読売新聞に日本文化なんか言われたくない
日本文化なんて構えて議論するっていうのは漢心(からごころ)だよなと思う。無粋なやつが産経新聞とか読売新聞に多い。読売新聞社説「国語教育答申 精神文化の『核』を確立しよう」が文科省(っていう省略は気持ち悪い)の文化審議会国語教育答申をネタにほざくほざく。
答申の特徴は、国語教育で、美的感性や懐かしさの感情、日本の文化、伝統、自然を愛する祖国愛、名誉や恥といった社会的、文化的な価値にかかわる情緒面の育成を重視していることだ。
むしろそうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな、である。実際はかなり阿呆臭い。
答申は、小学校で国語の時間を増やし、教科書の漢字に振り仮名を付け、古典や名作を数多く読めるようにすることを提案した。音読や暗唱を重視することも求めた。その上で、中学校で論理的思考力の育成を図ることが必要とした。
正しい方向性である。国際化、情報化が進む今、長い歴史の中で蓄積されたものとつながってこそ、人は本来の自分になれる。
斎藤孝の弊害もここまできたかという感じだ。国境(こっきょう)の長いトンネルをぬけたり、「こいすちょう」をやるのか。馬鹿乱造だな。まぁ、小学生なら振り仮名でもいいかと思うが、中学生くらいになったら、全部がとはいわないが、GHQが作らせたインチキ略字じゃなくて、正字で伝統仮名遣いのものをそのまま読ませたらどうか、というとちとアナクロか。しかし、驚くのだが、今の子、漢字の旧字が読めないのだね。台湾とか行っても看板読めてないようだ。
ま、この手の話題はこの手のおちゃらけになってしまう。それに、思うのだが、国語の教科書、あれはひどいシロモノだよ。もっと実務的にすべきだと思う。すべての人が恋愛に向くわけじゃないように、文学なんてものはむしろ向く人はわずかだ。たいていの大衆は大衆文学でいいのだし、大衆文学なんてものは、軽蔑するわけじゃないが、市井に生きているならわかるものだ。
ついでなんで、もう一つ引用。これが、読売新聞馬鹿丸出しだよ。
リストカットを繰り返した女子大生が「核になるものが心の中にない」と、語ったことがある。今の若者たちにある寄る辺のない感覚は、自分の中に「核」を見いだせないことにもよるのだろう。
国語教育がすべてではないにしろ、母語としての国語に愛着を持ち、日本人としての自覚や意識を確立することで、失われつつある精神文化の「核」を再生することが必要だ。
ただ「個」の尊重だけでは、子どもたちは荒野に投げ出されるのと同じだ。
これ書いたのは何歳だ。30代だったら、そして俺が本気なら殴るぜ。人間の核というものは、愛だ。今の時代の子たちが愛を見いだせないのだ。そして、その不在は、慟哭すらもたらさないのだ。愛がなければ心は生まれない。心がなければ心が声振りを求めることもない。声振りの身のなかで、身体が現れるのだ。斎藤孝の身体論などふざけた冗談でしかない。
もちろん、そう言うことは空しい。愛は言葉ではないからだ。
そう、愛は言葉ではない。言葉は愛のあとから来る。日本語を美しくする以前に、日本の文化のなかで培った愛が問われているのだ。
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コメント
> ついでなんで、もう一つ引用。これが、読売新聞馬鹿丸出しだよ。
ここまでドキドキしながら読んできて…
読売の引用はどうでもいいとして、
> 人間 の核というものは、愛だ。
ここで喝采あげました、職場で…『そーだよ!そお!』って…
いろんな意味で、読むのが危険なブログになりそうです。
揶揄しているのではなく、私自身、その意見に激しく同意しているからです。
なぜなら、(ウヨキヨクセツはありましたが)現在私が拠って立つところのものが愛だからです。ただ、臆面もなく言う場所がないため、これまで空に向かって吐いていたセリフをここで見出すことができて嬉しいです。
匿名をいいことに、ココに書き込みます。情報のない感想コメントすみません。
--
投稿: Dain | 2004.02.04 22:29
ちょうど松本元「愛は脳を活性化する」を読んでいたので職場で同意してました。
*松本元さんは最近亡くなったようですが、放送大学でたまたま見てそれで読んだんですよね
投稿: わしも | 2004.02.04 23:23
うーん、愛というものもまた言葉で考える部分が多いような。
むろん感じるものですけど。
投稿: KIND | 2004.02.05 00:37
全表音文字表記(ピンイン)にしようと思ったが、そもそも地方によって音が違うので止めて簡体字にしたようです。これって文盲対策でしょ。ハングル(全ひらがな表記同様)オンリーのKでは、同音異義語が判別できなくてまた語源もからっきし不明のため無思考世代が蔓延して「火病」なんてな民族病名をいただいたりしてるようです。ヴィエトナムも似たようなもんでしょうね。
「当用漢字」の当面の用事(随分おばかになりました)はとっくに無くなったんですから、偏と旁で連想してどんどん覚えられる漢字にしたほうが、むしろ合理的ですよネ。速記の覚書レベルのもん覚えたってな~んもならんでしょ。
投稿: shibu | 2004.02.05 05:49
どもです。「愛」というのはあまり臆面もなく言うべきこっちゃないと思うけど、というか言うべきことじゃないです。でも、生きるか死ぬかって問われたとき一番に考えることです。っていうか、その覚悟はオヤジは持てよと思います。なかなかつらい現状はわかるけど、それを文化論にするなよとおもいます。と言うと繰り返しですが。「愛」についてはいずれまた書きます。やっかいな問題だけど、本質的な問題だし。
投稿: finalvent | 2004.02.05 10:33
shibuさん、どうも。ピンイン化みたいなのは台湾ではある程度進んでいるようです。大陸については、音を書くとかえってわからなくなるようです。方言間の音のずれにはある程度法則性があるのですが、まだ簡体がいいようです。この話、面白いネタを読んだので近く書きます。
投稿: finalvent | 2004.02.05 10:36
台湾語に文字がない、ってのピンときませんネ
大陸でも筆談は簡体字が邪魔して万能ではありません。
億がイ乙で、達がしんにゅう+大だったりして、そんなとこわからんってタクシー乗車拒否されて家に帰れなかったwことがありますもの。
無(无)錫を、最近まで天錫だと思ってた駐在員もいるし...w
投稿: shibu | 2004.02.05 11:03
文句をいいたいわけではないです。
愛のみに至るっていうのは或る意味どうなんだろうと思わないでも無い。
仁であれば例えその一字でも激しく分かるかもしれない。
どこかで聞いた愛は敬とセットであるという話が実に理解しやすかったです。
大切なことはたくさんあるように思います。
投稿: (annonymous) | 2004.02.10 04:21
お名前が落ちていたのなので、もしまた見られたら、ブログの運営として補足してくださるとたすかります。現状仮にannonymousとしてあります。
「愛のみに至るっていうのは或る意味どうなんだろうと思わないでも無い。」というのはわからないではありません。愛は、そうあからさまに言うものでもないとも私は思います。
反論にとらないで欲しいのですが、「仁であれば例えその一字でも激しく分かるかもしれない。」というのは、しかし、ちがうと私は考えているのです。いえ、「ちがう」とまでは言えませんが、仁を愛よりもためらうのは、わけがあります。論語を読む限り、孔子は仁という言葉を語りながら、その定義を絶妙に避けていることを配慮するからです。むしろ、その弟子たちやのちの儒者と孔子の違い、そしてまさに聖人としての違いは、仁の定義を避けることにあると考えるのです。
むしろ、仁といえるのは、孔子のような聖人の体得であり、我々学恩を受けるものは、仁を胸に秘めながら、それを模索することろに学のまさに学びがあると考えます。(なお、孔子は社会のなかの言葉の役割は重要視しました。)
もう一点、「愛は敬とセットであるという話が実に理解しやすかったです。」についても、実は、同意はしないのです。愛は、変な言い方ですが、一元たるもので、他の何かとセットにされてはならないと思うのです。孟子はこれを惻隠としましたが、これが一元であるからこそ、人には学びうる可能性があります。また、この惻隠的な愛こそが、儒者の唯一の実在であり、敬は儒者のそのあとの学びであると考えます。子路を思い出してください。そして、孔子と子路の関係を想起してください。
その意味で、原初(アルケー)には、大切なことがたくさんあるのではなく、その人の心にある惻隠をはぐむ、支援する、社会を秩序づけるという、一つのことがあります。そして、その派生はたくさんありうるかもしれません。
ための反論にとらないでほしいのです。この事は、儒学を学ぶ、もっとも根幹のことだと思うからです。学友として書いているのです。そうでなければ、儒学はたんなるモラリスムや中国的な教養の世界に堕してしまいます。
仁と愛について戻ります。まさにこの仁の字をとった伊藤仁斎のものはなにか読まれたでしょうか。仁斎先生の意図に反するようですが、日本の儒者が学ぶべきは、まず仁斎であると私は信じます。荻生徂徠を先にすることは「危うし」です。
仁斎については、「童子問」がすぐれていて、現代の日本人でも読めます。といいつつ、私に誤解があるかもしれませんが、仁斎はその豪傑をもって仁を「愛」と言い切っています。豪傑というのは、荻生徂徠を借りるので経緯と皮肉のニュアンスを含みますが、それでも豪傑とはいい響きです。仁と愛だという流れのなかに日本の儒者があることを私は誇りに思うのです。
南州遺訓なども、これも久しく読まないのですが、南州の思想がなにに由来しているか私もわからない面がありますが、それでも、そこに「愛」が引き継がれていることを知って驚いたことがあります。南州もまた仁斎の豪傑をひいているとしか思えません。
繰り返しますが、タメの反論にとらないでください。私は儒学を学ぶ者が増えてほしいと願うのです。そして儒学とは日本の儒学であってほしいと思うのです。その文脈では仁とは一元的な「愛」なのです。
投稿: finalvent | 2004.02.10 09:08
一見さんの無記名であるにもかかわらずお返事ありがとうございます。誰がどうであるという事も大切ですが、その時点で出逢うものごとの妙味に任せるのも味わいがあると思いますので、annonymousをそのまま使わせていただきます。
まず私自身の問題として、有用な書物を体系化し読み込み躰の一部にできておらないので、沢山のキーワードを散りばめてくださったことに感謝いたします。
人生の時間をかけて少しづつ學びます。
共通常識であったはずの、前提となるものを端折ることにより、私を含むこの頃の無知な者に対して、通じない物事があることを苦慮される事も多いと思われますが、無理のない範囲でお教え頂けることを幸いに思います。
自分も心の中で我が國 日本を大切に思っております。
投稿: annonymous | 2004.02.11 00:00
annonymousは便宜です。失礼したかもしれません。コメント、善意あるアイロニーとして受け取ります(大人ですからね)。
日本の場合、どうしても朱子学への反感というのは国民性とも言えるもので、それなのに陽明学の根幹の朱子学はあまり理解されていません。しかし、そういう中国的な存在論・認識論的な問題はあまり日本人的な課題ではないというのが、日本の儒学の面白さですね。ある意味荻生徂徠などがその完成(本人はそう思ってなかろう)ですが、仁斎的な素養が南洲(前回は誤字でした)にまで通底している。そのあたりに、日本は大きなものを失っているのか、あるいは表面的な喪失なのか、気になるあまり、筆がうわすべりしているかもしれません。
投稿: finalvent | 2004.02.11 10:01