで見られているのだなと痛感する。もちろん、異国情緒の遠隔性や黄色人種への差別感もあるだろう。現実には、彼らは日本人、韓国人、中国人は区別できるわけはない。もっとも、私も区別できないけどね。この項目でよく嫌われてるなと思うのがイギリスだ。歴史的な背景もあるだろう。総じて、イラクはヨーロッパを評価していない。なんか、わかる気がする。
 自分のイラクのイメージがやや違っていたかなと思うのは、職の問題だ。職はそれほど優先課題ではないかに見える。むしろ、学校のニーズが高い。これは、部族内の互助システムはまだ生きていることと、対外的には、商業活動が主軸になっているということではないかと思う。
 もひとつあれ?と思ったことがある。メディアを通してみると、ひどい戦争だなと思うし、実際ひどい戦争なのだが、実際戦時に有志連合軍兵士と遭遇したかという問いに、大半がそうではないと答えている。なるほどなと思う。太平洋戦争でもそうだが、日本は戦争でひどい目にあったという歴史が語られているが、実際は本土は、長崎、広島、東京を除けば、概ね、戦時は呑気なものだった。イラク戦でも似たようなことは言えるのだろう。つまり、大半のイラク国民は、兵士と向かい合ったわけではない。もちろん、空軍戦という意味もあるのはわかるが、それでも戦地は砂漠を除けば、バグダットなどに極小化されていた。
 以上、私の印象だ。資料はBBCのページで簡単に入手できるので(参照PDF)、私の読み違えがあるかは、各人が資料に当たってもらえばいいのではないか。英文も簡単だし、これは意外に面白い資料だ。一読を勧めたいくらいだ。

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命一つ、娘一人、骨壷一つ

 陳水扁が勝った。一昨日「陳水扁が勝つと信じる」(参照)を書いたとき、理性的な判断ではなく、「精神」として、そう確信した。昨晩は欧米のメディアが陳の勝利を伝えるのが異様なほど遅かった。今朝の新聞各紙の社説は産経ですら、腰砕けの内容だった。日本人は政治を遠いものと見るようになった気がする。政治とは人間が作り出すものだ。李登輝がまざまざと見せてくれたのに、見えなくなっていくのだろう。
 陳の勝利を聞いたとき、私の心に浮かんだのは「命一つ、娘一人、骨壷一つ」という言葉だった。葉菊蘭(ようきくらん)本人の言葉だと言われているが、本当にそうなのか調べたことはない。彼女はそういうパセッティックな言葉を使うのか少し疑問もある。Googleを引くと民主党大出彰のHPが出てきたが、それだけだった。
 葉菊蘭は台湾の活動家鄭南榕(ていなんよう)の妻だ。鄭南榕は宜蘭生まれの外省人二世と紹介されるが、その父は国民党とともにやってきたのではない。日本統治下のことなので、「日本人」だった。鄭は、1980年代当時の国民党政権を批判する言論誌「自由時代」を主宰していた。それは当然毎号、発禁になっていった。出版ということが直接政治活動に結びつく時代でもあった。日本国憲法に明記される「出版の自由」はそういう歴史の臭いを残すものとしてプレス(報道)の訳語として選ばれた。作家池澤夏樹は、芥川賞作品を初めてワープロで書いた作家だが、彼が翻訳業として初めてワープロを持ったとき、これで出版が可能になると喜んだと聞く。

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台湾
 戒厳令が続く1987年4月18日、鄭は台北の集会で台湾独立を主張した。台湾独立(台独)運動は、邱永漢などを先鋒とし、台湾国外が拠点となっていた。そうしたなか、公然と台湾内で台湾独立を主張したのは鄭が初めての人だとされる。この主張は文字通り決死の覚悟だった。
 1989年1月、許世楷津田塾大学政治学教授が起こした「台湾共和国憲法草案」を「自由時代」に掲載したことを理由に、台湾高等検察庁は鄭を反乱罪容疑で、多数の警官を動員して、強行連行しようとしたが、鄭はこれを拒否。自宅の椅子に座ったまま静かに焼身自殺を遂げた。関連する民主化の話は伊藤潔「台湾」に詳しい。
 鄭の妻、葉菊蘭は夫の意志を継ぐかたちで、政治運動に関わるようになる。葉は苗栗県郊外の農家に客家人として生まれた。自宅では当然客家語を使うものの、学校では北京語(国語)を流暢に使いこなした。秀才でもあった。政治家になる前は広告やメディアの仕事に就いたこともあり、その経験を活かして客家テレビ創設にも関わった。
 葉は1989年、台湾史上初の野党が加わった国政選挙となる立法委員選挙で民進党から立候補し、当選した。選挙の際、彼女は民衆の前に当時8歳の娘とともに現れ、母親としての政治を訴え、夫の鄭のことは持ち出さなかったという。
 私は、率直なところ、鄭のような激烈な運動家を理解できない。そして、葉や陳水扁や李登輝のような忍耐強さも自分の遙かに及ばないところだと思う。
 私は1998年、台南師範出の沖縄のかたと台南旅行をしたおり、2.28が残す傷跡を当時を経験するかたから聞いた。想像に絶する歴史だった。本来なら教育界の重鎮にあってもおかしくない人たちが生涯冷や飯を食わされた。その一人は「日本人には日本精神がない」と熱弁された。恥ずかしく思った。が、こうして台湾が本当に自立する姿を見ると、それは日本精神ではない、台湾精神なのだと思う。われわれ日本人が静かにその姿を学ぶ時代になったのだ。

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2004.03.20

スペインによるイラク派兵撤退の余波

 イラク派兵を巡るスペインの政策変更の影響は一見多様だが、ある志向性をもった奇妙な軋みのようになりつつあるようだ。それに対応して、米国の世論のトーンが、大統領選挙にも関連して少しずつ揺れているようにも見える。やや意外な印象も受けるのだが、ブッシュにしても、またジャーナリズムの言論でも、いずれにせ米国側から、「スペインの変化はテロに屈したものだ」という非難は少ないようだ。むしろ、米国の立場を理解してもらい、派兵の政策に戻して欲しい、という呼びかけに聞こえる。私はここに至って親米化せよという意図はないが、日本を取り巻くマイルドな左翼的な言説には短絡した反米の虚像があるかなという警戒感を持つ。
 こうした弱い変化のなかで、面白いと言ってはなんだが、ポーランドが米国に騙されたと言っているらしい。朝日系のニュース「ポーランド大統領、『大量破壊兵器ではだまされた』」(参照)を引く。


 ワルシャワからの報道によると、大統領は仏記者団との会見で「大量破壊兵器に関する情報でだまされたことに、不愉快さを感じている」と述べ、別の記者会見で「これは米英と、他の多くの国々の問題だ」と指摘した。

 朝日臭いニュースだなということを差し引いても、ほほぉとも思う。が、これで早期撤退したとしても来年のことになる。スペインに並んだ変化があると見るよりは、ポーランドという小国が生き延びるための賢さと見るべきだろう。ポーランド国内ではイラク派兵反対の世論は高いが、仏独帝国化するEUに飲み込まれたいわけがない。
 このあたり、逆にスペインが今後どうEUと対峙していくのかちょっとした見ものだ。今回イラク派兵撤退に転んだスペインだが、このままEUに調和していくとも思えない。ちょっと気になるのは、世論の流れとしては今回のテロはアルカイダ説ということになっているみたいだが、バスク説はただのガセなのか。スペインとフランスはバスク問題で協調する部分もあるので、いずれ変なストーリーが出てくるかもなとも、ちらとだが思う。
 スペインの変化では、玉突きのように韓国側にも影響が出ている。これも朝日系のニュース「韓国軍、イラク追加派遣延期へ 治安悪化で派遣先再検討」(参照)を引く。話の流れは、標題どおり、韓国軍のイラク追加派兵が頓挫しつつあることだ。表向きの理由は、予定されていた北部キルクークの治安悪化だ。

 韓国軍は新たな派遣先選定へ向け米側と調整中だが、4月7日に予定された先発隊第1陣の出発は事実上、白紙に戻った。韓国メディアによると、先の総選挙を機に軍撤退を表明しているスペインの部隊が駐屯する中部が有力候補に挙がっているという。

 このあたりの朝日の報道はちょっとバイアス入っているんじゃないかと思える。韓国側のメディア朝鮮日報社説「やって良かったと言える派兵に」(参照)では、こうある。

 韓国政府はキルクークの代わりにスペイン軍が撤収した地域に向かうこともできるというが、そこはポーランド師団の管轄地域だ。米国との共同作戦さえ断った韓国軍が、ポーランドの指揮を受けるはずがない。
 よって、極端に言ってしまえば、結局行くと言っておきながら行けないか、もしくは行かない状況まで想定しないわけにはいかなくなった。

 なるほど、スペインやポーランドは小軍ながら、危険地域にいることがよくわかる。そして、韓国はポーランドの指揮は受けないというのだ。日本人の感覚からすると、その印象は、30へぇくらいだろうか。
 同社説はこう結んでいる。

 このような流動的な状況で韓国政府の判断と決定はいつも以上に増幅され、同盟国米国に伝わるほかないだろう。韓国政府の出方次第では、いっそのこと派兵しない方がましだったという事態も招きかねない。政府の高度な総合的判断が要求される時だ。

 ある程度国内世論を踏まえているらしく、韓国軍派兵の決断せよ、とまでは露骨には書いていない。が、そういう意図だろう。それは韓国の一部の主張に過ぎないのだろうが、そこまでして米国との連帯を重視しているわけだ。その点、裏返しになるとはいえポーランドも同じだ。こういう事態を見ると、日本は安閑としているなと思う。陰謀論めくが、日本の円の威力はすごいな、国防だな、とやけっぱちで思う。
 韓国側の名目的な世論としては、「平和と復興」の派兵だ。おっと、それってどっかの国と似ているじゃないか。というか、安閑とした日本が恨めしく見える部分もあるだろう。EUの小国からもそう見られているだろうし、また、はっきりとは聞かないが、他のアジア諸国やオーストラリア・ニュージーランド(この二国を分離する理由が最近わからなくなってきたぞ)からも、そういう視線があるのではないか。
 とま、だから日本もしっかりせよ、なんてことを言いたいわけではない。1000人規模の、比較的安全な地帯で「何かやっている」自衛隊以上の軍事的な貢献は難しいだろう。それでも、日本の世論は、米、仏、懐かしの左翼といった視点で大入り状態に見えなくもない。
 しかし、イラク復興で重要なのは、本当に軍という視点なのか? 冗談を含めて言うのだが、日本は経済力で米国から防衛しているだけじゃなくて、もっとイラクの経済復興に遠隔的に働く施策はないだろうか? ちょっと暴論めくが、イラクの国政は石油の利益をサービス産業として再配分していたのだろうから、どかんと一発禿げ頭じゃないが、外貨をじゃぶじゃぶ送って、輸入を促進すればいいのではないか。暴論すぎるかなとは思うが、視点の変更はありえるように思うのだが。

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福井俊彦総裁、満一歳

 今朝の朝日新聞社説「福井日銀――難題を抱えて2年目に」は、こんなテーマを朝日が書くのか、ふーんという感じだった。きっかけは、標題通り、福井俊彦総裁が今日で就任1年目になることだ。
 朝日の社説は何を言いたいのかはっきりとはしていない。むしろ、経済解説コラムといった雰囲気でもある。極東ブログで一時期執拗に扱った円介入はリフレじゃないかということについても、ようやく、今頃、こう言っている。


 財政政策も金融政策も手詰まりのなかで、政府と日銀の「暗黙の合意」のもとに、政府の為替介入と日銀の量的緩和の拡大をセットにした経済政策が進められているようにも見える。
 財務省は円高を防ぐために、昨年1年で20兆円、今年もすでに10兆円を超すドル買い円売り介入を行った。量的緩和の拡大は、これと軌を一にしている。介入の結果、市場に出回る円の一部を日銀が回収しないことが金融緩和につながり、それが景気回復に役立っているとの見方がある。

 いまさら言うなよ、極東ブログより先に言えよとも思うが、社説のレベルでこういう認識が定着したということなのだろう。朝日はどうせよというのかというと、そこがはっきりしない。

 消費者物価は下落幅が縮まり、企業物価指数は下げ止まるなど変化の兆しはあるが、まだデフレ脱却に道筋がついたとはいえない。景気が回復しているといっても、日銀は当面、量的緩和を続けていくしかないだろう。

 こんにゃくのさしみを味噌ダレを付けずに食っているような感じだが、こう続く。

 問題は、いよいよデフレ脱却となれば、長期金利が一気に上昇する可能性があることだ。経済の実態以上に急騰すれば、景気回復の足かせになりかねない。
 金融緩和のなかで、金融機関は膨大な国債を抱え込んでいる。株価が同時に上昇するのならいいが、金利上昇が先行して国債相場が急落すれば、金融機関によっては経営の重荷になる心配もある。

 長期金利上昇の話は、ゴーちゃんが暴走する前の「デフレの終わりは始まったか? 」(参照)に関連記事がある。私は木村剛と意見が異なることはすでに極東ブログ「木村剛『デフレの終わりは始まったか?』に」(参照)で触れた。半可通な話だが、現状それ以上の考察もない。
 銀行が抱える国債については、すでにリフレ派が口酸っぱく言うように、日銀の買い切りということがこの執筆者の念頭にも浮かんでいるのだろうが、そこは示唆するだけで触れていない。話はペイオフに流れ込んで終わるが、UFJ問題の示唆のつもりでもあるのだろう。
 話を国債の買い切りについて言えば、私はよくわからないなというのが本音だ。国債が暴落するという懸念もよくわからないが、私は単純に、それってタコが足を食うことになるのだから、そういう市場調整はいやだなという感じがする。このあたり、きちんとした説明を読んでみたいものだが、見あたらない。それと、陰謀論めくが、人的に円の価値を下げるという措置は米国が禁じているようにも思う。普通の感覚で言えば、米国側としては、国債よりも日本の内需を大きく変化してほしいところだろう。
 私は庶民の感覚として、「需要」なんていうものはない。が、しいて言えば、住宅状況の改善だろう。そしてこれも庶民感覚でいうのだが、住宅状況の問題は、手短な娯楽消費に結びついた住居、つまり都市の快楽ではないかと思う。日本には大人のナイトライフもない。
 関連して、昨日の毎日新聞社説「福井総裁1年 量的緩和の出口探る時だ」はしきりに量的緩和をやめろと言っていた。悲痛感と滑稽感がないまぜになっている。

 政府、日銀ともに相変わらずデフレの恐怖を強調している。しかし、物価は前年比横ばい水準まで戻している。素材市況は活況を呈している。こうした状況下で、大量の資金を銀行に滞留させておけば、何らかの要因で物価が急騰する場面がないとは言い切れない。

 それでいいんじゃないのか。「急騰」っていうから変な話になるだけではないのか。っていうか、「何らかの要因」って何だ?

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2004.03.19

陳水扁が勝つと信じる

 陳水扁が撃たれた。ニュースでは命に別条はないとのことだ。この事態が選挙にどう影響するのか、私にはわからない。冷静に見る限り、民進党が優勢とは言えない。前回民進党が躍進したのは国民党が分裂したというのが最大の理由だ。
 が、陳水扁は命ある限りくじけるわけもなく、また、彼を支持する台湾人もくじけるわけがない。台湾が民主国家たらんとする精神は鬼神のように歴史を貫いて生きたのだし、生き続けるのだから、万一、国民党が政権に返り咲いたとしても、何も台湾は変わらない。と、我ながら、少し常軌を逸した肩入れだが、彼と呉淑珍の人生を少しでも知って心を動かされない者があるか。
 呉淑珍について言わずもがなだが、少しだけ触れておく(あまり正確ではないかもしれないので間違っていたらご指摘を)。彼女は1953年台南県の医師の家に生まれ、台北の中興大学に進学。大学卒業後の翌年1975年に陳水扁と結婚。なお、陳は大学三年で司法試験にトップ合格し、弁護士となる。1979年の「美麗島事件」(国民党による民主化運動の大弾圧)で陳は弁護団に加わるが、この決断を促したのが呉であるらしい。この弁護経験から、陳は政界に入り、81年に台北市議となるも、85年には台南県長で落選。このおり、台南で遊説中に軽トラックが同伴の呉にめがけて突っ込んだ。政治テロである。以降、呉は車イスの人生となる。台湾人なら、陳の横にいる彼女の姿を誰も知っている。
 総統選挙については、このブログでは結果を待ってから書こうと思っていた。率直に言って落胆した結果になるだろうなと予測していたからだ。また、いわゆる国際問題とやらの識者たちは、今回の総統選挙の陰の主役は米中だとさも訳知りに言うのだが、これが実にムカつく。民進党が敗退して、では、陰の主役中国が高笑いするのか。馬鹿な。香港を見よ。香港ですら、中共に飲まれていない。
 ここでしばし瞑目し、陳水扁の勝利を信じる。

追記
 翌日3月20日の新聞社説でこの問題を扱ったのは読売のみ。その「台湾総統銃撃 これは民主的選挙へのテロだ」では、こう主張している。


 台湾の将来について、中台関係の未来について、決めるのは、一発の銃弾であってはならない。

 なにを考えているのか読売は。これが日本国で首相や天皇が銃撃されても同じことを言うのか?


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イラク戦争一年

 朝日、読売、日経が、イラク戦争1年というネタで社説を書いていた。特にどうという内容でもない。私もこのブログでイラク戦争についてはいろいろ書いてきたので、新しい話もない。ので、繰り言になる。
 私の場合は、このブログを始める前に米国の開戦を支持していた。大量破壊兵器があるとも信じていた。だが、さすがにもう実際は大量破壊兵器はなかったと言うしかない。すると開戦の理由はない、ということになる。それもそうだ。では私は判断を間違えていたのか。
 そうすんなりともいかない。私はイラク戦争のミスは、戦後処理のミスであり、フセインなきフセイン体制を維持しなかったことにあると思う。しかし、そう主張することは醜いなとも思う。また、仏独露の死の商人たちや、こいつらのフセインとの裏取引を潰せとも思っていた、が、それも十分な自己主張の理由にはならない。
 では私は十分に反省したのか。そうでもない。同様な事態になったとき、私は、態度を変えるかというと、そうでもないように思う。実に歯切れが悪い。
 テロは世界に拡散し、イラク統治は泥沼化しているようにも見える(そうでなくも見えるのだがそれは今日は触れない)。だが、この戦争で世界の構成は確実に変わった。リビアは完全に屈した。イラン、パキスタンもだいぶ折れた。北朝鮮もほぼコントロール下に入った。冷戦後のならず者国家は軒並みもぐらたたきの状況になった。イスラエルを挑発する国も事実上なくなった。そして、おそらく表層的な国際テロの背景で、中露とEU(独仏)と米国の関係が、冷戦のような、それでいて経済的にはもつれ合うような事態が進んでいる。この事態に、旧来の反戦だの平和だの悲戦というような懐メロで対応できるわけもない。

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マクナマラ回顧録
 話をイラク戦当初に戻す。戦争自体は予想以上に首尾よく終わったのではないか、と私は思っていた。が、それは、明確に間違いだった。もちろん、短期に終わるという点では首尾良しとも言えるだろうが、戦略の内実をNHK「クローズアップ現代」イラク戦争3回シリーズの初回で知ったときは、ベトナム戦争についてのマクナラマラ回顧録より落胆した。というか、ベトナム戦争の非を認めるのはそれほど難しい問題ではない。
 NHKによれば、今回のイラク戦では、当初、要人空爆を50回も行ったものの、すべて失敗していたという。「言うよなアメリカぁ!」と思う。歴史の段階に移ったことについて米国という国は政治的な配慮はしない。この点は、糞転がしのように糞文書を抱え込む日本の外務省の歴史文書隠蔽主義と雲泥の差がある、と言えば、米国だって重要文書は同じ、ということにもなるだろうが、それでも、このあっけらかんとした戦略への取り組みは、そら恐ろしいものがある。生成文法史に置けるチョムスキーみたいじゃないか、と言って爆笑される方はいかほどか。
 この馬鹿みたいにあっけらかんと、全て失敗でした、とぬけぬけと、おばあちゃんのクッキーのレシピのように語る米国というのは、本気で怖い。そして追い打ちをかけるように、その際の民間人殺害がどの範囲なら国際法に触れないか、マクロ経済のように計算していたともいう。背筋が凍るな。しかし、これは米国戦史の反省でもあるのだろう。そうでもなければ、東京大空襲をまたやりかねないのだ。
 いずれにせよ、要人をピンポイントで殺害し、国家体制を転覆するという戦略はとんでもない失敗だったことは確かだ。ふと常識に立ち返るならそんなことはあり得ないと思うのだが、そういう常識は機能しづらい。
 「クローズアップ現代」には、「ヴァ-チャル・ウォ-」の作者マイケル・イグナティエフが出てきて、間抜け面を晒していた。コイツ、こんな馬鹿だったのか。とはいえ、イラク戦争はヴァ-チャル・ウォ-ではないと言うだけまともなのか、それとも米国世論を配慮していたのか、判然としない。だが、戦争はゲームのようだみたいな議論は、なんとも薄っぺらなものだ。が、そう私もその間抜け面の一人だよ、とされて、さしたる反論もないか。
 日本のマスメディアでは、未だ中道左翼みたいな論者がインテリめいて生き残ったようにも思う。幸いイラク状勢もそれに追い風のようになった。が、私は秋以降、そんなことはどうでもいいと思うようになった。反面、急に気になりだしたのは、有志連合と韓国、沖縄の動向だった。
 有志連合が成功すれば、日本は人的な面で米国の属国になるぞと思った。その兆候は韓国に見られた。韓国の内政は現状紛糾を窮めているところに、ブラックな皮肉を投げるようだが、あのどたばたに米国が呆れている事態は、韓国に益なのだ。米国の本音は「こーんな馬鹿、使えねー」だろう。同じく、日本についてもそう思っているに違いない。が、米国債の買い入れという身銭を切る同盟国には随分米国は配慮していた。
 現状、有志連合という悪夢が完全に消えたわけでもない。が、イラク戦争がすんなりシナリオ通りに進んでいたら、米国州兵の代わりに、韓国人・日本人・オーストラリア人が狩り出される世界になっていただろうと思う。

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スペインテロ雑感

 スペインテロの関連で、もわもわと心に浮かんでくることを書く。たぶん、自分のために書く。書けば、なにかわかってくることがあるかもしれないし。
 嘘みたいな話だが、私はあまりニュースを追っていない。すでになんども書いたことだが、映像はできるだけ見ない。目が悪いせいもあるが、映像というのはなにを描いているのか、考えるのに疲れる。そんなことはないだろうと普通、人は思うのかもしれない。が、映像にはかならず意図があり、その意図と自分の思いがどうしても齟齬を起こす。映像に向かって「ちょっと待ったぁ」とは言えない。
 スペインテロについても、ニューズウィークの日本語版に掲載されている写真で初めて惨状の一端を見た。実は、それだけ多数の人をどうやったら殺せるものだろうか、と疑問に思っていた。単なる爆破だけではなく列車事故を巻き込むからだろうとは、もちろん思っていた。当然、日本でもそのような惨事が起こりうるか、とも考える。
 ニューズウィーク掲載の写真を見るに、救助のために列車を解体したのかもしれないが、その爆破力は並大抵のものではない。これにはどれほどの爆薬が必要なのだろうか。
 少し古い話になるのだが、70年代に日本では東アジア反日武装戦線、狼、さそり、大地の牙といったグループが企業連続爆破を行っていた。あの時の爆破規模はどのくらいだっただろうか。あれでも100人規模で殺傷することはなかった。彼らは、それなりに無差別な殺戮をしたわけではなかったから、ということでもないだろう。また、オウム事件もひどいもので多数の被害者を出したが、殺傷という面ではやはり100人を越えるわけではかった。
 じゃ、大丈夫とか阿呆なことが言いたいのではない。私は、100人レベルの人間を文明都市で一度に殺傷するというイメージに納得してみたいと思うのだ。なぜだろう? たぶん、私なりの無意識的なテロへの戦いなのだろうな、という感じがする。恐怖に立ち向かうには、目をつぶってはだめだ。
 スペインのテロでは起爆に携帯電話が利用された。それは日本でもできそうな気がする。だが、具体的に山手線なり新幹線なりでそれがどのように可能だろうか。イスラエルでのテロを例とすると、恐らく、自爆テロがもっともあり得るだろう。日本のこの社会にあって、アルカイダなり対外的なテロ組織の道具となった自爆者が出るのだろうか? 私の大衆的な感性からすると、それはなさそうな気がするし、その恐怖心からますます日本人は非白人を差別視していくように思う。
 話の方向を変える。先のブログで私は、「スペイン国民はテロに屈したように見える」と書いた。私の大衆的な意識では、そう見える。私は、自分の内部の大衆性的な感性に嘘をつくのが大嫌いだ。もちろん、そう見えるということと、そう主張することは違う。だが、私はブログという場でありながら、それをやや主張の側に回した。もちろん、先のブログを丁寧に読んでいただければ、私の考えは、いわゆる米英流のそれではないことは理解していただけるだろうとは思う。
 と、うだっとしたことを書いたのは、同記事にトックバックしていただいた余丁町散人先生の「ルモンド社説『スペイン国民をバカにする珍説が流布されている』(2004.3.18) 」(参照)をどう受け止めるべきか、悩んでいたからだ。
 政治思想の面では、私は率直に言うと、それほどル・モンドは評価していない。私は欧米のインテリなんかに糞負けるかよと東洋的に知性を陶冶してきたからだ、というのは冗談で、ただ、きゃつらの考えてに慣れてきただけだ。
 個別に言うなら、ル・モンドは対外的には、EUとの絡みで、フランスの国益を代表しており、特にスペインとの関係では、EU憲法草案をめぐって昨年末、烈しい争いがあったことがこの言論の背景にある。この背景を抜くと、ル・モンドのトーンは随分変わってしまう。それと、ごく蛇足程度だが、"Une these meprisante"は、きつく訳すなら「唾棄すべき主張」となるかなとは思う。
 ル・モンドのその主張自体には、私は率直なところ、奇妙な倒錯感があると考えている。それは、スペイン派兵は今や、事実上国連と連携したイラクに欠かせない治安部隊になっているのであって、開戦時のそれとは違う、ということだ。
 おそらくフランス人を含んだNATO軍ですら、米国が少しお利口なら、もうすぐイラク派兵に踏み切るだろう。とはいえ、NATOやカナダなどの動向を見てから、スペインも仕切り直しという国政判断もありうるかもしれない。しかし、すでに本質的にはイラク統治では米国先導ということではない。
 どう受け止めるべきか、と逡巡するのは、端的に、自分より年長の散人先生への礼のようなものである。それは池澤夏樹にも思う。ちょっこし言うと、池澤さんは覚えていないだろうが、狭い沖縄社会で暮らしていたこともありお会いしたこともある。となると、いくらイデオロギーは違っても、言いづらい線はあるなと思う。それは、礼というより、もっとシンプルに言って、自分より経験ある人間には、自分は引くべきだなよな、というような感じだ。じゃ、小泉総理は?と言われると、深く自分に問いつめると、やはり例外ではない。小泉も小泉なりに今の小泉ではあるのだろう。
 話を、スペインテロの受け止め方に戻す。原文は読んでいないのでちと恥ずかしいのだが、ワシントンポスト紙の訳で「スペイン国民の答え」(参照)を読み、興味深かった。もちろん、大筋で、テロ犯人をバスクETAとして非難したアスナール政権のミスと見る、というあたりは、すでに政治を見る人間の共通理解になっているので凡庸だ。そして、単純に「屈したように見える」なんてナイーブなことは言わない。私が共感するのはただ次の点だけだ。


「テロを撲滅するのは武力ではないのは明らかだ。」と欧州委員会のプロディ委員長が昨日答えた。もしこのような感傷的な考えが大勢を占めるようになれば、次の大統領が誰になろうとアメリカは単独行動主義を続けざるをえないかもしれない。

 日本のポチ保守系以外のインテリたちは、米国の単独主義をよく批判する。だが、現在世界の市場の均衡を守っているのはその米国であり、それをさらに米国に強いるような向き合い方をするのは、いずれにせよ、賢いあり方とは言えないだろうと私は思う。
 さて、結語もなく、最後にまた話が飛ぶのだが、心にひっかかるという点で、素朴な疑問を書いておきたい。イラクの復興に関連したことだ。イラク復興というと、日本人はどうしても日本の戦後復興やその他の焦土となるイメージを持つと思う。だが、現実のイラクの復興というのは、雇用が重点らしい。当たり前過ぎるのだろうが、実は、私は昨年の開戦前から、え?という感じだったのだが、イラクという国の主要な雇用はサービス産業なのではないか?ということだ。
 なにか復興というイメージが全然違うのではないだろうか?ともわっとしている。もちろん、そんなこと現地の人はみんな知っている?、のだろうか? もし、サービス雇用が問題なら、全く異なった援助策を考えるべきなのではないか?

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2004.03.18

週刊文春差し止めの是非は今後の問題だ

 新聞各紙社説はこぞって昨日の週刊文春差し止めを扱っていた。へぇそんなのが話題になるのかと思った。考えてみれば、憲法でうたわれている出版の自由が侵害されるとも取れるので大騒ぎしても不思議ではないか。昨日、このブログのリファラでも、「週刊文春」というキーワードが少し目に付いた。と、たらっとした感じなのは、私自身の関心がすでに抜けているからだ。理由は簡単。それを読んでみて、あまりにつまらなかった。結論だけ言うと、週刊文春も大人げないことしたな、これじゃ、差し止めくらって当然だ、である。
 昨日、朝、ラジオのニュースでこの一報を聞いた。差し止めの記事は気にはなるものの、近所のコンビニは優等生なセブンイレブンだからもう撤去済みだろうと思った。むしろ、私は毎週、週刊文春と週刊新潮を読んでいるので、連載エッセイなどが欠けるのがやだなと思った。昼飯買いついでにコンビニに寄ると、撤去済みだったが、ウィンドウディスプレイ側に残っていた。バイトさん、間抜けで良かったというくらいなもので、よっこいしょと手を伸ばして引き抜き、週刊新潮と共に買う。なんかお宝ゲットのような気分になったが、午後夕飯かねてスーパーマーケットに寄ったら、週刊文春は山積みで売れ残っていた。なーんだである。
 記事を一読した。なーんだという感じだった。まず、つまらない。そして不快だ。田中真紀子の娘はただの私人である。こんな私人のネタはどう調理しても面白くはなるまい。面白くしてはいけない。この記事は愚劣というか、これはルール違反だ、東京地裁の判断は常識的だなと思った。
 それにしても、文藝春秋っていうのは、田中一族に対するオブセッション(強迫)がすごいものだ。そして、そのオブセッションというのは、まさに岸田秀的な精神分析学の対象だろう。短絡して話すとまた、歴史も知らねぇ厨房に電波だの言われるのかもしれないが、文藝春秋という組織の無意識にあるのは田中角栄を誤って屠ったことに対する呵責なのだ。その過ちを認めたくないから、娘まで罰し、孫まで罰したいのだ。環境ホルモン騒ぎですでにとち狂ってる論壇の蛭子能収、もとい、立花隆も、それで評価できなくなった。とまで言うのはさすがにこっち側の勇み足か。それでも、立花にせめて柳田邦男のような花道を敷いてあげるのが編集ってものだろう。が、そういう編集がないのだ。文藝春秋で福田和也や日垣隆が看板を張る時代なのだ。
 私はジャーナリズムというのは間違ってもいいと思う。間違う勇気を持つべきだとも思う。もうちょっというと、今回の差し止めは常識があれば足りるが、以前の国内狂牛病騒ぎの記事こそ差し止めるべきだった。週刊文春は国立神経精神センターにすでに患者がいるような記事を書き腐った。きちんと裏も調べないで書き飛ばし、謝罪もない。まぁ、深く私人のプライバシーに関わったわけでもないので差し止めろという私が常識を欠いているか。
 疑惑の三浦事件についての文春の扱いは、今でも私はわからない。O.J.Simpsonケースと同じで、市民としてはここで口を閉じるのが礼儀だろう。最近のジャニーズ関連ではよくやっていると思う。創価学会関連では、新潮よりはるかに腰が引けている。北朝鮮関連はガセが多い。が、それでも、こうして見ると、総じて、日本のマスのジャーナリズムは週刊文春と週刊新潮で成り立っていると見てもいい。この二誌がなければ、日本はほとんどファシズム下のようだ。だから、今回のポカも、まぁ、反省せいよで、次行ってみよう!でいいのではないか。田中ファミリーバッシングネタはもうよせよとも思うが。っていうか、あの事件の米側を今からでも遅くない、掘れよと思う。
 以下、社説をざっと巡る。朝日「出版禁止――警鐘はわかるけれど」では、標題どおり、文春側を非としながらも出版禁止はやりすぎだというわけだ。お利口ちゃんだね。読売「出版禁止命令 プライバシーの侵害は明らかだ」は「やむを得ない」だそうだ。ナベツネが書いたか? 毎日「週刊文春記事 販売差し止め命令に驚いた」は朝日と似ているが「また、政治家の家族は私人だと言っても、田中前外相ほど影響力の大きな政治家の場合、家族の私生活まで社会の関心事になるのは無理からぬところだ」だとさ、違うよ。産経「週刊文春差し止め 出版の自由に抵触の恐れ」は差し止め自体に法学的な疑義を提出している。日経は当事者っぽいのでパス。
 こうしてみると産経が一番まともであり、他は極東ブログ同レベルの床屋談義に過ぎない。


 出版物の出版・販売の差し止めをめぐっては、昭和六十一年六月の最高裁大法廷の判例がある。
 これは北海道知事選の立候補予定者が、自分の中傷記事をのせた月刊「北方ジャーナル」誌の差し止めを求めた訴訟で、最高裁は、「憲法は原則的に言論の事前抑制を禁じているが、(1)表現内容が真実でなく(2)記事が公益を図る目的でないことが明白(3)被害者が著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合、例外的に差し止めを認めることができる」との一般論を示した上で問題の記事は真実ではなかった、として差し止めを認めた。

 東京地裁も差し止めについては、裁判官三人の合議体で審理することを決めているようなので、床屋談義は切り上げて、その結論を見ていくほうがいいだろう。
 余談だが、憲法でいう「出版の自由」は誤訳に近い。プレス(報道)の自由だ。私は、どっちかというと憲法改正反対だが、修正や追加はあってしかるべきだと思う。憲法に規定しない軍を持つ近代国家はジョークであるし。ただ、それとは別に、憲法はきちんと改訳すべきだ。ただ、いくら芥川賞を取る前にヴォネガットなどの翻訳をしていた池澤夏樹とはいえ、あれはいただけないが。

追記
リソースに以下の文書を追加した。
文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容

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2004.03.17

ココログプロへアップデート

 昨日、ココログプロの公開に合わせて、極東ブログのアップデートをした。ココログもようやくMT並に使えるようになってきたなという感じだ。むしろ、パチなサーバーのPerlを頼るMTよりはいいのかもしれない。パチ・サーバー(「あっパチ」、じゃないよ)のMTがTypePadサービスに移動してくるか?
 アップデートとはいえ、極東ブログのなるべく見た目は変わらないように配慮した。というか、なーんだなんも変わってねぇか。もうちょっといじりたかったが、ブログシステムに対する自分の知識が足りず、まだ、十分に変更できない。特に、固定リンクページのカスタマイズがよくわからん。
 今回のアップデートで一番嬉しかったのは、容量が150MBに増えたことだ。ちょっと前まで、ココログは上限容量がキツイので、このままいくと秋までは持つまいと懸念していた。熱死したらインフォシークでMTを動かすのが無難かとも思って、再度移転サイトの構築もできてはいたのだが、問題はMTっつうより、サーバーとPerlの能力なのでためらっていた。現状、極東ブログはそれほどトラフィックがあるわけでもないのだが、なんかあってトラフィック面でぽちゃんというのもなんだしな。が、これで、当分の間は大丈夫か。毎度の弱音をちらと吐くと、自分がいつまでブログを続けられるものかいなのほうが問題か。
 トラフィックといえいば、ココログプロでようやくアクセス解析機能がついた。といっても、お笑いレベルだ。細かいIPデータははない。Analogに食わせるわけにもいかん。が、そこまで情報があっても当方重要ではない。せめて「はてなダイアリー」やtDiary程度にリファラをディコードして整理してくれるといいのだが、現状の機能ではあまり役に立たない。というわけで、自前のリファラログがまだ撤去できない。ただ、総アクセス数みたいのがわかるようになって、あれ?とか思った。リファラで取る三倍くらいある。え゛っみたいな感じだ。誰が読んでいるのでしょうか?
 ココログのアップデートはどのくらい日本のブログの世界に影響を与えたのだろうか。ちらと見回してもよくわからない。ココログルで検索してココログの中をざっとみたけど、特に際だった変化はない。お値段が高いぜ、という意見がやや多いか。しかし、6月まで無料ということでその間に画像とかで30MBを越えさせるように仕向けるあたり、@niftyさん、ようやく商売の勘を戻しましたね。それにしても、この5年くらいの@niftyの経営の阿呆さにはイライラしたものな。
 日本も、これで本格的にブログのインフラをサービスできる状態になった。むしろ、米国の場合は、iBlogみたいな、なんだそれみたいなものも多いし、日本でもこの手のオフライン型が流行るかとも思ったのだが、その目は低いのではないか。と、iBlogにケチを付けると、ウンコ飛んできそうなので、やめとこ。iBlogはトラバだってできるぞぉ。
 いずれにせよ、これで日本のブログ文化も構造的にはかなり強化されることになる。あとは書き手だ、と言いたいところだが、この面で先行している「はてな」を見るに、そんな心配は無用なようだ。いい書き手はごろごろしているように思う。極東ブログなども、このペースで進みながらも、よい書き手の群れに埋もれて、もっとマイナーな爺ぃ臭いものになっていくだろう。いいことだよ。
 今回のアップデートでは、ブログ運営で複数ライターも可能になった。スラッシュドットみたいなことが可能になるっていうか、同人誌なども可能になるわけだ。そういう兆候がいつ頃でてくるだろうか。かく言う極東ブログも、ジャーナリズム的に見るなら、私が一人で書いてないで、得意分野を分散したほうがいいし、実際経済分野など、私より有能なコメントで支えられている状態だ。が、私がえっへんというわけではないが、どうも極東ブログは個人的な思いが強くなっていて、私がネックです。実際的な点でいうと、私はあまり編集には向かない。このあたり、あまり語らないことにしているのだが、編集の能力というのは書き手とは別だ。きちんと編集が存在しているなら、ブログ間の寄稿でいいジャーナリズムができそうな感じもする。

cover
ネットは新聞を殺すのか
 かくして、ようやく「ネットは新聞を殺すのか」の話が日本でも法螺っぽくなくなってきた。この本の内容は、米国の現状っていう点では、もうちょっと情報が古いのだが、実際に自分自身こうしてブログってみて、しかもアフィリエイトも貼ってみると、なるほどと同書にルポされている部分が実感される。読みづらい本だし、書き手の感性がちょっとなと思う面があるのだが、この本のリアリティはもう少し読まれてもいいかもしれない。読んでない人でこうしたことに関心ある人はお薦めときますよ。
 「ネットは新聞を殺すのか」という本についでだが、タイトルはとりあえず、「新聞」がキーワードになっているが、日本の巨大新聞に対応するものでもあるまい。むしろ、広義にジャーナリズムと関連するだろう。話が前後するが、日本の場合、どうしても、日本人の国民性にあった「2ちゃんねる」的な情報をどう扱うが問題だ。2ちゃんねる的な情報の世界とブログの情報の世界をどう連結させるか。連結というからには文章になっていないといけない。すると、その書き手と編集の問題かなと思う。そういう点でみると、「はてな」にごろっとしているグッド・ライターズは、個的な興味の連帯に閉じる傾向がありそうなので、ジャーナリズムという点では細いかなという印象もある。
 また、同書では新聞というよりアフィリエイトというか、P2P的な広告が重視されるという示唆が重要だ。現状それが、うざったいアフィリエイトかというとよくわからない。同書はこんな未来を描いている。

書籍販売大手のアマゾン・ドット・コムや、日本の価格比較サイトの価格・ドットコムのように、消費者の書評や感想などの情報を掲載するサイトが増えてきている。IDC社は、今後こうした消費者の意見が社会全体の消費行動を大きく左右するようになり、2008年には900億ドル相当の個人消費が、ほかの消費者の発信する情報をもとに行われるようになると予測している。買い物に出かけて電子手帳や携帯電話で商品のバーコードを読み取ると、その商品に関するほかの消費者の意見を読むことができる。そんな時代がもうすぐくるというわけだ。ただそのためには、質の高い意見を集めたり、コンパクトに情報をまとめる仕組みが必要になる。

 余談めくが、極東ブログでも貼り付けているGoogle AdSenseだが、クリックされないと、儲けという点ではあまり意味はない。が、そのユーザビリティ悪すぎ。だらっとした文章の多い極東ブログなのにトップに貼れば無視されること必定。ま、無視してもいいです。

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軽水炉プルサーマル再開

 プルサーマル問題を扱うのはちょっと気が重い。理由は単純で、原発問題はイデオロギーに絡んでヒステリックな状況にもなりうる。しかも、率直に言うのだが、科学的な説明と称するものがどうも疑わしい。
 これは、インターネットの言論(んなものがあるか?)全体にも言えるのだが、「おめー、非科学的だからDQN(お馬鹿の類語)」というバッシングゲームがけっこう盛んだ。が、私の見る限り、どうもこの10年くらいの傾向に思うだが、その「科学」というもののイメージが変わってきている。教科書どおりの解説が正しいと思っている人が多いように見える。これは経済学などについても言えそうだ。
 だが、私は時代背景もあり、どっちかというと技術屋・実験型の人間でもあるせいか、推論や知識なんかより事実が全てだ。説明より現象を重視する。ちょっと言い過ぎに踏み出すが、科学というのは愚直な馬鹿がやったほうがいい。いわゆる理系というのと実際の科学というのは、かなり違う。
 原発についても、安全だ、安全ではないといった議論がある。安全という見解のほうが科学的に見える。しかし、世相に浮かび上がってくるのは、頓馬な失態ばかり。科学の応用というのは理論の科学とは違う。「はず」の誤差を埋めていく工学と、実際の会社経営のようなプロジェクト管理が必要になる。どうも、後者のほうに日本はガタが来ているのに、理論だけ「私はお利口さん」ゲームが進んでいるように見える。だから、DQNと言われようが、市民として見れば、原発は安全とはとうてい見えないと言おう。
 前置きみたいな話が長くなったが、さらに関連の話を加える。お利口さんゲームのもう一つの欠点は、総合的な視野がない。つまり、そもそもゲーム臭い知識なので、市民常識といった根っこや、他分野の知見がない。別のリングに上がると「負けそう」なので口をつぐむというか、奇妙な沈黙があるなと思う。こういう状況はやだなと思う。その意味で、極東ブログはお馬鹿の切り込みでもいいかとも思うわけだ。
 で、プルサーマルなのだが、いくらMOX燃料は核兵器転用の恐れは少ないと言っても、単純に考えれば、日本の潜在的な核装備にしか対外的には見えない。そして、それが可能なのは、米国がそれを是認しているからだ(飛行機産業などは事実上禁止されたまま)。それって電波か? いや、私はごく国際的な常識だと思う。
 新聞社説のレベルで言うと、今朝の産経に「プルサーマル 東電も信頼回復に努めよ」があった。時事としては西川一誠福井県知事が高浜町の軽水炉で実施するプルサーマル計画を認可したことがある。この背景も今ひとつわからないのだが、産経は当然プルサーマル推進派だが、核装備と見られることへの懸念を何も語らないことで、バレバレのポチ保守になっている。その点、昨日の読売新聞社説「プルサーマル 信頼回復こそ推進への本筋だ」も似たような話だが、この点が多少考慮されていた。普通そうだろう。
 エネルギーという表向きの議論では、日本ではウランが少ないとかいう理由でプルトニウム推進になっていた。しかし、この手の議論は阿呆臭いと私は考える。手頃な同意見というところで、毎日新聞系の解説「プルサーマルが本格始動 核燃料サイクル再検討を」(参照)を引く。


 核燃料サイクルの完成には多大な費用がかかる。MOX燃料もウラン燃料より割高だ。核燃料サイクル計画はメリットに乏しく、抜本的に再検討する時期に来ている。

 イデオロギーを抜きにエネルギー政策としてみても、軽水炉によるプルサーマルは無駄だとしか思えない。プルサーマルの場合、再処理が不可欠だが、これを対外的に依存せざるを得ない。なんでこんなことを日本はやっているのだろう。
 原発はおそらく今後世界的にある程度広まるだろうし、日本は安全な原発推進を世界に広めるべきとすら思うのだが、いずれにせよ、そういう傾向が進めば、ウランも石油と同じで市場で扱えるようになる。というか、そうするように世界を整備したほうがいい。また、日本のエネルギー政策は原発を優先にするというものでもあるまい。まずは天然ガスだろう。
 軽水炉という存在自体についても気になる。先の毎日の解説を引く。

日本の電力各社は英仏に使用済み燃料の再処理を委託しており、回収されたプルトニウムは昨年末で約24トンにのぼる。2010年には30トンに達する見込みだ。こうしたプルトニウムは高速増殖炉での使用が想定されていた。しかし、1995年の原型炉「もんじゅ」の事故で研究開発は中断された。このため、高速増殖炉実用化までのつなぎとして計画されたプルサーマルがプルトニウム消費の中心に格上げされた。

 単純に気になるのは、軽水炉ってプルサーマル用に開発されたものではなく、流用なのではないかという点だ。それってアリかよ、と。このあたりの解説は自分でもよくわからないので孫引きはしない。
 ついでなので、備忘の意味もかねてちょっと蛇足。大前研一がSAPIO(vol.62)"緊急特集・東海村臨界事故「ひた隠しにされた重大疑惑」"が以前から気になっている。それこそ電波臭い話になるのでここでは書かないのだが。

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2004.03.16

九州新幹線開業を巡る雑談

 九州新幹線開業について少し雑談のような話を書く。社説としては今朝の毎日新聞「九州新幹線開業 ブレーキなき整備新幹線」がよく書けている。ようは、このまま採算を度外視して新幹線を作っていっていいのかということだ。理詰めで問われれば、いいわけもなかろう。だが、先にも少し触れたが私はこの問題はまるでピントが外れている。日本全土に新幹線が走るのが嬉しくてしかたない。阿呆だなと思う。
 「おめめの超特急」こと新幹線が東京大阪間を走ったのは1964年。あの時の興奮は人生何物にも換えられない。私が小学校一年生の時だ。記憶では、幼稚園児の私はブリキでできた新幹線の玩具で遊んでいたのだから、実際の運行開始以前に玩具は出ていたのだろう。後に0系と呼ばれるあれだ。今でもあれが好きだ。100系はちょっと性格が悪そうじゃないか。最近のは、アヒルだか靴だかわからないようなデザインで嫌いだ。工学的には意味があるのだろうし、それなりに美しいと思う人もいるのだろうが、私には関心ない。かくして私も歴史の彼方に追いやられ、消えていくのだ。
 新幹線は広軌である。満鉄だ。私の父は朝鮮で満鉄の学校を出て、引き上げ、逓信省に勤めた。国鉄に勤めたかったのだろうが、そうもいかなかった。彼のハイティーン時代のエンジニアリングは満鉄のブレーキ技術だった。そう語った父には、今思うと、今の私より若いのかと泣けるものがあるが、そこには夢があった。新幹線は満鉄の夢だった。プロジェクトXでももちろんテーマになっていたが、偏った話だなとも思った。
 新幹線が、自強号となって台湾を横断するのもいいなと夢見る。中国人が理解できるなら、華南の地を行くのもいいだろう。彼らに新幹線の夢が理解できるかな。と、政治だか思想に傾きすぎる歴史語りからすれば、こんな夢は批判の対象だろう。なにかとごちゃごちゃしたこともあるのだろう。
 話は少し飛ぶ。私は人生ひょんなことで長く沖縄で暮らすことになり、うちなーんちゅの鉄道の夢のような一端を知ることがあった。沖縄には鉄道はない。戦前は小さい規模だがあった。それを老人たちは懐かしく語る。島が焦土になったこともあるが、米軍統治が長すぎて、もう鉄道に戻ることはなくなった。ある意味、復帰の成功が鉄道の夢を終わりにした。余談の余談のようなものだが、大東島にも鉄道はあったのである。
 不況下の今となっては、国鉄債務問題も昔話のようだが、なぜこの債務が関係ない沖縄県民にも課せられているか疑問に思い、過去の本土側の新聞を調べたことがある。意外なことに、当時の国鉄上層部は、この負債を沖縄県民に課すわけにもいかないと認識していたようだ。が、いつのまにかそんな話は消えた。ある種の責任感というのも歴史の産物であり、それを担える人々はそれを担う前に死んでいくのだ。
 昨年那覇にモノレールが開通した。沖縄県民の多くは単純に嬉しく思ったものだ。が、ちょっと理性的に考えれば、とんでもないシロモノであることはわかる。本土の人間なら呆気にとられるだろうが、こいつは二両編成なのだ。江ノ電以下と言ってもいいだろう。また、その経路と他の交通網を見たら、どこの馬鹿がこんな路線を考えたのかと呪いたくなるようなものだ。維持するだけでも赤字になる。
 が、それでも、鉄道は夢なのだ。国家とは鉄道だと誰か言っていたな。国家は鉄道を敷かなくてはならない、ということはない。それは過ぎ去った歴史の夢だ。
 だが、私のような人間はその歴史の微睡みの中に生きている。あまりごりごりと経営的な観点で論じるのではなく、歴史の夢を活かすように、鉄道を活かすことはできないものかと思う。

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スペイン国民はテロに屈したように見える

 スペイン総選挙でテロ前の大方の予想に反して、アスナール政権が敗北した。新聞各紙は、テロをきっかけに米国追従だったアスナール政権への批判が高まったとし、しかしテロに屈してはならないという主張が多いように思えた。しかし、端的に考えれば、スペインはテロに屈したのだと私は思う。日本でも同じようなテロがあれば、日本国民は早々にテロに屈するだろうと思う。
 ヤケな言い方に聞こえるかもしれないが、自分の内面の大衆性に問いかけると、そうとしか思えない。「悪魔の詩」翻訳で暗殺された筑波大学五十嵐一助教授のことだって日本人・日本政府は真相を解明しようとしていない。する気もないみたいだ。「あんな読まれもしない物騒な文学など翻訳したり奇矯なことを言わなければいいのに、自業自得だね」というのが日本人の本音だろう。そういうものだ。「日本に関係ないテロ騒ぎに巻き込まれるのはいやだし、アラブの人と仲良くやっていけばいいじゃないか」と。
 そういう日本の大衆性に、保守勢力は威勢のいいだけの喝を食らわすのだろうか。空しいことだ。さて、私はどうかねと問われると、正直なところ、それほど強い意見もない。極東ブログもきっぱりとした主張を出せば、シカトはいいとして、ウンコどころか礫が飛ぶようになってきた。おまえさんは、ここでの言論に意地を通すのかねと言われると、それほどでもないなという気もする。
 スペインの内政については、私はそれほど詳しくはない。が、アスナール政権が当初勝利と見られていたように、内政面での失点はそれほど大きくはなかった。経済成長といい失業率の面でも、十分な内政だったと評価できそうだ。ちょっと気になるのは、日本ではベタ扱いの報道くらいしかないが、この間、ギリシアのパパンドレウ政権が選挙で敗れたことだ。
 直接スペインには関係ないし、社会主義政権として見ればギリシアの例は向きが逆だが、安定政権の転換という点で類似の空気も感じはする。いずれにせよ、スペインの政権の変化だが、詳しい統計を見ているわけではないが、各社説が主張しているのとは違い、私は、デモによって若い人の投票率が一時的に上がった反映ではないかと思う。日本でも、若い人の投票率が上がれば、意外にあっけなく自民党+公明党政権は倒れる。だから、若者よ投票せよというわけではない。が、社会の空気が変われば、日本も変わるだろう。そういう変わり方は、隣国を鏡として見ても、ろくでもないものになる。
 各社説ともに、スペインとEUの関係については言及がなかった。なぜだろうという気がする。スペイン、イタリア、ポーランドは現在のEUを考える重要な視点であるはずなのに。と、言うも白々しいか。日本は、これも本音で言えば、反米なのだ。空威張りのフランスの真似をしてみたいのだろう。
 最後にちょっと朝日新聞社説「スペイン政変――テロと戦う国民の選択」の結語を引く。


重ねて強調したい。スペインの選択が突きつけた問いは、テロと戦うべきか否かではない。ブッシュ政権主導のいまの戦い方が正しいかどうかである。

 なんか、脱力っていうより、面白いこと書くよ、朝日新聞。日本のユーモアだね。

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2004.03.15

浅田農産事件で隠蔽されている日に何があったのか?

 新聞休刊日でもあるので、社説関連のネタはない。このところなんとなく気になっていた鳥インフルエンザ関連の話を書く。
 極東ブログでの扱いでもご覧の通り。私は浅田農産を巡る鳥インフルエンザの話題にあまり関心を持ってこなかった。先行した韓国の例から考えて、日本がこの問題でヒステリックになるだろうなとは、なんとなく思っていたが、先んじて国家対応を取っていたシンガポールの状況について知っていながら、なんと大げさなという印象を持っていた。「現段階では人に感染する危険性はかなり低いから、それより、鳥インフルエンザとは関係ないが生卵を食う習慣を日本人はやめたらどうか」などと呑気なことなども思っていた。今現在でも、そうした感覚は変わらない。
 だが、この事件をまさに事件として見たとき、何が起こっていたのだろうと気になって、ネットでわかる範囲で調べてみようと思った。少し調べてみると、少し変だ。そのあたりを簡単に書いてみたい。
 ある事件が勃発したとき、私は最初の報道がとても気になる。最初の報道は間違いも多いのだが、後から消されない奇妙な情報が残ることも多いからだ。その点で、浅田農産関連の事件を追ってみる。
 この件については、地元の京都新聞にわかりやすく報道がまとめられていて興味深い。時系列に書いたほうがいいのかもしれないが、あれ?と思ったあたりから書く。
 まず、浅田肇会長(67)とその妻でもある知佐子監査役(64)の自殺についてだ。確か、切込隊長こと山本一郎のブログでは、他殺じゃねーのみたいな一言があった。彼はその件でその後のフォローはないようだ。私はといえば、あまりそういう線は考えていなかったので、ふーんと思ったくらいだ。血なまぐさい場所にいることの多い彼の感覚ではそう思うものなのだろうかと呑気な私は思ったくらいだ。が、どうもそうとばかりでもなさそうだ。いや、今でも、他殺だと疑っているわけでもないのだが、初報を読むと意外な印象を受ける。「浅田農産の会長夫婦が自殺  兵庫 迷惑かけたと遺書」(参照)から。


 調べによると、2人は鶏舎の外の空き地で、高さ約8メートルの木にロープをかけ背中合わせで首をつっていた。死因は窒息死だった。浅田会長は作業着に白い長靴姿、知佐子さんはグレーのジャケットにズボン、黒い靴をはいていた。
 浅田会長の長男で浅田農産の浅田秀明社長(41)が7日午後10時から11時ごろにかけ、浅田会長が本社にいるのを確認しており、その後、自殺したらしい。死後数時間経過していたとみられる。
 現場近くの自宅1階のダイニングキッチンにあるテーブルの上にボールペンで「大変御めいわくをおかけしました。申しわけございません。弁護士と従業員によろしく」と書かれた縦横約10センチの白い紙1枚が置かれていた。あて名は書かれておらず、末尾には「浅田」とだけ記され、浅田会長と妻のいずれが書いたのかは不明という。

 変だなと思ったのは、特に最後の文のところだ。それが遺書かぁ?である。また、「浅田会長と妻のいずれが書いたのかは不明という」なんていうことがありうるのだろうか。
 他殺、つまり、誰かが吊したという可能性くらいは警察の調査でわかるはずだ(わからない可能性も高いのだが)。直接的な他殺という線は低いのではないか。が、それにしても、この状況は、私などがそれまでニュースを通してイメージしていた状況とはかなり違う。自殺現場やその関連についての続報なども聞かない。全体の印象としては、「これでヤバイこと言いそうな口を封じたな」である。もしそうなら、そのヤバイことは何だろうか? とりあえず、これはわからないし、仮定に仮定を重ねているので推理は注意深くしたほうがいい。
 浅田農産事件の最初の報道に移ろう。京都新聞での最初の報道を見る。2月27日のものだ。これがなかなか面白い。「『どうすればいいのか』 丹波で鳥インフルエンザ」(参照)である。なお、匿名電話があったのは26日である。

 「1000羽以上の鶏が毎日死んでいる」。京都府丹波町で27日、匿名の電話をきっかけに鳥インフルエンザの陽性反応が判明した。現場の養鶏場周辺は物々しい雰囲気に包まれ、関係者も慌ただしく対応に追われた。
 「飼育している20万羽すべてを処分しなければいけないのだろうか。どうすればいいのか」。養鶏場を経営する男性(41)は、同日早朝から詰め掛けた大勢の報道陣を前に、戸惑いをみせた。
 民家もまばらな山間部。鶏舎から元気な鶏の鳴き声が響く。

 なにが面白いかというと、「養鶏場を経営する男性(41)」という表現や養鶏場の場所を特定しないことだ。この時点で、京都新聞の記者はなにを考えていたのだろうか?
 私の印象は、というと、この記者はそんな大それた問題になるとは思ってなかったのではないか。このあたり、浅田農産側も、それほど社会的な事件という印象は持ってなかったのではないだろうか。というか、いったいこの事件の社会的な意味は何なのだろう。もちろん、日本社会の集団ヒステリーに近い。
 同日の次報も面白い。「『通報遅れは残念』と批判  丹波の鳥インフルエンザで農水相 」(参照)より。

 また、鶏の大量死亡について養鶏業者からの連絡が遅れたことについては、「19日にも立入検査をしたと聞いている。都道府県には防疫マニュアルに従い、再三、周知を徹底している。通報が遅れたのは残念」と、対応の遅れを批判した。

 発言部分は亀井善之農水相だが、この言い分を単純に理解すると、19日の時点では問題なかったということになる。が、そうでもない。「丹波の農場、鶏1万羽死ぬ  鳥インフルエンザ、5羽から陽性」(参照)にはこうある。

 府は2月17日に、全国2例目の鳥インフルエンザ感染が大分県で確認されたのを受け、府内の養鶏場を立ち入り検査。府畜産課によると、2月19日、同農場の聞き取り調査では「異状は認められなかった」という。鶏舎への立ち入り検査はしていなかった。

 つまり、19日には立ち入り検査はしていない。亀井善之農水相は実態を知らなかったのだろうか。私の印象では、常識的な判断だと思うが、「バックレていやがるなコイツ」だ。亀井善之農水相及びその配下は何かを知っているなと疑う。19日に立ち入り検査をしなかったポカの言い訳とは考えづらい。それは墓穴になるからだ。何をコイツらは知っているのだろう。これも、仮定に仮定を重ねるの感があるので、ひとまず置く。が、17日には立ち入り検査があったのだろうか。いずれにせよ、その時点では、鶏は死んでなかったと考えてもいいだろう。
 先の報道でもう一点、重要な事実がある。

 府によると、26日夜、府南丹家畜保健衛生所などに「丹波町の養鶏場で1000羽以上のニワトリが毎日死んでいる」との匿名の電話があった。同所員が浅田社長らに聞き取り調査を行ったところ、飼育している約20万羽のうち、「20日ごろから毎日1000羽、計1万羽が死んだ」と話したという。

 浅田社長の言葉をそのまま信じるなら、20日から鶏は死に始めたことになる。
 ところで、鳥インフルエンザの潜伏期間はどのくらいだろうか? 京都新聞の記事に答えがあった。「鶏肉や卵、毎日でも心配ない  京都市立病院感染症科部長に聞く」(参照)では、清水恒広・京都市立病院感染症科部長の説明が掲載されている。

 鳥インフルエンザはH5型もH7型も、人のインフルエンザA型と同じタイプだ。病気の鳥と濃厚な接触歴があり、迅速診断キットでA型と分かれば、疑ってみる必要がある。ただし、人のインフルエンザの潜伏期間は1-3日間に対して、鳥インフルエンザは3-4日間といわれる。少し長く経過を見なければならない。

 つまり、鳥インフルエンザの潜伏期間は3、4日ということだ。
 とりあえず辻褄は合う。つまり、17日時点では異常がないが、その日から3、4日で鳥が死に始めたということだ。
 とすれば、浅田農産に鳥インフルエンザが潜入したのは、少しスパンを取ったとして2月15日から17日ではないのか。この疑問の意味が理解してもらえるだろうか? そう、私は鳥インフルエンザは人的に持ち込まれたのではないかと疑っている。とはいえ、まったくの陰謀論を考えたいわけではない。わざわざ悪人が鳥インフルエンザに感染した鶏を浅田農産に混入させた、などとは考えない。ただ、人的に鳥インフルエンザが浅田農産に持ち込まれたのだろうと思うのだ。そう思う理由は、先にも引いた「丹波の農場、鶏1万羽死ぬ  鳥インフルエンザ、5羽から陽性」の記事にある。

  伊藤寿啓鳥取大教授の話 京都のケースが鳥インフルエンザだとすると、状況からみて山口、大分両県で鶏に感染したウイルスが来たとは考えにくい。地理的に朝鮮半島に近い両県と比べ、野鳥が運んだ可能性も低いかもしれない。海外から散発的に来たウイルスが感染を引き起こしているのだろう。さまざまな仮説を立て、考え得る感染ルートを遮断すべきだ。

 記者が伝言をたらっと書いているのだが、ここで伊藤寿啓鳥取大教授は、浅田農産での鳥インフルエンザ感染について、こう指摘している。

  • 山口、大分両県で鶏に感染したウイルスが感染したものではない
  • 野鳥が運んだ可能性も低い
  • 何らかの経路で海外からウイルスが持ち込まれた

 この指摘は、人的な介入を示唆していると考えていいのではないか。
 ここで、ごく基本に戻るために、「週刊こどもニュース」の「鳥インフルエンザってなに? (04/1/17放送)」(参照)を引く。 なお、この説明事態は、山口県での鳥インフルエンザを想定していたが参考になる。

韓国でインフルエンザにかかったニワトリの近くにいたカモにウイルスが入り、このカモが日本に飛んできて、山口県の養鶏場の近くに来て、ウイルスが、この養鶏場のニワトリに感染したのではないか、という可能性が考えられるというわけです。
 また、養鶏場に出入りしている人やトラックに付いていたり、ニワトリのエサについていたりした可能性がある、という専門家もいます。

 まどろこしいようだが、浅田農産のケースでは野鳥説が消えているので、次の2つが残る。

  • 養鶏場に出入りしている人やトラックに付いていた
  • ニワトリのエサについていた

 つまり、今回の事件で、もっとも真相を解明しなければいけないのは、2月15日から17日の浅田農産養鶏場の人とトラックの出入りと餌の状況だ。
 だが、それが報道されているだろうか?
 いないと思う。なぜなのだろう。
 そう考えると、先に仮定の仮定として残した部分がすべてここに集約するようにも見える。この先は言うまでもないが、あえて言うなら、「殺害と決めつけるわけではないが、浅田農産の老夫妻の口を封じ、カラスに社会ヒステリーを向けさせているやつは誰か? 2月15日から17日に浅田農産に何があったのか?」となるだろう。
 極東ブログとして、浅田農産事件について指摘したいことは以上。
 が、最近騒がれているカラスについても一言。
 同じく京都新聞の記事だが、「死んだ野生カラス2羽からウイルス  船井農場と園部町」(参照)をひく。

 国内の鳥インフルエンザをめぐっては、大陸から渡り鳥がウイルスを持ち込んだ“野鳥犯人説”もささやかれているが、専門家は「船井農場には大量のウイルスが蓄積しており、今回は(養鶏場に出入りした)カラスが被害者となった可能性が高い」とみている。
 環境省と共同で各地の発生地周辺の野鳥調査を続けている大槻公一鳥取大教授(獣医微生物学)は「船井農場で鶏の大量死がピークだったのは1週間以上前。もしカラスがウイルスを持ち込んだとしたら、もっと早くに死んでいるのが見つかったはず」と指摘。
 約5キロ離れた丹波町内の高田養鶏場でも2次感染とみられる鶏の被害が起きたが、鶏舎は野鳥が侵入できない構造で、カラスがウイルスを媒介したとは考えにくいという。

 現在となっては、カラスが感染を広める危険性は十分ある。だが、浅田農産へウイルスを持ち込んだのはカラスじゃない。

追記3.23
 新しい事実から、大量死発生の時期は20日ではなく、17日より数日遡ることがわかった。それに合わせて、疑惑の日々をマイナス3日補正する必要がある。

残るなぞ、真実どこに 連載「何が起きた(6)」


 鶏の大量死が始まったのは2月20日とされる。その3日前の17日、浅田農産の幹部から愛知県の飼料会社の研究所に電話があったと研究所の獣医は証言した。「ちょっとようけ鶏が死んでるんや」との電話。「鶏を解剖したら、腸がソーセージのように腫れている」。症状を聞いた獣医は「腸炎かもしれない。しばらく様子をみてほしい」と伝えた。
 獣医は、のちに鳥インフルエンザで鶏が大量死したことを知り、悔やんだ。「どうしてもう1度連絡してくれなかったのか。1000羽も腸炎で死ぬなんてありえない」

 なお、この間の関連ニュースを見ていても、私の考えでは、依然、人的な感染が最も疑わしい。

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2004.03.14

盧武鉉はなぜRoh Moo Hyun

 識者にとっては愚問かもしれないが、韓国関係のニュースを英語を通して読んでいて、さしていつもは気にしてないのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろう?と疑問になった。
 盧武鉉がノムヒョンと呼ばれることには、私もわずかに韓国語を勉強したこともあり、とりあえず、それほど違和感はない。「盧」をノと読む件についてもだ。もっとも、「柳美里」は、個人的には「やなぎ・みさと」と読むが、別に公的にそう読みたいわけでもない。「金明観」はキムミョンガンと読む。ファーストインプレッションが原因か。盧泰愚はロタイグと読む。盧武鉉をどう日本読みするかは、ちょとわからない。
 問題は、Roh Moo Hyunの表記だ。アメリカのジャーナリズムはどういう見解に基づいているのか。というのと、ついでだが、韓国はこれについてどういう見解を持っているのだろうかということだ。
 ちょっと背景として、日本での韓国人名読みについてだが、これは一応相互主義とか呼ばれている。理解しづらいものでもない。歴史的な背景としては、しかし、そう割り切れるものでもない。1988年最高裁判決「NHK日本語読み訴訟」(判例時報1266号)が原因だ。在日韓国人崔昌華(チォエチャンホァ)牧師がNHKに対して、その氏名を日本語読みしたことで、人格権侵害による損害賠償請求を求めるというものだった。判決は常識通り(当時はそういう慣例がなかった)なのだが、この裁判の影響で、NHKは韓国や北朝鮮の人名地名をその母国語読みにするように改め、他マスメディアも事なかれ主義で現在に至った。
 実際問題、現代の韓国人の若い世代は漢字がほとんど読めないので、漢字を介した日韓の文化交流というのはむずかしい。その現状を踏まえれば、漢字を無視して、母語の発音を尊重してもいいだろうとは思う。そのわりに、韓国では東京をトンギョンと呼ぶが、まあ、苦笑して済ますことにしてもいい。
 で、これが相互主義というなら、中国に適用されるかというと、ご存じのとおり、そうではない。とはいえ、理屈はなんとでも付くのであり、中国人も日本人名を漢字でそのまま読むからいいのだと。ついでにひらがなも否定されるので、「小林善紀」となるわけだ。
 実際のところ、韓国人名については、相互主義だの国際化だのといった理屈は要らないローカルルールというふうに理解したほうがいいだろう。
 だが、そうすると、冒頭の問題に戻るのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろうか。ざっと、ぐぐってみても回答はない。というか、なぜでしょう?みたいな意見ばかりだ。「はてな」で訊いてみるかな?(S/N比悪そう)。
 ぐぐっていると、ひょんなものが見つかった。中央日報コラム「【噴水台】ミスターノー」(参照)である。


 盧次期大統領の直説話法について、ソウルの外国人友達は、当惑している様子が歴然である。あるアメリカ人の友人は、「盧次期大統領の名字、盧は英語でロ(Roh)だが、韓国語発音はノ(No)」という事実をあえて強調する有力コラムニストの文が、米国の有力日刊紙に掲載される雰囲気を伝える。
 もちろんそれほど敏感に反応する必要はない。だが一度形成されたイメージとあだ名を変えるのは、作るのに比べて数倍の努力が必要だ。
 ホームページのアドレスを「knowhow」と書く盧次期大統領が語法のために自分を「Mr.Roh」でなく「Mr.No」と刻印させる必要はない。ましてこれは国益にも役に立たない。

 63へぇ、くらいか。韓国でもその差はよく理解されているわけだ。ただ、当の問題はこれで解決されたわけではない。
 もうちょっと言語学的な解説はないかとぐぐっていくと、「東アジア諸言語のローマ字表記: 3.韓国語」(参照)というページがヒットした。面白いには面白い。が、よくわからん。これで、私の愚問の答えになるだろうか。

 前述した朴を Park と書く方式は何というのか知らない。 李承晩を Rhee Syngman, 朴正熙を Park Chunghee, 全斗煥を Chun Doowhan, 盧泰愚を Roh Taewoo, 金泳三を Kim Youngsam, 白南準を Nam June Paik, 現代を Hyundai, 大宇を Daewoo, etc. というのは何に由来するのだろうか。

 というわけで、疑問としては残るのだろうか。
 ちなみに、このページの関連の中国語の説明も、簡便でよかった。「東アジア諸言語のローマ字表記: 1.中国語」(参照)である。歴史好きの場合、近代化の文献に出てくる表記はWade-Giles式が多い。特に、中国茶の歴史(これがたまらなく面白い)などを読む場合は必要になる。が、え?と思ったこともある。ちょっと脇道に逸れるのだが。

 なお, 北京を Peking, 広東を Canton と書いたりするのを「Wade-Giles式」と書いてある文献が非常に多いが, まったくのでたらめなので信用しないように。

 「でたらめ」なのか。と非難しているわけではなく、単純に知らなかった。そして、その判定も現状、私はできない。ただ、ちょっと気になるのは、この時代の代表的な中国語は広東語である。北京語ではない。
 国民党が北京語を普通話にする経緯は、歴史的にみると、けっこう偶然っぽい。さらに余談だが、あれはいつだったか、私が高校生くらいだったか、英語の勉強がてらにJapan Timesとか読んでいたころ、PekingをBeijingに変更があった。もっとも、今でも国際線ではPeking/Beijingだが。そういえば、日本ではいまだに「ペキン(北京)」と発音している。これは、いったい何故?
 というわけで、当の問題は答えがわからない。どさくさで想像を言うと、Roh Moo Hyunは中国表記じゃないのか?

追記(同日)
 Ririkaさんから、有益なコメントをいただいた(参照)。ありがとう。
 それと、2ちゃんねるで参考になる発言を見つけたので追記。

韓国◆「Samsung」の「u」に違和感を持つ人、集合!(参照


25 :tiki :02/03/14 21:37
 道路標識は政府標準案に従って表記しています。地下鉄の英名とかもそうですね。
 個人名の綴りに関しては政府は干渉しません。同じ李さんでも「Lee」「Rhee」「Yi」など人それぞれです。
 李王朝の英語表記は「Yi Dynasty」ですが、韓国初代大統領の李承晩は「Syngman Rhee」です。今の政府標準表記だと「Seungman Ri」です。
 「李」の実際の発音が「イ」なのに「リ」に綴るのは、韓国の漢字辞典に載っている発音が「リ」だからです。しかし韓国語には「頭音法則」があって語頭に「r」の音は置けないので(外来語を除く)「イ」に変わるのです。
 「Mr.李」と書く場合はちゃんと「ミスターリ」って発音します。語頭じゃないので。北朝鮮は頭音法則がないので語頭でも「リ」と発音します。
 韓国でも「柳」という苗字を例外に「リュウ」と読ませる場合もあります。

 韓国語のローマ字表記は日本語より複雑で、学校で正式に教えたりしません。
 多くの人はローマ字=英語と勘違いしているのも事実です。
 だから大人になっても政府標準の表記法を覚えてない人がほとんどです。
 パソコンでハングル打つ時もローマ時入力ではないので覚える必要性を感じる人は少ないですね。僕はちゃんと教えるべきだと思いますが。


 李承晩がSyngman Rheeなのは、もうこれは慣例のようだ。とすると、日本人が歴史の人物である李承晩を「りしょうばん」と読んでも、なんら問題なさそうに思える。


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ジェンダーフリーとかの雑談

 ジェンダーフリー云々の話は私はあまり関心がない。産経新聞社説「ジェンダーフリー 是正の動きを加速したい」をざらっと読みながら、特に関心もわかない。「おまえも保守オヤジじゃねーか」というのを棚に上げて思うのだが、この話題は何が焦点なのかもわからない。男女別名簿を一元化するべし? すれば、である。些末。そんなことが問題なら、相原さん、和田さん、といった順序も問題か。
 私は、日本では女性の社会進出がまだまだ遅れているのだから、教育にもっとアファーマティブ(affirmative)な圧力をかけていいのではないかとも思う。誤解されて非難くらいそうだが、現状、公務員の女性はかなり優遇されているが、その優遇幅をもっと広げていいのではないか。短期的には、他の女性との間に落差が広まり社会怨嗟の元にもなるだろうが、公務員の半数が女性くらいになってしまえば、その問題も異質なものになるだろう。公務員の大半はサービス業のようなものなので、まさにジェンダーフリーに向いているし、先進国ではその傾向にある。
 ジェンダーフリーってなことが大してわかりもしないで言うのだが、私の感覚からいうと、現代の少女のジェンダーフリーの意識は46歳オヤジが少年のころに比べてかなり劣っている。どうしたこったという感じだ。というか、そのあたりが、むしろジェンダーフリーの議論に登ってこないように見えるのだが、なぜだろう。象徴的な例でいうなら、女子中高校生のふざけたミニスカートの制服だ。私はこういうところ実は米人的なのか、あれはお下劣に見える。軍服である詰め襟など男子に着せておいて、何がジェンダーフリーなのだ。もっとも、そんな議論はジェンダーフリーとは関係ないか。
 個人的な回顧だが、高校の文化祭のとき、企画で議論した。私はその過程で議論がきつくて女子を泣かせたことがある。私は別になんとも思ってなかった。泣くなよ、議論しようぜってなものである。あとで、私の友だちが、こっそり忠告した、「女の子を泣かすのはだめだよ」と。ついでに、「赤頭巾ちゃん気をつけて 」をも一度読みな、と。なるほどな。ところで、この小説シリーズは今でも読まれているか。思い返すと、けっこう影響受けたか。
 未だによくわからない。「女の子を泣かすのはだめだよ」っていうのは、男たるものの倫理なのか? こういうところに私のごっそりとした感性の欠落がある。ついでに言うのだが、女子供に暴力をふるうっていうもの理解を超えている。吉本翁も同じことを言っていたので、私だけの感覚でもないのか。別に、私はDVとやらからフリーです、ってなことではない。もっと、単純な何かだ。
 話がたらけたついでなのだが、"Blog for Japan"というブログで「女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違い?」(参照)という記事を読んで、ちょっと変な感じがした(どうでもいいけど、アフィリエイトの入れ方も、もうちょっと工夫したら)。


女性のニーズを満たすことと、女性の言いなりになることの違いって、なんとなく分かる気がするけど明確に説明しろって言われると難しい。誰か教えてください。

 これが私は皆目わからない。暴論になるのだろうなと前置きする。女性のニーズっていうのが不明だ。私はこう考える。「俺の女」のニーズか、「世の中の女性」か。
 「俺の女」ってなことを言うと礫が飛ぶか。しかし、その対(つい)は「わたしの男」である。対幻想領域だ。この領域の問題はまさに対性のなかに閉じている。そこに性的な心性の一般性は働くが、栗本慎一郎がポランニをひいていうように、「女性のトランザクションは個別的である」だ。対幻想的な領域で女は、一般性を内包しているようだが、その機能は個別的だ。男というのは、「女は俺を理解しねー」と思いがちだが、女の個別性の可能性(韜晦ですまねーな)は、それを本質的に凌駕する(理解している)。女というのは存在論的に不思議な存在だ。と、そのあたりに気が付くかどうかで、男の人生は変わるようにも思う。
 で、「世の中の女性」のニーズというなら、そのもそも理解する必要があるのか。そんなものは、古くさい英語だが"common courtesy"で足りる。社会的な礼儀で足りるはずだ。そして、議論など性を捨象した次元では、女性のニーズといった視点は消える。
 このあたり、そう単純に吉本的な対幻想論で割り切れるものではないだろうが、それでも、男のもてたい論や女のいい男論は、くだらねーと思う。
 くどいが言う。男などもてる必要などない。てめーの存在を深め、あとはそれを理解しえる女に命をかけるだけだ。「いい男」っていうのも、無意味だ。誰にもいい男などそもそも無意味だ。と、さらに言う。この議論は、女の床屋談義のテーマだ(床屋じゃなねーな)。上野千鶴子あたりもこの手のことを言い出すのは、対性という存在のあり方に腹をくくってないからだろう。
 フェミニズムという韜晦の森に迷い込むのはご免被りたいが、フェミニズムは、当たり前のこととして、「女性、わたし達は」という「達」の議論だ。それはそれでいい。それを「一人の女のてめー」の問題に混ぜなければ。
 「一人の女のてめー」という実存論的な可能性は別の次元にある。そのあたり、ポーリーヌ・レアージュことドミニック・オーリーなど、婆になりくさってまで見事に「女」そのものだった。この話は、これ以上書かない。
 男そのものみたいな男は? そりゃ、当世でいうなら、鴨志田穣、カモちゃん、だな。あっぱれだ。サイバラが最初の子供の生むとき、障害児だったらと悩んだとき、カモはこう答えたという、もっと産め! 兄弟が助ける、と。そう言うのが「男」だ。

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2004年3月世相メモ

 今朝の各支社説はまばらな印象を受けたが、どれも読み応えがあった。逆に、そういうときは、私はとくに口を挟むまでもない。が、散漫ではあるが、世相のメモとして簡単に書いておく。
 読売が今朝になって日墨FTAを扱っていた。よく書けていた。昨日の私のブログの記事は少し「陰謀」に傾きすぎたなと反省する。ただ、大筋で見解を変えるものでもない。同じく読売が全国人民代表大会(全人代)閉幕に言及していたが、全人代というのはわかりづらい。言葉と実際が乖離しているからだ。
 中国の動向という点では、朝日が香港の民主化に肩入れするような発言をしていた。え?サヨサヨの朝日がなぜ?という感じだ。台湾絡みもあるのだろうか。ちょっと違和感を残した。
 日経と産経が九州新幹線について触れていた。どちらも、無駄じゃないかとの議論だ。それはそうだなと思う。言っている理屈はどちらも正しい。が、私は理性度外視で九州新幹線だ、わー嬉しいと思う。阿呆だな俺、と思う。この阿呆にもそれなりに歴史から生まれたものでもある。
 毎日が年金施設売却の責任はどうすると問うていた。そう問うてみたいものだ、と苦笑するしかない。合わせて、現在の資産を二束三文で売却するんじゃねえと加えていた。それもそうだ。ごもっとも。と皮肉るのも。それにはかなりの人材を必要する。誰がやるのか。そごうの再建をぼんやり見ながら、私は誰がやるのか、ということが気になる。カネボウの再生についても、誰がやるのか?(もちろん、これはわかる) 組織やシステムが正しければ経営ができるというものではない。余談だが、週刊新潮に掲載されていた新生銀行の裏話は高橋の法螺なのか。これってほんとなら、ハゲタカファンドどころの話でもないのだが。
 朝日の他方の社説で、天下りを論じていた。これもな、である。言うはやすし。そういえば、道路公団民営化はどう総括されるのだろうか。猪瀬も功罪相半ばだなという感じがする。責めるもやすし、好意的に見るにも…。週刊文春掲載の裏話が、猪瀬は真面目なのだろうが、ギャグにしか読めない。私が単純に猪瀬を批判するとすれば、すでにブログでも書いたように、民主党の敵に回ったなテメーである。ま、それも稚拙ではあるのだが、上から圧力をかけないとどうしても小手先になる。と同時に、あまり上から圧力をかけると日本は壊れる。
 三菱ふそうの問題は…なんか言及するに疲労感が漂うので放言めくが、米国の訴訟社会っていうのも悪くないか。木村の剛ちゃんがCSRと企業不祥事という関係ねーテーマを結合して楽しいブログを書いていたが(「CSRを語る前に、内部管理体制を整備せよ 」)、って、こういう言い方がクサシっぽいな、すまない、ま、金子勝ばりに企業不祥事を叩いていた。確かにご説はごもっとも。しいて言うなら、CSRはシステム的な問題でもあるのだから、切り離して考えてもいいだろう。私の視点でいうなら、CSRなんかより、企業は奨学金制度を創設して、若い貧しい人材を育ててほしいと思う。どうやっていいかわかんない? 簡単だ、大学を出るだけの金をどかんと出す。卒論チェックを企業がするのだ。卒論が阿呆なら金を低金利ローンで返却してね、とする。それだけ。貧しい家庭出身のよい人材を20人育ててみぃ。20年後に日本はよくなるぜ、と思う。

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2004.03.13

ジーザズ・クライスト・ムービー・スター

 先日、極東ブログ「時代で変わるイエス・キリスト」(参照)を書いたのは、この映画とニューズウィークの評について、新約聖書学と日本人の視点を含めてコメントしておいたほうがいいだろうと思ったからだ。単純な話、ニューズウィークの評が歴史ベースにギブソンの映画を論じている割には、共観福音書もQにも言及していないヘンテコなシロモノ。困ったものだ、ということだった。ニューズウィークとしては特集並の扱いでもあり、また、翻訳にもちと疑問も残るなど、あまりたいした記事ではないなとも思った。
 が、その後、端的に映画として見た評がニューズウィークに掲載された。日本版だと「加熱する『パッション』大論争」(3.10)である。原文もネットで参照できる。オリジナルタイトルは、"Jesus Christ Movie Star"(参照)と洒落ているのに日本版では捨てられたので、私がブログ記事のタイトルとして拾うことにした。洒落の解説は、全回の私の記事を当たってほしい。
 デービット・ゲーツ(David Gates)が書いたこちらの記事はよく出来ていた。記事としては満点というところか。なので、特に口を挟むこともないのだが、いくつか自分なりのメモを書いてもみたい。
 映画「パッション」ではイエスがアラム語を話し、その部分は英語字幕になっているらしい。この点は、アラム語を若い日に研究しようかとも思ったことのある私などはうらやましいと思う。脚本が新約聖書との関係でどのようにアラム語を再構成しているかは気になるところだ。イェレミアスの研究なども参考にされているとしたら、すごいと思う。そこまでいかなくても、この映画で、イエス自身の母語がアラム語であることが英米圏に広まってよかったとは思う。CNNのニュースだったが、アラム語研究の補助金みたいな話もあったかと記憶している。
 R指定の問題は、暴力にナーバスな米社会にはやはり重要な意味をもったようだ。イエスの受難と苦しみについては、神学的にややこしい問題もあるのだが、いずれにせよ受難とは、ブルトマンをひくまでもなく、象徴として見るべきものだ。が、映画では、というか、映像化すれば、残虐シーンになる。まさに、そのことが現在的でもあるわけだ。
 同様に、この映画の存在が、「キリスト教徒である」ということの主張になっているというゲーツの指摘はなかなか鋭い(なお指摘自体はJonathan Bockのコメントから)。
 近代キリスト教徒にとって、キリスト教とは、他宗教との対比で置かれる宗教ではなかった。基本的に他宗教とはエスニックな異教に過ぎない。彼らにとって宗教的な問題とは、デノミネーションズ(denominations)や、国民(国家)宗教としてのキリスト教、あるいは昔ながらの異端との対立ということにすぎなかった。が、9.11によって、世界のキリスト教は結果的にイスラム教との対比に自己相対化を起こしたと言っていいのだろう。ただ、この点については、西洋のキリスト教というのは、近代の始まりにすでにそういうものでもあった。パスカルの「パンセ」など、日本では気の利いた箴言集のように見られているが、あれは、本来は、イスラム神学への対抗を期した組織的な思索となるはずのものだった。
 ゲーツの評のなかで、特にこれはいいなと思ったのは、ジョン・ウェスト神父(Father John West)のコメントを掲載した点だ。


 「神学者の立場で評価するなら、あの映画はあくまで『メル・ギブソン版の受難劇』だ。見るなとは言わないが、注意深く冷静な見方をしてほしい」と、デトロイト大司教の顧問を務めるジョン・ウェスト神父は語る。

 "Speaking as a theologian, well ... what Mel Gibson does is give us the Passion according to Mel Gibson," says Father John West, an adviser to the Archbishop of Detroit and a pastor in suburban Farmington. "I would never tell anybody not to see the movie. But I would caution anyone to watch it carefully and critically."


 日本語では「冷静な」としているが、原語の"critically"に重点を置いてほしい。これは、まさに、そのとおりなのだ。神学を多少なりとも勉強した人間にとっては(余談だが私はキリスト教神学を少し学んだ)、それがカトリックの神学であれ、プロテスタントのそれであれ、ギブソンの映画は「見るなとは言わないが」程度のものだ。奇妙な信仰の地点から、先の私のブログ記事などに反感を持たれても困惑してしまう。と言いつつ、視野の狭い福音派から攻撃も予想されるので、もう少しこの記事から補足しておきたい。誤訳とは言えないが、この翻訳はちとまいった感はあるのだが。

 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」
 もちろん、リベラルなプロテスタント主流派や、第2バチカン公会議の結論を受け入れるカトリック教徒の多くは、必ずしもギブソンの映画を「自分たちの」信仰の望ましい表現とはみていない。ボックも認めるように、「保守派のキリスト教徒以外の人々にとっては、(『パッション』は)ただの血なまぐさい映画」だ。

Bock, of course, is talking about a certain group of Christians - not liberal mainline Protestants and post-Vatican II Catholics, many of whom may have their doubts about whether "The Passion" is an ideal, or even a desirable, expression of their Christian faith. And, as Bock admits, "if you don't have a relationship with Jesus, I think you just look at it as a gore-fest."


 概ねそのとおりだ。端的に言えば、この映画は、現代キリスト教の信仰などはまるで関係がない。という意味で、こんな映画に信仰の意味づけなどしないでほしいと言いたいくらいなのだ。
 ところで、読み落としていたのだが、以下の和文と英文を比較して欲しい。特に説明しないが、この編集の意図はなんだ?

 だが、キリスト教徒向けの広告会社グレースヒル・メディアのジョナサン・ボックは、ギブソンが先鞭をつけた『パッション』現象はこの先「何度も繰り返される」可能性があると指摘する。
 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」

But Jonathan Bock, head of Grace Hill Media, a PR firm that markets to Christians, thinks the "Passion" phenomenon can repeat "again and again" now that Gibson's opened the door. Bock calls "The Passion" an "Ellen moment" - Ellen DeGeneres, he means - in which a group of outsiders is embraced by Hollywood. "Christian is the new gay," he says, laughing. "Maybe for the first time since Billy Graham started his Crusades, Christians are involved in something significant in pop culture."


 さて、ゲーツの記事の締めはふるっている。私のブログと同じセンスじゃないか。共感者ここにあり、といったところだ。

 「私は平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために(地上へ)来たのだ」と、イエス・キリストは言った。その点に関するかぎり、メル・ギブソンは主の言葉に忠実だった。

 Jesus said he came to bring not peace, but a sword; in this if in nothing else, Mel Gibson has proved his disciple.


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盧武鉉大統領の弾劾

 韓国ネタはしばし書くのを控えようと思ったが、少し書く。韓国の国会が盧武鉉大統領の弾劾訴追案を可決したことに関連した話だ。日本語で読める主要韓国紙は日々ざらっと追っているのだが、率直な感想をいうと、このどたばたはうんざり感がある。韓国人はなぜいつも大統領を屠るのだろうという感じもする。つまり、またかという感じだ。だが、そう思いつつも、私は韓国人の心情までわかるわけでもないとも思う。そこには距離を置くのが隣国民としての礼儀のように思う。
 が、礼儀を欠くやつもいる。朝日新聞社説「大統領弾劾――韓国の迷走を憂える」と標題に「憂える」としながら、ふざけたお笑いを書いていた。与野党をクサシてこう言う。


 どっちもどっち。双方が意地を張り合い、妥協の可能性を閉ざして、行くところまで行ってしまった。北朝鮮の独裁者、金正日総書記もびっくりの展開に違いない。何ともはやである。

 下品なお笑いだと思う。少し頭を冷やせば対岸の火事とばかりも言えなかろうに。産経社説は朝日のようにお笑いを取ってはいなかった。一番まともなのは毎日新聞社説「韓国大統領弾劾 対北外交への影響最小に」に思えた。

 大統領弾劾は、異例の事態である。だが非常事態になったわけではない。総選挙と弾劾審判という枠組みの中で、粛々と結論が出ることである。北朝鮮を含めた周辺国が韓国の混乱を過大に理解すべきではないだろう。

 またしても読売はネタを揃えてないのだが、各紙の社説を読みながら気になったのは、韓国大統領の任期が一期五年に限られるという補足がなかったことだ。
 韓国の大統領制にはシステム的な弊害もあると思う。一期しかないために、任期の後半には支援者が次期大統領への思惑に走ってしまうのだ。補足がてらに言うと、この限定は1987年に長期政権による独裁化を防ぐためにできたものだ。全斗煥7年さらには朴正熙18年の弊害の反省でもあった。
 社会システム的には、もう一点、韓国社会の世代間の分裂のようなことが気になる。先日、このブログでも反日法について扱ったが、実際に生の若い韓国世代に触れている人から見れば、反日といった社会トーンは若い世代にはそれほど及んでないとの指摘を受けた。たしかにそうだろう。日本でも2ちゃんねるの投稿を若い世代の意見と言われても、そりゃーねというものだ。
 関連して先日、ネタにするのはボツったのだが、中央日報に大前研一の韓国講演の要旨が掲載されていたのが興味深かった。「『韓国、このままでは所得2万ドルは夢』大前研一」(参照)だ。話の骨格は隊長こと山本一郎が大前を評して経営者がかかるおたふく風邪といったように、毎度毎度といった趣なのだが、個別の指摘は興味深かった。気になる指摘はこうだ。

 彼は「韓国は日本植民地時代の世代、韓国戦争(1950~1952)世代、1万ドル経済世代など、各世代間の認識があまりにも大きい」とし、世代間の葛藤克服が韓国の優先すべき課題だと指摘した。

 大前に言われるまでもないといえばそうだ。しかし、この問題の根は深い。また、もう一点だけ引く。

 彼は「大統領の権限が強く、官僚の認許可で企業の運命が左右される限り、韓国の慢性的な『政・官・財の三角癒着』は解消されない」と述べた。

 こう言うと批判される向きもあるだろうが、韓国は国の発展に日本モデルを採用している。日本と同型でもあるという意味で、こうした社会問題は日本の鏡でもあるだろう。
 ただ、「政・官・財」というとき、「政」が日本においては、自民党と地方を意味するのに対して、韓国ではそこに大統領が出てくる。日本の社会構造も今となってはろくでもないことになったが、大統領を持たないことのメリットもあるだろう。
 世代間のギャップについては、韓国の場合、第二次世界大戦後の戦史の影響も大きい。このあたりの話は、ベトナム戦争従軍の経験のない日本の本土人にはどうしてもわかりづらいものがあるのだろう。

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スペインテロ雑感

 朝日新聞社説は「3・11テロ――民主主義は屈しない」としてスペインでのテロ事件を3.11テロと呼んでいたが、私にはしっくりこない。9.11の洒落のつもりなのだろう。自分の心のなかで、9.11を許容し3.11を許容しずらいのか理由を探ってみるがよくわからない。今回のスペイン・テロ事件というものを心の奥でどう受け止めるかということに関わっているようだ。
 各紙社説は当然ながら、犯人は誰かという推測を語らざるをえない。私もそれは気になる。インドネシアのテロとは異なり、米国政府側からのインフォはないようだ。
 スペイン政府はETA「バスク祖国と自由」と見ている。過去のETAのテロによる死者は800人に上ると聞かされると、それもありだろうかとも思う。
 アルカイダ説もある。犯行声明があったというのだが、場所はロンドンだ。アルカイダ説の信憑性を高めるのは、大量殺人であることと、スペインがイラク戦に早々に米国に従ったことだ。
 私はどう考えるかというと、もちろん、情報がないのでわからない。いつも思うのは、ある悲惨な事件で利益を得ているヤツは誰かということ。刑事コロンボから教わった思考法である。スペイン国民と自由主義諸国を威嚇して益するのは誰か。アルカイダか。米軍、あるいはうがってEUとも思うが、そこまでいくとさすがに「と」の領域だ。
 今回の事件で、日本人は、テロにより怯えるようになるだろうか。普通に考えるとそうなってもしかたない。が、一庶民として社会の空気を嗅いでもその気配は少ない。オウム事件の後遺症のようなものかもしれない。
 このずれ感じは読売新聞社説「列車爆破テロ 脆弱な部分への攻撃に備えたい」は社会問題をしてきたあとのおまけの結語に顕著だ。


 無論、当局にすべてを頼るべきではない。おびえる必要はないが、国民の一人一人が、日ごろから心構えを怠らないことも重要だ。

 呑気な感じでもあるが、これは日本社会には外人廃絶の空気と反映するのだろう。
 日本の行政としては、この機に一層国の安全のための情報に敏感になる必要があるのだろうが、そのあたりは難しい問題があるなとは思う。以前のように米国側の情報がそれほどはアテにならない。日本独自の情報能力はない。

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2004.03.12

食用の鶏の話

 たいして意味もない雑談になるが、浅田農産船井農場の鶏処分のニュースをぼんやりと聞きながら、ずっとそこに飼われてた大量の鶏というのが気になってしかたがない。写真などを見るに、農場というより、工場に見える。もちろん、現代の鶏があのように飼われていることを知らないわけではないのだが、日ごろ意識しているわけでもないので、こう頻繁にニュースで取り上げられると、どうしても気になる。ニュースはできるだけ映像で見ないようにしている私だが、だからなのか、あの工場とそこに飼われて死んだ鶏のイメージがつきまとう。
 素朴な話、あんなふうに生き物をいじめるように育てて食うのか、という嘆息でもある。かわいそうに思うなら食わなきゃいいだろと言われそうだし、実際、私は一時期厳格に菜食に徹したこともあった。そのまま菜食でもよかったのだが、人生、乗り切らなければならない難事があって、食のことなどかまっていられなくなってしまい、そのまま菜食はやめた。逆に沖縄で暮らすにあたり、豚の内臓だの足だのをごちそうとして食うことにした。そして、今はそれほどは肉は食べないのだが、菜食に戻ろうとも思わない。
 そういえばと気になって、日本の鶏の抗生物質の投与の状況をざっとネットで眺めてみた。よくわからないが、日本では現状でも建前では、投与した抗生物質が鶏肉には残らないようにするという規制があるようだ。信じるしかないだろう。が、家禽や家畜には現状どれほど抗生物質や成長ホルモンなどが投与されているのだろうか。ま、ナーバスになるくらいなら、食べる量を減らすほうがましかもしれないのだが。
 鶏といえば、バリ島のウブドに十日ほどコテージを借りてぶらぶらしていたことを思い出す。夜にデンパサールに到着した。ウブドで水田の小道を借りたコテージまで行くと、蛍が舞ってきれいなものだった。星空は澄んでいた。コテージには小さなプールがあり、籐のベッドで寝る前に、夜空を見上げて少し泳いだ。朝、なんというのだろう、地の呻き渡るような怒号で目覚めた。なにが起きたのかと思った。ガラスのない窓を押し開け、南国風の森の向こうからその音は響き渡るのきいた。鶏の声なのだろう。何万羽という鶏が朝の声を上げているのだ。
 ウブドではよく鶏を見た。籠で蓋をされている。逃げないようにしているのかとヴァラニーに聞くと、もうすぐ食うから肉が固くならないように、運動させないようにするのだと言う。なるほどね。食ってみるか。

cover
Really Rosie
 旅の仲間の数名は米人ヴェジテリアンだったこともあり、ヴェジテリアンの食が多かったが、ときたま、ウブドの通りのロータスカフェとかで鶏肉の料理を食った。身が絞まってうまかった。いつも思う。日本を出ると鶏がうまい。鶏肉というのは、ほんとうにごちそうなのだ。仲間の一人に英国人がいて、風邪をひき、チキンスープが飲みたいとか言っていた。薬飲まないなら、勝手にしろよと思ったが、彼女にとってみれば、チキンスープこそ風邪薬でもあるのだろう。そういえば、モーリス・センダック(Maurice Sendak)の絵本に"Chicken Soup With Rice"があったっけな。Really Rosieの歌も歌ってしまいそうだ。キャル・キングの話にずっこけそうなので話を戻そう。
 米国でもチキンはホールで売っているものだし、中華圏に行けばホールで吊してある。首を切り、羽をむしるなど、カボチャを切るがごときだ。情け容赦もないようだが、あれでも、人と鶏の関わりかたなのだろう。と、ここで、日本の養鶏場がひどいものだと言う気はない。むしろ、ああいうアジア的な鶏の関わりかたので、ベトナム人に鶏インフルエンザの死者が出たのだ。
 こういう鳥インフルエンザはけして現代の病気とも言えないのだろう。歴史のなかでなんども繰り返していたには違いない。ただ、これほど大量の鶏を食う文明でもなかっただろうなとは思う。
 文明に罪があるとも思わないし、鳥インフルエンザが罰だとも思わない。ただ、ある種、恐怖と生命への畏敬感のようなものがどう心のなかで落ち着くのだろうという奇妙な感じがする。楳図かずお「14歳」に出てきたチキン・ジョージをふと思い出す。彼に会えるなら、人類とはなんだろうねと、もう一度訊いてみたい気がする。

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祝、日墨FTAなのかよ

 昨日書こうかと思ったのだが、どうせ今朝は各紙べた並びで日墨FTAの社説になるだろうと思ったが、概ねそのとおり。そして内容も予想どおり。こうした既視感漂うのが社説っていうものだろう。読売がシカトこいているのは、たぶん、アジアとの問題を論じたくないからだろうな。
 まず、ことの次第の重要点を簡単に日経社説「メキシコFTAの教訓、アジアに生かせ」から引く。


 国内の農業改革の遅れもあって、最後まで対立が続いた豚肉では関税の完全撤廃に至らず、2.2%の関税が残った。その分、日本が要求していた政府調達の開放などでメキシコ側の譲歩は限定的になった。

 というわけで、最後まで豚だった。メキシコの強気というのもあるが、それはメキシコだけの外交ということでもない。このどたばたは要するに日本の国内問題というわけだ。
 どの社説も触れていないし、私の知る限り他に語っている人を知らないのだが、私は「と」覚悟で言うのだが、今回のFTA交渉は、農水省と外務省の陰謀である。米国の狂牛病発症を大騒ぎに仕立て、国内の牛肉価格を統制し、それが他の肉の価格に影響するタイミングを見計らっていたのだ。こういうのを陰謀と言わずに、何を陰謀というのだ。
 この点、知っていてあえて毎日社説「日墨FTA合意 アジアとは人の移動も焦点」は書かないのかもしれないが、以下の指摘は、だから、重要だ。

 農業については、メキシコとの実質合意で一つの見本が示されたが、国内的にはなお監視が必要だ。01年のコメ輸入の関税化に向けて6兆円の不透明な農業対策予算が組まれた苦い記憶がある。アジア諸国とのFTA交渉では、農業面で譲歩する代償に、不透明な対策費が組まれるようなことがあってはならない。

 だが、実際には、このFTAは見本にもならない。このあたりは、日経社説がフォローしていて、大変によろしい。

 メキシコの農業団体は豚肉やオレンジ果汁などの市場開放を求めて交渉担当者に背後から圧力をかけ、日本への譲歩を許さなかった。だが同国の農業がGDPに占める比率は4.4%にすぎない。これがタイでは11.2%、フィリピンは17.4%と高く、メキシコ以上に手ごわい交渉相手となるのは間違いない。
 マレーシアの主な関心分野は合板などの林産物。フィリピンは看護師、介護士の受け入れやバナナとパイナップルの関税撤廃を求めてくると予想される。タイとの交渉では人材受け入れのほか鶏肉、でんぷん、砂糖、そして日本農業の本丸であるコメが焦点になりそうだ。いずれも国内から激しい抵抗が予想される。

 というが、タイの件では、鶏肉はまた陰謀的手法でごまかせる。澱粉についてはわからないが、砂糖なんか異性化糖をがんがん使って国民の健康をへこませればいいのだから問題ない。コメが問題というのも手慣れた陰謀的手法でごまかせるだろう。というわけで、やる気になれば、弥縫策に次ぐ弥縫策でなんとかしのげる、というどたばたが見られるだろう。
 で、そんなことでいいのか。
 いいわけはない。が、あと5年から10年で日本社会の構成ががたがたになり、労働者や看護師を外部から入れるしかなくなる。しかたないよになって、なんとかすりゃいいじゃないか、知ったことか、というのが行政というものだ。
 と、ちょっとヤケになりそうだ。が、それでも、日墨FTAができてよかったことはよかった。

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2004.03.11

天皇制について

 天皇制について、少し書く。おまえは天皇制をどう考えているのかと問われているような気もするので。
 この答えは、非常に簡単だ。天皇制は、制度としては、日本国憲法で規定されている。それ以上でも、それ以下でもない。九条のように解釈改憲はされていないのだから。
 なので、天皇制反対とかは、まったく無意味だと考える。天皇制反対とは、ようするに現行憲法反対ということだし、それなら、改憲するしかないだろう。この問題は解釈改憲でどうなるというものでもあるまい。
 話はこれで尽きている。
 なのに、なぜ天皇制が未だに憲法を超越してイデオロギー的な問題になるのか私には理解不能。憲法を愚弄するんじゃねーという思いがするばかりだ。
 日本国民が憲法を改正し、現行のような立憲君主制の国家ではない、共和制の国家にするというなら、同胞国民の多数の意見に私は従いたいと思う。おまえは共和制移行に賛成するのかと問われるなら、私は弱い反対意見を持つ、というだけだ。それはイデオロギーではない。むしろ、皇室への敬意からだ。
 皇室に敬意を持つかと言われれば、持つ。これは歳を取るにつれてそう思うようになった。端的な話、日本人の象徴としての人間像を考えるに、それなりの品性というものをもっていてもらいたい。あの情味の薄い小泉なんか大嫌いだ。下品だすらと思う。日本人たるもの、対外的には品性をもってもらいたい。マックス・ヴェーバーも品性というのを大切にしたが、日本人は1200年からの歴史を持つのだから、その国民国家の歴史・伝統の品性というものを体現した人間が必要だ。それこそ皇室である。その点で、今の天皇家は十分に評価できると思う。なお、日本の歴史はせいぜい1200年である。この点については、昭和天皇も言及していたことだ。歴史学的に見ても推古朝以前に天皇家の歴史を遡及することは無理だ。日本列島に存在した古代人いたが、国家以前の列島居住民は「日本人」ではない。
 国家神道についてはどう思うかと言えば、これは、明治時代にでっちあげた国家宗教でもあり、国家とは分離すべきだと思う。日本は弱いライシテの原則を持つべきだ(それは移民に国を開くためにも)。靖国の問題は複雑だが、原則として国家が介入すべきではない。対外的にも別途の慰霊の施設があってほしいと思う。もっとも、私が見る限り、現行の靖国神社自体になにが問題があるのか皆目わからない。さっさと、慰霊施設を造れ、内閣と思う。
 天皇の戦争責任問題については、すでに歴史上既決だと考える。歴史のIFとしてあれでよかったのかと問われれば、天皇は戦犯以外の何者でもありえないと思う。先日書いた洪思翊の処刑の論理で行けば、戦犯を免れるものではない。昭和天皇ご自身もそう考えておられたと思う。今上天皇も若いころそう考えていたふしがある。
 日本国家の戦争責任については、それは話は別。むしろ、天皇だの一部の軍人にその罪を着せて、国民が無罪というGHQ史観は間違っていると思う。日本国民はあの戦争の責任を持つと思う。しかし、もう半世紀たったのだから、それなりの対応があってもいいだろう。
 以上。
 ついでに言う、さっさと女帝に皇室典範を変えるべきだ。女性の天皇は日本の歴史から見ても違和感はない。なにが女帝を妨げているのか、私は理解できない。

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冗談じゃない、「昭和の日」法案を潰せ!

 むかつく。産経新聞社説「『昭和の日』法案 『三度目の正直』成立急げ」についてだ。「昭和の日」法案を通せというのだ。


 自民、公明の両与党が、四月二十九日を「昭和の日」とすることを柱とした祝日法改正案を今国会に提出する方針を決めた。法案は過去に二回、参院と衆院でそれぞれ可決しながら、もう一方の院で政局の波をかぶり廃案となっている。「三度目の正直」の今度こそ、政治のかけひき材料とすることなく成立をはかってほしい。

 冗談じゃねーよと思う。「昭和の日」法案は潰せ!、恥知らずめ。臥薪嘗胆の心を持て。せめて沖縄から米軍が撤退されるのを待つのが愛国の心ではないか。
 ポチ保守のくせに臭い説教たれくさって。

 今、日本が米国と戦争をしたことも、東京でオリンピックが開かれたことも知らない若者がいると言われる。自らの国や祖先たちの歴史がいかに軽んじられているかを示している。最近指摘される国家意識の希薄さや、若者のデラシネ(根なし草)現象ともつながっているといえる。
 そんな時代だけに「昭和の日」は必要だといえる。年に一度だけでも親子で「昭和ってどんな時代?」「日本はどんな国?」といったことを話し合えば、自らの国への思いは変わってくるだろう。その意味で、この法案は単に祝日の名称変更だけにとどまらない重要なものである。

 全然違うね。歴史の知らねー恥知らずはオメーら産経だよ。
 極東ブログ「夢路いとしの死に思う」(参照)で、別話題と混ぜてしまったが、繰り返す。

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓に入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 昭和天皇を記念するというなら、まずその臥薪嘗胆の思いを察するべきではないか。国の長(おさ)でありながら、国土を刻まれた。沖縄を米軍に手放した。なにより、沖縄を本土のために焦土としてしまった。その昭和天皇の痛恨が思い至らない脳天気な馬鹿者が、この日を祝祭するというのか。彼がその後半生、沖縄の地を踏み入れることができないことがどれほどの悲しみであったか。その悲しみをぬぐい去るのは、米軍を沖縄から追い出す時ではないか。もちろん、それが現実的ではないことぐらいはわかる。だが、今の沖縄の状況のままでいいわけがない。
 誰だったか、老婦人だったが、私が沖縄に暮らしているという話で涙されていた。追悼でなく沖縄に行くことは恥ずかしいとも語った。それが歴史の感覚というものだ。
 以上のようなことを書くと、私はウヨ扱いされるのだろうと思う。小林よしのりみたいに、産経より右寄りからウヨ批判をしているのだろうとも。ああ、そんな小賢しいことなど、知ったことか。
 昭和天皇は至誠の人であったと私は信じる。そう信じることには、もちろん虚構も入る。まして宗教的な信ではない。歴史を負った日本国民ということの同義でもある。三島も現実の天皇と本来の天皇像に悩んだ、馬鹿じゃないからだ。その本来の天皇像は2.26事件を含め、日本の病理ともなった。そんなことは、ちょっとばかり西洋風の理性があればわかる。だが、そんな小賢しいことで、問題が解決するわけもない。天皇が日本人の象徴であるのは、そこに日本人の至誠のありかたの象徴を見るためだ。その点で、昭和天皇も今上天皇も、我が国民の誇りであると言っていいと信じる。
 昭和天皇の心中に思いを致せ。日本人は悲劇の歴史を負った国民であることを忘れてないけない(てなことを書くと、侵略の歴史のなにが悲劇だよとか、まだなるのか。それもなんだかなである)。

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「酒鬼薔薇聖斗」事件に思う

 今朝の社説は産経を除いて神戸連続児童殺傷事件を扱っていた。どれもまるで読み応えはない。それを書くことになっていたスペースを無難に埋めた程度だ。執筆者も別に書きたいという思いなどないのだろう。私もこの事件について書きたいかというと、もうなんとなく避けておきたい気もする。そして、心のなかにある種のどんよりとした感じが漂う。やはり少し書いておく。
 社説はどれも、「酒鬼薔薇聖斗」が罪の意識を忘れず甦生されることを願うという展開である。それ以上、新聞の社説に望めるものはないだろう。庶民感覚からすれば、率直に言うのだが、キモイ、じゃすまされねーだろう、といったところか。ただ、日本人大衆の知的レベルは上がっているので、「腫れ物に触らず」「私の身近にいないといいな」くらいものだろう。もっと知的レベルが下がったときに見られるある種の宗教的な大衆の包容力が彼を受け入れるということはないのだろう。もう少し言えば、今の日本の現状では、彼にRFIDでも付けておけみたいなのが社会の本音というところだろう。そこで、この本音と社説的なきれい事の乖離をわれわれはどう抱えていくのかも、気にはなる。
 私は以前、極東ブログ「世界のデジタル・バイドなど:少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ」(参照)でこの事件についてこう書いた。


少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ
 少年事件と呼ばれる少年の問題は、この10年間さまざまに議論された。私は全然その議論は的を得ていないと思う。そう思うのは、酒鬼薔薇事件が十分に問われていないと思うからだ。私は彼の書いた神曲を引用する脅迫宣言は天才の筆になると読んだ。その文学的な闇がなぜ問われないのかと思う。大人は左右陣営とも、はなから彼を子供として見ているが、君たちより優れた文学者がそこにいたのだ。文学とはそこまで狂気と暴力を内包していることを社会は忘れていると、というか、現代に悪霊が書けるほど強い文学者がいないのだ。

 今でもこの意識は変わらない。そこにネチャーエフがいるのにドストエフスキーがいないのだ。もちろん、酒鬼薔薇聖斗はネチャーエフのような「理想」が悪霊化したものではない。だが、「悪霊」に変わりはない。われわれの時代は、悪霊に渾身の力を込めて向かい合う文学、そう、本来の意味でのヒューマニティーズの力を失っている。
 もちろん、精神医学的はいろいろ言いうる。統合失調症はほぼ確かではあるだろう。そして、われわれの社会は、「医療」への信頼を介してそれに依存することは正しい。だが、精神医学と称するもののアウトプットは、ひどい言い方をすれば、三流の文学なのだ。
 と、くだを巻いたようなことを言っても、私自身の文学的な力量がなければこれ以上は進めない。
 その後の日本の歴史を見るに、ある意味、酒鬼薔薇聖斗のシミラクルは出現したようでもあり、そうでもないようでもある。「オタク」への非難のようなものも、いつの間にか消費社会のなかに融合された。
 オタクたちは変だとは思わないのだろうか、自分らが知を模倣してその感性を失っていることに。そう私などはいぶかしく思う。だが、今や知がオタクを論じるのである。それは、酒鬼薔薇聖斗の持つ文学的なインパクトを消費社会のなかに緩和し、また、論じるものの知性とやらの階級を作り出している。ああ、醜悪だぜ、と思う。
 私は酒鬼薔薇聖斗の行ったことを擁護する気はない。それを社会に還元したくもない。異常を野放しにした社会をシステム的になんとかしろと小賢しいことをいう気もない。
 私は、本当は、ちょっと言いたいことがある。だが、あえて書かない。もったいぶるわけではない。信仰の領域に入るような気がするからだ。私は私で、彼が甦生してくれと祈るというのではなく、信仰なき私が言うのも変な話だが、神のなされる業を見ていきたいと思う。私は自身の悲痛の叫びに変えて、静かに神に問いかけてもみたいと思う。

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2004.03.10

雇用って何だということから雑談

 雑談めく。雇用って何だという話だ。米国大統領選については私はそれほど関心ない。というか、これまで日本人ってそれほど米国大統領選なんかに関心もってなかったようにも思う。ま、いいか。で、大統領選で雇用が問題になっている。そりゃね、であると言ったのもののなんか変だなという感じがする、という話だ。
 先日ニューズウィークに掲載されていたロバート・サミュエルソンのコラム「見えてきた絶好調の波(Revenge of the Old Economy)」(日本版03.12.24)だと米経済の立て直しは要するにオールドエコノミーだ、と。ま、それはいい。コラムネタだし。で、彼は確か、雇用はあとから来るのだがとお茶を濁していたような。


 生き残った企業でさえ、コストを削るために人減らしをしたり余分な工場を閉鎖する。そうなれば収益は上向き、企業は雇用と投資を再開する。今のアメリカ経済は、まさにその局面にある。
 ただし、5%台という現在の労働生産性は持続不可能な水準だ。労働生産性は通常、景気が拡大局面入りした直後に急上昇する。その理由は、企業が景気の回復を確信するまで雇用を増やそうとしないことにある。
 今回の場合、国内でも国外でも競争が激しいため、景気が緩やかに回復しはじめた2001年後半以降もアメリカ企業は人員を減らし続けた。景気が拡大するなかで人員を削減したため、おのずと労働生産性が上昇しているのだ。企業が雇用を増やしはじめれば、生産性の伸びは下降に転じるだろう。

 というのだが、さて、それから三ヶ月。どうか? どうやら、そーゆーストーリーではないような感じなのだが。
 この先、サミュエルソンはこういう話を付け足す。

 ヨーロッパや日本に比べて、アメリカの景気回復は驚くほど力強い。だが、この流れが長続きするかどうかはわからない。
 減税や住宅ローン借り換えの効果が薄れれば、個人消費は衰える可能性がある。中国製品をはじめとする安価な輸入品がアメリカの雇用を奪い取ることもありうる。

 減税についてはよくわからないし、住宅ローン借り換え効果もいまいちわからないのだが、いまだ「住宅バブル?」のせいか、不動産の資産価値は上がっているらしく、それで家計の借金は棒引き状態のようだ(大井幸子説)。ということは、個人消費はまだいい、と。
 で、雇用はどうよ?なのだが、これってなんなのか、私は以前からよくわからない。ちょっとわけあって沖縄にいた頃、最悪と言われる沖縄の失業率について調べたことがあるのだが、これがなんだかわからない。失業の定義が一応日本は国際基準だとか言われるのだが、どうも各国比較にそのまま使えないようだし、沖縄の実体もよくわからない。と、いう記憶がある。
 米国の場合は、景気動向は雇用統計がよく指標になるのだが、率直に言って、なぜなのかわからない、というか、わかるけど、それがなぜ米国だけの問題で日本には適用されてなさげななのか、と。いくつかごにょごにょした説明は読むのだが、それって、経済学かよ?っていう疑問は払拭されない。単純な話、フィリップス・カーブだとNAIRUだのが日本の現状の経済にどう適用されるのかという話もあるにはあるようだが、全然現実感がない。なにより、雇用は問題視されているようでいて、そうかぁ?みたいな状況にある。若者をがさがさフリーターにし、主婦はパートみたいにしているだけに見える。話を戻すと、フィリップス・カーブだとNAIRUだの適応が現実のわれわれを取り巻く状況と噛み合っている感じがまるでない。
 話を米国に戻す。この雑談を書こうと思ったのは、米大統領選に関連した「雇用流出」の問題だ。最近、この話をよく聞くのだが、これも日本には関係ねー感があって、嘘くさいと思っていたのだが、今日共同で「中印に一段の市場開放要求 雇用流出で米通商代表」(参照)というニュースを見た。

 今秋の大統領選に向けた政策論争では労働コストが安い中国やインドなどへの「雇用流出」が大きな争点となっている。ゼーリック代表は「米国を世界から孤立させることが答えではない」と述べ「経済孤立主義」には反対しながらも、米国内で高まる雇用空洞化の不安に一定の理解を示した。

 実態はよくわからないのだが、少なくとも米政府レベルでは問題視が始まっているようだ。
 もっとも、雇用流出というだけなら、ありげな話なもので、おなじみ「梅田望夫・英語で読むITトレンド」とかにも出てくる。ま、出るでしょう。「IT産業の雇用とイノベーションの未来」(参照)。余談だが、この記事中のこの英文和訳ってどうよ?である。

「If it is still tacit and requires a lot of unstructured discussion, then it must be done here.」(暗黙知に関わり非構造的な議論を必要とする仕事)

 この人、tacit lawは、「暗黙知の法則」とか訳すのだろうか。と、クサシじゃないけど、英語に堪能な人の語感についけてないことは多い。っていうか、語感にこだわる人間は外国語に向かないか。それと、この記事、事実上トラバもコメントもないのはなぜ?
 余談にそれたが、「雇用流出」っていうのはマジな議論なのか? ま、それが看過できないとして、それは、IT(情報産業)分野に限定されるのか? というあたりで、思うことを率直にいうと、それってIT経済法螺話の余話かよ?という感じだ。
 ゼーリック代表発言の含みだと、それって、繊維産業とかが中国にやられた、とかいう、ありげな中国脅威論っぽい。なのかよ? 日本における中国脅威論は、マクロ経済的には笑い話になっているようだが、それって米国ではどうなのか?
 というあたりで、話がずれるのだが、れいの「切込隊長BLOG ~俺様キングダム」で山本は「中国、大幅入超」(参照)を気にしていた。「誰がファイナンスするのだろう」とね。そりゃそーだ。ネタは日経からの記事「中国の貿易赤字が79億ドル――1-2月」(参照)だ。

 【北京9日共同】中国中央テレビが9日伝えた税関統計によると、中国の1―2月の輸出は前年同期比28・7%増の698億7000万ドル、輸入は42・0%増の777億7000万ドルで、79億ドルの赤字だった。赤字幅は1月の3000万ドルから大きく拡大した。

 で隊長曰く。

税関統計で伸びたという輸入(日本からする輸出)なんだが、例えばドイツの会社が中国に自動車工場を出す、地域にもよるが97年に建設した工場、2003年には償却が概ね終わる。償却が終わろうが終わるまいが工場は操業を続けなければならないが、一通り投資が終わると部品を調達する必要がある。ところが、中国では電力供給もタレパンもプレスもイマイチなので部品供給は海外に依存しなければならない。キーデバイスの大半は海外製だ。従って、やばい、眠くなってきた、まあそういうことだ。

 この話って、アレでしょ。極東ブログ「またまた米国債買いのお話」(参照)で書いたのと関連しているのでは。

 と、かく思いつつ、先日のラジオ深夜便で聞いた国際金融アナリスト大井幸子の小話がどうも気になった。この問題を別の角度から取り上げていた。別の角度というのは、Richard Duncan, "The Dollar Crisis: Causes, Consequences, Cures"に触れて、この状況を簡単に説明していたのだ。この本は昨年夏ごろ出て米国ではそれなり話題だったようだが、日本ではリファーされていないようだ。スカ本か? ついでに、ところでなのだが、この本のアマゾンのレビューだが、なんかパクリ臭いのだが、こんなのありか?
 大井の説明だと、米国債をがばがば購入しているのは日本と中国。それはそうだ。で、日本の場合、2003年に27兆ドルの米国債を買っている。これは米国の赤字5200億ドルの半分に相当する。2004年1月分でも米国赤字の13%だという。ま、そんなところだろう。そこまではそうだろうなというだけの話。そして、中国は米国に対して1250億ドルの黒字。これもわかる。で、この先、72へぇ~なのが、それを使って対日貿易の赤字分を埋めているというのだ。そ、そうなのか? かくして、大井は、日米中三者のもたれ合い、というようなことを言うのだ。なんだそれ?

 またしても、「なんだそれ?」でしかないのだが、このあたり、そーゆーからくりなのか?
 先日のグリーンスパン発言やスノー発言でも、日本がよぉ、というのもだが、中国もまぜていた。のわりに、この二国の関係を、がばがば米国債買いくさっていうのに留まっていた。
 とま、わからん。別に陰謀論を聞きたいわけでも展開したいわけでもないが、この現状って、なんか説明があってしかるべきじゃないのか。

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有事法制の背後を見ていくことが重要だ

 今朝の新聞各紙の共通話題は有事法制である。政府は有事関連七法案、三条約を閣議決定した。この国民的な課題にキーをになっているのは民主党である。しっかりしてもらいたいよ、民主党と率直に思うと同時に、「左翼」というのがいかにしょーもない機能をしていたのかその歴史の感覚の、ある種の異常さを思う。そのあたりは、未だに朝日新聞や毎日新聞の社説に見られるので、歴史感覚というには早すぎるかもしれない。ただ、そのお馬鹿な議論をおちょくるのも芸がないので省略する。
 ただ、朝日の次のくだりを読みながら、毎度のサヨクかよ、という話とは違う変な感じがした。


 だが改定はそこにとどまらない。現行のACSAは、米軍と自衛隊が「周辺事態」や国連平和維持活動、人道救援活動などで協力する際に、弾薬を除く物品や役務の相互提供ができるとしている。この範囲を広げ、たとえばいまイラクやインド洋で活動する自衛隊と米軍の間でも同じことを可能にしようというのだ。

 イラクやインド洋とまとめてしまっているのだが、イラクについてはマスコミの感覚がボケ過ぎていてどうしようもないが(1000人規模の派兵など象徴的な意味しかない。韓国の状況をマスコミは報道しないなど)、インド洋のほうは、この記述でわかるのだろうか。そんなことはみんな分かり切ったこと?なのか。極東ブログ「印パ対話で解決なのか?」(参照)を関連として再記する。

インド洋における米軍のプレザンスを支援しているのは当然インドなのだが、そのあたりの国益やインド政権内での決定はどうなっているのだろうか、ということ。
 問題の一つの極はディエゴ・ガルシア島だ。歴史的な背景については英語でちと読みづらいががーディアンの"US blocks return home for exiled islanders "(参照)は基礎知識。

 このあたりのすでに行われている自衛隊の動向の意味をきちんと分析したものを私は読んだことがない。話の文脈を戻すと、サヨクさんたちは目先の国政にだけかまけていて、世界情勢の分析の力量が落ちているのではないか。しっかりしてよという感じがする。それとも2ちゃんみたいに「祭り」好き?
 少し余談めくが、次の朝日の言及も「片手落ち(注意:不快用語等)」である。

 大規模テロや大量破壊兵器の拡散という新たな脅威を前に先制攻撃戦略を打ち出したブッシュ米政権は、機動性と展開能力を重視した米戦力の世界的再編にも取り組んでいる。アジア情勢をにらんで、陸軍第1軍団の司令部を米ワシントン州から神奈川県のキャンプ座間に移すといった構想が、すでに日本側に伝えられた。

 すでに極東ブログでも書いたので、縷説しないが、こういう扇動的な書き方して近視眼的に祭りモエしないでほしい。このシフトによって、総体的には日本駐留米軍は縮小されるし、なにより沖縄の海兵隊が縮小される。ちょっとむかつくのでいうが、沖縄の米軍基地の実質的な縮小をいつもこうやってサヨクが妨害しているじゃないか。沖縄なんてどうでもいいというか、いつまでも米軍下の悲惨な状況にしておくというが本土サヨクの常套なのだ。これは本土の言葉で「上等!」だよ(っていう込み入った洒落は通じないか)。
 さらにいうと、サヨクさんは、従軍慰安婦問題や創氏改名などで都合のいいときだけ、韓国を持ち出して外圧化するけど、韓国がこの問題で今どういう状況に置かれていて、だから日本の市民はどう連帯していかなくてはいけないかというビジョンをまるで提出していない。それで、ほんとの反米かよと思う。
 話がおちゃらけたので終わり。お笑いで締めるために、毎日新聞社説「有事7法案 時間かけじっくりと議論を」を引く。

 民主党をはじめ共産、社民両党がきちんと国会対応をしなければ、疑問を残したまま成立してしまう。野党の責任は重大だ。

 共産、社民両党がきちんと国会対応できるか、見ているよ。がんばれ。

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2004.03.09

洪思翊

 韓国ネタはしばし書くまいと思っていたが、書く。頭に血が上りすぎかとも思うし、ディテールを書くほどの知識もないので簡単にする。
 中央日報「【噴水台】親日派『洪思翊』」(参照)で次の文章を読んだとき、脳内血管がぶちっと切れたような感じがした。


 洪思翊が、自らの死の前で詩篇を聞こうとしたのは、戦争犯罪によるものではなかった。彼の内面を苦しめた親日行為を贖罪するためだった。洪思翊にとって、親日は出生の時に持って出た、原罪のようなものだった。

 「親日行為を贖罪するため」と、そこまで言うかよ、と。「日本帝国の将軍だったが、創氏改名は最後まで拒否した」というのなら、ただの歴史の無知だが。
 しかし、その先を読み続けながら、筆者全栄基(チョン・ヨンギ)政治部次長とやらは、なんとか洪思翊の名誉を守ろうとしているのかもしれないとも思った。少なくとも、全は洪への敬意を持っていて、なんとか親日反民族行為の真相調査対象者から洪を守りたいと思ったのだろう。
 百歩譲って「親日行為を贖罪するため」だとしてその歴史を生きた人間としてなにがあり得たのか、全はそのことをわかって書いているのだろうとも思う。
 そう思えば、なんか、涙が出てくる。
 先日、「韓国反日法に唖然とする」(参照)を書いたおり、自分の文章の稚拙さもあったから、単なる反韓感情に取られてしまってもしかたがないとは思った。が、懸念していたのは、むしろ、洪思翊のことだった。そのことはあえて書かなかった。
 洪思翊については、事実上の復刻である、山本七平ライブラリー「洪思翊中将の処刑」に詳しい。とアマゾンを見ると、こちらも絶版か。しかし、この絶版は希望だ。当初の刷りはすべて捌けたのだから。日本の読書人の層の厚みを李登輝は驚嘆を持って語ったが、この書物をきちんと読み通す日本人が少なくはない。と書きつつ、私自身、洪思翊について、山本が書き残したこと以上のことは知らない。
 だが、その書物によって、洪に罪なきことが歴史に刻まれたと信じている。山本七平は、関連するイザヤ・ベンダサン著で本多勝一を批判したことや、鈴木明を支持したことから、徹底的に左翼に極度に嫌われた人間だが、歴史が過ぎていけば、左翼の醜悪をよそに山本の真価が際立つ。しかし、そんな表層的なことはどうでもいい。「洪思翊中将の処刑」という書物の持つ意味だ。もちろん、多様な意味はある。また、読みやすい書物でもない。
 私にとって決定的な意味は、この書物は、洪の無罪を証した書物だということだ。山本は明言していないが、恐らく洪はクリスチャンだったのだろう。そして戦争という罪は罪としてキリストを真似て死んでいったのだろう。神がその無実をいつか明らかにするという希望もあったのに違いない。その願いを山本はきちんと聞き届けていた。山本自身、折に触れ、執拗なほどヨセフスの話を語ったものだが、まさにヨセフスのように神に生かされるという苦難の経験をしたからこそ、罪なきものが世に裁かれていく様を否定してみせたのだろう。
 先の中央日報の全は、次のように牧師の名を明らかにしていない。

 1946年9月26日、フィリピンの刑務所の絞首台。大日本帝国南方軍総司令部の洪思翊(ホン・サイック)中将(当時57歳)は、立ち会った牧師に対し、聖書の詩篇、第51篇を読んでくれと頼んだ。彼は、第2次世界大戦のA級戦犯として判決を受けた。

 片山師である。当時はまだ牧師ではなかったようだ。彼の証言によれば、この詩を読んだのち、心配する片山師にこう言ったという(「洪思翊中将の処刑」より)。

 片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところに行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな。

 すでに神のもとある者を地に引きずり降ろそうすることはやめよ、と願う。

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身近な警察の問題

 ちょっと身近で触れる警察のことを書く。話のきっかけはmuse-A-museさんのブログ「実録『黒いカバン 2004 ver.』(あるいは『職業としての警官』(?))」(参照)と私のコメント(参照)だ。ついでに、そこで引いた迷宮旅行社「コッペ川と行く福井警察署・取調室ツアー」(参照)も関連する。
 話は端的に言って「みなさん、警察でイヤな思いしてませんか」である。私もなんどかイヤな思いをしている。どころじゃねー経験もある。指紋とかも取られた。
 ただ、この手の話は、韓国問題と同じで、警察への怨念をぶちまいてもあまり益はない。結局のところ、警察というのは市民サービスなので、サービスをより向上させる手だてというかヒントを知恵出して考えるほうがいい。
 と言いつつ、最近、また一段と警官の質が落ちてきたなと思う。先日、犬に紐もつけないで商店街を闊歩している馬鹿がいて、しかも交番の前を過ぎるので、ぼんやりつったているお巡りに「あれ、注意しなさいよ」と言ったら、昔の表現だが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。あ、こりゃ馬鹿だと思って、ああいうのは都条例違反ですよ、市民に危険ですよと諭したら、「犬のサイズが問題であります」とぬかした。ぜんぜんだめ。
 先日といえば、歩道を二人乗りしている高校生の馬鹿ップルっていうのかがいるので、降りろ、二人乗りは違反だ、しかも、歩道というのは歩行者優先だと、怒鳴る。と、そこにお巡りがまさに回ってくるので注意しろというと、このお巡りがにへらにへら注意していたので、こっちはむかっぱらを立てて、全員を怒鳴りあげると、お巡りが退散。高校生のあんちゃんが俺にくってかかるので、ここでドンパチやるかと思ったら、スケのほうが「あんたやめなさいよ」とか仲裁に入った。上等! というわけで俺も引き下がった。ま、若いやつとどんぱちやって勝ち目はなかっただろうな。
 と、すでに私もヤキ入りまくりだが、と言っておきながら、マジで戦うときはこんな大衆的なそぶりはしない。左翼インテリオーラぎんぎんモードにする。っていう左翼が落ち目なんでこの手ももう効きづらいし、田舎出身の警官もインテリに対する恐れがなくなってきているので(いいことでもあるが)、もう有効な策ではないかもしれない。
 でも、ヤルと決めれば、俺はやる。インテリなめんじゃねーぞ、と、冷静に慇懃に。実戦的にはどうするかというと、単純。その場では争わない。その場での争いはできるだけ引く。そしてできるだけ引きつつ、ログを取る。メモでいい。ログを取りつつ、警官の裏にある組織側から、後で法的に社会的に攻撃しますからねという脅しをちょろちょろと怒らせないよにかける。
 そこで、自分の頭を冷やすというのも当然ある。
 頭を冷やしても、俺は正しいと思えば、やる。これは断固としてやる。重要なことはここで折れないことだ。そして、やる以上、終戦ラインに腹をくくること。
 とま偉そうに言ったが、これは、市民誰もが、そういう局面の常識として知っておいていいと思う。
 話が前後するが、ヤクザだの大門だの、もともと市民の業界じゃない。別業界に殴り込むには、それ相応の武具が要る。端的に言って国家装置を使うしかない。国家は、くどいようだが、市民を社会から守るための装置だ。
 それと、あまり詳しく言えないのだが、裁判にもちこんだら、弁護士の能力がものを言う、が、有能な弁護士はコストが高い。どうするか? できるだけ、実証を自分で積み上げるしかない。そこで重要なのは、実はプレゼンテーション技術だ。事実なんてものは、裁判官がわかってナンボである。弁護士にかける費用をバイト代にあてて、プレゼンテーション資料を作ったほうが裁判は勝てる、というか、民事において勝ちはない。どこまで有利に金をふんだくるかだ。もっとも、相手が警察になるとこのあたりは、難しいものがある。
 話を戻して、警官の質が落ちるのは、ひどい言い方だが、地方出身者の産業だからという面がある。自衛隊にもそれがある。反面、エリートはただの官僚だ。日本社会全体のゆがみの反映というのは多分にある。困ったなと思う。

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設計ミスっていうのは抜本的にだめぽ

 社説ネタとしては読売新聞の「H2A報告 手順の“甘さ”が失敗をもたらした」なんだろうが、これは単に社説として面白くない。私の読みが悪いのかもしれない、とも思う。が、何を書きたいのか未整理なメモのようだな。ずばり言って、「問題は設計ミスなんだろぉ」と、ちょっと叫んでしまう。
 というのも、なんか、設計ミスかよと思ったら、マジで背中に蹴り入れられたみたいにくずおれたよ、俺、っていう感じだ。ちょっと引く。


 開発時の五回の地上燃焼試験でも、ノズル浸食は起きていた。その際、徹底して調査し、設計変更を含め抜本的な改良を加えていれば防げた可能性がある。
 ところが、開発陣は、設計そのものを見直さず、内壁の削れを補うため厚さを増すなどにとどめ、「完成」とした。

 読売がなぜか口はばったくうだうだ書いているが、それって、「設計ミス」って言うのだよ。設計がミスっていたら、すべてはダメなのだよ。
 朝日新聞系のニュース「H2Aロケット失敗、ノズル設計に問題 調査部会が見解」(参照)を引く。

なぜ6号機の片側のSRBだけでトラブルが起きたかについて、調査部会は「ノズルの設計に潜在していた問題が、6号機の片側のSRBで初めて顕在化した」と指摘するにとどまった。落下したSRBが回収されていない現段階では、原因究明に限界があることも示した。また、「今回の事故原因を予見できなかったのはやむを得ない」として、当時の設計、開発関係者の立場に配慮した。

 内情を知らない人間がここでぷんぷんしてもいかんのだろうが、「当時の設計、開発関係者の立場に配慮した 」はねーだろと思う。設計ミスっていうのはなぁ…絶句。
 と書きながら、プログラマー時代の自分の怨恨が反映しているくさいのでやめにする。という流れで、プログラム設計に関していうと、現状では、設計ミスっていうのはあまりないのかも。ソフトは上から下へずーどーんと作る時代でもないのかな。
 逆にそういう柔軟な設計環境(シミュレーション環境)を含めて、設計への決意が甘くなっているのかもしれない。
 でも、と思う。設計者っていうのは、なにか一つ魂を込めるものだと信じる。その魂が生きてこの世の出現するために執念をかけると思うのだが、私も、どっちかというとプロジェクトX世代なのか。
 先の記事ではこうまとめている。

 文部科学省は「打ち上げ再開には宇宙機構の組織体制や意思決定システムの改革が必要」としており、今後宇宙機構は、ロケット、衛星全般について問題点の洗い出し作業を行う。

 産業的な設計で定石が決まっているならそれもありかと思うけど、先端を切り込むなら、設計者は「狂」にならなきゃできないと思う。

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多分、大丈夫だよ、毎日新聞経済担当さん

 毎日新聞社説「押し下げ介入 こんなむちゃは許されない」が面白かった。まったく、面白いという意味で面白い。わっはっはである。罵倒しているわけではない。単に面白いのだ。話は、財務省・日銀がさらなる円売り・ドル買い介入を行っていることへの批判だ。
 最初に私の意見を言うと、これはそれなりに批判してもいいことではあるのだろうとは思う。が、すでに収束局面であり、日本という最大ヘッジファンドにしてみれば、残務処理に近いものではないか。その意味で、財務省・日銀もグリーンスパン(つまり米国)にもストップ(もうよせ)を言い渡されているのに、非不胎化介入というリフレ策をさらに進めるというものであるまい。もっとも、昨日の日経社説が提言するように、もう一歩国内的なリフレ策はあってもいいとは思うが。
 この問題について、しいて言うと、私は日本の米国債買い込みには政治的な意味合いもあるとも思うので、もう少し続くかもしれないとも思う。また、中国絡みもあり、米国も本気でストップ信号を出すのは意外に先かもしれないとも思う。8日スノー米財務長官発言でもまだ日本を名指しで批判はしていない。このあたりの米国の意向が大統領選絡みだとちょっと鬱になりそうだが。余談だが、ケリーっていうのは健康は大丈夫なのか?
 ぷっと吹くのは次のようなくだりだ。


 為替介入はもともと、補助的、限定的な手段でしかない。ドルと他通貨の相場を固定する固定相場制が終わった後の変動相場制度下では、乱高下をならす円滑化介入が典型である。急落時や急騰時にも、相場を持ちこたえる介入があり得る。この論理から言えば、円がドルに対してじり高となった昨年来は、小口での介入はありえても、年間20兆円もの介入は荒唐無稽(こうとうむけい)としかいいようがない。

 グリーンスパン発言にほっかむりしてまだこれを言うという態度がイケテル(死語)っていう感じか。また、また次の指摘は逆だろう。

 この考え方には重大な疑義がある。政府が円安方向に相場水準を動かすということは、円の価値を下げることであり、国民にとっては財産権の侵害である。また、円売り・ドル買い介入でドル売り安心感を与えた過程では、ドル資産の目減りをもたらし、同様に財産権を侵害してきた。米国や欧州の通貨当局が介入に慎重な姿勢を堅持しているのは、為替相場を政府や中央銀行が動かすことの怖さを認識しているからだろう。

 外貨準備ががぽーんと増えて政府はわっはっはじゃないの。と言ったものの、国民サイドに立てば毎日の言い分にも理があるか。というのも、日本国民は外貨預金とかいっても、実際に自分の資産を外貨で運営するっていうことはない。このあたり、日本内の階級化が進んでいるようでもある。が、そこまで金融面で遊べる個人っていうのは日本にはいなくて、未だに外貨運用も企業ベースか。山本一郎とかは多分例外。
 とま、聞きようによっては毎日へのクサシになってしまったが、次の提言は、この一連のどたばたを追いながら私も痛感したことではある。

 介入が財務省の聖域になっていることも問題である。財務省は外為資金特会の枠内で、随意に巨額の介入資金を短期証券発行で賄い、介入で得たドルを米国債に投資している。その規模が月間7兆円にも達しているのに、国会や国民の監視の目は届かない。

 まったく、国を傾ける危険のある決断が、まるで国会や国民から独立しているというのは、いったい日本っていう国はなんなのだと思う。とはいえ、実際上、国会コントロールというのは無理だし、まして国民にこんな問題が扱えるわけもない。さらに、諸外国においても、実質は同じだろう。毎日新聞もこのあと、結局、市場に任せよというのだから、この提言はそれほどマジでもない。
 ただ、国民のなかのある種の知識層の厚みがあれば、こうした問題の動向は変わるのではないか。率直に言って、財務省・日銀の動向は、日本という国の威信の舵取りには失敗したり成功したりするが、いずれにせよ、日本というのを産業部門として見ている。これがまだまだ続く。ウォルフレンが「日本の権力の謎」を出したとき、後書きだかで、成功した社会を批判することは難しいと言っていた。しかし、その後の日本の凋落と社会システムの腐敗は彼が結果的に予言した通りだった。日本の舵取りはまたこれで成功の局面に向かうかもしれない。が、依然、ウォルフレンの指摘するように、日本というシステムはその国民を幸福にしていない。するわけもない、産業部門のための政府なのだ。抜本的に間違っているよな感が疲労感のように襲う。
 ウォルフレンは直接中産階級の政治意識の向上に期待をかけた。それはある意味、地味に成功しているようでもある。先の衆院選挙でも都市部では民主党が実は勝利していることでもわかる。だが、それは都市部と田舎の亀裂、また、世代間の亀裂をも生み出している。

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2004.03.08

地方は「行政」で階級化されている?

 毎日新聞社説「地方の予算 地方の首長は真剣になった」、読売新聞社説「地方財政改革 身の丈にあった予算編成が肝心」を読みながら、もどかしい感じがした。この問題はこれまで極東ブログでもなんどか書いてきたこともあり、特に新しい視点もない。また、今、この問題を扱う気力もないのでが、簡単な雑談は書いておきたい。
 毎日の社説の出だしが愉快だった。


 国の04年度予算が衆院を通過した。与党からも野党からも異常な過去の国債累増の厳しい現実を直視した議論はついに聞かれなかった。なぜこうした惰性の予算がまかり通ってきたのか。国会議員というのは予算を獲得する時は本気だが、肝心の財政規律は財務省の官僚に丸投げしているからだろう。
 おいしいところは頂き、嫌なことは官僚にやらせていてはとどのつまり破たんしかない。マックス・ウエーバーの「職業としての政治」を読み返して「政治のあるべき志」を想起してもらいたい。

 いや、ホントに「職業としての政治」を読んだほうがいいと思う。というか、この本を薦めるというのも恥ずかしいことだというのが私の常識でもあった。大学生なら文系とか社会科学専攻に限らず「職業としての学問」と並んで必読だろうと思う。毎日の社説執筆者も内心そう思っているらしく「責任倫理」という話は省略している。私も省略する。
 毎日の言い分は正しい。

 地方財政は国に連動しており元はと言えば政府のバラマキ財政の被害者でもある。国家公務員より地方公務員の給与レベルが高くなった要因もその一つだ。何も国家公務員より給与が低くなければならない法律はないが、その地域の民間企業の平均を大幅に上回っているのは地域住民に奉仕する公務員としては説明がつくまい。
 その原因がどこにあるのか。確たる証拠はないがそれぞれの自治体の給与勧告制度が中央のように実態的に機能しているのかどうか調べる必要がある。都道府県の給与レベルがその地方の本当の財政力を反映しているのかも疑問だ。

 実際にそうした地方に長らく住んでいた人間として、この問題は若い人にとってもよくないなと思う。若い人間が公務員志向をするからだ。そのための予備校なども整備される。そして、公務員になれば上がりだし、よせばいいのに若いのに豪邸を建てるものも少なくない。なんか、第三世界のような階級世界を作り出している。
 資本主義の根幹は企業精神でもあるのだが、そういうエートスが根こそぎやられてしまう。反面、屈曲した地方意識はしょーもない伝統賛美のようなものになる。と、言えば悪口みたいになってしまうだけなのでこの辺でおしまい。
 それでも、多数の地方においては、こういう「行政」という産業の存在自体が間違っているのだが、それがすでに既存の権力によって支持されている。この権力だけは解体したほうがいいだろうと思うのだが、そう簡単にいく問題でもない。
 つならぬ話なのでおしまい。しいて言えば、地方の若い人は、やっぱ、東京に出てくるしかないんじゃないか。

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心の病に思う

 毎日新聞社説「増える『うつ病』 排除せず偏見をなくそう」を読みながら、しばしぼんやりと考えた。この社説自体は特にどうという話ではない。鬱病も普通の病気なのだからきちんと対処しようというものだ。キャッチフレーズで言うなら、鬱病は心の風邪、ということなのだろう。もちろん、その観点は間違いではない。つまり、内面の精神性の問題ではなく、風邪と同じように医療を必要とする疾患だということだ。以前、ニフのフォーラム時代、オフ会の食事のあと、参加者が今各人が飲んでいる抗鬱剤だのはコレという話題で盛り上がったことがあった。テーブルの上にばらばら出てくる出てくる。時代だなと思った。
 私がぼんやりと考えたのは、私自身としては、鬱病を単純にメディケア対象とする考えにある種違和感を持ち続けているからだ。だが、内服薬などいらない、それは精神的な問題だ、と言いたいわけでもない。まったく違う。その違和感は言葉になるだろうかと考えてて、戸惑ってしまった。少し書いてみる。

cover
青空人生相談所
 ふと橋本治の「親子の世紀末人生相談」を思い出した。確かこれは改題されリメークされ文庫かなにかになったはずだ、と、探すとある。手元にはないので記憶を辿るのだが、エレベーターにも乗るのが不安という人に橋本はそれは大変な問題だ、あなたはビョーキだよみたいにその深刻さを諭す話があった。橋本の意見はなにかと得心するのだが、この話は特に心に残った。人はあまり辛くなると、心が一種の防衛反応のようなり悩めなくなってしまう。回答は忘れたが、メディケア的なものではなかったかと思う。前題「親子の世紀末人生相談」は1985年出版。連載時は83年ごろだったろか。週刊プレイボーイ誌だったか。まだ抗鬱剤などは普及していなかった。83年というと、そのころ、私も失恋や学問の挫折でカウンセリングに通っていた。
 私の場合は、鬱病ではなかったと思う。鬱病はむしろ、数年前の状態だろう。厄年頃だ。睡眠障害になった。いろいろやっかいではあったが乗り越えたのだろうか。メディケアはしなかった。思うにその弊害も残った。ので、克服したとはとうてい言えない。が、話をカウンセリングのころの思い出に戻す。
 自分は面倒臭いタイプの「クライエント」だったと思う。こういうタイプは少なくもない。数ヶ月前だが、「はてな」の質問である意味面白い質問を出すかたがいて、自身本当に心の問題に悩まれているのだが、精神医学関連の書物を読みあさってそれなりに知見を得ているらしく、それがかえって問題を難しくしているようにも見えた。
 自分もそれに類しており、精神分析学だとカウンセリング理論だの詳しくなっていた。木村敏「異常の構造」を始め、彼の本はほとんど読み、ビンスワンガーなども読んでいた。ので、ははぁ、これは離人症ってやつかとも思っていた。と、個人的な話はいろいろあるのだが、概ね、カウンセリングで症状は緩和した。カウンセラーが重要な意味を持っていた。
 話を端折るのだが、すべてがそうだとはとうてい思わないのだが、原因は「孤独」だったように思う。人は孤独に本当に苦しみうる存在だし、その孤独というのは、いったいどこまで底が深いのかわからないような恐ろしいものだ。そして、恐ろしいほどの孤独に襲われたとき、人の心は壊れてしまうように思う。
 この孤独というのは、ある段階を越えると悪意のようなものにまでなる。というか、悪意としか見えないような形態を取ることがある。これは、むしろ、存在論的に「悪」という問題かもしれない。が、それに悲痛感があり、絶叫するような世界への救済希求があれば、それを聞き届けうるという確信性が、それを救いうる、と思う。
 話が難しいが、その孤独を聞きうるかということで、私の実感ではカウンセリング理論や精神分析理論は補助に過ぎず、その術者の人間としての経験の質にかなり依存していると思うようになった。私の場合、カウンセラーは初老にならんとする女性だったが、穏和な相貌の背後に狂気をきちんと受け取るあるいは、向き合うなにかを持っていた。私が幸運でもあったのだろう。
 そのころ、マルクス・アウレリウス「自省録」なども読んでいたのだが、こうした哲人には及ばないものの、また、この本について言えば、訳者神谷美恵子の訳文のよさもあるのだろうが、死者たちの残された巨大な孤独のようななにかに触れることがあった。ああ、みなこの孤独を抱えて死んでいったのかという、奇妙な懐かしい感覚だった。死んだ賢者からorkutのインヴィテーションが来たような感じである、というのはもちろん冗談だ。孤独の深みには、それなくしてもは通じない時空を越えたなにかがある。それは確信した。
 話は散漫になるが、余談みたいな話で終わりにしたい。先週号のSPAの鴻上尚史ドンキホーテのピアスというつまらない連載を、たまたま読んでいたら、こうあった。

 カウンセリングのテクニックを持ったホステスさんだと、お客さんが、どんどん話しながら、やがて、自分の抱えていた問題の本質に自分でたどり着くのです。酒の席で、ですよ!
 日本でも、だんだん、精神科の敷居が低くなり、心療内科もポピュラーになってきました。神経科、神経内科という言い方も増えました。

 目が点になりましたね。鴻上が阿呆で済むことなのか、編集者しっかりせーよなのか、オメーに言われたくないよなのか。嘆息だ。心療内科と「神経科」や「神経内科」を並べてはいけない。
 東京医科大学八王子医療センター 神経内科のWebページがあるので引いておく(参照)。

■神経内科ってどんな科なの?
神経内科とは神経(脳、脊髄、末梢神経)や筋肉を専門とする内科です。心療内科や精神科とは違って、心の病を診療する科ではありません。また、外科的な手術を主体に治療していく脳神経外科ともやや異なります。神経内科では、総合的な内科的な視野から病気を診断し、薬やリハビリテーションを主体に治療していきます

 些細なことだろうか。鴻上も一応文化人なのだろうが、文化に関わる人間がこういう点で杜撰なことを書いているということが、これも現代の心の病そのものだなという気がする。

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2004.03.07

教育委員会は本質的に地域教育の点では欠陥組織

 社説からは読売新聞の「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」が気になったので、少し関連した雑談でも書こうかと思うが、その前に、ひと言だけ。日経新聞社説「巨額介入の次の一手が大切だ」が今朝になってグリーンスパン発言を取り上げていた。あれ?なんで今さらという感じがした。内容は特にない。
 読売新聞社説「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」だが、まず冒頭が面白かった。


 新しい土地に人が集まり、町が出来ると、まず学校と教会を建てる。学校の運営には、住民の代表が当たる。アメリカの開拓史を彩る伝統である。
 教育委員会は、教育に対する住民自治の伝統を持つアメリカの制度が戦後、日本に移植されたものだ。

 これは以前PTAの歴史関連で調べて、「あ、そうなのか」と思ったことがある。ただ、アメリカ開拓史というのであれば、教会は宗教、学校は教育という別範疇ではなく、どちらも宗教範疇のようだ。むしろ、教会は、コミュニティセンターというか、まさに行政の場でもある。そういえば、テレビ版の「大草原の小さな家」は今でも再放送されているようだが、若い人たちは見ているのだろうか。歴史を学ぶ点でも面白いのだが、現代アメリカが奇妙に混入してもいて、ちょっと困った点もあるにはある。
 地方の教育委員会に関わったことのない人間は、あれは学校組織の一環だから文科省管轄かと思うのではないか。私も実際にとある交渉をするまで組織がよくわかっていなかった。今でもよくわかっていないのだが、教育委員会とその実質サポートの部分も分かれているようで、後者は市町村と一体化している。いったい、これはなんなのだろうと思う。
 原理的に考えると教育委員会のほうは、市町村から独立しているはずだと思って調べると、あれれだった。このあたりは自分の無知で恥ずかしい。私は高校の英語教師の資格を持っているので採用に関する教育委員会の決定権については知ったつもりでいたのが、逆にいけないかったようだ。で、教育委員会という組織なのだが、特に教育長だが、これって考えてみたら、公選ではない。たいてい校長の天下り先であり、しかも、なにかと市町村レベルの香ばしい政争が関係する。なんだコレである。
 ちょっと基本に戻って字引レベルの話をする。大辞林ではこうだ。

地方の教育行政を処理する機関。都道府県および市(特別区を含む)町村などに設置。大学・私立学校を除いた学校その他の教育機関の管理、学校の組織編制、教材の取り扱い、教育課程、社会教育などに関する事務を扱う。

 なんとなくそう思っているというあたりがぼよーんと書かれている。広辞苑はもう少し面白い。

地方教育行政を担当する機関。都道府県委員会と市町村(特別区・組合)委員会がある。1948年教育委員会法に基づいて成立。初めは公選制であったが、56年任命制となる。

 なるほどねである。やっぱしGHQの名残りらしく、最初は公選であったようだ。56年に任命制となるというわけで、骨抜きになっていったわけだ。というわけで、現状では、読売新聞社説がちょっと基本事項をわざと暈かしている。
 読売の主張はこうだ。

 国と自治体、教委と首長部局の役割と責任は何か。明確な区分けをする論議が中教審には求められる。

 その背景には、現状が違うというのがある。

 本来、地方分権そのものの制度だ。それなのに、地方分権時代の到来を理由として、文部科学省が中央教育審議会に、教委の在り方の見直しを諮問した。歴史の皮肉である。
 教育改革に熱心な自治体に、現行システムへの不満が少なくない。文科省→都道府県教委→市町村教委という“上位下達”の指示系統ができ上がり、独自の施策を実施できないとの不満だ。趣旨と実態の食い違いが、諮問の背景にある。

 しかし、実際には、読売の基本的な認識の間違いと言っていいだろう。確かに、市町村というレベルでは地方分権と言えばいえる。が、すでに公選を廃した段階で地方の民主主義からは迂回し、地方行政下に一元的に組み入れられている。
 話がくどくなるが、発足時には、地方分権、一般行政からの独立、民主公選制という3原則があった。しかし、1956年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」により教育委員会の委員は地方の首長による任命制に変わった。この時点で、「本来の教育委員会」ではない。しかも、会議は非公開が原則である。歯止めは唯一、任命時の議会承認だが、いかされているとは言えないというか、制度的に非承認はせいぜい不祥事暴露時くらいではないか。
 というわけで、なにもGHQ様が正しいというわけではないが、教育委員会という制度そのものが欠陥というか、あるいは改革不可能というべきか、いずれにせよ、本来の独立した機能は原理的になさない。もっとも、読売の主張のように市町村下という限定でなら、地域の独立性がまったく出せないわけではないのが、そういうものなのだろうか。
 ついで、PTAも同じようで、率直にいえば、こちらは実際には法的な根拠性がないだけ(厳密にはゼロではないようでもあるが)、突っ込むとけっこう醜悪なのだが、この話はまた別の機会にしよう。

追記
 ブログ本文は少し原則論に傾き過ぎたかもしれない。というのは、単純に公選にせよと言いたいわけではない。公選を目指して、準公選とした自治体でも、実際には機能していないようだ。
 中野区の例については「どないなっとんねん(2)」(参照)が興味深かった。

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2004.03.06

書棚から

 書棚を見るとその人のことがわかるというが、自分の書棚は雑然としている。引っ越しの度に本を捨てるせいもある。沖縄から転居した際は500冊をブックオフに流した。100冊くらいは捨てた。いくつかは地元の図書館に寄贈した。それでも、書棚には本は収まらないので、大半はスチール棚に積み上げている。そんなに本なんか読まないのになぜ本が溜まるかと憂鬱になる。
bookshefl パソコンから手が届く書架を見ると、やはり雑然としている。この雑然さこそ私なのだ。自分では、雑然とした自分をそのまま受けとめているのだが、いざ考えなおすと、変な本が多いなとも思う。お笑いでちょっと紹介しよう。そうでもないと、紹介することのない本だろう。
 「現代紅茶用語辞典」は、アマゾンでは品切れになっている。絶版なのだろうか。内容は古い。最新のタイプの紅茶はここからはわからない。だが、逆にその古い記述が面白い。歴史を考える上にもいろいろなヒントがある。Robert Fortune(「幕末日本探訪記」の著者)といった項目も当然ある。紅茶好きと限らず、歴史好きにはたぶん楽しい一冊だろう。
 「楽しいなわ跳び」。著者が太田昌秀と聞くと、まさかと思う人がいるだろう。そのとおり、別人だ。よく見ると苗字も違う。私はけっこうなわとびの名人だった。この本は学校教材のようなのでそれほど面白くはない。
 「クレイジーチェス」。チェスの本としては初心者向けだが、いわゆる入門書ではない(入門用にもなる)。この本ほど、チェスを愛するという気持ちの溢れた本はないのではないか。ツウ向けならいろいろあるがこの本は珍しいタイプの本だと思う。私はチェスはど素人だが、将棋よりは好きだ。日本でもハリーポッターはよく売れたが、あのチェスのシーンの意味はチェスを知らないとわかりづらい面があると思う。どうだろう。中で紹介されている、モーフィー(Morphy,Paul Charles 1837)の棋譜は芸術だ。将棋の棋譜にも美はあるのだろう。が、このチェスの棋譜の美しさを知らない人生はつまらない、というくらい。棋譜自体はネットでも見つかるだろうが、著者ピノーの解説がよい。フィッシャー(Bobby Fischer)の話も少し出てくる。池澤夏樹は最近グロタン・ディエクを知ったというが、ボビー・フィッシャーはどうだろうか(日本で暮らしているとの噂もあり)。映画「ボビー・フィッシャーを探して(Searching for Bobby Fischer.1993)」は「ヒカルの碁」のネタのような気がする。
 「バランスのいい文字を書きたい!」。タイトルから、ありがちな内容を連想するに違いない。だが、これはちょっとすごい本だ。私は書道を長く学んだが全然ダメ。それでも、この本の価値はわかる。身体についての思想家ともいえるフェルデン・クライスは、たしか、真の教師を見つけるのは宝くじに当たるより難しいと言ったが、著者はそうしたマレな教師の一人のようだ。
 「料理上手のスパイスブック」。講談社だし少し古いので絶版かと思ったが、入手可能なようだ。内容は標題のとおり、基本スパイスの辞書的な解説本だ。が、内容が優れている。「料理上手」とあるが、むしろ文化的な背景などの説明もよい。
 「熱帯のくだもの」。アジア人としては、ここに掲載されている果物は知っておきたいものだと思う。私は本書のくだものは大半は食ったな。沖縄の自宅にはシュガーアップルがあったので、食い飽きるほど食った。熱帯のくだものの食べ方のコツは、食い飽きるほど食うこと!。ドリアンだって、そう。大きく、熟れた新鮮なのをその場でぱかんと割って食えば、そんなに臭くはない。
 「おいしい花」。標題とおり、食用の花についての話だ。この手の話題が好きな人にはたまらない一冊である。先の「熱帯のくだもの」と同じく著者は吉田よし子。実は、彼女の本は私は全て読んでいる。今日紹介するのは2つだけだが、どれも面白い。
 「カブトエビのすべて」。内容はカブトエビについてだ。なぜ?とか訊かないでほしい。日本で読めるカブトエビについての唯一の本と言っていい。内容も正確だ。アマゾンの読者評で星を3つしか付けてない愚かものがいるが、この本の価値がわからんなら読まんでよろし。本書を読みながら、地球とはなにか生命とはなにか考えるのだ。著者はこの一冊に人生をかけた信州人でもある。高校の先生でもあった。こういう先生に学べぶことができた若い人は幸せである。
 ま、この手の本の話はウケがよければまたいずれ。

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小さな時代の終わりと何かの始まり

 この記事は極東ブログ「グリーンスパンは日本の円介入をリフレと見ていた」になされたsvnseedsさんのコメント(参照)への返信の意図もある。とても有益な示唆が得られたことを感謝したい。また、当のグリーンスパン発言の全文が読めて、とても嬉しい。これは貴重な歴史文書になるだろうと思う。


FRB: Speeches, Greenspan--Current account--March 2, 2004(参照

 先の極東ブログの記事だが、標題どおり、私には、グリーンスパンが日本の円介入をリフレと見ていたと知って率直に驚いた。この点については、後からブルームバーグの記事を再読しても、この記者もそのあたふたとした強調から見るに、同様の驚きの感はあったと思われる。
 ただ、svnseedsさんが指摘されるように、識者のなかには、ごく当たり前に取られてもいたのだろう。それでも、そうした声が、マスメディアや木村剛なども出現してきているブログの、ある意味、メインストリート側には出ていなかったのではないだろうか。少なくとも、大手新聞系では見かけなかった。
 それどころか、この点についても、svnseedsさんが指摘されるように、新聞系はグリーンスパン発言を誤読しているし、また軽視してもいる。軽視については、基本的に為替のディーラー側にあまり意味がないとの判断もあるだろう。つまり、特にグリーンスパン発言がなくても、G7後に円安側に揺れてくることはほぼ共通認識でもあった。
 誤読の点、つまり、「グリーンスパンが円介入を批判した」説については、私の考えでは、存外に根が深い。反動毎日新聞は論外としても、読売や日経が浅薄、朝日は気分的な反米意識のようなものが感じられる。このあたりのメディア側の意見と、財務省・日銀の思惑のズレはいったいなんなのか奇っ怪だ。洒落としては、ブルームバーグのコラム「FRB議長が懸念するアジアの根拠なき熱狂 W・ペセック(Greenspan Eyes Irrational Exuberance in Asia: William Pesek Jr.)」(一時的参照)の冒頭が笑える。

 もし中央銀行当局者を困らせたければ、為替市場について質問するといい。いすの上で態勢を整え、床を見つめ、「ノーコメント」とだれもが答えるに違いない。

 まあ、そういうことなのだろう。話のついでの同記事を利用する。

 世界で最も影響力のある中銀当局者、グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は9日、ニューヨークで講演し、アジアの中銀は近く「尋常ではない」ドル買い介入の規模を減らす可能性があると述べた。真意はどこにあるのだろうか。もっと当惑するのは、なぜ議長がそのプロセスを早急に実現させようとしているようにみえるのかということだ。
 この講演内容はアジアにおいては、日本と中国にドル買い介入を抑制するよう求めるグリーンスパン議長のシグナルと一般的に受け止められた。アジア中銀のドル資産は過去2年間で計2400億ドル(約27兆円)増加。日本と中国のドル資産残高は合計で1兆ドルを超えている。

 日本の新聞系がある意味意図的にグリーンスパン発言を誤読したのとは違い、むしろこのコラムのように、発言自体、「日本と中国にドル買い介入を抑制するよう求めるグリーンスパン議長のシグナル」と見るべきだろう。ブレーキを踏み込むという感じだ。陰謀論臭いうがった見方をすれば、それが成立する(停止)というなら、日本の円介入はそもそも米主導の政策ではなかったかという気もする。このあたりは、グリーンスパン発言に日銀批判を読むsvnseedsさんとは視点が違うところだが、私も陰謀論的な見方に固執しているわけでもない。臭いなと思うだけだ。
 いずれにせよ、ここで、米側からストップが出たことは確かだ。といって、即座にストップするわけでもない。なにせ日本政府は世界最大のヘッジファンドでもある。いつでもドンパチの構えを崩せるわけでもない。が、それでも、昨年のG7での一見敗北にも見える円高移行の防戦のような円介入(=partially unsterilized intervention)の時代は終わったと見ていいのではないか。このあたりも、デフレの根を深くみるsvnseedsさんとは視点が違うところだ。それはそれで理解もできる。
 今の事態が終わりであれば、それは同時に何かの始まりでもある。始まりとは、ごく単純に言えば、日本のデフレの終わりでもあるのではないか。と言うと、単純すぎるかもしれないのだが、これで3月を乗り切り、UFJとダイエーを片づければ、日本は新しい始まりがあるような気分にもなる。笑わないで欲しい。真面目な話、ようは、気分の問題なのだから。ついでに言うが、国政政治・軍事面でこの間、私が敵視しつづけた、有志連合もアナンの日本での発言を機に、とりあえずの終わりになったようだ。次期米国大統領やEUの動向も不確実な要素が多いが、概ね、新しいなにかが始まりつつあるようには見える。
 話を少し戻す。svnseedsさんをリフレ派に含めることは失礼なことになるのかもしれないが、グリーンスパン発言についての次の、リフレ派ぽい指摘はそのとおりだと思う。

 For now, partially unsterilized intervention is perceived as a means of expanding the monetary base of Japan, a basic element of monetary policy. (The same effect, of course, is available through the purchase of domestic assets.)

 これ、金融政策の道具として為替介入を使うのってどうよ?筋悪じゃない?と言ってるように読めるんですがどうでしょう?自分のところの資産を買い入れてもof course同じ効果があるよ、と(この部分、日本語訳ではカットされてますね)。為替介入なんかしないで自分のところの資産買った方が良いんじゃない?と遠まわしに言われてると解釈するのが自然だと僕は思うんですが如何でしょうか。


 そうだろう。が、そういうリフレ派の目はないかもしれない。そのあたり、可視になりづらいリフレ派の経済学というは今後どういう方向になっていくのか、というのも気になる。少なくとも、自分がその歴史の証人の一人であるという点でもこれからも考えていきたい。
 グリーンスパン発言には、ユーロ問題、中国問題(これもけっこうメイン)、また、日本の米国債買い入れの意味なども含まれている。が、とりあえず、そこまでは話は広げない。
 svnseedsさんからは、「日本やアジアの介入が米国債を支えてるという説もばっさり否定されてます。」との指摘があるように、グリーンスパン発言からもその意図は読み取れる。米債を含んで成長している米経済の視点からは、結果論的にそうも言えるのだろうなという思いはある。ただ、多分に米国の政治臭がするなという印象もある。
 放談的な言い方だが、大規模に非不胎化を実施した財務省・日銀は決定的に頭がいいと言えるだろう。皮肉としてそう言いたいねという気がするが。

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四月から消費税内税表示(総額表示)方式になる

 今朝も新聞社説に気になる話題はない。朝日と産経が全国人民代表大会(全人代)十期第二回会議に触れているが、つまらない。静岡県警のカラ出張問題など、警察と触れることの多い地方で暮らしていた経験から言えば、ことさら騒ぐことでもない。ただ、警察の経理をもっときちんとして欲しいとは思う。というわけで、今朝の話題は、消費税の内税化についての雑談だ。
 私は消費税の問題には詳しくはない(他の領域でも同じだが)。が、この問題は、日々の生活で直面することでもあり、基本的には、普通の生活人としての意識という視点で雑記してみたい。
 ご存じのとおり、この四月から消費税の総額表示、つまり、従来の内税表示が、全ての価格表示で義務付けられることになる。今までのようなめんどくさい消費税意識はなくなる。いろいろ思うことはあるのだが、なにより、この世界の変化の切れ目の感覚を忘れないでおきたいと思う。私はコンビニ行って、レジでは請求額を目視確認し、ざらざらと財布から一円玉を出して、渡す額を口頭で言い(口頭確認)、おつりをもらって、レシートを眺める(再チェック)。そういういう2004年早春の風景が変わっていく。
 と、書いたものの、渡す金額を口頭確認したり、コンビニのレシートを眺めるという習慣を持つのは私くらいなものか。若い人は、ゴミでも捨てるようにレシートをレジの専用のゴミ箱に捨てていく。ゴミですかねと思う。最近はセブンイレブンは教育がしっかりしているのであまり見かけないが、間抜けなバイトさんが内部用のレシートを手渡してくれることがある。けっこう楽しい。スーパーで買い物をするときも、私はレシートをざらっと眺める。まれに、ミスを発見する。すてきな奥さんになりたいわけでもないし、彼女らは別にレシートをいちいち点検するだろうかは知らない。
 こうした風景が桜の後に変わる。そして、それは歴史の感覚となる。私は、そういう些細な歴史の感覚の断層がとても気になる。
 内税化について、社会ではあまり批判は起きていない。起きていても、タメ臭い。いわく、これから消費税をさらに上げるための準備だとか、100円ショップは105円ショップにするわけにもいかないのでさらにデフレが進むとか、キリのいい額にするために値上げになるなど。どうでもいいといえばどうでもいい。
 3%の税が導入されるときはあれほど日本は騒いだ。薩摩隼人山中の胆力をもって断行した。それも歴史の向こうの世界だ。たしか吉本隆明は原則としては消費税は好ましいというので、ふーんと思ったものだ。
 私事めくがあのころ、ひょんなことで会計システム開発の一端に加わったことがある。私には関係なかろうとも思うがとりあえず、税の講習を一日受けたような記憶がある。内容はたいして覚えてもいないが、課税はレシート単位と個別があって、計算が違うことがあるというのを知った。ふーんと思い、あの時代、たまに、暇そうなコンビニに入ると「ちょっと待って、これ三つ、別々に買います」とレシートを分けさせたことがある。バイトのお姉さんなどによっては不快な顔をしたが(男というのは女の不快な顔に慣れる訓練も必要だしな)、たいていは彼女自身も機械のようだった。詳細は忘れたが、1円くらい誤差がでる。「こうすると1円もうかりました」と言うのだが、ユーモアを解してはくれなかった(女がユーモアを介さないということではない)。私は外人めきたいわけではないが、この手の私のユーモア感覚はちょっと日本人離れしてしまっているかなとも思う。そんな楽しみも5%時代にはなくなった。細川の殿様がご乱心したとき7%という話があり、ふふとか期待したものだが。
 消費税は早晩10%上がる。この調子だと、20%くらいまでは軽く上がるだろう。すでに内税化されているので、国民の税への抵抗感はなくなるに違いない。そのうち、一円玉というのも廃止されるのだろう。考えてみると、私が大学生のころ、一円玉なんて使うことはなかった。デノミが真面目な議論にもなったくらいだ。歴史の感覚とは不思議なものだ。
 内税化で、個人的に気になるのはヤフオクなどだが、価格は統一されるわけだから、これもあまり意識されないということになるのだろうか。
 日本の消費税は米国を除いて欧州と比べれば低いと言われる。が、詳しく説明するほどの知識はないが、これはほぼ嘘っぱちで流通のコストが実質税のように加わっている。まさかと思う? これは一つの商品が製造され消費者に渡るまで、どれだけ、官僚天下りの団体の規制下にあるかを想像したら、そーだよねととりあえず納得してもらるだろう。その意味で、リフレ派はよいデフレなんかねーよというし、理論的にはそうなのだが、この流通改善のプレッシャーというくらいの意味はあるだろうと私は思う。というわけで、コンピューターも店頭で買うのは初心者だけになった。
 ちんたらとした雑談になった。本質的な問題は、野口悠紀夫が指摘するようにインヴォイス(INVOICE)の問題だ。仕送り状方式とも言われる。もともと消費税というのは、インヴォイスと対になった制度だが、日本ではそうなっていない。というわけで、本質的な欠陥があると野口は言うのだが、私ははっきりと意識はしていない。要点は、仕入れ時に負担した税額が売上高に課税された税額から控除できるということだろう。いずれにせよ、複数税率になれば、現在のような帳簿(アカウント:account)方式では精密な対応はできないだろう。
 と言ったものの、それにもそれなりの社会的な意味があるかもしれない。日本の社会は、多分にアンダーグラウンド・マネーで成立しているからだ。国家はなぜだか富裕国民の所得を把握しようとしない(またぞろヤの問題だろうか)。老婆が趣味でやっているような小売り(沖縄は多いぞぉ!)も保護しよとする。このあたりの、行政の間合いというか極意を知った人間が、日本というある意味変な国家を始めて手綱取りできるのだろう。と、思って、小泉の顔を浮かべると、ありゃ、男前のうちだろうが、馬鹿面だな、日本が扱えないわけか。
 最後にプラクティカルなインフォ。内税化の具体的な説明は「総額表示方式」(参照)にあるので、以上の話をへぇとか思う人は、ちょっと目を通しておくといいだろう。ついでにいうと、このWebページ誰が作ったのか知らないけど、mof.go.jpとして恥ずかしくはねーのだろうか、と八つ当たりも書いておく(というのは改善しろよねという意味だ)。

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2004.03.05

週刊!木村剛の「厚生年金はネズミ講か?」はすげー反動

 「週刊!木村剛」の「厚生年金はネズミ講か?」(参照)を読んだ。私の率直な印象をそのまま書くと、「このお兄さん、すげー反動!」である。もう一つの印象は、こんなの退官したとはいえ、国家を担う官僚やっていたのか、世も末か、いや、待てよ、この反動、実に、国家主義どおりじゃねーか、ってなものである。というわけで、ゴーちゃんファンのくさしに誤解されてもなんなのでトラックバックにはしない。
 以下、簡単に、「厚生年金はネズミ講か?」についての私のメモをまとめる。
 (1)年金財源不足の危機的な状況についての木村の認識は正しい。確かに、ディテールは明るみに出してほしい。だが、この議論は、年金官僚へのルサンチマン(怨嗟)に直結して済む話ではない。私は、政治的な立場としては、民主党側に立つせいもあるが、これは、民主党案、ないし、民主党政権に置けば、自動的に、その方針から是正される問題であり。ルサンチマンを喚起すべきではない。また、負債の問題は、タスカが指摘しているように、日本が経済的に復興すれば問題とはならない。
 (2)年金制度改革の試算はまともな数値なのか、についても木村が正しく、まともではない。ここから先が違う。だからまともにしようではないか。民主党案の所得比例方式ならまともになる。代案がありうることを忘れて、扇情者の鉄砲玉にならないように。
 (3)年金のシステムはネズミ講ではない。この木村の議論は本質的に頓珍漢だ。どこに国でも国たるものは年金制度を持っているのだと考えてもみよ。ネズミ講はトップが儲かるシステムである。年金とは、国民の互助のシステムだ。強者が弱者やお年寄りを助けるために、働けるものが損をこくのである。これは、年金システム内部でみると、民間保険のように損得に還元されるが、広義には国民の税を使って、損をこくのである。総体的に年金とは損が避けられるシステムではないのだから、損かどうかの議論は無意味。
 (4)木村の提起する厚生年金脱退権は、ジョークである。これは、木村もジョーク、つまり、架空の話として書いているのだ。このあたりは、ちょっと悪意を感じる。これも考えてもみよ、といいたい。そんなことそもそも実現するかね? しねーよ。実現しない仮定の上に、国家の施策を考えるのは、なんと形容すべきか。
 (5)木村の議論に隠蔽されている国民年金に注目せよ。彼の今回のテーマは厚生年金に絞られている。が、現行の年金制度では、この2つは分離できるものではない。野口悠紀夫が指摘しているように、実は国民年金は厚生年金から補填されている。厚生年金は企業に負担が大きい。企業はできれば、厚生年金をやめたいのだ。というあたりで、木村が誰の利益代表をしているか気付け。少なくとも、若者の国民年金不払い動向を、この議論でバックアップするという恥ずかしい誤解はしないように。
 (6)そして、木村の意図は、厚生年金をチャラにして、税方式にせよというのだ。予想通りじゃないか。というわけで、ちょっと繰り返しておきたい。極東ブログ「多分、年金問題は問題じゃない(無責任)」(参照)。


 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。

 さらに。

 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

 というわけで、ということでもないが、民主党が本気で、所得比例方式が導入できないなら、年金議論なんて無駄だ。その決戦はそう遠くない。
 その意味で、木村の雑音は、民主党の所得比例方式案潰しの鉄砲玉なのだろう。
 所得比例方式が転けたら、私は、もう年金なんて議論するだけ無駄だ、というのを、もっと積極的に言いたい。あるいは、気力も失って、黙るかな。
 「ごーちゃん」を敵に回すようなことは言いたくないのだが、まだ、ちょっと黙るには、早いような気がする。

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韓国のクレジットカード破綻と日本の内需

 今朝も新聞社説からはネタはない。余談だが、ちょっと期待して「フジサンケイ ビジネスアイ(Fuji Sankei Bussines i)」を買ってみたが、全然ダメだった。
 気になる話題といえば、日本版ニューズウィークの今週の記事「韓国 国を挙げてのカード破産 借金と浪費を奨励する奇策で破産者急増の異常事態に」がある。この関連で雑談を少し書く。
 話は、標題どおり、韓国でクレジットカード破産が増えているということ。もっとも、銀行経営側から見れば別に目新しい話ではない。例えば「韓国市中銀行主要19行の昨年純益」(参照)やLGカードについては「LGカード一時経営危機に」(参照)など。
 背景は前述のニューズウィークの記事がわかりやすい。


 通貨危機がピークを迎えた97年12月のわずか数ヶ月後、韓国政府はクレジットカードを使ったローンの貸し出し上限を撤廃。カードによる支払いの一部を所得控除の対象とし、後はカード保有者向けの宝くじも導入した。
 韓国人はこれらの奨励策に飛びついた。カード利用額は急増し、99年、00年は経済も高成長を達成。だがそれは、借金の返済期限が来る前の話だ。

 同記事によれば多重債務者が100万人。返済の三ヶ月遅滞者は400万人。現役世代の約15%がカード破産状態だと言う。
 こういう話を聞けば当然思うことはいろいろあるし、つい「韓国人は…」という国民性についても床屋談義もしたくなる。が、してもオチも見えていてつまらないので、省略する。
 国家経済的に見るなら、韓国では、通貨危機時の不良債権処理が1400億ドルだったが、今回の個人負債は約300億ドル、ということなので、たいした問題ではないと言えないこともない。だが、実際問題としてこれだけの数の個人の債務を国家がそのまま棒引きにできるわけもないだろう。経済問題を越えて社会問題として深い病根となるに違いない。
 日本もクレジットカード破産が問題になるが、「個人の自己破産、最悪 年間22万件超す/2003年」(読売新聞04.01.26)によればこうだ。

 個人の自己破産申し立てのうち、消費者金融からの借り入れやクレジットカードの使いすぎなど貸金業者の利用が主な原因だったケースは、初めて二十万件の大台を突破して二十万千八百二十八件(91・4%)に達し、申立件数を押し上げている背景に、多重債務者の広がりがうかがえる。

 数値の意味合いが違うので直接的な比較はできないが、日本とはかなり異なる状況がありそうだ。
 韓国のような状況は同じく、経済危機に陥ったタイにも見られたようだ(読売新聞2002.05.09)

 行きすぎたクレジットカード利用による“カード破産”が新たな金融危機を引き起こす可能性がある――。タイ国家経済社会開発委員会は17日、第1四半期の国内総生産(GDP)が内需拡大などによって昨年同期比3・9%増と、当初予測を上回る伸びを示したと発表したが、同時に、金融機関に対し、内需拡大をもたらす一因となったカードの利用が過剰傾向にあるとして注意を喚起した。18日付ネーションが報じた。

 ある種のパターンがあるのだろうと思う。と同時に、現在のマクロ経済学の処方というのはそういうものなのかもしれないとも思う。
 日本も「流動性の罠」とやらでか、需要が落ち込んでいるとされているようだが、手っ取り早い需要喚起はクレジットカードなのだろうか。しかし、生活者の実感はない。
 重要という文脈で新三種の神器といったデジタル小物がタメで語られることもあるが、技術の基盤としては重要かもしれないものの、そのままの製品として見れば市場規模が小さい。やはり目立った需要というなら、やはり自動車や不動産などになるのだろう。
 特に不動産について、日本でどのような需要が見込まれるうるのだろうか、と考えてよくわからない。長期的には人口縮退を起こしているので需要は減少するはずだ。個人家のリフォームも進んでいるようには見えない。地方と都市部の落差は広がる。
 つらつら書くに、日本の内需を喚起するイメージが湧かない。
 話がそれるが、日本では若い人の就職が大きな問題になっているが、それはそれとして、特に高校生のフリーター率が高いとも言われるのだが、気になるのは、現状、大学入学など、親に金銭の余裕があれば、誰でも可能だ。なのに入らないのは、実際には、学力の問題や勉強嫌いということではなく(日本の大学生は今も昔もそれほど勉強していないように見える)、単に親の金銭的な余力だろう。そう考えると、若い人に、国家がまとまった金を貸すという制度でもあればいいように思う。
 とま、書いたものの、私のこうした考えは、考えの筋が違っているようにも思う。が、その根にあるのは、極東ブログで他の記事でも書いたように、日本の政府は民間部門より産業部門向けにそもそも出来ているので対応できない、という限界性だろう。
 もともとも、日本の政府は、民間部門の需要喚起には向かない政府なのだろう。

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2004.03.04

グリーンスパンは日本の円介入をリフレと見ていた

 また円介入話だ。このところの極東ブログの話の流れでは、「日本は米国に貢いでいるのか?」(参照)、「またまた米国債買いのお話」(参照)に続く。要点の一つは、膨大な円介入は「非不胎化介入」というリフレ策ではないのか、ということだった。
 この巨大な介入を米国はどう見ているかという点で、2日のFRB(米連邦準備制度理事会)グリーンスパン議長のニューヨーク講演が興味深かった。
 新聞系のニュースでは、グリーンスパンは「円高阻止のために多額の円売りドル買い介入を実施している日本の為替政策を強く批判した」と報じた。例えば、共同からは「米FRB議長、日本の巨額の為替介入を批判」(参照)、毎日からは「円高介入:グリーンスパンFRB議長が日本批判」(参照)、朝日からは「FRB議長、日本の大規模介入『必要ない段階に近づく』」(参照)などだ。
 だが、これらは情報が少なく、グリーンスパンの意図がわからない。そこで、ブルームバーグを見ると、もう少し詳しく、「FRB議長、日本はドル買い介入最終的に停止を-講演で(5)」(参照)というCraig Torres記者による署名記事があった。冒頭を引く。


 米連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長は2日、「日本政府によるドル資産の蓄積ペースを減速し、最終的に停止する必要があると認識すべきだ」と述べ、日本政府・日銀による円売りドル買い介入を強くけん制した。同議長はニューヨークのエコノミック・クラブの講演で見解を明らかにした。
 同議長は、日本の円売り介入について、「部分的な非不胎化介入は日本のマネタリーベースの拡大手段、つまり金融政策の基本的要素と認識される」と指摘。「日本のデフレ沈静化に伴い、継続的な介入による金融面に及ぼす結果が問題になってくるだろう」と、介入資金を市場に残す非不胎化介入に伴う金融緩和の行き過ぎに警告した。
 その上で、議長は「日本経済の現在のパフォーマンスは、現行規模の介入を続けることが、もはや日本の金融政策の要求に合致しなくなる水準に接近していることを示唆している」と述べ、大規模介入を修正する時期が近いとの認識を示した。

 ということで、グリーンスパンは、日本の円介入を、要するに、リフレ策として見ていたということのようだ。
 私としてはちょっと呆気にとられたという感じがした。というのは、このことは国内のエコノミストや経済学者ははっきりと指摘していたとは思えなかったからだ。わからないので、私は素人考えを重ねてきたわけだが、こういうことは、その筋では常識だったのだろうか?
 いずれにせよ、グリーンスパン側から、円介入をやめろというシグナルが出たので、過去の例から見ても、日本の介入は少なくなる、ということだろうか。次に知りたいのはそのあたりだ。ついでに知りたいのは、陰謀論めくが、そもそもこの莫大な介入は、米国主導だったのだろうか、という点だ。
 繰り返すが、重要なので同記事の別の言及も引いておく。

 日本政府・日銀による円売り・ドル買い介入は昨年初めからことし2月までに約30兆円に膨張。欧米の市場関係者の間では、介入規模の拡大と並行して、日銀の量的緩和目標が30兆―35兆円(日銀当座預金残高)に拡大されたことから、介入資金を市場に放置する非不胎化介入と受け取られている。グリーンスパン議長は「部分的」と断りながら、日本の為替市場介入を「非不胎化」と明言。米通貨当局も政府・日銀の為替市場介入を非不胎化とみなしていることが初めて明らかにされた。
 市場関係者の間では、日銀が量的緩和を拡大し、巨額の円売り・ドル買い介入を可能にし、手当てしたドル資金で米国債を購入、米国の双子の赤字をファイナンスしているとの見方が根強い。日本政府・日銀の円売り介入の結果、米国債が購入され、米国の市場金利が抑制されるため、米通貨当局も日本の介入政策を容認していると見られていた。

 ところで、このあたりのグリーンスパンの言及はどうなっているのか、ブルームバーグなので原文が存在するはずだと思って、「原題:Greenspan Says Japan, China May Trim Dollar Purchases(抜粋)」から原文を探すと、なんか変だ。対応するはずの冒頭を引く。

Greenspan Says Japan, China May Trim Dollar Purchases (Update3)

 March 2 (Bloomberg) -- Asian central banks may have to reduce their "extraordinary'' purchases of dollar assets soon, and when they do so, it doesn't mean that the dollar "will automatically fall" or U.S. interest rates will rise, Federal Reserve Chairman Alan Greenspan said.
 Japan, China and other Asian nations' central banks have purchased $240 billion in dollar assets since the start of 2002 in an effort to keep their currencies from rising against the dollar, Greenspan told the Economics Club of New York.
 "The current performance of the Japanese economy suggests that we are getting closer to the point where continued intervention at the present scale will no longer meet the monetary policy needs of Japan," Greenspan said in his speech.


 標題も記者も同じだが、日本語のほうの記事とは対応していない。どっかに別記事が存在しているのだろうか、探したのだがよくわからない。
 グリーンスパンの発言で、もう一点、気になるのは、ユーロへの配慮だ。

 またグリーンスパン議長は、通貨当局の為替市場介入メカニズムについて、「アジア諸国の通貨当局が自国通貨の対ドル相場抑制のため、自国通貨売り・ドル買い介入を実行すると、当局はドル建て資産を民間部門のポートフォリオから購入することになる」と指摘。「この結果、民間部門の手持ちのドル資産が減少するため、自然な成り行きとして、ポートフォリオのバランス調整で、ユーロなど介入通貨以外に対してもドル買いが発生する」と述べた。
 議長は「この結果、ドルの対ユーロ相場は上昇することになる」と説明。欧州諸国が非難するようなアジア通貨売り・ドル買い介入でユーロが上昇することはないとの見解を示した。グリーンスパン議長は「ドル相場に影響を与える要因は、当局の為替市場介入以外は予測不可能なため、アジア諸国の為替市場介入の停止は自動的なドル相場の下落を意味しない」と指摘した。

 このあたりの発言の真意もよくわからない。
 私は稚拙な陰謀論めいた冗談として、米国は日本と組んでユーロ潰しを狙っている、とも思うが、実際のところ、米国はユーロをどう見ているのだろうか。

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イラク・シーア派テロは外部からなのか

 朝日、読売、日経の社説が、シーア派を狙ったテロに関連し、イラクの状況について触れていた。が、基本的な情報が少ないこともあり、読むべき内容はほとんどない。特に朝日新聞社説「イラク再建――テロに揺るがず結束を」は頓珍漢なのだが、お笑いネタにしてもしかたなかろう。
 重要なのは日経の社説「イラク、内戦の危機回避を」の指摘にもあるが、これがイラク外部の犯行によるかという点だ。


 今回のテロは聖地カルバラと首都バグダッドで同時に、10人を超えるテロリストによって引き起こされた。大掛かりなテロ組織がイラクに存在することは間違いない。米軍などはアルカイダと関係のあるヨルダン人ザルカウィ氏が首謀者であると疑っている。

 米軍の情報については、また嘘でしょ、と思いたくもなるが、そうした可能性が否定できるわけでもない。いずれにせよ、イラクのテロがイラク外部から持ち込まれているかどうかは、今後の動向に重要な意味を持つ。
 が、ここでも、その真偽の扱いが難しい。単純な話、多分にそうした情報は米国側から出されるためだ。狼少年をそのまま信じる人はいない。
 テロが外部からとすれば、またぞろアルカイダという話になるだろう。その関連の情報という点ではビンラディン捕獲のネタが似ている。ガセ臭いのだが、すでにビンラディンがパキスタン内で実質的に捕獲寸前の状況にあるという情報が最近流されている。イラク元フセイン大統領の捕獲もタイミングがあまりに良すぎたので、ビンラディンについても、捕獲のニュースは、米国大統領選の行方しだいか、というジョークでも飛ばしたくなる。
 陰謀論めくが、大筋として、米国はビンラディンという悪玉の捕獲は気が進まないというのが本音だろう。金正日と同様に、悪玉がなくては、現状の米軍体制変更の方向性が見えない。米国は、活かさず殺さず悪玉を利用するだろうと見るのはそう外してはいないだろう。
 ついでに。イラク情勢に関連した話では、すでに極東ブログでも触れたが、日米のメディアの多くは、6月末時点のイラクへの主権を移譲を好ましいと見ているようだ。が、このあたりは、すでに引き継ぎに出ている国連、特にアナンとしては、シーア派シスタニの操縦の絡みから、そう急いではいないと見るべきだろう。
 こうしたイラクの動向は残念ながらというべきか、米国選挙の動向が関係している。私にはその米国大統領選挙の動向がわからない。米国という国は、基本的に大統領を南部から出すという根強い保守性がある。そういう視点からすればケリーはフランス人かね、というジョークも成り立つくらいだ。ブッシュでなければ誰でもいいという雰囲気に酔っている日本人も多いようだが、私はブッシュ再選の目はまだそれほど低くはないと考えている。
 いずれにしても、イラク状勢関連で、有志連合が実質頓挫した現状を、次期の米国がどう立て直すかというあたりで、悪玉の色合いが変わる。ちょっと勇み足で言うなら、米国は、EUと、ある程度は対立路線を出して来るだろう。その程度によって、悪玉の意味も変わるはずだ。
 EUの動向関連で余談めくが、2日のNHKクローズアップ現代には苦笑した。ド・ヴィルパン外相が出てきて、サービス精神なのか、インタビューと称して、稚拙な英語でまくし立て、挙げ句は「ドゴールを崇拝している」と言ってのけた。戯言だがお笑いだかホラーだかわからないのが、おフランスなエスプリってやつなのだろう。日本では、反米からフランス的な外交へ期待を持つ傾向もあるようだが、ポーランド、イタリア、スペインのEUでの状況を考えれば、フランスに過度な期待を持つのは、米国追従と同じ程度に危険だろう。
 ところで、まったくの余談だが、なぜ、「ド・ヴィルパン」や「ドゴール」というように、日本では「ド」が付くのだろう。近代言語学創始の「ド・ソーシュール」や「ド・サド」では「ド」を取るのにだ。ちなみに、英語では、de Saussureで、deを取らない。

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2004.03.03

雛祭り余話

 今日は三月三日、雛祭りである、と言いたいところだが、これも本来は旧暦で祝う行事。旧暦でなくても不都合がなければいいじゃないかということだろう。桃の節句とも呼ばれるが、新暦では桃の花は咲かない。それよりも気になることがある。この三月三日に行われる祭りの起源に関係した話だ。
 旧暦の三月三日は、沖縄では「浜降り(はまうり)」が行われる。今年は四月二十一日になる。浜降りは、菓子やよもぎ餅などを重に詰め最初仏壇に供えた後、浜辺で遊ぶという行事だ。基本的には女の行事である。行事の名称としては那覇などでは「サングゥチサンニチィ(三月三日)」と言う。八重山では「サニジ」と言う。「三の日」だろう。

cover
失われた海への挽歌
 現在では昔のような行事は珍しいがそれでも浜は人で賑わい、人は屈み込んでチンボウラという小さな巻き貝を取る。ウミヌチンボーラーグァと歌う「海ぬちんぼうら節」のあれだ。この歌はサントラには入っていないが、映画「ナヴィの恋」にも絶妙のシーンで出てきた。そういえば、この映画で見納め感のある嘉手苅林昌の声でも聞けるのは、「失われた海への挽歌」だ。嘉手苅林昌の歌声は神!であるが、このバージョンがこの歌の最高バージョンであるかはわからない。
 以下、表記は私が適当にした。囃子は抜いた。

海ぬちんぼうらぐぁ 逆なやいた立ぃば
足(ひさ)先々 危なやさ

海ぬさし草や あん清らさなびく
我身ん里前に 打ち靡く

海ぬちんぼうらぐぁ 恋する夜や
辻ぬ姐ぐゎたん 恋すらど

辻やいんどー豆 中島や豆腐豆
恋し渡地いふく豆

辻ぬいんどー豆 噛でぃんちゃんな兄様達
噛でぃやんちゃしが 味やうびらん


 意味は解説しない。私もよくわからないということにしておく(そこのうちなーんちゅ、爆笑しないように!)。滑稽に変えたテルリン・バージョンもある。
 このチンボウラを油で炒めて味噌にしたアンダンスーが絶妙にうまい。マチヤグァなんかで売っている三枚肉のアンダンスーとは違う。うちなーんちゅでも食べたことない人も多いようではある(おばぁに作ってもらいなさい)。
 話がそれてきたが、浜降りは沖縄の行事だと、うちなーんちゅも思っているので、うちなーびけんな話も出てくる。たとえば、「宮古島ダイビング事件と水産振興」の「沖縄の海面利用と漁業権」にこうある(参照)。

 沖縄が他府県と違った海面利用の状況がみられるというのは、事実と思う。身近に感じるのは、旧暦の3月3日に行われる「浜うり」の行事であろう。全県的に行われる様子は、まさに「海はみんなのもの」という県民感情を裏付けている。本土では、このような行為はみられず、地元の漁業者に遠慮する姿勢が一般的である。このような違いはどこからきているのか、これまでの歴史的な背景も踏まえて説明を加えてみたい。

 違うのだ。これは、本土にもある。「磯遊び」と呼ばれている。同じく旧暦三月三日の行事だ。浮き世の題材にもなっているようなので、江戸でも盛んだったのだろう。これが現在の、潮干狩りに結びついている。
 マイペディアでは「浜降り(はまおり)」の項にこうある。

海辺で禊をすること。全国的に祭の際に見られ,神輿を水中でもむのをこのように呼ぶ所もある。沖縄では特に厳格で,海辺で3日2晩潔斎謹慎したり,親類縁者が集まって浜辺で酒宴を開き,深夜まで歌い踊って遊ぶ等の習俗が見られた。⇒磯遊び

 というわけで、「磯遊び」はこうだ。

3月3日に海や山に遊びに出る風習で,もと雛を送ったり祓に水辺に出たりした行事の変化である。雛壇の前でするままごとを磯遊びというところもある。九州西側の沿海地方では雛祭の日に海岸に出て一日遊び暮らし,山口県大島郡などでも同じ日に磯遊びをする。磯祭と称して乙女たちが浜で草餅を食べる風習もある。

 類似の民俗は川辺のバージョンとして韓国にもあるようだ。儒教=道教的な行事なのか、海洋民の民俗なのかよくわからない。女が主体になるところも、いま一つわからない。本土の磯遊びと沖縄の浜降りの関係もよくわからない。
 重要なのはいずれも旧暦の三月三日とする点で、この日は旧暦の朔日に近いこともあり、大潮に近い。だから、貝が取れる。その意味で、この行事も旧暦でないと本来の意味はない。
 中国の行事との関係でいえば、五節句の一つ、旧暦三月初めの巳みの日を祝う上巳(ジョウシ)との関連はある。日本書紀で言えば、顕宗天皇元年三月上巳に曲水の宴が開かれたとある。これが現在に定着するのは、江戸時代に整備された五節句(五節供)による。単純に考えれば、江戸のナショナルホリデーなので、浜辺に遊んだというところだろうか。
 私事だが、午前中にぶらっと近所の和菓子屋に行くと、いつもより混んでいた。菓子の種類も多い。「引千切り」もあった。「左近の桜」「右近の橘」という名の菓子もあり、同行の物に知っているかと訊くが知らないらしい。今の高校生は内裏を参観したことはないだろうか。

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韓国反日法に唖然とする

 正直言うと、韓国問題はあまり書かないほうがいいんじゃないかと考えつつある。どうしてもナショナリズム的なところに落っこちるからだ。だが、さすがに、これはねーんじゃないのと思うので少し書く。反日法についてだ。産経新聞ニュース「韓国で『反日法』成立 統治下の『親日行為』断罪」から引く(参照)。


韓国で二日、日本統治時代の“親日行為”をあらためて断罪し歴史に残そうという「日帝下の親日・反民族行為真相糾明に関する特別法」が国会を通過し成立した。今後三年間、大統領任命による委員会が関連の資料収集や調査活動にあたり報告書をまとめるが、一九四五年の日本統治終了からすでに六十年近くたち関係者のほとんどが故人になっている今、その狙いに関心が集まっている。

 日本人の私が言えるこっちゃないかもしれないが、もう半世紀も前のことじゃないか。たとえ、断罪であっても、許せよ、と思う。記事を書いた黒田勝弘の現状の評価はこうだ。ニュースに判断が混じり過ぎのようにも見えるが、妥当な見解ではないかと思う。

 また韓国の現代史は左派や親・北朝鮮勢力からは「親日派を温存してきた」と非難され、逆に「親日派を清算した」とされる北朝鮮の歴史的優位性が強調されてきた。
 今回の特別法も左派や親北朝鮮的な傾向の強い若手議員が主導しており今後、保守派主導で実現した日韓国交正常化(一九六五年)の見直しなどの動きが表面化する可能性もあり「日韓関係への影響が懸念される」(韓国外交省筋)との声も出ている。

 関連して、朝鮮日報「日本はこのまま“行く所まで行く”つもりなのか」も、ちょっと唖然とした。

 隣国関係を念頭に置き、このような流れにブレーキをかけ、自制を要請すべき小泉首相が「独(トク)島は日本の領土」、「これから毎年(靖国神社を)参拝する」としながら先鋒役を買って出ているのでは、返す言葉がない。

 私は日本人だからというわけではないが、竹島は日本の領土だと考える。が、韓国が自国領だというなら、考慮しましょう、妥協点を見つけましょう、と思う。小泉の靖国参拝は、基本的に彼個人の問題で、国費が出ているわけでもないし、国は公的に靖国参拝などしていない。少なからぬ日本国民が、小泉の靖国問題に不快感を持っている。そのあたりは、日本国民としては妥協の部分だ。つまり、内政の問題だ。

 関東大震災の際の朝鮮人虐殺をはじめ、太平洋戦争で強制的に連行された女性たち、そして日本軍に徴用され、戦争が終るとB、C級戦犯として処刑された朝鮮の青年たちの悲劇をここでまた取り上げなければならないのか。
 韓国だけがこのような傷を抱えているのではない。中国もフィリピンもシンガポールもインドネシアも同様だ。

 それについては、取り上げればいいじゃないか。どうぞ。歴史の議論は歴史でかたをつければいい。だが、戦犯を裁いたのは連合国(国連)だ。台湾人・沖縄人も徴用された。中国、フィリピン、シンガポール、インドネシアになぜ、台湾と沖縄を、そしてマレーシア、オセアニアの小国を並べないのか。歴史の問題と政治の問題は別だ。そんなことを政治的な正義ごかして脅しに使うというのなら、不快極まる。
 率直言うと、韓国の自国内で反日気分を盛り上げることには政治的な意味はあるのだろうが、それは内政の問題なんだから、いちいち日本を引きづりだすことはないじゃないかと思う。そうやって、日本人の反感を盛り上げて、なんの得があるのだろう。
 日本人と韓国人が特定の民間のレベルで友好を築くことは可能だけど、国家としてそれほど友好というわけにもいかないだろう。隣国というのはどこもそんなものだ。歴史の問題もある。だったら、せめて互いをこれ以上傷つけるような騒ぎを起こすのはやめるというのが礼儀だ。大嫌いな福田官房長官だが、よくやっていると思う。
 というわけで、私も反感を盛り上げたいわけではないので、これ以上は書かない。

追記 2004.3.5
 本文は、どちらかというと、日本支持された韓国の老人のかたへしのびないという思いが先に立った。韓国の反日的な気分については、以下のブログが示唆深かった。

 りそ妻日記「3.1節の盧大統領ご乱心」(参照

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アジア人に日本を開く

 朝日新聞社説「アジアに開く――外国人と生きる覚悟を」の問題提起は、別面企画の宣伝でもあるのだろうが、悪くなかった。日本にこれから増えるアジアからの外国人とどう接触するかは重要な課題だと思う。
 と、文章を書き出すとき、自分の頭では数段先がいつもなんとなく浮かんでいるのだが、ふと、インターヴェンション。アジア人の外人問題といえば、在日朝鮮人問題はどうか、という思いが浮かんだ。彼らは日本人にとって、外国人問題のティピカルなケースなのだろうか。あるいはモデルだろうか? 違うのではないか。あまり結論だけ書くと誤解されるが、在日朝鮮人問題というのは日本人問題ではないかと思う。日本が歴史を背負うときに必然的に出てくる問題。という意味で台湾人もそうだ。とりあえず、アジア人の外国人問題からは、捨象する。
 朝日の社説は、予想通り、つまらないきれい事に満ちている。執筆者自身にアジア人との交流はあるのだろうか、というのは、文章というのはどこかしら、その人の経験というか思いの一端がにじむところに真価があるのであって、巷の文章術の類がアホくさいのは、その経験を問わないからだ。経験が人に強いて書かせるのであって、書くために書くのが書くという行為ではない。
 例えば、実際にアジア人と日常や職場で苦戦した人間ならこんなことは言わないと思う。


 問題は、こうした現実があるにもかかわらず、増え続ける外国人にどう向きあうのかという哲学が、政治にも行政にも国民の意識にもまだ希薄なことだ。

 私の経験論が間違っているのかもしれないという留保はしたい。が、この問題は、哲学でもなければ、意識でもない。この問題は、覚悟とルールの問題だと思う。「つきあうぞ」という覚悟と、「おめーも日本の社会のルールを守れよな」という二点だ。
 この二点というのは、極限すれば、喧嘩をすることだと思う。「おめーそれはないだろ」っていうのを言葉や身振り(つまり演出)でわからせることだ。私自身喧嘩がうまい人間ではないのだが、昨今の世相を見ると、特に若い人間だが、それってて喧嘩かよ、と思うことが多い。まず暴力っていうのは喧嘩ではない。暴力っていうのは基本的にプロの領域だ。暴力っていうのは、ちゃんと訓練や修行をつんだヤの方や警察がやること。暴力で方を付けるのは素人がやるこっちゃない。が、これが、もうダメなんだよな。ヤも桜大門も全然ダメだと思う。だから暴力の規制緩和になるのか。この話はそこまでにする。で、民間の喧嘩というのは、コミュニケーションの重要な要素だ。コミュニケーションっていうのは、円滑にするとか、相手を意のままにするとか、そーゆーこっちゃ全然ないのだが、どうも本屋に並ぶ本の表紙のツラをみると、バカかコレ、みたいな本が売れているみたいだ。なさけない。コミュニケーションは、わかってくれない人間にわかってくれよ、ここまで俺はカードを切るよと、関わることだ。ま、これも説教臭いのでこの話もこのくらいにする。
 この手の喧嘩を外国人、とくにアジア人とやるのは、すげーしんどい。ほぼ全滅なのはインド人、といってもターバンを巻いている、日本人からのインド人のイメージはヒンズーじゃない(あれはシーク教徒)。ヒンズーはもっと直接的には穏和、だけど、鉄壁感は同じ。次に、中国人。これは各バリエーションはあるけど、基本的にすげーむかつく。が、韓国人と違い、こっちのむかつきがつーじねーの。で、相手も全然違うところで傷ついたりするから手に負えない。タイ人やフィリピノ、マレーなどは比較的通じるような気がするから、逆にめんどくさい(基本情報が通じてない)。と、愚痴だな、こりゃ。だが、そういうことは体験して学ぶしかない。というのは、体験すれば自分の力量がわかるからだ。タイの子供の頭をなでるのはやめましょう、お坊さんをからかうののもダメよ、みてーなノウハウっていうのは、自分の力量を換算していないからほぼ無意味。どうも、話がずっこけるのだが、よーするに朝日の言うようなきれい事の世界ではない。
 朝日の話で一点、これは汚ねーなと思ったことを一点だけ指摘する。

 例えばアジアの国々との自由貿易協定は、物と金だけではなく人の移動ももっと自由にしようとするもので、フィリピンやタイは日本に対して介護士や医師、マッサージ師などの受け入れを求めている。

 誰かが手を入れたのかもしれないが、こういう曖昧韜晦文は困る。この文脈でフィリピノは看護婦だよ。思わずそこら辺のブログのように、看護婦のところをfontタグで囲みたくなる。ま、そうはしない。それに正しくは看護師(看護士ではないらしい)だ。朝日も社会派っていうのなら、この問題を日本人の社会イメージのなかに絵になるように書けよと思う。
 最後に毎度の自分の回顧話。20代のころのあるバイトの相棒がフィリピノだった。まぁ、仲良かったかな。仕事が終わって、自分の自転車のケツに乗せて居酒屋に行く。カーペンターズとか英語で声出して歌っていくのだ(他に何を歌えってか)。青春だよなと泣けてくる。居酒屋に着いて、適当につまみでも思うと、彼が、大丈夫、今日は私の奢り、ってことを言う、と同時に、テーブルにばっと、かっぱえびせんを広げた。アリ、かよ? BYO!! 思わず、YMCAのノリで踊りそう。そのまま、当方も中国系フィリピノしてもよかったんだけど、ま、飲み屋の人に了解してもらうよう話をしました。名前も忘れたが、彼、今頃偉くなっているのだろうか。

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2004.03.02

ゲームのこと

 ちょっとゲームの話を書く。またも古い話ばかりになりそうなのでできるだけ簡単に切り上げるようにしたい。
 今後日本も韓国ばりにオンラインゲームの時代になりそうなので、それに対して、オヤジ界から「ゲーム脳」だの、引き籠もりを増長するだの、しょーもないゲーム批判を見かけることが多くなった。それに合わせて、きまじめな若い世代の反論もよく見かける。どっちが正しいかといえば、反論のほうが正しいのだが、オヤジ界のニーズには合ってないので、同じような議論は繰り返される。そして、早晩、オンラインゲーム中毒の病人が社会問題に浮かび上がり、さらにしょーもない事態になるのだろう。
 私はそういう傾向や今後の予想に対してどう考えているかと、なーんも考えていない。テレビが出てきたとき大宅壮一は一億層白痴化などと批判したものだが、実際一億白痴化になってみたが、どうかというと、ただ、そうなっているだけ、ということだ。ゲームでも同じようなものでだろう。
 しいて言えば、私はほとんどテレビは見ない。ゲームもしない。本もろくに読まない。別段さして困らない(本については昔の本を読んでいるだけでよいということになるかもしれない)。そういう分衆が各種出現するだろうし、その分衆に社会的にまとまった意識があるわけでもない。ただ、そういう分衆の世界で、より親密な人間への希求は始まるだろうなとは思う。すでにネットやブログの世界にそういう傾向が見えてきている。はてなの顔出しとかもそうかな。ブログの多くは基本的にはそういう分衆の世界に閉じていくだろう。それが悪いことでもなんでもない。ただ、そーゆーこと、というだけだ。
 私は二十代の後半(80年代)だが、パソコン・ゲームを中心とした交友を持っていた。ゲーマー? インベーダーゲームからの世代で、そのままパソコンでもゲームをやっていた(BASICゲームの話は省略する)。流しのプログラマとしては86をメインにしていたので、仕事の面では早々にDOSに近い環境に移行していたが、自宅で遊ぶマシンはほぼ最後までPC-88にこだわった(FM音源なので「イース」の音楽がきれいだった)。それからX68000だのMacに移った。PC-98というのは自分の専用マシンとしてはつまらないしろものだった。DOS/VもWindowsもそんな感じはするが、しかたない。
 あのころのゲームだが、ハイドライドの解説冊子に、たしか、こういうのを邪道と言う人もいるでしょうが、といった記述があったのを覚えている。批判しているわけではないが、その後の日本のゲームはその「邪道」の上に乗っていたのではないだろうか。他は、ロードランナー風の条件反射的ものか。たまに、倉庫番風なパズルもの。格闘物では、Apple用のアラビアンナイトみたいのが原点のように思うが、名前を忘れた(アラジン?)。シューティング系は3Dが面白い。フライトシミュレーターもそれなりにはまる。
 現状のゲームはよくわからない。身近の子供たちがやるのを見てもなにが面白いのかまるでわからない。自分はどうしちまったのかとは、ときたま思う。
 MacではCYAN兄弟の初期の作品(HyperCardベース)は楽しかった。"the Manhole"、"Cosmic Osmo"、そして、"Spelunx"。彼らのウィットというかユーモアというかセンスは良かった。ついでなんで、MYSTもほぼ完了までやった。これは絵がきれいだったからだ。ああいう絵だけでも評価できる世界というのは、今でもいいなと思う。他に、それ自体がアートたりうるようなゲームというのもあるのだろうか。"Uru: Ages Beyond Myst"? 気になる。日本語版が出るのか?
 パソコン・ゲームをよくやっているのと同じころ、ゲーセンにもよく通った。すでにヴィデオゲームの時代だったが、私は、ピンボールがやりたったのである。あの時代、探すとなかなかシックなピンボールゲームがあって楽しかったものだ。村上春樹の「1973年のピンボール」のような世界である。ちなみに、アマゾンのこの小説の読者評を見たのだが、ピンボールやってみないとこの小説の面白さはわからんと思うよ。
 ピンボールの面白さはいろいろあるのだが、その一つはTILTだ。TILTは違反ではない。体重をかけて、腰を入れて、タイミングを見て、台をずんと押す。これってFU*Kっていうやつだろうな。ああいう熱狂が楽しめるゲームというのを私は他に知らない。スポーツだとなんか健全過ぎて萎える。
 沖縄から東京に戻ったろ、渋谷とかのゲーセンを覗いて回ったのだが、萎えた。ヴィデオゲームとお子様ばかりだ。沖縄にも北谷などにゲーセンは多いが、東京ならなんとかあると思っていた。ネットで調べるとピンポール台はまだいくつかはあるようだが、ほぼ、ない。一種の骨董品にもなっているようだ。詳しくはわからないのだが、米国の老舗のメーカーもなくなりつつあり、しかも、メンテナンスもできないようだ。
 大金持ちになって、広いフロアにお気に入りのピンボールマシンを4台くらいおけたらいいなとも思う。米国人にとって夢というのはそういうものなのだろう。しかし、私は、過ぎたものは過ぎたものだと諦めることにしている。

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西武鉄道が総会屋と癒着、で?

 今朝の新聞各紙社説の話題は、西武鉄道が総会屋と癒着していたという話題だ。私はあまり関心ないので簡単に触れるだけにする。
 各紙ともに「まだ総会屋と癒着していたとは」と呆れてみせるのが、なんか白々しいなという感じがする。このニュースを聞いたとき、私はほとんどなんの驚きもなかった。堤康次郎(つつみやすじろう)の息子じゃないか、なにを世間は驚いているのだ、という感じである。ちょっと面白い歴史の小話でもまた聞けるかなくらいに思った。そのうち、週刊新潮あたりが書いてくれるかなと期待している。
 各紙社説を読んでみたが、そういう私のような印象をほのめかしている記述はなかった。なんだか、隔世の感がある。というわけで、あとは全部余談みたいな話だ。
 私は堤康次郎についてさして好悪の感は抱かいていない。西武園遊園地の前に立っている銅像を指して、周りに身近のものがいれば、「あれなんだか知ってる?」ととりあえず聞くだけだ。たいていは知らない、という時代になった。あの銅像は悪くないないなとも思う。息子(弟)似てるしな。
 柴田翔の「されどわれらが日々」は文庫で古典のようなものだから、絶版にはなってないと思うが、と調べてみると、大丈夫。どころか、けっこう柴田翔の作品が残っていて不思議な感じを受ける。この本は、およそ読書人たるものの必読書だが、六全協など解説を付けたほうがいいのではないか。古い時代の青春小説を読みたいなら石坂洋次郎でも読めばいいのだから。で、「されどわれらが日々」には箱根の国土開発の話が挿話のように入っているのだが、考えてみると、これも「国土開発」という歴史もつ陰影が失われて読まれているのかもしれない。
 私事めくが私の父の実家は軽井沢なので、住民であった祖父母などから、国土開発の裏話を聞いて育った。ディテールは忘れたが、子供ながらに爆笑ものの話が多かった。
 強盗(五島)慶太みたいな話も、もう歴史の向こうなのだろう。ああいうワイルドな世界は、実は我々の今の世界の裏に貼り付いた歴史でもあるのだ。今回のような西武の事件でも、そういう歴史がときたま、でこぼこフレンズのオーガーラのように戸を開けて覗き込むこともあるだろう。
 そういえば、堤康次郎は近江の人だったなと思い出して、ぐぐるとそのようだ。「堤康次郎の略歴-<日本成功研究所>」(参照)というサイトに略歴があった。29歳のときに、「長野県沓掛の開発に着手」とある。そういうことかという感じだ。ところで、このサイト、「偉大な起業家に学ぶ事業創造の理論と哲学」というのが理念らしい。確かに、堤康次郎は偉大な起業家と言っていいのだけど、「学ぶ」のはやめといたほうがいいと思うよ。

追記
猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に言及するのを忘れた。が、ま、良く読まれた本なので、追記程度でいいだろう。

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2004.03.01

またまた米国債買いのお話

 また日本の為替円介入・米国債買い入れ関連の話だ。ったくシロートがなーに言ってんだよである。が、気になるのは、わかんねーではあるから。だから書く。ちょっと前振りに言うと、例えば、モルガン・スタンレー「日本:大量介入でどんな不都合が起きるか?」(参照)と言った記事がある。これ読んでわかりますか? 私はよくわからない。もちろん、話の筋くらいはわかる。納得しますか?って訊いたほうがいいかもしれない。概要はこうだ。


ドルペッグ政策は当局の介入負担を著しく高めるだけでなく、円建資産価格のプライシングに対する市場の期待を不安定化させる、ないしはプライシングそのものを判らなくしてしまうリスクがある。

 概要だけではわからないし、この記事も現状の円介入自体は別に問題もなかろうが、問題の可能性でもちょっと頭の体操でもしてミソ、っていうネタかもしれない。ま、読んでミソってなものである。
 一つ示唆を受けるのは、極東ブログでも関心のフォーカスになりつつある非製造部門の問題だ。

円高を特定水準でブロックしようとする政府の介入スタンスは、GDPの約2割を占めるに過ぎない製造業のマージン維持に真に役立っているのかどうか疑問である上に、残り約8割を占める非製造業のマージン改善を阻害している可能性がある。介入政策で一部輸出産業を保護しようとする試みは、結果的に所得配分に歪みをもたらす非効率な産業政策の恐れがあるということだ。

 それはあるかもなという気がする。気がするっていうくらいのものだが。と、私が思うのは、日本っていうのはサービス産業の政策がなんか抜本的に間違っているのではないかという「気がする」からだ。もちろん、よくわかんねーので、現状はそのくらいしか言えない。
 で、そういう頭の体操はそれほど問題でもない。っていうか、問題解決志向的にはなにも問題ではないかもしれない。私が気になるのは、一体、なにが起きているのか、という事実の了解についてだ。率直に言って、世界の金融で何が起きているのか? なんでこんな膨大な円介入と米国債購入が行われているのか。これについては、それってリフレなんだなぁ、ガッテン、という話は極東ブログ「日本は米国に貢いでいるのか?」(参照)で触れたので繰り返さない。が、この記事のケツで、もしかして、中国の銀行の不良債権処理?と「と」みたいのを付け足しておいた。そのあたり、その後、考えてみるのだが、よくわからん。誰もなんも明確に述べてないような気がする。ただの「と」かな。
 と、かく思いつつ、先日のラジオ深夜便で聞いた国際金融アナリスト大井幸子の小話がどうも気になった。この問題を別の角度から取り上げていた。別の角度というのは、Richard Duncan, "The Dollar Crisis: Causes, Consequences, Cures"に触れて、この状況を簡単に説明していたのだ。この本は昨年夏ごろ出て米国ではそれなり話題だったようだが、日本ではリファーされていないようだ。スカ本か? ついでに、ところでなのだが、この本のアマゾンのレビューだが、なんかパクリ臭いのだが、こんなのありか?
 大井の説明だと、米国債をがばがば購入しているのは日本と中国。それはそうだ。で、日本の場合、2003年に27兆ドルの米国債を買っている。これは米国の赤字5200億ドルの半分に相当する。2004年1月分でも米国赤字の13%だという。ま、そんなところだろう。そこまではそうだろうなというだけの話。そして、中国は米国に対して1250億ドルの黒字。これもわかる。で、この先、72へぇ~なのが、それを使って対日貿易の赤字分を埋めているというのだ。そ、そうなのか? かくして、大井は、日米中三者のもたれ合い、というようなことを言うのだ。なんだそれ?
 という話がRichard Duncan""The Dollar Crisis"に説明されているか、だったら読んでみるかと思いもするのだが、どうもよくわからん。というのは、公開されている次のものを読んではみた。

Asia, its reserves and the coming dollar crisis
By Richard Duncan 21 May 2003(参照

INTERVIEW WITH RICHARD DUNCAN ON
THE DOLLAR CRISIS: CAUSES CONSEQUENCES CURES(参照


 で、これを読むかぎり、現状の日本の急変化としての円介入や中国との三竦みの話がメインではなさそうだ。というか、米国の巨大な貿易赤字がアジア各国の過剰流動性を引き起こして、バブルを発生させ、それがポシャってその国の財政が危機に陥るという古い話みたいだ。そして、そのクラシスたるや、先のアマゾンのパクリかなの評にあるように、アジアが米国債を売ることなるだろうというらしい。ぶっと吹いてしまうじゃないか。
 というわけで、これも、わかんねーなである。
 もっとも、日中が米国債なんか売り払うことなんかねーよとは思うものの、じゃ、保有してどうよ?というのもよくわからない。これから円安局面になって、財務省は、わっはっはとか言うのか。あるいは、デフレ後の日本の経常赤字を先読みして、外貨準備を貯め込んでいる? 読み過ぎ?
 とま、おちゃらけでごめん。シュールな規模のお金が流れているのに、真面目な話になれなんだよな、これが。

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ケンウッド(トリオ)で思い出す秋葉原

 社説からの話題は特にない。が、しょーもない事に心が引っかかったので、それで今日のブログはお茶を濁すことにする。ごめんな、また昔話だ。きっかけはフジテレビではなく、日経新聞社説「プロの経営者が流動化する時代が来た」だ。この社説もさして面白くもないが、ケンウッドという言葉が妙に気になった。


 ケンウッドの経営を立て直した河原春郎社長は東芝時代に米国で合弁事業を経営した経験がある。上席常務として東芝の事業構造改革を担った後、リップルウッド・ホールディングス日本法人のシニア・アドバイザーを経て、一昨年ケンウッドに招かれた。

 MP3が流行る前、私はケンウッドの6連奏のCDプレーヤーを買った。私は基本的にソニーな人なのだが、それでもケンウッドのオーディオを買うのがちょっと嬉しかった記憶がある。が、ケンウッドは経営が低迷しているとも聞いた。そのあたりは詳しくは知らない。
 私はオーディオマニアではないがケンウッドに親近感を覚える。理由は、単純で、ケンウッドは春日無線、つまりトリオだからだ。私が人生において親に買ってもらって一番嬉しかったのはトリオのJR-310(SSBで50MHzまでカバーした)だった。小学6年生のときだ。これは送信機TX-310と連動するはずで、局申請書も書き終えたまま、その頃、たまたま父が研修していたコンピューター技術のほうに、私もずるっと関心が移ってしまった。おかげで中学時代はコンピューター技術に夢中になったが、局も作れずに父にすまないような思いが今でもする。ちなみに、コンピューターはまだミニコンも出ていない時代だった。ミニコンでもあれば、ビル・ゲイツのような人生があっただろうか。ないな。
 中学時代だったが、ひょんなことで、学校のクラブでプラスチック製の米国のコンピューター教材を手に入れた。これがけっこう面白かった。がちゃがちゃとプラスチックを動かしていると、簡単な論理演算ができるのだ。コンピューター技術というのはエレクトロニクスとは原理的に関係のない技術だというのがよくわかった。後に、時たま、「4ビットくらいのCPUなら、公園にピラミッドを造って、上から石の玉を落とすことでもできるのだよ」と人に説明しても、理解してもらえなかった。実際にカイロで本物のピラミッドを見たときも上から玉を転がしてみたい気がした。
 トリオの由来は、とネットを探ると、いい記事「パピーの昔噺:TRIOブランド時代の送・受信機の変遷」(参照)がある。

日本も戦時中、乏しい資源の中から、浅虫海岸の砂鉄鉱床資源から報国製鉄が精錬したフェライトなどを北大研究室に持ち込んで平社(JA8BNの御尊父)・北川(曉)(後の日立中央研究所長)両教授のもとで、実用化研究されていたようでした。戦後これをいち早く工業化して実用品に活用する道を開いたのが、後のJA1KJ春日二郎氏他2名計3名の技術者、詰まり「トリオ」だったのでした。ブランドがトリオ、社名は春日無線工業でした。

 プロジェクトXかなんかで復古話になっているだろうか。
 話は逸れる。私は物心ついたときから秋葉原にいた。父と中央線に乗って、オリンピックで変わっていく東京の光景を見ていた。私の記憶間違いかもしれないが、秋葉原の総武線のあんパンとミルク(牛乳)のスタンドは、あのころからあるような気がするがどうだろう。
 秋葉原に着くと、ジャンク屋というか、汗くさいパーツ売りのあの長屋にしけ込む。コンデンサーだと抵抗だの買う。途中から抵抗がカラー識別になったなとか思い出す。最近、秋葉原に行ってみたがあそこだけは変わらないね。変わって欲しくもないなと思う。
 それとは別によくヤマギワにも行った。なぜかしらないが、父はヤマギワ電機がご贔屓だったようだ。なぜだろう。そういえば、今頃ふと思い出すのが、なぜ父は秋葉原が好きだったのだろう。そりゃ電気屋だから当たり前なのだが、案外職場が近いせいもあったのかもしれない。先日ヤマギワに火事があって、なにか心痛むものを感じた。
 秋葉原の思い出は、無線時代、マイコン時代、パソコン時代と続くがそこまでは書かない。それぞれの時代になにかを残してくれた。秋葉原という町は、なにか、自分の、戦後日本のコアのイメージになっている。

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